2001年2月はこの7公演

 


オリガト・プラスティコ「カフカズ・ディック」

本多劇場 1/26〜2/4
2/3(土)ソワレ観劇。座席 E-8

作・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ

 1920年代半ば、ウィーン郊外にあるサナトリウムの一室で一人の男が、結核の為死亡した。彼の名前はフランツ・カフカ(小須田康人)。保険局に勤務をしながら書き上げた「変身(朝目覚めると毒虫に変身していた男の悲劇を綴ったもの)」をはじめ、カフカの著書は出版されても一向に売れず、生前彼を作家と見なした人間はごく少数であった。数少ない理解者の一人であり、編集者でもあるカフカの親友、マックス・ブロート(山崎一)は、生前カフカの作品を世に出そうと努力を重ねた。しかし、ブロートの努力の甲斐もなく、世間に認められないままカフカは死亡してしまう。カフカは、その遺言で、自分が書き綴った物語は全て焼き捨てて欲しいとブロートに託した。ところが、ブロートが彼の部屋を訪ねると、あるはずの原稿が消えている。その原稿を探すうちに夢とも幻ともつかぬ不思議なカフカ的世界へと迷い込んでしまう・・・。

 フランツ・カフカの周辺の人間を描く事によってカフカの人間像を浮かび上がらせた(パンフにはでっちあげたと書かれているが)そんな作品。私は、カフカの作品をおぼろげに読んだ記憶しかなかったが、そんな知識がなくても楽しめた。いや、楽しめたって言うほどおもしろい作品ではなかったが、難解な作品ではなく、その時代の雰囲気とカフカを中心とした不条理な世界がいい感じで混ぜこぜにされ、構築されていた。全体的には暗いイメージが漂い、なんと言うか観ている自分も夢幻の世界に身を置いてしまった感じが残る。決して眠くなったという感覚ではないし、退屈だったと言う訳ではない。しかし、芝居に集中できなかったのか、忘れかけていたカフカ的記憶が頭をよぎってしまった。芝居とは離れて個人的な話になってしまうのだが、芝居を観ている自分の“生きている実感”が希薄になってしまったのである。昔々の話なのだが、自分が中学生の頃、自分宛に棺桶が届いた事がある。事の真相は同姓同名の人の棺桶だったのだが、その後近所で葬式があった記憶がない。ちょっと怖い話だが、自分は本当はその時死んでいて、それ以降は記憶の中というか、現実世界ではほんの一瞬の死の時間を自分は長い一生として過ごしているんじゃないかと・・・そんなカフカ的世界。この作品が、自分の忘れていた記憶を蘇らせる引きガネになったという事は、カフカ的世界を構築したケラの演出力の賜物って事でしょうか。

 カフカというジミ〜な題材を退屈せず観れたのは、役者の功績が大きい。カフカ役の小須田康人の繊細な演技は、さすが“ロボット”と噂されるだけあって安心して見入っていられる。いや安心して観る事が出来てこそプロなのだが、小須田の場合それ以上の安心感と言うかカフカ役に成りきった、いやまさにカフカ自身を観ているような安心感を覚える。ブロート役の山崎一も素晴しかった。迷宮に迷い込んでからのブロートのげっそりした雰囲気は何キロか痩せたんじゃないかと思えるほどの豹変であった。それを演技力で魅せる山崎の力量にも感心した。そして、脇役的存在なれどストーリーテーラーの役割を果たした、記憶に混乱をきたす執事を演じた廣川三憲の素晴しさも特筆しておきたい。あと松永玲子のうまさも。この辺りの人材の適用はさすが。あっ、でも三上市朗の使い方は勿体なかったかなっ。

 セリフで妙に頭にこびりついているのが、田山涼成がカフカの事を“フカフカ”って呼ぶところ。別段たいした事じゃないんだけど、田山涼成のセリフ回しとこの語感が妙におかしい。こんな些細な点だが、笑いに繋がる事によってカフカの人物像に膨らみが出てたとも思う。ってカフカはそんな人物じゃないって。でも、カフカって神経質で嫌な人物だったに違いないと思うので、このフカフカって言葉で幾分和らいだかなって。

 しかし“何故カフカ?”って思いもある。今回ユニットを組んだ広岡由里子がカフカに興味があったわけでもなさそうだし・・・。そもそも今回の芝居で新たにユニットを組んだ意味合いもよくわからない。単にケラプロデュースであり、サイドセッションと変わりはないのではないかとも思う。まぁ毛色は違うけど。あと“ディック”って何?内容的には人生とかそんな感じなんだけど、そんなストレートじゃない意味あいがありそう。

演劇の部屋に戻る


KOKAMI@network「恋愛戯曲」

紀伊國屋ホール 1/30〜2/25
2/10(土)観劇。座席 Nー6

作・演出 鴻上尚史

 舞台は人里離れた山荘。「恋愛ドラマの女王」とまで呼ばれている有名な台本作家・谷山真由美(永作博美)は、とあるTV局の開局30周年記念ドラマの台本を依頼されていた。しかし、放映日が迫っても一向に台本が書けないスランプに落ち入っていた。そんなある日、谷山はTV局のプロデューサー、向井正也(筒井道隆)を呼びつける。そして、向井に向かって「本当の恋愛ドラマを書くために、私と理不尽で唐突な恋に落ちて」と言い放つ。作家の山荘に押し入った郵便局強盗(高山広、旗島伸子)は、事情を聞き、自分達の事を台本に書き歴史に残せと迫る。彼等を見守る執事らしき男テラダ(大森博)も交え、奇妙な執筆活動が開始される。果たして台本は書き上がるのか、谷山と向井の恋の行方は・・・。

 そんなストーリーだてだが、こんな内容の脚本を書いている主婦(永作博美)と編集者(筒井道隆)いうストーリーと、全ては谷山が脚本を書く為に仕組んだ芝居だったという、現実と虚構の3重構造になっている。正直言ってこの構成・演出自体が古臭い。去年の『ララバイまたは百年の子守唄』でも劇中劇として『ハッシャ・バイ』を演じていて、その構成に不満を覚えたが、今回も同様。どれが現実なのか脚本の世界なのかわからなくてイライラ感がつのる。感情移入しそうな時に別の世界になってしまう。初めは“あっ、なるほど”と構図の面白さを感じなくはなかったが、それがコロコロと変化する事によって面白さより不快感が増大してしまった。『トランス』ではこの構図がうまく出来上がっていたが、今回は駄目。ストレートに進行していき最後のどんでん返しで現実を見せても良かったのではないか、とさえ思える。まぁそれでもありきたりだけど。その不安定な世界感が演出の意図に含まれるのだろうが、自分の感覚に合わない。巷の噂でも“つまらない”というのが大半を占めていたので、今の感覚に合わなくなっているのではないか。正直言って、80年代の演劇を引きずったままで進歩が見えないって気がした。そして、きつい言葉になってしまうが、この構成自体が鴻上尚史の逃げに思えて残念でならない。小細工しないで物語で感動を与えられた鴻上尚史はどこへ行ってしまったのだろうか・・・。

 構成に於いてもダメだったのだが、一番肝心な、この芝居が何を言いたかったのかが全然伝わってこなかった。疑似恋愛というか強制恋愛の中から真の愛が生まれるみたいなラストであったが、それって自分勝手ではないか。谷山には旦那がいて、向井には婚約者がいる上に結婚式が迫っている。男と女の間には計算では出せないものが潜んでいるってのはわかるが、鴻上尚史の恋愛観には、何か“歪み”を感じてしまう。ホームページに書かれた鴻上尚史の言葉には、「(今回の設定については)ある意味不自然な中で強引に恋に落ちるんだけど、恋愛において不自然なことはないわけで、良く考えたらお見合とか合コンなんてもともと不自然だし、王様ゲームなんて滅茶苦茶不自然だし(笑)。逆にこういう状況にすることによって、恋愛って一体何?っていうのがあぶり出るんじゃないのかなって思ったわけです。」とあるが、この恋愛観には疑問が残ってしまう。こんな、鴻上的恋愛論に共感を覚える人が何処かにいるのだろうか?そして、この恋愛劇をウェルメイド・プレイと呼んでしまう感覚も自分には理解できない・・・。何処がウェルメイド??

 あと全てにおいて緊張感・現実感が伝わってこなかった。郵便局強盗も強盗らしくない。オリバー・ストーン監督作品の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を意識したような犯人像には呆れ果てて、観ている方が恥ずかしくなる。まるでタイムスリップしてきたような衣装・言動・行動を見せる犯罪者。こんな犯人が21世紀の日本にいると思っているのだろうか?。いくら人里離れた山荘が舞台だからってねぇ〜。架空の時代・空間じゃないんだからもう少し現実を見据えて欲しい。シナリオが完成せず、放映が間に合わないって緊張感も伝わってこなかった。虚構の世界だからってのもあるだろうが、お客をもっと引き込まないと全然面白くない。役者の演出にも問題がある。筒井道隆は筒井道隆であって、それ以上の良さも悪さも出ていない。ファンキーな高山広・旗島伸子も良くない。高山広に関しては、せっかく一人芝居で築いたものを台なししてしまったとさえ思えた。かろうじて永作博美のちょっと尋常を逸した行動にともなう表情が良かったのが救い。大森博にしても実直さは出ているものの旦那としての哀愁が薄い。魅力的な俳優が集まったのにこれでは・・・役者に問題があるのではなく演出が悪過ぎである。

 “金の卵から生まれたのは、井の中の蛙であった”というのが観劇中に浮かんでしまった言葉。某所では、“鴻上尚史は、耐用年数も賞味期限もすべて切れてる”とまで言われてしまっている。しかし、そういう批判をマジに受け止めて欲しい。本当につまらないのである。批判されるのを快く思わないのはわかる。しかし、そこから反省材料を見つけだし、悪く批判した人間を見返す作品を世に出して欲しい、と切に願う。『トランス』を最後に鴻上尚史の作品にはがっかりさせられっぱなしである。このままでは客に見放されてしまうぞ。


“KOKAMI@network”自分が観た公演ベスト
1.プロパガンダ・デイドリーム
2.恋愛戯曲
3.ものがたり降る夜

演劇の部屋に戻る


NODA・MAP「2001人芝居」

スパイラルホール 2/3〜2/28
2/14(水)観劇。座席 88番(5列目中央あたり)

作・演出 野田秀樹

 舞台は、背面にモニターを設置した緊密な小空間。中央に変幻自在のソファアらしき物体が置かれている。暗がりから一人の男が登場し、そのモニターを見入っている。モニターにはコンガの力士と力士を取材する男の映像が流れている(共に野田秀樹が演じている)。そして、そのモニターに映し出されたコンガ力士になりきる男・・・。という感じで幕があがる。その時初めて、舞台でモニターを観ている男が野田秀樹であると気が付く。それほど今回の野田秀樹は容姿から別人になっていた。顔は髭ヅラ。髪はかつらでいつもの猫っ毛ではない。別人の仮面をつけての野田秀樹登場である。コンガ力士は天然パーマという自分の髪質にコンプレックスを持っており「パーマをかけているのか?」と問われた事が気に掛かり力士を辞める。そして職を転々と変えて行く。それを力士になりきり演じていく男。場面は変わり真似をするのが上手な“真似上手の君”を映すモニター。そのモニターを見て真似をする“モニター中毒患者”のいる病室。モニターではカルタ取り名人が映し出されている。カルタ取り名人はその集中力を発揮し宗教家へ転身していく・・・。又場面は変わりモニターには“鯨嫌い”が映し出される。時代劇というか明治初期の男の物語・・・。次に映し出されたのは“インターネット裁判”・・・様々な人々が登場しては消えていく。その度にその人物になりきる男。やがて医師が登場する。そして、これらの事象は、モニターの前に子供を捨ててどう育つかの実験であると告げる。モニターに楽しいものを映し、嫌なものは全て排除する。狼に育てられた子供ではなく、モニターに映し出された狼に育てられた子供。モニターに映し出された人々の真似をする事によって様々な人生を経験する。そして、モニターに育てられた子供は自分の言葉で何を語るのか・・・。しかし、そう語る医師さえモニターに映った医師を真似る男の悲しき姿なのであった・・・。

 一人が何役もの人物を演じているのではなく、全てはモニターに育てられた一人の男の物語である。一人の男がモニターを見て、モニターに映し出された人物の真似をして人生を送る。さもそれが自分の人生であるかのように・・・そして、その男の様子を観客である我々が監察している、そんな構図になっていた。

 心が凍ってしまうような、とても恐ろしくて悲しい物語であった。要所要所で笑えるのであるが、笑ってしまった分余計にラストの後味の悪さが身に凍みる。前半の軽い“遊び”的芝居に反したラストの“深さ”の構成はさすが。ラストで医師の真似をして、自分自身の人生を自分に問い、自ら語るシーンのなんとも切なく悲しい事か。その時語られる「人間の歴史は記憶からできている。人間の一生も記憶からできている」というセリフがわかっていながらも心に響いた。そして最後の言葉「かもなく、ふかもなく、意味もなく・・・」と続く言葉。どんなに記憶を植え付けられようとも人間としての意味がなくなっていく、そんな悲しい結末であった。前半、所狭しと野田秀樹が暴れまくった熱い空間が、後半は非常に広く思え、その中で小さくなっている孤独という名の空間がとても冷たく伝わってきた。

 この芝居は、現代のコミュニケーションの在り方を問うというよりは、テレビ世代への警告であるように思われた。同じ様な危機感・警告を鴻上尚史が『プロパガンダ・デイドリーム』で発していたが、病理を並べるだけの鴻上とは違い、生活に密着したテレビをさらに進めて生活自体にしてしまった点が恐怖感を一層露にさせた。

 一人が何人もの人間を演じるという一人芝居の定型(なのかしらないけど)を逆手に取って、一人の男の物語にしたのはさすがと言いたい。モニターもうまい具合に物語に取り込んでいたと思う。しかし、何も使わずに生身の体だけで、目の前にはないが見えてくるような情況を演じる一人芝居も観たかったと思う。野田秀樹の豊かな才能は充分に感じる事は出来たが、一人芝居としての素晴らしさは、他の一人芝居を演じる役者には到底及ばなかったという感じは残った。


“野田地図(NODA・MAP)”自分が観た公演ベスト
1.キル(初演)
2.パンドラの鐘
3.農業少女
4.Right Eye
5.半神
6.2001人芝居
7.カノン
8.ローリング・ストーン
9.贋作 罪と罰
10.TABOO

演劇の部屋に戻る


にんじんボーン「小津のまほうつかい」

三鷹市芸術文化センター 星のホール 2/10.11.12.17.18
2/17(土)観劇。座席 D-10

作・演出 宮本勝行

 今回は『小津のまほうつかい/續・小津のまほうつかい』の同時上演という事で、途中20分の休憩を挟み、全15景約3時間45分という構成になっていた。その構成のまま1本の作品としてレビューしようか迷ったのだが、自分の中で『小津のまほうつかい』と『續・小津のまほうつかい』では評価が違ってしまったので、別々の作品として書く事にした。パンフに淡々と書かれた【あらすじ】が非常に良かったので、役者名を付け加えたり、ちょこっと変えてみたりして転記させて頂きます。(無許可御了承ください・・・)

●1景(昭和28年7月)
昭和28年、夏。松竹大船撮影所の近くの下宿・銀杏荘。ここの住人は俳優の杉山幸二(山口雅義)、脚本家の間宮謙吉(蒲田哲)、助監督の浅田平一郎(木村方則)である。ある休日、今日も悪友である俳優の小野寺辰雄(大西一郎)が泊まっていた。受験生の花沢たまえ(森田理佐)が勉強を教わりにきたり、大家の娘・会田早苗(中友子)が家賃を取りに来たり、今日も賑やかな銀杏荘。
●2景(昭和28年7月)
いつものことながら小野寺が遊びに来た。今まで撮影が一緒だったという人気女優の三浦高子(秋山恭子)も一緒である。杉山と小野寺と三浦のおしゃべり。日活が映画製作開始を来年に控え、人材を引き抜き始めた話、杉山の故郷の友人が遊びに来るという話、そして恋愛談義。
●3景(昭和28年7月)
杉山の友人が遊びに来る当日。しかし、訪ねてきたのは幼馴染みの青木紀子(野中由美子)と妹の幸子(大西知子)だけ。杉山が待ちに待った久子は一緒ではなかった。胸の病気が悪化してしまったのだという。
●4景(昭和28年8月)
かつて銀杏荘に住んでいた先輩脚本家、河合豊(飯田茂)が遊びに来る。間宮と河合の世間話。間宮はここで、自分と会社との方針の違いに悩んでいると河合に打ち明ける。
●5景(昭和28年8月)
紀子と幸子と早苗が撮影所に遊びに行く。杉山に楽しかったと嬉しそうに報告。話は故郷の大阪の事へ。なつかしい故郷の話を嬉しそうに聞く杉山。
●6景(昭和28年9月)
平一郎は恋人の矢部美佐子(富浜薫)に日活へ移る決意を述べる。帰宅した間宮に松竹を退社すること、そして美佐子と結婚することを告げる。3人が祝杯を挙げに出掛けた後に帰宅した杉山。そこに久子が突然亡くなったという知らせが届く。
●7景(昭和28年9月)
夏祭り。平一郎は銀杏荘を去っていった。一人部屋にいる杉山に小包が送られてくる。それは久子が亡くなる前に杉山にあてたものだった。杉山の好物と、それに添えられた懐かしい文字の優しい手紙。間宮はその日、松竹へ退社を申し出る。
●8景(昭和28年10月)
間宮と平一郎が去った銀杏荘。小野寺と部屋の片付けをしていたところへ、新しい入居者・西脇康一郎(村越保仁)がやって来る。

 ここまでが『小津のまほうつかい』。宮本勝行がかつて率いていたTEAM僕らの調査局で1991年に上演された作品の再演である。この作品は、平成11年名古屋文化賞を受賞している。
 物語は、昭和28年の夏から秋にかけて、松竹大船撮影所近くの下宿を舞台に、若き俳優、脚本家、助監督など、明日を夢見る映画青年達を描いた群像劇の傑作である。タイトルの通り、小津安二郎監督へのオマージュとなっており、小津監督の“劇的なものを全部取り払った演出”が生かされ、まるで小津映画を観ているような繊細な空間が構築されていた。おかしさの中に人生の喜怒哀楽が見えてくる、とても味わい深い舞台に仕上がっていた。そこにはなんと言うか、とっても大切な宝物・大切な人を優しい気持ちで見つめているみたいな空気が流れていて、とても気持ちが和む空間であった。数々の小道具達も、その空間をより効果的に演出していた。たなびく様に流れる煙草の煙、麦湯、玄関を開け閉めする時の鈴の音・・・それらにより当時の空気が、いい具合に伝わってきた。

 パンフの“ごあいさつ”にこの作品を作るきっかけとなった『英雄』という15分の短編の話しが書いてあった。これが今回の原石だそうだ。俳優になりたい。でも今ひとつ故郷に未練がある。そんな一人の男を、友人と亡くなったはずの恋人が後押しして、東京に旅ださせるという話。この芝居で芝居の基本である、起・承・転・結を無視することを覚えたと書かれてあった。15分のワンシーンをきちんと書いて、ちゃんとした役者に演じてもらえば、その前後は書かなくても自ずから見えてくる、おまけに書いてない分、そこには見る人の想像が自由に働くから、ともすると書く以上に見えてくる、とも書かれてあった。この『小津のまほうつかい』を観てあぁなるほどと実感した。昭和28年の夏から秋にかけてのほんの一瞬の日常を切り取っただけなのに、その人が歩んで来た人生までもが見えてくる、そんな舞台であったと思う。何も起こらない(と言ってもそれなりの出来事は起こるが)事がこんなにもドラマティックであるとは。舞台となった時代、自分はまだ生まれてもいない。演出家にせよ、この時代には生まれていないので、あくまで小津監督から影響を受けた想像の世界なのだと思う。なのに何故かその時代を生きてきたような懐かしい気持ちになってしまった。そこにはとても大切な時間が流れていたのである。

 この芝居の“空気”を引っぱっていたのが、山口雅義。本当に素晴しいと思った。オープニングで登場した小野寺辰雄(大西一郎)の演技から、その時代の人物を演じようとしているのか、ほんのちょっと自然じゃなく“演んじている臭さ”みたいなのが伝わってきてしまい、駄目かなぁと思ったが、山口雅義が登場した途端、自然な空気が流れたのには、正直びっくりであった。それに感化されたのか、大西一郎の演技までもが自然さを醸し出して来て、良い感じに引っぱられていた。この芝居は山口雅義あってのものだと実感した。いや、それ以上に「山口雅義あっての、にんじんボーンである」とまで言ってしまいたいくらいだ。あっ、蒲田もいい雰囲気を持ったいい役者だと思う。付けたしみたいに書いてしまって申し訳ないが・・・。


“にんじんボーン”自分が観た公演ベスト
1.オヅ君が来た日
2.小津のまほうつかい
3.恋ハ水色
4.い・い・ひ・と
 

演劇の部屋に戻る


にんじんボーン「續・小津のまほうつかい」

三鷹市芸術文化センター 星のホール 2/10.11.12.17.18
2/17(土)観劇。座席 D-10

作・演出 宮本勝行

 宮本勝行がかつて率いていたTEAM僕らの調査局で上演された『小津のまほうつかい(1991年)』の5年後を描いた『續・小津のまほうつかい(1993年)』の再演。
 20分の休憩をはさんでの連続上演である。これ又、パンフに書かれた【あらすじ】に、役者名を付け加えたり、ちょこっと変えてみたりして転記させて頂きます。(無許可御了承ください・・・)尚、表記は『小津のまほうつかい』に引き続き、9景からにしています。
●9景(昭和33年12月)
現在の住人は杉山幸二(山口雅義)と西脇康一郎(村越保仁)の2人である。西脇と脚本家の坂本敬三(日下有一)、助監督の沼田三平(宮利之)が新作の構想を練っている。花沢たまえ(森田理佐)と友人の高梨洋子(大内めぐみ)、小野寺が想いを寄せる田沼綾子(遠藤清弥)の姉・美子(成田めぐみ)、撮影帰りの小野寺辰雄(大西一郎)、俳優仲間の高橋順二(原寿彦)もやって来て、時代は変わってもいつも賑やかな銀杏荘。
●10景(昭和24年12月)
時代はさかのぼり昭和24年、大阪の杉山家。俳優になる決意を母・きく(おだちなつ)に言い出せない杉山。上京の前夜、クリスマス会に集まった友人の安田修平(瀧下涼)、青木紀子(野中由美子)、北川久子(チャーコ:皆口裕子)の応援でやっと口にすることができたが、きくは相手にもしない。突然の告白に喜ぶのは妹の幸子(大西知子)だけである。
●11景(昭和33年12月)
銀杏荘では三浦高子(秋山恭子)と女優・桂木雪子(内山奈緒美)がお茶を飲みながら杉山の帰りを待っている。ひょんなことから杉山と三浦の結婚話が発覚してしまう。皆の祝福をうける杉山と三浦。それとは反対に、小野寺の美子への思いは破れることに。
●12景(昭和24年12月)
大阪の杉山家。送別を兼ねたクリスマス会も一段落。片付けの紀子と久子、酔い潰れている修平。夢を杉山に託す修平、応援する紀子と幸子、いつまでも杉山を待つという久子の淡い恋心。沢山の想いを背中を押され、杉山は出発する。
●13景(昭和33年12月)
銀杏荘では高橋、洋子、美子がクリスマスの飾り付けの準備をしている。杉山も加わり、なにげないおしゃべり。そこへ三浦が杉山を食事に誘いにやって来る。結婚間近な2人の幸せなひととき。
●14景(昭和24年12月)
大阪から銀杏荘へやってきた杉山。住人である河合豊(飯田茂)と間宮謙吉(蒲田哲)はクリスマスの飾り付け。早苗も手伝っている。銀杏荘のクリスマスパーティは、有名スターや監督が集まる豪華なものである。ウキウキの河合とは反対に銀杏荘1年生の杉山と間宮は緊張するばかり。
●15景(昭和33年12月)
杉山と三浦の結婚祝いとクリスマスを兼ねたパーティがそろそろ始まろうとしている時、珍しいお客が。5年前に日活に行ってしまった浅田平一郎(木村方則)である。うれしいお客で一層賑やかになった銀杏荘。そこへ杉山の事故死を知らせる1本の電話がなる。

 パンフには登場人物の紹介までもがきっちりと書いてあり、“杉山幸二:昭和33年、女優・三浦高子と婚約。が、同年、ゴルフの帰り道、自ら運転する車で自動車事故を起こし死亡。”“北側久子(チャーコ):昭和27年の夏、結核で27年の短すぎる人生の幕をおろす。杉山が俳優を志すキッカケになった人。”って丁寧に書いてあって、ありゃありゃって感じだった。これを20分の休憩時間に読んでしまった自分はなんと馬鹿なのだろう・・・。どんな経過を辿り今現在があるのかって事は、登場人物の紹介を読まなくても『小津のまほうつかい』でわかったし、言葉の端々でわかってくる芝居なので、読まずに観るのが正解だった。まぁ後悔先に立たずってとこですか。

 『小津のまほうつかい』では、舞台を一つの場所に固定し、時間の経過と共に下宿に集まる人々を見つめる群像劇という描き方であったが、『續・小津のまほうつかい』では、杉山の上京から死ぬまでを、時間(昭和33年の現在と昭和24年の過去)と場所(大船と大阪)を行き来したどる事によって、群像劇の姿は薄れ杉山幸二一人を追うドラマ、そこまで言わなくても杉山幸二を取り巻く人々のドラマとなっていたと思う。確固とした主人公が確立してしまった為に、群像劇の面白さは薄れてしまっていた・・・。ただ、いろいろな要素は加わっており、恋愛劇としても心暖まる作品になっていたと思う。しかし、『小津のまほうつかい』で味わった気持ち良さ、“劇的な事は何も起こらない”って事の素晴しさは薄れてしまったのは確か。しかし、この『續・小津のまほうつかい』を観たことによって『小津のまほうつかい』がより一層深く味わえた、とも言える。それではいけないのかもしれないが・・・2本同時に観れたことは非常に嬉しかったが、『續・小津のまほうつかい』があまりにも補足的な物語に思えて残念でならない。語らなくても見える物語をあえて語ってしまったという感じがする。せっかく“前後は書かなくても自ずから見えてくる”というコンセプトの芝居なのに・・・。

 まぁいろいろあるが、2本同時上演を実現した、にんじんボーン及びに三鷹市芸術文化センターに心から感謝したい気持ちで一杯である。


“にんじんボーン”自分が観た公演ベスト
1.オヅ君が来た日
2.小津のまほうつかい
3.續・小津のまほうつかい
4.恋ハ水色
5.い・い・ひ・と
 

演劇の部屋に戻る


ポツドール「身体検査〜恥ずかしいけど知ってほしい〜」

王子小劇場 2/16〜2/21
2/19(月)観劇。座席 自由(右手4列目くらい<招待>)

作・演出 三浦大輔

 劇場に入ると、舞台の左右に設置されたモニター画面には、控えの部屋らしき場所で女性3人が時間をつぶしている姿が映し出されている。その時点ではそれが何処なのかわからない。「PM.7:00 開店前」のテロップと共に芝居は始まる。とあるキャバクラに面接に来た女性(斎藤舞)を店のマスターが応対している。この店は「普通の女性」を売りにしている店だから大丈夫と言いつつも、実は単なるキャバクラではなく、通称ヌキキャバと呼ばれる類の店で、サービス料5.000円を支払い、別室で「身体検査」とこの店が呼んでいるエッチな行為を行う店であった。その勤務内容を聞き、躊躇しつつもやってみようか心が動いている女性。マスターの実技試験の後、その日から勤務する事に・・・。「PM.8:00 開店」のテロップ。やってくる男達。そして、その店での様子が淡々と描かれる第一部。

 前作『騎士クラブ』で登場した性欲が溢れた工場勤務らしい男達が、キャバラにやって来たというような設定で、前作を観ている者としては、その繋がりに心をくすぐられる。前作でキャバクラに行く、行かないと言う話をしていた店がここかぁってな感じ。まぁこれは自分が思うだけで、繋がりはないのかもしれない。ただ、その設定は面白かったが、描き方が単調で退屈でもあった。聞くところによるとキャバクラのシーンでは、男達は役者を忘れて、気の向くままに女性を口説いても良かったらしい。ある程度のシナリオはあるのだろうが、その素の状態が、妙にまったりした空気を醸し出していたのかもしれない。自分が口説いているならドキドキするだろうが、他人が素の状態で口説いている姿を見てもねぇ・・・。
 第二部に繋がる“プライベート”ってポイントがこの当たりから出てきているのだろうが、どうもしっくりこない。自分としては、第一部は全てが作られた虚構の世界を“リアルに演じる”ってのがポイントだと思うのだがどうなんだろう。そこに何故“芝居の中で口説いててもいい”という本当の現実を加えてしまったのだろうか。第一部が、二部のガチンコなドキュメントと対比的な位置にあるとしたら、個人的な感情を入れない芝居に固執して、一部を作っても良かったのではないかと思う。・・・作・演出の三浦氏との見解の相違を感じてしまった。

 ちょっと余談になるのだが、このキャバクラ自体にリアル感がないと思ったのは自分の経験不足だろうか。こんなイカガワシイ店は現実にはないんじゃないかって思う。世間知らずな自分だからかもしれないが、怖いよこんな店。ボッタクリ専門店以上に不穏な店。でも現実にモデルの店とかあったりして。しかし、見ている時はリアル感がないなぁと思ってしまった。

 第二部。マジでチンポをくわえフェラを行う“リアルな演技”にこだわった第一部に対して、第二部は演技を一切しないで、プライベートを露呈し、リアルを追及する。第二部においては、毎日マジで台本なしのドキュメントであったらしい。別の日に観た知人などと話すと全然違う事になっていた。この日は、劇団内恋愛の破局を引きずっての一幕。前日舞台上で別れ話しをしたのに、打ち上げの席では隣に座り、普通に話していた男優に対し「舞台と日常を分けている」と指摘する女優。「そんなのこの舞台の意味と違っている」といきまく。そして他の出演者もこの男優を攻め捲る。その空気に嫌気がさしたのか(他の理由があったのかもしれないが)、帰ってしまう小林康弘。第一部に於いて、この男優(名前がわからなくてすみません・・・)が邪魔で口説けなかったので、いま口説かせろと迫る野平久志。でも出た言葉が「やらせろ」・・・もー笑っちゃいました。男のサガ丸だし。そして話しはまとまるわけもなく時間で幕が降り終演。

 第二部に関してはいろいろ考えさせられた。プライベートをさらけ出す事によって“リアル”を追及できるのだろうかとか。正直言ってドキュメントというかガチンコの現実を舞台にあげた事によって、本当は真実なのにリアル感は死に絶え「ウソ臭さ」「やらせ」っぽさが引き立ち、痛い空気に包まれてしまった、というのが率直な感想である。舞台で嫌な思いをした役者の方々には申し訳ないが、そんな空気が漂うだけだったのである。自分が思うに、現実を生きると言うのも自分という人間を演じている訳だし、怒鳴っている男だって怒鳴る事により自分がどう見られているか、見えているか頭の片隅に絶対あると思う。カッコ悪いよりカッコ良くあろうとするのは本能でもあり、普通の行為であると思う。自分をカッコ良く演じる事も本当の姿であり、舞台上で演技をしないのが本当の姿であると言う事とは違うような気もする。すごく難しい。論点のちぐはぐさとかは非常にリアルに思えた。無言になるのもリアル。野平が舞台を面白くする為に本音をさらけ出せという事もリアルな現実。全て舞台上はリアルな本音の塊なのだろうが、どうもしっくりこなかった。これもリアルな感情・・・。とても凄い試みではあったが、芝居としての評価は難しい。しかし、一つの事件であった事は認めざるを得ない。


“ポツドール”自分が観た公演ベスト
1.騎士(ないと)クラブ
2.身体検査〜恥ずかしいけど知ってほしい〜
 

演劇の部屋に戻る


劇団そとばこまち「友情しごき教室」

本多劇場 2/17〜2/25
2/24(土)観劇。座席 L-12

作 牧野晋弥
演出 生瀬勝久
演出補 山西惇

 世界一ハムの消費者センターに勤務する吉岡(八十田勇一)は、同僚の女子社員・古田(小椋あずき)の陰湿ないじめに気づかぬまま、同じく同僚でダメ男のレッテルを貼られた大平(温水洋一)と会社勤めの日々を送っていた。そんなある日、吉岡は、課の社員の一人がリストラされるという噂を耳にし、その対象が大平であると聞かされる。大平に連れられて喫茶店(インターネットカフェ)に向かった吉岡は、その話をしようとしたが、ウエイトレス(西口夏生)とマスター(生瀬勝久)の態度に腹を立て、店を出て行ってしまう。残された大平はこの喫茶店が気になって仕方がない。この喫茶店では、マスター指導の元、パソコン教室が開かれていた。残った大平は、マスターの誘いでその教室に参加する。しかし、教室が始まった途端、穏やかなマスターの姿は一転し、しごきの鬼と化していた。しかし、大平はそのしごきに笑顔で対応していた・・・。
 大平が仕事そっちのけで喫茶店に入り浸たっている時、世界一ハムでは、ウインナーに異物が混入していたと自社ホームページに書き込まれた事で大問題が発生していた・・・。

 大平の存在感が強いが、主人公は、会社組織の中で現実と夢みたいな世界を行き来しつつ翻弄する吉岡だと思う。しかし、吉岡と大平が同一人物ではないかと考えてしまった自分にとっては、主人公は二人に見えても一人であると言う解釈である。で、テーマは、しごきといじめ、そして友情ってところか。そうなると“しごきといじめ”そんな辺りを書くのが妥当なのかもしれないが、どうもピンと来ないのでパス。それより自分に伝わってきたのは、前述したように大平と吉岡が同一人物であるという解釈から見た世界である。そう感じたのはラストシーンで、大平という人物を誰も知らないと言うようなセリフがあって感じた事なのだが、そのセリフを聞いた途端に今までのシーンがぐるぐると蘇り、自分の腑甲斐ない姿を“大平”という姿に変える事により、現実逃避している吉岡の姿が浮かんでしまったのである。しかし、吉岡の本当にやりたい事を大平が変わって実践していたりもするので、吉岡を支えている心の姿が大平なのかもしれない、とかとか。ラストで大平が吉岡の元を去って行ったと言う事で、吉岡と大平は一つになり、やっと吉岡一人だけで生きて行ける道を見つけたみたいな、そんな感じの結末として受けとった。
 しかし、それとは異なった解釈も頭の片隅にないわけではない。大平はちゃんと実在し、世界一ハムに勤務していたが、クビにされた事により社員の記憶からも抹消させられてしまった・・・と言う感じの、会社組織の怖さを描いたラストとも捕えられた。まぁどっちとも決め手がなく、その両方が微妙にブレンドされたちょっと後味が悪いラストシーンではあった。その中途半端な気持ち悪さは嫌いじゃない。ただ、3年3ヵ月ぶりの公演のワリには、脚本はたいした出来ではなく、心に響くほどのものはなかった。

 脚本の悪さとは対象的に、役者の出来は最高に良かった。生瀬、八十田、山西と、そとばこまちの役者の成長ぶりは目を見張る素晴しさであった。と言う程昔を知らない、と言うより1本しか観ていないのだが、本当にいい味を出していた。3年前に観た『バットマン』の時も男優陣のうまさは感じたのだが、今回も同様であった。そして、今回は客演も素晴しい。西川課長を演じた松尾貴史のおもしろさは今更言うまでもないが、温水洋一の味のある演技が妙に心に残った。ダメ男なのにダメさを自覚できずに威張っている。偉いものからは遠ざかり、そのくせ存在感だけはアピールする。「我が社にもいるよ、こういう嫌な奴」と言う感じの本当にダメ男を演じているのだが、温水洋一が演じる事により脚本に書かれた人物像以上のものを引き出していたのではないかと感じる。ダメ男を演じさせたら天下一であると断言したい程、ますますダメ男っぷりに磨きがかかってきた。大人計画で温水洋一を観たのは一度か二度なのだが、今だにその時の印象が強いという事は、温水洋一の存在感がでかいという事だろうか。一度古巣の大人計画に戻って演じてくれないかなぁと密かに願っているのだが・・・。って“そとばこまち”の公演なのに話がそれてしまった。


“劇団そとばこまち”自分が観た公演ベスト
1.友情しごき教室
2.バットマン
 

演劇の部屋に戻る



CONTENTSのページに戻る