"Old"ナルドの香油


201605-08_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ


記録: 安黒仁美

※1/1より、多くの機器にて視聴できるよう、ファイル形式をmp3のみに変更しています。




2016年08月21日 新約聖書 エペソ人への手紙2:4-6 (MP3) 「ともによみがえらせ、ともに天の所に―キリストと出会ったことの無い人は、生きたことの無い人である」

今週、「ICIサマースペシャル」がいよいよ行われる。いったいどのようになるのか?懸念されたが、10名の参加者が与えられ、ちょうど良い人数だと感謝している。
   子供の頃、小学生の頃は、毎日のように川に行き、魚を取って遊んでいた。その頃は今と違って、テレビもパソコンもゲームも無く、我が家には本も無かった。何にもない中、川で魚を取るのが唯一の楽しみであった。
   そんな私がイエス様を知ってから「福音の本質」をひたむきに追いかけ、栄冠を目指して走ってきた。今回の「サマースペシャル」では、ラッドの「終末論」を分かち合いたいと考えている。彼の遺言とも言えるシリーズを、ファン・ルーラーの神学を用いて照らし出そうというのである。面白くて仕方なく、ワクワクしている。

   思えば、小学生の頃から数人の年下の子供達と、川に行ったり山に行ったりして遊んできた。夏休みの終わりになっても宿題が終わらないと聞くと、地域の公民館にみんなを集め、宿題を見てやった。好きでやっている事なのに、子供達の親御さんからは大変感謝されたのを覚えている。
   また、岬の教会にいた時も、「学習教室」を開き、近所の子供達の勉強の助けをし、やはり親御さんから喜ばれた。
   いつもはインターネットやDVDで公演・講義をしている私にとって、「サマースペシャル」は人々を目の前にして行うことが出来、大変幸せな時なのである。

   1~3節に「あなたがたは罪過と罪の中に死んでいた。」と書かれている。また、5節には「罪過の中に死んでいた私たちを・・・」とある。
   ドフトエフスキーの著書の中に「悪霊」というものがある。その中に書かれた言葉「キリストと出会ったことの無い人は、生きたことの無い人である。」という一節がある。一般的に人々は何かしらに打ち込み、一生懸命に生きている。私も中学・高校1年までは野球に、高校2,3年は受験に打ち込んでいた。そして、大学に入り、ある意味目標を達成すると次の目標が見えなくなってしまった。「人生における目標とは何なのか?」それを見つけるため絵画、哲学、芸術、文学など手当たり次第に試してみたが、私の「人生における目標」には出会う事が出来なかった。

   虚しい学生生活を送りながら、ふと教会の映画集会に導かれ、そこで私の人生は180度変わってしまった。「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ  1:21
   どんな事があっても、キリストから目を離さないでいると、事故も災害も不幸も乗り切る事が出来るのである。そして、人間がどうしても避けられない「死」という問題も、「益である」ということが出来、永遠の命が与えられる。

   この神様からの命・栄光に盲目であり無感覚であり、御霊の声に耳を傾けることなく、「アバ!父よ」という叫びも知らず、この世の流れに流されて肉の欲を満たすためだけに生きる時、人間は「怒りの子」となり、最期の審判の時、地獄に行かなければならない。
   「キリストとともに生かし」「ともによみがえらせ」死んでいたものに命が宿り、とらわれていたものが解放され、有罪であったものが赦される。それだけでも素晴らしい事なのに「ともに天のところに座らせて」くださるというのである。

   ブラジルで行われているオリンピックで、バドミントンの試合を見る機会があった。しばらく見ていたのだが、19対17でもう負けそうになった時、見るのが辛くなりチャンネルを変えてしまった。しかし、後で見ると負けそうだった方が逆転して勝ち、金メダルを授与されているではないか!
   クリスチャン生活も同じことが言えると思う。「もうダメだ!」「絶望しかない!」そんな場面に置かれることがある。しかし、私たちがそこで学ぶのは「キリストとともに生かされ、ともに死に、天に携えあげられる不思議」である。
   私たちが生きている中には、痛みや苦しみが満ちている。ただ、キリストとともにある時、不思議な平安と守りを体験し、「信仰の本質」「信仰の根源」を分かち合いながら、キリストとともに「天の王座」に座らされている自分を発見するのである。(仁美)?

2016年08月14日 新約聖書 エペソ人への手紙2:1-3 (MP3) 「罪の中に死に、この世の流れに従い―ボーダーラインは霧の中に」

東アジアの昨今の流れとして、近隣の諸国特に中国や北朝鮮の、軍備増強が挙げられる。国内の不安定要素のため、あえて外敵を見立て強調することによって、国内の安定を保とうとする姿勢が見られる。その結果が、中国の南・東シナ海における緊張の高まりであり、北朝鮮のミサイル発射や核実験である。
   翻って日本を見てみれば、憲法を改定し、再軍備・愛国心・忠誠心を強調し、安定を図ろうとする動きが見られる。

   先に定められた「日の丸・君が代」と共に、「天皇崇拝」は、日本人としての愛国心や忠誠心を育む日本人のアイデンティティ3点セットである。改定されようとしている憲法の条文では、曖昧な表現がされ、美辞麗句が並ぶかもしれないが、改定を目指してきた人たちの目指してきたものは、「明治憲法」の再現である。

   そうなれば、今までも戦ってきた「地鎮祭訴訟」でも勝つことが難しくなり、微妙な判決が全て右寄りの判決になってしまう恐れがある。
   靖国参拝や伊勢参りなどは、日本人の習俗・慣習であるという流れが強くなり、今でも一部の国会議員や政治家たちが行なっていることが、全ての地方・地域でも当たり前の事とみなされ、地域での祭りや宗教行事への参加の圧力が増していくと思われる。

   私が心配するのは、教会の中にも曖昧な状況が広がり、天皇崇拝は「偶像礼拝」ではないという意識が常性してしまうのではないか?という事である。選挙とかでは勝てなくても、教会は何を遵守するのかという事をしっかり持っていないと、「文化である」「習俗である」という強い意見に呑み込まれてしまうことになる。

   エペソ書では「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・」(2:1)と書かれている。罪過とはギリシャ語で「パラプトーマ」、英語では「トレスパス」といい、踏み外すこと、限界線を越える事を意味する。また、罪はギリシャ語で「ハマルティア」的外れ、または基準に達しない事を意味する。
   聖書の中には天地万物を造られた神様が、この世界の統治者として存在される事が書かれている。人間はそのお方によって造られた被造物として、この世界を任された者、管理者として任命されている。その創造者から断ち切られた者は、霊的に死んだ者であるとパウロは言うのである。

   2:2  この世の流れに流されて、「これは日本の文化・習俗なのだ。」と流されて、「偶像礼拝」「天皇崇拝」「死者崇拝」「神社参拝」する者は、何が神様の前に正しくて、何が限界線なのかわからなくなっているのである。真の神様ではなく、この世の支配者に支配されていることになる。

   2:3  本当の神様を崇め、感謝して生きる事をせず、神様に不従順で反逆の中に生きる者は、神様との人格的な交りを捨て、欲望のままに生きることになる。この世の流れに身をまかせる者は、神の御怒りの対象となる。

   神様を礼拝する純粋性の大切さ、いつの間にかボーダーラインが霧で見えなくなって、神様こそが万物の創造者であられることを忘れてしまう。神様を崇め、崇拝する事が人間の最も大切な事であること、この「根源」が見えなくなると、この世の流れに流されて、人間関係だけを考えて生きるようになってしまう。
   江戸時代にどうして多くのキリシタンたちが踏み絵を踏まず殉教していったのか?ちょっと頭を下げて踏み絵を踏めば生きれるものを、彼らは自分たちの信仰の純粋さを大切にするがために、あえて死を選んで行った。
   明治以降の国家神道の中で、「天皇崇拝」を拒否し投獄されたり命を落とした者もいた。どうして彼らは拒んだのか?

   「神の唯一性」本当の神様のみを礼拝して生きるという事が、クリスチャンとしての死活問題なのである。十戒にも「私のほかに、ほかの神々があってはならない。」「偶像を作ってはならない。」「拝んではならない。」「仕えてはならない。」と記されている。
   私たちクリスチャンは、十字架をのみ基盤として生きるのである。

   8月15日、これは戦争の終わった日である。古い日本が死に、新しい日本が復活した日である。そして、後に「日本国憲法」が与えられた。新しい憲法には福音の香りがする。神様によって平和な時代を生きる、偶像礼拝はしなくても良い、クリスチャンにとって夢のような時代である。そんな憲法を再び偶像の色に染まる憲法に変えられないように、私たちは小さな一歩一歩を積み重ねなければならない。(仁美記)

2016年08月07日 岬福音教会礼拝説教、安黒務 「キリスト教信仰入門A―義の栄冠を慕い求めて」新約聖書 ローマ人への手紙2:1-16

●YouTube
https://youtu.be/9l5jXnMHhZk
●週報聖句:第二テモテ4:8「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
●聖書朗読箇所:ローマ2:1-16
●説教原稿「キリスト教信仰入門A―義の栄冠を慕い求めて」
http://www.aguro.jp/the-nard-fragrance/20160807_MEC_Rom02_01-16.pdf
●MP3    
http://www.aguro.jp/the-nard-fragrance/160807_mec_ss.mp3
*
【要約版】
*【序】
今朝、週報に掲げさせていただきました聖句、Uテモテ4:8は、クリスチャン人生の「ゴールイン」のみ言葉であります。神を信じ、またイエスさまを信じる者にとって、再臨の日、また最後の審判の日というものがどういうものであるのかを明らかにしている聖句です。犯した罪のすべて、また罪の性質をも含めて、すべてを十字架につけて、処罰し、赦されたクリスチャンにとって、審判のとき、どのようになるのでしょうか。クリスチャンの審判について、三つの事が教えられています。
第一に、イエスさまを信じ、罪赦され、罪の赦しを土台にして、内住の御霊によって、内住の御霊とともに生きるとき、「審判の日は、オリンピックの表彰式」のようであるということです。
第二に、ただしい審判者である主、髪の毛一本まで正しく数え、評価してくださる、ということです。わたしたちの御霊にある善行のひとつひとつ、すべて神様に覚えられているということです。最も小さな善行のひとつをもらすことなく、換算し評価してくださる。
第三に、なによりも素晴らしいことは「主の現れ−再臨を慕っている者には、だれにでも、授けてくださる」「だれにでも」すべてのクリスチャンにもれなくオリンピックー上位三人ー金・銀・銅という感じーとびぬけた運動能力のあるごくわずかの人のみではなく、神の国のオリンピック選手であるわたしたちひとりひとりーもれなく、だれにでも、「義の栄冠」を授けてくださるのです。
*【二つの人生行路】
*【より優れた色のメダルを慕い求めよう】
*【結び】
 このように、「福音」は生きる意味、目的を提示して、クリスチャン生活を励ます力となります。わたしは、今朝、このことを覚えていただきたい。「義の栄冠」を授けられ者とされているというイメージを心に焼き付けなさい。そして、義なる、正しい審判者たる神の御前に、イエスさまを信じて救われ、内住のキリストの御霊によって、生かされ、規定に従って走り、「より優れた色のメダルをいただく者」とされましょう。(務記)
***************************************
●関連説教・記述「ウルリッヒ・ヴィルケンスとともに学ぶローマ人への手紙二章」
・2:1-16…神は行いに従って報いをお与えになります
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2010.htm#Rom02a
・2:17-29…神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2010.htm#Rom02b
*EKK新約聖書註解『ローマ人への手紙』著者ウルリッヒ・ヴィルケンス紹介…1928年ハンブルクに生まれる。ハイデルベルク大学神学部においてG.ボルンカムに師事。1953-1955年牧会の従事。1958-1960年マールブルク大学神学部の講師、1960-1968年ヘルリン神学大学の新約学教授、1981年10月より北エルベ福音主義教会教区のホルスタイン・リューベックの監督に就任。

2016年08月02日 新約聖書ヨハネの黙示録17:1-18(MP3) 獣に乗っている大淫婦への裁き

【序】
2016年5月26日・27日のサミットは、伊勢神宮のある伊勢志摩で開催された。わたしは、ここにも今の政権が目指しているものの目標がみえるような気がしている。伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっている。
さて、私たちが目配りしているローマ帝国におけるキリスト教会は、1c-3cの間、帝国人口の1%程度で「皇帝崇拝」と対峙していた。私たちは今日の日本に生きる、1%のキリスト者として同様の状況にあり―「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、” 公共の精神を尊び”、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、” 伝統を継承し”、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」(改訂教育基本法:前文)―” 公共の精神を尊び” 、” 伝統を継承し”という改訂追記された美辞麗句の裏に含まれ、目指されているものの意味を看取することが求められているのではないか。
「国家神道」のレストレーション(回復)運動は、偶像礼拝の強要というかたちでは到来しない。それは「教育勅語」がそうであったように、まず教育の世界から、皇室祭祀や神道の祭祀は、「宗教」ではなく「習俗」であり「国民精神」の表現であり、これに参与し敬意を払うことは、宗教行為ではなく、日本人として”当然なすべき所作”―つまり” 公共の精神を尊び” 、” 伝統を継承”する範疇に属する行為としての教育的取り組みがさなれるのではないかとみている。そこで、以下に「国家神道の本質」を確認しておくことにしよう。
 日本国民にとって、国家神道とは、一体何であったか。それは、たんに過去の歴史上の事実への関心ではなく、国家神道の復活が現実の問題となっている…(今日の)日本においては、そのまま現在の問題でもある。
 国家神道は、日本の民族宗教の特徴を、19世紀後半以来の約80年間にわたって、復活し再現した宗教的政治制度であった。民族宗教は、集団の祭祀であり、そこでは宗教集団と社会集団が一体であったから、宗教集団への参加は、自然形成的であるとともに強制的であつた。
 国家神道は、集団の祭祀としての祭祀としての伝統をうけついできた神社神道を、皇室神道と結びつけ、皇室神道によって再編成し統一することによって成立した。民族宗教の集団的性格は、国家的規模に拡大され、国民にたいしては、国家の指導理念である国体の教義への無条件の忠誠が要求された。国家神道の教義は、そのまま国民精神であるとされた。
 世界史上類例のない国家神道による国民支配は、つぎのような日本社会の特殊な諸条件によって、はじめて可能になったと考えられる。それは、日本では国土、人種、言語の自然形成的な統一が、はやくから成立していたこと、この国土では、近代以前には、生産力の飛躍的な発展がなく、これを反映して、変革の各時期に、権力の交代が不徹底であり、重層的に旧権力が温存されて、宗教的権威としての天皇制が存続したこと、日本人の伝統的な宗教観念には、神と人との断絶がなく、聖と俗との相互移行が体質化しているため、宗教と政治との間の緊張関係や、両者の区別と限界についての合理的判断が発達しなかったこと等の諸条件である。
 国家神道は、多元的に発達し、併存してきた日本の諸宗教のうえに、実体のない近代天皇制国家そのものの精神として君臨した。そのため、この中身のない国教は、教義をもたず、宗教ではない国家祭祀というたてまえで、政治的にきわめて有効な機能を獲得した。その理念が、民主主義、社会主義の実体のある政治思想や観念ではなく、神話に立つ理論以前の精神、「惟神(かんながら)の道」であったことは、国家神道のもつ矛盾である反面、かけがいのない強味でもあった。国家権力は、その時々の政治的必要に応じて、惟神の道に、フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができたからである。国家神道は、日本そのものの体現者として自己をつねに正当化する必要があったから、歴史を改変し、日本の伝統を破壊しつつ、作為的に復古を唱え、形のうえでの復古を実現しなければならなかった。そのため、国家神道の教義と儀礼は、国民精神と称しながら、19世紀なかばから20世紀なかばにかけての日本国民の生活意識とは結びつきようがない、人為的で空疎なものに落ち着かざるをえなかったし、国民から完全に遊離した存在として終始するほかはなかった。しかも国家神道のたてまえは、歴史的に多様な展開をとげ、宗教としての機能をある程度そなえていた神社の現実と、明らかに矛盾するものであったから、神社は宗教か否かの紛争が、ながく尾をひくことになった。(村上重良著『国家神道』岩波新書、pp.223-225)
 わたしは、日本のリバイバルという大義名分の下、上記の傾向に迎合していくキリスト教会内部の傾向―「獣の背中に乗ろうとするキリスト教のあり方」に大きな懸念を抱いている。人を集めること、教会の成長第一主義の落とし穴として、福音主義キリスト教のアイデンティティの希薄化、ボーダーレス化、福音理解の変質が進行しているような気がしてならない。今こそ、福音主義キリスト教とは、いかなるルーツとアイデンティティをもつ存在なのかが、真剣に問われ、戦後初めて到来する患難期に備えなければならない。黙示録は、そのように私たちに語りかけている。(務記)
*
【黙示録17章】
      この章は、終末における神の正しい裁きについて、そして、神は正しいかたちで神の民を救われるということが書かれている。
   17:1  この時代を、神様がどのように見ておられるのかが分かる。
「大水の上にすわっている大淫婦」神様から離れた生活、偶像礼拝、不道徳、不品行を行う人間を、「姦淫」とか「売春婦」という表現をする。
   日本では、「信仰心さえあれば、どの神を拝んでも良いではないか。」という考え方があるが、聖書では、一人の夫と一人の妻のように、信仰は純粋なものでなければならないと書かれている。多くの神々を拝み、造られた偶像を拝むという事は、多くの男女と関係を持つことに例えられる。
   神を知らない乱れた世界、これが「大淫婦のような世界」という事になる。文明は豊かであっても、信仰から離れ、偶像、物質、お金、地位を欲しがっていると、不品行や不道徳に染まってしまう。
*
   17:3  巨大な国の繁栄をもとに、神を汚す偶像礼拝や不品行などがいっぱい満ちた文明、社会があるが、そのようなものは永遠ではない。物質的な豊かさに目を、心を、奪われてしまうことなく、神様を信じて慎ましく生きたい。
   17:6  「この女」とは、バビロン帝国、またローマ帝国のことである。イエス・キリストの十字架の御わざを伝える「聖徒たち」、「証人たち」を、これらの国々は迫害し、殉教させた。その血に酔うかのように…。しかし、神はそれらをいつまでも放って置かれないだろう!とクリスチャンたちを励ましている。
   17:7~14  「この女の秘儀と、・・・獣の秘儀とを話してあげましょう。」
ローマ帝国に起こる事、また、ローマやバビロンがどのようになるのかを、ヨハネは神様からの預言として語っている。
*
   「7つの頭とは、・・・7つの山で、7人の王たちのことです。」(17:9)  ローマには7つの丘があったという。それは、まるで7人の皇帝を象徴しているかのようであった。アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラディウス、ネロ。(このネロは恐怖の王と呼ばれ、ローマの町を綺麗にしようとして、古い粗末な家々に火を放ち、都市開発を進めようとした。しかし、その事を責められると、クリスチャンたちの仕業だと嘘をつき、多くの命を奪った。クリスチャンたちが「世の終わりには災いが来る」と言って、それを実現するために、火を放ったのだと嘘をついたのである)
   皇帝ネロが自殺をした後、ローマ帝国は一時期、分裂騒動などもあり、崩壊するかに思われたが、ヴェスパシアヌス、ティトゥスと短い期間の皇帝の後、ドミティアヌスが現れ、ネロの再来と言われた。
   このネロとドミティアヌスの事が、「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上ってきます。」(17:8)  と書かれている。この文章は、皇帝の事であり、また「底知れぬ所から上がってくる」サタンの事でもある。そして、「最後の審判」において、「ついには滅びます」と触れられている。
   ローマ帝国及びその周辺の十本の角である十人の王たちは、本当の神様から離れ、偶像礼拝、皇帝崇拝を行い、不品行、不道徳に走っていた。
*
   17:14  小羊と連なるクリスチャンたちの戦いは、武器を持った戦いではない。イエス・キリストと共に生きる戦い、十字架を背負った戦いである。偶像礼拝、皇帝崇拝をせず、不品行、不道徳に走らない戦いである。たとえ、強制されても屈せず、殉教の道を選ぶ。そのような証しをしつつ最終的に勝利を収める。
   17:15~18  「大淫婦」と言われたバビロン帝国は、ユーフラテス川のほとりにあった。ローマも大帝国の首都であり、多民族、多言語で豊かな町であった。しかし、人々に偶像礼拝、皇帝崇拝を強要した。
*
   今は、十本の角と言われる周辺諸国も、ローマに従っているが、やがてローマに敵対し、反乱を起こし、旧約聖書での売春婦の処罰のように、「裸にされ火で焼かれる」運命にあると宣言する。
   終末期には、全世界の神様から離れた文明や文化、物やお金を崇拝する社会、好色や不品行に走る文化は、裸にされ焼き尽くされるのである。神様の公平な裁きがやがて必ず訪れる。
   私たちクリスチャンは、「聖徒」であり「証人」として、イエス・キリストと共に霊的戦いを戦っていく。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev17

2016年08月01日 新約聖書ヨハネの黙示録16:1-21(MP3 「神の激しい怒りの七つの鉢」
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【序】
 米国の大統領予備選と東京の都知事選をみていて、映画ゴッドファーザーの「政治とは”銃”である。その引き金をひくタイミングである。」といったセリフを思い出した。一方では、党大会指名の直前に、”メール”の暴露があった。後者では”女性問題”の週刊誌掲載があった。過去には、左翼系が押さえていた東京と大阪の知事職も、近年は右翼系が強いようである。思想、信条の自由、信教の自由を唱える人々にとっては、”受難”の時代でもある。
 改憲が現実味を帯びる時代となった今、右寄りの風に乗って、右寄りの改憲をなそうとする人々が目指しているものが何なのかを知ることは重要である。改憲を阻止できないとしても、改憲された時代に起きることに備えをすることはできる。そのような視点から、「神社神道の現状と将来」について下記に引用したい。
 1950年代から復興にむかった神社界では、日本経済の「高度成長」とともに、巨大な皇室関係の神社や現世利益中心の有力神社が繁栄を謳歌する反面、都市、農村の地縁的な中小神社の衰退がいちじるしくなり、神社間の格差はますますおおきくなった。農村の神社では、こんにちなお、集団の祭祀としての機能が保たれているが、神社行事の習俗化が進み、人口の大都市集中とともに、神社を支える氏子組織も弱体化した。都市では、人口の集中と移動によって、地縁意識は急速に薄れ、地元の有力者等が氏子総代となることで、ようやく神社を維持し経営する傾向が一般化した。
 神社経営は、全体として現在の日本社会の構造的変動に対応する宗教的機能を見出しえないまま、末端神社は衰退していき、習俗化の傾向を深めた。…神社本庁は、国民の全成人人口…を氏子崇敬者としているが、実際には神社とつながりのある者を実質氏子とよび、その実数を、都市では氏子崇敬者の三分の一、農村では五分の四とみている。このように神社本庁は、神社の民族宗教としての性格を基本的なたてまえとし、国家的公的性格をはなれて、神社神道はありえないという立場を主張しつづけている。
 神社界では、一時、教義を体系化して、民族宗教的性格を脱し、日本という枠を超えた宗教として発展するみちを指向する動きも現れた。しかし、結局、神社本庁による国家神道復活の要求が基本路線となって、この教義づくりは実らなかった。一部の大神社の繁栄をよそに、小神社は衰え、末端の神職は儀礼執行者と化して、神社神道が国民の生活との結びつきをしだいに失いつつある神社界の現状は、国家神道時代の特権回復をもとめる運動の思想的現実的な基盤を形成している。国民の生活からほとんど遊離しているこんにちの神社神道には、自己の体質を改善して近代化し、みずからの力で新しい宗教としての発展のみちをひらくための内在的エネルギーは、きわめて乏しいといわなければならない。しかも、反動勢力と結ぶ神社本庁の指導層は、民主主義を敵視して時代錯誤の国家神道の復活をよびかけ、この主張を、参加七万八千余の神社に上から押しつけることによって、神社神道が、みずからの手で自己を変革する可能性を封殺しているのである。(村上重良著『国家神道』岩波新書、pp.221-222)
 現在の改憲勢力は、上記の神社本庁等の運動と連携し、それぞれが目標としている”同床異夢”の改憲を成し遂げようとしているようにみえる。ただ、このような改憲路線は、神道関係者をも含め、あらゆる宗教者、また思想、イデオロギーをもつ人々にとって、” 大いなる厄災”となることは確かなことと思われる。(務記)
*
【黙示録16章】
      バブル崩壊は、アメリカの低所得者に対する、無理な住宅ローン(サブプライムローン)の破綻から始まった。いつか返済できなくなる、その事を分かっていながら、金融業界は低所得者に高額な住宅ローンを組ませたのである。低所得者の人たちは、一時バラ色の夢を見たが、その夢は粉々に砕けてしまった。
   原油価格も高騰したり下落したりしている。世の中に溢れたお金が、ギャンブルのように、投機の世界に流れ込んでいる。
   イラク戦争はしなくても良かったのではないか?と言われる。作り過ぎた武器の処理のための戦争、一部の人たちの利益のために、一定期間で戦争が引き起こされていると思われる。政治、軍事、経済が、本当に世界の人々の事を考えてなされているのだろうか?政治も経済も弱肉強食の獣のようになっている。そして、環境までもが狂ってきている。まさに、終わりの時代である。

   16:1  この世界を見ると、人間の欲望のおもむくままに、政治も経済も動かされているように見える。本当に神はおられるのだろうか?しかし、聖書は言う「今いまし、昔います聖なる方。」16:5  「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」(16:7)
   人間の欲望のままに操られる政治や経済は、必ず神様が正しい裁きをされる。神様がこの世界を支配しておられるのだから。

   16:2~4  「第一の御使いが、鉢を地に向けてぶちまけた。」すると、「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」
   出エジプトの時、神様はエジプトの人々に「10の災い」を送られた。災害を通して、イスラエルの民はエジプトから解放されたのである。
   今の時代、仕事が無かったり、経済的な苦しみがあったり、健康の不安があったりする人々が多い。しかし、神様はそんな苦しみから救い出して下さるのである。そして、終末期には、偶像崇拝をする人々や、クリスチャンを迫害する人々には、災いが送られる。
   
   「第二、第三の御使いが鉢をぶちまける」と、海が、川が血になった。出エジプトの時、川が血の色に変わり、飲むことが出来なくなったように、環境問題は、ますます激しくなり、水、空気の汚染、鳥インフルエンザなどが人々を悩ませる。

   16:8  「第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。」空気中のCO2が増えすぎると、地球の大気を守っているオゾン層が破壊される。オゾン層が破壊され薄くなると、オゾンホールが出来、地上に必要以上の紫外線が降り注ぎ、皮膚ガンになる。
   災害を治める神様の事を、災いを通して認め、畏れる人々もいるが、エジプトのパロのように、ますます頑なになる人もいる。「封印された巻物」「7つのラッパ」などは、救済的、警告的な災いである。神様の存在に気づき、悔い改めて、救いに導こうとする災いである。しかし、「7つの鉢」は、もはやその段階ではない。総括的、究極的な災いなのである。救済的、警告的な災いをもたらしても、心を頑なにして、かえって神にけがしごとを言う罪人の姿がそこには見られる。

   16:10 ,11「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。」環境汚染はますますひどくなり、空気が汚染されて、苦しみとはれものが出来た。太陽の光線は強すぎてもいけないが、スモッグに覆われて、届かなくなると、殺菌作用は弱まり、作物は育たなくなり、空気の清浄作用もできなくなる。また、喘息、肺がん、などの病も増える。

   16:12  「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。」ユーフラテス川が枯れるということは、強大なバビロン帝国の滅亡を招いた。ユーフラテス川を自然の堀として利用し、鉄の守りを誇っていたバビロン帝国は、メディア・ペルシャ帝国に滅ぼされてしまった。その方法は、ユーフラテス川を川上でせき止め、枯れた川の水門から潜入するという方法であった。
   同じように、栄華を極めたローマ帝国も、東から攻め込まれてしまう。

   「ハルマゲドン」はヘブル語であるが、イエス・キリストが再臨される前に、戦いがあると言われている所である。イスラエルのメギドにある町で「メギド平地」→「ハルマゲドン」(メギドの山)という意味である。日本で言えば東西の軍勢が戦った「関ヶ原」のような場所で、エジプトからシリアを経てメソポタミアに至る、軍事的にも重要な場所であった。そこで、最終的な戦いがあり、その後、イエス・キリストの再臨がある。
   「見よ、私は盗人のように来る。」イエス様を信じて、義の衣を身につけ、神様の前に敬虔な生活をするべきである。

   16:17  「第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。」これまで上げた「7つの鉢」は、時間的な間隔は短いと思われる。次々と、神に敵対する人たちに対して、これらの裁きが下される。ぶどうが刈り取られ、酒ぶねにぶち込まれ、踏みつぶされるのである。神様は聖いお方、正しい裁きをされるお方である。神様を信じる人々が、救われ、御国に入れられるのと同時に、二枚の絵のように、証しを拒み、悔い改めない者は、永遠の裁きを下される。

   その場しのぎの強制によって獣を拝んだり、バビロンのように外側の豊かさに惹かれたりせずに、キリストがほふられた小羊のように歩まれた、その御跡を辿り、殉教を恐れず、勇敢かつ忠実に、キリストの証ししつつ生きることが出来れば、幸いである。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev16

2016年07月30日 新約聖書ヨハネの黙示録15:1-8(MP3 「モーセの歌と小羊の歌を歌って」
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【序】
 「ヨハネの黙示録」研究の権威のひとり、リチャード・ボウカムは、ヨハネの黙示録を「新約聖書中最も洗練された文学作品のひとつ」、「初期キリスト教最大の神学的業績のひとつ」と評している。ここで、大切なことは、ヨハネの黙示録に溢れる視覚的イメージから聴き取るメッセージを今日のわたしたちの歴史的文脈に重ね合わせることである。黙示録のメッセージは、今日地上でなされていることの本質を露わにし、キリスト教徒の想像力を一新し、”美辞麗句”で固められた偽りに対する”浄化作用”を発揮する。今、起きつつあることを見せていただくために、以下に戦後の「国家神道復活運動」の経過を学ぶことにしよう。
 1959年(昭和34)には、皇太子の結婚式にあたって、政府は宮中祭祀の神道儀礼である賢所大前の儀を国事とした。つづいて1960年(昭和35)、首相池田勇人は三重県選出の自民党衆議院議員の質問書にたいして、伊勢神宮の神体ヤタノカガミの所有権は皇室にあると回答した。この回答は、ヤタノカガミを祀る伊勢神宮正殿に、公的性格を認めて、伊勢神宮の国営化に道を開くものであった。1967年(昭和42)には、国民の広範な批判と反対をおしきって、「建国記念日」の名称で、紀元節が「国民の祝日」として復活した。日本国においては、宗教はいかなる公的性格ももっていないから、国家神道時代の祝祭日は廃止され、祭日が消滅して「国民の祝日」のみとなったが、紀元節の復活は、皇室神道と神社神道の紀元節祭の事実上の公的復権を意味した。学校教育においても、天皇制の正統神話が公然と再登場してきた。政府による国家神道復活のための既成事実の積み重ねに呼応して、保守政党の支援のもとに、遺族会、旧軍人団体、右翼団体と神社本庁、生長の家、国柱会等の一部の宗教団体によって、靖国神社の国営化運動が活発化した。1963年(昭和38)以降、靖国神社の「国家護持」案があいついで発表され、1969年(昭和44)には自民党所属衆議院議員大半の共同提案で、靖国神社法案が国会に提出された。同法案は、靖国神社から宗教的要素をとりのぞき、特別法人として内閣総理大臣の支配下において、国費を支出するという趣旨で、事実上の靖国神社の国営化を企図するものであった。宗教界の大半は、信教の自由を脅かすおそれがあるとして、靖国神社の国営化につよく反対し、同法案は二度にわたり審議未了廃案となった。
 また1965年(昭和40)には、三重県津市で、同市当局が公金を支出して神社神道の地鎮祭を挙行したことを憲法違反として、共産党所属市議会議員が訴訟をおこし、神社神道の儀礼は、宗教行為か、一般的な習俗かという国家神道復活問題の中心点が、法廷で争われるにいたった。神社神道の儀礼が、日本国民にとって、それぞれの宗教とかかわりなく受け入れうる普遍性をもつ習俗であるとする神社非宗教論の復権は、ふたたび神社に公的性格をあたえることを意味し、憲法がさだめる信教の自由、政教分離の大原則を完全に空文化するものにほかならない。(村上重良著『国家神道』岩波新書、pp.219-221)
わたしは、特定の政党を支持する者ではない。ただ、民主党の失政と混乱の後、自民党の復権があり、経済への期待から、与党の圧勝という結果と改憲勢力に衆参の三分の二の議席を与えてしまった。わたしは、「神社神道の儀礼は、宗教行為か、一般的な習俗かという国家神道復活問題の中心点」、「神社神道の儀礼が、日本国民にとって、それぞれの宗教とかかわりなく受け入れうる普遍性をもつ習俗であるとする神社非宗教論の復権」ということが、キリスト教会またクリスチャンひとりひとり、また子供、孫の時代にいかなる意味と展開をもってくるのか―このことに焦点をあてて「アジアの七つの教会に送られたヨハネの黙示録」を、今日の日本の教会に”速達便”で送り届けられた手紙として読むべき時代であると思っている。
(務記)
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【黙示録15章】
  黙示録を見ていくと、裁きのレベル、内容、徹底性が、まるで螺旋階段のように何重にも折り重なっていくのを感じる。まるでオペラを見ているように、第一幕、第二幕、第三幕と、たたみかけるようにフィナーレへと続いていく。それが、「7つの封印」「7つのラッパ」そして、今回の「7つの金の鉢」である。

   15:1  ヨハネはパトモス島で、また、幻を見た。それは、最後の災害の幻である。最終的には、「最後の審判」があるのだが、それに至る患難、災害がある。
   「神の激しい怒りはここに窮まるのである。」の「窮まる」とは、「目的を達成する」という意味である。神様を信じる人たちが救われ、天国に入れるという目的が達成されるように、それとは逆に、永遠の裁きに入れられる人たちにも、目的があり、達成されねばならない。

   15:2~4  「火」とは、神様の「怒りと裁き」を表している。その反対に神様は「愛と赦し」の神でもある。
   天上には、水晶の海があるという。2,500年前にエジプトで迫害の中にあった民は、患難の中守られ、紅海を渡った。新旧約の歴史の中の神の民、終末期を経験する神の民は、人生の旅路を終えて天の海を渡る。しかし、獣や像を拝み罪の性質を持つ者は、人々に偶像崇拝、皇帝崇拝、不道徳、不品行を要求し、人々はそれに従う。彼らはこの地上では豊かな人生を生きるかもしれない。そして、神様に真実、忠節を尽くしている者が迫害され、時には命を落とすこともある。
   地上では、豊かで人々を踏みつける者が勝利者と呼ばれるのかもしれない。そして、神の民はへりくだり、十字架の小羊のような扱いを受けるのかもしれない。しかし、神の民はキリストのようにさげすまれるが、苦難を通して勝利を収める。

   そして、彼らは「ガラスの海のほとりに立っていた。」出エジプトのイスラエルの民が、十の災いの只中で守られたように、敵対する者からは迫害されるが、神の民は「神様からの災い」からは区別して守られる。
   そして、神の民は「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。・・・あなたの道は正しく、真実です。」と神様に賛美を捧げる。
   出エジプトで、脱出して行くイスラエルの民を追いかけた軍勢は、海の水にのまれて死んだ。彼らは神様の裁きを経験したのである。ここで、私たちは、神様の峻厳さ、裁きの厳格さを見る。

   15:5~8  「天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」幕屋の聖所とは神様ご自身がおられる所である。旧新約の時代から終末期に至るまで、地上において、神の軍勢と悪の軍勢の戦いは続いて来た。そして、ついに天上における決戦の火蓋が切られるのである。
   聖所である神の本陣には、「きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めた」7人の御使いがいる。これらの装いは、神の裁きの正当性、公平性、潔白性を象徴している。神様は怒りに任せてではなく、聖い神であるから、正しい裁きをされる。

   「永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた7つの金の鉢を、7人の御使いに渡した。」こうして、神の武器は装着され、スタンバイの状態になる。峻厳なる7つの災害、誰も立ち入ることは出来ない、もはや、とりなすことも出来ない。最終的な裁きが始まるのである。
   16章には、これらの詳しい内容が書かれているが、出エジプトを彷彿とさせる恐ろしい裁きである。
   パロの行動を見ていると、人間の罪深さがよく分かる。心を柔らかくしたかと思うと、次の瞬間に頑なになる。それが、何度も何度も繰り返される。もし、私たちが、神の声を聞いたなら、直ぐに従い、降伏して、生きて行きたいものである。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev15


2016年07月28日 新約聖書ヨハネの黙示録14:1-20(MP3 「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」
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【序】
 改憲勢力が目指しているものを、黙示録の光の下で照らし出してみると、この時代、クリスチャンとして如何に生きるべきかを教えられる。
 自民党の改憲案が、日本国憲法第二十条と八十九条に修正を加えようとしていることを黙示録12章の序文で言及した。ここで以下に、信教の自由と政教分離の条文の歴史的背景をみておきたい。
 占領下の1947年(昭和22年)、国民主権と戦争放棄を貴重とする日本国憲法が施行された。憲法は、民主主義の原則に立って、信教の自由を国民の基本的権利として保障し、その裏付けとして、政治と宗教の分離を厳格に規定した。その第二十条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた。また第八十九条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便宜もしくは維持のため、または公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、またはその利用に供してはならない」と規定した。
 国家神道体制のもとでの日本の国家権力は、宗教的性格をもち、版図内の全宗教の正邪を判定する立場にあった。近代天皇制の国家権力によって、近代的な法治国家では類例のない苛酷な宗教弾圧がくりかえされた必然性が、ここにあった。日本国憲法は、政教分離を明確に規定することによって、日本国の国家権力の無宗教的性格を確立した。国家権力は、宗教と次元を異にする世俗的性格をもつものであり、日本国においては、宗教は国民ひとりひとりの私事であることを確認したのである。日本国憲法の成立によって、国家神道の原理は完全に過去のものとなり、歴史の彼方に葬りさせられた。…
 (しかし、歴史の流れに大きな変化が起こった)朝鮮戦争を背景とする占領末期からサンフランシスコ講和の時期に、日本は公然と再軍備に乗り出し、逆コースと呼ばれる政治の反動化が顕著となった。講和の翌1951年(昭和27)、宮中儀礼として皇太子の立太子礼が行われ、復古調を盛り上げた。翌年には、20億円の予算で、敗戦によって中止されていた伊勢神宮の式年遷宮が行われた。遷宮を機に、神社界では、復興の機運が高まり、逆コースの風潮に乗じて、国家神道の復活が、神社本庁の指導層をはじめ宗教界の一部と反動勢力によって公然と要求されるにいたった。(村上重良著『国家神道』岩波新書、pp217-219)
 わたしは、ここに今日の改憲運動の「起点、源流」をみるのである。そして、自民党の改憲案は、その”本音”を伏せて、国民に広く受け入れられるよう”美辞麗句”で飾られているが、それらの言葉の表面に騙されてはならない。改憲派が、最終目標として取り組んでいるものは何なのかを見抜く力、世の流れに迎合を促す”地上的視点”に警戒を怠ることなく、ヨハネのように”天的視点”から「神の民、如何にあるべきなのか」を見つめる力、を養わねばならない。(務記)
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【黙示録14章】
      14:1~3  「シオンの山」とは、エルサレムの町がある丘である。その山は神様の「救いの山」「勝利の山」である。悪しき働きにかかわる者たちに「悪しき獣の印」があるように、新旧約を通しての「神の民」「神の軍隊」と呼ばれる人たちは、イエス・キリストの十字架のスピリットに生き、その額には「小羊の印」がついている。そして、悪しき者との戦いが地上でなされている。

   14:4,5  旧約聖書の時代、イスラエルの軍隊には、性的な関係を絶つ儀式があり、禁欲的なことが求められた。儀式的なことを例証として、小羊の軍隊の道徳的な聖さを表し、神さまに対する忠実さを象徴している。悪しき勢力は神の民に迫害、患難を与え、「不品行」や「偶像崇拝」を要求するが、クリスチャンたちはキリストに対する忠節を貫く。
   大きな収穫の前に、先ず最良の一束を神に捧げるように、悪しき勢力に屈せず、神に忠節を尽くした神の民は、純粋な信仰の中で戦って殉教していく。その後には、大収穫が待っている。

   14:6~12  「福音」とは、イエス・キリストの十字架を信じる者には「救い」であるが、そうでない者には「裁き」がやってくるということである。終末期には、全ての人に「裁きの時」がやってくる。本当の神様を礼拝せず、作られた像や、獣、皇帝などを礼拝することに、人々を誘い込む者は「不品行のぶどう酒」と呼ばれている。
   日本においても、戦前、戦中は、「国家神道」が押し付けられ、「天皇崇拝」や「神社参拝」が強要された。これらの行為は、クリスチャンにとって「霊的な不品行」であり、権力に従いさえすれば助かるにもかかわらず、殉教していく者もあった。偶像崇拝をする者は、神の「怒りのぶどう酒」を飲むことになり、火と硫黄で、永遠に苦しめられる。反対に、神の戒めを守り貞節を貫く者は、永遠の安らぎを得る。

   14:14  ヨハネは、イエス・キリストの再臨の幻を見た。秋に実った稲が「収穫の時」を迎えるように、クリスチャンたちは亡くなった人たちも、また、生きている人たちも、共に天に引き上げられ喜びの時を迎える。14:17~20  しかし、神を知らず、偶像を崇拝していた人たちにも「収穫の時」が来る。16章にあるように、地上の王は「ハルマゲドン」に集められる。「刈り集めよ!」という声とともに…。千年王国の終りに、悪に染まった人たちも甦らされ、復活の身体を着せられるが、彼らはクリスチャンたちとは違って、「ぶどうは刈り取られ、酒ぶねに投げ入れられ、踏みつぶされる。」つまりは、永遠の裁きの中に置かれるということである。踏みつぶされたぶどうの汁、血は1600スタディオンすなわち300?の広さ(パレスチナ全土)にまで広がると言う。

   14:13  イエス・キリストを信じて亡くなる者は幸いである。全ての労苦から解き放たれ、休むことが出来るからである。私たちには、地上においていろんな戦いがある。葛藤、苦しみ、病、迫害、患難etc.  しかし、主に対して忠節を尽くし、殉教も恐れないで戦った者には、神様の報い、安らぎ、安息、祝福がある。永遠に…。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev14

2016年07月27日 新約聖書ヨハネの黙示録13:1-18(MP3 「ここに聖徒の忍耐と信仰がある」

【序】
 今の時代をどのようにイメージしたら良いであろうか。アフリカの大草原に美しい日没がみえる。そこには、ライオンや豹が寝そべっている。のどかな風景に誘われて、防備の行き届いたサファリ専用車から、ふらりと降りて近くを散策してみる。どのようなことが起こるのか。それは、想像にまかせることにする。わたしは、神学校の「比較宗教学(宗教の神学)」の講義の参考文献として、村上重良著作集を収集し、目配りしてきた。その中の『国家神道』は今日直面している問題を考える上で参考となるので以下に一部紹介したい。
 1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争の敗戦によって、大日本帝国は崩壊し、国家神道は、80年ちかい歴史を閉じることとなった。日本は、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したが、その第十項は、日本における信教の自由の確立を要求していた。日本における国家神道の解体と信教の自由の確立は、降伏後の日本の動かしがたい基本路線であった。しかし、「国体の護持」にどこまでもしがみつこうとする旧権力は、この変革をはばもうとして、執拗頑強に従来の国民支配の体制を温存しようとした。
 12月15日に、連合軍最高司令部は、覚え書「国家神道、神社神道にたいする政府の保証、支援、保全、監督ならびに引布の廃止にかんする件」を発した。この神道指令は、四項からなっており、その第一項は、国家と神社神道の完全な分離を命じ、第二項は、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離することを指示して、神社神道が、今後は民間の一宗教として存続できることを明らかにした。神道指令の中心点は、国家神道の廃止を主眼とする徹底的な政教分離の実施にあった。
 国家神道を廃止するために、神道指令は、神社神道にたいする国家・官公吏の特別な保護監督の停止、公けの財政援助の停止、神祇院の廃止、神道的性格をもつ官公立学校の廃止、一般官公立学校における神道的教育の廃止、教科書からの神道的教材の削除、学校・役場等からの神棚等の神道的施設の除去、官公吏・一般国民が神道的行事に参加しない自由、役人の資格での神社参拝の廃止等の具体的措置を明示した。
 神道指令は、旧権力の国家神道温存の企図を完全に打ち砕いた。神道指令の第三項は、日本政府にたいして、この命令を実施するためにとって諸措置を、翌年3月15日の期限つきで報告することを命じていたから、政府は国家神道の廃止措置に、時を移さず着手しなければならなかった。同月28日、宗教団体法が廃止され、緊急勅令で宗教法人法が公布施行された。宗教法人法は、宗教団体が自主的な届け出によって宗教法人となることができるという趣旨の、民主主義的な宗教法であった。(村上重良著『国家神道』岩波新書、pp.212-214)
 わたしは、戦後の「改憲運動の本質」を、「神道指令」で失ったものの「回復運動」という視点でみると分かりやすいのではないかと思っている。すでに、改憲運動勢力は数多くの果実を手に入れてきた。そして、最後の「本丸」が憲法である。日本にあるすべての法律の源としての「憲法」を変えることによって、その下にあるすべての法律の改変が可能となる。これまでの「制限下の回復運動」から、「制限をなくした回復運動」の時代に入ろうとしている。どこまで「復古」がなされるかは、国民ひとりひとりがエステルのように声をあげ続けられるかどうかにかかっていると思う。(務記)
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【黙示録13章】
この章は、2匹の獣についての章である。13:1 「海から上がってきた獣」ここに書かれた「獣」という言葉は、国家の野獣性を象徴しており、10本の角と7つの頭とは、歴史上、次々と台頭した権力者や勢力を表している。
13:2 ここに書かれている事は、ダニエル書7章のダニエルが見た夢「4頭の獣」が、背景にあると考えられる。獅子は百獣の王である「バビロン帝国」、熊はバビロン帝国を滅ぼした「メディア・ペルシャ帝国」、この国は、比較的緩やかな自由をもたらした国であった。それ故、イスラエルの民は国へ帰り、自分たちの宗教を復活することが出来た。豹は「ギリシャ帝国」アレキサンダー大王に率いられた国であり、豹の様に凄まじい速さで、中東からアジアまで領土を広げた。その結果として文化交流も盛んであった。
13:3 そして、ここに書かれているのは「ローマ帝国」歴史上かつてないほどの強大な帝国であった。しかし、「その頭のうちの1つは打ち殺されたが・・・」とあるように、皇帝ネロは自殺に追い込まれた。そのため、ローマ帝国は一時的に混乱状態となったが、ドミティアヌス帝によって立ち直ることが出来た。そして、残念なことに、クリスチャンへの迫害は続くこととなった。
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13:4 あまりにも強大な皇帝の権力のために、人々は「皇帝崇拝」を強制させられた。それが「彼らは獣をも拝んで」に表現されている。
13:11 「もう1匹の獣が地から上がって来た。それには小羊のような2本の角があり・・・」このもう1つの獣は、黙示録の後半にも出てくる「偽キリスト」である。
日本においては、「皇室神道」「国家神道」がそれに当たると考えられる。この問題の複雑さは、天皇を崇拝し、拝礼することが、「偶像礼拝」にはあたらず、「愛国心」の表明であると解釈されるからである。
第2次世界大戦中、日本キリスト教団の代表となった富田満は、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督信徒に送る書簡」を送り、占領地域のキリスト教会に「神社参拝を国民儀礼として受け入れるように!」と要請した(安黒務著『殉教と背教のはざ間にうめく「主の祈り」Kindle版』参照)。「小羊の王国」の著者である岡山英雄先生は、「もし、黙示録13章からのメッセージを、あの時代の教会の指導者たちが、正しく捉えていたら、キリスト教会の対応はもっと違うものであったのではないだろうか?」と書かれている。そのような流れの中で、ごく一部のクリスチャンたちは抵抗したが、多くの人たちは気づかなかった。私たちクリスチャンはこの事を忘れてはならない。
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13:12 靖国神社の大祭や、終戦記念日が近づく度に、「誰が参拝するのか?どういう立場で参拝するのか?」がいつも問題になる。そして、「日の丸・君が代」も学校で、スポーツの祭典で「国旗・国歌法」が決まってから、ますます締め付けが厳しくなっている。戦争によって多くの犠牲を払い、「教育基本法」も「日本国憲法」も与えられた。しかし、それを変えようとする勢力は根強く働き続けている。
明治時代に作られた「大日本帝国憲法」は、天皇を拝礼する「神道中心」の国家のあり方が色濃い憲法である。その中には「もう1匹の獣」「偽キリスト」を礼拝する、国家のあり方「アイデンティティ」が働いている。
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安倍首相の言葉である「美しい国、日本」は、本来は自由に宗教を選べる国の事でなくてはならない。終戦記念日には「靖国神社」ではなくて、兵士も一般市民も追悼される「無宗教の国立墓地」に、誰でも行けるようにすべきである。そのような施設であれば、どんな宗教者であっても、アジア諸国の首脳であっても、追悼することが出来る。
日本にキリスト教が伝来してから、キリシタン迫害、国家神道、内村鑑三不敬事件など、クリスチャンたちは迫害されて来た。1世紀から、歴史の中で、また、終末期と、クリスチャンたちは常に苦難と迫害の中にある。しかし、権力者や偽キリストに惑わされることなく、「本物の小羊の王国の民」であり続けたいと思う。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev13

2016年07月26日 新約聖書ヨハネの黙示録12:1-18(MP3 「竜は子を産もうとしている女の前に立っていた」
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【序】
 「日の丸・君が代・天皇制問題を切開する” ローザンヌ誓約”」 How JEC ? シリーズ (Kindle版)において書かせていただきました。
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C.藤林益三元最高裁長官の見識 @
■国家と宗教の関係を問うた「津地鎮祭訴訟」
■多数派の「目的効果基準」とは何か
■目的効果基準は、解釈による改憲
■政教分離は信教の自由に不可欠
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C.藤林益三元最高裁長官の見識 A
■憲法20条の基礎としての神道指令
■神道指令の背景としての政教の癒着
■目的効果基準−政教の癒着と信教の自由の制限
■祭祀は最上の宗教的行為
■目的効果基準−宗教的少数者の人権の蹂躙
■結び
と同じ問題が、自民党の、第20条「信教の自由」の改憲案にあらわれていますので、今日はそれをみていきたいと思います。
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 第20条「信教の自由」に関する条項中の第三項、日本国憲法は、「信教の自由」を保証することをうたったこの箇所の第三項において、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と規定しています。これを改正案では、以下のように修正しようとしています。
 「国及び公共団体は、社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長もしくは促進または圧迫もしくは干渉となるようなものを行ってはならない」。つまり「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える」のではなければよいというわけで、その範囲内と判断されれば、国や公共団体がある種の宗教的活動を行ってもよいとするものです。
 これには憲法89条の「公の財産の支出または利用の制限」の部分も連動していますから、そこも改正しようとしています。現在の日本国憲法では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便宜もしくは維持のため、…これを支出し、またはその利用に供してはならない」とありますが、改正案はそれに「社会的儀礼または習俗的行為の範囲」を超えてないと判断されれば、国や公共団体の行う一種の宗教的行為に、公金や国の財産を支出してもよいとされるわけです。
 この改正案の意図は明らかで、従来、時折「違憲訴訟」が起こされた国や公共団体による宗教行事と公金の使用、例えば津市での地鎮祭訴訟、あるいは総理大臣の靖国神社参拝、そこでの公金使用など、皆合憲にしたい意図と見られます。自民党の憲法改正案は、この点において、まさにはっきりと右旋回を行っていると言わなければならないでしょう。
 自民党の改正案は、「社会的儀礼」や「習俗的行為」の名のもとに国家による神道的な宗教活動を正当化することを図っていると考えられます。元来、神道は社会的儀礼や習俗と一体化することでこの国に宗教的影響と支配を及ぼしてきたのです。「信教の自由」のある自由な国家、自由な社会を樹立するためには「社会的儀礼」や「習俗的行為」を通しての国家の宗教的支配をこそ停止させなければならないでしょう。自民党の改正案は、この点で現在の日本国憲法の精神とは非常に異なる精神から発していると言わなければならないでしょう。(近藤勝彦著『キリスト教の世界政策』pp.113-114)
 わたしは、「社会的儀礼」や「習俗的行為」の名のもとに国家による神道的な宗教活動を正当化することを許容することは、「愛国心」や「忠誠心」の表明として、天皇崇拝や神道的儀式への参与への有形無形の圧力が増し加わる国家への変質が進行していくのではないかと懸念しています。明治時代に、「大日本帝国憲法」が発布され、その後「教育勅語」に基づく教育が二十数年なされた結果、幕藩連合国家であった日本人の精神構造は造り変えられてしまいました。改憲の結果としての「復古主義的傾向」は、教育基本法等の復古主義的改悪へと進み、教育界もマスコミもその方向にシフトしていくとき、クリスチャンの信仰も変質圧力にさらされ、戦前にそうであったように「心では、唯一の神を礼拝し、社会的儀礼、習俗的行為として天皇の写真に拝礼し、神社諸行事・諸活動に参加しても、何も問題を感じなかった」というような事態が生じることないだろうかと心配しています。
 蛇とも竜とも例えられる「サタン」―つまり、国家が宗教的”獣性”を帯びていくとき、それは古代のバビロン帝国やローマ帝国のようなかたちで「ほえたける獅子」(Tペテロ5:8)のようにやってくるのではなく、今日の民主主義の時代には「光のみ使い」(Uコリ11:14)のように”美辞麗句”― 「社会的儀礼」「習俗的行為」「愛国心」「忠誠心」で装って、キリストの花嫁としてのクリスチャンの純潔・貞潔を踏みにじろうとするでしょう。(務記)
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【黙示録12章】
  黙示録12章は、「天上における戦いと地上における戦い」を述べている。1世紀に存在したクリスチャンや教会、またヨハネ自身も、戦いの中にあった。「苦難、患難の中で、クリスチャンはどう生きるべきか?」を解き明かし、励ましてくれる。
神を知らなければ、苦難、患難というのは、ただ不運であり、不必要なもののように思える。しかし、聖書は、神の民の苦難、患難を、地上の事としてだけではなく、天的なものとして私たちに教えてくれる。

12:1,2 「ひとりの女」とは、イスラエルの民のことであり、旧約時代の視野で見れば、民族としてのイスラエルのことである。しかし、新約時代においては、「真の神の民」とは、キリストを信じるクリスチャン、教会のことである。
「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には12の星の冠をかぶっていた。」これは、エジプトに売り渡されたヨセフの夢を念頭に置いて書かれている。ヨセフが兄弟や親からもお辞儀をされ敬われたように、神に選ばれた民の中から「メシア」は生まれて来るという事である。アブラハムからは2,000年、出エジプトからは1,500年経って、メシアは生まれて来られた。

12:3~6 「大きな赤い竜」とは、堕落した天使である「サタン」のことである。「女が子供を産もうとした時、女の前に立っていた」生まれ出てくるメシアを殺そうとしたのである。そんな中、キリストは馬小屋において、無事お生れになった。
しかし、時の支配者ヘロデ王もまた、メシアを殺そうと企んでいた。キリストを拝むために東方からやって来た博士たちから、町の名前や生まれる時間を聞き出し、嘘を言って殺そうとした。そして、神様に導かれたイエス一家がエジプトに逃れた後、それを知らないヘロデ王は命令を下す。「ベツレヘム周辺に住む、2歳以下の男の子を全て殺せ!」と・・・

時が経ち、キリストが公の働きをし始められると、腐敗した宗教者たちは、嫉妬や妬みを抱き、キリストを訴え、裁判にかけ、極悪人のバラバを釈放し、キリストを十字架につけた。

12:7~9 キリスト誕生から十字架の死まで、この事は地上での戦いであった。しかし、これは天的な戦いでもある。時に、蛇とも竜とも例えられる「サタン」は、地上においてキリストを十字架にかけ殺害し、一見勝利したように見えるが、天上においては、投げ落とされ、敗北したのである。

12:10,11 12 常に人類を訴えて、告発し続けてきたサタンは、訴える根拠を失った。人間は生きている限り、罪を犯し肉の性質を持つものであるが、キリストの十字架の「死、葬り、復活」の御業によって、サタンのつけ入る「死と滅びの法則」から、「命とよみがえりの法則」に完全に変えられてしまったからである。こうして、徹底的な敗北を味わったサタンは、最後の抵抗として、なんとかして神の民を道連れにしようと激しく怒りながら戦っている。

12:13 サタンはメシアの民(旧新約の神の民や教会)を追いかけて、1世紀のローマでも、歴史の中のいろいろな国や地域でも、いろんな苦難や迫害を、キリスト者に与え続けている。12:14 しかし、神様は神の民たちを鷲の翼に乗せるように、苦難や迫害から逃れさせられた。エジプトを脱出したイスラエルの民は3年半、荒野において神に守られ、そこで礼拝した。終末期の大患難時代も、神の民は、3年半、その只中で守られる。
12:15~18 ここに出てくる「大水」も、出エジプトの事が念頭にあると思われる。神様は後戻りできないイスラエルの民の目の前で、川を2つに分け、かわいたところを歩ませた。そして、追いかけてくるエジプトの軍や戦車は、水に飲み込ませられた。神の奇跡による介入である。
その後も、サタンはなんとかして神の民を寝返らせようと、いろいろな方法で、迫ってくる。「偶像に頭を下げれば助けてやる。」、「時の権力者に助けを乞えば許してやる。」今までも、これからも、そのようにしてサタンは攻撃し、誘惑してくるが、神の民は、「カルバリの小羊の血」を掲げ、勝利する。死に至るまで、命を惜しまないで戦う。
「身体は殺せても、魂を殺せない者を恐れる必要はないからだ。」(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev12

2016年07月24日 新約聖書Tコリント15章(MP3 / YouTube/ 要約 / 説教原稿 / サマースペシャル・チラシ)「G.E.ラッド著『終末論』から読み取る九つの遺言」B
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【導入】
先々週より、三回シリーズで、一宮基督教研究所の今年度の取り組みとしての「サマー・スペシャル」について紹介・案内させていただいています。今日はその最後、三回目です。
先週の注目すべき情報としまして、東京の御茶ノ水クリスチャンセンターで開催されました「島薗進氏の講演―緊急連続セミナー『この国はどこへ行くのか:世の秩序を超える選択肢を示せ』」があり、クリスチャン新聞にその要旨が掲載され教えられました。その明治維新から昭和そして今日に至る歴史認識、その状況分析において、わたしが神学校で「比較宗教学(宗教の神学)」で教えてきたことと同じ内容でありました。それで、自分の取り組んでいることに強い確信を与えられ、大変心強く思いました。このような視点を念頭に抱きつつ、ラッド著『終末論』の7章、8章、9章から、ラッドが最も語りたかった「遺言」としてのメッセージのエッセンスに耳を傾けましょう。
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【遺言としてのメッセージF】
ラッド著『終末論』第七章「復活と携挙」から聴き取る、ラッドの第七の遺言メッセージとは何でしょうか。第七章は、「旧約聖書には、…肉体を伴った復活への望みについて幾つかの言及が見いだされる」という言葉で始められ、新約聖書におけるイエスの復活の中心性が語られ、「復活において、キリストが「いのちの御霊」になったのであるなら、復活のときにイエスは目に見えない霊的な世界に入っていったと理解できる」、「そこからイエスは栄光に満ちた神的顕現…をもって人々のもとに現れる」、「この同じイエスが、今日御霊において、イエスのすべての民とともにあり、欲するかたちで、欲する場所で、欲するときにご自身を見えるようにすることができる」と説明されています。
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【遺言としてのメッセージG】
ラッド著『終末論』第八章「審判」から聴き取る、ラッドの第八の遺言メッセージとは何でしょうか。第八章は、「聖書は、人間ひとりひとり自らの行いに責任があること、そして聖く正しい神の前に立つ審判の日に直面しなければならないことを明確に教えています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)という言葉で始められ、十字架の贖罪の赦しを基盤としつつ、「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる」(ローマ8:3-4)と語られ、「キリストという土台の上に」価値ある建物を建て、報いを受ける生き方をするよう励ましています(Tコリ3章)。まもなくブラジルでのオリンピックが始まります。ですから、わたしたちも、主の御前にあって、より優れた色のメダルがもらえるように(Tコリント9:27)走り続けたいと思います。
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【遺言としてのメッセージH】
ラッド著『終末論』第九章「神の国」から聴き取る、ラッドの第九の遺言メッセージとは何でしょうか。第九章は、「人間は地上に住むように創造された存在であり、」「神は歴史の中に置かれた人間を、救い、また裁くために地上を幾度も訪れておられる」という言葉で始められ、終わりにヨハネは、千年王国の後、来るべき時代が開始されるとき、「新しい天と新しい地」を見ています。それは、神の国の究極的な舞台は地上であるということであり、確かにこれはすっかり変貌した地ですが、同じ地の延長線上にあるものです。この新しい創造に呼応するのが肉体の復活です。ついに、神の贖罪の目的が実現されます。神は贖われた地球上で、神との完成された交わり、奉仕、礼拝をもつように、旧約・新約の双方から贖われた人々を集めて下さる、と語られています。
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【まとめ】
今回は、ICIサマースペシャルの準備メッセージとし、三回シリーズで、ラッドの絶筆『終末論』の九つの章から九つのメッセージに耳を傾けました。準備をしていて教えられますことは、パウロがTコリント15章で語っているように、今日もまたさまざまな運動や教えにおいて「福音理解の骨格」がいい加減に扱われる傾向が増し加わっているのではないかと思うからです。またこの「福音理解の骨格」のゆがみ、またひずみというものは、その上に建てる家にも大きな影響を及ぼします。
序の部分で語り続けていますが、衆参三分の二の改憲派議席があり、わたしたちはこれにどう対応していけば良いのか、という課題につきましても、わたしたちは、「しっかりした福音理解」に立つのではなければ、今後盛んになってくるであろう―特に、経済的な危機や軍事的な危機が訪れたときには、急激な「ナショナリズムの高揚」に抗することは難しいと思います。社会においては、そのような傾向に迎合し、そのようなムードに飲み込まれるクリスチャン、さらにはそのムードに乗ろうとする牧師、伝道者も出てくると思います。恐ろしい時代です。わたしたちは、そのような時が到来することを念頭に、みことば立って、霊的な備えに入るべき時期にきたというべきと思います。
もしこのような取り組みに関心のある方がおられたら、どなたでも参加申込して下さったら感謝です。
では、お祈りしましょう。
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【説教原稿】
http://www.aguro.jp/the-nard-fragrance/20160717_ic_ss_for_ici-ss-ch789.pdf
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【サマースペシャル・チラシ】
http://www.aguro.jp/d/ici_summer-special_for_jec/20160824-25_ICI-Summer_Special_pamphlet_for_2-jec.pdf

2016年07月23日 新約聖書ヨハネの黙示録11:1-13(MP3 「エリヤとモーセのような二人の証人」
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【序】
 黙示録はその全体が、患難期の只中における「神の民」の生き方に関する手紙である。日本の歴史において、国民が災禍の中に置かれた時が幾度かある。ざっと振り返っても、大和朝廷による全国の諸豪族平定の時期、貴族時代から武家時代の過渡期の戦国時代、徳川の幕藩時代から明治の中央集権国家への移行期、そして国家が滅亡の淵に立たされた第二次世界大戦の時期、内戦また海外での戦争、そこには戦いと破壊と死が満ちた時期である。
 特に、第二次世界大戦における反省を踏まえて、現在の「日本国憲法」があり、平和国家日本の繁栄がある。なのに、「なぜ今、改憲なのか?」―これを真剣に考えるべき時期に来ていると思う。今後、改憲を主張する政党から、多くの具体案が出されてくると思う。わたしは、現在の「日本国憲法」を守っていきたい。基本的に「護憲」の立場であるが、同時に盲目的な「護憲」ではありたくないとも思っている。なぜ、わたしは、ひとりのクリスチャンとして「護憲」の立場なのか、その理由は、そしてその根拠は、…と、この機会にいろいろと考えてみたいのである。
 わたしは、神学校で「聖書神学」「歴史神学」「比較宗教学」「宣教学」「組織神学」等を教えてきた神学教師として、わたしの、わたしなりの「護憲の立場」の理由と内容を説明していきたい。そのときに、組織神学者として、同様のテーマに取り組んでこられた近藤勝彦先生の著作は、神学的な思索の道筋が明確で、説得力があり、自説を確立する上で大変助けになっている。詳細に書くことはできないので、参考文献の輪郭とエッセンスを紹介させていただきたい。
 今日の参考文献は、近藤勝彦著『キリスト教倫理学』教文館、「第八章 平和の倫理―平和主義と正当な戦争について」である。項目は、@スタンリー・ハワーワスにおける「平和の倫理」とその問題点、Aラインホールド・ニーバーとリチャード・ニーバー、1932年の「兄弟の戦争」について、B「平和主義」と「正当な戦争」、それぞれの問題、Cカール・バルトにおける「正当な戦争批判」―もし戦争を欲しないならば、平和を用意せよ、D「戦争放棄」と「世界秩序の維持」―日本の進路と教会の道、で構成されている。
 わたしは、第二次大戦後、新しい世界情勢の中で、日本が果たす役割というものを教会もまた考えるべき時期にきているように思う。テロとの戦争、中国の台頭、衆参三分の二の改憲勢力の議席―キリスト教会は、今、何を、どのように思索すべきなのだろう。わたしたちは黙示録からどのようなメッセージを聴き取り、それをどのように生かすべきなのだろう。それを考えてみたい。(務記)
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【黙示録11章】
     黙示録の8~10章は、「御使の7つのラッパ」つまりは災害について書かれている。これらは、読んでいただければ比較的分かり易いので、省かせていただく。

   11:1,2  「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」とは、どういう事なのか?昔は、神殿や城壁を壊したり建て直したりする時に、その正確な大きさを測った。
   神様の保護を必要とする「神の民」を正確に区別するため、このような表現がなされている。本当に神様を信じる民と、そうでない民をはっきりさせ、神様は「神の民」を徹底的に守ろうとされるのである。

   社会が神様に背を向け、神様を愛する人たちが迫害にあった時代がある。日本が国家神道に傾いた時代、ドイツのナチス政権下、ロシアにおけるスターリンの時代などである。歴史の中で、大規模に、また、局所的に常にクリスチャンたちは迫害されてきたが、終末期には、大患難時代が訪れる。
   42ヶ月とは、約3年半、聖なる都は踏みにじられると言う。エジプトでの出来事は430年、バビロン捕囚は70年、神様の預言はなされ、その通りになった。

   11:3,4  大患難の中、神の民は導かれ、証しをする。オリーブの木は預言者、燭台は教会である。神にあらがい、反キリストの人たちが多くなる時代に、神様がおられる事を宣べ伝え、罪を悔い改めて天国へと導く「証人」が現れる。

   11:5,6  どんな大患難の時代が来ても、神の民は保護される。エジプト時代のイスラエルの民の様に、バビロン時代のダニエルたちの様に・・・
   「天を閉じる力」を持っていたのはエリヤの事であり、「水を血に変えた」のはモーセであった。エリヤは偶像に染まっていたアハブ王に、「私の仕える神に祈れば、雨は降らない!」と断言した。そして、アハブ王がいくら偶像に雨乞いしても、雨は一滴も降らず、エリヤが彼の信ずる神に祈ったところ、滝のように雨が降った。モーゼも、何度も心変わりするパロに対し、神様の力をいただいて、何度も奇跡を行った。そして、最終的には、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、パロの兵士や戦車は海の藻屑と消えた。
   大患難の時代に、神の民にはこのような力が注がれるというのである。

   闇が深いほど、ロウソクの炎の光が輝くように、大患難の時代にクリスチャンたちの力強い証しは際立つ。政治、経済、文化の中に、神様の御旨がなるように、祈り続ける必要がある。
   しかし、クリスチャンたちの断罪と攻撃は、この世を愛している人々には苦しみとなり、かえって乱れた淫乱な行いや、猛獣資本主義と言われるような「弱肉強食」の社会になる。そして、富と繁栄を追求した結果、環境は破壊され、自然は人間に牙をむき始める。

   11:7~10  素晴らしい証しをする預言者たちを、悪の力が働いて殺してしまう。天的な視点では、人間の生死は問題ではない。この世の中では「死んだらおしまいだ」と言うが、天的な視点では、「キリストを礼拝するのか?」それとも、「悪に親しむのか?」の2つに1つである。人間にとって、「死」は1つの通過点に過ぎない。だから、神の民は殉教をも恐れないのである。

   ソドムやエジプトのような巨大な都市で、クリスチャンはさらされる。クリスチャンとして生きるという事が、さらされる人生、キリストもそうであったように、天を見つめて真っ直ぐに生きる者はそうした迫害を受ける。
   ここに出てくる「証人」も、侮辱される事を良しとし、人々の心に訴え、罪の悔い改めに導こうとする。

   11:11  侮辱され、苦しめられた殉教者は、もう一度、神の息によってよみがえらされる。
   11:12  そして、「ここに上れ」という、神の声によって、エノクやキリストが生きたまま肉体をもって天に挙げられたように、「証人たち」は天に挙げられる。それを彼らの敵は「見る」事になる。
   終末の大患難の時代に、このような事が起こる。今は、キリストを主と認めず教会を迫害しているユダヤ人たちも、この出来事を見て、本当にキリストは「真の神」であり、クリスチャンこそが「真の神の民」であることが解り、大きなリバイバルが起こる。

   11~13章は、黙示録の中心であり、終末期の大患難時代に、神の民がどのように証しするのか?どのように神様のメッセージを伝え、殉教し、天に引き上げられるのか?を教えている。
   詳しい展開は12章以降となるが、今の時代において、私たちクリスチャンたちは、いかに生きるべきか?を考えながら読み進めていきたいものである。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev11

2016年07月22日 新約聖書ヨハネの黙示録7:1-17(MP3 「旧新約の真の神の民の軍隊」
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【序】
 日本国憲法「改悪、護憲、改正」が現実のものとなったことにあわせて、ひとりのクリスチャンとして、この問題を真剣に考えてみようと思っています。衆参両院の手続きを終え、国民投票にかけられたきに、現在の「日本国憲法」の優れた内容が改めて評価され、改憲案が否決され、現在の「日本国憲法」が再評価されるのがベストかと思いますが、ベストが無理なら、ワーストにならないように戦い、できるだけベターな選択肢が選ばれるよう、ひとりひとりが目を覚まして努力していくことが求められていると思います。
 黙示録七章は、クリスチャンたちを”霊的な意味”での「神の民の軍隊」として象徴的に表現されています。自民党の改憲案であれば、「第九条 戦争の放棄」と重なるポイントです。その案では、九条の第一項の「戦争の放棄」はそのままにしておいて、第二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあるところを、「自衛軍を保持する」と明記し、その活動について規定するとしています。これらの内容変更は、「戦争放棄」を維持すると言ってもその内実はほとんど失われかねないものと言えるもので、歯止めなく世界各地で行動可能なものになっています。改憲された後は、そう遠くない時期に戦前並みの軍事力を保持する国に変貌させられていくものと思います。
 第二次世界大戦で、日本はアジア諸国において一千万人の犠牲者、日本国民は三百万人の犠牲者を出しました。その反省にたって「平和主義」の憲法で今日まできました。その根本的な変更がなされることを良しとするのかどうか、という問題です。新約で示されている「小羊の軍隊」には平和主義に生きるスピリットが流れているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。そのスピリットに生きるようにと憲法の中に書きしているのが、現在の「日本国憲法」なのではないでしょうか。(務記)
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【黙示録7章】
  黙示録7章は、議論のある箇所である。また、6章から続くこの箇所は、大患難期の序章であると言われる。1節にある「四人の御使が地の四隅に立って、地の四方の風を堅く抑え、・・・」というのは、いつか来る大患難期の到来を、少しでも先送りし、1人でも多くの人々が救われることを願い、神様が忍耐しておられるということである。

   7:2,3  患難期がなぜ先送りされているのかは、救われるべき人々が、その額に印を押されるのを神様は待っておられるのである。その印は「イエス様の印」である。
   黙示録には、出エジプトの描写がここそこに見られるが、エジプトに起こった10の災いの最後に、神様は「家のかもいに血を塗る様に」とおっしゃった。そして、その印が付けられた家は災いが通り過ぎた。このかもいに付けられた血こそ、イエス・キリストの血「小羊の血」を予表している。同じエジプトにいながら、この印によって、人々は災難を逃れることができたのである。

   7:4~8  「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、14万4千人であった。」この14万4千人という数字は、神様の完全数12が2回かけられ、10が3回かけられた数であり、「真の神の民全体」を象徴している。ある人たちは「これはイスラエル民族を指している」と言うが、ヤコブは「国外に散っている12の部族へ、挨拶を送ります。」(ヤコブ  1:1)と言っている様に、この真の神の民は、クリスチャンたちのことである。
   民族的イスラエルの中にも「真の信仰者」がおり、新約時代にも、キリストを信じる異邦人を含めた「真の信仰者」がいる。そうかと思えば、ヨハネが言っているように、血縁的なユダヤ人が「サタンの会衆に属している」―当時のユダヤ人は、回心前のサウロのようにユダヤ人クリスチャン、異邦人クリスチャンを迫害していたのである。

   神学者ボウカムによれば、これは” 神の民の軍隊”の兵士の数を象徴していると言う。イスラエルの人口調査は、徴兵のためであり、20才以上の男子に限られた。
   ” 神の民の軍隊”、すなわち「真の神の民たち」は、いつの世も偶像礼拝を避け、不道徳に陥ることをせず、十字架を掲げて戦い抜いてきた。

   7:1~8が、「神の真の民」である地上の” 神の民の軍隊”のことを書いていると考えれば、7:9~12は、天上における礼拝の様子が書かれている。ここでも黙示録の特徴として、時間も空間も一瞬のうちに、1世紀から終末へとワープしていくように感じる。旧約時代には民族としてのイスラエルに神様の啓示がなされたが、ペンテコステ以降は、全世界に神様の威光と尊厳があまねく明らかにされている。

   7:13~17  天上で礼拝している民を見て、長老のひとりが「どこから来たのですか?」と問うた時、ヨハネは「あなたこそご存知です」と言った。白い衣を着た人たちは、大きな患難を抜けてきた人たちである。印を額に付けられた、イエス・キリストの十字架を信じて救われた人たちである。キリストが地上に来られる前は、はるかに十字架を望み見て救われた。そして、キリスト以後の人々は実際の十字架を信じて救われた。
   1世紀において、バビロンにおいて、現在から終末期においても、クリスチャンたちは患難を通り抜け、これからも通り抜けようとしている。

   イエス・キリストがサタンの策略により、十字架に処されたように見えても、そこで流された「小羊の血」で人々は衣を洗い、衣を白くしながら、十字架を経験していく。キリストと同じ経験をしながら、御国にたどり着くまで旅を続け、喜びをもって迎え入れられる。
   地上で経験した、飢えや渇きなどは、天上において2度と経験することはない。天上で待っているのは、小羊であられる主と、永遠に続く喜びの祈りと礼拝である。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev07

2016年07月21日 新約聖書ヨハネの黙示録6:1-17(MP3 「小羊が封印を解いたとき」
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【序】
 「封印を解いたとき」というのは、なにか「パンドラの箱を開けたとき」のイメージがある。英国民が「そんなことにはならないだろう」とユーロ脱退に賛成票を投じて脱退の方向になってしまったことや、日本国民が「まさか三分の二となり、改憲に進んだりはしないだろう」とその議席を与えてしまったことにもつながる「思いがけない展開」となる瞬間がある。今は、まさに「改憲の封印が解かれたとき」である。この「改憲」というパンドラの箱が一体なにが出てくるのか、後代の日本人は知ることになるだろう。
 改憲のプロセスは、今後明らかにされていくことだろうが、自民党の「憲法改正案」には問題が多いと思うので、近藤勝彦著『キリスト教の世界政策』:「第六章 憲法改正問題と歴史的経験―自由民主党”憲法改正案”の問題」から、ポイントを拾いつつ、私たちクリスチャンが何をどのように考えるべきなのか、を教えられたい。
 「それは、”前文”の完全な変更を含み、”憲法手続き”を修正しようとしています」(p.110)と指摘されている。まずは、このことが何を意味するのかを考えていただきたい。(務記)
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【黙示録6章】
  黙示録の6章では、7つの封印の内の6つが解かれる。このことは、1世紀の教会に、また歴史上の教会に、そして終末の教会において起こってくることを暗示している。
   6章を見る時、私にはゼカリヤ書6:1~8が浮かんで来る。バビロンというその当時の巨大な国によって、ユダは滅ぼされ捕囚となるのだが、そのバビロンもまた、滅ぼされてしまう。この事は、歴史の事実であるが、その背後に主のご計画があり、主の御手がある事を忘れてはならない。
   6章に現れる4つの馬の細かい意味は分からないが、ここにも歴史的な事柄の中に、神様の御手が伸べられていることを、ヨハネは言いたいのである。

   6:2  「白い馬」とは1世紀のローマの歩兵隊の事であろう。ローマの軍団がパレスチナに侵入した時の事を表している。各地で連勝を重ね、領土は瞬く間に広がり、勝利の上に勝利を重ねていた。

   6:4  「赤い馬」とは、「軍事力」すなわち、力による平和である。巨大な軍事力により、各地に軍団を常駐させ、何か反乱が起こると圧倒的な力の差によって鎮圧することが出来た(ローマ帝国による平和”パックス・ロマーナ”、つまり少し前までのアメリカの軍事力による平和”パックス・アメリカーナ”の様である)。

   6:5  「黒い馬」とは、経済的な偏りを表している。「小麦1升」とは、1日、人間1人に必要な小麦の量である。その価格が1デナリという事は、1日の給料が小麦1升で消えてしまう事になる。以前は8升買えたというのだから、物価が8倍になったという事である。「大麦」は家畜の餌などに使われるが、貧しい人々はこれを食べた。
   オリーブ油もぶどう酒も、庶民にとっても必需品である。豊かな人々は高級なオリーブ油やぶどう酒を手に入れられるのに、庶民は必要な量も手に入らず欠乏しているのである。
   この事は、今の世界にも通じることではないだろうか?石油が地球温暖化につながっていると言えば、穀物からバイオ燃料を作り、この事によって、庶民は食べる物を奪われている。また、豊かな国では飽食によって太った体を健康にしようとダイエットをし、貧しい国では命をつなぐパンも水も無い。

   6:8  「青ざめた馬」とは、やせ衰えていく世界の様を表している。「青ざめた」とは、生気のない、恐怖に襲われた時の顔色を言い表す言葉である。
   いかに軍事力が巨大でも、いつまでも軍事力による平和は続かない。軍事力を増強すると経済力が落ちる。経済力が落ち軍事力が衰えると、反対勢力が勢いを増し、争いが起こる。争いが起こると、建物は破壊され田畑は荒れる。各地で混乱が起こり、疫病が蔓延する。
   まさに、今のアメリカを見ている様ではないか?
ずっと「世界の警察」であり続けてきたアメリカは、経済力が低下し、他の国の軍事力強化によって「争いと緊張」が起こりつつある。(ロシアのクリミア半島しかり、中国の南シナ海しかりである。)
   また、豊かさを追い求めた結果が、地球の温暖化、干ばつ、飢饉、洪水、様々な疫病である。これらが、ある限られた地域でではなく、世界中の規模で起こりつつある。

   6:9  1世紀には、クリスチャン迫害のため、多くのクリスチャンたちが殉教した。その後、2000年のキリスト教の歴史の中でも、いろいろな国と地域で、殉教者が起こされている。「神様、いつまでこの様な状況が続くのでしょうか?」という信仰者の叫びが聞こえてくる。

   6:11  確かに、福音が世界に宣べ伝えられる過程では、常にクリスチャンの殉教が伴ってきた。しかし、迫害が起こり、殉教者が出たとしても、福音は宣べ伝えられ続けている。むしろ、さらに多くの宣教師たちが起こされ、派遣された地で福音が述べ伝えられてきた。苦難の中で途絶えることのない「証し」、この事が続いた後に、主は来られる。私たちには分らない「神の時」「神の摂理のご計画」によって、その時が来る。

   6:12~14  ここには、「天変地異」が起こる事が書かれている。「地震」や大きな天災、空気が汚染される事による「赤黒い月」、「惑星の衝突」など、大きな天災が宇宙規模で起こってくる。
   しかし、これらは大患難の序章であると言う。私たちは、目に見える事象に惑わされることなく、苦難の只中で証しを続け、神様の本当の御思いを探りつつ生きるべきである。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev06

2016年07月21日 新約聖書ヨハネの黙示録5:1-14(MP3 「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」
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【序】
 衆参両院とも、改憲勢力が三分の二以上の状況が生まれた今、大きな危機意識をもって日々を過ごしています。そして自分にできることをなし続けようと決心しています。このテーマを取り扱っている良書として、近藤勝彦著『キリスト教の世界政策―現代文明におけるキリスト教の責任と役割』があります。組織神学者としての近藤先生が、組織神学者としての視点から、今日の状況を予期して語り続けられ、書き綴り続けられたものが本として刊行されたものです。その序文に「排他的なナショナリズムに回帰しようとする日本の傾向を食い止めることはできないとしても、この時代を生きるキリスト者のキリスト教的アイデンティティを確かにするために役立つことはできる」(p.10)と記されています。
 わたしたちの小さな戦いは、「多勢に無勢」ということになるかもしれないのですが、少なくとも「幾人かの人たちにとって、この時代を生きるキリスト者のキリスト教的アイデンティティを確かにするために役立つことはできる」のではないかと思います。そして、わたしたちは、この「小さな石」(ダニエル2:34)が大きな変革を引き起こすことを知っています。近藤先生が、このような取り組みは「紛れもなく、組織神学的責任に属している」と書かれています。長年、神学校で「組織神学」を講じてきた神学教師としてわたしの”果たすべき責任”がここにあると思います。わたしたちは、日本の歴史の岐路にたち、日本国民の只中で「ほふられた小羊に属する”屠られる民”」のような立場で証しし続けたいと思います。(務記)
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【黙示録5章】
5:1~4「御座に座っておられる方の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、7つの封印で封じられていた。」巻物の内側にも外側にも、ギッシリと書かれた文字は「神様の御心、神様のご計画」である。この神様の御心は、「7つの封印」で完全に封じられ、誰も理解できる者がいなかった。
この世の中は、神様が支配しておられるというのに、患難があり、迫害がある。いったい、神様はどうしておられるのか?と人々は思っている。

ヨハネもまた、巻物を開く者が見当たらず、途方に暮れて激しく泣いていた。「すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、7つの封印を解くことができます。」ここに書かれた「獅子」「ダビデの根」こそ、メシヤなるキリストのことである。イザヤ11:1 に書かれた「エッサイの根かぶから新芽が生え、その枝から若枝が出て実を結ぶ」、この預言の成就がキリストのあらわれであった。

しかし、実際に、キリストがこの地上に現れた時、ユダヤ人たちは、最初はこの預言の成就と喜び、ローマの支配からユダヤ人を救い出し、イスラエルを取り戻してくださると喜んだが、神様の御心はそのような「地上での勝利」ではなかった。
ユダヤ人は絶望し、律法学者や宗教指導者たちはやっかみや妬みから、キリストを十字架につけた。イザヤ53:3 にあるように「彼には私たちが慕うような見栄えもなく・・・」キリストは貧しい大工の子として生まれ、30年間歩まれた。その後約3年間、公の生涯を歩まれたが、そのお姿はユダヤ人の待ち望んだお姿ではなかった。
つまり、この巻物の中に秘められていたメシアは、「病を負い、痛みを知っておられた。」天上における「完全なる勝利」の前に、私たちのメシアは「ほふられた小羊」としてこの地上に現れざるを得なかった。このように、神の御心を知り、理解することは難しいことなのである。

5:9,10 では、神様が地上を、人々を治めるとは、どのような方法なのであろうか?それは、「ほふられた小羊の方法」である。上から高圧的に従わせる方法ではなく、一見、敗北と見られるような形、「へりくだった方法」である。

5:12,13 天上の国においては、心からの賛美が溢れている。4つの生き物、長老たち、御使いたち、被造物全てが神を賛美している。強制された礼拝ではなく、心から感謝の溢れる礼拝、賛美である。
固く封じられた巻物を解く鍵は、「ほふられた小羊」にあった。そして、1世紀のクリスチャンたちも、ヨハネも、そして、今を生きる私たちも。人生の問題を解く鍵は「ほふられた小羊」すなわち「十字架にかかられたキリスト」にあるのである。

「ユダ族の獅子」であるキリストが、勝利を取ってくださったにもかかわらず、地上においては困難がある。キリストが歩まれたように、そして、キリストのように私たちも生き、証しする。苦難の只中で、神に守られ、キリストのような勝利を得ることが出来る。
そして、やがてキリストが再臨される時には、完全な勝利が実現する。
「ユダ族から出た獅子」は、この5章のみであるが、「ほふられた小羊」は28回も登場する。何度も何度も敗北と苦難を繰り返しながら、「7つの御霊」完全な御霊と共に、私たちは勝利へと導かれるのである。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev05

2016年07月17日 新約聖書ヨハネの黙示録4:1-11(MP3 「天にひとつの御座があり」
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【序】
 憲法改正・改悪問題が現実になってきたこの時期に合わせるかのように、天皇陛下が「生前退位」の希望をもっておられることが明らかにされた。そして、今後「皇室典範」の改訂もまた議論されていくとのことである。ここに”一条の光”を見出すのはわたしだけであろうか。天皇の存在を復古主義的な視点から考えれば、「生前退位」は考えられないとのことである。しかし、天皇陛下は「天皇の務めが十分に果たせない者が天皇の地位にあるべきではない」と語られている。そういえば、小泉総理のときに、「女系天皇」の選択肢が開かれようとしたことがあった。現在の天皇家の存続を考慮するとき、早かれ、遅かれ、「復古主義的な考え方」の克服は必要になってくるのではないか。
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 天皇制の起源、歴史的変遷、そして現在と将来を、客観的・学問的、総合的・包括的に再考すべき時期にきたのかもしれない。そして、このことは、天皇家の皆様に「国民が享受しているのと同様の人権尊重」をも考慮することも含まれるべきではないのだろうか。ひょっとしたら、天皇家に生まれてこられたことによって「人間として生まれた来た者が、当然尊重されるべき人権の多くが侵害される」状況にあるのではないだろうか。わたしは、キリスト者のひとりとして、天皇崇拝はできないし、皇室神道にも迎合できないが、天皇家の歴史と天皇家の皆様を尊敬し、敬愛の念を抱く者である。多種多様な宗教で溢れる日本において、わたしのような考え方をしている日本人は多くあるのではないか。日本の天皇家を、皇室神道からも解放し、西欧の王室のように位置づける「新しい、未来の日本に向けての皇室典範」ができれば、現在の天皇制が内包してきた多くの課題が克服されるように思う。そのような天皇制は、さまざまな宗教的立場をこえて、すべての国民に末永く「千代に八千代に」支持され、敬愛を集める天皇家となることができるのではないだろうか。 (務記)
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【黙示録 4章】
   黙示録1~3章は、1世紀の教会に当ててのヨハネからの手紙であった。4~19 章は、患難時代について書かれている。
   4,5章は、天における御座、礼拝のことが書かれている。
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   4:1  天国の門、すなわち天のエルサレムの事が書かれている。1章にも書かれていたが、「ラッパのような声」とは、主が再臨され、教会が携挙される時の、神様の声ではない。ヨハネだけが、神の御前に経験させられた神の声である。
   これと同じ事は、パウロも経験している。その書き方は、自分の事の様ではない様な書き方ではあるが、確かに、パウロは天上の世界を見せられたのである。
   教会は、1世紀から今も終末までも、地上にあって患難の中で守られ、証しすることが使命とされている。もし、患難時代の前に、教会及びクリスチャンが、天に挙げられるとするならば、黙示録はクリスチャンにとって、関係のない書物という事になってしまう。
   そうではなく、私たちクリスチャン全てに関係があることを、この1節は教えているのである。
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   4:2 ~4 御霊に感じて、第3の天、天上に挙げられたヨハネは、イエス様が天の右の座に座っておられるのを見た。しかし、神様ご自身を直接見たり触れたりする事は、人間にとって「死」を意味する。したがって、神様の臨在、栄光を表現するために、その印象を「宝石」に例えている。
   24人の長老とは、民を取り仕切る、統治する存在である。イスラエルの12部族+12使徒を合わせた24の数ではないか?と言われている。彼らは神の民、天の国を統治する「天使的な存在」である。
   ヨハネにこの事が見せられたのは、地上における絶望的な状況(迫害があり、悪がはびこっていること)に、クリスチャンたちが押しつぶされてしまわない様に、天の国の有り様を見せ、励まされたと考えられる。
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   4:5  ここで、ヨハネが経験した「稲妻や雷鳴」は、シナイ山で十戒を与えられたモーゼも、イザヤ、ダニエル、エゼキエルも経験している。7という数字は「完全」を表し、4は世界の四方、つまり「全地」を表している。
   4:6 ~10 「ガラスの海」は、出エジプトの紅海が意識されている。ここに描かれたいろいろな出来事は、天上の実態を説明するものである。「目で満ちた4つの生き物」とは、一見、グロテスクの様にも思えるが、「前も後ろも目で満ちている」ということは、彼らは寝ずの番をしている、常に、天上の国の目配りをしている動物であり、知性に満ちその動きは素早い生き物であるということである。
   これら4つの生き物は、神の御座の周りにおり、見張り人というだけでなく、礼拝者でもある。
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   ヨハネのいた1世紀から3世紀まで、地上ではクリスチャンたちは迫害を受けた。しかし、ヨハネに見せられたこの「黙示録」によって、天国には万物の創造者であり支配者である「神」がおられることを、クリスチャンたちは望み見ることが出来たのである。そして、地上においても4世紀には、キリスト教は皇帝によってローマ帝国の「国教」に定められることになる。
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   24人の長老たちは天の御国の内閣であり、礼拝者であり、天の世界の代理統治者でもある。また、神様の御わざを人間に仲介したりもする。受胎告知をするためにマリヤのもとを訪れた、天使の様な働きもする。
   4:11  「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と譽れと力を受けるにふさわしい方です。」に表されている様に、長老は神に創造された者であり、あくまでも神の代理人であって、その姿勢は礼拝者としてのあるべき姿を見せている。
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   私たちは、地上において、苦しみつつも主を仰ぎ礼拝している。そして、私たちが天上に行った時、そこでも礼拝者として生きる。そこで、私たちは神様の栄光と譽れのおこぼれにあずかることが出来る。
   今は、地上において、「天に神の御心がなるように、地上においても行われるように」と祈る日々である。(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev04

2016年07月17日 旧約聖書エステル記3章4章(MP3 / YouTube/ 要約 / 説教原稿 / サマースペシャル・チラシ)「G.E.ラッド著『終末論』から読み取る九つの遺言」A

【導入】
 先週より、三回シリーズで、一宮基督教研究所の今年度の取り組みとしての「サマー・スペシャル」について紹介・案内させていただいています。今日はその二回目です。今朝は、ラッド著『終末論』の4章、5章、6章から、最も本質的なメッセージをひとつずつ聴き取り、それを「今日のさまざまな状況」に適用することで、参加申込された方には「学びのための心備え」、参加を迷っておられ方には「誘い水」、参加できない方には「のぞき窓」を提供させていただきたいと思います。

【遺言としてのメッセージC】
ラッド著『終末論』第四章から聴き取る、ラッドの第四の遺言メッセージとは何でしょうか。
第四章は、「新約聖書に書かれているキリストの再臨の意義を把握するためには、聖書神学の基本的な特質の全体像を知る必要がある。」という言葉で始められています。
最後の箇所では、「旧約聖書に預言されている終末的な神顕現―神の栄光ある現れ―は、神の普遍的な支配を確立する。しかし、新約聖書は、その預言をキリストの再臨という視点から再解釈している。キリストは天的な人の子として来て、御国を聖徒たちにもたらし、メシヤたる王として王国を支配される。」ということばで閉じられています。
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【遺言としてのメッセージD】
ラッド著『終末論』第五章から聴き取る、ラッドの第五の遺言メッセージとは何でしょうか。
第五章は、「多くの福音主義の教会において悲劇的な主題となってきたひとつの問題を取り扱わなければならない」という言葉をもって始められています。それは、「再臨は、クリスチャンのみを携挙する空中再臨と患難期を間において、聖徒とともに降りて来られる地上再臨の二つを主張する解釈」がいかに誤ったものであるのかを明らかにしています。
そして、最後では、「主の再臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる支持も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であるという見解を立証している。」ということばで閉じられています。

【遺言としてのメッセージE】
ラッド著『終末論』第六章から聴き取る、ラッドの第六の遺言メッセージとは何でしょうか。
第六章は、「主ご自身とサタンの諸勢力との間のすさまじい戦いが、主の奉仕の中枢部分でなされてきたことを、私たちはみてきた。」そして、「神の国とサタンの王国の間の戦いは、事実上、世の終わりに反キリストが現れるとき、劇的に終幕を迎える」という言葉をもって始められ、「ダニエル書と福音書の黙示録の解釈を丁寧に、比較検証しています。
最後では、「獣は、信仰者を殉教に追い込むことにおいて殉教者たちに打ち勝とうとする。しかしその同じ殉教において、殉教者たちは獣に打ち勝つ。獣は殉教者たちにキリストを否定させることはまったくできなかったからである。これは、殉教者たちの勝利、つまり患難の只中におけるキリストに対する忠節である」ということばで閉じられています。

【まとめ】
 準備をしていて教えられますことは、神学教育機関においても、伝道・牧会・信徒教育の場においても、ラッドが指摘しているような「福音理解において最も基本的な事柄」が繰り返し学ばれる必要があるということです。日本は、地震の多い国です。学校等の公共建築物を中心に「耐震化」が取り組まれています。より徹底して「福音理解における基本的な部分」が繰り返し、反芻され、受肉し、血となり、肉とされていくことが大切と思います。もしこのような取り組みに関心のある方がおられたら、どなたでも参加申込して下さったら感謝です。では、お祈りしましょう。(務記)

2016年07月16日 新約聖書ヨハネの黙示録3:1-22(MP3 「全世界への試練の時には、あなたを守ろう」
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【序】
 衆参両院に三分の二の議席により、改憲が現実味を帯びてきた。それで、これまでにも日本会議関係や改憲運動等の本に目配りしてきたが、再度近刊の関連本を集めて目配りしている。その中で、青木理著『日本会議の正体』平凡社新書、は客観的な情報が多くあり、読みやすく参考になった。その中で、目に留まった箇所を少し紹介すると「安倍政権発足後の変化としてわたしが一番感じていますのは、日本会議が『阻止の運動』『反対の運動』をする段階から、価値・方向性を提案する段階へと変化してきたということです」とp.210にある。日本会議の主張の輪郭は、「@天皇、皇室、天皇制の護持とその崇敬、A現行憲法とそれに象徴される戦後体制の打破、B愛国的な教育の推進、C伝統的な家族観の固守、D自虐的な歴史観の否定」(p.212)という五点に集約されるとのことである。日本会議は、この水十年間に、たとえば元号の法制化、建国記念日の祝日化、愛国的な歴史教科書の編纂、国旗国歌法の制定、皇室尊崇意識の涵養、憲法改正の前哨戦としての教育基本法改正等で大きな成果を上げてきたといわれる。
 そして、最後に「ただ、日本会議の中枢にいる人々を知る関係者は、その執念や粘り強さの背後には『宗教心』があると指摘している。新興宗教団体・生長の家に出自を持つがゆえの『宗教心』。また、日本会議そのものが神社本庁を筆頭とする神社界などの手厚いバックアップを受けているため、その『宗教心』に裏打ちされた運動や主張は、時に近代民主主義の大原則を容易に逸脱し、踏み越え、踏みにじる。天皇中心主義の賛美と国民主権の否定。祭政一致への限りない憧憬と政教分離の否定。日本は世界にもまれな伝統を持つ国家であり、国民主権や政教分離という思想は国柄にあわない、…と主張される。それは、同時に日本会議の運動と同質性、連関性を有する安倍政権の危うさをも浮き彫りにする。
 そんな安倍政権と日本会議がいま、総力を注ぎ込んでいる最大の目標はなにか、…憎むべき戦後体制の象徴であり、核心であり、元凶であるものの打破―そう、現行憲法の改正である。」(p.214)と締めくくられている。
 わたしたちは、エジプトのヨセフが七年の豊作と七年の飢饉の夢説きをなし、飢饉に備え、エジプトとともに、神の民をも救ったように、わたしたちそれぞれがそれぞれの持ち場、立場において、改憲阻止・反対の運動の段階から、キリスト者が宿すより普遍的な価値・方向性を提案する段階へとシフトすべきなのかもしれないと思わせられている。護憲の立場であれば、改憲案と護憲案の比較対照を徹底的・根源的に行い、国会議員や最終的な投票をする国民に説得力のある訴えを繰り返していかなければならない。戦前のような日本を、わたしたちの子孫に残すようなことがあってはならない。勝ち負けはともかく、この時代、この時期に生かされているキリスト者として、私たちには戦う”特権”と”責務”が与えられていると思うのである。わたしたちは、地上の島国で小競り合いをしているが、天上には「主の主、王の王」が座しておられるのだから、最後まで勇敢に戦い続けたい。主が来られる日まで…。(務記)

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【黙示録 3章】
黙示録2,3章は、小アジアにある7つの教会に、ヨハネが送った手紙である。それぞれの教会に特徴がある。
1~6節に書かれた、サルデスは古代ルデア王国の首都で、「アルテミス」という大きな神殿があった。
7~13節には、フィラデルフィアという街の名前があり、そこにはお酒の神様「リオニソス」という神が祀られていた。
14~22節には、ラオデキアという街の事が書かれ、金融業、毛織物、目薬など、産業豊かな街であった。豊かであるが故の盲点について、ヨハネは語っている。
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7節に、「ダビデの鍵」という言葉が出てくるが、ダビデの町の鍵とは、「エルサレム」の事である。昔の都市は城壁によって取り囲まれ、夜になると門の鍵を閉め、その町を守っていた。だれも閉じることの出来ない門とは「天国の門」「天のエルサレムの門」「パラダイスの門」の事である。
イエス・キリストが、天国の門の鍵を持っておられる。なぜならば、キリストの十字架の贖いを通して、人々は救われ、行いによらずキリストの血によって、天国の門に入れられるからである。
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この黙示録が書かれた1世紀は、ローマ帝国の支配下にあり、皇帝が神のように崇められ、「皇帝崇拝」の時代であった。それゆえに、キリストを信じ、偶像礼拝を避けて生きるという事は、たやすい事ではなかった。しかし、クリスチャンたちは偶像礼拝をせず、迫害にもめげることなく、勇敢に生きた。
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9節には、ユダヤ人のことが書かれている。ヨハネは厳しい言葉を用いている。「サタンの会衆に属する者」、要するに、メシアであるキリストを拒否して生きている者ということである。本来なら、キリストによって救われるべきユダヤ人たちが、クリスチャンを迫害し、告発している。パウロもそうして、告発され殉教した。そのため、ヨハネは厳しい言葉を浴びせている。
私たち日本人は、「ユダヤ人」と聞くと、旧約聖書の専門家のように受けとめるが、みんなが皆専門家ではない。その証拠に、キリスト教の異端は、ユダヤ的な聖書解釈の歪みや間違いから生まれている場合が多い。
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「真のユダヤ人」というのは、アブラハムから生まれた者(血縁的ユダヤ人)ということではない。イサクから出た者、要するに「イエス・キリストを信じる者」が「真のユダヤ人」ということになる。血縁的なことだけで、自分は「真のユダヤ人」であるという者は、自称しているだけであって、「真の神の民」ではなく虚構の世界に生きていることになる。
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10節、1世紀のローマ帝国の迫害の下にある、クリスチャンの忍耐について書かれている。黙示録だけではなく、聖書の中には、試練に対するクリスチャンの原則、また、本質が書かれている。「神の言葉を守り、キリストを否まなかった人々について・・・」それは、1世紀のことだけではなく、「終末における大患難の時」のことでもある。
ギリシャ語で「エクフューゴー」という言葉がある。~の只中でという意味である。初代クリスチャンたちから現在のクリスチャンたちまで、そして、大患難の時代のクリスチャンたちも、神様は苦難の只中で、「あなたを守ろう」と言ってくださる。
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誤った終末解釈に、「患難の前にクリスチャンは、天に引き上げられ、患難を通るのは、イスラエルの民とクリスチャンではない人たちだけである。」というものがある。しかし、これは間違っている。なぜなら「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と書いてある。
イエス様ご自身も、エルサレムの陥落と終末について語られた。「その時は、世が始まってから今までなかったようなひどい苦難がある。」と・・・しかし、その只中でクリスチャンたちは証しし、保護されると・・・これらの苦難の日の後、人の子は再臨され、宗教者全体が(ユダヤ人もクリスチャンもキリストを信じる者は皆)天国に入れられると言われた。
世の終わりの時、背教の者が現れ、不法の者が来て、地上のクリスチャンたちは試練の時を迎える。しかし、これらの事は、クリスチャンをさらに練り、清め、整えることになる。だから、避けるべきことではない。
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キリストは言われた。「あなたがたは、世にあっては患難がある。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのである」(ヨハネ16:33)と・・・(仁美記)
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【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev03


2016年07月15日 新約聖書ヨハネの黙示録02:01-11(MP3耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい

【序】
 今日の聖書箇所には、「偽りを見抜く」ことの大切さが書かれている。「アベノミクスへの期待」による衆院・参院議員選挙の連戦連勝である。多くの民主主義国の選挙で与党が苦戦している中、素晴らしい成績を残し、さらに両院で三分の二の議席を確保するという「向かう所敵なし」の状態である。このような議席の確保は共産圏や独裁国家にしかみられないような勝利である。
 世界的に見れば、ヨーロッパはドイツを中心に「緊縮財政」で健全な財政を保持することに腐心している。それは、ある意味、糖尿病患者が健康を回復するため、好きな食べ物を食べずに治療に専念する姿に似ている。しかし、今の日本は民進党(旧民主党)のときにドイツ的経済・財政政策をとったが、現在の与党は「異次元の金融緩和」を連発し、円安に誘導し、外資を導入し、株価を引き上げ、経済を上向かせることに余念がない。選挙が終わった後、さらに補正予算による追加経済対策を打とうとしている。新幹線の延長、リニア新幹線の前倒し等、進軍ラッパがけたたましい。しかし、それらを推進するお金はどこからくるのだろうか。もしかしたら、国債の追加発行等でまかない。膨大な借金は積み増し、積み増し、将来に先送りするということなのだろうか。しかし、そんなことをしていて大丈夫なのだろうか。「ギリシャのような財政破綻の危機の足音」は聞こえていないのだろうか。
 わたしの田舎で、バブルの頃に、JA等は「箱ものである施設や建物やショッピングセンター」をここかしこに建てまくった。その頃は、それに群がる多くの業者が恩恵を受けた。しかし、当然来るべき「少子高齢化の波」が押し寄せ、今は廃墟のように閉鎖された、数多くの無人の建物が残されている。その昔、観光客で溢れていた場所には、今は人っ子ひとりいない。将来を見通すことなく、バブルの泡に翻弄された結末である。
 現在の異次元の金融緩和、また異次元の財政出動は、少子高齢化の未来が「現在」となったとき、「刷りまくったお金」と「限界をこえた国債発行による巨額の債務」と「廃墟のようになった新幹線の路線」等ということになりはしないのだろうか。国の富は外資を扱う人たちがその差益をたっぷりかせいで、「はい、サヨウナラ!」ということにならないのだろうか。
 日本に残されたものは、その経済的な恩恵に惑われている間に、たくさんの議席を与えた党によって、なにものにも代えがたい「未来の理想を先取りしたような内容をもつ憲法」を、「過去の遺物のような復古主義的なおそまつな内容の憲法」に取り替えられただけであったということにならないのだろうか。真に必要な痛みを伴う改革を避け、甘い汁ばかりを吸わせ、選挙民を一時的に喜ばせ、野望を遂げようとする政治家を正しく評価・分析することが必要な時代である。結局、そのすべてのつけを払い、しりぬぐいをさせられるのは国民自身なのだから…。(務記)
 
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【黙示録2章】
   黙示録の2~3章は、小アジアにある7つの教会に向けての、ヨハネからのメッセージである。小アジアとは、今のトルコのギリシャ寄りの部分である。大都市であり、港町であり、エーゲ海に面したエペソを中心に、半径160キロ以内にこの7つの教会は全てある。
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   1節に出てくる「御使い」とは何か?教会の代表者や監督、または、メッセンジャーと呼ばれる伝達をする人たちの事なのか?それとも、「黙示文学」に登場する守護天使の事なのか?
*
   この手紙の特徴として、繰り返しが見られる。7,11,17,29節に見られる「耳のある者は」という言葉は、この手紙が送られた7つの教会全てに、大切な事を伝えようとしているという事に注意を向けさせている。
   これら7つの教会の状況は、常にパウロやヨハネに伝えられてきた。その結果としての、パウロの13通の手紙であり、この黙示録もヨハネからの手紙である。
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   2・3節には、これらの教会の肯定的な評価が書かれている。最近、考えている事、導かれていることなどを全て把握し、評価しているのである。その1つとして「使徒と自称しているが・・・、その偽りを見抜いた」と・・・
   現在、日本のキリスト教会にも、あるグループの存在が明らかになっている。「使徒職の復活」である。「使徒」には、いくつかの定義があり、狭い意味では、イエスから直接任命され、イエスを目撃することのできた「12使徒」がある。そして、広い意味では、巡回宣教師たちも「使徒」に含まれる場合もある。
   しかし、近年では、名刺に「使徒○○」と書いておられる方がおられる。使徒という名称の中に「誤りのない先生」というイメージが先行してしまう。初代キリスト教会においても、パウロやバルナバのように立派な人たちもいたが、問題があるのに自ら「使徒」と名乗る者もあった。あちこちの教会に行っては、メッセージをしたり献金を受け取ったりする者もあった。
   エペソの教会には、それを見分ける知恵があり、自称「使徒」を見抜く霊的洞察力や目を備えていたようである。
 *  
   聖書の中には「旅人をもてなせ」という御言葉がある。しかし、あまりにも「無邪気」にまた「お人よし」に、そのような自称「使徒」のような人たちを鵜呑みにし、表面的な広告宣伝に騙されて、集会やキャンプに招いたりすれば、その人たちの蒔いた「間違った教え」に後から気付き、取り除こうとしても、大変な労力を要する事になってしまう。
   試す力、偽りを見抜く力は、正しい健全な教えを徹底するために不可欠なものである。真札と偽札を見分ける力をつけるためには、まず、真札を徹底的に知らなければならない。色、手触り、ここかしこに隠された本物にしかない印、匂い、これらを習得すれば偽物はすぐに分かる。アメリカで問題になり、取り組まれた問題が、半世紀遅れた今、日本に広がり、私をはじめいろいろな神学者たちが取り組んでいる真っ最中である。
*
   4節には、今度は7つの教会の「課題」が書かれている。
地上の教会に完璧な教会、教派、神学は無い。「非難すべきこと」「課題」の無い教会は無い。これらは、建てられた家の様に、絶えずリフォームする必要がある。どんなにしっかりと建てられた家でも、年数とともに歪みや隙間が出来るのは、致し方無いことである。
*
   宗教改革の時のスローガンに「聖書に従って改革された教会は、絶えず聖書に従って改革されるべきである」というものがある。伝統や教派の個性を活かしながら、今議論のある「終末論」や「黙示録理解」のリフォームが必要な時代なのである。日本の社会は、人間関係を大切にするあまり、どの先生の話も受け入れて、とにかく仲良く、識別力は使わず、吟味しない傾向が強い。
*
   6節には、「あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。」と書かれている。キリスト者は「愛する」ことは良いことであっても、「憎む」ことは悪いことだと思われがちである。しかし、正しいことと間違っていることを識別することは、もっと大切な事なのである。間違った「黙示録」理解、間違った「患難期」理解が、もし誰かによって広められようとしているなら、間違った教え、間違った指導者は警戒されるべきである。
   教会は、いつの時代においても、聖書に従って識別し、吟味し、誤りを見抜きながら、リフォームを繰り返さなければならない。
*
   7節と11節に、「勝利を得る者」とある。「勝利を得る者」とは、イエス様を信じて救われ、健全な教えに養われた者は、天国において命の書に名前が書かれ、命の冠をかぶせられる者となる。肉体の死は経験するが、裁きの後の「第二の死」は経験する事の無い者である。神の名は、ほむべきかな!(仁美記)
*
【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev02

2016年07月14日 新約聖書ヨハネの黙示録01:01-20(MP3「「私ヨハネは、パトモスという島にいた」

「脱力感…ですかね」―と題した家内のフェイスブックの記述を見て、家内の「弱音」を久し振りに聞いたような気がした。数々の法案が強硬採決され、あげくの果てに衆参両院で三分の二の議席となってしまった。あの「日本会議」が最終目標とする「憲法改正(改悪)」が現実のものとなる段階に入ってしまったのだ。
*
 わたしは家内の姿を見て、この間戦ってこられた多くの方も同様の”脱力感”の中にあるのではないだろうか、と思った。そして、その時に、1世紀末、地中海のパトモス島で流刑になっていたヨハネが書いた「ヨハネの黙示録」のことを思い出した。1世紀末、圧倒的なローマ帝国の政治力、経済力、軍事力で圧倒されそうになっていたクリスチャンに、身近に迫っていた弾圧と迫害の嵐の中でどのように生きるべきかなのかを諭した「黙示録のメッセージ」である。ヨハネは流刑の島、パトモスにいながら「主の臨在の中、天の王宮の玉座の間に引き上げられ、王の王、主の主が誰であるのか」を教えられた。そして、このような「天的視点をもって地上の苦難の時期を乗り切る力」を与えられたのである。2009年度に語ったメッセージであるが、家内にはヨハネのように「書き起こしてもらう」ことにより、黙示録から励ましを受けてほしい、また家内の「書き起こしたメッセージ要約」を通して、今の時期「打ちのめされている」人々に、あのローマ時代、そして日本のキリシタンの時代、国家神道の時代―わたしたちの信仰の先輩たちがどのように勇敢に戦ってきたのかを覚え、神さまから「よみがえりの力」をいただき「殉教をも恐れず、証しし続けていただきたい」と思うのである。(務記)
*
【ヨハネの黙示録 1章】
黙示録はAD81年~96年、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスが支配していた時代に、書かれた書物である。ネロに引き続き、ドミティアヌスもクリスチャンを迫害していた時代、今のトルコにあるエペソから南西に約90キロのエーゲ海にある、パトモスという島に流刑になったヨハネが書いた書物である。
*
黙示録の「黙」とは、覆い隠されている物ということである。そして、「示」は明らかにするということである。つまり、覆い隠された「神のご計画」が、ヨハネによってはっきりとこの世の中に示される書物だということである。
1章から3章は、7つの教会について、4章から19章は大患難時代について書かれている。
ヨハネが生きていた1世紀の時代は、ローマ帝国によって支配されていた。聖書は焼かれ、クリスチャンたちは迫害を受けた。私たちの国、日本においても、クリスチャン人口は1%と言われて久しいが、そんな私たちをも励まされるほど、初期のクリスチャンたちは圧倒的な国の力にくじけることなく、宣教の戦いを繰り広げていた。
*
1:3 「この預言のことばに、心をとめる人は幸いである。」黙示録についての本は、山のようにあり、極端なことが書かれている本が多い。私も何十冊も持っているが、自分とは無関係のこと、ずっと未来のことが書かれている様に思われて、今まであまり気にとめることはなかった。ハル・リンゼイの「地球最後の日」やティム・ラヘイの「レフト ・ビハインド」などは、その典型である。
そんな、好奇心をかき立てる様な、いかがわしい集会やセミナーが今や人気を博し、クリスチャンが大勢つめかけている姿は、なんとも嘆かわしい次第である。
*
本当に、黙示録に書かれているのはどういう事なのか?真剣に取り組む中、出会ったのが岡山英雄先生の「小羊の王国」という本であった。
この岡山先生は、1990年に牧師を辞められ、イギリスに私費で留学されている。奇しくも、同じ頃、私も共立基督教研究所に内地留学していた事がある。生まれ年も同じ、終末論や黙示録の解釈も似ており、そういった意味でも、大変共感させられた方である。
岡山先生は、この本の他にも、「ローマ書」と「黙示録」のティンダルの註解書にも取り組んでおられ、「小羊の王国」にそって黙示録を読んでいくと、濁っていた水が澄みきっていく様に、雑音にかき消されていた主旋律が、はっきりと聞こえてくるかの様な感覚に私はとらわれた。
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4節にも、8節にも、「神である主、昔いまし、常にいまし、のちに来られる方」とある。「昔」それは過去的解釈、ヨハネが生きていた時代は、ローマ帝国の圧政にクリスチャンたちが呻いていた時代である。そして、「常に」は初代キリスト教の時代から、終末期に至る前の全歴史と解釈できる。そして、「常に」は未来の事であり、終末期に対する預言と考えられる。
1世紀の苦難と患難の中にある教会に向けて、ヨハネは励ましの言葉を送っている。そして、終末期にも、大患難時代がやってくる事を預言している。また、局所的には、「常に」宣教し続ける教会に対して迫害がある。どんな時代にも、迫害はある事を聖書は教え、忍耐をもって生きる事を勧めている。
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誤った終末論を唱える人たちは「キリストの空中携挙の後、患難時代がやって来る」と言う。しかし、エジプトにいたイスラエルの民は、エジプトに10の災いが起きた時、すでにエジプトを脱出していたであろうか?いや、彼ら神の民はその災いの只中にいたのである。只中にいながら、神への信仰と「小羊の血」によって守られたのである。
だから、「患難時代の地上に、もはや教会はない」という教えは、間違いである。凄まじい患難の時代にも、教会はこの地上で、神によって守られるのである。
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7つの燭台は、7つの教会をあらわし、教会の真ん中には「キリスト」が立っておられる。どんな時代にも、苦難の只中にある教会には、また、パトモス島に流刑になっているヨハネの側にも、キリストは力強く立っていて下さるのである。落胆せず、どんな小さな教会であっても、その教会の只中には「キリスト」が立っていて下さる。苦闘の中にある時にも・・・
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ヨハネがキリストを見た時、死んだようになった。この箇所を見た時、私はイザヤ書を思い出した。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。・・・」こう言ってイザヤは神の前に倒れた。そして、燃える炭が彼の唇に触れた。
キリストはイザヤにも、ヨハネにも「罪は赦された。」「恐れるな!」とおっしゃった。最初であり、最後でもある、その様なお方が、私たちのキリスト教会の真ん中に立っておられる。1世紀も終末期も、そしてずっと、「勝利者」として、立っていて下さる。
苦難の中にある教会にも、力強いメッセージが鳴り響いている。ずっと昔の事ではなく、わたしたちにとってよそ事でもなく、今の私たちに届けられた「ヨハネの黙示録」は、神様からの手紙なのである。その手紙が、パトモス島にいたヨハネに、「ラッパのような大音響で」届けられたのである。(仁美記)
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※2009年度は、黙示録に関するさまざまな関連記述を「ICIホームページ」の下記の箇所に書いているので参考にしていただきたい。
【解説】http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev01

2016年07月10日 新約聖書使徒行伝20:17-32(MP3 / YouTube/ 要約 / 説教原稿 / サマースペシャル・チラシ)「G.E.ラッド著『終末論』から読み取る九つの遺言」@

【導入】
今日から、三回シリーズで、一宮基督教研究所の今年度の取り組みとしての「サマー・スペシャル」について紹介・案内させていただきたく思います。これは、教え子であるKBI卒業生の発案で開始されたものですが、同時にわたしたち夫婦が二十数年前、共立基督教研究所での神学の研鑽を終えて、郷里であるこの一宮に帰って来ました時に、家内とわたしに「この大きな家と恵まれた自然環境の中で多くの人たちのための、キャンプやセミナーができないだろうか」という思いが与えられたことに淵源があります。
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さて、今回のICIサマー・スペシャルでは、福音派の聖書神学の領域で、大きな働きをなし、福音派神学教育の基準的テキスト『新約聖書神学』をはじめ、数多くの優れた著作を残した、フラー神学校の新約聖書神学の教授、G.E.ラッドの『終末論』から学びます。この本は、ラッドの生涯の最後に書かれたもの、絶筆、遺作であり、彼が生涯で取り組んできた「福音理解」のメッセージの本質を集約した内容です。そのような意味で、わたしはこの絶筆である『終末論』から、ラッドのメッセージを聴き取るとき、わたしにはそのメッセージは、ラッドがまさに召されようしている死の床で書き残した「遺言」のような気がします。
今朝は、ラッド著『終末論』の1章、2章、3章から、最も本質的なメッセージをひとつずつ聴き取り、それをお分かちすることで、参加申込された方には「学びのための心備え」、参加を迷っておられ方には「誘い水」、参加できない方には「のぞき窓」を提供させていただきたい。

【遺言としてのメッセージ@】
ラッド著『終末論』第一章から聴き取る、ラッドの第一の遺言メッセージとは何でしょうか。第一章は、「聖書は…何を教えているのか」という言葉で始められ、「教理において最終的に権威のあることばは、新約聖書の中に見出されなければならない」ということばで閉じられています。

【遺言としてのメッセージA】
ラッド著『終末論』第二章から聴き取る、ラッドの第二の遺言メッセージとは何でしょうか。第二章は、「新約聖書は、イスラエルについて何を教えているのか」という言葉で始められ、「真のイスラエルは、アブラハムの肉的子孫と同一ではない。旧約聖書で字義通りのイスラエルに適用されていたものが、ユダヤ人も異邦人も含む教会に適用されている。教会は新しいイスラエルである」と断言されています。

【遺言としてのメッセージB】
ラッド著『終末論』第三章から聴き取る、ラッドの第三の遺言メッセージとは何でしょうか。第三章は、「信仰者は、死後、天国で、肉体を離れた祝福の状態にあり、不死の者たちとともに、そこに住む―そのような考え方は、聖書神学というよりも、ギリシャ的な思想の表現である」という言葉で始められ、「信仰者は、死後、復活を望みつつ、神の臨在の中にあって、キリストとともにいる。」これは祝福の状態ではあるが、聖書が全体として証言しているのは、「最終的な贖いには肉体の復活と変貌を欠かすことはできない」と主張されています。

【まとめ】
今朝は、福音派諸教会「共有の福音理解」を耕し、根づかせるという意味で、ラッドの絶筆『終末論』の三つの章から三つの遺言としてのメッセージに耳を傾けました。このようなメッセージを、広く、深く、高く、長く、掘り下げていく取り組みの場が、ICIサマー・スペシャルです。そこには、ラッドの15冊の著作集も視野に入ります。そして、わたしの翻訳の重荷も、解き明かしの重荷も、それらの中にあります。もしこのような取り組みに関心のある方がおられたら、どなたでも参加申込して下さったら感謝です。では、お祈りしましょう。(務記)

2016年07月03日 家内の母、大村哲子の洗礼式のため、西宮福音教会礼拝に合流しました。"New"「ナルドの香油」サイトができました。

娘である檜垣碧が「お父さんのメッセージをより多くの人に視聴してもらたら…」とサイト作りの数多くの知恵を教えてくれるようになりました。それに十分に対応する知恵も力も時間もないので、「碧ちゃん、助けて!」ということになり、より広く、多くの人たち―特に若い人たちに、電車の中でも、楽しんで視聴してもらえるような「刷新された『ナルドの香油』サイト」づくりをお願いしました。すると、秀吉の「墨俣の一夜城」のように、あっという間に、この新しい「ナルドの香油」サイトを作ってくれました。わたしが、ただただ記録掲載していっている『古いナルドの香油』サイトを、リアレンジして、若い人たちに魅力ある"ナルドの香油"セレクションとしての「ショールーム」のようなサイトづくりに励んでくれています。「百万の味方を得た」ようで、感謝!"Old"『ナルドの香油』サイトも、記録という意味でこれまで通り掲載を続けていこうかと思っていますので、「旧」と「新」のナルドの香油サイトをよろしくお願い致します。

2016年06月26日 新約聖書エペソ人への手紙1:20-23(MP3)「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上の右に着座させ」

  前回までを振り返ると、パウロは牢獄に囚われの身でありながら、「天にあるすべての霊的祝福」を無数に瞬く天の星に例え、どんな状況にあっても、神を褒め称えるパウロの姿を見せていただいた。また、今を生きる私たちにとって必要である「霊的視力」「見極める力」の課題を示され、今の現実が「はっきり見えるように」とのパウロの祈りを学んだ。

   今日は、「パウロの祈りの焦点」であるところの、「信じる者に働く神の力」とは、いかなるものであるかを学ばせていただきたい。
   1:20  「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、」とは、聖霊の働く中心部分・根幹部分は、「キリストのうちに」あり、「キリストの死者の中からのよみがえりに」あり、「天上の右の座への着座に」あるという事である。
   
   キリストは、十字架の死という「最底辺」から、天の御国の右の座という「最頂点」に引き上げられたお方である。キリストは私たちすべての人類の「罪」を一身に背負って、また、「古い創造物のうめき・苦しみ」すべてを背負って、十字架につけられ、永遠の刑罰を受けられた。その当時のキリストを憎む宗教家も政治家も、また、この世の悪しき勢力も、こぞって神の子キリストに対してでっち上げの罪状を作り上げ、追い込み、極刑である十字架刑に処した。彼らは自分たちの勝利を確信したであろう。「我々は成功した」「我々こそが勝利者だ」と・・・

   しかし、神の「摂理」は、そんな邪悪な人々や悪しき勢力の「策略」「人間の愚かさ」をも手段にして、「神の御計画」「神の御旨」を完遂されたのである。なんと驚くべきことであろうか!
   ただ、神は「聖なる御子をよみに捨て置かれず」、その全能の力をもって、御子を死者の中からよみがえらされた。「神の全能の力」というと、「天地創造」の事をまず、思い浮かべるが、その偉大なる力を、「御子の救済のため」に用いられたのである。
   この「御子への愛」「御父の愛」は、例えれば、地震で建物の下敷きになった我が子を、何とかして、自分の命もかえりみず、建物の隙間に自分の体を差し込んででも、我が子を助けたい!そんな「父なる神」の叫びが聞こえてくるようである。

   そして、御子を「罪と死と永遠の滅び」から救い出すのみならず、天上の右の座に着座させ、今の世の「すべての支配、権威、権力、主権」の上に立たせただけではなく、来る世でも、すべての名に勝る名をお与えになったのである。これによって、キリストは未来永劫続く「王の王、主の主」になられたのである。
   アダムによって、この世界に持ち込まれた「罪と死と滅び」の法則は、新しいアダムたるキリストによって、「御子の最終的・絶対的勝利」をもって決着したのである。

   1:22「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、・・・教会にお与えになりました。」とは、地の深みから天上の王宮に皇太子として入られたキリストは「花婿」として、「花嫁」である教会に与えられたということになる。このことは、5:25~33にも意識されているように思う。キリストは自分の死をもって、教会を愛されたのである。

   1:23「教会はキリストのからだであり、・・・」とは、キリストを頭として、教会のメンバー1人1人は、それぞれ個性を持って生きる、キリストの身体の器官であるという事である。これは、4:7~16が意識されていると思う。
   「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」は、2:18~22の「聖霊の宮である教会」に、出エジプト40章の幕屋の完成時に、「主の栄光が幕屋に満ちた」というイメージが当てはめられているように思う。
   教会は、また、私たちは「神の宮」なのである。人生が、例えヨブのように「苦難に満ちたもの」であったとしても、私たちの生活の中に「神の臨在」が満ちていれば、私たちの魂は満たされ、その光は周りの人々にも見えるものとなるのである。

   「天にあるすべての霊的祝福」の源がキリストにあるとすれば、これから学んでいく2章以降に、どんな宝が隠されているのか?宝石箱を開くような期待とワクワク感に、私は満たされるのである。(仁美記)

2016年06月19日 新約聖書エペソ人への手紙1:15-19(MP3)「神を知るためにの知恵と啓示の御霊―御霊による照明と学究的熟慮」

  前回、エペソ人への手紙の1:1~14で学んだことは、「天にあるすべての霊的祝福」ということであった。夜、空を見上げると、無数の星が見える。この書を書いたパウロには、星空が見えたのであろうか?牢獄にいるパウロの状況を忘れさせてしまう、このエペソ書の内容である。そして、この書を見ると、パウロはすでに天にいるかのように、大いなる褒め称えの声を上げている。

   エペソ書の一章は2つの部分からなり、前半は「キリストにあって、神はわたしたちをすべての霊的祝福をもって祝福してくださっている」ということ、後半は「このすべての霊的祝福を理解し、自分のものとして把握できるように、わたしたちの目をひらいてくださるよう、神に祈り求めている」ということである。

   この一章の構成から、「私たちが健全なクリスチャン人生を送るためには、どうすれば良いのか?」を教えられる。
   1つ目は「賛美」である。神様の祝福を感謝する賛美を捧げるべきであるということ。
   2つ目は「祈り」である。神様の祝福を自分のものとするためには、祈るべきであるということ。

   しかし、今日、そのバランスが崩れていると思われる現象が見られる。
それは、ある人たちは、神様の祝福が全く無いかのように、「新たな霊的祝福」を求めて、次から次へと集会や教会、またムーブメントを追いかけるのである。本当に、その人には「神様の祝福」が全く無いのであろうか?
   聖書には、すでにキリストにおいて、神が「すべての霊的祝福」をもって祝福してくださっている、と書いてあるのに、彼らはまるで「物乞いクリスチャン」「霊的路傍生活者」のような状況にある。

   また、ある人たちは、「キリストにおいて、すべての霊的祝福」にあずかっているという、疑問の余地のない真理に固く立っている、いや、立ちすぎている人たちがいる。これの何が問題かというと、彼らは「自己満足」病、「霊的食欲不振」病を患っており、さらにより深い恵み、より豊かな祝福を経験しうる特権が与えられていることを「知りたい」「経験したい」という渇望が欠け、色あせてしまっているのである。

   これらの2つの両極にある病を、パウロは治したいと願っている。そして、その方法が、パウロに学び、パウロに倣うという方法なのである。
   私たちは、キリストにあって、すべての霊的祝福を与えて下さっている「神をほめたたえる」ことと、その与えられている霊的祝福のすべてを理解し、把握し、経験できるように「神に、求め続け、たたき続け、探し続ける-つまり、祈り続ける」という、2つの生活のありようが必要なのである。

   1:17   エリクソンは「神を知るために」は、「神知識」が必要だと説いている。「神知識」とは、神ご自身について知るだけではなく、神がなされたみわざ、人間の本性と現実の状況、神と人間との関係に関する知識をも指している。
   パウロは、神を知るための知恵と掲示の御霊を与えてくださるようとりなしている。この御霊は、新たに与えられるのではなく、神を信じた時に与えられた「内住の御霊」である。この御霊によって、心の目が開かれ、福音理解についての真理を理解し、把握し、経験できるようになるのである。

   では、私たちは、「天にあるすべての霊的祝福」の内容として、前回触れた、「選び、罪の赦し、御霊の内住」、今回の、「神の召し」「聖徒の受け継ぐもの」「神の全能の力の働き」等を、知り、理解し、自分の毎日の経験としていくことが出来るのだろうか?

   ここでも、2つの極端な人たちがいる。
   1つ目は「天を仰ぎ、暗闇の中に光る稲妻を待つように、聖霊の照明が降ってくるのをひたすら待っている人々」である。これらは「預言集会」や「預言運動」と言われ、自分の理性で推測したり、熟慮する要素を一切考慮に入れていない「思考停止」型の人々である。
   2つ目は「知性を使い、人間の能力を過信してしまう人々」である。彼らは、内住の御霊が、み言葉を通し、さとし、語りかける「御霊の照明」の働きに、心を開く余地の無い人々である。

   では、パウロはどう言っているのだろう?パウロは2つの極端の真ん中にいる。「エペソ書の読者の心を照らし、心の目を開いてくださるように」と、「御霊の照明」の働き、助けを祈っている。と同時に、神が「イエス・キリストの客観的なみわざ」において、そこで示された「死・葬り・復活」の意味について知的にも教えているのである。

   私たち人間に求められていることは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛すること」である。そのためには、信仰と知識は、対立するものではなく、補完するものである。
   私たちの思慮・熟慮は、内住の御霊の照明の助けなくして、有益な収穫は得られないし、また、同時に、御霊の照明の働きは、わたしたちが知性を働かせることを無駄とはしていない、というこそである。(仁美記)

2016年06月12日 旧約聖書ヨブ記18:1-21(MP3)「怒って自分自身を引き裂くヨブ―死の初子がからだを食らう」

   私たちの教会では、雅歌の学びから、今は、ヨブ記の学びに入っている。ヨブ記を学びながら、私たちは苦難の只中で、いかにして十字架の御業を自分たちの生き方に、働かせる事が出来るのか?を教えていただいているように思う。

   18:1~4  ヨブの第2の友人、ビルダテの弁論が再び始まり、まず、ヨブに抗議する。いったい、ヨブはいつまで詭弁を弄し、友人たちに罠をかけるのか?まず、その事を反省すべきである。その後、話し合おうではないか。
   ヨブは、友人たちを「愚かな家畜」、「汚れた獣」のように思っている。その態度は思い上がりも甚だしいものである。友人たちから見れば、ヨブは怒る理由もなく怒り、自分勝手に怒って、その事によって、自分の心を苦しめている。自業自得ではないか?
   友人たちの説く道理、「神様は正しいお方であり、悪人は裁かれる」ということは疑いようのない道理である。そうであるが故に、ヨブの苦しむ理由はそこに在る。

   18:5~10  「光・火」とは、生命とか生活を意味する。それらが輝くことすなわち幸福・繁栄を意味している。しかし、それらが消えて暗くなるという事は、不幸・失敗を意味している。この事は箴言13:9にも「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える」とあるように、旧約の知者の伝統的な教義である。しかし、ヨブには、それに値する罪は思い当たらない。だから、死に物狂いで反発し、友人を、ひいては神を激しく攻め立てている。
   詩篇の詩人の言う通り「義人の歩むところは広くされ、その足はすべることがない。」とするなら、不信仰な者、悪人の道は、狭まり、つまずき倒れるしかない事になる。

   18:11~15  彼の皮膚は、病によって食い尽くされつつある。「死の初子」とは、致命的な病、死に至る病の事を言う。現代の日本であれば、死因の第1位は「ガン」、第2位は「心臓疾患」、第3位は「脳血管障害」である。そして、それ以外にも、肉体的な病だけでなく、精神的な病も、多くの人々の命を奪っている。
   ビルダテに言わせれば、悪人は肉体的にも精神的にも惨めな状態に陥るという。この事は、ヨブがおそらく「象皮病」のために、苦しんでいる事を知っていながら、言っているのであろう。そして、 要するに、悪人は自分の生活の拠り所である天幕、その家庭、家族の間を死の病によって引き裂かれ、地獄の王のもとに行かなければならない、というのである。
   雑草が天幕の中まで生いしげり、野獣、野鳥が住み着き、住みかであった家が荒れ果てていく。

   18:16~21  以前、ヨブは「木には望みがある。それらは切られても、また芽を出し・・・その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」(ヨブ  14:7~9)と言っているが、ビルダテは悪人は下からも上からも徹底的にその生命を断ち切られ、その存在が全く空しくされるというのである。
   伝道者の書には「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。」と書かれている。

   以上のごとく、悪人は自身の存在が無となるのみならず、彼には子も子孫もなくなり、彼の記憶も名も全く人から忘れられてしまうというのである。これは、ビルダテが暗に、ヨブが大風によって、その息子や娘を一挙に失った悲惨な事故を諷していると思われる。

   しかし、私はビルダテの弁論を聞いていて、腹立たしくなった。彼は人生の現実に目を閉ざしている。ヨブの心の叫びに耳を傾けようともしない。彼が本当にヨブの友人であるならば、ヨブの嘆きを、ただ黙って聞いて欲しい。そう願うのは、誤りなのだろうか?自分が納得できない事を、神に問うのは罪なのだろうか?

   「神を知らない者」とは、神様の存在は知っているのに、実際の生活の中で、神がいないかの様に生きている「神無し」の生活をしている者のことである。つまり、神を無視し、愚別している者である。
   悪人は全く地上から消し去られる。しかし、その反対に、神に祝福された者は、アブラハムのように空の星のごとく多くの子孫が与えられるという。
   要するに、ビルダテをはじめ友人たちは、自分たちは正しい信仰を持ち、祝福された人生を送っていると言いたいのである。

   しかし、私たちに与えられる報賞、刑罰はそんなに単純な物なのだろうか?私たちの人生の現実として考える必要がある。いつも幸せで、何の不満もなく生きることが、人生の成功と言えるのだろうか?事実、ヨブのように叫び、訴えること無しに、霊的成長は望めないと私は思うのだが・・・全てを剥ぎ取られ、灰をかぶり、神様の前に出て初めて、「私は、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ  42:5)と、言えるのではないだろうか?(仁美記)

2016年06月05日 旧約聖書ヨブ記17:1-16(MP3)「無罪の保証者としての神―墓を父と呼び、蛆を母と呼ぶヨブ」

   先週は、私がかつて7年間奉仕させて頂いた、岬福音教会に行かせて頂いた。素晴らしいお交わり、素晴らしい神様のご臨在!新しい方々も送られて、本当に感謝なひと時であった。これからも、愛する御教会のために、何かお手伝いさせていただきたいと思っている。素晴らしい会堂、音楽、交わりを持つ教会に今後とも神様の祝福があるように!と切に願っている。

今、日本では、会員や牧会者の高齢化により、無牧の教会が増えている。しかし、そのような現実の中、信徒の方々が助け合い協力しあって、教会を支えているところがある。これは、ある意味、新しい教会のスタイルかも知れない。
   そして、フェイスブックを通して、メッセージを聞いたり、読んだり、することの出来る時代になっている事も事実である。

   ヨブ記を学んでいると、私たちの身近にも、病や障害を抱えている方々が多い事に気づかされる。旧約聖書の時代は、ヨブの友人たちと同じように「信仰があれば祝福され、不信仰であれば不幸が訪れる。」という、表面的な因果応報の考え方であった。しかし、ヨブ記を読んでいると、そうではない、もっと深いものであるという事を教えられる。
   ヨブの友人たちは、ヨブの身に災難が訪れたのは、ヨブの罪の結果であると、繰り返し勧告し悔い改めを迫るのであるが、ヨブは頑としてその事を否定し、押し返そうとする。

   日本という国は、不思議な国である。多くのミッションスクールが溢れている中で、クリスチャン人口はいつまでたっても1%程度である。私はその原因を、こう考える。クリスチャン自身がいつの間にか、ヨブの友人たちと同じような「因果応報」の信仰を持ってしまっているのではないだろうか?そうではない!信仰生活という物は、もっと深みのある物であり、苦難や病、災難の中で、主を見上げることの出来る、もっと強い物であるはずだと・・・
   そのように、クリスチャン自身が意識を変えることが出来れば、今まで準備され培われてきた人々が、ダムが決壊するようにリバイバルへとつながるはずである。

   17:1 ~3 16章の終わりで、ヨブは神と彼との間、また、彼と友人たちとの間を正しく裁く証人、保証人を切に求めている。「怒っておられる神」に「とりなしの神」になって欲しい、信仰者としての「尊厳」は失ってしまったが、「無罪」の保証人になってもらいたいのである。それがお出来になるのは、神以外にありえない。そうでなければ、ヨブには死出の旅路が迫っている。

   17:5~10  彼の「神」であられる方が、彼を災難の中に置かれ、人々の笑い者にされた。彼の心身は疲労困憊し、影のごとくはかない存在になってしまった。しかし、彼は自分の「義」、その手の清さを固く信じて疑わない。だから、もう一度、友人たちとの論争をしたい。あらゆる迫害、侮辱の只中で、固く神の「義」に立ち戦いたいと願う。
   ここで、また詩篇22篇の作者を思い出す。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになつたのですか?」「どうか、遠く離れないでください。・・・助ける者がいないのです。」
   この詩篇の作者が神に叫んでいる言葉が、「宝石」のように書き記されている。
   この言葉の中には、「足し算や引き算」で解決できるような浅い信仰は見えない。災難の中にあっても、その只中で、信仰に立って生きる、豊さ、深さを持っている。
   神にさえ捨てられたキリストの十字架、キリストの魂の深みを思い起こさせる。

   人間が生きるとは何なのか?神にまみえるとは、どういうことなのか?美しい着物や、装飾品を身につけて神にまみえることは出来ない。私たちの外側の飾りや着物を、1枚1枚剥がされて、裸にされていくのである。神と顔と顔を合わせるようにして、まみえるのである。
   人生の外側の豊さや富を誇らず、神との豊な交わりを誇る人生を歩んで欲しい。それが、神様の人間への願いである。
   そんな人生はたやすく得られるものではない。選ばれた人、その人だけが味わうことの出来る人生である。しかし、その人生は、ヨブの如く、苦難に満ちた人生でもある。

   自分の「義」、その手の清さを信じるヨブには、かすかな勝利感が、雲間に差し込む一条の光のように感じられたのであるが、再び黒雲がおおい、彼の心は暗闇の中に閉じ込められる。

   17:11~16  もし、ヨブが友人たちの勧告を受け入れ、謙虚になれば、「夜は昼に変えられ、やみから光が近づく。」と言うが、ヨブの苦しみは、あまりにも辛く、そんな余裕はない。ヨブにとっては、空虚な希望にしか過ぎない。
   ヨブはこの世の最底辺に居るような意識である。それは、まるですでに墓の中に居るような思いである。だから、彼は「墓」を父と呼び、「ウジ」を母・姉妹と呼ぶのである。

   私たちの人生も、ヨブ程ではないかもしれないが、痛み、苦しみの連続であり、日常生活は黒雲に覆われている。しかし、一条の光(主の臨在)を感じて、信頼して生きれば、永遠の生の中に入れられる「期待」と「感謝」を持って生きることが出来るのである。(仁美記)

2016年05月29日 新約聖書ローマ人への手紙1:15-21(MP3)聖書の福音理解の基本的部分「キリスト教信仰入門シリーズ―@善人、尚もて滅亡す?」岬福音教会礼拝

 本日は、皆さんにお分かちしたい「神様の無尽蔵の愛」について、お話させていただきたい。
   私は36年間、私たちのグループの神学校で奉仕し、60才で退任した。あまりにも忙しく走り続けて来た私は、そのことで少しはゆっくり出来るかと思っていたが、ある意味、以前よりも忙しくなった。日々の「神学の研鑽」は底なし沼のように私には思えるし、翻訳の仕事は山のように残されている。そして、何よりも、私が残された年月を、主が私を必要とされるところで神学的な貢献をさせていただきたいとの思いがあるからである。

   この地球上に、キリスト教会は無数にあるが、神様の目からご覧になれば、キリスト教会は普遍的にひとつである。天上から見ると、全てのものはひとつなのである。今、世界の人口は約73億人、その約三分の一にあたる20億人強が、クリスチャンである。その全てがひとつのキリスト教会であり、天上と地上、旧約と新約の全て神の民は「神のひとつの民、神のひとつの教会」(エペソ4:5-6)と言ってもよい。

   1:17,18  歴史を超えて理解されるべき福音は、ふたつの大黒柱からなっている。ひとつは「神の義」であり、もうひとつは「神の怒り」である。神は全く正しいお方であるが故に、不義を見た時、神の大いなる怒りがある。
   創世記1章には、神がこの世の全てのものを造られたことが書かれている。そして、最後に人間を造られた。それらは、神の目からは「はなはだ良かった」と記されている。しかし、人間は罪を犯し、「一度死ぬことと、死後に裁きを受けること」が定められた。私たちは、死後に神の大法廷に立ち、そこで永遠に住む場所が決められるのである。

  「 救い」というのは、罪の結果である「永遠の死」からの救いを意味している。極端な話をすれば、例え99%失敗の人生であったとしても、1%の成功があれば、その人の人生は「成功」であったと言えるのである。
   私自身、19才の時に教会に初めて行った。教会のメッセージを聞きながら「私は永遠の裁きを受けるほどの罪を犯したのだろうか?」と疑問に思った。黙示録20:12  に、「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」とある。また、「命の書」に名前が記されていない者は、「永遠の死」に定められるとも書いてあった。
   私は毎日、寝る前に少しずつ聖書を読みながらこう思った。「私は善人である。キリストを十字架につけるほどの悪人ではない。」と・・・私には「罪」が解らなかった。礼拝と共に、水曜日の「聖書研究祈祷会」にも参加しないか?と誘われ、行き始めた。そして、その中でその頃牧師であられた高橋昭市先生に「祈ってみませんか?」と勧められた。どう祈ってよいのか分からない私に、「心の中にある思いを、そのまま祈れば良いんですよ。」と先生はおっしゃった。
   そして、私はこう祈った。「神様!もしあなたが本当におられるのなら、私にわかるように教えてください!」
   神様は生きておられる。私のつたない祈りに答え、私にもわかるように教えて下さったのである。

   私たちは、神の「聖さ」に触れなければ、自分の「罪深さ」が解らない。イザヤはイザヤ書6:3   で、「聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と言い、6:5  で、「ああ、私はくちびるの汚れた者で、・・・」と告白している。神様の圧倒的な「聖さ」が解ると、自分の「汚れ」が浮き上がってくる。そして、自分が病人であると解ると、医者である神様が必要であると解るのである。

   「罪」とは何なのか?私は犯罪にかかわることだと思っていた。しかし、それは自分の心の内にあった。きれいに見える川であっても、底をかき混ぜるとヘドロのような物が浮かんでくる。それと同じで、私たちの心の中も普段は気付かないことが、何かをきっかけに本性が現れることがある。
   マタイ5:21,22  に「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。・・・しかし、私はあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。・・・また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」とある。そしてまた、5:27,28  に「姦淫してはならない。・・・しかし、情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」人が罪を犯す時に、同じ「種」があることを聖書は教えている。
   
   それにしても、これほど高い基準であるならば、誰一人として天国に入る者などいないであろう、と私は思った。ローマ3:20  「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」いったいどうすればクリスチャンになることが出来るのだろうか?
   神が「愛だけのお方」であって、どんな罪人であろうとも無条件に天国に入れてくださるとしたら、「天国は罪人だらけの刑務所のような所だ」ということになってしまう。しかし、そこにイエス・キリストの十字架における、「罪の赦しと解放の原則」が不可欠になってくるのである。イエス・キリストを自分の救い主として信じるならば、私たちの罪の部分は全て焼き尽くされて、ある意味で「御霊による新しい創造」の部分だけが天国に入れる(Tコリント3:10-15)のである。

   1:19  私は大学生の頃、油絵を描いていた。ゴッホやゴーギャン、ルノワールやセザンヌ。彼らの描く絵は素晴らしく、その作品たちはむなしい心を抱いていた私に感動を与えてくれた。彼らの絵を見るだけでなく、伝記を読み、いったい彼らはどのような人だろうと思ったものだ。
   同じように、神様の作品であるこの宇宙や大自然は、神様がいかに偉大でかつ繊細なお方であるかを、私たちに教えてくれる。この宇宙は果てしないが、地球を取り巻く太陽を中心とした惑星たちは、恐ろしいほどに正確に動いている。これを「天体法則」と呼ぶが、私たち人間の心の中にも、神様はひとつの判断基準「道徳法則」を与えておられる。

   創世記には人間だけが「神の像」に造られ、神と交わることの出来る創造物として造られた。そして、人間だけが「良心」と言うものを持ち、善悪の判断が出来るようになっている、という。しかし、人間は自分の人生を生きた後、裁きを受ける事が定まっている、と聖書は言っている。
   聖書のいう「罪」というのは、人間同士の水平の関係における「罪」ではなく、私たちと神との垂直の関係における「罪」である。

   1:21  には「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず・・・」とある。しかし、「いや、私は神にあった事がない。」という人もおられるだろう。そのように思う人々にも、この神様の創造物である自然は、見る事が出来るであろうし、私たちの心の中に、良心という計りが備わっていることを否定することは出来ないであろう。
   神様を認めざるを得ない証拠が山ほどもあるのに、「神を神としてあがめない」ところに、「罪の根」「罪の根本」がある。

   出エジプト記にある「十戒」の第一戒から第四戒は「神様についての戒め」が書いてある。それを集約してみると「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ!」ということになる。
   人間がこの世に生を受け、どんなに高い地位を確立し、豊かになり、名声を誇っても、もし、自分の親を親とも思わぬような人間であったとしたら、どんなに親不孝なことだろう。「神をあがめる生活」というのは、自分の生活の隅々にまで、神を行き渡らせて生きるということである。また、反対に「神を神とも思わない生活」とは、部屋の窓に分厚いカーテンを引き、真っ暗な部屋で生きるような状態である。
   罪がわからず、自分を罪人だとわからないで生きてきた私は、真っ暗な部屋に住み、神様を閉め出して生きてきたと言えるだろう。その様な状態では、歩む人生も真っ暗であり、「真昼でも暗闇が襲う」と聖書は言っている。

   神様を認め、共に歩む人生では、例え道端であっても、畑であっても、何をしていても祝福がある。「主が共におられたので・・・」ヨセフはどんな困難にも前に向かって生きることが出来た。パウロもそうである。
   神様を知らない人は、自分を正しく評価することが出来ない。必要以上に高慢になったり、卑下したりしてしまう。私たちが神のもとに帰る時、自分の人生に価値を見出すことが出来る。

   私は19才の時に、本当の神様に出会い、その圧倒的な「聖さ」を知り、自分がいかに罪深い人間であったかがわかり、神様に「罪」を告白し、許され、永遠の命と共に、神と歩む素晴らしい人生を与えられた。被造物の美しさ、宇宙の果てしない大きさと共に、「自分の存在価値」がわかったのである。
   イエス・キリストは皆さんお一人お一人の「罪」のために、十字架にかかり、命を捨てて下さった。黙示録3:20  「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしのの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言っておられるのである。(仁美記)

2016年05月22日 旧約聖書ヨブ記16:1-22(MP3)「わたしの友は私を嘲ります―さすればこそ」

先週15章から始まった、ヨブと友人たち、そして神との「論争第二ラウンド」は、最年長のエリファズの訓戒を受け、今日のヨブの応答へと続いている。エリファズの訓戒はヨブの心に届いたのであろうか?
 
     16:2  友人エリファズの「慰め・訓戒」に対して、ヨブは真っ向から拒否し反発している。「あなたがたはみな・・・」でわかるように、友人全員に対して拒否し反発しているのである。ヨブのあまりにも悲惨な状況を見て、最初はかける言葉も見出せなかった友人たちが、ヨブが語り始めると、途端に「訓戒」を語り始めた。彼らの言葉は「虚しく・空っぽ」な言葉であった。「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。」とヨブは切り捨てている。

   16:6  友人たちがいくら語っても、ヨブの苦悩をやわらげることは出来ない。なぜならば、友人たちは苦しみの外におり、コメンテーターのように語っているだけであるからだ。しかし、ヨブは空回りと知りながら、語り続ける。ヨブの叫びは、友人たちの頭の上を通り過ぎ、「ある存在」に向かっているのである。
   こんなヨブの姿と重なるのは、預言者エレミヤの姿である。彼も、また、呻き叫んだ。しかし、民は受け入れず、冷たい反応が返ってくるだけであった。

   16:7~14  ヨブは、今一度、神がヨブに対してどれほど攻撃的であるかを述べている。この自分の苦難の背後に「神」がおられる。その神は野獣のように、歯を?み鳴らし、食いつこうとしておられる。神の射手がヨブを取り巻いて、四方から矢を射かけ、彼の胸に突き刺さり、そこから血のみならず胆汁さえも流れ出している。
   ここには、神の「敵」とされたヨブの苦しみの大きさ、深さがにじみ出ている。そして、このヨブの姿は、十字架につけられた「キリスト」の姿と重なるのである。

   16:15~22  ヨブは深刻かつ痛烈な苦悩を、神に訴える。そして、それを「荒布」「顔色」に例えている。しかし、それは「動作」や「表情」にとどまり、心の底からの降伏ではない。むしろ、自分の手の「無罪」と祈りの「純粋さ」を強調している。ヨブは生死をかけて、「神」と対決しようとしているのである。

   どうして、神は、私を不幸のままに置いておかれるのか?ここにも、ヨブの「我が神、我が神!どうして?」(マタイ27:46)の叫びが聞こえてくる。

   16:18  「生命は血のうちにあり、いな血は命である」(レビ17:11)から、「罪なくして流された血はそれが復讐されるまではその叫びをやめない。」とヨブは叫び続ける意思を表明している。「アバ、父よ!」(ローマ8:15の”呼ぶ(クラゼイン)”は、「激しく絶叫し、悲鳴の大声をあげる」の意味にも使用されている。J.D.G.Dunn,”Jesus and theSpirit”)と叫ぶキリストの危機的な状況と類似している。

   16:19  冷酷な神の姿、この世に生きる者たちが直面する「突き放す神」は、ヨブを、また私たちを傷つけ、打ちつける。しかし、三位一体の神はいろんな姿を見せられる神である。その同じ御手で「包んで下さる神」でもあられる。
   証人として、保証人として、私たちを徹底的に弁護して下さる方である。ここに、唯一の神の二面の姿がある。

   16:20  友人たちは罵り、嘲り続ける。彼らがそうすればそうするほど、ヨブはさらに、神に顔を向け涙を注いで祈る。神に見捨てられたヨブは、いよいよ、神なくして自分の立場はありえないと、神に詰め寄っていく。ますます、神に近づいて行く。
   人生の「矛盾・不条理」の中で、叫びながら、逆境すらもエネルギーにして、ヨブは神に近づいていくのである。(仁美記)

2016年05月15日 旧約聖書ヨブ記15:1-35(MP3)「あなたの口があなたを罪に定める-エリファズの大いなる盲目」

15章から、ヨブと友人との第二回目の弁論、また対論が始まる。まず、エリファズが登場し、ヨブの不敬虔な態度を非難する。ヨブはかつて多くの人をさとし教えた。しかし、ひとたび災いが彼に臨むと、それに耐ええずおじまどう(4:3-4)。しかし、ヨブはいまだ信仰をまったく捨てていなかった。しかるにエリファズは全く浅薄な誤解をした―ヨブは拠り所とする信仰を捨て、神に対して冒涜的な発言をするに至ったというのである(15:4)。このエリファズに私たち信仰者の陥りやすい誤りを教えられる。
 15:2-6 ヨブの今までの冒涜的とさえ思われる発言は、彼がいかに信仰を重視していたか、神の前に彼の黒白を明らかにせずして彼の救いはあり得ないこととを深く確信していたからである。
 15:7-10 エリファズは、ヨブが不敬虔、冒涜的なことをあえて語りうるほど知恵ある者かと問う。神話的存在で、神の会議に参加し、特別な知恵を持つ者なのかと問う。
 15:11-13 ヨブに慰めの言葉、穏やかな言葉を送っても、彼は友人や神に対して目をむくような不遜不満な表情を示す。神に逆らい、怒りをぶちまけ、不敬虔な言葉を放つ。
 15:14-16 人間の根本的不義性、罪性はヨブも知るところである。それなればこそ、ヨブはいま彼がおちいっている苦難と苦悩の深淵の”ただ中”より脱出することを切望し叫んでいる。彼を殺すも生かすも神以外にはない。このヨブの状況と立場を、エリファズたち友人は理解できない。彼らが苦難と苦悩の深淵の”観察者”にすぎないからである。
 15:17-19 エリファズは相も変わらず、彼自身の見たこと(4:15-16)、先祖から伝えられたことを裏付けとしてヨブを説得しようとする。
 15:20-24 エリファズは、因果応報の賞罰の教義を掲げ、悪人は、不安、欠乏、危険にさらされ、悲しき運命を担わねばならぬという。
 15:25-28 悪人が、不安と恐怖の中に置かれるのは、神に対して傲慢であり、あらがうからである。その結果は、生活の荒廃であり、住家としての野獣の徘徊する廃墟である。
 15:29-34 悪人は、樹木に譬えられ、芽は枯れ、花は散り、実は熟さない。それは神に逆らって立つ者の受ける裁きであるとエリファズは言う。
 15:35 エリファズには、ヨブは以上で語る「悪人」に見えた。その最大のの罪は、神に対する傲慢と頑固(25)である。神に対する攻撃(26)である。そこから、さまざまな災いが起こりくるのであり、そのような不遜な態度を捨てて根本的に悔い改めない限り、ヨブは滅びを招くことになろうと断言する。しかし、最初にも述べたように、これは大きな、大きすぎる誤解であることが後に分かる。エリファズの盲目はヨブとの間隙をますます大きなものとし、ヨブを慰めるどころか「試みる者」とし、ヨブと「対抗する者」となってしまうのである。(務記)

2016年05月08日 旧約聖書ヨブ記14:1-22(MP3)「神に対する対論-法廷での第1ラウンド終了」

   3~14章で、ヨブと友人たちによる、「神に対する対論-法廷での第1ラウンド」は終わる。
ヨブ記のテーマは「苦難の只中にある信仰」である。キリストもまた、「あなたがたには、この世にあっては苦難がある。しかし、勇敢でありなさい」と言われている。
   「信仰とは何なのか?」ヨブ記は私たちにそれを問い直す。神とヨブの、真剣な法廷でのやり取りが、私たちにそれを教えてくれる。

   広島県尾道市の「文学の道」に作家  林芙美子の句碑が建っている。「花の命は短くて  苦しき事のみ多かりき」日本には昔から、人生の苦しみ、悲しみ、虚しさを読んだ詩や俳句が多い。そこには、無神論的な「虚しさ、悲しさ」が漂っている。
   ヨブ記にも、「虚しさ、悲しさ」はあるが、「神の前にある-虚しさ、悲しさ」なのである。「弱いけれども強い!」この信仰者としての「逞しさ、強さ、不屈の精神」は、大いに学ぶべきものである。

   14:1~6  人間はすべて女より生まれる者であって、その生命ははかないのみならず、汚れており罪深い、とある。ここには、旧約の時代性があり、中東の文化性があるので、差別的な表現である。しかし、焦点は「生命のはかなさ」「人間の罪の性質」に当たっている。
   たいした者でない事がわかっていながら、どうして神はこの様な人間を裁かれるのだろうか?ここで、ヨブは苦難を神の審判の結果として捉えている。(因果応報)
   しかし、ハバククはこう言っている。「正しく生きようとする者が追い詰められ、悪人が栄えている。」と・・・神は公義であられる方なのに、どうしてなのだろうか?

   ローマ書には、「義人は信仰によって生きる。」とある。私たちがクリスチャンとして生きる時、苦境、矛盾、苦難が襲ってくる。信仰者だからと言って避けようがない。しかし、その只中で、神の真実が現れるのを経験する。
   ヨブが考えていたこと、苦難は神の審判というのは間違っている。また逆に、祝福イコール神の恵みでもない。

   14:7~17  ここでは、人間の生死を植物の生死と比べている。植物は花を咲かせ種を実らせ、地に落ちるが、また、再び同じ花を咲かせる。植物に認められた「復活」が、人間には認められていないという、ヨブの嘆きである。しかし、新約時代の私たちには、「キリストの復活」があり、「蘇りの光」を私たちは十字架に見ることが出来る。
   この時のヨブは、あまりにも苦難が大きすぎて、取り去られることをひたすら願っている。今の、日本の状況と重なるところがある。「阪神淡路大震災」「東日本大震災」「熊本大震災」これらの未曾有の災害が起こった時、日本中から同情、励ましの言葉が寄せられた。しかし、日にちが経ってしまうと、まわりの人々は忘れ去り何も無かったかのようになる。この事が、さらに苦境にある人々を苦しめるのである。まわりの人々が忘れ去っても、被災者たちは、苦難の只中に生き続けなければならないからである。
   そして、「私たちはまだ苦しみの中にあるのだ。」と言えば、今度は慰めるどころか責められることになる。「いつまで、甘えているのだ」と・・・

   ヨブと友人たちの戦いは続き、ヨブには絶望感が漂う。神の怒りから逃れようとするヨブの願望は、ただ願望であって現実ではない。いつ終わるともわからぬ、増し加わる苦しみ、ますます神の追求は続いていく。もはや、ヨブは被害妄想のような状態である。しかし、ヨブ記の終わりに、自分の思いが間違っていたことに気づくことになる。苦しみつつ、ヨブはへこたれることなく、神に詰め寄っていく。

   14:18~22  自然も人間も、しょせん神に対抗する事など出来ないのである。絶望的な詠嘆をもって、ヨブと3人の友人たちとの激しい対論の第1ラウンドは終わり、次の15章から、その第2ラウンドが始まる。
   それにしても、自然災害はすべて神のなさる業なのだろうか?また、良いことはすべて神からの贈り物なのだろうか?私はそうとは言えないと思う。しかし、私たちは「主の祈り」を唱える時、私たちの無病息災、生活の安寧を祈る。そして、それが聞かれないと、神からの罰だと受け止める事がある。そこに、私たち自身の不注意、他人の悪意は存在しないのだろうか?

   そもそも、人間が生きるとはヨブのような苦難の連続である。その現実をしっかりと受け止め、問いかけ、答えを見いだす。それは、ある時は自問自答かもしれない。しかし、私たちの内には「御霊」がおられるので、神との対話の中で、時には、ヨブのように神の法廷で、神を問いただす、そんな「霊的胆力、筋力」を養われたいと願う。人生にはいろんな側面がある。どんな時にも、逞しく主と共に歩ませていただきたいと思う。(仁美記)

2016年05月01日 旧約聖書ヨブ記13:1-28(MP3)「神が私を殺しても―死を賭したヨブの神への肉薄」

   先々週と先週は、高槻の教会での奉仕のため、エペソ書からメッセージさせて頂いた。しかし、今日は、以前から取り組んでいるヨブ記に、また、戻りたいと思う。これからも、この様なことがあるが、お許しいただきたい。
   それにしても、エペソ書とヨブ記は全く違った印象の書である。エペソ書には、全ての天的祝福が書かれており、ヨブ記には、全ての苦悩が凝縮された様な書である。今の季節に、私たちが感じている、暖かい風が吹くかと思うと、冷たい風が吹く様に、2つの書はそんな感じがする。しかし、エペソ書も、パウロは獄中で書いた手紙であったという事を、私たちは忘れてはならない。

   ヨブは、12章において、神は万物を創造し(創造の神)、かつ、それを支配されるお方(摂理の神)である事をのべた。そのことを、獣、空の鳥、草木、海の魚にさえ問うてみよ!と友人たちに言った(12:7~9)
そして、そればかりでなく、人類の歴史に介入し、そしてその混乱破壊もまた、神のなされることである。(12:14~25)とヨブは語った。

   ヨブ記13章は、「ヨブ記の頂点である。」と浅野順一先生はおっしゃっている。その見解は何処から来るのだろう?
   ヨブの友人達の世界の見方は、「この世の中は、神の祝福に満ちている。」という、単純なものである。しかし、ヨブにとって「この世の中は、混乱と破壊に満ちている。」と言わざるを得ない。信仰とは、そんな薄っぺらなものでは無い、凄まじいものだ。しかし、その中にも「神」を見る。それが、信仰である。ヨブはとうてい、友人達の考えを受け入れられない。「沈黙しろ!お前達は能無しの医者だ!」「私は、全能者と語りたいのだ!」

   13:1~6  友人達は、自分たちを知恵ある者のように語るが、「薄っぺらで、資格が無い」とヨブは叱責する。友人達との話し合いは何処までいっても平行線で、水掛け論に終わってしまった。ヨブは友人達に、沈黙して、もっとヨブの話を聞いて欲しかった。しかし、何処までいっても越えられない「壁」を発見した。だから、究極的に、ヨブは神様を相手にせざるを得なくなったのである。
   信仰とは、暗闇の中でも輝く力を持っている「マグマ」のようなものである。

   13:7~12  ヨブから見て、友人達の誤りは何処にあるのだろうか?彼らは「立場」を誤っている。彼らは「神の弁護者の立場」を取ろうとしているが、ヨブから見れば、そんな事は「全く不可解」「笑止千万」なことである。全き方であられる「神」を弁護する必要など微塵も無い。
   ここに、私たち信仰者が陥りやすい「善意の中の偽善」がある。そんな薄っぺらな神学や美しい衣のような言葉は、危機的状況にある人には何の助けにもならないのである。
   神様は欺かれない。人の本性を十分知っておられるのである。神様はまた、真実であるから、友人達は神を防護しようとしているのだが、友人達の神学は「灰」のごとく、その盾は「泥」のようになんの役にも立たない。

   13:13~16  旧約聖書において、「神の前に出る」という事は、モーセやイザヤのように「死」を意味した。しかし、ここでヨブは決心する、「神の前に出よう!」と・・・神に対決するしか方法がなかった。自分の命さえかけて、神の前に出ようとしたのである。
   「信仰とは根本的にいかなるものなのか?」をヨブは明らかにしようとした。それは、「神の前に真実を語り、神の知識を求め、神の真実を聞かんとする」神を敬う1人の信仰者の姿であった。

   13:17~23  ヨブが受けた神からの断罪は、とうてい承服できるものではなかった。しかし、もし、何か罪があるなら、神に直接示してもらいたかった。それは「若い頃の罪」だったのか?自分には覚えが無い。
   友人達にも問うてみる、「私の言い分をよく聞け。」と・・・それは、自分が何処までも義であると主張するためである。「誰が私の義を覆せるのか?」もし、あるのなら、「私は黙って息絶えよう。」
   ヨブは再び、神に向かい、2つのことを願う。
1,  「あなたの手をわたしの上から遠ざけてください」
2,  「あなたの恐ろしさで、わたしをおびえさせないでください」
   もし、それが叶えられるのなら、彼は神から隠れることなく、正面切って神と彼が直接問答の関係に立ち、自分の主張する言い分とその論拠を神に聞いてもらいたいと願う。そのため、彼は神の法廷への喚問を要求している。
 
   13:24~28  ヨブの「意識せざる罪は罪なのか?」という事と、あまりにも大きな彼の苦境とのギャップを神に問いただしたかったが、神は許されなかった。のみならず、神はそのみ顔を隠すのである。そればかりか、神はヨブをその敵として追求し、重病人で余命いくばくも無い彼を、「木の葉のごとく」「藁くず」のごとく、なおも彼を脅かし、追いかけられる。そのうえ、さらに、若い時の咎を記録し、彼を囚人のように捕らえ自由を奪おうとされる。
   それゆえ、彼は生きる意味を失い、朽ち果てるしかないと嘆く。

   13:25~28  神がヨブに対して「御顔を隠す」という言葉は、旧約聖書において神は根本的に「隠れた神」であり、このことはヨブ記において重大な意味をもつ。
   その隠れた神は最後に「現れた神」として、あらしの中から彼に悔い改めを強く迫るのである。(仁美記)