201705-08_説教メモ
記録: 安黒仁美
2017年08月27日 新約聖書Tコリント人への手紙04:17-25(MP3/YouTube)「主イエスは、渡される夜、こう言われました―陪餐にふさわしい者とは誰か」 |
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先月より、岬の教会の礼拝奉仕のために、4回にわたってローマ 4章を開いてきたが、今回は「聖餐式の意味について」語るべきと示され、新約の教会における、聖餐式のあり方、意味について教えられたいと思う。
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1 , 11:23,24 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
聖餐式の始まりは、イエス様が十字架にかかられる前夜の「最後の晩餐」からである。この時期はちょうどイスラエルの「過越の祭」の食事の時期と重なっていた。
紀元前、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民が、自分たちの故郷イスラエルに帰ろうとした時、労働力の低下を恐れて、王であるパロは反対した。
そこで神様は10の災いをエジプトに下した。第10番目の災いというのは、エジプトにいる全ての男子の初子を殺すという恐ろしいものであった。あまりにも恐ろしいさばきに、エジプトの民はイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのである。
その10番目のさばきが下される夜、イスラエルの民が食べた食事が「過越の食事」=「最後の晩餐」である。神様の言われたことばを信じたものは、家の門とかもいに「小羊の血」を塗り、人々は家の中にいて「過越の食事」を取った。その夜、その血を見て、神様はその家には災いを下さず過越されたのである。
この「小羊の血」は、十字架上でキリストの流された血を象徴している。
全ての人間がいつか、天の大法廷に立たなければならない。裁判官である神様が見られるポイントは何か?それは、キリストの十字架によって罪が許されると信じているかどうか、その人がキリストの血をまとっているかどうかである。
過越の出来事は、イエス・キリストにおける救いの「予表」であった。
「聖餐式」は過越の儀式、つまりはキリストの十字架の業を表している。神の怒りの審判が下る「凄惨な儀式」なのである。司式者が1つのパンを裂いて信者たちに渡す。これはキリスト自身の身体が引き裂かれたことに由来している。いばらの冠をかぶせられ、40に1つ足りない鞭を受け、十字架に釘付けられた、無惨な身体をいただくのである。
キリストはそのようにして、私たちの代わりに刑罰を受けてくださった、その事を深く考えなければならない式なのである。
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2 , 11:25,26 「夕食の後、盃をも同じようにして言われました。「この盃は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この盃を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
「聖餐式」とは、私たちの罪を「精算する場所」なのである。
1度は悔い改め、私たちは救いに導かれたのだが、毎日毎日私たちのいろいろな思いが小さな埃のように湧いてきて、いつの間にか山のように罪がたまってしまう。そのような時、聖く正しい神様に罪を照らされて、悔い改め、身代わりとなってくださったキリストをもう一度信じ「義」と認められる。天国も新天新地も私たちに用意されている事を再確認する式なのである。
未来の大法廷は一生に一回きりのものである。また、人生で大きな回心も一回きりのものである。しかし、私たちは日々、大小の罪を犯し続けるものであるがゆえに、日々の悔い改めを必要としている。それが1日の終わりに持たれるとすれば、月に一度の「聖餐式」は、前の月1月の「罪の精算式」なのである。
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3 , 11:27~32 「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の盃を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、盃を飲みなさい。
みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」
「聖餐式」は「聖なる式」つまり、「正しい式」である。
16世紀の宗教改革によってもたらされた「教会観」は、教会とは正しく福音が語られる所、また、教会とは正しく「洗礼式」と「聖餐式」が行われる所であった。
キリスト教会の2000年の歴史の中で、「聖餐式」にあずかれるのは「洗礼を受けた人」と決められている。お寺で誰でもが茶菓子をいただくようなものではなく、パンと盃をいただける正しい対象があるのである。
旧約聖書においてはエジプトの「過越の儀式」が、割礼を重んじるイスラエルの民と限られていたように、「聖餐式」は「洗礼」という「心の割礼」を受けたクリスチャン限定である。
また、イエス様が設けられた「最後の晩餐」に参加したのが12弟子であったように、「聖餐式」に参加できるのは、あらゆる国のキリストを信じてバプテスマを受けた信者たちと定められている。
イエス様を心から信じて罪を告白し、洗礼を通してその身分を公のものとし、教会員になった人たち、この責任ある教会員が自分を吟味してパンと盃をいただくのである。
昔は「聖餐式」と「愛餐会」が同じ時に持たれていた。お金持ちはお金に物を言わせて、ご馳走を持ち寄り、朝早くからやってきて飲み食いしていた。貧しい人たちは集まるのも遅れて、その頃には食べ物も飲み物もほとんど残っていない有様だった。
この状態を憂いて、パウロは手紙を書いている。「金持ちは肥えふとり、貧しい者はやせ細っている」と・・・
必要以上の飲み食いは健康を害することになる。「聖霊の宮」である私たちの身体は、神様からの預かりものとして、きちんと管理しなければならない。そして、お互いに愛による配慮を忘れず、分かち合うことを大切にしなければならない。
2000年のキリスト教の歴史を見れば、受洗者の陪餐が基本である。それは、教会が「凄惨な十字架」をありがたく受けとめ、日々の自分の罪の「精算」をし、キリストの教会員として「愛を分かち合う」場所であるからである。(仁美記)
2017年08月20日 新約聖書ローマ人への手紙04:17-25(MP3/YouTube)「望みえないときに、望みを抱いて―有限なる人間が無限なる神に」 |
岬と高槻の礼拝の準備として、一宮チャペルでは、ローマ書及びエペソ書を少しずつ学んでいる。そして、それと並行に今月から、ベネマという人の本の翻訳にも取り組んでいる。それは、「宗教改革の遺産」とは何だったのか?という原点を探る取り組みである。つまりその原点とは、ローマ書4章の始めにあったように、「不敬虔な者が信仰によって義と認められる」ということである。
「信仰による」という事は「行いによる」のではないという事である。
その事をパウロは、ダビデ王がどのようにして「義」と認められたのかを書いている。
ダビデは「姦淫」と「殺人」という大きな罪を犯した。この罪は、ダビデがいかに善行を重ねたとしても挽回できるものではない。
私たちはこれほどの罪を犯す事は無いかもしれないが、心の中を見れば、「情欲」「憎しみ」「妬み」など、罪の種子を多く発見する。そして、聖い神様は例え種子のような罪であっても見逃す事は出来ない、裁かれるお方「義なる神」なのである。
この聖い神様の御心の基準によれば、誰1人天国には行けないことになる。
しかし、神様はキリストを地上に送られた。キリストが全ての人の身代わりとなり、十字架にかかり死なれることによって、その事を信じる全ての人々の罪を許すことにされたのである。
だから、努力や頑張りは「信仰」ではない。イエス・キリストの十字架の恵みの雫を、ひたすら器に入れていただくこと、これが「信仰」なのである。
神の民の始祖である「アブラハムの信仰」を通して、パウロはイエス・キリストの「死」と「葬り」と「復活」の意味を深く分析し評価している。
まず、彼の信仰は「望み得ない時に望みを抱く信仰」である。つまり、「神様との約束は必ずなる」と信じる信仰である。
話は少しそれるが、先々月、高槻の教会でした信徒セミナーの「人間論」の準備中に教えられたことがある。それは、「人間は限界のある存在である」ということである。
人間は良き創造の中に、良き存在として造られた。しかし、神様のように無限の存在にはなり得ないものである。人間は常に「時間」「空間」「能力」全てにおいて限界をもっている。つまり、「有限性」の中で生きなければならない。これは罪のゆえではないし、無限の存在になる必要もない。
ただ、人間は自分自身の有限性の中に、無限性の神を信じて生きるべき存在なのである。
ヘブル人への手紙の中で、アブラハムは広大な土地と星や砂のように多くの子孫を得るとの神様の約束を得たと書かれている。しかし、アブラハムは生存中に約束のものを得てはいなかった。
私たちも神様に祝福されて生きることが出来ると信じているが、現実には様々な困難がある。
最近は少子高齢化で、高度成長期のように全てのことが祝福されることを実感して生きることが出来ない低成長の時代である。土地や建物もかつては値打ちがあったが、今や「負の遺産」である。そして、子供の4割は結婚しないというより、低収入のため結婚出来ないのである。
戦後から高度成長期またバブル期が、朝から次第に日の登る真昼だとすれば、今からの時代は日も傾き夕方になり山の端に沈もうとしているということになる。
しかし、こんな時代だからこそ、アブラハムの信仰が私たちの力となる。
「無いものをあるもののように考える」ことの出来る神様を、信じる必要のある時代なのである。
やはり、アブラハムは「望み得ない時に望みをいだいた信仰」であった。
私たちも自分の健康や老後の資金についての悩みがある。子供や孫の学業、就職、結婚などの悩みも尽きない。しかし、アブラハムやサラの死んだも同然の身体という現実がある中での、アブラハムの神様を見上げる信仰であった。
私たち自身は、かつての幼子のような純粋な信仰ではなくなっていると自覚している。たぶんアブラハムもそうであったと思う。ただ、彼は神様の約束を手放さず、永遠を見る視点、終末論的、聖霊論的に神様の約束の成就を見ることが出来る「信仰」を持っていた。
私たちもアブラハムの信仰に立って生き続けたい。問題や困難の只中で、神様にうめきつつ、叫びつつ生きてみたい。アブラハムの永遠の視点を持って、迷路のような、また、山の中で道を失ったかのような時も、アブラハムを思い出したい。じっと耐え、体力を温存し、神様の助けが来ると信じて待ち望みたい。
詩篇18篇のダビデのように・・・神がサウルの手からダビデを救い出された日のように・・・私たちも「望み得ない時に望みをいだいて」待ち望みたい!(仁美記)
2017年08月13日 新約聖書ローマ人への手紙04:13-16(MP3 / YouTube)「信仰の本質の定義のありか―シオニズム?、1世紀のユダヤ教?、キリストの人格とみわざ?」 |
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4:13 「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」
これは素晴らしい言葉である。創世記15章で神様がアブラハム言われた「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」つまり、カナンと見渡す限りの大地をアブラハムとその子孫に与え、その子孫は星の様になるとの神様からの約束であった。
新約聖書の時代になって、キリストによって神の御業は完成した。見渡せないほどの広い世界、全人類がキリストを信じる信仰によって神の世界の相続人とされたのである。
以前はユダヤ民族、限定された地域での働きであったが、今や地球全て、被造物世界すべてがキリストによって贖われることを待ち望んでいる。
私が以前書いた「福音主義イスラエル論」にあるように、ユダヤ民族や特定の地域にこだわり、領土を回復するという野心を抱き続けることは、聖書を読み違えているとしか言いようがない。
キリストの、また、パウロの解き明かしはどの様であるのか?贖われた人々は天国に、つまり新天新地に入れられる。しかし、律法によるのではない。また、良いことをして天国に入るのでもない。もし、律法を守り良い行いを沢山しないと天国には入れないのであれば、そんな高い基準に到達する人はひとりもいない。
ユダヤ人たちは選民的特権意識を持ち、割礼や戒めや律法を守ろうとする。
しかし、以前は自らもそうであったパウロは、キリストに出会うことによって、その考えが根本的に覆された。
では「信仰とは何を意味しているのだろうか?」この世の中には沢山の信仰がある。「イワシの頭も信心かな!」というものまである。
聖書の信仰、信仰の本質とは何なのか?
4:14,15,16 何かをする(律法をまもること、良い行いをすること)などという「条件付きの信仰」は虚しくなると書かれている。そして、律法を守ろうとすると怒りに満たされてしまうというのである。なぜならば、何とか守ろうとすればするほど、「あれも出来ていない、これもしていない!」不十分な自分ばかりが目につき、まるで違反切符を次々と切られているような気分になってしまうというのである。
4:16 「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、」
「信仰により、恵みによる」とは理解するのが難しいかもしれない。
「ダビデは行いとは別の道で」4:6 と書いてあった。ダビデの犯した罪は「姦淫」「殺人」という大きな罪であり、そのままであったなら滅び、死刑が待っているだけであった。しかし、彼は彼の罪を覆う大きな力のお方を知っていた。人の罪を代わりに背負い生贄として捧げられる動物たち、神が定められたその身代わりの犠牲に、彼は自分の全てをかけた。
これが聖書の言っている「信仰」である。
「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じること」「罪深い者が、キリストの血潮で覆われることにより、無代価で聖いと宣言されるということをうけとること」これこそ聖書で言うところの信仰である。
アブラハムはとことん年老いて、死んだも同然、子を望むのは不可能なことであった。しかし、神様はこのような者を蘇らせ、生かすお方であった。キリストは亡くなられたが復活された。アブラハムの出来事もキリストの御業に焦点が当たっている。
最近の流行りの教えの中に、第2神殿時代という考え方がある。それはキリストの御業に焦点が当たらず、「ユダヤ教がわからなければ聖書がわからない」などという考え方である。
パウロは誰よりもユダヤ教の教えを知りながら、キリストにのみ焦点を当てている。
贖罪の原点、復活の力がキリストにあることを知らずして、キリスト教信仰はわからない。
キリストを単純に、素朴に信じるだけで、誰でも天国に入り、新天新地を相続するのである。
キリストの贖い、蘇りがいかに恵みであるか、さらに学んで行きたいと思う。(仁美記)
2017年08月06日 新約聖書ローマ人への手紙04:09-12(MP3/YouTube)「聖書は何と言っていますか―解釈軸は15章?、17章?」 |
ローマ書は、「初代のキリスト者とユダヤ人の耳をもって聞く」ことが大切である。「使徒パウロの過去に連れ戻された者がそこでパウロが言い得たことを自分自身に語られたものとして聞き、それについて思索することが深ければ深いほど、歴史的釈義が引き起こす現代からの距離というものは一層生産的となるのである」とU.ヴィルケンスは言う。
パウロは、ローマ書において何を語っているのか。「1世紀のパレスチナ・ユダヤ教内にある“誤解”を取り扱っている」といえないだろうか。ユダヤ人の選民的特権意識に対して「ユダヤ人も異邦人もともに、神の怒りと審判の前にある」(1章)と断言し、「律法を誇るユダヤ人」、「割礼を誇るユダヤ人」に対して裁きがあると語る(2章)。そして、救いは「恵みのみ、信仰のみ、キリストによる贖いのみ」(3章)によると語ってきた。
四章に入り、父祖アブラハムと王ダビデの“信仰”から、聖書が、そして神が語られる“信仰”の本質とは何かを説明する。ユダヤ人のラビ(教師)は創世記22章を軸に15章を解釈し“信仰”の本質を“忠実・誠実”と解釈してきた。また、17章を軸に15章を解釈し“信仰”を“割礼”による選民的特権と誤解してきた。誤解の只中にいたサウロ(パウロ)は、ダマスコ途上の経験から「目のうろこ」が落ち、“信仰”の本質に目が開かれた。創世記15章を軸として示されている“信仰”の本質は、「キリストの贖い」にあることを。この贖いを恵みとして「姦淫と殺人の罪の只中にあり、断罪される以外、滅びる以外に道がない」不敬虔な罪びとが、身代わりの刑罰を“空手”で受け取る―これが信仰の本質であることを知った。
わたしたちは、今日の諸学の進展から、第二神殿ユダヤ教と1世紀のパレスチナ・ユダヤの文脈から学び続けることのできる素晴らしい時代に生かされている。これは感謝なことである。ただ、「1世紀のパレスチナ・ユダヤ教内にある“誤解”」を軸に、パウロの「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ」を再解釈する傾向には注意が必要である。創世記15章を軸とする、聖書の、キリストの、パウロの「恵みのみ、信仰のみ、キリストの贖いのみ」の福音理解の豊かさを補完する周辺資料として注意深く識別しつつ、建徳的に活用していくべきである。(務記)
2017年07月30日 新約聖書ローマ人への手紙04:1-8(MP3/YouTube「アブラハムの場合はどうでしょう―解釈軸は15章?、22章?」 |
ローマ書4章は「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。」から始まる。
ローマ書1~3章において、パウロは自分のイエス・キリストの福音の理解を述べている。
創世記において、神様は天地万物を造られ、最後に人間も造られたと書かれている。神様は人間を神との交わりが出来るものとして最高の被造物として造られた。しかし、人間は神様に背を向け、その結果として「死と滅び」の中に身を置くこととなった。
その対象はユダヤ人も異邦人も関係なく、全ての人間が対象である。
1度死ぬことと死後に裁きを受けること、これが全ての人間に課せられた。では、その裁きから逃れ、救われ天国に入るためにはどうすれば良いのだろうか?
パウロは言う、全ての人間は罪の下にあって、誰1人として行いによっては天国に行けないのだと。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ「義」と認められるのであると。
そのためには、イエス・キリストの身代わりの死、恵みとしての救いを信じることが必要である。
4:2 パウロはユダヤ教の教えの中において、アブラハム理解、信仰理解に誤りがあると言うのである。
ラビの教えの中に、「アブラハムは行いによって義と認められた。」という間違いがある。
アブラハムのことは創世記15~22章にかけて書かれているが、アブラハムは信仰によってイサクを捧げたとある。
ユダヤ教のラビによれば、神様の教えや命令に従順に従ったので、アブラハムは「義」と認められたのだという。パウロ自身もクリスチャンになる前は、一生懸命行いによって「義」と認められようと努力していた1人であった。しかし、彼もそう信じていたアブラハムの信仰の義の解釈は、間違っていると確信したのである。
アブラハムは行いによって「義」と認められ救われたのか?そうであれば、パウロが言うようにアブラハムは自分を誇ることが出来ただろう。
しかし、聖い、正しい神様の前では、自分がいかに汚れたものであるかがわかるはずである。
聖書はなんと言っているのか?「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創 15:6 とある。
ユダヤ人はアブラハムが神に従順に従い行ったので「義」と認められたと言うが、それは創世記 “22章を軸として15章を解釈している”のではないだろうか?
4:4「働く者のばあいに、その報酬はめぐみではなくて、当然支払うべきものとみなされます。」
もし、アブラハムが行いによって「義」と認められると考えるなら、それは「報酬」であって「めぐみ」ではない。そこには神のめぐみは不必要なものとなってしまう。
4:5 しかし、イエス・キリストがこの地上に来られたのは、人間全てが罪の中にあり、自分の行いによって自分を救うことが出来ないからこそ、何の働きもない者のために「義」を得させようと神はご計画されたということである。
要するに創世記の正しい理解は、”15章を軸として、22章を考える”ということである。
アブラハムはまず神を神として信じた、そのことを神様は良しとされ、アブラハムを「義」とみなされた。その信仰があったからこそ、御霊の「実」として彼はイサクを捧げることが出来たのである。
信仰の本質をユダヤ人たちは取り違えている。
何の働きもないもの、不敬虔なものを、神様は「義」と認めてくださる。私たちが何かをするとかしないとかいうことではない。
ある人がこう言っている。「信仰とは空っぽの器を、神様の前に差し出すことである。」と。信頼して器を差し出すと、神様がめぐみを溢れるほどに入れてくださるのである。つまり、めぐみをその器に入れていただくこと、それが信仰である。
4:6 ダビデはイスラエルの歴史の黄金時代の王である。それほどの王が告白している。自分は行いとは別の道で、神様に「義」とみとめられたと。まさに、アブラハムと同じ信仰である。
「不法をゆるされ、罪をおおられた人たちは、幸いである。」4:7 何かをすることではない。ただ、罪を悔い、キリストの血潮で覆われることなのだと告白しているのである。
4:8 「主が罪を認めない人は幸いである。」
人生とはこのようにみ言葉を正しく理解し深めていく螺旋階段のようなものである。正しく理解すればさらに深みを知り、さらに下へ下へと目標に向かって進むことが出来る。
「ダビデのばあいは、どうでしょうか?」
詩篇32編でダビデは告白している。いかに大きな罪であっても、神の前に告白すれば、赦され、感謝の念が心の底から湧いてくるのだと。
信仰の本質は行いには無い。朝毎に夕毎に、「神を認める」ただそれだけである。(仁美記)
2017年07月23日 新約聖書エペソ人への手紙05:31-33(MP3/YouTube「ふたりは一心同体となる―愛しなさい、敬いなさい」 |
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「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、2人は一心同体となる。」5:31
これは創世記 2:24 にある言葉である。
そしてまず、神はこう仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従わせよ。」(創 1:28)
人間の生殖能力による人口増加と、大地の管理者としての人間の使命が書かれている。
そして、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創 1:27) とあるように、人は神の人格に似せて造られ、神と人間、男と女の人格的交わりが出来るように創造された。
そしてまた、すると人は言った。「これぞ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創 2:23) とある。これは肉体的、性的結合による一体だけではなく、自分を愛するように妻を愛する夫、この2人が人格的に1つにされる事を象徴し表現している。
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「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」5:32
夫の妻に対する愛が、キリストと彼の妻である教会への愛をさしているというのである。
かつて、山上の垂訓を述べられる時、イエス様は古くからの律法をまず述べられ、その後、「しかし、私は言います。」と律法よりも更に深い意味を述べられた。今回はそのパウロ版である。「私は、キリストと教会をさして言っているのです。」
キリストの犠牲的な愛、それをパウロは夫婦の神秘的で聖なる性的結合に例えて言及しているのである。
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しかし、「この奥義」とは、エペソ 3:1~6 にあるように、キリストと教会の結合をさしているだけではなく、今までいがみ合い、否定し合っていたユダヤ人と異邦人の結合をも意味している。
つまり「ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、2つのものをご自身において新しい1人の人に造り上げて、平和を実現するためであり、」エペソ 2:15
パウロは結婚という関係の中に、敵意を捨て、違いを乗り越えていく男女のように、キリストと共にある教会の美しい姿を見ている。結婚した2人が1人となるように、キリストを信じるものたちは新しい1人の人となるのである。
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「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」5:33
ここで用いられている「敬う」はギリシャ語では「フォベタイ」畏れなさいという意味である。その感情を分析すれば、まず「単純な尊敬」から、「畏怖の念」を通り、最終的に「崇敬」へと至るニュアンスを持つ動詞である。
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「妻は夫に従いなさい」とは、夫が神の意図されているリーダーシップを発揮できるように従うということであって、単に盲目的に従うことではない。
また夫への「自分と同様に愛しなさい」とは、自分の妻が、神様が願われる「妻のあるべき状態」になれるように、夫も犠牲を払い仕えなさいということである。 (仁美記)
2017年07月16日 新約聖書エペソ人への手紙05:28-30(MP3/YouTube)「神は深い眠りを下され―あばら骨をひとつ取り」 |
5:28 「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」
創世記 2:21 では「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の1つを取り、そのところの肉をふさがれた。」と書かれている。アダムのあばら骨からエバは造られたのである。
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この世界における男性と女性の関係、夫と妻との関係を見ると、相変わらず男性中心の社会であり、ある国や社会では女性は物のように扱われている。
しかし、聖書を見ると、最初の女性であるエバは、アダムの「あばら骨」から造られたと書かれている。足や手など身体の末端からではなく、また、口や目や耳などからでもない。最も人間にとって大切な心臓に近い部位、昔の考え方によれば「心=ハートがあると考えられる部位」から骨を取り、神様は女性を造られた。
そこには、男性の「最も大切なパートナー」として、女性を造られた神様の御思いが現れている。妻は夫の「最も大切な部位」から造られた存在であり、夫にとって妻はまさに身体の一部分なのである。
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5:29 「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」
夫と妻の愛、夫婦の愛、男性と女性が愛し合うとはどういうことなのだろうか?
それは、お互いがお互いを「最も大切なパートナー」として、養い、育て、ケアーするということである。
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トゥルニエという人が書いた『結婚の障害』という愛についての本がある。
その本の中に、愛するためには「理解し合わなければなりません」と教えている。
では、どうすれば良いのか?理解し合うためには、まず、理解しようと強く願わなければならない。そして、理解し合うためには、生まれつきの違いを受け入れる必要がある。そして、理解し合うためには、男と女の違いがいかに大きいかを認めなければならない。そして、最後に、理解し合うためには、愛における男と女の違いを認めなければならない、とある。
つまり、男性は大体において、理性的・論理的で、常に仕事や働きのことを考える傾向があるが、女性は大体において、情緒的・人間中心的で、家庭や家族に対する関心を抱く傾向があるというように、違いを理解しあって、そこをどう調節するか?が大切なのである。
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夫婦とは聖書において「一体の存在」であるが、別々の役割や機能を保有するがゆえに、組み合わせや調節の仕方によっては、摩擦や衝突が生じ、イライラが募ることになる。
合唱が美しく聞こえるのは、それぞれの違ったパートが異なった旋律を歌い、しかし、合わされた時に調和している時である。そのためには、そんぞれのパートが正しく音を取りかつ他のパートと響きあう繊細な調整が必要となる。
このように夫婦での調整がうまくいくと、1組の成熟した夫婦として、神様の栄光を表すことが出来るのである。
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4:31,32 「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みなすてさりなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いたさい。」
近すぎる関係ではあるが、互いに親切な心を持ち、優しい言葉が溢れる生活をしたいものである。
5:25 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
キリストの贖罪の御業を規範として、赦し合い、様々な違い、衝突を乗り越えていくべきである。肉の性質、生まれつきの弱さも受け入れつつ、御霊に導かれて、ともに変えられていくことを感謝するべきである。
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5:30 「私たちはキリストのからだの部分だからです。」
エバがアダムのからだの「最も大切な部分」から造られたように、教会はキリストのからだの「最も大切な部分」であるということである。
アダムが深い眠りにつかされ、エバが造られたように、キリストが十字架にかかられ死なれたことによって、私たちは生まれ変わることが出来たのである。
2:6 「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
私たちはキリストとともに死の眠りにつき、ともによみがえらされたものなのである。
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つまり、私たちは「第2のエバ」、「キリストの花嫁」である。
単にキリストを頭とするからだなる教会というだけでなく、私たちは「最も大切なあばら骨」から造られた教会であり、キリストの「心」に象徴される大切な存在として、神様はご覧になっているということである。
Iコリ 2:16 「私たちには、キリストの心があるのです。」(仁美記)
2017年07月09日 新約聖書エペソ人への手紙05:25-27(MP3/YouTube)「キリストがご自身をささげられたように妻を愛しなさい―ブライダル・バス」 |
5:21 には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とある。キリストとの関係を軸として、横の関係である人間どうしの関係を構築すべきであると聖書は述べている。
5:25 クリスチャンの生活の規範は「キリスト」である。キリストがクリスチャン生活の基本なのである。夫はキリストを模範として妻を愛さなければならない。生活のあらゆること、生きることすべてを、キリストを規範として行わなければならないのである。
何という高い基準、高い理想だろうか?
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パウロの時代、古代ギリシャのストア派の哲学の中でも「夫は妻を愛するべき」と教えていた。あらゆる宗教、あらゆる哲学がそのように教えている。
ギリシャ哲学において、「夫は妻を愛するべき」という言葉の中に使われたのは「フィレオー」という言葉であり、友情を表す言葉であった。
他にも「エロス」という、性的な愛を表す言葉もある。しかし、ここで使われているのは「アガペー」という愛である。この世界で最も強く、高く、深い愛である。そしてまた、「アガペー」は犠牲的な愛を表す。
ここで言われていることは、男女の愛というものの「質」「豊かさ」は、キリストの様に犠牲的な愛で結ばれる必要があるということであり、その愛が素晴らしい夫婦の関係を牽引していくということである。
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日本文学の有名な作家に有島武郎というという人がいる。彼の書いた本に「愛は惜しみなく奪う」というものがある。ここに描かれているのは、まさしく「エロス」、奪い合う愛、奪う本能、引き付け合う本能である。この本によって、彼は「新しい女性論」を追求したと称された。
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しかし、聖書のいう「愛」は「アガペー」、惜しみなく与える愛である。
三浦綾子さんの書かれた小説「道ありき」という本がある。キリスト教作家である三浦綾子さんは、クリスチャンになる前、敗戦と病の中に虚しく人生を歩んでいた。
そこに、前川正さんという医学生が現れる。彼は誠実なクリスチャンの男性であった。
前川さんがいくらキリストの愛を伝えようとしても、綾子さんの心は固く閉ざされていた。
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ある日、道端に落ちていた石を拾い上げ、前川さんは自分の足を叩き始めた。あまりにも激しく打ち続けるのを見て、三浦綾子さんは驚いて止めたと言う。
前川さんが何故その様なことをしたのかと言うと、「自分は綾子さんの健康のために祈り続けてきた。綾子さんが元気になり救われるためであれば、自分の命も要らないと思ったほどである。しかし、自分の信仰が薄いので、綾子さんは神様の救いを受け取ろうとしない。そんな自分を罰するため、こうして石で打ち付けているのだ。」というのである。
その時の前川さんの真摯な態度が、「アガペー」の愛が、虚無的になっていた三浦綾子さんの心を動かしたのである。
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「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、・・・自分の妻を愛しなさい。」神様が望んでおられるのは、夫と妻が心から愛し合う姿である。それは、小さな思いやりの言葉、手伝い、心の優しさかもしれない。人間の本来の姿では、愛のない、自分本位の空っぽのダムのようである。しかし、キリストの十字架から流れるアガペーの愛は、私たちの干上がったダムにも注ぎ続けられる。
ローマ 5:5 「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
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5:26 「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」
キリストの愛の意味・目的とは何なのだろうか?
エペソ 1:4 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」この聖く、傷のない者とは、「みことばにより、水の洗いをもって」なされると書いてある。
5:18 「御霊に満たされなさい」、コロ 3:16 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」とも書かれている。つまり、聖霊に満たされ、神のことばが溢れることによって、わたしたちの心は、水で洗うように罪が洗い流されていくのである。
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5:27 「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何1つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
パウロはここで、「夫婦、男女、結婚」の意味・目的を「キリストと教会」の結婚に類比して説明している。神の民であり、キリストのからだである教会は、「キリストの花嫁」と言われている。
黙 19:7 「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚礼の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」
黙 21:2 「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。」
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結婚式を迎えるにあたって、花嫁は「ブライダル・バス」といって、美容院に行き、からだを洗い清められ、肌や髪を整え「しみや、しわや、そのようなものの何1つない、聖く傷のない」美しい花嫁に整えられる。
同じように、救われ、キリストのものとされた私たちは、「ブライダル・バス」の美容院にいるようなものである。
みことばの本質と共に働く聖霊、聖霊と共に働くみことばの本質は、私たちを美しいキリストの花嫁へと整える働きをしている。
やがて、再臨の時、花婿であるキリストの前に立つ花嫁である私たち、教会が恥ずかしくないように、日々整えていかれなければならないのである。(仁美記)
2017年07月02日 新約聖書エペソ人への手紙05:21-24(MP3/YouTube)「妻たちよ。夫に従いなさい―夫のケアへの感謝の応答として」 |
今朝も、いつものように「エペソ書講解」の流れを復習しつつ、エペソ5:21-24を開きたいと思います。五章の後半の鍵の聖句として、5:21をみることができると思います。5:21には「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」とあります。前半は「キリストを恐れ尊んで」てあり、後半は「互いに従いなさい」です。この構造のあり方が、クリスチャン生活の基本であり、わたしたちの福音理解の基本であると思います。
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エペソ書の構造も同様です。1-3章は、この視点からいえば、「キリストを恐れ尊んで」―つまり神を畏怖し、キリストを崇敬することが基本的にあります。そして4-6章は、垂直軸のそのような崇敬から流れるスビリットに根差して「お互いに従いあう」ことを教えているのです。垂直に降り注ぐスピリットと、それが水平に流れる生活との構造を、5:22-24に見てまいりましょう。
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V.22 「妻たちよ、夫に従いなさい」とあります。ここには、二つの理由(Tコリ11:3-12、Tテモ2:11-13、創2:21-28) が示されています。ここで教えられることは、「男性の首位性」は、創造に根差しているということです。聖書の啓示から、今日の経験に目を転じると、男らしさ、女性らしさは、肉体的にとともに、心理的にも相違がみられます。ただ、相違性を認めつつ、聖書の光は「ガラ 3:28 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と両性の同等性と相互補完性を認めています。
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両性の相互補完性とは何でしょうか。人類学また心理学的にいえば、父権性、男性の達成意欲、男性支配性は―普遍的にみられます。それは、男性、女性の肉体において分泌されるホルモン等の関係もあります。人類学的、心理学的相違性を、パウロは創造の光のもとで神学的に再構成・再陳述しています。しかし,服従を隷属へとはおとしめてはいません。かえって、聖書的意味の文脈の中に、再配置し一貫した意味を持たせることに腐心しているのです。
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ウィリアム・バークレーは当時の女性観について、ユダヤ人は、女性を低くみていた。毎朝の祈りは「神がわたしを異邦人、奴隷、そして女性にお造りにならなかったことを感謝します」であったと。ギリシャ人は、女性をさらに悪く扱っていた。家事や育児に忙しく働く牛や馬のような存在にすぎなかったと。ローマ人の間では、不倫がはびこり、結婚生活に破たんがみられたと。そのような社会の中において、パウロは、福音が垂直に「天からの雨」のように、その雨水が次に水平に、社会に、家庭に、夫婦に「田畑に流れ込み」それらを潤すことを期待しました。そのような意味で、パウロは「首位性と従順」関係をキリストとの関係のあり方の反映としてみつめているのです。ここに果実や稲麦の発育・成長・成熟(エペソ4:15-16)が可能とされる世界があるのです。
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妻に対する夫の首位性は、キリストの教会に対する首位性に似ています。妻の従順は、規則として、またルールとしての命令ではありません。妻の従順は、夫のケア(世話、配慮)に対する感謝の応答なのです。パウロは、キリストと教会との関係でみられるように、妻の夫に対する従順の中に―自発的で、自由で、喜びに満ちたパートナーシップをみているのです。つまり、夫の首位性は、キリストの首位性を鏡のように反映させているものであるので、夫の愛による保護と備えへの従順は、女性らしさを失わせるものではなく、かえって積極的にそれを豊かに養うものなのです。(務記)
2017年06月25日 新約聖書エペソ人への手紙05:20-21(MP3 /YouTube)「キリストを恐れ尊んで―規範としての主イエス・キリスト」 |
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エペソ 5:18~21 には「聖霊の満たし」について書かれている。
エペソ 1:13 では私たちが御霊を内住させているということは、神様の所有であるという「証印」が押されているということである。
エペソ 4:30 には、人格を持っておられる聖霊を、悲しませてはいけないということが書かれている。
そして、今日の箇所では、人生を生きる最大の「秘訣」それは、「聖霊に満たされること」である、ということを学びたい。
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5:20 「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
「感謝しなさい」という言葉は、5:4bにも出て来る。「感謝」の反対は「不平不満」である。それは、旧約の神の民「イスラエル」の特徴でもあった。彼らの不平不満は、40年にわたる荒野での旅路の間中、食べ物、飲み物に始まり、あらゆることの中に「不平不満」が溢れていた。
また、異邦人の生活は「偶像礼拝」に始まり、不品行、汚れた言葉で溢れていた。
私たち自身は、イスラエルの民や異邦人と同じ罪人であるが、「十字架の力」が私たちの内に働き、「肉性」「古き人」を取り扱ってくれる。
そのため、パウロは「感謝」に溢れた生活をしなさいと勧めているのであり、5章の前半は「感謝しなさい」という言葉でサンドイッチのように挟まれているのである。
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パウロは「いつでも、すべてのことについて」と言っている。字義通りに取れば、無制限に何でもかんでも感謝すべきだと捉える人もいるかもしれない。しかし、ここには制限がある。「主イエス・キリストの名によって」である。ここに制限があり規範がある。
「キリストの名によって」ということは、キリストの人格と品性において、またキリストの十字架の死、葬り、復活を規範的原理として、という意味合いがある。
だから、「暴飲暴食」をして感謝とか、「不品行や汚れに満ちて」感謝すべきではない。また、「飲酒酩酊状態」になって、賛美に溢れてはいけないのである。
「主イエス・キリストの名によって」きちんと生活をした上で「感謝」するべきなのである。
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5:21 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
「御霊に満たされなさい。」は「命令形」である。
時々、御霊に満たされたと自称する人が、攻撃的で上から目線であるのを見かける。しかし、聖霊は鳩のようなお方で、謙遜、柔和で優しいお方である。神である三位のお方が、お互いに尊敬し従いあっておられるということである。
教会でも夫婦の間でも、最も大切なのは互いに尊敬し従うということである。そのようなスピリットは何処から来るのだろうか?それは、キリストを恐れ尊ぶところから発生するものである。
私たちは自然にしている限り、罪の性質を帯びている。それは自己中心であり、他の人を自分より低く見ようとする姿である。しかし、キリストはご自分を無にして、十字架にかかられた。だから、私たちは畏敬の念をもつて、彼を礼拝する。キリストの品性と人格を恐れ尊ぶことにより、私たちは十字架の原理原則、規範にそって感謝し、聖霊に満たされることが出来るのである。(仁美記)
2017年06月18日 新約聖書エペソ人への手紙05:19(MP3 /YouTube)「詩と賛美と霊の歌とをもって―小さな赤々と灯る可憐な花」 |
+先週金曜日に、京都でレストレーションの諸問題についての講演をさせていただいた。
エリクソンは「組織神学の講義は、賛美を歌うように教えなさい!」と語っている。歌うように語り、質疑を受け、応答する。今回の集会は、まさにエリクソンが言い、私の願っている集会の形ではなかったかと感謝している。
今後は、ユーチューブで公開し、視聴者と共に語り合いながら、さらにこの問題を学んでいきたいと思っている。
5:19 「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
保守的な教派と聖霊派においては、多様性がある。ジェームズ・F・ホワイトの「プロテスタント教会の礼拝」という本には、初代、古代、中世を背景に、宗教改革が起こり、それは礼拝改革をも結実させたと書かれている。そして、そこからルター派、改革派、聖公会、メソジスト、クエーカー、リバイバリズム、ペンテコステ派等、様々な礼拝形式が生まれてきたことが書かれている。
今世界は多様な時代であり、国の文化や個性も伴って、1つの礼拝様式が絶対ではなくなっている。
イギリスのカリスマ運動の研究者であるJ. D. G. ダンは、「酒に酔ってはいけません。・・・御霊に満たされなさい」を見て、この背景にはI コリ 11:21 が頭にあったのではないかと考える。「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば酔っている者もいるというしまつです」。教会での愛餐会において、お金持ちはご馳走を持ってきてはたらふく食べ、酒に酔っているのに、貧しい人たちには食べ物すら無い、まるで主の愛から外れているかの様であるというのである。
パウロも、全ての心から溢れる賛美を禁止しているわけではないが、しかし、お酒を飲んでその勢いで歌うようにではなく、御霊の衝動によって湧き上がる賛美をすすめている。
1人の人が御霊の迫りを受けて歌い始めると、周りの人々もハーモニーをもって歌い始める。イギリスのカリスマ的な教会で繰り広げられた、麗しい光景である。
霊の歌の中には、哀歌やヨブ記のような、怒りや嘆きという一面もある。人間の心情の吐露である。つまり、信仰は人間がその豊かな情緒を吐露するためのものとも言えるだろう。内容は上から来るメロディーや言葉であって、聖書から離れたものであってはならない。
心の中に御言葉の種が蒔かれて、それが成長し収穫されるように、自然と賛美が湧き上がって来る、若者たちが賛美の集会に集められ、信仰を表現し成長していくことは、その時代に何が必要なのかを私たちに教えてくれる。
しかし、ヘビメタのような激しい歌は、その音楽やリズムに酔いしれるのが目的となってしまい、霊の歌とは言えず、ケースによってはブレーキをかける必要があるだろう。
I コリ 14:15 「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」
詩と賛美と霊の歌とは何なのか?それは言葉を超えた歌である。ローマ8:26にあるように、「いいようもないうめき」である。ハンナも捧げた「言葉を超えた祈り」また、詩編の作者のような「魂を注ぎ出す祈り」である。
クリスチャンは義務として祈るのだろうか?そうではない。クリスチャンには生きている限り息をするように「祈りのチャンネル」が開かれている。
以前にもお話ししたことがあるが、ドイツの神学者ヴェスターマンがロシア戦線において、弾丸が頭上を飛び交う中ほふく前進していた時、目の前に小さな赤い花が可憐に咲きほこっていたのを見た。その瞬間、心の深みから湧き上がってきたのは、「神への褒め称えの思い」であったという。
クリスチャンはどんな状況においても、日々の闘いの中にあっても、「詩と賛美と霊の歌」が私たちの内から湧き上がって来るのである。(仁美記)
2017年06月11日 新約聖書エペソ人への手紙05:18(MP3 /YouTube)「御霊に満たされなさい―ディオニソスのようにではなく」(再生リスト、最下部) |
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
今日のメッセージの主題は「御霊の満たし」である。
1:13 に「約束の聖霊をもって証印を押されました。」とある。家畜が持ち主を明らかにするため焼印を押されるように、私たちは内に御霊を宿すことによって神様の持ち物としての証印が押されていることになる。神様の所有となった私たちに「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(4:30)と言われているのである。私たちの内におられる聖霊は豊かな感情を持たれた方であり、悲しまれる方なのである。
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世の人々は何のために生きているのか?と問われれば「学歴を積み重ね、豊かな富と社会的地位を手に入れるため」と答えるだろう。しかし、私たちクリスチャンは何のために生きるのか?それは、「御霊に満たされるため」である。それが人生の目標なのである。
「御霊に満たされる」と言うことは、「主が共におられる」と言うことである。エジプトのヨセフのように、そして結果として主の民である教会では「語り合い」「賛美し」「感謝し」「従い合う」ことになるのである。(5:19~21)
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1 , 神学的に言えば、それはまず第1にクリスチャンの「義務」を表現している。
酒による酩酊を避けなさい、御霊の満たしを追い求めなさい、そうすれば、前に述べた4つの約束を得ることになるのである。
「聖霊の満たし」ということについて、20,21世紀では激しく論争されてきた。「聖霊の満たし」とは何なのか?パウロはここで「酒に酔うこと」とコントラストしているのである。
表面上、「酒に酔うこと」と「聖霊に満たされること」は、似ているのかもしれない。酒に酔うのはアルコールの支配下にあり、聖霊に満たされるのは聖霊の支配下にあるからである。
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しかし、パウロは類似点を直ぐに終了し、相違点をあげている。
ギリシャ、ローマ時代には「ディオニソス」という豊穣、酒、酩酊をつかさどる神があった。その異教において、酒に酔うということは「霊感を得る手段」と考えられていた。
そして今、キリスト教会ではそうであってはならないにもかかわらず、酒に酔うように酩酊状態を求める集会が多くある。酒に酔うように、賛美に、祈りに、ダンスに、預言に、癒しに、奇跡に「酔う」傾向が見られる。
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この酩酊状態というものは、宗教学上よくある状態である。学術的に見てもストレス発散にもなり、神様を求めているかのようであって、実は「酩酊状態」を追求する事が目標になってしまっており、ディオニソスの異教と何ら変わることはない。そのような中での霊感、しるし、不思議を体験するのである。
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2 , パウロが言わんとしていることは、正反対の解釈である。
ガラテヤ書にある御霊の実を見てみると「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23) ここに「自制」とある。御霊の実としてあげられているのは、聖霊下においてセルフコントロールをするということである。
つまり、「聖霊に満たされる」ということは、主の御旨にかなった健全なセルフコントロール状態になるということである。
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日本に招かれてくる有名な指導者の中には、浮気や姦淫、離婚、金銭欲にまみれた人もいる。その口から出るのは「富と繁栄の神学」である。どんなに沢山の人を集めても、どんなに派手なパフォーマンスをしても、またそのメッセージは、どんなに表面的にはキリスト教の用語に満ちていても、その集会は「ディオニソスの集会」と何ら変わりはない。アフリカやラテンアメリカなどで多くの人を集めていることを聞き、日本でも学ぼうとそうした指導者を呼び集会を持てば、間違った教え、間違った神学を取り込んでしまうことになるのである。
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3 , 使徒行伝 2章に、ペンテコステの時、人々が異なった言葉で話すのを見て、「甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。しかし、彼らはセルフ・コントロール状態にあり、神様の御座から御霊が注がれたが故に、そう見えただけである。
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4 , マルティン・ロイドジョーンズという有名な説教者がいる。彼は医師であり牧師でもあるが、「御霊による激励」と題してこの箇所にふれている。
「酒に酔う」とは、ワインやその他のアルコールによって、薬理学的に「酔う」つまり神経抑制効果が現れている状態であって、人間は自制、つまりセルフ・コントロールが麻痺した状態である。そのため、知恵、理解力、識別力、判断力、バランス感覚、すべての中枢神経が麻痺しているのである。
これに反して、「聖霊の満たし」によって得られるものは正反対のものである。つまり、薬理学的に言えば、「覚醒させるもの」であって、思い、心、知性がはっきりとして、正しい判断が出来るようになるのである。
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「酒に酔う」ことの結果は「放蕩(アソーティア)ギ」であって、凶暴、放縦、獣のような己をコントロール出来ない愚かな状態である。
「御霊に満たされる」ということは、人間をさらに人間らしくし、ついにはキリストに似たものへと変えてくださる力を持っている。
このように、御言葉の表面だけをとらえるのではなく、パウロのメッセージの本質を学びたいものである。(仁美記)
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※ディオニソスという異教―「ディオニソス(ディオニューソス・デオニュソス)」とは、ギリシャ神話における豊穣・酒・酩酊をつかさどる神のことで、その宗教では、酒に酔うことは「霊感を得る手段」としてみられていた。
2017年06月04日 新約聖書エペソ人への手紙05:15-17(MP3 /YouTube)「賢い人のように歩みなさい―時を知り、み旨を知り」(再生リスト、最下部) |
エペソ人への手紙は、使徒パウロがイエス・キリストの福音を、どのように理解したら良いのかを綴った「宝石箱」のような書である。
5章に入り、倫理的な聖い生活をするための動機付けについて学んだ。
1 , 厳然とする審判の存在について(5~7)
神様に造られた人間は、神様の御心に沿って生きる責務がある。それ故に、人間には1度死ぬ事と死後に裁きを受ける事が定まっている。
2 , 神様の光の下に生きる時、人間は豊かな恵みを受ける。(8~14)
私たちの人生において、御霊の実を結び続けるためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなければならない。
3 , 知恵深い生活をしなさい。(15)
「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」
倫理的生活の送り方において、賢い人と賢くない人をコントラストして描いている。ここで私たちは、クリスチャンになっても2種類の生き方があるという事を教えられる。そして、ここにおいてチェックしなさい、吟味しなさい「あなたはどちらなのか?」と問われているのである。
1 , 「賢い人」の生き方の特徴
ここでの「賢さ」とは、学校の勉強が出来る、知能指数が非常に高いという事ではない。
「機会を生かして用いる人」(16)と言えるだろう。ここで使われているのはギリシャ語の「エグザゴラゾー」という単語で、「時間を贖いなさい、時間を買い戻しなさい」という意味である。いわゆる「時は金なり」であり、人間の一生においてあっという間に時間は過ぎていくという事である。
「時」の価値を理解する人は、平等に与えられている24時間、365日、そして80年,90年,100年の人生を大切に生きることが出来る、そんな人こそ「賢い人」であると言うのである。
私ごとではあるが、私は約25年前、千葉県にある共立基督教研究所での研鑽を終えた後の、自分の人生について模索していた。
ソロモンに対して神様が言われた言葉「何か1つ願え!私がそれを叶えてあげよう。」を思い起こし、私は「一生涯、神学を研鑽する時間と、それを分かち合う空間を与えてください!」と祈った。その結果が、郷里のガソリンスタンドで働きながら、神学を研鑽するというライフ・スタイルである。
都会に比べて、それほど忙しくない仕事の合間に、私にとっては恵みであり賜物でもある神学を学び、山奥であっても瞬時に繋がるインターネットという技術で、日本中世界中を繋ぐという空間が与えられている。今はただ、後ろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進むのみである。
人間はそれぞれに人生を与えられ、時間を与えられている。その1つ1つがドラマであり、1人1人がその主人公である。全知全能の神様が、全ての人にドラマを準備し、脚本を書いていてくださる。演じている私たちにはその台本は白紙のように見える。しかし、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(エペソ 1:4)、私たちのために御計画を立てていてくださった。しかも、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました」(詩 139:16)。
私たちは神様の素晴らしい作品の主人公として、抜擢いただき、脚本を与えられ、御霊と語り合いながら、神様のご計画を手探りしながら、奇跡のような宝石のような人生という舞台で演じさせていただけるのである。
夕には感謝しつつ眠り、朝には今日も主が導いてくださるように祈りつつ1日を始めれば、1日をまた1時間を大切に生き、その結果として「御霊の実」を実らせることが出来るのである。
2 , 「賢い人」とは主の御心が何であるのかを悟る人である。
神様が与えてくださった「聖書」を通して、神様の御心を理解できる人である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(IIテモテ3:16)。幼い頃から聖書に親しみ、御言葉を私たちの心に豊かに宿すことが大切なことである。
私たちの心は土壌のようなものであり、御言葉に養われ耕された人は、神の原則を知っており、常識ある選択や決断をすることが出来る。毎日の出来事の中で、具体的、個別的、状況的に対応する知恵が与えられる。
神様を信じ、御心の中に倫理的に生きる。そのような人は、時の価値を知り、自分の人生を大切に、御心を探りながら生きることが出来るのである。(仁美記)
2017年05月28日 新約聖書エペソ人への手紙講解説教シリーズ 5:08-14(MP3)「光の結ぶ実―土と苗と光合成」(再生リスト、最下部) |
1~3章は、キリストの贖罪の恵み、十字架の恵みの豊かさについて学んだ。
4~6章では、キリストの贖罪の恵みに根ざした、倫理であり生活とはどのようなものであるのか?を学んでいる。また、4章の前半では、教会の一致、教会が成長するという事はどういう事なのか?また、後半では、教会の倫理的な聖さ、純粋さについて学んだ。
5章に入り、パウロはもっと具体的な事や感謝すべき事、光の下に生活を見つめるべき事を述べ、具体的には異邦人の歪んだ性の見方ではなく、クリスチャンは感謝の光の下で性を見るべきであると述べた。
また、倫理的、模範的な生活を推し進めるための動機付けをパウロは説いている。すべての人には最後の審判があり、そのゴールを目指して、意識して恵みに根ざして感謝して聖く生きるということが必要であると説いた。
今朝の5:8~14では、光の下で生活するとはどういうことなのか?実を結ぶとはどういうことなのか?についての動機付けまたチャレンジを述べている。
パウロは絵描きのように(レンブラントは「光の画家」と呼ばれたが)、象徴的な表現で「暗やみと光」のコントラストによってその事を説明している。
「暗やみ」とは、「無知、誤り、悪」であって、神様に対して遠く離れている状態である。「光」とは、「真理、義」に象徴される生活であり、クリスチャンになるという事はそういう状態になるという事である。
謙遜な心を持ってパウロは自分も含めて「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」と言っている。私たちのあるべき姿目指すべき姿をチャレンジしているのである。
今、この辺りでは田植えの真っ最中である。秋から冬の間、田んぼには水は無く、土は硬くなっている。春になって何度かトラクターで土起こしをし、水を引き入れ代掻きをする。そこに稲の苗を植え、夏の間雑草を引き水の世話をすると4ヶ月後には豊かな実りが得られる。毎年、天候は一定ではなく、暑すぎたり台風が来たりと自然の影響はまぬがれない。
私たち自身も田んぼに似ている。神様を知る前は乾ききった心であった。「むなしい心、無知な心、頑なな心」であった。しかし、聖霊の水の注ぎによって、心の土壌は柔らかく整えられ、み言葉の種が蒔かれ、聖霊の励ましを受けながら、田んぼのように実りの秋を迎える。
ただ、聖書を読むだけ聞くだけではいけない。御霊の語りかけを感じる感受性を養われなければならない。
5:10 「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」―主が喜ばれること、御霊が喜ばれることは何であるのか?選択しつつ生きるのである。人生は悪路を車で走るようなものである。難しい道、狭い道、石ころの道、etc.どんな道を通ろうとも、慎重に運転し生活をコントロールしなければならない。
私たちは「暗やみ」から「光」へと変えられたものである。しかし、全く罪の無い者になったというわけではない。今でも肉にある罪深い性質は持っている。
5:13 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
5:14 a 「明らかにされたものはみな、光だからです。」
地上にある限り罪ある者である私たちは、扉を開いて神様の光に自分自身をさらす、弱さをさらけ出すことによって、光にさらされている者、「光の者」光を反映させる者となるのである。
5:14b 「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」2章で「罪過と罪の中に死んでいた」私たちだが、「やみの中」を歩むのではなく、「光の中」を歩む者として召されている。そうすれば、キリストが私たちを照らされる。そして、世の終わりには、豊かな実りを収穫することになる。
「主に喜ばれる生き方とは何なのか?光の実を結ぶためにはどうすれば良いのか?」を考えつつ、1日1日を歩ませていただきたいと思う。(仁美記)
2017年05月21日 新約聖書エペソ人への手紙講解説教シリーズ 5:05-07(MP3/YouTube)「これが偶像礼拝者です―仲間づくりの倫理」(再生リスト、最下部) |
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前々回では、男女の性とは天地創造の神からの贈り物であって、「創造の光」「感謝の光」の中で受けとめるべきものである事を学んだ。
道徳的であるか不道徳的であるか?「性的倫理」をどのように捉えるのか?は、その人がどのような信仰を持っているのかや、どの様なお方を信じているのかにかかっていると思われる。
5:5 「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です。」この御言葉を読んだ時、私には違和感があった。偶像礼拝をするから不品行や汚れやむさぼる者になるのではないのか?と・・・何故ならば、4:17~19にあったように、「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。・・・神のいのちから遠くはなれています。」とあり、真の神様から離れているから、むなしい心となり、知性は暗くなり、その結果としてあらゆる不潔な行いをむさぼるようになったと読めるからである。
しかし、5章では神からの離反、不道徳のむさぼりは、不品行であるがゆえに汚れ、汚れているがゆえにむさぼり、これが偶像礼拝者の本質であるというのである。
今日は、一世紀の頃ほど偶像礼拝者=不品行な者とは言えない。偶像礼拝に熱心だから不品行であるとは限らないからである。
むしろ、熱心なクリスチャンの中にも、不品行な者はいる。キリスト者が多数の国で、有名なキリスト教の指導者が不品行の罪を犯したり、金銭欲にまみれている場合がある。そういう人たちを指導者として奉っている教会には、大きな問題があると思われる。そして表面的な教会の拡大や立派な会堂を見て、素晴らしい指導者として集会やセミナーに招く日本の教会は、愚かであり反省すべきであろう。
エペソ書やローマ書でのパウロの福音理解では、まず前半に「キリストの贖いの赦し」があり、後半には「そのキリストの贖いの赦しに根ざした倫理的な生活」を指導するということが重要であると考えられる。
パウロは「肉による生活」「御霊による生活」を、微妙なタッチで描き出し、目の前に提示することによって「良い方を選びなさい!」「御霊による選択をしなさい!」と勧めている。
トランプ大統領は、選挙戦の時から移民や少数者に対して差別的であった。それに引きずられるように、今やアメリカの人々が差別的な言葉や行動をしているのは大きな問題である。さらに、自分の選挙中の問題でFBIの長官をクビにした。このままではトランプ大統領は、弾劾されて辞めざるを得なくなるのではないか?と懸念する。
アメリカはキリスト教的倫理観によって培われてきた国である。どうかこれからも「指導者が法を犯しても裁かれない」というような独裁国家にならない事を希望している。
キリスト教世界は、今、第2のリバイバルの時期を迎えている。アフリカやアジア、ラテンアメリカなどでクリスチャンが増えている。しかし、そこにはいろいろな問題が生じている。聖書の真理や福音が変質して行きつつあるのである。(これをシンクレティズム”宗教混交”という)
元来の聖書の教えが汚染され、「繁栄の神学」「富と健康の神学」が教会で語られ、そうした教会が栄えているのである。
御利益をうたい大衆的な雰囲気で、大衆的な人々に受け入れられている。
しかし、どんなにそんな手法で成功したとしても、その成功、富、繁栄は、むさぼりに過ぎない。ただ、多くの教会やクリスチャンたちは、それを批判しようとせず、沈黙を守っている。
来月行われるセミナーは、初代教会にも同じような傾向を見出したパウロが、真の医者のように躊躇なく指摘しているところから学ぼうというのである。キリスト教的な視点から「不品行」「むさぼり」「汚れ」とはどういう事なのか?また、それらはどのように診断すれば良いのか?を参加者の皆さんと学び合おうというセミナーである。
教会という名のもとに、信徒はガンに侵されているような生活をし、指導者はまぎらわしいメッセージを語る。キリスト教では否定されている「欲望」や「不品行」や「むさぼり」を促す神学。神様のいのちから遠く離れた「倫理」を語るメッセージ。
教会でなされる「預言(メッセージ)」はよくよく吟味され、分析され、評価されなければならない。
「偶像礼拝」とは、木や石の像を拝むことだけではない。もっと本質的なことである。神のいのちから離れている。元来「肉にある生活」と「御霊にある生活」は天と地の差があるものである。まず教会のリーダーたちこそ「診断」「評価」される必要がある。
5:5,6 でパウロは、神の怒りと審判に言及し、私たちがキリストの贖罪に根ざし、正しい生活に邁進するように勧めている。御国を相続するための判断基準とは何なのか?神様はそうした私たちの行くべきゴールをはっきりと定めておられるのである。
むなしい言葉の羅列の集会、人を集めるためには手段も選ばず、目的は教会を大きくすることだけ・・・こんな集会はガン細胞を転移させているだけに過ぎない。
私たちはキリスト者としての「仲間づくり」の倫理・節度―交わり・協力の間合い・距離間をわきまえる必要がある。そして、いのちの源が何処にあるのかを確認しつつ日々歩む事が大切である。(仁美記)
2017年05月14日 新約聖書-エペソ人への手紙講解説教シリーズ 6:02-03(MP3/YouTube)「あなたの父母を敬え―"母の日"のもう一つの意味」(母の日礼拝) |
今日は「母の日」である。5月の第2聖日が「母の日」と定められているのだが、そのルーツをたどっていくと、あることにたどりついた。
アメリカの南北戦争直後に、女性参政権運動家の女性が、「今後は2度と夫や子供を戦場に送るのは拒否しよう!」と「母の日宣言」を発表した。
彼女の死後、彼女の娘が1907年5月12日に、亡き母を偲び、教会の記念会で母の好きな白いカーネーションを贈った。そのことが全米に広がり、今や全世界に広がっているのである。
私が驚いたのは、母親の凄さである。父親、男性というものは、ある意味「戦いも止むを得ず」と考えてしまうところがある。しかし、母親は自分が産み出した子供に対して、自分の身体の一部のように愛情を抱き、戦場で失うことの悲しさを誰よりも知っているということである。だからこそ、夫や子供を戦場に送ることは、断固として認めることは出来ないとの決意の日が「母の日」なのである。
今の世界は無制限に戦いを挑む傾向が見られる。リーダーも強い発言をする者が評価される時代でもある。しかし、平和を願って戦った母の姿を思う時、無意味な犠牲を強いる戦争は極限まで避けたいものである。
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6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第1の戒めであり、約束を伴ったものです。と書かれている。ここには神様の御性質・御思いが隠されている。
モーセの十戒において、最初に書かれているのは「神と人との関係」である。また、イエス様も十戒の前半を要約して「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ!」と言われ、後半を要約して「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ!」と言われた。
十戒もイエス様の言葉も、第1には神を愛する事をあげ、縦の関係を表している。そして、第2に、隣人や身近な人々を愛するという横の関係を表している。
そこには、神の愛、御子イエスの十字架の愛を知る事なしに、本当の意味で隣人を愛することは出来ない、私たちは自己中心なものである事を教えている。
これからの季節、田植えの行われる時期であるが、もし雨が降らなければ田植えをすることは出来ない。乾ききった土が雨に潤され柔らかくされ、田んぼに並々と水が張られなければ、植えられた苗は育つことが出来ない。
それと同じ様に、私たちの心にまず神の愛が注がれ満たされる事なしに、他の人を愛することは出来ないのである。
モーセの十戒では、安息日の規定の直後に「あなたの父と母を敬え。」と書かれている。ここには、神様の御思い・秩序が隠されている。
「愛」というと、私たちは直ぐに「男女の愛」を思い浮かべる。創世記にも「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)と書かれている。
人間を見てみると、自分自身を愛する「自己愛」と「男女の愛」は、自然にしていても発生するもの、他の愛の前提となるものである。だからあえてそれには触れず、周囲の人間関係の最も基本のもの「あなたの父と母を敬え」を第1の戒めとしているのである。
十戒の前半で、神様を崇拝し、尊敬し、畏敬の念を抱くことは、人間として最も基本の事とし、その次に、一人一人に命を与える管となった父母を尊敬することは、人間としてのスタートでありルーツを大切にすることでもある。
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先日「赤ちゃんポスト」のことが話題になり、その病院の看護師であった方がこう話されていた。あの制度の1番の問題は、「赤ちゃんの出自がわからなくなることである。」と言われていた。大人になって自分の出自を調べたくなっても、調べられない。どの様な親から生まれ、どういういきさつでその様な結果になったのか?自分の存在の意味・価値・ルーツを明らかにすることが、永遠に出来ないのである。自分の出自を調べることで、さらに悲しい事実を知ることになるのかも知れないが、そこを再出発点として前を向いて歩み始めることが出来るというのである。
「あなたの父と母を敬え」という言葉は、あなたの出自に敬意を払えるようにしなさい!ということになる。あなたの人生にルーツと価値を与える、神様からの本質的なメッセージである。
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罪を犯し、それを責められた時、ダビデも詩篇51編でこう言っている。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(51:5)辛い現実にダビデは直面している。しかし、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」(51:7,10)現実を直視し責められることがあっても、神によって赦され、たち直ることが出来る事を、ダビデは教えられた。
また、詩篇139編には、神様が昔から御計画をもって、ある時ある親から、一人一人は生まれることになっているというのである。そこには「創造の業」がある。
神様はこの世に私たちを生まれさせただけではなく、私たちの人生にシナリオを持っておられる。神様の全知全能の力が、私たちの人生に働いているのである。
朝目覚める時、主の臨在の中に目覚め、夜眠る時、主の臨在の中に眠る。私たちは肉の両親を敬いながら、霊の父である主とともに生きるのである。(仁美記)
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【日毎の、一宮チャペル "ショート" メッセージ / 安黒仁美要約集】(再生リスト)
2017年05月07日 新約聖書エペソ人への手紙05:03-04(MP3)「聖徒にふさわしく、むしろ感謝しなさい―神の賜物・祝福としての“性”」 |
4:17~19には、神様を知らない異邦人が、どのような生活をしているのかが書かれていた。神様を知らないでいると、心は虚しくなり、知性においても暗くなり、神様のいのちから遠く離れて生活しているのだと学んだ。
5:3 では神様を知っているあなたがたの間では、どのように歩んでいるのか?聖徒にふさわしく歩んでいるのか?とのパウロの問いがエペソの人々に発せられている。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」4:29 とまで言われている。
それは、心にあるものが口から出て、生活の振る舞いに現れるからである。ローマ書には「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる。」とある。人が心に思い描き、それを口にすることがいかに重大なことであるかをパウロは教えているのである。
神様を知らない人々が、どれほど不品行や汚れ、むさぼりに汚染されているかは、私たちの社会生活の中でも経験することである。忘年会や慰労会など、お酒を飲めば卑猥な話のオンパレードである。
だから、パウロはあえて「心にいだかないように!」「口にしないように!」と勧めているのである。
そして、ここで特にパウロの念頭にあることは、「男女の性の問題」である。その当時の結婚生活外の不品行、汚れ、むさぼりが、パウロの心を痛める問題であった。
聖書的な視点から言えば、「性」は神様からの「賜物」であり、「祝福」として人間に与えられたものであった。しかし、人間はそれを呪いに変えてしまった。十戒にも「隣人の妻を欲しがってはならない」とあるにもかかわらず、権力者や財力のある者たちは、このような事を行なっていた。
だから、パウロは声を大きくしてエペソの人々に言う。クリスチャンは性的な汚らわしい事を口にしてはならない。さらには、心で思うことも避けなさいと・・・
どうしてパウロはそこまで厳しくエペソの人々に書いたのであろうか?今のトルコの位置する「小アジア」と呼ばれる地域では、性的な堕落が蔓延していたからである。ギリシャからもたらされた偶像神、その時代のエペソの大女神アルテミスという「豊穣の女神」があったからである。礼拝に「酒池肉林」ともいえる「乱行パーティ」が伴うのが当たり前の社会であった。人々は偶像を拝み、不品行、不道徳に走っていた。信仰によって男女の性をどう捉えるかが混乱していたのである。ある者は放縦に生き、ある者は禁欲に生きるという両極端がみられた。
神様は神のかたちに人を造られた。そして、男と女を造り「一心同体」となるように祝福された。雅歌においては性の交わりは最高の至福として、エペソ書や黙示録では、クリスチャンや教会を花嫁に例えられている。
5:4 「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。」そんなことを考えることが、神様が人を造られた目的ではない。そのような考えの中には罪の性質や自己中心の性質が隠されている。神中心であれば「感謝」の心が湧いてくるはずである。神さまから付与される「男女理解」「性理解」に感謝しなさい。
フランスの歴史思想家が書いた6巻にわたる「性について」の歴史の本がある。その中に記されているのは、私たち人間には「耐え難いほどの遺産」として、性=罪として考えるところがあるという。
しかし、聖書を正しく紐解けば、「性」は神様の祝福であり、創造の光に照らしてみれば「感謝」なこととしか表現出来ないはずである。
パウロはエペソの人たちに、「性」を人間の歪んだ理解からではなく、神様の聖い贈りものであると捉えるようにと教えている。もし、エペソの人たちが一般的な意味で「性」を捉えるならば、神様は安っぽいお方となり、冒涜に値することとなるのである。(仁美記)
【一宮チャペル】『エペソ人への手紙』傾聴シリーズ(
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