速水透はかく語りき




人間は、確かに主観から抜け出すことができない。しかし、それを百も承知で抜け出そう。


唯物論は神を否定するものではない。なんとなれば、宇宙全体が神そのものだからである。


運動とは、動いている物体そのものではない。あくまでも、そのデータにすぎない。


時間とは、脳内における単なる情報処理の手法にすぎない。脳外に時間は無い。


人間はなぜ生きるのか。それは人間が人間として生きるようにできているからである。


点とは、有なのに無、無なのに有という矛盾した概念である。


位置とは、主観外にあるものではない。あくまでも主観内のものである。


決定論は正しい。だからこそ、何ものにもとらわれない自由意志が貴いのだ。


俺がやらなきゃ誰がやる。意地があっての男じゃないか。


学問には無駄は無い。誤った学説にも、それなりの価値があるからだ。


失敗してもいい、馬鹿にされてもいい。生きていく上でのポイントは、無事故と金だ。


ベートーヴェン作曲 ロマンス第2番 ヘ長調 はいい。なんという強烈な性欲の昇華だろう。


数学ってのは近似だからね。数学で「アキレスと亀」を解いても、意味無いじゃん。


嘘つきは泥棒の始まり。人を馬鹿にするのは人殺しの始まり。


在ることと動いてること同じこと


「点」とは?客観的実在か?主観的思考の世界における概念か?


「物体の運動」と言うのは「動いている物体」自体を除けば全て主観的であると言える。
「動いている物体」自体は100パーセント、客観的実在だが、あとは全て100パーセ
ント、主観的作業である。つまり、運動の連続性(-)も時計による時刻における位置も
軌跡も全て主観的作業である。「勘違いの一般的常識的客観的運動」と言うのは単なる幻
想にすぎない。客観的に実在するのは、位置の糸を引かずに動いている物体と空間だけで
ある。位置を定める座標軸も時計によって時刻を知るという行為も主観的であることは言
うまでもない。これによって、「運動」とセットになっている「客観的時間」も実は主観
的であるということが解る。


「動いている物体」は位置の「尾」、「糸」など引かない。なぜなら、位置は主観的であ
り、過去はことごとく消滅するからだ。ではなぜ実際にはない「軌跡」などというものが
有効なのか?それは「軌跡(あくまでも線)」が「運動」におけるデータ(点時刻表示、
あくまでも点)の「近似」であり、決して「運動」におけるデータにとって不都合なもの
ではないからである。この「軌跡」の「連続」、「連続性」というのは、人間の筆記用具
で線を引くという極めて原始的な行為に由来しているのではないだろうか。その行為は、
あまりにも平易で、無意識的だ。


点と点をつなぐ線などというものは残念ながら主観外に実在しない。
点さえ主観外に実在しないのだから。つまり、線とは主観的思考の
世界において生み出された単なる概念に過ぎないのである。


「物体Aの運動」を考える場合、「運動」はデータであり、とらえ
方である。「運動」は「動いている物体A」自体ではない。大体、
「物体A」と名付けて、その物体に注目することがすでに主観的作
業。「位置」や「軌跡」も言わずもがななのである。


そうか、そうだったのか。「時刻」というのも主観的作業なんだ。
ほら、「過去」は消滅するけど、「時刻」は残るでしょ。だからだ
よ。そりゃそうだろうな、「時刻」なんてものが主観外にあるはず
がない。と言うことは、「時間間隔」も主観的作業か。


数学の近似はなぜ有効なのか?それは、完璧な円、完璧な
正方形などが現実には存在しないからであろう。


境界線は全く主観的だ。「物自体」という限定も全く主観的であるが、客観的にも有効ではある。




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