志位『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」

 

〔第3次作戦〕も、〔1・2〕に続き大失敗「合意」現状

 

イタリア共産党の歴史的経緯無視独善のうぬぼれ

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、志位『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』

   2、〔第3次作戦〕も、〔1・2〕に続き大失敗→「合意」現状

      1、志位〔第3次作戦〕に基づく「合意」現状

      2、「合意」内容のレベルと問題点

      3、赤旗読者と一時的軒下雨宿り有権者はどう反応するか

   3、イタリア共産党の歴史的経緯無視と独善のうぬぼれ

      1、イタリア共産党の「歴史的妥協路線」と失敗

      2、イタリア共産党・フランス共産党の党改革・自己刷新・自己批判

      3、失敗した「歴史的妥協路線」の志位版二番煎じ=無視・無知?

 

 〔関連ファイル〕      健一メニューに戻る

    『志位「無条件降伏作戦」の功罪と限界』

       「政策協定」のみ「政策・組織協定」との違い

       廃案運動への効用と党員参加へのマイナス面

    『志位「新提案」想定通り=マスコミ注目度bP・2カ月間だけ』

    『志位和夫の赤黒い・秘密モノローグ「独白録」』

    『志位「国民連合政府」構想・「選挙共闘」宣伝4カ月間で破綻』

    『廃案勢力が願望する「選挙共闘」阻害の4要因』

       妨害分裂棘抜き取りなしには、参院選惨敗自公過半数維持

    『安倍政権打倒・安保法制廃案への最良コース2つ』

 

 1、志位『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」

 

 志位〔第3次作戦〕とは、「無条件降伏作戦」を指す。次の3番目である。

 

 〔1〕、2015年9月19日、志位「新提案」=「国民連合政府」構想

      廃案運動成果独り占め陰謀作戦

 〔2〕、2015年11月22日、大阪ダブル首長選挙−自民・共産癒着

      廃案勢力内「裏切り者」作戦シールズ共産癒着で自民支援

 〔3〕、2016年2月22日、都道府県委員長会議−他野党との無協議

      1人区共産党候補者取り下げ宣言=無条件降伏作戦

 

    赤旗『全国都道府県委員長・参院選候補者会議への志位委員長の報告2月22日

 

 しかし、〔第3次作戦〕の実質は、『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』である。

 

 

 2、〔第3次作戦〕も、〔1・2〕に続き大失敗「合意」現状

 

 〔小目次〕

   1、志位〔第3次作戦〕に基づく「合意」現状〔1・2〕に続き大失敗?

   2、10選挙区「合意」内容のレベルと問題点

   3、赤旗読者と一時的軒下雨宿り有権者はどう反応するか

 

 1、志位〔第3次作戦〕に基づく「合意」現状

 

 東京新聞は、3月21日時点における、志位〔第3次作戦〕=『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』に基づく「合意」現状を載せた。

 

    東京新聞:共産、9選挙区で候補取り下げ 11選挙区も協議:政治 ...3月21日時点

 

 夏の参院選に向けた野党共闘をめぐり、共産党が候補擁立を決めていた三十の改選一人区のうち、1九選挙区で立候補を取り下げて野党候補一本化に合意し、(2)十一選挙区でも統一候補について協議していることが二十日、共同通信の取材で分かった。独自路線を歩んできた共産党の異例の候補取り下げが大きく影響しており、今後の民主党などとの調整が焦点となる。

 

テキスト ボックス:  

 各党の幹部や地方組織への取材結果をまとめた。民主党の公認候補や無所属候補への一本化で既に合意か大筋合意に至ったのは、宮城、福井、山梨、長野、長崎、熊本、宮崎の七カ所に、鳥取・島根、徳島・高知の二合区を加えた計九選挙区

 

 青森、岩手、秋田、山形、栃木、岐阜、和歌山、岡山、山口、愛媛、大分の十一選挙区では、一本化に関する協議が続いている。共産党が候補擁立を見送った鹿児島、沖縄でも一本化の動きがあり、民主党幹部は三十二の改選一人区のうち「八割で候補を一本化したい」と期待感を示した。

 

 ただ民主党内には「共産党組むことで保守層を取り込めなくなる」(民主党奈良県連幹部)として、共産党との選挙協力に抵抗感が根強いのも実態だ。民主党候補がいる選挙区では、共産党の譲歩を一方的に求め、調整が難航していることがあり、地方組織同士で話し合いを進めるのが難しい事情もある。協議が進んでいない福島、群馬、新潟、富山、石川、三重、滋賀、奈良、香川、佐賀の十選挙区の中には、こうした共産党との従来の関係が影響しているケースも少なくない。

 

 しかし党中央レベルでは「自民一強」体制打破を目指す点では認識が一致しており、執行部の判断で状況が一変する可能性もある。新潟では民主、共産、維新、生活の野党四候補がそれぞれ立候補する動きを見せていたが、民主党が十八日、候補擁立を取り下げる方針を発表し、生活の党候補に一本化される可能性が出てきた。

 

 東京新聞3月21日時点記事・(表)における「合意」現状から何が見えるか。

 

 ただし、その後、「協議中」11選挙区において、青森・栃木で「合意」成立、岩手で民主・生活の「合意」が成立した。「協議中」8選挙区になった。

 

 1人区共産党候補者は、32人いた。熊本県・沖縄県は、統一候補者にしたので、残り30選挙区である。民進党(民主・維新)候補者は、公認15人・推薦6人=計21人いる。志位は、計21選挙区において、共産党候補者全員を取り下げ、民進党(民主・維新)候補者+新潟県・生活の党候補に一本化させる目論見を立てた。

 

 彼は、その党史上初の大転換方針によって、4市長選挙結果での得票率惨敗=大逆風をなんとか回避し、共産党支持率を回復させようと赤色大ばくちを打った

 しかし、2月22日後、1カ月間経っても、「合意」選挙区は、熊本県を含め10選挙区止まりである。「協議」にも入れないのは、10選挙区もある。「協議中」11選挙区も難航している。不成立に終わるかもしれない。

 

    毎日 参院選

http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/04/03/20160403k0000m010103000p/5.jpg?1

    野党一本化、15選挙区…32の1人区 本紙調査  4月3日時点

 

 不成立に終わるとは、「協議」にも入れないままで、「協議中」でも「合意」に至らないで、「共産党票だけをよこせ」とする要求になる。その時点、志位はどうするか。選択肢は3つある。

 〔選択肢1〕「条件つき降伏作戦」継続で、「合意」なくても、民進党(民主・維新)候補者推薦する。

 〔選択肢2〕「条件つき降伏作戦」継続だが、推薦もしないで、棄権か白紙投票を決定する。

 〔選択肢3〕、志位「降伏作戦」を再度、大逆転し、1人区全30選挙区で共産党候補者を立てる。

 

 それらの次策作戦によって、代々木赤色大本営の支離滅裂な末期症状をさらけ出す。

 

 「合意」現状データを見るかきり、志位〔第3次作戦〕も、「1・2」に続き大失敗になる展望が高まったと言える。志位〔第3次作戦〕という赤色大ばくち=「共産党アレルギー」抜取拒絶のままでの「条件つき降伏作戦」も、民進党(民主・維新)と連合幹部に根深い「イデオロギーの」「共産党アレルギーによって受け入れ拒否をされたと判定できよう。

 

 2、10選挙区「合意」内容のレベルと問題点

 

 ただ、一方で、志位〔第3次作戦〕=「無条件降伏作戦」は、廃案運動にとってプラス面・効果がある。従来なら、共産党が参院選1人区32において、すべて立候補をしてきた。当選不可能だが、「かおなし候補者」戦術は、1人区票よりも少ないが、全国単一比例代表選挙区票の上積み効果があった。

 

 「無条件降伏作戦」は、参院選1人区の民進党(民主・維新)候補者を当選させ、自公議席数減らすというプラス面・効果を発生させる。それは、「野党共闘」を望むアベノミクス批判の有権者」を元気付ける。しかし、共産党1人区の2〜9万票が、民進党(民主・維新)候補者にどれだけの比率で流れるかがネックになる。

 

 そのポイントは、志位「降伏作戦」内容のレベルにかかわる。民進党(民主・維新)との合意内容レベルである。「政策・組織協定」成立ならいい。しかし、合意実態は、同床異夢である。その内容は、1共産党が主張している「政策・組織協定」成立でなく(2)民進党(民主・維新)の思惑「政策協定」のみに止まっている。民進党(民主・維新)は、共産党1人区の2〜9万票をただで貰いたいだけである。その限度範囲で、「政策協定」のみ譲歩しただけである。

 

 そのただ貰い手口を見通しても、志位は「降伏作戦」内容を飲まざるを得ないほど、大逆風恐怖に打ち震えていた結果であろう。

 

 「無条件降伏作戦」選挙区票は、従来と同じ比率で、全国単一比例代表選挙区票の上積み効果がなくなり、減る。全党の比例代表票も減る危険性がある。その結果、比例代表当選数が減れば、志位「降伏作戦」が正しかったのかとなる。その時、代々木赤色大本営において、志位は、どのような選挙総括をするのか。

 

 「合意」した12選挙区における民進党(民主・維新)との「合意」内容は、「政策協定」だけだった。「合同選対としての組織協定」はなかった。それにたいし、熊本県・沖縄県では「政策協定」とともに、「組織協定」も結ばれた。「選挙共闘」とは、「政策・組織協定」成立を意味する。ただ、熊本県の民進党(民主・維新)は、「選挙体制は、まだ具体的に決まっていない」と発言している。

 

    赤旗『宮城で共産・民主政策協定桜井予定候補に一本化/比例で全力」

    赤旗『長野で参院統一候補共・民協定 選挙区に杉尾氏/唐沢氏は比例

    朝日『反安保法の市民連合、統一候補と初協定 参院選・熊本

 

 「組織協定」がないとは、どういうことか。それは、民進党(民主・維新)と共産党との党利党略打算の手打ちである。民進党(民主・維新)は、共産党「組織協定」を結べば、民進党(民主・維新)内の「共産党アレルギー」幹部と連合幹部から猛反発を受ける。「政策協定」だけなら、「共産党を入れた合同選対」を作らなくてもいい。

 

 1)志位・共産党は、恐怖の大逆風回避作戦として、「民進党(民主・維新)候補者支援の選挙共闘」を結んだと有権者ペテンに掛けられる(2)民進党(民主・維新)側は、共産党1人区票2〜9万票を、「共産党排除の民進党(民主・維新)選対だけ」によって、濡れ手に粟で騙し取ることができる。この騙しあい手口なら、「共産党アレルギー」幹部と連合幹部も説得できる。

 

 この志位手口の性質は、まさに「共産党アレルギー」抜取拒絶のままでの「条件つき降伏作戦」である。

 

 3、赤旗読者と一時的軒下雨宿り有権者はどう反応するか

 

 赤旗HN読者は、1980年355万人2016年3月末現在115万人・32.3%に激減した。一時的軒下雨宿り有権者は、2013年参院選時点、選挙区564.5万人で3人を当選させ、比例代表515.4万人で5人を当選させた。

 

(表1) 議席・得票数・得票率と比例代表増減

年度

議席

得票数

得票率

選挙区

比例代表

選挙区

比例代表

選挙区

比例代表

増減

増減

増減

1998

7

8

875.9

819.5

15.66

14.60

2001

1

4

-4

536.3

432.9

386.6

9.87

7.91

6.69

04

0

4

±0

552.0

436.3

3.4

9.84

7.80

0.11

07

0

3

-1

516.4

440.8

4.5

8.70

7.48

0.32

10

0

3

±0

425.6

356.3

84.4

7.29

6.10

1.38

13

3

5

+5

564.5

515.4

159.0

10.64

9.68

3.58

16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

議席増減は、改選数=6年前比例代表当選数にたいする増減

比例代表投票率は、07年58.63%→10年57.92%→13年52.61%で、5.31%激減

 

 参院選の比例代表得票数増加2回は、投票率アップによるもので、実質的には、2回とも得票数を減らしている。04年実質的得票数は数万票減、07年17.7万票減だった。減少2回データを合わせれば、得票数も4回連続惨敗政党になった。

 

 選挙区・比例代表の合計当選議席は、15→5→4→3→3と減り続け→13年8へと議席倍増した。参議院議席非改選との合計は9→7→6に減った。13年11議席に増えた。

 

 2016年7月参院選において、一時的軒下雨宿り有権者は、どのような投票行動を選択するか。

 

 〔投票行動1〕、1人区は民進党候補者、比例代表は共産党候補者にする。

 〔投票行動2〕、1人区は民進党候補者を拒否し「白紙」投票、比例代表は共産党候補者にする。

 〔投票行動3〕、1人区は民進党候補者、比例代表も民進党候補者にする。

 〔投票行動4〕志位「条件つき降伏作戦」反発し、「棄権」する。

 

 これらの投票行動の組合せ予想は難しい。選挙結果を待つしかない。

 

 

 3、イタリア共産党の歴史的経緯無視独善のうぬぼれ

 

 〔小目次〕

   1、イタリア共産党の「歴史的妥協路線」と失敗

   2、イタリア共産党・フランス共産党の党改革・自己刷新・自己批判

   3、失敗した「歴史的妥協路線」の志位版二番煎じ=無視・無知?

 

 1、イタリア共産党の「歴史的妥協路線」と失敗

 

 197310月には、貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなど独自の政策を取ることで、国民の間に蔓延する共産主義に対する恐怖心を和らげることを目指した。

 

 さらにベルリンゲル率いる主導部は、共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協」政策による連立政権の樹立を図る事となる。

 

 また、ソ連による1968チェコスロヴァキア侵攻、1980アフガニスタン侵攻を公然と非難する上に、ドイツ社会民主党社会主義インターナショナルに接近するなど、ソ連と距離を置きつつ独自の政策を進める「ユーロコミュニズム」路線を推進し、1975に行われた議会選においては得票率が30パーセント台に伸長、首都ローマボローニャフィレンツェをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出し、世界各国から多くの注目を浴びた。

 

 しかし、「歴史的妥協」政策による勢力拡大は一時的に支持者を伸ばすことに成功したものの、冷戦下のイタリアにおいて、キリスト教民主主義内の右派やカトリック教会大企業労働組合、さらに「容共政権」の成立を嫌ったアメリカ合衆国の意を受けた右派から、イタリア共産党に独自路線に強い不快感を示したソ連や、共産主義の原理原則に忠実な党内左派に至るまで様々な勢力による思惑、利権が入り混じったこと、さらに旗振り役のベルリンゲルが1984に急死したことなどから結局成功しなかった

 

    イタリア共産党 - Wikipedia』−「歴史的妥協路線」と失敗

 

 「歴史的妥協路線」失敗の原因は、キリスト教民主主義内の右派やカトリック教会大企業労働組合に根深い「イデオロギーの」「共産党アレルギーによって受け入れ拒否をされたと判定できよう。

 

 2、イタリア共産党・フランス共産党の党改革・自己刷新・自己批判

 

 ヨーロッパ共産党の歴史的経緯とは何か。具体的には、イタリア共産党とフランス共産党が、他野党と政権協議に取り組み、政権党になった経緯である。

 

 〔小目次〕

   1、イタリア共産党

   2、フランス共産党

 

 1、イタリア共産党

 

    イタリア共産党の党改革・自己刷新・自己批判経緯詳細データ

 

1976年、大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄した。

1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
1989年、第18回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。
1991年、第21回大会、左翼民主党に転換した。同年12月、少数派が共産主義再建党を結成した。
1996年、総選挙で中道左派連合政権が誕生した。左翼民主党21%、共産主義再建党8.6%の得票率で、「オリーブの木」全体では、319議席を獲得した。
1997年、第2回党大会における党員数は68万人で、このうち女性党員が28.5%を占める。

 

    『イタリア左翼民主党の規約を読む』左翼民主党規約の全文添付

    基本原理1991年

     第1、社会主義観の転換→政治、経済、市民社会の漸次的な民主主義化

     第2、革命路線と断絶→強力な改良主義へ転換

     第3、前衛党概念の否定・放棄、イデオロギー的党否定→自ら限界の原理

     第4、民主主義的中央集権制と断絶→指導部統制の原理と多元主義

 

 2、フランス共産党

 

    『フランス共産党の党改革・自己刷新・自己批判経緯

 

 1976年、第22回大会で「プロレタリア独裁」理論を放棄した。

 1985年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなる。

 1994年、第28回大会で、民主主義的中央集権制・分派禁止規定を放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」自己批判した。

 ソ連崩壊の数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。

 

 1996年、第29回大会で、「ミュタシオン」(変化)を提唱し、党改革を図る。

 2000年3月、第30回大会で、一層の改革を進めるため、7つのテキストを決定し、それへの党員の意見表明は3万人以上に上った。

 2003年4月、第32回大会で、党史上初めて対案が提出され、45%の支持を得た。党改革派が主流だが、反対は2派で、党改革への異議提出派である。

 

 選挙では、2002年6月、総選挙第1回得票率は、4.91%だった。それは、1981年総選挙得票率16.13%の3分の1以下であり、1997年総選挙得票率9.88%の半分に激減した。フランス下院議席は、35議席から、21議席に減った。これらの結果は、「ルペン問題」の影響があったとはいえ、フランス共産党史上最大の敗北だった。07年6月、下院議席は21→18議席へとさらに減った

 

 2007年春、大統領選挙でビュフェ議長は、70万7268票、得票率1.93%で党史上最低だった。それは、1981年大統領選挙得票率16.13%の8分の1以下への激減だった。

 

 党員数は、1979年76万864人、96年27万4000人、98年21万人、99年18万3878人、2001年13万8756人、03年13万3200人、04年12万5000人へと、一貫した党員減退を続けている。06年は13万4000人へと微増した。党費納入党員数=党員証交付数でほぼ毎年公表するので、1979年と比べ、党員62万6864人・81.6がフランス共産党から離党した。18.4%党員しか残っていない。

 

 党員数−『ル・モンド』記事の間違いか? (81年公表71万人→現在公表10万人なら、61万人・86%が離党)

 

 ル・モンド記事のように、2010年12月現在、フランス共産党公表で党員数10万人に激減している。その記事によれば、30年間4分の3が離党したとなっている。それなら、数字が明確でないが、1981年には40万人がいたことになる。81年公表党員数は、71万人である。ル・モンド記事の30年間4分の3が離党というデータは間違っているのかもしれない。

 

 〔『ル・モンド』の間違い1?〕、30年間でなく→20年間の間違い

 

 30年前1981年公表党員数は、71万人である。2010年公表党員数は、10万人である。いずれも、公表数なので、正確である。30年間とすれば、1981年から2010年までに、71万人−10万人≒約61万人が大量離党したのが真相ではなかろうか。その数値なら、4分の3が離党というデータにならない。もし、4分の3が離党というデータが正しいのなら、40万人→現在10万人で、30万人が離党したという数値になる。40万人時点は、公表党員数がないが、20年前の1991年だったのではなかろうか。

 

 〔『ル・モンド』の間違い2?〕、4分の3が離党でなく→7分の6が離党・85.9%離党の間違い

 

 30年間離党数となると、離党61万人÷1881年71万人≒85.9%が離党になる。7分の6が離党というデータになる。フランス共産党は、離党届・党費納入拒否党員すべてを、自動的に離党処理=党籍抹消してきた。20年前の1991年党員数については、フランス共産党HPにアクセスし、直接問い合わせするしかないが。

 

 フランス共産党は、2013年2月第36回大会を開いた。党員数13万人と報告された。全国書記にピエール・ローランを再選した。

 

    Wikipedia『フランス共産党』 HP『フランス共産党』

 

 日本共産党のように幽霊党員15万人を含めた在籍党員数公表ではない。フランス共産党のような公表スタイルにすれば、日本共産党党員数は、07年5中総志位の党費納入率約63%報告からの計算では、25万人になる15万人・37%は、党費納入拒否・行方不明と、党機関により離党申請の拒否・握り潰しをされた架空党員数である。志位・市田・不破らは、党大会ごとに、よくぞ、幽霊党員15万人込みの水増し決算報告をするものだと、その厚かましさに感心し、かつ、その臆病な真相隠蔽ぶりに哀れさを抱く。

 

 機関紙「ユマニテ」は、第二次大戦直後は40万部あった。しかし、60年代から80年代まで、15万部、1997年では、6万部、2001年は4万5千部に減少している。05年は5万1639部に増えたが、増収になっていない。週末版(日曜版)8万部がある。

 

 財政危機・破綻も深刻になっている。ル・モンド記事などによると、2001年ユマニテの累積赤字は5000万フラン・約8億円になった。04年赤字が270万ユーロ・約4億2660万円で、05年が赤字300万ユーロ・約4億7400万円だった。2001年5月18日のユマニテ再建計画は、民間企業3社の出資を受けることを決定した。()出版社アシェット社、()放送局TF1、()ケス=デパルニュ銀行の3社から、資本金の20%を出してもらって、発行を存続する。それらは、左翼系の会社ではない。さらに、ユマニテ記者・社員190人中、50人をリストラで解雇する。

 

 これら、選挙、党員数、機関紙、財政危機・破綻のデータ全体は何を示しているのか。それは、レーニン型前衛党5原則3つを放棄しても、共産党名=うぬぼれた前衛党体質を維持し続ける限り、フランス共産党のじり貧的瓦解を食い止めることが、もはや出来ないことを証明している。

 

    『フランス共産党の党改革状況と党勢力』

    アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

    福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『党史上初めて対案提出』2003年

 

 3、失敗した「歴史的妥協路線」の志位版二番煎じ=無視・無知

 

 やはり、〔第3次作戦〕=『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』にたいし、民進党(民主・維新)はすんなりと受け入れない

 

 「合意」もなくて、共産党が1人区候補者を取り下げてくれれば、民進党は、「濡れ手に粟」で大歓迎する。しかし、志位にとって、それでは得るところが皆無になる。代々木赤色大本営にとっても、そんな志位「完全・無条件降伏作戦」選択はしない。

 

 ただ、志位は、党史上初の『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』を、民進党(民主・維新)が即座に100%受け入れるはずと皮算用をしていたと思われる。それは、4首長選挙の得票率惨敗・大逆風を回避できる最後の一手だった。「合意」がなかなか成立しないのは、志位の大誤算だった。

 

    『日本共産党の党改革・自己刷新・自己批判皆無?詳細な党史データ

 

 大誤算=錯覚は何から生まれたのか。それは、ヨーロッパ共産党の歴史的経緯無視・無知が潜在していた。それと独善・うぬぼれが根源にある。

 

 志位『「共産党アレルギー」抜取拒絶での「降伏作戦」』の性質は、197310月、エンリコ・ベルリンゲル書記長の主導による「歴史的妥協路線」志位版二番煎じである。

 

 1973当時のイタリア共産党・エンリコ・ベルリンゲル書記長は、「イデオロギーの壁」「共産党アレルギー」抜取拒絶での「歴史的妥協路線」が成立できると、得票率30パーセント台に伸長した野党第1党として、独善・うぬぼれが支配していた。

 

 リンクの詳細な党史データが示すように、宮本・不破・志位ら3人連続独裁者たちは、党内の批判幹部・異論者を、1955年6全協後61年間に渡って、100%粛清・排除しつくしてきた。彼ら3人は、資本主義世界共産党史上において、もっとも凶悪な党内犯罪トップである。党外からの批判者・学者文化人にたいしても、罵詈雑言の反批判キャンペーンを浴びせ、社会的権威・信用の抹殺を謀ってきた。

 

    2.2 戦後の日本共産党における著名人および古参活動家の除名、除籍リスト

    小山弘健『61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀』処分・除名とリスト

    「日本共産党第8回党大会」について処分・除名とリスト

 

 イタリア共産党・フランス共産党が、なぜ、リンクデータのように、党改革・自己刷新・自己批判ができたのか。その原因の一つには、コミンテルン信奉型幹部たち以外に、党中央内幹部として粛清・排除されないで、異論を発言し続けていたからである。イタリア共産党のオッケット、フランス共産党のユー全国書記らが生き残っていた。

 

 21世紀現在、日本共産党幹部内で、宮本・不破・志位にたいし根底的批判・異論を発言する者は皆無になっている。日本共産党内部からの党改革・自己刷新・自己批判の発生可能性は1%もない満場一致の党大会・中央委員総会・全47都道府県委員会総会が、1961年第8回大会以降、55年間続いている。「保留」挙手が例外的に出るが、ほとんどが満場一致の「赤色大政翼賛会」に堕落している。

 

    『「官僚主義的中央集権制」政党と党内外犯罪』

       democratic centralismの起源+分派禁止規定

       レーニン疑惑と宮本・不破・志位のウソ詭弁・疑惑

    『批判・異論者を封殺・濾過しつくす満場一致政党』

       61年第8回大会から55年間つづく党内民主主義封殺システム

    『分派禁止規定堅持の反民主主義政党』

       日本共産党常幹と党内犯罪=党内民主主義抑圧・粛清事件5データ

       レーニンのクーデター政権崩壊危機における分派禁止規定の犯罪的誤り

    『志位・市田・不破が民主集中制を手放さない理由』

       分派禁止規定は、トップ自己保身目的のみの党内犯罪武器

    『なぜ民主集中制の擁護か』党内民主主義抑圧の党内犯罪事例

 

 この党内民主主義抑圧・破壊し続ける政党が、自らの内部意志で、党改革・自己刷新・自己批判をすることは、絶望的になった。

 

 それならどうしたらいいのか。党外からの共産党離脱行動高まりしかない。それは、1赤旗読者の大量減紙継続、(2)減紙激増による党財政破綻、(3)一時的軒下雨宿り有権者の共産党批判激増と共産党離れなどであろう。しかし、東方の島国における政党間力関係・野党のだらしなさを見るかぎり、(3)の激発はまだ、可能性が薄い。

 

    (表9) (表10)14年衆院選後12月11355減+15年度計32161減

    +16年1〜3月10783減16カ月間計5万8296部減

 

    14年1月第26回大会HN124.1万16年3月末115万5977部

    =2年2カ月間で8.51万部減!党財政破綻

 

 197310月、エンリコ・ベルリンゲル「歴史的妥協路線」失敗43後に再発した志位版二番煎じを、「選挙共闘」成立と錯覚する学者文化人・一時的軒下雨宿り有権者が存続し続けるかぎり、東方の島国における「真の選挙共闘」はできない。それとも、「絶望からの希望」「絶望からの幻想」がアメリカのように表面化・激発するか。

 

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 〔関連ファイル〕

    『志位「無条件降伏作戦」の功罪と限界』

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       廃案運動への効用と党員参加へのマイナス面

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    『志位和夫の赤黒い・秘密モノローグ「独白録」』

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