"Old"ナルドの香油


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記録: 安黒仁美


2016年12月25日 新約聖書ルカによる福音書2:25-35(MP3)「剣が心を刺し貫く―多くの人の心の思いが現われるため」

   クリスマスには多くの賛美歌,聖歌がある。教会とは関係なしに、今や、お寺でも自治会でも、クリスマス会が行われている。
   アメリカでクリスマス・シーズンによく流れる歌の中に「ホワイト・クリスマス」という歌がある。みなさんも聞かれたことがおありだと思う。「アイム・ ドリーミング・オブ・ア・ホワイトクリスマス」(私は夢見る、真白な雪で覆われたクリスマスを!)
   この歌を作ったのは、1人のユダヤ人である。歌に溢れているのは、クリスマスの祝福と温かい家庭の存在である。

   この歌がヒットした理由の1つが、戦争と重なったことと言われている。
真珠湾攻撃から始まった戦争のため、多くのアメリカの兵士たちは戦場に送られた。遠く離れた戦場にいて、家族と一緒にクリスマスを祝う事が出来ない兵士たち。塹壕の中で、ジャングルの中で、頭の上を弾が飛び交う中、彼らは夢見たのである。家族と共にある幸せなクリスマスを・・・

   ドイツでクリスマスの市を狙ったテロ、トルコではロシア大使が人々の目の前で、撃たれて亡くなった。温かいクリスマスシーズンだというのに、世界には戦争やテロが溢れている。
   マタイ2章には、その時ユダヤを治めていたヘロデ王の事が書かれている。東方の博士たちがヘロデ王のところにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と聞いたところ、キリストがどこで生まれるかを調べて、殺そうと奔走した。このように、 実際のクリスマスの夜は、殺伐とした、殺意に満ちたクリスマスであった。
   そして、イエスの家族がエジプトへ逃げた事を知らないヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺の2才以下の男の子をすべて殺した。今の戦争やテロにも似た、大虐殺が起こっているのである。

   御使いガブリエルがマリヤに受胎を告げに訪れた時、「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(1;32)と言った。この預言は、旧約聖書に書かれている。そして、その預言は、政治的なものとして、また、外国からの解放を意味したものとしてとらえられていた。

   今日の箇所は、マリヤの讃歌とは対照的なシメオンの讃歌である。2;34,35が、今日のメッセージの中心となる。
   マリヤの讃歌では、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(1;46,47)と言っているのに、シメオンの讃歌では、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」(2;35)と言っている。
   これは、十字架の出来事を預言しているのである。自分の愛する子が、自分の目の前で、十字架につけられ殺される。なんと辛い経験だろうか?母親マリヤの心は、まさに剣で刺し通されることになる。

    しかし、「それは多くの人の心の思いが現れるためである。」(2;35)とある。
この箇所は、私が神学生の時、スンベリ先生から教えられたが、その時はあまりよくわからなかったが、今になってようやく解ってきた。
   キリストが十字架に私たちの罪のためについて下さった。マリヤの心を突き刺したこの出来事が、多くの人の心を刺し、悔い改めに導くのである。そして、キリストは死なれただけではなく、復活され、神の右の座についておられる。そして、私たちも同じように、復活させられるのである。

    キリストは、このおめでたいクリスマスに、死ぬためにお生まれになった。私たちを愛し、救いたい神様の御心の現れである。
   パウロは、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためなのです。」(Uコリ4;12)と言っている。
   私たちも、病、子供の問題、経済的な困難、様々な苦難と日々戦っている。辛いそれらの戦いを、主と共に通される時、多くの人に奇跡の歩みが見えてくるであろう。それこそ『インマヌエル」神が共にいて下さる人生である。(仁美記)

2016年12月18日 新約聖書ピリピ人への手紙2:5-9(MP3)「Like a Rolling Stone ― キリストのうちにみられる心構え」

アドベントの期間、アメリカの音楽の歴史を聞きながら教えられる事が沢山ある。
今年の、ノーベル文学賞に選ばれた、ボブ・ディランの歌詞には、心に触れるメッセージが詰まっている。
曲名「ライク・ア・ローリング・ストーン」(転がる石のように)を、何度も聞いていると、今日の箇所と重なってくる。ボブ・デイランというと、私たちが若かった頃のフォークソングで、「学生街の喫茶店」の歌詞の中に名前が出てくるが、それだけの存在であった。
彼には、ビートルズやエルビス・プレスリーのようなヒット曲はない。他の歌手に歌詞を提供していた立場であった。声もしゃがれ声で、特別美男子でもない。

それにもかかわらず、どうして彼は歴史に名を残すミュージシャンになれたのだろうか?
先に述べた歌は、1人の女性についての歌である。「昔は、羽振りが良くて綺麗に着飾っていたのに、落ちぶれて、今は食べ物を買うお金もない。そして、道端で街行く男に声をかけ、身売りをしている。」そんな、内容の転落の歌である。
そんな彼女に追い打ちをかけるようにボブ・ディランは言う。「どんな気持ちなんだい?」「どんな気持ちなんだい?」と・・・

そんなシビアな歌詞に、人々は心を打たれる。多くの人々が生きている中に、同じような転落の要素があるのではないだろうか?
聖書を重ね合わせてみれば、そこにも中心的メッセージとして、転落のメッセージがある。
楽園にいて幸せだった「アダムとエバ」、彼らは善悪を知る木の実を食べて、エデンの園を追放され転落していった。創世記の「ヨセフ」の生涯は、父ヤコブに溺愛され、幸せに暮らしていた。しかし、兄弟に疎まれ、穴に落とされ、エジプトに奴隷として売られていった。

「モーセ」を見れば、エジプトの王宮で育てられ、何不自由なく育ったが、同胞の苦しむ姿を見るに忍ばず、荒野での浪々の旅に出る。「ヨブ」はといえば、東方で最も祝福された生活をしていたが、天災で持ち物全てを失い、さらには、子供も全て無くし、そして、自らも全身を皮膚病におかされ、友人や妻からも見放されてしまった。まさに転落の人生である。

しかし、聖書はまた、転落していく人々への「慰め、励ましの書物」でもある。
そして、私は、ボブ・デイランの歌の女性の中に、私たちの姿を見る。歌の中のセリフ1つ1つが、私たちへの問いかけではないのだろうか?
人生、そこには「生と死の問題」がある。「そして、人間には、1度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル 9;27)とある。
この世でどんなに富を築き、栄華を極めようとも、全ての人が「死」に直面する。栄光の立場から、死と滅びの立場へと転落していくのである。

アダムとエバは、「善悪を知る木の実」を食べる事によって、神との関係を断ち切られ「霊的な死」を味わった。それは、「肉体の死」をもたらし、ついには、「永遠の死」を味わうことになってしまった。
しかし、キリストは神であられた方なのに、頂点におられた方なのに、人となり、仕える者の姿となって下さった。キリストは、王宮に生まれる事もなく、貧しい家庭に、飼い葉桶を寝床としてお生まれになった。そこには、貧しさの最底辺、貧しき者と共に生きる神の子の謙虚な姿がある。しかも、その最後は「十字架の死」、ローマ帝国の刑罰の中で、最も残酷で不名誉な死であった。人々からの、罵り、嘲り、辱めを受けつつの、凄惨な死であった。

人間というものは、常に人よりも優れたものになろうとする「上昇志向」で生きている。しかし、そこには限界があり、転落の恐怖がつきまとう。
だから、聖書は勧める。「キリストのうちに見られるもの」を目指しなさいと・・・
自分を無にして、仕える者の姿をとりなさいと・・・そんな心がまえで生きていれば、そんな心備へを常にしておれば、どんな危機も、どんな転落も受けとめることが出来る。
ダニエルが獅子の穴に落とされようと、火の中に放り込まれようと、毅然としていたように、生きる心構えを持った、「真の人間」になることが出来る。

そんな心構えで生きるものには、神が、キリストをそうされたように、「すべての名にまさる名」が与えられるのである。(仁美記)


2016年12月11日 新約聖書ルカによる福音書1:39-56(MP3)「そのころ、マリヤは立って、ユダの町に急いだ―不安の淵から、天的な祝福の空間へ

今日のメインテキストは、39節「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。」である。
   福音書は「真珠の首飾りのようである」と言われる。AD50年代、70年代、80年代とキリストを知っている証人達が召されていく中、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがその証言をまとめて一本の首飾りにしたのである。

   先週は38節までで、処女マリヤにキリストが生まれるとの、天使ガブリエルの受胎告知がなされた。
   そして、今日のメインテキスト「そのころ、・・・」となる。私はこの箇所を見て、不思議に思う。どうして、マリヤは立って、急いでエリサベツに会いに行かねばならなかったのだろうかと・・・
   その答えは、38節と39節の行間に隠されているのではないか?隠された真珠が、そこにあるように私には思える。

   マリヤがエリサベツに会いに行った時、すでにエリサベツはマリヤの受胎告知を知っているかのようである。この、マリヤがエリサベツに会いに行ったのは、どういう時期なのだろうか?1;24 「 妻エリサベツはみごもり、5ヶ月の間引きこもって・・」いたと書かれている。そして、妊娠6ヶ月から赤ん坊の生まれるひと月前までの空白期間、3ヶ月をマリヤと共に暮らしている。

   ザカリヤは妻の妊娠を信じることが出来ずに、話せなくなった。彼の中に、恐れが生じたためである。そして、マリヤにも恐れはあった。しかし、彼女の姿勢はザカリヤとは違っていた。主の言葉の意味、すべては理解できなくても、受け入れたのである。キリストが十字架につかれた時のように・・・「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように。」と・・・

   しかし、マリヤにも不安が無かったわけではない。結婚を控えた女性が、何の経験も無いのに子供が生まれる。御使は「神から恵みを受けた」と言うが、当時、処女が妊娠すると言う事は死罪(石打の刑)に値した。まさに、危機的状況である。
  ただ、マリヤがとった行動が正しいのは、オロオロせずに、山地にある(南部のユダではなく)ナザレの近くのユダの町に急いで行ったことである。

   そして、急いで行ったわりには、3ヶ月も滞在している。親にも言えない、いいなずけにも言えない、そんな秘密を彼女は抱えてしまった。知っているのは神様とマリヤだけであった。
   しかし、エリサベツには主の使いからの、知らせがあったのではないだろうか?「マリヤの挨拶を聞いた時、お腹の子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」(1;41)

   聖書に出てくる「最後の預言者」ヨハネを神から与えられ、老父婦は奇跡をすでに体験していた。自分たちの子供ヨハネが証しする「救い主」が、親戚の愛するマリヤから生まれる。素晴らしい恵みではあるが、危険を避けるためにも自分たちを頼って来たマリヤを、老父婦は喜んで受け入れた。

   マリヤの経験の前に、親戚の老父婦に奇跡が起こっていた。その事は、イスラエル全土に広まっている。「あのエリサベツなら、私を理解してくれるだろう。」そして、エリサベツは神からの取り計らいにより、すでに知っていた。
   エリサベツの反応を見て、マリヤの不安は取り除かれ、確信を得た。「この事は、神からのものである。」と・・・

  そして、マリヤは3ヶ月の間、エリサベツ夫婦と共に過ごし、エリサベツが子供を産む直前に実家に帰った。エリサベツに子が生まれると、お祝いの人々が大勢押し寄せるであろうから。人目を避けるために。

   1;48  「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」この世で、栄冠を手に入れることの出来る人は、ごくわずかである。しかし、神は、マリヤのような底辺の人々をも覚えて、満たして下さる。
   婚約者のヨセフが、この真実を知ったのはいつなのだろうか?はっきりはしないが、ヨセフにも主の御使が現れた。マリヤとは別に、ヨセフも苦悩し戦ったのである。(マタイ1;18〜25)

   マリヤの賛歌は、エリサベツと出会ってすぐ生まれたと言うよりも、2人で過ごした3ヶ月の間に生まれたと見るべきであろう。愛するエリサベツとマリヤ、互いに主に全てを委ねた2人の女性が、愛し合い、尊敬し合い、交流した、3ヶ月の霊的エッセンスが歌となっている。

   この、アドベントの時期、私達もマリヤとエリサベツのように、神との霊的交わりを経験したいものである。(仁美記)

2016年12月04日 新約聖書ルカによる福音書1:35(MP3)「聖霊があなたに臨み、あなたをおおう時―創造、受肉、クリスチャン生活」

    この箇所は、毎年繰り返し聞いても興味が尽きず、教えられる所である。
 今日のメッセージの中心は、35節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」というところである。
   キリスト教神学の要約版を今訳しているが、教会論、終末論、キリスト論と順調に進んでいる。進まないときは全く進まずイライラする時もあるが、最近は忙しいにもかかわらずスムーズである。これは、神の力、聖霊の力のお陰なのかもしれない、皆さんに祈られているからかもしれないと、ふと思う・・・

   キリストの処女降誕は、誰しも不思議に思う箇所である。キリストは「神であり人である」というのであるから、致し方ない。「聖霊があなたがたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」とある。この聖句を見ていると、創世記 1:1-2節を思い出す。
   初めに神が天と地を創造された時、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」。

   この世の全てのものを造る「天地創造」と「神が人となられること」と、どちらが難しかったのかを考えると、全知全能の神が無限の宇宙を造られることの方が、無から有を造るという意味で簡単なような気がする。
   しかし、「神が人となられる」というのは、創造者が被造物の一員となられるということであって、これは大変なことである。全能者が限界のある人となられること、これこそ「奇跡の中の奇跡」といえるのではないか!

   聖霊が臨み、マリヤをおおった。そして、神が人となってお生まれになられた。宇宙の創造以来、初めての「受肉」である。この大いなる出来事の中に「恵みと奇跡」が隠されている。宇宙の歴史、人類の歴史の中心点たる「キリストの誕生」である。
   私たちの上に、聖霊が臨まれておおわれる時、マリヤが「聖なる者、恵まれた者」となったように、私たちも罪ある者が「聖なる者、価値ある者」となる。ローマ書でパウロは福音の奥義をそのように解き明かしている。

    キリストが処女マリヤからお生まれになったと聞くと、ヨセフは外されたのかと思う。男性の方が女性よりも罪深いのだろうかと…。そうでなければ、どうして処女が罪の無いキリストを生む事が出来たのだろうか?
   ヨセフもマリヤも、ともにアダムの子孫、罪人である。神はマリヤの胎を用いて、聖霊の力によってアダムの罪から断絶した形で「キリスト」を生まれさせられたのである。

   私たちも古き人は十字架につけられた。義の実を結ぶためには、聖霊の力によらなければならない。内住の御霊とともに生きることによって、私たちの生涯は「聖なるもの」となり、「神の子供」とされうるのである。「宇宙」が混沌の中から生まれ、「罪あるマリヤ」が聖霊におおわれ、「罪なきキリスト」を生む事が出来たように、私たちも混沌としたこの世の中で、聖霊におおわれる時、「奇跡」が「神秘」が私たちを取り囲むのを経験するだろう。
   日々の歩みの中で、…。Merry、めりー、メリー・クリスマス!(仁美記)

2016年11月27日 新約聖書ルカによる福音書1:26-38、エペソ人への手紙3:1-13(Youtube)「アドベント、神の啓示、私の務め」 高槻福音自由教会礼拝

 「こういうわけで」と1,2章を受けて、パウロは3章を書き始める。パウロは皇帝ネロの囚人であったが、それはパウロの心には無い。パウロにとって人間界のすべての事象は、神の主権の下にあった。それゆえ、純粋に人間的次元だけで物事を見つめことも、考えることもなかった。パウロはダマスコ途上でキリストの”啓示”に打たれた。パウロを打ちのめした光は「世々隠されていた奥義」「キリストの測りがたい富」「神の豊かな知恵」を内包していた。パウロの古い視力を失わせたこの光は、やがてパウロの個性と賜物を呼び覚ました。死人のように生きていたパウロを本来の生と価値の中に生きるようによみがえらせた。パウロは啓示の光の中に見たものを理解し、解き明かし、分かち合うために自ら牢獄に身を投じた。否、牢獄は彼を捕えていない。パウロはキリストの絶大な価値に捉えられていた意味においてのみ“囚人”であった。啓示の光―” The fiirst time ever I saw yourface”―を見たものは、務めをも発見する。そのとき、苦しみすら光栄となる。(務記)

2016年11月27日 新約聖書ルカによる福音書1:26-30(MP3)「アドベントの意味するもの」

「アドベント」には「来臨」ー神様が私達のところに、聖霊の臨在によって、訪れて下さるという意味がある。
だから、「アドベント」は2,000年前の主イエスが「受肉」された「クリスマス」を祝うと共に、未来において、キリストが「再臨」されるための心の準備の期間でもある。

御使ガブリエルが、マリヤに受胎を告知する場面を見ていると、私には1つの歌詞が浮かんで来た。それは、ロベルタ・フラックという人の「愛fは面影の中に」という歌である。

「初めて、あなたの顔を見た時、あなたの瞳の中で、太陽が昇ったように思えたわ
初めて、あなたの唇にキスをした時、私は手の中に世界が動くのを感じたわ、囚われた小鳥が震えるように・・・
初めて、あなたと横になった時、あなたの心臓の鼓動と、私の心臓の鼓動とが、重なり合って響くように感じたわ」

この歌は、男女の愛の歌の一節であり、その出会いのトキメキと感動を表現している。しかし、私は、私達と主キリストとの出会いに似ていると感じる。
創世記1,2章に書かれた「エデンの園」でのアダムとエバの出会いと交わり、雅歌に描かれたシュラムの女と青年との交わり、エペソ書や黙示録に書かれたキリストと教会、クリスチャンとの関係。
「信仰」とは、倫理的なことを学ぶこと、御言葉を勉強することなどの硬いイメージだけよりも、男女の出会いのような熱く情熱的なものを宿しているのではないか?と思う。

1:29 ガブリエルの受胎告知を受けた時、マリヤは初め、ひどくとまどった。しかし、後には、その真意をくみ取り「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(1:38)と受け入れた。
受胎告知の絵は、沢山ある。そして、ある有名な神学者は、それらはマリヤとガブリエルの視線が重なり合うように書かれているという。それこそが大切なのだと・・・

このことは、私達の信仰生活においても、大切なことである。私達が初めて、イエス様と出会った時は、どうであっただろうか?私は「初恋」「一目惚れ」という印象であり、イメージである。
「初めて、イエス様と出会った時、あなたの心の暗闇に、太陽が昇った」のではないだろうか?
私自身、青年期に、生きる意味や目的を失って、「人生の実存とは何なのか?」と悩み、人生の終わりには「死と墓が待っている」だけの虚しい気持ちでいた。しかし、イエス様という太陽が昇り、その存在と愛に、小鳥が震えるように感動し、心臓がドラムのように叩かれるのを感じた。

「アドベント」は主の来臨を覚える期間である。神の子が人となって「受肉」された「クリスマス」を祝い、キリストの「再臨」を待ち望む期間である。
今や、天の右の座に着かれたキリストが、聖霊を通して日々訪れて下さる。そんな1日1日を、大切に味わいながら歩んでいきたいと思う。(仁美記)

2016年11月20日 新約聖書エペソ人への手紙3:1-13(MP3)「神の啓示、私の務め」

「こういうわけで・・・」とパウロはこの3章を書き出している。どういうわけなのか?それは、1,2章に書かれていた。キリストにある絶大な恵みがこの地上にもたらされ、その恵みがユダヤ人の壁を破り、今や異邦人にまでもたらされたということを念頭に書いているのである。

3:1 「キリスト・イエスの囚人・・・」とある。現実にはこの時、パウロはローマ帝国を支配する「皇帝ネロの囚人」であった。しかし、パウロの頭にはそんな事はどうでも良い事であった。人間社会の基準など、パウロには第一の物ではなかった。
パウロにとって、人間界は全能の神の主権の下にある物であった。キリスト・イエスの「とりこ」にされた今、全ての物が「ちり・あくた」の様に思えた。全ての人に、このキリストを分かち合いたかった。キリスト・イエスこそ、自分が見つけた宝物であった。

先日、アメリカの大統領選挙において、多くの人の思いを裏切る形で、「ドナルド・トランプ氏」が当選した。どこの国のトップよりも先に、日本の首相である「安倍晋三氏」がトランプ氏と面会した。その事を報ずる写真を見ると、キンキラキンの部屋が写っていた。私には、豊臣秀吉の茶室に見えた。
彼は、1度は破産したが、そのドン底から再び這い出し、今や数千億の富を築いたと言われている。不動産の仕事をはじめ、時には、テレビの司会者を務めるなど、アメリカの一般大衆の心を掴んで行った。移民問題や格差の問題などで、人々の心を自分へと向けさせる事に成功した。

アメリカの大衆的なクリスチャンたちは、社会的成功者=神の祝福された人と捉えるところがある。堕胎、同性愛などの問題、また、他宗教への配慮やリベラルな政治への反発、そして、根本的にある女性差別などが、トランプ氏への投票に結びついていった。
イギリスのEU離脱、ヨーロッパにおける右翼の台頭、など世界中で人々の不満を利用した政治が行われている。

しかし、パウロはそんな金まみれの生活を捨てて、「キリストの囚人」である自分を誇っている。旧約聖書の中でも、モーセは富ではなく、人々の苦しみの中に生きる事を選択した。
私たちも、パウロの生き方、聖書の生き方に目を止めるべきではないだろうか?

3:3 ダマスコ途上において、キリストとの出会いは、パウロを打ち負かした。そして、その眩いばかりの光は、パウロをしばらくの間盲目にした。

3:4 しかし、彼の目は見えなくなったが、「キリストの奥義、霊の目」は開かれたのである。ステパノが石で打たれ殉教した時、パウロはそのリーダー格であった。なとかしてこの新しい邪教を潰そうと奔走していたパウロは、キリストに出会ってその生き方は180度変わってしまった。
キリストの光に触れて、パウロは神から与えられていた「個性」や「賜物」を開花させられた。本来の自分の生き方を見出したのである。
人間は神に出会う事によって、価値観が変わり、人生が大転換される。キリストと共に歩む人生は、その人の持って生まれた「個性」や「賜物」を熟成させ完成させていく。

3:5 旧約の時代は、ユダヤ人が中心である。しかし、新約の時代は、全人類、全民族に救いが提供されている。

3:6 福音を理解するための「奥義」を分かち合うために、パウロは100%の力を尽くして奔走してきた。ガマリエル門下の学徒という「誇り」を捨て、13通の手紙を書き、全人類に向けて素晴らしい影響を残した。
クリスチャンたちを殉教に追い詰めた自分の事を忘れる事なく、この犯罪者であり、弟子の中で最も小さき「罪人パウロ」を用いて下さる神様を見上げつつ、彼は彼の果たしうる務めを全て果たした。

神様に出会い、人生を変えられるのはパウロだけではない。私たちも、彼の様に自分の人生を神様と共に走り抜こうではないか!(仁美記)

2016年11月16日 新約聖書ヨハネの黙示録22:1-21:章(MP3)「彼らは永遠に王である」

  21,22章は「新天新地、新しいエルサレムについて」、世界の終わりについて書かれている。かつて世の初めに、神様がこの天地万物を造られて以来、いよいよその創造が完成の時、1つのストーリーが結びの時を迎えようとしている。

   22:1  聖書の初めに、天地万物、宇宙、そしてそれらの中にある物全てが造られた。そして、それらは非常に良かった。1番最後に人を造られ、神様は満足された。
   エデンの園に4つの川が流れていた。そして、園の中央には「いのちの木」があった。その小さなエデンの園が、世の終わりには、都となり新しいエルサレムが完成しようとしている。エデンの園には、アダムとエバのたった2人だったが、新しいエルサレムには、神様を信じる大群衆がやって来る。
   この都の川の両岸には「いのちの木」があって、もはや涙も無い、悲しみも苦しみも無い世界である。新しい都は、わたしたちをあらゆる苦しみ、悲しみから解放してくれる「いやしの都」である。

   22:5  天国とはどんなところなのか?が書かれている。
   神様はこの物質世界を良いものとして造られた。そして、その管理者として人間を置かれた。私たちがこの世界に生かされている意味は、決して小さくは無い。人は生まれて、7,80年生きて死んでいくだけの存在ではない。この被造物世界の中で、「産めよ、増えよ、地を満たせ!」そして「地を従わせよ!」この世界の支配者として、また、管理者として、王として、神様からの権威を委ねられたのである。
   そして、次には、新しい都・エルサレムにおいて、その命令が引き継がれていくのである。

   人間は死ぬことによって、肉体は朽ちるが、魂は直ちに神様の懐に迎え入れられる。その時裸である魂は、再臨の時復活の着物・栄光の身体を着せられて、地上に降り、新天新地で生かされることになる。
   天の御国、神の国とは、神の支配される領域である。そこで、私たちは神様と共に「管理者」としての栄誉にあずかることになる。

   人間は、罪によって堕落した。そこで、本来は恵みである労働が「呪われたもの」になってしまった。しかし、イエス・キリストの十字架の御業によって、贖われ、聖霊によって生かされ、労働が再び祝福となった。その事も、新しい都・エルサレムでは完成されるのである。
   「神様の祝福の中にある労働」という視点が大切なのである。

   私たちが救われる目的は、贖われ、栄光化された地上で、祝福となる永遠を生きることにある。そして、私たちの地上での生涯には、大切な意味がある。それは、永遠の労働と関係がある。
   C・S・ルイスはその著書の中でこう言っている。「私たちの地上での仕事は、小さな子供が子馬を与えられたようなものである。」「神の国の馬屋には、鼻息の荒い競走馬が待っている。その馬を乗りこなすために、地上では子馬を乗りこなさなければならないのである。」
   地上での仕事に、真面目に、勤勉に取り組み、神様に仕え、人に仕えながら生きるなら、新天新地において、都の管理者として生きる時に活かされてくるのである

   「この書の預言のことば」という言葉が7,10,18,19節に繰り返し書かれている。
パトモス島で、囚われの身であるヨハネが、愛する教会に送った手紙である「黙示録」は、今、迫害や患難の中に置かれている教会を、神様が必ず保護して下さる。勤勉で、霊に燃え、証しを続け、殉教も恐れず生きよ!との励ましの手紙であると共に、私たちに永遠の視点、旧新訳の視点を一貫して語り続けている書物である。(仁美記)

2016年11月16日 新約聖書ヨハネの黙示録21:1-27(MP3)「また、私は新しい天と新しい地を見た」

この章は、「新しい天と地の章」である。
旧約聖書の1番最初に、「はじめに神は天と地を創造された」とある。そして、新約聖書の終わりに、「新しい天と地とを見た」とある。
神様は天地万物を造られた。そして、その中の生き物も、すべて造られた。神様は創造者であられる。しかし、人類を代表するアダムとエバは、エデンの園において、全人類を代表して罪を犯した。彼らの罪によって、地は汚されてしまった。そして、創造物として造られた人間も、滅びる者となってしまった。

しかし、神は人間を憐れみ、聖書の中にメシアの預言を書かせ、約束の御子を地上に送り、十字架の御業を通して、人間を贖い出して下さった。
人類の歴史に罪が入った事によって、人間だけでなく、被造物全体がうめいており、贖われる日を待っている。聖書には、私たち人間が救われて、身体が贖われ、天国に入れるという事だけでなく、被造物自体も全く新しくされると書かれているのである。

一般的に、今の世界は滅ぼされて、私たちは天国という異次元に行き、霊的な状態で過ごすのだというイメージがあるが、聖書では、私たちが死ぬと今の肉体は滅ぶが、魂は直ちに天に迎え入れられる。これを中間状態と言い、魂は裸の状態で天国にあるのだが、まだ完成ではない。
裸の魂は、やがて栄光の身体を着せられるという段階が待っている。そこから教えられる事は、聖書においては、霊的な事だけでなく、物質的な事もまた、重要なものなのであるという事である。
そして、この世界も滅んでしまって消え失せてしまうのではなく、被造物世界もまるで、衣替えするかのように、新しい天と地にリニューアルされるのである。

ギリシャ哲学を経て中世では、人間の魂は地上を去って、精神的な天国へ行くと考えられていた。「物質的なものは悪であるが、精神的な物は善である」という「二元論」の考え方である。しかし、聖書は、「一元論」である。人間の堕落によって、世界も堕落したが、新しい天と地として贖われた世界が舞台となり、その世界は永遠なのである。そして、永遠の身体を着せられた人間は、その世界で生かされる。神が新しく創造される世界は物質的な世界であり、神の栄光の世界なのである。

19:6,7で、クリスチャンと教会が、キリストの花嫁として描かれていたが、21:2には、「聖なる都、新しいエルサレム」が、同じような類比で、花嫁のように表現されている。贖われたクリスチャンたちは、「神の都」という新しい地で住む。この「聖なる都、新しいエルサレム」は千年王国で来ると考える人たちもいるが、私はそうは考えない。

21:11,12 ここには新しいエルサレムの描写がある。この都には神の栄光が満ち満ちている。
城壁の都市であり、朝夕門が開閉される。神の永遠の都では、イスラエルの役割が、功績として門にその名が刻まれる。旧約聖書における「真の神の民」で本当の信仰を持っていた者たちである。

21:14 また、都の城壁の土台石には、イエスの十字架の御業を解き明かし、全人類が救われるための功績のある、12弟子の名前が刻まれる。

21:16 都の長さや幅を表す1万2千スタディオンとは2,220kmとなり、エルサレムからローマに至る距離である。この通りの距離という事ではなく、神の都の完全性を象徴していると思われる。

21:19~21 アカデミー賞で、映画俳優たちが赤絨毯の上を歩くように、天国で私たちが歩く都は、非常に華やかで、大通りは透き通ったガラスの様な純金で出来ている。神様の素晴らしさと栄光を象徴している。
私たちはすでに、御霊を内に宿し、聖霊の臨在の中で生活しているが、それが全面的に展開する世界、そんな世界に私たちは迎え入れられる。

21:22,23 ディスペンセーション主義聖書解釈では、旧約聖書に基づいて、神殿やいけにえやいろんな物が復活すると考えられているが、「この都の中に神殿を見なかった。」と書かれている。神様ご自身が「神殿」なのである。都の中心に神様が座しておられる。太陽も月もいらないほど、神様の栄光が都を照らしている。

21:24 諸国の民、全地の王がその都にやって来る。普遍的で、全人類的に、小羊のいのちの書に名が記されている者だけが、集まってきて神様を礼拝し安息する。裁きはもはやなく、神の臨在の中に永遠に生活する。(仁美記)

2016年11月16日 新約聖書ヨハネの黙示録20:1-15(MP3)「神の民は一千年間、キリストとともに支配する」

 19章はイエス・キリストの再臨、20章は千年王国、21章は新天新地について書かれている。
  終末については、いろいろな考え方があるが、ディスペンセーション主義聖書解釈でもなく、旧約聖書のイスラエルは、教会に置き換えられたのだとする改革派教会の「置換神学」でもない中間の考え方をしたいと思う。
  それは、イスラエルにも役割を見つつ、クリスチャンたち異邦人も含めての者が一つとなって、千年王国をキリストと共に支配するという、穏健で中庸な考え方である。
  極端な考え方をせず、キリストの弟子たちが持っていた、バランスの取れた教えを身につけるべきである。

  20:1~3  患難時代が終わり、キリストが再臨されて、にせ預言者、獣、サタンの代理のような者たちは、硫黄の池に生きたまま投げ込まれた。
  キリストが再臨されて、天に携挙されたクリスチャンたちは、千年の間、再び地上に降りてきて、キリストと共に支配する。この千年という長さは、完全数10の3乗であるが、本当に千年なのかは定かではない。

  20:4  1世紀の教会は、ローマ帝国下で迫害に遭い、多くの者たちが殉教していった。日本においても、秀吉の頃の安土桃山時代、徳川時代などキリシタンたちは迫害を受けた。中でも有名なのは「高山右近」である。
  キリシタン大名であった高山右近は、キリスト教信仰を捨てれば、立場は安泰であったが、それを拒み、すべてを捨てて、国外追放となりフィリピンの地で熱病により亡くなった。
  歴史の時代に翻弄され、イエス・キリストの信仰の故に殺されていった人々も、キリストの復活にあずかるのである。

  今の地上での生活にも戦いがある。お金持ちだから成功するわけではない。キリストを救い主と信じて亡くなった者が、キリストが再び来られた時に、生き帰らされて共に世を治める者とされるのである。
  地上では報いが少ないが、最後にはキリストと共に生きた者が、最終的な勝利者となるのである。

  20:7~9  千年の終わりには、サタンが牢から解き放たれ、ゴグとマゴグの戦いが起こる。そして、天から火が降ってきて、彼らは焼き尽くされ、サタンも最終的には滅ぼされてしまう。

  20:10  キリストの再臨の時に、にせ預言者や獣たちが投げ込まれた池に、サタンも投げ込まれてさばきを受ける。

  ディスペンセーション主義聖書解釈をする人たちは、この千年王国がイスラエルの人々にとって、特別な時であると考える。旧約聖書から新約聖書、黙示録を理解しようとして、旧約聖書におけるイスラエルに対する預言は、この千年王国において成就するのだと考えるのである。
  千年王国について書かれているこの20章に、イスラエルに何かが起こるとは何一つ書かれていない。また、ローマ書9~11章にも、千年王国の事について書かれているが、イスラエルについては一言も書かれていない。

  新約聖書は、旧約聖書を弟子たちが、イエス・キリストの十字架の御業を通して再解釈して書いている。イスラエル民族を特別に見る見方ではなしに、イエス・キリストを信じる者は、イスラエル民族であろうとなかろうと、すべてクリスチャンであり、一つの神の民であって、終末期に訪れる千年王国は、キリストとすべてのクリスチャンである神の民が、キリストと共に支配する世界であるという事である。
  神の民は普遍的な神の民である。終末期においては、その時代に生きている神の民が大患難時代を通され、後に来る千年王国も普遍的な神の民がこの世界を支配し、後に来る新天新地を迎えるのである。
  終末期の世界は、すべての民族が和解して、キリストが支配する世界へと移行して行くのである。(仁美記)

2016年11月16日 新約聖書ヨハネの黙示録19:1-21(MP3)「花嫁は用意ができ、小羊の婚姻の時がきた」

【黙示録19章】
         19:1  この章では、いよいよキリストが再臨される。そこでは、大きな賛美が起こる。1,3,6節「ハレルヤ!」ヤーウェを褒めよ!
   「最後の審判」が悪であり闇に対する裁きだとすれば、「小羊の婚姻」は光の部分に当たる。

   19:2  神様に敵対し、背を向けた社会や文明が溢れている世界に対し、神様を信じ世の汚れから聖くあろうと戦い、証し、迫害されつつも生きて行く、花嫁のような「神の民」がいる。
   「神のさばきは真実で、正しいからである。」だから、賛美しよう!

   世界の歴史を見れば、大変な事がたくさんあった。ナチスドイツによる、ユダヤ人300万人の虐殺、日本軍による「南京大虐殺」など、人間は間違った事を沢山起こしてきた。これらの犯罪を人間が裁くには限界がある。しかし、神のさばきは真実で正しい。
   不品行、悪行で地を汚した人々は、放っておかれる事はない。1世紀のローマ帝国で迫害を受けていたクリスチャンたちは、「聖い生き方をしてどうなるのだろうか?」と迷ったかもしれない。
   しかし、天に引き上げられたヨハネが見た幻を見る時に、「神様は正しく裁いて下さる!」ハレルヤ!

   19:3  神様は正しい者たちを救い出して下さるだけではなく、悪い者たちを裁いて下さり、正義を行って下さる。

   19:6  世の初めから、神様は「王の王、主の主」であるが、この地上では、悪がはびこってきた。しかし、裁きの日には神様が「王の王、主の主」であることがはっきり分かる。

   19:7  イエス様が再び患難の時、裁きの後に、地上に来られる「再臨の時」は「小羊の婚姻の時」であり、教会またクリスチャンたちは、「小羊の花嫁」として迎え入れられ、天に引き上げられる。

   19:8  花嫁が着る「光り輝く、きよい麻布の衣」は、7:9,14  に書かれていた「大群衆の白い衣」の事である。その衣は小羊の血で洗われ、小羊を信じる者に与えられた衣である。「与えられた」はギリシャ語でデカイオーマーと言われ、「正しく宣告された」という意味である。
   この事は、クリスチャンたちが正しいことばかりをしてきた、というのではなく、私たちは元々罪人であり、罪深い性質を持っているが、キリストを信じることによって「正しいと宣言された」ということである。
   そして、生きて行く中で、正しい行いが出来るように、御霊が生かし助けて下さるのである。私たちは、決して自分を誇ることは出来ない。キリストがそうであったように、謙虚な
気持ちでただ生きるだけである。

   19:9  イエス様が再臨される時、私たちは結婚式に招待される。

   19:10  御使いを見た時、ヨハネは神様だと思って拝もうとした。御使いは「いけません。御使いは神様に仕える者であって、クリスチャンと同じ神の僕です。」と言った。パウロがギリシャのアテネで説教をした時に、人々がパウロを拝もうとして、パウロが止めさせたのと同じことである。
   どんなに優れた信徒や指導者であっても、神のように拝んだり礼拝してはならない。神様だけが、礼拝されるべきお方である。

   19:11  イエス様は白い馬に乗って来られる。白は「勝利」の象徴である。勝利の主として再臨され、「忠実また真実」と呼ばれる。
   イエス様の十字架は私たちの罪のためであった。十字架での身代わりの裁きを受けられ、3日目に蘇られ、わたしたちを罪の中から救い出して、赦して下さった。十字架の出来事は、世界中の人々の出来事なのである。まず、御子が裁きの中に置かれた。その裁きの中に私たちも置かれ、裁かれて、御霊によって生かされた。この繰り返しが、クリスチャンの毎日の現実であろう。

   19:13  「その方は(カルバリの丘の十字架で流された)血に染まった衣を着ていて」、そこは、決死の戦いの場であった。

   19:14  天の軍勢の戦いは、武器による戦いではない。十字架による戦いである。クリスチャンたちは白い馬に乗って、白い麻布を着て従う。なぜなら、クリスチャンも十字架の出来事の恵みの中におり、十字架の戦いを続けていくべき者たちであるからだ。

   19:15  イエス様の口から出る剣は「み言葉の剣」である。

   19:17  ここではエゼキエル39章の幻が描かれている。神様の悪に対する勝利を表している。「肉を食べる」とは象徴的な言葉で、悪が完全に打ち破られ、裁かれる様を表している。
「神の大宴会」が始まるのである。

   19:19  最後の獣と地上の王たちとの戦いがある。これが、「ハルマゲドンの戦い」である。

   19:20  戦いが始まるやいなや、獣はとらえられた。日本の関ヶ原の戦いがたった1日で終わったように、悪の地上の全ての力を合わせても、神様の圧倒的な力にはかなわない。獣もにせ預言者も、硫黄の燃えている火の池に、生きたまま投げ込まれた。「悪の完全な滅亡」である。

   神様は、地上の悪をそのままには放っておかれない。「最終的な裁き」があり、神の民には「最終的な救い」がある。大淫婦の裁きの裏には、キリストの花嫁の婚姻がある。汚れた獣やにせ預言者には、真っ白な麻布を着た聖徒たちがいる。
   神様の「最終的な審判」を通して、神様は神の民には「最終的な救い」を与えて下さる。
   「硫黄の燃えている火の池」ではなく、私たちは「小羊の花嫁として、大宴会」に招待されるのである。ハレルヤ!(仁美記)
*
【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev19

2016年11月16日 新約聖書ヨハネの黙示録18:1-24(MP3)「わが民よ。この女から離れなさい」

【黙示録18章】
          この章は、「大バビロンへの裁き」についてである。
旧約聖書に出てくるバビロン帝国は、巨大な国、そして、バビロンはその首都であった。栄華を極め、豊かな都「バビロン」は、道徳的に腐敗し、人間の罪深さ、弱さが際立っていた。
 
   18:1,2  「大バビロンが倒れた。」倒れるまでは、素晴らしい権力を誇っていたのに・・・
   この聖書の箇所を見ていると、アメリカのニューヨークで起きた、同時多発テロを思い出す。栄華を極めた、世界で最も最先端で優れた頭脳を持つ人々が働く「ワールド  トレードセンタービル」に、あの日、二機の飛行機が突っ込んだ。逃げ惑う人々、全世界の人々が見守る中、無惨にも崩れ落ちた二本の巨大なビル。モウモウと立ち込める煙の中で、多くの人々が命を落とした。

   豊かさにはもろい一面がある。ダニエル書にあるように、バビロン帝国はたった一夜で滅ぼされてしまった。豊かさと守りの強固さを象徴する「ユーフラテス川」をせき止められる事によって・・・また、近年では、世界中が酔いしれる中、リーマンブラザースの倒産に始まる「バブル崩壊」も然りである。

   バビロン帝国は、外側は素晴らしかったが、内側は「悪霊の住まい・・・」であった。1世紀の迫害下にあるクリスチャンたちに、ヨハネは言う。「ローマ帝国の繁栄の内側は、汚れた物で満ちている。そして、神様はそのままにしてはおかれない。神様を信じる者は、地上の偽物の豊かさに惑わされるな!」

   18:3  ローマ帝国の虚構の文化、文明の繁栄は、内側を見れば、いっぱい汚れを詰め込んだぶどう酒を飲んでいるようなものである。そんな物に協力し、経済的な繁栄と引き換えに、不道徳や不品行に染まる国々や経済人たち。好色に便乗する事で得た富は、虚しいものである。
   好色とはギリシャ語でストゥレーノス、意味は「好色と贅沢」である。

   18:4  「わが民よ。この女から離れなさい。」虚飾の大バビロンも1世紀のローマ帝国も、そして、今の時代の資本主義社会も、拝金主義に染まっている。しかし、それに染まらないように、その罪を見抜いて影響を受けないように!と、神様は勧めておられる。
   現実味のない「マネーゲーム」によって、全てを失い莫大な借金を抱え込む人々は多い。偽りの豊かさ、それに伴う不品行、好色に呑み込まれてしまわない様に気をつけなさい。

   18:8  「彼女は火で焼き尽くされます。」今の虚飾の富が、永遠に続くかの様に錯覚し、巻き込まれた人々は、遊女の様に焼き尽くされる。
   神様は天におられて、正しい裁きをなさる。バビロンのような、弱肉強食の世界は、弱い人々、小さな企業を食い尽くすように、踏み潰していく。

   18:10  『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』偽りの豊かさは砂上の楼閣のように、あっという間に大水が寄せれば、一夜のうちに、その根本が崩されてしまう。
   店々に溢れる沢山の商品、宝石、などなど、飛ぶように売れていたのに、国が破れ、買うものがいない。立琴を奏で、歌を歌っていた人々もいなくなってしまった。(18:22)  
   ヨハネがこの黙示録を書いた後、ローマ帝国もバビロン帝国と同じように滅びてしまった。

   18:20  神様は生きておられて、聖いお方、公正な裁きをされるお方である。
バビロン帝国やローマ帝国において、富を求めず、聖く、真面目に生きている人々が迫害に遭い苦しめられている。しかし、時代や歴史を超えて、本質を見抜いて、神様の御心に従って生きて行くように勧めている。

   18:24  迫害され、苦しめられながらも、神様の前に忠実に一歩一歩歩んでいる人々を、神様は忘れてはおられない。
   バビロンに対する「天のエルサレム」が用意され、公正な裁きの後、神の民は祝福を持ってそこに入れられる。地上でのまやかしに惑わされず、天のエルサレムを目指して、聖く、忠実に毎日を生きる者とされたい。そこにこそ、本当の幸福、本当の祝福があるのだから・・・
(仁美記)
*
【解説・関連記述】
http://www.aguro.jp/d/file/m/mi_2009.htm#Rev18