21世紀日本に社会主義、あるいは
共産主義は生き残りうるか
中部大学総合学術研究誌『アリーナ第10号』にHP自己紹介文掲載
(宮地作成)
〔目次〕
はじめに−中部大学総合学術研究誌『アリーナ第10号』に私のHP自己紹介文掲載
2、現代史における日本共産党史の見直しとそれへの粛清事件 (表1)
2、戦後日本共産党史の偽造歪曲・隠蔽事例−党分裂期間と武装闘争
3、ソ連崩壊後のレーニン評価大逆転とヨーロッパにおけるコミンテルン型共産党の全滅
2、レーニンの大量殺人犯罪データとロシア革命勢力殺人指令27通 (表2)
3、ヨーロッパにおけるコミンテルン型前衛党の全滅、崩壊過程と度合 (表3)
1、日本共産党が衆参院国会議席において自然死に至る展望 (表4)
2、党勢力5分野すべてにおける衰退データと衰弱死の見通し (表5、6)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『日本共産党との裁判第1〜8部』21日間の監禁査問〜民事裁判
『逆説の戦後日本共産党史1〜11』ファイル多数
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル32編+56編
加藤哲郎『日本の社会主義運動の現在』末尾−日本共産党はいったん自然死
『第25回大会中央委員会報告・決議の行間を読む』2010年1月5分野データ
『衰弱死テンポアップを告白・証明した2中総』2010年9月
はじめに−中部大学総合学術研究誌『アリーナ第10号』にHP自己紹介文掲載
愛知県の中部大学総合学術研究誌『アリーナ第10号』に私のHP自己紹介文が載った。これは、『アリーナ』編集長の小島亮中部大学総合学術研究院教授からの要請によるものである。小島氏との繋がりは、著書『ハンガリー事件と日本』の「第4章日本共産党とハンガリー事件」を私のHPに転載させていただいたことが始まりだった。
小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』「反革命」→1982年「反革命」論撤回
宮地幸子『涙の重み−映画「君の涙ドナウに流れ」を観て』ハンガリー事件
『アリーナ第10号』は、B5版・477頁の学術研究誌である。基本内容は、「歴史と記憶・戦後日本」特集になっている。最近、アメリカのハーバード大学図書館などからも注文がきており、ジュンク堂などでもよく売れているとのことである。
中部大学『中部大学アリーナ第1〜9号』紹介 『アリーナ第10号』表紙と目次
ただ、字数の制約もあって、削除していた(表6)をこのファイルで追加した。また、リンク多数も追加した。
ウェブサイトことはじめ
プロフィールにあるような経緯で、日本共産党との民事裁判を2年間行った。以後、学習塾を21年間続けていたが、東欧革命・ソ連崩壊の刺激を受け、1997年・60歳から、夫婦サイトを立ち上げた。妻・幸子がエッセイ集『注文メニューの多い料理店』、健一は『共産党問題・社会主義問題を考える』タイトルにした。長男・徹もHP『Grafic World』をアップした。2011年1月現在、3人のHPアクセス合計は、約70万になっている。私宛にかなりのメールがくる。そこでの質問・意見との討論は多面的で面白い。
ソ連崩壊後、ウェブサイトを開設しようと決意した動機は、2つである。
〔動機1〕、21日間の監禁査問と日本共産党との民事裁判体験の公表
1967年、共産党名古屋中北地区委員長の一面的な赤旗拡大の成績追求の誤りにたいする地区党挙げての批判運動が勃発し、1カ月間続いた。彼は、共産党准中央委員・愛知県副委員長も兼任していた。監禁査問は、批判側の地区常任委員1人の裏切り・密告により、批判運動が分派活動だとでっち上げられたことによる。
私は首謀者と断定され、私だけ21日間監禁査問をされた。分派行為と批判され、毎日自己批判書を書かされた。監禁査問とは、一室に閉じ込め、連日査問する。トイレも監視付きである。食事は3度とも店屋物をあてがう。風呂は1週間後から、私の水虫が極度に悪化したので、3日置きに許可された。しかし、近くの銭湯の湯船にも査問委員付きだった。
2年後、准中央委員による赤旗拡大の行き過ぎた誤りが、別ルートで党中央に通報・密告された。分派とされた私たち数十人は、正当な批判行動だったと名誉回復をした。
ただ、党中央3人が直接乗り込んだ愛知県党にたいする指導改善運動の正規会議において、私は愛知県の誤りが、当然党中央の指令に基づくものであり、党中央も一定の責任を認めるべきだと約十回の批判発言をした。私を含め党中央責任に関する批判発言をした専従3人は、それぞれの理屈で全員が報復の専従解任になった。
他2人は、定石通り泣き寝入りをした。私は、別の密告で、再度査問され、専従として不適格とでっち上げられ、専従解任の口頭通告を受けた。党内で1年8カ月間、25通の不当な報復解任に抗議する意見書・質問書を提出した。妻も当時の宮本顕治委員長宛に専従解任理由の質問書6通を出した。夫婦の31通にたいし、党中央は、一度の調査もしないで、すべてを握りつぶした。1977年、私は第14回大会に専従解任不当の上訴書を提出した。大会議長上田耕一郎は、それを無審査・無採決・30秒で却下した。
私は文字通り怒髪衝天の心境に達し、名古屋地裁に、日本共産党との民事裁判を提訴した。
本人訴訟・弁護士なしの原告・私にたいし、被告の共産党と共産党弁護団ら5人は、裁判長にたいし、「共産党員が党中央を裁判に訴えることは、前代未聞で、国際共産主義運動史上一つもない。直ちに門前払い却下せよ」と大声で何度も怒鳴った。学者党員の長谷川正安(当時、以下同じ、名古屋大学憲法学教授)は、共産党側として、「政党は憲法上特別の地位にある。それにたいする司法審査権はない。直ちに門前払い却下せよ」との意見書を提出した。裁判長は、それら珍妙な異説を無視し、正式な審理に入った。
被告共産党側は、憲法の裁判請求権行使行為を党破壊行動だとし、提訴翌日に私を除名した。妻は、何度もの査問呼び出しにたいし、質問書6通への返事が先だと答えた。共産党は、査問に応じない妻を除籍にした。そして、裁判中、連日1カ月間以上も私たち自宅の張込みと私への尾行を続けた。
これら2年間の詳しい経過と結末は、HPファイル『日本共産党との裁判8部作』で公表した。
『日本共産党との裁判第1〜8部』21日間の監禁査問〜民事裁判
〔動機2〕、丸山眞男にたいする日本共産党の13回にわたる批判キャンペーンへの憤りとその経過・内容分析の公表
宮本顕治は、1993年から2年間、『赤旗』『前衛』などで、丸山眞男の全業績を批判し、全面的な人格否定キャンペーンを展開した。宮本顕治は、自分の戦前活動と経歴が、丸山眞男の短文一言によって汚されたと過大に捉え、怒り狂ったからである。
あまりにも一面的な攻撃・レッテル貼りなので、学者やマスコミはそれにたいし猛反発した。私はこの誤ったキャンペーンの経過・原因分析とともに、共産党側の丸山攻撃資料もほとんどをHPに載せた。これら関連ファイル15編は大きな反響を呼んだ。
『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』ファイル15編
ただ、HP開設をした13年前の1997年は、既存サイトも少なく、立ち上げるのに苦労した。解説書も分かりにくく、夫婦で何度も失敗し、転送完了まで半年間もかかった。それにしても、HP開設によって、「除名・反党分子」レッテル者の交友範囲が考えられないほど広がった。今でも、私たち夫婦は、HPのファイル多数と頻繁な更新論文・エッセイ、約70万アクセスによって、日本共産党にとって、「現在も日本共産党批判・レーニン批判活動をインターネットで続ける党史上最悪の反党分子」と見られている。
ある忠誠派共産党員は、yahoo掲示板を使って、私にたいする攻撃を繰り返し、40回以上も「反党分子宮地健一」というレッテル貼りをしたケースもあった。もちろん、私もその都度、反撃論文を掲示板に載せた。党中央の宮本顕治元秘書室長が『赤旗』において、私の宮本顕治批判ファイルを攻撃したときも、その10倍以上もの字数の論文をHPに載せ、反撃した。ウェブサイト上では、巨大な共産党組織と私とは、対等で、1対1の関係になってしまう。
私のHPは、日本共産党批判・レーニン批判専門のウェブサイトである。レーニン批判については、私作成ファイルが32編ある。それを作成する方法として、データや(表)を多用している。ディスプレイ画面では、文字だけでは読みにくい。この文においても、6つの(表)を載せた。さらに、レーニン批判文献の転載ファイルを56編載せている。また、グラフィックデザイナーの長男は、立体型3DのCG画像数十枚を夫婦のHPのために創ってくれた。
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル32編+56編
2、現代史における日本共産党史の見直しとそれへの粛清事件
〔小目次〕
2、戦後日本共産党史の偽造歪曲・隠蔽事例−党分裂期間と武装闘争
戦前・戦後の日本共産党史は、様々な偽造歪曲と隠蔽に満ちていることが判明してきた。ただし、それらの真実を歴史的理論的に解明しようとする学者党員を、宮本・不破・志位ら共産党トップは、除名の報復をしてきた。
戦前日本共産党史の研究者では、渡部徹(京都大学教授)の『1930年代日本共産党論−壊滅原因の検討』、田中真人(同志社大学教授)の『1930年代日本共産党史論−序章とあとがき』『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』ら2人がいた。戦後日本共産党史では、中野徹三(札幌学院大学教授)の『不破哲三のプロレタリアート執権論への批判論文』である。共産党は、3人ともを査問し、除名処分にした。
田口富久治(名古屋大学法学部教授)の「前衛党の組織論−民主集中制の見直し」意見にたいし、田口・不破論争をしかけ、全党的な田口批判キャンペーンを展開した。高橋彦博(法政大学教授)の『左翼知識人の理論責任−戦争責任問題』にたいし、党中央の歴史見解への異論だと決め付け、査問し、除籍にした。10数人の学者文化人にたいし、党中央の理論・歴史見解と異なると断定し、除籍を含む排除キャンペーンを行った。マルクス・レーニン主義理論・歴史の解釈権は、宮本・不破にだけ占有権がある。学者党員風情には、党中央と異なるマルクス主義理論・歴史の新しい解釈=ネオ・マルクス主義は許されないとする思考が根底にある。1980年代のこれら大量粛清は、通称ネオ・マル粛清事件と呼ばれている。
『ネオ・マル粛清事件』8人の学者・文化人党員他のケース
2、戦後日本共産党史の偽造歪曲・隠蔽事例−党分裂期間と武装闘争
戦後日本共産党史の偽造歪曲・隠蔽事例も無数にある。ここでは、その内の一例だけを挙げる。それは、(1)1950年代の武装闘争路線と3大騒擾事件に関する隠蔽、および、(2)党の分裂期間と統一回復時期に関する党史偽造である。六全協の「極左冒険主義の誤り」決定は、画期的だった。しかし、抽象的規定だけに留まった。その武装闘争実態・全貌について公表せよとの党員による強い全党的要求にたいし、宮本顕治は、「後ろ向き」と反批判し、抑圧した。結果として実態・全貌を隠蔽しぬいた。
また、党分裂期間の実質は1年7カ月間だけだった。というのも、朝鮮戦争最中、戦争の後方兵站補給基地日本において、日本共産党が、スターリン執筆=朝鮮戦争参戦秘密指令のコミンフォルム批判によって分裂してしまった。スターリンは、38度線で硬直した戦線を切り開く突破口の一つとして、日本共産党に後方兵站補給基地武力かく乱の武装闘争を指令したからである。スターリン・毛沢東らは、宮本ら反徳田5派を「分派」と断罪した。
スターリン崇拝者宮本顕治は、腰砕けとなり、1951年10月、武装闘争開始の五全協・軍事委員長志田重男にたいし、自己批判書を提出し、武装闘争共産党に復帰した。彼は、その秋に、志田指令により、武装闘争の宣伝部を担当した。3大騒擾事件を含む火炎ビン武装闘争は、宮本らも復帰し統一を回復した共産党が遂行した。1955年六全協からでなく、五全協前に統一回復をしたことが歴史の真実である。
ところが、その真実にたいし、宮本顕治は、大須事件の公判最中にもかかわらず、「統一回復は六全協からである。武装闘争は分裂した一部がやっただけである。現在の党(私)はそれになんの関係も関与もしていない。なんの責任もない」と、大宣伝をし始めた。
自己保身目的による党史偽造歪曲犯罪の基礎資料
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央レベルの活動
3、大須事件の党史からの抹殺と被告の異論者2人除名
私は、名古屋生まれ、名古屋育ちである。しかし、大須事件資料がなかなか手に入らなかった。ところが、大須事件被告酒井博と出会い、直接何回も取材できた。膨大な公判資料も借り受けた。それにより、HPに全経過と背景を載せた。さらに、御茶の水書房から『検証・大須事件の全貌−日本共産党史の偽造・検察の謀略・裁判経過』を、水田洋(名古屋大学名誉教授)の推薦文で、2009年5月に出版した。著書にたいし、かなりの反響があった。その装丁と、吹田事件・大須事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無の(表)を載せる。
日本共産党は、(表)データをほとんど隠蔽し、党史からも抹殺している。それどころか、宮本顕治は、公判中に、「名古屋における火炎ビン武装闘争路線・計画・実行を認めた上で、警察・検察の騒擾罪でっち上げとたたかうべきだ」と主張した大須事件責任者・名古屋市委員長・永田末男と酒井博を、別件で除名した。永田を被告団長からも解任させた。これは、公判闘争への破壊行為であり、騒擾罪成立の一因にもなった。
『大須事件と裁判の表裏第1〜5部』ファイル10編
1952年7月7日、7夕の夜10時すぎ、日本共産党の火炎ビン武装デモ
表紙カバー装丁は、グラフィックデザイナーの宮地徹・長男が作成
(表1) 吹田事件・大須事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無
項目 |
吹田事件 |
大須事件 |
発生年月日 概況 3加者 死傷者 |
1952年6月24、25日 朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅 集会2〜3000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他 デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41人 |
1952年7月7日 帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場 集会1万人、無届デモ3000人 逮捕400人、警官事前動員配置2717人 死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数 |
裁判被告 裁判期間 判決内容 |
刑法106条「騒擾罪」で起訴111人 日本人61人・朝鮮人50人、統一公判 20年間 騒擾罪不成立 第1審有罪15人、無罪87人 |
刑法106条「騒乱罪」で起訴150人 分離公判→統一公判 26年1カ月間、第1審公判772回 口頭弁論なしの上告棄却で騒乱罪罪成立 有罪116人=実刑5人、懲役最高3年 執行猶予つき罰金2千円38人 |
軍事方針有無 武器使用 共産党側の認否 関係者の自供 |
多数の火炎ビン携帯指令の存在 火炎ビンと竹槍(数は不明) 軍事方針存在の全面否認 公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用 |
「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在 火炎ビン20発以上(総数は不明) 軍事方針存在の全面否認 共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田を共産党が除名→永田は公判で軍事方針の存在承認 |
警察側謀略有無 |
デモ隊1500人にたいして、 警官事前動員配置3070人 |
デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ |
他にも、逆説の戦後日本共産党史については、様々な視点から、分析・検証し、ファイル数十編を載せてきた。
『逆説の戦後日本共産党史1〜11』ファイル多数
3、ソ連崩壊後のレーニン評価大逆転とヨーロッパにおけるコミンテルン型共産党の全滅
〔小目次〕
2、レーニンの大量殺人犯罪データとロシア革命勢力殺人指令27通 (表2)
3、ヨーロッパにおけるコミンテルン型前衛党の全滅、崩壊過程と度合 (表3)
1989年から91年、東欧・ソ連10カ国の前衛党と「社会主義」を名乗った体制がいっせい崩壊した。ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)が発掘・公表された。それらは、従来のレーニン評価を180度大逆転させた。
1917年10月、レーニン・トロツキーがしたことは、社会主義革命でなく、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったという真相は、ソ連崩壊後、世界・日本の研究者ほとんどの常識になっている。
しかし、10月クーデター後、しばらくの期間、ロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士らは、社会主義革命だと信じ、期待していた。その期待も、わずか3カ月〜5カ月間でしぼんだ。(1)1918年1月5日、レーニンによる憲法制定議会1日目武力解散という第2次クーデターによって、ソヴィエト勢力は裏切られた。(2)さらには、4月29日第4回全露中央執行委員会の議事録における農民への内戦開始宣言と、5月からの食糧独裁令執行によって、クーデター政権は、土地革命80%・9000万農民にたいする全面的な敵対=内戦関係に突入した。
レーニンは、さらに、労兵ソヴィエトの自主的権利をどんどん剥奪し始めた。トロツキーは「労働の軍事化」路線を2000企業で遂行した。レーニン・ジェルジンスキーは、他党派が勝利したソヴィエトをチェーカーの暴力で解散し、当選した他党派ソヴィエト議員を逮捕し、ボリシェヴィキ党員だけによるソヴィエト乗っ取り作戦を全土で執行した。他党派すべてを含むソヴィエトの歴史的伝統は、レーニンにより破壊され、クーデター政権の下部・地方機関に変質させられた。それらにたいし、労働者・兵士ストライキが頻発した。
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
党独裁・党治国家というクーデター政権にたいするロシア革命ソヴィエト勢力の総反乱が巻き起こった。総反乱の頂点は、1920年から1921年にかけ、ソ連全土で勃発し、クーデター政権を追い詰めた。(1)タンボフ・西シベリア・ウクライナの3大農民反乱、(2)ペトログラード労働者の全市的ストライキ、(3)クロンシュタット・ソヴィエト事件などである。
『1920、21年のレーニン』ファイル27編
2、レーニンの大量殺人犯罪データとロシア革命勢力殺人指令27通
レーニンは、わずか3年4カ月間で、根本的に誤った路線・政策・赤色テロルにより、クーデター政権崩壊危機に直面した。そこで、彼は、クーデター政権の生き残りを謀って、2面政策を採った。80%・9000万農民への譲歩としてのネップと、総反乱しているロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士を「反革命」というウソのレッテルで大量殺人をした。
(表2) 殺人指令文書27通とレッテル
〔殺人指令文書〕27通全文は、HPのそれぞれ別ファイル文中に載せた。一方で、その通し番号を(表)にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人遂行の党独裁・党治国家最高権力者の人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
対象 |
年月日 |
殺人指令文書 |
レッテル |
発令者 |
殺害数 |
農民 |
18・8・11 18・8・20 18・8・29 20・10・19 21・6・11 21・6・12 21・7・10 |
1、暴動農民の絞首刑指令 2、富農の人質指令 3、クラーク鎮圧・没収措置の報告督促 4、タンボフ県の農民反乱への鎮圧指令 5、タンボフ農民への裁判なし射殺指令 6、毒ガス使用とタンボフ農民絶滅命令 7、タンボフ県匪賊の人質公開処刑報告 |
暴動農民 富農 富農 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 |
レーニン レーニン レーニン レーニン レーニン 政治局 政治局 |
数十万 |
兵士 |
18・8・30 |
8、脱走兵銃殺命令 |
犯罪、腰抜 |
トロツキー |
数十万 |
コサック |
19・1・21 20・10・23 |
9、コサックへの赤色テロル指令 10、コサック解体・絶滅命令と絶滅報告 |
白衛軍加担 白衛軍加担 |
スヴェルドロフ オルジョニキッゼ |
数十万 |
労働者 |
18・5・31 20・1・29 |
11、ストライキ労働者銃殺指令 12、ストライキ労働者の大衆処刑電報 |
黄色い害虫 黄色い害虫 |
ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
水兵 |
21・2・28 |
13、最後通牒、雉子のように撃ち殺す |
白衛軍の豚 |
トロツキー |
14000 |
チェコ |
18・5・25 |
14、チェコ軍団への武装解除・銃殺命令 |
独断的行動 |
トロツキー |
45000 |
聖職者 |
22・3・19 |
15、教会財産没収、聖職者銃殺指令 |
黒百人組 |
レーニン |
数万 |
知識人 |
22・5・29 22・6 22・9・5 22・9 |
16、知識人追放指令の秘密手紙 17、反ソヴィエト知識人追放指令 18、知識人追放督促指令 19、知識人掃討・浄化指令メモ |
反ソヴィエト 反ソヴィエト 反ソヴィエト 浄化 |
レーニン レーニン ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
他党派 |
17・11・28 18・6 18・8・9 18・9・3 21・4 21・6 22・5・15 |
20、カデット党員逮捕の布告 21、チェキスト党集会法令とレーニン指示 22、銃殺とメンシェヴィキ追放指令 23、社会革命党員の即時逮捕電報命令 24、メンシェヴィキ、エスエル逮捕銃殺命令 25、社会革命党とメンシェヴィキ壊滅作戦 26、銃殺刑の範囲拡大とテロル指令 |
反革命 武装反革命 動揺分子 白色テロル 反革命 反革命 反革命 |
レーニン他 チェキスト レーニン ペトロフスキー レーニン ウンシュリフト レーニン |
百数十万 |
17・12・20 |
27、チェーカー創設と組織、チェキスト |
人民の敵 |
レーニン |
||
総計 |
数十万 |
稲子恒夫(名古屋大学名誉教授)は『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年)という1069頁の大著を出版した。彼は、詳細な年表・資料・分析を載せ、レーニンの大量殺人犯罪データとともに、レーニン・トロツキーが創った体制はクーデターに基づく党独裁・党治国家だったと論証した。
稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」全文、他7ファイル
『1917年コラム−16のテーマ』臨時政府時期と「十月革命」=10月クーデター後
3、ヨーロッパにおけるコミンテルン型前衛党の全滅、崩壊過程と度合
資本主義諸国において、残存するコミンテルン型前衛党は、2党だけになってしまった。ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論と実践は誤りだったとして、放棄宣言をした。よって、5つの基準・原理のすべてを、「訳語変更、略語方式、隠蔽方式」にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。
(表3) コミンテルン型前衛党の崩壊過程と度合
プロレタリア独裁理論 |
民主主義的中央集権制 |
前衛党概念 |
マルクス・レーニン主義 |
政党形態 |
|
イタリア |
76放棄 |
89放棄 |
放棄 |
放棄 |
91左翼民主党 |
イギリス |
解党 |
解党 |
解党 |
解党 |
91解党 |
スペイン |
70前半放棄 |
91放棄 |
放棄 |
放棄 |
83に3分裂 |
フランス |
76放棄 |
94放棄 |
? |
94放棄 |
共産党名 |
旧東欧9カ国 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
89崩壊 |
旧ソ連 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
91崩壊 |
ポルトガル |
74放棄 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
日本 |
訳語変更堅持 |
略語で堅持 |
隠蔽・堅持 |
訳語変更堅持 |
共産党名 |
この(表)において、レーニン型前衛党が大転換・解党・分裂・崩壊したソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域では、20世紀末以降で、一般国民や左翼勢力のほとんどが、次のレベルの認識を持つに至ったと言えよう。それは、「1917年10月、レーニンがしたことは、革命ではなく、一党独裁狙いの権力奪取クーデターだった」、「4000万人粛清犯罪者のスターリンだけでなく、レーニン自身がクーデター政権を維持するために、ロシア革命・ソヴィエト勢力数十万人を赤色テロルで殺害した大量殺人犯罪者だった」とする「十月体制」認識内容がほぼ常識になった。そのような国民・左翼の劇的な認識転換・強烈な圧力を受けなければ、コミンテルン型前衛党がかくも脆く、いっせいに崩壊しなかったであろう。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
加藤哲郎(一橋大学教授)は、2002年、HPにおいて、日本の社会主義史を検証し、「日本共産党の自然死」展望を分析した。私は、それに基づいて、日本共産党が自然死と衰弱死に至る歴史と展望をHPで分析した。自然死とは、衆参院国会議席が各3議席以下になる状態を示す。衰弱死とは、共産党党勢力が5分野すべてにおいて衰退して行く傾向を意味する。それを証明する細部の根拠は膨大になる。ここでは、それを裏付ける表を3つだけ載せ、説明に代える。HPでは、詳細な検証をしている。
加藤哲郎『日本の社会主義運動の現在』末尾−日本共産党はいったん自然死
〔小目次〕
1、日本共産党が衆参院国会議席において自然死に至る展望 (表4)
2、党勢力5分野すべてにおける衰退データと衰弱死の見通し (表5、6)
1、日本共産党が衆参院国会議席において自然死に至る展望
(1)東京都議選結果と、(2)統一地方選前半戦の道府県議選結果とを含めた2000年以降の日本共産党10年間における選挙結果を検証すると何が見えてくるか。それは、日本共産党が選挙13連敗政党になった事実を示している。不破規約・綱領という不破路線・体質・人事体制確立は、2000年だった。それ以降の10年間、議席・得票数・得票率すべてで、惨敗を続けている。それは、党内民主主義を抑圧し続ける反民主主義政党にたいする当然の有権者審判結果である。
『不破規約路線の確立経過と本質−3人独裁政党』2000年第22回大会
(1)(2)の選挙結果は、国政選挙に連動し、国政選挙並みの位置づけをする必要が生まれている。都議選・道府県議選を合わせた日本共産党の選挙13連続惨敗データは何を示すのか。4つの選挙種類が異なるが、ここでは時系列データにした。種類ごとのデータは、それぞれの別ファイルにある。(表)の増減は同種選挙の比較である。
(表4) 衆院選・参院選・都議選・道府県議選13連続惨敗
年 |
種類 |
議席 |
得票数・万 |
得票率・% |
備考 |
|||
増減 |
増減 |
増減 |
得票数増の真相 |
|||||
00年 |
衆院選 |
26→20 |
−6 |
663 |
−47 |
11.23 |
−1.32 |
|
01年 |
都議選 |
26→15 |
−11 |
74.8 |
−5.5 |
15.63 |
−5.7 |
|
01年 |
参院選 |
15→5 |
−10 |
432.9 |
−386.6 |
7.91 |
−6.69 |
|
03年 |
県議選 |
152→107 |
−45 |
320.7 |
−105.6 |
8.63 |
−1.87 |
|
03年 |
衆院選 |
20→9 |
−11 |
459 |
−204 |
7.76 |
−3.47 |
|
04年 |
参院選 |
5→4 |
−1 |
436.3 |
+3.4 |
7.80 |
−0.11 |
実質数万票減 |
05年 |
都議選 |
15→13 |
−2 |
68.0 |
−6.7 |
15.57 |
−0.06 |
|
05年 |
衆院選 |
9→9 |
±0 |
492 |
+33 |
7.25 |
−0.51 |
実質30.1万票減 |
07年 |
県議選 |
107→100 |
−7 |
285.7 |
−35.0 |
7.49 |
−1.14 |
|
07年 |
参院選 |
5→3 |
−2 |
440.8 |
+4.5 |
7.48 |
−0.32 |
実質17.7万票減 |
09年 |
都議選 |
13→8 |
−5 |
70.7 |
+2.7 |
12.56 |
−3.01 |
実質13.2万票減 |
09年 |
衆院選 |
9→9 |
±0 |
494.4 |
+2.4 |
7.03 |
−0.22 |
実質15.5万票減 |
10年 |
参院選 |
4→3 |
−1 |
356.3 |
−84.4 |
6.10 |
−1.38 |
|
11年 |
県議選 |
(減る) |
(減る) |
(減る) |
||||
13以前 |
衆院選 |
9→(7?) |
(−2) |
(定数削減→4?) |
||||
13年 |
参院選 |
3→(2?) |
(−1) |
(定数削減→1?) |
得票数・投票率は比例代表。参院選半数改選議席→当選議席
県議選データは道府県議選結果、次回は11年4月10日
このデータを見ると、2000年以降、東京都議選・道府県議選だけでなく、衆院選、参院選においても、日本共産党は、衆院選2回の±0議席を除いて、議席と、得票率をすべて減らしている。総選挙・参院選・都議選の得票数増加5回は、投票率アップによるもので、実質的には、(表)備考欄のように5回とも得票数を減らしている。実質的得票数減少5回データを合わせれば、得票数も13回連続惨敗政党になった。
2、党勢力5分野すべてにおける衰退データと衰弱死の見通し
志位和夫は、2010年9月2中総において、日本共産党の衰弱死テンポアップを告白・証明した。それを2つの表で検証する。
まず、党勢力5分野の2010年代展望=機械的なシミュレーションを試みる。その基礎データは、第25回大会公表数値や各中央委員会決定と、総務省政治資金報告書である。
ただし、分野によっては、比較期間が異なる。そこで、それらを1年間数値に換算した。それらが同じテンポで衰退するとの推計で、2020年までの10倍にした。もちろん、同じテンポとは、仮定にすぎない。これは、志位和夫による支部・党員騙しの空想的社会主義10年間シミュレーションにたいするアンチ・シミュレーションである。衰退テンポが10年間中に加速する確率も高い。そのケースでは、20年衰弱度データはもっと変わる。なお。党財政数値は、最新の2009年度の総務省報告に変更した。
(表5) 党勢力5分野2010年代展望=シミュレーション
5分野 |
比較年度 |
数値 |
比較期間 |
1年間換算 |
10年間シミュ |
20年衰弱度 |
1、党員数 |
00第22回 2008 |
266871 257402 |
8年−9469 |
−1183 |
−11830 |
245572 |
2、読者数 |
00第22回 10第25回 |
199.0万人 145.4万人 |
10年−53.6万人 |
−5.36万人 |
−53.6万人 |
91.8万人 |
3、支部数 |
1995 2008 |
28000 22000 |
13年−6000 |
−461支部 |
−4610支部 |
17390 |
4、党財政 |
党費2001 2009 機関紙01 2009 |
12.6億円 8.9億円 291.7億円 214.1億円 |
8年−3.7億円 8年−77.6億円 |
−0.46億円 −9.7億円 |
−4.6億円 −97億円 |
4.3億円 117.1億円 |
5、民青数 |
1972 現在 |
20万人 2万以下? |
38年−18万人 |
−550人 (07年) |
−5500人 |
1.4.万人 |
2001年・09年の数値は、共産党が総務省に報告した政治資金報告書データ
支部数08年データは、中央委員会報告。民青07年データは民青大会報告
衰弱度とは、10年後の2020年1月推計→衰退テンポが加速すれば?
このシミュレーションにおける最大の衰弱死危機の引き金は、(1)赤旗読者数激減と、(2)それに伴う機関紙収入激減である。毎年の党財政は、約83%を機関紙収入に依存してきた。1980年赤旗ピーク355万部→20年後の2000年199.0万部→その10年後の2010年145.4万部→また10年後の2020年1月91.8万部となる。ピーク時点にたいし、30年間連続減紙政党なので、今後10年間で赤旗部数が増えることはない。さらに減り続ける。党勢拡大サボタージュ党員数・支部数の比率は、10年間でさらに高まる。
(表6) 志位が2中総で告白・証明した衰弱死テンポアップ
2010年1月第25回大会決定の減紙力
5分野 |
衰弱死テンポアップ内容 |
1、党員数 |
公表党員数40.6万人というウソ→党費納入党員62.0%・25.172万人。復帰不能党員15.428万人 年齢構成比−65歳以上97年2割→10年4割。綱領読了率40.6%・16.4836万人=党費納入党員中8.6万人・34.1%が未読 |
2、読者数 |
2中総公表140万部弱。綱領全面改定の第23回大会比、日刊紙30万部×83%=24.9万部、日曜版143万部×79.7%=113.9万部、HN合計138.8万部。10年1月第25回大会145.4万部より、9カ月間で6.6万部もの大量連続減紙。 赤旗党生活欄公表の減紙経過−10年2月わずかに後退、3月H1069減紙・N1739減紙、4月H1300減紙・N8000減紙、5月公表なし、6月HN5799増紙、7月H6000以上減紙・N40000近い減紙、8月HN合計で13000近い減紙、9月H1000以上減紙・N5000以上減紙=党大会決定の減紙力・赤旗読者連続蹴散らし力を証明 |
3、支部数 |
1カ月間支部会議なし20%×22000支部=実質的な崩壊か解党選択4400支部。党生活の乱れ。残存17600支部。 1995年28000支部から15年間で10400支部・37%が崩壊か支部解党を選択 |
4、党財政 |
党費納入率63%→62%に下落。党費機関紙収入2001年342.8億円→08年249.6億円に激減。7年間で、93.2億円・27.2%減収→党機関財政破綻→専従の大量リストラ。 地区専従1997年1376人→10年918人、13年間で、専従458人・33.2%をリストラ、地区レベルは退職金なし、全専従は失業保険なし。党専従全体の推計4000人×33.2%=1328人をリストラ。残存する専従は全党で約2700人。専従がいなくなった地区11=実質的な崩壊地区、地区数は315→304地区に減少 |
5、民青数 |
10年73地区が再建。1972年民青20万人・315地区→72年新日和見主義事件=宮本・不破による対民青クーデターという民青破壊犯罪→2.3万人に激減→94年民青全地区廃止命令→05年地区再建方針に逆転換→10年第25回大会時点、再建65地区→10年9月2中総、73地区再建、242民青地区崩壊のまま |
『第25回大会中央委員会報告・決議の行間を読む』2010年1月5分野データ
『衰弱死テンポアップを告白・証明した2中総』2010年9月
不破規約・綱領の党衰弱化力を証明するデータだけではない。志位和夫は、「不破綱領の生命力」賛美だけでなく、何度も、10年1月第25回大会決定の力を自画自賛している。しかし、党大会決定の減紙力=赤旗読者蹴散らし力は、9カ月間で6.6万部もの大量連続減紙データで証明された。
1937年名古屋市生まれ。1959年名古屋大学経済学部卒業。3年間民間会社で勤務。職場の共産党細胞長→民青地区委員長・専従→名古屋の共産党専従(現在では5つの地区委員長)→愛知県選対部員。民青・共産党専従経歴15年間。
共産党専従時期に、愛知県常任委員会・党中央の極端で一面的な赤旗拡大の誤りを正規の会議で批判したことにより、21日間の監禁査問を受けた。再度の批判発言にたいする報復として、専従解任をされた。そのような党内犯罪に怒って、党内で報復批判の闘争を1年8カ月間続け、1977年第14回大会に、警告処分・報復的専従解任を撤回せよとの党大会上訴。それは無審査・無採決・30秒で却下された。
『日本共産党との裁判第1〜8部』21日間の監禁査問〜民事裁判
そこで、1977年、名古屋地裁に専従解任不当の民事裁判を提訴した。憲法の裁判請求権を行使したことを唯一の直接理由として除名。
住所 〒482−0006 愛知県岩倉市稲荷町羽根12−17
HP検索→漢字で「宮地健一」 メール mel-ken@mxw.mesh.ne.jp
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『日本共産党との裁判第1〜8部』21日間の監禁査問〜民事裁判
『逆説の戦後日本共産党史1〜11』ファイル多数
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル32編+56編
加藤哲郎『日本の社会主義運動の現在』末尾−日本共産党はいったん自然死
『第25回大会中央委員会報告・決議の行間を読む』2010年1月5分野データ
『衰弱死テンポアップを告白・証明した2中総』2010年9月