2015年04月26日:新約聖書 ヘブル人への手紙13:1-25 説教: 安黒務 牧師師 |
今、ペンテコステ カリスマ系の教会はデスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムやレストレーションの教えや集会に翻弄され、押し流されてしまわないようにと、この、ヘブル人への手紙は教えてくれる。
ユダヤ教では旧約聖書のみを聖典とし、旧約聖書の教えをしっかり守ろうと考えている。今、盛んに叫ばれるキリスト教シオニズムとは異質のものである。
彼らの最も大切にする教えは"神を愛することと隣人を愛すること"である。そのためにも、攻撃的であってはならないと教えられている。
ナチスドイツの下、ユダヤ人たちは羊の様に従った。この事は、彼らが争いを好まない人々であった証拠でもある。
善行を惜しんではならない。人をもてなし、世話をしなさい。また、人を思いやりなさい。これこそがユダヤ人たちの目指す神の御心である。
旧約聖書から613の戒律を定め、聖書の教えを字義的に守ろうとする。その中には食べて良い動物と食べてはいけない動物とが存在する。その時代の衛生上の問題もあったかも知れない。
ユダヤ教はキリスト教と外側は似た部分があるが、あまりにも戒律を守ろうとするところが、相違点であろう。
キリスト教は戒律ではなく、キリストという実体、そして御霊にある本質を大切にする。神への感謝や賛美はキリスト者にとって、心の捧げ物である。また、善を行うこと、持ち物を分け与えることは神へのいけにえである。
結婚生活が聖くある様に努力することは、エデンの園で男と女に造られた神への感謝の捧げ物である。
金銭を愛するあまり、その物が偶像になり、お金を増やすことが目的になってはいけない。神の御心にそって金銭を管理する。勤勉に働き収入を得、それを使って社会を潤す。このことがキリスト者としての神からの祝福である。
異なった教えに染まったり、過度の金銭欲、性欲、貪欲は放縦となり、反対に極端な禁欲は家庭や社会を破壊する。
バランスのとれた教え、バランスのとれた生活は、人々をまた教会を祝福で満ち溢れさせる。
キリスト教会の2000年の歴史は、いかに健全な教えを保つべきかのバランスを考えた闘いの結果である。この素晴らしい遺産を正しく継承していく使命が、今日のキリスト者には要求されている。(仁美記)
2015年04月19日:新約聖書ヘブル人への手紙12:14-29 説教: 安黒務 牧師 |
明日はいよいよ、準備して来た神学会の研究発表の日である。発表の時間は約20分と短い物だが、その後に質疑応答の時間もあり、この十年二十年の総決算の時であると思っている。
2006年にも発表させていただき、そのことがラッドの終末論を訳すきっかけとなり、去年末の論文やこの春の終末論の本の出版につながったと思っている。
今までのご指導に感謝して、宇田先生に終末論の本を送らせて頂いたところ、丁寧なお葉書を下さった。
その中には、まだ私が4歳の頃にアメリカの神学校に留学され、そこで、ラッドの本に触れられた事や、私たち家族と千葉の共立神学研究所でお会いしたことを思い出されたことが書かれていた。
そして、何よりも、福音主義神学の発展のため、頑張って下さいと大きな励ましの言葉を頂いた。
神様の働きはキリスト教会全体を見ておられ、それはまるで、鳥瞰図の様である。いろいろな働きや教えがあるが、その中から真水の様な教えを汲み出し、塩水や泥水、工場排水の様な水は汲み出さない様に導いて下さる。
14節に、すべての人との平和を追い求め、とある。主にある兄弟姉妹として、すべての人とお互いに尊敬の心を持って接しなさいと教えている。しかし、また、聖められることを追い求めなさい、と続く。
これは、聖書の正しい解釈を求めていくべきであると、教えている。
ラッドの終末論の本は、終末の本であると共に、聖書の正しい解釈の仕方を教えてくれる本である。
だから、私は今翻訳に取り組んでいるエリクソンのキリスト教理入門の本が終われば、また、ラッドの別の本に取りかかりたいと考えている。
15節には、せっかく救われた人々が神の恵みから落ちる事がない様にと説いている。福音を信じる者の畑に美しい福音の花を咲かせる様に。経済的な繁栄を求めたり、右翼思想に迎合したり、キリスト教シオニズムに巻き込まれたりしてはいけない。
本当に大切にしなければいけないことをないがしろにして、神の恵みから外れてしまったエサウの様ではなく、正しい選択をしたアベルの様に歩むべきである。
神様の審判は厳格で厳しいものである。あなたの信仰が、木、草、藁の様であれば、その部分は焼き尽くされてしまう。金、銀、宝石の様な信仰者の部分のみが報いの対象である。
神様の準備される世界は、揺るがされない御国である。今の地上には貧富の差があり、テロリズムが横行し、憲法改正に右往左往している。しかし、神の御国は平和で、安全で、健康的な世界である。
永遠のパラダイスの視点から、被造物世界全体が揺り動かされる。イエス キリストが復活された様に、私たちも栄光の身体を着せられ蘇らされた天地に憩うことが出来る。
まさに、今この時、神様はキリスト教会とその信者を揺り動かしておられる。
私たちの神は焼き尽くす火である。(仁美)
2015年04月12日:新約聖書ヘブル人への手紙12:1-13 説教: 安黒務 牧師 |
初期のユダヤ人クリスチャンたちが、いろいろな闘いによって、元の所に戻ろうとする人々が出てきていた。そんな人々に、今の信仰に留まりなさい、押し流されてはいけないと教えている。
そのために、旧約、新約を通しての信仰者の闘いの歴史が書かれている。私たちの信仰の先輩たちは、信仰のないユダヤ人から迫害を受けてきたのだと。
私たちの信仰とは、イエス キリストの十字架による罪の許しを受け取る信仰。また、キリストが蘇られたように、積極的で闘う信仰。
いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、以前の宗教に戻ろうなんてことはやめなさい。と教えている。
現在のキリスト教会において考えれば、旧約的思考、民族的思考、ディスペンセーション主義的聖書解釈、キリスト教シオニズム。
賛美や使徒的集会でこれらのことを入れ込んでいく、そんな集会には参加してはいけない。ということである。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。キリストは苦難の生涯をはずかしめをものともせずに、十字架を背負って歩まれた。そのように、苦難を訓練と思って堪え忍びなさい。と
また、キリストが「はずかしめをものともせず、十字架を忍び」歩まれた姿を模範としなさい。そうすれば、私たちの出くわす程度の困難で、元気を失ったりすることはないだろう。考え方によれば、間違った教えに今迷っている人たちは、神様からの訓練に預かっていると考えることも出来るのではないだろうか?正しい福音を取り戻すために闘っているのだと・・・
正しい福音理解、終末、イスラエルについて、今はまだ闘いの中にあるが、彼らがそのことに勝利出来れば、後になって、平安の義の実を結ぶことも否定出来ない。(仁美記)
2015年04月05日:新約聖書ヘブル人への手紙11:17-40 説教: 安黒務 牧師 |
アブラハムには女奴隷との間に出来たイシュマエルと正妻サラとの間に出来たイサクの二人の子があった。なかなか子供の出来ない二人にとって、イシュマエルは人間の浅はかな知恵によって生まれた子供であった。
しかし、アブラハムとサラには神様への信仰が生きていた。年を取りもはや死んだも同然の、身体から子供が生まれる。これは蘇りの信仰である。そして、ようやく生まれた一粒種であるイサクをさらに捧げよという、神様の命令にもアブラハムは従った。
神様が、イサクを捧げる前に止めて下さるに違いない。そう思ってアブラハムは従ったのではない。
例え、全焼のいけにえとしてイサクを捧げ、イサクが死んでしまっても、アブラハムの信じる神様は必ずイサクを生き返らせて下さると信じていたからである。
アブラハムの信仰は復活信仰であった。
イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。この言葉は、アブラハムの肉的子孫が神の国を相続するという意味ではない。イエス キリストを信じる全ての霊的子孫が神の国を受け継ぐのである。
神の国を受け継ぐ信仰とは、アフリカなどで見られる様な、使われているのはキリスト教用語ではあるが、中身は他の宗教だったり、アメリカなどで見られる様な、ある聖句を取り上げて、神様を信じるイコール金持ちになる事だ。という様な、まやかしの信仰ではない。
クリスチャンの信仰とは、私たちの神様は死者を蘇らせる力を持っておられるお方であるというものである。私たちがこの世の旅を終えたらそれで、終わりではない。キリストが蘇られた様に、私たちも新しい身体を与えられて蘇る。
そして、私たちだけではない。この天地も贖われて、新しくされ、私たちはそこに、神様と共に永遠に生きることが出来るのである。
私たちの信仰の先輩たちは、その時は見えなくても、遥か先にそれを望み見て、自分たちの信仰を貫き通した人々であった。
私たちもその信仰の継承者として、目さきのことにとらわれず、真っ直ぐに信仰の道を歩みたいものである。
2015年03月29日:新約聖書ヘブル人への手紙11:1-16 説教: 安黒務 牧師 |
コリント13章が愛の章と呼ばれているのと同様に、ヘブル11章は信仰の章といわれている。
パウロがローマ書で述べた信仰とは、キリストの十字架による贖罪の恵みを、行いによらずただで、恵みとして受け取ること。これが信仰であると説いていた。しかし、ヘブル書ではもっと受け身ではなく、前進していく物、つまり、アグレッシブにこの地上で神様の御心を生きて行くこととしてとらえている。
一節では、信仰とは、望んでいる事柄や目に見えない物を確信して生きることだと言っている。私たちが信じる神様は全知全能の神様であり、使徒信条にもある様に、この天地を造られた方である。その神様が、生きておられ、私たちの人生に介入され、報いて下さるのである。その現実感は、エジプトから脱出したイスラエルの民と全く同じだということである。
山上の垂訓にある様に、たたきなさい、求めなさい、そうすれば与えられるのである。神様が願っておられることは何なのか?それは、力強く前進することである。かつてソロモンは神様から、「あなたに何を与えようか?願え!」と言われ、「善悪を判断し、人々を治めるために、知恵を与えて下さい!」と申し上げた。それは神様の御心にかない、彼は素晴らしい知恵を与えられた。私には神様から、今、ささやかなが翻訳の力が与えられていると信じ、エリクソンとラッドの著作集の翻訳に日々取り組んでいる。神学校教師を引退したことにより、はじめて見えてきた風景である。
この章は何度も"信仰によって"という言葉から始まっている。これは文学的表現の一つ、行頭反復(アナフォラ)という。この信仰によって幻を見たノアは山の上に箱舟を作った。周りの人々には愚かな行為に見えたが、ノアが見た幻の通りになった。アブラハムも信仰によって与えられた幻に真っ正面から反応した。神様からの示しに、赤ちゃんが母親の愛情を食べて育つように素直に従った。今の世の中が全てでは無い。地上の生活は仮住まいであると考え、主の御心に生き、新しい天地であるエルサレム(都)を目指した。そして、妻サラにはイサクが与えられ、多くの血族的子孫に留まらず天の星、海の砂のようにぼうだいな霊的父・母となったのである。
この様に、信仰とは目に見えない物を望み見る、希望のある生き方をすることである。ノアに洪水の幻を見せ、アブラハムに都を見せられた神は、私たちにも「望み」を与え、「見えていないものを見せられる」神である。私たちは、神が見せたいと願っておられる「望み」を抱くように導かれ、「まだ見ていない事柄」にあずかり、「行き先を知らず」に召しだされる。しかし、わたしたちは「はるかにそれを見て喜び迎え」、「さらにすぐてれたものにあこがれる」、神がそのようにアグッレッシブに生きるように、聖霊においてわたしたちを導かれるからである。今も生きておられ、私たちの、御霊にある前向きな歩みに報いて下さる神様を信じている。
二千年前、この受難週、イエス様はご自分の架かるべき十字架を仰ぎ見ながら、ドロローサの坂道をのぼっていかれた。私たちも自分の歩むべき道を御霊のさとしを受けつつ自分の十字架を背負って、前に進むべきではないか?(仁美記)
2015年03月22日:新約聖書ヘブル人への手紙10:1-39 説教: 安黒務 牧師 |
昨日は、山崎町の生谷温泉において、上郡の教会の壮年会の皆さんとの交わりの場があった。40分程お話をさせて頂いて、後一時間程質疑応答の時間を持たせていただいた。その後も豊村先生との交わりがあり、帰宅したのは11時半頃だったと思う。身体は確かに疲れたが、非常に充実した一時であり、励まされた。
KBIで36年間奉仕させて頂いてきたが、新しい領域での働きをさせて頂ける喜びと共に、これからはエリクソンの"キリスト教神学 要約版"の翻訳に全力投球出来ることを感謝している。また、ラッドの終末論についても、Facebookに書き込んで下さる方もあり、励まされている。
今日のヘブル人への手紙では、人間が潔い神様に近づくためには犠牲が必要であるという事が書かれている。旧約聖書では、幕屋があった。神に近づくごとに動物の犠牲が必要であった。罪が赦されるためには、命が捧げられ、血が流される必要があった。それ程に人間の罪は深刻な問題であった。
聖い神様は、また同時に愛の神様であった。それ故に、神様ご自身であり、神の御子であられるイエス キリストを地上に送られた。旧約時代、幕屋には外庭、聖所、至聖所と別れており、分厚い幕が至聖所を隔てていた。罪を犯す度に捧げられてきた生け贄が、キリストのただ一度の十字架上の犠牲により、繰り返す必要が無くなった。
隔てていた幕が上から下まで真っ二つに裂けたのはそういう意味であった。もう、ユダヤ人は犠牲を捧げる儀式を繰り返さなくても良い。永遠に廃止されたのである。暗闇の中ではローソクの炎は必要である。しかし、太陽が昇ればローソクの働きは終わる。
キリストの犠牲によって、我々は毎日、罪を犯す度に犠牲を捧げる必要は無くなった。しかし、我々は以前キリストを知る前より、信じた今の方が罪深くなった様な気がしないだろうか?ローマ七章にあるように、それは肉の性質と内住の御霊の関係である。それは、クリスチャンとしてあなたが霊的に健全な証拠である。あなたは前よりももっと罪がわかる様になってきたからだ。
それとは異なり、ヘブル人への手紙の時代、ユダヤ人たちがイエスの犠牲を侮って、聖霊の働きを悪霊の働きだと言ったりすることが赦されなかった。同様に、今の時代でも、キリスト教の用語を一杯使いながら繁栄の神学を述べたり、異なった内容の福音を、つまり旧約聖書の影の下に新約聖書を理解しようとする教えは赦される物ではない。ヘブル書読者がさらされていたように、「間違った教えに流されない」よう注意し合おう。日々の歩みを主と共に、福音理解のセンターラインたる「キリストの贖罪と内住の御霊の導き」に従っていきいきと歩んで行こうではないか?(仁美記)
2015年03月15日:新約聖書ヘブル人への手紙9:1-28 説教: 安黒務 牧師 |
2015年03月08日:新約聖書ヘブル人への手紙8:1-13 説教: 安黒務 牧師 |
2015年03月01日:新約聖書ヘブル人への手紙7:1-28 説教: 安黒務 牧師 |
聖書の御ことばの表面をとらえた「民族としてのイスラエル」を中心とした考え方はどう考えれば良いのだろう。
旧約聖書の時代、イスラエルの民はエジプトを出てシナイ半島に入った。そこで、十戒を与えられ、幕屋を建て、儀式を行った。そこでの儀式は部族を選び、祭司の仕事はレビ人が律法に従い行った。
しかし、新約聖書の時代、ヘブル人への手紙にはどう書かれているのだろう。
メルキゼデクはサレムの王で祭司であった。このことを持ち出して説明している。族長であるアブラハムでさえも、彼のために戦利品の十分の一を分けた。つまり、メルキゼデクはアブラハム以上であることを示している。また、彼ははっきりとした出生の記録もないし、どこに属していたのかも不明であるが、レビ人の祭司よりも上位の者として描かれている。
これは、どういうことなのか?メルキゼデクの名前を訳すと"義の王"また、サレムの王とはつまり、"平和の王"ということになる。彼、メルキゼデクはイエス キリストの予型なのである。
旧約聖書時代は律法や儀式が大切であった。人々は自らの罪を許していただくために、毎回、動物の命と引き換えなければならなかった。しかし、イエス キリストがこの地上にこられ、十字架上で全ての人類の罪を精算され、天上に戻られた後はイエス キリストを救い主として受け入れるだけで全ての罪は許され、永遠の命が与えられるのである。
以前のレビ人の祭司による許しは不完全な物であったが、もう一ランク上のメルキゼデクの支配に変わるこのことを"メタセシス"つまり"廃止"だと言っている。旧約聖書の時代の言葉がいつまでも神の言葉ではなく、「外形的」には廃止されなければならない。
旧約聖書の「表面的」な言葉にとらわれて、素朴な神学に弱い牧師たちは騙されてしまうが、「土地の約束やエルサレム、神殿」の約束は廃棄されなければならない。メルキゼデクの様にその当時の支配者よりもまた、霊的指導者よりも上位のお方、イエス キリストのたった一度の許しの御業によって、完全に「古い物」の時代は終わったのである。
だから、今さらながらディスペンセーション主義聖書解釈法にとらわれている先生方、団体を見るとまるで、高速道路を「逆送」している痴呆老人を見ているかの様に思えてしまう。教える力のある若手の教職者が育ち、正しいコースを正しい方向に走る様祈っている。(仁美記)
2015年02月22日:新約聖書ヘブル人への手紙6:1-20 説教: 安黒務 牧師 |
このことは日本人に置き換えれば仏教や神道からクリスチャンになったのに、親戚や地域とのつきあいで仏壇を拝んだり、神社に参拝したり法事で死者の霊のために拝んだりするのと似ている。そんなことをするクリスチャンは滅んでしまい、地獄に行ってしまう。
クリスチャンにとって基礎的な教えとは、イエス キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたことしかし、三日目に蘇り、天上に昇られ聖霊を送られたことである。このことによって、ユダヤ教の儀式は全て必要なくなった。キリストは神殿の幕屋にあった至聖所の幕を真っ二つに裂かれたお方なのである。
それなのに、ユダヤ教の儀式が恋しいなどと言う者は、キリストを再び十字架に付けるのと同じ愚かな行為をしている人たちなのである。
私は神学校の一年生に、いつも真っ直ぐな包丁と曲がった包丁の話をする。真っ直ぐな包丁で食材を切れば真っ直ぐに切れるが、曲がった包丁で食材を切れば真っ直ぐに切ることは出来ない。このことは、聖書を正しく学ぶためには、正しい聖書解釈の仕方を身に付けることが大切であると・・・
しかし、いくら教えても曲がった包丁を手放そうとしない学生がいる。また、団体がある。聖書解釈法というのは、どれでも良いという物ではない。間違った聖書解釈法で聖書を読むと、神論も人間論も罪論も全てが違って来る。
聖書は平和の福音をとく書物であるはずなのに、戦争や争いを引き起こす書物になってしまう。
ディスペンセーション主義聖書解釈法の恐ろしいところは間違ったイスラエル理解によって、偏ったイスラエルへの援助につながり、武器まで与える口実となることである。
そのために、私は論文を書き、翻訳に心血を注いできたが、私のこの警鐘に耳を傾けない人たちがいる。
イエス キリストは旧約聖書の全ての預言、予型を完成された。神様の約束はイエス キリストにおいて実現するのである。民族のイスラエルが必ずしも霊的イスラエルではない。イエス キリストを主と崇める者こそアブラハムの子孫なのである。
"わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。"私は神様を信じた時から、その事を信じ歩んできた。ご自分をさして誓われた神様は今までと同様に、これからも私を祝福して下さると信じている。
神様は真実な方であるから(仁美記)
2015年02月15日:新約聖書ヘブル人への手紙5:1-14 説教: 安黒務 牧師 |
AD.60年後半、ユダヤ教に戻ろうとしているクリスチャン達に対して、キリストから目を離すなと訴えている。使徒的なセンターラインから逸れて行こうとしている人たちに対して、必要な神様からの語りかけと言える。
イエス様は人類の罪のために、十字架に架かられ、死んで葬られ、しかし、よみがえりの力によって復活され天上に昇天された。キリストは神の右の座に着かれたと言うことは、神の王権を握られた。また、至聖所に入られたとも言える。
大祭司は自分を含め、人々の罪を許していただくために、捧げ物を捧げ祈りを捧げた。キリスト御自身は罪は犯されなかったが人間の弱さを知っておられるので、思いやることがお出来になるお方である。
ユダヤ教的、旧約の影から新約を読み取るブームがおこり、人々が素晴らしいと誉めそやす。しかし、そのことを頭ごなしに批判するのではなく、その人たちを思いやる必要がある。聖書解釈的弱さからの過ちなのだから・・旧約は影であって脱ぎ捨てるべき衣である。
キリストは父なる神から大祭司となる栄誉を与えられた。祭司の職はレビ人に与えられる物であったが、キリストはレビ人ではない祭司である。ダビデの様な王的なメシアであるだけでなく、レビ人のアロンの様であるだけでもなく、それはまるで王権と祭司の“祭政一致”のメルキゼデクの様であった。
キリストの三年間の公生涯は、叫び声と涙とをもって祈りと願いを捧げてこられた。ダビデの様な王を期待した人々には失望を与えたが、苦しみを通ることによって、メルキゼデクの様な大祭司となられたのである。
キリストが真理を語り、ムチ打たれ、いばらの冠をかぶされた様に、私たちも損得や御利益や自分の欲望を叶えるためでなく、神の道は狭き道、嘲りの道である。教派や教会の利益のために行動するのではなく、耳が鈍くなり間違った聖書感や聖書解釈をしていると気づいたならば、勇気を出して正すべきである。
人間の弱さを理解した上での勇気ある行動であれば、多くの人々の良心が呼び起こされ、ついには受け入れられるであろう。(仁美記)
2015年02月08日:新約聖書ヘブル人への手紙4:1-16 説教: 安黒務 牧師 |
2015年02月01日:新約聖書ヘブル人への手紙3:1-19 説教: 安黒務 牧師 |
この、ヘブル人への手紙はAD.60年代後半、エルサレムがローマに滅ぼされる直前に書かれた手紙であろうと言われている。パレスチナの地にはユダヤ王国再建の気運が高まり、ナショナリズムの高揚が見られる。信仰のみではなく、ユダヤ教の儀式に懐かしさを覚えている。
エルサレム崩壊の予感の中、ムードやナショナリズムに押し流されてはいけない。今、必要なのは神殿や幕屋ではなく、キリストが示された誤り無き道を歩むことである。と
今の世界はヘブル人への手紙が書かれた時代に似ている。日本でもイスラエルでも、アメリカでもナショナリズムの影響が見られる。キリスト教シオニズムの運動が盛んになって来ているのである。
一節にある様に、"聞いたことをますますしっかり心に留めて"というのは、キリストを信じる事によって天国に入れられるという、弟子たちの教えをしっかり信じていなさい。という意味である。旧約の影である幕屋や神殿、儀式を懐かしく思うのは間違っている。
モーセとキリストを対比して教えているが、モーセはシナイ山のふもとで幕屋を建てた管理人であり、神の家令、僕なのである。それに対して、キリストは家の持ち主、家の管理者なのである。だから、ユダヤ教のもろもろの事が大事なのではなく、キリストの罪の許しの御業が大切なのである。天国の希望を失ってはいけない。
エジプトを出て、荒野で40年さまよったイスラエルの民は神様をないがしろにした。だから、神様はカナンに直ぐに入らせなかったのである。と著者は叱責し、ヘブル人に助言している。
今の時代も、ほとんどのプロテスタントの教会は聖書の真実に従って教えている。キリストで100パーセント必要な物は満たされている。しかし、もっと刺激的で華やかな物は無いかという欲望がキリスト者をディスペンセーション主義、また、キリスト教シオニズムへと導く。
聖書に書かれている。だから、カナンの地はイスラエルのものだ。イスラエルの為に祈ろう!イスラエルに皆で行こう!ペンテコステ カリスマ派の教会がその波に翻弄されている。
不道徳な行いをするわけではないが、"イエス様で十分だ。"という心を失うとその行為がそのムーブメント自体が偶像になってしまう。熱心さを追求するあまり、不信仰となり結局は罪を犯してしまうのである。そうなると、大きな音にかき消されキリストの声は聞こえなくなる。
全てのキリストによって贖われたクリスチャンが、罪を罪と判らなくなったり、不信仰が不信仰と判らなくならない様、いろいろなムーブメントに惑わされてキリストの声が聞こえなくならない様、私は叫び続けなければならない。(仁美記)
2015年01月25日:新約聖書ヘブル人への手紙2:1-18 説教: 安黒務 牧師 |
AD.60年後半、キリスト教が次第にユダヤ教から別れていっていた。AD.70年にはエルサレムがローマ人によって滅ぼされ、ユダヤ人は全世界に散らされていった。
ユダヤ教を卒業し、旧約聖書で語られていた神はイエス キリストのことであり、その神が地上に来られ人々を罪から救うため十字架に付けられ死なれ、三日目に蘇られたことを知ったはずなのに、ユダヤ教の伝統、儀式が懐かしくなり、元の宗教に逆戻りしようとする動きが起こって来る。
今の私たちの周りに起こっていることも同じ事である。間違った教えに対処するために、いろいろな書物を調べていく中で、私たちの団体や聖書学校に最もふさわしい本は何かと考えた時、たどり着いたのがエリクソンのキリスト教神学であり、ラッドの終末論の本であった。
その内容を事あるごとに紹介してきたが、いっこうに訂正されていく兆しがない。むしろ、さらに加速度的に逸れていこうとしている。一つの方向に行こうとする人々にブレーキを掛けるのは並大抵のことではない。
私が警告を発し始めたころ、誰もが反発を示され、私は非常に孤独な戦いを強いられた。一生懸命になっている方々の気持ちも解らない訳ではない。初代の教会も何度も古い教えに押し流されそうになってきた。その戦いの跡がヘブル人への手紙なのである。
そして、その戦いには多くの苦しみが伴うことが書かれている。死の谷間を歩む様な辛い経験をすると。しかし、その先には栄光と誉の冠が待っていること書かれている。実際、私の周りには教える力のある人たちが与えられ始め、私の後に共鳴して続こうとする人たちが起こされてきつつある。
今朝も知り合いの方からメールをいただいた。"先生のお働きに感謝します。この問題に悩んでいる人たちに素晴らしい解決を与えるでしょう。"と。私の夢を後押しして下さる先生方、また、出版社の方々に心から感謝する。キリストがご自分の命を捧げた働きには使徒が命を懸けて続いた様に、私もそうありたいと願う。
アフリカでエボラ出血熱が猛威を振るっていたが、あそこまで広がった背景に病に対する知識の無さと共に、誤った宗教儀式が絡んでいたと言われている。亡くなった人を家に連れて帰り、何日も置いておいた結果、家族親族知人全てが感染してしまった。
誤った聖書解釈も同じ事である。誤っていると気づいた者が出来るだけ早くそのことを忠告し、正しい位置へと戻すべきである。わかっていながら、もし、私が警告をしなければ、私は神様に対して顔向けが出来ない。自分の使命、生かされている目的はそこにあると思っている。 (仁美)
2015年01月18日:新約聖書ヘブル人への手紙1:1-14 説教: 安黒務 牧師 |
新年に入ってから、今年歩むべき方向性を模索している。 昨年末の福音主義神学誌のイスラエル論、また、今年3月のラッドの終末論の翻訳本の出版。神様の御心に沿った働きには、周りが自然と動いてくれることを教えられた。
今年はKBIの授業も約半分となり、空いた時間を他のことにまわせると感謝している。 マッカーサーは"老兵は死なず、ただ、去り行くのみ"と言ったというがこれからの若い人たちに、自分が担ったところを譲っていきたい。 そして、自分は今までやってきた領域をもう少し突っ込んで講義、講演していきたい。
キリストがこの地を去っていかれた時、"私が去って行くことは益です。そうでなければ助け主は来られないからです。"と言われた。事実、キリストが天上に帰られた後は聖霊が地上に来られて、私たちと共にいて導いて下さっている。キリストの働きがイスラエルから全世界に広がったのである。 私のKBIに限定された働きが本を通して、インターネットを通してキリスト教会全域また、何時でも、何処でも誰でも学べる様に、なるのである。ステージを広げられた働き、次の働きにステップアップしていきたいと願っている。
今日の箇所、ヘブル人への手紙は今のキリスト教会の状況に似ている。AD.60年後半、信仰がマンネリ化し、古い宗教に戻ろうとする動きについて、パウロは警鐘を鳴らしている。あれこれ気を取られるヘブル人に対して、"キリストから目を離さないでいなさい。"と進言している。 ダビデの幕屋やレストレーション、エンパワードの背後に垣間見られる「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の諸々の運動が内包する諸問題に対し多くの懸念をもって見つめている。
1節から3節にある様に、キリストは預言者より優れた方である。モーセ、エリヤ、ダビデ、イザヤを通して語られた神である。2000年前に全ての罪を背負って十字架に掛かり罪を贖って下さったお方はキリスト、神の御子なのである。 8節から12節では、キリストは真理を真っ直ぐ教えられる。だから、キリストから目を離してはいけないのである。天地万物を作られたのも全ての土台を据えられたのもキリスト。 どんな運動、流行にも惑わされることなく、神の恵みに留まり続ける、最も大切なことをこんにちに向けて教えてくれるのがヘブル人への手紙なのである。(仁美記)
※ヘブル人への手紙は、AD60年代後半に執筆された手紙である。あるキリスト者は信仰の年月は経ていたが、信仰はあまり成長していなかった。ユダヤ人からの迫害もあり、最初は耐えていたが、信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者もいた。ある者には、ユダヤ教の祭儀が魅力あるものに映ったりした。このような状況でヘブル人への手紙は書かれた。ユダヤ教と比較して、キリスト教の方がはるかに優れたものであることは、「さらに優れた」という言葉が溢れていることから教えられる。各所で「キリスト論」「贖罪論」が取り上げられ、旧約の「影」に支配されるのではなく、「実体」であるイエス・キリスト、信仰の「創始者」であり「完成者」であるキリストから目を離さないよう励ましている。
このようなヘブル人への手紙の記者が置かれた文脈は、ここ二十年間、取り組んできた「ディスペンセーション聖書解釈」と近年その動きが急に強まってきたかに見える「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の影響に無防備な諸教会の状況に重なってみえる。その意味で、そのような状況に置かれている私たちは「ユダヤ教回帰」に流される群れへの警鐘としてのヘブル人への手紙は、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」に流される群れへの警鐘として静かに傾聴することには意味があるのではないかと思わせられている。しばらく、ヘブル人への手紙を開いていきたい。
2015年01月11日:新約聖書使徒2:14-21 説教: 安黒務 牧師 |
先週1月9日は私の61才の誕生日であった。フェイスブックをしていると、沢山の方々からお祝いのメッセージをいただいた。一人一人にお礼を言うのは大変なので、お礼の代わりに今日の聖書の箇所を書かせていただいた。
桶狭間の戦いを前にして、織田信長が舞いながら歌った歌が大好きで "人間50年・・・"この歌を思うとその当時の平均寿命が50才であるならば、今はその倍程生きるので、自分の年を半分にして考えることにしている。
しかし、私の父また家内の父が亡くなり、去年の暮れには二人目の孫が生まれ、世代交代の時期に入ったことを感じている。私が奉仕の人生を始めたのはスンベリ先生の下であった。助手として時には厳しく時には優しくいろんなことを教えて下さった。
その私が神学教師となって30数年が経ち、元気で奉仕出来るのは後10年くらいかと思われる今、次に続く人材を育て、受け渡していく必要がある。KBIとJECのルーツとアイデンティティを理解し、福音派のど真ん中を歩む人材であって欲しい。そのために膨大な数の授業のビデオから、抜粋し一本のビデオを作り、ストリーミング形式で提供したいと考えている。
私は今年、夢見る老人宣言をした。すると、フェイスブックの仲間から、夢と幻はどう違うのですか?と質問を受けた。英語の辞書で調べると、ドリームとビジョンは同義語であり、文学における並行法というものである。つまり、一つのことを強調するために、しばしば用いられるものである。
私の取り組んでいる翻訳とすいこうは山登りによくにている。ただ、一歩一歩前に進むだけである。途方もない夢を追いかけ、幻をみながら、前に向かって進んで行く一年でありたいと願っている。(仁美)
2015年01月04日:旧約聖書エズラ記 1:1-11 説教: 安黒務 牧師 |
"一年の計は元旦にあり"と言われている様に、この一年の方向性を考えてみた。 この一月、福音主義神学誌が発刊され、私の論文及び巻頭言が掲載された。
三月には、昨年まで取り組んだラッドの終末論の翻訳本が、いのちのことば社より出版される。今年はさらに、キリスト教神学の要約版をなんとか翻訳し、献身者の教科書としての四巻とは別に、信徒の学びの為に用いて頂きたいと願っている。
今日の箇所はイスラエルの南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、捕囚として連れていかれたが、七十年後に帰還する事が出来るというエレミヤの預言等が成就するという箇所である。エジプトからの脱出が「出エジプト」であれば、この箇所は「出バビロン」と言えるだろう。
日本が先の大戦に敗れ、その結果としてアメリカに占領されたが、もし、ソ連邦による占領であったなら、スターリンが沿海州の民にしたように、民族性を根こそぎするために日本人はソ連の各地にバラバラに移住させられていたかもしれない。
それと同じように、バビロン帝国はイスラエル人を移住させたが、ペルシャ王国はイスラエル人を元に戻し、そこで繁栄させる政策を取った。「主は他国の王の霊を奮い立たせご自分の民が自国に帰還出来るようにもされる方」なのである。
エズラ記、ネヘミヤ記には、主によって霊を奮い立たせられ神殿の再建、城壁の再建に取り組む姿が描写されている。そして、次々と妨害も襲い掛かってくるのを見せられる。今の世界はナショナリズムが強くなって来ている。超教派的なエリクソンを翻訳しようとすると、反対する人たちが起こって来る。「会衆派ピューリタン、そしてその系譜に続くスウェーデン・バプテスト諸教会をルーツとする私たちの群は、1900年の間エリクソンが唱える福音主義のまさに中心を歩んで来た群なのだ」と言うと、「それは先生だけの考え方なんじゃあないですか?」と言われる事がある。ここ五十年間の歩みだけで物事を理解しようとする人たちである。
あまりにもそういうことが続くと、心が萎えてしまう時がある。しかし、そんな時、「主が霊を奮い立たせて下さる」と、自分の召命を再確認し、モチベーションを保つことが出来る。
ある生徒が"神学は礼拝の様な物ですね"と言われたことがある。神学は礼拝の様に神の臨在に触れていく学びなのである。神学をすることによって、福音のセンターラインを示すことが出来る。誤った教えや実践に翻弄されたり、グレイゾーン・レッドゾーンの危険地帯に足を踏み入れることから守られる。
ペルシャ王国のクロスはイスラエル人を自国に返すだけでなく、援助する様に勧める。ネブカデネザルがエルサレムから持って来た財宝で、神殿は博物館の様になっていた。祈りと支援のネットワーク、環境をもお膳立てされた。
私はこれからもKBIまたJECのルーツとアイデンティティを明確にしたいと願っている。先輩の先生方、特にスンベリ師、我喜屋光雄師、高橋昭市師は、JECまたKBIの礎を据えられた。それらは、1900年間継承してきた福音派のど真ん中に流れる川のようである。その流れに、20世紀に入り、「十字架と聖霊」の穏健なケズッィク的強調と穏健なカリスマ的強調が流れ込んだ。しかし、その主要な福音理解は微動だにしてこなかった。かえって強化されてきた。わたしたち、JECまたKBIの霊的・神学的遺産を継承するもは、それらを正確に理解し、怪しげな教えに翻弄されることなく、その本質と輪郭を継承し、深化し、発展させていかなければならないと思うのである。
その為にも、フェイスブックなどを用いて、自分の夢を分かち合い、周りの人々の祈りと支援をいただきたいと願っている。JECとKBIの霊的・神学的遺産の継承・深化・発展は共同作業である。私は一人ではないのだ、私を支援して下さる方々とチィームでやっていると考える。
私たちは今年、それぞれの場所で課題に取り組み、神様の油注ぎをいただいて、神の栄光を現す者となりたいと思う。(仁美記)