"Old"ナルドの香油


201701-04_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ  


記録: 安黒仁美

※1/1より、多くの機器にて視聴できるよう、ファイル形式をmp3のみに変更しています。


2017年04月23日 新約聖書エペソ人への手紙04:29-32(MP3)「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません―聖霊を悲しませるな!」

本日は高槻の教会での奉仕のため、一宮チャペルは録音による礼拝である。高槻でのメッセージはエペソ4章の後半であるが、一宮チャペルでは1月かけて学んで来た。

   4:29  パウロは言う。「人間の口の使用は、神からの賜物である。」と・・・
私たちの神様は語りかけて下さる神であり、人間は語る生き物である。そこが他の動物とは違う存在であると言えるだろう。人間は神に似せて造られた存在であり、話すことの出来る唯一の存在である。

   言葉はまた、私たちの心を明らかにする道具である。不注意な言葉、軽率な言葉は神様のノートに全て記録されていて、裁きの時には評価されると言う。使徒ヤコブもまた「舌」の力について語っている。救われて新しい創造物である人間は、会話の新しい基準を発展させるように召されている。言葉で人を傷つけるのではなく、人を助け、励まし、愛し、安らかにし、激励するように召されている。クリスチャンは言葉の語り方においても、成長していかなければならないのである。

   箴言  12:18に「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」とある。また、今日の箇所4:30には「神の聖霊を悲しませてはいけません。」と書かれている。パウロはここで、言葉について述べた直後に聖霊について言及している。
   人はあらゆる行為の背後に、目に見えない人格的な存在がある事を知っている。そして、私たちの内におられる聖霊は、聖い人格の持ち主である。4:27に「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」とある。そして、「聖霊を悲しませるな!」と言うのである。悲しみ、これはギリシャ語で「リペオー」と言い、(悲しみ、痛み、苦しみ悩むこと)とある。これらの感情は人格ある存在が経験することである。
   「聖霊」、彼は不義・不一致を悲しまれる。また、真理の御霊であるが故に、言葉の誤った使用に驚かれる方である。

   私たちは贖いの日のために「証印」を押されている。贖いとは最終的に救いが完成する日であるが、私たちは既に「罪の赦し」と「御霊の内住」という贖いの恵みに預かっている。最終的な救いの完成のための、プロセスにあると言えるだろう。救いの発端と完成の間におり、存在の全てが贖われる途中にある。
   御霊はその発展の一部始終を、一喜一憂しながら辛抱強く見守っていて下さる。御霊は感受性の優れたお方なのである。

   4:31には、6つの御霊にとって喜ばしくない事柄がリストされている。また、4:32には、反対に3つの喜ばしい事柄がリストされている。イエス様は「悪い木は悪い実を実らせ、良い木は良い実を実らせる。」とおっしゃった。
   私の昔住んでいた家には沢山の柿の木があった。その中に1本だけ渋柿の木があった。甘柿は熟れれば直ぐに食べられるが、渋柿は食べられない。だからと言って捨ててしまう必要はない。渋柿は取って皮をむき、軒先に吊るしておけば2~3週間で甘柿とは全く違う濃厚な甘い柿になるのである。
   私たちは以前は31節にあるような悪い実を実らせるだけの木であった。しかし、キリストとともに十字架に付けられて、古き皮を脱ぎ捨て、今は御霊を内住している。聖霊の辛抱強く優しいフォローによって、私たちは甘柿よりももっと甘い干し柿となり、32節にあるような良い実を実らせる木に変えられつつあるのである。
   だから、この御言葉を心に留めて生活したいと思う。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(4:29)(仁美記)

2017年04月16日 新約聖書エペソ人への手紙04:25-28(MP3)「施しをするため、正しい仕事をし、働きなさい―御霊の道筋としての十戒」

 今朝は、キリスト教の暦の上で、最も大切な「キリストの復活をお祝いする日、英語表現で”Easter”イースターの日」、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとして死なれ、葬られ、三日目によみがえられた日です。全世界で、復活祭のお祝いの行事がなされています。
 今朝は、今日のテキスト、エペソ4:25-28から「イースターのキリストの復活」の意味について学ぶことにしましょう。わたしたちは、キリスト教教理の小さな「宝石箱」のようなエペソ書が、あの歴史を揺るがしてきた論文、ローマ書と重なり、符合することをみてきました。
 今朝の箇所とイースター復活祭を結びつけるローマ書の言葉は、ローマ6:4b「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とある言葉です。つまり、「キリストの復活」がわたしたち「クリスチャン生活の新しい歩み」と重なるものであるということです。クリスチャンとしてのわたしたちの「新しい日々の歩み」は、「日々、よみがえりいのちによって、死者の中からよみがえらされるようなかたちで生かされる歩み」であるということなのです。
 では、「よみがえりいのちによる新しい歩み」とは具体的にどういうものなのでしょうか。そのことが、エペソ4:25-28に記されています。「復活のいのちによる新しい生活」とは、25節「偽りを捨てる」こと、26-27節「憤ったままでいない」こと、28節「盗みをしない」こと、「正しい仕事をする」こと等が挙げられています。
 ここを読んでひとつのことを気づかされます。それは「モーセの十戒」であり、その十戒の本質的解説である「山上の垂訓」です。十戒とは何でしょうか。種々の律法とは何でしょうか。ローマ7:12に「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」とあります。十戒を中心とするさまざまな律法は、神様の聖いご性質に根差すものであり、神様のわたしたちに対するみ旨を表現するものです。
 よく「律法主義」とか「律法主義者」とか、否定的な意味で使用されることがありますが、それは「律法」の本質的意味をはき違えて解釈・適用した場合に言われる表現です。
 この「はき違え」とは異なり、ジョン・ヘッセリンク著『カルヴァンの律法についての概念』の最後の要約には「カルヴァンにとって、最も豊かな意味における律法は、神の言葉と同一であり、御霊の恵みと同一なのである」とまとめられています。アーメンです。
 わたしは、パウロの「御霊による新しい歩み」「よみがえりいのちによる新しい歩み」の道筋に、「モーセの十戒」で示された道筋との重なりをみるのです。
 25節「偽りを捨てる」ことは、出エジプト20:16「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と重なります。26-27節「怒り、憤ったままでいない」ことと、マタイ5:21-22「殺してならない、腹を立てる」の実と種の関係、28節「盗みをしない」ことと出20:15 「盗んではならない」、「正しい仕事をする」ことと出20:8 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」、出 20:9 「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」とが符合するように思います。
 要するに、「御霊による新しい歩み」「よみがえりのいのちによる生活」とは、聖書のみことば、律法、十戒という楽譜に合わせて歌う生活であり、その本質的なリズムに合わせて踊る踊りであるということです。聖霊は、そしてよみがえりいのちはそのように働かれるということなのです。
 前回みたように、「古き人を脱ぎ捨てる」、つまり「偽り」「憤り」「盗み」の生活を捨て、訣別する必要があります。そして「新しき人を身に着ける」、つまり「真実を語り」「怒りをコントロールし」、「正しい仕事をなし、施しのできる生活」を身に着けるよう指導しています。
 このようにみていくと、最初に申しました、今朝の箇所とイースター復活祭を結びつけるローマ書の言葉、ローマ6:4b「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とある言葉―「復活のいのちによる新しい歩み」「よみがえりいのちによる新しい生活」は、「天にのぼる」ようであったり、「地の奥底に下る」ようにわたしたちの日常から縁遠い話であったりするのではなく、わたしたちの「近く」にあり、わたしたちの「心」にあるということを教えられるのです。
 キリストにあり、御霊にあって、そのように、それほどまでに「身近か」にあり、日常的な「復活のいのちの歩み」「よみがえりいのちの生活」をこのイースターの朝、そして今週も日々、瞬々歩んでまいらせていただきましょう。(務記)

2017年04月09日 新約聖書エペソ人への手紙04:20-24(MP3)「古き人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けなさい―バプテスマ、死・葬り・復活の原理」

  今週は受難週である。2,000年前に、イエス様が十字架にかかられた事を覚える一週間である。金曜日に十字架にかかられ、亡くなられ、葬られ、日曜日に復活された事を考える週である。
  今、世界の人口は約70数億人、そのうち20数億人がクリスチャンだと言われている。その一人一人がどの様にしてこの1週間を過ごすのだろうか?

  今日の箇所には「古い人を脱ぎ捨てるべきこと」(4:22)、また「新しい人を身に着るべきこと」(4:24)と書かれている。受難週である今週に、ふさわしい箇所ではないだろうか?
  パウロは洗礼式の様子を思い浮かべながら、この箇所を書いたと考えられる。
洗礼式に臨み、羽織っていたガウンを脱ぎ捨て、人々は川や池に入って行く。洗礼式はキリストの死と葬りと復活とを重ねた儀式である。その事はローマ6章にも書いている。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(6:4)

  古い人を脱ぎ、新しい人を着るとはどういう事なのだろうか?
  着る物にはいろいろな種類がある。作業着として考え出されたジーンズは、どちらかというとラフな若者の服だろう。また、会社に出かけるとなれば、多くの人はスーツを着る。結婚式には美しいドレスを着、お葬式には悲しみを表す喪服を着る。
  もし、それが逆になれば、おかしな事になってしまう。それぞれの状況、儀式に応じて、人はふさわしい服装を選ぶのである。

  また、着る物は、その人の職業を表す。
軍隊に属している人は軍服を着ているし、裁判官は厳粛なガウンを身につけている。その服装が、彼らの職務を表しているのである。役割が変わり、立場が違うと衣装も変わる。
  囚人は囚人服を着ているが、刑期を終えれば普通の服に着替える。同じように、兵士も退役し兵士でなくなれば、普通の服装となる。

  4:22  パウロは私たちがまだキリストを知らなかった時は、「虚しく暗く無知で、偶像礼拝をしても何とも思わない人間であった」と言っていた。また、「知性においても暗く、道徳的に無感覚で、不潔な行いをしていても平気であった」とも言っていた。
  しかし、キリストを知った今、「あなた方はそのような行いはやめなさい!そのような汚れた服は脱ぎなさい!」と言っている。

  キリストの死と葬りと復活によって、新しくされたあなた方は、「罪の奴隷であった頃の服は脱ぎ捨て、クリスチャンにふさわしい服を着なさい!」と勧めている。
  クリスチャンとして新しい服を着るとはどういうことなのか?それは日々、キリストの十字架の死と葬りと復活を体験していくという事である。私たちの生活様式の中に、倫理的基準の中に、その一瞬一瞬、奇跡の中に生かされている事を認め続けるという事である。
  私たちの内には肉なる性質が残っている。自然にしていれば、引力の法則のように悪に傾く情けない者である。しかし、毎日下着を新しい物に交換するように、毎日脱ぎ捨てては着替える、一瞬一瞬脱ぎ捨てては着替える、この繰り返しが地上における正しいクリスチャン生活である。(仁美記)

2017年04月02日 新約聖書エペソ人への手紙04:17-19(MP3)「異邦人のように歩むべからず―空しい心、暗い知性、頑なな心、道徳的無感覚」

「キリスト教教理入門」の翻訳を終えて1ケ月、いのちのことば社では水面下での取り組みが行われており、今週にもこれからの予定が告げられると思う。
   この本の出版に合わせて、過去25年間の講義の記録を公開しつつある。1つの講義が30分〜3時間と様々であるが、1日1つの公開を行い、1週間では7つの公開となる。
   ICIサポーターに登録し、出版される「キリスト教教理入門」の本とビデオでの学びをしていただくと、神学の学びがその方の血となり肉となる「大きな助け」となると期待している。
   ボブディランの「風に吹かれて」という歌があるが、私もキリスト教界全体に『キリスト教神学』に続く、一大ムーブメントとしての風を吹かせたい!と願いまた夢を見ている(使徒2:17)。

   以上の学びと関連付けると、今日の箇所はまさしくパウロの人間理解(人間論)であり、神から離れた人間の状態(罪論)である。
   ローマ書にも同じ内容が書かれている。(ローマ  1:18〜33)
古代教会の神学者であるアウグスティヌスは「人間には神によってしか埋められない空洞がある」と言った。本当の神を知らなければ、どんなに豊かで社会的地位があっても、どうしても否定できない空虚感や絶望感を味わうということである。

   4:17  今日の箇所の17〜19節と20節以降とは、対照的なコントラストを描いている。「キリストを信じるクリスチャン」と、「神を知らない人々」の心の状態や光と闇についてである。

   4:18  神を知っていると「神の命」に満たされ、幸福感に満たされるという。しかし、「神の命」から遠く離れていると、真昼なのにまるで暗闇の中にいる様だという。なぜならば、「クリスチャン」が聖書を通して、神にある幸福な生き方を学ぶのに対して、「神を知らない人々」は虚しい心のままで、神を知らないで歩んでいるからである。
   「彼らは、その知性において暗くなり」神様の命を知らないと、知性においても暗くなるのだという。岩陰にいる虫が日の光をさけて生きる様に、神様を知らない人々は自分自身が何のために生まれ、何を目標として生きていくべきか?がわからないのである。
   カルヴァンは「まず最初に神様を知ることなしに、いかなることも知りえない」(キリスト教綱要)と言った。神様を知らないと、人間は自己存在の根源がわからなくなるのである。

   4:19  神様はまた、「道徳の基準」である。創造の昔から、全ての人に良心という基準が与えられている。しかし、神様を認めないと、その良心は麻痺し腐敗していく。「神様の命」から遠く離れていると、道徳的に無感覚になってしまうのである。
   ある有名な俳優が奥様の体調不良の中、不適切な関係を他の女性と結んでいると報道されている。どんなに有名で世界的な立場を築き、名誉を手に入れたとしても、神様を知らなければ不道徳な行いを拒むことが出来ないのである。

   私が岬の教会にいた頃、幼い洋子ちゃんと恵子ちゃんに「先生!面白いとこ連れて行っちゃろか?」と言われ、豚小屋に連れて行ってもらったことがある。豚は丸々と太っていて、何の心配もないかの様に見えた。しかし、小屋は糞や尿にまみれていて、悪臭が満ちていた。
   私はそれを見ていて1つの話を思い出した。
   ある商店街に散髪屋や洋服屋などのお店があった。なかなか商売がうまく行かないので、みんなで知恵を出し合い、1つのアイデアが決定された。
   その町で1番汚くみすぼらしい人を連れてきて、その人を綺麗に変身させたら、商店街の宣伝になるのではないだろうか?というアイデアであった。そこで、町にいる1人の浮浪者を連れてきて、お風呂に入れ髭を剃り頭も綺麗にして、素晴らしい洋服を着せてみた。
   すると、彼は見違える様な紳士に変身した。商店街の人たちはその結果に満足し、この人の変身ぶりは、商店街の宣伝になるであろうと喜んだ。
   しかし、商店街から謝礼をもらったその人は、すぐさま謝礼を酒に変え、酒を浴びる様に飲み、道端に転がり泥まみれになり、元の姿に戻ってしまったという話である。

   神様を知らず、肉の性質にまみれて生きていると、豚のようにいくら糞尿にまみれていても、自分ではわからなくなってしまうのである。
   神様の光の中に、聖さの中に生きる者とされたいものである。(仁美記)



2017年03月26日 新約聖書エペソ人への手紙04:16(MP3)「結び目によって、組み合わされ、結び合わされ―"アーティキュレーション"有機的接合性」

エリクソンの「キリスト教教理入門」の翻訳と後書きを、すでにいのちのことば社に送っている。そして、私は今、25年間の自分が成して来た講義やセミナーを、1つ1つ起こし、2003年,4,5年と順番にネット上にアップロードしている最中である。そして、私のサポーターとして登録してくださった方には全て、そうでない方でも1部は見られるように、ICIストリームワールドとして提供していく予定である。

   キリストのからだである教会が、御霊による一致を保つためには、その信仰が一致していなければならない。そして、そのためには福音理解の養いがなされなければならない。
   エリクソンの「キリスト教神学」また「キリスト教教理入門」を訳しながら、日米の単位制度についての本を読む機会があった。
   もし、それぞれの地域や学校で自分勝手な授業が行われたなら、幼稚園から大学院に至る教育が繋がっていかないことになる。学ぶ必要のないことを学ぶことは無駄であるし、我流で教えられたなら、子供それぞれのレベルのギャップや軋轢を生むことになってしまう。そして、このことは神学教育においても、同じことが言えるだろう。

   私は共立研究所の3年間で、世界におけるキリスト教会共通の理解、公同性を学ぶことが出来たと思う。その基礎を踏まえた上で、さらに今日的な諸問題に対処する術を教わった。これは有機的関連性と言われ、1つの統一性と連続性を有している。
   今の時代は、教会も社会も流動性があり、転籍をするクリスチャンが多い。そんなクリスチャンにとって、教会を変わるたびに教えが変わるのでは馴染むことが出来ない。だから、教会はどんな教会でも、有機的関連性をもち、今日的諸問題に取り組める教会でなければならない。

   「アーティキュレーション」とは、音楽の世界でよく使われる言葉であるが、別の意味では筋肉や骨の接合点である関節や節目を意味する言葉である。この有機的結合性を表す言葉は、エリクソンの著書の本質を表す言葉であると私は思っている。
   4:16  教会にはいろんな賜物を持った人がおり(4:7)、多様性に富んでいる。ある人を牧師・・・(4:11,12)などに召し、教会はチームワークで進んでいく。その姿は画一的なものではなく、多様性の中の一致である。それは、オーケストラのようであり、先日のWBCのチームのようでもある。

   人間のからだにはいろんな器官があり、それぞれが機能と働きを担っている。からだがそのように助け合い補い合っているように、教会での働きも同じようになされていくべきである。そしてまた、教会の内側においても、福音理解の一致が大切になってくる。エリクソンの教える「神とは?」「罪とは?」「人間とは?」・・・これらの有機的な連続性が、今日的な教会の必要に答えるのである。

   「キリストによって、からだ全体は、1つ1つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(4:16)(仁美記)

2017年03月19日 新約聖書エペソ人への手紙04:14-15(MP3)「むしろ愛をもって真理を語り―吹き回されず、もてあそばれず」

 人生には、四季があるという。「そうです。こんなふうに秋は突然近寄って来るものなのです」とP.トゥルニエは語る。
 詩情豊かな幼少期から思春期まではつぼみが芽を吹くまでの春、多くの準備の後、成功を求めて全速力で駆け抜ける成人期から退職の実年期までは焼け付く強い日差しがさす夏、心身ともに変化の兆しは秋の特徴、更年期障害や老年障害の季節が訪れてくる。人生のたそがれを、朝と同じ計画にしたがって生きることは不可能、生命力の溢れている時には、成功を獲得する戦いである。しかし、夏と秋が異なるように、成功の季節と敗北の季節には差異がある。旧約の初期、キリストの生涯の初期には、成功と祝福が物差しのようである。しかし、後期のヨブ記や預言書、キリストの生涯の後期からは試練と敗北の中に、勝利よりも、もっと勇ましく実り豊かな成果が存在することを教えられる。ひとつの季節から別の季節への移り変わりを素直に認め、受け入れ、順応して生きることの大切さを教えられる。
 わたしの生涯も、誕生から大学卒業までの20年を春、KBI、岬、共立までが夏の前半、共立修了から『キリスト教神学』翻訳、いくつかの神学校・神学会等での奉仕にフル回転した後半とあわせての40年が夏、そして60〜80歳あたりまでが秋といえるのだと教えられる。秋の特徴は、収穫の季節であることである。現在、春に種をまき、夏の労苦の結実としての講義・講演ビデオをネット上に整理していっている。日本また世界各地の兄弟姉妹に『キリスト教教理入門』を片手に視聴し学んでいただくためである。
 ここ10数年気にしてきたことが、今日の聖句に書き記されている。少子高齢化の時代、多くの人が起死回生の方策を祈り求め、それは大切なことなのであるが、ときに危なっかしい運動や教えに吹き回され、翻弄されている姿を見せられてきた。日本にあった宣教方策が模索されることは大切である。しかし、福音の真理の変質には敏感であらねばならないと思うのである。断罪的にではなく、愛をもって真理を語る勇気が求められている時代であると思わせられている。
今日は、世界的にポピュリズムやフェイク・ニュースが横行している時代である。キリスト教会もまたそのような汚染にさらされている。エリクソンは次のように書き記している―『キリスト教神学』第一巻の序文に「一般のレベルでは、深い思索を離れ、宗教体験に向かう傾向があり」、キリスト教信仰がさまざまなものから脅威にさらされていることは、「緻密な神学的考察が、なう一層重要になっていることを意味している」。(務記)

2017年03月12日 新約聖書エペソ人への手紙04:13(MP3)「ついに大人の身たけに達するため―人格・品性・福音理解において」

高槻の教会でのメッセージに合わせて、一宮チャペルでは数節ずつ学んでいる。
今日は、今までの所を振り返りながら、13節を学びたいと思う。

   4:1  「その召しにふさわしくあゆみなさい。」神様に救われた私たちは、救われた立場にふさわしい生活をしなさいと勧めている。
   どのように具体的に展開して行くのだろうか?
4:4~6  「御霊は1つ」「主は1つ」すべてを貫く唯一のお方がおられる。ここでは「一様性」「一致」が語られている。「単一性」「画一性」がテーマである。

   4:7  「しかし、・・・」と新たな展開がある。クリスチャンは一人一人がそれぞれ個性を持って生きる事を、神様は望んでおられる。キリストが十字架に掛かり、苦しみを経験し最も低いところに下られたのは、最も高いところに上られるためであった。その上られたところから、人々に賜物を分け与えられたのである。そうして、キリストを信じる者には様々な賜物が与えられ、用いられるようになった。「多様性」がテーマである。

   4:11  「こうして、・・・」様々な賜物を分け与えられたのは、バラバラになるためではない。神から与えられる「職務」「御霊の賜物」「様々な奉仕の賜物」これらにはバラバラではなく、秩序がある。何故ならば、目指すところが「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」とあるからである。
   そんな中、私には翻訳という職務を与えられている、と私は感じている。それは、今回の翻訳本『キリスト教教理入門』は「教会を建て上げるために役立つであろう」と確信するからである。

   4:13  「ついに、わたしたちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた見たけにまで達するためです。」
   この節には「達する」という言葉が2回繰り返されている。ここで言う「達する」と言う事は、どういう事なのだろうか?
   1つは、キリストの再臨というゴールに達するという事である。Iコリント13:12  には、こう書いてある。今はぼんやりと見ているものが、その時には顔と顔を合わせるように見る事になる、と言っている。今は、一部しか見ていないが、その時が来ると、完全に見えるようになる、というのである。キリストの花嫁として迎えられる私たちは、キリストの再臨の時、主と1つとされる。
   
   また、達するのは天の御国だけではない。この地上においても、目指すべきゴールがある。ピリピ3:12~14  にあるように、パウロは「キリストを知る」という事に命をかけている。私はパウロのすごいモチベーションに圧倒されるのである。
   私の訳した『キリスト教教理入門』は、今の、聖書における神との人格的な出会いを重視し、教えを軽視する風潮に警鐘を鳴らすものである。
   男女の恋愛を見てもわかると思う。最初の印象、一目惚れというものは確かにあるだろう。しかし、その後、さらにお互いを知る事はもっと重要である。「どんな価値観を持っているのか?」「考え方の基準は何なのか?」「将来の夢は何なのか?」

   キリスト教信仰もそれと同じである。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」わたしたちは主を知らなければならない。いや、知りたいと思うはずである。救われて何年たっても子供のままの信仰であってはならない。大人の成熟した信仰者としての品性、人格共に整えられて行くべきである。

   今日のキリスト教界には、新しい教えの風が吹いている。新しいものは魅力的に見えるのかもしれない。しかし、薬でもそうであるように、新しいものはまだ分かっていない副作用がつきものである。古い教えには新鮮さはないが、良し悪しがチェックされた確かなものである。
   エリクソンの神学は、聖書的かつ正統的で古典に乗っ取りながら、今日的であり、開放的でもある。多くの神学書が書かれているが、今の所、この本に代わる物はないと私は思っている。
   すべての教会が、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達するため、もっと聖書を学んで欲しい、そして、神の願われるゴールに達して欲しいと願うものである。(仁美記)


2017年03月05日 新約聖書エペソ人への手紙04:12(MP3)「それは、聖徒たちを整えて―キリストのからだを建て上げるため」

先週、2月末に、翻訳原稿全てを「いのちのことば社」に送った。
2月に仕上げたいと思い、予定を何も入れないようにしていたのに、思わぬ大雪が降り、雪どけと配達に手を取られ、翻訳にあてる時間が無くなってしまった。どこで時間を工面すれば良いかを考えると、夜は難しいので、朝3時,4時に起きて工面することとした。
そうしたところ、不思議と力が与えられた。おりしもアメリカではスーパーボールが行われており、ペイトリオッツとファルコンズが素晴らしい試合を繰り広げた。第3クォーターあたりまでに28対3と一方的な試合であったが、その後最終クォーターにスーパープレイを連発し、終了直前に28対28に追いつき、オーバータイムに逆転したのである。

翻訳はきめ細やかに丁寧にすれば、確かによく練られたものが出来上がる。しかし、それには無限の時間が必要となり、いつまでやっても終わらない。
そうではなく、すでにやったことを信じて次に進み、時間に間に合わせる事も大切だと教えられた。翻訳とは胆力と共に、信じる力また諦める事、そして限界を受け入れる事も必要だと感じた。そして、自分の手を離れたら、「いのちのことば社」という出版社のチームの力に委ねる、任せる、信頼が大切だと学んだ。

後書きを書きながら、今日の箇所「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」という御言葉が、私に迫ってきた。
何故、私が「キリスト教教理入門」を、こんなにまで精魂尽くして翻訳してきたのか?それは、まさにこの御言葉のスピリットによるものである。

そして、それに至る過程が、神のご計画と言わざるを得ないものであった。
祝福されていた岬福音教会の奉仕を7年で引退させていただき、私は家族で、千葉の印西に移転されたばかりの、共立研究所に内地留学した。その当時、学園には海外留学を終えて、研鑽を積んで来られた教授方が、宇田先生をはじめ沢山おられた。

東京基督教学園には、3つの学校があり、私は3つの学校の科目を自由に選択し、思う存分学ぶことが出来た。1年と考えていた学びの期間も、蒲田先生、我喜屋先生などからの配慮もいただき、東京チャペルで奉仕しながら、3年の学びの時を与えられたのである。
私はこの3年間で「福音主義神学」の基礎を学ぶことが出来たと思っている。その後、所属教団に戻り、KBIの教師に復帰した。そこで教えたのが、バプテスト・ジェネラル・カンファレンスに所属し、私たちのスウェーデン・バプテスト系に近いエリクソン著『キリスト教神学』であった。

しかし、その頃は日本語に訳された物は無く、神学生が学ぶためには、私が翻訳して教える必要があった。そして「キリスト教神学」は分量が多く、全て教えるのは難しかった。すると、「要約版」があるのを知り、1つ1つ私が訳しながら生徒たちに教えたのである。
このように、私が神学校でエリクソンを教えていることを「いのちのことば社」が知り、「キリスト教神学」を翻訳してくれないか?と依頼を受けたのである。1,2巻は私、3巻は聖契神学校の伊藤淑美先生、4巻は仙台バプテスト神学校の森谷正志先生が担当される事になり、監修は宇田進先生がされるという素晴らしいチームが組まれたのである。

この「キリスト教神学」は多くの神学校で教科書として使われている。福音派全体の共通項を耕すため、大いに用いられている。しかし、今、日本の教会は「少子高齢化」の波にもまれ、牧師不足が目立ってきている。牧師、宣教師ではなく、信徒たちが「バランスのとれた、福音メッセージ」が出来る説教者とされる必要がある。そのために福音理解においてレベルアップする必要がある。

私が去年から行かせていただいている高槻の教会も、やはり同じ必要を感じておられた。信徒の代表であり、私の親友でもある戸田夫妻が、ぜひ来て欲しいと言われ、2年で12回の「キリスト教教理入門セミナー」を持つこととなったのである。翻訳を続けてきた私から、信徒全員のレベルアップのためにセミナーで学んでくださっている。高槻福音自由教会の取り組みは、これからの日本の教会のひとつのモデルケースとなると思われる。

私が辿って来た道は、今振り返ると1つの流れがあり、神様の「摂理」を感じる。大学、教員免許の資格の取得、KBIでの学び、西宮、岬、東京チャペルでの奉仕、共立での学び、キリスト教神学の翻訳、要約版の翻訳。神様は1人の人間の青写真を描き、計画を持って1つ1つ導かれる。私が意図していようといまいと、神様のご計画は変わることはない。
その神様のご計画は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」にあるのである。(仁美記)

2017年02月26日 新約聖書エペソ人への手紙04:11(MP3)「こうして、キリストご自身が―教師としてお立てになった」(証し)

今日の箇所に書かれている5職のうち、使徒と預言者というものは、現在あまり耳にしない。たいていは、伝道師、牧師、教師という職に献身する。

   私は子供の頃から人に教えるのが好きであった。小学校の頃、夏休みに年下の子供たちが宿題が出来ていないと聞くと、地域の公民館に集め、勉強を見てやり宿題を片付けさせた。そして、その子供たちの親御さんにたいそう有り難がられたものであった。
   そんな教える事の好きな私にとって、教師という仕事は憧れの仕事であった。大学を決める時も、地域の国立の教育学部を受けようかと思ったが、私立の大学でも教師の資格が取れると聞き、結局、関西学院大学の経済学部に入り、社会の先生を目指す事とした。

   しかし、大学に入ってみると、何か目標としていたものを見失い、虚ろな日々を過ごしていた。そのため、学業にも力が入らなくなってしまった。
   絵画部に属していた時、ヨーロッパに行くツアーに参加した折、イギリスで迷子になり自分の泊まるホテルが分からなくなり、大変恐怖と孤独感を味わった。その不安な気持ちはその後も私にまとわりつき、ますます心が落ち込んでしまった。それを払拭してくれたのが、教会であった。

   教会に通うようになった私は、再び教師になる夢に挑もうと考えた。しかし、3年生から取り始めた教職課程は厳しく、朝から晩まで授業を受けたが、4年で卒業することは出来なくなってしまった。
   たった1つの単位のために留年した私は、残りの時間に聖書学校に通うことにしたのである。そして、先生であられたスンベリ師の勧めもあって、私は田舎の小さな小学校の産休先生となった。

   小学校で毎日算数や国語を子供達に教えながら、「自分が本当に教えたいのはこんなことではないのではないか?」と疑問を抱くようになっていた。
   教職試験にも通り、二次試験にも通り、赴任する小学校まで決まっていたのに、私の心は揺れていた。「やっぱり、聖書を教える教師になりたい!」そう決めた私は、親にも親戚にも反対され、お世話になり指導してくださった先生にもたいそう迷惑をかけたが、自分の思いを押し通し、再び聖書学校に戻る事となった。

   それからの私は、西宮で伝道師をしながら聖書学校で助手の仕事をし、岬に行き、岬の教会でも大変祝福された。しかし、3人目の子供が生まれた直後にバイクで事故を起こし、「人間とはいつまで生きられるか分からないものである。」と知った。
   だから、岬の教会の方々の思いを知りながらも、わがままを聞いていただき退職し、共立研究所に内地留学させていただいた。

   その頃の共立は、国立から千葉印西に移転したばかりで、宇田先生をはじめ多くの優秀な先生方が教鞭をとっておられ、私は1年と思っていた学びを3年に延長し、多くの事をそこで学ぶことが出来たのである。
   卒業後の事も、いろんな教会からお招きをいただいたが、神学研究を続けられる環境を求め、自分の郷里に戻ることにしたのである。

   サポートも、自分で主にしなければならない、ガソリンスタンドで働きながらではあるが、私は神様の導きを強く感じていた。なんのポストも無いが、福音主義の教会のために、大切な本を翻訳し、人々に知らしめる働きをさせていただいている。聖書学校で教えてきた授業や、講演会での講演をビデオにして見ていただくことが出来る。
   私は神様からの「教師」としての導きを、感謝し喜びを持って仕えさせていただいているのである。

   最後のラストスパートをかけて、翻訳の仕上げに取り組んでいる。最後の最後まで、気を抜かず、神様の栄光のために走りぬきたいと思う。(仁美記)

2017年02月19日 新約聖書エペソ人への手紙04:07-10(MP3)「高いところに上られ、賜物を分け与えられた―王位への即位、凱旋と分捕りものの分与の重ね絵」

エペソ4:1~6は、御霊による一致「ユニティー」、統一性を述べている。しかし、4:7~10では、一人一人の多様性「バライティー」について述べている。

   私が大学生の頃、参加したKGKキャンプでは、「クリスチャンとは画一的で同じ色に染まらないといけないものではない!」と教えられた。自動販売機に130円を入れると、ガチャっと出てくる飲み物ではない。枠にはめて、矯正されて生活する事ではないと言われた事を覚えている。クリスチャンは神であるお方、イエス・キリストを主として受け入れるが、個性が大切にされる人々なのである。

    4:6  「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」ここには、御霊の命、命の一様性が書かれているが、神様は決して、変化のない、単色で、退屈で、大量生産で画一的の様なものをお望みなのではない。
    キリスト教は一人一人の存在、個性、人権を大切にしてきた。神の前には、人種、宗教、肌の色、男女の違いを超えて平等な人間なのである。なぜならば、人間は神の像に造られた唯一の被造物であるからである。

    今の教会で、もし人種差別があるとしたら、それは罪の力であって神の命の輝きではない。そういう意味でも、アメリカは今、分かれ目に立っている。民主主義、平等において、世界を牽引してきた国が、移民排斥、自国第一主義、白人中間層優遇を行なおうとしている。
    アメリカも欧州も、移民によって活力を生み出して栄えてきた国々である。シリコンバレーの優秀な人々も移民であり、社会の底辺を支えているのも移民である。移民無しでは世の中が回らないほどになっているのである。
    比べて、日本という国は移民、難民を受け入れない国である。しかし、急速に進む「少子高齢化」によって、都市だけが成長し地方は衰退の一途をたどっている。いずれ門戸を開かなければ、日本の人口は激減し、力のない弱小国になってしまうだろう。

    世界中で差別や排斥の動きが激しくなる中、クリスチャンこそが「自由、平等、人権」のメッセージを発する必要がある。開かれた社会、その中には一人一人の賜物と個性、価値観が与えられている。
    4:8~10  この箇所は詩篇68:18と並べて語られる。「主がシナイ山に降り立ち、王として即位され、人々から貢物を受け取られる」というのである。しかし、この二つの箇所は全く同じ意味ではなく、パウロはキリストの御業の意味を引き出すために援用していると思われる。

    ローマ帝国が支配していた頃は、鍛え抜かれた軍隊が各地に出かけては地域を占領し、その地域の人々や財宝を手に入れては持ち帰り、分捕りものを分け合っていた。その凱旋のイメージを、主の即位と重ねているように思われる。
    しかし、実際のキリストは、その凱旋の前にまず、地の低いところに下られたお方なのである。神であられた方なのに、最も低い人間の姿を取り、謙遜で苦しみの生涯を送られた。罪を犯されなかったにもかかわらず、十字架の刑罰を受け、御子としては最も苦しい父なる神の臨在からの断絶、苦しみの極限を味わわれたキリストは、深いところからよみがえり、昇天された。

    キリストが昇天された時に受けられた聖霊の賜物、それを罪の奴隷から解放されたクリスチャン一人一人に惜しみなく注がれる。その人の存在、個性を大切にして、創造の時のイメージのままに、その人への御思いを成就される。
    最も低いところに下られた主は、ダムの水量が増し、溢れて流れるように、私たちクリスチャンに恵みの賜物を分け与えて下さる。エペソには職務的な賜物、コリントには奇跡の賜物、ローマには一般的な賜物、キリストに変えられた人々は、いろんな形で花を咲かせていく。生きることの意味、すべてのものを貫く命、キリストの内から流れ出した賜物は、いろんな形で実を結んでいくのである。 (仁美記)

2017年02月12日 新約聖書エペソ人への手紙04:03-06(MP3)「御霊の一致を保ちなさい―One Spirit, One Lord, One God」

 「キリスト教神学」の要約版、「キリスト教教理入門」の翻訳・推敲もいよいよ最後の段階に入っている。一宮と高槻で開いているエペソ書の学びは、この翻訳・推敲のモチベーション「やる気・動機付け・激励」を高めるひとつの力となっている。
翻訳・推敲という奉仕は、やっていて「マラソン」に似ていると思う。

 マラソンは、42.195kmの長丁場の戦いである。翻訳・推敲も、本の厚さにもよるが、かなりの年数・時間のかかる奉仕である。マラソンは、その長距離をひとりで走り切らなければならない「孤独なスポーツ」である。翻訳もまた、英語本との「孤独な対話」である。その意味やメッセージを正確に聴き取り、読み取り、さらに読者に理解され、心の奥底に届くように「日本語に変換」していかなければならない。

 「英語翻訳術」という本の中に、「翻訳は英語ができるというだけでは駄目なのである。日本語においても熟達していなければならないのである。」という言葉がある。その意味で、このエリクソン著『キリスト教教理入門』を用いて、約20年間神学校で教え続けてきたことは、英語からのメッセージを聴き取る戦いであり、聴き取ったメッセージを日本語に翻訳する取り組みであったといえる。

 その20年間の取り組みを翻訳として結実させる機会をいただけたていることは、この上もなく「光栄なこと」であると思う。この翻訳と並行して、エペソ書を学ぶようになり、翻訳のモティベーションを強化していただけているように思う。
その意味で、エペソ書は、わたしの翻訳の取り組みのモティベーションを高めてくれる手紙であるとともに、わたしたち一人一人のクリスチャン生活、また教会生活を「マラソンのように走り続ける力」を強化してくれる手紙であるとも思わせられている。エペソ書にはそのようにモティベーションを高めてくれる多くの霊的ポンイトがあるが、今日もそれらの中の幾つかを見ていきたい。

 今朝の箇所は、4:3-6である。
4:3 「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」とある。
わたしたちは、キリストを信じることにおいて、御霊を内に宿し、その意味において、わたしたちはすでに「御霊において、御霊による一致のうちに置かれている」ということができる。
しかし、同時にわたしたちは「すでに置かれている御霊にある一致」を現実の中の一致に反映させるために「その一致を熱心に保持するよう努めるようチャレンジされている側面がある」ということである。

 これを分かりやすく説明すると、「教会」を家族に置き換えて考えてみると良い。この世にはいろんなかたちの家族が存在している。男性があり、女性があり、愛し合うようになり、結婚し、子供が生まれ、家族を形成していく。そこにはひとつの家族がある。
しかし、家族としての一致、調和が高いレベルで保持されている家族はどれだけ存在するだろうか。子供たちは幼い頃は親の「言う通り」に生活していくが、やがて家庭を巣立ち、親の元から独立していくと、「それぞれ、独立独歩、自分の道」を進んでいく。それは、ある意味健全なことである。

 そのような状況の変化を超えて、「家族の一致」はどのように保たれていくのだろうか。
それは、外的要素では多様性が生まれてくるし、それは尊重しなければならない部分である。
わたしたちが「保つべき一致の領域」はもっと本質的な部分―「価値観また生き方の本質的部分」にあるのではないだろうか。

 わたしたちが熱心に保つべき「御霊の一致の内容」とはどのようなものなのか。それが、4-6節に書いてある。
4節には「ひとつの御霊“One Spirit”」、5節には 「ひとつの主、イエス・キリスト、“One Lord”」、6節には「唯一の神、ひとつの神、私たちすべての父“One God”」4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。ひとつの御霊があるゆえに、ひとつのからだが形成されている。ユダヤ人も異邦人もない。奴隷も自由人もない。神の御前に平等な共同体
 4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。ひとりの主、イエス・キリストがおられるゆえに、ひとつの召し、ひとつの望みに生かされている。待望する再臨の望みにも生かされている。
 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。唯一の神、すべてのものの父なる神がおられるむゆえ、わたしたちはひとつのクリスチャンの家族である。

 わたしたちは、「御霊によってすでに与えられている“三位一体的”一致」を家庭に、教会に、親子に、隣人に、社会に反映させていく、地の塩、世の光として今日のさまざまな手段をも生かして取り組んでいく者とさせられたい。(務記)


2017年01月29日 新約聖書エペソ人への手紙04:02(MP3)「謙遜と柔和の限りを尽くし―わたしから学びなさい」

  毎週、少しずつ、エペソ人への手紙から学んでいるが、み言葉から教えられるということは、まるで御国の食卓、饗宴のご馳走にあずかっているようで、豊かさを感じる。

   1~3章は、私たちがキリストを信じるということは、「新しい命」が与えられたということであり、その新しい命によって、教会は「新しい共同体」となったということであった。
   そこには、私たちがいかに生きるべきか?という、新しい「倫理」「基準」が示されている。

   4:1  では、「その召しにふさわしく歩みなさい。」というみ言葉から、私たちが救いに入れられている「恵み」「立場」とは、どのようなものであるのか?どう生きるべきか?を学んだ。御父が計画を立てられ、キリストが土台を築き、御霊によって目標とされているのは、「神の1つの民(ワン・ピープル)」であり、「神の聖い民(ホーリー・ピープル)」であった。
   ただ、私たちは、教会だけに視野を置くべきではない。5章後半から6章に書かれているように、夫と妻、親と子、雇い主と従業員のように、社会生活全般に、神様の恵みが満ち溢れるように導かれているのである。

   4:2  「謙遜と柔和の限りを尽くし、」とある。そのほかにも「寛容、愛、忍耐」と、5つの原則が続くのだが、今日は「謙遜と柔和」に絞ってお話しをさせていただく。
   「謙遜の限りを尽くす」とはどういうことなのか?
古代ギリシャでは、「謙遜」とは「自己卑下」「自信のなさ」「奴隷のような根性」と否定的に捉えられていた。今のアメリカ大統領のトランプさんも、「謙遜」的な考えはお嫌いなようである。
   一国の首脳であるメキシコ、オーストラリアの大統領との電話会談でも、罵倒したり、途中で電話を切ったり、失礼千万、「謙遜」のかけらも無い態度である。指導者のそのような態度は、社会にも悪影響をもたらし、学校や社会で伝染しつつあるようであり、大統領が許可したかのように噴出している。

   現実世界は謙遜のかけらも無い人たちが多いが、私たちの模範とすべきは「御子  イエス・キリスト」である。ピリピ  2章に、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人をじぶんよりもすぐれた者と思いなさい。・・・・それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(2:3~7)
   自分を低くすることの素晴らしさ、人間社会で幸せに生きていくための要素を、キリストから教えられる。

   「謙遜」とは、調和のとれた人間関係にとって、最も必要な原則である。国と国、社会の中では摩擦が起こったり、衝突するのは避けられないことである。そんな状況になった時、どのように処理するのか?そこが大切なのである。
   昔の中国の言い伝えに、このような物がある。昔の中国はたくさんの小さな国に分かれていた。別の国に住んでいる2つの家の子供が、些細なことから喧嘩になった。そこに親が乗り出し、次には地域が乗り出し、しまいには2つの国どうしの大きな戦争にまでなってしまった、というものである。
 
    小さな諍いが大きな戦争にまでなるというのは、お話の中だけの問題ではない。ユーゴスラビアで、昨日まで仲良く暮らしていた人々が、戦い合ったボスニア人とセルビア人の戦い。アフリカのルワンダで起こった、大国の植民地政策によって作られたツチ族とフツ族の戦い。そして、ロシアが侵入し占領したことで、今でも問題になっているウクライナ。
   個人でも、家庭でも、社会でも、教会でも、国家でも私たちの身につけるべきものは、御子が模範となられ示された「謙遜」なのである。

   次に「柔和の限りを尽くす」とはどういうことなのだろうか?
今の世界の傾向として、振り子が極端から極端へと振るところが見られる。不動産で富を築き、白人労働者に支持されるトランプさん、社会主義者で学生や若者に人気なサンダースさん。政治家は、自分の人気取りのために、極端な言動を取り、穏健な政治家は軟弱であると切り捨てる。
   イギリスのEU離脱、フランスのルベン氏は移民排斥を唱え、極端な言動で社会を振り回す。このポピュリストたちは、社会の不満をそのように自分たちの人気取りの材料にしている。社会に歪みが起き、人々に不満が募る時、政治はもっと堅実な方法で、治療していく必要がある。人々を煽り立て、差別を助長し、劇薬で極端な政策を提示し先導すると、結局は数多くの副作用を生み出してしまうのである。

   アメリカのトランプ大統領は、就任以降次々と大統領令を乱発している。中でも、7カ国の人々に対する「入国禁止令」は、6万人もの人々のビザを停止状態にしてしまった。彼を見ていると、酒に酔った気の短い父親が、ちゃぶ台をひっくり返しているようにしか見えない。
   アリストテレスは、極端な考えを嫌い、中庸を重んじた。それは、問題があっても、怒りすぎず、または、決して怒らずではないということである。問題があれば、声を上げるべきであるが、感情に支配され自制心を失ってはならないということである。
   韓国では大統領の弾劾裁判、日本との慰安婦問題、サードのミサイル迎撃システムなどのことで、国民の感情に振り回され、内憂外患状態である。

   このような極端な時代に、「柔和」という言葉は中途半端のそしりを受ける。オバマ大統領のいろんな面での「融和政策」は、弱い大統領というレッテルを貼られてしまった。
「柔和」というのは、弱さではない。かえって、時代の風に流されない、大衆の力に動かされない強さがある。
   ある人は「柔和」の事を「飼われている動物のようだ」と言った。小さい時に飼われだした子犬は、人懐っこく、動物の野生の強さが失われているように見える。しかし、ある時、飼い主が熊に襲われると、その小さな犬が命をかけて熊に吠え掛かり、あまりの迫力に熊は退散してしまったという出来事があった。「柔和」とは、そのような気質のことを言うのである。

   今は、あまりにも極端な政治家が多すぎる。
キリストは「ユダの獅子(ライオン)」と呼ばれた。キリストの気質は「柔和」で、ロバの背に乗られるほど「謙遜」なお方である。しかし、自分の民を守られる際には「獅子」のごとく強く勇敢になられるお方なのである。
   クリスチャンである私たちは、主を愛し、御霊に導かれて歩む時、キリストのごとく歩み、御霊の実を結実させることが出来る。キリストから目を離さないで、歩み続けたいものである。(仁美記)

2017年01月29日 新約聖書エペソ人への手紙04:01(MP3)「その召しにふさわしく歩みなさい―召しの本質が歩みを規定する」

一宮チャペルと高槻の教会で、ずっとエペソ人への手紙を通して、「クリスチャン生活とは何か?」「教会とは何か?」を学んでいる。
   1,2章では、神様は私たちに新しい命を与えてくださった事を学んだ。(ニュー・ライフ)  3章では、新しい社会、共同体をどのように作り上げれば良いのかを学んだ。(ニュー・ソサイエティ)

   神様が天にあるもろもろの祝福をもって、私たちを祝福していて下さる。御父による「選び」、御子による「贖い」、御霊による「御国の豊かさの相続」、これらの恵みによって、私たちがキリストのように、満ち満ちた身丈にまで満たされることを、神は望んでおられる。パウロ自身も祈り、教え、とりなすことによって、クリスチャンたちが成長することを応援している。

   4,5章からは、「神様の前にどう生きるべきか?」その基準が示されている。
かつて紅海を渡り、エジプトを脱出してきたイスラエルの民も、荒野においてどのように生きれば良いのかを「十戒」によって示された。パウロが示そうとしているのは「新しい基準」(ニュー・スタンダード)である。
   荒野を40年さまよい、ヨルダン川を渡って、ようやく約束の地に着いたイスラエルの民。「十戒」によって、あれほど偶像礼拝を避け、神の御心に生きるようにと教えられたにもかかわらず、またもや不道徳、偶像礼拝に陥り、アッシリア、バビロンに捕囚される。

   イスラエルの民を見ていると、今のアメリカの状況が重なってくる。
オバマ大統領は、国際協調、自由、平等を目指し、差別の撤廃、難民の受け入れを進めてきた。しかし、今のトランプ大統領は、全てをひっくり返し、白人の中間労働者を喜ばせる政策を取ろうとしている。オバマ大統領が距離を置いてきたイスラエルとも接近し、エルサレムにアメリカ大使館を移す案まで出ている。
   そのような事をすれば、今まで協力的であった穏健なアラブの人たちまでが憤り、下手をすれば「第5次中東戦争」まで起こりかねない。今のアメリカには、大切な「いさめる力」が衰えてしまっているのである。

   4:1  「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
今までのところ、アメリカの大統領は、就任式の宣誓の時、聖書に手を当てて宣誓する。トランプ大統領の進めようとしている政治は、クリスチャンにふさわしい政治と言えるのだろうか?自己主張が強く、まるで、ローマ時代のネロのようである。移民によって力を得、発展してきたアメリカが、移民、難民にとって暮らしにくい国になってしまうとは、人間の醜い罪の力が噴き出して来ているようである。

   1,2章では、キリスト教の教え、教理が述べられていた。生きた教理である。
4章では、クリスチャンの責務、義務について語られている。
   いくら正しい教理を聞いていても、成していることが正しくなければ、その人の信仰は矛盾していることになる。アメリカに今起きている差別的な発言は、クリスチャンの国として恥ずべきことである。しかも、大統領自身がそれを挑発しているのであるから救いようがない。
   旧約聖書の時代、トップが腐敗してしまった時には、神様は底辺から預言者をおこし、指導者が心を改めるようにされた。エレミヤもそのような働きを成し、「涙の預言者」と称された。さて、アメリカに、そのような勇気ある預言者が起こされるであろうか?

   1~3章には、主にある「贖い」「恵み」「祝福」が書かれていた。
4章の1節に、「主の囚人である私は・・・」と書かれている。現実には、パウロはローマにある皇帝ネロの牢獄の囚人であった。しかし、彼の心はキリストに捕らえられていた。主のための囚人であった。だから、むしろ自ら進んで囚人となり、首都のローマで牢獄の中から証詞をしているのである。
   パウロの心は「キリストの福音」に捉えられている。「クリスチャンの兄弟姉妹!私が模範となって、主の召しに応答し、走り続けている。自分たちの務めを発見して、どうぞ続けて走ってください!」また、「私は牢獄の鎖に繋がれていますが、あなたたちは「キリストの愛の鎖」に繋がれて、福音への忠節を貫いてください。」とうったえているのである。

   今の世界に広がる「不寛容」は、正しい教理を逸脱し、誤った教えに振り回されている結果である。パウロが述べる神の御心は、世界中が「1つの民」となり、「新しい人類」として人々が生きることである。
   私たちは、救われたものとしてふさわしい生き方をしているだろうか?4章の1~16節では、クリスチャンは「1つの民」であり、信仰は「1つである」と書かれている。キリストがなぜこの地上に来られて、十字架にかかられたのだろうか?それは、人々の間の隔ての壁を壊すためではなかったのか?それなのに、人々は、愚かにもまた再び壁を築こうとしている。
   4章の17節から5章の21節では、「神の聖さ」について書かれている。神様は私たちに神に習った「ホーリー・ピープル」純粋な民になって欲しいと願っておられる。神様が聖いお方ならば、私たちも習うべきではないのだろうか?(仁美記)


2017年01月22日 新約聖書エペソ人への手紙03:14-21(YouTube)「わたしはひざをかがめて祈ります―わたしの杯は溢れています」高槻福音自由教会礼拝

  1章から3章前半までを踏まえ、パウロは「こういうわけで」(14節)と、ひざをかがめての祈りに導き入れられる。
ユダヤ人は立って祈るのが常である。なのにパウロは、ゲッセマネのイエス(ルカ22:39-44)のように、石打ちを受けて召されようとするステパノ(使徒7:54-60)のように、ひざをかがめて祈ろうとしている。
ここにパウロの真摯な祈りの姿をみる。パウロ書簡全体が三位一体論的視点で貫かれているように、パウロの祈りもまた三位一体論的特徴を豊かに宿している。
私たちは今の時代、どのように祈るべきなのだろう。パウロの祈りは、私たちの今年の「祈りの生活」の道標でもある。(務記)

2017年01月22日 新約聖書エペソ人への手紙03:17-19a(MP3)「私たちのうちに働く“御霊”の力によって―満ち満ちたクリスチャン生活とは」

3回にわたって、エペソ3:14~21を詳しく学んできた。1回目は御父について、2回目はキリストについて、そして本日の3回目は御霊と祈りについてである。

   3:19b  「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とパウロは語っている。
   私は初め、その意味がよく分からなかった。神様が満ち満ちた方であることは分かっている。しかし、私たちがそうなれるのか?については不思議な表現である。

   私たちの神様は、この宇宙を造られた「大きな方」「無限の方」「測ることの出来ない方」である。それに比べて、私たちは「小さい者」「限界のある者」「想像の域を超えない者」である。神様の器が巨大な物だとすれば、私たちの器はいわば「盃(おちょこ)」ほどの容量しかない。
   そんな、ちょっと注げば溢れそうな器に、無限の方から流れてくる物を受け止めるのは、不可能と言えるだろう。
   しかし、パウロが言うには、神様は私たちの器を満たしたいと、考えておられるのだと言う。

   ちょっと入れては、一杯になって溢れそうになる。それを飲み干しては、また入れてもらう。この経験こそ、大切な経験なのである。気の遠くなるような、そんな経験を繰り返し繰り返し、無限に繰り返せば、「満たされるクリスチャン生活」を送る事になるのではないだろうか?

   3:20  「わたしたちのうちに働く力によって」とある。これは、16節にもあったように、「御霊の力と臨在」の事である。
   三位一体の神は、「御父が、その栄光の豊かさ」に従い、「御子キリストの無限大、無尽蔵の愛」を、御座から注がれ、私たちの内に内住しておられる御霊により、「願うところ、思うところのすべてを越えて」豊かに施して下さるのである。

   旧約聖書では、イザヤが6章で、高く上げられた王座に座しておられる主を見上げ、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と告白した。
   また、新約聖書では、ヨハネ  20:26,27において、疑い深いトマスの事が書かれている。復活されたイエスに出会った他の弟子たちが、その経験を証詞するが、トマスは信じる事が出来なかった。「私は、その手に釘の跡を見、私の指をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とまで言い張った。
   8日後に、戸が閉じられた部屋の中にイエスが入って来られ、トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
   私たちの信じる神は、語りかけ、触れてくださる神なのである。トマスはたまらず告白した。「私の主、私の神」と・・・

   トマスと同じように、私たちの心の内にも、疑いや恐れの思いが湧き上がってくる事がある。エペソ、ピリピ、コロサイにも手紙をしたためたパウロは、ピリピ  4:6、7で勧めている。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」いつでもどんな事でも、神様のところに自分の思いを差し出すようにせよと、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
   私たちの思い煩いの霧は、神の平安によってかき消されていくであろう。

   長血を患う女は、キリストの衣に触れるだけで癒された。そのように、私たちはそんなに大きな立派な祈りをする必要はない。主の前に、素直に自然体で祈る。時には身体を横たえて、また、歩きながら、スタイル、形、状況にかかわらず、息をするように祈る。その都度、私たちの小さな盃を主の前に差し出す。
   そうすれば、詩篇23:5  のように、告白できるだろう。「私の杯は、あふれています。」と(仁美記)

2017年01月15日 新約聖書エペソ人への手紙03:17-19a(MP3)「こうしてキリストが―朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」

1つの缶詰が話題になっている。缶のラベルには「オバマが大統領であった時の空気」と書いてあるという。
   オバマ大統領は、核の廃絶、広島訪問、キューバとの国交回復、アメリカ兵の戦地からの撤退など、議会で民主党が少数であるがゆえに苦しみはしたが、平和に向けて前進しようとする大統領であった。しかし、今月20日に大統領になるトランプ氏は、白人労働者の本音を引き出し、差別を助長することによって、その座に着こうとしている。
   アメリカの今後4年、8年後の空気はどうなっているだろうか?私たちは、自国のためにも、アメリカのためにも、ひざをかがめて祈る必要があると思う。

   15節の終わりに、「・・・父の前に祈ります。」とある。そして、16節に、「どうか父が、・・・、御霊により、・・・。」そして、17節には、「こうしてキリストが・・・」と続く。
   ここに書かれている「三位一体」の神の説明は、私たちがクリスチャンとして生きるという事を、どのように生きれば良いのかを教えてくれている。

   朝に夕に、私たちは神様にお祈りする。まるで、携帯やタブレットを充電するかのように、朝に祈り1日の霊の力、生きる力をいただき、夕に祈り感謝と共に安らかに眠りに着く。クリスチャン生活も、神様による充電によって、生かされ守られているのである。
   私たちがキリストを救い主として信じた時から、キリストの御霊は私たちの内に住んでいて下さる。しかし、その意識は忙しい生活の中、薄れやすいものである。だから、私たちの心の内に、「キリスト」が住んでいて下さる事を、確認しなさいとパウロは教えているのである。
   そして、一時的にではなく、共に、永遠に住んでいて下さるという事を、内なる人を強くされることによって、確認しなさいと勧めている。

   「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、」という言葉の中には、私たちの存在の根元に「キリスト」を見つめる、「キリストの愛」を発見する事を勧めている。
   神を知らない人たちの心の中には、神でしか埋めることの出来ない「空洞」があるという。また、植物が枯れずに支えられているのは根があればこそである。そして、建物がしっかりと揺るがないのは、しっかりとした基礎の故である。
   私たちは、自分たちが生きる「命の源」を、キリストの愛の中に確認しつつ生きなければならない。

   3:18  キリスト御自身の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになり、」それを理解する力を、与えられ、増し続けられる人生を私たちは追い求めるべきである。
   私たちが悩む時、迷う時は、私たちのキリストの愛に対する理解力が落ちている時、と言えるかもしれない。問題が無い人生は無い。私たちの状態が、問題をさらに深刻なものとしてしまうのである。

   18節の、「すべての聖徒とともに、」とある。イエス様を信じた人の人生の中に、歴史の中に証詞され経験されてきた事である。
   先週も述べた、遠藤周作の「沈黙」という小説がある。日本に宣教に来たフェレーラとロドリゴという宣教師の話である。宣教というものは、不思議なことに、宣教師が迫害に会い殉教すれば、さらに宣教が進むというところがある。そのため、時の役人たちは、その宣教師たちに信仰を捨てさせ、その心を腐らせ、背教者にする事を企てた。

   そのために信者であるキリシタンたちに拷問を加え、その叫び声や呻き声を聞かせて、宣教師たちに踏み絵を踏むよう促したのである。そして、本人たちにも逆さ吊りなどの拷問を加え続け、ついに踏み絵を踏む事を迫られた時、宣教師たちは心に葛藤を覚え苦しんだ。しかし、その時、彼らはキリストの声を聞く。「踏むがいい!」「お前たちの苦しみはわかっている。そのために、私は十字架にかかったのだ。」
   しかし、この場面で私は考える。たとえどんなにキリストが、苦しむ人々の思いを知っておられようと、キリスト教の信仰を否定する行為に導かれるはずがない。その信仰は偶像に対するものと変わらず、信仰の純粋性を侮辱するものである。
   現に、彼らは踏み絵を踏んだ後、他の踏んだ人たちに「唾を吐け!」と命令されたり、キリスト教を否定する本まで書かされる事になる。2人の宣教師は、長く生かされるが、生きたまま地獄を味わう事となってしまった。

   遠藤周作の「深い川」にも見られるが、彼は結局、いろんな宗教の中に救いを見出している。そのひずみが、イエス様の踏み絵からの語りかけという描きかたにも現れているのだと思う。
   しかし、今のキリスト教界にも、アジアやアフリカの土着の宗教を取り入れ、非倫理的でシャーマニズムに近いものになってしまっているものもある。
   遠藤周作の作品に出てきた2人の宣教師も、現在の誤まった布教活動も、誤った聖書解釈の結果だと言えるだろう。

   私たちはいろんな苦しい事、辛い事に出会った時、パウロが祈ったように「内なる人を強くしてください。」「キリストが心の内に住んでいて下さい。愛に根ざし、理解する力を与えて下さい。」と祈るべきである。

   3:19  「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」
   パウロの時代の初期のクリスチャンたちも、迫害され酷い形で殉教していった。しかし、彼らは遠藤周作が描いたバテレンの宣教師たちのようではなかった。苦難の中にあっても、パウロの勧めたような祈りの中にある生き方を貫いたのである。
   それが、旧約の神の民の歴史2000年、新約のキリスト教2000年、合わせて4,000年の歴史を作っている。(仁美記)

2017年01月08日 新約聖書エペソ3:14-16(MP3)「ひざをかがめ祈ります―人間が哀しいのに、主よ海があまりに碧いのです」

最近、NHKで放送された1つの番組に、関心を持った。アメリカの映画監督(シチリア系イタリア移民)である、スコセッシ監督によって映画化された、遠藤周作の「沈黙」(サイレンス)である。
   遠藤周作は多くの方がご存知のように、彼自身の母親がカトリック信者であり、彼自身もそうであった。

   彼は先の大戦中に思春期を迎え、予備役の兵士となったが、肋膜炎の持病のため、兵役に就くことはなかった。しかし、多くの同世代の若者が、夢、願い、幸せを達成できずに、戦争というものに、人生を捻じ曲げられ、悲しみや苦しみを体験させられた。
   そのことによって、自分にとって人間にとって「信仰」とは何なのだろうか?との問いが「沈黙」という一冊の本になったのである。

   安土桃山時代の後半から江戸時代にかけて、秀吉、家康によってもたらされた「キリスト教の禁令」のために、長崎の沿岸地域に多くのキリシタンたちが集まった。その当時、僻地で貧しい地域であったその場所には、領主の支配も届かず、また、むしろ積極的にキリシタンを受け入れ、密かに信仰を守り続けることが出来たのである。
   しかし、そんな地域にも遂に弾圧がおよび、キリシタンは火攻め、水攻め等の拷問にあい、踏み絵を踏まされることによって、信仰を奪われていった。そして、素朴で純粋なキリシタンたちは、踏み絵を踏むこと拒否し、無残にも殺されていった。

   遠藤周作が書いた「沈黙」のテーマは、神に対して「どうして、苦しい私たちに対して、あなたは沈黙されているのですか?」という心からの叫びである。遠藤周作記念館の碑にも刻まれているが、「人間がこんなに悲しいのに、主よ!海があまりにも碧いのです」とある。

   世界は2つの大戦を終え、平和を謳歌するものと思われた。しかし、今だに、貧困、難民、テロ、戦争、独裁、ポピュリズムが横行し、差別主義は蔓延している。
   そのような世界を見て、私は「人間の世界がこんなに悲しいのに、主よ!福音はあまりにも美しいのです。」と叫びたい気持ちである。

   エペソ3:14  「こういうわけで、・・・」とある。1章、2章に書かれていた、神の啓示の福音の豊かさを受けて、私は今年ひざをかがめて、主の前に祈らされる年としたいと思う。ユダヤ人は祈る時、立った姿勢で両手を上げて祈るが、パウロはここで真摯なへりくだった思いを込めて、「ひざをかがめて」と言っている。
   聖書の中にも、ひざをかがめて祈った人たちが出てくる。イスラエルの罪を悔いて祈ったエズラ、ゲッセマネにて血の汗を流しながら祈られたイエス、人々に罵られ石を投げつけられながらも祈ることをやめなかったステパノ、彼らは姿も心も神の前にひざまずいていた。

   神様は決して一部の人たちだけを見ておられるのではない。天上と地上のすべての人を視野に入れておられる。クリスチャンだけではない、未信者も、被造物世界も、神が自ら創造された神の作品であり、救われるべき対象なのである。

   3:15~16  だから、「父の前に祈ります。」「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
   私たちの信じる神は全知全能の神である。全人類の貧困問題を考えた時、神様なら物質的に満たすことがお出来になるのではないだろうか?
   御子キリストが、十字架にかかられることによってもたらされた栄光の豊かさによって、「御霊により」「力をもって」、日用の糧や、無病息災、商売繁盛だけでなく、第一義的に「内なる人」を強くしてくださることを強く祈る。

   どうして、あの凄まじい迫害の中、キリシタンたちは痛みに耐え、苦しみに甘んじることが出来たのだろうか?神様は決して「沈黙」しておられたのではないと私は思う。苦難の只中で、彼らの内なる人は「御霊により」「力をもって」強くたくましくされていたのではないだろうか?(仁美記)

2017年01月01日 旧約聖書詩篇139篇(MP3)「わたしが目覚める時―なおも、あなたとともにいます」

この詩篇の19節以降には、厳しい言葉が続いている。詩篇にはこのような詩篇が度々見られる。
   これを書いた作者は、無実であるのにもかからわず、告発を受けている。そして、現実の世界を見れば、正しい者が裁かれ、悪い者が栄えている。この詩篇は、苦難、苦境に対する叫びであり、祈りの詩篇なのである。

   「悪者」という所に、「病」と入れてみたらどうだろうか?「障害」、「経済」、「人間関係」と入れる事も出来るだろう。少々の苦難、苦境ではない、「極限」を歌っている、祈っているのである。この詩篇は祈りであり、叫びであり、賛美の書なのである。表面的な綺麗事ではない、心のど真ん中から、主に叫ぶ信仰の言葉である。

   19節から24節を始めに持ってきて、1節に戻るとどうだろうか?神様はすべてを知っておられるという。「私のすわるのも立つのも、知っておられ、」(139:2) 、「私のあゆみと伏すのを見守り、」(139:3)  、「ことばが私の舌にのぼる前に、・・・ことごとく知っておられます。」
(139:4)  私たちの神は全知の神なのである。
   また、御霊は私たちの心の深いところを、探り極める理解者である。キリストがなぜ肉体をとってこの地上に来られたのだろうか?私たちと同じ苦難を味わわれるためであった。キリストが辿られたのと同じ苦難を、私たちも辿っているのである。

   神様は、例えば、私たちが天に昇っても、よみに床を設けても、そこにおられると書いてある。私たちの神は遍在される神なのである。この詩篇の作者は言う。私たちがどんな所に行こうと、神はそこに共にいて下さると・・・
   たとえ、私たちが、今おかれている所よりさらに低い所に行ったとしても、そこに主はおられるのである。人生において、苦しい事、悲しい事、ヨブのようにさらに深い底に入れられようと、その扉を開く鍵がここにある。

   139:13~18  ここには、母の胎内での事が書かれている。私たち1人1人は、神の創造による作品なのである。神様が、母親の体の中で、私たちを組み立てられる。まだ、生まれてもいない、胎児の記録が、人生のシナリオが、神によって書かれていく。
   将棋や碁の名人は、何百手、何千手の先を読むという。私たちには、生きる限り無限の可能性がある。私たちの可能性は、海の砂、空の星よりも多いと、この詩篇の作者は言っている。

   139編18節の後半を見てみよう。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」とある。1日を始める時、1年を始める時、神様は私たちとともにいてくださる。そして、いつか、私たちが人生を終えて、眠りにつく時もまた、目覚めれば天の国で、私たちは主とともにいるのである。
   神様が、この年も、みなさんとともにおられることを、ともに感謝したい。(仁美記)