『マオ−誰も知らなかった毛沢東』からの連想
ソ中両党関係と隷従下日本共産党との3党関係
(宮地作成)
〔目次〕
1、『マオ』における逆説の中国革命史、そこからの連想 (表1〜3)
2、朝鮮侵略戦争時期における日本共産党のソ中両党隷従関係 (表4、5)
3、1964年、毛沢東の核開発・核実験、部分核停条約をめぐる3党関係
4、おわりに−レーニン・スターリン・毛沢東と宮本顕治・不破哲三
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
講談社『マオ−注釈・参考文献一覧』詳細な出典データ
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党の証拠
『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘の証拠
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争共産党に復帰した証拠
宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動の証拠
1、『マオ』における逆説の中国革命史、そこからの連想
『ワイルド・スワン』(講談社、1993年、原著1991年)は、文化大革命時代におけるユン・チアン一家の悲惨で、しかし、その中を勇敢に生き抜いたユン・チアンを中心とした記録だった。14年後の『マオ』(講談社、2005年、原著2005年)は、通説や公認中国革命史すべてを根底から覆す国家史となった。1989年東欧革命・1991年ソ連崩壊後、公認のロシア革命史とレーニン神話は、ヨーロッパでほぼ完璧に崩壊した。しかし、日本においてだけ、それが根強く残存している。
(1)、レーニンによるロシア革命勢力数十万殺人犯罪が、さまざまなデータによって暴かれた。(2)、スターリンによる約4000万人粛清犯罪は、ほぼ証明されている。(3)、『マオ』は、毛沢東ら中国共産党幹部たちによる7000万人殺人を、2005年に初めて暴露・告発した。それら毛沢東による犯罪データのすべてが衝撃的な逆説なので、これは本当なのかと吟味しつつ読むと、時間がかかる。私(宮地)も、毛沢東著書やアグネス・スメドレー、エドガー・スノーを初め、中国革命史の文献をかなり読んできた。それらの刷り込みイメージが音を立てるように崩れていく。
レーニン・スターリン・毛沢東ら革命指導者たちは、「共産党が所有する一党独裁国家」の最高権力者になった。資本主義世界の左翼・マルクス主義者たちは、彼らを理想的な共産主義的人間と仰いだ。そして、一党独裁政党が捏造した最高権力者神話と公認革命史を疑いもしないで信仰した。その革命国家トップたちが、科学的社会主義理論を説く裏側において、かくも恐るべき大量殺人犯罪を自国の革命勢力にたいして遂行し、かつ、その真相をひた隠しにしてきたという歴史の真実をどう考えたらいいのか。彼らの全員が、社会主義的二枚舌を使い分ける超絶技巧の持ち主だったのか。資本主義世界の左翼は、なぜ、かくも長き真相不在の状況に据え置かれたのか。
『20世紀社会主義を問う』レーニン・スターリン批判、中国共産党のファイル多数
ただ、以下の文は、著書全体に関する直接の分析や感想ではない。毛沢東の大量殺人犯罪データや個人崇拝形成過程は、発掘した新事実の連続に目を見張るにつれて、私の中国革命史観・中国共産党史観を一変させた。それだけでなく、ソ連共産党のスターリン・フルシチョフらと毛沢東ら中国共産党幹部との一種の従属関係、かけひき関係には、改めて目を開かされた。もっとも、下記のように、中国現代史研究家による辛口書評が指摘する内容にも、一考する必要を感じた。
加藤哲郎一橋大学教授は、次のようなリンクを貼っている。「もっとも『マオ』については、世界でも日本でも、毀誉褒貶の各種書評満載、矢吹晋さん、大沢武彦さんの辛口書評も、あわせてご参照を」。
ただ、日本の読者が『マオ』を読み、日本共産党との関係を連想する場合の前提として、2つの歴史的事実を確認する。
〔小目次〕
〔第1前提事実〕、ソ中両党関係における隷従下日本共産党との3党関係
〔第2前提事実〕、21世紀、日本共産党の国際的な特異残存度
〔第1前提事実〕、ソ中両党関係における隷従下日本共産党との3党関係
日本の読者が『マオ』を読む第1前提として、ソ中両党関係における隷従下日本共産党との3党関係に関する事実を見ておく。そのテーマはいろいろあるが、2つの時期に絞る。(1)1950年コミンフォルム批判から、朝鮮侵略戦争を経た1955年六全協までと、(2)1964年毛沢東の核開発・核実験と部分核停条約をめぐるソ中両党関係と日本共産党との3党関係である。
1919年3月、コミンテルンが発足した。各国共産党は、国際共産党の一支部となった。日本共産党は、コミンテルン日本支部として結成された。その実態は、ソ連共産党が事実上の指導政党であり、鉄の規律であるDemocratic Centralismの下で、日本支部にたいし、ソ連共産党の決定・指令に無条件服従を強いた。結成以来、日本共産党は、ソ連共産党にたいし、一貫して上下・隷従関係にあった。コミンテルンは、1943年5月に解散した。
1947年9月、コミンフォルムが、ヨーロッパの共産党・労働者党の連絡組織として結成された。それは、同年3月トルーマン・ドクトリン、6月のマーシャル・プランに対抗して作られた。その実態は、冷戦期に突入した2体制の社会主義側におけるコミンテルンの実質的な後継組織となった。スターリンは、アジアの共産党も支配下に組み入れた。彼は、1948年6月、ユーゴ共産党の除名とそのキャンペーンを契機として、世界すべての共産党・労働者党を、ソ連共産党との従属・隷従関係になるよう強制した。熱烈なスターリン崇拝者宮本顕治を初め、日本共産党も完全なスターリンへの隷従政党となった。
1949年10月、中国共産党による中国革命によって、中華人民共和国が成立した。その前後、中国共産党・毛沢東とも、一貫してスターリンへの隷従関係にあった。毛沢東は、隷従の裏面で、自己の地位強化・中国共産党の自立を図っていった。その微妙な関係や駆け引きについては、『マオ』が、ソ連崩壊後の発掘資料に基づいて、詳述している。駆け引きが進む中で、スターリンと毛沢東・劉少奇らは、国際共産主義運動・体制の2分割支配という秘密合意を結んだ。スターリン・ソ連共産党が、東欧のソ連衛星国と資本主義ヨーロッパの共産党を支配する。毛沢東・中国共産党が、アジア全域の共産党を支配下に置く、とする分担構想だった。
日本敗戦・中国革命成功によって、ソ連・中国・北朝鮮は、ソ中両党と朝鮮労働党というレーニン型前衛党が所有する一党独裁国家となった。日本共産党だけが非政権政党だった。冷戦期に入ると、ソ中朝日の4つの前衛党は、アメリカ帝国主義との闘争の関係から、ヨーロッパの資本主義国共産党と比べて、地政学的にも密着の必要性が高まった。スターリンは、ソ中両党間の世界2分割支配合意にもかかわらず、1950年6月25日朝鮮侵略戦争開始を前にして、日本共産党にたいする命令・隷従システムを異様なまでに強化した。日本共産党は、それ以後、ソ中両党命令への完全な隷従政党となった。
その経過において、日本共産党は、他の資本主義国共産党と比べ、国際的に見ても、ソ中両党にたいする、きわめて異様な隷従度合を帯びるようになった。その隷従レベル事例のいくつかを確認する。ヨーロッパ・アジアの資本主義国共産党でも、ソ中両党にたいし、下記データのような異様な隷従度合に陥った共産党は、日本共産党以外に一つもない。
(表1) 国際的にも異様な日本共産党のソ中両党隷従度合
1、コミンフォルム批判から分裂・統一回復五全協まで
事例 |
年月日 |
内容 |
他国共産党との比較 |
コミンフォルム批判 朝鮮戦争開始 |
50.1.8 50.6.25 |
占領下平和革命論批判とは、実質的な朝鮮戦争「参戦」の武装闘争への転換指令。スターリン執筆が証明された。宮本顕治は即座に国際的批判を支持→武装闘争を実行せよと主張→分裂。コミンフォルム批判時点で、ソ中朝3党が朝鮮侵略戦争開始をほぼ合意していた事実が、ソ連崩壊後に証明された |
資本主義国共産党への批判文書公表は、他にない |
北京機関結成 |
50.8末〜 |
中国共産党が亡命機関結成を指令。徳田・野坂らによる主流派の国外指導部。ソ中両党資金で「自由日本放送」。北京党学校に約2千人。すべて中国共産党の費用・ソ連共産党も一部分担 |
社会主義国内にこの規模・レベルの機関を作った共産党は日本だけ |
スターリンの「宮本らは分派」裁定 |
51.4〜5 |
スターリン・中国共産党が参加し、徳田・野坂らとモスクワ会議。スターリンは「宮本らは分派」と裁定。宮本ら国際派の中央委員7人・20%、党員10%、専従30%で、まったくの少数派。主流派の中央委員28人・80%、党員90%、専従70%。 |
スターリンによる直接の分派裁定は、日本だけ |
モスクワ放送「宮本らは分派」 |
51.8.14 |
コミンフォルム機関紙「宮本らは分派」裁定をモスクワ放送。四全協の「分派決議」を支持 |
他国共産党の分派弾劾をしたモスクワ放送は、他にない |
宮本顕治のスターリンへの屈服 宮本分派を含む国際派5派もスターリンに全面屈服 |
51.10初旬 |
モスクワ放送を受けて、国際(盲従)派のほぼ全員が、主流派に自己批判書を提出し、復帰。宮本顕治も自己批判書提出・復帰。宮本分派・全国統一会議の中央委員は、宮本・蔵原の2人のみ。国際派中央委員7人全員、国際派党員10%・23600人のほぼ全員が、スターリンに屈服 |
この規模でスターリンに屈服したケースは、日本だけ |
スターリン命令による統一回復 |
51.10.16 |
スターリン命令という外圧に隷従し、五全協で統一回復。分裂期間は1年4カ月間。宮本顕治が「六全協まで5年1カ月間分裂が続いた」というのは、彼がソ中両党命令に隷従した真っ赤なウソ・党史の偽造歪曲 |
統一回復命令によるスターリンへの隷従は、日本だけ |
2、統一回復五全協による朝鮮侵略戦争「参戦」武装闘争
事例 |
年月日 |
内容 |
他国共産党との比較 |
スターリン執筆の「51年綱領」決定 |
51.10.16 |
半年前のモスクワ会議で、スターリンは自己執筆の「武装闘争綱領」を押し付け。統一回復五全協は、武装闘争方針を決定 |
戦後で、スターリンが資本主義国共産党の綱領を直接執筆したのは、日本だけ |
軍事方針決定と軍事委員会設置 |
52.2.1 |
ソ中両党による朝鮮侵略戦争「参戦」命令に隷従。武装組織「中核自衛隊」「山村工作隊」結成方針。党中央と全国に軍事委員会設置。朝鮮戦争の後方兵站補給基地武力撹乱戦争行動を全党的に開始 |
軍事方針・体制は、日本だけ |
白鳥事件と中国共産党が庇護 |
52.1.21 |
札幌軍事委員会が、軍事方針に基づき、白鳥警部射殺。実行犯ら10人を中国共産党が庇護 |
共産党の軍事方針による殺人は、他にない |
メーデー・吹田・大須事件 |
52.5〜7.7 |
52年度の3大騒擾事件。「日本における朝鮮戦争」を、武装闘争として展開。大須事件にのみ騒擾罪成立 |
全党的な武装闘争事件は、日本だけ |
朝鮮休戦協定でソ中両党命令 |
53.7.27 |
朝鮮休戦協定で、ソ中両党は、日本共産党軍事委員会に武装闘争中止命令。それに隷従し、武装闘争が止んだ。軍事委員会や武装組織は、六全協まで残った |
ソ中両党命令で、朝鮮侵略戦争に「参戦」した共産党は、他にない |
3、六全協前後
事例 |
年月日 |
内容 |
他国共産党との比較 |
ソ中両党が六全協準備会議 |
54夏 |
モスクワで開催。(1)原案、(2)武装闘争の具体的総括・データ公表・ソ中両党の関与公表などの禁止命令、(3)人事リストを決定・命令。統一回復五全協が展開した武装闘争で壊滅した日本共産党の、ソ中両党指令による再建会議 |
他国の会議内容をモスクワで指令したのは、日本にたいしてだけ |
ソ中両党指令で宮本顕治復帰 |
54.12 |
ソ中両党は、夏の秘密人事指令で、六全協の8カ月前に宮本顕治を復帰させた。衆院選東京1区候補者という共産党の顔に大抜擢 |
分派断定幹部への排除中止・復帰命令は、他にない |
ソ中両党人事指令で宮本が五全協武装闘争共産党の指導部員に復帰 |
55.3.15 |
六全協の4カ月前、ソ中両党は、かつてスターリンが「分派」と断定し、排除した宮本顕治を(1)党中央指導部員に復帰させた。指導部員とは、常任幹部会レベルのトップクラス。ソ中両党は、彼を、さらに(2)六全協で常任幹部会責任者に、(3)第7回大会で書記長に据えた。 |
スターリンが「分派」と断定した幹部を、その後のソ中両党が排除中止・復帰させた命令は、他にない |
トップ野坂参三「第一書記」名称・ソ連NKVDスパイ NKVDスパイ・ナジとハンガリー事件 宮本顕治は党内討論抑圧 |
55.7.27 56.10.23 56〜57 |
野坂参三は、ソ連NKVDのスパイになっていた。ソ中両党は、スパイの彼を日本共産党のトップに据えた。ソ連共産党・フルシチョフは、その名称を、フルシチョフと同じ「第一書記」にせよと命令。東欧のソ連衛星国トップのかなりにも「第一書記」名称を押し付けた。 ハンガリーのナジは、ソ連亡命中、NKVDスパイにさせられた。スターリンは、ハンガリー占領後、スパイのナジを首相に据えた。しかし、ナジ首相は、1956年ハンガリー事件で蜂起した国民の側に立った。フルシチョフは、事件鎮圧後、ナジを裏切りスパイとして処刑した。フルシチョフは約4000人を殺害した。約20万人が亡命した。 宮本顕治常任幹部会責任者は、六全協の1年後に勃発したハンガリー事件を、ソ中両党命令に隷従し、「反革命」と切り捨てた。スパイ野坂参三とともに、その党内討論を抑圧する先頭に立った。 |
資本主義国共産党で「第一書記」を名乗らせたのは、日本だけ。また、ソ連スパイをトップにすえたのは、資本主義国共産党で他にない ナジがNKVDに提出したスパイ「誓約書」が証拠文書として存在する ヨーロッパの共産党で、ハンガリー事件を「反革命」とし、ソ連の武力鎮圧全面支持をしたのは、一つもない |
六全協にソ中両党が3つの命令 |
55.7.27 |
六全協は、分裂克服・統一回復の会議でない。統一回復は五全協ですんでいる。党員は、五全協前の236000人から、六全協時点の36000人に壊滅し、共産党系大衆団体・会員数も90%が壊滅していた。六全協は、ソ中両党命令に隷従の武装闘争で壊滅した日本共産党を、ソ中両党命令で開催した再建会議だった。日本共産党と宮本顕治は、ソ中両党の3つの命令に隷従し、以後完璧に命令を守った |
人事命令は他共産党にもある。しかし、(1)六全協原案作成、(2)武装闘争の具体的総括・データ公表・ソ中両党の関与公表などの禁止命令命令は、他にない |
これらの事例に関する詳細なデータ・根拠は、多数の別ファイルに載せてある。
『逆説の戦後日本共産党史』コミンフォルム批判から六全協までのファイル多数
ソ中両党にたいする日本共産党の隷従度は、国際的に見ても、まったく異様なレベルにある。ヨーロッパの資本主義国共産党も、コミンテルン・コミンフォルムからの多額の資金援助もあって、たしかに人事指令などは受けていた。しかし、それ以外では、日本共産党のようなレベルで、ソ中両党命令とそれへの隷従事例が発生したケースはほとんどなかった。
日本共産党の特異な隷従レベルが、宮本顕治という硬直したスターリン崇拝者を、東方の島国において育成した。そこには、(1)、東方の島国にあって、ヨーロッパと比べ、ソ連・東欧の大陸地続き生情報が流れ込まず、300万人亡命者が一人も来ないという地政学的条件があった。(2)、それだけでなく、彼は、日本共産党最高権力者42年間を通じて、スターリン主義体質によるさまざまな反民主主義的策動を行った。宮本・不破らは、21世紀になっても、日本共産党が、レーニン型前衛党5原則を隠蔽・堅持する資本主義国唯一の残存政党になる上で、決定的な役割を果たした。
〔第2前提事実〕、21世紀、日本共産党の国際的な特異残存度
東欧革命・ソ連崩壊により、10カ国の社会主義国家とレーニン型前衛党がいっせいに崩壊した。しかし、21世紀になっても、中国・ベトナム・北朝鮮・キューバという4カ国が、政党結成・政治活動の自由や言論出版の自由を剥奪・弾圧する犯罪的国家として残存している。資本主義国では、東方の島国日本においてのみ、レーニン型前衛党の日本共産党が残存している。志位・市田・(不破)らは、党内民主主義抑圧・破壊のDemocratic
Centralism(民主主義的中央集権制)を、鉄壁の自己保身システムとして離そうとしない。日本の読者が『マオ』を読む第2前提として、残存する一党独裁国家の中国共産党と非政権の日本共産党の国際的位置づけを見ておく必要もあるかと思う。
21世紀初頭における日本共産党の国際的位置づけはどうなるのか。それは、レーニン型前衛党の5原則を隠蔽・略語・訳語変更形式にせよ、すべて堅持している政党は、旧東欧・旧ソ連・資本主義国全体において、日本共産党ただ一つが残存しているという現実である。世界的には、一党独裁国前衛党4つと日本共産党という5党のみが、レーニン型前衛党の5原則全面堅持政党として残存していることになる。
1989年東欧革命・1991年ソ連崩壊の印象は強烈だった。社会主義10カ国と前衛党のいっせい崩壊の衝撃波は、資本主義ヨーロッパのすべての共産党に襲い掛かった。その結果、レーニン型前衛党の5原則全面堅持政党は、1990年代において、東欧・ソ連・資本主義国を含めヨーロッパ全域で全滅した。それが歴史的真相である。
ただ、5原則中、2つの放棄宣言をしたフランス共産党と、1つを放棄宣言したポルトガル共産党は、共産党名を名乗っている。よって、厳密には、レーニン型前衛党の試金石であるプロレタリア独裁理論を堅持する政党は、ヨーロッパ全域で壊滅した、という言い方が正確であろう。21世紀になっても、東方の島国日本においてのみ、5原則堅持の共産党があるという特異残存性を、どう考えたらいいのか。
以下の(表)は、別ファイルにも載せている。しかし、(表1)のように、日本共産党がソ中両党に隷従し、根本的な誤りを犯した時期の問題点を、21世紀においても、日本共産党は別の形ながら、同じレーニン型前衛党体質・理論の誤りの隠蔽堅持スタイルで引き摺っている。2つの時期における誤りの連続性・継承性を見ておかないと、日本共産党の誤りの今日的意味が浮き彫りにならない。
宮本顕治は、熱烈なスターリン崇拝者である。それは同時に、スターリンが捏造したレーニン神話の信奉者・普及者でもあった。彼は、42年間に及ぶ日本共産党の最高権力者の全期間において、ウソで上塗りされたレーニン神話を、東方の島国に普及・定着させた。不破哲三は、宮本路線を受け継いで、レーニン神話を守り抜き、レーニン型前衛党5原則を隠蔽堅持してきた。
『20世紀社会主義を問う』レーニン神話と真実のファイル多数
(表2) レーニン型前衛党の崩壊過程と度合
プロレタリア独裁理論 |
民主主義的中央集権制 |
前衛党概念 |
マルクス・レーニン主義 |
政党形態 |
|
イタリア |
´76放棄 |
´89放棄 |
放棄 |
放棄 |
´91左翼民主党 |
イギリス |
解党 |
解党 |
解党 |
解党 |
´91解党 |
スペイン |
´70前半放棄 |
´91放棄 |
放棄 |
放棄 |
´83に3分裂 |
フランス |
´76放棄 |
´94放棄 |
? |
? |
共産党名 |
旧東欧9カ国 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´89崩壊 |
旧ソ連 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´91崩壊 |
ポルトガル |
‘70前半放棄 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
日本 |
訳語変更堅持 |
略語で堅持 |
隠蔽・堅持 |
訳語変更堅持 |
共産党名 |
中国 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
ベトナム |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
北朝鮮 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
朝鮮労働党 |
キューバ |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
この(表2)において、レーニン型前衛党が大転換・解党・分裂・崩壊したソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域では、20世紀末以降で、一般国民や左翼勢力のほとんどが、次のレベルの認識を持つに至ったと言えよう。それは、「1917年10月、レーニンがしたことは、革命ではなく、一党独裁狙いの権力奪取クーデターだった」「4000万人粛清犯罪者のスターリンだけでなく、レーニン自身がクーデター政権を維持するために、ロシア革命勢力である自国民数十万人を赤色テロルで殺害した大量殺人犯罪者だった」とする「十月革命」認識内容がほぼ常識になった。そのような国民・左翼の劇的な認識転換・強烈な圧力を受けなければ、レーニン型前衛党がかくも脆く、ヨーロッパ全域でいっせいに崩壊しなかったであろう。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』上記内容の詳細な経過
『イタリア左翼民主党の規約を読む』大転換の経過。添付・左翼民主党規約
アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
(宮地添付文)フランス共産党の党改革状況
福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『史上初めて対案提出』
(表3) 日本共産党の欺瞞的な4項目隠蔽・堅持方式
4つの原理 |
欺瞞的な隠蔽・堅持方式 |
他国共産党との比較 |
プロレタリア独裁理論 |
綱領において、訳語変更の連続による隠蔽・堅持。(1)プロレタリア独裁→(2)プロレタリアのディクタトゥーラ→(3)プロレタリアートの執権→(4)労働者階級の権力→(5)放棄宣言をしないままで、綱領から権力用語を抹殺し、隠蔽・堅持している |
ヨーロッパでは、1970年代、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が、これは犯罪的な大量殺人をもたらし、誤った理論と認定した。そして、明白に放棄宣言をした。資本主義世界で、放棄宣言をしていないのは、日本共産党だけである |
民主主義的中央集権制 |
規約において、訳語変更による隠蔽・堅持。(1)民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)→(2)「民主集中制」という略語に変更→(3)「民主と集中の統一」と解釈変更で堅持→(4) 「民主と集中の統一」は、あらゆる政党が採用している普遍的な組織原則と強弁している |
ヨーロッパの共産党は、「Democratic Centralism」の「民主主義的・Democratic」は形式・形容詞にすぎず、「官僚的・絶対的な中央集権制・Centralism」に陥ると断定した。それは、「党の統一を守るのには役立ったが、一方で党内民主主義を破壊する」組織原則だと認定した。この反民主主義的組織原則を堅持しているのは、残存する犯罪的な一党独裁国前衛党4党とポルトガル共産党・日本共産党だけである |
前衛党概念 |
規約において、(1)前衛党→(2)規約前文から綱領部分削除に伴い、その中の「前衛党」用語も事務的に削除→(3)不破哲三の前文削除説明で、「前衛党」概念を支持・擁護 |
イタリア共産党は、「前衛党」思想を、「政党思想の中で、もっともうぬぼれた、傲慢で、排他的な政党思想だった」と総括し、全面否定した。日本のマスコミは、左(2)を「前衛党」概念の放棄と錯覚し、誤った解説をした |
マルクス・レーニン主義 |
(1)マルクス・レーニン主義→(2)個人名は駄目として、「科学的社会主義」に名称変更し、堅持。不破哲三の『レーニンと資本論』全7巻を見れば、マルクス・レーニン主義そのものの堅持ぶりが分かる。ただ、彼は、さすがにレーニンの暴力革命理論だけを否定した |
「マルクス・レーニン主義」の命名者はスターリンである。ポルトガル共産党を除くヨーロッパの共産党すべてが、マルクス・レーニン主義と断絶した。フランス共産党が放棄したのかは分からない |
日本共産党は、4項目に関して、訳語・名称変更しただけで、ヨーロッパの共産党がしたような明白な放棄宣言を一つもしていない。その実態も、隠蔽・堅持方式を採っている。世界的にも、こういう欺瞞的スタイルを採る共産党は皆無であり、いかにも不可思議な政党ではある。
その点で、加藤哲郎一橋大学教授は、日本共産党を「現段階のコミンテルン研究の貴重な、生きた博物館的素材」と指摘した(『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、3頁)。その視点から観れば、日本共産党を21世紀における「貴重な絶滅危惧種」として、このまま生態保存しておく必要があるのかもしれない。ただし、選挙政策面では、天皇制・君が代日の丸・自衛隊テーマなどで、無党派層への支持拡大を狙って、どんどん現実化している。それは、不破・志位・市田らが、(1)レーニン型前衛党の5基準・原理の隠蔽堅持路線と、(2)選挙政策の現実化路線という矛盾した二面作戦を採用していると規定できる。
21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5つの基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。もっとも、残存する一党独裁型前衛党の中国・ベトナム・北朝鮮を合わせれば、アジアでは、4つの前衛党が崩壊しないでいる。「アジアでの生き残り」の政治的・地政学的原因、および、隠蔽・堅持方式については、別ファイルで分析した。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』「アジアでの生き残り」の政治的・地政学的原因
『規約全面改定における放棄と堅持』2000年第22回大会、欺瞞的な隠蔽・堅持の詳細
『「削除・隠蔽」による「堅持」作戦』欺瞞的な隠蔽・堅持方式の4段階の詳細
2、朝鮮侵略戦争時期における日本共産党のソ中両党隷従関係
〔小目次〕
3、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認
4、宮本顕治の党史偽造歪曲による敵前逃亡犯罪と自己保身 (表4、5)
『マオ』を読んで、驚いたことの一つが、スターリン・ソ連共産党が、中国共産党成立当初から、実に細かい方針にいたるまで、指示をし、報告を求め、幹部人事問題を含めて干渉をしていた事実である。ユン・チアンの中国内外の取材範囲はきわめて広範である。夫は、歴史学者でロシア語に堪能なジョン・ハリデイである。彼が調べ出したソ連共産党・スターリン・フルシチョフらによる中国共産党への指令・人事干渉の詳細なデータ、中国共産党の隷従ぶりと毛沢東のしたたかな駆け引きデータ・秘密資料の発掘・公表内容にはまさに驚嘆に値する。
講談社『マオ−注釈・参考文献一覧』詳細な出典データ
その裏付けが夫婦で480人にのぼるインタビュー取材リストである。2人による取材分担の見事さ、それを統一させたユン・チアンの説得力は高い。表向きの公認中国革命史とその裏側にある歴史の真相との乖離の深さから、いったい社会主義革命史・国家史とは何だったのかと、その暗闇に暗澹とする。
1950年6月25日、朝鮮戦争とは、ソ中朝3カ国社会主義国家とその前衛党が、朝鮮半島の武力統一を周到に企み、38度線を突破した社会主義国家による侵略戦争だった。その真相は、ソ連・中国の秘密資料の発掘・公表によって、今や明々白々になっている。しかし、ソ中朝3党は、韓国とアメリカ軍が先に侵略したと宣伝し、全世界を欺いた。日本の左翼勢力は、1970〜80年代まで、社会主義3カ国のウソにすっかり騙されていた。ソ連崩壊後、レーニン型前衛党とは、途方もないレベルのウソを多数つく政党だという認識が、東方の島国を除く、ヨーロッパではほぼ常識となった。そのウソを信仰し、ソ中両党に隷従していた日本共産党の50年代における動向を、ソ中両党との関係で検証する。
1、六全協の計画・準備をどこで誰がしたのか
1955年7月27日、六全協が始まった。それより4年前、宮本顕治ら国際派全員は、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服し、五全協・武装闘争実践共産党主流派に自己批判書を提出し、復帰した。1951年10月初旬、宮本顕治は、スターリン命令に従い、その分派組織=全国統一会議を解散し、武装闘争実行の五全協共産党の一員となった。それだけでなく、五全協武装闘争共産党の中央レベルで活動した。それらの事実は、六全協に提出した宮本顕治『経過の報告』という非公表文書と、『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、1988年)において、彼自身が自白している。そのデータ詳細は、私(宮地)のHPの別ファイルに載せた。
六全協の計画・準備実態に関して、宮本顕治自身が『日本共産党の七十年・上』(242頁)で公表した。もっとも、その意図は、「徳田・野坂分派活動」を証明することにあった。不破哲三もそれを追認し、加筆した論文を公表した。『日本共産党にたいする干渉と内通の記録、ソ連共産党秘密文書から・下』(新日本出版社、1993年)の六全協準備に関する個所(361〜364頁)を抜粋する。
「モスクワでの六全協の準備 六全協の決議案の作成は、モスクワでおこなわれました。53年末、徳田死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎、河田賢治、宮本太郎らが日本から中国に渡り、北京機関の指導部にくわわりました。54年春、ソ連共産党の指導部からよばれて、野坂、西沢(隆)、紺野、河田、宮本(太)らがモスクワにむかいました。問題は、六全協での方針転換の準備でした。51年以来、モスクワにとどめられていた袴田も、部分的にこれにくわわりました。
ソ連側の中心は、スースロフとポノマリョフで、のちに60年代の対日干渉にしばしば名前がでてくるコヴィジェンコなども、顔をだしています。六全協決議案はソ連側主導でつくられました。この決議案に、『51年綱領は正しかった』という文句をいれることを頑強に主張したのも、スースロフなどソ連側でした」。中国共産党側は、『マオ』にも出てくる毛沢東忠誠派の王稼祥が参加した。
隷従下各国共産党への指令内容と強制力
1950年代当時、国際共産主義運動におけるソ中両党の権威と命令は絶対的だった。ソ連共産党は、東欧などのソ連衛星国を隷従下に置いただけではない。ソ中両党は資本主義国における共産党も完全に隷従させていた。その指令内容は、(1)公式の革命路線決定への指令・干渉、(2)非公式の秘密指令、(3)隷従下共産党指導部の人事指名・介入などである。(4)その指令遂行強制力のバックには、資本主義国共産党全体への総額千数百億円に及ぶ資金援助があった。イタリア共産党・フランス共産党や日本共産党にたいする資金援助額の公表データは信憑性が高い。イタリア共産党・フランス共産党は、その資金援助額と受け取りを公式に認めている。しかし、日本共産党だけは、黙殺するか、または、野坂・袴田ら反党分子の個人的受領とのウソをつき、ごまかしている。
〔第1命令〕、六全協決議文内容
六全協決議文はソ連共産党が主導・作成し、その内容を日本共産党に強要した。その後の日本共産党中央の実態・言動結果から推定される命令内容は次である。スターリンはモスクワ会議1年前の1953年3月5日に死んだ。しかし、(1)、スースロフは、スターリンとソ連共産党を擁護するため、スターリン執筆が証明されている51年綱領は「正しかった」という文言を決議文に入れるよう命令した。さらに、次の命令を下した。
(2)、武装闘争問題に関しては、「極左冒険主義」との抽象的なイデオロギー総括だけに留めよ。(3)、宮本顕治ら国際派全員が、1951年4月、「宮本らは分派」としたスターリン裁定に屈服し、主流派に自己批判・復帰したことによって、分裂していた日本共産党は五全協で統一回復をした。しかし、その真実を隠し、六全協で統一回復をしたとせよ。(4)、五全協=武装闘争実践共産党以前の50年分裂問題については、武装闘争実践とソ中両党の関与に触れないという限界内で、分裂経過のみの総括をすることを許す。(5)、もちろん、モスクワにおける六全協準備会議事実を公表することを禁止する。
〔第2命令〕、六全協における総括・公表内容の規制・禁止命令
六全協において、ソ中両党にとって不利となるテーマを討論・公表することを禁止する。それは、武装闘争の実態、武装闘争データ、および、それに関するソ中両党の関与などについての総括・公表の全面禁止命令だった。不破哲三は、『同書』(361〜364頁)で、次の事実を証言した。「また、ソ連共産党指導部は、統一を回復した日本共産党が、50年問題の全面的な総括をおこなうことに、つよく反対しました。
この問題では、フルシチョフや劉少奇が直接のりだして、ソ連と中国の党の意向を日本共産党の代表団に伝えました。これも、50年問題の総括が、スターリンやソ連共産党の干渉にたいする批判をふくむものとなること、また彼らが支持した徳田派の誤りがうきぼりにされ、今後の対日本共産党工作の障害になることなどを、恐れてのことだったにちがいありません。」
ただし、不破哲三は、故意に、武装闘争という言葉を使っていない。彼は、50年問題を、武装闘争実践という意味で使っている。また、六全協で初めて統一回復をしたとするソ中両党命令による宮本顕治の党史偽造・歪曲の詭弁をそのまま使っている。
〔第3命令〕、六全協指導部の人事指名
ソ中両党は、六全協指導部3人を指名し、その肩書きも強制した。(1)ソ連NKVDスパイ野坂参三を「第一書記」という肩書にせよ。(2)宮本顕治を常任幹部会責任者に復帰させよ。(3)党中央軍事委員長志田重男は、武装闘争指令の個人責任がある。しかし、党再建の一定期間において、地方の党会議めぐりや武装闘争軍事委員たちの人脈再配置などで、まだ利用価値がある。よって、彼の個人責任を隠蔽・擁護しつつ使え。
『日本共産党の七十年上』は次のように書いている。「ソ連共産党の意向で野坂が第一書記となった。党の指導中枢をあらためて第一書記とよんだのも、まだソ連の影響を脱していないことの名残であった」(244頁)。当時、フルシチョフの肩書は第一書記だった。ソ連共産党は、東欧のソ連衛星国のレーニン型前衛党トップにもほとんど第一書記と命名させた。野坂参三の肩書「第一書記」は、名残どころか、ソ連共産党の命令そのものによる。
不破哲三は、〔第1、第2命令〕を具体的に証言したが、〔第3命令〕の存在を隠蔽した。よって、その証拠はない。ただ、ソ連共産党が東欧諸国前衛党のほとんどにたいして、前衛党トップの人事指名・介入をしていた事実は、東欧革命後に発掘されたデータで完全に暴露・証明された。ソ中両党が当時の隷従下日本共産党の六全協人事にたいして指名・介入したことは、「第一書記」肩書から見ても確実だと、私(宮地)は推測している。ソ中両党が、「宮本らは分派」と裁定された宮本顕治を、なぜ指導部、しかも常任幹部会責任者に復帰させたのか。
3、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認
やや長くなるが、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認する。それを見ておかないと、3つの秘密命令がなぜ出て、宮本顕治らがそれに無条件で隷従したのかを理解することができない。
1950年1月、コミンフォルム批判は、野坂の占領下でも平和革命ができるという空想的な理論を放棄し、5カ月後の6月25日開始予定・決定ずみの朝鮮戦争のために、日本国内での武装闘争を展開せよとの秘密指令だった。スターリン・毛沢東・金日成らは、その時点に、朝鮮戦争開始をほぼ合意し、決断していた。その事実は、ソ連崩壊後に発掘された膨大なスターリン・データ、朝鮮戦争後の中国共産党側データで証明された。その事実経過は、『マオ』も立証している。ソ連NKVDスパイだった野坂参三への名指し批判は不思議ともいえる。しかし、その理論は、彼がソ連共産党の了解を得たという情報もある。彼は、中国から帰国する途中で、モスクワに行った事実を党中央にも秘密にしていた。朝鮮戦争数年前の国際情勢だったので、ソ連共産党もとりあえず、野坂理論を認めた。彼のソ連立ち寄りは、ソ連「野坂ファイル」で暴露され、彼の除名理由にも明記された。今日、コミンフォルム批判は、スターリン執筆であることが証明されている。
このコミンフォルム批判の真意と性格を把握しておかないと、以後の日本共産党史を理解することができない。また、それは、大須事件など3大騒擾事件がなぜ発生したのかという歴史的国際的背景の理解にもかかわるテーマである。朝鮮戦争との関係でメーデー・吹田・大須事件をとらえ、朝鮮戦争戦後(=休戦)処理との関わりで、騒擾事件公判にたいする宮本顕治の対応をとらえる必要がある。
スターリン・毛沢東・劉少奇らは、日本共産党にたいし、朝鮮侵略戦争に参戦し、日本における後方基地武力かく乱戦争行動に決起するよう命令し、路線転換を強要した。ところが、思いもかけぬことに、コミンフォルム批判の評価をめぐって、日本共産党が主流派(=所感派)と国際派に分裂してしまった。それは、彼らの大誤算だった。スターリン・毛沢東は、慌てて、四全協で50年分裂をした日本共産党にたいし、統一せよとの声明や勧告を出したが効き目がなかった。
分裂の比率データの推定は、主流派・国際派という両関係者多数の証言から見ると、主流派側党員90%・専従70%・中央委員28人(80%)で、国際派側党員10%・専従30%・中央委員7人(20%)である。スターリンは、朝鮮戦争が始まっても分裂争いを止めず、四全協で後方基地武力かく乱戦争行動の方針を決めただけで、何一つ武装闘争の実践をしない日本共産党にしびれを切らした。というのも、1951年朝鮮戦争開始1年後になって、38度線付近で戦線が膠着してしまったからである。それを打開する戦争作戦の1つとして、彼らは、何がなんでも、日本において、後方基地武力かく乱戦争行動を激発させる必要に迫られた。
宮本顕治は、スターリンのコミンフォルム批判を真っ先に無条件で支持し、直ちに武装闘争を開始せよと主張した。国際派という名前は、スターリンの国際的命令に即座に従えと力説する国際盲従派という意味である。スターリンにとって、彼は、日本共産党内におけるもっとも愛すべきスターリン忠誠者だった。しかし、徳田球一と比べると、宮本顕治の党内人気はまるで出なかった。圧倒的多数の党員が、剥き出しのスターリン信奉者で、大衆団体活動や労働運動体験がまったくなく、硬直したスターリン理論のみをひけらかす宮本顕治を嫌った。そして、徳田球一の人柄・演説スタイルを支持した。
スターリンは、1951年4月、自分への忠誠を誓うとしても、10%少数派に落ち込んで、党内人気が出そうもない宮本顕治にたいし、やむなく「宮本らは分派」との裁定を下した。スターリンは、自らが先制攻撃を始めた朝鮮戦争の戦線膠着中という想定外の非常事態に際し、隷従下日本共産党における宮本顕治の利用価値を見限った。国際派側立場を弁明するために、モスクワに派遣されていた袴田里見は、スターリンに一喝され、自己批判書を書き、瞬時に主流派に転向した。国際派中央委員7人全員がスターリン裁定に屈服し、主流派・党中央軍事委員長志田重男に「自己批判書」を提出し、主流派に復帰した。かくして、スターリン命令という外圧により、日本共産党は分裂をやめ、1951年10月16日、五全協で統一回復をした、というのが党史の真実である。
1951年2月23日四全協共産党は、劉少奇命令に基づく植民地型武装闘争方針を決めたが、分裂継続もあって、その実践は皆無に近い。宮本顕治も自己批判・復帰し、統一回復をした1951年10月16日五全協共産党は、1952年度の武装闘争を全国的に遂行した。ただし、感情的な統一は別で、スターリン裁定に屈服し、復帰した国際派党員たち10%は、統一回復細胞内で主流派党員たち90%から、何度も、スターリンが裁定した分派活動に関して査問をされ、自己批判を強いられた。
しかし、宮本顕治ら国際派全員のスターリンへの屈服によって、統一回復をした五全協・武装闘争共産党は、1952年1月から7月にかけての、白鳥警部射殺事件や火炎ビン武装闘争などによって、国民から見放され、1955年1月には、ほぼ壊滅状態に陥っていた。
ソ中朝3党の思惑・当初の作戦計画から見れば、1953年7月27日休戦協定で戦争開始前と同じ38度線に戻ったとしても、朝鮮侵略戦争の結果は完敗といえるものだった。ソ中両党は、朝鮮戦争という熱い戦争から冷戦に再転換した段階において、アメリカ帝国主義とのたたかいを最重点と位置づけた。アメリカの不沈空母日本の脅威が増大した。日本国内において、アメリカ帝国主義とたたかわせる勢力は、ソ中両党隷従の日本共産党しかなかった。そこで、ソ中両党は、自ら六全協を準備し、3つの国際的命令を出し、日本共産党の再建に直接乗り出した。これが、六全協の真相である。
日本共産党の組織統一回復は、宮本顕治ら国際派全員が、主流派に自己批判書を提出し、復帰した五全協ですんでいる。六全協は、ソ中両党の朝鮮侵略戦争「参戦」命令に隷従した武装闘争路線でほぼ壊滅した日本共産党を、壊滅させた側のソ中両党が直接命令を出した再建会議であって、組織統一回復をした会議ではない。
4、宮本顕治の党史偽造歪曲による敵前逃亡犯罪と自己保身
1955年7月、宮本顕治は、ソ中両党による六全協・人事命令のおかげで常任幹部会責任者に復帰できた。彼は、ソ中両党命令どおりに、(1)「党分裂は、五全協までの1年4カ月間ではない。六全協まで5年1カ月間続いた」と党史の偽造歪曲をした。共産党員は、236000人から約36000人に崩壊していた。
1967年になって、彼は、その虚構に基づき、(2)「武装闘争は分裂した一部がやった。よって、現在の共産党(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と真っ赤なウソをつき始めた。これは、二重の党史偽造歪曲犯罪だった。
宮本顕治の言動は、それによって、「日本における朝鮮戦争」=後方兵站補給基地武力撹乱戦争に「参戦」した共産党員兵士たちや在日朝鮮人たち数十万人を切り捨て、見殺しにする敵前逃亡犯罪だった。1967年は、3大騒擾事件がまだ公判最中だった。それは、彼が「武装闘争の汚れた手」をしていないというウソによる自己保身でもあった。彼の敵前逃亡犯罪とウソを証明するデータを2つ挙げる。
(表4) 野坂・宮本六全協が調査を拒絶した死者の数
白鳥事件 |
メーデー事件 |
吹田事件 |
大須事件 |
判明分計 |
|
1、逮捕 |
55 |
1211 |
250 |
890 |
2406 |
2、起訴 |
3 |
253 |
111 |
150 |
517 |
3、有罪 |
3 |
6 |
15 |
116 |
140 |
4、下獄 |
1 |
0 |
5 |
6 |
|
5、死亡+自殺 |
0+3 |
2+0 |
2+1 |
4+4 |
|
6、重軽傷 |
0 |
1500 |
11〜多数 |
35〜多数 |
1546〜 |
7、除名 |
3 |
3 |
|||
8、見殺しによる離党 |
36 |
36 |
|||
9、逃亡・中国共産党庇護 |
10 |
0 |
0 |
0 |
10 |
(表5) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承
党役職 |
武装闘争指導部責任・個人責任 |
指導部責任なし・復帰党員責任 |
比率 |
中央委員 |
野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日(正)、岡田、松本(一三)、竹中、河田 |
宮本、志賀、春日(庄)、袴田、蔵原。ただし、宮本は五全協党中央レベル活動で指導部責任あり |
10対5 |
中央委員候補 |
米原、水野、伊井、鈴木、吉田 |
5対0 |
|
常任幹部会 |
野坂、志田、紺野、西沢、袴田 |
宮本「常任幹部会責任者」、志賀 |
5対2 |
書記局 |
野坂「第一書記」、志田、紺野。竹中追加 |
宮本。春日(庄)追加 |
4対2 |
統制委員会 |
春日(正)「統制委員会議長」、松本(惣) |
蔵原、岩本 |
2対2 |
排除中央役員 |
伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎 |
神山、中西、亀山、西川 |
(8対4) |
総体 |
伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承 |
4人を排除した上での、旧反徳田5派との“手打ち” |
(表4)は、各事件の被告・弁護団資料と『回想−戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)のデータから作った。(表5)は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)の第4章1、六全協の成果と限界(183頁)の記述を、私(宮地)が(表)として作成した。
しかし、その後、2つの資料が公表された。(1)亀山幸三他『日本共産党史・私の証言』(日本出版センター、1970年、絶版)における宮本顕治自筆の「六全協宛提出−経過の概要」(47〜59頁)と、(2)『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、1988年)における「五全協時期の活動記録」(111〜123頁)である。それら2つの自筆・自己記録データは、彼が、五全協の武装闘争共産党において、中央レベルの活動をしていたことを自己証明した。それらによって、宮本顕治は、武装闘争共産党における明確な指導部責任があったことが、自らの記録によって判明した。その詳細は別ファイルにある。
『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘の証拠
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』五全協前に自己批判・復帰の証拠
3、1964年、毛沢東の核開発・核実験、部分核停条約をめぐる3党関係
『マオ・下』は、毛沢東が原爆ほしさに、スターリン・フルシチョフらとどれだけの策謀・駆け引きを繰り広げたのかについて、詳細な論証をしている。核開発・核実験問題に関するソ中両党関係は、日本共産党との関係にも直接の影響をもたらした。そのテーマを検証する。
〔小目次〕
1、1962年、ソ連の核実験再開と「いかなる国の核実験にも反対」賛否の論争
2、1963年、「ソ連の核実験はきれいな実験」との共産党主張で原水禁運動分裂
3、1964年、部分核停条約賛否をめぐるソ中両党と隷従下日本共産党との関係
1、1962年、ソ連の核実験再開と「いかなる国の核実験にも反対」賛否の論争
1962年8月5日朝、ソ連はノバゼムリヤで40メガトン級の核実験を再開した。広島原爆忌前日のソ連の行動は日本の被爆者感情を逆なでし、ソ連に対しては緩かった日本の左翼陣営内部でもソ連への非難が殺到した。
8月6日午前、第8回原水禁世界大会は、この日が最終日だった。ソ連への抗議声明を握りつぶされた事に怒った社会党が全役員の大会引き上げを示唆、共産党、ソ連や中共からの外国代表団が、ソ連核実験抗議声明について反対したためであった。当時、原水協は共産党系と社会党系で役員の勢力争いをしており、朝日新聞にすら「運営は秘密主義」「まるで組合大会」と揶揄されるほど、原水禁運動は政治の狭い枠の醜い争いの場と化していた。
午後3時30分には台東体育館での原水禁大会で社会党、総評がソ連への抗議の緊急動議を提出、午後9時5分、安井郁議長が全会一致できない動議は採択できないとして、社会党、総評は大会を退場、午後10時に閉会した。「実験反対」とアメリカだけでなくソ連へも抗議すべきだとする社会党の声に、ソ連の核実験には目をつぶるべきだとする共産党は「席に戻れ」と罵声を浴びせ、会場の1万人の一部は乱闘になった。
原水協の広島大会は2300人が参加したが、ソ連への抗議声明をめぐって、ソ連、中共、北朝鮮の代表らがソ連への抗議はまかりならんと退場する一幕もあり、午後5時30分に終了している。この社共の原水禁運動をめぐる政治的な主導権争いは、「ソ連の核はきれいな核」という言葉に代表されるように、日本の平和運動が政治に従属したものであるのをまざまざと見せつけたものであった。アメリカの核実験には猛抗議をしても、ソ連のそれには目をつぶる共産党の欺瞞が浮き彫りになった。
2、1963年、「ソ連の核実験はきれいな実験」との共産党主張で原水禁運動分裂
1963年3月1日、3・1ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれたことから、運動の分裂は必至とみられた。しかし、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会(1963年)を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。
こうして社、共、総評の「三者会談」が数回にわたって行なわれ、その結果「2・21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「三者申合せ」を確認した。そして6月20日「担当常任理事懇談会」を経て、6月21日の「第60回常任理事会」に三者申合せを骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。
1963年6月21日、ところが日本共産党は、『アカハタ』で「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない。」(内野統一戦線部長談)と発表した。7月5日の『アカハタ』には、三者申合せを真っ向から否定する論文が掲載された。
こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる……」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、共産党はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会(1963年)を開くことは次第に困難になってきた。
安井理事長の「(1)いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。(2)各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。(3)各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」とういう、いわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる・・・」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。
会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる……」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。
1963年8月5日、第9回原水禁世界大会が開かれた。しかし、総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、総評、社会党系代議員の欠席のまま、事実上、「共産党系」を中心とした集会となり、「原水禁運動の基本原則」「2・21声明」を内容とした「森滝基調報告」は無視された。こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会(1963年)の分裂により、全くその統一機能を失うにいたった。
1963年8月5日、部分核停条約を、ソ連・アメリカ・イギリスが調印した。この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。
一大国民運動に発展した原水禁運動を分裂させた原因は、共産党と社会党という政党の引き回し・不当介入である。そこには、(1)社会党・総評側による運動内の主導権獲得の狙いという側面もあった。しかし、(2)分裂の主要原因は、ソ中両党に隷従し、ソ連核実験を「防衛的なもので、きれいな核実験」とする主張を押し付けようとした日本共産党側にあったことは、明白である。というのも、社会党・総評の狙いがあったとしても、「いかなる国の核実験にも反対」スローガンは、まったく正当な国民的要求であり、共産党も含め、6月21日の「第60回常任理事会」に三者申合せを骨子とした方針に全会一致でこれを決定していたからである。
共産党の突然の逆転換の誤りは、ソ中両党による「ソ連の核実験を支持せよ」との秘密命令にたいし、ソ中両党隷従者・宮本顕治が屈服したことによる。共産党が原水禁運動にたいして行った犯罪的・反国民的分裂策動の中心幹部は、宮本顕治・内野統一戦線部長とともに、ソ連核実験支持の理論活動をした上田耕一郎である。上田耕一郎は、ソ連崩壊後も、これを誤りと認めたことがない。彼は、原水禁運動を分裂させた理論活動に関する自己批判を一度もしないままで、2006年1月第24回党大会で引退した。
「前衛1962年10月号」論文『ソ連同盟核実験を断固支持する上田耕一郎同志』
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』彼の党内犯罪データ
google検索『原水禁運動 分裂 共産党 社会党』分裂の経過と教訓
3、1964年、部分核停条約賛否をめぐるソ中両党と隷従下日本共産党との関係
1964年5月15日、志賀義雄は、衆議院で部分核停条約に賛成投票をした。
当時、私(宮地)は、共産党専従として、部分核停条約反対は正しい路線と信じて疑わなかった。よって、部分核停条約賛成の路線に立つ「日本のこえ」運動は反党活動だと思い込んでいた。ところが、1991年ソ連崩壊後の発掘・公表秘密資料と中国共産党側の発掘データは、部分核停条約の提起・賛否問題について、まったく異なった視点を提供した。それは、中ソ対立の真因、もしくは、主要原因は、中国の核開発をめぐって、それを推進しようとする中国共産党と、核開発を阻止しようとしたソ連共産党、アメリカ・イギリスの思惑との激突であるとの見解である。
ソ連崩壊後の新見解は、フルシチョフによるスターリン批判の評価をめぐって、ソ連共産党と毛沢東・劉少奇との意見相違が中ソ対立の真因だとすることを否定する。意見は異なるが、そこには同意点も多かったとする。ソ連共産党は、当初、中国共産党による核開発の技術支援をした。しかし、1959年頃、フルシチョフは、中国への核技術の供与、技術者派遣の中止を決定した。1960年頃になると、ソ連の核技術者全員を引き揚げ始めた。百を超える他プロジェクトへの派遣要員も引き揚げた。『マオ』もその経過を書いている。
ソ連の態度に怒って、毛沢東は中国独自で核開発に取り組むことを決意した。彼は、(1)5年以内に自力更正で原爆を製造すると同時に、核爆発実験を行う、(2)8年以内に原爆を一定量備蓄する、という新情勢下の任務を提起した。
それにたいし、ソ連共産党は中国の核開発をやめさせようとしたが失敗した。その時点、核開発を強力に推進していたのは、中国とフランスだった。核保有国はアメリカ・イギリス・ソ連だった。3カ国は、核独占と核拡散防止という勝手な自己都合のために、部分核停条約によって、中国・フランスの核実験を阻止しようとした。それが、部分核停条約の真の狙いだった。
この新情報分析は、インターネットでもいくつか報告されている。下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)は、「第4章、ソ連とアジア、偽りの同盟、1954年〜64年」において、核問題をめぐる中ソ同盟危機、中ソ論争―武装対峙状況を詳細に分析した。彼は、発掘されたソ中新資料を駆使し、中国の核開発をめぐるフルシチョフと毛沢東の対立を浮き彫りにした(107〜115頁)。
その一節のみを引用する。「中ソ対立は深刻化し、63年にはこうしてスースロフとケ小平がモスクワで激突した。この背景には、核技術開発問題があった。64年にはスースロフ書記も、中国の要求に応じて核技術を提供すれば、米国が西ドイツや日本に核を提供することになる、と拒否の理由を説明している。しかし、中国は26の省と900の企業・研究所を動員し、予定の8年ではなく、わずか5年で、1964年10月16日の核実験に成功した。ちなみにこの前日、モスクワではフルシチョフが第一書記から解任された。中国側は核実験成功がフルシチョフ解任の祝砲だと喜んだ」(115頁)。
そこから、1964年における日本共産党史の大逆説・疑惑が生れる。「日本のこえ」問題とは、部分核停条約賛否問題そのものだった。そして、宮本顕治が部分核停条約賛成の幹部多数を切り捨て、党全体として部分核停条約反対を多数決で決定させ、後に63人を除名したことは正しかったのかというテーマである。
その賛否をめぐって、ソ連共産党と中国共産党という対立する2つの国際的立場と、唯一の被爆国民の立場、宮本顕治と志賀・鈴木・神山・中野という日本共産党中央委員会内の対立する意見という4つの立場・意見の相違が発生した。もちろん、全面的核実験停止条約と全面核軍縮・核廃絶条約ができれば、それにこしたことはない。部分核停条約とは、「大気圏内外および水中における核実験禁止に関するモスクワ条約」であり、地下核実験を除外した不充分なレベルにある。それら4つの立場を検証する。
〔ソ連共産党の立場〕、部分核停条約をアメリカ・イギリスとともに提案・調印
ソ連共産党の狙いは、中ソ対立が激化していく中で、中国共産党の核開発を阻止することにあった。3カ国は、大気圏内・水中における核実験を何度も行い、あとは、地下核実験さえできれば、核開発を一段と進めうるレベルに到達していた。部分核停条約を各国で批准させることができれば、中国とフランスの核開発を中断させうるという利己的な核独占の思惑を剥き出しにした条約だった。ソ連共産党は、日本共産党内に潜在・残存するソ連共産党隷従派に部分核停条約賛成工作を猛烈に仕掛けた。日本共産党はもともとソ中両党隷従を基本体質としていたので、ソ連共産党との関係決裂後もソ連共産党路線支持派は残っていた。
〔中国共産党の立場〕、部分核停条約に絶対反対、成立阻止作戦を国際的に展開
1959年、60年に、ソ連共産党が中国共産党への核開発支援をやめ、核開発技術者引揚げを実行するに及んで、毛沢東は独自での核開発を決定・指令した。1963年8月5日、3カ国が部分的核実験停止条約をモスクワで調印した。中国革命成立後、毛沢東・劉少奇は、スターリンとの密約を決めていた。それは、国際共産主義運動を地理的に2分割し、ソ連共産党は東欧・資本主義ヨーロッパ共産党を担当し、中国共産党が日本共産党を含むアジア共産党を担当するという密約である。この世界2分割支配合意の存在は、ソ連崩壊後に出版されたいくつかの文献、および、『マオ』でも証明されている。
そこで、中国共産党は、とくに日本共産党・宮本顕治に強烈な部分核停条約反対の工作を行った。また、中国共産党全面支持のインドネシア共産党にも同じ工作を行った。この党員は350万人以上を数え、アジアだけでなく、資本主義国でも最大の党勢力を誇っていた。インドネシア共産党は、毛沢東「鉄砲から権力が生れる」との1965年9・30武装蜂起事件で、アイディット議長を含め共産党員50万人が虐殺され、完全に壊滅してしまう2年前だった。
〔被爆国日本国民の立場と評価〕、大気圏内外・水中の核実験禁止は一歩前進と受け止め賛成
地下を含む全面的核実験停止、全面的核廃絶は、当然の基本要求である。しかし、当時の国際的力関係から見れば、部分核停条約は一歩前進と評価できる。最終目標が通らないから、部分的要求・条約に反対せよという共産党はおかしい。また、3カ国の核独占という思惑があるとしても、部分核停条約には賛成してもいいのではないのか。
共産党が「ソ連の核実験はきれいな実験である。アメリカ帝国主義にたいする防衛的な行為であり、支持する」という主張はまったくの誤りであり、日本国民の心情に背く犯罪的言動である。また、後に、1964年10月16日の中国核実験成功にたいしても、同じ支持言動をしたが、共産党は、一体被爆国民の味方といえるのか。
〔日本共産党、宮本顕治の立場〕、中国共産党隷従継続で部分核停条約に反対決議
宮本顕治は、ソ中両党いずれかへの隷従や国際的圧力がなければ、被爆国日本国民の立場から部分核停条約に賛成できたはずだった。しかし、当時、日本共産党は、〔第1期〕ソ中両党への隷従→〔第2期〕ソ連共産党との関係決裂、中国共産党への隷従継続→〔第3期〕ソ中両党からの犯罪的干渉とたたかった結果、ソ中両党への隷従をやめ、自主独立をした。その3段階において、まだ〔第2期〕にあった。
1963年10月15日、7中総は「部分核停条約を支持しない」と多数決で決定した。それに反対は神山・中野で、保留が志賀・鈴木だった(『七十年・年表』177頁)。
1964年5月15日、志賀義雄は、衆議院で部分核停条約に賛成投票をした。
幹部会員鈴木市蔵は、1964年5月20日幹部会で、および、翌日の5月21日8中総において、「核停条約と4・17スト問題にたいする私の意見」を、7中総に続いて発言した。彼は、参議院で部分核停条約に賛成投票をした。
1964年5月18日、中国での3カ月間療養から急遽帰国した宮本顕治は、志賀・鈴木の除名を決定した。反対・保留の4人がソ連共産党・ソ連大使館と連絡を取っていたことは事実であろう。資金援助を受けたことも事実と思われる。
しかし、一方、宮本顕治は中国共産党隷従を続け、中国共産党と連絡をとっていた。彼が、中国長期滞在期間中、中国共産党から国賓待遇を受けつつ、中国共産党の接待・連絡・部分核停条約反対の環境に浸っていたことも事実である。それは、4人とソ連共産党との連絡を上回るレベルにあった。中国共産党中央委員会による宮本招待は、「部分核停条約を支持しない」との7中総決定への3カ月間に及ぶ接待・お礼という政治的な資金供応・贈賄の側面を含む。というのも、温暖な療養地という選択肢なら日本にもある。なぜ、日本の鹿児島や伊豆半島ではいけないのかという疑惑も存在するからである。
さらに、宮本一行は、宮本家族、医師・看護婦、党中央幹部・秘書団数人という8人の大所帯である。私(宮地)は朝鮮戦争参戦問題でもその戦費の支出入総額を推計した。そこから、宮本らの滞在費も推計してみる。国賓待遇なので一行一人当りに掛かる接待費用は、時価に換算すれば最低でも3万円を下らない。8人×3万円×93日間≒2232万円になる。この全額を中国共産党が部分核停条約反対決定のお礼贈賄費として負担した。
日本共産党は、従来、被爆国の政党として、当然ながら「いかなる国の核実験にも反対」との路線をとっていた。しかし、ソ連の核実験が起きるやいなや、反国民的路線に大転換した。その理屈は、アメリカ帝国主義の核実験・核開発と社会主義国家の核実験を峻別し、アメリカの核開発は非難・糾弾するが、社会主義の核実験は防衛的で、きれいな核実験だとする詭弁だった。そして、上田耕一郎は、その先頭に立って、大キャンペーンを展開し始めた。
その反国民的な路線に大転換して以降、(1)ソ連の核実験支持の言動、(2)部分核停条約反対の言動、(3)中国の核実験を支持した言動、(4)原水爆禁止世界大会において、「いかなる国の核実験にも反対」スローガンを否定し、「ソ連・中国の核実験はきれいな実験だから支持せよ」と主張した。原水禁運動分裂の基本原因となった共産党の反国民的な路線への転換、(5)1984年の平和委員会・原水協にたいする大粛清事件など、核問題に関し、日本共産党は、被爆国民の反核感情を逆なでする反国民的誤りを次から次へと犯した。もちろん、そこには社会党・総評が共産党と対抗して、大衆運動・大衆団体における主導権を得ようという党利党略の側面も存在する。しかし、運動分裂の主要原因は、ソ中両党への隷従→中国共産党隷従継続を続けた日本共産党・宮本顕治側にあることは、歴史的真実といえよう。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕平和委員会・原水協への大粛清事件
4、おわりに−レーニン・スターリン・毛沢東と宮本顕治・不破哲三
1991年ソ連崩壊後、および、21世紀に入って、社会主義国家とレーニン型前衛党が行った(1)大量殺人犯罪・粛清事実と、(2)社会主義革命史・共産党史のウソが次々と暴露され、具体的データによって証明されてきた。
第一、レーニンは、(1)労働者・農民・兵士・知識人などロシア革命勢力数十万人にたいし、ウソの「反革命」「武装反革命」というレッテルを貼り付けて殺害した大量殺人犯罪者だった事実が証明された。それだけでなく、(2)「プロレタリア独裁国家が成立している」「社会主義を支持する労農同盟が確立している」とするレーニンの文言・演説は、事実に反するウソだったこともほぼ明らかになった。さらには、ソ連崩壊後に出版された研究文献のほとんどは、レーニンが1917年10月にしたことが、「革命ではなく、レーニンによる一党独裁狙いのクーデターだった」という経過を論証した。
『見直し「レーニンがしたこと」、レーニン神話と真実1〜5』ファイル多数
第二、スターリンは、(1)約4000万人粛清犯罪者だった事実が、あらゆる文献によって実証されてきた。(2)スターリンは、虚構に基づくレーニン神話を捏造し、全世界に広めた。ソ連崩壊以前、世界中の左翼がそのウソ=レーニン神話を信じ込んだ。21世紀資本主義国において、その神話=レーニン信仰が残存している度合は、なぜか東方の島国のみが異様なほどに高い。
『スターリンの粛清』ファイル多数
『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』文末7、異様な残存度の経過・原因
第三、毛沢東は、(1)中国革命勢力である労働者・農民・兵士・知識人など約7000万人を殺害・粛清し、餓死させた。その詳細なデータを『マオ』が暴いた。(2)毛沢東と中国共産党が、自らの犯罪を隠蔽し、中国革命史・国家史の偽造歪曲をしてきた事実も、次第に浮き彫りにされてきた。
講談社『マオ−注釈・参考文献一覧』詳細な出典データ
google検索『マオ 毛沢東』『マオ』の批評
加藤哲郎のリンク『マオ』 日本 毀誉褒貶の各種書評、矢吹晋、大沢武彦の辛口書評
やじゅんの世界ブログ『毛沢東と現代中国(ユン・チアン『マオ』を読んで)』
第四、宮本顕治・不破哲三は、(1)ソ中両党命令に隷従し、「ソ連・中国の核実験は防衛的で、きれいな実験」との反国民的な詭弁を使い、一大国民運動に発展してきた原水禁運動を、分裂させた。党内では、党中央批判・異論者数百人にたいし、規律違反とでっち上げ、査問し、除名・除籍をする党内犯罪者となった。それらは、レーニン・スターリン・毛沢東による大量の肉体的殺人に匹敵するレベルの政治的殺人と規定できる党内犯罪である。
それだけでなく、宮本顕治は、(2)戦後日本共産党史に関して、五全協・六全協関係史の偽造歪曲、「現在の共産党(宮本)は、武装闘争になんの関係も責任もない」との真っ赤なウソによって、日本国民を欺いてきた。
彼が、国際派と言われるゆえんは、スターリンのコミンフォルム批判に真っ先に賛成し、無条件で武装闘争路線に転換せよと主張した「国際盲従派」という意味である。彼の異様で、反国民的レベルのスターリン崇拝度を示す証拠の一つを別ファイルに載せた。
『前衛党式「粛清・査問」。逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数
『「異国の丘」とソ連・日本共産党(2)』シベリア抑留記への宮本顕治の反国民的言動
これらレーニン・スターリン・毛沢東という一党独裁国家最高権力者と、宮本顕治・不破哲三という非政権のレーニン型前衛党最高権力者たちが行った(1)さまざまな前衛党犯罪と、(2)ウソ・歴史の偽造歪曲データを、どう考えたらいいのか。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
講談社『マオ−注釈・参考文献一覧』詳細な出典データ
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党の証拠
『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘の証拠
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争共産党に復帰した証拠
宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動の証拠