"Old"ナルドの香油


201705-08_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ  


記録: 安黒仁美


2017年06月18日 新約聖書エペソ人への手紙05:19(MP3 /YouTube)「詩と賛美と霊の歌とをもって―小さな赤々と灯る可憐な花」

+先週金曜日に、京都でレストレーションの諸問題についての講演をさせていただいた。
エリクソンは「組織神学の講義は、賛美を歌うように教えなさい!」と語っている。歌うように語り、質疑を受け、応答する。今回の集会は、まさにエリクソンが言い、私の願っている集会の形ではなかったかと感謝している。
今後は、ユーチューブで公開し、視聴者と共に語り合いながら、さらにこの問題を学んでいきたいと思っている。

5:19  「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
保守的な教派と聖霊派においては、多様性がある。ジェームズ・F・ホワイトの「プロテスタント教会の礼拝」という本には、初代、古代、中世を背景に、宗教改革が起こり、それは礼拝改革をも結実させたと書かれている。そして、そこからルター派、改革派、聖公会、メソジスト、クエーカー、リバイバリズム、ペンテコステ派等、様々な礼拝形式が生まれてきたことが書かれている。
今世界は多様な時代であり、国の文化や個性も伴って、1つの礼拝様式が絶対ではなくなっている。

イギリスのカリスマ運動の研究者であるJ. D. G. ダンは、「酒に酔ってはいけません。・・・御霊に満たされなさい」を見て、この背景にはI コリ 11:21 が頭にあったのではないかと考える。「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば酔っている者もいるというしまつです」。教会での愛餐会において、お金持ちはご馳走を持ってきてはたらふく食べ、酒に酔っているのに、貧しい人たちには食べ物すら無い、まるで主の愛から外れているかの様であるというのである。
パウロも、全ての心から溢れる賛美を禁止しているわけではないが、しかし、お酒を飲んでその勢いで歌うようにではなく、御霊の衝動によって湧き上がる賛美をすすめている。
1人の人が御霊の迫りを受けて歌い始めると、周りの人々もハーモニーをもって歌い始める。イギリスのカリスマ的な教会で繰り広げられた、麗しい光景である。

霊の歌の中には、哀歌やヨブ記のような、怒りや嘆きという一面もある。人間の心情の吐露である。つまり、信仰は人間がその豊かな情緒を吐露するためのものとも言えるだろう。内容は上から来るメロディーや言葉であって、聖書から離れたものであってはならない。
心の中に御言葉の種が蒔かれて、それが成長し収穫されるように、自然と賛美が湧き上がって来る、若者たちが賛美の集会に集められ、信仰を表現し成長していくことは、その時代に何が必要なのかを私たちに教えてくれる。
しかし、ヘビメタのような激しい歌は、その音楽やリズムに酔いしれるのが目的となってしまい、霊の歌とは言えず、ケースによってはブレーキをかける必要があるだろう。

I コリ 14:15  「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」
詩と賛美と霊の歌とは何なのか?それは言葉を超えた歌である。ローマ8:26にあるように、「いいようもないうめき」である。ハンナも捧げた「言葉を超えた祈り」また、詩編の作者のような「魂を注ぎ出す祈り」である。

クリスチャンは義務として祈るのだろうか?そうではない。クリスチャンには生きている限り息をするように「祈りのチャンネル」が開かれている。
以前にもお話ししたことがあるが、ドイツの神学者ヴェスターマンがロシア戦線において、弾丸が頭上を飛び交う中ほふく前進していた時、目の前に小さな赤い花が可憐に咲きほこっていたのを見た。その瞬間、心の深みから湧き上がってきたのは、「神への褒め称えの思い」であったという。
クリスチャンはどんな状況においても、日々の闘いの中にあっても、「詩と賛美と霊の歌」が私たちの内から湧き上がって来るのである。(仁美記)

2017年06月11日 新約聖書エペソ人への手紙05:18(MP3 /YouTube)「御霊に満たされなさい―ディオニソスのようにではなく」(再生リスト、最下部)

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
今日のメッセージの主題は「御霊の満たし」である。
1:13  に「約束の聖霊をもって証印を押されました。」とある。家畜が持ち主を明らかにするため焼印を押されるように、私たちは内に御霊を宿すことによって神様の持ち物としての証印が押されていることになる。神様の所有となった私たちに「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(4:30)と言われているのである。私たちの内におられる聖霊は豊かな感情を持たれた方であり、悲しまれる方なのである。
+
世の人々は何のために生きているのか?と問われれば「学歴を積み重ね、豊かな富と社会的地位を手に入れるため」と答えるだろう。しかし、私たちクリスチャンは何のために生きるのか?それは、「御霊に満たされるため」である。それが人生の目標なのである。
「御霊に満たされる」と言うことは、「主が共におられる」と言うことである。エジプトのヨセフのように、そして結果として主の民である教会では「語り合い」「賛美し」「感謝し」「従い合う」ことになるのである。(5:19~21)
+
1  ,  神学的に言えば、それはまず第1にクリスチャンの「義務」を表現している。
酒による酩酊を避けなさい、御霊の満たしを追い求めなさい、そうすれば、前に述べた4つの約束を得ることになるのである。
「聖霊の満たし」ということについて、20,21世紀では激しく論争されてきた。「聖霊の満たし」とは何なのか?パウロはここで「酒に酔うこと」とコントラストしているのである。
表面上、「酒に酔うこと」と「聖霊に満たされること」は、似ているのかもしれない。酒に酔うのはアルコールの支配下にあり、聖霊に満たされるのは聖霊の支配下にあるからである。
+
しかし、パウロは類似点を直ぐに終了し、相違点をあげている。
ギリシャ、ローマ時代には「ディオニソス」という豊穣、酒、酩酊をつかさどる神があった。その異教において、酒に酔うということは「霊感を得る手段」と考えられていた。
そして今、キリスト教会ではそうであってはならないにもかかわらず、酒に酔うように酩酊状態を求める集会が多くある。酒に酔うように、賛美に、祈りに、ダンスに、預言に、癒しに、奇跡に「酔う」傾向が見られる。
+
この酩酊状態というものは、宗教学上よくある状態である。学術的に見てもストレス発散にもなり、神様を求めているかのようであって、実は「酩酊状態」を追求する事が目標になってしまっており、ディオニソスの異教と何ら変わることはない。そのような中での霊感、しるし、不思議を体験するのである。
+
2  ,  パウロが言わんとしていることは、正反対の解釈である。
ガラテヤ書にある御霊の実を見てみると「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ  5:22,23)  ここに「自制」とある。御霊の実としてあげられているのは、聖霊下においてセルフコントロールをするということである。
つまり、「聖霊に満たされる」ということは、主の御旨にかなった健全なセルフコントロール状態になるということである。
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日本に招かれてくる有名な指導者の中には、浮気や姦淫、離婚、金銭欲にまみれた人もいる。その口から出るのは「富と繁栄の神学」である。どんなに沢山の人を集めても、どんなに派手なパフォーマンスをしても、またそのメッセージは、どんなに表面的にはキリスト教の用語に満ちていても、その集会は「ディオニソスの集会」と何ら変わりはない。アフリカやラテンアメリカなどで多くの人を集めていることを聞き、日本でも学ぼうとそうした指導者を呼び集会を持てば、間違った教え、間違った神学を取り込んでしまうことになるのである。
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3  ,  使徒行伝  2章に、ペンテコステの時、人々が異なった言葉で話すのを見て、「甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。しかし、彼らはセルフ・コントロール状態にあり、神様の御座から御霊が注がれたが故に、そう見えただけである。
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4  ,  マルティン・ロイドジョーンズという有名な説教者がいる。彼は医師であり牧師でもあるが、「御霊による激励」と題してこの箇所にふれている。
「酒に酔う」とは、ワインやその他のアルコールによって、薬理学的に「酔う」つまり神経抑制効果が現れている状態であって、人間は自制、つまりセルフ・コントロールが麻痺した状態である。そのため、知恵、理解力、識別力、判断力、バランス感覚、すべての中枢神経が麻痺しているのである。
これに反して、「聖霊の満たし」によって得られるものは正反対のものである。つまり、薬理学的に言えば、「覚醒させるもの」であって、思い、心、知性がはっきりとして、正しい判断が出来るようになるのである。
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「酒に酔う」ことの結果は「放蕩(アソーティア)ギ」であって、凶暴、放縦、獣のような己をコントロール出来ない愚かな状態である。
「御霊に満たされる」ということは、人間をさらに人間らしくし、ついにはキリストに似たものへと変えてくださる力を持っている。
このように、御言葉の表面だけをとらえるのではなく、パウロのメッセージの本質を学びたいものである。(仁美記)
+
※ディオニソスという異教―「ディオニソス(ディオニューソス・デオニュソス)」とは、ギリシャ神話における豊穣・酒・酩酊をつかさどる神のことで、その宗教では、酒に酔うことは「霊感を得る手段」としてみられていた。

2017年06月04日 新約聖書エペソ人への手紙05:15-17(MP3 /YouTube)「賢い人のように歩みなさい―時を知り、み旨を知り」(再生リスト、最下部)

エペソ人への手紙は、使徒パウロがイエス・キリストの福音を、どのように理解したら良いのかを綴った「宝石箱」のような書である。
5章に入り、倫理的な聖い生活をするための動機付けについて学んだ。
1  ,  厳然とする審判の存在について(5~7)
神様に造られた人間は、神様の御心に沿って生きる責務がある。それ故に、人間には1度死ぬ事と死後に裁きを受ける事が定まっている。
2  ,  神様の光の下に生きる時、人間は豊かな恵みを受ける。(8~14)
私たちの人生において、御霊の実を結び続けるためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなければならない。
3  ,  知恵深い生活をしなさい。(15)
「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」
倫理的生活の送り方において、賢い人と賢くない人をコントラストして描いている。ここで私たちは、クリスチャンになっても2種類の生き方があるという事を教えられる。そして、ここにおいてチェックしなさい、吟味しなさい「あなたはどちらなのか?」と問われているのである。

1  ,  「賢い人」の生き方の特徴
ここでの「賢さ」とは、学校の勉強が出来る、知能指数が非常に高いという事ではない。
「機会を生かして用いる人」(16)と言えるだろう。ここで使われているのはギリシャ語の「エグザゴラゾー」という単語で、「時間を贖いなさい、時間を買い戻しなさい」という意味である。いわゆる「時は金なり」であり、人間の一生においてあっという間に時間は過ぎていくという事である。
「時」の価値を理解する人は、平等に与えられている24時間、365日、そして80年,90年,100年の人生を大切に生きることが出来る、そんな人こそ「賢い人」であると言うのである。

私ごとではあるが、私は約25年前、千葉県にある共立基督教研究所での研鑽を終えた後の、自分の人生について模索していた。
ソロモンに対して神様が言われた言葉「何か1つ願え!私がそれを叶えてあげよう。」を思い起こし、私は「一生涯、神学を研鑽する時間と、それを分かち合う空間を与えてください!」と祈った。その結果が、郷里のガソリンスタンドで働きながら、神学を研鑽するというライフ・スタイルである。
都会に比べて、それほど忙しくない仕事の合間に、私にとっては恵みであり賜物でもある神学を学び、山奥であっても瞬時に繋がるインターネットという技術で、日本中世界中を繋ぐという空間が与えられている。今はただ、後ろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進むのみである。

人間はそれぞれに人生を与えられ、時間を与えられている。その1つ1つがドラマであり、1人1人がその主人公である。全知全能の神様が、全ての人にドラマを準備し、脚本を書いていてくださる。演じている私たちにはその台本は白紙のように見える。しかし、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(エペソ  1:4)、私たちのために御計画を立てていてくださった。しかも、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました」(詩  139:16)。
私たちは神様の素晴らしい作品の主人公として、抜擢いただき、脚本を与えられ、御霊と語り合いながら、神様のご計画を手探りしながら、奇跡のような宝石のような人生という舞台で演じさせていただけるのである。
夕には感謝しつつ眠り、朝には今日も主が導いてくださるように祈りつつ1日を始めれば、1日をまた1時間を大切に生き、その結果として「御霊の実」を実らせることが出来るのである。

2  ,  「賢い人」とは主の御心が何であるのかを悟る人である。
神様が与えてくださった「聖書」を通して、神様の御心を理解できる人である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(IIテモテ3:16)。幼い頃から聖書に親しみ、御言葉を私たちの心に豊かに宿すことが大切なことである。
私たちの心は土壌のようなものであり、御言葉に養われ耕された人は、神の原則を知っており、常識ある選択や決断をすることが出来る。毎日の出来事の中で、具体的、個別的、状況的に対応する知恵が与えられる。
神様を信じ、御心の中に倫理的に生きる。そのような人は、時の価値を知り、自分の人生を大切に、御心を探りながら生きることが出来るのである。(仁美記)

2017年05月28日 新約聖書エペソ人への手紙講解説教シリーズ 5:08-14(MP3)「光の結ぶ実―土と苗と光合成」(再生リスト、最下部)

1~3章は、キリストの贖罪の恵み、十字架の恵みの豊かさについて学んだ。
4~6章では、キリストの贖罪の恵みに根ざした、倫理であり生活とはどのようなものであるのか?を学んでいる。また、4章の前半では、教会の一致、教会が成長するという事はどういう事なのか?また、後半では、教会の倫理的な聖さ、純粋さについて学んだ。

5章に入り、パウロはもっと具体的な事や感謝すべき事、光の下に生活を見つめるべき事を述べ、具体的には異邦人の歪んだ性の見方ではなく、クリスチャンは感謝の光の下で性を見るべきであると述べた。
また、倫理的、模範的な生活を推し進めるための動機付けをパウロは説いている。すべての人には最後の審判があり、そのゴールを目指して、意識して恵みに根ざして感謝して聖く生きるということが必要であると説いた。

今朝の5:8~14では、光の下で生活するとはどういうことなのか?実を結ぶとはどういうことなのか?についての動機付けまたチャレンジを述べている。
パウロは絵描きのように(レンブラントは「光の画家」と呼ばれたが)、象徴的な表現で「暗やみと光」のコントラストによってその事を説明している。
「暗やみ」とは、「無知、誤り、悪」であって、神様に対して遠く離れている状態である。「光」とは、「真理、義」に象徴される生活であり、クリスチャンになるという事はそういう状態になるという事である。
謙遜な心を持ってパウロは自分も含めて「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」と言っている。私たちのあるべき姿目指すべき姿をチャレンジしているのである。

今、この辺りでは田植えの真っ最中である。秋から冬の間、田んぼには水は無く、土は硬くなっている。春になって何度かトラクターで土起こしをし、水を引き入れ代掻きをする。そこに稲の苗を植え、夏の間雑草を引き水の世話をすると4ヶ月後には豊かな実りが得られる。毎年、天候は一定ではなく、暑すぎたり台風が来たりと自然の影響はまぬがれない。
私たち自身も田んぼに似ている。神様を知る前は乾ききった心であった。「むなしい心、無知な心、頑なな心」であった。しかし、聖霊の水の注ぎによって、心の土壌は柔らかく整えられ、み言葉の種が蒔かれ、聖霊の励ましを受けながら、田んぼのように実りの秋を迎える。
ただ、聖書を読むだけ聞くだけではいけない。御霊の語りかけを感じる感受性を養われなければならない。

5:10  「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」―主が喜ばれること、御霊が喜ばれることは何であるのか?選択しつつ生きるのである。人生は悪路を車で走るようなものである。難しい道、狭い道、石ころの道、etc.どんな道を通ろうとも、慎重に運転し生活をコントロールしなければならない。
私たちは「暗やみ」から「光」へと変えられたものである。しかし、全く罪の無い者になったというわけではない。今でも肉にある罪深い性質は持っている。
5:13  「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
5:14 a 「明らかにされたものはみな、光だからです。」
地上にある限り罪ある者である私たちは、扉を開いて神様の光に自分自身をさらす、弱さをさらけ出すことによって、光にさらされている者、「光の者」光を反映させる者となるのである。

5:14b  「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」2章で「罪過と罪の中に死んでいた」私たちだが、「やみの中」を歩むのではなく、「光の中」を歩む者として召されている。そうすれば、キリストが私たちを照らされる。そして、世の終わりには、豊かな実りを収穫することになる。
「主に喜ばれる生き方とは何なのか?光の実を結ぶためにはどうすれば良いのか?」を考えつつ、1日1日を歩ませていただきたいと思う。(仁美記)

2017年05月21日 新約聖書エペソ人への手紙講解説教シリーズ 5:05-07(MP3/YouTube)「これが偶像礼拝者です―仲間づくりの倫理」(再生リスト、最下部)
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前々回では、男女の性とは天地創造の神からの贈り物であって、「創造の光」「感謝の光」の中で受けとめるべきものである事を学んだ。

道徳的であるか不道徳的であるか?「性的倫理」をどのように捉えるのか?は、その人がどのような信仰を持っているのかや、どの様なお方を信じているのかにかかっていると思われる。
5:5  「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です。」この御言葉を読んだ時、私には違和感があった。偶像礼拝をするから不品行や汚れやむさぼる者になるのではないのか?と・・・何故ならば、4:17~19にあったように、「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。・・・神のいのちから遠くはなれています。」とあり、真の神様から離れているから、むなしい心となり、知性は暗くなり、その結果としてあらゆる不潔な行いをむさぼるようになったと読めるからである。

しかし、5章では神からの離反、不道徳のむさぼりは、不品行であるがゆえに汚れ、汚れているがゆえにむさぼり、これが偶像礼拝者の本質であるというのである。
今日は、一世紀の頃ほど偶像礼拝者=不品行な者とは言えない。偶像礼拝に熱心だから不品行であるとは限らないからである。
むしろ、熱心なクリスチャンの中にも、不品行な者はいる。キリスト者が多数の国で、有名なキリスト教の指導者が不品行の罪を犯したり、金銭欲にまみれている場合がある。そういう人たちを指導者として奉っている教会には、大きな問題があると思われる。そして表面的な教会の拡大や立派な会堂を見て、素晴らしい指導者として集会やセミナーに招く日本の教会は、愚かであり反省すべきであろう。

エペソ書やローマ書でのパウロの福音理解では、まず前半に「キリストの贖いの赦し」があり、後半には「そのキリストの贖いの赦しに根ざした倫理的な生活」を指導するということが重要であると考えられる。
パウロは「肉による生活」「御霊による生活」を、微妙なタッチで描き出し、目の前に提示することによって「良い方を選びなさい!」「御霊による選択をしなさい!」と勧めている。

トランプ大統領は、選挙戦の時から移民や少数者に対して差別的であった。それに引きずられるように、今やアメリカの人々が差別的な言葉や行動をしているのは大きな問題である。さらに、自分の選挙中の問題でFBIの長官をクビにした。このままではトランプ大統領は、弾劾されて辞めざるを得なくなるのではないか?と懸念する。
アメリカはキリスト教的倫理観によって培われてきた国である。どうかこれからも「指導者が法を犯しても裁かれない」というような独裁国家にならない事を希望している。

キリスト教世界は、今、第2のリバイバルの時期を迎えている。アフリカやアジア、ラテンアメリカなどでクリスチャンが増えている。しかし、そこにはいろいろな問題が生じている。聖書の真理や福音が変質して行きつつあるのである。(これをシンクレティズム”宗教混交”という)
元来の聖書の教えが汚染され、「繁栄の神学」「富と健康の神学」が教会で語られ、そうした教会が栄えているのである。
御利益をうたい大衆的な雰囲気で、大衆的な人々に受け入れられている。
しかし、どんなにそんな手法で成功したとしても、その成功、富、繁栄は、むさぼりに過ぎない。ただ、多くの教会やクリスチャンたちは、それを批判しようとせず、沈黙を守っている。

来月行われるセミナーは、初代教会にも同じような傾向を見出したパウロが、真の医者のように躊躇なく指摘しているところから学ぼうというのである。キリスト教的な視点から「不品行」「むさぼり」「汚れ」とはどういう事なのか?また、それらはどのように診断すれば良いのか?を参加者の皆さんと学び合おうというセミナーである。

教会という名のもとに、信徒はガンに侵されているような生活をし、指導者はまぎらわしいメッセージを語る。キリスト教では否定されている「欲望」や「不品行」や「むさぼり」を促す神学。神様のいのちから遠く離れた「倫理」を語るメッセージ。
教会でなされる「預言(メッセージ)」はよくよく吟味され、分析され、評価されなければならない。
「偶像礼拝」とは、木や石の像を拝むことだけではない。もっと本質的なことである。神のいのちから離れている。元来「肉にある生活」と「御霊にある生活」は天と地の差があるものである。まず教会のリーダーたちこそ「診断」「評価」される必要がある。

5:5,6 でパウロは、神の怒りと審判に言及し、私たちがキリストの贖罪に根ざし、正しい生活に邁進するように勧めている。御国を相続するための判断基準とは何なのか?神様はそうした私たちの行くべきゴールをはっきりと定めておられるのである。
むなしい言葉の羅列の集会、人を集めるためには手段も選ばず、目的は教会を大きくすることだけ・・・こんな集会はガン細胞を転移させているだけに過ぎない。
私たちはキリスト者としての「仲間づくり」の倫理・節度―交わり・協力の間合い・距離間をわきまえる必要がある。そして、いのちの源が何処にあるのかを確認しつつ日々歩む事が大切である。(仁美記)

2017年05月14日 新約聖書-エペソ人への手紙講解説教シリーズ 6:02-03(MP3/YouTube)「あなたの父母を敬え―"母の日"のもう一つの意味」(母の日礼拝)

今日は「母の日」である。5月の第2聖日が「母の日」と定められているのだが、そのルーツをたどっていくと、あることにたどりついた。
アメリカの南北戦争直後に、女性参政権運動家の女性が、「今後は2度と夫や子供を戦場に送るのは拒否しよう!」と「母の日宣言」を発表した。
彼女の死後、彼女の娘が1907年5月12日に、亡き母を偲び、教会の記念会で母の好きな白いカーネーションを贈った。そのことが全米に広がり、今や全世界に広がっているのである。
私が驚いたのは、母親の凄さである。父親、男性というものは、ある意味「戦いも止むを得ず」と考えてしまうところがある。しかし、母親は自分が産み出した子供に対して、自分の身体の一部のように愛情を抱き、戦場で失うことの悲しさを誰よりも知っているということである。だからこそ、夫や子供を戦場に送ることは、断固として認めることは出来ないとの決意の日が「母の日」なのである。
今の世界は無制限に戦いを挑む傾向が見られる。リーダーも強い発言をする者が評価される時代でもある。しかし、平和を願って戦った母の姿を思う時、無意味な犠牲を強いる戦争は極限まで避けたいものである。
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6:2  「あなたの父と母を敬え。」これは第1の戒めであり、約束を伴ったものです。と書かれている。ここには神様の御性質・御思いが隠されている。
モーセの十戒において、最初に書かれているのは「神と人との関係」である。また、イエス様も十戒の前半を要約して「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ!」と言われ、後半を要約して「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ!」と言われた。
十戒もイエス様の言葉も、第1には神を愛する事をあげ、縦の関係を表している。そして、第2に、隣人や身近な人々を愛するという横の関係を表している。
そこには、神の愛、御子イエスの十字架の愛を知る事なしに、本当の意味で隣人を愛することは出来ない、私たちは自己中心なものである事を教えている。
これからの季節、田植えの行われる時期であるが、もし雨が降らなければ田植えをすることは出来ない。乾ききった土が雨に潤され柔らかくされ、田んぼに並々と水が張られなければ、植えられた苗は育つことが出来ない。
それと同じ様に、私たちの心にまず神の愛が注がれ満たされる事なしに、他の人を愛することは出来ないのである。

モーセの十戒では、安息日の規定の直後に「あなたの父と母を敬え。」と書かれている。ここには、神様の御思い・秩序が隠されている。
「愛」というと、私たちは直ぐに「男女の愛」を思い浮かべる。創世記にも「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)と書かれている。
人間を見てみると、自分自身を愛する「自己愛」と「男女の愛」は、自然にしていても発生するもの、他の愛の前提となるものである。だからあえてそれには触れず、周囲の人間関係の最も基本のもの「あなたの父と母を敬え」を第1の戒めとしているのである。
十戒の前半で、神様を崇拝し、尊敬し、畏敬の念を抱くことは、人間として最も基本の事とし、その次に、一人一人に命を与える管となった父母を尊敬することは、人間としてのスタートでありルーツを大切にすることでもある。
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先日「赤ちゃんポスト」のことが話題になり、その病院の看護師であった方がこう話されていた。あの制度の1番の問題は、「赤ちゃんの出自がわからなくなることである。」と言われていた。大人になって自分の出自を調べたくなっても、調べられない。どの様な親から生まれ、どういういきさつでその様な結果になったのか?自分の存在の意味・価値・ルーツを明らかにすることが、永遠に出来ないのである。自分の出自を調べることで、さらに悲しい事実を知ることになるのかも知れないが、そこを再出発点として前を向いて歩み始めることが出来るというのである。
「あなたの父と母を敬え」という言葉は、あなたの出自に敬意を払えるようにしなさい!ということになる。あなたの人生にルーツと価値を与える、神様からの本質的なメッセージである。
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罪を犯し、それを責められた時、ダビデも詩篇51編でこう言っている。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(51:5)辛い現実にダビデは直面している。しかし、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(51:7,10)現実を直視し責められることがあっても、神によって赦され、たち直ることが出来る事を、ダビデは教えられた。
また、詩篇139編には、神様が昔から御計画をもって、ある時ある親から、一人一人は生まれることになっているというのである。そこには「創造の業」がある。
神様はこの世に私たちを生まれさせただけではなく、私たちの人生にシナリオを持っておられる。神様の全知全能の力が、私たちの人生に働いているのである。
朝目覚める時、主の臨在の中に目覚め、夜眠る時、主の臨在の中に眠る。私たちは肉の両親を敬いながら、霊の父である主とともに生きるのである。(仁美記)
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【日毎の、一宮チャペル "ショート" メッセージ / 安黒仁美要約集】(再生リスト

2017年05月07日 新約聖書エペソ人への手紙05:03-04(MP3)「聖徒にふさわしく、むしろ感謝しなさい―神の賜物・祝福としての“性”」

4:17~19には、神様を知らない異邦人が、どのような生活をしているのかが書かれていた。神様を知らないでいると、心は虚しくなり、知性においても暗くなり、神様のいのちから遠く離れて生活しているのだと学んだ。
 5:3  では神様を知っているあなたがたの間では、どのように歩んでいるのか?聖徒にふさわしく歩んでいるのか?とのパウロの問いがエペソの人々に発せられている。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」4:29  とまで言われている。

   それは、心にあるものが口から出て、生活の振る舞いに現れるからである。ローマ書には「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる。」とある。人が心に思い描き、それを口にすることがいかに重大なことであるかをパウロは教えているのである。
   神様を知らない人々が、どれほど不品行や汚れ、むさぼりに汚染されているかは、私たちの社会生活の中でも経験することである。忘年会や慰労会など、お酒を飲めば卑猥な話のオンパレードである。
   だから、パウロはあえて「心にいだかないように!」「口にしないように!」と勧めているのである。

   そして、ここで特にパウロの念頭にあることは、「男女の性の問題」である。その当時の結婚生活外の不品行、汚れ、むさぼりが、パウロの心を痛める問題であった。
   聖書的な視点から言えば、「性」は神様からの「賜物」であり、「祝福」として人間に与えられたものであった。しかし、人間はそれを呪いに変えてしまった。十戒にも「隣人の妻を欲しがってはならない」とあるにもかかわらず、権力者や財力のある者たちは、このような事を行なっていた。
   だから、パウロは声を大きくしてエペソの人々に言う。クリスチャンは性的な汚らわしい事を口にしてはならない。さらには、心で思うことも避けなさいと・・・

   どうしてパウロはそこまで厳しくエペソの人々に書いたのであろうか?今のトルコの位置する「小アジア」と呼ばれる地域では、性的な堕落が蔓延していたからである。ギリシャからもたらされた偶像神、その時代のエペソの大女神アルテミスという「豊穣の女神」があったからである。礼拝に「酒池肉林」ともいえる「乱行パーティ」が伴うのが当たり前の社会であった。人々は偶像を拝み、不品行、不道徳に走っていた。信仰によって男女の性をどう捉えるかが混乱していたのである。ある者は放縦に生き、ある者は禁欲に生きるという両極端がみられた。
   神様は神のかたちに人を造られた。そして、男と女を造り「一心同体」となるように祝福された。雅歌においては性の交わりは最高の至福として、エペソ書や黙示録では、クリスチャンや教会を花嫁に例えられている。

   5:4  「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。」そんなことを考えることが、神様が人を造られた目的ではない。そのような考えの中には罪の性質や自己中心の性質が隠されている。神中心であれば「感謝」の心が湧いてくるはずである。神さまから付与される「男女理解」「性理解」に感謝しなさい。
   フランスの歴史思想家が書いた6巻にわたる「性について」の歴史の本がある。その中に記されているのは、私たち人間には「耐え難いほどの遺産」として、性=罪として考えるところがあるという。
   しかし、聖書を正しく紐解けば、「性」は神様の祝福であり、創造の光に照らしてみれば「感謝」なこととしか表現出来ないはずである。

   パウロはエペソの人たちに、「性」を人間の歪んだ理解からではなく、神様の聖い贈りものであると捉えるようにと教えている。もし、エペソの人たちが一般的な意味で「性」を捉えるならば、神様は安っぽいお方となり、冒涜に値することとなるのである。(仁美記)

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