"Old"ナルドの香油


201509-12_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ


記録: 安黒仁美

※5/1より、多くの機器にて視聴できるよう、ファイル形式をmp3に変更しています。wma形式での視聴は「ICI礼拝メッセージ」サイトへ。


2015年12月13日  旧約聖書 雅歌8:5bc (MP3)(WMA)「リンゴの木の下、そこは産みの苦しみをした所―「豊穣の金の子牛」の周りで踊り狂ってはならない」

  今週はアドベント第3週である。恋人を待ち焦がれる乙女のように、主の御降誕を待ち望みたいと思う。

   今日の箇所も、恋歌の断片の一つ、籠の中に入れられた落穂の一本のような箇所である。
乙女が、「たわわに実を付けたりんごの木の下で、若者を眠りから覚めさせた」、いわゆる、白雪姫の逆バージョンである。
   しかし、次に続くのは、若者の母もここで彼を産んだ。ということば、これでは、ストーリーが続かない。なぜ、彼の母はりんごの木の下で彼を産んだのか?そしてまた、なぜ、同じ木の下で彼を起こすのか?私たちはこの短い物語を解く鍵を持っていない。

   短い文章で解らない箇所は、雅歌の他の箇所を見れば、ヒントが隠されている。
   3:4   「彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました」、ここに「母の家」また、「私をみごもった人」という言葉がある。
   6:9    「汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた」、ここにも「その母のひとり子、彼女を産んだ者」という言葉がある。
   このように、乙女の若者に対する愛は、母であることや出産と関連づけられている。

   どんな時代、どんな場所においても、抒情詩人は意識の下にあるイメージと連想のプールから、思想をひきだしてくる。直感的に浮かぶ物、連想される物を心のプールから汲み出すのである。抒情詩人と言えば日本人では、高村光太郎、北原白秋、石川啄木等が挙げられる。ちなみに、私は石川啄木が好きである。
   雅歌の作者は異性への愛情が、出産や母性と結びつけられており、乙女が若者を起こすことと、初めて産声を上げてこの世の中に出てくる出産を結びつけている。そしてまた、意識的であれ無意識であれ、出産とりんごの木との間には、「豊穣」という点で繋がりを持っている。

   私たちクリスチャンは、神の前に心からの真実な愛をもって、心の中の熱い思い、男女の愛、性について考える。その延長が妊娠であり、愛の実としての子供たちという「豊穣」に感謝する。新しい命がこの世に現れるということは、私たちにとって創造の業に近づく行為である。しかし、神を知らない人々にとっては、驚きであり不可解な現象である。
   性という領域が神秘的で不可解なものであるので、太陽神と母なる大地との原始的な性交の物語として語られることが多い。例えば、豊穣神の信仰では、女性神アシュタルテの息子が男性神バアルであり、雨と恵みを司っている。また、日本でいわれる、イザナギ   イザナミの神も豊穣の神であるとともに、日本国の島々を産んだ神として祀られている。

   創世記15章に書かれているアブラハムの信仰は、死んだような身体が葬られて復活する、イサクは蘇りの復活信仰を表している。りんごの実は無数の星であり、浜辺の砂である。その本質はキリストの贖罪と蘇りの命である。
   雅歌を神学的に用いるためには、豊穣を願う異教ときちんとした境界を敷かなければならない。そうでなければ、富と健康、繁栄の神学に陥ってしまう。キリスト教の用語は用いるが、キリスト教の衣を着た「異教的な豊穣信仰」に他ならないからである。

   ニューエイジ運動とは、既存に対する批判、解放をうたっている。禅やヨガの要素も多く含み、第三世界のリバイバルによく見られる。異教的な宗教性を持ちながら、キリスト教の衣を着た、似ていて非なるものである。
   19,20世紀にいつも問われてきた、1,  キリスト教以外に道はないのか?(排他主義)  2,  ガンジーのように非暴力で世界平和を願う人も「隠された匿名のクリスチャン」という考えも良いのではないか?(包摂主義)  3,  あらゆる宗教に救いがあるのではないのか?「分け登るふもとの道は多けれど、皆同じ頂きの月を見るかな」(多元主義)という考え方がある。しかし、聖書の中のイエス  キリストによる以外救いはないのである(使徒4:12)。

   また、創造論と共に探究されているのが、聖霊論である。
つまり、聖霊は他の宗教においても働かれているのだろうか?という考えである。
   アジア系アメリカ人のアモス・ヨングは宗教における聖霊の働きは、宗教的他者性にに現れていると言い、聖霊の普遍的臨在をもって始められると信じている。
   神様は「私の霊を全ての人に注ぐ」(使徒2:17)と言われており、それは一方で聖霊の遍在性を表している。創世記のバベルの塔では言語の分化・分裂の審判があったのに対し、ペンテコステでは、あらゆる言語で福音が聞かれ、言語が、そしてその表現としての文化が、そしてその本質としての宗教が克服され、贖われていると理解している。
   しかし、エリクソンは「そこには、大きなギャップがあり、解釈の飛躍があり、注意が必要である」と言っている。聖霊論をいつの間にか糸の切れた凧のようにしてしまっているのではないか?と言うのである。
   実際、韓国でのリバイバルの中にも、韓国土着の宗教にキリスト教の用語の衣を着せただけの信徒も多いといわれる。そして、今のレストレーション運動、預言運動、これらも純粋な真水である信仰に、塩水が混濁する運動の経緯、また教えがあると分析・評価されている。三位一体否定の教えや、富と健康の神学、繁栄の神学等はその最たるものである。かたちを変え、品を変え再生産が続けられている。わたしたちは、その表面的な現象に目を奪われるのみならず、なぜそのような「再生産」が続くのか、その病巣の根源を見極めることが大切である。
   新約の使徒たちは、「地上の欲望からの豊穣」ではなく、「天上から与えられる豊穣」を求めるよう勧めている。預言とはもっと聖書に基づき、本質的な内容を含んでいるものである。そして、木がどのような木であるかは、結ばれる実によってわかるのである。
   りんごの木と豊な実のように、若者と乙女が愛し合いその実としての子供たちが生まれる。旧約聖書には、その啓示の漸進性、有機性、多様性から、この世の「異教的豊穣信仰」と見まごうばかりの記述も散乱している。しかし、この豊穣を「異教的宗教性」の中で考えてはならない。つまり、パウロがなしたように「アブラハムの信仰、パウロの解釈、十字架のキリスト、聖霊の内住」から”再解釈”されなければならないのである。
   私たちはカルバリの十字架の木の下で、命を与えられた存在である。そこでキリストは私たちの罪のため生みの苦しみをして下さった。そして、今も天上で私たちのためにとりなしの祈りをして下さっている。私たちが御霊によって御子に似たものとなるために、今なお、生みの苦しみをして下さっているのである。私たちは「金の子牛」の周りで踊り狂ってはならない(出エジプト32章)、そのことを教えられるのである。(仁美記)

2015年12月06日  旧約聖書 雅歌8:5a (MP3)(WMA)「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれ―”今日の預言運動”検証のリトマス紙」

今日はアドベント第二週である。このような時に、恋人を待ちわびる乙女の心情を学ぶことが、ふさわしいのかどうか、迷うところでもあるが、クリスマスという処女降誕の日を待ち焦がれる我々にとって、雅歌を学ぶことは決して間違ったことではないと思われるのである。
   そして、かえって新鮮な視点を我々に与えてくれると感じている。

   先週も語った様に、雅歌は一章から七章で愛し合う二人の交わりの頂点を迎え、ある意味終わっている。八章は音楽で言えば後奏にあたり、田畑で言えば落穂拾いの段階である。ロバート・W.ジェンソンは有名な神学者であり、注解者であるが、「雅歌の作者は一章から七章を書き終えて、その後、浮かんだ諸々の断片が捨てがたく、八章の中に落穂の様に詩の断片を拾い集めたのであろう。」と言っている。
   解釈者の多くが、詩の断片を無理やり繋げる人が多いところ、ロバート・W.ジェンソンはバラバラのまま一節一節を丁寧に解釈して、そのエッセンスを文脈の中で解釈していくという方法を用いているのが素晴らしい。そして、聖書をいかに解釈し、メッセージを取り出し、生活に適用するのかを教えてくれている。

   8:5    この節は前後の四節、また六節と関係なく置かれている。そして、五節も前半と後半に分かれている。この事は、雅歌の豊かさの表れであるが、こんな調子では今年中に学び終える事は出来そうにもない。
   この節と同じ様な表現は3:6  「煙の柱のように荒野から上って来る人はだれ。」と6:10  「旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」に見られ、ここで3回目となる。
   
   「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」突然舞台に登場したこの乙女は誰なのか?しかも、この乙女は恋人の腕に寄りかかっている。字義通りに考えれば、なぜ荒野にいるのか?なぜ寄りかかっているのか?どこに行こうとしているのか?気になるところであるが、神学的な意味を聖書全体から探り、3:6-11,6:10の神秘的な雰囲気から考えると、乙女=イスラエルという事になる。
   では荒野とは何なのか?エジプトを出てからカナンの地に入るまで、40年間放浪し続けた荒野の地である。この事がこの節のポイントでありエッセンスである。

   イスラエルが荒野に現れた時、その方に寄りかかり、生き延びて、約束の地に入った。彼らが荒野で生き延びられたのは、「ただ主とつながって主なる神に頼っていた」からである。
   マルチン ・ ルターは「何であれ、あなたの心をそこに掛けるものが、あなたの神である」と言っている。  私たちが自分の心を掛ける枝、その枝は信頼に耐えうるのか?重みに耐えられるのか?折れてしまわないのか?
   イスラエルの歴史において、主なる神は本当にイスラエルに何をしてくださったのか?その事を考えると、主なる神の腕に頼ることで、確かに荒野の旅を乗り切ったという事実を見るのである。

   私は先週、九州行きの新幹線に乗って、窓の外に流れる美しい景色を見た。しかし、時間が長いので、エリクソンの「キリスト教神学の要約本」を取り出し、翻訳作業に没頭した。その中に、「今日における預言運動」があった。
   一つは、今日における神の語りかけを、「聖書においてすでに語られたことをTPOに即して照らし出し、御心を明らかに示す」照明の働き、すなわちイリュミネーションの働きである。そして、もう一つは、ペンテコステ以来神様が注ぎ・内住しておられる御霊によって「直接語りかけてくださる」預言、すなわちプロフェシィの働きである。

   預言運動において、私たちのよりかかる枝とは何なのか?ヨハネ14-16章には、キリストご自身と御業を証しするものであること。また、ローマ6-8章にある様に、キリストの十字架の基盤に基づいていること。である。
   教会でなされる預言は、キリストの人格と品性に基づき、第一テサロニケ五章にある様に、すべてのことを見分けて、本当に良いものを識別し品質管理すべきである。また、そこには今日における預言の終末論的不完全性の指摘がなされている。
   事実、本物なのか偽物なのかを、きちんと管理出来ている教派とそうでない教派が存在する。霊と肉の混ざり合った、歪んだ物を預言だと言っている場合もある。

   私たちは「この愛する人に寄りかかって、荒野を旅し、御国に生還を果さん」とする民であり、乙女である。(仁美記)

2015年11月29日 旧約聖書 雅歌8:1-4 (MP3)(WMA)「私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても―公然たる愛の危機の時代は来るのか?」
【ICI落穂抄−20151129】 旧約聖書 雅歌8:1-4 (MP3)(WMA)「私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても―神への公然たる愛の制限される日は再び来るのだろうか?」

11月16日の、日本福音主義神学会 東部部会での講演に向けて、雅歌の説教を中断していたが、残りの8章をこのアドベントの時期に4回に分けて学びたいと思う。

7章で頂点に達した雅歌は、この8章で終演部を迎える。ロバート・ W .ジェンソンによれば、8章の難しさは統一的に見る事が出来ず、「ばらばらの断片」が集められているかの様に見える所にあると言っている。

私は多くの教会でなされている霊的解釈の前に、この雅歌の学びをまず「字義的に、中東の恋愛詩として見る」事の大切さを感じ行ってきた。そこには、何故神様が「雅歌」という書物を聖書の中に入れられたのかを知りたかったからである。そして、その後に私たちが今の生活に適応するため、「霊的解釈」を学びたいと思う。

8:1 この聖句は今日の箇所の鍵となる聖句である。
乙女と若者の親しい交わりが、公に認められない。二人の間柄を秘密にしなければいけない。乙女は公然と付き合いたいのだ、若者を母の家に連れてきて深い交わりをしたいのだ。

8:2 庭やざくろは「花嫁自身」を表し、ぶどう酒は「愛の交わり」を意味する。

8:3 メソポタミアの恋愛詩では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり」の後の「右の手が私を抱いてくださるとよいのに」の箇所に、「右の手が花嫁の秘められた場所を愛撫する」言葉が続いている。しかし、聖書はそこまでは書かず、控えめに伏せられた表現にとどまっている。

8:4 二人が親しい交わりをした後「抱擁をそうしなければならない時が来るまで終わらせたくない」、そのままにし無理に解き放つ様なことはしないで欲しい。愛し合う二人をそっとしておいて欲しいと願っている。

8:1 さて、今日の箇所をイスラエルと神様、教会またはクリスチャンとキリストとの関係に置き換えて考えてみると、中東ならびに東欧・ギリシャ世界において、ある時代には、公にその愛を宣言出来ない時代があった。中東では多神教が信じられ、公然と唯一神の信仰を表明すると、残虐な扱いを受けた。例えば、カナンに侵入したイスラエルがそうであったようにである。イスラエルの王たちはたびたび妥協しようとしたが、その度、預言者が立ち上がり「神に立ち返る」よう促した。
現在でも、 イラク北部に住むヤジディ教徒や、北アフリカのクリスチャンたちが似たような苦しみの中にある。

世俗との妥協は土着宗教との混ざり合いを生み、これをシンクレティズムという。しかし、我々クリスチャンは公然と純粋な、神様への愛、情熱を持っている。
妥協すれば大きな虐殺は起こらなかったのかも知れない。どうして大きな犠牲をはらってまで、信仰の純粋さを保たなければならないのか?また、男女の愛も、だらしなく放埓にしていても良いではないか?どうして貞節を守らなければならないのか?
それは、信仰における妥協は永遠の破滅、男女の関係における放埓は共同体の破滅に繋がるからである。

アラム語による注解書「タルグム」では8:2を「信仰を隠す必要のない世界が来ますように!」と注解している。「その時には、天地が造られた時から取って置いた、ワインやざくろのジュースでお祝いしましよう」と書いている。いつの時代においても信仰者の切実な願いはそこにある。男女の愛の本質もまたそこにある。

現在では男女の「寝室での深い関係」は、「プライベートな領域」であって、他人が関与するものではなく、隠そうと思えば隠せるものである。しかし、雅歌では「隠す必然性」が、乙女と若者には「重荷であり障害」となっている。「人が愛し合う」こと、「人がどなたかを信じる」こと、これは「単に私的なこと」という意味をはるかに超えている。

「性の解放」は自由の象徴だと言われるかも知れないが、「社会の混乱と崩壊」をもたらすこともある。また、反対に社会勢力が国民を「圧力や暴力によって従わせよう」とすれば、「自由、民主的な信仰、賛美、祈り」を妨げることとなる。

日本の歴史を見ても、戦国時代から江戸時代にかけての「キリシタン迫害」、また、明治以降の「国家神道の台頭」が、その事を物語っている。

いつの時代においても困難な状況の到来は、難題の解決と克服のために、時の権力が暴力的になることが容認され歓迎される傾向をもつ。今、寒気団の到来に頬を突き刺す冷気に、そのような風向きを感じている。
我々クリスチャンは、8:1にあるように、いつでもどこでも心の底から、公に「主は我らの神である」と宣言したいと願っている。「自由な国家、自由な教会」への心の臓のはち切れんばかりの願望である。

「私は外であなたに出会い、あなたに口づけしたい!」―憲法改悪をもって、神への公然たる愛の制限される日が再び我が国に来るのだろうか?(仁美記)

2015年11月22日 新約聖書 ローマ1:1-17 (MP3)(WMA)「義認と審判―Review」

2015年11月15日 新約聖書 ローマ8:4(MP3)(WMA)「義認と審判―講演前味?『御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる』ことの意味」(説教バージョン)

   4ヶ月前にご依頼頂いた、日本福音主義神学会  東部部会の秋季研究会での発表が、明日になった。
   私の発表議題は「義認と審判」である。

   私たちの神様は聖く正しいお方である。そして、私たちは死後、全ての人が神の法廷の裁きの座に着かなければならない。
   律法の中に、神様の聖い御心が表されている。しかし、この律法によっては、誰も義と認められない。さらに、キリストはこの神様の律法である「十戒」を、解りやすく教えられた。すると、「殺してはならない。」という事は、「人を憎しみの目で見てもならない。憎しみは殺人の種である。」と教えられた。また、「姦淫してはならない」という事は、「情欲をもって人を見ることは姦淫と同じである。」と教えられた。

   神様の聖さはとてつもなく聖い。この基準では誰も義と認められることは出来ない。しかし、そんな私たちのために、キリストは十字架に架かって身代わりの刑罰を受けて下さった。このキリストを信じるなら、その信じる信仰を義と認め、救ってくださるのである。

   では、私たちはどこまでも罪を犯して良いのだろうか?「絶対にそんなことはありません。」とパウロは言っている。キリストを信じて生きるということは、律法を成就しようとする生き方に変わるのだという事である。どこまでも赦される無限の赦しと共に、キリストを信じる者には、死と葬りの力が働くというのである。

  8:4    「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」私たちの努力によって、律法の要求を全うすることは、誰にも出来ない。(ロマ7)
しかし、汚れた心の只中に、イエス・キリストの御霊が生きて下さっている。
   ガラテヤ5:14に「律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」とある。愛が律法を全うする、他の人を愛することが律法を全うするというのである。

   クリスチャンは律法を全う出来るのか?ローマ7章に言われている様に、罪の性質をまとっており、生きている限り成就し得ないのではないか?神様の期待に応えきれないのではないか?では、神の期待とは何か?ある人は、聖書はそんなに高い要求をしていないのではないか?と言う。パウロは「むさぼってはならない。」と言われると、ますますむさぼりを引き起こす自分を発見している。
   しかし、神の御心は律法を100%成就することを求めておられる。また、神の御心は高いところにある。

   ローマ8~13章には、クリスチャンの不完全性にも言及している。ただ、隣人愛に生きよう!争いと妬みの生活を避けよう!と、神の御心に従う程度によって、律法を全う出来るのである。私たちはキリストと共に、死に、葬られ、復活させられた。愛すること、従うことは人によって程度はさまざまである。現在は中途半端な従順かも知れないが、それらすべてが「終末論の光の中で、復活の時点で完成される」方向において希望をいだいている。

   クリスチャンが最後の審判を受ける時、生きている間の行為が重要だと考える人がいる。しかし、私たちクリスチャンは十字架の御わざという土台の上に立ち、与えられた御霊によって御霊の実を結ぶ。Iコリ3:12-13にある様に、キリストの贖罪の基盤があってこその焼き尽くせない物、これは、御霊の実である。(仁美記)
2015年11月08日 新約聖書 ローマ2:13 (MP3)(WMA)「義認と審判―講演前味@『神の前に、律法を行う者が正しいと認められる』ことの意味」(説教バージョン)

最近ずっと、雅歌のメッセージを続けてきたが、来週16日の福音主義神学会 東部部会主催の神学講演会に向けて、今週、来週と「義認と審判―講演前味@『神の前に、律法を行う者が正しいと認められる』ことの意味」(説教バージョン)と題してメッセージをさせていただきたいと思う。講演準備の恵みを分かち合うとともに、当日の講演を祈りのうちに覚えていただくためであ。

   4ヶ月前、7月の中旬に、東部部会理事長の大坂先生から講演の依頼をいただき、11月16日東京のお茶の水クリスチャンセンターにおいて、講演させていただく運びとなった。
   テーマを絞るのに1ヶ月、サブテーマを絞るのにもう1ヶ月、そして、準備をしているうちに、アッと言う間に後一週間となった。

   テーマは「義認と審判」 このテーマがもつメッセージを聖書のみ言葉から立証する、これが今回の私の目標である。
   2:13    「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」  このみ言葉を軸として、話したいと思う。
   2:5    聖書には、「神の正しいさばきの現れる日」が来ると言う。また、2:16に「神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とある。

   ヘブル人への手紙に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とある様に、私たちは、死後に審判されるのである。神は正しい裁判官であられ、神の法のもとに、目に見えることも心の中の目には見えないことも、さばきを受けるのである。
   では、すべての人をさばく基準とは何か?それは、神の律法である。そこには、えこひいきは無く、すべての人は平等に裁かれる。

   神は聖い方であり、宇宙全部と神の像に人間を造られた。しかし、最初の人間によって罪が入り、人間は罪を犯す者となった。
   そこで、神はイスラエルに「十戒」を与え、「唯一の神を愛せよ!」そして、「隣人を、自分と同じ様に愛せよ!」と言う律法をお与えになった。この他、十戒に加えて民法、刑法、儀式法などが整えられていく。

   神の律法を、神のみ心をどの様に実践していったら良いのか、その深みについて、キリストは「山上の垂訓」において、十戒をわかりやすく解説しておられる。私たちはキリストを通して、旧約の律法の深さを知り、自分の罪深さを知る。「すべての人は罪人であり、正しい者は一人もいない」3:9,10という事を知る。
   だが、3:21にあるように、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」とある様に、イエス・キリストを信じる信仰による義が示されている。

   有罪性が認められる以上、正しい法の執行が行なわれるべきである。そして、正しい裁判官であられる神は、本来なら、人間に対して「有罪」と宣告せざるを得ない。しかし、3:24  「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに(律法とは別に)義と認められるのです。」とある。
   つまり、私たちが死後に神の大法廷に立っても、弁護士として弁護して下さるイエス・キリストがおられるのである。
   そして、私たちがこの事を信じる、この「信心(行為)」が素晴らしいのではない、それは私たちが依り頼む手段にすぎない。大切なことは、「赦しの根拠がキリストにある」ので有効とみなされるのである。

   では、3:31  「私たちは信仰によって律法を無効にする事になるのでしょうか。」という問いに対して、パウロは「絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と答えている。
   私たちが信じているのは、「キリストの贖いの犠牲」を信じているのであって、その結果、聖霊が私たちの内におられ、「神の法的な聖い支配によって生かされている」という事である。これが、ローマ1-3章のストーリーである。4-8章は次週、「律法確立の根拠」について分かち合いたい。また、奉仕の最後の準備ために祈っていただきたい。(仁美記)

2015年11月01日 旧約聖書 雅歌7:10-13 (MP3)(WMA)「わたしの愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです―契約、独占、相互所有の神」

 この世では、男女の「性的な愛」は汚らわしい物、恥ずかしいものと捉えられている面がある。そして、教会でさえも、口にしてはならない物、伏せておかねばならない領域と受けとめられることもある。はたして、そうなのであろうか?
   雅歌を見ると、創世記において神様は男と女を造られ、「産めよ。増えよ。地を満たせ。」と男女の性的交わりは聖いもの、祝福された賜物であると書かれている。エデンの園において、神の栄光、聖霊の光の中で、性の交わりは開けっぴろげに描写されている。

   7:10,11    ここは、6:3の繰り返しの様に見えるが、2行目が違っている。また、2:10-14で、花婿から花嫁に「さあ、立って、出ておいで。」と言っていたのとは反対に、今度は花嫁から花婿への呼びかけの言葉となっている。「さあ、野原の他の人の目の無い所で、二人で楽しみましょう」と・・・。 花婿の熱烈に恋慕う思いに、花嫁は応えたいと思っているのである。

   7:12    「朝早くから」というのは、待ち切れない思いがそこにみえる。ぶどうの木やざくろの花は「性的な、女性の身体的な魅力」をする時に用いられる。花嫁の愛は園でささげられる。

   7:13    「恋なすび」とは、マンドレークのことである。ナス科に属するもので、その科の中にジャガイモも属している。その果実はリンゴの様な形をした小果実であり、酔い心地になる物質を含んでいる。そして、この実の匂いはとりわけ神秘的な、愛促進的な刺激力がある。
  「古いのも」、「新しいのも」と、 花嫁には前から知られている魅力だけではなく、まだ、知られていない魅力があり、それは、花婿のためにだけ取っておいた物である。彼女は貞節を守っていたのであり、そのすべてを差し出し、二人は最も深い体験の中に導かれていく。

   雅歌の解釈をする専門家の中には、雅歌は「ふたりの交わり」の頂点として、この7章で終わっても良いのではないか、という考え方もある。しかし、頂点の後、8章が綴られ「文学的な終止和音」が響いている。

   神様とイスラエル、神様とクリスチャン及び教会の関係は、男女の性が結婚という形によって、清く美しく保たれる様に、お互いがお互いを「独占的に所有」しようとするものである。その事を詩の形式を用いて表現する雅歌では、率直な思いや自然な歓喜の歌、男性だけではなく、女性の側からも積極的にアプローチするなど、神様が「私たちの独占」を望むだけでなく、私たちも「神様を独占」したい、そういう「神との合一」を熱望するものである。
   
   あくまでも主導権は神様にあるのだが、イスラエルまたは教会及びクリスチャンは、神様の思いに応えようと準備し交わっていく。それは”神律的”、つまり神様のイニシアチブに導かれるのであるが、”両性の合意”というかたちを通してなのである。
   現在の”不完全性”と未来の”パーフェクション”の間で、主との素晴らしい交わりが「エデンの園」の様に育てられ完成されていく。神様が私たちに求める「終末論的な関係」は、雅歌に描かれたごとく「愛の香り」が漂うものである。現在の「男女の不完全な愛」は、キリストの十字架に示された愛によって、お互いが拘束力を持つ中においてのみ保持され育つ愛である。拘束力のない「自由な愛」は持ちこたえることができない。どんな共同体も「性の無秩序」を生き延びることはできない。(仁美記)

「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ 19:6)

2015年10月25日 旧約聖書 雅歌7:6-9 (MP3)(WMA)「ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ―情熱、Passion、受難の神」

7:6 花婿は、過ごしたばかりの初夜を思い出しながら、花嫁を褒めている。 ヘブル語の「慰め」(バッタアヌーギーム、タアヌーグ)には、「繊細で、豪華で、エロチックな楽しみ」という意味がある。
 花婿は、愛の営みの楽しさと喜びを思い出し、快い、上品な表現を用いている。

 7:7 花嫁はなつめやしに例えられ、気品があり、すっとして、恵みと優雅さを兼ね備え、生命力に満ち若々しい。
 乳房には張りがあり美しい。

 7:8 なつめやしを収穫するには、木に登らなければならないが、その実は甘く香り高く、非常に美味しい。そのためにはどんな高い木にも、人間は登るのである。
 この花婿がつかみたい枝とは、花嫁の髪の毛であり、花婿は花嫁を抱きしめる時に彼女の髪を手にし、そこに顔を埋めたいのである。

 花嫁の乳房はぶどうの房の様に、はちきれそうである。

 Marvin H.Pope゚は、雅歌の注解書の中で、息とはウガリット語でアプと言い、乳首または、城門の開口部を指し、乳首あるいは、女性の秘められた場所を表すと考えている。 りんごの香りは、花嫁の使う香料を指すと思われる。

 7:9 あなたのことばは、口づけまたはささやきを意味し、深くしっとりして甘く、良いぶどう酒の様である。
 二人はお互い、愛のぶどう酒に酔い、後味を楽しみながら、もうろうとなって眠り込んでしまう。

 さて、今日の箇所を霊的類比として考えてみると、この7章は最もあからさまに、性的交わりを表現した章である。
 創世記において、男と女が創造され、一心一体となる様、神様は望まれた。ここには神の奥義がある。

 古代、地中海地域では、宗教や哲学というものは、地上から隔絶された、冷たく、さめた、理想の物という認識であった。しかし、聖書の神様は、男女の関係が神様と教会、神様とクリスチャンとの関係だと言ってはばからないお方である。
 我々が信じる神は"パッション"すなわち、"情熱の神"なのである。信頼しうる神、信仰者の情熱を求めてやまない神。
 人間の男が女への愛を求め、感じつつ、なつめやしに登る様に、自らカルバリの十字架に上り、ご自分を犠牲にしてまで、人類を罪と滅びの中から救い出そうとされる、熱い神なのである。

 Tヨハネ4:10に"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。"とある。
 神様の側から、個人的に、思いがけず、我々に傾倒して下さり、黙示録にある様に、"熱いか冷たいかであって欲しい!"と迫って来られる方である。

 神様が三位一体である様に、男の自己決定と女(他者)の自己決定が一つになる様な人間関係は、疑いもなく善いものである。
 愛する者と愛される者が、お互い自立しながら取り込まれていく、また、包み込まれていく。私たちは如何なる者か?を絶えず問いながら、混ざり合っていく。この愛のやり取りを繰り返すことによって、我々は御子の形に似た者とされていくのである。(仁美記

2015年10月18日 旧約聖書 雅歌7:1-5 (MP3)(WMA)「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯―この奥義は偉大です」

 7:1 先週の箇所の最後の部分に出てきた、陣営の舞と言うのは、戦場の舞であり、卑猥な物であった。

 しかし、ここでの舞は、ただ一人、花婿の為に花嫁が踊る舞である。
 高貴な人の娘とは、花嫁が王家の出身と言うわけではない。彼女が優雅で高貴な人格を持っている、という意味である。

 踊りの為のサンダルを履き、薄いベールを纏って舞う花嫁の足、また、ステップが素晴らしい。身体の下から上へとたどっていくと、股または腰は、踊りに合わせてクルクルと回り、巧みな職人によって作られたかの様に美しい。

 7:2 ほぞとは、へそを意味する言葉だが、同じ節に腹が出てくるので、ここでは、女性の秘められた場所を意味すると思われる。ヘブル語でのこの単語は開墾する谷や場所を示す言葉であり、そう解釈するのがふさわしい。
 この当時の葡萄酒は非常に濃く、葡萄酒を水で薄めて飲むのが、常であった。また、香料や蜂蜜をまぜたりもした。男女の交わりの豊さの象徴である。
 腹は小麦の山の様にふっくらしている。ユリの花は、二人の親密さを表している。

 7:3 これは、4:5の初めの二行の繰り返しである。

 7:4 花嫁の首は美しいネックレスで飾られ、滑らかで象牙色をしている。
 目を表すヘシュボンの池は、今のヨルダンで見つかった大きな貯水池のことを指すと思われるが、深い静けさを表している。
 鼻を表すレバノンのやぐらのようだは、固い石灰石で出来た三千メートルの高さの山であるが、神々しいほどの気高さを持った均整のとれた美しさと解釈する。

 7:5 カルメルはヘブル語のカルミルの変形であり、深い赤色を表す。
 その後に髪は紫色ともあり、ふさふさとした花嫁の長い髪が、踊りながら波立ち、キラキラと輝くさまを表現していると考えられる。
 王とは花婿のことを指し、花婿は花嫁にぞっこんである。

 神様は、清い、美しい、御心にかなうものを見つめられる。しかし、実際のイスラエルや教会、また、クリスチャンは裸の状態では醜いところがあり、周りに妥協した姿は、神様に喜ばれる存在ではない。
 しかし、神様が我々を見られる時にはキリストの贖罪の業を通して見て下さるのである。キリストの花嫁として迎えられる、終末時の我々の姿である。

 花婿と花嫁は全てを隠さずさらけ出せる存在である。現実はそうでなくても、神の栄光の中にあるお互いの完全な姿。キリストにあって、弱さ醜さも隠さず、あえて美しいものの様に見つめ合う姿。
 現在と栄光ある未来の狭間で、私たちは生きているのである。

「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。わたしは、キリストと教会とをさして言っているのです(エペソ5:31-32)。(仁美記)

2015年10月11日 旧約聖書 雅歌6:11-13 (MP3)(WMA)「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように-生きるにしても、死ぬにしても」

 古代中東の恋愛歌である「雅歌」は、恋人たちの生における密会や無謀な捜索として繰り広げられ、それは主なる神とその民との合一という出来事の類比として読まれている。「くるみの木の庭へ下って行く」ことは、高い処から細流の岸へ、その水により潤された園がある所に降りていくだけでなく、「彼の元」という園へと降り立つということである。男女それぞれは、「象徴」としての様々な外来種の植物が、この庭園において生育し、花咲き、よい香りを放っている様として、そのお互いの外面的な近づきがたさと同時に内面的な甘美が表現されている。
 「知らないうちに、高貴な人の車に」とは、花嫁の空想的な感触の表現である。エリヤはエリシャの眼前で、「火の」馬たちをつないだ「火の」車で天に昇り、しかも一種不思議きわまる仕方でこの地上から「さらわれた」(U列王記2:11)と語られている。初夜に花婿と一心同体となった彼女は、性を聖として神秘として、そのように「感じた」ということである。
 結婚式を終え、婚礼の招待客は、翌日の披露の宴会で「帰れ、帰れ、シュラム(美しく、汚れのない)の女よ」と、姿を現して祝いの舞に加わるよう呼びかける。しかし花嫁は「どうして私を?」と尋ねて断ろうとする。花婿は「どうして、あなたがたは二つの陣営の舞のように、シュラム(花嫁)の女を見るのです」と問い、花嫁は独占的に「私のもの」であると主張し、陣営の間を行きかって「剣舞」を舞う女のように扱わないでほしいと願う。
十二世紀の修道僧であるオータンのホノリウスは、「私はくるみの木の庭へ下って行きました」を、「神の御姿であられたキリストがご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(ピリピ2:7)と解釈し、「谷間の果実を見るために」この世にやってこられたイエス・キリストの謙卑に類比している。
 花嫁は「剣舞」の舞を踊ることを断った。それは、彼女はもはや、二つの陣営、つまりダブル・クワイアーのもとで招待客に前で「見世物」のように舞う女のようではなく、恋人だけのものであり、花婿だけのものであること、つまり「彼のためだけに踊る存在」とされていること、花婿への貞潔と献身を強く自覚しているからである。
 さあ、ここで花婿と花嫁のあり様がわたしたちに語りかけている声に耳を傾けようではないか―「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:8)。(務記)

2015年10月04日 旧約聖書 雅歌6:4-10 (MP3)(WMA)「旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それは誰か-国際救助隊を戦闘部隊に変身させていくのか?」

 6:4 花婿は花嫁を賞賛している。ティルツァとは、北イスラエル王国の首都である。美しく整えられ、素晴らしい街並みを持っていた。水が豊富で、果樹園や花園が広がっていた。エルサレムは南イスラエル王国の首都である。ダビデ、ソロモンによって統治され、都市としての壮大な美しさを誇っていた。
 
 この節の後半の恐ろしいとは、怖いということではなくて、彼女を見ていると、畏怖の念を抱くという意味である。彼女は美しく、愛らしいだけではなく、堂々としていて威厳があるということである。一人の人間として、芯があり人格的にしっかりしているということである。

 6:5 この箇所は4:1-3に似ている。鳩の様に静かで素直な目をしているが、その瞳には眼力があり、見つめられたら人を貫き通す様な力を持っている。
 髪は、ギルアデの山を下って来る黒山羊の群れの様で、大地が波打つ様な美しい躍動感がある。

 6:6 上下綺麗に生え揃った歯は美しく、健康的でバランスが良く調和している。

 6:7 彼女の頬は、美しさ、強さ、ダイナミックさ、バランスを備えており、かつ、純情さを表している。

 6:8,9 煌びやかな王宮に住んでいる王様には、王妃だけでなく数多くの女性たちが侍り、ハーレム状態である。しかし、ここに描かれた花婿には、花嫁がただ一人の女性である。彼女の母も彼女を愛し大切に育ててきた。どんなに贅沢に暮らしている王宮の女性たちよりも、彼女は幸せで羨ましい存在である。
 
 6:10 雅歌の最初のところで、"黒いけれども美しい。"という言葉がある。
 花婿にとって、花嫁は月の様に、太陽の様に、品があり輝く様な雰囲気を持っている、唯一、無二の存在なのである。

 今日の箇所を、霊的に解釈すれば、旧約においてはイスラエル、また、新約においては教会並びにクリスチャンというものは、神様にとって、美しく愛らしいが、軍勢の様に整えられた共同体としての威厳ある存在である。

 また、旧約においてはイスラエル、また、新約においては教会並びにクリスチャンは唯一、真の神に選ばれた群れである。それ故に、神様の御心を知り、人々に伝えていく召命を頂いている。

 月の様に、太陽の様に、神様とイスラエル、また、神様と教会並びにクリスチャンの関係は、美しく威厳がある。

 今日の日本の状況に当てはめてみると、先日持たれていた、国連総会の中で、安倍首相は「"安全保障法案"も成立したので、これからは以前よりも、さらに世界の平和に貢献出来る国になった。そして、日本は安全保障理事国入りを目指して行く。」とスピーチしていた。

 今までの自衛隊は軍隊というよりも、災害救助隊の意味合いが大きく、愛らしく美しい集団であった。しかし、これからは、同盟国の求めがあった場合、恐ろしい殺人集団として、出ていかなければならなくなる。
 今後は、軍事力によって、世界の悪を叩くことになる。そして、世界中に出て行くアメリカに底なしの助けを要求されることになる。

 しかし、世界はもっと根本的な問題を解決、援助して欲しいと願っている。それは、平和や安全に繋がる助けであり、災害時の救助隊や経済的援助である。
 日本は神様にとってのイスラエルや教会やクリスチャンの様に、明るく、堂々と、日本にしか出来ない、独自で愛される国際貢献の道を探って貰いたいものである。(仁美記)

2015年09月27日 旧約聖書 雅歌6:1-3  (MP3)(WMA)「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの-多神教宗教土壌と倫理観における真実な愛」

 先週の箇所で、結婚した男女は、仕事で帰りの遅くなった夫を、迎えに出るのが遅れ、妻がぐずぐずしている間に、じれた夫が夜の町へと行ってしまった。その後、妻は狂った様に、暗闇の中を探しまわっていた。

 6:1 あなたの愛する方は、いったいどこへ行ってしまわれたのでしょう?一緒に、探しましょう!探して下さい!

 6:2 1節で探しましょう!と言っているのに、妻は夫が何処へ行ったのかを知っているかの様である。いぶかしい箇所である。

 そもそも、エルサレムの乙女たちは、本当に彼女の夫を探そうとしているのだろうか?素晴らしい男性を得た彼女に嫉妬して、はらいせに、理想の恋人を探し出して、彼女に対抗しようとしているのではないだろうか?

 それに対して、彼女には確信がある。私こそ、彼の戻る場所であると・・・
"私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。"あなた方には渡さない!

 2節にある、「庭や花壇」は女性の身体を表し、"下って行く"や"群れを飼う"、"花を集める"とは、男女の性的交わり、愛撫の描写である。

 3節は2:16にもあった様に、男女の関係は二人だけのもの。第三者には入る余地はなく、排他的であり、二人には一体感がある。
 この聖句は、雅歌の中心的聖句であり、人を愛するということは、独占的、排他的、永続的な所有を求めるということである。

 このことは、信仰の本質とも深くかかわっている。神とイスラエル、キリストとクリスチャンはお互いにお互いを必要としている。相手を深く欲して、相手と深く愛し合っている。
 表面的な信条だけではなくて、存在論的に磁石の様に引き付けあっている。

 朝毎に夕毎に、"私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。"という思いが心の底から湧き上がってくる。
 神様はイスラエルやクリスチャンに対して、自分のものとして、縛り付けておられる。そういう点で、排他的な状況であり、他の神々に心を許す余地はない。

 今の日本の状況に、目を向けて見ると、自民党は、教育基本法を変え、秘密保護法の成立、そして、今回の安全保障法案の成立、今度は基本的人権を変えようとしてくると思われる。日本の国、文化、宗教において、今の個人の人権よりも、家の意識、自治体の一体感、国への忠誠心、祖先崇拝、靖国参拝、天皇崇拝などと、次々と打ち出していきたいと考えていると思われる。

 これは、公務員に限られた事ではなく、全ての国民に参加する様、圧力をかけていくだろう。
 まさに、日本国憲法を否定し、戦前への回帰である。アベノミクスなどの小手先の政策に目を奪われない様に注意しなければならない。国民もジャーナリストも、国家権力が暴走しない様に監視し続ける必要がある。

 アラム語で書かれた、旧約翻訳・注解書のタルグームの中に、"どのような中で、私は主の臨在の中から立ち去ったのか? 罪の故である。"という言葉がある。
 「安全だ!最小限だ!」と言いながら、歯止めの無い法律を作った。そして、時の政府の裁量によってドンドンと拡大解釈されてしまう。多くの若者たちが兵士として集められ、彼らも住民も死んでいく。私は政府や軍の暴走を危惧している。

 我々クリスチャンにとって、安倍政権の目指すものは、戦争への回帰だけではなく、思想信条の自由のを奪おうとするなど、許しがたい政策である。
 雅歌にある、純粋で清らかな信仰を、日本古来の異教によって汚され、堕落と放縦と乱交に満ちた多神教への偶像崇拝を強制されかねない政策である。安倍政権はそのような懸念を払拭できない恐ろしさを秘めている。

 真実の愛、真実な信仰を、我々クリスチャンは死ぬまで貫きたいのである。(仁美記)

2015年09月20日 旧約聖書 雅歌5:9-16 (MP3)(WMA)「あの方のすべてがいとしい、これが私の連れ合いです−戦後日本の憲法と国民のアイデンティティ

 前回、「愛する人」を見失った花嫁は、エルサレムの娘たちに「探してほしい」と願う。娘たちは「あなたの愛する方はどんなお方なの?」と問う。

 花嫁は、動物、花、香料、水と流れと池、建築物、金細工、宝石等の色と形に類比し、その「美しさと強さ」を表現する。この描写は、「主なる神とイスラエル」、「キリストと教会・クリスチャン」との類比をもたらし、その信仰の「新たな地平」をみせてくれる。

わたしたちの「メシヤ像、キリスト意識」とはいかなるものであろうか。旧約でのメシヤ描写のひとつは「苦難のしもべ」において「彼にはみとれるような姿もなく、輝きもなく、わたしたちが慕うようなみばえもない」(イザヤ53:2-4)、新約の黙示録でのキリスト描写は「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は…、その声は…、右手に…、口からは…、顔は…」と審判者キリストと法廷に立つ罪人、そして代償的刑罰を受けられた犠牲としてのキリスト像がわたしたちが慣れ親しんでいる「愛する方」の像である。

それは、わたしたちの福音理解の本質としての“法廷論的”な「キリスト像」である。しかし雅歌書は、それとともに、男女の友情、恋愛、結婚という“人間論的”な「キリスト像」を明らかにしている。ここに、わたしは“救済論概念”の深さ、高さ、広さ、長さが教えられているように思う。

 ある女性は、ミケランジェロ作のダビデ像をみて「わたしの愛する方は、この像に似ている」と語ったという。花嫁は「愛する人」を神像のように表現している。神的なまでの姿に、あらゆる面で清らかな姿に。わたしたちは、「愛する人」をそのように愛して良い。わたしたちは、また神を、キリストを「愛する人」を愛するように慕って良い、ということである。

旧約の詩篇にはそのような表現が満ちている。わたしたちは、そのような意識を抱いて、神を、キリストを、慕い求めてよいということである。祈りとは、片時も離れたくない、一緒にいて時を過ごしたい、そのようなものであるべきである。

わたしたちは、いつも罪人として牢獄に、判決と審判を受ける法廷に立つことのみを意識して、神の御前に生きる(これは基本であるのだが)−他方、それは片手落ちになる傾向を帯びるのではないか、人間の全人性の軽視につながるのではないかと思うのである。

「ハネムーンの時のような意識」をもって信仰生活を生きる、この視点を見つめ直し、探求していきたい。(務記)

2015年09月13日 旧約聖書 雅歌5:2-8 (MP3)(WMA)「私が愛に病んでいる、と言ってください−世論と米国の期待値とのはざ間で」

 先週までの箇所で、若者と乙女は結婚した。今週からは、その二人の関係を、成熟した物へと作り上げる段階に入っていく。
 花婿と花嫁、二人の関係は山あり谷ありである。ある時は願望を抱き、ある時は失望する。また、ある時は探求し、ある時は発見する。
 未熟で自己中心的な愛が、二人の努力によって、成熟し克服されていくのである。

 5:2 仕事で遅くなった花婿を待ちながら、うつらうつらと花嫁は眠っていると、戸を叩く花婿の声が聞こえる。現実なのか夢なのか?花婿は開けて貰おうと、執拗に戸を叩く。
 パレスチナの地域は霧がよく発生し、花婿の身体は夜露でびっしょりになっている。

 5:3 同じ屋敷の中に花婿の両親はいるのだろうか?寝間着姿で出るのは、はばかられるが、また服を着るのは面倒くさい。足も綺麗に洗ったのに、戸を開けに行くと、また汚れてしまう。

 5:4 いよいよ、花婿は苛立ち、外から強引に戸を開けようとし始めた。

 5:5 決心して、花嫁は戸を開けに行くと、戸のかんぬきに、身体に塗っていた香料が滴り落ちた。

 5:6 やっと、花嫁が戸を開けると、じらされた花婿は腹を立てて、背を向けて去ってしまった。愛し合って結婚した二人なのに、行き違いが生じてしまう。苛立った花婿がきつい言葉を投げかけたのだろうか?花嫁の心は傷付き、死にそうになった。
 夜の町に去ってしまった花婿を探すため、花嫁は急いでベールだけを羽織り町へと駆け出した。

 5:7 城壁で囲まれた町には、警備の夜回りが行き巡っていた。夜に薄着でいるので、売春婦と間違われ、ひどい仕打ちを受けてしまう。

 5:8 まっとうな女性が、暗闇の町をうろうろするなんて、とんでもないことだ。そんな事は花嫁にもわかっている。しかし、こんなにも花婿を愛しているのに、自分は何という愚かなことをしてしまったんだろう。後悔と切なさと恋しさで、彼女は病気になりそうであった。

 この箇所を、神様とイスラエルの関係に置き換えて考えてみると、神様がいくらドアをノックしても、イスラエルは目覚めずモタモタ、ダラダラしているので、神様は直接介入しようとされることがある。(戸の穴から手を差し入れました。)

 ようやく、イスラエルが目覚めると、神様はもうそこにおられない様だ。
そうなってから、イスラエルはやみくもに神様を探し回るが見つからない。
 信仰はまるで恋愛の様である。信仰者はつい、目に見える物を追い求めてしまうが、本当に大切な物は、目には見えず永遠に価値のある物である。

 さて、今日も今の日本の状況に当てはめてみたい。
 第二次世界大戦後、日本に与えられた憲法は、もう、二度と戦争が出来ない"平和憲法"であった。この憲法のため、他の国は絶えず戦争に関わってきたのに、日本は"平和ボケ"の状態であった。

 そして、アメリカは世界の警察として頑張ってきたが、経済力、軍事力共に弱くなってきたので、ヨーロッパ諸国やアジア諸国に協力を求めだした。
 日本は世界中の国と貿易をし、経済的に豊かになったのだから、公平さに欠けるではないかと、アメリカは激しく戸を叩いている。

 アーミテージ・ナイ レポートには、"中国の脅威が迫って来ているではないか?尖閣諸島は共に守ってくれと言いながら、世界に対する貢献はどうするんだ?"と言われ、慌てふためいてアメリカの機嫌を損ねない様に、"安全保障法案"を急いで成立させ、自衛隊を海外に派遣しようとしている。

 また、戦前の様に、国際連合において安全保障の理事国入りを目指したい安倍総理は、禁断の扉を開けようとしている。
 しかし、多くの犠牲を払い、平和国家として歩んできた日本が、どうして、また血で手を汚せるだろうか?

 今、日米関係は大きな転換期を迎え、そのことに気づいた国民はデモを行い、"国民はまだそんな事は認めていないぞ!"と叫んでいる。
 アメリカの呼びかけに、簡単に応えてしまった政府は、アメリカの期待値を上げすぎてしまったが故のバッシングに怯えている。

 今までの政府が掲げてきた"憲法のしばり"を自ら壊した政府は、軍事的な派遣や負担を迫られることになる。

 しかし、もう一度踏みとどまって、日米関係の正しい恋愛関係はどうあるべきなのか?ガイドラインを転換しようとしているが、内容はどうするべきなのか?
せっかく、今まで、平和的な手段での貢献をしてきたのに、この国民的アイデンティティは崩してしまうのか?よくよく考える必要がある。(仁美記)

2015年09月06日 旧約聖書 雅歌4:8-5:1 (MP3)(WMA)「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。−シールズ旋風で最上の実を」

 8節は雅歌の中でも、難解な場所と言われている。シリアやパレスチナの最も高い山々や、ライオンや豹の住む所から出てくるとは、いったいこの乙女とは何をしている女性なのか?と考えさせられる。
 しかし、この箇所は若者が抱く乙女への深い愛情を表し、人里離れた所からはるばるやって来ると思える程、待ち遠しい二人の恋心を表している。

 9節、妹とは本当の妹ではなく、親密な兄妹の様な、変わることのない関係を表している。乙女の美しいまなざしとくびかざりは、彼女の内面の美しさ、また、存在そのものに若者が捉えられていることを表している。

 10節、彼女との愛は、精神的にも肉体的にも、かぐわしい極上のぶどう酒や香料よりも素晴らしい物である。

 11節、花嫁との交わり、口づけは蜂蜜よりも甘く、愛の交わり、ささやき、また、彼女の着物からも良い香りが漂ってくる。

 12節、三重にも閉じられ隠された場所は、彼女の清純さ、処女性を示している。箴言5:15-19にもある様に、庭、源、泉は、女性の秘められた部分を表す象徴的な言葉である。

 13、14節、二人の味わう喜びと祝福はこの世の最上の何物にも代え難い物である。

 15節、湧き水の様に透き通った水は乙女の純粋さを表す。

 16節、この庭は静寂を象徴し、香りは動的な物を表す。北風はひんやりとしたすがすがしさを表し、南風は灼熱の荒々しさを表す。二人はお互いの全てを与え、お互いが楽しみ喜ぶことを自分の喜びとする。これこそが神様の願われる"一心同体となる"ということである。

 5:1節、若者は乙女の秘められた部分を熱烈に愛し、酒に酔うかのごとく、お互いに、恍惚の極みを味わい尽くす。
 
 この雅歌に書かれた男女の愛の完成形は、未来の楽園である天国の雛型である。

 さて、今日も雅歌の箇所を現在の課題に当てはめてみると、

 4:8節、日本に対する甘い呼びかけの声が聞こえてくる。こんな国際状況の中で、もっと責任を果たしてはどうか?孤立的な状況から下りて来なさいとの誘惑がある。平和憲法の下、経済的な貢献はしてきたが、もっと、軍事的な貢献をした方が良いのではないか?

 9節、民主党の失政の下、自公が三分の二を取ってしまった。その選挙が終わった三日後、日本の防衛省の幹部とアメリカの代表とが、直ちに、アメリカと軍事協力をする、との話し合いがなされた。与党はかつてなかった、ワンチャンスをいかしたのであり、選挙の恐ろしさを露呈する出来事である。

 10節、アメリカは"パックス アメリカーナ"という、軍事的支配を目指し、それに刃向かう国は決して許さない。イラクのフセインを倒し、シリアを無政府状態にし、リビアからはカダフィーを追い出し、倒したが、これらの国は親米になったわけではない。
 連日伝えられている様に、シリア、アフガン、北アフリカから、難民がヨーロッパに押しかけている。米欧はパンドラの箱を、開けてしまった。

 11節、アメリカのアーミテージ氏は日本の憲法9条が、アメリカとの軍事協力の妨げになっている、と言っている。しかし、今の安倍政権のやり方は、入試で言うところの、"裏口入学"であって、閉じられた条文を解釈によって変えてしまうやり方である。

 憲法よりもアメリカとの協力の方が大事であり、経済力も軍事力も復権したいという、安倍さんの強い願いが見え隠れする。
 我々、国民は、選挙である特定の党に数を与えると、あっという間に憲法までも変える力を与えてしまうことを、肝に銘じなければならない。

 そんな中、"シールズ"という、若者のグループが、風を起こし、新しい流れを生み出した。その運動に婦人、老人、学者、海外にいる邦人までもが法案反対運動をやり始めている。

 13節、これからの日本が、世界に対して何を生み出していくのかは、国民の決意にかかっている。
 反戦、平和の実なのか?軍事的貢献の実なのか?(仁美記)

※主要参考文献
・G.ロイド・カー著『雅歌』ティンダル聖書注解
・M.J.ミュルデル著『雅歌』TCTコンパクト聖書注解
・ロバート・W・ジェンソン著『雅歌』現代聖書注解
・Micael D. Goulder, "The Song of Fourteen Songs"
・Michael V. Fox, "The Song of Songs and the Ancient Egyptian Love Songs"
他、多数。