レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家

 

他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質()

 

レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

 

(宮地作成)

 〔目次〕

     はじめに―レーニンがしたことの性質とその論証 (別ファイル1)

   1、レーニンによる他党派殲滅路線・遂行の極秘資料発掘・公表データ

   2、一党独裁・党治国家成立時期の確定−稲子恒夫〔コラム〕

   3、10月クーデターによる臨時政府との二重権力解消と新しい二重権力発生認識

   4、一党独裁成立経緯に関するレーニンのウソ・詭弁とその犯罪性

   5、レーニンがしたことの性質の逆転=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

   6、左翼がレーニンの反民主主義・反革命理論と実践を支持した背景と逆転換

 

 〔関連ファイル〕      健一MENUに戻る

     『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』レーニン神話と真実1〜6

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ウソ・詭弁と大量殺人犯罪データ

     『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』新しい二重権力への移行・対立

     『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』21年政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性

     『言論出版・思想学問の自由剥奪の反民主主義国家』

       検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成

       レーニンがしたこと=民主主義・自由廃絶の反革命クーデター

     稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」全文、8ファイル

     中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

     大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱

 

 2、一党独裁・党治国家成立時期の確定−稲子恒夫〔コラム〕

 

 1991年ソ連崩壊前までは、資料非公開や不足のため、一党独裁体制をスターリンが完成させたとされてきた。しかし、ソ連崩壊後、極秘資料の発掘・公表によって、スターリンからでなく、レーニンこそが、カデット・エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキの政党体制やアナキストを絶滅させたという真相が暴露・証明された。しかし、個々に旧政党党員は残っていた。スターリンがしたことは、それら個々に残存する他党派の元・現党員を一人残らず逮捕・銃殺・強制収容所送りにしただけである。

 

 ソ連崩壊後の極秘資料発掘・公表データにより、一党独裁・党治国家成立が、()スターリン時代でなく、()レーニンの最高権力者期間1922年12月までだったことがほぼ証明された。その時期確定に関する稲子恒夫の〔コラム〕一部を載せる。

 

 〔小目次〕

   1、一党制の確立−プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化

   2、党治国家

 

 1、一党制の確立−プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化

 

 ネップは経済だけの改革であり,政治のネップすなわち政治の民主化の要求拒否された.21316のロシア共産党第10回大会で労働者反対派民主的中央集権派党の民主化を要求をしたが,大会は分派禁止でこれに答えた.

 

 ネップによる食糧割当供出の廃止商業の自由メンシェヴイキーと,社会革命党が主張していたことだから,共産党はこれらの党の影響なくすため,メンシェヴイキーと,社会革命党を弾圧し,農民が「農民同盟」のような自主的な政治組織を持つことも禁止して,一党制を確立し,信仰,言論,報道,学問の自由を最終的に否定し,検閲制度を確立した.図書館から共産党批判の本が消え代表的な知識人国外に追放された.

 

 強大な政治警察である国家保安機関が,臨時のヴェチェカー(全ロシア非常委員会)から常置の国家保安局(ゲペウー)に昇格した.

 

 政治的自由完全に消えたロシア(ソ連)では,政治的な論争と対立は共産党中央委員会政治局というコップの中だけの嵐になり,その中で書記局と組織局という実務機構をにぎるスターリンの権威主義が生まれ,すぐに個人独裁が成立した.

 

    大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』レーニンの犯罪

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

 

 2、党治国家

 

 ソ連は法治国家でなく,国家と法の上にソ連共産党がある党治国家だった.党治国家のメカニズム,党の機構については,ソ連(ロシア)で1980年代末から多数の資料と研究が公表されているのに,日本では無視されている.本年表は新たに公表の資料により,23612の党中央委組織局決定(極秘)によりノメンクラトゥーラが制度化されたことを確認し,また極秘文書の公開により,1937年の狂気の大テロは,36731の政治局の極秘決定が「反ソ分子」弾圧という名目の大テロ作戦実施の内務人民委員部作戦命令第00447号を認めたことで始まったことを記した.

 

 当時は政治だけでなく,立法も法令の運用も,また裁判までもソ連共産党の決定によっており,第一書記は電話で裁判官に指示をあたえていたから,電話法の隠語があった.幹部会令や政府決定には党の秘密決定により,公布されないものがあった.しかし国家とソ連共産党の関係は「党の秘密」で守られていたから,具体的情報がなく,そのため日本のソ連研究にはソビエト法研究をふくめ党の秘密にふれない空白があった.党の秘密が公表された今日,本年表は党幹部の給与と特権,専用電話回線,党中央の閉鎖的情報システムなど,党の真実にせまる多くの秘密情報をのせ,これにより20世紀ロシアの政治と法,社会,経済,文化,幹部の特権そして一般国民の生活と意見を具体的に理解できるようにした.したがって党の決定で資料がかくされていた時代党にふれないソ連研究全面的見直しが必要だが,日本ではあまり進んでいないといえよう.

 

     稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」全文

 

 

 3、10月クーデターによる臨時政府との二重権力解消と新しい二重権力発生認識

 

 1917年二月革命から10月までは、臨時政府と労兵ソヴィエト・農民ソヴィエトとの二重権力だった。これは確定した歴史認識である。11月7日(旧暦10月24・25日)にレーニン・ボリシェヴィキがしたことが、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったという歴史認識は、ソ連崩壊後ヨーロッパの国民・左翼・共産党員の常識になっている。日本では4人の研究者がクーデターだった明言している。

 

     『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』10月10日〜25日の16日間

     『1917年10月、レーニンがしたこと』革命か、それとも、一党独裁狙いのクーデターか

 

 問題は、その先にある疑問4テーマの研究・考察が進んでいないことである。一党独裁問題を解明する上でこれはきわめて重要なテーマとなる。この4つをはっきり規定しておかないと、一党独裁成立経緯に関するレーニンのウソ・詭弁を論証できないからである。

 

 〔小目次〕

   〔疑問テーマ1〕、クーデター対象は、臨時政府だけか、臨時政府権力とソヴィエト権力への二重性を持ったのか

   〔疑問テーマ2〕、臨時政府打倒で旧二重権力は解消したが、新しい二重権力が発生したという歴史認識の正否

   〔疑問テーマ3〕、発生した新しい二重権力の解消はどのような経緯をたどり、いつまでに解消し、一党制が確立したのか

   〔疑問テーマ4〕、レーニン・トロツキーは、クーデターの二重性を自覚した上で、蜂起作戦を遂行したという証拠があるか

 

 〔疑問テーマ1〕、クーデター対象は、臨時政府だけか、臨時政府とソヴィエト権力への二重性を持ったのか

 

 「十月革命」が臨時政府にたいするレーニン・ボリシェヴィキの単独権力奪取だったという事実は、ソ連崩壊前からの確定した歴史認識である。ところが、二重権力の一方を構成するソヴィエト勢力内党派は、ボリシェヴィキ・エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストだった。カデットはソヴィエト内政党でない。それらは、10月25日第2回ソヴィエト大会、または、12月から始まる憲法制定議会選挙結果によって、臨時政府に代わり、ソヴィエト内政党による連立政府を確立できるというほぼ確実な情勢にあった。

 

 となると、第2回ソヴィエト大会前日に、レーニンが仕掛けた単独武装蜂起・単独権力奪取とは、()単に臨時政府にたいするクーデターというだけでなく、()ソヴィエト内他党派にたいする抜け駆け的な単独権力奪取クーデター陰謀でもあったとなる。ソ連崩壊後に解明されたその直後のソヴィエト大会の運営実態レーニン・トロツキーの手口を見ても、それが、ソヴィエト権力・ソヴィエト内他党派をも対象とした二重性を持ったクーデターだったと規定できる。ただ、外国・日本の研究者たちで、このようなクーデター対象の二重性に関し、分析し、きちんと明記した著書は現時点でまだ見当たらない。

 

 〔疑問テーマ2〕、臨時政府打倒で旧二重権力は解消したが、新しい二重権力が発生したという歴史認識の正否

 

 たしかに、レーニンのクーデターによって、臨時政府は倒れ、臨時政府とソヴィエト権力・ソヴィエト内全政党との二重権力はなくなった。レーニン・トロツキーらは、それにより、クーデター政権=ソヴィエト権力そのものになったと力説した。本当にそうなのかが、ソ連崩壊後の疑問テーマとして浮上してきた。その一体化説は、レーニン・トロツキーのウソ・詭弁ではないのか。実態は、ボリシェヴィキの抜け駆け的な単独権力奪取により、別レベルの新しい二重権力が発生したのではないかという歴史認識の疑問である。この疑問について、2人の説を検証する。

 

 ()、埴谷雄高の新しい二重権力発生説

 

 彼の『幻視のなかの政治』(未来社、2001年)を再読した。埴谷雄高が次のような新しい二重権力発生説を2箇所で書いていることに気付いた。これはソ連崩壊32年前の論考である。この説の背景には、1956年のフルシチョフによるスターリン批判とハンガリー事件かある。最初は、「敵と味方」(中央公論、1959年2月号)に載った。

 

 二月革命後、ブルジョア政府とロシヤの各地に創設された労働者、農民、兵士ソヴエトは、しばらくのあいだ均衡のとれた二重権力の時期をつづけたが、果断に決行された蜂起によって「あらゆる権力がソヴエトへ」移ったのち、やがてまた、新しい、思いがけぬ、しかも、決定的な二重権力にひとびとは遭遇した。私達はこれをそう呼びつけてはいないが、その新しい二重権力とは、まさに党とソヴェトにほかならない。この異様な、目的に反した二重権力において、党員を選挙もリコールもできない無力なソヴェト側が形式だけの権力にしかなり得ないことは勿論誰にも明らかであるが、さて、人民ではなく人民の部分である党が真の権力の所有者になったことは、それまでの歪み運動をひたすら極点へと運んでゆく機縁になったのである(P.91)

 

 「革命の意味」(中央公論、1959年11月号)においても、同じ論旨を書いている。

 あらゆる権力を自身へ集中することによって二重権力を果敢に打ち破ったソヴエトは、さて、「一さいの国家の死滅の先駆者となる国家における唯一の権力」となったはずであったが、思いがけぬことに、やがて、間もなく目に見えぬ新しい種類の二重権力に直面した。その新しい二重権力とは、もちろんソヴエトにほかならない。もし率直で大胆な誰かがその事態を指摘すればたちまち二つのものの位置が明らかになるはずであるにもかかわらず、誰の眼にもその権力の二重性が映らなかったのは党がプロレタリアートの革命的な部分であると党の内外双方を通じて誰からも信じられていたことに由来する。

 

 けれども、人民の唯一の権力が人民による選挙とリコールという拘束によって保証されるようになったとき、人民から決してリコールされることもなく、いかなる外部批判も党内の自己批判として受けいれられなければなんらの効果をもたぬという古ぼけた閉鎖性をもって党が権力に関わるかぎり、やがてそこに人民からの「分離」がまず生ずるのも当然である(P.175)

 

 ()、稲子恒夫の2連続クーデター規定が論証する新しい二重権力発生説

 

 別ファイルに載せたように、ソ連崩壊後の外国・日本の研究者著書は、ほぼすべてが10月クーデター説になっている。ただ、その後の経過を、ソヴィエト権力簒奪の連続クーデターと明白に規定した研究者はいない。私は7連続クーデター説である。稲子恒夫だけが、()10月を憲法制定議会選挙運動中のクーデタとするとともに、()憲法制定議会武力解散もクーデタと明記した。それは、2連続クーデター説である。ただ、クーデター内容に関する詳しい分析をしていない。しかし、レーニンが創設・確立した政治体制を一党制とし、その国家を、法治国家でなく、国家と法の上にソ連共産党がある党治国家と規定した。

 

 彼の2連続クーデター説は何を意味するか。10月クーデター説だけで留まるのなら、臨時政府にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取であり、それにより、クーデター政権=ソヴィエト権力そのものになったとするレーニン・トロツキー・スターリンらのロシア革命説に陥るかもしれない。しかし、1918年1月の憲法制定議会武力解散は、臨時政府崩壊後の事件だった。その経過と性質は、中野徹三が綿密な分析をしている。彼は、連続クーデターと明記していないが、その論旨を見ると、2連続クーデター説に近い。

 

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

 

 武力解散の対象政党は、カデット以外が、すべてソヴィエト内他党派だった。稲子連続クーデター説は、次の規定を意味する。選挙結果データと憲法制定議会開会1日目武力解散は、ボリシェヴィキ・2連続クーデター政府ソヴィエト内他党派との新しい二重権力の発生と存在を証明した。

 

 〔疑問テーマ3〕、発生した新しい二重権力の解消はどのような経緯をたどり、いつまでに解消し、一党制が確立したのか

 

 私は、新しい二重権力発生に関し、埴谷雄高説と稲子恒夫説とまったくの同認識である。稲子恒夫の2連続クーデター説にも同意している。ただ、()埴谷雄高は、ソ連崩壊32年前の論考なので、新しい二重権力解消経緯とその性質に言及していない。一方、()稲子恒夫は、ソ連崩壊16年後・2007年に、レーニンによるボリシェヴィキ不支持者・他党派排除・浄化データを発掘・公表し、膨大な極秘資料年表を出版した。その経緯の結果として一党制党治国家をレーニンが確立させたと明記している。

 

 ()上記(別ファイル1)で引用したアファナーシェフも同じで、一九二〇年代のはじめには全ての政党を解体と明記した。よって、解消期間は、レーニンの最高権力者5年2カ月間内=1922年12月までとなる。

 

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』1990年NHKインタビュー

 

 となると、〔疑問テーマ3〕の解消経緯と性質の解明が重要になる。新しい二重権力一方を構成するソヴィエト権力といっても、その勢力は複雑で多数ある。レーニンのクーデター政権とその誤った路線・政策・赤色テロルにたいし、批判・抵抗するソヴィエト権力とは、労働者・農民・兵士ソヴィエトとその内部のエスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストら他党派・党員である。批判・抵抗・反乱は形態も、時系列的にも異なった。レーニンは、それらすべてを秘密政治警察チェーカーと赤軍を使い、赤色テロルによって弾圧・鎮圧しつくした

 

 とりわけ、早くもクーデター3年目1920・21年にかけ、クーデター政府の誤った路線・方針・赤色テロルにたいし、ソヴィエト勢力側による全国民的反乱がソ連全土で勃発し、ボリシェヴィキ単独クーデター政府政権崩壊危機に陥った。()タンボフ・西シベリヤ・ウクライナを中心とする全土での80%・9000万農民蜂起「緑の反乱」()21年2月ペトログラード労働者の全市的ストライキ()21年2〜3月クロンシュタット事件である。レーニンは、政権崩壊を回避するため、80%・9000万農民には食糧独裁令をやめ、やむなく譲歩・後退としてのネップに大転換をした。その一方、反乱農民を含め、ストライキ労働者、クロンシュタット水兵ら、他党派にたいする大弾圧・大量殺人犯罪を赤色テロルで完遂した。

 

 私は、それら新しい二重権力解消時系列経緯を分析し、レーニン・ボリシェヴィキによるソヴィエト権力簒奪の7連続クーデターと規定した。それを『レーニン批判の10部作』で検証した。

 

    『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』新しい二重権力への移行・対立

 

 〔疑問テーマ4〕、レーニン・トロツキーは、クーデターの二重性を自覚した上で、蜂起作戦を遂行したという証拠があるか

 

 この証拠の存否については、ソ連崩壊後における秘密資料の発掘・公表によって、ほぼ完璧なまでに証明された。その内容は、別ファイルに載せた10月クーデターに当たってのレーニン・トロツキーによる6つの作戦である。

 

    『10月10〜25日、レーニン・ボリシェヴィキによる6つのクーデター作戦』

 

 6つの作戦項目のみ載せる。具体的内容は、上記リンクにある。これらの作戦は、レーニン・トロツキーともが、ソヴィエト内社会主義他党派を出し抜く単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを遂行し、()一党独裁・党治国家狙いというクーデター権力と、()他ソヴィエト権力との新しい二重権力が発生することを自覚していた真相を証明する。

 

   〔作戦1〕、他党派を出し抜いて、大会前日の単独武装蜂起・単独権力奪取計画

   〔作戦2〕、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエト構成すりかえ計画

   〔作戦3〕、「革命防衛委員会」設立とトロツキーによるその目的・名称・構成の改変経過

   〔作戦4〕、ペトログラード守備隊のボリシェヴィキ支持化・中立化工作

   〔作戦5〕、10月24・25日、ボリシェヴィキ支持兵士と赤衛隊の動員計画 (表6)

   〔作戦6〕、事後報告の大会で、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画

 

 

 4、一党独裁成立経緯に関するレーニンのウソ・詭弁とその犯罪性

 

 〔小目次〕

   1、レーニンの誤り、ウソ・詭弁と大量殺人犯罪の判明

   2、一党独裁成立経緯に関するレーニンのウソ・詭弁という疑惑

   3、一党独裁成立経緯での4説・歴史記述法の検証

 

 1、レーニンの誤り、ウソ・詭弁と大量殺人犯罪の判明

 

 ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)の発掘・公表により、レーニンの誤り・犯罪とさまざまなウソ・詭弁が判明してきた。

 

 ()、まず、彼が1917年11月7日にしたことの性質は、社会主義革命でなく、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったと、その評価が、ヨーロッパ・アメリカの研究者ら多数において大逆転した。クーデターだったと明記した日本人研究者は4人になった。加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一・稲子恒夫である。ただ、レーニンのクーデターが一党独裁狙いを秘めたものだったかどうかについては、それを明記した研究者はいない。(別ファイル1)冒頭で引用したアファナーシェフだけである。

 

 ()、彼が真理と主張した社会主義理論もほとんどが誤りだったとなった。プロレタリア独裁理論、社会主義計画経済理論、食糧独裁令、鉄の規律・民主主義的中央集権制組織原則、うぬぼれた前衛党理論などである。

 

 ()、レーニンのウソ・詭弁も多数論証された。その典型的なものは4つになった。憲法制定議会選挙において24%議席で敗北した翌日に武力解散をした詭弁、プロレタリア独裁国家が成立しているとするウソ=その実態としての党独裁・党治国家を隠蔽する詭弁、ソ連全土での農民反乱にもかかわらず労農同盟の成立という真っ赤なウソがある。内戦の基本原因を、外国の軍事干渉と白衛軍だとするウソロイ・メドヴェージェフが論証したように、憲法制定議会武力解散と食糧独裁令こそが内戦の基本2大原因である真相をすり替える詭弁などである。

 

 ()、レーニン指令によるジェルジンスキー・秘密政治警察チェーカーが遂行した労働者・農民・兵士・他党派などロシア革命勢力数十万人にたいする大量殺人犯罪データも明白になった。その赤色テロルデータは、ファイル多数に載せた。レーニン・トロツキーらは、20世紀のヨーロッパ・ロシア情勢が産んだ最初の大量殺人犯罪型革命家だった。

 

    第9部『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ウソ・詭弁と大量殺人犯罪データ

 

 2、一党独裁成立経緯に関するレーニンのウソ・詭弁という疑惑

 

 ()つ目は、一党独裁成立経緯に関するウソ・詭弁である。それを暴露・論証するには、詳細な極秘資料極秘年表が要る。ところが、ソ連崩壊後のヨーロッパでは、それらの出版が大量になされてきたのに、日本ではごく一部しか出版されてこなかった。しかも、極秘資料に基づく新年表が出されなかった。2007年、稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』出版が初めてと言える。この出版によって、レーニンによる()つ目のウソ・詭弁を論証できる条件ができた。

 

 たしかに、レーニン自身は、一党独裁狙いを剥き出しにした論文・演説をしていない。一党制が完成したとも言っていない。ただ、全体の論旨からは、次の口調が伺える。()レーニン・ボリシェヴィキは、カデット・エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストなどのすべての政党・党派が、レーニンらの社会主義革命にたいし、反革命や武装反革命を繰り返したので、やむなく抑圧した結果として、他党派が存在しなくなった。または、()それら他党派が反革命や武装反革命により国民から孤立し、自滅した結果である。このソ連史は、スターリンによっても一段と大宣伝され、コミンテルン型共産党すべてに共通する常識となっていった。あるいは、世界の全左翼・共産党員たちは、そう思い込まされてきた。

 

 レーニンが最高権力者5年2カ月間中一党独裁・党治国家を完成させたことは、稲子恒夫の年表・〔コラム〕のように、ソ連崩壊後の極秘資料発掘・公表によって判明した歴史的真実である。となると、21世紀において、レーニン・スターリンが唱えるソ連史=一党独裁政治体制完成経緯史は真実なのか、それとも、彼らによるウソ・詭弁なのかが問題として浮上する。むしろ、レーニン自身が、10月クーデターの最初から、目的意識的に一党独裁体制の確立を目指し、一貫した他党派絶滅路線を遂行したのではないのかという疑惑である。

 

 その疑惑を解明するデータは、()(別ファイル1)に載せた稲子恒夫著書の他党派殲滅極秘資料・極秘年表と、()他出版物で発掘・公表されたレーニンによる他党派絶滅・大量殺人・銃殺の秘密指令文書となる。それら2つを克明に検証すれば、レーニン・トロツキー・スターリンのウソ・詭弁が明らかになる。

 

    『カデット・エスエル・メンシェヴィキ・左翼エスエルの殲滅』〔殺人指令文書20〜26〕

    『大量殺人推計の根拠と殺人指令27通』27通の全文

 

 3、一党独裁成立経緯での4説・歴史記述法の検証

 

 これらを検証することは、まだ極秘資料不足でなかなか難しい。ソ連崩壊後の外国研究者諸文献や日本人研究者4人の著書を見ても、その検証をしていない。しかし、これは重要なテーマなので、私なりの検証を簡潔に試みる。

 

 〔小目次〕

   〔時系列的な客観的歴史記述〕、一党独裁体制追求意図の存否評価を捨象した歴史記述

   〔レーニン・スターリン説(1)、他党派が反革命・武装反革命をしたのでやむなく抑圧した結果

   〔レーニン・スターリン説(2)、反革命・武装反革命により、国民から孤立し、自滅した結果

   〔一党独裁を目的意識的追求〕、クーデター当初から、とくに1921年政権崩壊危機後の追求結果

 

 〔時系列的な客観的歴史記述〕、一党独裁体制追求意図の存否評価を捨象した歴史記述

 

 ソ連崩壊後に出版された外国・日本の諸文献は、10月クーデター説に立っている。そして、レーニンの最高権力者5年2カ月間で一党独裁体制がほぼ確立したと規定している。しかし、その経緯において、一党独裁・党治国家体制を追求するレーニンの意図の存否については、明確な判断・評価を書いていない。時系列的な客観的歴史記述に留まっている。他党派殲滅・一党独裁という政治犯罪システム成立を分析する上で、それを追求したレーニンの主観的意図の存否を評価しないという歴史記述では不十分ではないのか。

 

 E・H・カー『ボリシェヴィキ革命・3巻』や他研究者著書は、きわめて貴重な研究文献である。しかし、全体として客観的歴史記述である。ただ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、原著1997年)におけるレーニン・ボリシェヴィキによる大量殺人犯罪データは、レーニンの一党独裁・党治国家追求意図が浮かびあがる記述になっている。稲子恒夫が言うように、党の決定で資料がかくされていた時代党にふれないソ連研究全面的見直しが必要だが、日本ではあまり進んでいないといえよう。

 

 〔レーニン・スターリン説()〕、他党派が反革命・武装反革命をしたのでやむなく抑圧した結果

 

 これは、ソ連崩壊前まで、もっとも流布され、信じられてきた歴史解釈だった。本当にそのような事実経過だったのか。レーニンは、クーデター後、直ちに他党派2つの弾圧を開始した。()カデット機関紙・ブルジョア新聞を閉鎖した。カデットがコルニーロフ反乱に加担したからを口実としたが、その証拠はない。()アナキスト事務所を襲撃し、大量逮捕と銃殺をした。アナキストが反乱した事実はなかった。()、レーニンらの誤った食糧独裁令反対しただけのエスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキにたいし、反革命行動と断定し、1918年6月ソヴィエトから追放・排除した。左翼エスエルがブレスト講和条約を屈辱的と反対し、ドイツ大使ミルバッハを殺害したのは事実である。しかし、エスエル・メンシェヴィキは、レーニン・ボリシェヴィキ批判をしただけで、それまでの時点で武装抵抗をしていない。

 

 その後、他党派が武装抵抗方針を一時的に掲げたことも事実である。しかし、それは、レーニンが、直属のジェルジンスキー・チェーカーの赤色テロルで、他党派を暴力で大量逮捕・殺人・強制収容所送りという他党派絶滅を強化した犯罪にたいする抗議・抵抗だった。レーニンが他党派殲滅・大量殺人の口実にした白色テロルは、それに先行した膨大な赤色テロルに比べて、数件しかない。よって、このレーニン・スターリン説()は、白を黒とすり替える詭弁であり、ソ連史の偽造歪曲のウソとなる。

 

    『赤色テロル3段階と白色テロルとの関係』赤色テロルへの抵抗の実態データ

    TAMO2『ソ連邦共産党史1』 『ソ連邦共産党史2』1917年〜41年 公認党史

 

 〔レーニン・スターリン説()〕、反革命・武装反革命により、国民から孤立し、自滅した結果

 

 他党派は国民から孤立していなかった。それどころか、レーニンの誤った食糧独裁令によって、早くも1918年春国民がボリシェヴィキ・クーデター政府に背を向けたボリシェヴィキ支持率が減り、他党派の支持率が上がったというロイ・メドヴェージェフの著書『1917年のロシア革命』(現代思潮社、原著1997年)がそれを証明している。

 

    メドヴェージェフ『1918年の困難な春―食糧独裁令』ボリシェヴィキ支持率激減

 

 彼は、ソ連崩壊前の別著書『10月革命』(未来者社、原著1979年)でも、1918年春に、大衆がボリシェヴィキから顔を背けたというデータを載せた。その箇所だけを()とともに引用する。

 

 大衆がボリシェヴィキから顔を背けた事実は、第五回全ロシア・ソヴィエト大会代表の党所属に関する統計に反映されている。その統計によると、ボリシェヴィキは四〇人も減少した。それに対して左翼エスエルは、自派代表を一一五人もふやした。だが、郡ソヴィエトの選挙は、この変化を更に一層はっきりと表わしている。表は、()一九一八年四月から八月までに選出された一〇〇の郡ソヴィエトの党派構成と、()一九一八年三月一四日の同じ郡ソヴィエトの党派構成とを対比させた統計数字である。

 

() 対比された一〇〇の郡ソヴィエトの党派構成()

1918年3月14日

1918年4月から8月

ボリシェヴィキ

66.0

44.8

左翼エスエル

18.9

23.1

右翼エスエル

1.2

2.7

メンシェヴィキ

3.3

1.3

マクシマリスト、アナーキスト

1.2

0.5

無党派

9.3

27.1

 

 他の郡、とくに旧ロシア帝国の辺境地方といった郡のソヴィエトや、管区ソヴィエトの選挙は、ボリシェヴィキが権威と影響力とをさらに大幅に低下させたことを示したものとみても、ほぼ間違いはなかろう。ソヴィエトの選挙が平等の代表選出権に基づくものでないことを忘れてはいけない。しかも、ボリシェヴィキが統治党であったという事実も、選挙結果に影響を及ぼしていた。それにしても、政治的な趨勢は一目瞭然である。

 

 ボリシェヴィキの影響がとくに激しくおちこんだ地方穀物生産県である。そこは、穀物余剰をもち、また、食糧人民委員部の列車の多くが送付された地方でもあった。穀物生産県とは、()ロシア南部の黒土地方、()ヴォルガ地方の大部分、()そしてシベリアである(P.212)

 

 1918年5月食糧独裁令は、レーニン・トロツキー・ボリシェヴィキによる80%・9000万農民への内戦開始宣言だった。その発言が発掘・公表されている。その第1次方針としての貧農委員会は、レーニンらの机上の空論だったため、年末までに崩壊した。食糧独裁令第2次方針が、穀物家畜の軍事割当徴発だった。それは、全土での農民反乱によるクーデター政権崩壊危機の恐怖に慄いたレーニンの1921年3月「ネップ」まで強行された。この農民にたいする内戦開始の犯罪的誤りによって、ボリシェヴィキ支持率は一貫して減り続けた。これらの詳細は、梶川伸一が著書4冊で、膨大なアルヒーフ(公文書)の発掘・公表で論証した。

 

    『1918年4月29日、「農民・農村への内戦開始」発言・決定』(表2)データ

    『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』梶川伸一著書4冊抜粋ファイル

 

 1920年〜21年におけるボリシェヴィキ政権にたいする全国民的反乱政権崩壊危機は、ボリシェヴィキ側こそが完全に孤立し、国民から拒絶されたことを物語っている。その全土反乱時期において、()タンボフ・アントーノフ反乱でのエスエル・左翼エスエルへの支持、()ウクライナ・マフノ運動におけるアナキストの権威・信頼、()ペトログラード労働者の全市的ストライキでのメンシェヴィキ党員の活躍、()クロンシュタット事件ではメンシェヴィキ・左翼エスエル・アナキスト党員たちの影響力が大きかった。

 

 ()孤立したのは、誤った路線・政策赤色テロルのボリシェヴィキだった。よって、レーニン・スターリン説()も、真っ赤なウソであり、ソ連史の偽造歪曲である。

 

 〔一党独裁を目的意識的追求〕、クーデター当初から、とくに1921年政権崩壊危機後の追求結果

 

 レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター以前から、彼独特の社会主義理論を唱えていた。その中でも、一党独裁・党治国家を正当化し追求する理論がいくつかある。()マルクス説を継承したプロレタリア独裁理論、()ブルジョア民主主義制度の全面否定・廃棄に基づくプロレタリア民主主義理論とその具体的制度構想、()プロレタリアートの中核・指導政党と自己規定する前衛党理論、真の社会主義理論はレーニン型前衛党にしかなく、それを外部注入しうる唯一の政党という自己規定などである。それらは、クーデター後、()プロレタリア独裁の実態としての党独裁・党治国家正当化理論に突き進んだ。

 

 レーニンは、これらクーデター前の理論を、単独権力奪取後、ただちに具体的し全面的に遂行した。しかし、それら根本的に誤った路線・政策によって、労働者・農民・兵士ロシア革命勢力の全土反乱に直面し、1920〜21年政権崩壊危機に陥った。レーニンは、クーデター政権崩壊を回避するため二面作戦を採った。

 

 〔二面作戦1〕、農民要求にたいする譲歩・後退

 全土で反乱している80%・9000万農民の要求にたいし、ネップという譲歩・後退を強いられた。しかし、ネップ=商業の自由政策は、1918年5月誤った食糧独裁令時点から、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキなど全他党派が要求し、政策として掲げていたものだった。

 

 〔二面作戦2〕、全他党派殲滅の赤色テロル強化

 レーニンは、ネップが他党派の政策への譲歩・後退と受け留められないよう、ネップ執行と同時に、その反面として、全他党派殲滅路線を赤色テロルで強化・遂行した。それを証明するデータが2つある。()稲子年表にある他党派殲滅極秘資料と、()ソ連崩壊後発掘・公表のレーニンによる他党派殲滅の極秘秘密指令7通である。

 

    『カデット・エスエル・メンシェヴィキ・左翼エスエルの殲滅』〔殺人指令文書20〜26〕

 

 

 5、レーニンがしたことの性質の逆転=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

 

 〔小目次〕

   1、レーニンにおける政治的民主主義・複数政党制の否定理論

   2、革命、クーデター、反革命に関するレトリックとその逆転

   3、政治的民主主義・複数政党制にたいする反革命の連続クーデター

 

 1、レーニンにおける政治的民主主義・複数政党制の否定理論

 

 第一、プロレタリアート独裁理論

 

 これは、マルクスが唱えたプロレタリアートの革命的独裁論を根拠としていた。レーニンは、クーデター以前から、とくに、コミンテルン結成後、それを試金石とする位置づけに高めた。ソ連崩壊後21世紀世界の左翼は、これが、マルクスの言う「過渡期、一時的」であろうが、レーニンが受け継いだ根本的に誤った反民主主義理論認識し、廃棄している。ヨーロッパの共産党すべては、1974年ポルトガル共産党を筆頭に、この理論と実践実態を誤りであり、大量殺人犯罪を伴ったとし、放棄宣言をした。

 

 大藪龍介教授は、次のように検証した。『国家と革命』のなかでも、「プロレタリアートの独裁、すなわち抑圧者を抑圧するために被抑圧者の前衛を支配階級に組織すること」という考えを、レーニンは折りこんでいた。他方で、革命政党の指導性の揚言は、レーニン主義の真面目であった。また、ジャコバン独裁の模範視もあった。プロレタリアート独裁の前衛党による代意・代行の要素はすでに点在していた。

 

 一党独裁の積極的な承認は、レーニン主義とボリシェビズムの根本教義の一つになった。トロツキー『テロリズムと共産主義』「われわれは一度ならず、ソヴェトの独裁を党の独裁によって置き換えたといって非難されてきた。だがソヴェト独裁が党独裁によって初めて可能となったということは、全く正しいのだ」(P.150)。ジノヴィエフ『レーニン主義研究』「プロレタリアート独裁は、その前衛の独裁なしには、すなわちプロレタリア党の独裁なしにはありえない。すくなくともプロレタリアートの勝利の、安定した独裁は、プロレタリア党の独裁なしにはありえない」(P.360)

 

    大藪龍介「プロレタリアート独裁」マルクスの理論、テキスト3つ

 

 このマルクス主義理論の誤り認識に基づき、イタリア共産党は、マルクス・レーニン主義との断絶的刷新=全面放棄を公然と宣言し、左翼民主党に大転換をした。フランス共産党は、マルクス理論は根本的な誤りを含んでいるとし、マルクス主義全面放棄を党大会で宣言した。世界で、日本共産党だけが、姑息な訳語変更を繰り返し、放棄宣言をしないで、隠蔽・堅持をしている。

 

 第二、プロレタリア民主主義は、ブルジョア民主主義の百倍も優れているとし、その実態として、民主主義そのものを否定

 

 レーニンは、クーデター以前から、マルクスの階級闘争理論を一面化・歪曲し、世界の国民が闘いとってきた民主主義制度を軽蔑し、否定した。その項目だけを挙げる。()普通選挙による議会制民主主義をブルジョア議会主義と否認し、階級敵を排斥するソヴィエト民主主義を絶賛した。その誤った理論で憲法制定議会を一日目で武力解散させた。しかし、そのソヴィエト民主主義から他党派を排除し、党独裁機関に変質させた。()三権分立システムを否定し、共産党が三権すべてを支配し、党治国家に後退させた。()党独裁正当化理論により、他党派殲滅路線を遂行し、複数政党制にたいする敵対的で犯罪的な党独裁制度を創り上げた。

 

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱

 

 2、革命、クーデター、反革命に関するレトリックとその逆転

 

 ソ連崩壊後、レーニンが1917年10月24・25日にしたことは、社会主義革命でなく、クーデターだったという歴史認識が、ヨーロッパの左翼・有権者にとって常識になった。さらに、稲子恒夫は、憲法制定議会の武力解散も第2次連続クーデターと規定した。中野徹三も「10月は悲劇的なクーデター」とするとともに、憲法制定議会武力解散の綿密な検証により、事実上の反民主主義第2次連続クーデターと受け留められる書き方をしている。

 

 レーニンは、10月クーデターという性質をすり替え、「十月革命」と唱えるとともに、ブルジョア階級という敵の枠を取り外し、敵の概念・対象を恣意的に拡張した。連続クーデター指導者レーニンのレトリックは、巧妙で、()ブルジョア階級対プロレタリア階級、または、ブルジョア階級対ソヴィエト革命勢力という概念を逸脱させた。そして、()ボリシェヴィキ支持者・階層対ボリシェヴィキ路線・政策の不支持者・政党との対決概念にすり替えた。()彼は、その詭弁に基づいて、ボリシェヴィキ不支持者・政党にたいし、「反革命」レッテルを貼り付けた。()秘密政治警察チェーカーの赤色テロルを使ったレーニン路線・政策の誤り・暴力批判・抵抗しただけの国民・政党党員を「反革命」とすり替え、排除・浄化しつくした。

 

 新しい二重権力発生・存在にたいし、ソヴィエト権力簒奪のクーデターを7連続させ、反民主主義の党独裁・党治国家という民主主義以前に逆行させる政治犯罪システムを完成させた。革命クーデターという歴史認識に逆転換したのなら、反革命と呼ばれてきた他ソヴィエト政党の規定はどうなるのか。権力簒奪をされたソヴィエト権力側こそ、ロシア革命勢力となり、レーニンらクーデター勢力こそ反民主主義・反革命となる。

 

 かくして、革命・反革命に関するレーニンのレトリックは破綻する。その性格規定が、レーニン・トロツキーらによる反革命クーデターだったと逆転する。

 

 3、政治的民主主義・複数政党制にたいする反革命の連続クーデター

 

 そもそも、資本主義政治経済体制にたいし、それを暴力で転覆させ、社会主義政治経済体制にするのが社会主義革命とされてきた。しかし、レーニン・ボリシェヴィキが遂行した社会主義経済路線・政策は、ほとんどが根本的な誤りだったことも検証されてきた。()食糧独裁令、()市場経済廃絶と生産手段国有化による社会主義計画経済、()貨幣経済廃絶と現物交換制度への転換などはすべて誤りであり、失敗した。社会主義政治体制も、()他党派殲滅=一党独裁・党治国家となり、()言論出版の自由も剥奪した党独裁下での一元的情報統制管理国家に変質させた。

 

 それらは、世界やヨーロッパの諸国民が勝ち取ってきた政治的自由、政治的民主主義、複数政党制、三権分立にたいする後退・逆行の概念・体制となった。党独裁とは、政治的自由すべてにたいする恒久的な弾圧・剥奪システムである。レーニンが力説したプロレタリア民主主義・ソヴィエト民主主義・プロレタリア独裁理論と実態のレベルは、資本主義的民主主義・自由のレベルを破壊し、後退させ、圧縮する、忌むべき犯罪的理論と実態だったことを、ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」6000点膨大な極秘資料が白日の下にさらけだした。

 

 レーニンがしたことや理論は、政治的民主主義・複数政党制・三権分立にたいする反革命・民主主義撲滅の7連続クーデターだったと規定できる。大藪龍介が規定するように、レーニンは、党内分派禁止反対政党撲滅によって、民主主義消滅させた。

 

    『レーニンによる7連続クーデター説、第1〜10部』

    大藪龍介『党内分派の禁止と反対政党の撲滅、民主主義の消滅』

 

 

 6、左翼がレーニンの反民主主義・反革命理論と実践を支持した背景と逆転換

 

 以下は、世界や日本の左翼・共産党員全体というよりも、私自身の自己批判、自己検証である。私は、熱烈なレーニン信奉者で、『レーニン全集』の基本文献をほとんど読み、『レーニン10巻選集』を3廻り読んだ。『なにをなすべきか』は、専従としての赤旗拡大の指導・成績追求の目的から約10回熟読し、線引き・書き込みをした。ソ連文学をほとんど読み、『戦艦ポチョムキン』に熱狂し、7回観た。

 

 赤旗一面的拡大の誤りに関する私の党中央批判正規会議発言約10回にたいする宮本・不破・上田耕一郎らの報復によって、専従解任・除名になるまで、民青・共産党専従を15年間続けた。以下、リンクを含め、簡潔にのべる。

 

 〔小目次〕

   1、世界史的背景としての共産主義幻想

   2、情報統制・一元的管理による閉鎖的な党治国家構築による錯覚と目覚め

   3、ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

   4、コミンテルン博物館型共産党の日本における唯一残存とその要因

 

 1、世界史的背景としての共産主義幻想

 

 私が日本共産党に入党したのは、1960年安保闘争時期だった。しかし、1956年のフルシチョフによるスターリン批判事件、ハンガリー事件の細部をまるで知らなかった。それらの事件とその衝撃にもかかわらず、日本における共産主義幻想は崩れなかった。マルクス・レーニン主義・理論を信奉する学者党員ジャーナリストが多かった。とくに、歴史学・政治学・経済学(マル経)・社会思想史などでは、その影響力が強かった。

 

 左翼世界全体を見ても、資本主義経済・政治の弊害が顕著になり、一方、社会主義経済・政治の優位性が信じられていた。ファシズムとの闘争と勝利における社会主義国家・共産党が果した役割は大きかったからである。とりわけ、日本におけるマルクス主義信仰は衰えていなかった。資本主義世界で見ても、日本におけるマルクス主義研究レベルとその浸透度は、戦前からの歴史の継続としてきわめて高かった。

 

 2、情報統制・一元的管理による閉鎖的な党治国家構築による錯覚と目覚め

 

 共産主義幻想が続いた理由の一つとして、レーニンによる他党派機関紙・ブルジョア新聞廃絶措置と、それによる一党独裁体制による目的意識的な情報統制・検閲による言論出版の自由抑圧システムの影響がある。レーニンは、クーデター直後に、カデット機関紙発行を禁止し、ブルジョア新聞発行を閉鎖した。その後も、すべての他党派機関紙廃止させた。国内情報源は、ボリシェヴィキとその系列新聞社・出版社しか残らなくした。

 

    大藪龍介『ソヴィエト民主主義の性格−出版の自由剥奪問題』

 

 この情報閉鎖の党治国家は、ソ連国民にたいするとともに、国外への情報流出を遮断した。ソ連崩壊後に発掘・公表されたような極秘資料は、完全に統制・隠蔽された。他党派殲滅データもまるで分からなかった。200万人亡命者がもたらす個々の情報は、断片的で、敗者の歴史とされ、抑圧され、無視された。レーニン・スターリンによる勝者の歴史のみが、正確なソ連史として流布した。他党派が反革命・武装反革命をした結果、一党独裁になったと言われても、それに反論する材料は抹殺され、隠蔽されていた。

 

    TAMO2『ソ連邦共産党史1』 『ソ連邦共産党史2』1917年〜41年 公認党史

 

 ソ連崩壊後に発掘・公表された極秘資料は、レーニン自身が、意図的に言論出版の自由を抑圧・剥奪し、情報の一元的管理国家を追求し、確立した事実も証明した。国内・国外ともレーニン構築の政治犯罪システムによって、共産主義幻想の錯覚に陥り続けた。私は、『レーニン全集』だけでなく、公認のロシア革命史、クループスカヤや『青いノート』を含むレーニン賛美の伝記をむさぼるように読んでいた。それらは、当然ながら、私の共産主義幻想を煽り立てるだけだった。これらの情報閉鎖システムをレーニン自身が熱心に構築したと、ソ連崩壊後の極秘資料により知ったとき、私のレーニン神話信仰・共産主義幻想は完全に色褪せた。熱烈なレーニン信奉者の私は、それへの反動もあって、強烈で執念を持ったレーニン批判者に転化した。

 

 もっとも、民青・共産党専従15年間は、宮本・不破理論の普及とともに、レーニン賛美を民青内や党内において、宣伝しまくっていたから、その期間の犯罪的言動が免責されることはない。私の誤った言動や一面的な赤旗拡大の数字追求指導にたいし、怒りを忘れない離党者や党費納入拒否党員は多い。

 

 3、ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

 

 1978年プラハの春=人間の顔をした社会主義運動が勃発した。それは共産主義幻想をいっとき高めた。しかし、ブレジネフ・ソ連ら5カ国の軍隊・戦車が鎮圧し、チェコ党員50万人除名し、職場解雇をした。チェコ国民50万人がヨーロッパなどに亡命した。この運動の盛り上りと鎮圧事件がヨーロッパに与えた衝撃は、1956年のスターリン批判事件・ハンガリー事件のショックをはるかに上回った。

 

 すでに、1972年、ソルジェニーツィン『収容所群島』のパリにおける出版は、レーニンこそが「下水道の創設者」である事実暴露・証明していた。また、ソ連東欧における政治・経済・文化・人権面での誤り・停滞に関する情報が地続きのヨーロッパに続々と流れ込み始めた。それらにより、共産主義幻想は一挙に色褪せ、資本主義ヨーロッパの共産党への支持率が激減してきた。共産党の生き残り、再建を掛けて、始まったのがユーロコミュニズム運動である。しかし、その運動も、1989年東欧革命と秘密政治警察など極秘資料発掘・公表によって、挫折した。ここで、ヨーロッパにおけるコミンテルン型共産主義運動終焉を迎えた。

 

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』

 

 アジアの前衛党だけが4つ生き残った。中国共産党・ベトナム共産党・朝鮮労働党による犯罪的な一党独裁・党治国家と、非政権の日本共産党である。これらの経過は、別ファイルで検証してある。キューバ共産党を合わせて、5つが残存している。

 

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

 

 私は、この世界史的過程を、1967年から1979年までの12年間()赤旗の一面的拡大の誤りに関する党中央批判の正規会議発言10回()それへの報復としての専従解任と不服意見書など25通提出、()報復反対の党内闘争1年8カ月間()日本共産党との裁判2年間によって、ほぼ共通の同質テーマをたたかっていた。よって、私の日本共産党認識とレーニン認識とは同時進行形で深まっていった。

 

    第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』日本共産党との裁判第1〜8部

 

 4、コミンテルン博物館型共産党の日本における唯一残存とその要因

 

 ヨーロッパの共産党は、レーニン型前衛党の5原則のすべて、または、一部の放棄宣言を党大会で明確にしている。日本共産党だけが、5原則について、訳語変更・略語・隠蔽をし、放棄宣言を一つもしないで、隠蔽・堅持している。その姑息な隠蔽スタイルを、放棄と勘違いしているマスコミや研究者も多い。加藤哲郎が規定するように、日本共産党はコミンテルン型共産党の生きた博物館政党として、世界で唯一残存している。その隠蔽実態と残存理由については、別ファイルで分析した。もっとも、残存する政治犯罪・党治国家の一党独裁政党4つと合わせれば、5つになる。

 

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

 

 私は、自分の体験や自己批判を込め、1997年、60歳から、このHP『共産党問題、社会主義問題を考える』を開設し、運営してきた。私の同時体験の検証とともに、一党独裁という政治犯罪の党治国家・政党がどのような経過をたどって、じり貧的瓦解をしていくのかを追跡している。それらを一切放念して別の生き様を歩む道もあろう。しかし、これは、共産党専従であり、幾多の誤った指導をし、数十人を党費納入拒否=党内離脱党員に追い込んだ者としての義務・使命なのかもしれない。

 

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 〔関連ファイル〕

     『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』レーニン神話と真実1〜6

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

     『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ウソ・詭弁と大量殺人犯罪データ

     『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』新しい二重権力への移行・対立

     『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』21年政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦

       分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性

     『言論出版・思想学問の自由剥奪の反民主主義国家』

       検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成

       レーニンがしたこと=民主主義・自由廃絶の反革命クーデター

     稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」全文、8ファイル

     中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター

     大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱