"Old"ナルドの香油


201709-12_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ  


記録: 安黒仁美



2017年11月19日 新約聖書エペソ人への手紙06:18-20(MP3/YouTube)「御霊によって祈りなさい―サルバトール・ムンディ」

長いようであった「エペソ書よりの傾聴」も来週で終わりである。スット著『エペソ人への手紙のメッセージ』から学びつつ語り続けた。聴いてくださった会衆からも好評であったが、ストットを通し「エペソ書そのもの」に傾聴し続けた私自身が一番祝福されたように感じている。ストットのみ言葉を聴き取る力とそれを整理して「モナリザの男性版ともいわれる”サルバトール・ムンディ”のようなひとつの美しい絵画」に仕上げる力量には恐れ入った。このシリーズの期間、わたしはストットの膝元で聖書とは何か、聖書解釈とは何か、説教とは何かを教えられ続けた「ひとりの弟子」のような感覚に陥った。
 今朝の箇所は、エペソ6:18-20である。6:10-17の「御霊による神の武具」に続き、「御霊による祈り」が奨められている。
 v18、この祈りは、四つの要素がひとつのキーワードで結ばれている。それは"all"という言葉である。「どんな"all"ときにも」、「すべて"all"の祈りと願いを用いて」、「忍耐の限り"all"を尽くして」、「すべて"all"の聖徒のために」と美しい讃美歌のような” 繰り返しのフレーズ”がある。そこでは、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして汝の神である主を愛せよ」。そのエコーとしての「汝自身と同様に汝の隣人を愛せよ」と繋がるスピリットで貫かれている。祈りも信仰もその中心軸は微動だにしていないのである。それゆえ、我々はあれをしなければならない、これをしなければならないと”右往左往”する必要は何一つない。本当に必要なことは「ただひとつなのである」。

2017年11月12日 新約聖書エペソ人への手紙06:16-17(MP3/YouTube)「信仰の大盾、救いのかぶと、剣である神の言葉」

 今、日本海には、米国の三つの空母群が展開しており、それに日本の自衛隊と韓国の軍隊が加わり演習を行っているという。世界最強の軍隊のデモンストレーションであり、北朝鮮の行動に対する威嚇である。それはまた、間接的にロシアのバルト三国への脅威、中国の南シナ海進出に対する威嚇でもあろうと思う。無謀な行動に出れば、世界の警察官たる米国が黙って見過ごすことはないという示威行動である。戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア紛争等、多くの争乱があった。ぎりぎりのところで平和を維持してほしいものである。
 エペソ書を書いたパウロの目の前にも、当時世界最強の軍隊があった。ローマ帝国の軍隊である。そしてのその装備は完ぺきなものであった。そしてパウロは神の国の悪に対する戦いを類比して語り、神の国の兵士たるわたしたちが身に着けるべき装備品について説明する。
 v.16「信仰の大盾」とは何か。当時ローマ軍には小さな丸い小盾と、大きな長方形で縦120cm、横75cmの大盾とがあった。「これらすべてのものの上に」と兵士のいのちを覆うように守るのが、この大盾である。この大盾は、悪魔が打ち込む、良心の呵責をかきたてる火矢を跳ね飛ばし、「みな消す」ことができる。
 v.17a「救いのかぶと」をかぶりとある。ローマ軍のかぶとは、羽飾りのあるものもあり、美的にも優れたものであった。しかし、それ以上に頭や顔を守るためにいろいろな工夫がなされていた。特に顔の部分には顔の両側から蝶番で開け閉めできる覆いがついていた。ローマ兵士の装備は、まるでアメリカンフットボールの選手の装備のように完璧である。そのように私たち神の国の兵士のヘルメットもまた完璧である。そこには「罪の赦し、肉の力からの解放、神の子とし、神の家族の一員としての立場、復活に預かる約束、神の御子に似た者に変えられる望み」等が詰まっている。
 v.17b「御霊の与える剣であるみことば」とは、イエスが荒野で戦われたのと同じである。霊感された神のみ言葉の正しい適用は、霊と魂を切り分けて、動機までも明らかにさらす。また、黙示録にあるように、それは殉教をも恐れずに語る「証しのことば」である。わたしたちは、人生のドラマにおいて、いろいろな場面に連れ出される。しかし、栄光の御霊がわたしたちの上に、内にとどまり「証しの言葉」が与えられると約束されている。日本史には、キリシタン殉教の歴史がある。スコセッシ監督の『沈黙』の最後には、棺桶の中の転びの宣教師の手の中に「十字架につけられたキリスト」が握られていたのが印象に残った。

2017年11月05日 新約聖書第一コリント人への手紙15:35-41(MP3/YouTube)「おのおのの種に、それぞれからだをお与えになります―世々限りなく星のように」

 親戚のおじさんの前夜式で、親族を代表しての挨拶を頼まれた。その一節である。
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 「わたし個人としましても、川で採って来られたアユをいただいたり、丹精を込めて栽培されたスイカをいただいたり、数々の感謝の思い出で一杯です。
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 庄太郎さんが行かれるところどこでも、病院でも、保育園でも、スイカやサツマイモのおかげもあり、故庄太郎さんのファン・クラブができるくらいの人気のおじさんであったと聞いております。
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 『人間は、生きて来たように、天国でもまた生きる』と言われます。おそらく庄太郎さんは、天国の川でも『アユを採り、ドジョウをすくい、おいしいサツマイモやスイカを作り、多くの人たちに感謝される、人気者となられる』ことと思います。
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 わたしもやがて天国に行く日が来たら『おい、務、おいしいスイカ作って待っとったぞ』と言ってくださるような気がして、またの再会を楽しみにしているところです。」
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 この短い挨拶で、わたしは死の向こう側に存在する希望の光を垣間見せたかった。この挨拶の言葉の背後には、わたしの神学的確信が横たわっている。それを分かちあいたい。
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 C.S.ルイスは、現世の生の意味を、「幼い子供が、仔馬のポニーをもらって乗馬の訓練をしているようなものだ。というのは、新天新地の厩には鼻息荒い競走馬が乗り手を待っているからである」と書いた。
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 E.ザウアーは、わたしたちの現在の生を「リンゴの小さな種」に、来生の生を実り豊かな「リンゴの木」に例えた。
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 H.バーフィンクは「私たちが地上の生において蒔くものを、永遠の生において刈り取る」と記した。
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 新約Tコリント書15:41には「個々の星の栄光」が、旧約ダニエル書12:3には「大空の輝きのように、…世々限りなく星のように」と書かれている。
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 わたしたちは皆、同じ救いの恵みを受け取るが、個々の星々の栄光の輝きは、それぞれ個性的に神の栄光を反映させる。

2017年10月29日 新約聖書エペソ人への手紙06:13-15(MP3/YouTube)「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え」

 エペソ6章後半は、少し難解な箇所でもある。それで、基本的な捉え方をH.ベルコフ著『キリストと諸権威』から学んできた。確認できたことをベースにして、ストット著『エペソ人の手紙からのメッセージ』に戻り、丁寧な聖書解釈を試みたい。
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 v.13「神のすべての武具」とあるが、旧約聖書においては「神ご自身」が砦であり、武具である。わたしたちは、その武具のシェア(分かち合い)にあずかっているのである。その武具は攻撃的なものではなく、霊的な武具である。鎧ではなく、神の栄光の衣である。
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 その武具の第一に、v.14a「真理の帯」とある。これは鎧の下に着けるものであり、ベネマの書名にあるように「福音を正しく知る」ことである。
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 第二に、v.14b「正義の胸当て」とある。これは、福音理解に対する私たちの心の姿勢である。「リバイバルのためには手段を選ばず」という風潮も見られるが、キリスト教会は「目的も、手段も」選ぶべきであるということである。今日、聖書解釈法で二つの懸念される傾向がみられる。ひとつは「ディスペンセーション主義聖書解釈法」の誤った傾向であり、もうひとつは「パウロ研究に関する新しい視点に基づく聖書解釈法」の微妙な問題である。前者に関しては、ラッド著『終末論』や拙著『福音主義イスラエル論』、後者に関してはベネマ著『福音を正しく知る』(翻訳中)で、この課題に向かう上でのガイドラインを示している。エリクソンは「飛行機の場合、わずかなコンパスの角度の誤りが、まったく異なった目的地に飛行機を運ぶことになる」と警鐘を鳴らしている。
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 第三に、v.15「福音の備え」をはくとある。パウロは奉仕生涯の前半は小アジアとギリシャ地方を歩き回って福音を宣べ伝え、諸教会を設立し、長老や若手の教職者に委ねていった。しかし後半生のパウロは、今牢獄にあり軟禁された状態にある。しかし、彼の福音は牢獄にはとどめられていない。彼は、地中海世界を、そしてヨーロッパとグローバルな世界をふるい動かす手紙をしたためた。彼は牢獄にとどめられ、福音理解の深い思索に没頭せざるを得ない環境に縛られたが、その福音理解は「サンダルを履かせられた手紙」となって世界中を歩き続けることとなった。ハレルヤ!

2017年10月22日 新約聖書エペソ人への手紙06:10-13(MP3/YouTube)「神の大能の力によって強められなさい」

 エペソ6章後半から、「キリストと諸権威」をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。本日、日本は衆議院選挙に結果が出た。
 移民・難民・テロの急増から、米国での「アメリカ・ファースト」、ヨーロッパでの「ネオ・ナチの台頭」。北朝鮮のミサイルと核による脅しと日米の対応。中国の軍事強国化と海洋進出。世界情勢の急変は、「平和憲法」があたかも「平和ボケ」であるかのようにレトリックされ、戦後の「平和国家日本」は現在の軍事環境への対応を迫られてきたように追い込まれている。そういうことなのかなと選挙結果を見て考えさせられている。東アジアは、今後「軍拡競争の時代に入るのか?」どうなのだろう。そのようなことを考えさせられている。
 選挙の真の争点はどこにあったのだろうか。種々の見解を聞かせられるが、わたしにはずっと議論になっており、またこれからもなり続けるひとつの基本的な争点があるように思われる。それは、日本国家の約束をどこに置くのかという問題である。イスラエル民族は「アブラハムへの祝福の約束」を基軸に、「モーセの十戒」を与えられ、エジプトの十の災害の只中で守られ、神の民、神の国を形成していった。
 わたしは、日本という国には、江戸の無血開城を通しての明治維新による明治政府、天皇中心制、大日本帝国憲法、国家主義、富国強兵政策というビジョンと昭和における日本人三百万人・アジア二千万人の犠牲の後に与えられた戦後政府、主権在民、日本国憲法、個人の基本的人権、平和主義・軽武装経済重視政策というビジョンの対照的なビジョンが今あるように思われる。
 日本国憲法は、世界の理想を先取りしたような内容をもつ憲法といわれる。ある人たちは、憲法制定の経緯から、この憲法を否定的にみて、明治憲法的なものに郷愁を感じている。しかし、国民の大半はこの新しい憲法に親しみ、その精神を空気や水のように享受して生きている。また、その内容としての精神はきわめて聖書的なスビリットに満ちているといえるのではないだろうか。イスラム世界における過激思想、欧米にみられる危険なナショナリズムに類する日本における右傾化には警戒が必要と思われる。
 戦争と戦後の苦難からの脱出の基盤に、平和憲法があったことを忘れてはならないし、その精神を継承・深化・発展させることに「アブラハムの祝福」そして「モーセの十戒」に類する新しい日本の原点・基盤・出発点、そして未来に向けての理想を探し求め、その本質を今日の東アジア、そして世界にコンテクスチュアライズしていく使命を負っているのではないだろうか。
 歴史からの経験として、一国の軍拡は他国の軍拡・右傾化を生み、ブレーキ・歯止めがきかなくなる危険が潜んでいる。今後、日本は憲法改定の具体的プロセスに入るだろう。北朝鮮や中国の軍拡を利用して、日本の右傾化・軍拡をはかろうとする政治家やジャーナリズムや軍需産業にとっては好機到来である。
 しかし、わたしたちは、それらの風に翻弄されてはならない。圧勝した与党の中にも、「平和憲法を守っていきたい」と考えている穏健かつリベラルな政治家は多くいる。野党の中にも過激な言動をふりかざす政治家もいる。与党・野党の枠組みを超えて、現在の平和憲法の原点を見失うことなく、国民に広く深く理解され、浸透し、現在の平和国家日本を形成してきた平和憲法を前提とし、基軸とした「加憲」という考え方は、優れたひとつのスタンスのように思われる。現在の憲法の「否定」からの出発ではなく、「肯定」からの出発である。そのようなスタンスで、現在の世界情勢に翻弄されるかたちではなく、50年、100年、1000年後の日本国家、日本国民の世界におけるあり方を「理想」を追求する、そのような建設的な、超党派の立場での「憲法調査会」の議論、「国会」での議論を見守っていきたい。
 わたしたちクリスチャンは、旧約・新約全体の歴史をいつも振り返りつつ生きる「聖書の民」である。アブラハムから見れば、四千年の歴史のスパンで思索しつつ生きる民である。そのようなスパンで日本のあり方を眺望し、祈っていきたい。戦争なき世界を探求してやまない「”真の意味での”積極的平和主義」を探求する民として、ひとつの模範的な国家となってほしい。
2017年10月15日 新約聖書コロサイ人への手紙01:13-18(MP3/YouTube)「すべて御子によって造られた―王座、主権、支配、権威」

 エペソ6章後半から、「キリストと諸権威」をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。エペソ6章後半と同じ文脈において、同時期に書き送られた手紙がコロサイ人への手紙である。『キリストと諸権威』を書き記したヘンドリクス・ベルコフ著『キリストと諸権力』の後半に「キリストと宇宙」というヘルシンキ大学神学部講演が収められている。
 そこで扱われているのが、コロサイ人への手紙1:13-18である。読んでいて、この宇宙のすべてのものが「すべて御子によって造られた」こと、そしてその中で摂理の下、歴史的に形成されてきた「王座、主権、支配、権威」の諸権威は、御子の支配の下にあるべきこと、ただ悪しき力にコントロールされる可能性もあること、またみ旨にコントロールされる可能性もあることの両面を教えられる。
 今日、日本では憲法改定を焦点のひとつとしての選挙があり、東アジアは北朝鮮の金成恩委員長と米国のトランプ大統領の動きが微妙である。政治、経済、安全保障政策が選挙では議論される。コロサイ人への手紙1:16には「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」とあり、神の御心に従って、政治も経済も安全保障も政策が立案され、執行されていくことが求められている。
 その意味で、戦争の犠牲の上に、聖書の価値観の本質が、民主主義、基本的人権、平和主義というかたちで勝ち取られた現在の憲法の精神が継承・深化・発展させられるかたちで憲法が現在のまま保持されるか、改訂されるとしてもその本質が変質しないかたちでなされるよう見守っていきたい。

2017年10月08日 新約聖書エペソ人への手紙06:10-20(MP3/YouTube)「B悪魔の策略―誰が主なのか、戦況はどうなのか、その視点に立って堅く立ち続ける」
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 エペソ6章後半をローマ帝国時代、第二次世界大戦、今日の日本、そして東アジアの状況を重ね合わせて見ている。
 英国の王立総合防衛安全保障研究所の分析によれば、米国と北朝鮮の戦争勃発は今や「現実的な可能性」となっている、と報告している。
 わたしたちの目は、テレビやニュースやさまざまなジャーナリズム報道に翻弄され、右往左往させれられやすい。トランブ大統領は、ホワイトハウスで開いた軍高官らとの夕食会で報道陣の冒頭撮影に応じた際、軍高官らを見渡しながら「これが何を意味するか分かるかな。嵐の前の静けさだよ」と述べた。メディアの間では、トランプ政権が近く安全保障分野での懸案に関し、軍事攻撃などの新たな行動に踏み切る前触れではないかとの臆測が広がっている、とのことである。
 戦争となれば、@第一段階として、核施設、ミサイル基地等へのピンポイント攻撃がなされ、A北朝鮮の反撃の程度により、B第二段階として、全面攻撃が考えられているとのことである。報復として、ソウルや東京等、韓国と日本の大都市への攻撃があるかもしれないとのことである。多くの犠牲者と世界的な経済の混乱が懸念されている。北朝鮮が核とミサイルを断念し、平和裏に問題の解決が図られることを祈りたい。
 ここでパウロの洞察から教えられることは、@悪魔の策略のひとつは、「誰が主の主、王の王であるのか」を見えなくすることであると教えられる。創造の神、贖罪のキリストは、今や王の王、主の主として御座の右の座に着座されている。A悪魔の策略の第二は、戦況を見えなくすることである。わたしたちは、局地戦の一進一退に目を奪われ、敗退の危機にあるのかと誤解しやすい。しかし、わたしたちはキリストの贖罪と復活により、すでに勝利を確定(Dデイ)されている。そして最終的な勝利に向けて掃討戦の中にある(Vデイ)という、戦況の全体に目を向ける必要を教えられる。Bそのような立場と全体を見渡す視点を抱きつつ、現在の「邪悪な日」の只中で、堅く立っていくことが求められているのである。

2017年09月24日 新約聖書エペソ人への手紙06:10-20(MP3/YouTube)「A邪悪な日に際して対抗できるように、堅く立つことができるように―小さな光が大きな闇を吹き払う

エペソ6章後半をローマ帝国時代と今日の日本を重ね合わせて開いている。その背景と文脈の理解から始めている。今朝は、@「主権、力、支配、暗闇」という状況理解、A「対抗でき、堅く立つ」ための備え、B「真理、正義、平和」の価値観、C「信仰、救い、神の言葉」という武器、D「御霊、祈り、語るべき言葉」という実際について、考えてみたい。
 解散前に、小池百合子氏と松井一郎氏と安倍晋三氏の極秘会談がなされていた(朝日新聞、10/1一面)そうである。これはわたしの想像であるが、「協調と共にどこが勝っても、憲法改定に向けて協力しあう相談がなされた」というのはうがった見方であろうか。民進党解党と希望への合流の流れで、リベラル派のそぎ落としがなされようとしている。ここで少し全体のストーリーが見えてきた。民進党内のリベラル派は参議院議員とともに、リベラル派新党の準備入ったようである。
 改憲勢力が多数派を占める流れにあるのかもしれないが、日本国の極端な右傾化に少しでもブレーキをかけるために、リベラル派新党?には頑張っていただきたいと思う。「塩が塩気を失ったら、何の価値もなくなってしまい、捨てられるだけである」。少数政党であっても、“塩”の役割を果たす勢力の存在は貴重だと思う。多数派を狙って、主義主張を変質させていく議員たちは最後には価値なく捨てられていくことになるのではないだろうか。

2017年09月24日 新約聖書エペソ人への手紙06:10-20(MP3/YouTube)「主権、力、この暗闇の世界の支配者たちー『キリストと諸権力』

『キリストと諸権力』という本がある。この本は、第二次大戦が終わった翌年に書かれた本である。H.ベルコフは、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2:15)の説教を準備中、突如としてパウロの『権力論』が、当時およびわれわれが直面した問題に、鋭く肉薄してきたのを、今でも生き生きと思い出さずにはおられない」と日本語版の序を書き始め、そして「日本の主にある兄弟姉妹たちが、今日、この目まぐるしく移り変わる時代にあって、この世の隠れた背景にある諸権威や諸権力に、言葉と行為をもって、神の多種多様の知恵を告知する道を見出すために、この小著が役立つならば幸甚である」と締めくっている。
 高槻福音自由教会での『エペソ人への手紙』傾聴シリーズ準備のために、エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)のパラグラフに傾聴しようとしている。この箇所の理解のために、まず最初に読み返したいと思った本が上記の著作であった。昨日一日かけて関連聖書箇所を何度も開きつつ丁寧に読み返した。
 そのときに、二年前に安保法案を扱った『雅歌』傾聴シリーズで扱ったテーマと今週から一宮チャペルで扱おうとしている『エペソ書6:10-24』傾聴シリーズのメロディーがシンフォニーのように調和して響き渡るのを感じた。
 パウロが、ローマ帝国時代に牢獄から、迫害期を予感しつつ書きとめ、ペテロ書、ヨハネの黙示録へとつないでいったシンフォニーを、安保法案から憲法改正(改悪?)時代へとシフトしつつある日本にも響かせてみたい。

2017年09月17日 新約聖書エペソ人への手紙06:05-09(MP3/YouTube)「奴隷たちよ、主人たちよーコーラム・デオ(神の御前に)」
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1. 奴隷制度というのは、古代の世界では普遍的にみられました。
ある神学者は、ローマ帝国においては約6000万人の奴隷がいたであろうと書き記しています。
彼らは、各家庭における家事や農場の労働力としての奴隷の場合もあったが、医者や教師や行政官のような専門的能力をもつ奴隷もいました。
奴隷は、家財や家畜のように相続され、売買もされていました。
彼らは、いろんな理由で奴隷の身分に身を落としていました。返済できない借金の場合もありましたし、戦争により捕虜となり奴隷とされたて者も多くありました。
ヘンドリクス・ベルコフという神学者は、キリストの贖罪に根差す御霊の働きが、社会のさまざまな制度を変革してきたと述べております。
奴隷制度の克服もまた、人権宣言なども、長い目で見れば、そのような神の再創造の御手の働きと考えてよいと思います。
南アフリカの人種隔離政策の克服もまたそのような取り組みでありました。
今日においても、ユーゴスラビア解体後のボスニア・ヘルツェビビナでの民族虐殺・民族浄化問題、
最近では、ミャンマーでの少数派イスラム教徒ロヒンギャの民族虐殺・民族浄化問題が起こっております。
わたしたちは、神の知恵、知識の光が注がれ、民族や宗教の壁を超えた解決が与えられるよう祈る必要があると思います。
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2. 雇われ人、雇い主における「キリスト中心主義」の原則
6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、「キリストに従うように」、”恐れおののいて””真心から”地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、「キリストのしもべとして」、”心から神のみこころを”行い、
6:7 人にではなく、「主に仕えるように」、”善意をもって”仕えなさい。
6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、「それぞれ”その報いを主から”受ける」ことをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して「同じように」ふるまいなさい。「おどすこと」はやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を「差別されることがない」ことを知っているのですから。
この教えのキリスト中心主義ははっきりと打ち付けられています。
奴隷の視点は、変化させられています。
彼は、人にへつらい喜ばせようとする奴隷根性から解放されています。
彼の命令による任務はより高い第一の任務に吸収・昇華されています。
すなわち、神の御心、キリストを喜ばせることに焦点が当てられています。
この同じ原則が、今日のすべての職業に応用することができます。
わたしたちの最大の必要は、イエス・キリストを真正面に置くことです。
主婦においても、キリストに料理を準備するように、キリストをお迎えするために掃除をするように
教師が子供を教える際にも、
医者が患者を診る際に、看護師が病人の世話をする際に、
店員がお客さんを応対する際に、
それぞれの事例において、彼らが”あたかも”イエス・キリストに仕えるように。

2017年09月10日 新約聖書エペソ人への手紙06:01-04(MP3/YouTube)「子供たちよ、父たちよーコーラム・デオ(神の御前に)」
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おはようございます。七月末より、四回に分けて、ローマ人への手紙4章を開いてきました。それは、9/3の岬福音教会の礼拝準備と重ねてでした。9/17には、高槻EFCの礼拝奉仕と信徒セミナーがありますので、来週からはエペソ人6章を開きたいと思っていました。しかし、急遽、フリー聖餐の問題が生起し、十日ほどその克服・解決に尽力しておりました。予定は少しずれましたが、今日と来週は、エペソ6章前半を学びたいと思います。
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第一節には、6:1 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものですとあります。この「あなたの父と母を敬え。」は、十戒前半の神に対する畏怖・崇敬の最後の命令であり、十戒後半の隣人に対する敬意・尊重の最初の命令であります。この戒めは前半・後半の戒めの「蝶番」のような役割を果たしています。
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この前半の「神への畏怖・崇敬」のスピリットは、第五戒の「父と母を敬え」の蛇口を通して、隣人愛の水路へと流れていくかのようです。それは、ちょうど神の権威・神の造られた秩序というものへの畏怖・崇敬は「目には見えません」。しかし、それは、この地上にある「見える、具体的な秩序である親子関係の秩序」の中に映し出されると教えているかのようです。つまり、「神を畏怖し、崇敬」しているといいながら、「親に対する敬意・尊重」に欠けているということは矛盾であることを暗示しています。わたしたちが神さまを畏怖と崇敬しているというなら、その畏怖と崇敬のスビリットは、父母への関係の中に投影されていくことが大切です。
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第二に、「6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と父母に対する教えが示されています。この箇所から教えられることは、エペソ5:29 「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」キリストが教会を「養い育ててくださる」ように、夫は、妻を「養い育てなさい」ということです。
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ウィリアム・バークレーという神学者は、ローマ時代の父親の権威というのは、家庭では絶大であったと記しています。父親は、子供を奴隷として売ったり、農場で鎖につないで働かせたりでき、父親は家庭における「法律そのもの」であり、好きなように罰することも、死に至る刑すら与えることができたとのことです。そのような時代において、パウロは、この世の事象すべてのことの中に、この世のすべての人間関係、夫と妻、父母と子、雇い主と雇われ人、すべての人間関係の中に、神の愛と祝福を見ていました。
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神は、太陽の光のようであり、キリストはその光を美しい七色に分色するプリズムのようです。夫と妻の関係に親と子供の関係に美しい光の色を描き出しています。信仰の本質をあらわす言葉として、ラテン語で「コーラム・デオ」という言葉があります。これは「神の御前に」という意味です。
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クリスチャンは、み言葉に導かれて、「神を生活の中心」とし、「神の御前に」生きようとします。み言葉とともに働く御霊は、詩篇の記者のように「昼も夜も神を思う」生活に導きます。クリスチャンは、何を行っても、そこには「神の御前で」という意識が伴い、その意識に貫かれています。生のどの領域も神様から遠く離れているものはありません。わたしたちは、その意味で、夫と妻、親と子、雇い主と雇われ人の間に、神さまの御前から注がれている光を感じ取り、さらにそこに「十字架というプリズムで分色された色、神さまが置かれている意味」を発見していかねばなりません。わたしたちが、そこにそのような意味をほのかに見出していくとき、人生のすべてのポイントで、人間関係のすべてのポイントで、出来事のすべてのボイントで、「神の意味」を発見し、そのことが、わたしたちの生に輝きを与え、生に活力を与えるのです。(務記)

2017年09月03日 岬福音教会礼拝説教、安黒務「キリスト教信仰入門C(YouTube)―聖餐式の背景、本質、実践の原則」新約聖書 Tコリント11:23-26、10:16-17、11:27-28
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【キリスト教信仰入門C―聖餐式の背景、本質、実践の原則】
序―伝道のために「"受洗者陪餐の原則"をゆるがす教職者の資格はく奪事件」をどう受けとめるか
? 聖餐式の背景―Tコリント11:23-26
_a. 聖餐式制定の聖書の背景
_b. 聖餐式遵守の教会史的状況
? 聖餐式の意味―Tコリント10:16-17
_a. キリストの死のバプテスマにあずかることと、キリストの血・からだにあずかること
_b. 象徴と福音理解の全体の関係―海面上の氷山の一角と海面下の氷山の巨塊
? 聖餐式実践の原則
_a. 「愛→結婚式→夫婦生活」と、「信仰→洗礼式→聖餐式」の類比関係
_b. 陪餐対象は「十二弟子」、信じてバプテスマを受けた責任ある教会員は「キリストの弟子」
結び―信じて、バプテスマを受け、責任ある教会員となってから聖餐式にあずかるべきではないか
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【聖餐式の実践】(受洗者のみに陪餐)
賛美 聖歌206 しみもとがも 1.2.3.
・式辞
・聖書
・聖別祈祷
・パンの分餐 BGM 聖歌396
・杯の分餐 BGM 聖歌402
・感謝祈祷
・賛美 聖歌206 しみもとがも 4.5.6.
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 神学校を卒業し、三年間母校で助手として奉仕し、七年間岬福音教会牧師として奉仕させていただいた。神学研鑽への重荷捨てがたく、祝福されていた教会の牧師を辞し、三年間共立基督教研究所にて宇田進師を中心に薫陶を受けた。研修後、郷里に帰り、家業を手伝いつつ、開拓伝道と神学教育に集中させていただいた。ときどき、岬には礼拝奉仕させていただいていたが、前任の牧師の下で十年ほど前に「フリー聖餐」に移行していたとは知らなかった。今回、わたしのスケジュールの都合で第一聖日となり、聖餐式も引き受けた。しかし、奉仕十日前に「フリー聖餐」スタイルに移行していることを知らされ、わたしが「受洗者陪餐」に取り組んできたことを説明し、「奉仕のキャンセルか、日程変更等」をお願いした。この春からの新任の牧師と相談する中で、今回の機会を「フリー聖餐から、正常な“受洗者陪餐”」にする契機としたい意向が伝えられてきた。それで、奉仕までの十日間は「主が、寝ずの番」をされたように、すへでの奉仕を棚に上げ、愛する岬福音教会のため、わたしも寝てもさめても、このテーマをどう扱えばよいか苦闘していた。その結実が、今回の礼拝説教であり、聖餐式である。わたしの岬福音教会に対する深い愛を感じ取っていただけたら感謝である。
 この十日間、八月末までベネマの著作の翻訳を棚上げにしてきたので、今日、集中的に「フリー聖餐問題を分析・評価する」シリーズとしてアップさせていただいた。明日からは、ベネマの翻訳に戻りたい。わたしの拙い諸資料が、「フリー聖餐問題」の解決に役立てていただければ幸いである。

2017年09月03日 新約聖書Tコリント人への手紙10:16-17(MP3 / YouTube)「キリストの血、からだ、ひとつのからだにあずかる―象徴と福音理解の全体」
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聖餐式の意味について(パート2)
今日の箇所には「聖餐式とは何か?」が簡潔に示されている。それは、「キリストの血、からだ、1つのからだにあずかる」ということである。
「聖餐式」とは「教会の心臓部分」であるという事が出来る。聖餐式とは「いつでも、どこでもどんな時にも」「洗礼を受けた者に限定して」もたれてきた儀式なのである。
求道者や新しい方々に疎外感を与えるのを避けるために、「フリー聖餐」(洗礼を受けた信者でなくても誰でも聖餐にあずかれるやり方)を行われる教会がある。そして、それを勧める本も存在する。
しかし、それは非常に大きな問題を含んでいる。「日本基督教団」では、団体から注意を受けたにもかかわらず、「フリー聖餐」を止めようとしない教職者に対して、教職者資格剥奪の命令が下された事例がある。

「フリー聖餐」とは、あらゆる人に聖餐にあずかってもらうという聖餐式の持ち方である。高い敷居をやっとの思いでまたいで来てくださった来会者に対し、「聖餐式」という儀式のために「疎外感」を与えるのは問題ではないか?という思いやりの気持ちから起こった解決法?である。
新来会者や求道者に対して「ウェルカムの心」や「おもてなしの心」は大切である。だから、それは礼拝の後の「愛餐会」で大いにおもてなしすれば良い。しかし、その「おもてなしの心」を、「聖餐式」で発揮することには、深刻な問題がある。
そもそも2000年の間、主イエスが定められ、その持ち方を使徒パウロが聖書の中に書き記して来た由緒ある儀式である。そこには、洗礼を受けた信者によってのみあずかるという大切な決まりがある。

「聖餐式」の意味を、お寺で甘茶を飲みお菓子をいただくような感覚で捉える方もおられる。しかし、それとは全く意味が違うのである。
2000年の間、教会の心臓部分として、イエス様を心から信じて公に洗礼を受けた者たちが、毎月(教派によっては1年に一度など、持ち方は様々であるが)継続的にあずかる儀式、それが「聖餐式」である。
心で信じたことを公に告白する2つの儀式、それが「洗礼式」であり、「聖餐式」であると言えるだろう。

「洗礼式」は、イエス・キリストの「死と葬りと復活」を象徴した儀式であり、信仰の本質を絵画的に象徴した素晴らしい儀式である。それに対して、「聖餐式」は、イエス・キリストとの「最後の晩餐」を象徴している。そこに招かれたのは弟子たちのみであった。
その食事の後、イエス様はゲッセマネの園に出向かれ、血の汗を流し祈られた。そこで、弟子の裏切りによって捕らえられ、裁判を受け、いばらの冠をかぶせられ、40に1つ足りない鞭を受け、嘲られ、罵られ、ドロローサの道を歩まされた。
その当時、最も過酷で悲惨な十字架刑に処せられた。釘で打ち付けられ、強盗と共に、肉体的精神的、霊的な苦しみを味あわれた。その時裂かれた肉体と流された血を象徴して受ける儀式が「聖餐式」なのである。
決して軽々しく行ってはならないし、誰でも受けても良い式ではない。

主イエス・キリストへの信仰は「幼子のような信仰」でも良い。しかし、パウロが手紙に記しているような「福音」の深さ、豊かさを、学び理解することを怠ってはならない。その信仰の1番基本であって大切なのが「洗礼式」と「聖餐式」なのである。
海に浮かぶ氷山のほとんどが海の中に存在するように、私たちが学ぶべき福音の本質は巨大なものである。
10:16 a「私たちが祝福する祝福の盃は、キリストの血にあずかることではありませんか。」
私たちが目にして手に取るのは「イエス・キリストの血」を象徴する「ブドウジュースの杯」である。しかし、その一杯の小さなジュースには、巨大な福音理解を抱えている。
ローマ1,2章には「死と滅び」に直面した私たちの姿が描かれている。また、3~5章には「キリストの犠牲による贖罪の御業とその価値」が描かれており、私たちはその小さな杯によって、福音の全体を味わうことが出来る。

10:16 b 「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
ローマ6~8章には、キリストと共に十字架につけられたことにより、「罪の力から解放された」こと、「律法から解放された」こと、いのちの御霊により「罪と死の法則から解放された」こと、イエスが死からよみがえらせられたように、「私たちもよみがえらせられるように生かされる」こと、内住の御霊が、キリストに復活のからだ、栄光のからだを与えられたように、私たちも「復活のからだ、栄光のからだが与えられる」ことを意味している。

10:17 「パンは1つですから、私たちは、多数であっても、1つのからだです。それは、みなの者がともに1つのパンを食べるからです。」
もともと1つのパンであった物を、私たちがいただく。キリストのからだを象徴するパンをいただくことには、私たちが神の御霊を宿しているという意味がある。1人ひとりはキリストを頭とするいろんな器官であって、責任ある教会員である。
「キリストのからだにあずかる」ということは、深い大きな意味を持っているのである。

私たちはパンをいただき、杯をいただくごとに、この深い福音の奥義を味わわなければならない。(仁美記)