2000年5月はこの10公演

 


山崎一プロデュース「メオト綺想曲」

ザ・スズナリ 4/26〜5/1
5/1(月)観劇。座席 A-4

作・演出 長塚圭史

 石油が採掘され、日本から独立を果たした近未来の世田谷区。その世田谷区が所有する世田谷区国軍と他区民達との間では区間戦争が勃発していた。舞台は、その世田谷区に隣接する目黒で生活する夫婦の住まい。家は改築されたばかりだが、白蟻やネズミが発生している。その事が気になって仕方がない小森竹史(山崎一)と、シナリオ作家であるが、いいシナリオが書けずに苛立っている妻の沙羅子(秋山菜津子)。沙羅子は、シナリオ教室の教え子である宮ノ坂コマリ(澤田育子)の作品を盗作するにまで身を落としていた。家に居候している鉢祥雄(長塚圭史)は世田谷区に亡命しようとトンネルを掘っている。そのトンネルの情報を得て、家を乗っ取るゲリラの烏山団十郎(中山祐一郎)。一連の動きをスパイしている山田浜子(今江冬子)。それらの騒動を織り込みながら展開される人間模様・・・そして、その喧騒の中で、夫婦が抱える問題を乗り越えてゆく竹史と沙羅子の姿を描いた作品。

 架空のクーデターという状況設定などは面白いが、中盤スカスカで退屈であった。出演している役者が良かったので最後まで観れたと言う感じの芝居である。長塚圭史が書く脚本は、面白くなる要素を秘めているし、序盤の展開も決してつまらなくはない。ただ中盤から終盤にかけて、何か物足りなさを感じてしまうのである。具体的に指摘できる程の才覚を自分は持ち合わせていないので、流してしまうが、前回観た阿佐ヶ谷スパイダースの公演『スキャンティ・クラシッコ』にしてもそうだが、足らない部分を役者がカバーしているという印象が強い。

 家に巣食う白蟻を神経質とも思えるほど気にする竹史の姿は、白蟻という現実問題とは別に、自分の家に入り込んで来る異物に対しての心理的不満を表現しているのだろう。しかし、その苛立ちが伝わって来ない。シアターガイド5月号の記事には「心理学者の河合隼雄さんの著書に『中年クライシス』という本があって、仕事も家庭も安定しているはずの中年にも、大きな心の揺れがあるという内容なんですね。僕自身が感じてたことでもあったし、思春期の不安定な状態はよく取り上げられるけど、中年のはないでしょう。だからそれを基軸に書いてもらって。」と山崎一の言葉が書いてあった。それがテーマで書かれた脚本であるはずなのに、中年の心情が中心にはなっておらず、脇に追いやられてしまった感じがしてならない。まぁラストではその線でまとめてはいたが・・・。では、代わりに中心となるものは?と探してみても見つからない。全体的にぼんやりと状況だけが流れて行く、そんな感じなのである。山崎一がプロデュースしているので、それなりの意見を出しているのであろうが、阿佐ヶ谷スパイダースとの違いは見い出せなかった。もっと骨のある作品になると期待していたのだが、期待にはそぐわない作品であった。

 はらわたを出しても死なない烏山団十郎は、それなりのインパクトはあったが、そこから物語が発展していかない。それが長塚圭史の足らない点の一つかもしれない。面白くなるかもしれないという状況設定はいいのだが、そこから発展させる事ができていない。昔ビデオで観た「ギニーピック」の中の一編『死なない男』(だったと記憶するが違うかも)という作品があるが(今は、宮崎事件で発売禁止になってしまった)その作品の方が100倍はおもしろかった印象が強い。死なないって状況は一緒なのに。まぁ今観たら感想は違うかもしれないが・・・。ちょっと芝居とは違う方向になってしまったが、長塚圭史の発想の面白さには注目しているので、今後に期待したい。

 最後になってしまったが、新谷真弓、加藤啓もいい味を出しており、印象深いと付け加えたい。ただ、物語とどう関係していたか記憶に薄いんだけど・・・。

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オッホプロデュース「Doctor Shopping」

THEATER/TOPS 4/29〜5/7
5/6(土)観劇。座席 C-6

作・演出 黒川麻衣

 身の程を知らぬ上昇志向だけは強い憧本完(桂憲一)は、機会を待ちながらただ漠然とだらだら日々を送っていた。そんな彼に苛立ちを感じている根森万耶子(長田奈麻)はカルチャースクールを転々とする。結婚するなら金持ちという考えの妹千耶子(矢島淳子)は、金持ちのぼんぼん並木流平(人見英伸)を捕まえるが、並木は憧本の生き方にあこがれ、憧本と行動を共にし始める。絵を教えて食い繋いでいる絵画講師角川節彦(八代進一)も、絵の世界から足を洗えずに悶々としていた。そんな自分探しをしている人々が関わり合いながら迷走していく・・・。

 Doctor Shopping<ドクターショピング>とは医学界の言葉で「かかる医者を一定にせず、医者を転々とすること」を意味するそうだ。黒川曰く「患者:黒川麻衣が公演毎に優秀なドクターつまり素晴しい俳優の方々をお迎えするプロデュースユニットそれがDoctor Shoppingです。」との事。他にも双数姉妹の今林久弥、動物電気の辻脩人など面白い役者を揃えたとは思う。しかし、出演者が多く、ただバタバタしているだけで結局なんだったのって感じで、あまり印象に残らない公演であった。
 去年オッホの公演を観ても感じた事だが、中途半端に壊れている人達が中途半端な不条理とも現実とも言えない空間で織り成す人間ドラマなのである。このぬるさが好きな人には心地よいのだと思うが自分には駄目だった。いや駄目と言ってもつまらなかった訳ではない。好きか嫌いかで区切れる感じでもない。もう一度観たいか?って時に、もういいかなぁと思う感じである。パンフに黒川麻衣の言葉が載っていて「迷走の種類は様々です。疾走している場合もあれば逃避に向かう場合もあります。どちらにしろ迷走はポジティブな行為だと私は思います。何もしないで立っているよりはさまよう方がまだましです。大いに迷い大いに走るポジティブな物語が『Doctor Shopping』です。」と書いてあった。その言葉を受け取れば、迷って走っている姿は見えたが“大いに”って言葉が見当たらなかった。そんな公演であった。

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NODA・MAP「カノン」

シアターコクーン 4/1〜5/14
5/6(土)ソワレ観劇。座席 XB-2

作・演出 野田秀樹

 天麩羅判官(野田秀樹)の使用人である牢番・太郎(唐沢寿明)は、ある出来事をきっかけにその愚直さを認められて盗賊一味のスパイを命じられる。太郎は、盗みで捕えられていた盗賊の女首領・沙金(鈴木京香)を逃がし、盗賊の仲間になり、彼らを信用させる為に自らも犯罪者となり次々と悪事を重ねていく。そんなある時、弟の次郎(岡田義徳)も盗賊団に入ってくる。宿命の女との出会いから運命を狂わせていく愚直な太郎と、自由と理想を求めて思想犯的な次郎。対象的な兄弟の葛藤と恋のさや当て、そこに権力との戦いが絡んでいく・・・ 。

 芥川龍之介の『偸盗(ちゅうとう)』をベースに平安時代末期を描いた“野田版時代劇”。しかし、恥ずかしながら『偸盗』を読んだ事がない自分には、モチーフとなっている野田秀樹の原風景である“ある事件”に思いを馳せてしまった。野田秀樹の案内文には「ワレワレの原風景に共通の特徴があるとすれば、それは映像、画像として目にとびこんできたもの、たとえばアメリカ人にとってのケネディ暗殺の瞬間のように、誰もその場に実際居合わせたわけではないのに、まるで、その場にいた気になってる、そんな新種の原風景が生まれている。疑似体験的な原風景、バーチャル原風景が生まれ始めている。今回の芝居は、僕の中に30年ほど前に、焼きついたひとつのバーチャル原風景からはじまっている。(略)これは、今なお私の頭の中にのこる強烈で不可解で謎のままの一枚の風景画だ。」と書かれている。ラストにおける、巨大な黒い鉄球が建物を破壊するシーン・・・そう“ある事件”とはまぎれもなく“浅間山荘事件”である。当時私は、そこで何が起こっているか理解できないままにテレビを見ていた記憶がある。誰かが人質を取って立て籠っている、そんな認識でしかなった。どのチャンネルを付けても浅間山荘の映像である。建物の中の様子を想像する事に興味がない子供の目には、変化がない建物の映像が永遠と流れているだけであった。まるでそこだけ時間が止まってしまったのではないかとさえ思えた。しかし、ある時、巨大な黒い鉄球が建物を破壊するシーンが流れる。その“破壊する”行為の衝撃的な映像はそれまで静かだっただけに強烈であった。事件の背景をしらない自分には警察が行った行為にもかかわらず、“黒い”という色と“破壊”という行為によって、その行動は正義ではなく“悪”とさえ映った。おかげでそのシーンだけが妙にリアルな映像として脳裏に焼き付く事となってしまったのである。野田秀樹にはあの風景がどう映ったのであろうか・・・。「自由を得る為に何故銃を手にしたのか」と言うセリフがあるが、それが野田秀樹の脳裏に映った原風景に対する問いかけだろうか・・・。

 そのシーンに至るまでの芝居では、“自由(じゆう)”→“銃(じゅう)”とか「何かしそうな思想犯」だとか言葉遊びで物語の核心を突いていたり、物語の端々に社会に対する反抗やら、自由、罪悪感、正義、社会悪、など学生運動が盛んだった時代のキーワード的な言葉が散りばめられていた。しかし、そのキーワードは盗賊が生きたその時代に吸収されてしまい、観ているその場では伝わってはこなかった。洞察力がないからだと言ってしまえばそれまでだが、その為、物語全体の印象も何か捉えどころが無い、印象の薄い物語展開と言うか古典的な時代がかった男と女の恋物語に思えてしまった。前作『パンドラの鐘』では“原爆”とストレートに言葉にしなくとも、誰の目にも物語が語る“原爆”の姿が目に浮かんだ。今回の芝居では、物語の構造上あえて最後に真実をもってきたのだとは思うが、物語の真実を語るには遅すぎた感じが残る。まぁ神経を尖らせて観ていれば、開演前の音楽、クラッカーなど30年前のものが登場していて、気にかかったかもしれないけど。まぁそれにしても、浅間山荘事件をリアルタイムで見た人間にはラストの衝撃により物語のおもしろさを感じる事ができたと思うが、知らない人間にとっては盗賊の話でしかないのではないか。「当時を知らない若い人も、もしかすれば、デジャビュを感じるかもしれない。」と野田秀樹は強気で語っていたが、どうなんだろう。しかし、『カノン』とは反復を意味する題名らしく、歴史の中で繰り返されてきた権力闘争、裏切り、死と再生・・・永遠と繰り返される物語のほんの一幕を切り取った物語が本作『カノン』であるなら、あえて学生運動と結びつけなくてもいいのかもしれない・・・。

 若い世代ではない私は、ラストの巨大な黒い鉄球が建物を破壊するシーンを観た途端、鳥肌が立った。そのシーンで、それまでの時代劇が学生運動の物語へと転化した。頭の中で物語が急変する感じは嫌いではない。しかし、学生運動の時代をリアルタイムで生きた世代ではない自分がこの衝撃を受けた背景には、当時テレビで観た映像だけではなく、ある映画の影響がとても大きい。それは、数年前に観た熊切和嘉監督の『鬼畜大宴会』である。学生運動=鬼畜大宴会となる程その映画は、自分の中ではトラウマになっており、その影響は大、いや膨大である。その映画は、70年代を背景に、ある学生運動グループの崩壊を過激な暴力描写で描いた作品である。過激過ぎる暴力描写は、まるでスプラーターホラー映画を観ているようだが、友人はこの映画を恋愛映画であると断定した。断定された時の衝撃もさることながら、その解釈が今回の芝居と共鳴した時の衝撃も凄かった。30年ほど前に観た“浅間山荘事件”、数年前に観た“鬼畜大宴会”、今目の前で展開している“カノン”が一つになった時、まさに「実際居合わせたわけではないのに、まるで、その場にいた気になる、そんな新種の原風景」を感じ、時代劇であるはずの目の前の風景が霞んだ。

 役者に目を移すと、悪女を愛し落ちてゆく男の悲しい姿を演じた唐沢寿明の好演が光った。友人は母性本能くすぐるオドオドとした唐沢寿明の目が魅力的と言っていたが、魅力的って事で語るなら、ヒロイン沙金を演じた鈴木京香のお姐さまっぷりの方が上であろう。片肌脱いだり、胸の谷間見せまくったり、足もかなり露出したりと視覚的にも楽しませてくれたが、一片の後悔も持ち合わせない、狂気に近い情熱と自由奔放さを兼ね備え、男を平気で惑わす美貌の女を大胆かつ上品に演じていた姿は、盗賊の頭であると共に学生運動を生きた闘う女の姿でもあり、非常に魅力的であった。姉御肌の凛とした姿が今なお瞼に焼き付いている。猫を演じた須藤理彩も良かった。役者の事からは離れるが、須藤理彩が演じた猫って時代を見続ける化け猫なのだろうか?って観ていて思った。だから唐沢寿明のセリフで「猫の鳴き声は“えいえーーん、えいえーーん”ときこえた」で永遠とかけていたのだろうかって。もっと言葉の端々まで読み取る感性があれば、もっと猫の存在理由が明確になるのだろうが、そこまで自分には読み取れなかった。あと、手塚とおる、串田和美とか出演していたのだが、残念なことに印象が薄い。

 最後に難をあげれば、セリフの言いまわしが、ちょっと・・・という場面があった。野田秀樹の演出だと思うが、唐沢寿明が“えいえーーん、えいえーーん”と野田トーンで語る言葉は、野田秀樹が憑依したような感じで、なんかこそばゆいって言うか、唐沢には唐沢らしいセリフまわしがあるだろう、って思っちゃいましたよ。


“野田地図(NODA・MAP)”自分が観た公演ベスト
1.キル(初演)
2.パンドラの鐘
3.Right Eye
4.半神
5.カノン
6.ローリング・ストーン
7.贋作 罪と罰
8.TABOO

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インナーチャイルド「ホツマツタヱ」

ウエストエンドスタジオ 5/10〜5/14
5/13(土)観劇。座席 自由(4列目中央)

作・演出 小手伸也

 記憶を失った少女、ホツマユイは精神科の病院に入院する。その病院には、心を病んだ48の音の神が入院していた。ユイはそこで48神のカウンセリングをし、言葉が言霊となるよう、1日1神、48日間で48神の深層心理を探り、そして癒し、退院させねばならない。ユイは、カウンセリングしているうちに、神としての記憶を蘇らせていく・・・。『ホツマツタヱ』という縄文時代の文献を絡めながら、少女の深層心理を探り、「こころ」を癒していく物語。

 今回のテーマは「言霊」という事だが、その根底にあるのは、心理療法や精神病理といった「こころ」の問題なのだろう。と言う事は理解できる。ただ、少女と大人、神と人間、内宇宙と現実がめまぐるしく入れ替わり、何が真実なのかわからぬまま混沌とていく。その為、神を癒す為に病院にいるのが真実なのか、少女が精神病で入院しているのが真実なのかわからないまま展開していく。正直言って、芝居が伝えたい事が自分には伝わって来なかった。ちんぷんかんぷんなのである。混沌とした少女の心理風景を映し出しているのだろうが、どう受け取っていいのかわからぬまま終わってしまったという感じだ。ただ、使用した題材と言うか、描かれている世界観は嫌いではない。レビューを書こうにも、この芝居をどう表現したらいいのかわからないというのが本音である。申し訳ないが、最後の手段で、物語の核心を語っているのであろう挨拶文の途中までを、小手伸也の言葉のまま引用させて頂く。しかし、この文章にも『言霊』の明確な答えは語られていない。

 “『ホツマツタヱ(秀真伝)』とは、古代日本に伝わる神代からの歴史や文化の様子を著した神話叙事詩の事で、どの位古い物かと言うと、実際に書かれたのが、ざっと紀元前7世紀前後。書かれている内容に関しては、凡そ3500年前、つまり縄文時代中葉から弥生・古墳前期にかけてという非常に古い書物なんですね。勿論これが、日本の正史とされる『日本書紀』『古事記』とは比較にならない程古いのは言うまでもなく、世界的に見ても『旧約聖書』と並ぶ世界最古級の古典だという事になります。で、実際どんな中身かと言うと、これが全編和歌の形式で記されているんですが、当然、成立が漢字の流入以前なので、文字は全て「ヲシデ」という特殊な神話文字で書かれています。日本の言語的システムはこの48音で完成されており、そしてこのシステムこそ、日本に古来から伝わる「言霊思想」の根幹となっているのです。 という訳で、今回のテーマは「言霊」なんですが、言葉に神力が宿るという考え方は、別に日本に限られたものではないんですね。有名ドコロだと「聖書」。その中の「まず初めに主が『在れ』と言って、そして存在が生まれた」というクダリ。これ「言霊」ですよね。西洋文化にも普通にそういう考え方がある。もしかしたら最も原始的な信仰というのは「言葉そのもの」なのかもしれない。じゃあ「言葉」=「コミュニケーション」=「人間関係」とすれば、信仰の根本って「人間関係」って事か?”

 今回の芝居で一番の収穫は、小手伸也である。今回で3回目の公演らしいが、小手伸也がこれほどまでに物語性を重視した作品を上演している事に驚きを隠せない。拙者ムニエルの公演に客演している時は人間爆弾って言うか人間凶器というかキワモノ的演技なのに・・・。その180度違う小手伸也は、やはり魅力的であった。魅力的と言えば、ギャグが魅力の村岡希美のストレートプレイもなかなかどうして魅力的であった。人間ギャプがあった方が魅力的って事でしょうかねぇ〜?
 あっ、そうそう藤谷みきの客演も嬉しい限りである。藤谷みきには今度はベタなギャク満載の公演に出演して、ストレートプレイとは違った魅力を大いに発揮して欲しいと切に願う。

 最後になるが、芝居の中で気になったのが、「人間に宿る48音、1音づつ召されていき49日目に体を葬る。」ってトコ。死ぬに当たり自分を葬るクダリなのだが、仏教の考えでは、49日目に、閻魔大王に最後の審判を受け、極楽往生できるか地獄へ落ちるかが決まるらしい。死後49日間は、霊は家をただよっており、四十九日目に行き先が決まり、家を離れるとされているみたいだ。この日の法要が「四十九日」となるわけで、神の世界でも仏の世界でもこの“49”という数字が重要な役割を担っているのは、とても不思議な感じがしてならない。でも、気になってもこれ以上深入りはしないけどね。

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第七病棟「雨の塔」

水天宮・箱崎の旧倉庫 4/7〜4/30
5/16(火)と5/21(日)ソワレ観劇。座席 E-10(5/16)、E-4(5/21)

作・唐十郎
演出・石橋蓮司+第七病棟演出部

 スーパー水天宮の裏口。その一角には、スーパーの仮事務所であった古びた塔が建っていた。そのスーパーで働く中年の独身女・五月(緑魔子)は、ほとんどおっちょこちょいで、ドジで上手く生きられないような女であった。現実には本当に情けない女だが、彼女は物語を書くことを慰めにして、それまでの人生を生きていた。少女アニメ誌に投稿しては、いつも没になってしまう“少女の塔”に幽閉された乙女の物語。彼女の書く文章は、自分の心の兄に向かって呼びかける形をとっていた。彼女は長いこと塔の中にひとりぼっちで閉じ込められている自分を、いつの日か見つけ出し、救い出してくれる兄さんを待っていた。それは現実の彼女が、日々スーパーで物を売りながら年を取っていく・・・そんな自分の姿さえわからなくなっていくような、薄れていく現実感の中で、唯一「私が私である」というところに引き留めておく為の手段でもあった。
 ある日、五月は自分の住んでいたアパート・カスミ荘で、伝書鳩・ニビキ(羽に二本の線がある事から五月がそう呼んでいた)を見つける。彼女は、主人に見捨てられたらしいニビキの脚の真鍮管に「兄さんごらん、ここに立つ少女の塔を・・・」という手紙を入れて空に飛ばす・・・。
 鳩を間引く仕事をしている大都消毒の雨さんこと雨屋(石橋蓮司)は、仕事で殺した鳩の脚につけられた手紙を偶然手にする。その手紙を元に、五月を探し出し、五月のもとを訪ねてくる・・・。

 第七病棟の芝居を待ちわびて、やっと約5年ぶりの再会を果たす。と仰々しく書いてしまうが、それほどに待ち望んだ芝居であった。昔から観ている訳ではなく過去上演された9作中の2作しか観ていないので、第七病棟の観客としてはケツの青い新参者と言ってもいい。初めて観た『オルゴールの墓』では、元銭湯での芝居と言う事でか芝居空間に呆気に取られてしまい、驚愕するあまり芝居の深さに気づかなかった。しかし、前作『人さらい』では、芝居空間・脚本・役者すべての素晴しさを味わう事ができ(少しは成長した)、第七病棟の虜になってしまったのである。前作で桃代(緑魔子)がアーチャン(石橋蓮司)に向かって言い放つ「人さらい!」ってセリフの悲しさが脳裏に刻まれてしまい、今だに離れない。そんな自分としては、待ちに待ったという感じなのである。第七病棟の公演を観れるというだけで感無量なのだが、長い月日を待った甲斐がある素晴しい舞台であった。独特な空間、唐十郎の脚本、石橋蓮司のカッコ良さ・・・。第七病棟の公演に関しては急かさず、じっくり待たねばならない。劇場となる空間を探しだし、そこでじっくり練り上げられ命が吹き込まれる・・・。「忘れられ、とりこばされた存在を劇場=空間にこめて表現してゆく。それはぼくらの演劇する思想の武器となるのだ」1976年12月の旗揚げに際し出された第七病棟の“浮上宣言”を転記させてもらったが、そんな芝居なのである。

 物語は、伝書鳩という細い絆でつながれた孤独な二人が、互いに想いを秘めながらも、決して結ばれることのない、そんなセンチメンタルな男と女の恋物語である。パンフの中で緑魔子は、五月の事を「世界が闇だとすると、闇の中に小さな光を灯して人の魂を導くような女」と語っていた。その光に導かれて雨屋はやってきたが、五月は雨屋の光りにはなれず、雨屋も又五月を救い出せはしなかった・・・。もー、幸せが薄くて薄くて泣けちゃいました。薄幸を絵に描いたような世界。しかし、唐十郎の脚本だけあって、単純に悲しいだけの物語ではなく、ばかっぽさと悲しさが混在した独特な世界を構築していた。五月が1ヵ月前まで住んでいたカスミ荘に残したタオル1枚。そのタオルにはウテナクリームの匂いが残る・・・。こんな状況を作れるのは唐十郎しかいないのではないか。そして、その時代錯誤的と言うか、時代に取り残されてしまったような人々に、第七病棟の持つ空気が加味される事によって、唐組の公演とは違った第七病棟的素晴しさ、濃密な大人のメルヘンが生まれている。その空気を引っぱっていくのが、主演の二人。正直言ってこの芝居は「緑魔子と石橋蓮司にしか出来ないでしょ」と言い切ってもいい。それほどに素晴しい。緑魔子が稽古中に骨折をし、公演が1ヵ月延びてしまったが、緑魔子の代役は考えられない。今回の芝居で舞台に立つ緑魔子を見て鳥肌が立ったのだが、物語の中の無垢な少女を演じる時と普段のスーパーの店員の時では、肌のツヤが違うのである。照明の効果かもしれないが、演技で肌のツヤまで変化させてしまう緑魔子って本当は化け物かもしれないってマジで思った。その緑魔子が演じる五月に、過去の面影を見ている雨屋の悲しさを見事に表現していたのが、石橋蓮司。映画では変態やらヤクザやらの役の方が印象に強い石橋蓮司であるが、舞台に立つ石橋蓮司は一味も二味も違う。男の哀愁を背負ったカッコいい男なのである。

 「あらかじめ用意された感性のパッケージ」ではない演劇空間=劇場を求める第七病棟(パンフより流用)が、『雨の塔』の公演場所に選んだ「水天宮・箱崎の旧倉庫」は、昭和20年代に建てられ、半世紀の歴史を刻んだ元硝子倉庫である。観劇後外に出て、建物を眺めると、その硝子倉庫も高速道路と高層ビルの狭間で時代から取り残されたまま佇んでいて、第七病棟の為にそこでじっと待っていた、とさえ思えた。外観を見た途端、今まで観ていたシーンが走馬灯のごとく蘇り感激を新たにした。ライトに浮かぶ雨のしずくの美しさが一層心に刻まれた。

 余談になるが、高田馬場に“鳩屋敷”と呼ばれる鳩だらけの家があったらしい(見た事はない)。それを題材とした物語なのかどうかは知らないんだけど・・・。


“第七病棟”自分が観た公演ベスト
1.人さらい(浅草橋・福井中学校 1995年10月)
2.雨の塔
3.オルゴールの墓(柏湯 1992年10月)

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KOKAMI@network「プロパガンダ・デイドリーム」

東京グローブ座 5/11〜6/2
5/20(土)ソワレ観劇。座席 Y-24

作・演出 鴻上尚史

 家族の一員が殺人を犯してしまったというだけで、社会(世間)から冷たい仕打ちを受けてしまった家族を中心に物語は進行していく。
 父(麿赤兒)は頑固と言われようとも、息子が犯した罪は息子自身が責任を取るべきで、自分が世間に謝ることは無い。父母が謝罪をしてしまうと、息子は単なる親の従属物になってしまうので謝罪しない、という姿勢を貫き通す。その行為に対し報道は加熱した。報道は“暴力”と化し、母は自殺、長女は逃避、父は閉じこもるという状況に追い込まれてしまう。いわゆる“報道被害”により家庭は崩壊の道を歩む。そんな父のもとに同じような境遇の人達(高橋拓自ら)が慕って集まって来る。そして、その集まった人々は父の身の回りの世話を始める。崩壊していく真の家族とは裏腹に疑似家族が構成されていき、一つのコミューンが出来上がっていく・・・。そんな父の姿を見ていた次女の絵美(旗島伸子)は、ジャーナリストの山室修司(加納幸和)に小説を持ち込み、これを発表して自分を有名にしてほしいと相談を持ち掛ける。山室はTVメディア・マスコミの実態・情報操作をルポしているのが原因で仕事がなくなっていた。渡りに船ではあったが、山室は絵美の書いた文章にそれほどのものがないと思い、慎重になっていた。しかし、絵美は家族を崩壊の道に追い込んだマスコミを逆手に取り、自分をうまく売り込みTVディレクター(大高洋夫)に近ずく。そしてデレクターを誘惑し事件として公けにし、騒ぎを大きくしていく・・・。武装戦線無意味派(大倉孝二ら)の無意味なテロ活動や数字だけを気にするニュース番組の制作者など、様々の人が絡み合って物語は混沌としていく。そして、ただ目撃して見つめるだけの立場であった山室をも引きずり込んでいく。山室は、犯罪者を出してしまった家族、残された家族の悲劇をジャーナリストの視点から追っていく・・・。

 今回から『鴻上ネットワーク』と言うユニット名をやめ『KOKAMI@network』と改名している。まぁそんな事はどうでもいいんだけど、今回の作品は、正直言って駄作。テーマは“テレビと世間”というか“マスメディアが報じた事はたとえ事実で無くても事実になり、世間を動かす”という事であり、昔の鴻上らしい硬派なものとなっていた。しかし、とりあげたTVメディアに対する考え方があまりにも古い。自分だって年齢的には決して若くないのだが、全ての事柄が今さら何を言ってんだぁ〜状態。「宗教に救いを求める」「マスコミ操作」「噂が世間を動かす」「テレビを鵜呑みにしてしまう世間」って今更言われなくても皆わかっている事じゃないだろうか?メディアの病理を今更並びたててどうする。そんな時代は過ぎ去りし過去ではないか。誰しも「マスコミの言うことを鵜呑みにしてはいけない」とわかっていながらも、なんとなく信じてしまう。そのわかっている中で、なぜ人が動かされてしまうのかを紐解いてこそ、この芝居の意味があるのではないかと思う。鴻上にしては問題意識が低すぎる。雑誌のインタビューには「プロパガンダっていうのは、受け取る側が少しも強制を感じずに、さも自発的に自分の好みだと思わされるような“宣伝”のことなんだよね。でも番組制作者は国民の意識を操作しようとかは思っていない。あくまで数字しか考えていないんだけどね」と答えている。ちゃんと問題の核心はわかっているのに、なぜ作品で表現できないのか。

 マスコミに対し頭を下げない、と言う父の姿勢には納得できるものがあった。芝居の中では息子の為に頭を下げないという態度だが、マスコミに対しても頭を下げないという意志の現れでもあったと思う。前々から奇妙に思っていたのだが、不祥事を起こした人達が、セッティングされ待ち構えられたマスコミ、数多く並べられたカメラに向かって頭を深々と下げてる映像が、時たまテレビを通して流れてくる。その頭を下げるという行為は被害者にのみ見せる行為であり、TVを通して流すものではないのではないか。加害者はカメラの向こうにいる誰に対して頭を下げているのだろうか?“世間”なのだろうか?世間が納得すれば丸く収まる?世間に頭を下げない者は悪人?そんな事が頭を横切った。しかし、問題は投げかけられただけで、この作品からは答えは見い出せなかった。

 演出にも疑問を感じる。役者のキャラクターを活かす設定はいいのだが、それに頼っていないだろうか?笑いは起こると思う。しかし、その笑いは役者がそもそも持っているものであって、芝居のおもしろさとは質が違う。『ララバイまたは百年の子守唄』の時のワハハ本舗ネタもそうだが、必要なのだろうか?という疑問が残り、釈然としない。乾貴美子のニュースキャスターの役も、芝居と現実の奇妙なシンクロはあるものの、現実の世界に依存し過ぎだと思う。ただ一人光っていたのが大倉孝二だが、やはり大倉孝二の面白さでしかなかった。でも、まぁ、大倉孝二を観るだけでも価値はあったかなっ、とは思う。

 この作品を観て感じてしまったのは、鴻上尚史ってなんか裸の王様。誰も面と向かって駄作だ、と言ってあげないから、いつまで経っても自分の作品がおもしろいと勘違いしている。つまらない作品なのに“鴻上尚史”というブランドで世間が評価してしまう事自体が間違っているのかもしれないが・・・。私はこんなところでしか言えないので、誰か面と向かって「時代遅れでつまらない」と言ってやってください。


“KOKAMI@network”自分が観た公演ベスト
1.プロパガンダ・デイドリーム
2.ものがたり降る夜

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げんこつ団「バカ1990-1999」

下北沢駅前劇場 5/17〜5/21
5/21(日)マチネ観劇。座席 自由(7列目やや左/招待)

作・演出 吉田衣里
演出助手 植木早苗

 今回げんこつ団のホームページに解説が出ていたので、それを参考にしつつ列挙したいと思う。演目が多いので記憶が飛んでいるものが多発していると思うが、勘弁願いたい。シーンのタイトルは、げんこつ団の台本と、映像で流したタイトルとは別らしいが、記憶の流れと台本の流れが一致しないので、台本の流れを優先して書いてみたいと思う。でも、こんなのあったかなぁと記憶が曖昧なものに関しては省いてしまおうと思うし、全部書いたら凄い量なので意図的にも省略したい。なお、無断転記しているところは広い心で黙認してください。

さかだちまん→1996家族タイプ1(ピンポン一家)/発言するためにはテーブル中央のボタンを先に押さねばいけない。そんな早押し家族の茶の間。吉田氏曰く「自然とボタン争奪戦になる。家族だろうと何だろうと会話ってそんなもの。」→未確認飛行人体/未確認だが人体が飛行しているらしい。そんなニュース番組。→一人多い/パパとママとププがいる家庭。「両親とは『父と母』、世の中は『男と女』で当然か? ホントに当然か?」って問いかけ。→未確認飛行状態/未確認だが飛行しているらしい。それだけの話。→ブルーナー/口が×になっているうさぎのミフィーを作ったオランダの絵本作家ディック・ブルーナーの話。「あの絵のバッテンは鼻と口には見えない。これは、口を塞がれて、自分を産み出した者の気に入る作られたイメージを、顔色うかがいながら演じるかわいそうな子供の姿さ。こっそりバッテンをはずして自分の話したい事を話したら、それだけで殴られ首を絞められ、どこかに連れてかれちゃいました。しかも、逆上したブルーナーは話した方でなく、頑なにいいつけを守っていた方を連れていっちゃいましたとさ。」と吉田氏のコメント。この作品は私が初めてげんこつ団を観た『げんこつ対げんこつ』からの作品。私にとって、げんこつ中毒になったきっかけ的作品でもあるので、とても印象深い作品。→ニュース(予測/政策)/ニュースは事件を予測し、事件発生前に現場を押さえるまでに進化したって話。そして、政府が、身体に障害を持つ人に日本人の平均生活水準の暮らしが出来るようにと発表した政策の、平均生活水準は、やたら豪華って話。→猫?/猫好きおばさんの会話。猫の去勢、避妊の話しかと思いきや、自分の息子や娘の、去勢と避妊の話。しかも息子は50歳近く、娘は38歳らしい。去勢され避妊され、一生母に付いて歩くしか出来ない大人の話。そして、障害者に贅沢で豪華な平均生活をという“政策”を間に受け、早速、息子を病院に連れて行き、半身を不髄にしてもらう若い母の話。怖い。→ニュース(やっぱりやめた)/やっぱりそんな政策はお金がかかり過ぎて出来ない、と急遽発表する政府。政策の発表で取り返しのつかない結果を引き起こしているのに、政府はそんなの知らんぷりって話。この辺りの話の繋がり方・展開の仕方はさすがげんこつ団って感じ。→カビ/自分達とは全く相容れないモノが生活に侵略してくる事の恐怖。→メカ/病院で医者たちが、死亡した患者の身体をメカで操り、生きているように見せかける話。延命装置やそれを必要とする病院のシステムを、ちょっと悪意を込めて違う角度から表現した作品。死亡した患者の意思はどこへやら。→自分テレビ1/知らない内に自分の姿が知らない家のテレビに中継されている。何の罪の意識もなくそれに見入る男。映画『トゥルーマン・ショー』っぽい作品だけどげんこつ団の方が先らしい。→父さん/家族構成が、父ばかり。父が父と父とで暮らし、父が父を産みそこには父が付き添っており、父たちは産まれたばかりの元気な父を見に病院に急ぐ。意図はないらしい・・・。→自分テレビ2/友恵さんの後ろにはでっかいカメラを持ったカメラマンとでっかいマイクを持った音声さんが付いて歩いてる。何故気付かない、という突っ込みはなし。しかしいつも誰かに見られている不安はあるらしい。恋人に不安を打ち明ければ「俺も毎日見ている」と笑顔で答える彼氏。当然怯え逃げる友恵に恋人は「女の子ってのは分かんないなあ」と、笑いながらその後を追う。そして、助けに現われたのがランジェリー戦隊。真剣に友恵さんを助けようとしているが、彼等はパンティーマンとブラジャーマンで、そのせいで友恵さんはその姿に怯えまた逃げる。しかし、ランジェリー戦隊には友恵さんが嫌がる理由がさっぱり分からない。って話。→お芝居/「福祉充実ワクワク老人祭り」という舞台で踊らされる老人達。老人方にもっと元気になって貰おうという趣旨らしいが、おかど違い。偽善の塊の状況下で芝居させられ踊らされる老人達。なんか現実っぽくて怖い。→老人売り/テレホンショッピング。紹介する商品はご老人。勿論寝たきり、床擦れ失禁付き、今すぐ食事や風呂、下の世話が行えます。しかも今なら痴呆もサービス・・・。→人造人間→ニュース(目隠し/老人公園)/目の不自由な方のためのニュースなら、目の見えない人の気持ちになってとの趣旨で目隠しでニュース。しかもスタッフやカメラマンまで目隠し・・・。そして、ご老人に親切にしたくてたまらない善意集団が作った「老人愛護協会」が、老人と直接交流を持つ事の少ない子供たちに、もっと老人とふれあって欲しいと作ったのが「老人ふれあい公園」。老人たちはオリに入れられ、子供たちは老人に、触ったりエサを与えたり飼育係に老人を抱かせてもらったり出来る公園・・・。→先生!/肩書きで呼ばれる人たち。しかし、船長だの大名だのダンサーだのパチプロだの・・・。現実の部長とか課長とか先生だとかを皮肉ってるのでしょう。→ニュース(鼻声/不髄)/鼻が不自由な方のために鼻声でニュースを伝える、という番組。そして、テレフォンショッピング。商品は右半身不髄。「障害者が、特別扱いされる存在なら、自分の健常ぶりが申し訳なかったら、なっちゃいなよ障害者に」って話。→+-/磁石の特性を持つプラス社員とマイナス社員がバリバリ働く職場。→ニュース(口悪い/血税)/目、鼻ときて口。口の悪い方の為のニュース。内容は、「身体の不自由な方や老人に、とっても優しい新しい税金」。手足があればそれに課税、視覚聴覚があればそれに課税。それはそれは手足の無い方や視覚聴覚障害をお持ちの方にはとっても優しい税金・・・。→+-のその後/新しい税金の課税により、新しい税金が払えなかった彼等は、政府の言う通り、手足を取り上げられ、視覚聴覚を取り上げられました、って話。→ニュース(CCT)/CCTと呼ばれる感染病の話。おちんちんが鉄砲になってしまう病気で、性的興奮により発砲し、ダイレクトに目の前の相手を殺害する病気。→シェフ→死体運び→バレエで/好きな女に精一杯のアプローチ、強引にホテルに誘う若い男の心情の移り変わりを、情感豊かにバレエで表現した作品。→犯罪保険CM/保釈金、裁判の経費、社会復帰後のサポートをする犯罪保険のCM。→強盗/銀行強盗の押し入った銀行窓口の風景を描いた作品。この作品の意図は吉田氏の言葉のままに。「強盗は聴覚障害者です。それだけのことなのに、笑った方は、でもま、当然でしょう。そういう固定概念を社会が植え付けていますので。そして、この強盗は手話が理解されなくて強盗も出来ませんでした。“手話が一般に浸透してなくて、障害者は、強盗さえ出来ない不自由な立場に立たされているのね。”という受け取り方もありましょうが、それはそれで大正解で恥ずかしい限りですが私の意図はもう一つあって。強盗なんで、あからさまに。要求は分かるはず。手話なんてなくても落ち着いて伝え合えば分かり合えるはずなのに。聾唖者だ!と泡食って、手話だ!と泡食って、拳銃だ!と泡食って、何も物事が先に進まないこの状況自体が非常に馬鹿馬鹿しいなあと思うのです。」→ニュース(美人/サイモン)/ワイドショーちっくなニュースでよく使われる、「美人○○」。なんで犯罪に「美人」が関係あるのやらってネタ。レポート後、キャスターが詫びを入れる。「取り調べの結果、犯人は別段たいして美人ではありませんでした。レポートに誤りがあった事を深くお詫び申し上げます。」と。→アイドル→個人CM1/個人のCM。何かを何かのために売り込むわけでなく、単なるその辺の若者が、精一杯自分をアピール。→お産/病院。出産。この作品の意図もそのまま引用「新しい生命の誕生に喜び、幸せをかみしめる若い父と母。父と母になった事にも喜び隠せず、幸福そうな風景。しかし、彼等はただその幸せのみが欲しかっただけである。産まれた子供は直ちに医者が、速やかに締め殺し、「またお産があったら宜しくお願いします。」と父と母は去る。医者は「毎度」と挨拶する。どうせ育てられなくなって苦しめて死なせてしまうなら、いっそこのシステムはどうだろう。」両親による幼児や乳児の殺害事件が頻繁に起こっている現実を予感したような作品。個人CM2/個人のCM中年版。→うるさい→演説→右曲がり署/馬並刑事長率いる右曲がり署の腕利きの刑事たちのあだ名は、短小、包茎、童貞、早漏、女刑事に潮吹き、上付き。単にそれだけらしい。→海底→タンゴ/「キリマンジャロタンゴ」のタンゴを今一度。でも、前回ほどインパクトなし。→テーマパークCM→病院色々/今までやってきた様々な病院を一挙公開。歌声で病気を治しCDを処方する病院。患者を、病室に入ってくるなり拳銃で撃ち殺し続ける病院などなど。→運命1/産まれた途端に赤ん坊が、死刑を宣告され、連れていかれる話。→小さな政府→運命2/死ぬ間際だってのに「死刑」。もう死ぬってのに連れて行かれてしまう・・・。

 簡単に列挙してみただけなのに膨大な量になってしまった。これだけ盛りだくさんだった今回のベスト版。客席も超満員。今までは、面白いのに何故客が入っていないのかと憤慨し、あたり散らすが如く面白いとフレまくっていた私だが、ここに来てやっと動員に繋がったみたいで、身内の如く喜んでいる次第である。しかし、密かな悪だくみをこっそり楽しむみたいなところもあったので、明るみに出てしまったのがちょっとだけ寂しい。今後動員が増えてもこじんまりしたスペースで公演を続けて欲しいと願う。
 ただ、今回動員が増えた事により、客層も様々になり「障害者差別だ」みたいな悪意を持って批判する人も出てきているみたいだ。確かにそうとられなくはない。ってより今までこういった批判的な感想がなかった事自体が不思議なくらいである。しかし、差別ネタではあるが、彼等を取り巻く状況がネタになっているわけであり、個人攻撃をしているわけではないと思う。それを障害者差別だと被害者意識を持って発言する者にこそ差別意識があるのではないかと思わざるを得ない。しかし、吉田氏はそんな批判もなんのその「別に皆で一緒になって様々な社会問題について考えたいわけでも、何か意見を伝えたいわけでもない。「共感」は一切要らない。この恐ろしい状況に皆住んでいるんだという事実のみを写し、そしてそれを喜劇として表現する」としている。この姿勢はすごく好きであり共感する。って共感はいらないのか。ならば、その意見に単勝で1万円ってのはどうだ。賭け率は1.5倍くらいの本命。吉田氏はさらに「自分の固定概念を思い知れ。」とも言う。確かに初めてげんこつ団を観た時思い知った。大人計画の『ファンキー』を観た時も思い知った。障害者だって同じ感情がある、性欲だって悪意だって健常者と同じくらいに。もしかしたら障害者や老人の中には「弱者を助けなさいよ」ってな気持ちで、健常者の親切を当り前のように受け取ってる性格の悪い奴だっているに決まっている。それでこそ人間なんじゃないかって。
 吉田氏は続ける「“障害者はカワイソウで、自分が健常者なのが申し訳なくて。”って言う差別意識を持っている奴に対して“そう思うならば自分が障害者になればいいじゃん。”」と、その表われが『半身不髄を売るテレホンショッピング』ネタ。健常者の思い上がりをげんこつ団はストレートに露呈する。これこそ拳骨魂なのではないか。まぁそれをどう捕えるかは個人の自由、どう評価するのも個人の自由だけど、どう批判されようが、自分の信念を貫き通す、そんな姿勢をいつまでも守って欲しい。

 って感じで、げんこつ団の芝居の在り方についての感想になってしまったので、最後に今回の芝居の感想を書くと・・・ちょっと盛り込み過ぎ。サブタイトルの“Best!of Genkotu-Dan!”の通り、今回は過去の作品を矢継ぎ早に見せるお祭騒ぎではあるが、前後の微妙な繋がりが好きな自分としては、一つ一つを楽しみながらも物足りなさを感じてしまった。上演時間の長さに反比例して・・・。


“げんこつ団”自分が観た公演ベスト
1.げんこつ対げんこつ
2.ドミノバキューム
3.ガスダム
4.キリマンジャロタンゴ
5.トランポリン
6.バカ1990-1999

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むっちりみえっぱり「インディアナポリス」

竜の湯2階大宴会場 5/26〜5/28
5/26(金)観劇。座席 自由(3列目中央)

作・演出 むっちりみえっぱり

 道路誘致で思わぬ大金が転がり込んできた萬年木家。こたつの仁義を唱えこたつから出ない長女・緑(江川瑠衣)、ヤンキーにあこがれる次女・広美(古谷充子)、脂症の三女・詩織(山本由佳)、四女・英子(樋口徳子)、五女・良美(吉田麻生)、六女・ナナ(佐藤沙恵)達がこの萬年木家を構成している。この萬年木家は4歳までにきのこを選別できなければならないというシキタリがあるらしい。そんな彼女らは大金の使い道として裏山に「山ランド」を建設。その運営を姉妹でこなしていた。そんな姉妹達の日常を、へなちょこさを満載して描いた素敵な作品。

 まずは会場のへなちょこさに驚く。って言うか、普通の銭湯なので場所探しは簡単だったが、どこが会場?って感じで戸惑う。銭湯入り口にいるおじぃさん、おばぁさんの「何かあるのかしらねぇ」的好奇心をぶつけられながら2階へ上がる。上がってもびっくり、本当に単なる宴会場・・・どこが“大”なんじゃぁ〜と言いたくなるような広さ。椅子はビールの空き箱に座布団・・・。チープさもここまでくれば最高です。チケット半券で銭湯に入浴もできるお得なチケットだったので、受け付け後、銭湯+湯上がりのビール、そんでもって浴衣なんかで観劇すれば、宴会的チープさも醸し出せてベストチョイスだったかも。私は普通に観劇してしまったけど・・・。

 芝居は前作同様に、芝居の質がどうとかの論争が起らない程、既成概念を破壊してしまう理屈抜きのおかしさを堪能できた。素人っぽい学芸会臭さも確信犯であろう。してやられたり。すっとこどっこいのキャラ(そのキャラに合った配役も絶妙)、自然すぎる会話もへなちょこさに拍車をかける。特に火事のシーンのチープさには大笑いしてしまった。これからも目が離せない劇団の一つである。


“むっちりみえっぱり”自分が観た公演ベスト
1.地肌すぐ
2.インディアナポリス

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唐組「夜壷」

雑司ヶ谷・鬼子母神 5/27〜6/4
5/27(土)観劇。座席 自由(3列目中央)

作・演出 唐十郎

 傾きかけているマヌカン工場・奈田マヌカン。そこで働く女工の織江。失意の中にいる織江を元気づけたのは、元靴屋で清掃局員の青年有霧(稲荷卓央)だった。 有霧は、清掃車に飲み込まれる寸前のマヌカンの手を助け、織江からガラスの溲瓶を贈られた。 その溲瓶が自分の元にきた由来を尋ねるうちに、有霧は、織江が人形に「ゼルペンティーナ」「ヴェロニカ」と名づけて慕っているのを知り、その情熱に心を打たれるのだった。いつしかその世界に引き込まれて行く有霧は、やがて、“人形に恋したのか、人形を愛する織江に恋したのか”わからなくなっていく。自分の感情に揺り動かされながら、混沌とした世界でモガキ苦しむ有霧。「蝋のようなその冷たい感触は、ただ冷たいんじゃない。ただ一瞬の膜なんだ。それを過ぎたら、温かさが通い合う・・・」

 この作品は、ロマン派の作家ホフマンの『黄金の壷』と『砂男』をベースとした作品らしい。“らしい”と書いたのは、この作品自体を知らないからである。まったくもって知識不足である。聞いたところによると『黄金の壷』は、大学生アンゼルムスが、妖精の国を追放された火の精リントホルストの娘であるゼルペンティーナと、大学のパウルマン教頭の娘、ヴェロニカの間で揺れ動く物語である。ゼルペンティーナの愛が成就した時、リントホルストが持つ黄金の壷に花が開き、リントホルストの追放が解けるという結末らしい。なるほど、下敷きになっているのもうなずける。

 底辺の生活を送る主人公に、突然訪れた見知らぬ女との出会い、そして、人形への熱き想い・・・。サブタイトルの“マヌカンの手に触れる時、君は訪ねる人形の都へ”とあるように、そんな幻想的な状況の中、主人公の青年の心は混沌として行く。青年が本当に救おうとしたものは、一体なんだったのだろうか・・・。そんな深い問いかけのある物語なのだろうが、ラストが思い出せない。申し訳ない。有霧は、どうこの物語を終わらせたのだろうか・・・。結末が思い出せないのは、あまり面白さを感じなかったからだろう。白皮夫人(唐十郎)が登場して、やっとこ華やいだ記憶があるが、それまでは、いつ眠りについてもおかしくないような空気が流れていた・・・。まぁ、それは自分だけかもしれないが、面白く感じなかった大きな原因が、“女優に魅力なし”だと私は思って止まない。唐十郎、大久保鷹、稲荷卓央など男優には溢れるばかりの魅力があるのに、女優にまったく魅力がない。藤井由紀は不思議な魅力を持っていて、私は好きなのだが出番が少ない。客演でどうにかしようとしてはいるが、申し訳ないが、その客演の女優にも魅力は感じられなかった。はやり飯塚澄子が抜けた穴はでかい。そのでかさを痛感してしまった公演であった。

 別に聞き耳を立てていたわけではないが、1幕終了時に登場するマネキン・オリンピアの足は、飯塚澄子の足から型を取ったらしい。隣に座った関係者らしき人が話していたので間違いはないと思うが、確信はない。ちょっと余談だけど・・・。


“唐組”自分が観た公演ベスト
1.ジャガーの眼
2.ジゴロ・唐十郎扮する版『秘密の花園』
3.改訂の巻『秘密の花園』
4.汚れつちまつた悲しみに・・・
5.眠り草
6.夜壷
 

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桃園会「どこかの通りを突っ走って」

シアタートラム 5/26〜5/28
5/28(日)観劇。座席 E-8

作・演出 深津篤史

 舞台は大阪の北港。朽ちかけた舟、その甲板。波音が響く。その甲板には、車ごと海に飛び込み自殺をした本田しおりの命日に集まった男女4人、同姓愛者のOL、別居中の妻を5年前の神戸震災で失った小説家・本田ら様々な人達が、なんとはなしに集まっていた。そんな彼等の前に立ち現われ、誰かを待っている女。会話が交錯し時間枠を越えて絡み合う。そこに見え隠れする、死とセックスと神戸震災の影。記憶の中で様々なものがうごめいている・・・そんな一晩の物語。

 やはり難解だった。99年に観た『うちやまつり』よりは集中して観れたので退屈はしなかったが、“難解な芝居”には変わりなかった。それが劇団のカラーとしても、集中力の維持に体力を使う芝居であった。話がパズルのようにバラバラに散りばめられていて、頭がすっきりしないと組み立てられない。終演後すごい疲労感を感じたのは私だけなのだろうか。心地よい疲労感ではあったが、観劇疲れと言うよりは数式を解いた後みたいな疲労感であった。エロチシズムは、ブリガドーン「セックスは、なぜ楽しいのか?」の中の作品『シメルオンナ』には及ばなかったが、死の匂いはプンプンと漂って来た。時間と空間が入り乱れる分、死の匂いの印象も強烈である。そんな息が詰まる空気が劇場を包む。チラシに「雑踏のなかを一人歩いていて、ゆきかう人々の言葉が、いやにくっきりと聞こえてくることがある。」と書かれてあったが、今回の芝居は“聞こうと思わなければ聞こえない言葉”そんな類のものに耳を傾けてしまった物語だと思う。自分の表現力不足で抽象的で具体性がないが、そんな感じである。ただ、“再生の物語”と聞いていたわりには、死の匂いがきつくて私には“再生”を感じるまでいかなかった・・・まぁ死があって再生なんだけど。しかし、この芝居は、いろいろ“考える”のではなく“感じる”事が必要だと教えてくれているように感じた。って、これ又具体性のない書き方ですみません。

 余談ですが、客入りが悪いのには驚いた。もっと入っていい芝居なのに勿体ない。


“桃園会”自分が観た公演ベスト
1.どこかの通りを突っ走って
2.うちやまつり
 

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