大橋菊太集

 

大橋菊太郎。大阪の俳人。始めの号は青法師、のち菊太。青々の『寶船』、のち月斗の『カラタチ』で活躍。大正五年八月没。「月斗より夜寒の文や菊太の訃 車春」。句帖を久世車春に託す。後に、車春はまた『桜鯛』時代の松本正氣に託す。句集は未刊行。

句歴については、『春星』第五巻第三、四号(昭和二十五年)所載の亀田小蛄の文章を以てする。(松本島春)

 

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亀田小蛄の「菊太君の思い出(上)」より

 

 

 大橋菊太君の花々しい活躍は「同人」の前身「カラタチ」創刊時代にあったようである。私が同君と知ったのは橡面坊氏の宅でやっていた清水会という句会に井上蘆仙氏と一緒に見えていたに始まって、その風姿端麗ではあるがいつも病体か青い顔して、布の首巻を折々しておられるというイタイタしい面影が今もしのばれている。

 そんなので明治末年ころの同君は別に青々、月斗両氏の派ということもなく、青々氏の「寶船」に句文が見え、亦月斗氏の大阪新報の俳壇などに投稿もし、幹事は巨口氏などの寶船派だが、月斗氏や北渚氏などの出席された大阪俳句会などよく出席されていた。亦一方兄事していた前記の蘆仙という画家俳人と同伴で、青々氏の吟行などに同行京などの句が随所に見られていた。

 もちろん其の頃は前号の青法師時代である。其の前には

  猿曳や寒き都を縫ひありく      青羽

  香具山の裾の霞や百千鳥       同

であって、羽から法師になったのは明治四十二年春からと記憶している。碧梧桐氏の新傾向の中期の頃であって、月斗選にも

  妹を思へば其立ち姿繭玉に      青法師

  鳳雛と呼ばれ蒲柳の日傘哉      同

  絵日傘や髷のゆるみも下り坂     同

  窯出来の藍濃を云ふも紫陽花に    同

 君には一人の妹があって、よく愛された記事や句がある。これらの調は当時の新傾向の影響を多分に受けて居られる句だ。殊に第四句などそれだ。字も其の頃あの奇麗な筆跡から怪奇な六朝風を模して居ったので、今にそれらの短冊が残っている。

 又君が勤めておられた尾州銀行大阪支店(東区北久宝寺町二丁目)は、私の勤めていた店から二丁ほどだったが、店が西区へ転じたためつい交友は前記の清水会以外はなかった。それでも東京から三允氏が見えたといえばはるばる西郊浦江の蓮茶屋までも見えた友誼振りだった。

  団扇まきといふ寺行事薄暑哉     青法師

という其の時の句を今も覚えている。

  女寄りて櫛占も屠蘇機嫌かな     青法師

  種紙の黄になる夜頃朧かな      同

  白砥出づこの山中の藤と虻      同

翌四十三年春にはかえって穏やかに復元している。其の後又むつかしい句になったようだが、文献が欠如している。

 然し大正となって新傾向が新々傾向で碧梧桐氏の句が俳句本道から横道にそれた頃、月斗氏も碧梧桐氏から離れられた。其の頃から月斗氏の有力な衛星の一人となり、菊太(本名菊太郎から)と改号、其の教えをも受けられることとなった。大正二年の頃である。

 越えて大正五年春、月斗氏が画家織田東禹氏と計って三有印刷所から創刊された「カラタチ」における菊太の目覚ましい活躍は、今思うとその寿命を縮めたのではなかったかと思うほどであった。句々玉振のが多く、青々氏の関東第一と折り紙つけた蝶衣氏(その頃は淡路に帰臥)と相争うて相下らず「カラタチ」俳壇一二の席次を争うて居るという鍔競合いの場面を現出したのである。その句

  春睡や女の顔に皺ふゆる

  春睡や王者の才を空しうし

  春睡の軒に碓蠢みぬ

  しろじろと鴎囀り暮遅し

  大勢に住む家恋し宵の春

  塔影の塀を越したる日永かな

  濯ぎものすれどのどかに曇りけり

  栖鳳の筆に任せし燕かな

  野遊もけふよしすぐに暑くなる

  まだ土のかたき寒さや燕

 以上は「カラタチ」二号三号所載で、巻頭菊太、次蝶衣、巻頭蝶衣、次菊太という月斗選である。一号には 

   やつれたる寝相幾度母妹を愕かしたるかをしらず

  死後のさま思ふだに淋し埋火に    青法師

は恐らく四年冬の作と思われる。所謂死相が兆して居たのであったか。それを押し切って春来の快作つづきであることも亦悲壮の彼であったのだ。(亀田小蛄)