"Old"ナルドの香油


201601-04_説教メモ

礼拝説教集:一宮(旧山崎)チャペル 1997a 1997b 1997c 1998a 1998b 2007 2008 2009 2010 2011 2013  2013_説教メモ 2014_説教メモ  201501-04_説教メモ 201505-08説教メモ


記録: 安黒仁美

※1/1より、多くの機器にて視聴できるよう、ファイル形式をmp3のみに変更しています。


2016年04月24日(一宮チャペル)新約聖書エペソ1:3-14(MP3)「天にあるすべての霊的祝福―すなわち選び、罪の赦し、御霊の内住」

  先週から、エペソ人への手紙を学んでいる。この書はパウロが獄中で書いた手紙だと言われている。「異邦人のために囚われた囚人ーパウロ」、この時までは、自らテントメーカーとして働き、資金が出来たら伝道に出かけ、また、仕事に戻る、そんな忙しい日々を過ごしていた。しかし、ある時、パウロは自ら望んで控訴し、囚人となる事によって証しをする道を選んだ。
   神のご計画は人とは異なっている。神はこの時、最も用いられている人を、獄中に放り込むことを許された。忙しい日々を過ごしていたパウロは、獄中においてゆっくりとした時を持ち、祈りと瞑想の中に置かれた。深く静まる中で、いろんな事が見え、諸教会の必要も示された。
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   AD61年にエペソ人への手紙は書かれ、パウロの信頼あついテキコに託された。
   1:3  まず、エペソ人への手紙は「神を褒め称えるため」の手紙である。
   私が「ほめたたえ」という事で思い出すのは、第2次世界大戦中の、あるドイツ人クリスチャンの証しである。彼はロシア戦線での戦いの中にあった。機関銃の弾丸が飛び交う中、地面を這うように前進していた時、ふと、地面に咲く小さな赤い花が見えた。生死をかけた戦いの中、小さな可憐な花は、彼に神を思わせた。「ああ、この小さな花々は、この戦争よりも偉大なのだ」と・・・
   彼の名前はヴェスターマンと言い、後に20世紀を代表する有名な神学者のひとりとなる。彼は旧ソ連の捕虜収容所に入れられていた時、詩篇に関する博士論文を思索したと言われている。彼の収容所生活を詩篇の言葉が支え、慰め「詩篇における神のほめたたえ」という論文になり、後には本となった。
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   1:4  私たちの神様は、唯一であるが、三位一体の神様である。御父は、キリストにあって、聖書を通して「天にあるすべての霊的祝福」をもって、私たちを祝福しておられる。その「霊的祝福」について、「すなわち」という言葉の後に説明がされている。
   これは、パウロたち、使徒たちに明らかにされた霊的真理であり、霊的真理の教理的解き明かしと言えるものである。だから、もし使徒たちがいなければ、私たちの「霊的真理」の理解は、表面的なものとなり、貧弱なものとなっていたことだろう。
   パウロはここで「天にある霊的祝福」の内容の一部を解き明かしてくれている。今日は、そのうちの3つのポイントにしぼって見ていく事としよう。
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   1,  「世界の基の置かれる前から、''選ばれている''」という祝福
私たちの信じる神様は、天地創造の神、摂理の神、である。つまり、この被造物世界の全てを造られた方であり、ご自分の御旨に従って導いておられる方である。
   この神様は、また、歴史を司る神である。神様による世界の青写真、また、歴史のシナリオがあり、その中に私たち1人ひとりの人生も含まれている。世界の基の置かれる前から「聖く、傷のないものにしようと」4節、「ご自分の子にしようと」5節、「罪の赦しの恵みを与えようと」7~9節、「御国を受け継ぐ者としようと」11節、''あらかじめ定められ''ていた。
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   2,  「''罪の赦し''」という祝福
このことは、1:7  にわずか1行でまとめられているが、詳しくは、ローマ4:5~8において詳述されている。ダビデというのは、イスラエルの歴史の中でもトップクラスの有名な王様である。日本の歴史における、豊臣秀吉、徳川家康級の王様である。しかし、聖書はその素晴らしさを記録するのではなく、人妻のバテシェバとの「姦淫の罪」、その夫を最前線に送り、死なせた「殺人の罪」を記録している。
   このことは、「クリスチャンとは、いかなる人の事なのか?」を教えている。一般に、クリスチャンと言えば、「聖い人」、「優しい人」、「親切な人」というイメージがある。しかし、ダビデの事を通して、クリスチャンとは「何の働きもない、不敬虔な者が、キリストの血によって覆われている人」であると教えている。出エジプト12:13  では、過ぎ越しの祭の事が書かれているが、家の中にいる人びとの善し悪しではなく、家のかもいに血が塗られていると、神の裁きを逃れる事が出来た。この事は、キリストの十字架の身代わりの死によって、私たちへの神の刑罰は終わったとみなされる事を教えている。
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   3,  「御霊の内住」という祝福
1:13  「約束の御霊」について書いてあり、「証印」、「保証」という言葉がある。「証印」
というのは、動物などの所有物に押される「焼き印」であり、「保証」というのは、「アラボン」という言葉で、土地や建物を購入する時の「手付金」を示す言葉である。
   私たち自身が「神の所有物」とされていること、またある意味では、「御国の土地・建物を入手する手付金」手続きをした者とされているというのである。
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   では、「御霊の内住」をどのようにして知ることが出来るのだろう?その鍵となる聖句は、ローマ8:15,16である。
   クリスチャンホームに生まれ育った子供や、求道者のある方々は、「自分が救われているのかどうか?わからない」という人がいる。そういう人たちには「あなたは、''神様''、''天のお父様''と親しい気持ちで、心からお祈りすることが出来ますか?」と聞く事にしている。もし、「はい、出来ます。」と答えるなら、「いつから、出来るようになりましたか?」と聞く。すると、その人はいろいろ思い出して、その時期にたどり着くだろう。
   その時、ローマ8:15,16を開いて、読んでもらい「あなたが''神様''、''天のお父様''と親しい気持ちで祈ることが出来るのは、あなたの内に御霊がおられるので、あなたは御霊とともに、アバ、父と祈ることが出来るのです。」と救いの確信、御霊の内住の確信を与えることが出来るのである。(仁美記)

2016年04月17日  新約聖書エペソ1:1-2(MP3)「使徒パウロから、忠実なエペソの聖徒たちへ―透き通った音色の神のほめたたえ」  

 来週より、2ヶ月に1度のペースで親友の教会にて、礼拝とセミナーの奉仕をさせていただくことになっている。今まで、一宮チャペルでは、ヨブ記の講解説教をしてきたが、2つの異なったメッセージをするのは大変なので、そこに行く前の週と当日の礼拝は、エペソ人への手紙からメッセージをすることとする。
   最近の礼拝メッセージは、数多くの聖書注解書等を収集し、その中から1番私の思いにぴったりくる注解書等を選び、私自身が学び教えられつつ説教の準備をさせていただいている。ヨブ記は浅野順一先生の注解書、今回のエペソ書はジョン・ストットの説教集を参考にして、お話しさせていただきたいと思う。

   エペソ書は、見事なまでに簡潔、しかし包括的な、キリスト教の福音とその意味合いについての要約である。パウロはこの書をローマの牢獄において書いたのだが、彼の奉仕のエッセンスが詰まった総集編になっている。
   この書を読む人は誰でも、感動と礼拝の反応を起こされ、生涯を通して学び続ける挑戦を受けずにはおられなくなる。かつて、ジョン・マッケイというプリンストン神学校の校長は、「若い時に、エペソ書を読んで、高い丘のいただきに引き上げられる経験をした。」と言っている。このエペソ書は、「透き通った音色のする曲のようであり、教理のかたちをとった歌を賛美するようである。」と証ししている。

   このエペソ書の著者は誰なのか?今日さまざまな議論がある。パウロが書いた他の手紙には、それぞれの教会の兄姉についての記述がある。しかし、エペソの兄姉をよく知っているにもかかわらず、この手紙では「間接的表現」が多いという点がある。
   その説明としては、この手紙が、エペソの教会だけに宛てて書かれたのではなく、小アジア地域の諸教会で「回覧して読まれることを意図して書かれた手紙」であったことからそうなったということである。

   もう1つ、著者がパウロではないのではと言われる理由は、パウロの他の手紙と「神学的な主題」に相違があるということである。
   他の手紙、ローマ書やガラテヤ書では「義認」というような主題が扱われている。また、テサロニケ書では「再臨」が主題である。しかし、エペソ書では、宇宙的な次元への言及や、天的な視点が多く書き記されている。この説明としては、異なったテーマを扱う時には、異なった言葉が必要だったのではないか?ということである。

   エペソ書は、他の手紙と違い論争的な手紙ではない。この手紙を書いた時、パウロは軟禁状態であった。しかし、比較的自由があり、深い思索と瞑想の中でこれを書いていた。
   1,  エペソ書は「とりなしの祈りの書」である。この手紙には、祈りの言葉が満ちている。
   2,  エペソ書は御父・御子・御霊についての「断言・確認の書」である。御父の選び、御子の死・葬り・復活、御霊のわたしたちの間での働きについて書き記されている。
   3,  エペソ書は「伝道の書」である。1~2章は「神の救いの目的と行為」、3~4章は「教会に向けて、また教会を通しての神の自己啓示の継続的な働き」、5~6章は「この世におけるクリスチャンの大胆かつ喜びに満ちた大使の役割」について書かれている。

   「1:1  神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」
   1,  彼らは「聖徒」である。しかし、これは当時の一部分の人たちのことではなく、すべての「神の民」に宛てられている。昔、イスラエルの民に対して「聖なる国民」という言葉が使われた。しかし、今や、この言葉は民族を超えたクリスチャンの共同体に範囲は広がり、「神のイスラエル」と呼ばれている。
   2,  忠実な=ピスティスには、2つの意味が含まれている。1つは「信仰のある」であり、もう1つは「誠実な」である。

   この手紙には、神がイエス・キリストの歴史的御わざを通して、何をなさったのか、そして、今日御霊を通してなされていることに焦点を当てている。それは、古い社会に、神の新しい社会を打ち建てるためである。
   キリストは人間の罪のために十字架にかかり、犠牲の死を遂げられた。しかし、彼はその後、神の力によって死からよみがえらされ、天に昇天された。
   そして、我々は信仰によって彼と1つに結び合わされているもの「キリストの内にある」ものである。つまり、彼とともに、霊的な死からよみがえらされ、天に挙げられ、彼とともに御座についているのである。

   我々はまた、神と和解し、お互いと和解したものである。結果として、キリストを通し、キリストにあって、我々は新しい社会、また新しい国民の一員なのである。そこには、ユダヤ人も異邦人も関係が無く、時が満ちて再びキリストが来られたら、我々は挙げられ、キリストの民として集められる。そこには、新しい1つの社会が作られる。

  1,   1:3~2:10  神がキリストにおいて我々に与えられた「新しい命」
  2,  2:11~3:21  神がキリストにおいて創造された「新しい社会」
  3,  4:1~5:21  神が彼の新しい社会、特に一致と純粋さを期待される「新しい基準」
  4,  5:21~6:24  神が我々にもたらされる「新しい関係」

   この手紙全体には、キリスト教教理とクリスチャンの責任、クリスチャンの信仰と生活について書かれている。
   神がキリストを通して何をなされたのか?そして、その結果として我々がすべきことは何なのか?我々は価値ある生活をどのように生きるのか?そして、ある日、それはどのように完成するのか?である。

   話は変わるが、カール・マルクスもまた「新しい人、新しい社会」について書いた。マルクスのビジョンに多くの人が賛同し、その実現に自らをささげていった。しかし、マルクスの掲げた人類の問題とその解決は経済的なことであり、階級のない社会こそ「新しい社会」であった。マルクスのビジョンによって生まれた社会主義、共産主義の国は、人間の内にある苦境を根本的に解決することは出来ず、崩れ去りつつある。

   では、パウロが提示したビジョンとは何なのか?人間の苦境は経済的なことよりも、さらに深い次元によるものであり、根本的な解決には「新しい創造」が必要であると説いている。
   1,  イエス・キリストによって「良い行い」をするように再創造される。
   2,  ユダヤ人や異邦人の区別なく「単一の新しい人」が創造される。
   3,  「義と聖」に再創造される。

   神の新しい創造物そして新しい共同体としての「教会」についてのメッセージは、個人主義が浸透している今の時代、クリスチャン1人1人はあまり教会について気配りしない傾向がある。しかし、聖書から神学を引き出すものは、教会に対しても「高度な」見方を持つべきである。聖書が教会について、どのようなビジョンを持っているのかを把握する必要がある。
   共産主義社会においては、教会は特権を奪われ、しばしば迫害され、時には地下にもぐらざるをえなかった。しかし、そのような状況は「教会の本質的部分とは何なのか?」ということを考えさせた。

   また、最近は第3世界において、教会は急成長している。しかし、どんな種類の教会がもたらされ、成長しつつあるのかをよく見なければならない。教会と言いながら、土着の宗教との癒着がひどいものもある。
   教会とは何なのか?教会の本質とは何なのか?エペソ書はこれらの問いに答え得る書物である。つまり、教会とは「キリストがご自身をささげられた」5:25,「彼のからだ」であり、「彼に満たされている」1:23  所であるべきである。(仁美記)

2016年04月10日   旧約聖書ヨブ記12::1-25(MP3)「潔白で正しい者が物笑いとなっている―弁論の第二ラウンド」

   先週は、ICIのビデオファイルの画質を低い物から高い物に作り直し、アップし直した。10年間の、奉仕、講演、講義を振り返って見る事が出来た。
   私たちは、一生涯、罪と肉の性質を帯びたまま生きている。ヨブは苦難、苦悩の只中で、神に叫び神の法廷で、信仰者として戦っている。私は、今の日本のキリスト教会にうごめく、富と繁栄の神学、デイスペンセーシヨン主義聖書解釈、キリスト教シオニズム、レストレーション運動などに内包されている間違った教えの部分の克服に取り組んでいる。私たちが、真に神に仕えるとはどういう事なのか?を日々模索しているのである。

   今日から、12~14章にかけて、ヨブの弁論の第2ラウンドが始まる。第1ラウンドは3章であった。ヨブは自分の生まれた日を呪い、3人の友人たちはそれに応えた形になっている。
   今回の弁論をするにあたって、新しい問題が現れたわけではない。ここまでに成された3人の友人たちの批判や勧告に対して、さらに徹底してヨブは弁論していくのである。

   ヨブ記を学んでいて教えられる事は、まず、友人たちの言葉を通して、真面目な信仰者にありがちな「盲点」に光を当てられるという事である。
   また、反対に苦難の中にある人は、まるで井戸の底に降りていくような経験をしている、という事を教えられる。真っ暗な井戸の中を下へ下へと降りていくような辛い経験である。しかし、最も下の井戸の底にたどり着いた時、見上げると遠くに空が見える。そして、不思議な事に、昼間であっても星が見えるのだという。それこそが、苦難を通った者のみが見ることの出来る世界であり、そこを通して人間は神の祝福を受けることが出来るのである。

   12:1~6  ヨブは友人たちのことを「あなたがた」とひとくくりにし、「あなたがたが知っているような事は、みんなが知っている。」と痛烈な皮肉を言っている。そして、神様からお墨付きをいただいた様な「信仰者、義人」である自分が世の中の物笑いとなり、「悪人」が平安に繁栄するという、「矛盾と不合理」を突いている。
   今、世界中を駆け巡っているニュース「パナマ文書」はまさにその典型である。貧しい国民には重税をかけ、一部の豊かな経済人や政治家が、「タックスヘブン」と呼ばれる国に投資する事によって、莫大な税金逃れをしているのである。
   
   ヨブもまた、この矛盾に苦しむ1人であった。見ようによっては、ヨブは被害妄想に陥っていると言えなくもないが、友人たちへの怒りや反論と言うよりも、信仰者としての苦しみであり、信仰の方程式を確信する者の苦悩である。

   12:7~11  ここは自然の生物また人間を通しての教訓であるが、それは神が造られたものであり、神が支配者であることを教えている。つまり、神は全知全能の方なのである。この創造された世界と生き物、そして人間を保持し摂理の中に導き、支配される神がおられる。
   しかし、この「神の教理」は、鵜呑みにして良いのか?それで、ヨブのような義人の苦難も理解しうるのか?説明しうるのか?
   全知全能の神がおられるのに、どうしてヨブのような苦しみ苦難があるのだろうか?

   12:12~25  この部分は神の知恵と力についての賛歌であると言われる。しかし、現実の世界に対する神の指導統治の思想を疑っているところがある。
   ヨブの苦難は、財産や家族や身体の病における苦難だけではない。それは、「信仰者の苦脳」である。「福音理解における苦悩」と言っても良い。私たちの「神理解、世界理解、人間理解」と矛盾する現実に直面した時、私たちはどのように反応するであろうか?

   例えば、イスラエル民族は、歴史上捕囚としてバビロンやアッシリアに連れて行かれる。国は混乱し、崩壊していく。また今の世界でも、シリア、リビアなど、多くの難民を出している。いったい、神による秩序はどうなっているのか?信仰者として、どのように神を理解したら良いのか?
   人々は呻いている。クリスチャンも御霊によって呻いている。ヨブの3人の友人の素朴な理解、教義、教理、はわかっている。批判や勧告も致し方ないかもしれない。しかし、今は叫ぶしかない、呻くしかない、そんな私に寄り添ってくれる者はいないのだろうか?休ませてくれる場は無いのだろうか?(仁美記)

2016年04月03日   旧約聖書ヨブ記11::1-20(MP3)「野ろばの子も、人として生まれる―誤解の歯車」

   ヨブ記  1~9章において、ヨブは苦難を背負いこみ、訪ねてきた友人からは責め立てられる。これに対し、ヨブは友人たちに、また、神御自身に激烈な訴えを続ける。ヨブはただ、不当な苦悩を激しく神に訴えているのである。
   9,10 章にわたり、ヨブの弁論は終わるが、終始一貫、神の理不尽な攻撃に対して抵抗する事によって、エリファズ、ビルダテのヨブに対する勧告や批判を激しく跳ね返している。
   ヨブの葛藤する姿は、ローマ7章にある、信仰者の生きる中での葛藤を教えられるものである。
   
   11章は第3の友人、ツォファルの弁論が始まる。
11:1~6  ナアマ人ツォファルは単純で、幼さが見える。彼の言葉は最初、甚だ強烈であり、ヨブを激しく批判している。「ことば数が多い、舌の人、あなたのおしゃべりは」とまず、ヨブを「口数多く、不信仰で、冒涜的」と責めている。そして、「多弁だが内容が無い!」とまで言っている。
   ヨブの第3の友人ツォファルは、ヨブが自らを「罪なし」とし、友人にも神にも強く反発する態度に憤慨し、説得しようとするが、人間の説得では如何ともし難いヨブの態度に、「ああ、神がもし語りかけ、あなたに向かってくちびるを開いてくださったなら、・・・」と神に助けを求めた。
   それは、神はその義をもって人間の罪を厳しく裁くが、また、その憐れみをもって人間の不義を赦されるであろうと、ツォファルが信じているからである。ツォファルも他の友人たちと同じように、1, 神は正しい方であり、罪人を審判される。2, 審判されている人は罪人であり、よって、ヨブの苦難は罪の結果である。3, 罪人は悔い改めるべきであり、悔い改めれば、祝福を取り戻せるであろう。と思っている。

   しかし、人間には限界があり、神の極限、神の限界には到底至る事は出来ない。特に、旧約時代、神は「隠れたる神」であった。新約時代になって初めて「キリストにおいて現れたる神」になられた。
   ヨブもツォファルが言うところの「信仰の方程式」は百も承知である。ただ、その方程式にあわない「ヨブの事態」が起こっており、信仰者として誠実な、真実な叫びを上げているのである。
   苦難の問題は単なる「信仰の方程式」では解けない。しかし、神の御子であり、罪も無いキリストが十字架につけられた、「キリストの受難」を考えた時、キリストと我々が一体化され、我々の問題も解決され理解できるようになる。

   11:7~12  「神の賞罰的な正義の教義」がツォファルの思想の原理であって、その事が、ヨブの事態を理解できない壁になっている。病気の人の気持ちはその同じ病気になった人にしかわからないと言われるが、苦難の中にある人は「苦難のキリスト、苦難の極限を背負われたキリスト」との深い、実存的な出会いを通してでなければ癒されない部分があるのではないか?
   そして、苦難を味わった人には、深い次元での神との交わり、言い尽くせない恵み、特権が与えられると考えられる。
   
   11:13~20  ツォファルは最初ヨブを激しく叱責したが、後半には励ます事も忘れていない。彼自身も振り子のように揺れているのである。教義に対する、彼の理解の弱さと楽天的な態度が、さらにヨブの憤りを招いている。
   ヨブに対し、ツォファルは2つの条件をもってもう一度ヨブが立ち直る事を切に勧めている。ツォファルの勧告に従うならば、平安と光明が与えられる。そして、もし、今、絶望の淵にあろうとも、絶望は希望に変えられるというのである。
   しかし、彼は自分たちの勧告に従わない、悪人の陥る運命についても語っている。「不真実な者ども、無知な人間、野ろばの子」これらはヨブのことを指しており、ヨブの執拗に訴える姿を断罪している。

   神の正義がそのままこの地上に実現するがごときツォファルの楽天主義は、到底ヨブを納得させる事は出来ない。ヨブが戦っている法廷は、「ヨブの罪」ではなく、「義人の苦難」に光が当てられている。神御自身が、ヨブの事を「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と評価されているのにも関わらず、「全知全能の神がおられ、その方は御子を賜るほどに慈しみ深く善意に満ちた方」であるにも関わらず、ヨブのように正しく生きる人たちが、「激烈な苦難を経験する」のはなぜなのか?という問いかけである。
   今日の私たちの世界でも、多くの叫びが上がっている。戦争の問題、貧富の問題、いつまでたっても無くならない差別の問題、これらの事を神様に申し上げ、叫び、神様がどのようにしてくださるのか?私たちは歴史的目撃者になりたいと願っている。(仁美記)

2016年03月27日 旧約聖書ヨブ記10::1-22(MP3)「あなたはたける獅子のように―陰府(シェオール)下り」

  今日は、キリスト教の暦では「イースター礼拝」の朝である。
   使徒信条にもあるように、イースターは「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、3日目に死人の内よりよみがえられた」復活の日である。
   私たちが学んでいるヨブ記は、ヨブが死を願い、生きたまま陰府に捨て置かれているような状況が、まさしく、十字架で死なれ陰府に下られたキリストのお姿と重なるのである。

   陰府とは旧約聖書のヘブル語ではシェオール、新約聖書のギリシャ語ではハデスという。シェオールは墓や死を意味し、ハデスは地獄の一部を意味する。
   シェオールは死と同義語であり、神の祝福、神との交わりが取り去られた状態を表しており、キリストが十字架上でおっしゃった「エリ、エリ、レマ 、サバクタニ。我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」がまさにその状況である。肉体の苦しみよりも、父なる神との断絶、それがキリストにとっての地獄の経験であった。
   しかし、反対に隣の十字架に架けられていた罪人はこう言った。「私の名前を憶えておいてください。」すると、キリストは「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」とおっしゃった。彼は死後ただちにキリストとの交わりの中に入れられる、これこそパラダイスである。
   私たちも復活の時、キリストと同じように肉体をともなって新天新地に住むことになる。

   ヨブ記1〜9章で、ヨブは様々な苦難を受け、友人からは責め立てられる。これに対してヨブは友人にまた神に激しく訴える。自分にとってこれは不当な苦難なのである、しかも、迫り来るヨブの死がわずかに残された命をも厭わしき物となっていく。

   10:1〜7  「私は自分のいのちをいとう。」ヨブは自分の生命を忌み嫌うと言っているが何故なのか?それは神が罪なき彼を強いて罪ありだとするからだという。全知全能の神は正しい裁きをされるはずだ。それが信仰の方程式である。しかし、ヨブは自分にはそれほどの罪はないにもかかわらず、多くの苦難を受けている。その不合理をはっきりかせるため、ヨブは法廷闘争をもって神に挑まねばならない。
   私たちも信仰生活の中で生じる疑問を、「毎日の祈り」の中でヨブのように、嘆き訴えることは、健全な信仰生活において大切なことである。

   10:8〜13  問1-ミルクのような精液が母胎に注ぎかけられるというかたちで、神がヨブを作り、彼を守ってこられたが、それは何のためであったのか?
   問2-神がヨブを生かしてこられたのは、果たして神の善意なのだろうか?あるいは悪意によるのだろうか?懐疑的である。
   問3-神は今、ヨブに対して極めて不当な取り扱いをしておられるのではないか?

   10:14〜17  ヨブが罪を犯しているのであれば、神から責められても当然である。しかし、彼にはそのような自覚も記憶もない。それなのに、神は獅子のように証人をもってあくまでもヨブを責め落とそうとなさる。それは、不当なことである。
   神がこのようにヨブを憎み苦しめられるのであれば、何故神は彼を母の胎内に作り、生まれしめたのか?全く不可解である。

   10:18〜22  ヨブは彼に覆いかぶさる苦難と病、そして、友人たちを通しての故なき非難と攻撃を受けて、友人たちと神に対して抗議するのにも疲れ果て、どうして自分が母の胎内で造られたのか?どうして胎内で死ななかったのか?また、生まれてもすぐに死んで墓に運ばれなかったのか?と悔やんでいる。
   そして、せめて死を間近にして、しばしの輝き、休息、喜びの与えられんことを求め、最後にもう一度陰府について語っている。

   ここで、9〜10章にわたるヨブの弁論は終わるのであるが、彼は終始一貫、彼は彼に対する神の理不尽な攻撃に対して抵抗している。これは信仰と不信仰の戦いでもある。どうして、ここまでヨブは神との法廷に立ち続けるのか?それは、彼が神の存在を心から信じているからに他ならない。
   私たちも、生きていく中で、ヨブほどではなくても、小さな病、災難、問題が私たちを襲った時、神に訴え、叫び、弁論の祈りをする時が来るだろう。ここにこそ、生きた信仰、信仰の躍動がある。(仁美記)

2016年03月20日 旧約聖書ヨブ記9:1-35(MP3)「みな同じことだ―混沌の絶叫を通過するヨブ」

 8章は、友人のビルダテが「神は正しい者を祝福し、悪しき者を罰せられる」という信仰の方程式に基づき、苦境の中がら絶叫するヨブを「神は義なる方であるから、その苦難には悔い改めるべき罪あり」と断罪し、「悔い改めと立ち返り」を求める内容であった。

 9:1-4 しかし、これほどの苦難に値する罪に覚えのないヨブは、そのようなビルダテの叱責に激しく反論する。そして、ヨブは「苦難の不当性を訴える自分の主張が正しいとしても、それを主張しうる神の法廷における同等の力と立場」をもっていないと訴える。

 9:5-18 神は創造者であり、支配者であり、圧倒的なお方である。自然界にその威力があらわされている。しかし、その力はヨブに対しては、恵み、祝福としてではなく、暴力として働く。苦難の悲惨さに値する罪に覚えがないヨブは、この苦難の理由を神に問いただしたいと願う。しかし、それを主張すればするほど、友人から激しく罵倒され、その傷はいよいよ深く、その苦痛は増し加わる。

 9:19-24 私たちは、ここに神と人間との間の絶対的な距離を見る。存在論的に神は創造者であり、わたしたちは被造物にすぎない。またその道徳的正しさも完璧な聖さにある神に対して、私たちは汚れた衣のような存在である。私たちは「行いにふさわしい、祝福を受け取っていない、罪に相当する災難ととしては不当である」と抗議しても、それを受けつけられる場所がない。

 私たちが、この世界に見るものは、ただ混沌があるのみであり、善も悪も同一の状況である。ヨブは自分の置かれた窮境のただ中で神を仰ぐと、「神は、あたかもその苦境を冷笑しておられるのではないか」という疑念すら抱いてしまう。

 私たちは、ここにおいて、神の正義は「人間によって考えられた正義」ではないことを教えられる。「神は正義である」という表現も、ヨブと友人においては内容を異にする。ヨブの苦難において、神の正義は「人間の正義」を全く破壊し無にする。そこにおいてのみ、「神の正義」が正義として成り立つ。

 「善悪同一なり!」と混沌を絶叫したヨブの悲劇を通過することにおいてのみ、新しい「神の正義」の世界が見えてくる。この次元はある意味「終末論的様相」を示している。この箇所は、ヨブ記における最底辺であり、キリストの陰府下りを思わせる。サタンの批判の焦点であった「信仰の方程式=繁栄・祝福保証付き信仰保険」は、ここに悲しくも破産を見たと言い得る。

 ヨブは、「神の冷酷な嘲笑」を感じつつも「神に激しく迫っている」。それはもはや「嘆き」ではなく、神の法廷における「訴え」である。徒労とはかない命を覚えつつ、わずかな希望を、神とヨブとの間を「正しく裁く仲裁者」に期待する。

 9:25-35 ここで、私たちが教えられることは、いまや私たちには仲裁者、弁護士たるキリストがおられるということである。私たちは今、大胆に神の法廷に立ち続けることが可能とされている。私たちは、そこで「義なる神の真実に、本当の意味で出会う」ことができるのである。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15-16)。(務記)

2016年03月13日 旧約聖書ヨブ記8:1-22(MP3)「もし、あなたが…なら―"if"構文の信仰観」
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   私たちは、今、ヨブ記を学んでいる最中だが、全体の文脈を意識するために、説教要約サイト「ナルドの香油」から、1章から7章までの「説教要約」を印刷して、振り返ってみた。すると、「ヨブ記の持つメッセージ」そのものの中に呼び戻され、さらに「ヨブの心情」の只中に引き戻され、圧倒されてしまった。その内容は余りにも深く、余りにも重い物である。
   自分の未熟さを教えられると共に、「生きることの意味、意義」について考えさせられる書物である。
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   8:1~3  4,5章のエリファズの勧告に対する、6,7章にはヨブの反論があった。その反論をもって、友人ビルダテは「激しい風のようだ」と査定する。そして、彼は「神の絶対的正義」の立場に立って、ヨブを強く批判し始める。神は「全知全能」なのだと・・・もし、あなたに不幸が訪れたとしたら、そこには必ず「原因」があるはずだ。
   ビルダテは「信仰の方程式」を引っ張り出し、「問題がある=原因がある」と言う。これは、誰でも納得できる「因果応報的信仰」である。しかし、この見方は余りにも物事を簡単に見過ぎている。人間が生きるという事には、もっと複雑な事があるという事も視野に入れておくべきである。
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   8:4~7  「もし、あなたの子らが神に罪を犯し、」とビルダテは言う。ヨブが自分に非がないと言うのであれば、子らの罪が原因で、その様な状況になっているのではないか?と問うている。これはまさに「賞罰の教義」である。神は正義のお方であるから、「家庭の不幸=彼らの罪」という事になる。
   聖書は本当にそんな事を言っているのか?苦悩の中にいる人に対して、ビルダテの様な人は、心情を理解できない「没常識」の人間である。そして、飛躍と無神経さが目立つ「解釈者」と言えるだろう。彼は善意を持ちつつ重大な過ちを犯している。
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   今日の教会や集会でも、同じ様な過ちが見られる。「私たちは心の底から、神様を愛している」と言いつつ、語られるメッセージや神学は、はたして本当に正しいのだろうか?何か事が起これば「あなたの子らが罪を犯し・・・」と責め立てる。しかし、それは短絡的な過ちかもしれない。1つの事を理解しようとすれば、盲点をも照らす「光」が必要となる。
   キリスト教界4,000年の歴史は、聖書解釈の歴史でもある。いつの時代にもある、本筋をはずれる運動は、聖書を正しく聞き取り、歩む事の難しさを物語っている。

   阪神淡路大震災、また、「3・11」東日本大震災においても、あの災害は「罪」のゆえである、と言った人たちがいた。歪曲であり、神学の貧困である。この様な言葉は、苦しむ人々をさらに苦しめる、許されざる言葉である。
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   8:4~7  ここには、「もし、あなたが・・・なら」という仮定の”if”構文が二回出てくる。これは、条件付きで神の恩恵を導こうとするビルダテの人間的計算が隠されている。何かをすれば良い事があるのであれば、人間の繁栄、幸福は「神の自由な恩恵」というよりは、良い事をした者への「神の報償」という事になる。
   しかし、ビルダテは根本から誤解している。ヨブが苦しんでいるのは、「自分にも家族にもこれほどひどい罰を受けるほどの罪は無い!」という主張であり、問いなのである。それを理解せず、まずヨブが罪人であると決めつけている。
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   8:8~10  先の、エリファズは「幻」から語り、ビルダテは「先祖の教え」から語っている。神は「全知全能」であり、「愛と義」に満ちたお方なのだから、「間違われる事は無い」という事をもとに、ヨブの「不信仰」を責め、「悔い改め」、「立ち返る」ことを勧めている。昔の伝承に学ぶ事はある意味正しいが、それだけではいけない。もっと深く掘り下げる必要がある。
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   8:11~19  ビルダテが言わんとしていることは、「不信仰な生活」がいかに根底の乏しいものであるか、反対に、「信仰者の生活」がいかに根強いかである。それをわからせるために、3つの比喩を用いている。
   パピルス・葦は「水」が無ければ枯れてしまう。つまり、信仰なくしては、人間の生命は枯れ果てる。まことに、神は「生ける水の源である」と説いている。
   蜘蛛の巣、糸は「家族、家、財産」を表している。ビルダテは、不信仰者はそれらの物に誤った確信を持つと考えている。人間はそれらの物に、自分の生活の安全や保証を見出そうとする、というのである。
   庭の植物はその家の「繁栄」を意味している。植物という物はある時は生い茂り、庭石などに絡みつき青々として生い茂っているかのように見えるが、やがて枯れてしまう物である。そのように、不信仰者は「繁茂する植物」のごとく、一時はいかに栄えても、やがて滅びる時が来るというのである。
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   8:20~22  ビルダテのメッセージは、彼のまっすぐで単純な信仰を表している。引いて言えば、深い思慮に欠けた愚かさが垣間見える。つまりは、動機は純粋なのだが、内容は有害なのである。ヨブがエリファズの勧告を受け入れず、自ら滅びの道に進もうとしているのを、必死になって止めようとしているのだが、その主張するところが正しいのかは問題である。
   エリファズは信仰の功利主義、利得主義の立場であり、信仰は「人間を幸福にする手段」だと考えている。しかし、この考えはヨブ記の最初に出てくる「サタンの考え方」そのものなのである。
   その様なわけで、ヨブは2人の説得を受け入れられない、「承服できない」のである。
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   今日の箇所を見ていると、今のキリスト教界に増えてきている「信仰は人間を幸福にする手段」という考え方について考えさせられる。
   ある1人の教え子がこんなメールをくれた。「昨年、ガラテヤ人への手紙の講解を終えて、今年に入って、ヨハネの手紙第一の講解説教に導かれています。初めてから聞いたことに留まることが大切であると教えられています」というのである。
   ジョン・ストットがティンダルの聖書注解で言っているように「あなたがたが初めから聞いたことが福音であり、使徒たちの教えであり、宣べ伝えられてきた元々のメッセージであった。それは変更されておらず、また変えられることなく、彼らが自分たちの内にとどまらせるべきものである。これは自動的にそうなるのではなく、彼らが注意深く見守らなければならない。クリスチャンは自分たちの神学がいつも保守的であるようにすべきである。」
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   もし、今のキリスト教界が耳新しいことを求め、目新しいことを教える教師を追いかけ、健全な教えに耳を貸そうとせず、結局、真理の知識に行き着かないのであれば、それは「終わりの日」に来るとされている「困難な時代」の特徴なのである。(仁美記)

2016年03月06日  旧約聖書ヨブ記7:1-21(MP3)「つばをのみこむ間も―片時も忘れず、捨ておかれない神」

この6章、7章は、形式的にはエリファズに対するヨブの反論であるが、内容的には特に後半は「神への反問」である。ヨブは友人に対しては、「いったいいかなる理由で、自分がこのような苦しみに合わなければならないのかを、真剣に考えて欲しい」と願っている。
   また、神に対しては、「深い病の中にあって、少しの慰めと安らぎが与えられん事」を願っている。しかし、生きる事に疲れ果てた「倦怠感」ではなく、「激しい生との戦い」である。聖書を見ると、ヨブは「死を与えてください!」と何度も訴えているが、この言葉を表面的に捉えてしまうのではなく、中に込められた深い意味を読み取らなければならない。この言葉は今、彼が置かれている「生への戦い」が「いかに激烈であるか」の裏返しである。

   7:1~6  ヨブは「人間の労苦」がいかに厳しいものであるかを語っている。そして、自分の現状はそれ以上であると訴える。「自分の病状」を詳しく述べて、迫りつつある自分の死期が、何の希望もなく終わろうとしている事を嘆いている。
   ヨブと同じような絶望感を味わっているのは、現代の日本においても、老人、不治の病の人、また、働けども報われない非正規雇用の若者たちがそうかもしれない。

   7:7~10  ヨブはここで、私の命は「ただの息」であると、そして、再び幸せだったあの頃を見る事は無いだろうと言っている。
   わたしはこの箇所を読んでいて、1つの事を思い出した。それは、アウシュビッツに移送されようとしている、1人のユダヤ人女性の話である。彼女は貨車の隙間から駅のプラットホームを歩く親子連れを見た。楽しそうに歩く親子の姿に、「あのような幸せがあるのをすっかり忘れてしまっていた。」と告白していた事である。

   苦しみの中、よみの暗黒の中、生をいとい死を求めつつ、しかも、死を恐れる人間の悲しい矛盾が、ヨブの言葉においてありのままに表現されている。
   旧約聖書のこの時点では「復活の領域」は、まだ明らかにされていない。しかし、私たちには、「新しい天地への望み」がある。

   7:11~16  なにゆえ神がヨブを海の怪物扱いにし、うるさく看視されるのかがよくわからない。そのうえ、眠る時まで夢でヨブをおののかされる。無意味な干渉ではないか?しかし、ここでヨブは、すべての瞬間瞬間に神が干渉してこられる事を察知している。あらゆる状況において、神が関わってこられる事をヨブは知っている。
   干渉を受けるより、ヨブは死を望みたいと思っている。今の彼は、「蛇の生殺し」ではないか?まるで刑罰のようであり、キリストのカルバリの丘の経験と重なるものがある。

   私たちも、信仰生活の中で、意識していないかも知れないが、「うるさく感じる神」を経験しているのではないだろうか?ローマ7章にあるように、クリスチャンが肉の葛藤を感じるのは、「健全な信仰生活の印」でもある。
   私たちの神はいつも「良い顔」をしておられる神ではない。時には「うるさく感じる神」である。それは、私たちが神の家族の一員であり、内住の御霊が私たちの内におられる事の証明でもある。

   7:17~21  ヨブにとって、神のこくこくの訪問また見張り、さらに攻撃は耐えがたき重荷であった。しかし、それを表面だけではなく、裏返して考えれば、神はそこまで片時もヨブを忘れず、捨て去る事の出来ないお方であるということである。
   1つの問題が片付いても、もっと深い問題を与えられる。より徹底的に問題の真っ只中にヨブを追いやる神である。悩む者に光を給う神は、問題を簡単にあきらめる事を赦される神ではない。問題に取り組む中で、神様が何を求めておられるのかを、教えられるのである。

   だから、私たちも、あまりにも簡単なご利益の話など聞くべきではない。聖書に語られる「本当の祝福」とは何なのか?私たち自身がその「問題の真の解決」をなすまで、追い込まれる神なのである。私たちが置かれた場所で、「ヨブのように生きる事」それが神様からの「本当の祝福」を得る秘訣である。(仁美記)

2016年02月28日  旧約聖書ヨブ記6:1-30(MP3)「だから、私のことばが激しかったのだ―熾烈な真相究明精神」

いつも前置きが長くなり過ぎるので、今日からはいきなり聖書の解説に入りたいと思う。

   4章,5章でのエリファズは、神様のなさる事に誤りはないことや神様は正しいお方であることを述べて、一方的にヨブを責め立てている。
   6:1~3  ヨブの「憤り」は、単に感情的な憤りではない。あまりにも大きな「苦悩」から噴出した「憤り」である。エリファズが見ているのは、表面上のヨブの感情であって、もし、ヨブに非があったとしても、ここまでの災いや病を受けるのは正しいと言えるのだろうか?という事である。どうしてここまで叫ぶのかを、理解して欲しいと願っている。

   6:4,5  「全能者の矢」とは、病、死、苦痛、災い、滅亡などをもたらすものの象徴であり、その矢には「毒液」が塗られている。矢が突き刺さることによって耐えがたき熱と苦痛が起こる。
   また、自分がなぜ叫ぶのかを理解してもらうために、野ロバや牛の事を例に出している。食べ物を十分に与えられ、満足している野ロバや牛が叫ぶだろうか?と・・・
  6:6,7   そして、塩気の無い物や味の無いものが食べられるだろうか?とは、ヨブにとってなんの意味も無い「生」を生きられるだろうか?という意味である。
   そんな物にヨブは関わりたく無いし、吐き気を催す様な「生」である。

   6:8~10  ヨブが願っているのは、神への不信や罪の罰としての死ではなく、苦しむ者が「永遠の休息」に入るための「恵みとしての死」である。もし、神が自分の死を望まれるのなら、命の糸を絶ってくださって構わない。むしろヨブは死を願っているし、今まで、神様の御思いを拒んだ事など無いのだから・・・

   6:11~13  しかし、神様は聞いて下さらない。ヨブの生涯の終わりはどうなるのか?人生の絶頂期における「輝かしい死」なのか、「悲惨きわまりない死」なのか?
   石のように、青銅のように強くたくましければ、あらゆる苦難に耐えて死することも出来るが、ヨブの忍耐はとっくに限度を超えている。

   6:14,15  ヨブは今、絶望の結果、全能者への信仰さえも失おうとする危機に陥っている。それなのに、友人たちは真の友情を示そうともしない。
   6:16~20   友人たちへの失望を、川に例えている。砂漠の水路では、冬の雨季には雨や雪で満水だが、本当に必要な夏の乾季には乾いてしまっている。
   隊商はこの辺りに水があったはずだと、道を変更し近づいてくるが期待は裏切られる。暑さのために干上がってしまうからだ。水を求めて道を探すが、倒れてしまう。
   ヨブの友人も同じ事だとヨブは言う。友人たちの語る言葉は立派だが、内容が無く、ヨブを励ます事も慰める事も出来ない。

   6:21~23  ヨブの変わり果てた姿を見て恐れている。
   ヨブは自分が「何か物をくれ」と要求した事があるか?と言った。私が今欲しいのは、訳も分からない苦難の中にいる自分を、「理解して欲しい」「同情して欲しい」それだけであると・・・君たちは全く見当違いの事を言っているのだ。
   また、友人たちから「経済的援助を受けようとか、だれか横暴なものどもから救ってくれ!」と言っているのでもない。君たちは何を誤解しているのか?と抗議している。

   6:24-27  「自分がどんな過ちをおかしたのか」もし、友人たちが「ヨブの問題」を正しく理解し、その上で論じているのなら、ヨブを説得する力があっただろう。しかし、一体何を論じているのか分からない様な状態である。風のごとく虚しい。
   ヨブの期待に対する友人たちの誤解は、ヨブが今置かれている状況を正しく理解しようとしない事である。「ヨブの窮境」に入って行こうとせず、苦悩の中にあるヨブの態度が間違っている事について、「教えたり」「説いたり」しようとするのである。

   6:28~30    ヨブは友人に対していよいよ攻撃的になる。真正面から対決する姿勢を取って欲しい。自分は偽りは言わない。だから、君たちも真摯であって欲しい。お互い顔と顔を合わせて語ろうではないか。
   正義、真実は私の側にある。「災い」についても、自分はよくわきまえている。

   ここでもう一度、ヨブが神の法廷の前にいる事を思い出さなければならない。ヨブは友人と正面に相対して、真理を明らかにしなければならない。両者のいうところに、ごまかしや言抜けがあってはならない。それは、法廷の神聖を汚すものである。
   それゆえ、ヨブは、友人たちに対し、真実を強く要求するのである。

   私たちもその様な思いで生きていく必要がある。裏表のある世界、ごまかし、言抜けなどは、神の法廷においては罪である。常に、真実を求め、虚偽をせず、執拗なまでに真っ当な生き方をする、それが、今の信仰者の課題でもある。(仁美記)


2016年02月21日 旧約聖書 ヨブ記5:1-27(MP3)「苦難と教育―神、人間そして自然の関係」

   ヨブ記の学びは、「苦しみ」という切り口から、神の恵みを教えてくれる。
イザヤ53:3  「悲しみの人で病を知っていた。」
ヘブル4:15  「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」
この二つの聖句にあるように、神様は私たちの「悲しみの同伴者」であり、私たちの生きる目標は、「御子の形に似せられていくこと」である。
   では、「悲しみの人」「病を知る人になる」とは、どういうことなのか?まさに、このヨブ記は、私たちの成長のための書、苦しみをどう受け止めたら良いのか?を教えてくれる。

   先週の箇所で、エリファズは、神の人間に対する取り扱いに不満を持つものは、不信仰であり愚かであると言った。そして、そういう者が結果として、災いを受けるのだとも言った。しかし、当然とも取れるこの言葉の中に盲点がある。
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T. 呼ぶヨブ、答える神―法廷的意味
   5:1  「さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。」この「呼ぶ」(カーラー)「答える」(アーナー)は、法廷で使われる用語である。ヨブがただ嘆くだけではなく、神の法廷に訴え出ることを暗示している。
   5:2-7  ここからエリファズは、教訓的な事を述べ始める。ヨブが怒りを爆発させているが、それは愚か者のすることであると言う。
   愚か者であっても、一時的にはこの世で栄えることがある。しかし、愚か者の繁栄は永遠のものではない。
   「門で押しつぶされる」とは、以前にも言ったとおり、「門」とは裁判を行うところであり、愚か者は裁判で敗れ、悪人の不幸は子孫にまで及ぶのだとエリファズは言う。
   
   旧約聖書の前半では、イスラエルは賞罰においては「ひとつの運命共同体」であった。しかし、旧約聖書の後半の預言書群、特にエゼキエル書では、「個人の責任」を説いている。その意味でも、賞罰の理解にも「啓示の漸進性・発展性」が見られることを押さえておかなければならない。
   聖書の言葉を「その言葉通り」に受け取ることは大切だが、「極端に言葉通り」に受け取ると、聖書全体から「語られているメッセージ」を聞き間違うことになる。時代性・目的性、また「漸進性・発展性」を念頭に、語られている言葉を理解し、本質的・普遍的メッセージを抽出することが求められる。

   5:7  「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。」これを原文通りに訳せば「そは人は悩みの中で生まれ、また火の粉は上に飛ぶが故なり」となり、これを仏教用語で言えば、「それはこの世界は火宅」となる。つまり、「人々が、実際はこの世が苦しみの世界であるのに、それを悟らないで享楽にふけっていることを、焼けつつある家屋(火宅)の中で、子供が喜び戯れている」のに例えた言葉である。

   ヨブは、3章において自己の苦しみ悩みを「訴え」、生の「無意味」を叫んでいるが、そのようなことを、いかに訴え叫んでみても誰も聞いてくれない。人間の「怒り」や「ねたみ」はかえってその人を子孫をも不幸にする。
   なぜなら、「人生そのもの」が「苦悩」に満ちているからである。ヨブ1人が苦しんでいるのではないとエリファズは説教する。
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U. 全知・全能の神―歴史・自然、そして人間社会への働きかけ
   5:8  ここからは、エリファズが、わたしならこうするという事を述べている。この「わたしなら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」という「私であるならば」は原文ではただ一語「我」(アニー)に強調が置かれ、「わたしなら、お前と違う」という傲慢な態度である。
   ヨブの苦しみを理解せず、ヨブを批判する。自分なら神に求める、神は全知全能であるから。
   5:9,10  「神は大いなることをなす者にして計り難し。不思議なる事、数えがたきまでに」神の大いにして、不思議なわざに対する「賛美」の形式をもって語っている。

   5:11  神の働きは、歴史や自然のみならず、「人間の社会」にも行われる。

   5:12,13  悪賢い者は、賢さによって潰される。まことの知恵は「神を畏れる」ところから生まれる。悪人は自ら穴を掘り、その穴に落ちる。

   5:16  「こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ。」以上のようなことであるから、貧しい者も絶望するにはあたらない。神が正義と憐れみをもってこの世界を統治される限り、弱き者、虐げられる者も、その希望を失うべきではない。
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V. 苦難と教育―神、人間、自然の関係
   5:17-21  は「知恵の歌」の形式をとり、それは「ひとつの教訓詩」を示し、それに従う者に
対する「幸福」が約束されている。その多くは、詩篇等の中に数多く出てくる。
   「神は苦難をもって人間を教育する」ということであり、父の教育的愛を示し、「神学的根底」になっているものは「賞罰の信仰」である。

   5:18  「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。」

   5:23  「野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。」
ヨブ記の舞台であるウズは、中東南方の荒野地帯であり、肥沃なカナンとは違う。ヨブ記の自然は「調和的な自然」ではなく、「対立的な自然」である。そんな地域の自然は人間にとって苛酷な物であり、ヨブの財産や子供たちすべてを奪った「火」「大風」であった。
   そのような所にあるものは「砂漠的文化」である。そんな苛酷な自然の中で生きるために、創造者の顧みと守りなくしては、生物も人間も「1日たりとも生存を続けていく」ことは出来ない世界なのである。

   エリファズの言うことは、「真理」であり「聖書的」である。そして、ヨブに同情は寄せているが、ヨブの深い苦しみは理解できていない。
   それにひきかえ、「主は悲しみの人であり、病を知っていた。」また、内住の御霊の助けにより、「御子の似姿に変えられていく」という私たちの生涯、生きる意味、また目的の一つは「隣人の悲しみ、苦しみの理解者、同伴者」として成長していくということも含まれている。
   ヨブを見舞いに来た3人の友人を「反面教師」として、これからも学んでいただきたい。(仁美記)

2016年02月14日  旧約聖書 ヨブ記4:1-21(MP3)「見よ、さあ思い出せ―静寂、ひとつの声」

   私たちは、今、ヨブ記を学んでいる。ヨブの苦しみと葛藤の学びを通して、皆さんが人生における戦いの際に、どう乗り越えて行ったら良いのかを学んで下さればと願っている。
   ヨブの人生を自分の人生に当てはめて、味わっていただけたらと思う。

   1日にして、豊かな財産、すべての子供たちを失ったヨブ。彼自身も全身に苦痛を伴う病に侵されてしまった。ヨブは正しく清い生活をしていたのに、なぜ?この苦しみをどのように受け止めたら良いのか?
   友人たちがヨブを慰めようとやって来たが、誰も、一言も声をかけられない。7日7夜、ヨブと共に座っていたのにである。

   そして、ようやく、ヨブが口を開いて発した言葉は「私の生まれた日は滅びうせよ」であった。彼は自分が無事に生まれた事、直ぐに死ななかった事、慈しみを持って育てられた事、全てを呪った。彼のとんでもない告白、嘆き、訴えに友人は沈黙をやぶり、語り始める。
   4:1-4彼は、友人の中で一番年長の、エリファズであった。最初、彼はヨブの事を気遣い、遠慮深く慎重に語ろうとした。「あなたは素晴らしい友人だったのだ。いろいろな人を助けてきた。」と言った。

   4:5 ,6  しかし、ヨブに災難が降りかかった今、「耐えられなくなっているではないか?おびえているではないか?」と責めている。
   なぜ、エリファズはヨブの事が理解出来ないのだろうか?ここに、私たちにも通じる、信仰者の盲点がある。苦悩の中にいる人に対して、その人の気持ちを理解しようとしないで、ついつい教訓を述べてしまう。「神への正しい信仰に戻れ!」と叱咤激励してしまうのである。

   4:7 ,8  聖書に書かれている基本線は、当然、守るべきである。そして、一般論としては正しいものである。伝統的な賞罰の教えによれば、蒔いたものを刈り取るという方程式がある。しかし、ヨブの状況はどうだろうか?エリファズは観客席におり、ヨブは競技者として競技場にいる。ヨブは生きるか死ぬかの戦いの中にいる。このギャップこそ、二人の間に大きな行き違いを生じさせている。
   教会で、メッセージを語る者と聴く者とのギャップも、そのようにして生まれていないだろうか?語る者の感受性の欠如があるとすれば、聞き手の心に響くメッセージは語れない。

   ヨブの中に暗に隠された「悪」を捨て、信仰の道に戻れ!と説いている。エリファズは信仰の方程式を述べるばかりで、「死」を待ち望むヨブには聞く余裕もなければ、頭の上を通り過ぎる空虚な言葉であった。
   そんなヨブの態度を見て、エリファズの控えめだった言葉も、だんだん教訓的・批判的になっていく。

   4:12  原文では「さて我に一つの言葉ひそかにきたる、しかしてわが耳はそのささやきを捕らえたり」となっている。ここでは「我に」(エーライ)という言葉が特に強調されている。エリファズのみに聞こえた神秘的体験、聖霊体験をしたというのである。
   創世記でアダムが経験した、「深い眠り」は神によって起こされた物と考えられる。外科手術の時の麻酔のような物である。「夢」も神からの啓示の一つであると言われる。(エレミヤ書では、「夢を語る者=偽りを言う者」と糾弾されている箇所もあるが・・・)
   浅野順一先生の著書『イスラエル預言者の神学』の「幻」という項目において、「恍惚体験」「神秘的体験」は真の預言者にも見られるものである、とも書いてある。それゆえここでは、啓示されている「内容」が問題なのである。啓示の内容が、依拠している「神学」が「聖書的であるかどうか」―ここに、真の預言者と偽の預言者を見分ける方法がある。

   4:14  「わたしの骨ぼね(アーモス)は、わなないた」とは、「人間の身体を支える枠、全身が震えおののいた」ということである。
   4:15  一陣の気味悪き風が、エリファズの顔をなでて吹き去り、かれの身の毛をよだたしめた。4:16  「わが前に一つの姿、静寂、しかして我ひとつの声を聞く」 ある物が立ち止まったがその姿、形はわからない。
   エリファズは賞罰の教義によって、ヨブを訓戒しようとしたが、エリファズの見た夢が真理なのかどうか? それをもってヨブを説得する事が出来るのかどうかは、はなはだ疑問である。

   4:17  ここでエリファズは人間の実存について語っている。「人は神よりも正しく、清くあるはずがない。」4:18  「人間は不完全なものである。」  4:19  「ちりの中の泥の家、しみのようなものである。」  4:20  「打ち砕かれ、滅ぼされるもの」「顧みるものも無い」
   4:21   「幕屋の綱」とは幕屋は「人間の身体」の象徴であり、綱は「命」そのものである―人間のつかの間の「生」、無情な「死」 ; 。

   エリファズの語りが、なぜヨブに届かないのだろう?エリファズは上から目線で、ヨブには「罪人」だと言い、自分自身は「罪なき者」のように語っている。彼は自己吟味が出来ておらず、同じ目線で語っていない。
   そして、エリファズの語りの前半では「悪人の運命」について語っているのに、後半では「幻によってエリファズに示された啓示」を語っており、ちぐはぐなものとなっている。
   ヨブもまた、自分が完璧な人間ではないという事は分かっているが、これほどまでに、痛めつけられるほど、自分が罰せられることは認められない。

   エリファズの誤りは、「人間一般の危うさ、愚かさ、罪深さ」は分かっているが、それを、ヨブにのみあてはめ、自分自身の問題として、真剣に向き合っていないところにある。しかも、エリファズはその事に気付いていない、意識していないことが一番、問題なのである。(仁美記)

2016年02月07日  旧約聖書 ヨブ記3:1-26(MP3)「私の生まれた日は滅びうせよ―なおも 汝、生きよ!」

   この世界には、「正しい人がなぜ不幸に見舞われるのか?」について書かれた書物が数多くある。しかし、その膨大な書物の中でも、ヨブ記は「最も偉大で、完璧で、深淵な書物である」と言われている。
   そこには、ヨブ記の著者がすべての見解を、慎重に、公平に取り扱っているということがある。しかし、その事がかえって、ヨブ記を難解な、解りにくい書物にしてしまっているところでもある。また、結論において、神が登場し、「知識も無く言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」と言われているが、この神の言葉が結論なのか?もし、そうであるなら、結論としてどうなのだろう?

   ヨブ記を理解し、それが示している答えを知る上で、最も大切な命題は
1.  「神は全能である」ということ。神の意志無しには、何事も起こりえないはずである。
2.  「神は義なる方である」ということ。神は正しく、公平である。故に、正しい者が栄え、悪しき者は処罰されるということである。
3.  「ヨブは正しい人である」ということ。それ故、彼とその家族は大いに祝福され、栄えるべきである。

   しかし、ヨブに不幸が訪れると、前に述べた3つの命題は成り立たず、「信仰の方程式」は崩れてしまう。

   では、3つの命題をもう一度考え直してみよう。
1.  もし、神が全能であり、義なる方であるとすれば、「ヨブは不幸を受ける理由のある罪人であった」という事になる。
2.  ヨブが善人であったにもかかわらず、神がヨブに不幸をもたらしたとすると、「神は正義のお方では無い」という事になる。
3.  神が正しくて、ヨブも善人なのに、ヨブが苦しんでいるとすると、「神は全能ではない」という事になる。
   ヨブ記での議論は、この3つの命題に関わる「神の法廷」における論争であるといえる。

   2:11-13    ヨブの友人が訪問してきたが、誰一人声をかける事が出来なかった。それほど、ヨブの状況は悲惨であった。
   3章からは、散文が詩文に変わる。友人から訪ねてきたのだから、友人が最初に語るべきであろうが、最初にヨブが口を開いた。
   まず、「自分の生まれた日を呪った」。もし、受精、妊娠、誕生がなかったなら、ヨブの苦しみもまた、存在していなかった。ここには「なぜ」という言葉が6回も出てくる。それは、深い苦しみから出る問いかけである。その原点に、「ヨブの誕生」がある。この不幸が訪れるまで、ヨブは幸福そのものであった。しかし、様々な災難は、そのすべてを吹き飛ばしてしまった。

   ここで彼は過去を振り返り、「自分が生まれてきたこと」が間違いではなかったのか?との「悩みのるつぼ」にはまりこんでしまった。
1.  どうして生まれてきてしまったのか?
2.  たとえ生まれてきても、どうしてその時死ななかったのか?
3.  生まれてきても、どうして大切に育て、乳を与えたのか?
   どこかで、私は「苦しみから解き放たれるチャンス」があったのに、なぜ死ななかったのかと「自分の生」を徹底的に否定している。

   ヨブは「死」をこい願うのに、神は死なせて下さらない。この時、ヨブは友人にではなく、神に対して訴えている。今、彼の望むことは「死」である。ヨブにとって「生きる」という事は、「檻の中に閉じ込められている野獣」のごときであった。
   この様な人間に、神は「光」を与えられるのか?私は「光」よりも、「暗黒」を与えてもらいたいのだ。「死」によってのみ「安息」を得ることが出来るのに。激しい労働を強いられる奴隷も「死」ねば、解き放たれるのに…。

   3:20    神は何故、ヨブに「死」を賜らず、生かされるのだろうか?
十戒にある「汝、殺すなかれ!」は他人の命のことだけではない。自分の命も同様に、奪ってはならないのだ。神は「汝、生きよ!」と言っておられる。どうして、死を願うヨブに「光」を与えられるのだろうか?人間にとって「生きること」が神から与えられた「任務」であるからだ。
   日本の文化の中には、「自死」を認める文化がある。しかし、聖書の神はそれを認めていない。苦しい時、辛い時は、神に真正面から抗議すれば良い。そこに、解決の糸口が見つかる時もある。やみくもに神に抗議すれば、生きることの意味、意義を見いだすことも出来る。

   激しい嘆きや叫びは神への「冒涜」だと言えるかもしれない。しかし、「信仰」はお飾りではない。不安感、絶望感の中、生きるという事は、「深刻かつ痛切」なものである。
   嘆きが溢れて、うめき声が水のようにあふれ出る。それでも生きている。神様に嘆き叫ぶのは、神様を信じているからこそであり、訴えを聞くに値する方だからこそ、神様に訴えるのである。
   このような、苦しみを通して、私たちは生きることの本当の意味、深さを教えられるのではないだろうか?(仁美記)

2016年01月31日  旧約聖書 ヨブ記2:1-13(MP3)「神を呪って死になさい ! ― 『エリ、エリ、レマ、サバクタニ ! 』の瞬間」

ヨブ記というのは、よく開かれてきた書物である。それは、神学だけでなく、哲学や文学でも取り上げられてきた。旧約聖書の中で、最も豊かな書物であると同時に、難解な書物であり、「深い井戸」の様な書物である。
ヨブ記を人間の「生」に関連付けて読む事は、人生を「豊かに生きる糧」を与えられる事になる。そんな豊かで底のみえない井戸から水を汲むための、「長いロープと桶」を提供出来るように、「聖書研究的な礼拝メッセージ」をさせていただきたいと思っている。

ヨブ記の解釈には、「三つの解釈法」がある。
第一は、「メシヤ的解釈」である。「ヨブの叫び、その祈りは、イエスキリストの到来によって、すべての答えが与えられる」というものである。義人ヨブ=キリストの証人と言う直接捉え方は短絡すぎる。

第二は、「ユダヤ民族的解釈」である。義人ヨブは神のしもべであって、ユダヤ民族の中の、特に敬虔な人々の象徴であり、「ユダヤ民族の苦難」として見る解釈がある。しかし、ヨブ記にはヨブ個人や家族、また友人が描かれており、ウツという地に住むユダヤ人ではない異国人の話である。

第三は、「義人の苦しみ解釈」である。因果応報の話であれば受け入れることも出来るが、「神の前に正しく生きようとしている人が、何故苦しみに会うのか?苦しみの只中に放置されるのか?全知全能であり、愛に満ちた神が、どうして善人を見捨てた様な状況の中に放置されるのか?」そのようなうめき、叫びが神様の法廷に持ち込まれて、論争される書であるという解釈である。

ヨーロッパの有名な神学者ウェスターマン、フォルツはヨブ記を「知恵文学」(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌)として位置付けられる以上に、「実存的な問い」が発せられている書であるとしている。客観的に、「人間はどうして苦しむのか?」ではなく、「何故、私は苦しむのか?」である。その嘆きや叫びが、まるで抒情詩のように、「嘆きの詩篇」の様に描かれている。

その、嘆きや叫びが抒情詩の様に描かれることに留まらず、神の法廷で弁護されている「論争的問答」として描かれているのである。ヘブル人をまとめるもの「律法」であった。「法」がかれらの共同生活を支えていた。人々は「門」(シャアル)に集まり、事件や問題が討議された。
「門」は法廷の役割をなし、「当事者間の争い」を解決する所であった。係争中の問題は、「門」において「法廷弁論」が行われた。

3-31章のヨブと3人の友人の論争は、平行線のままである。友人たちは、「悪人は苦しみの中にある。裁かれるのは、罪があるからだ。」と言う。しかし、ヨブは「このような罰に値する罪を犯した覚えは無い!」と言う。友人たちは「悔い改め」を迫るが、ヨブは「嘆き、訴え」を繰り返す。
ヨブを慰めるために来た友人たちが、かえってヨブを怒らせ、悲しませる。

ヨブ記を「法廷論争」と見れば、「人間ヨブの実存」の問題がみえてくる。法廷で裁かれるということは、「論争者の利害」や「生命」にまでかかわってくることなのである。
友人たちはヨブの罪を責め、勧告し、攻撃する。しかし、ヨブは「自己の無罪」を主張し、神のなされた処罰に対して「不当」だと言う。神の自分に対する扱いが甚だ不当だと批判し、友人たちは「無用の医師」だと罵倒する。そして、ヨブは最終的に神を論争の相手に選ぶのである。

ここでヨブは、自身の立っていた基盤(財産、家族、健康)を攻撃された。今まで信じ、誠を尽くしてきた「神への信頼」まで失いかけている。キリストが十字架上で「エリ、レマ、サバクタニ!」と叫ばれたその苦しみに似たものが感ぜられる。ヨブは「全き裸」にされようとしていた。友人たちの言葉は、慰めにならない。神は御顔を隠しておられた。

2:1 一章と同じような繰り返しである。

2:3原因なく、いたずらに、試みがなされた。「なぜ私は苦しむのか」という、ユダヤ人のラビが書いた本があるが、アウシュヴシツのような、ある種の苦しみには「神の側には理由が無い」と繰り返されている。ヨブの場合は、まるで、「神様とサタンの賭け」の様である。「ヨブに対する神様の信頼」は高いが、サタンは「ヨブをエゴイスティクでご利益主義者」だと言う。

2:9ヨブの妻は愚かな妻なのだろうか?妻の立場からすれば、すべての財産、子供を失い、夫も瀕死の重病である。これから、いつまで、自分は支えていかなければならないのだろうか?絶望の淵に生きる妻に、愚痴る権利はないのだろうか。
信仰とは、こんなにも大きな犠牲を伴うのか?信仰とは、命懸けで守るべきものなのか?
彼女の姿は、至極もっとも、自然なものである。しかし、妻の絶望の裏に、サタンの姿がある事を、見逃してはならない。妻の激しい攻撃、挑戦的な言葉はサタンが言わしめたものでもある。3人の友人たちの話も、「ヨブの信仰」を破壊しようとする「サタンの挑戦・告発の言葉」と見ることができる。

2:10しかし、ヨブは崖っ淵で踏みとどまった。ヨブ記の註解書を書かれた、浅野順一氏は「このヨブの告白は、ヨブ記の結論であると言うことが出来る」と書いておられる。善も悪も、幸も不幸も、全体として受けることが出来れば、そこに、人間にとっての「真の祝福」があるといわれる。そこに「信仰生活における矛盾とその秘儀」が隠されている。アブラハムの「イサク犠牲」にもみられるように。
信仰者は、毎朝、神の法廷に立ち、自分の抱える問題を「訴え、嘆き、叫ぶ」ことが許されているのである。わたしたちは、わたしたち自身の生において「嘆きと訴えの詩篇」をもちたい。「うめき、叫ぶ」ヨブ記を書き記したい、そう思うのである。(仁美記)

2016年01月24日  旧約聖書 ヨブ記1:1-22 (MP3)「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか―ヨブ、神の信頼に応え、(神の法廷にて)果敢に戦う!」

  今日からヨブ記を1章ずつ学んでいく。ヨブ記のテーマは「苦しみ」である。中学校の卒業の時に「ことわざ小辞典」という物をいただいた。その中に、「涙と共にパンを食べた者でなければ、人生の意味はわからない。」という言葉があった。
   人生という物は、順風満帆だけでは、本当の意味はわからない。光と影があってこそ、私たちの人生の全体像が見え、豊かな深みを味わうことができる。

   ヨブ記では、「人間は何故苦しまなければならないのか?」を教えられる。そして、その苦しみが自分の責任で無い場合もある。ヨブは信仰者であり、正しい者であった。しかし、ヨブは2章で病に侵される。それは、ハンセン氏病だと考えられてきたが、最近では「いやな腫物」(シェヒン・ラー)と呼ばれる病らしい。この病は肉や皮が腐食し、耐え難い痒みを伴うという物である。そのため、肉体的にも精神的にも苦痛を味わうことになる。

   ヨブ記は1枚の絵に例えられる。つまり、最初の1,2章と最後の42章は散文で物語風に書かれた「額縁」にあたり、間の3~42章は詩文でヨブと友人の対話と論争という「絵画」から出来ている。
   1:21はある意味ヨブ記の結論である。最初に起こった苦難から、一直線にこの結論に至ったように見えるが、本来は、41章の終わりに書かれても良い言葉である。この結論に至るまでの中間過程を示しているのが、3~41章のヨブと友人たちとの論争であり、ヨブの精神的苦痛の経過を詳述している物語である。その経過は直線的ではなく、ジグザグコースを辿り、私たちがヨブの精神的苦難に一体化する事によって、人生の「影」の部分に光を当てる事が出来る。

   1:1~5    ヨブは「潔白」(ターム)純粋で、「正しい」(ツァッディーク)道徳的にも良い、非の打ち所の無い人であった。それなのに、自然災害が1日のうちに起きてしまった。ここにおいて、すべての人間、信仰者は、「苦しみ」とは何なのか?を考えることになる。

   1:6~    場面が急に天上へと変わる。神の子たち=天使たちが集められて、天上の法廷が開かれたのである。その中には、サタン(堕落した天使)も含まれていた。
   神はサタンに対して、ヨブへの「誇り」「愛」を表明された。

   1:9    ここでサタンは、今日の「キーワード」である言葉「いたずらに」(ヒンナーム)という言葉を用いて、検察官のようにヨブの人間的弱点、欠陥に目をつけている。
   サタンは、神のヨブに対する信頼を、鼻でせせら笑った。ヨブの信仰は本物の「金」ではなく、「金メッキ」のような物であって偽物であり、ヨブの本性は自己中心でエゴイスティクなものである。神が豊かに暮らせるように、三重にも(「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに」、)「回りに」保護しておられるからではないか?と言った。

   裁判官が神であり、被告はヨブ、そして検察官はサタンである。私たちが神の御心を行おうとする時、律法が検察官の役目をしている。私たちは「いたずらに」神を畏れ、故もなく信じているのか?聖書の神様に対する信仰、福音は、自己中心的やエゴイスティクなものであってはならない。また、どういう理由を持って信じているのか?「いたずらに」ご利益が保証されているから、積極的信仰、繁栄の神学だから信じているのか?「ご利益に乗っかってリバイバルを起こそう!」こんな事は「邪道」であり、「禁じ手」である。何かご利益が予期される時に成り立つ信仰は問題である。

   神を中心とする信仰に、サタンは挑戦している。霊と肉との間で葛藤する人間に対して、「神は人間のためにあるのではないのか?」と誘惑する。そうではなく、「人間が神のために存在している」のである。
   3~41章は、ヨブの友人たちとの論争であるが、それは、サタンの挑戦に対してヨブが戦っている姿でもある。
   第1コリント3章に、「木、草、わら」と「金、銀、宝石」で建てる建物の話が出てくるが、私たちの信じる者の真実性、中身のある信仰こそが大切なのである。(仁美記)

2016年01月17日  旧約聖書 雅歌8:8-17 (MP3)「私の愛する方よ。急いでください。わたしの元へ―マラナ・タ」

  昨年の夏から取り組んで来た雅歌の説教も、今日で最後になる。「愛の書」と呼ばれる「雅歌」を終え、次は何処に導かれるのか?と考えていたところ、「苦しみの書」である、「ヨブ記」を示された。キリストの苦しみ、死と葬りと復活を学ぶ一時へと導かれたいと思う。
   私たちの生きることには、「愛」もあるが「苦しみ」も存在する。「愛」が神様からの賜物であるとすれば、「苦しみ」もまた神様から与えられる賜物ではないか?
   一見、不必要なもの、避けて通りたいようなものである「苦しみ」は、私たちに人生の深さ、豊かさを与えてくれるものであるかも知れない。

   さて、近年、私は雅歌の註解書として、福音派において最も堅実な書物とされる「ティンダルの聖書註解書シリーズ」の中の雅歌註解書に出会った。今まで、雅歌で語られる愛は、神とイスラエル、神と教会・クリスチャンの間の物であると考えてきた。しかし、雅歌が元々古代中東の男女の恋愛歌であることを、まず第一に学ぶべきであろうと教えられた。そうした上で、第二に神とイスラエルの関係、神と教会・クリスチャンの関係を学ぶのが正しいのではないか。そして、第三に私たちの男女の愛のあり方をもう一度考え直す一時とされたいと願って取り組んで来た。

   創世記1章に、「神は男と女に造られた」とある。男の助け手として女を造られた。そして、ただの助け手ではなく、彼らが一心同体となる事を、神は望まれた。それは精神的な愛だけではなく、心身の全てを伴った愛である。罪と堕落以前の男女の性は、聖いものであった。
テトス1:15  「きよい人々には、すべてのものがきよいのです」とあるように、神の愛と光の下にあるならば、「性」というものは、聖い物なのである。
   それなのに、「性」を汚れた物、隠したい物と考えるのは、「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までもけがれています。」という理由からである。

   8:8~10    乙女と若者の夫婦は、幼い妹に思いを馳せている。二人の愛は、二人だけのものにとどまらず、家族へと溢れていくのである。
   乙女の妹は少女である。成長して、誘惑の多い年頃になったら、どうやって彼女を守ってやろうか?もし、彼女が城壁だとしたら、さらにその上に銀の城壁を建ててでも彼女を守ってやりたい。そして、もし彼女が戸であるなら、その戸を杉の板で囲んで守ってやりたい。

   ところが、10節になると、時はいきなり流れ、妹は成熟した女性になっている。二人の愛に守られて、彼女もまた、二人のように幸せな出会いをし、結婚へと導かれていく。

   8:11~13    ここではソロモン王に目が向けられている。
愛し合う二人の目は、家族、社会、政治へと向けられていく。また、クリスチャンの目も、自分の事ばかりではなく、社会にも向けられるべきである。
   ここに出てくる「ぶどう畑」とは、女性の象徴であり、ソロモンのハーレムに住む女性たちのことである。歴史上、イスラエルの黄金時代を迎えた、ダビデ、ソロモンは素晴らしい政治家だと言われている。しかし、ソロモンは愚かな王でもあった。周辺の国々の王家と姻戚を結び、女性を招き入れ、その事によって、イスラエルのど真ん中に「異教の神々」を持ち込んだ。それによって、イスラエルを偶像崇拝に導いてしまったのである。

   このように、偉大な政治家がいる時代は、必ずしも信仰者にとって良い時代ではない。ローマ帝国の時代には、五賢帝があらわれ、国は素晴らしく栄えたが、クリスチャンにとっては暗黒の時代であった。日本でも、江戸時代、明治は平和が続き、文化は栄えたが、クリスチャンにとっては受難の時であった。
   昭和の二つの戦争を終え、多くの犠牲者の上に今の平和憲法が与えられた。クリスチャンにとっても、やっと信教の自由が与えられたのである。しかし、また、政治家によって昔に戻ろうとしている。世の塩、世の光であるべきクリスチャンにとって、沈黙は悪であり罪である。ナチによって支配されたドイツでも、国家神道を押し付けられた日本でも、そんな時代に声を上げ続けた人がいた。国が極端な方向に流れようとしたら、ブレーキをかける必要がある。むしろ、平和な時代のうちに声を上げる必要がある。

   8:14    この「急いでください」は「速やかである」という意味である。ひとが速やかであるのは「逃げるため」である。しかし、速くあらねばならないのは、逃げる時ばかりではない。目標物を追いかける速さである。
   「私の愛する方よ。急いでください。」は恋しい人よ、急いでください、私の下へ。急いで、性的、愛情、熱情のこもった動物のようになって下さい。山々のように二人を隔てる距離も越えて、乙女の身体の愛らしく親密な部分も愛して欲しい。
   こうして、雅歌は男女の愛「エロス」によって終わりを迎える。

   この雅歌は、聖書の最後と同じように終わっている。黙示録のキリストの流された血潮と身体を象徴する聖餐式に集まった花嫁の下に「速やかに、来てください」である。弟子たちはアラム語で「マラナ・タ」つまり、「主よ、来りませ!」と言っていた。
   そして、主が必ず、確実に来てくださる事を保証して「アーメン」と言っている。
   主イエスの到来は確実である。主なる神とその花嫁の歌であり、すべての人間の愛を歌った「雅歌」はこうして終わる。「私の愛する方よ。急いでください。わたしの元へ―マラナ・タ」、アーメン ! (仁美記)

2016年01月10日  新約聖書 ルカ10:25-37(MP3)「彼を見て―私たち本質が現れる瞬間」

 昨日は私の誕生日で、沢山のメールをいただいたり、「また、交わり会をしましょう!」とのお誘いをいただいたり忙しい1日だった。今朝は雅歌の続きをやりたかったが、早朝から、自治会行事の手伝いもあって、準備が出来なかったので「良きサマリア人」の箇所からお話ししたい。

   10:25    旧約聖書においては、律法を守ることによって、義と認められ、永遠の国に入る事が出来ると考えられていた。
   ここに出て来る律法の専門家は、専門家の中でも有名な人だったのだろう。「イエス様がどれ程の者か試してやろう!挑戦してやろう!やり込めてやろう!」と意気揚々立ち上がったに違いない。しかし、彼の魂胆は見抜かれていた。

   10:26    イエス様は逆に問い返された。これは、イエス様がよくされる対応の仕方である。律法学者に考える材料を提供されたのである。
   ギリシャの哲学者ソクラテスは、「教師は直接答える事はせず、生徒が自分で考える様にすべきである(産婆術)」と言っている。私も組織神学を教えているが、「神、罪、キリスト、終末」について、いつもセオロジャイジング(神学すること)を心がけてきた。

   10:27  「律法には、何とかいてありますか。あなたはどう読んでいますか。」の質問に、かれは自信満々に旧約聖書の十戒の中から、答えた。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これは、十戒の前半の要約であり、神様と私たちの関係、つまり垂直の関係を意味している。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」は十戒の後半の要約であり、周りの人たちとの水平の関係を意味している。
   律法学者は鼻高々であっただろう。多くの会衆の前で、模範的な解答ができたのだから。

   10:28    しかし、イエス様はお褒めにならなかった。そして、おっしゃったことは「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」であった。イエス様は彼の全てを見抜かれて、法律家として欠けているところを指摘されたのである。彼は強い者、富んだ者、生粋のユダヤ人には優しく出来たが、弱い者、貧しい者、差別されている人々にはそうでは無いという事を気付かせるために質問されたのである。

   10:29    すると、彼は「私の隣人とは、だれのことですか。」とまた質問をした。

   10:30    イエス様は今度もまた、即答せずに唐突に例話を話された。なぜならば、「あなたにはこういう問題がある」と言ってしまうと、彼が心を閉ざしてしまうからである。敵か味方か分からない形で、イラスト的に分かり易く、深い意味を考えて自分に当てはめれるように、例話を用いられたのである。

   10:31    祭司は見たけれど、関わりたくない、時間が取られると判断した。もしかすると、何か奉仕が控えていたのかもしれない。

   10:32    レビ人も神に仕える人である。この人も奉仕が控えていたのかもしれない。死にそうな人を見捨てて行った。

   これらの人たちは、信仰という儀式には熱心だが、信仰とは何なのか、何を意図しているのかを忘れている。今の世界でも、シリアをはじめとして、世界中に困った人たちは溢れている。私たちはその全てに手を差し伸べることは出来ない。しかし、私たちの目の前に緊急的に助けを必要とする人がいたなら、助けるべきではないだろうか?
   祭司やレビ人も何か方法があったのではないか?目を閉ざして何もせず、別の道を行った。憐れみの心をないがしろにして、本来聖書が言っている真理に目を閉ざしていることが問題なのである。

   10:33 -35   サマリア人とは無理やり移住させられ、ユダヤ人との混血のため、差別されていた人たちである。しかし、彼はその人を見て、「かわいそうに思い、」近寄り、傷の手当をして、包帯をし、宿屋に連れて行き・・・出来ることすべてをしてあげた。仕事の途中で急いでいたかもしれないが、とっさにそれが出来た。その上デナリ二つ(今の2,3万円)を取り出し、足りなければ帰りにもっと払うと言う。このサマリア人は、力を尽くして隣人を愛したのである。

   信仰とは、聖書を一字一句間違わずに覚えることでは無い。あなたが、今日会う人々に対して、サマリア人のように、即座に反応する心を持っているかどうか?そこに人間の価値が現れるということを、イエス様はおっしゃりたかったのである。(仁美記)

2016年01月03日  旧約聖書 雅歌8:6-7 (MP3)「私を封印のようにあなたの心臓の上に―エリクソン著『基督教教理入門』の”印章”であれかし

   今日は、新年初めての礼拝である。旧年と新年の区切りのこの時、過ぎ去った一年を振り返り、新しい年を展望する良い機会としたい。
   私自身、年毎にテーマと課題を与えられ、ここ数年歩んで来た。一昨年には、福音主義神学会全国会議のコーディネーターという重責を頂き、また、「福音主義イスラエル論」の論文発表をさせていただいた。昨年3月には、ラッドの「終末論」の翻訳本が発売され、もうほとんど在庫がないほど多くの方々に買っていただいた。
   
   そして、11月には、福音主義神学会東部部会にお招きいただき、「義認と審判」というテーマでお話しさせていただいた。内容はN.T.ライトの分析と評価である。
   また、藤本満先生が最近出版された「聖書信仰ーその歴史と可能性」という本の中で、「エリクソンは福音主義神学において高い評価を得た」と書いて下さった。
   私は昨年、2卒業直後から36年間講義をしてきた神学校を引退し、自分個人のICI研究所という働きに専念しているが、いろんな機会を通していろんな方々から評価して下さったり、招いて下さったりと応援していただいている。

   今年は、十数年取り組んできたエリクソンの「基督教教理入門」の翻訳推敲の完成が目標である。そのために、寝ても覚めても取り組み、「キリスト教神学」で学ばれた先生方が、教会の信徒さんたちの学びのテキストとして「基督教教理入門」を使って下さったらと、密かに夢を描いている。
   そのためには、エリクソンが書いている様に、「電話帳を読み上げるような教理教育」ではなく、「魂の奥底から叫ぶような」黒人霊歌を歌う様な訳にしたいと願っている。そして、私自身の講義の部屋の空気、息遣い、心臓の鼓動までもが聞き取れる様な推敲訳に仕上げたいと思っている。

   さて、今日の聖書の箇所雅歌の8:6を見てみると、この節のキーワードは「封印」である。この言葉はいわば水戸黄門の「印籠」にあたる。「これが目に入らぬか!」という事である。
   当時は、現代と比べて文字が普及しておらず、支配者階級でさえ書けない人が多かった。そんな中、その人を証明する物、それが「封印」であった。中世ヨーロッパにおいて、伝令が書類を誰かの所に持って行く、その時、その書類が正しい物である事を証明するため、「封印」つまり「発信者の紋章」を一緒に持参したのである。

   ここで乙女が「封印のようにあなたの心臓の上に、」「封印のようにあなたの腕に」というのは、「乙女が若者の印章そのものになりたい」「私が恋人であるという、目に見える印となりたい」「若者にとって欠かせない存在になりたい」という事である。
   そして、どうすればそのようになれるのか?を後半の部分で説明している。
   
   「愛は死のように強く、妬みはよみのように激しいからです」妬みという言葉はヘブル語で特に熱情的に愛し、慕う思いが内包する執念深さと排他性を意味している。
   出エジプトに「私はねたむ神である。」と書いてあり、神様の愛は、ライバルの偶像への愛を決して許さない。嫉妬とは、恋人を求める、恋する者の排他的な権利への熱情である。愛と嫉妬は表裏一体の物なのである。

   「愛は死のように強く、」死は絶対的で交渉する余地の無い物で、すべてを奪い去ってしまう。そのように、乙女の若者への愛は絶対的であり、若者でさえ交渉出来る物ではない。そうする事で、乙女は彼のまさに「封印=印章」となるのである。
   「ねたみはよみのように激しいからです。」よみもまた、極めて絶対的で酷いものである。嫉妬は熱情の一つの側面であるが、かたくなで手放さない、誰も、若者でさえ彼女の愛を脱ぎ捨てる事は出来ない。

   私たちが結婚式の時、「死が二人を分かつまで」という式辞がある。死は乙女と若者を分け隔ててしまうのだろうか?死とよみの力は乙女の愛を圧倒してしまうのだろうか?
   いや、大水や洪水をも乗り越える愛を彼女は持っている。愛と死が競争している。嫉妬とよみが競争している。愛が死に打ち勝った時、死は引き分けを許さない。愛が「死・よみ」を超えるなら、愛は「無敵」の物となり、「最高度の火力を持つ火」となる。

   人々が結婚を考える時、大切なのは「学歴、富、地位」だろうか?いや、それらを超えた人格的な物ではないのか?もし、前者のような物で結婚しようとすれば、二人の愛は完成する前に引き裂かれてしまうだろう。しかし、お互いの本質に惚れて結婚するなら、死もよみも超えるちからが、「愛」の中にはある。

   そして、この凄まじい力を持った「愛」の究極のかたちが「キリストの十字架と復活」である。このキリストの身代わりの死、ローマ6:4にある「キリストと共に葬られた」ことこそ、愛の中にある「命」、死のかなたに見いだす「完成と成熟」、命につながる愛は「永遠」である。
   私をあなたの「封印」にして下さい!私たちはもう一度、愛する対象を見直し、愛する方のために「取り組むべき課題」を、新年のこの時、考えさせていただきたいと思う。(仁美記)