下北沢ザ・スズナリ 1/1〜1/16
1/8(土)ソワレ観劇。座席 D-11(招待)
作・演出 千葉雅子とある空き地で花札に興じる二人の男、岩間隆(中村まこと)と三島淳史(池田鉄洋)。二人はこの地で住み込みで働いていた塚田葉子という女性を探していた。実は二人は種違いの兄弟であった。幼少の頃に生き別れた(捨てられた)母親を探していたのである。近所の床屋で見つけた写真雑誌の“お宅拝見”コーナーには、玉山てるよ・ゆうじ宅の居間で撮られた写真が掲載されていた。その中に塚田葉子もいた。そんな二人に声を掛けたのが山口(村上航)であった。山口は、玉山てるよ(佐藤真弓)・ゆうじ(菅原永二)の家に住み込みの斡旋をしたのは自分だと言う・・・。
時間はさかのぼり昭和58年。塚田葉子(猫背椿)は、山口の口利きで玉山てるよ・ゆうじの家で働いていた。葉子の周りには様々な人たちが行き来する。家には付き人のキノこと木村正明(市川しんぺー)が住み込んでいたり、玉山てるよ・ゆうじは結婚したり離婚したり、葉子が借金を踏み倒して逃げてきた海老原幸人(いけだしん)は働き先を付き止めてつきまとったり、野球賭博好きな堺秀次(中村まこと)や野球賭博で刑務所暮らしをしていた元トリオ漫談の南条行生(池田鉄洋)が入り浸って懲りずに賭博に興じたり、ゆうじが見つけてきた中浜文夫(辻修)とベテランの玉井たまお(岩本靖輝)をコンビにしようとしたり、文夫の母親・紀代美(千葉雅子)が乗り込んできたり、玉山てるよが連れてきたテレビプロデューサー・和田良三(森田ガンツ)は南条が臭い飯を喰うきっかけになった男だったり、玉山家は波乱万丈。それでも葉子は元気に生きていた。しかし、ある誤解から玉山家から姿を消す事になる・・・。
岩間と三島の捜索もそこで途絶えてしまう。三島はつぶやく「どんな女だったか一度会ってみたいもんだ」と。それは母親に会いたいと思う子供心ではなく、女としての葉子に恋しているかのようであった・・・。いやぁ〜素晴らしく面白かった。さもすれば人情話になりがちな展開を、ちょっとダークサイドにづらすあたり、作・演出の千葉雅子の素晴らしさを実感した。今まで観た猫ホテの作品で一番かも。って猫のホテルを再び観始めたのは最近なんだけど(すみません)。過去に1本観て(フェスでの短編とか、プロデュース公演は観てるんだけど)、その後何年も観ていなかった。その作品を観た時、欠かさず観たいと言う気持ちにならなかったから見逃していたんだけどね。後まわしみたいな。しかし、猫のホテルとちょっと関わる事になり、前作を拝見させて頂いた。そしたら目からウロコが落ちたかのように、その面白さを実感できた次第である。そうなると、も〜虜。千葉雅子にぞっこんなのである。まぁ、役者としての千葉雅子は元々好きだったんだけど、作・演出家としての魅力を遅ればせながら発見したというか、そんな感じなのである。遅咲きの恋って事ですかね。ほんと惚れ惚れです。時代背景も好きだし、密度の濃い芝居であった。今回の作品はマジでストライクゾーンど真ん中。
で、その密度を濃くしている要因の一つが、多彩なキャラクターを確かな演技力で魅了する役者達である。これだけ魅力ある役者が揃っている劇団って他に思い当たらない。凄いですわ。加えて、今回はゲストが良い。自分の魅力を全面に出した辻修の気持ち悪さ(好きです)もいいが、幸の薄い女を静かな演技で見せた猫背椿にちょっと驚き。本当に良かった〜。ウーマン・リブ『ずぶぬれの女』で見せた演技が一番だと思っていたが、今回の方が好き。幸の薄さがこれ程までに似合うとは。新しい発見であった。
“猫のホテル”自分が観た公演ベスト
1.土色の恋情 2.しぶき 3.苦労人
作・演出 三谷幸喜舞台は、とあるベテラン女優の楽屋。そこで、半生を出版したいという男性からの取材を受ける。「別に面白い人生ではない」と言いながらも、芸と男に振り回された山あり谷ありの人生を語り始める・・・。演芸好きの父親の影響で7歳から舞台に立ち、少女座長として地方巡業。22歳で吉本興業に呼ばれ、特別扱いされた事により、芸人達の反目呼び、孤立。それをかばってくれた17歳年上の師匠(売れっ子の噺家。主人公の最初の夫。モデルは三遊亭柳枝)と恋に堕ち、そして略奪婚。しかし、師匠の女道楽に耐え切れず家を出る。その時、連れて出たのが、師匠の弟子のぼくちゃん(後に二番目の夫となる。モデルは南都雄二)。しかし、数年後離婚。そして、ぼくちゃんの死去・・・。関西の名喜劇女優(自分としては女優としてより『夫婦善哉』の司会としての印象の方が強い)ミヤコ蝶々の半生を題材にした一人芝居。
ただ、登場人物は“ある女優”という事になっており、ミヤコ蝶々の人生をそっくりそのままなぞる芝居ではない。ミヤコ蝶々はあくまでもモデル。劇中にもミヤコ蝶々の名前は出てこない。しかし、ミ ヤコ蝶々をよく知らない自分にとっては、どうでもいい事。芝居さえ面白ければよい。
作・演出の三谷幸喜、出演の戸田恵子ともに一人芝居は初めて。NHKの大河ドラマ『新選組!』の脚本脱稿後の第一作として「やったことのないものを作りたかった」(どこぞの記事で読んだ)と、そんな意気込みで作った芝居である。変化に富んだ小道具(意外な形で使用)や、目に見えない人物をライトや音で特徴を表現する演出、相手の言葉を繰り返すようにして会話を成立させる不自然さを排除した脚本と、様々な工夫を凝らした三谷幸喜には、ほぉ〜と心底感心して止まない。しかし、感心はするが「満足した」と絶賛できるまでには到達していなかった。三谷幸喜の得意とするものは、人と人の繋がりの中から生まれる“笑い”であり、会話のやりとりの中で生まれる“笑い”なのである。簡単に言ってしまうと、“三谷幸喜の笑い=シチュエーション・コメディーの笑い”と言い切ってもいいと思う。その笑いを一人芝居でも維持できるのか?と期待と不安が渦巻いていた。確かに会話劇として作り上げてはいたと思う。しかし、最後まで“一人芝居”という重い足枷を外せはしなかった。所々で爆発するような笑いも起きるが、連続した笑い(笑いが笑いを引き出すような連鎖した笑い)が起きない(起こせない)ところに物足りなさを感じてしまった。残念ながら。
ネタを明かしてしまうと(観てない人で知りたくない人は読み飛ばしてください)、インタビューでさえ予行練習をしないと人前で語る事などできない女優が、そのインタビューに備えて行っている“一人芝居”なのである。そんな、一人芝居が不自然ではない状況を作り出した、三谷幸喜の着眼点には脱帽である。さすがは、シチュエーションを大事にする三谷幸喜である。“king of situation comedy dramatist”(意味が通るのかは自信なし)の称号を勝手に授けたい。
と誉めておいてなんだが、三谷幸喜の芝居としては物足りなさを感じた。たまたま大阪梅田の古本屋で見つけた1冊の本『おもろうて、やがて哀し(ミヤコ蝶々が自分の半生を語った本)』を読み、あまりにドラマチックで、あまりにも切ない人生に、「これだ」と確信したそうだが、芝居も終盤までは、ある女優の半生をなぞるだけで心は見えない。芸に対する執着心や業の深さも伝わって来ない。なので、途中若干退屈感も覚える。そこが三谷幸喜が語るところの「一人芝居は、集中力が持続しない」なのであろう。そこをどうにか引き戻すのが、戸田恵子の演技力。なので、戸田恵子の芝居としては大いに 拍手を贈りたい。歌も素晴らしかったし。女優・戸田恵子を見直してしまった。マジで。今回は二人三脚というよりは、戸田恵子あっての芝居という感じがして止まない。
孤独を恐れるあまり、誰にも心を委ねずに重ねてきた歳月。ラストで自分の弱さを曝け出す。そのシーンは、ミヤコ蝶々が乗り移ったかと思ったくらいに、素晴らしい演技であった。サングラスをかけた途端、別人に見えた。マジにミヤコ蝶々が降りて来てたりして、って恐山のイタコじゃあるまいし。でも、本当に一挙一動がミヤコ蝶々に見え、感動を伴った悲しい気持ちになった。ウルウルはしなかったけど。でも、自分に正直に生きる決意を示すあたりはちょっと感動。加えて、方言指導に生瀬勝久を起用したり、効果音でも存在感を発揮したマリンバの小竹満里とパーカッションの山下由紀子の生演奏とか、舞台周辺もとても良かった。特に小竹満里には驚いた。4本のマレットを器用に使う技術には目を疑うほど。おっと芝居から外れてしまったぃ。いろいろ総合して見ると、値段相応の面白い舞台だったと思う。
作・演出 山中隆次郎舞台はアメリカ。“わるくち草原”と呼ばれる日系人収容所。そこには“見はり塔”が立っており、その中に女性が捕われていた。“わるくち草原”の男達は、“見はり塔”からの配給を頼りに、墓探しと虫取りの日々を送っていた。“わるくち草原”の男達には力関係が存在しており、ニラザキ(佐々木光弘)の命令には絶対服従であった。ナカムラ(夏目慎也)は、クロキ(芦原健介)のイジメに耐えつつ、配給を待ち続けた。しかし一向に配給は来ない。革命を起こそうとバンザイ組を結成したノミヤマ(山中隆次郎)は、反アメリカを訴える。
しかし、それらの行動は月一回“見はり塔”からの指示でヒラタ(日下部そう)が配るカードにより、役割が決められたものであった・・・。
2007年4月、新たなカードが配られた。【オタク】のカードが配られた者は最下層となり、最低の一ヶ月を送らなければならない。カードを持っているのは、ニラザキではないかと噂が流れる。そんな中、ヒラタはクロキに【オタク】のカードを持ってくれば、ここから逃げる事ができる、と耳打ちする。しかし、それには両腕と生殖器を犠牲にしなければならないと告げる。それでもクロキは逃げる事を選ぶのであった・・・。面白かったが、もどかしさを感じてしまった。それは、目に見えるモノを追って行ったら、実体がなかったみたいな感覚なのである。例えが悪いかもしれないが、そのモノ=物語なのである。ただし、実体がなかった訳ではない。ドーンと伝わる物(恐怖)が後一歩のところで掴めないみたいな、そんな後味の悪さを感じてしまった。徐々に解ってくる展開には面白さを感じるが、物語の全体像を理解できるヒントを何か一つ、ラストに与えてくれたなら一気に恐怖に包まれたに違いないのに、と思うのに、その一歩手前で語る事を止めてしまう。そんな、やり切れないモノが終演後すぐに襲ってくる。前作では“多くを語らない恐怖”を絶賛したが、今回は語らな過ぎて難解であった。微妙な匙加減で個人差があると思うが、自分的には「もう少し優しく教えて」って感じ。しかし、後々物語が未消化のまま心に残ってしまうのも、精神的な打撃であり恐怖でもある。一般的なのか個人的なのか判らないが、物語を納得しようと、どうにか物語を組み立て、理解しようと試行錯誤してみた。しかし、どんどん闇の中に入 るだけで理解できない。それは別の意味で“恐怖”であり、精神的な“暴行”と言ってもいいかもしれない。他の客は理解できたのか?自分だけが判らないのか?そんな孤独感と焦り、周囲への疑いの視線・・・。作品的には“疑心暗鬼”に陥るのは狙い通りなのかもしれない。まんまとしてやられた?
終演後、作・演出の山中隆次郎と話す機会があったので、根掘り葉掘り聞いてみた。でも聞いたにも関わらず、作者の意図の半分も理解できてないと思う。聞いておいてごめんなさい。は、は、は。モチーフは映画『エイリアン』だとの事。(余談だが、『エイリアン』の性的な捕らえ方が似ていたのには嬉しかった。あの映画ほど性的な侵略を描いたものはないと思うんだよねぇ〜。)
具体的には語っていないが、地球は異星人(らしいモノ)である“蠅に似た虫”の侵略を受けている(どっちが幸せかは寄生された虫を例えに語っている)。作品ではその侵略に“アメリカ”も含ませているのだが、その辺りが自分的には混乱の原因にもなっている。作品から伝わるのはあくまでも“含み”であって、異星人=アメリカ人の図式にはなっていない。“塔”に疑いを持った人間には“穴”が開く(これは“塔”につながっているらしい)。その“穴”の中には女性がいて、その女性と交わると、体の内に“蠅に似た虫”を寄生させられてしまう。イノウエは、穴の中で性行為を行ってから、英語での会話が日本語に変わる。アメリカの支配を解いた事になるが、新たなものに支配されるので、異星人≠アメリカ人となる。塔=女性に疑いを持たなければ女性化が進むだけで、支配される事なく生き続けるのか?あっ、“女性化”ってのは、「女性の好きなものが配給されるんですよ」と語られた記憶はあるのでそこから判断。でも、その意図は読めなかった。男性が化粧したりする現代を映し出しているのか。っていろいろ書いてみたが、わからん。結果としては、どんな事をしても男性は、異星人≒女性≒アメリカの支配(侵略)からは逃げられないって事?本当は、異星人に捕われている(だろう)女性への想いが物語の核となっているのだろうが、そこがどうも伝わって来なかった。仮に納得する物語をでっちあげてしまえば、すでに“アメリカ”は異星人の支配下にあった。次のターゲットは“日本”。異星人の基地である“見はり塔”に捕われた女性は侵略の道具となってしまったが(直接男性を侵略する事はできないのであろう)、男が侵略されないように“日本式”の力関係をカードに託す。しかし、“見はり塔”を疑い“穴”の中で他の女性と性行為を行った者は、異星人の侵略を受けてしまう。・・・両腕と生殖器を犠牲にしてでも“わるくち草原”から逃げ、自由を獲得したクロキの見たアメリカは、“蠅に似た虫”で充満していた・・・。それを見たクロキの口からも蠅が飛び出した・・・。なんてのはどう?それじゃ物語が見え過ぎて嫌だろうなぁ。
もったいなかったのは、空間の力が借りられなかった事。オープニングでスティーブン・キングの話をしながら凧あげをしているが、凧が上がっていない為に“塔”へのメッセージを上げているという事が最後まで(私なんか言われて初めて気が付いたくらい)わからない。それとモニターのタイミングが悪い。場所を知らせているものが多く重要性は少ないのだろうが、芝居が始まっているのでそっちに視線を移していたら、いつの間にかモニターに何か文字が映っていたって感じで半分も読み取れていない。これは失敗だったと思う。
まぁいろいろあるが、次回は三鷹なので、スペースを生かした新たな恐怖を味合わせてくれるだろうと、期待してやまない。
“スロウライダー”自分が観た公演ベスト
1.ホームラン 2.わるくち草原の見はり塔 3.アダム・スキー
原作 原田宗典 「劇場の神様」/林不忘 「丹下左膳−こけ猿の巻−」
脚本・演出 大谷亮介中学生の時から盗み癖が治らず母親を泣かせ続けてきた須賀一郎(岡本健一)は、18歳になり、叔父の知人の芸能プロダクションを頼って上京した。しかし、その“イワコシ芸能プロダクション”はエキストラ事務所に毛が生えた程度のニセ芸能事務所。そこで一郎は、素人なのに演劇講師を押し付けられる。しかし、講師を演じている内に、盗み以上の興奮を覚え、芝居の世界に浸って行く・・・。
そして今は、商業演劇の座長公演『丹下左膳−百万両の壷−』に端役で出演していた。一郎は、今の生活を失わないように、毎日劇場入りの時には、神棚に拍手を打ち「どうか盗みをしませんように」と祈っていた。最初は皆に好印象を与えるために祈っていたのだが、毎日祈らないことには落ち着いて舞台に上がれないようになっていた。
そんな公演の中日。楽屋で舞台から戻った役者達が「今日の芝居はいつもと違う」と語り合っている。そんな大事な時に、一人の役者の鏡台に置いてあった当り馬券がなくなっているという事件が起こる。楽屋は、自称“部屋頭”の城之内オサム(尾藤イサオ)や最年長役者の角南源八(笠原章)といった大先輩の役者達も同室の大部屋だった。これをきっかけに、城之内は日頃そりの合わない角南に盗癖があるという噂を流す。一方、女性楽屋では、矢吹京子(町田マリー)が座長の愛人だとか、ちょっと人間関係が騒がしい。
舞台では『丹下左膳』がいつにないテンポで進み、楽屋では皆口々に「今日は初日が出そうだ」「今日は神様が来てる」と言っている。そんな最中、芝居に出会い盗みを二年間封印していた一郎だったが、城之内の日頃の身勝手な振舞いに怒りを覚え、座長(近藤正臣)から貰ったと自慢しているローレックスを盗んでやろうと思い立つ。そして、禁を破り“盗み”を実行に移すのであった・・・。商業演劇など日頃観ない自分にとって、この手の芝居は、「面白い」と「つまらない」の中間の微妙な線上に位置する。ちょっと古臭いのに新鮮な衝撃を受ける面白さと、いかにも芝居芝居している、こそばゆさと言うか恥ずかしさ(=つまらないんだけど)が同居したような、妙な気持ちで支配されるのである。どこがというのを具体的に示せば、物語のストレートプレイ的な部分は、正直言ってつまらない。反対に、座長の粋なキャラクター作りや最後の歌って踊ってのカーテンコールなどのエンターテインメント的な部分は、非常に面白いのである。掛け声がかかりそうな座長芝居のちょっとアングラっぽさも大好きなのである。さして重要な役ではないのに、三味線弾きで玉川スミを起用するのも、自分にとっては可笑さのツボでもある。まぁ人とは違った感覚なので、芝居の意図に反している点は聞き流してもらいたいんだけど・・・。
舞台のバックステージ的な芝居であるが、芝居をやってない自分には、「初日が出る」「神様が来てる」という事が、どうもピンと来ない。芝居が波に乗り、何もかも上手くいき、客席と一体となる、最高の舞台を指して「初日が出る」「神様が来てる」と言うのだそうだが、それがどんなに素晴らしい事なのか、どうもそのあたりが伝わってこない。その劇場の神様と一郎が盗んだ物を城之内に知らぬ間に返した(誰が返したかは芝居の重要な部分なので内緒)人物をかけているのだろうが、感動を覚えるまでには届いていない。それは人間を描ききれていないのが原因だと思う。主人公である須賀一郎でさえ、芝居から人となりが伝わって来ない(どんな経歴とかは示しているけどね)。まぁあれだけ凄いメンバーを集めりゃ、誰か一人だけにスポットを当てるのは無理だろうけど。
まぁそもそも、観劇の目当ては毛皮族の町田マリーなので、その点に関して言えば、いい役をもらっていて充分に満足できた舞台であった。でも、一番感動したのが、近藤正臣が演じる丹下左膳のかっこいい事。殺陣もうまくて、ちょっと見直してしまった。どうも『柔道一直線』の下手なイメージがいつまでもこびり付いてしまっていて・・・でも、今回でちょっと拭われた感じ。
作・演出 野田秀樹物語は、少女・芙蓉(深津絵里)が愛用する鏡台を境に「こちら岸」と「向う岸」の二つの世界で展開される。「こちら岸」では、久留米生まれの下着泥棒、スルメ(中村勘太郎)が、物干し台で下着を盗もうとして出会った芙蓉に恋をし、下着を盗むことで芙蓉への一途な思いを繋いでいた。しかし、芙蓉は『青春歌集』に書かれたメルスに恋をしており、彼が現れるのを待ち続けていた。一方「向う岸」では、結婚披露宴のゲストに呼ばれた人気アイドルのメルス・ノメルク(河原雅彦)が、花嫁の零子(小西真奈美)と共に失踪するという事件が起きていた。世間ではメルスが花嫁を誘拐したと報道されているが、実は逆であった。そんな事は知らない「七人の刑事」(古田新太、小松和重、浅野和之、松村武、腹筋善之介、六角慎司、櫻井章喜)は、捜索を開始する。鏡のこちら側とむこう側。芙蓉の鏡で二つの世界に隔てられた住人たちは、いつしか対岸(鏡面)を目指して突き進む。そして、世界が接近していく・・・。そんな中、スルメは、芙蓉がつぶやいた「砂糖を燃やす」を「里を燃やす」と聞き違え、火を放ってしまうのであった・・・。
観るまでは、“何故今さら最後の上演から18年の時を経た夢の遊眠社時代の作品を上演するのか”“新しいものを求めてNODA・MAPを立ち上げたのではないか”“アイデアが枯れ果てたのか”などマイナスな感情しか沸かなかった。ただ、野田作品のなかで最も上演回数が多い作品(初演は76年10月だが、すぐ翌月改訂版として再演。以来、78年、81年、83年、86年と、これまでに6回上演されている)なのに、私は過去一度も観た事がなかった。ならばこの機会を逃してはなるまい、との思いで観劇に走った次第である。
で、観終わって感じたのは、素直に“おもしろい”。全編を貫くスピード感、めくるめく言葉遊び、そして、舞台を大きく包む叙情感・・・・と、野田戯曲の素晴らしさがギュッと詰め込まれていた。“ここがおもしろいんだよ〜”的な具体的な理由は挙げられないのだが、おもしろいのである。まぁ、おもしろいに理由もへったくれもないんだけどさ。鏡の表裏にあたる“現実と虚構”の関係性が持つ意味合いだとか、舞台美術のオープニングとエンディングに現われる電気的な廃虚の意味するものだとか、廃虚を対岸から眺める向う岸の人々だとか、きっと深い意味を持つのだろうが、そのあたりの解釈は専門家に任せるとしよう。と言っても、決して投げヤリなのではない。無理に理解しようとしなくても、別の次元で感動を覚えてしまったからに他ならない。
それは、最近の作品では感じられなくなってしまった『言葉』の素晴らしさを久々に堪能できたからなのである。「野田秀樹の書くセリフには言霊が宿っている」と思わざるを得ないくらい感動を覚えたのである。そこに「理解できないが面白い」という感情が生まれてくる理由が潜んでいるのかもしれない。聞いているだけで陶酔できるのは、頭で言葉の意味を考えるのではなく、言葉の発するリズムや吐息を体全体で感じるからに違いない。うまく表現できないが、生きている『言葉』がそこには存在していた。そして、言霊使いの野田秀樹がそこにはいた。そして、ふっと思い立ってしまったのだが、最近の野田作品に面白さを感じなくなってしまったのは、『言葉』を何らかの比喩として使ってしまい、心に伝えるべき言葉を頭に伝えてしまっているからではないだろうかと。
今回の再演で、年齢を重ねた野田秀樹は、過去の若々しい野田秀樹の作品をどう感じたのだろうか?とても聞きたい。そして、その感情が次回作をどう変化させるのか、とても楽しみである。
ちょっと感想からは離れてしまうが、ちょっとおつきあいを。思い起こすと野田秀樹とは妙な縁があるのである。「野田秀樹って奴は、すごいらしい」という評判を、池袋の三省堂書店でアルバイトをしていた時に、担当の上司から聞いたのが、初めての出会いである。当時(自分が大学2年か3年くらいの時だったと思う)は、芝居に全然興味はなかったが、とりあえず出版されているシナリオを読んでみた。しかし、内容はチンプンカンプン。どこが面白いのか一切理解できなかった記憶がある。その上、何を読んだかすら覚えていない程に自分の実になっていなかった・・・。
その後、社会人になりお金に余裕ができ、劇団四季の『キャッツ』を観たのが、芝居との出会いであるが、“面白さ”との出逢いは、その次ぎに観た、夢の遊眠社『小指の思い出』(1986年9月:本多劇場)だったのである。いや待て、深夜テレビで見た『石舞台星七変化(ストーンヘンジ)3部作一挙上演 』(1986年6月: 国立代々木競技場第一体育館)の映像が先だったかもしれない。ちょっと記憶があやふや。それはともかく、たまたまチケットの発売日に、チケットぴあの店頭で映画のチケットを買っていて、「あ〜野田秀樹の劇団だ。観てみようかなぁ」とたまたま列に並び、チケットを購入したという、運命的な出会いなのである。そして観劇後は芝居の魅力に取り憑かれ、今の観劇人生が始まったと言っても過言ではない。「歯から皮膚へ(はひふへ)」というセリフが、いつまでも脳裏に貼り付いていて離れない。あの時、夢の遊眠社に出逢わなければ今の自分はなかったかもしれない。と長々と思い出話まで書いてしまったが、今回の『走れメルス』で、野田戯曲に初めて出会った人は、この芝居をどう感じたのだろうか。私が味わったように、この作品から芝居の魅力を感じることができただろうか?何とか演劇賞に輝くメッセージ性の強い作品も嫌いではないが、人を引きつける魅力のある作品、「楽しかった〜」と感動できる作品をどんどん上演して欲しいと願う。
“野田地図(NODA・MAP)”自分が観た公演ベスト
1.キル(初演) 2.走れメルス−少女の唇からはダイナマイト! 3.パンドラの鐘 4.農業少女 5.Right Eye 6.半神 7.2001人芝居 8.カノン 9.ローリング・ストーン 10.贋作 罪と罰 11.オイル 12.TABOO
作・演出 喜安浩平“Winter tiger is dead”の文字が映し出され物語は始まる。
関頭一円に十数年ぶりに寒波が訪れた、とある冬の朝。「とら」と呼ばれた男の葬儀が行われている。「とら」は、川沿いの土手でトランクス一丁で凍死していた。チラシによると「とら」は、1974年、寅年生まれの30歳、本名は「大河俊彦」というらしい。都心の小さな玩具メーカーに勤務し、トラブル処理係に配属されていた。大の阪神タイガースファンである。そしてめっきり酒に弱く、ひどく酔っては記憶をなくす大虎野郎でもあったらしい。そんな「とら」の葬儀の日。偶然にも同じ場所で、いなせ研究会の“その場神輿”の練習が行われていた。場所を譲り合えない両者は、言い争いの後、力ずくの抗争へと加速してしまう。
喪主で姉の大河アキナ(吉田真紀)と弟の大河イッペイ(猪爪尚紀)は、虎の変わりに急遽トラブル係に配属された白銀ツトム(篠原トオル)の家にかくまってもらう事に。ツトムは彼女である香山クツミ(山口かほり)と2年同棲していたが、クツミの「結婚しろ」という眼差しが日々強くなっているのを感じていた・・・。
クレームの常連客である島田チヨノ(立本恭子)と「とら」が肉体関係を持っていたとの噂を聞いたり、永島サユリ(永井正子)との関係は曜日指定だったりと「とら」の素性が段々と発覚していく・・・。
阪神タイガースの金本選手(中西広和)と赤星選手(小島聰)のキャンプが、この地で行われていた。練習の邪魔をされるのが何より嫌いな金本は、葬儀の一行といなせ研究会のトラブルに遭遇しては、誰かれ構わず殴り倒していた。
酔いの勢いで白銀ツトムが入ったクラブ。そこでは秘密のイベント(非合法の賭けボクシング)が行われていた。そして若干酔いが覚めた白銀ツトムが目にしたのは、トランクス一丁でリングに上がっていた自分の姿であった。そして相手は、無気味な笑みを浮かべた金本であった。その時、白銀ツトムは「とら」の死因を理解できたのであった・・・。センターに張出しのステージ(ストリップ小屋みたいな)。そのかぶりつき席より若干離れた辺りでの観劇。おかげで、男のふんどし姿には「ちょっと近すぎ」感を覚える。まぁそれはともかく、上記のような内容だったと思う。で、この内容で上演時間が2時間超・・・長過ぎ。その上に、不条理を突き通す事ができず(あえてそうしてないのか?)、物語が迷走しているだけで、結局何?って感じで終わってしまったのである。当日パンフにも「無駄さ加減にこそ面白みがある」と明言しているので、これがブルドッキングヘッドロックのスタンスなのだろうと思う。でも、残念ながら、その“無駄の面白さ”は、伝わってこなかった。オープニングのいなせ研究会には“不条理の面白さ”プラス“無駄の面白さ”を感じたが、あとは単に物語が散漫になっただけで、何がしたい芝居なのか不明のまま彷徨い、どこにも辿り着けなく遭難・・・って感じが強い。出演者が多いのも(全部で21名)不要な“無駄”。そこまで出演者を増やさなくても成立する内容だったと思う。極端な事を言ってしまえば、クレームの常連客である島田チヨノのエピソードなどは、すっかりカットしても良かった位である。
今回は、野乃塚を演じた野原千鶴目当てだったが、ブスな役柄の上、物語には全然重要じゃない。残念でならない。良かったのは、金本選手(中西広和)と赤星選手(小島聰)の掛け合い。阪神の二人をおちょくっているのだが、これが面白いったらありゃしない。本人や阪神ファンが観たら憤慨するのは間違いないって位にめちゃくちゃな扱い。そんな反骨精神旺盛な描き方は面白かった。で、中でも中西広和がむちゃくちゃ良い。初め「観た覚えあるけど誰だぁ?」って感じで観ていたのだが、不敵な笑みを浮かべた時、突然脳裏に蘇る。猫☆魂で見せた笑顔とは異なる笑顔だったが、どちらも凄い。中西広和の笑顔はマジ武器だわ。恐るべし。