下北沢ザ・スズナリ 1/1〜1/3
1/3(金)マチネ観劇。座席 自由(椅子席4列目左側)
作・演出 千葉雅子○第一部(お芝居)
時次郎(市川しんぺー)と富士助(村上航)は道中を共にしていた。どこを旅してるか知らないけど東海道あたりでしょう、きっと。そんな道中の途中、お銀(江本純子)と出会う。お銀に博徒の匂いを感じ取り、興味を持った二人は、賭場へと向かう。その賭場では船頭衆あらやの若い衆川上(小林健一)と松本(辻修)が博打に興じていた。そこに登場したのが、船頭衆を束ねる荒谷千吉(政岡泰志)。何故登場したのか忘れたが、千吉は博打の借金があり、その形として妹のみつえ(佐藤真弓)を押さえられていた。賭場を仕切るのは片岡秀次(村上大樹)が率いる片岡組。博打の借金は博打で返せと迫る片岡に、一発勝負に出る千吉。女を賭けるからには、女が場を仕切るべきだと名乗りを上げたのがお銀。情の深いお銀はイカサマで千吉を勝たせてしまうが、イカサマがバレ縛り上げられてしまう。
博打の勝ちがイカサマで無効になってしまった千吉は、借金返済の金を借りに間中組の組長・間中修治(村松武)の元を訪ねていた。快く金を貸した間中は、一帯を仕切る組長の中の組長である大友組のあねさん・大友まつ(千葉雅子)の呼び出しに応じ、出かける事に。その集まりには、地域の組長達、江川(中村まこと)、葉山(森田ガンツ)、そして片岡も呼び出されていた。あねさんの話は、跡目の件で、跡目に選ばれたのは、先代から指名されていた間中ではなく、片岡であった。帰り際、苦言を腹に閉まった間中を呼び止めたまつは、血の繋がった者は跡目に就けないという衝撃の告白をし、許しを請うた。実は、まつと間中は実の母と子であった・・・。
一方、借金を返しに行った千吉であったが、金を取られた上に袋だだきに合ってしまう。時次郎・富士助の機転で、拘束されているお銀共々、逃げる事が出来たが、みつえは救い出す事はできなかった・・・。みつえを救い出すのは自分の責任だと片岡組に向かったお銀は、みつえ救出には成功するが、深手を負ってしまう。お銀を担ぎ、間中組を訪ねた千吉達は片岡の悪行を間中に告げる。しかし跡目を継いだ片岡には手を出す事は出来なかった・・・。
一方、跡目を継ぐ事になった片岡は、剣客・南(加藤啓)、子分の鬼一(池田鉄洋)らと共に邪魔になったまつの殺害を実行に移す。不穏を察した間中はまつの元へ向かったが、時は遅く、まつは虫の息であった。怒りが爆発した間中は、ついに剣を抜き、剣先を片岡に向けるのであった・・・。
そんな珍道中ものって言うか任侠芝居。○第二部(バラエティーショー)
まずは『純子の残酷歌謡年史 座長祭り編』。毛皮族の座長・江本純子の独壇場。まぁ3曲だけだったけど、予想外の企画に大喜び。続いて『座長さん聞いて聞いて』。猫のホテルの岩本靖輝が動物電気の座長・政岡泰志に悩みを相談するってコーナー。続いて『親子大喜利』。村上・千葉・政岡の座長チームと加藤・中村・辻の座員チームに分かれての親子対決。司会はカムカムミニキーナの座長・松村武。続いて『座長さん聞いて聞いてPART2』動物電気の辻修が猫のホテルの座長・千葉雅子に悩みを相談するってコーナー。そして最後に『わが青春のヒットソング』。池田鉄洋の司会で曲にまつわる思い出話。ゲストは松村武。夜のゲストは拙者ムニエルの村上大樹らしいので日替わりみたい。そんな正月らしい企画公演。上演時間が2時間以上あったが、長さが全然気にならないくらい盛りだくさんで大満足。個性ありまくりの役者達の暴走ぶりにお腹一杯である。今一番脂ののった役者達と言っても過言でない面々なので当たり前か。ただ『純子の残酷歌謡年史』はあったものの、江本純子の暴走ぶりが少なかったのが残念である。芝居でもちょっといごごち悪そうだったし。でも概ね満足な公演であった。企画した千葉雅子に感謝感謝の観劇初めであった。今年もいい年になる事間違いなし!・・・かな。
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企画公演なので番外にします。
作・演出 赤井康弘ミヤコ(佐武令子)は呉と呼ばれる男の行方を追って、大陸から密航船でやってきた。ミヤコの手には一片の骨が握られていた。その骨はミヤコの亡くなった母の遺骨であった。「呉と呼ばれる男に渡して欲しい」という母の遺言を叶える為に、ミヤコは骨を懐に抱え、街を彷徨い歩いていた・・・。
偶然ミヤコと出会った次郎(角昌太郎)は、呉と勘違いされ、遺骨を渡されそうになり戸惑う。呉ではないという事には納得してもらったが、ミヤコは次郎から離れようとはしなかった。引きこもりで人とふれあう機会の少なかった次郎には、ミヤコの行動が不可解であった。そんな次郎は、マリー=クレール(村上勇斗)と呼ばれる女装の男が経営する出会い系サイト『インシャラーン』でのメールのやり取りにはまっていた。次郎は、このサイトで出会ったサクラと名乗る女性に心を惹かれ、夢中になっていた。しかし、待ち合わせの約束を取り付けるも、絶対にサクラは現れなかった。それでも次郎はメールを打ち続けた。しかし、世間知らずの次郎でも、サクラと呼ばれる女性は、実体のない架空の女性なのかも知れないと薄々感づき始めた。が、それでも打ち続けた・・・。しかし、そのサクラは懸念通り、アルバイトの子・ヒカル(内ヶ島彩子)が作りあげた架空の女性であった。そんな実体のないサクラを作り上げたヒカルであったが、ある日、自分が打った覚えのない文章がサイト上に流れている事に気が付いた。単なるハッカーの仕業なのだろうか・・・サイトに現れる謎の女性サクラ(飯岡真奈美)は一体誰なのか・・・。
一方、ミヤコは『インシャラーン』に呉らしき人物がいるとの情報を得て、そこに向かった。呉は一体誰なのか、呉とミヤコの関係は・・・。それぞれの思惑が交錯していく・・・。携帯大国日本、この芝居を観て一番感じたのがこの言葉だった。数年前(って言っても、も〜10年近く昔)、まだメールでの会話が一般的ではない時期、会社からメールアドレスをもらい(その頃は数人しかもらえなかった・・・今じゃ全員持っているのが当り前になってしまったが)、「コンピューター上で会った事もない人と会話ができるんだよ」と、知人に話した時の第一声が「気持ち悪い」だった。今ではそんな知人も、電話するよりメールが楽と携帯メールを大いに活用している。そんな“今”を捕えた作品だと思う。しかし、今は描かれているが、そこから伝わるものがなかった。9月11日、仮想現実と現実が入れ換わった日と言う表現があったと記憶するが、それが作品には溶け込んでおらず、その現実だけがポツンと存在している違和感を感じてしまった。また、登場人物の関係が偶然過ぎるのも駄目。仮想現実の女性に恋する男は描いていたが、アルバイトで働く女性達の心情が描かれておらず、片手落ち感もあった。金だけの為にアルバイトしているのか?現実では恋する事が出来ない精神的な障害者なのではないか?とかとか。保健所勤めでBSE(狂牛病の検査)の判定を間違え、現実から逃げ出してきたミサキ(長崎美鈴)はいたが、深くは語られていなかった。
空調が悪く集中力がなくなり、ミヤコと呉の話と次郎とサクラの話がどう関わっていたのか記憶がない。困ったもんだ。そんな自分の駄目さ加減は棚に置き、自分の好みで批評すると、今回の作品は、ミヤコと呉の話はまるっきりなくてもいいと思った。仮想現実の女性に恋する男と、仮想現実でしか恋する事の出来ない女の恋物語に徹した方が面白かったのではないだろうかう。恋愛ものは嫌いだけど、その方が現代の病理が浮き彫りにされた素晴らしい作品になったと思うのだが。
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1.7−2−0−K? 2.A Melancholy Tip 〜憂鬱な先端〜
作 エドワード・オールビー
訳 鳴海四郎
演出 松行俊二ある日の午後、いつものように公園のベンチで休日を楽しむピーター(中島陽典)。ピーターは、とある出版社の重役で、休日には必ずこの公園のベンチで、一日過ごす事を習慣としていた。その日もベンチに座り、一人読書を楽しんでいた。そこに、ジェリーと名乗る男(北島善紀)がぶらりとやって来る。着古しボロボロになった洋服を着たジェリーは、裕福なピーターとはかけ離れた生活環境であるのは一目瞭然であった。ジェリーは動物園に行って来て、そこから北へ向かって歩いて来たんだ、と独り言の様につぶやいた。突然声を掛けられ戸惑うピーター。ジェリーは動物園で新聞沙汰になる何かをしてきたらしい・・・。続けてジェリーは、「話してもかまわない?」とピーターに向かって、さも親しげに切り出した。特に用がある訳ではないピーターは、気楽にその誘いにのってしまう。それが悲劇の幕開けだったとは知らずに・・・。まずジェリーは、ピーターの家庭環境を聞き、続けて自分の家庭環境、そして大家の犬と自分の物語を延々と語り始めた・・・。やがて、平穏だった二人の関係は、ベンチを奪い合うまで険悪になっていく。そして、最悪な結末を迎える・・・。何気ない日常に突然降りかかる“狂気”を描いた、不条理劇の傑作。
この作品を解き明かすのは困難である。まぁ私のへっぽこぴーな頭じゃ無理なのは解ってたけど。なので、この作品の感想を述べるにあたって、1993年の11月にたった5ステージしか上演されなかった、CroMagnonの「ZOO」を引き合いに出しつつ考えていきたいと思う。このCroMagnonは、中島陽典と田口トモロヲが組んだユニットであり、この芝居は、自分の中では生涯忘れる事の出来ない1本になっている。CroMagnonの時と同じ中島陽典がピーターを演じるとなれば、観ないわけにはいかない。そんな想いで劇場に足を運んだ。で、どうだったかと言うと、正直言ってがっかりであった。同じ作品なのに演出が違うとこうも違うのか・・・という感じである。
まず、舞台美術。CroMagnonの時は、ホール一面に枯れ葉が敷かれ、中央にベンチだけが置かれていた。そのまんまの設定で、舞台と客席の区別はない。それに比べ、今回の作品では舞台上に白い布が敷かれ、その中央にベンチが置かれていた。視界に入る位置に別のベンチがあるのは“自分のベンチはこのベンチでなくてはならない”というピーターの意思を表現するのにはいい配置だと思ったが、演じる者と観る者が明らかに区切られてしまう舞台作りでは、この作品の真の狂気は感じられないと思う。最前列で観ているにも関わらず、狂気を肌では感じられなかった。まるで、対岸の火事なのである。CroMagnonの時は、ラストの狂気に心臓が張り裂けそうなくらいにドキドキした。演技ではない現実がそこにあった。しかし、今回はドキドキ感は皆無で、あくまでも芝居空間がそこに存在していた。
ラストと言えば、今回のラストは、ベンチを死守できずに逃げ出してしまうピーターと、ベンチを勝ち取り、永眠につくジェリーという構図で終わったが、原作はどうなのだろう?CroMagnonの時は、ピーターが死体になった(であろう)ジェリーを引きずって別の場所に運んでいく姿で終わった記憶がある。記憶力の弱い自分なので自信はないのだが、あくまでもベンチを死守したラストに背筋が凍りついた記憶が残っている。
取り合ったそのベンチであるが、ベンチに固執する気持ちも今回の作品とCroMagnonの作品とでは、まるで違うように感じた。CroMagnonの時は、一見幸福そうな家族環境ではあるが、実はピーターの居場所は家庭にはなく、折角の休日でも憩いの場所は公園のベンチだけという切なさを感じた。家族から疎外されているピーターだからこそ、そのベンチを他人の言いなりに渡す事はできなかった。他人の言いなりでベンチを変えたら、些細な幸福も消えてしまう。それどころか、自分が意思表現できる最後の砦をも奪い取られてしまう・・・それほどまでに真剣なものだったと記憶する。その感情が人としての常識を破壊し、狂気に走らせる。そんな狂気を描いていたと思うが、それに比べて今回の作品では、ピーターが家庭から疎外されている姿は見えず、単に平凡な日常が奪われてしまう恐怖に立ち向かっているだけに思えてしまった。日常を壊す狂気はすぐ隣にいるんだよーって、それだけって感じ。まぁ、相手の立場にたった意思疎通を図ることが出来なくなってしまった現代人の病理を表現している点では、過去の作品も今回の作品も同じ。ただ、1958年の発表当時には(1993年の公演時でもそうだけど)衝撃的だったであろうジェリーの人物像が、異常な人が増えてしまった今の日本では、普通に存在している身近な狂気になってしまったと痛感した。いや、かえって現実の方が不条理な狂気が渦巻いているかもしれない。だからなのか、ジェリーの狂気も薄味に感じてしまった。役者は二人ともうまかったと思う。ジェリー役の北島善紀は、田口トモロヲに比べてしまうと秘めた狂気の度合いは低いが、瞳の奥には狂気が潜んでいた。ただ、ジェリーと犬の物語を一人で延々と語る場面で、セリフを噛んでしまったのは減点である。このシーンは、しゃべりまくる男に観客も嫌気がさして来なければいけないシーンなのだが、一瞬で白けてしまった。そのおかげで、嫌気以上に退屈さが先行してしまった。もっと観客をも不愉快な気持ちさせないと駄目。微動だにせず徐々にゲンナリしていく、聞き手の中島陽典はさすがうまいと思った。ピーターの心の内に狂気が生まれ、育って行くのが、その空気で伝わってきた。
最後に付け加えるが、ラストシーンの後、CroMagnonの時は、窓の外に羽毛が舞い落ちる壮絶な美しさに心が洗われ、今までの嫌な気持ちが浄化されていく、そんな余韻を楽しめた。しかし、今回の終わりはいつ終わったんだか・・・って感じで後味悪し。
作 つかこうへい
演出 嶋祐一郎熱海殺人事件の最新バージョン。と書いてみたが本当に最新かどうか私には知る術がない。『サイコパス』の時も最新・最終バージョンとのふれこみだったが、その後も激しく変化を繰り返している。翌日には変化しているかもしれないのが『熱海殺人事件』なので、変化する事を取り上げるのは無意味なのかもしれない。それより、無限に広がる『熱海殺人事件』という名のパラレルワールドを楽しむのが正しい見方なのかも。その時々の作者の感情が『熱海殺人事件』の最新バージョンとして具象化される。ただ、その“最新バージョン”が自分にとって“ベストバージョン”とは限らないが・・・。千円劇場として“哲とそのロッカーたち”“プロジェクト9”“ひよこクラブ”の3チームが競演した今回の『熱海殺人事件』。私は、木村伝兵衛部長刑事に山本哲也を配した“哲とそのロッカーたち”編が一番安定した作品だろうと踏んで劇場に足を運んだ。ちなみに、前売りなしの当日券のみの発売である。それにしても、今でも千円を貫く姿勢には感激である。『熱海殺人事件』を一番初めに観た時も確か千円だったなぁ〜と感慨深げ。この千円へのこだわりは、アイ子に差し出される千円にちなんでなのかは知らないが、今後も続行してもらいたい。『熱海殺人事件』を千円で観て、芝居好きになった人が何人もいるのだから・・・。
泣く子も黙る東京警視庁捜査一課の木村伝兵衛部長刑事(山本哲也)は、温泉客がたむろする熱海の海岸で起った殺人事件に足を踏み入れた。事件の謎を追う伝兵衛の元へ、新任の熊田留吉刑事(川畑博稔)がやって来る。熊田は、熱海の海岸で発見された絞殺死体の下に別の死体を発見した事から捜査に合流した。しかし、熊田留吉は偽りの名で、水野朋子婦人警官(渋谷亜希)の婚約者達彦が、名前を騙って捜査に参加していたのである。その本当の目的は、木村伝兵衛と水野婦警の愛人関係がきっちり終わっているかの確認であった。木村伝兵衛と水野婦警、そして婚約者達彦の愛憎が渦巻き捜査室は混乱していく・・・。そして、蛍谷に住む容疑者大山金太郎(小川岳男)の登場により捜査は佳境に入る。そして、アイ子の売春を仕切っている半蔵(岩崎雄一)の登場により、一気に真実が浮かび上がってくる。“半蔵門の赤猫”とは。ミキハウスの謎とは。3人の関係は。水野婦警の痴呆の母(岩崎雄一が二役)の介護は。そして、蛍は帰ってくるのか・・・。
『サイコパス』から約5年ぶりに観る『熱海殺人事件』である。前述した様に、“熱海殺人事件”と言う名のパラレルワールドは見事な広がりを見せていた。オープニングに流れる曲はもちろんチャイコフスキー。それは変わらず。でも、その後の展開は、人物設定・状況設定の外郭はほぼ同じに見えても、細部では大きく変貌を遂げていた。ところどころ変わっていないセリフはあるものの、ほぼ原型と留めていない。セリフ以外の変貌も著しい。木村伝兵衛は、熊田留吉の教育係という指令を受けていたり、熊田留吉はこの取り調べを無事終えたところで三階級特進を成し遂げ、木村伝兵衛の上司になったり、水野の痴呆の母を伝兵衛が介護していたり、とまったく別物と言っていい程の変貌。根底に流れる「熱海の浜辺でブスを殺したという3面記事にもならない事件をみごとな殺人事件にして、りっぱに13階段を登らせる」という物語は、どこへ行ったやら。しかし、これほど変えても、やはり“熱海殺人事件”はおもしろい。つかこうへいの凄さを感じる名作である。ただ、物語に時代性を織り込み過ぎてしまい、物語の本来の面白さが薄らいでしまったのは残念でならない。毒入りカレー事件の林真須美が着ていたミキハウスの謎(日本生命を名指しで批判する態度は凄かったけど)やら、阪神大震災、猟奇殺人事件などを盛り込んでいるのだが、それらと『熱海殺人事件』との関係性が希薄であった。作者の思いを作品に込めるのはいいが、作品の面白さを破壊してしまっては本末転倒。やっぱオーソドックスな熱海が一番面白かったかなぁ〜と感じてしまったのが、正直なところ。『サイコパス』では大山金太郎の気持ちに感情移入してしまった私ではあったが、今回はイマイチ。アイ子殺害の動機が「金太郎と結婚するくらいなら半蔵の愛人の方がいい」というアイ子の言葉だったのも、重みがない。大山金太郎とアイ子の間にすでに子供がいる事で、大山金太郎のアイ子に対する“純”な気持ちが薄らいでしまったのもマイナス。まぁこれは“親子の絆”も今回の作品のテーマっぽいので仕方がない事なのかも。ちなみに、アイ子の下にあった死体はアイ子の母で、誰が殺したのか?も事件の鍵となっている。ここにも“親子の絆”である。
総体的に観て、今回の作品は、大山金太郎の犯罪捜査より、木村伝兵衛と水野朋子婦警のどろどろの愛欲関係に重きが置かれ過ぎてしまったのが、どうも自分には納得がいかない、と言うか面白くない。だから好きな作品だが、評価は低目。
余談だが、半蔵は売春の元締めとは別に、保険会社の経営者という顔も持っていて、阪神大震災の時は神戸に乗り込み、消火活動をしていたという設定であった。一見ボランティアに見えるが、消火する事によって家屋の全壊を防ぎ、保険金の支払いを減らそうというのが、活動の本当の目的。それ故、半蔵は“半蔵門の赤猫”と呼ばれ恐れられていたのだが、つかこうへいが描く事によって話がとてもリアルに感じた。人間の醜さを垣間見、背筋に悪寒が走った。
“熱海殺人事件”自分が観た公演
甲乙つけがたいので順位はなし
●熱海殺人事件―ロンゲスト・スプリング ●熱海殺人事件―オーソドックスバージョン ●熱海殺人事件―モンテカルロ・イリュージョン ●売春捜査官97年8月公演 ●サイコパス〜木村伝兵衛の自殺〜98年2月公演・98年4月公演
オーソドックスバージョンは3回、売春捜査官は2回、サイコパスも2回観ていたりする・・・
作・演出 西島明ストーリー的なものがないので(って言ってもまったくない訳じゃないけど)、西島明の挨拶文を当日パンフから引用させて頂きます。『この芝居の登場人物たちをいっそのこと神様だと思ってください。その方がなんでもありの部分が許容されます。神代の昔、十月になると全国の神様が出雲大社に出掛けていきました。それで出雲以外の地方では神様がいなくなるので神無月、出雲にはあらゆる神様が集まるので神在月といったわけですが、この芝居の岡山家と松本家も定期的に互いの家を行き来しています。行って帰ってくる、その単純な営みにこそ「生きる」ことのダイナミズムがひそんでるような気がするのです。気がするだけかもしれませんが。』って全文引用してしまいましたが、挨拶文通り、お互いの家を定期的に行き来し、接待しあう岡山家と松本家の物語なのである。本当にとりとめのない物語なのでこれ以上書きようがない・・・。しかし、登場する人々は一癖も二癖もある、普通〜じゃない人達ばかり。まず松本家に3年もの間滞在していた岡山家の家長・松吉(山崎和如)は、「何でも水に付けて食べる」を家訓とする変わり者。佳南子(松浦和香子)は、前髪を直線に切らないと気がすまないらしい。虎之助(多賀万希子)は、具合が悪くなると鼻が青くなる体質である。その使用人、卯天那(阿部光代)と中世紀(西島明)。中世紀においては、何度でも生き返る強靭な生命力の持ち主。だけど、生き返る度にどこかが微妙に違っていたりする。一方、松本家の家長・実(猿飛佐助)は、身内の艶江(吉原朱美)と澄子(市川菜穂)を岡山家に嫁がせたが故に、松吉からは「にいさん」と呼ばれる間柄に。しかし、その呼ばれ方で大変憤慨する。その理由は最後までわからないんだけど。妻の靖子(大日向美名子)は、本を見せたがるが肝心な本がいつも見つからない。千津子(渡辺道子)は、長女なのに婚期を逃している。使用人の大河内(加藤直美)と天草(山口卓子)は、どこかピントがずれている。大河内においては、自己中な性格までも加わる。そんな人々が織り成す人間模様を、ベタポ的にゆる〜く描いた作品。
ベタポ結成10周年の記念公演(なのかな?)。「むずがゆさを楽しむ」という新しい趣向らしいが、久しぶりにへんてこさ満載で満足できる公演であった。二重アゴやらおならの洗礼やら、意味がありそうでまったく無意味な展開に、心は妙〜にウキウキ。ベターポーヅの公演は、適度に破錠しているストーリーを横目に、へんてこな空気・世界観を楽しむのが一番おもしろい。振付を永谷亜紀から山田うんに変えたのも新鮮で良かったのかも。まぁ、コンテンポラリーダンスとしては、井出茂太(イデビアン・クルー)ほど絶妙さはなかったけど。しかし、ダンスも含め、一貫したベタポ独自の世界が構築されおり、とても気持ちの良い公演だった。そうそう、ベターポーヅはこの“気持ちの良い空間”を感じられる劇団であったんだ、って事を今まで忘れてた。そんな点でも原点回帰的な作品だったと思う。
今回は、平日に限り日替わりのアフターイベントのおまけ付き。加藤直美好きな私の選択は、道子・光代・直美の『おそくまで起きていた夜は・・・』。昨年秋に行われたイベント『演劇ぶっく100号記念前夜祭・女子総決起集会』で好評だったらしい(観てないので本人達の言葉を信じるしかない)、阿部光代こと磯野貴理子、加藤直美こと松井直美、渡辺道子こと森尾由美の三人による、“TVぶったぎりショー”の『2002年暮れの紅白歌合戦バージョン』。紅白歌合戦のVTRを見ながらの突っ込みトークである。公演では控えめだった阿部光代の毒舌が冴える30分(1時間くらいあったかも)。これは見物であった。加藤直美目当てで行ったのだが、阿部光代に釘づけである。いずれは単独公演か?って程の勢い。
そうそう、最後になってしまったが、市川菜穂が出演していたのが非常に嬉しかった。加藤直美のファンではあるが、市川菜穂の意地悪そーな顔は、絶品である。ベタポにはなくてはならない存在でしょ、やっぱ。
“ベターポーヅ”自分が観た公演ベスト
1.オトメチック ルネッサンス 2.別冊オトメチック ルネッサンス 接吻は愛の速記術 3.ビール樽が熊の毛皮を着込んで火薬で心臓をふくらませています 4.カエルとムームー 5.並PLAY 6.ノイローゼ・ダンシング 7.別冊オトメチィックルネッサンス 雲の絶間姫(たえまのひめ) 8.特性のない男の編物 9.おやつの季節 10.GREAT ZEBRA IN THE DARK'98 11.ボインについて、私が知っている二、三の事柄 12.ベタポ・ガラ
演出 裏ふうぱあHula-Hooperの声かけの元、故林広志の芝居に出演した役者達が集まって行ったプロデュース公演。
【1】面接控室 作・故林広志
控室で面接の順番を待つ徳川(梅澤和美)、米田(菊川朝子)。そこへ、第三の女(浅木政枝)が現れ、面接のシュミレーションを始める。それに触発されたのか、徳川もシュミレーションを始めるが、後のない徳川は、何故かマイナス方向へと落ち進んで行く・・・。
※Hula-Hooperの18番のネタ。この作品を観るのは今回で3回目くらい。微妙に改定はしているのだと思うが、内容を知っていても面白い作品である。ただ、せっかくの“裏”なんだから、配役を替えてみるとか、別のキャラでやってみるとかの、お遊びと言うか、試作品的要素を付加させても良かったと思う。
【2】例 作・河島雲斎
男1(福原充則)、男2(三浦竜一)、女1(菊川朝子)が自分を映画とか食べ物だとかに例えるが、男3(佐藤真義)を例える時、3人の意見は一致するものの、3人とは違う例えになっている。一人だけ、とっても疎外感な話。
※作品の内容より“間”の演出に工夫があって面白い。あっ、これはセリフの間じゃなくて、本当の“間”。ライティング、音楽も効果的に使われていたと思う。
【3】家庭の哲学 作・三浦竜一
父(三浦竜一)、母(浅木政枝)と息子・輝男(佐藤真義)の会話。父と母の会話が哲学過ぎると指摘する息子。普通に話そうよと言うが・・・
※う〜ん。
【4】気合ピクニック 作・故林広志
先輩(福原充則)と後輩(吉村央)がピクニックに出かけるが・・・
※固っ苦しい二人の関係を微妙な呼吸で見せるのはいいが、面白さより嫌〜な空気が先行してしまった。それもありだけど、今回のラインナップには合わなかったかな。
【5】無関心 作・故林広志
無関心をなくす「無関心リハビリ教室」での、先生(森谷ふみ)と生徒の江口(福原充則)、神田(三浦竜一)、原田(梅澤和美)らとの会話。「無関心リハビリ教室」にはとても熱心な先生ではあるが、他の事にはまったく無関心・・・。
※梅澤和美の無関心さが良い。加えて、森谷ふみの無関心なものに対する冷たい態度がまた良い。
【6】半端クラブ 作・故林広志
中途半端になりたい時の「半端クラブ」にやってきた客、市川(佐藤真義)とマスター(福原充則)との中途半端な会話。ホステスのあけみ(浅木政枝)も中途半端に対応。そんな店の話。
※この作品は、ガバメント・オブ・ドッグスのエディ・B・アッチャマンと水沼健で観たかった・・・。
【7】ワンダフルライフ 作・河島雲斎
クロを拾ってきたので飼いたいと駄々をこねる娘(浅木政枝)。どちらかと言うと娘寄りの父(佐藤真義)。反対派の母(梅澤和美)。箱から“クロ”を出してみると、中にいたものは、夏が終って不要になり捨てられたライフセーバー(三浦竜一)であった・・・
※河島ワールド爆発な不条理な世界。こんな世界を構築させたら本当にうまい。
【8】サイクル 作・暴動mini
やり方もわからずに「フルーツバスケット」というネーミングだけで記憶を蘇えらせながらフルーツバスケットを行う二人(三浦/吉村)の話。
※いいとこ突いてるんだけど、笑いに繋がらず・・・
【9】衛星中継 作・故林広志
キャスター(森谷ふみ)と現場特派員(佐藤真義)の二元中継の模様。現場の様子を取材しているのだが、音波が途切れ途切れ。そんな状態なのに、妙に繋がっている会話のおかしさ。
※故林広志らしい作品。おもしろい。
【10】元気になった浅野さん 作・故林広志
病気で一週間ぶりに学校の授業(数学)に出席した浅野(菊川朝子)。同級生の竹田(浅木政枝)、菊池(森谷ふみ)は、「休んで自分だけ勉強してたんじゃないのー」と嫌味のひとつ。先生(梅澤和美)が来て授業が始まるが、数学なのに「タンタン」の授業になっていて、浅野はちんぷんかんぷん・・・。
※故林広志18番の作品。何度観たことやら・・・。全体としては、まずまず面白かった。が、同時に“笑い”の難しさを又感じてしまった。故林広志の作品は面白いが、ラストのオチが鋭く落ちない分(含みを持たせているのも作品の味だったりするんだけど)、客席が暖まらず、空虚さが漂ってしまう。その上、ちょっとでもおもしろくない作品が入ると、急激に客席の温度が下がる・・・そんなものを感じてしまった。観客の密度がもう少し高ければ、笑いの伝染が起こると思うのだが、笑いがポロッポロッでは、劇場全体が笑いに包まれるというレベルにまでは達して来ない、と言うか余剰効果が生まれてこない。どんなにおもしろい脚本だとしても、それが簡単に“笑い”とイコールにはならないって事を強く感じてしまった。難しいものです。後に座ったおばさん二人の会話。「笑えた?」「ううん、1回くらいしか笑えなかった」・・・それじゃぁ、コントの公演としては駄目っしょ。「よくわかんなかったけど、笑っちゃった(ハートマーク)」ってくらいの不条理な笑いの世界に引き込んでくれなくちゃ。
それと“裏”とするなら、故林作品にはない演出(例えば客席に乱入するとか)をしてみるとか、歌って踊ってしまうとか(それじゃコントじゃないか)、とち狂ったものを見せても良かったと思う。今回の公演では、故林広志が行っていた『コントサンプル』と変わらないって感じを受けてしまった。もう一工夫が欲しい。本公演を充実させる為にも、時には変化も必要なのではないだろうか。
作・演出 細川徹1989年、細川徹(五月女ケイ子)11歳。新聞記者を目指し、父(大掘こういち)のスパルタ教育を受ける日々を送っていた。それも『巨人の星』の如く、養成ギブスまで着けられて・・・。正月も休まず、取材の為に友人宅の訪問。でも、自宅では食べられなかったお節料理を食べられるかもしれないって、ちょっとだけ期待しての訪問でもあったりして。しかし、そんな甘い期待は、友人宅のあまりの貧乏生活に崩れさるのであった。自分の家も大変だけど、友人宅もさらに大変って状況を目の当たりにする・・・。数年が経ち、高校生になった細川徹(小村裕次郎)。でも、相変わらずろくな年越しができないでいた。そんな“細川徹の正月”をテーマに、マチャアキこと堺正明の正月、ハワイのマウイに行くつもりがマニラに着いてしまった夫婦と添乗員の正月やらを交えて送るコントな芝居。
細川徹+佐伯新のコントユニットが、この『男子はだまってなさいよ!』。その二回目の公演である。前回は見逃してしまったが、最近注目株の細川徹の作・演出、小村裕次郎の客演って事で初観劇してみた。まぁ、前回の公演が話題になってたのも、一因だけど。で、その注目株の細川徹が何者かと言うと、シティボーイズのライブの脚本、『笑う犬の情熱(フジテレビ)』の構成などで活躍中らしい。しかし、裏方なので「そろそろ自分を出して行こうかと・・・」(ぴあの記事より引用)って事でこの『男子はだまってなさいよ!』を2002年8月に佐伯新と共に旗揚げしたらしい。そんな注目のユニットであるが、その結果はと言うと・・・所々面白いところもあったが、全体的にはゆるゆるで、期待通りとは行かなかった。もっと大笑いできる芝居かと思ったが、ほとんどニタリ止まり。あっ、マチャアキの正月は爆笑したけど。まぁ「観客が普通に“楽しい”って笑えるユル〜い感じ」ってのが信条らしいので、その通りの作品ではあった。ただし、脚本の面白さより役者の個性が先行って言うか、光っていた感じは拭えない。大掘こういち、佐伯新、小村裕次郎など、存在そのものが面白い(って本人に失礼か)役者を集めたのだから、これも狙い通りなのかも。個人的に注目は、イラストの印象とは別人の、五月女ケイ子の華奢な体と下手糞さ。これが妙に作品とマッチしていて心に残る。あの下手糞さは癖になる。う〜ん、やっぱ脚本の面白さより、役者の面白さが印象深い公演であった。そうそう、細川徹にしても役者として、思いっきり個性を発揮していたし。
そうは言っても、脚本が役者の可笑しさを超え、伝説になるほどの傑作が生まれる予感は受けた。予感だけで終わってしまわない様、次回公演は今回以上の作品を期待する。
作・演出 古賀裕之先の争い(八百万の神々を導く力を持つ大神主が殺され、神々が住む高天原【タカマガハラ】が鬼に支配される事となった古の戦い)で大敗を喫し劣勢にある神々。しかし、生き残った5神、猿田毘古(笠原大)、ミカヌシ(小原康二)、スクネ(阿部鉄丸)、ツラナギ(加治木均)、ウズメ(小関ゆかり)は、葦原中国(【アシハラノナカツクニ】人間の住む地上の世界)で反撃の期をうかがっていた。三種の神器も奪われてしまい、自分達の力だけでは鬼にかなわないと判断した神々は、共に鬼封じの役目を担う人間達を選定した。選ばれたのは仕事に向かう途中で事故死した、あさま(正木鋼志)、とんこ(魚井里郁)、もんば(加藤江見)、たしろ(冨岡ダイヂ)、ためとも(森戸宏明)達。彼等は八咫烏の羽根【ヤタガラスノハネ】により神と繋がれ、生死を共にする身体となり、鬼に戦いを挑む。彼等は、鬼を滅ぼし、天上界と人間界のバランスを取り戻す事ができるのだろうか・・・。
オープニングで紙芝居の老人(古賀裕之)が登場するまで、この芝居のタイトルが“カミシバイ”と読む事に気が付かなかった・・・。なんで「神」と書いてシバイと読ませるのか、ずぅ〜と謎だった。まったくもって自分の感性のなさが恥ずかしい。鈍くさいったらありゃしない。まぁ、それはさて置き、古賀裕之の初脚本である。芝居を始めてから「職業安定所の話」と「神様の話」を書きたかったらしく、この二つをドッキングした作品を書いたらしい。って言うか、そうなっていた。アコカは初観劇なので、今までの作風がどんなものなのか全然知識がない。劇団名は知っていたが、それまで。なので、比較する事なく観れたのは良かったと思う。だからと言って、素晴しい作品かと言うと、そこまでいい評価が出来る作品ではなかった。残念だけど。面白く観れたが、飛び抜けたものを感じなかったのである。神話に関しては、どこかで観たような印象が残る。インナーチャイルドとか新感線とか。職業安定所の話は無茶苦茶面白かったが、その展開が後半の“選ばれし者”には決して結び付いていない。何と言うか、無理があったかなぁ〜と思う。偶然その職業安定所で仕事を貰った5人が、乗り合わせたバスで事故死してしまい、誰でもいいやって感じで神に選ばれる展開は、都合良すぎ。だったら毎日の様に職業安定所に来ている事に必然性を持たせて欲しかった。職業安定所勤務だったあさまは、神の子の隠れ蓑だった事を考えればなおさら。神が選ぶのではなく、何かに導かれて職業安定所に来てしまう5人は、何か別の大きな意思で選ばれし者であり、神々も頼りのない彼等が選ばれた事に疑問を持つが、実は隠れた力を持っていた・・・みたいな。
部分的には、ラストの格闘シーンは見応えあって良かったが、それまでのゲームをもじった格闘シーンはちょっと・・・。初めの一回は面白いけど、それが数回続くと寒い。そんなところに未熟さを感じた。場面転換でもゲームのロード場面をもじるが、これも然り。一回で止めておけばいいのに・・・。まぁ感性は個人差があるので、数を重ねる事で笑らえた人もいたかもしれないので、はっきり駄目とは言えないけど。
あっ、そうそう一番駄目だったのが、役者が数役こなす事。それも人間役であったのが鬼の役もやっているので、なんか違和感がありあり。自分は役名とかで物語を追えない方なので、役者の顔=配役で観てしまう。だから、敵と味方を同一人物が演じる事に強い違和感を感じてしまった。スケールがでかい芝居を、限りある役者で見せるのだから仕方がない事だとは思うが、まったく感情移入できなかったのは残念である。あっ、役者が下手とかではないので誤解なきよう。役者の話になったので、ちょっと触れるが、とても気になった女優が、加藤江見。絶対王様『絶対リア王』に客演した時に見て良いなぁと思っていたが、今回も素晴らしかった。素晴らしいと言えば、役者としての古賀裕之も外せない。邪悪な面を見せた時の声と目つきがとても良い。他の役者も良かったし、ラストの格闘がアコカの持ち味なら、次回公演も観てみようと思った。それでアコカの本当の劇団色が見れるのかなって。