2013_説教メモ
記録: 安黒仁美
※2015年4/30までは、wma形式のストリーミング・ファイルです。多くの機器にて視聴できるよう、mp3のファイルもあります。wma形式とmp3形式での視聴は「ICI礼拝メッセージ」サイトへ。
今日が今年最後の礼拝となった。年末感謝礼拝として,この一年を振り返る時としたい。
年初に、藤本満先生の書物(kindle版)紹介を通して、キンドル版の電子書籍に今までの自分が取り組んできた成果をアップしたり、西部部会神学研究会議でのベスターマンの創造論に取り組んだりと神学の課題に次々と導かれたことに感謝したい。また、今年の夏には母が洗礼に導かれ、私が19才で救われてから40年経って、神様が大きな喜びを与えて下さったことに心から感謝したい。
イエス様のことをイザヤ書では、"彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。"とあるがヨハネは今日の箇所で、"この方は恵みとまことに満ちておられた。"と書いている。私たちの人生も、取り立てて華やかで賞賛に満ちた物ではないが、深い部分での、キリストにある価値観によって人生を見て見れば、恵みとまことに満ちた人生ではないか?
イエス様を通して、私たちは全き人生とは何か?を教えられる。表面ではなく、根源的価値観をしっかり持ちつつ新しい年も恵みから恵みへと歩ませていただきたい。皆様への神様の祝福を心よりお祈りしたい!
イエス・キリストのご降誕をお祝い申し上げます!ローマによる統治時代のパレスチナの地において、全ての人々に住民登録をする様に、という命令が下された。国を治める者にとっては税金の徴収や非常時における徴兵のため絶対不可欠な事柄である。
そんな、国中がてんやわんやな状況のただ中に、マリアとヨセフも自分たちの故郷を目指して旅立っていった。交通網も整わない時代、しかも、身重のマリアを連れての旅は命をも失う危険な旅であった。どうして、神様はもっと安全な状況での住民登録を設定されなかったのだろうか?全ての状況が整い、さあ、どうぞ!というタイミングで、イエス様が生まれられても良かったのではないか?
しかし、その答えはイエス様の歩まれた足跡を見ればおのずと分かってくる。人が歩む人生とは、驚きの連続である。思いもかけぬ時に思いもかけぬ事柄が次々と起こるのが人生である。そうした人間を理解し救う為に、キリストはお生まれになった。順風満帆の人生ではなく、苦しみ惑う人々のただ中に生まれて下さった、キリストこそが、どんな状況になろうと、嬰児が飼い葉桶で安心しきって眠る様に、我々に平安を与えて下さる方なのである。
ベツレヘムの馬小屋には、最も貧しいが安息と静けさと神を崇める賛美が満ち溢れていた。あなたの人生も神にあって素晴らしい物であります様に!
アドベント第三週となり、クリスマスにふさわしく、雪の舞う季節となった。先週は私達の子供達がお世話になった、音楽の尾川先生が亡くなられた。特に、娘の碧にとっては吹奏楽部の顧問として、吹奏楽やマーチングなどで全国大会に出場し、金賞を受賞するなど、子供にとっても、親にとっても忘れられない思い出を作って下さった、先生であった。
お通夜に参列した娘を送る車の中で、久しぶりにゆっくり話す機会が与えられたのだが、私達クリスチャンが社会の中に置かれている意味を考えさせられた。社会には、異なった時代、異なった環境、異なった地位などいろいろな人々との出会いがある。出会う全ての人々を瞬時に理解し、適切な対応をする、というのは不可能なことである。しかし、今日の聖書箇所にもある様に、私達には折りにかなった助けを下さる方がおられる、というのである。
人々と接する時、私達はごく普通に、相手の方のお話を聞き、心に浮かぶ言葉を返す。そのあたりまえの事の中に、相手の方は揺るぎない何かを感じるのかも知れない。私達が完全なのでもない、言葉が巧みなのでもない。ただ、同じように苦しみながら生きているのだが、根源的な部分が解決されている。つまり、キリストにあって、罪の問題が解決されている、というだけで人々には魅力的に見える部分がある様である。
だから、私達はイエス様が言われた様に"何を語ろうか、などと心配する必要は無い"のである。言葉以上の物を神様から与えられており、その一つ一つが人々に感化を与える。あなたがもし、今、弱さ、試み、叫び声と涙の中にあるとすれば同じ環境に置かれた人々を同情し思いやる心を育まれているのかも知れない。完全な者にされる道筋を、神であられたイエス様が、人となって、私達に示して下さったのである。
アドベントの第二週、神であられた方が人となられた、"肉体をとられた"意味を考えてみたい。当時、ギリシャの哲学では、物質は悪であり、人間の欲望は悪い物、だから、精神的な物を求めるべきという考え方があった。しかし、今日の箇所に書かれているのは、人間は神の作品であり、最高傑作である、という事である。なぜならば、"我々に似る様に、我々のかたちに"創造したと書いてあり、人間を創造された後、"非常に良かった"と満足されているからである。エデンの園には二本の木があり、一本は"いのちの木"、もう一本は"善悪の知識の木"であった。いのちの木を食べて生きる生き方とは、神様との関係を大切にする生き方であり、善悪の知識の木を食べて生きる生き方とは、自分勝手に生きる生き方を表している。聖書が読く罪とは、肉体が自然に欲する欲望ではなく、健全な領域をこえた部分が罪だと説いている。アダムとエバにはどの木から実を取っても良い自由が与えられていた。ただ、一本だけ、"善悪の知識の木"の実さえ食べなければ、死ぬことはなかった。ここに彼らの神への不従順な心が現れた。キリストが人としてこの地上に生まれられたのは、神が造られた被造物、つまり、肉体が悪ではない事を証明するためであった。私達が神との人格的交わりを大切にする限り、豊かな人生を送ることが出来るのである。
"初めに、ことばがあった。"言葉の重要性、重みを伝える最初の一言である。"いまだかつて神を見た者はいない。"が、神について我々に教えて下さる方はおられる。 我々は被造物世界の管理者として造られた。我々の全ての知力を尽くしても、造物主のことは知り得ない。スケールが大き過ぎて・・・しかし、キリストを通して、神様がどのようなお方であるかを知ることが出来る。言葉を通して、人々はその人の人柄や人間性を知る。聖書にしるされた言葉によって、キリストとはどのようなお方であるのかを見ることが出来る。本当に神がおられるのなら、キリストの様なお方に違いないと私は思った。歴史上、実際にこの地上を歩まれ、我々と同じように苦しみを体験された、この方こそ偉大な神を我々に紹介して下さる方である。この神の民になるには、何の条件もない。血縁、努力、精進など何もいらない。ただ、精霊によって救われる。我々の周りの環境は、偶像に満ちており、その現状を見れば自分の無力さを知らされる。しかし、我々は世の光、地の塩である。どんな小さな光、ごく僅かな塩であっても、存在し続ける事が大切である。このクリスマスのシーズン、我々の生きる姿を通して、神様の存在と素晴らしさを証詞出来れば感謝である。
先週は福音神学会の発表会があったり、KBIの授業があったり、大変多忙であったが、昨日、関学のホームカミングデイということで、久しぶりにポプラというサークルの仲間が数人集まった。まさしく、集まった一人一人が様々な人生を歩んで来た事を証詞しあったが、どんな歩み方をしようと全ての事柄一つ一つを繋ぐ、キリストという糸が一本通っていた、ということをみんなで感謝しあう事が出来た。本当に、人の心とは川の流れの水の様である。何事もなくスムーズに流れていた川もちょっとした石や土砂によって、いとも簡単に流れが変わってしまう様に、良い人だと思っていたのに、ちょっとした言葉や態度で嫌いになってしまったり、嫌な人だと思っていたのに、ちょっと優しい言葉をかけられたり、親切にされると、結構良い人かも、と見直したりすることがある。我々クリスチャンは神の導きという川の流れの中に生きている。先輩であられる我喜屋先生はかつてこうおっしゃっていた。人間関係の間に十字架というクッションを入れて生きて行ければ、例え、誰かに傷つけられたとしても、私とその人の間には十字架があるので、もろにその衝撃は伝わらず和らげられる。右の頬を打たれたら、左の頬を出すというのは、まさしく、神の十字架の愛の力である。神様の川の流れに身を委ねて人生を生きて行ければ、苦しみや悲しみさえも美しい真珠の粒となって、振り返ってみれば神の糸で繋がれた一本の首飾りの様になるであろう。
めまぐるしい変化を見せる現代において、私たちの生活の中にはやりたいことなすべきことが山の様にある。何をなすべきか?何をなさざるべきか?日々選択しつつ生活している。今日の聖書の箇所にも、二人の姉妹が登場し、その選択を迫られた。このマルタがとった行動を私たちは責められるだろうか?客人を我が家に迎える、その客人がイエス様なのである。最高のもてなしをと考えるのが当然のことであろう。その当時のユダヤでの最高のもてなし・・マルタの頭の中をなすべきことが次々と浮かんで来ただろう。これこそ猫の手でも借りたい!そんな時に、妹のマリヤときたら・・・イエス様の足元でお話に聞き入っている。目を疑う様な光景であったのだろう。マルタの苛立ちがその行動に表れている。大切な客人のイエス様に直接不平をぶちまけているのだから・・・。その時のイエス様の返答は、決してマルタを責めておられるのではないところが面白い。"あなたもそんなことは止めて私の話を聞きなさい。"ではなく、"マリヤは良い方を選んだ。"要するに、"今のマリヤにとっては私の話を聞く事がベストなのですよ。"とおっしゃっているのである。ここで教えられる事は、山の様な事柄からいかに優先順位をつけて、どうしてもすべきことは一生懸命に取り組む、選択と集中が必要なのだと言うことである。全ての人間に平等に与えられた24時間を有意義に生きて行きたいものである。
今日は、KBIを覚える日ということで、KBIを卒業し千里の方で働いておられる、仲井先生のところにメッセージに招かれているので、一宮チャペルは録音による礼拝になっている。KBIに流れる中心的なメッセージは"十字架と聖霊と宣教"である。第一に十字架のメッセージがある。自分の中に蠢く罪の現実を知ることから始めなければならない。一般的には罪人と言えば、何らかの犯罪を犯した人の事を指すように思われるが、聖書の言う罪人とはその基準とは異なる。人に対して憎しみを抱けば殺人の罪と同等であり、人を見る時に淫らな思いを抱いて見るなら姦淫の罪と同等である。こんな基準に当てはめれば誰もが罪人となるであろう。しかし、神の基準となるとこんな高い基準となる。そんな高い基準を誰がクリア出来るのか?誰一人存在しない。しかし、そこに十字架の意味がある。罪にまみれたまっ黒な人間を雪の様にまっ白に覆うものはイエス・キリストの血潮である。過ぎ越しの夜、それぞれの家にいた人々の善し悪しで裁きが行われたのではない。家のかもいに子羊の血が塗られているかどうかだけである。パウロも言っている様に"行いによらず、信仰によってのみ人は救われる"のである。第二に、聖霊のメッセージがある。イエス・キリストを救い主として歩み出したクリスチャンが、必ず通る問題として、神に罪を告白し許された自分が決してまっ白になっていない現実である。むしろ、暗闇が増しているかの様に思える。それこそ、あなたがクリスチャンとして成長している証拠である。聖書の中には、私達よりも先に歩んだ信仰の先輩の姿がはっきりと書かれている。イスラエルの王であったダビデは姦淫と殺人の罪を犯したと書かれている。また、パウロはキリストを信じ模範的な使徒として歩んでいる自分の中に、如何ともし難い罪の性質が存在する事を明らかに告白している。この姿こそ、キリストを信じるクリスチャンの姿でもある。絶えず自分の中に働く罪の力は十字架につけ聖霊に導かれて生きて行く。ここにキリストの死と葬りと復活を経験し続ける人生がある。第三に、宣教のメッセージがある。初代のクリスチャンたちはペンテコステの日に、天上の右の座に着座されたキリストに注がれた聖霊の満たしの恵みを受け、地の果てまでその証し人であるよう召しを受けた。今日の私たちも同様である。ここから地の果てまで、宣教に証し人として派遣され、地球を一周すると、今ある場所が地の果て≠ナあることを教えられる。台所が、通勤の道筋が、駅のプラットホームが…。コップの水が溢れるように、測れ知りえない十字架の贖罪の恵みと聖霊による、罪と死のからだの死と葬りと復活の恵みに生かされ、その恵みの溢れる一滴、一滴をもって証しする者とされたい。そこに生きる私たちの存在、そのものが“証し”である。生きる瞬間、瞬間≠ェ証しである。主は、髪の毛一本の証し、コップ一杯の水、慰めのひとこと、ささやかなスマイル、一粒の涙も忘れておられない。それらはすべて報いと報酬の対象である。今の時の軽い患難は、永遠に思い栄光へと変えられる時がやがて来る。
ヨシヤは8歳で王となり、エルサレムで31年間、王であった。アブラハムとその子孫は神様に祝福されヨシヤは唯一の神から目を離さず、右にも左にもそれることはなかったが、イスラエルの民は偶像礼拝から離れられず、北と南に分断されていた。子牛礼拝を繰り返した北イスラエルはついにほろぼされ、南ユダだけが残されたのである。ヨシヤは南北の統一を目指し宮を修復しようとした。その作業の中、律法の書がヨシヤのもとに届けられた。律法の書が読み上げられた時、ヨシヤは自分の衣を裂き非常に嘆いた。唯一の神を礼拝し偶像礼拝をしてはならないと教えられたはずのイスラエルの人々が、偶像礼拝と不道徳の罪にまみれていたからである。ヨシヤは乱れきったイスラエルの民のなかでダビデの頃の強い中央集権国家を目指し、各地にあった捧げ物の拝殿を廃止し、エルサレムで中心的に宗教行事を行うようにした。その時代の中でヨシヤは、時代性、目的性をもち、歴史の中に根を張った宗教改革を成し遂げたのである。近年では、東西に分かれていたドイツが統一されたが、あの時の人々の歓喜に満ちた姿を思い出すと、分断されたイスラエルの地を嘆いたヨシヤの気持ちを察することが出来るだろう。
アブラハム、イサク、ヤコブに続くヨセフの生涯は素晴らしい家系に生まれながら、平たんな物ではなかった。自分自身の内にあるおごりや周りの人々に対する配慮の無さなどから、兄弟から妬まれ、憎まれ、思いもかけない人生を歩むことになる。エジプトに奴隷として売られ、やっとその資質を買われて家れいになれたと思ったら、とんでもない濡れ衣を着せられ、牢獄へ・・しかし、故郷を出てからの日々は彼の賜物を更に進化させていた。王様の夢を解き明かすというチャンスが与えられ、その預言がズバリ的中し、エジプトという大国を飢餓から救うという偉業を成し遂げる。そんな彼にも心の中に刺さったままのわだかまりがあった。兄弟との確執・・・ヨセフの人生で最初のピンチとなった、大きな負の遺産。こんな状況を、神様は食べ物を求めて兄弟をエジプトに来させるというチャンスに変えられた。昔の自分たちの仕打ちを、どの様な形で仕返しされるのかと恐れていた兄弟に対して、ヨセフは昔のヨセフではなかった。ピンチの時もチャンスの時も、見上げ続けた神様によって人を許す、心の広さを身につけていた。
イエス・キリストが生まれられた国イスラエル、旧約聖書の舞台は特定されたこの国の中での出来事であり、キリストもイスラエルの地を人として歩まれた。しかし、キリストが十字架に架かり罪の為にご自身を捧げられたのはイスラエルの人々の為だけではなかった。旧約時代に人々が罪許される為には、毎回、犠牲の動物の血が流される必要があった。が、キリストの贖いの業によって、その必要がなくなった。新約時代に生きる私たちは、幕屋も犠牲も必要ない。ただ、キリストを救い主として受け入れるのみ。地理的イスラエルは、今や、霊的イスラエルへとキリストによって広げられた。今日、ユダヤ民族主義の色合いの濃い「旧約聖書」は、新約のイエス・キリストの贖罪に根差した御霊の新時代の光の下に再解釈≠ウれなければならない。新約時代の使徒たちの示した「旧約聖書再解釈ガイドラインとしての新約聖書」はそのことを明らかにしている。新約時代において、旧約聖書この、民数記の祝福の祈りは、旧新約聖書時代を通じて有機的連続性・一体性の中において存在し続ける真の神の民≠ノあてはめられるべき箇所であり、今日世界中のクリスチャンに向けられたものとして再解釈≠ウれるべきである。
"あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。"私たちが、初めて神の存在に気付き、自分の救い主として受け入れた時、これが最初の献身である。しかし、その後の歩みは好きな様にしても良い。という事ではない。大げさな言い方をすれば、私たちが生きているこの一瞬、一瞬を捧げる覚悟を持って歩み続けることが献身である。この世と調子を合わせず、何が神に受け入れられるのかを見極めつつ、高慢にならず、慎み深く、しかし、時には大胆に行動する。とは、なんと難しい生き方を神は私たちに求めておられるのだろう。生まれたままの私たちには、到底出来ない生き方である。が、一人で歩むのではない。共に歩んで下さる方がいつも側におられる。毎朝、その方を意識しながら、二人三脚での生活は、時に紐が引っ張られながらも、まっすぐに進めるのではないだろうか?
すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか?という律法学者の問いに対して、イエスは"心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。"とおっしゃった。自分こそ神の律法を知り尽くしていると自負して止まない律法学者に対して、あなたの信仰は中途半端ですよ、とイエスはおっしゃった。頭だけでいくら神を知ろうとしても、解る物ではない。すべての力を結集して知ろうとしなければ、解る物では無い。徹底して知ろうとしなさい。と教えられた。また、二番目に大切な事は、同じように徹底して、しかも、"あなた自身を愛する様にあなたの隣人を愛せよ"である。人間がいかに自己中心な生き物であるかを知り尽くした神の言葉ではないだろうか?"この二つより大事な命令は、ほかに無いと言われた。
この世に生を受けると、長い様であっても人生はあっという間に終わりを迎えてしまう。これが私の天職だと言える仕事につける人はまれである。しかし、生業はどうであれ、私たちには神から与えられた賜物があるキリストご自身が量りに従って与えて下さる恵である賜物、それを磨き整え、完全な物にしていくのは私たち自身に任されている。この賜物が趣味と違うのは、この賜物がキリストの身体を建て上げるために用いられているかどうか吟味しつつ用いなければならないということである。全ての物を貫き通した神からの賜物はどんな困難が訪れようと、神の身体である集まりを結び目によってしっかりと建て上げる物でなければならない。
どんなプロジェクトも容易に事が進むことはまず無いと言って良いだろう。自分の意見を無理やり通そうとすれば、会議は紛糾し頓挫してしまう。 その時、この聖書が教える、謙遜と柔和の限りを尽くし、事を進めれば例え時間はかかったとしても、氷が溶ける様に頑なな心も柔らかにされる場合もある。 リーダーに立てられた人は、ただ強引に引っ張って行く強さだけではなく、この人は私が助けなければという弱さも兼ね備えていなければならない。 キリストの囚人であるパウロはそのどちらも兼ね備えていたに違いない。
夕暮れ時に、光がある。神によって価値観が変わった人にとっては、人生の終焉になっても天国。人生とは長い長い神との二人三脚の旅である。
コリント人への手紙の中でパウロは正直に、苦労して種を蒔いたのは自分である事を宣言している。しかし、そんな事はどうでも良い。成長させて下さる神を忘れてはならないと強調している。教会でも神学会でも、いろんなところから人が集められ、それぞれがそれぞれのバックグラウンドを抱えている。お互いが自分の意見に固執しているなら、話し合いの意味は無い。キリストという土台を基としてそれぞれの賜物を発揮すれば良い。多様化はバラバラになる事ではなく、多くの色彩が集められる事による統一性をもたらすものである。
今日、9月の第一聖日、母が初めて聖餐にあずかった。感謝である。キリストが世を去られる前に、弟子たちに教えられた、聖餐の奥義。キリストの裂かれた体と流された血汐によってどんな罪をも許され、神の家族とされる。そこには血縁を越えた聖餐による共同体が存在する。
出エジプトの十戒から教えられる事はまず神様との関係を大切にして生きる事。唯一絶対の神様から目を離さず、常に神様の思いを纏って生きる事。八百万の神々に振り回されず、自分の純粋な信仰に生きる事。そうする事によって人々との関係も祝され、その恵みは千代にも至る。