不破哲三と中国共産党との関係経緯
98年和解後4回の訪問・交流で一党独裁政党・体制賛美
チベット問題を批判できない、しない日本共産党
(宮地作成)
〔目次〕
〔第1期〕、日本共産党と中国共産党との兄弟党関係、両党のソ連共産党隷従
〔第2期〕、中国共産党にたいする日本共産党の隷従関係
〔第3期〕、毛沢東の文化大革命による日本共産党批判と関係決裂
〔第4期〕、不破哲三と中国共産党との和解劇とその後
〔第1回目・訪問〕、中国共産党との和解劇、1998年7月21日
〔第2回目・訪問〕、不破哲三の中国訪問と「学術講演」、2002年8月
〔第3回目・交流〕、中国共産党代表団を迎えてのマルクス主義理論研究会、05年
〔第4回目・訪問〕、「中国社会科学院」における「学術講演」、06年5月
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『日本共産党と中国共産党との和解劇』1998年
共産党『不破哲三議長の中国訪問』 『学術講演「レーニンと市場経済」』02年8月
共産党『中国共産党との会談終了/日本の情勢について不破議長が発言』05年12月
不破哲三著『日中理論会談で何を語ったか−目次・構成』06年3月
日本共産党『不破哲三−「学術講演」内容』全文、06年5月訪問
しんぶん赤旗『不破所長−中国社会科学院で「学術講演」』06年5月27日記事
中国共産党『賀国強党中央組織部長、不破哲三氏と会見』06年5月
google『不破哲三 中国共産党』 『文化大革命 日本共産党』
google『チベット人権民主化センター』 チベット問題 中国共産党
Wikipedia『中国民主化運動』
これは、別ファイルの山椒魚『不破哲三の資本論「研究」と中国「賛美」の老害ぶり』に併設していた論考を、チベット問題発生を契機に加筆し、独立させたものである。
日本共産党と中国共産党との関係経緯を、4つの時期に分けて確認する。不破哲三と中国共産党との関係は、第4期になる。ただ、経緯については、さまざまなファイルですでに検証している。よって、ここでの文章を短くし、主に、そのファイル・リンクによる説明とする。
21世紀、残存する一党独裁国家・前衛党は、14→4つだけに激減した。中国共産党・ベトナム共産党・キューバ共産党・朝鮮労働党である。中国共産党は、「社会主義市場経済」+他党派絶滅・一党独裁政治体制という根本的に矛盾した犯罪的政治体制国家の中核である。ただし、共産党完全支配・統制下の他政党いくつかを、上海の民主党など地方限定で認め、一党独裁批判を逸らせようと欺瞞的なカムフラージュ作戦を採っている。2008年3月、その矛盾が、チベット問題として表面化した。不破哲三らは、そのテーマにどう対応するのか。
3月18日の赤旗記事は、なんの論評・解説も載せないで、中国共産党側のコメント・発表しかなかった。3月22日記事も論評・解説なしのままだった。ただ、18日記事にたいし、日本共産党は中国共産党のスポークスマンになり下がったのかという批判が、党中央に電話・メールで殺到した。(1)イラク戦争問題でのアメリカ批判は常時書くが、(2)チベット騒乱と中国共産党による暴力的弾圧・大量殺人犯罪について、日本共産党は批判できない、しないのかという痛烈な批判・疑惑が沸騰してきた。そもそも、あらゆる新聞社・テレビ局で、赤旗のように論評・解説も載せない、報道しないマスコミは皆無だからである。
google『チベット人権民主化センター』 チベット問題 中国共産党
赤旗3月18日「死者は13人」チベット自治区主席が発表
赤旗3月22日「チベット問題」中国外相、騒乱事件を説明/新華社 「四川省で発砲」認める
日本共産党は、一党独裁政党・国家の犯罪・崩壊が次々と露呈する中で、有権者からそれらと「同質・同類の政党」と見なされ、国政選挙6連続惨敗というじり貧的瓦解段階に突入してきた。1968年プラハの春弾圧事件、1989年東欧革命での9カ国崩壊、1989年中国天安門事件での大虐殺、1991年ソ連崩壊、北朝鮮の金正日・朝鮮労働党による日本人大量拉致犯罪発覚などである。そして、2008年3月のチベット騒乱発生と中国共産党による暴力的弾圧・大量殺人犯罪にたいし、日本・世界の政府・政党・マスコミが連日大報道をし、中国共産党・政府の対応を批判している。
志位・市田・不破らは、チベット問題での論評・解説なしの沈黙対応が、このままでは、次回総選挙における共産党4連続惨敗の引き金にもなりかねないと慌てふためいた。チベット問題発生以前に、党中央選挙財政破綻だけでなく、316地区が300候補者・供託金300万円=総額9億円を準備できない体制疲弊・財政破綻が深刻になった。それを理由とする小選挙区立候補300→140に激減させるリストラ作戦によって、共産党の比例代表得票数・得票率とも減ることは確実視される。そこから、選挙専門家・記者たちによるシミュレーションとして、26→20→9→9→(7)議席への4回連続惨敗予想が出ている。そこで、とりあえず、3月22日赤旗は、中国共産党側・チベット人権民主化センター・アメリカという3つの発表だけの無機質な客観報道をした。
日本共産党は、07年7月参院選で、議席・得票数・得票率とも3連続の全面惨敗をし、改選5議席→3議席泡沫政党に転落した。惨敗の基本原因は、20世紀の赤い遺物政党・コミンテルン博物館型政党であり、かつ、党内民主主義を抑圧する民主集中制という犯罪的組織原則への固執が、有権者から嫌われたことにある。さらには、「オール与党」vs「確かな野党」といううぬぼれた、味方でなければすべて敵とする政党二分法規定が、有権者から総すかんされ、馬鹿にされたことにある。
『共産党の参院選結果8回分データ分析』議席数・得票数・得票率とも全面惨敗
『じり貧的瓦解への道=参院選総括・総選挙方針』衰退過程突入政党の党員・読者
志位・市田・不破らはそれに懲りて、誤った基本戦略・政策をそのままにし、2つの姑息な戦術転換だけを謀った。(1)、小選挙区立候補数300→140に激減させる。一方、比例代表候補者を39→73へと187%に激増させる数量的戦術転換である。(2)、ビラ・宣伝カー・演説会で数万回唱えた「オール与党」規定が有権者からあまりにも不評だった。よって、それを誤りと認めないままで、「オール与党」規定から社民党・国民新党を外し、民主党だけを「自民党と同質・同類の政党」と再規定をし、その大宣伝戦術に転換した。しかし、チベット問題の発生にともなって、日本共産党こそ「中国共産党と同質・同類の政党」と同時に自己宣伝をするという皮肉で悲惨な影響を撒き散らす結果となりつつある。
〔第1期〕、日本共産党と中国共産党との兄弟党関係、両党のソ連隷従
1922年コミンテルン日本支部創立から、1949年中国革命成功まで、27年間
1922年、日本共産党は、コミンテルン(国際共産党)日本支部として誕生した。戦前、モスクワとの連絡ルートは常に中国が一番重要で、国際共産主義運動の中でも特別な関係だった。この期間、両党は兄弟党だった。ただ、日中両党とも、非政権共産党なので、ソ連共産党に完全隷従していた。
ユン・チアン『マオ』は、中国共産党・毛沢東が、その創立当初から、ソ連共産党にたいし、いかに全面的に隷従していたかという度合とその実態を、ソ連崩壊後のソ連側データに基づいて、克明に論証している。たしかに、『マオ』にたいし、中国史の専門研究者らから、中国革命史記述への批判はでている。しかし、ソ連共産党への隷従関係についての記録は、データ内容から見て、真実だと考えられる。
〔第2期〕、中国共産党にたいする日本共産党の隷従関係
1949年スターリン・毛沢東の秘密協定から、1966年文化大革命まで、17年間
1949年、中国革命が成功した。それによって、国家権力を握った中国共産党と非政権の日本共産党との両党関係は激変した。それ以後、日本共産党にとって中国共産党は、ソ連共産党と並んで、善かれあしかれ特別な存在となった。
スターリンと毛沢東は、国際共産主義運動を2分割する秘密協定を結んだ。その事実は、ソ連崩壊後のさまざまな文献や、ソ中両党側秘密資料によって証明されている。その内容は次である。(1)、スターリン・ソ連共産党が、東欧とヨーロッパ共産党を指導・支配する。(2)、毛沢東・中国共産党は、朝鮮・日本・インドネシアなど、アジアの共産党全体の指導・指令を受け持つ。指導という実態は、ソ連共産党・中国共産党が支配政党となり、他国共産党・前衛党を隷従下に置くことだった。ただ、協定といっても、正式文書にはなっていない。
その具体的保障も確立した。それは、スターリン・ソ連共産党が、ソ連・中国・東欧9カ国の政権党から、コミンフォルムに資金を集め、それを非政権共産党に分配する戦略だった。その金額は膨大な額だった。その性質は、「革命輸出のための秘密工作資金」である。革命国家の権威だけでなく、金によってでも隷従下共産党を支配するというシステムである。イタリア・フランス共産党は、その支援金額と受領を公式に認めた。日本共産党だけは、反党分子となった野坂・袴田などが、除名前の党中央トップ時期に、個人的に受け取ったとごまかしている。非政権共産党への金額・時期などは、信憑性のあるデータで証明されている。朝鮮戦争期間を含めた日本共産党への資金支給額の推計は、別ファイルに載せた。
この期間において、日本共産党が、ソ中両党の命令に隷従し、重大な誤り・反国民的な分裂策動を犯した事例は、3件ある。その詳細は、別ファイルで分析したので、リンクのみ載せる。
〔分裂策動の誤り1〕、朝鮮侵略戦争の後方兵站補給基地武力撹乱武装闘争、1952年〜55年
朝鮮戦争は、金日成・スターリン・毛沢東と3カ国前衛党側から起こした侵略戦争だった。日本共産党の武装闘争とは、ソ中両党が隷従下日本共産党に出した後方兵站補給基地武力撹乱という国際的命令に隷従した戦争参戦行動だった。これは、高揚していた破防法反対運動・労働運動にたいし、分裂と破壊という犯罪的な結果をもたらした。
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争関係ファイル多数
〔分裂策動の誤り2〕、公労協4・17ストへの中止指令・分裂策動、1964年
1964年、共産党の「4・8声明」は、2・1スト以来といわれる労働者ストライキを中止に追い込み、労働運動を大分裂させた。この共産党犯罪が、どこからの指令に基づくものだったか。当時、宮本顕治は、中国に3カ月間の療養中だった。中国共産党と宮本顕治が、日本国内指導部に中止命令したと推定される証拠が出てきた。
『4・17スト中止指令の誤りと中国共産党の圧力疑惑』中国と宮本による中止命令の根拠
宮地幸子『政治の季節の ある青春群像』4・17ゼネストと職場の分裂、運動の壊滅
〔分裂策動の誤り3〕、原水爆禁止運動における分裂策動、1962年〜64年
ソ連の核実験、その後の中国核実験、および、部分核停条約にたいする評価・対応をめぐって、原水爆禁止運動は分裂した。日本共産党は、「ソ連の核実験はきれいな実験である。防衛的なもので、それを支持・賛成する」と主張した。その反国民的な主張は、ソ連共産党・中国共産党の指令に隷従した反国民的な誤り・分裂策動だった。日本共産党は、後に、その主張・スローガンの誤りだけは認めた。しかし、ソ中両党命令に隷従した事実、分裂させた責任を一切認めていない。分裂責任を認め、謝らないので、その国民運動の分裂は続いている。
『「マオ−誰も知らなかった毛沢東」からの連想』1962〜64年の主張とソ中両党隷従事実
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕1984年、2度目の原水爆禁止運動分裂犯罪
〔第3期〕、毛沢東の文化大革命による日本共産党批判と関係決裂
1966年文化大革命と日本共産党批判、68年日中両党関係断絶〜98年日中両党和解劇
1964年まで、日本共産党は、ソ中両党への隷従前衛党の一つだった。1962年から、毛沢東の核開発・核実験姿勢をめぐって、ソ中両党が対立した。それは、中ソ論争に発展した。1964年、部分核停条約の評価・成立で、ソ中両党関係は、決裂した。中国に3カ月間も滞在していた宮本顕治は、当初の中立的姿勢から、ソ連共産党批判・中国共産党支持路線に軸足を切り替えた。
毛沢東による文化大革命は、1966年から1976年までの約10年間続いた。毛沢東・中国共産党は、それまでの隷従下日本共産党にたいし、「鉄砲から権力が生れる」という暴力革命路線を強要した。「宮本(顕治書記長=当時)修正主義集団」と名付け、ひときわ厳しい批判を浴びせた。
ソ中両党からの批判・内政干渉・分派作りに出会って、宮本顕治も、ソ中両党との関係断絶に踏み切らざるを得なかった。それが自主独立の原因と経緯である。自主独立は当然の正しい選択だった。しかし、それは、自主孤立となった。国際共産主義運動も分裂し、崩壊した。中国共産党も、文化大革命の誤りで国際的に孤立した。日本共産党も、東欧・ソ連10カ国のいっせい崩壊、ヨーロッパの共産党のほぼ全滅によって、国際的に孤立した。共産主義的友党はなくなり、『そして誰もいなくなった』。
文化大革命終結後も、中国共産党は、過去の干渉を「宜粗不宜細(大ざっぱがよく、細かいのはよくない)」と処理しようとしていた。宮本顕治は、誤りも具体的に認めず、謝罪もしない中国側の姿勢を拒絶した。それは、宮本顕治の議長引退の1997年まで続いた。
Google検索『文化大革命 日本共産党』中国共産党と日本共産党との関係での諸問題
〔第4期〕、不破哲三と中国共産党との和解劇とその後の経緯
1997年、不破哲三らは、宮本顕治に引退を強要した。同時に、宮本顕秘書団私的分派解体のクーデターを遂行した。それによって、秘書団OBら全員を党中央役員から、「平和的粛清」手法で追放した。その強行の結果、不破哲三は、日本共産党の全権力を手に入れた。
1997年、彼は、日本国内向けに、柔軟路線の全面展開を開始した。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派解体
国際面でも、中国共産党との関係改善で路線大転換をした。中国共産党を唯一・最大の共産主義友党と位置づけた。そして、以後、中国共産党と4回もの訪問・交流をした。
〔小目次〕
〔第1回目・訪問〕、中国共産党との和解劇、1998年7月21日
〔第2回目・訪問〕、不破哲三の中国訪問と「学術講演」、2002年8月
〔第3回目・交流〕、中国共産党代表団を迎えてのマルクス主義理論研究会、05年
〔第4回目・訪問〕、「中国社会科学院」における「学術講演」、06年5月
〔第1回目・訪問〕、中国共産党との和解劇、1998年7月21日
国際面で、まず、中国共産党との和解劇を演出した。その狙いと性格は、別ファイルの通りである。両党が堕ち込んだ国際的孤立からの脱出思惑の一致である。中国共産党は、文化大革命の誤り・犯罪で国際的に孤立していた。
日本共産党をとりまく国際的な共産主義友党の環境は、どうなのか。その絶対的孤立度合を見てみる。
(1)、もともと、ソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党との関係は決裂していた。
(2)、1989年〜91年、東欧・ソ連10カ国とその前衛党がいっせい崩壊した。その内の唯一の友党であるルーマニア共産党も崩壊し、チャウシェスクも殺害された。東欧前衛党における友党は壊滅した。
(3)、ヨーロッパの共産党は、スターリン批判だけでなく、レーニン批判に突き進んで、レーニン型前衛党の5原則は誤りとした。そして、共産党から社会民主主義政党に大転換した。ポルトガル共産党は、Democratic Centralism堅持の唯2つの資本主義国共産党として残存していた。しかし、日本共産党とは、ソ連評価、および、アメリカ共産党の評価をめぐって対立し、交流が途絶していた。
(4)、残存する4つの一党独裁国家・前衛党との関係も絶えていた。中国共産党・朝鮮労働党とは、内政干渉犯罪行為により、敵対していた。ベトナム共産党・キューバ共産党とは、「ソ連の崩壊をもろてを挙げて歓迎する」という日本共産党のソ連評価がまったく対立していた。国際的に見渡しても、ソ連・ソ連共産党評価とレーニン型前衛党5原則で一致できうるのは、中国共産党しかなくなっていた。
中国共産党の国際的孤立と、日本共産党の国際的な絶対的孤立度は、両党をして、欺瞞的な和解劇を演出させた。
『日本共産党と中国共産党との和解劇』その狙いと性格
欺瞞的という意味は、次である。
第一、中国共産党側は、日本共産党にたいして行った過去の誤り・干渉犯罪行為を、「宜粗不宜細(大ざっぱがよく、細かいのはよくない)」で処理しようと企んだことである。
第二、日本共産党・不破哲三側も、宮本顕治という邪魔者を引退させたので、中国側の誤り・犯罪行為を、すべて不問・免罪にした。上記に書いたような中国共産党の干渉犯罪行為にたいし、なんの謝罪も要求しなかったことである。これは、隷従時代に逆戻りしたような屈辱的な「和解劇」だった。
〔第2回目・訪問〕、不破哲三の中国訪問と「学術講演」、2002年8月
和解劇の3年半後、不破哲三は、第2回目訪問をした。その日程と中国共産党要人との会談経過は、共産党HPによって、大々的に宣伝されている。とくに注目すべきは、「レーニンと市場経済」と題した学術講演とその内容レベルである。
彼は、その講演を3つの目的で行った。(1)、レーニンが、1921年3月から行った「ネップ・新経済政策」を絶賛した。その論理は、レーニンが、市場経済を通じた社会主義建設理論を最初に打ち出した社会主義英雄と賞賛することだった。彼は、それによって、レーニン全面擁護理論を披露した。(2)、そこから、中国共産党が推し進めている「社会主義市場経済」路線、「市場経済を通じての社会主義建設」実態を、肯定し、持ち上げることだった。(3)、さらには、レーニン・不破哲三・中国共産党指導部は、3者一体の社会主義者と自己讃美することでもあった。
この講演内容は、ソ連崩壊後に発掘・暴露されたレーニンの誤りや、大量殺人犯罪を黙殺・隠蔽している。それだけでなく、21世紀の研究レベルからかけ離れた時代錯誤的な内容だった。不破哲三講演内容・レベルと梶川伸一論文や私(宮地)の「ネップ」解釈を、比べれば、彼の理論的誤りが明白になる。
共産党『不破哲三議長の中国訪問』 『学術講演「レーニンと市場経済」』02年8月
梶川伸一『十月革命の問題点』ネップは融和策か
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『「ネップ」−誤りの遅すぎた撤回と500万人の飢饉死亡者』農民問題ファイル
〔第3回目・交流〕、中国共産党代表団を迎えてのマルクス主義理論研究交流会、05年12月
2005年12月、相互交流として、中国共産党マルクス主義理論研究代表団を迎えた。その会議は、社会科学研究所長不破哲三ら日本共産党理論幹部と、中国共産党理論幹部との理論研究会だった。4日間もかけて、代々木新築党本部で行った。不破哲三は、「しんぶん赤旗」での発表とともに、『21世紀の世界と社会主義−日中理論会談で何を語ったか』(新日本出版社、2006年3月)という著書まで出版し、宣伝した。これは、彼の90数冊目に当たる印税個人収入付きの本である。
共産党『中国共産党との会談終了/日本の情勢について不破議長が発言』05年12月
不破哲三著『日中理論会談で何を語ったか−目次・構成』06年3月
〔第4回目・訪問〕、「中国社会科学院」における「学術講演」、06年5月
不破哲三は、「日本共産党付属社会科学研究所所長」の資格で、2006年5月25日に北京の「中国社会科学院」で「マルクス主義と二十一世紀の世界」と題して「学術講演」を行ったが、その内容の全文が、5月30日付の「しんぶん赤旗」に掲載された。
日本共産党『不破哲三−「学術講演」内容』全文、06年5月訪問
「しんぶん赤旗」『不破所長−中国社会科学院で「学術講演」』5月27日記事
中国共産党『賀国強党中央組織部長、不破哲三氏と会見』06年5月
この講演内容レベルについては、山椒魚さんが、別ファイルのように批判と評価をしている。私(宮地)もその評価に全面的に賛同している。
かくして、不破哲三は、宮本顕治の引退強要、宮本秘書団私的分派解体クーデターによって、すっかり身軽になった。彼が外国前衛党・共産党を訪問したのは、中国訪問以前に一回しかない。彼の外国訪問は、1989年年3月に旧ユーゴスラビアを訪問して以来、9年ぶりだった。その空白が、日本共産党の「孤高を余儀なくされていた」(志位和夫書記局長)状況を物語っている。
それなのに、宮本顕治とその最高権力者私的分派一掃クーデター後、中国共産党にたいしてだけ、3回も自ら訪問した行為は異様である。中国共産党は、国際的にも、党利党略に長けた前衛党である。彼らにとっての不破哲三の使用価値は何か。もっとも、わざわざ訪問した側は、不破哲三である。となると、彼にとっての、中国訪問の利用価値は何なのか。
21世紀において、外国共産党で、不破哲三レベルの「学術講演」を2回も出前出張させてくれるのは、今や、中国共産党しかないというのが真相である。2008年3月に勃発した、チベット問題というテーマにたいし不破哲三らはどう対応するのか。
google『チベット人権民主化センター』 チベット問題 中国共産党
赤旗3月18日「死者は13人」チベット自治区主席が発表
赤旗3月22日「チベット問題」中国外相、騒乱事件を説明/新華社 「四川省で発砲」認める
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『日本共産党と中国共産党との和解劇』1998年
共産党『不破哲三議長の中国訪問』 『学術講演「レーニンと市場経済」』02年8月
共産党『中国共産党との会談終了/日本の情勢について不破議長が発言』05年12月
不破哲三著『日中理論会談で何を語ったか−目次・構成』06年3月
日本共産党『不破哲三−「学術講演」内容』全文、06年5月訪問
しんぶん赤旗『不破所長−中国社会科学院で「学術講演」』06年5月27日記事
中国共産党『賀国強党中央組織部長、不破哲三氏と会見』06年5月
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