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1月1日。謹賀新年。

あけましておめでとうございます。
ことしもまたよい一年になりますように。
みなさんにとっても。私にとっても。


 


1月8日。冬休みもおしまい / 稲垣恭子編『子ども・学校・社会』出た。

この年末年始はというと、年末は学内の文書の作文の宿題がぎりぎりまであって、原稿用紙100枚ちかくをなんとか書けたのが大晦日の夜11時前だった。いちおうでも年末じゅうに終わらせるぞと思っていたのが達成できたのでそれなりにまんぞく。
ただ、かなりくたびれ果ててしまったので帰省のタイミングはスルー。元日から若干風邪気味でもちを食べて寝ていた。
ただ、やはり宿題が終わって正月で、というのはひさびさに気持ちがゆっくりした。で、買ったまま楽しみにしていた長谷川町蔵・山崎まどか『High School U.S.A.』(国書刊行会)という本を読んでいた。これ、アメリカの学園映画について徹底的に語り倒したという本で、ものすごくいい本。アメリカの学園映画の学校内ヒエラルキーを図解しつつ、80年代と90年代以降のアメリカの学園映画で(というか学園でというか)何が起こっていたのか・起こりつつあるのか・を論じつくしている。この本を読みながら、下宿で積読状態だったビデオの中からそれっぽい映画を引っ張り出しては見ていた、というお正月だった。

映画といえば、去年一年間で、数えてみたら70本ほど見ていた。思ったより多かったけれど、まぁ、もうちょっといける数字ではある。去年は1,2,3月に月10本ペースを達成していたので、そのあと失速したということだ。まぁ、今年は1,2,3月もせわしなくなるかもしれなくてそんなに見れない気もする。

それはそうと、年末にようやく、稲垣恭子(編)『子ども・学校・社会 教育と文化の社会学』世界思想社が出た。
いつ出たのかが結局よくわからないのだけれど、amazonでは売られていたようで、でもまた在庫切れになっているようである。
これ、教育社会学の論文集なのだけれど、教科書の、上級者ばん、というかんじ。まぁ、執筆者はそれぞれ自分の好きなことを勝手に書いているので、ふつうのいみでの教科書には、なりそこねているのだけれど。しかし、自分の好きなことを勝手にやるっていうのはやっぱりいいことですよね?
ちなみに石飛の章では、校内暴力問題や校則問題や体罰問題やいじめ問題や少年犯罪問題やフリーター問題や教育改革の問題を、ラベリング論や構築主義的社会問題論や教育言説論を経由しつつフーコーやドゥルーズの「管理社会論」で総括しましたみたいな、そんなかんじ。
そんな好き放題なことが原稿用紙40枚の長さでできるのか? というあたりが、以前から「バスター・キートン演じる『共産党宣言』」をイメージしつつ書いたというゆえん。


内 容

まえがき
●第I部 子ども・感情・歴史
 第1章 近代家族と家族感情[デビッド・ノッター]
 第2章 子どものイメージと教育[細辻恵子]
 第3章 リスペクタビリティと教育[佐藤八寿子]
 第4章 「自己」のゆくえ ― ジンメル・エリアス・ベック[薄葉毅史]
●第II部 学校・若者・文化
 第1章 受験生の世界[保田その]
 第2章 学生文化における第一世代問題[井上義和]
 第3章 読書する少女たち ― 「女学生文化」の水脈[稲垣恭子]
 第4章 「かわいいおばあちゃん」[小原一馬]
 第5章 学校問題と逸脱 ― ポスト学校化社会と管理社会論[石飛和彦]
●第III部 教育・社会・システム
 第1章 教育システムの構造[保田卓]
 第2章 モダン・アートシーンにおけるアメリカ大学
        ― 美術と美術教育の制度化[山口健二]
 第3章 国際化と教育
        ― 留学現象へのマクロ社会学的アプローチ[河合淳子]
 第4章 ポスト・フォーディズム時代のライフコースと教育[岩井八郎]
■コラム 子どもらの心(魂)の行く末[大村英昭]
     一五歳のこだわり[竹内洋]
     教育の哀しみ[井上俊]
あとがき

「教育」「社会化」の多様化・個別化のなかで、「大人になること」の意味も変貌をとげつつある。「子ども」や「教育」をめぐる共通の前提が見えにくくなりつつある現代の様々な教育現象について、新たな解読の可能性をあらゆる形で提示する。
定価2310円(税込)
2006年発行
四六判 320頁
ISBN4-7907-1223-0


 


1月28日。暖冬だなあ。

年明けからあわただしく授業期間が過ぎ、卒論の口頭試問も終わって、非常勤先は試験も終わって、まずは一段落である。やれやれ。
例年ならこのあたりからまっすぐ文豪モードに突入して論文に集中、ということになるところなのだけれど、今年は、某学内委員の作業の方が本番になりつつあって、おちつかなくはある。
実は、それ以外にも、1月の教授会で、短期的な役がふたつばかり当たったりして、これはもう、いよいよ勤続10年選手で中堅&中年になって、役が当たるようになってきたのだと観念しつつある。もっとも、偉くなる方の役ではなくて、学内ワーキンググループの委員みたいのであるからして、まぁ、ワーキングクラスのほうの役である。まぁこれまでずいぶん暢気にさせていただいていたので、観念すべきであろう。ていうか、まわりの先生方はもっと大変な役を、にっこり笑って引き受けてやっておられるのであるからして。

じつはそれと同じような流れで、これまた役のはなしですけれど、センター試験でも役が当たって、じつはとても気が重く緊張していた。それでもチームワークでもって無事やれたので、これはよかった。いやー、晩秋ぐらいからこっちの気の重さとプレッシャーの大きな部分はこれだったかもしれない。無事終わってほっとした。いやまったく。

そういうわけで、研究のほうにはもひとつ集中できない、っていうか、エネルギーも時間も配分できない状態であって、かつ、研究会のほうも滞ってしまっていて、どうもそのへんではサエた感じはないのだけれど、しかし、潜在的には面白い感じになっていなくはない。
去年のゴールデンウィークごろから手を出し始めていたビジネス書方面のネタ、会議の技法であるとか、研修のやりかたとか、作業や議論や思考の「見える化」であるとか、ファシリテーションであるとか、そういうのが面白くて、本をあれこれ読んであれこれ考えたりする。自分の仕事や作業や思考の役にもたちそうだし、生涯教育論としても面白そうだし、授業のネタとしても取り入れられそうだし、また、ゼミや講義のFD的なカイゼンの手がかりとしても面白そうだし、エスノメソドロジーのネタとしても面白そうである。このところ生涯教育ゲームについて書いていたのだけれど、その延長上でいろいろ発展しそうである。

年末に出た本をもう少し宣伝。


 


2月13日。夜も昼も。

学年末試験があったり入試があったりで、そのあいまに成績をつけ、それから卒論発表会と追い出しコンパがあり、そのあいまに会議とかが入り、なんだかんだで落ち着かない。いや、世間的に見ればずいぶんのんびりした稼業であることにたぶんまちがいはないのだけれど、この時期に論文を書くはずであるにしては、落ち着かないというのがいつわらざるところである。授業期間の終了とともにどーんとスケジュールが空いて、学校に出頭する用事がなくなって文豪モードに入り、とりあえず充電期間と称してあんまし勉強に関係なさそうな哲学とか文学の本を読んだりしつつ生活のペースを昼夜逆転のほうにもっていって、ぶつくさいいながら論文のまとめにとりかかり、近所をうろうろと散歩しながらぐだぐだと考え事をしたり、煮魚だの風呂吹き大根だのを作って気晴らしをしたり、そんなこんなしながら盛り上がったりスランプになったりしながら書き上げる、みたいなことができていたのはいつごろまでだろう? ふしぎだ。
研究室の紀要なのでまぁ、肩の力を抜いて書きたいことを書けばいいのだけれど、今年はすぐ書けそうなネタの在庫もなくて(気合を入れれば形になりそう、というのはあるけれど、気合を入れるのもしんどいなあ)、また、それとはべつに、映画ネタでちょろっと学生さんに紹介がてら、みたいなものを書くことになっていて、分量的には一晩で書けそうな分量なのでそっちから片付けようと思いつつ、意外と苦しんでいたりする。

学校から帰ってくるとやはりそれなりにくたびれていて、うたた寝をしたまま明け方になっていたりする。よろしくない。眠ってはいるのだけれど、なにせ電気をつけっぱなしで明るい中でうたた寝しているので、電照菊みたいなもので頭の中の時計がちょうしわるくなっているかんじである。そのまま昼夜逆転生活へ、ということになればそれなりにつじつまは合うのだけれど、学校には行くわけですからねえ。
まぁ、規則正しい生活をしなはれ、悪いことは言わん、と声をかけるよりないですな。自分で自分に。

あわただしいついでに、以前から懸案だった、卒業生メールマガジンというのをたちあげつつある。うちの専攻ももう10期以上の卒業生を送り出し、全国で活躍しているようなんであるからして、この辺でネットワークを組織して情報交換とかするといいかな、とはずいぶん前から言っていて、それをやっこらせっと立ち上げたんである。手元にメールアドレスのある卒業生に案内を送ったら、近況がちらほらと返ってきているところ。手元のメールアドレスが古くて、相当の割合で案内が届かなかったりしたので、案内が届いたうち近況をすぐに知らせてくれた卒業生が多かったのはとてもうれしいことである。卒業生どうしの横の連絡で、おいおい返信も増えてくることであろう。
じつはなんだかんだいって、そのへんでかなりこころ楽しく日々を過ごしている、というのもある。

年末に出た本をもう少しばかり宣伝。


 


3月3日。もう3月になった。

いやはや月日のたつのは早い。もう3月である。このところは毎日会議である。いくつか当たっていた委員の会議(なんとか小委員会、とか、なんとかワーキンググループ、とかそういう時限的なものと、それから、通常の委員会と)がどれも年度末にかけてのこの時期に集中して開かれているので、通常のあれこれの教授会とあわせてあれやこれやで毎日になっている。でこれがまた、それぞれの会議が少しずつ似たような顔ぶれでやっているため、会議と会議がバッティングしそうなところをバッティングしないようにうまいこと調整してやっているので、なんだか朝から晩まで会議が3つぐらい積み重なっている日が続いたりしている。今流行のだんご三兄弟みたいなものだ。雛祭りだけにだんご。ではないか。
いやはや、まともな一般社会人に近づく勢いである。まぁ、今年は春休みはない、そういう年である、ということですね。
そういうわけで、毎年この時期に論文を書いているのだけれど、今年は結局、以前書きかけていたネタに最小限の形をつけて出す、ということにした。ほんとうは、もう少しじっくり寝かしてればよかったとも思わんでもないのだけれど、まぁ、タイミングということもあるし。自分でちょっと面白いと思っているのはまちがいないので、まぁ、下宿のパソコンの中に眠らせておくよりは、世に出すほうがよいのであろう。という程度のつもり。
じつはもう一本、おなじ研究室紀要に、小特集企画として、映画で学ぶ生涯教育、みたいな記事をみんなで寄せましょう、みたいなことを言っていたのだけれど、どうもいざやってみるとなかなかどうして筆が進まず、じつは全員にたりよったりだったようで、これは今回は企画ごと没、ということになった。えらい簡単な話ではあるが、専攻研究室で出している雑誌なので、そういうことはできるのである。4人で顔をあわせて喋ったり専攻会議したりしているときに、こういう企画やりませんかぁ?いいねえやろうか、みたいなことでやってみて、また、進んでますかぁ?いやー、先生はどうですの、いやー、みたいなことで、じゃあここでやめっつったらやめんなるんですがやめましょうか、やめっつってやめんなるならやめましょうか、練り直して次回以降にしましょう、みたいなかんじで。まぁ、いずれにせよ、小特集でしかないものに負担を強いられるのでは本末転倒である。それじゃいみないので、今回は流すのが正解ってことで。その教訓は、オススメ映画について短い文章を気楽に書いていいことにしましょう、といっても、やはり自分も含め、誰も、なまはんかなものは書きたくないという気がムラムラと起こってきて、最初はみんな負担ゼロのつもりで進めた企画がけっこうなガチになってしまう、ということである。これはしかし、おもろいことだ。

そんなこんなもありつつ、ノートパソコンを一台購入。この時期、旧シーズンのXPマシンが叩き売りされているのではと思って電気屋をあたっていたのである。そういうわけでこのたびは安い安い薄型ノートを買ってみた。安ければ持ち歩きとか雑に使っても惜しくないだろう。持ち歩きということで言えば、もっと小型のものはいくらでもあったけれど、小型であっても高いと雑に使いづらいということで、とにかく安いことをメインにして、むしろ安かろう悪かろう狙いぐらいのつもりで買った。で、どうだったかというと、うーん、びみょうな感じではある。とりあえずまだ「WORDとEXCEL」を入れていないので、自分が論文を書くのはテキストベースなのでできるけれど、余所からもらうデータは扱えない。上記の映画に関するものをこのノートパソコンで書いていたのだけれど、途中でやめた状態である。
で、それ以外に、やはり筐体が薄型なんで買って二日目でへこへこし始めた気配があるのもだし、ダイアルアップのモデム周りが不安定な気がするし、一度、使っている最中のプログラムが フ ッ と消えてしまったことがあって、うーむ、びみょうだなあ、という感じはある。まぁもう少しはっきりと具合悪かったら初期不良で返品も考えるのだけれど、まぁ、たいがいは使えているのと、まぁ基本的にデータ持ち歩きとプレゼン用のサブマシンとして使うだけのつもりなので、いろいろなデータが入り始めているマシンを電気屋に持っていく気にはならない。まぁ、そのへんが、「やっぱりね」ということも含め、安いマシンを買った醍醐味でもある。

なんだか、また、自分の関わった本が出た。うれしい限りである。
いまシリーズで出つつある、教育社会学の論文のアンソロジー、『リーディングス日本の教育と社会』(日本図書センター)の、第2回配本で、
第9巻 北澤毅編『非行・少年犯罪』 に、自分が大昔に『教育社会学研究』に書いた
「校則問題のエスノメソドロジー ―『パーマ退学事件』を事例として」
を載せていただいた。宣伝。

「非行」「少年犯罪」を理論的な解釈方法、その問題を取り巻くメディアや学校をめぐる実態から、そこに関わる「少年法」などのシステム構築まで、多角的な視点から論文を精選。それぞれの視点を体系化することにより、「問題」の現状を整理し、今後の課題を浮き彫りにする!

I :非行理論の諸相―基礎理論と展開

「犯罪社会学における実証主義的思潮とボンド・セオリー」森田洋司
「ラベリング論の概観」 徳岡秀雄
「社会問題とは何か―構造主義アプローチへの招待」中河伸俊
「罪と恥と『社会統制』―新・犯罪学への覚え書」大村英昭
「犯罪動機の知識社会学的考察―ラベリング・パースペクティブと動機付与論」土井隆義
「スティグマ分析―『人間』であるための諸形式」坂本佳鶴恵

II :非行〈事実〉の社会的構成―公式統計とマスメディア報道

「暗数論―社会問題研究方法論ノート」村上直之
「非行統計の社会的構成と社会的反作用」高原正興
「〈青少年の凶悪化〉言説の再検討」 広田照幸
「社会的事実とは何か―構築されるものとしての事実」 北澤毅
「犯罪・非行の『凶悪』イメージの社会的構成―『凶悪』事件ニュース報道をめぐって」 大庭絵里
「少年事件をめぐる言説―『岡山バット殴打事件』の報道を読む」伊奈正人

III :学校文化と逸脱

「校則の社会学的研究」 越智康詞
「校則問題のエスノメソドロジー―『パーマ退学事件』を事例として」 石飛和彦
「学歴アノミーと中・高生非行」 米川茂信
「教師−生徒の相互行為と教室秩序の構成―『生徒コード』をてがかりとして」稲垣恭子

IV :少年法と処遇の現在

「子どもの〈責任〉―ほんとうにいま子どもは『未熟』であるのか」 佐藤直樹
「犯罪被害者問題の勃興とパターナリズム―少年法改正をめぐる構築と脱構築の力学」土井隆義
「犯罪者処遇は有効である―実証研究の解明した事実に基づいた見解」 津富宏
「矯正教育における少年の形象―償いの臨床知」田中智志

それと、年末に出た本をまだしばらく宣伝。


 


3月21日。ビビビとくる。

おどろいたことに、2月の終わりからずっと平日は会議が続いている。教授会のほかに3つ平行してたので切れ目がなかった感じである。とちゅうで途切れそうだった日も宿題と雑務で学校に行き、唯一の平日の空き日で確定申告に行った。いやあー、まじで確定申告いけないかと思った。確定申告が出来ることをこんなにも喜びと感じた年はいまだかつてなかったであろう。で、休日には宿題を持ち帰っていたので、なんだかさすがに今年の春休みはくたびれた。いままでの春休みの、文豪生活で論文を書くために呻吟していたみたいなくたびれかたとは異質のくたびれかたである。ようやくひとつの学部内ワーキンググループは終わり、ひとつの小委員会は年度明けまでお休み、で、いちばんメインの委員会も、いちおうヒラの委員は年度内の会議はもうないことになった。明日の卒業式で連続出勤も一段落、というはずである、のだけれどですね、じつは私は宿題がまだ手を離れてなかったりする。ご迷惑をかけつつなのである。いやまったく。
教授会の部屋に向かうときに階段を2段とびで「えいやー」とか言って上がっていたら、教授に「先生運動量おおいんちゃう?」と言われたが、運動量が多いってよりは、おかしなテンションになっているのだろうと思う。やれやれ。

それかあらぬか、このところ静電気がひどいんである。まぁ、たぶん安いポリエステルの上着を着ているせいだと思うのだけれど、ドアノブはじめあちこちでぱちぱち、ビビビとくるのでびっくりするのでやめてほしい。パソコンの金属部分でぱちぱち言われるとさすがにいい気持ちはしないし、電車の切符の販売機に小銭を入れようとしてぱちぱち言われると、大勢の人前でひとりで跳び上がったりして不審に思われる。通勤電車でよくごいっしょする先生は、体調の関係もあるのではないかという説を言っておられるのだけれど。まぁ、自分としては、上着が安いからだという説が有力だとは思うのだけれど、いずれにせよたいへんに困っている。100円ショップで妙な腕輪バンドとか金属棒とかを買っては腕にはめたり着けたりしているのだけれど、まぁ効果ない。しかたがないので、デンジマンの唄とかを口ずさみながら日々を暮らしているわけで、春になるとそういう人が増えてきて困ると思う。

年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。どうやら、自分で想像していたよりはもう少し売れているらしいけれど。

それと、こちらの本も。なんだか売れているようで、うれしい限りである。


 


4月7日。春。

新学期である。キャンパスに学生がもどってきて、新入生がまた入学してきた。授業が始まり、さっそく1回生の必修の講義をやった。まぁ第一回目の授業なので、軽く自己紹介やって授業の方針をちょっと言ってチャラっと終わっちゃいます、4月はなかなかちょうしが出ないからねえ、いやーまだ肩が温まってないからなァー、松坂の初回みたいなもんだからねェー、まぁ本調子になるのは6月半ばぐらいからかなー、とかなんとかてきとうな与太をとばしながら、自己紹介をやったり、教育学ってなんなんかねえみたいなことをぼやいたり、していた。教育学っていうか、大学の勉強なんてだいたいそうなんすけどー、客観的にっていうか他人事みたいになんか知識みたいなことを授業でやったり、それを覚えて帰って「ええこと聞いたわ! 賢くなったわ!」みたいな、そういうことはあんまりないですよ、テレビとか新聞とかだと偉そうに「いまの教育はダメである」とかね、「納豆はダイエットに効くぞー」とかな、簡単にいってるけどね、大学はそういうことはしないのですよ、これが正解みたいなのを覚えて帰ってめでたしみたいなことやったら楽やねんけどね、そうじゃなくて、正解なんか誰も知らなくて、教師もみなさんも「教育ってなんなんやろう??」みたいに自分のこととしてずーっと考えるようになるのが大学の勉強だからね、これたいへんですよー、高校までは客観的に答えが決まってるようなもんでね、客観的だから楽なんですよー、カエルの解剖とかするでしょう、カエルの心臓はこうです、肺呼吸です、みたいなことが言えるでしょうー、でも自分のこととしてやったらねえ、たとえばペットのケロちゃんをえいやっとかいって、解剖とかねえ、えらいことやねえ、そんなんしんどいやんねえ。とかなんとか、わかったようなわからんようなことを並べつつ、さくっと終わってさっさと帰った。
まぁ、徐々に肩をあたためてく感じでいこう。思っていたよりずいぶん受講生が多かったように見えたのは目の錯覚ということにしておく。

今年は担任のクラスが3回生になり、専攻の合宿研修の企画運営担当である。春休み中から、ちょこちょこと入れ知恵をしたりしている。さいわい、のみこみがはやい学生さんたちで、こちらの言っていることはすんなりと理解してくれたようである。まぁ、理解することと実際にできるということはこれまたべつもんだいなわけで、それは自分自身が身をもって理解しているのだけれど。まぁ、合宿研修も楽しみである。

そういえば、勤続10年の表彰というのをもらった。10年といえば感慨深いものがある。でも、いざ表彰状をもらってみれば、来し方10年の感慨よりは、いま新しく始めようとしているあれやこれやのプラン − 授業のことや研究室運営のことや、研究上のあれやこれやの企画 − のほうがやはりおもしろいわけで、祝宴の帰りの電車で、いつも学内の研究会やら委員会やら通勤電車やらでごいっしょする同期の先生と、あれやこれやの話をいつものように喋っていたのが面白くて収穫になった。けっこうなことである。

年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。稲垣恭子(編)『子ども・学校・社会 教育と文化の社会学』世界思想社
教育社会学の論文集なのだけれど、教科書の、上級者ばん、というかんじ。まぁ、執筆者はそれぞれ自分の好きなことを勝手に書いているので、ふつうのいみでの教科書には、なりそこねているのだけれど。しかし、自分の好きなことを勝手にやるっていうのはやっぱりいいことですよね? ということを、そうそう、先日、合評会ってのが開催されて、まぁやはり再確認して帰った。そうそう、帰りの電車で執筆者の一人が言っていたのだけれど、この論文集、みんなが好き勝手なことを書いているのに、全体として「家族的類似性」みたいな感がある、と。ヴィトゲンシュタインですな。はいはいそういうかんじ。
ちなみに石飛の章では、校内暴力問題や校則問題や体罰問題やいじめ問題や少年犯罪問題やフリーター問題や教育改革の問題を、ラベリング論や構築主義的社会問題論や教育言説論を経由しつつフーコーやドゥルーズの「管理社会論」で総括しましたみたいな、そんなかんじ。えーと、まぁ、じゃっかん高密度なのはそのとおりですが。

それと、こちらの本ももう一押し。


 


4月29日。あっというまに連休にはいった。

去年の今ごろは、4月末〆切の原稿を泣きながら書いていた。今年は、前半も後半もそういう種類の宿題はないので(そういう種類じゃない大学の学内委員なんかの宿題はあるのだけれど)ひとまず連休らしく過ごせそうである。

で、ちょうど一年前に書いていたのは、竹川郁雄先生の『いじめ現象の再検討』(法律文化社)の書評(『図書新聞』no.2776、2006年6月)だったのだけれど、書き出しはこういう感じ:

 仮に文部科学省の調査結果を信じるとすれば、学校でのいじめの発生件数はこの十年間ほぼ一貫して減少傾向にある。学校をめぐる世間の関心は「学力問題」や「経済的格差」へと向かっているようにも見える。では、なぜいま「いじめ」なのか。
 本書の「まえがき」で著者は言う。いじめは減少しているわけではない。ニュースとなるような印象的な事件が起こっていないこと、そして、責任問題の回避のために学校側がいじめとして報告する件数が抑えられているであろうこと、これらによって、「いじめ」が世間の関心を引かなくなってきているのだ、と。・・・

はてさて、一年前にこの文章を書いたときには、かなりびみょうな感覚で書いていた。文部科学省の調査を鵜呑みにするのは愚なことであるにせよ、少なくとも、その手の公式統計は、当該問題への社会的な関心のひとつのインデックスではあるわけである。いわゆる構築主義的社会問題論の文脈で言えば、社会的関心ぬきに「いじめ」が「いじめ」であるということはありえない(おなじ現象が「こどものけんか」として看過されたり、あるいは「校内暴力」やら「ゲーム脳の消費社会のゆとり世代の子どもたちの異常行動」やらなんやらとして焦点化されることになる)わけで、だからむしろ、社会的関心がなぜ80年代のあるときに「いじめ」に集中し、やがてそこからはなれていったのか、そしてその関心が今度はどこに行くのか、ということを追いかけることのほうが社会学的には重要だと思っているし、そういう視点から、日本の学校教育システム(というより、それを含む全体社会システム)がどのように変化してきたか・しつつあるか、というのを、↓に紹介した拙稿では書いたんである。なので、一年前のタイミングでは、なかなかにしてびみょうかなあ、と思いつつだったのだ。竹川先生のご著書の議論そのものは、調査データに基づいて、「仲たがい」とも「いじめ」とも「非行」とも呼びうるような具体的実態そのものについて集団論的に探求するものなのだけれど、あたかも「いじめ」現象を再び問題化しようとする社会問題言説のやりくち − たとえば「氷山の一角」レトリックの使用、みたいな − と、似ているなあという感じも否めなかったのである。
ところでしかし、ご承知のように、「いじめ問題」は、去年の夏に再燃した。まさに文部科学省の調査のバイアスが指摘されて、「いじめ」が大問題であることが話題となり、亡くなった子どもも出たし、それに数倍するかという自殺予告があいついだりもした。
あれよあれよというまのできごとに、正直、あぜんとした。
それで、一年たって思うのだけれど、竹川先生のご著書は、書評より前の去年の2月に出ていたのだけれど、このタイミングは、よかったのか、それとも悪かったのか。
本の刊行のタイミングって、たぶん前々からのあれやこれやの事情が重なって決定するのだけれど、たとえばあの本が半年おくれて8月半ばに刊行されていたら、ジャスト、社会問題のまっただなかで読まれることになっただろう。でも、たぶん、そうならなかったのは、あの本にとってラッキーだったのだと思う。竹川先生が書いておられるように、「いじめ」問題の中で「いじめ」は「猟奇的・ゴシップ的」に捉えられ喧伝される。マスコミがそうであるだけでなく、学術的言説もそうなってしまってたじゃないか、というのが竹川先生の批判点であり、その意味では、具体的実態調査の分析というあの本での議論がそのまま等身大で読まれる条件はあの時点がベストだったといえると思う。それは、1年前に書いて6月に出た書評も含め。
ただ、去年の正月に書き上げて年末に刊行された↓拙稿についていえば、ずいぶん間の悪いタイミングで出た事になる。
教育言説、という次元で見れば、「いじめ」問題は、共同体主義的な言説と裏表の関係にあるのだと思っている。たとえばのはなし、「居場所としての学校」という言い方は、裏を返せば、学級という共同体に内属することを目的化しているわけで、たとえば「学校は国語や算数を勉強して知識を獲得するところだ」といった手段的な言い方とは異質の、共同体主義を表現している。あるトラブルが「いじめ」として語られるということは、そのトラブルが子どもの共同体の現象として把握されるということであり、また、そのトラブルを解消するための処方箋として「居場所としての学校」みたいなことがいわれたばあいもまた共同体主義的な教育観が表明される、ということである。でもって、そういうぐあいに学校教育と共同体主義を結びつけるというのは、もういっぽうで、「想像の共同体」としての「国家」の強調とも相関関係にある。ていうか学校教育制度じたいが国家の枠組でおこなわれてるわけだから。
自分が↓あの論文を準備していた時期は、郵政民営化だのなんだのの余韻もあった時期で、教育のほうでも、不登校問題の解決のために民間フリースクールをどんどん認めていくとか、さまざまな規制緩和をするとかいう話題があれこれ聞こえていて、ずいぶん共同体主義が後退していわゆる市場化がこのまま直線的に進行するかなあ、という風向きを感じながら書いていたってところは大きい。論文の中では「教育改革国民会議」の名前を出して共同体主義との相関に言及はしたものの、執筆時点の風向きからいえば、「教育改革国民会議」の議論はやや下火になってきていたという感覚で書いてたのだ。
だから、逆に↓あの論文の視点を座標軸にすると、たとえば現在の「教育再生会議」が市場主義と共同体主義の奇妙な混交によっている様子とかが浮き彫りになると思うし、秋に教育基本法が改変されたことと夏に「いじめ問題」「履修問題」が焦点化されたことは一貫した現象として理解されるし、また、そこで語られた「いじめ」とその処方箋が、たとえば80年代のそれとどのように重なるか、ずれているか、というのも見えてくるだろう。たとえば、「いじめた生徒に罰を与え出席停止にする」という言い方は「いじめ問題」言説っぽさが希薄である。むしろ「いじめ」を「非行」「校内暴力」の枠組で捉えている言い方であって、その意味では前「いじめ問題」的にも見える。同時に、それは「ゼロ・トレランス」という発想の表現であって、ポスト「いじめ問題」=管理社会的でもある。おなじ「いじめ」という言葉(あるいはおなじ「学校」と言う言葉)の背後で、現実に何が起こっているのか、というのを見るのは、社会学の役目だと思う。でも、初学の学生さんなんかが読むと、「いじめの深刻さが見えてないじゃん」とか「学校の大切さを軽視していてけしからん」とか、いわれちゃいそうな気もするのだ。そのへんはまぁ、ゼミなんかでテキストとして使っていただいて、指導の先生の出る幕のたくさんあるテキスト、というかんじでご活用いただけるとありがたいですねと宣伝しておきましょうか。

いやしかし、先日も、非常勤先で教職課目の授業を担当させていただいているのだけれど、授業中の小レポートで、「教師のやるべきことは、生徒が将来世間で恥をかかないように常識を教えること」とか、「学校で英語を教える理由は、生徒が将来、国際化する社会の中で恥をかかないためだ」とか、そういうかんじの答えがざくざくと出てきて、うーむ、おそるべきものだなあ、という感じなのである。おそるべき共同体主義である。思わず知らず、R・ベネディクトとか名前を挙げてぼやいているうちに講義の時間が過ぎてしまったりしたのだけれど、それはしかしそうでしょう?
たとえば「国際的」な場面(?)で、英語を母語としない人が発言をした際に、その英語の発音がなまってるとか、あるいは英語を直接喋れなくて通訳を要するとか、そういうことがあったとして、そのトラブルを、「不便だ」というならまだしも、「恥をかく」という捉えかたをするっていうのはどういうことなのか。もしその場面で、英語を母語とする人が母語としない人を嘲笑したり、あるいは母語としない人のほうが「恥をかく」ようなことがおこるとすれば、国際的でないのは嘲笑したり恥をかかせたりするほうだと思うのだけれど。まぁしかし、そんなことを言うのは社会学をやっている教員ぐらいかもしれない。学生さんのほうは、いたってまじめに勉強して英語の先生になろうとしているわけで、そのまじめさが、これまた時代の共同体主義的な空気を微妙に読んで反応している(だから、この種の小レポートや試験答案の雰囲気は、年毎に微妙に風向きが変わっておもしろいのだけれど)、ということなんで、まぁ、学生さんたちじしんに罪があるわけでもないんである。

ひところ、テレビを点けるとたけのこのゆで方ばかりやっていて、たけのこがゆでたくて仕方なくなった。産地のたけのこが店頭に並んでいるのを見てはドキドキしていたのだけれど、結局、茹でたけのこを買ってきて土佐煮を作った程度でおさめた。作ってしまえば、たけのこはたけのこであって、まぁ、ふつうに食べた。二日目に、ちょっとオリーブオイルで焼き目をつけて食べたときのほうが春らしい感じがしたけれど、それもそれだけのことではある。
3月の間に、豆ご飯を炊いては、釜揚のしらすを乗せて食べていたけれど、それは輸入の豆だったってことで、豆ご飯というとこれからであるようだ。スーパーの店頭でまた豆の前でドキドキするので、はやいめにまた豆ご飯をつくればよいのであって、これはたけのこと違って簡単にできそうだ。

そんなこんなもありつつ、年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。楽しく読んだ、というメールをいただいて喜んでいたりもする。結局、そういうことのために書いているってのもある。稲垣恭子(編)『子ども・学校・社会 教育と文化の社会学』世界思想社

それと、こちらの本ももう一押し。


 


5月14日。南へ。

ゴールデンウイーク後半戦は実家で過ごした。4日間の休みのうち1、4日目を移動日に当てるわけで、存外、あわただしい日程である。それでも、ぶらぶらと散歩に出かけることは出来た。で、このたびは、中学高校時代の自分にとってメインストリートのひとつであった道(今はすっかり旧道の趣き)をずっと北から南へ歩いてみたのだけれど、なんだかずいぶん淋しくなっていて − というのも、市の南北を貫く道がその後いくつも出来ていて、新しい市街地は、並行して走る東側のふたつのストリートの周囲に開けているので − こちらとしてもずいぶん淋しい気持ちになってしまったなあと思いながら歩いた。それで、さいしょは漠然と、新しく(といってももう何年も前だけれど)出来たという本屋(老舗の書店が、旧市街地の中心から郊外に遷った)を見に行こうと思っていたのだけれど、1時間ほど歩いて旧道の南端の三叉路に行き当たったところで、なんだか予想外に疲れたし淋しくなってしまったので、たぶん地図上で行くとあと2−30分歩くと書店がみつかるのだろうけれど、なんとなく引き返した。
それで、郵便局に寄って現金を下ろそうと思っていたら、連休中は閉まっているのだと書いてある。別の銀行のキャッシュカードも、実家界隈では使えず、帰りの汽車賃のことをかんがえると財布の中が意外とこころもとないなあという気になってくる。それでいっそう寄り道をせずに帰路についたのだけれど、考えてみればクレジットカードという物を持っているのだった。ツケって嫌いなのでほとんど使わないけれど、背に腹はかわらない。蒸し暑い日で、ずいぶん歩いて汗をかいていたので、着替えのTシャツを買おうと、街道沿いの紳士服量販店に入り、入口ふきんにならんでいる1000えんぐらいの安売りのシャツと400えんぐらいのTシャツをあわせて購入。「一括でよろしいでしょうか」と言われて、よほど20回分割払いにしてくれと言ってみようかと思ったけれどやめた。余分なエネルギーを使ってまで冷たい目で見られるのもバカな話だ。

そうそう、散歩していて発見したのは、歯学部に行った同級生が地元に帰って開業していると思しき歯科医院である。ちがうかしんないけど。それが、中学生だった私たちが毎日ぐだぐだとしゃべりながらバスを待っていたあのバス停のまん前なんである。毎日ぐだぐだとしゃべりながらバスを待っていたのだ。めがまわる。

日曜日に、囲碁を最後まで見てから出発。連休最終日なのでとうぜん特急の指定席はあるはずもなく、前の日から一転して肌寒い中、ホームの自由席乗り場で行列をつくり、なんとか在来線特急では座ることが出来たけれど、ひさしぶりに難民船のような気分を味わった。新幹線では、席がないどころか、満員ぎゅう詰めで、乗ることすらできず一本見送り、次にきた大阪どまりのひかりにむりやり乗って終点まで行ってからもういちど乗り継いでようやく京都にたどりついた。まったくもってやれやれである。

まぁそのほかでこの連休の収穫はというと、テレビで金田一モノの映画を5本やっていたのを見たのと、溝口を2本、あと『ストロベリー・ショートケイクス』の映画のやつをみて・・・邦画ばっかり、ゴールデン邦画劇場やな・・・あとは金井美恵子の新刊の映画エッセイを読んで・・・浅田彰『ヘルメスの音楽』は汽車の中で・・・あと新書本とかを何冊か・・・そんなところかしらん。

連休が終わってしまえば、タフな日々の再開である。「暑いですよう、はやく夏休み来ないっすかねぇ」とか例によって与太をとばしつつ、まぁ、前向きにいこうってわけである。

そんなこんなもありつつ、年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。

それと、こちらの本ももう一押し。


 


5月29日。規律訓練なしの自己管理。

散歩に出かけて本屋に入り、そこでビジネス書の棚を覗いてみるようになって一年ぐらいになる。けっこうおもしろい本が見つかることがある。ビジネス書というものに対して以前持っていたイメージは、なんか精神論みたいな説教みたいな感じのものなのかなあ、というぐらいだったのだけれど、どうやらそんなふうなものばかりではないようだということがわかったんである。もちろん、説教みたいなものもまだまだ多いようだけれど、そうでない、仕事の技術論みたいなものが書いてある本は、学術書や文芸書にはない面白さがある。なにしろプラグマティックなんである。そういう話を、学内の研究会や委員会や通勤電車でよくごいっしょする先生に話したら、「そうですねえ、あの分野はものすごい勢いで淘汰が起こっているから使えないものが消えてある程度のものが残るのかもしれないですねえ」ということで、じっさいそういうかんじなのだ。なんていうか、精神性ぬきに仕事を処理するテクノロジーっていうか、そう、ちょうど、ダイエット器具が、電気で筋肉を痙攣させるとか椅子が揺れて筋肉に自然と力が入るとか、そういうふうに根性抜きで直接身体に働きかけて運動をさせようとするのと同じ感じで、過剰な根性も意志も精神性も抜きにさくさくと仕事をこなすことができる、みたいな。
仕事術の向上とか、チームワークの育成とか、組織のマネジメントとか、情報の整理とかアイディア出しとか、そういうことの技術論は、社会人になってから学びつづけないといけないことで、生涯学習のテーマのひとつではあるだろうと思うし、そもそもそういう、社会人になって必要なことを、学校でそれとしてあんまし教えてないのは惜しい気がして、大学でそういうことを教えられないかなあと思ったりもして、それもあってビジネス書を読んでるわけである。

ところで、精神論というのは主体化のイデオロギーであって、規律社会のものなのだ、と考えてみると面白い。ビジネス書やビジネス雑誌で、「秀吉に学ぶ出世術」みたいなかんじのものを読んでやる気を出すサラリーマンの人がいたとしたら、その人が実際に出世するかどうかはともかくとしても、秀吉という理想像に同一化しよう、理想に向けて自己を律していこう、というのだからそれは主体化だといっていいのではないかと思う。だとするとなんなのか、というと、つまり、もし仮にビジネス書の中で精神論っぽいものが後退して、より技術論的なものが台頭してきたのだとすれば、それは、社会システムが規律社会から管理社会に移行しつつあることのひとつのあらわれなのではないか、みたいにもってきたいわけである。
ドゥルーズの「追伸・管理社会について」という短い文章はすこぶる刺激的なので、それが収められた『記号と事件』が新訳で文庫化したのをきっかけに多くの人が読めばいいなあと思うのだけれど、そこで描き出される管理社会というやつは、なかなかにリアルだ。規律社会では人間は、規律訓練によって主体化され個人(individual=分割されないもの)として成形されていたが、管理社会では、個人(individual)が分割可能なもの(dividual)に置き換えられて、より細分化されたテクノロジーによって直接コントロールされる。で、そういう管理社会の到来を喜んだり悲しんだりするのはあとまわしにするとして、なにがいいたいかというと、精神論が通用する自己同一的な主体ってのが機能しなくなって、よりミニマルな局面での管理のテクノロジーが開発される、ということで、ビジネス書の変化って、そのまんまじゃないの、ということである。

ところでところで、話の流れ的にうすうす気づくわけなのだけれど、ドゥルーズは上記の文章の中で、生涯教育を「あのおぞましい生涯教育」と言っているので、生涯教育専攻に籍をおく身としては複雑な心境である。まぁしかし、ようするに規律社会の典型的な装置が学校教育だったように、管理社会の典型的な装置が生涯教育である、という意味より以上でも以下でもさしあたりないだろう。そして、くりかえすように、そのことに喜んだり悲しんだりしてもしかたないのである。

・・・不思議なことに大勢の若者が「動機づけてもらう」ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちは何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。・・・

ま、ようするに同じことなわけで、規律社会では学校に抵抗していたわけだし、同様に、管理社会では生涯教育や研修への抵抗の戦略を編み出せ、というはなしではあるのだね。たしかに、電気痙攣式のダイエット機器を知らぬ間に装着されているのはいい気持ちではないだろう。でも、だからといって、もはや根性主義によってそれを乗り越えることができる段階ではないのも確かなのだし、いずれにせよ、管理社会が来るとすれば、文句を言っててもかんけいなく来るのである。そのときに、たぶん、私たちが手にする抵抗の道具は、社会が私たちを管理する道具として提供される。そのいみで、生涯教育ってのは、やはり希望でもあるのだと思うのだ。

みたいなことを書いている、年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。

それと、こちらの本ももう一押し。


 


6月12日。なにもない月。通常営業の日々。

去年もそう書いていたような気もしなくもないけれど、6月というのはなにもない月なのだ。さしあたり国民の祝日がないです。それにくわえて、4月にあった年度始めの行事や、5月にかけてのゴールデンウイークや、5月の週末を2回も使った専攻のソフトボール大会やら合宿研修やらそういうものが、一段落してしまい、6月はがっつりと通常営業である。週末がちゃんと休みになるのはとてもよいのだけれど、しかし、特別なイベントもなくひたすらがっつりと通常営業をするというのは、それはそれでたいへんではある。まぁ、なにもないっつってほんとになにもなくなったらそれはそれで困るので、しっかりと通常営業をするのだけれど。
まぁ、春学期の授業の山場ということで、学会誌『教育社会学研究』の論文を読ませてレジュメ報告&質疑応答を課している2回生ゼミとか、学生に生涯教育ゲームをやらせては検討する「生涯教育方法論」の授業とかは、けっこういい感じに手ごたえがでてきている。ゼミ報告にしても生涯教育ゲームにしても、学生さんたちがしっかりやった分だけ勉強になる、というものである。でもって、いちどしっかりしたことを経験すると、それによって、「何がダメか」が体感としてわかるようになるんである。ゲームにしても、しっかり準備して上手にファシリテーションすると、参加者が、たのしく充実して「よい経験」をすることができる。いちどその感じを経験すると、逆に、「あ、いまこの時間帯はダレてるな」とか、「あ、これはプログラムとして混乱してるな」とか、体感としてわかるようになる。それがわかるかどうかってのが大きいようなのである。いま、「生涯教育方法論」の授業がけっこうおもしろいのは、春から何度か回を重ねながら学生さんたちが徐々にゲームのファシリテーションの「感じ」を掴みつつあるのがわかるからで、つまり、まぁやってることは毎回担当班を決めてファシリテーターになり、プログラムを作ってわいわいとゲームをやっては検討ってだけなのだけれど、だんだんよくなってきてるのがわかるんである。これって、それじたいが「協働的学習」だよなあと思う。つまり、ファシリテーターに当たった班の学生だけがそのときだけ学んでいるのではなくて、授業に参加している学生全員が、その場に起こっていることを経験して、考え、次に生かすということをやっているから、全体として向上していくんである。もちろん、その全体、の中には自分自身も入っていて、この授業、この形で4年前ぐらいに始めたのだけれど、さいしょは手探りでやっていたのが、ずいぶん自分自身手ごたえがでてきた気がする。
逆にいうと、このパターンはある程度手馴れて見えてきたので、このへんで一段階ハードルを上げる工夫をする時期かなあ、ということでもあるのだけれど。

通常営業のなにもないとき、というのは、そういうことをあれこれ考えるときでもある。
静かな力が満ちていって
バッタが
ジャンプした
というかんじの三行詩をふと思い出したような気がしたけれど気のせいだろう。

そうそう、3月に書いた論文をアップした。
・石飛和彦(2007)「学校的秩序空間の組織化」『天理大学生涯教育研究』第11号
このところ3年連続で、研究室の紀要には生涯教育ゲーム関連のことを書いていたのだけれど、このたびは学校社会学。↓こっちの論文が出たことと併せて、いままでの自分の学校社会学関連の論考の、補遺みたいなかんじ。校則関連の議論といじめ関連の議論とを結ぶ構図だけ一筆書きで描きました、みたいな。

その↑年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。

それと、こちらの本ももう一押し。


 


6月28日。さみだれをあつめて早し。

下宿の窓からは川が見おろせる。この下宿を決めるときに、この川の眺めを見て、賃貸斡旋不動産のお兄さんに「うわー気分いいっすねえ」と言って、それで気持ちが決まっていたというのもある。気がついたらもう2年近くもたっている。夏の終わりに見に来て、秋冬春夏と過ごしてみてまずまず快適だったのだけれど、最寄り駅までの道のりが遠くまた足元が悪いところがあって、学校に行かないといけないのに雨が降るといっきょに気が滅入ってくるのだった。もっとも学校に行かないといけないってだんかいで気が滅入ってくるのかもしれないのかもしれないのだけれど。
ともあれ、梅雨というのはよろしくない。今の時期である。朝起きて雨がザーザー降っているとためいきがでてしまう。それでもまぁ仕事ということで支度をして勇を鼓して出かけて、しばらく歩いて大きな橋を渡る。川の水かさが上がって渦を巻いたりしている。雨で増水したのと、あと上流のダムの水門の調整によるところもあると思う。雨で水が濁って濁流みたいになっている。川沿いの葦だかなんだかの原はそっくり呑み込まれて、木が生えているのも幹の途中まで水に浸かっている。こういうのを見るのはけっこうもりあがる。橋の上ですれちがう人が「すごい増水しとる」と言っているのがちょうどすれちがいざまで耳に入り、なかま意識をいだく。

それでもまあ晴れているほうがいいのではやく梅雨が明けないかなと思う。それでついでに6月が早く終わってついでに春学期が終わらないものかと思っているのだけれど、気がつけば月末なのだった。試験のぐあいもあったりして、もうそろそろ授業の最終週が見えてきたりしているのだ。手ごたえのある授業に関してはもうちょっとやってもいいような気にならなくもないのだけれど、まぁしかし早く休みになんないかなと思う意志にブレはない。

3月に書いた論文をアップしたのをもうすこし宣伝。

その↑年末に出た本をまだとうぶんのあいだは宣伝。

それと、こちらの本ももう一押し。