"Old"ナルドの香油


201505-08_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ 201509-12_説教メモ


記録: 安黒仁美

※5/1より、多くの機器にて視聴できるよう、ファイル形式をmp3に変更しています。wma形式での視聴は「ICI礼拝メッセージ」サイトへ。


2015年08月30日 旧約聖書 雅歌4:1-7(MP3)(WMA)「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ−美しい国日本、美しい日本人とは?」

 今日の箇所は、愛し合う若者が乙女に対し、最上のほめ言葉でもって歌っている箇所である。そして、それを通して、我々は信仰の素晴らしさを教えられる。

 男性と女性が愛し合う時、神様の創造された美しい物を見ることが出来る。我々の身体の各部分も、素晴らしい創造主の作品なのである。

 "目は心を映す鏡である"と言われる。昔、女性が顔のおおいを着けるのは、売春婦のしるしであった。しかし、この雅歌の場合は、女性の婚約式、結婚式の場合に着ける顔おおいを意味している。
 彼女の目は素直で澄んでいて汚れが無い。鳩の様というのは、そういう意味である。

 また、彼女の髪の毛は、イスラエルのギルアデの山から、黒やぎが群をなして下りて来る時の様に、黒々と波打っており、美しい。

 歯についてのほめ言葉は、不思議に思う人もあるだろう。医療事情の悪い時代、生え揃った美しい歯を保つことは、容易ではなかった。虫歯になれば、抜くしか無い時代である。
 そんな時代に、上下二本ずつの歯が、綺麗に双子の様に揃っているということは、身体が健康であり食生活も良いという証拠でもある。

 愛らしい口元は、紅色に染められ、健康的な頬はザクロの片割れの様に赤く、彼女が純朴であることを表している。

 彼女の首は、王宮の中に立てられた櫓の様に、すっとしていて美しい。

 また、彼女の乳房は、まだ幼さを残しているが、左右対象で可愛らしい。

 没薬と乳香は海外からの、貴重な輸入品であって、この場合「没薬の山と乳香の丘」は、女性の身体の秘められた部分を意味している。
 夜が過ぎ、朝靄が消え去る頃まで、若い二人は、お互いをいたわり合い、愛し合う。

 若者にとって、愛する乙女は、身体的にも道徳的にも、汚れ無く美しく、神様からの最高の贈り物である。

 神様がこの地上、また人間を造られた時、全ての物がはなはだ良かった。しかし、人間は、またイスラエルは罪を犯し、神様を裏切ってしまった。
 それでも、神様はご自分の御子をこの世に遣わし、全ての人間の罪を御子に背負わせ、十字架に掛けさせた。この犠牲の故に、キリストを信じる者はその罪を贖われ、赦されるのである。
 そして、また、イスラエルに対しても、神様は美しい!と語り続けていて下さる。私のもとへ帰れと。

 来るべき終末には、我々クリスチャンたちは、完全に贖われて美しい者となる。今は、造られた物全てが、肉の中にあり呻いているが、その時が来ると、真実の美しい姿を見せ、完成されるのである。

 現在は、性や男女の愛が醜い物、汚れた物の様に扱われるが、それは、創造主に対する冒涜であり罪である。
 雅歌の若者と乙女の様に、性や愛を神様からの美しい贈り物として再認識したいものである。

 さて、今日も、この雅歌の箇所を、今の日本の状況に当てはめてみたい。
 私は、日本の国土、日本人は神様に愛されている、美しい国だと思う。最近読んだ"武士の娘"という本は、日米が戦争に突入する頃に書かれた本で、本当の日本人とは何か?を教えくれる本である。

 アメリカのルーズベルト大統領は、新渡戸稲造著『武士道』を読んで日露戦争の講和で日本側にたち尽力してくれた。米国の識者は『武士の娘』を“人生の書”と高く評価し、後に七ヶ国語に翻訳された。このことは、われわれが本当の日本人の姿、心を発信すべきことを教えてくれる。
 今の政府が目指している"積極的平和主義"ではなく、本当の平和を愛し、人種、宗教は違っても仲良く出来る、素晴らしい国民であることを発信し続けていかなければならない。

 日本人は控えめであるが、平和を愛し、自衛隊という最新鋭で専守防衛に徹する部隊を持っている。自衛隊は困っている人たちを助け、優しく、むやみに攻撃することはしない。
 日本は自国の経済力と防衛力のバランスを考え、あくまでも平和志向である。

 歪んだナショナリズムに踊らされる事なく、相手の国民に向けて、日本国民は純朴な平和を愛する国民であることを発信し続ける。
 世界中の国々と、バランスのとれた、調和のとれた、関係を目指し、一部の好戦的な国に引きずられる事なく、巻き込まれない様、距離感を持って付き合う様に心がける。

 日本国憲法を掲げ、平和を愛する国として、IS、中東、アフリカなどの無政府状態の国々や、ウクライナや南シナ海などのきな臭い問題が、解決するために武力ではない方法を考える。

 今、政府が提出している"安全保障法案"に対して、全ての層から反対意見が噴出している。過激な政治家に翻弄されず、最終的に法案成立を阻止する方法はあると思う。
 憲法改悪に対する国民の怒りを、投票行動で示すのである。

 あの戦争は、アジア諸国民に多大な迷惑をかけた。また、日本国民も深く傷ついた。贖い出された国民として、日本人は歩んで行くべきである。
 今日、国会前に集まろうとしている有志達のために、我々クリスチャンも祈ろうではないか?日本の針路に神様の栄光が現れます様に!
(仁美記)

2015年08月23日 旧約聖書 雅歌3:6-11 (MP3)(WMA)「煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれー培われた平和主義の精神を生かすパートナーシップの構築を探求する」

 今日の箇所は、結婚の行列の描写である。豪華な輿に乗せられて、花嫁である乙女が上ってくる様子を表している。

 花嫁行列における、没薬や乳香など、香料の煙のくゆる様子は、旧約聖書の出エジプト記にある、イスラエルの民がエジプトを脱出して、シナイの荒野を40年間さまよい、カナンの地に入っていった時、雲の柱、火の柱に導かれて行ったことを彷彿とさせる。

 また、荒野でさまようイスラエルの民を、雲の柱、火の柱で導かれた神様は、幕屋で焚かれる煙の中にも臨在されていた。

 ソロモン、つまり、ここでは若者のしつらえた御輿には、乙女が乗り、彼女の周りには多くの人が寄り添っている。
 同様に、荒野で歩むイスラエルの民の中心には、契約の箱があり、各部族の兵たちが寄り添っていた。

 エジプトを脱出して荒野をさまよった40年間、イスラエルの民はいろいろな敵からの戦いに備えて兵力を整えてきた。そして、遂には、約束の地を受け継ぎ、ダビデの子ソロモンはその地に神殿を建てた。

 若者が準備した輿には、豪華な長椅子(ベッド)が取り付けられ、まるで、王宮の様な美しさを放ち、最上の装飾がなされていた。
 そして、キリストを信じる我々は、キリストの花嫁として、十字架による贖いによる罪からの解放を経験し、洗礼を受け、聖餐に預かる特権を頂いた。花嫁であるクリスチャンは、新郎である神に愛される喜びと、罪や全てのしがらみからの自由を満喫することになる。

 新郎新婦はお母さんから貰った、冠をかぶらされ、二人はその結婚により、一心同体となる。(一つの肉となる。)
 結婚というものは、神の創造の業に関与するということである。つまり、二人が一つとなる事によって、新しい命が与えられるという、創造のドラマに参与することになるからである。

 さて、今日の雅歌の箇所を、現在に当てはめてみる。
 日本の歴史を振り返ると、数多くの戦争と敗戦を経験し、国民は国の支配から解放された。日本国憲法が与えられ、平和国家としての煙の柱を立てなら、70年歩んできた。

 そんな中、強い国家を目指す人たちは、カナンの地に入り、その地域の人たちと戦って、その地域を奪い取りたいとの思いを抱き、安全保障関連法案を持ち出した。安倍首相がその先頭に立っている。

 しかし、今、アフリカからの難民やテロとの戦いなどによって、人々は戦いの無い、安全な地を探している。今年、ドイツには、80万人の移民が押し寄せようとしている。
 日本は憲法によって与えられた、"平和主義"、"国民主権"、"基本的人権"が、この70年の歩みの中で、国民のアイデンティティとなった。

 明治の"富国強兵"の時代とは違い、戦後に作られた自衛隊の少数、精鋭の戦力と、アメリカに助けられて戦後の日本は歩んできた。
 戦後、最初の日米安全保障条約は、占領者と被占領者の立場がはっきりしており、一方的な物であったが、改定版、日米安全保障条約は、その不平等な条約を改め、日本が攻撃された時、米軍は日本を守るようにすると変更され、親子の関係のような立場になった。

 しかし、アメリカが世界の警察として世界中に軍隊を送ってきたために、経済が低下してきて、日本にも軍事的貢献を求めてきたが、憲法を盾に断り、経済的貢献にとどめてきた。
 中国の台頭もあり、アーミテージ ナイレポートに書かれている様な、親子ではなく今度は対等な立場、フルパートナーシップを要請している。

 ただ、アメリカの大小の戦争に日本は組み込まれて行くのではなくて、アメリカが鞭をふるうなら、日本は飴でもって、世界の貧困や飢饉や災害に対して手を差し伸べる方法を取っていくべきである。
 なぜならば、アメリカはイラクのフセイン、リビアのカダフィの様な独裁者が倒れた時、裏で介入していた。独裁者が倒れて良かったと思われたが、かえって無政府状態となり、国は乱れてしまっている。

 結局、武力によって平和は訪れないのである。日本は日本のやり方で平和的貢献をすれば良い。今、シールズを始めとして、若者から老人までデモやFAX、Facebookなどを使って、国民が声を上げている。目には見えないが、アメリカは日本のこの行動をジッと観察している。だから、この行動の一つ一つが日本の、また、日米の在り方や歴史をうごかす原動力になりうるのである。(仁美記)

2015年08月16日旧約聖書 雅歌3:1-5 (MP3)(WMA)「わたしが探しても、あの方は見あたりませんでした-冷戦後の日米基軸の動揺を背景に」

 今日の箇所は、何とも理解し難い乙女の姿を歌っている。

 乙女は夜、目覚め、ベットを探したけれども、共に眠っているはずの男性がいなかった。愛する人が居ないので、乙女は夜の町を行き巡り、恋人を探そうとする。
 若い女性が夜の町に出るのは大変危険である。それにもかかわらず、彼女は通りや広場を、手当たり次第に彼を探そうとする。

 そして、夜警に遭遇し、そこでも彼のことを知らないか?と尋ねようとする。
 乙女のこの衝動的な行為には、ほとほと呆れ驚いてしまう。
 しかし、彼女は遂に愛しい恋人を見つけ、未婚の女性の家を表すところの"私の母の家"に彼を連れて行くことが出来た。

 この雅歌に出てくる乙女の、情熱的で衝動的な行為は、乙女が夢を見たということではないのか?という考え方や、心理的描写なのではないか?という捉え方もあるが、私たちはこの乙女の行動をそのまま受け止めて、男女のいてもたってもいられない状況を、神様と神の民に類比して考えてみたい。

 旧約のアラム語の翻訳注解書"タルグーム"には、イスラエルの人々が神の臨在が自分たちのところから去ってしまったことに気づき、幕屋や通りを探し回ったことを意味するのではないか?と書かれている。

 また、中世キリスト教の頃、クレルブォーの修道院にいた、ベルナルドスという人は、この乙女の語る冒険談はイスラエルと神様の関係を表していると書いている。
 主なる神が共におられると思っていたのに、おられない。彼らの探し方は賢明ではないが、結局、神は彼らと共におられることを発見する。聖書の中で、イスラエルの民は何度も罪を犯しながらも、神様は常にイスラエルと共にいて下さると思い、神の臨在を探すが見当たらず右往左往してしまう様子を表していると考えられる。

 我々クリスチャンは、主イエス キリストこそが、神の臨在される場所であり、神の御霊が宿るところである。

 今日の箇所を、今の日本の状況に当てはめると、尖閣諸島の領有権のことで、中国との間がややこしくなり、中国の船が領海に入ってきたり、ウロウロしたりして、日本政府は対応に苦慮した。
 こんな時、アメリカが助けてくれたら良いのに、まるで(あの方は見あたりませんでした。)のごとく、立場をはっきりとしてくれず、ヤキモキしてしまっていた。
 中国と何か問題が起こっても、ひょっとしたらアメリカは助けてくれないのではないだろうか?との疑念が湧いてくる。

 以前、世界を覆っていた冷戦が終わり、日本はアメリカに見捨てられるのではないか?との疑念はアーミテージ・ナイレポートによってガイドラインが示され、今の国会で話し合われている"安全保障法案"は正にその答えである。
 今までは、東シナ海、南シナ海など海の安全確保が、日本の防衛の中心であった。しかし、今や、アメリカはインド洋、中東、アフリカ、ウクライナ等、世界中に軍を派遣している。

 アメリカも助けて欲しい。アメリカの穴を埋めて欲しい。全世界に兵を送って欲しいと願っているのである。日本は敗戦後、朝鮮戦争に参加を要請されたが、9条を盾に断った。そのおかげで、ベトナム、アフガニスタン、イラクの戦争に巻き込まれずに来た。

 日本は70年前に味わった敗戦の苦しみによって、冷戦時代もアメリカに守られて来た。もし、占領国がソビエト連邦であったなら、こんな平和は続かなかったであろう。
 今朝、ある記事で、元特攻の方がこんなことをおっしゃっておられた。"特攻で散って行った仲間たちも、本当は自分の人生を生き抜きたかったに違いない。今、シールズの若者たちが、自分たちの言いたかったことを言ってくれている。"

 日本は戦争をしない国、別の形で世界の為に貢献する国を目指すべきではないか?貧困、飢餓、経済問題に取り組む国をモットーに掲げ、これからも前に進む国であってほしい。
 日本人の愛が目覚めつつある。良心が目覚めて来た。小さな叫びが日本中から集められ、これからの子供や孫の為に声を上げ始めている。(仁美記)

2015年08月09日旧約聖書 雅歌2:8-17 (MP3)(WMA)「ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています−国際的に注目される“20世紀を振り返り、21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会報告書”」

 雅歌が「若い男女の恋歌」の形を取っているのは、「私たちと神様の愛の関係」の類比である。
 
 若い娘の前に若者が鹿の様に現れるというのは、神様は私たちを「訪れる方」である、という意味である。ラッドの著書の中にも"訪れる神"という言葉があるが、私たちの神様は、私たちを伺い、知っておられる方である。

 アラム語で書かれた旧約翻訳・注釈書にタルグームという書物がある。その中には、「イスラエルの民が、160年間エジプトにおいて奴隷の身分であったが、そんな時でも、神様は常にイスラエルの民を伺い、時が来ると若い鹿の様に、勢い良く飛び出し、エジプトから連れ出して下さった」と書かれている。

 そして、私たちの神様は呼びかけて下さる方である。私たちと交わりたい、話したい、教えたい、導きたいと願われる方である、天の高い所から地の果てまでそして、永遠の未来にまでおられる方である。身近に、そして、私たちの生きる瞬間、瞬間にまで・・・

 パレスチナの冬は雨の季節である。10月からは前の雨が降り、人々は種を蒔く。そして、4月中旬に後の雨が降り、草花は花を咲かせ、実を実らせる。
 5,6月は地には花が咲き乱れ、美しい季節となり、春のただ中で生き物の恋の季節がやって来る。

 鳩は岩の裂け目に巣を作る。キツネや子ギツネは愛する二人を邪魔する者のことであり、純粋に愛し合おうとする者たちを横恋慕する者たちのことである。

 16節はこの詩の中心の箇所である。"私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。"この言葉は、"私はあなたの神となり、あなたは私の民となる"また、"これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉"と同じような意味合いで使われている。神様が造られたエデンの園において、性的交わりはその場その場の汚れた快楽のためではなく、聖く喜ばしい物であった。

 中世のフランス人、クレルヴォー修道院のベルナルドゥスはこの雅歌の聖句を"聖なる魂とキリストが一体となる。という秘密がかくされている。"と述べている。
 神様とキリスト者は影が消え去る頃、つまり、明け方まで一晩中若い男女が愛し合う様に、愛し合う存在なのだと教えている。

 さて、今日の箇所を現在に当てはめてみると、愛する方とは「国際社会」であり、若い娘は「日本」ということになる。
 先日、"20世紀、21世紀の日本を考える有識者懇談会"が、一つの報告書を作製し、安倍総理に手渡した。
 国際社会は、これから、日本がどうするのかをじっと見ている。19世紀は中国がイギリスによって植民地化された。白人と有色の人種差別の時代であった。日露戦争では、有色人種の日本がロシアを倒した。第一次世界大戦では数千万の犠牲を出した。

 その後、大恐慌が起こり、ブロック経済となり、後発の大日本帝国は、軍国主義、ファシズムに突き進んでいく。その結果が、第二次世界大戦の敗北であり、アメリカによる押し付け憲法と言われる、"日本国憲法"である。
 しかし、日本国憲法にある考え方は、自由民権運動に見られた、元々日本にあった考え方であり、一時的に軍国主義に乗っ取られ、取り戻した考え方なのであって、決してアメリカの押し付けなどではない。

 二つの大戦は終わっても、いまだ、中東問題や人権問題は無くならず、今日の箇所にあった"キツネや子ギツネ"のようなテロリズムはあちらこちらで見られる。

 そんな世界の中で、日本が歩むべき道は、平和憲法で歩む"平和国家"を目指す道である。"いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ"とある様に、先進諸国は栄えているが、多くの国々には貧困があり、まだまだである。だから、日本は平和主義、人権尊重を貫き、テロや紛争が不必要になる世界を目指し、過去の反省を忘れず、国際ルールにのっとって、世界に貢献出来る国を目指すべきである。大きな闇を吹き払う様に・・・(仁美記)

2015年08月02日旧約聖書雅歌2:1-7(MP3)(WMA):「わたしは谷のゆりの花。わが愛する者はいばらの中のゆりの花−岐路に立つ日米同盟」

 この雅歌という書物は、中東の恋歌の形を取っているが、その中には、男女の愛、性の素晴らしさが描かれている。神の形に造られた男と女が、三位一体の神のごとく一つにされる麗しい書物である。ある人はこの書物を、旧約聖書の至聖所と呼び、今の誤った男女の性の在り方に示唆を与え、隣人との関係、隣国との関係、また、日米同盟における関係にまで、示唆を与えてくれる書物である。

 1節は乙女の自己紹介が書かれている。自分をサフランやゆりの花に例え、一見、自己賛美と捉えられるかも知れない。しかし、雅歌の中にその様な物は存在しない。これはむしろ、謙遜の表現である。私は谷間に群生する小さな花にすぎない。ここには、密やかな隠された美しさがある。

 2節では若者が応答歌として、あなたは私にとって、いばらの中に咲くゆりの花の様に、隠されてはいるが、かけがえのない特別の存在であると言っている。

 3節では、多くの整った外見や知性の素晴らしさを見せられても、乙女は他の男性には目が行かない。若者は乙女にとって、特別な存在であって、乙女の大好きな資質を備えているので、彼女はずっと側にいたいし、相思相愛の関係である。

 4節では、酒宴の席とはブドウ園を指すと言われている。若者は乙女に心を捉えられ、彼の眼差しは愛に満ちている。

 5節では、二人は片時も離れてはおられず、少しでも離れると、苦しく愛に病んでしまう。

 6節では、乙女は若者に抱かれる事によって、心の空白が埋められることを告白している。

 7節では、私たちが眠りについた時、明け方、空がゆっくり明るくなり、自然に目が覚める様に、二人の愛がゆっくりと自然に熟していくのを見守ってほしいと願っている。

 さて、この雅歌の箇所を現在に当てはめてみると、私たちの国の憲法は、平和憲法であり、世界でもユニークな存在である。力ではなく、謙遜による平和を追求して来た。
 アメリカと同じ、自由主義国家であるが、いばらの中のゆりの様な存在である。

 日米安全保障条約によって、自衛隊という自衛の武力は保持しているが、アメリカの傘の下に置かれ、時には、命の犠牲を惜しみ、ただ乗りだと叩かれたりもするが、戦争のことを反省し、あえて、自衛隊を戦わせない国なのである。

 その代わり、別の形として、ODAなどによって外国の経済援助や復興に力を注いできた。中東やアフリカでは未だに紛争が絶えず、軍事力では平和が訪れ無いことは明白である。

 これから、どのようにして日本は愛を示していったら良いのだろうか?ジャーナリズムや今の政府は、ことさらに中国の脅威を煽りたてるが、最近の若者たちのデモやFacebookやFAX、そして、学者たちの反対運動が、私たちを励まし元気付けてくれる。

 アメリカは一方では日本の軍事貢献を求めているが、他方では、日本の右寄りの人々が憲法の正当性を認めず、過去を反省しない態度には問題を感じている。だから、日本は日本人によって、アジアへの贖罪の意識を忘れず、お互いの愛が目覚め熟していく様な、皆が喜ぶ法案を作り上げるべきである。そのためにも、国家の良心としてのクリスチャンの位置付けは重要である。(仁美記)

2015年07月26日旧約聖書雅歌1:9-17 (MP3/WMA):「パロの戦車の雌馬-アーミテージ・ナイ・レポートよりのJSDF(自衛隊)賛辞」

 聖書の中では珍しい、男女の恋愛の歌の形を取り、神様とイスラエル、また、キリスト教会とキリストの関係を表した書物である。

 9節は若者の愛する乙女への呼びかけである。パロとはエジプトの王であり、その馬屋にいる馬は選り抜きの馬であり、これは、女性が最上級の女性であるとのほめ言葉である。

 10節は女性の頬、首には美しい宝石で飾られ、もともとの美しさがさらに栄えわたっている。11節ではさらに女性のために、金銀で作られた飾り輪を使ってあげようと言っている。飾りをつけた美しさは、女性の生まれつきの美しさにあるのだと言っている。

 12節からは、今度は女性の側から、愛する男性へのアプローチが香りとして書かれている。宴の座とは、慣れ親しんだ場所であるとか、寝所といわれたりする。

 一つ目の香りはナルドの香油。インドヒマラヤ原産で、高価で貴重な香りである。二つ目は没薬。南アラビアの木から採られた樹脂である。三つ目はヘンナ樹の花房である。エン・ゲティとは、死海の西岸にある果樹園で、旅人の憩いの場になっている所で、亜熱帯の植物が咲き誇っていた。ヘンナ樹の花房は明るい色の染料になり、髪や爪を染める為に用いられた。
 これらの、物質は乙女の若者へのいとしい思いを表現している。

 15節の鳩の目は、乙女の従順で素直で人柄の良さを表している。16,17節は美しく飾られた寝台が緑豊かな木々の間に置かれており、愛をかわす男女の姿に、神のかたちに造られた私たちの、キリストとの霊的人格的交わりの素晴らしさを表現している。

 以上の雅歌に込められた若者と乙女の関係の意味から教えられるところを、私は「アメリカのアーミテージ氏(共和党)とナイ氏(民主党)のレポート」の提言に類比し学びたい。
 戦後、日本は「パックス アメリカーナ」によって、「アメリカの軍事力」に守られてきた。それによって、「エネルギー資源も経済」も順調にきた。

 しかし、「世界の警察としてアメリカ」は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争等、数々の大小の戦争を戦い、アメリカの力は弱まり、「防衛予算の削減」に直面している。その中で「世界の治安の質的レベル」を維持する上で「同盟国への期待値」は上昇しているのである。

 日本はと言えば、朝鮮戦争以来自衛隊を持っており、その規模は世界九位(2013年度)の軍備費であり、その能力は世界のベストテンを維持している。経済における協力やODAだけではなく、オーストラリアやフィリピンやベトナムと協力して「南シナ海のシーレーンの安全確保」に、アメリカはラブコールを送っている。

 中国という不透明な国も、いつかは自由で民主主義の国になってほしい、そのためにも、日本には米国と一緒に「アジアでリーダーシップを発揮してほしい」とアメリカは望んでいる。それなのに、アメリカが与えた日本国憲法がそれを妨げている。
 また、「アジア以外にも範囲を広げて集団的自衛権を発揮し、油や武器の補給に力を貸してほしい。補欠としてではなくて、レギュラーとして活躍してほしい」とラブコールを送っている。米国との関係において“フル・パートナーシップ”を求めているのである。

 しかし、こんな「香油」に騙されることなく、また、アメリカに「ただ従順で素直な」だけではなく、日本は「アジアに対する贖罪の意識に根ざした平和憲法」に従い、「永遠の平和を希求」しつつ、「パートナーシップの限界線」を明確に自覚し、自分で「平和国家日本の未来図」を描いていかなければいけない。

 どんなに、アメリカに「おだてられ様とエールを送られ」ようと、憲法に違反する形で、物事を決めてはならない。そのような決め方では、「米国の無理難題も断ることができなくなる」危険が生じる。アメリカだって、自国であれば、「憲法をないがしろには出来ない」はずである。安倍総理は「アジア等での存立危機事態」の可能性を前面に打ち出すが、実は「違憲立法審査機能を破壊して、安全保障法案を通す」ことが“存立危機事態”を引き起こしていることに気づかない。このことの方がもっと危険である。
 「違憲立法」の先に、見えてくるものは、「日本国憲法の改悪」である。アジアでの二千万人の犠牲、日本国民三百万人の犠牲を覚え、この流れを阻止していかなければならない。勇ましい戦争が好きな人には、この夏封切られる塚本晋也監督作品 大岡昇平原作『野火』という映画、また著作では藤原 彰著『餓死した英霊たち』等をおすすめしたい。戦争というものは、勝者にとっても敗者にとっても悲惨なものである。わたしは、日本国が戦後七十年間、「日本国憲法」を守り続けてきたことを誇りに思う。次の七十年間も「解釈改憲」も含め「改悪」されないように戦い続ける人々と共に歩んでいきたい。(仁美記)

2015年07月19日:旧約聖書 雅歌 1:5-8「黒いけれども、美しい」と告白する「美しい思想をもつ日本人」

 雅歌シリーズの意図と目的を説明しておきたい。和書・洋書を含め、雅歌に関する十数冊の著名な注解書に目配りしてきた。その中にロバート・ジェンソン著『雅歌』がある。彼は組織神学者であるが、こう言って雅歌の注解を依頼された。「組織神学者はみんな、その経歴の終わりに聖書の注解書を書かなければならない」と。「確かに、かつては、最初は組織神学を学び、そして後に聖書を研究するという伝統があった」と得心し、引き受けたとのことである。

 わたしも長年、神学校で『組織神学』を教えてきた。その奉仕に一区切りつけた今、深い関心を抱いて目配りしてきた、幾つかの聖書各巻について、“組織神学的視点”からシリーズ説教することは「理にかなうこと」だと思うのである。

 わたしの言う“組織神学的視点”とは、H.G.ペールマン著『現代教義学総説』に記されている四つの視点−@教会的・実存的視点、A再生産的・要約的視点、B生産的・新理解的視点、C合理的・学問的視点を指している。

 わたしは、旧約聖書の「雅歌」を、@A神とイスラエル、キリストと教会また信仰者の魂との類比として霊的に解釈して、信仰者の実存的視点で読んできた。そしてC神学教師としては、古代中東にみられる恋愛詩のひとつとして、客観的かつ学問的に研究し、B今日、それらの垂直関係と水平関係の両面における霊的本質的メッセージを、日本の過去・現在・未来の政治動向の文脈に対する洞察に類比的に適用し、過去に示された指針のエッセンスを「現在こうである」との御声を聴き取るべく耳を澄ませて、雅歌を読みたいと思うのである。もちろん、「雅歌ほど多様な注解書が多くある書巻はない」といわれるのだから、ひとりひとり聴き取るメッセージ、解釈、適用には多様性があるものと思う。しかし、少なくとも「主はわたしにこのように語りかけておられる。わたしは組織神学や宗教の神学の素養を最大限生かし、このように解釈し、その霊的・本質を歴史的状況にこのように適用したい」と証しすることは「わたしの義務」でもあると思うのである。このように解釈し、歴史的状況に適用したい」ということを証しすることは「わたしの義務」でもあると思うのである。

 以下、一節ずつ順を追って適用面のみ拾っていきたい。1:5に「黒いけれども、美しい」、それは「日に焼けて黒い」とある。中東の真昼の過酷な暑さは肌を焦がす。この美しい娘を「日本国」に類比すると、太平洋戦争は日本国に大きな「汚名」を着せるものとなった。戦後の、アジア集団安保構想では、アジア諸国からはいつも「のけ者」扱いであった。しかし、朝鮮戦争とそれに続く冷戦構造は、日本に復興と飛躍的発展の機会を与えてくれた(1:6)。

 バブル崩壊を経て、中国の発展を見、今日本国は、「どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか」と“国家の針路”を探しあぐねている。そして、目の前に提示されているのは、二つの道、二つの国家のあり方である。ひとつは「大日本帝国憲法と教育勅語」に示されている“富国強兵”路線であり、他方は「日本国憲法と前教育基本法」に示されている“戦争を放棄し、個人の基本的人権を最大権尊重する”路線である。

 前者を目標とする「日本会議」等は、アジア諸国また世界の国々の中において「敗戦国」「戦犯国家」として「顔おおいをつけた女」(1:7)に見られることを“自虐的史観”として断固拒否する。集団的交戦権を取り上げられ、「制限行為能力者」のように扱われることを許容できない。しかし、世界でも珍しい「戦争放棄」条項のある日本国憲法は戦後七十年間、日本が戦争に巻き込まれることから守り続けてくれた条文である。これに比して、韓国やオーストラリアは数多くのアメリカの戦争に参戦させられてきた。

 イアン・ビッカートン著『勝者なき戦争』p.286には、数多くの無謀な戦争を考察し、「戦争を開始する『巨悪』は、自らが決して戦争で命を落とすことはない国家の指導者である。こうした人々によって開始された戦争行為が奪っていくのは、これらの指導者の命ではない。攻撃によって命を落とす人々を『付随的損失』と呼ぶ傾向を激しく批判する著者は、依然として道徳的に受け入れる行動指針が存在しているときに、政治的問題の解決を図るために、武力行使が何よりも必要であると決定することこそが問題なのだ」と主張している。

 日本国民は、参戦の誘惑に駆られる政治家たちを縛る「平和憲法」によって、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争等に参戦することから守られてきた。今、「違憲的憲法解釈」によってこの“鎖”から権力のもつ“野獣性”が解き放たれようとしている。

 安倍総理は、米国の両院議会で演説し
 「If you need me, call me
No matter where you are, no matter how far
Just call my name, I'll be there in a hurry
On that you can depend and never worry
で始まるダイアナ・ロスの歌う名曲、“Ain't No Mountain High Enough”に触れた。下記はその要約である。

 「あなたが私を必要とする時は、迷わず私を呼んでちょうだい。あなたがどこにいても、どんなに遠くにいても必ず側に駆け付けるわ。強風も豪雨も、凍てつくような寒さも、あなたの側に行くためなら私にとっては少しも苦にならないの。あなたが私が目指す究極のゴールだとするなら、そこまで辿り着くのに高過ぎる山なんてないわ。どんなに高い山も、どんなに深い谷底も、どんなに広大な河も、あなたと私を隔てる障害にはならないのよ」と約束してしまった。しかし、先日、別件で「約束の白紙撤回」は可能であることを明らかにした。

 わたしは、「黒いけれども、美しい日本」は、その犯した戦争犯罪の深さを悔い、アジア諸国に心より謝罪を行ってきた。「平和憲法」に基づいた政治と外交はその表現である。1993年8月4日に河野洋平官房長官(当時)が発表した「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」と日本の敗戦50周年にあたる1995年8月15日には、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」という村山富市内閣総理大臣談話(村山談話)も同じ線上にある。

 しかし、社会の右傾化に伴い、これをよしとしない人たちが政権の中枢を支配するようになった。戦前の日本に郷愁を寄せる人たちである。「日に焼けた肌の黒さ」を否定する人たち、戦争犯罪を否認し、侵略戦争を美化する「醜い日本人」たちである。悔い改めることを知らない人たちである。

 しかし、今、「黒いけれども、美しい」と告白する「美しい思想をもつ日本人」が次々と誕生している。政治とジャーナリズムと若者の右傾化で暗い気持ちの日々が続いていたが、「美しい人たち」が生まれてきたことに励まされている。

 「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい」(1:8)とある。歪んだナショナリズムをあおる政治とジャーナリズムは最低の「獅子身中の虫」である。日本国憲法にみられるように、同じ政治体制と同じような価値観をもつ二つ米を基軸としつつ、国際協調路線の「群れの足跡」に歩調をあわせ、「大国主義」の妄想をもつことなく、その国土と人口と将来を考え、「子やぎを飼いなさい」とあるように「中規模の国力に見合った政治力・外交力、専守防衛の防衛力」で、ヨーロッパにおけるドイツのように、隣国と平和に共存共栄をはかる針路を選択していってほしいと願う。(務記)


2015年07月12日:旧約聖書 雅歌 1:1-4「創世記1-2章の注解書としての雅歌」

 先週まで、ヘブル人への手紙、ガラテヤ人への手紙を通して、今のディスペンセーション主義聖書解釈の誤りやレストレーション運動、また、キリスト教シオニズムの誤りについて学んできた。

 今週からは、最近の日韓関係において課題に挙げられ続けられている、慰安婦問題の中に、根本的な性の問題があるのではないかとの観点から、聖書の光を当てて考えてみたいと思う。

 創世記1:27に人は神の形に創造され、男と女に創造された。とある。男女の関係はすなわち人間関係であり、男と女は互いに助け合い、愛し合い、信頼し合うべきであると教えられる。

 神様が全ての物を造り、最後に人間を創られた時、それらのものははなはだ良い物であったと書かれている。

 創2:24には、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。とある。ここに夫婦の一体性またお互いの関係は水平の関係である事が書かれている。 

 創世記の男女の性についての注解書は雅歌であるとよく言われる。エデンの園でのアダムとエバは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとある。

 雅歌の様式は中東における恋歌の形式をとっており、それらの中には、男性神、女性神を描いたり乱れた不道徳な物もあるが、雅歌は健全な物であり、不道徳な物、蔑まれるべき物ではない。

 若い男女への神様の祝福としてのセクシャリティは、神の御言葉、聖典の中に雅歌として納められているのだ。

 男女の水平の関係の素晴らしさが、王の王、主の主である神様との交わりを美しく描いている。ここにある、若者と乙女の関係は、時に、主なる神とイスラエルの関係を表し、時に、キリストと信仰者(教会であり、クリスチャン)を表している。

 雅歌は注解書の最も多い書物と言われ、素晴らしい霊的なメッセージに溢れている。

 翻って、日韓の戦争中の慰安婦の問題を考えると、日本人が彼女たちに行った行為は、魂の殺人であって、地獄の拷問のような悲惨な行為である。聖書に見る性愛や賜物としての行為ではなくて、日本ではいまだに軽く扱われがちであるが、アメリカなどでは殺人につぐ犯罪だと言われる行為である。

 雅歌はソロモンが書いたかどうかははっきりしない。ソロモンに捧げられた歌だとも言われる。ソロモンの名前はシャロームから取られた名前であり、平和の建設者、愛を行う者との意味を持つ。

 日本はソロモンの如く、アジアにおいて平和な関係を結ぶ国であって欲しい。

 2節にあるのは、若い乙女の大胆な願いであり、積極的、熱情的で男尊女卑の考えはない、女性の側からのアプローチである。これは、神様と信仰者の関係が、熱情的に恋い焦がれる関係であるということを表している。私たちの神様は"妬む神"であり、そこには激しい愛が存在している。

 香油自体には香りは無いが、香料を加えることによってかぐわしい香りが生まれ、お互いの魂の中に浸透していく。これは、イメージであり、絵画やポエムのようだ。

 私を十字架の愛で引き寄せて下さい。と続き、奥の間つまり寝室において魂だけではなく、身体全てを持って男女が喜び楽しむ様に、私たちとイエス キリストとの深い交わりを喜び、至福の臨在を味わうことを勧めている。

 信仰とは頭で考えたり、お題目を唱えたりするものではない。信仰とは、全存在的なものである。

 ギリシャ哲学において、精神は善だが肉体は悪であるという考えがあった。しかし、聖書では、創世記はキリストと教会の関係を、黙示録では信仰者と子羊の関係を婚姻関係として表している。 

 そして、この雅歌に至福の領域を耕す鍵が隠されている。神様の祝福の領域を私たちが狭くしているのではないか?放縦は良くないが、禁欲も神様に対して罪であることを、雅歌を通して学んでいきたいと思う。(仁美)


2015年07月05日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:1-18:肉欲のために蒔く者は「国家の滅亡」を刈り取り、御霊のために蒔く者は「国家間の平和」を刈り取る

  昨年、『福音主義イスラエル論』という論文を書き、「ディスペンセーション主義聖書解釈」や「キリスト教シオニズム」の誤りについて書かせて頂いた。また、3月には『終末論』の翻訳本も出版させて頂いた。しかし、まだ、私の考えるところとは逆の方向に向かっている方々がここかしこにみられる(6:1)。

 一世紀のイスラエルでも、パウロはヘブル人への手紙で、ユダヤ教の考えと、キリスト中心の考えとの違いを説き、ガラテヤ人への手紙ではキリストを信じているのに、ユダヤ教の考えである、「割礼」を受け、「戒律」を守れという脅しに押し流されてはいけないと説き、その頃の流れに対して、立ち上がって戦っている。

 翻って、日本の現在はというと危機的な状況である。「アジアで2000万人、日本で300万人という膨大な犠牲」を忘れたかの様に、「安全保障関連法案」が来週にも決議され様としている。日本の自衛隊が「戦争」に巻き込まれてしまいかねない岐路に立っている。

 「マスコミ」は政府の圧力に屈し口をとざし、「公共放送のNHK」までもが、総理大臣と親しい会長の影響を受け、「内閣法制局」の長官も変えられてしまった。しかし、「憲法審査会で三人の憲法学者」が、自民党推薦の人も含めて安全保障法案は"違憲"であると証言し、学生たちが"SEALDs"という法案成立反対のためのグループを立ち上げた。毎週、金曜日には国会前でデモを行い、この運動に勇気を得て、京都でも、北海道でも若者たちが"戦争反対!"の声を挙げだした。

 戦後の日米安全保障条約締結や条約延長の際は、安倍総理のおじいさん岸信介さんが、法案を強行裁決したがため、後に辞職に追いやられた。今の若者たちが立ち上がれば、この前の衆議院議員選挙が投票率30%で、自民党、公明党が三分の二の議席を取ってしまっているこの状況を、ひっくり返してしまうかもしれない。

 パウロは、旧新訳聖書は、神が御子イエスをこの世に遣わし、全ての人を救い、クリスチャンが神の御霊に導かれ、完全に主の御心を成就するため、与えられた物であると語っている。キリスト者とされた者は、「再び、古い戒律の奴隷となってはならない」と繰り返し教えている。「誤った聖書解釈とその実践」は正されなければならない(6:1)。

 しかし、パウロの時代も、現在でも、「誤った聖書解釈」をし、「誤った実践」をしている人々がいる。それは、ディスペンセーション主義聖書解釈であり、キリスト教シオニズムであり、レストレーション運動等の中にみられる。パレスチナ問題などは、まさしく「アパルトヘイト」ではないのかと指摘されている。

 今の政治家の安全保障法案が「憲法解釈の誤り」であるなら、主権者である国民がそれを正さなければならない。「報道は自粛」され、「内閣法制局長官」や「NHK会長」を自分好みに入れ替え、「誤った実践」を目指しているとすれば、黙っていてはいけない。「憲法の誤った解釈とその実践」を正すのは、キリスト者の責務であると私は考える。

 人はキリストの贖罪の故に罪を赦され自由になった。しかしその自由を、肉の欲を満たすために使ってはいけない。この本質を抽出し、日本の歴史に類比・適用する。

 明治からの歩みに"富国強兵"というスローガンがある。今、世界遺産と認めて貰おうとしている産業施設を通しての経済的発展を目指し、欧米各国に追いつきたい軍事力も手に入れようとしていた。しかし、"肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り"とある様に、中国や朝鮮半島で行ってきた残虐な行為は、日本に滅びの結果をもたらした(6:7-8)。

 戦後、アメリカに占領され、日本国民を悲惨な運命に陥れた軍国主義、ファシズムを克服し、民主主義国家とするため、「日本国憲法」が与えられた。この憲法の中には「専守防衛」の考えが徹底され、日本は「平和主義」で争いをしないとし、世界中から尊敬される国になる事が出来た。しかし、この平和憲法を与えたアメリカが長引く戦争によって力を弱め、日本に軍事協力を求めてきた。本来なら、憲法を改正しなければならないところ、難しいので「解釈による改憲」をしようとしている。ただ、日本が「解釈改憲」をし、「軍備を増強」すれば、それによって刺激される中国は「ますます軍事力の増強」をはかり、「軍拡競争」になることは過去の経験が教えている。
 キリスト者の原点は「十字架」であり、キリストの「贖罪」が原点である。アジア諸国に対して、日本は十字架に付けられたのであるから、「贖罪の意識」を忘れてはいけない。強大な軍事力ではなく、最小限の自衛能力のもとで「平和主義による外交努力」で国を守って行くべきである。平和こそが「資源なき貿易立国」の日本が生きていく一本道である。 

 世界遺産に登録して貰おうとしている施設での「強制労働」や、領土を広げようとしたがためにその地の人々に与えた労苦、また、日本兵によって肉体的、精神的に苦痛を強いられた「慰安婦」の方々。これらの、「負の遺産」を忘れてしまっては、日本のキリスト者は「霊的イスラエル、神のイスラエル」となることは出来ないと私は思う。「贖罪の精神とそこに根ざした御霊による新しい創造」という基準に従って進む人々こそが、「神のイスラエル」と呼ばれるのにふさわしいのだから…(6:14-16)。(仁美記)

2015年06月28日:新約聖書ガラテヤ人への手紙5:16-26 説教: 安黒務 牧師 :国家の獣のような「肉の欲望」を縛る鎖、つまり「御霊の実」としての日本国憲法


 今、日本の国会では"安全保障法案"が議論されている。戦後70年の歩みとは異なる歩みを始めようとしている。

 そもそも、先の大戦での日本人300万人、アジアの諸国民2000万人という、莫大な犠牲の下に与えられた、日本国憲法は"平和憲法"である。

 アジアの人たちに対する悔い改めの意味を持つこの憲法によって、日本は70年間平和が続き、ベトナム戦争でも湾岸戦争でも、一人も殺さず一人も死ぬことがなかった。

 そもそも、憲法とはどういう位置付けにあるのかというと、国家における最高の法律であると言える。その下に様々な法律が出来ているのであって、憲法の中身を法律が否定するなどということは有り得ないことである。

 さて、クリスチャンである私たちはどうすれば良いのであろうか?ユダヤ教の下で育ったパウロがイエス キリストに出会い、十字架の赦しと内におられる御霊によって自由が与えられ、神を愛し隣人を愛することが、人間にとってどれだけ素晴らしいかを説いている。

 私はパウロの説く真理が、この日本国憲法の中に現れていると考える。御霊によって歩むとは、隣国といがみ合ったりせず、肉の欲望である他国を侵略したり殺戮を行わず、国民の幸せだけでなく、世界中の幸せを願うことではないか?

 かつて、日本は明治憲法を作り、大正デモクラシーにおいて、政党政治を確立し、自由な国家として歩み始めた。しかし、第一次世界大戦後のヨーロッパの衰退により、手薄になったアジアに力を伸ばそうと進出していった。ここには、大国に追いつきたいという国家の欲望があり、結果として軍事国家、ファシズムという物を目指し始めた。

 第二次世界大戦においても、最初だけは良かったが、すぐに戦況は暗転した。そもそも、資源の乏しい日本の国力は長期の戦争には耐えられないというのが、世界情勢を知る人々の中での常識であったにもかかわらず、一部の軍人や指導者とそれを煽るジャーナリズムによって、国民は酔いしれ肉の欲望を満たそうと一丸となって突き進んでしまった。

 神様は御霊によって歩みなさい、と教えておられる。御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制です。とある。また、このようなものを禁ずる律法はありません。と言っている。この御言葉を読むと、日本国憲法が神の御心であり、人類にとって理想の憲法であることがわかる。

 しかし、政治家の意図を察してジャーナリズムは煽り立てる。隣国のことを敵意を持ってけなし、蔑む。

 憲法学者の佐藤先生という方がおられるが、佐藤先生のお兄さんは戦争の特殊な雰囲気に飲み込まれ、必死に説得しようとする親をも捨てて、特攻に志願し戦死してしまわれた。そういう状況を作り出した人たちの責任は非常に重いと私は考える。

 憲法学者のほとんどが違憲であるか、または反対であると言っているのにもかかわらず、数の力で無理やり通そうとしている。

 今、また、復活しつつある歪んだナショナリズム、これは欲望であり肉の力である。

 深い反省の上に誕生した日本国憲法は平和で自由な国家を保証し、私たちキリスト教会の信教の自由も保証してくれている。国民主権、男女平等、そして、何よりも二度と戦争をしないと誓う崇高な考えを世界に示している。

 そんな素晴らしい憲法を塵芥の様に投げ捨て、また、再び、若者を戦地に送り出そうとしているのではないか?私たち国民はジャーナリズムに乗せられることの無い様にしっかりと国会議員を見張り、監視していかなければならない。(仁美記)

2015年06月21日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙5:1-15 説教: 安黒務 牧師 :「ユダヤ教キリスト派」と「日本教キリスト派?」の類比−その割礼と戒律

 旧約聖書においては、エジプトの支配の下、イスラエルの民は奴隷生活を余儀なくされていたが、「小羊の血」によってその苦役から解放された。出エジプトの出来事である。新約聖書においては、罪の奴隷であった人々が「キリストの血」によって、その支配から解放された。キリストの贖罪の出来事である。

 そのような中、「ユダヤ教キリスト派」を自称する人々が到来し、「キリストの贖罪」のみでは不十分である。「割礼」を受けユダヤ教徒となり、「ユダヤ教の戒律を遵守」する必要があると説いた。

 このことに対して、使徒パウロは、有名な「キリスト者の奴隷解放宣言」の聖句を書き記した。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。あなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(5:1)。

 使徒パウロは、「キリストの贖罪と御霊の内住」で十分であり、ほかに必要なものはないと宣言した。「贖罪の恵みに根ざして働く御霊」が律法の本質をまっとうするからである。

 この事実と解釈を「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」等の課題に適用してきた。今朝は、この事実と解釈を、いわゆる「日本教キリスト派」(山本七平氏の用語)等の課題に適用することとする。それは、国会が「安保法案」を審議しており、戦後日本の歴史の転換点にさしかかっているからである。わたしは、「安保法案」だけを見ていると、「鹿を追う者、森を見ず」ということになると思う。

 この問題は、「憲法改悪(よりよいものにすることを“改正”と呼びたい。我々は今、現在のものよりの劣化、退化、そしてその平和憲法精神の根本的改悪をみている)」への取り組みの一里塚に過ぎないからである。わたしはこの問題を、『宗教の神学(比較宗教学)』の講義で長年取り扱ってきた。二十年前には多くの人は予想していなかったことが今起こっている。わたしは、二十年前のこの講義の中で必ずこのような時期が到来することを予想し、危機感を抱いてきた。今まさにそのことが起ころうとしている。しかし、これはまさに始まりにすぎない。

 わたしは、安保法案の地政学的(地政学とは地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を巨視的な視点で研究するもの)な主張は理解できるところがある。しかし、日本国憲法の日本史における意義とその精神に沿った現実適用という視点からは、逸脱した法案と受けとめている。「多勢に無勢」で勝ち目はないかもしれないが、日本の長い歴史の中で「小さな光が、大きな暗闇を吹き払う」ことを信じて、暗闇が増し加わる只中で、煌々と光をともし続ける。

 さて、このようなナショナリズムが盛んになったとき、キリスト教会もその影響を受けるものである。わたしは、そのような風向きに風見鶏のように方向を変え、政治と世論に迎合していくキリスト者の中に、ある人が述べたように「日本教キリスト派?」ともいえる傾向をみる。その「割礼」は、日の丸、君が代、天皇崇拝、靖国参拝、教育勅語等であり、「戒律」のリストには、日本文化を愛する内容として「国においては天皇を崇拝し、地域においては氏神を祀り、家庭においては祖先を崇拝するべし」と書かれている。

 「十字架のつまずき」を取り除くために「日本教の割礼と戒律遵守」を許容し、彼らは「日本教キリスト派」たることを証しし、そのようなかたちで取り入り、日本人の心をくすぐり、リバイバルを起こそうとする。地政学的な危機をあおり、ゆがんだナショナリズムを掻き立てる。そして「嫌韓、嫌中」ニュースが大好きである。

 聖書にある「律法の全体」は「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」(5:14)とあるのにである。わたしが聖書を読むと、「あなたの隣国、韓国民、中国民を、あなた自身のように愛せよ」と聴こえるのである。もし隣国同士で「互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしますます」(6:15)と書いてある通りである。

 実際に、大正デモクラシーの最中、経済危機の到来とともに、突如、全体主義(ファシズム)と軍国主義が登場し、日本を誤った進路に導きいれ、それはやがて太平洋戦争に至り、アジアで二千万人、日本人も三百万人が亡くなった。

 それからまだ七十年しか経っていないというのに、「喉もと過ぎれば、熱さ忘れる」日本人の悪い癖である。ユダヤ人が旧約聖書を反芻して学ぶように、日本人はもっと日本の歴史を学ぶべきであると思う。特に、立憲主義の視点、人権の歴史の視点、そして宗教の神学の視点を大切にして。

 「わずかなパン種が粉を発酵させる」(5:9)とある。日本の歴史を丁寧に振り返ることで、あおられ、翻弄されることから守られる。出エジプトの十の災害のような大きな犠牲を通して与えられた「モーセの十戒」のような「日本国憲法」を、今「ちりあくた」のように捨てようとしている人たちがいる。わたしは、この「日本国憲法」こそ、聖書的な精神に満ちた世界最高峰の憲法のひとつであると思うのである。

 この憲法を捨てるとき、何が起こるのか、わたしは「キリシタン時代の迫害」や「国家神道時代の苦難」に類した時代が再来すると思う。「妨げているもの」が取り除かれるからである。「内心の自由」を保証する最後のディフェンス・システムが破壊される。「習俗」とか「愛国心の表明」ということで、キリストの花嫁としての「純潔」が汚される時代が到来する。日の丸・君が代でとどめられるはずがない。それは靖国参拝強制、天皇崇拝へと突き進むはずである。今こそ、患難期の只中の生き方を指し示す「ヨハネの黙示録」を学ぶべき時代であると思う。(安黒務記)

2015年06月14日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:21-31 説教: 安黒務 牧師 :奴隷的戒律遵守のユダヤ的聖書解釈の道か、贖罪と御霊による自由のキリスト的聖書解釈の道の岐路を照らす影と光のコントラスト

 昨日、フェイスブックにアッセンブリー教団に属し、アドバンスト オブ セオロジー スクールのセミナーに、何年か前、私を講師として招いて下さったK先生が、私と同じ様な事を書かれていた。

 レストレーション、ディスペンセーションについては誤りであること。また、聖書解釈は真ん中を走るべきであって、端を走ると危ないということである。

 私はK先生をはじめ、O先生たちは終末についての講演をなさるなど、私と志を一つにする同志というか、共鳴者が少しずつ増え広まりつつある事に感謝した。また、それぞれが各教団で重要な先生方であり、そんな方々が私と同じ方向を向いて下さっているようであり感謝した。

 さて、今日の箇所だが、アブラハムには二人の子供があって、一人は奴隷の女の子供であり、もう一人は自由の女の子供だという。

 私がここで感心するのは、パウロのコントラストを効かせた明確なメッセージである。そこには、いかに、パウロが旧約聖書を良く理解しているかが現れている。

 一人目の、奴隷の女の子供というのは、律法の下にいたいという人々を現している。旧約聖書で聖い神様がシナイ山で十戒を与えられた。そして、その他に儀式についての法律や具体的な戒律が、事細かに作られていった。

 エジプトを出た多くの民をまとめるため、荒野の時代には的確な法律であった。ここには、その時代性、地域性があり、戒めをどんどん増やしていくと、日常的に縛られた物になってしまう。

 つまり、ユダヤ教的な信仰では、宗教的奴隷になってしまう。これが、一人目の子供の意味である。

 次に、二人目の子供とは、イエス キリストが奴隷の様な状態から解放して下さった、自由にして下さったと信じるクリスチャンたちである。

 キリストは律法の本質を成就して下さった方なのである。神の聖い光に心の中を照らされると、いかに、自分が罪深いかがわかり、こんな自分のためにキリストが死んで下さったのかということが解ると、神に赦されるとはどれだけ心軽く、自由であるかを経験出来る。

 一人目の奴隷の女の子供とは、イシュマエルのことである。彼は人間の浅はかな知恵によって、肉的な人間の努力によって生まれた子供であった。しかし、二人目の自由の女の子供とは、イサクである。ここには、浅はかな人間の知恵や努力では到底有り得ない、神の奇跡の業である。

 アブラハムとサラの力ではなくて、死んだ様な身体からイサクが生まれた。神の力によって・・・

 ガラテヤ書の書かれた時代、エルサレムには字義的に解釈された旧約聖書、十戒、戒律の奴隷となったユダヤ教の総本山があった。しかし、天にあるエルサレムの神様の臨在の中には自由があるとパウロは言っている。

 キリストを信じるだけで、神の民となる。イサクがアブラハムから生まれただけで、相続人となった様に。 

 だが、正しい嫡子イサクを霊的な意味を知らないイシュマエルは馬鹿にしてからかった。ユダヤ教キリスト派が異邦人キリスト者に割礼や戒律を守らないで、救われたと言えるのか?と馬鹿にした様に・・・

 パウロはこんな誤った教えがキリスト教会に広まる事を許せなかった。旧約の衣を脱ぎ捨てて、キリストの御霊によって生まれ変わった者は後ろを振り返ってはならないのだと、その場の軋轢を恐れずはっきりと示した。このパウロの姿勢が後々のキリスト教会の歩みを決定ずけたと私は思う。

 しかし、今なお、旧約聖書の外側だけを見て、聖書はユダヤ人を中心として考えるべきだ。カナンの地はパレスチナ人の物ではなくて、イスラエル人の物だ。と言っている人々がいる。

 日本の教会にもディスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムに一生懸命になっている人々がいる。彼らのほとんどは間違った教えを信じているが真面目なクリスチャンたちである。

 どうにかして、彼らが奴隷の女の子供ではなくて、自由の女の子供になって欲しいと、このガラテヤ書のパウロと同じように私も祈っている。新しい天地を共に目指すために!(仁美記)

2015年06月07日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:8-20 説教: 安黒務 牧師 :天動説が地動説に変わってしまったと同じぐらいの聖書理解の大転換

 フェイスブックのブログでも書いたのだが、先週2つの嬉しいことがあった。
 1つはN.T.ライトの"クリスチャンであるとは"という本を読んだことであり、2つ目はエリクソン著"キリスト教教理入門"第三版の英語版がキンドル版で、今月中に送られて来るということである。

 N.T.ライトとラッドは共に新約神学者であり、語っている表現は違うが、ラッド著"終末論"等の著作集と、エッセンスは重なり合うところがあると思った。

 今日の箇所で、パウロは私のようになってください。と言っている。
 熱心なユダヤ教徒であったパウロが、ダマスコ途上でキリストに出会い、人生の価値観が180度大転換した。あんなにも戒律を守ることに命をかけていたパウロが、その戒律の本質はキリストの内にあると気づいた。天動説が地動説に変わってしまったと同じぐらいの聖書理解の大転換であった。

 それなのに、彼が導いたクリスチャンたちが戒律遵守の生活(律法)に戻ろうとしている。キリストの救いの恵みと御霊の豊かさを捨てようとしている。パウロには耐えられない光景であった。だから、"どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。"と痛烈に批判している。

 N.T.ライトは「神証明の議論」(p.82)についてこう述べている。"太陽が昇っているのに、ローソクを探しているかの様だ"と・・・。この類比は、パウロと同じ気持ちでキリストを信じたのに、旧約の民族的イスラエルの影に引きずられている様子に応用して理解できる。
 旧約からの霊的遺産はイスラエルからもたらされたのであるからイスラエルに対して「敬意を払う」のは良い。しかし、キリストを知っていながら「プラスα」はいらない。キリストのみ、御霊のみで十分なのだ。

 ユダヤ人クリスチャンを再び「戒律を守る生活」に戻そうとする人たちは間違っている。知識に欠けた人たちなのだ。
 現代の私たちの周りにも、そうした人たちがいる。強烈な賛美や祈り、ダンス、預言、イスラエルの祭。これらの人たちは教会に「熱気」をもたらしてくれる。いつもの静かな礼拝とは違う「高揚感」を与えてくれる。

 しかし、どんなに熱心で刺激的であったとしても、健全な聖書解釈に根ざした、健全な福音理解に根ざしていなければ虚しい"宗教的熱狂"に過ぎない。その熱気によって、一時的に人々が集められたとしても、それは所詮いずれ消えてしまう物である。N.T.ライトは、それらをおおわれたコンクリートやアスファルトを割って溢れるてきている“地下水脈”にたとえている。(p.33)
 キリストの教会では、正しい聖書解釈、正しい福音が語られるべきである。神学校も然りである。

 旧約聖書を正しく学べば、旧約聖書の実体である新約聖書のキリストがわかり、これからの私たちの生活、人生をどのように歩むべきか、未来がわかるのである。(仁美記)

2015年05月31日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:1-11 説教: 安黒務 牧師 :「全財産の相続人−“アバ、父”と呼ぶ御子の御霊の保持者のみ」

 ガラテヤ人への手紙の四章は三章の終わりの相続人という言葉から始まっている。アブラハムの祝福がキリストを通して私たちに及んでいるというのである。

 罪と滅びの中にあった私たちに救い、永遠の命という相続財産が与えられるのはキリストを通してなのだというのである。もし、この相続が条件付きであったなら、誰が相続出来るであろうか?3世紀のラビ・ユダヤ教の様に613の戒律を守らないといけないとなると、相続する人がいるのか?ということになる。

 しかし、ここに相続人の資格についての唯一の条件が提示されている。"子であること" 子であるならば無条件で親の財産を受け取れるのである。

 親が資産家であれば、成人になるまでは後見人や管理者の下にあるので、直接財産を受け取ることは出来ないが、成人すれば受け取ることが出来る。

 旧約時代、アブラハムは神を信じ、それが義と認められ、神の祝福の約束を受け取った。そして、新約の時代、神が人となられ律法の下に生まれられた。聖い神の御心がこの地上で実践され、祝福の実体であるキリストがこの世に現れたのである。

 キリストがこの地上に人として生まれて下さった唯一の目的は、死ぬためである。全ての人類の罪をその身に負い、自分の命を生け贄として捧げ、贖罪の業を成し遂げることであった。

 このキリストを信じることで、私たちは子という身分を与えられるのだということである。

 神の子という身分は、何を意味するのか?子というだけで、神の全財産を相続出来る立場になったということである。

 そこには、私はまだまだ罪深いので、あれもしないとこれもしないと・・・ではない。出来が良くても悪くても、子であるので全財産の相続人なのである。

 しかし、パウロがいた時代にもそれだけでは足りない、やはり、ユダヤ教の時の様な割礼や戒律を守らないと救われないのではないだろうか?と考える人たちがいた。キリストを信じるだけで子とされるのに、他の条件がいるとなると律法の下の奴隷の身分に逆戻りする事になってしまう。

 私の労を無にしてしまうつもりか?と嘆いている。

 ルターの宗教改革から、500年の節目を迎え様としている今、私たちキリスト教会の状況はどうだろうか?旧約聖書に預言され、この地上に現れて下さったキリスト。この世の中を成人の時代へと導いて下さったキリストは私たちが心を開き「アバ、父。」と呼ぶだけで、子と呼び素晴らしい宝物を下さるというのに、古びて使い物にならなくなったガラクタを手放そうとしない人たちがいる。

 あなたの心に神様を愛する心があるなら、子とされている喜びを父に申し上げようではないか?「私の愛するお父さん!」と・・・(仁美記)

2015年05月24日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙3:15-29 説教: 安黒務 牧師 :「自力本願」としての律法による相続と「他力本願」としてのキリストによる相続

 本日は、都合により説教者本人がまとめさせていただく。ペンテコステ礼拝の日に、ガラテヤ書講解とは、いかがなものかと思ったりもするのであるが、3:8,14から見ると、ペテコステの日の、神学的解説としては最良のテキストともいえると思うのである。

 旧約の心臓部分である「アブラハムの祝福」が、キリスト・イエスの贖罪のみわざに根ざし、復活・昇天・着座・聖霊の注ぎという一連のみわざにより、ペンテコステの日に「約束の御霊」が注がれたわけである。

 ペンテコステ直前においても弟子たちは「イスラエルのために国を再興してくださるのはいつですか」(使徒1:6)とねぼけた質問をしている。しかし、ペンテコステの日に聖霊の注ぎを受け、ペテロの聖書解釈は“大転換”させられた。ダビデの王座は、今天上の右の座にある(使徒2:29-33)ことに目が開かれたのである。

 また、パリサイ派の聖書学者でもあったパウロの聖書解釈も“大転換”を経験させられた。ガラテヤ書はそのことを明らかにしている。ユダヤ教は“律法中心”に聖書を解釈し“戒律遵守”を重んじていた。これに対し、パウロは「アブラハムへの祝福の約束」を「その方はキリストです」と“キリスト中心”に解釈する原則を見出した。「律法による」のは“自力本願”の宗教になり下がるのであるから、「キリストによる」“他力本願”の原理を説き明かしている。

 では「律法」の意味・役割とは何なのか、必然的にこの問いが生起する。パウロは「アブラハムへの祝福の約束」を“遺言”の位置に置き、キリストの死において“相続”は完成するものであり、書き換えは不可能であると宣言する。このことを“中心軸”に設定し、“律法の意義・役割”を説き明かす。「違反を示し」「罪の下に閉じ込め」「キリストへと導く」“養育係”であると。もちろん、律法にさまざまな意味・役割があったことをパウロが知らないはずがない。しかし、パウロはすべての事柄を“キリスト中心”に見つめ直しているのである。この“徹底性”から私たちは学ばなければならない。

 そして、「律法」のその役割は「子孫が来られるときまで」であり、「信仰が現れた以上」その役割は終焉すると断言している。“律法中心”思考のユダヤ教徒は天地がさかさまになったような感覚を抱いたであろうと思う。

 わたしたちは、「キリストの中にあることによって」、「アブラハムの子孫」であり、「約束による相続人」である。そこには「キリストとそのみわざ」があるだけであり、もはや「ユダヤ人もギリシア人もない」。

 わたしは、これらの文脈に流れるメッセージに、ラッド著『終末論』にみる、「キリスト論」「終末論」における、同じ“再解釈”の原則を見るのである。わたしは、パウロがいのちがけで戦い取ったものが何であるのかを、明確に識別できなければ、“誤った方向”へ飛行機は飛び続けることになるのではないかと大きな懸念を抱いている。であるから、わたしもパウロのように「ああ、愚かな○○人よ!」と叫び続けるのである。

参考資料紹介:
 ティンダル聖書注解シリーズ「ガラテヤ人への手紙」pp.46-48において、アラン・コールは、今の「時代のエキュメニカルで融和的な精神」に言及し、カトリックとルター派と聖公会の話し合いの文脈に注目している。「信仰義認」の教理の中心性について“相対化”する試みをクリティカルに評価・分析している。ガイ・ウォーターは『義認とNPP』p.212 において、「ルターやカルヴァンが間違っており、トレントの正しさ」が強調されるという、隠された傾向を見抜いている。(安黒務記)

2015年05月17日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙3:1-14 説教: 安黒務 牧師 : アブラハムの「わざ」としての信仰のユダヤ教解釈の−パウロによる再解釈

 このガラテヤ人への手紙は、一世紀の50年頃に書かれた、パウロが今のトルコにあるガラテヤの人々に送った手紙である。

 パウロが開拓した教会であるが、しばらくパウロが離れているうちに乱れが生じてしまい、そのことを憂いた彼が手紙をしたためている。

 ユダヤ教からキリスト教に移行する過渡期に、今までずっと律法を守って生きて来た人々に、キリストを救い主として信じるだけでは何か足りないのではないか?という疑問が生じてしまうのは自然なことだったかもしれない。

 特に、パリサイ派と呼ばれてきた人々はイエス キリストを信じた上に、ユダヤ教の儀式である、割礼を受け、戒律を守って行くことで信仰は完成されていくのだ、という間違った信仰の捉え方が生まれてしまった。

 しかし、パウロは言った。「ああ愚かなガラテヤ人」十字架に付けられたキリストを信じるだけで、罪は赦され、天国へ行けると言うことが、どうして解らないのか?だれがあなたがたを迷わせたのか?と・・・ 

 この迷わせたという言葉は魔術にかけられるという意味合いがある。

 このガラテヤ人への手紙の箇所で私たちが見るのは、当時のユダヤ人にとってのアブラハムの解釈とパウロのアブラハムの解釈が異なっているということである。

 ユダヤ人は律法を中心にアブラハムの信仰を吟味しているので、信仰の模範者であり、神の戒めを守り続けた偉大な祖先であったと考えていた。

 しかし、パウロはアブラハムが神に祝福されたのは、アブラハムの業ではなくて神を信じたこと、この一点に尽きるという考えなのである。この卓越した解釈は人が救われるということに、人間の業は全く意味を持たないということであり、信仰としての信仰、恵みとしての信仰これは全く受け身のものであるというパウロの考えである。

 このパウロの考え方は後のマルティン ルターの“宣義(神の永遠の大法廷で、罪人であるのに、キリストの代償的刑罰の犠牲のゆえに、無罪を宣告されること)”としての信仰とも通じるものである。イエス キリストの十字架の犠牲によって救われる、これは人の業ではなくてただ恵みによるものである。そして救われた人間は御霊の取り扱いによってその人にふさわしい実を結んでいく(聖化)。(※ちなみに、カトリックでは、プロテスタントの義認と聖化をひとつにした“義化”という理解にたつ。)

 我々が救われるのは、信仰のみ、恵みのみ、御霊のみ、贖いのみであり、これこそ、福音と呼ばれる由縁であろう。

 そもそも、徹底して戒律を守れる人間はいるのか?これらを守る義務があるならば律法はまさに呪いではないか?一生懸命守ろうとすればするほど足りないところが目につき、落とし穴にはまってしまう。

 "義人は信仰によって生きる。"というハバククの御言葉を完全に再解釈し、キリスト者はキリストの死と葬りと復活によって生きるものと考えたパウロ。また、旧約聖書の本質を読み取り、形としての殻ではなく、中身を的確に示したパウロという人は、本当に素晴らしいキリスト者であったと思う。(仁美記)


2015年05月10日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:1-21 説教: 安黒務 牧師

 今日は母の日である。アメリカの教会で、あるクリスチャンの婦人の功績を讃えるため始まった日であるが、母の愛を知ることは神様の愛を知ることにも繋がる。母への感謝を抱くと共に、神様への感謝を新たにされたいと願う。

 ガラテヤ人への手紙はAD.50年頃に書かれたものだと言われている。キリストが十字架に架かられたのがAD.30年頃、ガラテヤ人への手紙の一章にはその三年後のことが書かれ、二章にはそれから14年経って(1節)とある。

 パウロはキリストの十字架の出来事があった後、ユダヤ教徒としてキリスト者を捕まえる急先鋒であった。ステパノが殉教し、パウロがダマスコに行こうとしていた時に、キリストと衝撃的な出会いをする。

 「私はあなたが迫害している、キリストである。」と、強烈な光の中でパウロは直接キリストとお出会いした。
 パウロはその時、目が見えなくなったが、その後癒やされ、彼の「宗教観」は一変する。
 「ユダヤ教徒パウロ」ではなく、新しく生まれ変わった「キリスト者パウロ」の誕生であった。

 しかし、周りの人々は驚き惑い、キリスト者からは怖れられ、ユダヤ教徒からは命を狙われる存在になった。そうして、エルサレムから遠ざかっていたパウロだったが、十数年の時を経て、エルサレムに戻って来た。それは、彼の信じる「福音理解」を皆に分かち合いたい、今までの歩みを無駄にしたくない一心であった(2節)。福音理解が歪曲される危険があった(3-5節)。

 この、パウロの姿を見ると、今の自分の姿と重なるところがある。宇田先生に出会い、直接学び、エリクソン、ラッドの神学書に出会い、福音主義信仰のセンターラインを教えて来た。KBIで教え始めて36年、エリクソンのキリスト教神学を教え始めて約20年。私が学んで、生徒たちに教えてきた事が無駄にならない様に、また、違った方向に歪められない様に私は切に祈りつつ歩んで来た。

 しかし、最近のキリスト教会は「ディスペンセーション主義聖書解釈」に目を眩まされ、「キリスト教シオニズム」に翻弄され、今まででは考えられなかった「レストレーション運動」に組み込まれていこうとしている。この傾向を深く懸念している。

 さて、その後「ケパ(ペテロ)がアンテオケに来た」(14節)ときに、「非難すべきこと」があった。それは、初代教会の福音理解が“危機にさらされる”出来事であった。それは、元々のユダヤ人は割礼を受けていない異邦人との食事は考えられなかったことに事は発する。「食物規定」等のユダヤ教徒の戒律に背くことになるからである。しかし、キリストを受け入れたユダヤ人たちは「同じキリスト者として、同じ主にある兄弟姉妹として、分け隔てはしない、してはならない」はずであった。

 ペテロにとっては「割礼派の人々」への“配慮”としての行動であったかもしれない。しかし、パウロにとっては“福音理解の本質”に関わる事柄であった。ここに、新約聖書27巻中、13巻をしめる“旧約聖書解釈者パウロ”の特筆すべき洞察力がある。「福音理解のセンターライン」がある。

 「ユダヤ教の戒律に従って、異邦人と食事を共にしない」ことは、“当面の配慮”ですまない“危険”を内包している。その“危険”とは、割礼派の福音理解を容認する危険である。つまり、「@異邦人は、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならない。Aユダヤ教徒になった異邦人は、ユダヤ教の戒律を守らなければならない。食物規定に関する戒律を守らなければならない。Bそして、イエス・キリストを信じて救われるのである」と、つまり割礼派の理解では、クリスチャンとは「ユダヤ教キリスト派」としての理解、位置づけなのである。

 「異邦人と共に食事をしない」(12節)ということは、パウロにとっては、即座に“エボラ出血熱発生”のように思えた。“鋭い洞察力”である。それは「ほかのユダヤ人たちも、バルナバまでも」“転移”していった恐ろしい“感染力”をもっていた(13節)。しかし、パウロの福音理解の“診察眼”はその危険を見逃さなかった。即座に対応した。徹底的に処理した。いのちがけで取り組んだ。「使徒団のリーダー格のペテロ」に対して、面と向かって抗議した(10,14節)。「あなたのしていることは何なのか?」と・・・キリストを信じる者にユダヤ人も異邦人も関係ない。私たちが救われたのは、行ないによらず信仰に寄ったものである。キリストを信じるだけでは足りないかの様なことを言ってはならないと・・・

 私たちの今があるのは、キリストと共に十字架につけられ、共に復活させられたからこそである。そして、キリストが私たちのうちに生きておられるからこそ生かされているのである。 使徒としては後輩にあたるパウロは、先輩のペテロに対して、遠慮する事はしなかった。その場を何事もなく通り過ぎる事も出来たであろうが、彼にはそれが出来なかった。自分の信じる信仰を、ここで曲げることはキリストに対する不忠だと思ったからである。

 この二章から教えられるメッセージの本質を、今日の状況にあてはめれば、「民族的イスラエルを外形的に選民扱いし、その視点からの聖書解釈」を“強いる”傾向へのメッセージを聴き取ることができる。「割礼派の人々」は「ディスペンセーション主義聖書解釈派」とその実践である「キリスト教シオニズム派」に類比しうるものをもっている。「パウロの宣べ伝えている福音」は、「福音主義的聖書解釈派」とその実践である「契約主義的アプローチの人々」に類比しうる。そして、それは、わたしたちが「パウロと異なる聖書解釈法とその実践を強いる今日の状況下で、取るべき態度がいかにあるべきか」に向けて力強く語りかけている、パウロを通しての「神の言葉」として響くのである。

 あなたは人を恐れるのか?それとも、主を怖れるのか?ペテロのように過ちをおかすのか、パウロのように毅然と立つのか、それが問われている章である。(仁美記)


2015年05月03日:新約聖書 ガラテヤ人への手紙1:1-24 説教: 安黒務 牧師

 「ガラテヤ人への手紙」は、過去にも何度か開いたことがあると思う。先週までの「ヘブル人への手紙」は、私が書いた論文や翻訳したラッドの本に沿った聖書の箇所ということで学んできた。

 年末に発表した論文や、この春出版されたラッドの終末論の本は、お陰様で好評である。終末論の本はアマゾンでも在庫切れ状態で、中古本が元の価格の倍程の値段が付けられている。この様な状況であれば、再版もそう遠くないかも知れない。

 しかし、その一方で、「キリスト教シオニズムの集会」も頻繁に行われており、その中の一つが"ハイナイト"という祈祷会である。そのプログラムをみると、第一のポイントでは、イスラエルの情報が満載、第二のポイントで日本のリバイバル、そして最後に“問題点”が隠されている。その問題点とは「聖書を、“民族としてのイスラエル”を軸として解釈する」ように導く教えである。第一と第二のステップで自然に心を開くように“あしらわれた”人は、第三のステップを吟味し拒否することはきわめて困難であると思う。

 こうした集会に参加していると、知らず知らずのうちに、「使徒的な聖書解釈」とは違った方向に導かれてしまう。この様な、困った状況が見うけられる今日だが、この「ピンチはチャンス」なのではないかと考えさせられている。

 つまり、“光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった”(ヨハネ 1:5)−「こんな状況だからこそ、私の取り組んできたこと、また取り組んでいることが生きる」とも言えるのである。だから、先週までの「ヘブル人への手紙の光」も感じながら、次のテキスト、「ガラテヤ人への手紙」を学んで行きたいと思う。

 私たちの学ぶべき、「使徒的解釈」を確立したパウロは、ユダヤ教徒の中でも特に熱心な信者であった。幼い頃から旧約聖書を学び、熟知していた彼が、「実ははき違えていた。」と告白しているのである。
 「イスラエル民族を中心に書かれている」と思っていた旧約聖書が、実は、「キリストについて預言し証詞された書物」であるとわかったというのである。

 このことを彼がわかったのは、誰かに聞いたのではなく、「直接キリストからの啓示」として教えられたとパウロは証言している。
 彼が熟知していた旧約聖書は、“始原的”に「キリストの恵み、キリストの福音」で満ちており、聖書は、「キリストのことを証詞する書物」であると確信したので、今までの全ての物を"塵あくた"だとまで思うと告白しているのである。

 この章が書かれているメッセージの本質を今日の文脈の中で聞き取ると、「旧約聖書の影」からキリストの福音を再解釈しようとすると、「全く別の解釈」になってしまう。つまり、「ユダヤ教的解釈」になると、キリストの福音が、「イスラエルを中心とした福音」に“変質”してしまう、との警告として聞こえるのである。
  教会の牧師や神学校の教師は羊である信徒や牧師となっていく生徒を「正しい方向」に導く責任があるのではないか。招こうとしている講師が「どういう背景」の人か、その人が「最近どんな教え」をしているのか?、「どんな集会」を開いているのか?、「間違った教え」や「間違った聖書解釈」をしていないのか?ちゃんと“吟味”した上で招く必要がある。

 その人の話す内容は「イエス様中心」なのか?もしそうでなければ、パウロは"アナテマ!"、つまりその様な者は"のろわれよ!"とまで言っている、危険であると語っているのである。
 パウロは「人間から」ではなく、「キリストの啓示」の受け、人には相談せずに異邦人への伝道を開始した。「福音理解」において、“右往左往”したり、“八方美人”にはならない、良い意味、正しい意味で“堅固に、自立した働き人”であった。

 「キリストだけ」を信じよ!、我々の祖先であり、「ユダヤ民族であるアブラハム」ではなく、「キリストの復活信仰と同じ信仰によって御霊に導かれたアブラハム」から学びなさい。また、「姦淫の罪にまみれたが、悔い改め、罪を赦されたダビデ」の様に、「キリストの十字架の赦し」のみを握りしめて歩みなさい。

 キリスト教会を激しく迫害してきたパウロの回心を、弟子達はすんなりとは認めなかったに違いない。
 だから、一部の弟子達としか会うことが出来なかったとある。しかし、「パウロが語る福音」が、「弟子達の語る福音」と“同じものである”ことを確かめることが出来たと書いている。

 今日のキリスト教会もそうあらねばならない。我々の信じる信仰は、「キリストのみ、恵みのみ、信仰のみ」であると・・・(仁美記)