共産主義が見た夢

 

第6章、振り返って−マルクス主義の誤謬、他

 

リチャード・パイプス

〔目次〕

   1、宮地コメント

      1、イタリア共産党→マルクス・レーニン主義との断絶的刷新

      2、フランス共産党→ソ連の失敗はマルクス主義の失敗→全面放棄宣言

      3、日本共産党→マルクス・レーニン主義の訳語変更・隠蔽による全面堅持

   2、共産主義が見た夢−まえがき

   3、著書第1章〜5章の〔目次〕のみ

   4、第6章、振り返って−マルクス主義の誤謬、他 (全文)

テキスト ボックス:        1、共産主義に内在する敗因

          マルクス主義の誤謬

          官僚主義という弊害

          経済政策の失敗とその帰結

          国際的共産主義のジレンマ

          崩壊の要因

      2、イデオロギーの役割

      3、共産主義の代価

   5、著者紹介 リチャード・パイプス

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章、十月のクーデター』

                 『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』

                   『ロシア革命史』より−危機に瀕したコミュニズム

     『20世紀社会主義を問う』ファイル多数

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』

     ブレジンスキー『大いなる失敗』犠牲者の数

 

 1、宮地コメント

 

 これは、リチャード・パイプス『共産主義が見た夢』(武田ランダムハウスジャパン、2007年、原著2001年)の内、第6章全文である。同じくHPに転載してある彼の『ロシア革命史』は、ロシア革命に限定した研究である。それにたいし、第6章は、マルクス以来の共産主義に関する理論・運動・体制を振り返って、総括した内容になっている。なかでも、『夢』の根源になったマルクス主義批判内容は、説得力が高い。このHPに転載することについては、出版社・武田ランダムハウスジャパンの了解を得ている。

 

 冒頭に、2つの文章を転載する。

 著書表紙の言葉

 階級差のない平等な社会という永遠の理想を掲げて誕生した共産主義。

 マルクスとエンゲルスが打ち立てた綱領は、レーニンによって体制へと発展し、二十世紀の歴史を大きく揺るがしていった。

 莫大な数の犠牲者を生み出しながら、ソヴィエト連邦の解体という終幕へと向かった。

 失敗の原因は何だったのか?

 今なお世界情勢に余波を残す人類の一大実験を振り返り、その錯誤の本質を検証する。

 

 裏表紙の言葉 マルカム・マガリッジ

 ソヴィエト体制にかんする最大の慰めは、それが失敗に終わったということである。もし成功していたならば……人類がテロルに侵され、奴隷と化すには際限がないということを、わたしは知ることになったであろう。

 

 資本主義諸国において、革命→共産主義夢見たコミンテルン型共産党は、どうなっているのか。1991年ソ連崩壊後、マルクス・レーニン主義にたいする対応は、()全面放棄共産党と()隠蔽・全面堅持共産党とに分かれた。もっとも、隠蔽・全面堅持共産党は、資本主義世界において、日本共産党の一党しか残存していない。3党だけを検証する。

 

 〔小目次〕

   1、イタリア共産党→マルクス・レーニン主義との断絶的刷新

   2、フランス共産党→ソ連の失敗はマルクス主義の失敗だったとし、全面放棄宣言

   3、日本共産党→マルクス・レーニン主義の訳語変更・隠蔽による全面堅持

 

 1、イタリア共産党→マルクス・レーニン主義との断絶的刷新

 

 1976年、党大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。

 1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
 1989年、第18回大会、民主主義的中央集権制放棄し、分派禁止規定削除した。

 1991年、第21回大会、左翼民主党に転換した。その背景・動機には、国政選挙における連続惨敗傾向と、党員数激減が顕著になったことがあった。転換時点で、マルクス・レーニン主義との断絶的刷新を決定した。同年12月、少数派が共産主義再建党を結成した。

 

    『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

 

 1996年、総選挙で中道左派連合政権が誕生した。左翼民主党21%、共産主義再建党8.6%の得票率で、「オリーブの木」全体では、319議席を獲得した。

 

 2007年10月、イタリア共産党は、左翼民主党→左翼民主主義者→民主党になった。左翼〜という政党名称には、歴史的にマルクス・レーニン主義が混在してきた。その意味で、それを含む左翼思想・主義とも断絶的刷新をした。ヨーロッパ最大だったイタリア共産党は、()マルクスとレーニンの理論ともが根本的な誤謬であり、かつ、()レーニンが実践した10月クーデター、ロシア革命勢力の労働者・農民・兵士数十万人大量殺人犯罪、党独裁・党治国家などがウソ詭弁と誤りに満ちているとし、明白な断絶をした。しかし、分裂した共産主義再建党はマルクス・レーニン主義堅持政党のままである。

 

 2008年、総選挙において、共産主義再建党を含むマルクス・レーニン主義堅持の「虹の左翼」は、国会議席が141議席→0議席へと全滅した。

 

(表1) 2008年、民主党と「虹の左翼」総選挙結果

上院 定数322

下院 定数630

得票数

得票率

議席数

議席増減

得票数

得票率

議席数

議席増減

民主党

11042325

33.70

118

13

12092998

33.17

217

3

虹の左翼

1053154

3.21

0

38

1124418

3.08

0

72

 

    Wikipedia『2008年イタリア総選挙と結果』国内選挙区と国外選挙区と別々

    『イタリアで共産主義諸政党が国会議席全滅』

      共産党・共産主義諸政党のすべてがいなくなった! 結果と原因

 

 2、フランス共産党→ソ連の失敗はマルクス主義の失敗だったとし、全面放棄宣言

 

 1976年、第22回大会で「プロレタリア独裁」理論放棄した。

 1985年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなる。

 1994年、第28回大会で、民主主義的中央集権制・分派禁止規定放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」自己批判した。

 

 ソ連崩壊の数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。しかし、その後、選挙、党員数、機関紙、財政危機・破綻の政党崩壊テンポが急速にアップしている。

 

    『フランス共産党の党員激減とユマニテ危機』共産党崩壊テンポデータ

 

 それは、レーニン型前衛党5原則の内、3つを放棄しても、共産党名=うぬぼれた前衛党体質を維持し続ける限り、フランス共産党のじり貧的瓦解を食い止めることが、もはや出来ないことを証明している。

 

    『フランス共産党の党改革状況と党勢力』

    アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

    福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『党史上初めて対案提出』2003年

 

 3、日本共産党→マルクス・レーニン主義の訳語変更・隠蔽による全面堅持

 

(表2) 日本共産党の欺瞞的な4項目隠蔽・堅持方式

4つの原理

欺瞞的な隠蔽・堅持方式

他国共産党との比較

 

プロレタリア独裁理論

綱領において、訳語変更の連続による隠蔽・堅持。()プロレタリア独裁→()プロレタリアのディクタトゥーラ→()プロレタリアートの執権→()労働者階級の権力→()放棄宣言をしないままで、綱領から権力用語を抹殺し、隠蔽・堅持している

ヨーロッパでは、1974年、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が、これは犯罪的な大量殺人をもたらし、誤った理論と実践だった認定した。そして、明白に放棄宣言をした。資本主義世界で、放棄宣言をしていないのは、日本共産党だけである

 

民主主義的中央集権制

規約において、訳語変更による隠蔽・堅持。()民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)()「民主集中制」という略語に変更()「民主と集中の統一」と解釈変更で堅持→() 「民主と集中の統一」は、あらゆる政党が採用している普遍的な組織原則と強弁している

ヨーロッパの共産党は、「Democratic Centralism」の「民主主義的・Democratic」は形式・形容詞にすぎず、「官僚主義的・絶対的な中央集権制・Centralism」に陥ると断定した。それは、「党の統一を守るのには役立ったが、一方で党内民主主義を抑圧した」組織原則だと認定した。この反民主主義的組織原則を堅持しているのは、残存する犯罪的な一党独裁国前衛党4党とポルトガル共産党・日本共産党だけである

 

前衛党概念

規約において、()前衛党()規約前文から綱領部分削除に伴い、その中の「前衛党」用語も事務的に削除()不破哲三の前文削除説明で、「前衛党」概念を支持・擁護

イタリア共産党は、「前衛党」思想を、「政党思想の中で、もっともうぬぼれた、傲慢で、排他的な政党思想だった」と総括し、全面否定した。日本のマスコミは、左()を「前衛党」概念の放棄と錯覚し、誤った解説をした

 

マルクス・レーニン主義

()マルクス・レーニン主義→()個人名は駄目として、「科学的社会主義」に名称変更し、堅持。不破哲三の『レーニンと資本論』全7巻を見れば、マルクス・レーニン主義そのものの堅持ぶりが分かる。ただ、彼は、さすがにレーニンの暴力革命理論だけを否定した

「マルクス・レーニン主義」の命名者はスターリンである。ポルトガル共産党を除くヨーロッパの共産党すべてが、マルクス・レーニン主義と断絶した。フランス共産党も、ソ連崩壊数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。

 

 日本共産党は、4項目に関し、訳語・名称変更しただけで、ヨーロッパの共産党がしたような明白な放棄宣言を一つもしていない。その実態も、隠蔽・堅持方式を採っている。世界的にも、こういう欺瞞的スタイルを採る共産党は皆無であり、いかにも不可思議な政党ではある。その点で、加藤哲郎一橋大学教授は、日本共産党を「現段階のコミンテルン研究の貴重な、生きた博物館的素材」と指摘した(『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、P.)

 

(表3) 歯止めのきかない党勢力減退=読者大量離脱

80

82

85

87

90

94

97

00・9

04・1

061

101

大会

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

HN

355

39

17.7

17.5

286

250

230

199

173

164

145.4

内H

54

50

40

35

(30)

(28)

(26)

内N

232

200

190

164

(143)

(136)

(119)

増減

16

21.3

0.2

31.5

36

20

31

-26

-9

-18.6

 

 宮本・不破・志位らは、赤旗部数増減の長期データを発表したことが一度もなく、隠蔽している。せいぜい、前回国政選挙比か前回党大会比しか言わない。それらは、でなく、すべて減っている。しかも、10年1月第25回大会145.4万部より、わずか9カ月間6.6万部もの大量連続減紙になっている。

 

 25回大会における赤旗党生活欄公表の減紙経過は次になっている。2010年2月わずかに後退、3月H1069減紙・N1739減紙、4月H1300減紙・N8000減紙、5月公表なし、6月HN5799増紙、7月H6000以上減紙・N40000近い減紙、8月HN合計で13000近い減紙、9月H1000以上減紙・N5000以上減紙だった。党大会決定は、6.6万部もの減紙力・赤旗読者連続蹴散らし力を証明した。

 

(表4) 衆院選・参院選・都議選・道府県議選13連続惨敗

種類

議席

得票数・万

得票率・%

備考

増減

増減

増減

得票数の真相

00

衆院選

2620

6

663

47

11.23

1.32

01

都議選

2615

11

74.8

5.5

15.63

5.7

01

参院選

155

10

432.9

386.6

7.91

6.69

03

県議選

152107

45

320.7

105.6

8.63

1.87

03

衆院選

209

11

459

204

7.76

3.47

04

参院選

54

1

436.3

3.4

7.80

0.11

実質数万票減

05

都議選

1513

2

68.0

6.7

15.57

0.06

05

衆院選

99

±0

492

33

7.25

0.51

実質30.1万票減

07

県議選

107100

7

285.7

35.0

7.49

1.14

07

参院選

53

2

440.8

4.5

7.48

0.32

実質17.7万票減

09

都議選

138

5

70.7

2.7

12.56

3.01

実質13.2万票減

09

衆院選

99

±0

494.4

2.4

7.03

0.22

実質15.5万票減

10

参院選

43

1

356.3

84.4

6.10

1.38

11

県議選

(減る)

(減る)

(減る)

13以前

衆院選

9(7)

(2)

(定数削減→4)

13

参院選

3(2)

(1)

(定数削減→1)

得票数・投票率は比例代表。参院選半数改選議席→当選議席

県議選データは道府県議選結果、次回は2011年4月10日

 

 このデータを見ると、2000年以降、東京都議選・道府県議選だけでなく、衆院選、参院選においても、日本共産党は、衆院選2回の±0議席を除いて、議席と、得票率をすべて減らしている。総選挙・参院選・都議選の得票数増加5回は、投票率アップによるもので、実質的には、()備考欄のように5回とも得票数を減らしている。実質的得票数減少5回データを合わせれば、得票数も13回連続惨敗政党になった。

 

 資本主義世界において唯一残存するコミンテルン型共産党=日本共産党は、()国会議席激減による自然死と、()党勢力5分野すべてにおける衰退テンポアップによる衰弱死に至る過程に突入しつつある。そのデータ分析は、別ファイルにある。

 

    『衰弱死テンポアップを告白・証明した2中総』党勢力5分野における急速な全面衰退

    『日本共産党が自然死と衰弱死に至る展望』

    加藤哲郎『日本の社会主義運動の現在』末尾日本共産党はいったん自然死

 

 

 2、共産主義が見た夢−まえが

 

 本書は「共産主義」の入門書であると同時に、その追悼の書でもある。というのも、古代以来、ユートピア的な共産主義者の推進力となってきた、完全なる社会的平等への希求がいつかまた始まるとしても、それがマルクス=レーニン主義の形をとることはもはやないであろうことはたしかだからだ。

 

 レーニン主義の壊滅的廃頽(はいたい)の要素があまりにも完全に揃ってしまった今、ロシアやその他の国々におけるポスト・ソヴィエトの共産主義者でさえ、ナショナリズムに彩られた折衷(せつちゅう)主義的な社会民主主義政策に加担し、レーニン主義をすでに放棄してしまっている。したがって今、わたしたちにできるのは、二十世紀の大半を支配したひとつの動きのバランスシートを描き、その失敗が人間の過失によるものだつたのか、それとも、その運動の性質自体に本来備わる欠陥によるものだつたのかを明らかにすることなのである。

 

 一八四〇年代にパリで生まれた共産主義(コミュニズム)という言葉は、三つの互いに関連する、しかし明確に区別された現象に当てはまる。すなわち、「理想」、「綱領」、そしてその理想を実現するために設立された「体制」 の三つである。「理想」とは、完全なる社会的平等というものであり、(プラトンの書物に描かれているような)その最も極端な形では共同体における個人の消滅が要求される。社会的・経済的不平等が、おもに所有物にかんする不平等から発生する限り、この理想を実現するには「わたしのもの」とか「あなたのもの」という考え方、つまり私有財産があってはならない。この理想は古代から継承されてきたもので、紀元前七世紀から現在に至るまで、西洋思想史の中に繰り返し現れてきた。

 

 「綱領」は十九世紀半ばまでさかのぼり、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスという名に最も深いかかわりがある。マルクスとエンゲルスは、一八四八年の著書『共産主義者宣言』にこう記している。「共産主義者の理論はひと言に要約することができる。すなわち、私有財産の廃止である」エンゲルスは次のように主張する。友人マルクスは、階級差を基盤とした社会の必然的崩壊を立証する科学的理論を打ち立てた、と。

 

 共産主義の理想を実現しようという試みは歴史を通じて散発的におこなわれてきたが、この目的のために全国家権力を利用した最初の決定的な運動は、一九一七年から九一年の間にロシアで起こつたものである。この「体制」の創始者であるウラジーミル・レーニンは、財産なき平等な社会が、私有財産を廃止し、共産主義への道を切り開く「プロレタリアート独裁」から出現すると予見した。

 

 本書では、この三つの順序で共産主義の歴史をたどっていく。これは論理的にも理に適(かな)っており、また歴史的にも、共産主義はこのような形で展開してきた。つまり、はじめに思想があり、次に実現のための計画があり、そして最後に実行に至ったということである。しかし本書では、この最後の実行の側面に重点を置きたい。というのも、理想と綱領はそれ自体では比較的無害であるのに対し、それらを実践に移す試みはすべて、特にそれが全国家権力によりバックアップされた場合、常にとてつもない結果をもたらしてきたからである。

 

 

 3、著書第1章〜5章の〔目次〕のみ

 

 第1章、共産主義の理論と綱領

 第2章、レーニン主義

 第3章、スターリンとその後

 第4章、西側諸国における受容

 第5章、第三世界

 

 

 4、第6章、振り返って−マルクス主義の誤謬、他

 

 〔小目次〕

   1、共産主義に内在する敗因

       マルクス主義の誤謬

       官僚主義という弊害

       経済政策の失敗とその帰結

       国際的共産主義のジレンマ

       崩壊の要因

   2、イデオロギーの役割

   3、共産主義の代価

 

 1、共産主義に内在する敗因

 

 マルクス主義の誤謬

 

   マルクス主義は二十世紀最大の幻想だった。Leszek Kolakowski

 

 わたしたちは今、「まえがき」で提示した疑問に答えることができる立場にある。共産主義の失放は「人間の過失によるものだったのか、それとも、その運動の性質自体に本来備わる欠陥によるものだったのか」。歴史の記録は、その答えが後者であることを如実に示している。共産主義は誤った方向へ進んだ善良な思想ではなかった。それは、不当な思想だったのである。

 

 一九一七年にボリシェヴィキがロシアで権力を掌握した日から、世界の至るところで共産主義の原則に基づいた社会を据えつけようとするいくつもの試みがなされてきた。モスクワはこのような試みを金や武器、指導によって好意的に支援したが、実質的にそのすべてが失敗した。最終的に、共産主義はロシアでも崩壊したのである。

 

 そして現在[二〇〇七年二月]、それはわずか数カ国(中国、北朝鮮、ヴェトナム、ラオス、キューバ)にしか存続しておらず、これらの国々においてさえ崩壊の途上にある。共産主義者はいまだに勢力を保ってはいるが、それは資本主義に対する大幅な譲歩という犠牲の上での話である。この惨憺たる経緯を考えれば、共産主義かその綱領か、もしくはその両方の前提になんらかの欠陥があるとするのが妥当だろう。

 

 まずは初の共産主義国であり、共産主義運動を世界的に推進する原動力となったソヴィエト連邦の崩壊を見てみよう。一九九一年以降に発表された諸研究は、この劇的な事件についてさまざまな解釈を示してきた。経済のゆき詰まり、ソヴィエト市民の海外情報源へのアクセスの増加、アフガニスタンでの敗退、軍備競争に対応しきれなくなったこと、等々。共産主義が鎮圧することのできなかった国内の反体制派やポーランドの「連帯」運動などの例が、ソヴィエトの指導権を挫いた。またレーガン大統領による共産主義への果敢な挑戦が、ソヴィエト政府の士気をさらに落とした。

 

 ソヴィエト連邦は、アメリカ合衆国がヴェトナム戦争での大失策の後、冷戦への熱意を失い、孤立へと引き下がる準備をしていると考えるようになっていたのである。これらの要素のそれぞれが、ソヴィエト連邦崩壊の原因のひとつになっていることは疑いようもない。しかしこれらは、この国がもし健全な組織であったならば、これほどの巨大帝国を倒すまでには至らなかっただろう。こうした要素が作用したのは、その組織そのものが病んでいたからである。

 

 共産主義の理論的基盤であるマルクス主義は、マルクスとエンゲルスが誤って資本主義のせいだとしてきたような、それ自体の崩壊の種を内部に孕んでいた。それは非現実的な精神的教義のみならず、誤った歴史哲学に支えられていたのである。

 

 マルクス主義は私有財産を廃止しょうと懸命に試みるが、私有財産は移行的な歴史的現象、すなわち、原始共産制と発展した共産主義との合間に生じたものにすぎないというマルクス主義の基本的な論点は、明らかに誤りである。近代以前に富のおもな源泉だった土地は、君主によって独占されない限り、常に種族や家族または個人に属していたということを、あらゆる証拠が示しているからである。家畜や、そこから生まれる商業や資本は常に、そしてどんな場合も個人の財産だった。このことから、私有財産は移行的現象ではなく社会生活の永続的特徴であり、その意味で破壊できないということになるのである。

 

 人類には本来、無限の適応力があり、したがって強制と教育を組み合わせれば、物欲のない人間、プラトンが思い描いた「私的なものや個人的なものを生活の中からすべて取り除」いたような、社会全体に溶け込もうとする人間をつくり出すことができるというマルクス主義の概念もまた、同じく誤りである。この目的のための共産主義体制による計り知れない抑圧が仮に成功したとしても、その成功はせいぜい短命に終わっただろう。

 

 動物の調教師ならすでに気づいているように、曲芸を学ばせるための厳しい特訓に晒された後、その特訓から解放されると、動物たちはやがてこれまで学んできたことを忘れ、本能的な行動に立ち戻るのである。さらに、そのように後天的に得た特徴が遺伝しないとしたら、新しい世代に代わるたびに、世界には非共産主義的な態度が生まれるだろう。そのような態度の中では、物欲が少なからぬ影響力をもつことはたしかである。共産主義は、究極的には人間の本質を再形成できなかったことによって、敗北したのである。

 

 ムッソリーニはファシストに転身した後でさえ、いくらかの共感をもって共産主義を見ていたが、一九二〇年になってようやく次のような結論に達した。

 

 レーニンは芸術家である。他の芸術家が大理石や金属を使って作品をつくるのと同じように、彼は人間を使って作品をつくったのだ。しかし人間は花崗岩より硬く、鉄ほどは可鍛(かたん)性がない。傑作はひとつも生まれなかった。この芸術家は失敗したのだ。その仕事は、彼のカを超えるものであることが証明されたのである。

 

 このような現実によって、共産主義体制は、暴力を統治の常套手段として行使せざるを得なかったのである。人々に無理やり所有物を放棄させ、私的な利害関係を国家に明け渡すことを強要するためには、公的な権威が無限の権力を意のままにできなければならない。これこそが、レーニンが「プロレタリアート独裁」を「何ものにも、どのような法律によっても制限されない、どのような規則によってもまったく束縛されることのない、直接的に暴力に依拠する権力」と定義したときに、彼が意味していたことである。

 

 官僚主義という弊害

 

 このような体制は、実際には脆弱であることを歴史が示している。そうした体制が、ロシアとその属国に、中国、キューバ、ヴェトナム、そしてカンボジアに、さらにはアフリカやラテンアメリカのさまざまな国々に課せられてきたのである。しかしその代価は夥しい人命の犠牲だけではない。それはまた、そのような体制を確立する、まさにその目的であったもの、つまり平等というものも破壊してしまった。

 

 圧政に依存した体制を推進したレーニンは、それが一時的なものになると仮定していた。その使命が達成されれば、専制国家は消滅するだろう、と。しかしながら彼は、「国家」と呼ばれる抽象概念を構成しているのは、どんな歴史的使命を負っていようと、自分自身の私的利害関係にも関心を向けている個人であるということを無視していたのである。マルクス主義社会学では、国家は財産の所有者のみに奉仕し、それ自体では何の利害関係もないとされているが、実際には国家の財産管理人が、たちまち新しい階級へと発展していく。新しい時代の先導役を自負する「前衛党」が、それ自体の目的と化すのである。

 

 国家、より正確にいえば共産党には、この新しい階級を取り込むこと以外の選択肢はない。というのも、それが権力の座に留まることができるか否かは、この新しい階級にかかっているからである。そして共産主義のもとでは、国民生活のあらゆる側面、特に経済が国家によって支配されている限り、それを取り仕切る大規模な官僚制度が必要になるというそれだけの理由で、官僚主義が急速に拡大する。この官僚制度は、どんな共産主義体制でもスケープゴートとなりやすいのだが、それでもこれがなくては体制は成り立たないのである。

 

 ソヴィエト連邦においては、ボリシェヴィキのクーデターの数年間で、体制はその指導的基幹部員に独自の報酬を与え、これがやがて世襲的特権階級ノメンクラトゥーラへと発展していった。このことが、平等という理想の終焉をもたらすことになった。たとえば、所有物の平等を強化するには、権利の不平等を制度化することが必要となる。このような目的と手段との間の矛盾が共産主義の中に、また国家がすべての生産的富を所有するあらゆる国に組み込まれているのである。

 

 たしかに、共産主義的な官僚主義が国家と社会に対して確保していた支配力を振り落とす試みは、何度かなされてきた。レーニンとスターリンは「粛清」を試み、これがスターリン統治下では大量殺戮へとつながった。毛沢東は独自の「文化大革命」を開始し、党の既得権益を破壊した。しかし、これらの試みはいずれも成功しなかった。結局、報いられたのはノメンクラトゥーラだった。なぜなら、彼らがいなければ何もできなかったからである。

 

 民主主義的手段を利用して共産主義を導入するという試みもまた、失敗に終わった。アジェンデのチリの例が示しているように、比較的自由な報道機関と独立した裁判所、そして選挙による立法制度が存在している場合、私有財産への激しい非難が成功しないのは、「プロレタリアート独裁」のもとでは鎮圧されるはずの反対勢力が、ここでは抵抗を組織するための機会を得るからである。反対派による抵抗の数が膨らむにつれて、それは革命的体制を容易に引きずり下ろす。一九九〇年、ニカラグアでは共産主義のサンディニスタ[ニカラグアの左翼武装革命組織サンディニスタ民族解放戦線。一九七九年革命政権を樹立]が自分たちへの支持を確信して一般投票に臨んだが、彼らを権力の座から引きずり下ろしたのはやはり国民だった。

 

 経済政策の失敗とその帰結

 

 共産主義体制に固有の官僚主義化はまた、経済的失策の一因ともなっており、このような失策によって体制は崩壊に向かうか、あるいは共産主義をその名称以外のすべての点で放棄せざるを得なくなる。生産的手段は国有化により、それらを効率的に運用する能力もなければ、その動機ももたない官僚たちの手で管理されることになった。その必然的な結果は生産性の低下である。さらには、中央集権管理に固有の厳格さのために、共産主義経済は技術革新に無関心になっていった。

 

 このことから、科学分野での高度なレベルを保持していたにもかかわらず、なぜソヴィエト連邦が近年で最も重要な技術的発見のいくつかを見逃してしまったかを説明できる。フリードリッヒ・ハイエク(一八九九〜一九九二)が指摘しているように、自由市場だけが経済における推移を感じ取り、それに対応することができるのである。そして、豊かになることへの期待だけが民衆を刺激し、当面の必要性以上の能力を彼らに発揮させることができるのである。共産主義のもとでは、効果的な刺激に欠けていた。それどころか仕事中の勤勉さは罰せられるに等しかった。なぜなら、各人の生産量の割当分を満たせば、その割当量自体が引き上げられる結果となるからである。

 

 共産主義による経済政策の失敗は、共産主義の支配を受けていたほとんどすべての国々の経済的基盤であった農業で、最も悲劇的な結果をもたらした。土地の私有財産の没収と、その結果として起こつた集団化は、伝統的な農村の慣行を崩壊させ、前代未聞ともいえる規模の飢饉をもたらした。これはソヴィエト連邦、中国、カンボジア、エチオピア、そして北朝鮮で起こった。どの国でも、何百万人もの人々が人為的な飢餓状態によって死滅したのである。

 

 共産主義の北朝鮮では、一九九〇年代になってもまだ、子どもたちの多くが栄養失調による身体的障害を被っていた。一九九〇年代後半には、推定で最高二百万人が餓死したといわれている。新生児千人あたりの乳児死亡率は、韓国では八人なのに対し北朝鮮では八十八人であり、男性の平均寿命は韓国が七十・四歳なのに対し四十八・九歳となっている。国民一人あたりのGDP(国内総生産)も南では一万三千七百ドル、北では九百ドルである。

 

 さらに、達成すべき目標とされてきた、富を提供して平等を強化する能力に欠けていたことだけが、共産主義に内在する唯一の矛盾というわけでもない。自由の欠如もまたもうひとつの矛盾である。

 

 自由は平等と富とともに、マルクスにとっては共産主義社会の究極的目標だった。すべての生産的資源を国有化することは、全市民を国家の従業員に変える、換言すれば、政府の従属物になるということである。そのような状況のもとでは、国家権力には事実上何の制限もない。歴史的証拠が示すところによれば、個人の自由は、財産権がしっかりと確保されているときにのみ保護され得る。というのも、財産権は国家の侵犯に対する最も効果的な防壁となるからである。

 

 国民や市民の所有物に対する権利を、この権利に対する敬意をもって国家が承認するということは、国家権力の限界を認めることに等しい。そして、所有権が裁判所によって適用される法的概念である限り、それはまた、国家が法に拘束されるのを認めることを意味する。つまり、共産主義の目標である私有財産の廃止が、必然的に自由と合法性の廃止につながるということである。

 

 生産的資源の国有化は、マルクスとエンゲルスが思い描いたように人間をモノへの隷属から解放するどころか、彼らをその支配者の奴隷へと変え、さらに資源が必然的に不足するために、人間をこれまでにないほど物質主義にしてしまうのである。

 

 国際的共産主義のジレンマ

 

 国内における共産主義導入の試みについてはここまでにしよう。国際的規模で考えてみても、事態は共産主義にとって快方に向かっているようには見えなかった。マルクス主義者は資本主義をグローバルなものとして見ていたため、その撲滅もまたグローバルなものでなければならないと主張した。一八四八年の『共産主義者宣言』が最初に唱導し、その後、共産主義者だけでなく社会主義者にも採用された「万国のプロレタリアート、団結せよ!」というスローガンは、国境を越えた労働者の団結を仮定していた。

 

 そのような団結は偽りであることが証明された。人々が自分自身の階級に対していかなる団結心を抱いていたとしても、領土的・民族的忠誠心は常に、そしてどんな場合でも、より強い感情を駆り立てる。それらが国外の権力によって攻撃されれば必ず、階級間の結束が強まるのである。社会主義者がこの教訓を学んだのは、一九一四年、誓いを繰り返してきたにもかかわらず、第二インタナショナルの民族主義政党がほぼ例外なく自国の「ブルジョワ」政府を支援し、戦争支持票を投じたときだった。レーニンは一九二〇年、ポーランドの労働者と農民が、最終的に自分たちを搾取から「解放」するという赤軍の侵略に対して、自国を守るために団結したとき、再度このことを学んだ。この経験は、その後何度も繰り返し現れたのである。

 

 さらに、このような現象はいわゆる階級社会に限定されるものでもなかった。形式的には階級差のない共産主義政府に支配される国々でさえ、ソヴィエトの威圧的な独裁政治に苛立ち、機会が与えられればいつでもその箍(たが)をはずそうとしていた。これはまずユーゴスラヴィアで起こったが、最も打撃が大きかったのは中国である。権力を掌握し始めた十年のうちに、中国の共産主義者は自分たち流のマルクス主義を実践し、普及する権利を要求し、その権利を行使するために、モデルであり師と仰いでいたソヴィエト連邦に対する戦争に危うく加担するまでに至ったのである。

 

 クメール・ルージュはさらに過激だった。完全なる自己充足を求め、彼ら独自の共産主義はロシアや中国のそれと共通する部分は何もないとまで主張した。ヨーロッパの共産主義運動も同様に、ソヴィエトの権力が絶頂にあるときでさえ、多元主義(ポリセントリズム)を要求した。

 

 モスクワが、国際的な運動の中のこのような分離主義的勢力を中和することができる唯一の方法は、国外の共産主義諸政党を弱小のままにしておき、それらをモスクワに完全に従属させること以外なかった。というのも、国外の共産主義の支持者層が拡大するや否や、これらの政党は自立と、さらには独立さえも求めるようになったからである。そこでジレンマが生ずる。国際的な共産主義運動は孤立し、無能となり、制限つきの機能しか果たさないモスクワの従属的ツールに留まるか、さもなければ勢力を強めて影響力を拡大するか。後者の場合、この運動はモスクワの手を離れて、国際的共産主義の団結を破壊することになる。第三の選択肢はなかった。

 

 これら固有の欠陥を多くの共産主義者が認めたことで、さまざまな「修正主義」が現れた。しかしながら真の信仰者にとっては、これらの失敗はその教義がまちがっているからではなく、無情さが足りなかったせいだということになった。サンタヤーナ(一八六三〜一九五二)[スペイン生まれの米国の哲学者、批評家、詩人。一九二一年以後ヨーロッパで活躍]は、熱狂的な信仰者というものは、目標を忘れた後にその努力を倍加する人々だと定義したが、彼らはそれを身をもって示すかのように、徐々に残忍性を高める殺戮的狂乱を続けた。こうして共産主義はレーニンからスターリンヘ、スターリンから毛沢東やポル・ポトへと進化するにつれて、ますます大きな血の海をつくり上げていったのである。

 

 崩壊の要因

 

 ここまでを要約してみると、共産主義は失敗したのであり、それは少なくともふたつの理由で失敗する運命にあった。ひとつは、その第一の目的である平等主義を強化するためには、特権を要求する強制的組織をつくることが必要となり、したがってこれは平等主義を無視することになる。

 

 ふたつ目は、民族的・領土的忠誠心が階級への忠誠心と対立するときは常に、そしてどこでも、前者は後者を制圧し、共産主義をナショナリズムへと還元していく。これが、社会主義がいとも簡単に「ファシズム」と結びつく理由である。この現実を認めたとき、一九九〇年以降のソヴィエト連邦共産党を引き継いだロシア連邦共産党は、すべての国のプロレタリアートに団結を要求するスローガンを放棄したのである。

 

 このような展開を予想していたドイツ系イタリア人の社会学者ロベルト・ミヘルス(一八七六〜一九三六)は、「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義が勝つことは決してない」と正確に予測した。

 

 さらに、レーニンが考案した共産主義体制の構造にかかわる、より特殊な理由もあり、これが共産主義の理想実現に不利に作用している。資本主義の世界的崩壊が差し迫っていると仮定したレーニンは、軍隊をモデルにみずからの政府を組織した。ソヴィエト共産主義とそれを熱心に模倣する国々は、政治形態を軍隊化し、中央の指令に従属させたのである。この構造は、すべての人的および天然資源を動員することによって体制への直接的な物理的脅威を払いのけ、この体制の影響力を国外へ拡大するのに効果的であることが証明された。しかし力では解決できないような問題に直面したとき、これは結果的に効果がなかった。それどころか実際は、全く無力だったのである。

 

 期待された世界革命が起こらなかったとき、ソヴィエト体制はいわば硬化し、やがて国民の無感動や無抵抗などといった国内の窮境によって、みずからが脅かされていることを知る。そしてこれが、経済とそれに頼った軍事力の絶え間ない低下へとつながっていった。これらは、体制がその権威を緩和することによってしか解決することのできない問題だったのである。

 

 しかし権威の緩和は、厳格に中央集権化された指令機関に依存する、首尾一貫した共産主義体制全体を転覆させた。ゴルバチョフがこのシステムに手を加え始めるや否や、そこに亀裂が生じ、ほどなくしてそれはばらばらに分解した。この意味で、共産主義は再建することができず、いわば変わりゆく状況に適応することは不可能だったのである。共産主義に固有の厳格主義が、みずからの崩壊を招いたということである。

 

 2、イデオロギーの役割

 

 共産主義の歴史において物議をかもすテーマのひとつとなっているのが、イデオロギー(具体的にはマルクス=レーニン主義と名づけられている)の役割である。学者の中には、共産主義が引き起こした運動と体制は思想によって突き動かされたものだとする者もあり、この理由で彼らは、ソヴィエト連邦と毛沢東主義の中国を指して「イデオクラシー」と呼んでいる。つまり思想に支配されるシステムということである。

 

 もちろん、共産主義は黄金時代の神話と、それを取り戻すための戦略を提供する、マルクスが考案し、レーニンが最初に実行した教義がなければ実現され得なかったかもしれないのは事実である。しかしこの事実を認めることと、「イデオクラシー」の概念を受け入れることとは同義ではない。その理由は単純で、政治的であれ経済的であれ、すべての思想はひとたび実行されれば権力を生み出し、すぐにその手段と化していくからである。

 

 資本主義経済の典型は、アダム・スミスの『国富論』(一七七六)において定式化されている。しかし過去二世紀の資本家たちが、スミスの「(神の)見えざる手」という概念や、彼の理論を構成する他の要素に影響を受けていた頃と同じように行動しつづけてきたなどと、真剣に主張しようとする者はいないだろう。スミスの思想の主眼は資本家たちの利害関係に役立つものであり、だからこそ彼らはそれを採用したのである。

 

 同じことがマルクス=レーニン主義には当てはまらないとする理由はない。何百万人という共産党員と国家の職員たちが、十九世紀ドイツのひとりの経済学者が編み出した理論に忠誠を尽くしていたという考え方は、まさしく、知識人らが歓迎する過大評価である。知識人の中には、人間は思想によって突き動かされると信じる人もいるものだ。

 

 通常、共産党が最初に出現するときは小規模で、しばしば虐げられる存在である。つまり、その党員になっても利益よりリスクの方が大きいため、党員の多くがイデオロギー的に動機づけられる可能性があるのは当然のことである。しかし、いったん権力を握り、処罰のみならずその特権をも行使するようになると、そのような政党は、支配的なイデオロギーに対して単なる「リップサービス」しかしないような多数の支持者を引きつける。

 

 一九二二年のソヴィエト連邦における共産党員の調査によると、党員のわずか〇・六パーセントしか高等教育を終えておらず、六・四パーセントしか中学校を卒業していないことが明らかになっている。このような証拠をもとに、あるロシアの歴史学者は、党員の九二・七パーセントが日常生活に必要な読み書きができない(四・七パーセントがまったく読み書き不能)と結論した。これはレーニンが一九二一年、党の基幹部員に対して、党から「日和見主義者」を追放せよという最初の「粛清」命令を出したときに、彼が苦しげにも認めていた事実である。これは不可避的なものを食い止めようとする虚しい努力だった。共産主義国家がこれまでにないほど大きな責務を負うようになるにつれて、その一般党員は立身出世主義者の流入によって容赦なく拡大していく。彼らにとって党員であるということは、安全と資格の証だからである。

 

 権力はそれ自体が目的となる。自衛本能もまたしかりである。そのときまでに、思想は体制の真の性質を押し隠すための隠蔽物以外の何ものでもなくなっており、大仰な理想を掲げる一方で最も世俗的な目的を遂行し、最も不愉快な行為に参与するだけのものとなるのである。一九九一年にソヴィエト政府が崩壊したとき、イデオロギー的な純粋さを守るものと仮定されていたノメンクラトウーラは闘うことなくあきらめ、自分たちの個人的利益のために「民営化」を装って国の天然資源と製品に飛びつき、それらをすべて奪い取った。もしこの組織が本当にマルクス=レーニン主義のイデオロギーに忠誠を誓っていたとしたら、こうしたことはまず起こらなかっただろう。

 

 マルクス主義のイデオロギーが共産主義の政治形態で二次的な役割しか果たさなかったことを示す興味深い証拠が、スターリンの後継者であり、一九五三年から六四年までソヴィエト連邦を支配していたニキータ・フルシチョフについて、息子のセルゲイが書いた伝記に示されている。セルゲイはこう記している。

 

 学生時代以来、わたしは共産主義とは実際に何なのかを理解しようとし、失敗を重ねてきた…わたしは父に共産主義の本質に光を投げかけてもらおうとしてきた。しかしそれでも、明快な答えを得るには至らなかった。わたしは、父自身が共産主義について明確なものをもっていなかったのだと理解した。

 

 共産主義ブロックの指導者であり、その来たるべき世界的勝利の飽くことなき先駆者が、もし自分の息子に共産主義とは何たるかを説明することができなかったとしたら、一般党員たちの理論的理解をいったいどうやって得ることができるというのだろうか。

 

 共産主義体制を推進しながらその平等主義の理想を弱めたのは、利己心である。これには国の利己心のみならず、個人的な利己心も含まれる。ソヴィエトや中国の指導者は、いったい幾度、そしてどれほど無遠慮に、自分たちの利益を優先してマルクス主義の原理から逸脱したことか! 一九一七年、レーニンは労働者たちに工場を乗っ取らせ、農民には土地の獲得を許可した。しかしながら、これらの無政府主義的行動は、マルクス主義の教義を侵犯するものだった。一九二一年、レーニンは農業生産において自由市場を再建し、消費財において資本主義企業を容認した。

 

 スターリンは集団農場の農民たちに私有作物を与え、その生産物を交渉価格で販売することができるようにした。一九三〇年代になると、スターリンは海外の人民戦線を奨励し、これによって共産主義者と彼らの最大の敵である社会民主主義者との間に協力体制を築いた。フルシチョフは、国際的な階級闘争を「平和共存」に置き換えた。毛沢東が人間の意志は客観的な現実に勝り得ると宣言した一方で、彼の後継者たちは国民に自分自身を豊かにするよう奨励してきた。これらすべてが、共産主義の名のもとにおこなわれたのである。

 

 どの場合でも、たとえ一時的ではあったにせよ、党にとっての最重要事項が優先され、イデオロギーが求めるものは犠牲にされていた。そしてこの最重要事項は、いつどこでも同じだった。つまり、無制限の権力の維持と拡大ということである。

 

 3、共産主義の代価

 

 ユートピアにおける実験の代価は、途方もないものだった。それらはあまりに多くの人命を犠牲にした。『共産主義黒書』でクルトワは、共産主義による世界中の犠牲者の数を八千五百万人から一億人と推定している。これはふたつの世界大戦による死者の数を五〇パーセントも上回る。これらの損失に対してはさまざまな正当化がなされてきた。たとえば、卵を割らなければオムレツはつくれない、といったものである。人間は卵ではないという事実はさておいても、問題は殺戮からはたったひとつのオムレツもつくることはできなかった、ということである。

 

 生き延びた人々もまた代価を払った。共産主義体制は完全なる従順を課そうとする中で、おとなしく従おうとしない人々を流刑や投獄、鎮圧に処した。多くの場合、これらの人々は最も有能で最も積極的な民衆だった。その結果、逆方向の進化といったようなものが働き出し、最も依存心の強い順応者だけが生き残れる最大のチャンスを得た。進取的で、正直で、公共心をもつ人々は絶滅した。共産主義社会はこうして最善のものを失い、それに伴ってみずからが貧困に陥っていく姿を目のあたりにしたのである。

 

 共産主義を最も長期間経験したロシアでは、その影響のひとつとして、国民が自立心を略奪されてきたということが挙げられる。ソヴィエト体制下では、非個人的な事柄にかんするすべての命令は上から発せられなければならず、イニシアチブは犯罪として扱われていたため、国民は事の大小を問わず(犯罪目的にかかわる場合を除いて)意思決定能力を失っていった。人々は命令を待っていたのである。

 

 民主主義への渇望が少しの間湧き起こっても、再び強い牽引力への憧れが頭をもたげる。国民は気がつくと、自分の足で立つこともみずからの運命を管理することも不可能となり、その意欲さえなくなっていた。これはロシアと、そしてロシアのように共産主義なによって長年調教されてきたすべての国々に対して、共産主義が負わせてきた少なからぬ弊害である。それはまた、こういった国々の中で労働の倫理を抹殺し、公共の責任感をも失わせてしまったのである。

 

 物欲は生まれながらのものである。だが他人が獲得した物への敬意は、学んでこそ得られるものである。これは、発達心理学からもよく知られている。その後に続くのは、政府であろうと社会全体であろうと、もし他人が自分の財産権を尊重していないとわかったら、その人はその他人の所有物への敬意を失うばかりか、最も強欲な本能をも発揮していくということである。これこそがまさに、共産主義体制崩壊後のソヴィエト連邦で起こったことであり、所有権への敬意を必要とする真の市場経済への移行を妨げたのである。

 

 マルクスは、資本主義は解決不可能な内的矛盾を抱えており、それは崩壊する運命にあると主張した。実際には、現実に適応した、順応性のある経験的なシステムである資本主義は、その危機のひとつひとつをなんとか乗り越えてきた。一方で、厳格な教義(疑似宗教に改変され、融通の利かない政治体制として具現化された疑似科学)である共産主義は、それ自体が恩恵にあずかっていた誤った考えを結局は捨て去ることができず、そして滅びていったのである。

 

 もし再生することがあるとしても、それは歴史を無視したものとなり、犠牲多きもうひとつの失敗が確実に待っているだろう。何度でも同じことを繰り返しながら何か別の結果を期待しつづけるものを狂気と定義するなら、このような行為は狂気と紙一重のものとなるはずだ。

 

 

 5、著者紹介 リチャード・パイプス

 

 ハーバード大学歴史学名誉教授。レーガン政権時の国家安全保障会議でソ連・東欧問題顧問を務めるなど、冷戦期のアメリカ政府において重要な役割を果たした。邦訳書に『ロシア革命史』(成文社)がある。

 

    リチャード・パイプス『ロシア革命史』の『著者略歴と訳者解説』

 

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 〔関連ファイル〕

     リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章、十月のクーデター』

                 『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』

                   『ロシア革命史』より−危機に瀕したコミュニズム

     『20世紀社会主義を問う』ファイル多数

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』

     ブレジンスキー『大いなる失敗』犠牲者の数