「田口・不破論争」と雑誌『現代と思想』

伽藍が赤かったとき−1970年代を考える−

小島亮・田口富久治

〔目次〕

   1、宮地コメント「田口・不破論争」の国際的・歴史的位置づけ

   2、小島亮−はじめに(全文)

   3、『伽藍が赤かったとき−1970年代を考える−』目次(全文)

   4、第1部内3−「田口・不破論争」と雑誌『現代と思想』(全文)

   5、討論者略歴(第1部内・目次3の討論者4人のみ)

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』当初「反革命」→82年「反革命」撤回

    田口富久治『21世紀における社会主義と日本国憲法の命運』

           『どこへ行く日本共産党』

           『21世紀における資本主義と社会主義』

           『マルクス主義とは何であったか?』

           『丸山先生から教えられたこと。共産党の丸山批判問題』

           『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクス

           『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

           『丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず』

 

 1、宮地コメント「田口・不破論争」の国際的・歴史的位置づけ

 

 これは、中部大学ブックシリーズActa18『伽藍が赤かったとき−1970年代を考える−』(2012年2月20日発行、167頁)の内、第1部内3−「田口・不破論争」と雑誌『現代と思想』(全文)である。このHPに転載することについては、小島亮中部大学教授と田口富久治名古屋大学名誉教授の了解をいただいている。

 

 「田口・不破論争」が1970年代にあった事実はよく知られている。しかし、その経緯や内容を、2012年になって再検証することは、当時の()日本政治史と()国際共産主義運動史を見直す上で重要だと考える。しかも、田口富久治教授の口から「田口・不破論争」の生々しい状況が討論会において語られるのは初めてであろう。

 

 宮地コメントとして、論争の国際的・歴史的背景である『コミンテルン型共産主義運動の現状』ファイルと『民主主義的中央集権制』問題ファイルのリンクを載せる。

 

    『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り

    『民主主義的中央集権制』日本・フランス・イタリア共産党関係のファイル多数

 

 また、「田口・不破論争」史を理解する上で、宮本顕治によるユーロコミュニズムへの急接近と離脱=逆旋回クーデター4連続粛清事件の経過も重要である。この論争こそは、4連続粛清事件の最初になる「ネオ・マル粛清事件」のスタートになった。

 

    通称『ネオ・マル粛清』「田口・不破論争」1978年〜「高橋彦博除籍」94年

 

 1967年、日本共産党・宮本顕治は、ソ連共産党との決裂に次いで、中国共産党とも決裂した。当時、国際共産主義運動は、ソ中両党の絶対的権威に基づく支配→実質的な隷従関係が続いていた。ルーマニア・チャウシェスク共産党とだけ共産主義友党関係をかろうじて保っていた。ユーロコミュニズム運動勃発の1970年代後半まで、日本共産党は国際共産主義運動における完全孤立政党だった。ヨーロッパの共産党は、ソ連共産党断絶している宮本顕治にたいし、対等平等の新しいコミュニズム運動への参加を呼びかけた。

 

 彼は、完全孤立からの脱出策に飛びついた。そして、ユーロコミュニズム型共産党急接近をした。その緊密度レベルは、ユーロ・ジャポネコミュニズムと言われるまでになった。

 

 75年9月20〜29日、イタリア共産党代表団来日→共同コミュニケを発表した。

 75年10月12〜19日、フランス共産党代表団来日→共同コミュニケを発表した。

 75年12月14日、スペイン・イタリア両共産党共催のスペイン人民との国際連帯集会に出席した。

 

 76年2月4〜8日、フランス共産党第22回大会に党代表団が出席した。

 76年3月27〜31日、スペイン共産党代表団来日→共同声明を発表した。

 76年4月4〜10日、フランス共産党共産党マルシェ書記長来日→共同声明を発表した。

 76年7月28〜30日、第13回臨時党大会で、「自由と民主主義の宣言」を採択した。

 

 77年1月10〜20日、党の不破哲三代表団がイタリア訪問→イタリア共産党と共同声明を発表した。

 77年1月10〜20日、イギリス共産党代表団来日→共同声明を発表した。

 78年4月19〜23日、スペイン共産党第9回大会に党代表団が出席した。

 79年5月9〜13日、フランス共産党第23回大会に党代表団が出席した。

 

 これらのデータは、すべて『日本共産党の七十年・党史年表』(1994年出版)からピックアップした。この期間中、共産党月刊誌『世界政治資料』が出版されていた。それは、毎号のように、イタリア・フランス・スペイン・イギリス共産党のユーロコミュニズム関連論文全訳を載せていた。ただ、この月刊誌は、それ以降の赤旗部数激減による赤字を原因として廃刊になった。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

      第1ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件

        通称『ネオ・マル粛清』「田口・不破論争」1978年〜「高橋彦博除籍」94年

        その一つ「上田・不破査問事件」1982年

 

 しかし、宮本顕治の嗅覚は、鋭かった。彼は、ユーロコミュニズムに急接近し、会談を重ねた。その中で、それらヨーロッパの共産党レーニンの民主主義的中央集権制・分派禁止規定放棄する兆候嗅ぎ取った放棄になれば、彼の権威は全面失墜する。彼は日本共産党史上もっとも自己保身性が強烈な独裁者だった。また、熱烈なスターリン信奉者として、そうなることを許せなかった。彼の異様なまでのスターリン崇拝度は、別ファイルに書いた。

 

    『シベリア抑留における日本共産党・宮本顕治の反国民的隷従犯罪』

 

 そして、「田口・不破論争」をスタートとし、ユーロコミュニズムから日本共産党を逆旋回させることを決断した。それを遂行する手段として4連続粛清事件=党内クーデターという荒療治を選択した。

 

 ユーロコミュニズム型共産党が、レーニンの反民主主義的犯罪的組織原則・軍事的規律全面否定し、放棄するに至る危険性=宮本顕治の恐怖は間もなく現実となった。

 

 イタリア共産党の動向

 

 76年、大会でマルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」用語を放棄した。

 86年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。

 87年の中央委員会のオッケット報告(当時副書記長)において党の刷新を提起し、「『複数の提案』をめぐって展開するという慣習を形成する」という提言を行った。

 89年、第18回大会において、強力な改良主義路線を採択し、レーニンの民主主義的中央集権制と分派禁止規定放棄した。同年、東欧9カ国と前衛党がいっせい崩壊した。

 

 90年、第19回大会にむけて3つの大会議案が提案された。第1議案(オッケット議案)が67%の支持で採択された。そこでの中央委員の選出はその3つの各議案の得票に比例配分するというシステムで行われた。

 

 91年、第20回大会も3つの大会議案が提案された。党名もイタリア左翼民主党に変更し、新規約を採択した。それは、ソ連崩壊と同じ年だった。その党大会は、マルクス・レーニン主義との断絶的刷新=全面放棄を宣言した。そこでは旧来の党との違い、何と断絶し、何を継承し、転換するかが明確にされている。その中で主として以下の4点でその断絶的刷新を、リンクで見てみる。

 

    第1、社会主義観の転換→政治、経済、市民社会の漸次的な民主主義化

    第2、革命路線と断絶→強力な改良主義へ転換

    第3、前衛党概念の否定・放棄、イデオロギー的党否定→自ら限界の原理

    第4、民主主義的中央集権制と断絶→指導部統制の原理と多元主義

 

    『イタリア左翼民主党の規約を読む』上記4点、添付・左翼民主党規約

 

 フランス共産党の動向

 

 76年、第22回大会でマルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」理論放棄した。

 85年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなった。

 94年、第28回大会で、レーニンの民主主義的中央集権制・分派禁止規定放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」自己批判した。

 

 ソ連崩壊数年後の党大会で、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。

 

    wikipedia『ユーロコミュニズム』

 

 

 2、小島亮−はじめに (全文)

 

 1960年代を「懐かしい昭和」として振り返るとしても、躍動的なラディカルズの時代として理想化するとしても、もうひとつ一緒に考えなければいけない重要な時代を忘れてはいないだろうか

 

 それは1970年代である。この時代について、「現在からもっとも間近にある歴史的過去」とでも形容するとよく分かるかも知れない。「歴史的」なる仰々しいコトバを冠する所以は、21世紀の「ただ今現在」的社会通念からすぐさま理解できない「歴史的異次元」の領域に属するからに他ならない。1980年代は、「ただ今現在」と違ってバブル経済の絶頂に向かう経済好況に湧き、IT革命やモバイル技術も存在しなかったけれど、社会の相貌には思想的表現も含めて現時点と同一性を多く見出せる。別言すると、1970年代は「現在史」とは違った「現代史」の直前段階であり、1960年代のように完壁な歴史的過去でもない分、やや捉えにくさを否めなかったのであった。

 

 60年代を色に喩えれば「赤」になるに違いない。しかし70年代は「虹色」にも映るし、「虹の7色」を混ぜるとそうなるように「灰色」にもイメージできるだろう。その「灰色」にしても黒ずんでいたり、あるいは白銀に輝いて見えたりもする多義性を有している。通りいっぺんの概念で割り切ろうと考えても一筋縄でゆかず、「ただ今現在」にはまったく忘れられた意外な事実に満ちた時代でもある。この冊子を『伽藍が赤かったとき』と名打ったのは、複雑形の色模様の中で、知的・社会的制度の中枢部に「赤」が塗り込められた矛盾した光景を諧謔的に表現しようと試みたためであった。

 

 この冊子は、70年代にオピニオン・リーダーであった世代(諏訪兼位、田口富久治)、思想形成の途上にあった世代(小島亮)、生まれてもいなかった世代(岩間優希、影浦順子、竹川慎吾)のディスカッションを中心に、「1970年代研究への少し骨のある入門書」を目指したものである。討論記録に「概論的序説」と称するやや論争的な小論を三編書き下ろし、不十分ながらも解説的な配慮を心がけた。また各編には詳細な注釈を付けたが、とりわけディスカッションに加えた小島によるそれは、論争的「奇態」を確信犯的に衒っている。1970年代に『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を通過した世代として、批評的媒介の東道役を敢えて引き受けたかったからである。

 

 ネット情報から容易に検索ができることもあって、著名人名などは簡単に略記し、一方、忘れ去られつつある人物や事績については詳述した。この個性的な注釈は単独で楽しんでいただけるのではないかとも考える。

 

 元来、「第1部」は中部大学発行の総合学術誌『アリーナ』に収録するために開催したものであったが、編集過程で冊子にするアイデアを思いついた。企画に賛同され援助を惜しまれなかった中部大学総合学術研究院長・後藤俊夫先生に心から謝意を申し上げたい。また編集上のヒントを与えてくれた伊藤めぐみ君(中部大学国際関係学部小島ゼミナール卒業、東京大学大学院総合文化研究科修了。現在番組制作会社に勤務)にも感謝したく思う。

 

 もちろん、不躾な私たちを許容下さり、多くの興味深いお話をいただいた諏訪兼位、田口富久治先生にお礼を申し上げることは改めて言うまでもない。歴史の叡智に接した感動とともに田口邸を辞した秋の日をわれわれ一同は決して忘れることはないだろう。バス停まで田口先生が出迎えて下さった昼下がりは雨模様であったが、両先生に見送られて田口邸を辞した黄昏時、果たせるかな、晴れ上がった夕空に爽やかな秋風がほのかに吹いていた。われわれの去った日進香久山の杜では、きっとミネルヴァの梟が飛び立って啼き始めたと推測する。

 

 

 3、『伽藍が赤かったとき−1970年代を考える−』目次 (全文)

 

 はじめに

 第1部 人民戦線・「田口・不破論争」・名古屋知識人

 −諏訪兼位・田口富久治教授に聞く−

 1970年代を振り返る意味 10

 科学者の70年代 33

 「田口・不破論争」と雑誌『現代と思想』 45

 『現代と思想』と名古屋知識人 79

 

 第2部 1970年代を考えるための概論的序説

 1970年代を再検討するために       小島亮           108

 1970年代の世界と日本           岩間優希          129

 1970年代の日本経済−通貨危機と石油危機のなかで 影浦順子  138

 

 第3部 1960〜1980年略年表 竹川慎吾 146

 

 

 4、第1部内3−「田口・不破論争」と雑誌『現代と思想』 (全文)

 

 小島 ここで田口先生に70年代をめぐってお話をうかがいたいと思います。

 

 田口 ユーロコミュニズムをどのように見るのか。日本のコミュニズムとその相違点などをどう考えるべきか。これはずいぶん書いているはずです。それから市民社会論の再評価をどのように現時点で考えるべきか。70年代の意義と革新自治体の再検討については、諏訪先生が先ほどエピソードフルに言ってくださった点に関わりますね。

 

 それから、「田口・不破論争」の回顧。理論的な整理もさることながら、政治史的に回顧をお願いしますということですが、どうも政治史的な回顧というのがなかなか難しいのですね。不破哲三さんと私との論争についての回顧というのは、皆さんのなかでお読みくださった方がいらっしゃるかもしれませんが、1995年の10月30日に、近代文芸社から『解放と自己実現の政治学』という本を出しているんです。このなかで、「田口・不破論争」のことについては、かなり詳しく触れております。その部分をまず読み返してみたいと思います。

 

 ここで70年代の最後の年から80年代最初の年にかけて行われた田口・不破論争に触れておきます。この論争は私が70年代の後半に探求した先進国革命論に関連し、そのあるべき社会主義像と不可分な前衛党組織のあり方について考慮をしたことに対し(『先進国革命と多元的社会主義』大月書店、1978年)、その後共産党の委員長になった不破書記長が、『前衛』という雑誌(79年1月号)に、「科学的社会主轟か多元主義か!(田口理論)の批判的研究」という論文を発表したことにはじまります。

 

 これについて、私も『前衛』誌に反論を書きましたが(同誌79年9月号)、これについて不破氏はさらに再批判を書いたわけです(「前衛党の組織問題と田口理論」、『前衛』80年3月号)。私はこれについては直接には再反論は書かずに、82年の9月に出した『多元的社会主義の政治像』(青木書店)という本のなかで不破氏との論争を私のサイドから総括しました。ここで私は多数者革命という発達した資本主義社会における革命の条件に適合的な政党をつくるためには、その政治主体のあり方そのものを根本的に市民社会的なもの、民主的なものに転換させていかなければならないと指摘したのです。

 

 この論争から13〜4年たつわけですが、私が指摘した民主的な政治主体の問題は現代においてますます重要切実なものになってきていると思います。民主集中制という組織原則なるものを、上から下への官僚的コントロール、統制の道具にしていくというやり方は改めるべきだ、こうした運用を改めない限り、国民の多数を獲得するというけれども、その国民の圧倒的多数を獲得することは不可能であろうという、そういう基本的な命題のところでは私の主張がまったく正しかったと考えております。このことはその後の国際共産主義運動の歴史が証明したところでもあります。

 

 しかし、同時に、この論争について反省しなければならないところもあります。といいますのは、論争の技術的なやり方といいますか、この点では失敗したというように考えております。それはどういうことかといいますと、この論争が結局のところ、マルクス、エンゲルス、レーニン、特にレーニンの前衛党の組織原則についての解釈論が中心になってしまったということです。実は、私が提起した問題というのは、マルクス・レーニン主義、これは科学的社会主義といいかえられているようですが、その組織原則とされてきたものに対する解釈論の次元では解決できるような性格の問題ではまったくなかったのです。

 

 このことを十分自覚しなかったせいで、そうした教義体系を前提とした議論に導かれ、どちらが正統な教義の観点を保持しているか、どちらかその正統な観点から外れて異端であるかというような議論にコミットする結果となったわけですが、これは失敗だったと思います。

 

 この問題については、レーニンがどの時点でどう言おうとも、現在の具体的な状況から要請されている組織の運営のあり方というものが、徹底的に民主的なものでなければならない、そうでなければその政党の政治的有効性というもの、また現代的な意味での正統性というものが保証されないということを出発点にして議論をはじめるべきでした。この点、私の方に論争上の手続きミスといいますか、不十分なところがありました。

 

 不破氏の方にも、デュヴェルジェの『政党論』のなかの文章をわけの判らない訳文で引用したりしていて、私に反論されて手直ししたりするようなイージィ・ミスもありましたが、基本的には以上の二点が現在の私の論争評価です。

 (田口富久治『解放と自己実現の政治学−マルクスと共に、マルクスを超えて近代文芸社、1995年、224〜226頁)

 

 先にもう一つのメディアとしての『現代と思の再評価という点についてから始めましょうか。この雑誌は1970年の10月に創刊し、終刊は1980年ですから70年代と運命を完全にともにしたのです。まさにこの時期に40号も出たんですね。私がこの雑誌ではかなり中心的な役割をどうもしていたようですね。このとき、青木書店の編集長をやっていた江口十四一氏には、どうも大変ご迷惑をかけたのではないかと思います。つまり、当時の大月書店とか青木書店というのはだいたい代々木系の出版社でしたから、編集長なんかには大変ご迷惑をかけたのではないかなと、そういう反省はしております。

 

 この雑誌には私、本当に何回も登場していますね。十数回登場しているのかな。それで、これの終刊に当たりでのご挨拶というのも、これはなかのものです。これは当時の編集長が書いた文章で、これにはかなりある種のペーソスが含まれていますね。

 

 ごあいさつ―終刊にあたって

 本誌『現代と思想』は、季刊雑誌として一九七〇年十月に創刊し、この第四十号で満十年刊行してまいりました。本誌の「刊行目的」は、「民主勢力の統一戦線を思想的基盤とし、現代日本の思想的課題を追究するとともに、人文・社会科学の分野で、今日の独占段階に対応した理論的究明を、広い範囲にわたって深めてゆくこと」にありました。

 

 内外ともに激動する時代にあって、本誌がつつがなく刊行をつづけることができたのは、ひとえに読者ならびに執筆者のかたがたの惜しみない御協力とご支援の賜であると、深く感謝しております。その御支援にささえられて、本誌は、七〇年代をつうじ、わが国の理論戦線・思想戦線になにほどかの役割をはたしてきたものと考えています。

 

 しかし、今日の出版界は大きな変動の時期を迎え、新しい趣向を求める読者の一般的傾向も生まれています。こうした状況にかんがみ、本誌は創刊十年のこの第四十号をもって終刊し、変化しつづける客観的条件に適応する方法を求めることにいたしました。私たちは『現代と思想』がになった役割はそのまま小社の出版活動に共通することを、ここに改めて再確認し、今後さらに努力をかさねてゆきたいと考えています。みなさまのいっそうの御支援をお願いする次第です。

 一九八〇年七月一日 株式会社 青木書店 (『現代と思想』第40号、231頁)

 

 小島 あまり厳密に理論的な話というよりも、先生の個人的な思い出あたりから、少し口火を切っていただければと思います。『現代と思想』についてと「田口・不破論争」は極めて結びつきの深いテーマですので、両者は一緒にしてお話をお願いしたく思います。さらに、ここにいる面々の専門に応じて質問をさせていただきたいと考えます。

 

 田口 私と不破さんとの論争ということで言いますと、不破さんはもちろん日本共産党の主流派を代表していろいろ発言されているわけです。不破さんの上には、宮本顕治という大ボスがいたわけですから、私などの議論が非常に彼らの運動にとっては危険な要素をはらんでいた、そういうことだったんでしょうね。例えば民主集中制の問題ですね。これはもちろんレーニンがつくったいわゆる前衛政党の組織原則でしょう。その原則の下で、一つの全政党の政治的、思想的な一体感を図って、変革への道が開かれてくるという、そういう基本的な前提であったと思います。

 

 私が不破さんとの論争を通じて感じたことは、一つは、ツァーリズムの弾圧による一切の自由のない政治的状況の下でレーニンがつくった共産党の民主集中制の組織原則みたいなものと、日本国憲法が想定している、左翼政党も含めた政治体制とそれを構成する諸政党の組織的在り方みたいなものには、相当大きな違いがあるということでした。私は両者は逆の関係にあると考えていたのです。こういうことはあり得ないことでしたけれど、日本共産党のほうが戦後日本の憲法が想定している政治体制の中で自分たちの組織、あるいは大衆的な組織観の方向をそれに適合的に考えていかなければならない。組織論ではそういうところに重点を置くべきであろうというふうに考えていましたね。

 

 竹川 「田口・不破論争」について論争史を少し整理してみます。まずは1977年、論文「先進国革命と前衛党組織論−『民主集中制』の組織原則を中心に」が雑誌『現代と思想』(第29号)掲載されます。この論文に対して、同年の11月、共産党中央は関原利一郎というペンネーム(榊利夫、上田耕一郎ら四人共同執筆)で『赤旗 評論特集版』に「前衛党の組織原則の生命−田口富久治氏の『民主集中制論』の問題点」という批判論文を掲載しました。翌年に、田口先生は『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店、1978年)としてそれまでの主要論文を一冊にまとめられます。さらに翌年の1979年、不破哲三が『前衛』(第433号)に「科学的社会主義か『多元主義』か−田口理論の批判的研究」と題する論文を発表します。同年9月、田口先生は同誌において「多元的社会主義と前衛党組織論−不破氏の批判に答える」と題する不破批判の論文を発表して反論されています。そして1980年、不破はふたたび『前衛』(第448号)に「前衛党の組織間題と田口理論」という論文を発表し再反論を行ったという流れになります。

 

 僕もすべてをきちんと読んでいるわけではないので、たいしたことは言えないのですが、論争に関わる論文を読んだときに、異端審問のような印象を受けました。田口先生ご自身もおっしゃっていましたけれども、何が正統で何が異端かというような、原典の解釈論議に、最後は不破さんのほうが持っていったような印象がすごくあります。日本の現状を見たときに、今どうするべきかというよりも、どれが正しいレーニン像かとか、どれが正しいマルクス像かという、ある種の「絶対真理」を大前提にした解釈だけの論争になってしまったことです。これは田口先生にとっても、日本の創造的政治理論のあり方にとってもすごく残念だったのではないかと率直に思いました。問題がどう展開していてどのように創造せねばならないかではなく、問題にすることそのものを正邪で判断する時代錯誤です。もし論争がもう少しきちんとしたかたちで日本の政治のなかに反映されていて、たとえば社会党と共産党が何らかのかたちで組み合わせることができていたとしたら、いまの日本の政治も、また別の可能性を展望できていたと考えます。

 

 田口 論争に関連する私の基本的考えですが、1978年の『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店、1978年)というのは、この時点での私の考え方がかなり明瞭に出て、いますね。特に、ユーロコミュニズムとの関遭なんかも、かなりこれでは触れております。

 

 それから、もう一冊はこれの続きなのですが、『多元的社会主義の政治像−多元主義と民主集中制の研究』(青木書店、1982年)という本もあります。当時のヨーロッパのユーロコミュニズムの動きを私なりにまとめております。この『多元的社会主義の政治像』では、当時の西欧の共産党が組織原則についてどういう考え方を持っているかとかの理論問題もある程度触れています。現存する社会主義と官僚政府の問題もここに入っていますけれど、この二冊が、一番まとまってはいると思います。

 

 小島 田口先生、私は疑問に思うことがあるんです。宮本顕治自身が「ユーロ・ジャパニーズ・コミュニズム」なる言葉を振り回していた時期がありましたね。

 

 田口 そういったことがありましたね。

 

 小島 いま先生がお示しくださった本というのは、一冊は大月書店、一冊は青木書店で、これは先生が先ほどもご発言になったように、言わずと知れた共産党系の出版社でしたよね。

 

 田口 そうです。両方ともそうでしょうね。

 

 小島 ほぼ同時期の1977年、藤井一行さん、高岡健次郎さんと中野徹三さんの『スターリン問題研究序説』(大月書店、1977年)という本が出て、これも大月書店が版元だったんですね。この三人の執筆者は、だいたい1930年にお生まれで当時40歳代の後半、すなわち田口先生と完全に同時代人で、田口先生を含めて「新しい潮流」の中心人物とみなされていたのでした。

 

 さらにイタリア共産党のジュゼッペ・ボッファの渾身の大作『ソ連邦史』(坂井信義・大久保昭男訳、全4巻、大月書店、1979〜1980年)の翻訳も忘れてはいけません。このとてつもない力篇は、ソ連史を内在的に捉えたEH・カーと異なり、ある意味ではロシア革命への墓碑銘を刻する衝撃作なのでした。

 

 日本共産党の御用出版社と言ったら悪いですけれど、体制出版社が、明らかにレーニン型の党原則、あるいは旧来のレーニンースターリン型の共産党の組織原則みたいなものを、いわばこき下ろすような書物を次々と出しているわけです。これはきっと民主集中制論みたいなものを、共産党は思い切って放棄をして、手を切るための伏線でぁったと見られませんでしょうか。伏線と言って語弊があれば、ひとつの観測船を航行させるつもりで「承認せずとも否定せず」黙認を決め込んでいたのではないでしょうか。様子を日和見して、場合によっては、先生がご提唱になったような、多元的社会主義のような組織原則を日本の当用しよう、と考えていたとも推測できます。

 

 中国共産党の百家争鳴政策と同じよう戦術がここでとられていて、あまりにも激烈な党組織論批判の高まりとそれに反比例する党勢の後退にあわてて、共産党指導部の宮本などは一種の反右派闘争に路線転換したような結果になったと考えられませんか。さらにこの時期に宮本にとって頭を痛めたのは袴田里見の事件ではなかったかと思います。77年、袴田は宮本の党建設路線を批判し、その批判点そのものは毎度おなじみのものだったのですが、時期柄、「党内部の問題を党外に公表する」典型例を示すことになり、これは宮本などにとって悪夢以外のなにものでもなかったと想像します。

 

 翌年「昨日の同志、宮本顕治へ」(『週刊新潮』1978年1月12日号)でしたでしょうか。私も急いで買いに走った記憶があります。袴田の書いている事実そのものは「またか」と言ったやや陳腐な感を受けました。何しろ立花隆氏の大傑作『日本共産党の研究』(上下、講談社、1978年)がすでに出ていましたので、暴露的なインパクトは後の野坂参三のときに比べて小さかったのではないかと思います。ただし民主集中制を緩めると宮本の権力的支配は一夜にして崩壊しかねない可能性をこのときに思い知ったのではないでしょぅか。

 

 その証拠は、宮本らは理性を喪失し、昨日までの副委員長を批難する際に「袴田毒素」なる暴言を吐いて世間を呆れさせたことからわかります。「毒素」とは言いも言ったり。宮本はポルポトに相貌がちょっと似ていますが、私などは心の奥底もそっくりだろうと確信しました。

 

 話を戻しますと、おそらく党員も含めて、多くの人が民主集中制放棄の期待を抱いたに違いないと恩うんです。だってプロレタリアートの独裁なる概念をあっさり「執権」に変えて放棄したと思いきや、1976年の13回党大会では「労働者階級の権力」でしたか、これまた「執権」も放棄したくらいですので、民主集中制の放棄もあり得ると考えてもおかしくなかったと思います。

 

 そう言えば、この大会で「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」と言い換える決定もなされたはずです。この時期に大学生だった私はたくさんの冗談を思い出します。何か失敗したら「概念を放棄する」と言えばそれでいい、例えば借金も催促されたら「借金概念を放棄すれば」帳消しになるとか。日本史専攻の仲間は「執権」の次は「摂政」か「関白」になるのではないか、もしかすれば民主連合政府の首都は鎌倉かも知れないぜと大笑いをしたものです。共産党は「70年代の遅くない時期に」民主連合政府を作るとしていたスローガンも大評判でした。

 

 なかなか卒業できない先輩も「70年代の遅くない時期に」卒業を目指すと公言していていましたし、全然もてない男子学生も「70年代の遅くない時期に」ガールフレンドを見つけたいね、と言ったものです。だいたい、共産党にみんなが票を入れたのは、諏訪先生のご発言を踏まえれば、何も前衛党としての共産党を支持したのではなくて、新しい市民社会の現実に目を向けて、「いのちとくらしを守る」というスローガンを実現してくれそうだからでした。自民党政権が一切見捨ててしまったような弱い人間の立場を守ると多くの人は期待したのです。前衛党による革命などほとんどの人はごめんだと感じてはいなかったでしょうか。新しいタイプの共産党を、みんなが期待して支持をしていました。

 

 それに応えるかたちで、共産党も党原則みたいなものを思い切って修正しつつあるなという、期待感あふれる蜜月と言いましょうか、自由の空気が一瞬流れ込んで来たような感覚というのが、1970年代の中後期にあったと思います。今思い出すのですが、この時期、さっき竹川君の整理にも出てきた『赤旗評論特集版』でしたか、週刊のタブレット版のものが出ていたと記憶しています。私は『赤旗』という新聞は表現の「です・ます」調がアレルギーを起こすくらい嫌いでしたし、本当につまらない内容なので真面目に読んだことはなかったのですが、「評論特集版」にはとてつもなく面白い記事が載っていました。興味津々だったのは、共産党の活動を「市民的常識を踏まえてやりなさい」とか書いてあったことです。

 

 ある記事ではどこかの学生支部では30分に一回の無駄な「結集」をする一方、学生党員は学業落伍者揃いだとか批判していました。これはすごいや、きっと「市民的常識を踏まえない」党活動がこの政党の常態なんだな、とか考えたものです。また共産党の活動家学生が学業的にドロップアウト揃いであったことは、私の大学でも自明すぎる話でした。戦後の一時期、学生運動家は「カッコいい」連中でしたが、私の時代のとりわけ私の出身大学では「学生」とは名ばかりの程度の低い職業的党員か、好意的に言って80年代に島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』(福武書店、1983年)で描いた「変化屋」(革命家のせこいやつ)でしたね。ただそうした自己批判を率直にできるのはこの党にも希望があるな、と感じもしました。

 

 私なんかは皮肉な傍観者に過ぎなかったんですけれども、田口先生の多元的社会主義論を引き延ばせばレーニン的な党原則から逸脱していくなんていうことは、当たり前の話であつたと思いました。不破は自明のような議論をやってまで、田口先生の議論を排除しないといけなかったのかといぅのが、不思議で仕方なかったです。

 

 先ほどもちょっと申しあげましたけれど、創価学会と共産党みたいな、水と油みたいなものが、舞台裏で何かの協定を結んでもおかしくないくらい、国民は思いきった政治的変革に期待をしたんですね。とにかく自民党でなければいいと。ちょうど民主党が政権を取ったときと同じような、ユーフォリアが立ち現われたのです。

 

 田口先生、どうでしょうか。これはもう単純に、当事者としては謎ではないかもしれませんけれど。

 

 田口 何だろうな。つまり、宮本顕治氏は結局最後は不破君に追い出される格好になったわけです。だからやっぱり彼らの持っている、つまりレーニン主義的な組織原則というのが、どう言ったらいいのかな、党内問題なんか、政治の問題全体を考える場合の基本だよ。それはもう動かしがたいものだという前提があったんじゃないですか。

 

 だから、僕がいろいろなことを、つまり、周辺的なことを何か言っている場合には、それはそれほど問題にしないけれども、組織原則という一点にかかわると我慢できなくなる。それで、やっつけるということだったのではないでしょうか。組織フェティシズムとも言うべきなのでしょうか。

 

 小島 でも、ユーロコミュニズム自体は、レーニン的党原則というものを結果的に言ったら修正するような提案だったはずです。

 

 田口 もちろんそうです。

 

 小島 あれだけ共産党系の研究者も含めて、ユーロコミュニズム紹介ブームが起こったにもかかわらず、泰山鳴動してネズミ一匹も残らず、結果的には自滅する構造をつくったわけです。日本共産党は、まさに「田口・不破論争」をきっかけとして、知識人の支持を失っていって、果ては丸山眞男先生を批判する。江口朴郎先生とか、いわゆる同伴文化人と言われていた人が次々に脱党していきます。60年代には文学者や社会科学者を除名して宮本独裁体制が「お山の大将」よろしく成立し、70年代には有意の青年たちが去って「人民的議会主義」なるものを作りました。戦後の共産党は往年の早稲田大学もかくやの「一流は中退する」状況ではあったのでしたが、最後の最後まで残っていた「希望の灯」は「田口・不破論争」の収束する時点で消されたのです。

 

 これ以降の共産党には知的雰囲気のカケラもなくなりました。結果的に言ったら、共産党は小さな政党から「大きめのNGO」程度の存在に成り果てて、いまや消滅寸前という歴史をたどるわけです。田口先生を前にして、おこがましい意見なんですけれども、政治的思考をきちんとするならば、ああいう選択を共産党はとらなかったはずです。むしろイタリア共産党みたいに、思い切って党原則自体を放棄して党名も変えてしまう。こっちのほうがサバイバルのために、理性的な政治的行動ではなかったかという、単純なことを思ってしまうんですね。だって少数になりすぎたら政治的影響力も喪失し、時代錯誤者クラブに変形してしまうわけですから。

 

 田口 政治的にはそうだろうね。不破君はかつて代々木にあったマルクス・レーニン主義研究所、あれを神奈川の自宅付近にもっていっていますよね。彼の神奈川の土地、建物というのは大変なものですけれども、そこに共産党の付属の機関だった研究所をもっていって、そこにまた数名の研究員を抱えている。彼はまだ公式にも党の幹部会員でありますけれどね。幹部会員であるけれども、委員長ではないし、書記長でもないわけでしょう。それが、党の研究所といろいろな人員をあそこにもっていくというのは、いったいどういうことなんだという疑問を持っています*。あの人はよく分からんね。あえて言えば定年を迎えた日本最大の労働貴族と言うことかな。

 

 *この辺の情報は先に竹川さんの話に出た宮地健一さんのウェブサイトを参照。…田口後注

 

 小島 歴史を勉強している立場から見て、70年代から80年代にかけての共産党には、謎の行動がいっぱい出てくるんですね。一時期、先生もご記憶だと思いますけれど、宮本顕治がレーニンの『唯物論と経験批判論』を必読文献だといって、盛んに党員に読め読めと言った時期がありますけれど、レーニンの書いたもののなかで最悪の文献があれですよ。

 

 田口 そうだ。もちろんそうですよ。

 

 小島 でも、あの時期にどうして『唯物論と経験批判論』を勧める必要性があったのでしょうか。確かに哲学のプロパーな領域ではマッハはしばらくのちには再注目が本格的に始まりますが、70年代では、廣松渉氏の翻訳が出た程度で大きな影響もありませんでした。レーニンの『国家と革命』を読みなさい、それで、民主主義論を階級的原則にしたがって考えなさいというのなら、まだ話は分かるんですけれど、どうしてあんな悪口ばかり書いているような本を、党員の必読文献だとわざわざ言ったのか。これもさっぱり意味が分かりません。

 

 繰り返しますが、共産党の党勢が伸びて、民主連合政府は幻想に終わったにしても、とにかく国政を動かすぐらいの大きな勢力になったのは、まったく旧来とは違った共産党が生まれつつあるという国民の期待を背負ったからなんですね。

 

 なのに、何というか、昔と同じですと自分で人気店の看板を外さないでもいいのに、と思ってしまいます。どうして幻想を断ち切って、自ら憤死を選んだのか、全然分かりません。別な選択を共産党はするべきだったということしか見えてこないんです。

 

 田口 いまあなたが出された問題で、僕は何か特別な情報は持っていないな。ただ、民主主義的中央集権制がいったいどういう政治的な意味を持っているかということを、宮本氏も不破君も全然分からなかったんじゃないかな。つまり、スターリン体制の下でのさまざまな、大量の党員の粛正なんていう問題だけではなくて、人民への抑圧とかというものも、そこの問題と絡んでいくというところが、最後まで分からなかったんじゃないかな。

 

 小島 そうですね。70年代に入ってからの、いわゆる新日和見主義批判と称する粛正と寸分も違わないですね。この土壌から1985年の宮本の引退を東大大学院の共産党員が勧告した伊里一智事件も出てくるのですね。

 

 私ばかりが言っていますので、影浦君に少し議論を回します。彼女は日本マルクス主義史をはじめ高橋亀吉の思想史の勉強をやっている学究です。

 

 影浦 私は、かつて地元では恐持ての「左翼大学」として知られた立命館大学日本史学科の出身でして、恐れながら小島先生の後輩にあたる者です。歴史学の内部では、今や「社会史研究」が主流派の時代に、私は当時立命館に出講されていた小島先生の授業を通じて、日本マルクス主義の思想に「心躍った」非常に希有な学生だったわけでありまして、昭和世代には重宝されるが、同世代からは疎外される存在なわけです。しかし、これは私が現在、日本で最初の経済評論家と名乗った高橋亀吉の理論的検討を中心に、同時代の経済思想を概観する研究を続けているひとつのモチーフでもあるのですが、80年代生まれの私が、あのとき日本マルクス主義の思想に、理論的・時代的意義などまったくパスして、心から共感してしまったというのは、どうも「私個人の思い出」では収まらないような気がするのです。

 

 というのは、山田盛太郎の「軍事的半農奴制的日本資本主義」というフレーズが、どこまで今の学生に届くかは疑問ですが、例えばソ連の国旗を見せて、「この鎌と鋤が交差したマークは、農民と労働者をシンボル化したものだ」と言うと、みんな「わあ」と一斉に興味を示すんですね。つまり何が言いたいかというと、私が改めて強調することでもないですが、マルクス主義の思想は、決して現代の若者世代にとっても「レトロな過去」とは言い難く、もしかすると、近年の『蟹工船』ブームに見られるように、現実の経済不況に苦しむ労働者階級の「生活実感」を最も代弁している思想としてリバイバルしているのかもしれません。

 

 また商業映画のなかにも、60年代後半の学生運動を背景にしたものが、最近いくつか出てきているように、あの時代のラディカルで厭世的な若者の姿に共鳴するような動きが高まっているようにも思えます。

 

 少し前置きが長くなりましたが、戦後日本共産党の歩みに対する私の疑問も、小島先生が同時代に感じていた問題とまったく同じものです。すなわち、ある意味では、後発国であるがゆえに先進国以上に「階級」や「搾取」などの概念を、身体で感じ取っていた日本の広範な労働大衆を、戦後日本共産党はなぜ正しく導くことができなかったのか。

 

 研究史的な整理をすると、日本共産党の教条論的な体質を変革しようとする最も大きな運動は、1970年代の田口先生の業績にあると考えますが、それ以前にも日本共産党の理論的支柱であった「講座派マルクス主義」の枠組みを批判する動きはありました。そのなかで私が注目するのは、これは私の卒業論文のテーマでもあったのですが、1950年代後半にマルクス主義内部で起きた「自立・従属論争」です。これは不破哲三の実兄でもある日本共産党の理論家・上田耕一郎と、マルクス経済学者・小野義彦とのあいだで行われた論争で、50年代後半の日本資本主義をアメリカ帝国主義に対して、「自立」関係にあるか、「従属」関係にあるかを、マルクス主義の理論に基づき議論するものでした。

 

 日本マルクス主義の正統派とされた後者の立場を代表したのが上田で、戦前講座派マルクス主義の「二段階革命論」を戦後に引き継いで、アメリカ帝国主義と独占日本資本主義を二つの敵にして戦っていこうという議論を提起しました。戦前の半封建ウクラードの残存論は、戦後ではさすがに農地改革以降の現実とは乖離しますので、上田は、アメリカ帝国主義への従属を強調することによって「完全に自足した帝国主義ではない」という点を弁明したわけです。これは、ある種、講座派の理論を引き継いだかたちで議論していたと思うんです。

 

 そこに小野が現れて、日本は経済的には50年代後半から自立しているんじゃないかと言い始めた。小野は理論的には講座派の内部から、政治的には共産党正統派から出てきたというところに非常に面白い点があって、でもそれは結局政治的に弾圧されていくようなかたちになります。ただ私見では、実証データを用いて日本の経済的自立性を主張する小野の議論は「従属帝国主義論」を批判するのには有効でした。しかし結局その後の小野が日本の経済発展を、あくまでレーニンの『帝国主義論』を基礎に「帝国主義的復活」の過程にあると言ったように、小野の力点は、レーニン主義的な後進国革命は、日本に当てはまらないことを証明することあったと恩うんです。

 

 つまり、この論争の段階において、日本資本主義の現状問題は、自立か従属かの二分法にとどまり、したがって当時の日本マルクス主義の範囲内には、ウォーラーステインの世界システム論につながるような「重層的な経済体制の視点」はもちあわせていなかったことが分かります。言うまでもなく宇野理論は別にしておけばの話です。

 

 考えれば、50年代後半から60年代はじめの「自立・従属論争」が一つの転換点であったとしたら、「田口・不破論争」というのは、第二の転換点とも言えます。しかし、それは高度成長という「視覚的」にも明らかになった日本の経済的発展と、それに付随して起こった社会的不均衡の問題について説明しなくてはならない、というもっと大きな時代背景を抱えていたのではないかと考えます。

 

 ここから逆に問題を立てるようですけれども、まず第一点として、田口先生は、この「自立・従属論争」をどう見ていたのかということをお聞きしたいです。

 

 二点目は、田口先生が「社会主義へのナショナルな道」として提起された「先進国革命路線」「ユーロコミュニズム」の日本への適応の可能性についてです。田口先生の『先進国革命と多元的社会主義』のひとつの主題は、70年代の日本の重要課題であった高度成長以後の社会的不均衡、二重経済問題に関して、これらを打開するための方途を、マルクス主義の理論的再検討から模索されることにあったと考えます。

 

 そのための具体案のひとつとして、先生は本書の「先進国革命とその国家体制」のなかで、先ほどから話に挙がっている革新自治体と住民運動の重要性を喚起されています。これは今もつてNGOとかNPOなどの個別的な「下からの運動」とマクロな社会的変革をどう関連させるのか、という視点からも考え続けていい問題だと思います。

 

 70年代初期の社会状況に引き付けて話をすると、当時の日本国民は、旧来の自民党政権の路線とは異なる政治組織に社会矛盾の解決を訴えたわけで、ある意味で「列島改造論」を掲げて登場した自民党の異端児・田中角栄はその典型だったとも思えます。しかし、結局のところ、「上からの革命」を通じて日本の二重構造問題に取り組もうとする視座は、田中の政治的失脚とともに曖昧模糊となり、80年代の中曽根内閣の「戦後政治の総決算」ビジョンのなかで立ち消えてしまったと言えます。今から見ると旧態依然の官僚組織の改革と、社会的インフラの整備に大量の資金が絡むのは至極当然のこととも言え、国家権力をバックに抜本的な社会改良を行うという政治的選択と、田中の個人史は分けて議論する必要があるかと思います。

 

 どちらにしてもこうした歴史文脈に照らしてみると、個別的な、あるいは地域的な「下からの運動」は自主的できわめて大きな意義を有するかもしれません。ただそれはマクロな日本資本主義の改革なり全体の利益なりとどのように関連性をもつものなのでしょうか。こうした観点から、田口先生は、革新自治体の可能性について、また地域と全体の問題について、どういうイメージを持たれていたのかということをお聞きしたいと考えます。

 

 田口 それは『先進国革命と多元的民主主義』の「五」の経済対策の在り方のところですね。これは『世界』に書いたものなんですね。ここで僕はどれだけ具体的な将来の日本経済のイメージを持ち得ていたかはともかくとして、ここで書いている限りのことで言うと、先進国革命における将来の政治体制の構想というのは、経済体制の面においても、それに応じた構想を要求していると考えました。

 

 その構想というのは、結局、経済的民主主義の徹底と、官僚的集権主義の排除。それから、社会管理の面でも分権的管理と、下から上への積み上げ方式による国民経済の民主的な統一。国民的統一の原理の貫徹というふうに書いていますね。正直言って、紙の上ではそう書いたけれど、この時点で私はこれについてどれだけの具体的な内容、この構想をバックアップする制度的枠組みを自分でこの当時考えていたかということは、やや疑問に思います。そういう方向で日本経済というものの構造的な改革を考えなくてはならないということだけは意識していた。ただ、あまり具体論にはなっていないですね。この議論だけではね。あまりちゃんとした答えにならなくて申し訳ないけれども。

 

 影浦 70年代においては、革新自治体に期待みたいなものが寄せられたというわけですね。しかしこれは現在の観点からみると、高度成長を政策的に誘導した開発独裁的経済制度へのピリオドの要求で、先進国革命というレヴェルとは異なって見えないでもありませんね。

 

 田口 それは、まあそうですね。マルクス主義は労働価値説を提唱しますので、その立場からする経済的民主主義の要求は、当然、制度論にもつながるわけです。今からみると、不当な賃金格差の解消とか極端な経営的管理の分権化など、革命そのものではないにせよ、革命的理念と深い関連は有しています。しかもソ連型の革命では集権的経済制度や統制的な管理を提唱していましたので、この部分は、まったくロシア革命などの方途とは全く違った観点ではあったでしょうか。

 

 ちなみに労働価値説という問題について、いったいいまの経済学はどう考えているのでしょうか。マルクスの立場に近い立場の人たちがどう考えているか。その辺のことは大変問題になっていませんか。最近の外国の研究ではどういう研究かな、労働価値説についての最近の批判文献がかなり出ているでしょう。最近のマルクス経済学の批判をかなりやっているという外国の研究者にはどういう人がいますか。

 

 小島 外国の研究者のみならず、マルクス主義的な労働価値論批判というのは、むしろ常識化してしまって、擁護というのはむしろ全然聞こえてきません。少なくとも20世紀になって、労働価値論自体、旧来の実体的価値論の系譜を引きずった論脈においては、ウィーン学派の限界効用価値説によって駁撃され、いまは経済学としては存在そのものを見つけられないのではないですか。森嶋通夫先生に至っては、『マルクスの経済学』(高須賀義博訳、東洋経済新報社、1974年)の中で限界効用価値学説の先駆者としてマルクスを再解釈しようとすらされています。

 

 田口 労働価値説とか、価値論というのは、もう経済学の分野ではほとんど問題にされなくなっていると言っていいんですか。

 

 影浦 さっきのお話があったウィーン学派の系譜からすると、実態としての労働というのは議論しづらいというか、批判されている流れの方が理解しやすいと思います。労働を仮に単位時間に分割して、その価値を実体的に把握するといくらになり、それは商品の最終価格と比較するといくら搾取されているのかというタイプの議論は、現代の評価では経済学的価値はないに等しいと思います。ただし、こうした議論はマルクスの労働価値論であったかどうかは別ですが。

 

 田口 僕はウィーン学派をあまり勉強していないんだな。

 

 小島 だいたい価値というのは、人と人との関係性のなかにあって相対的な意味を持っているから、マルクスの労働価値論自身は根本的おかしいと、一蹴されている気配があるような気がいたします。蒸しかえしますが、マルクスがそう言っているかどうかは別問題で、「奪われた労働価値を取り返す」式の賃上げ=革命的要求論なら克服済みであるというにすぎません。

 

 『資本論』を読みますと、個別の労働でなく社会的に平均的な労働についての言及がしばしばあります。非熟練労働や不具合労働のようなものは労働時間が長くともそれに見合った価値を持たない、とマルクスは書いています。じゃあ「社会的平均労働」とは何かと考えると途端に労働市場での価値形成のメカニズムに直面し、労働価値の実体化は怪しくなります。また近代的労働過程は分業と協業から形成されていますから、労働を「個々のミクロな単位」に分割できないわけで、結局、「奪われた価値」を取り戻すためには社会のメカニズムを変革しないといけないというメッセージしか出てこず、極端な低賃金は是正されることを前提にしても、賃上げをいくらしても資本主義的生産を克服したとは言えないことになります。

 

 一方で個別の単位労働時間当たりの実体的価値など存在しないとなれば、少なくとも古典的理解の労働価値説はアトミズムの悪しき例証となるのでしょうか。あるいは次のような逆さまな議論も可能です。労働価値のユニットを仮説として算出できるとします。これも為替相場や先物相場などの証券化部分をどのように調整するかの大問題をクリアできないかも知れないので本物の架空の話になるでしょうが、ともかく算出を仮定します。としても、真の無意味さは、それはいかなる価値指標にもならず、せいぜい平均労働時間の粗データ程度の役割以上の意義を有しないのです。

 

 これはヘッジファンドのパソコンにプログラムされている何元かの連立方程式を「ないよりマシ」な近似値にするとよく分かります。実際に証券市場で「割安」「割高」判断をされる場合、労働価値説とは言いませんが、それに近い事業判断をファンダメンタルズ分析理論は行います。ロングターム・キャピタルマネージメントの事態に見るようにファンダメンタルズ分析による評価を「価値」に等価させ、マーケットでの「価格」との差異を商機にしてアービトラージを超短期で繰り返して破綻した前例もあります。理論的にはどこにも問題はないのに、現実的に破綻しました。

 

 マルクスはすべての資本主義的存在を商品、すなわち一種の「証券」、あるいは相対(あいたい)関係にある「ことがら」と見たわけで、労働力を商品概念で把握した時点で、すでに実体論的な労働価値説から訣別してしまったと言えます。森嶋通夫先生の議論は決して奇抜でも意外でもないのです。

 

 私も最近はほとんどマルクス主義経済学を読んでいませんので、その内部からどんな論理的展開がされているかというのはまったく知りません。少なくとも価値論だけを取り出した場合、労働価値論というのは滅多に聞けないくらいの化石になっているような気がいたします。

 

 個人的な偏見かもしれませんけれども、労働価値論を継承するという系譜からマルクス主義を読み直そうという動きは、小林多喜二を読んで、自分がつくりだした富が奪われているから、取り戻せ風の現状批判のスローガンにはなっても、学問論としては皆無と言っていいような気がするんです。

 

 影浦 実際に小林多喜二ブームに便乗した『資本論』入門のテキストはそのような解説をしていますね。『資本論』の超訳で、一財産を成すというのは道徳的にいかがなものかとも思いますが。考えてみれば、論理的におかしな構造を労働価値説は抱え込んでいて、これをどう克服するかは大問題です。まず労働価値説はすべての価値の源泉を労働行為に置くわけです。投機や投資、さらにギャンブルも含めて「カネを生み出す」行為は人間の労働の一種にほかなりませんので、人間の価値創造行為=労働だという話は論理矛盾、つまりトートロジーなのです。

 

 一方でマルクスは社会的に意味のない非熟練労働などは社会的平均労働によって逆に価値を決定される、長時間働いたからと言って下手くそな労働行為なら単位労働時間当たりの価値は低くて当たり前だ、と書いています。投資行為=頭脳労働の失敗で、価格の暴落した金融商品も同じロジックで議論できるはずですね。では肉体労働だけが労働で頭脳労働、たとえば経営とか管理とか投資などを労働範疇から除外すれば、だいたい資本主義的な商品の存在形態そのものを否定しないといけませんので、論理的に成り立ちません。

 

 マルクスはすべての出発を商品に置き「資本主義においてはものは商品として現れる」と『資本論』を書き始めた時点で、すでに実体的労働価値論と訣別しているのです。「商品」の歴史性、つまり生産された「もの」は商品とは限らないとはカール・ボランニー以降の経済人類学の最大の貢献です。商品はすべての「もの」のなかで当初からマーケットによる相対的な価値形成をするとすれば、小島先生が言ったように個別労働に分割できないマクロな社会的労働過程を作り上げたのです。『資本論』の大工場論でマルクスがマニュファクチュアと機械制工業との相違点をどうしてあんなに周到に書かないといけなかったかを今改めて考え直すべきですね。どうも労働価値論批判でなく、その俗流化批判とマルクス復権のようなニュアンスになってしまいました。

 

 小島 なるほどね。ただし労働価値論の全労働収益権論的誤解が近年の通俗的『資本論』解説本に至るまで貫徹されている事実ははっきりさせないといけないよね。労働価値論をこのように限定的に把握する限り、私の個人的な考えなんですけれど、労働価値論がマルクス主義を読み直す、一つのプラスの手掛かりになるような気があまりしま

せん。労働価値論の通俗化に貢献したアトミズムは、17世紀近代科学革命時の古い科学概念であって、労働時間単位の価値の実体などあり得ないという認識こそ先決かな、と思います。

 

 諏訪先生を前にしてあまり科学のことを言うのは恥ずかしいんですけれども、デカルトとか、17世紀のいわゆる実体論的な、原子論的な枠組みから組み立てられた近代科学の枠組みを前提にして、科学的社会主義とかいう言葉が出てくるわけですね。ここからマルクス主義の科学認識は哲学的にも乗り越えないといけないと言われます。ちょっと前には、マルクスを実体論批判の文脈で読み直す仕事が次々に出てきたのですが、今はどうでしょうか。マルクス主義の哲学を内部から受け継ごうという意見も、あまり聞こえないですね。

 

 田口 労働価値説についての批判というのは、マルクス系統のイタリアのネグリだったかな。いくつか本を読んだはずなんだけれど。かなり出ているんじゃないですか。

 

 小島 はい。そうですね。

 

 田口 そうか。あなたがおっしゃりたいのは、要するに労働価値説の批判なんていうのは、あまりにも経済学的には一般的になりすぎていて、もうそれに対して問題にされなくなっているという、そういうことですか。

 

 小島 と思います。はい。

 

 田口 うーん。

 

 ()61〜91−詳細な註であるが(省略)

 

 

 5、討論者略歴 (第1部内・目次3の討論者4人のみ)執筆・討論者略歴・主要著作

 

 田口富久治(たぐち・ふくじ)

 

 1931年、秋田県生まれ。1953年、東京大学法学部卒、明治大学政経学部教授を経て1975年から名古屋大学法学部教授。19942001年、立命館大学政策科学部教授。名古屋大学名誉教授。『日本の革新勢力−政治学的にみた社会党と総評』(引文堂、1961年)を皮切りに著作はきわめて多い。本冊子でもその多くが議論になっている学問的回顧として『戦後日本政治学史』(東京大学出版会、2001年)がある。なお詳細な経歴・著作目録は「田口富久治教授略歴・研究業績」(名古屋大学法学部『名古屋大学法政論集 田口富久治教授退官記念論文集』155号、1994年)および「田口富久治教授略歴・主要著作日録」(立命館大学政策科学部『政策科学 田口富久治教授退任記念論文集』18号、2001年)に収録されている。

 

 影浦順子(かげうら・じゅんこ)

 

 1985年、愛媛県生まれ。2007年、立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒、中部大学大学院国際人間学研究科修士課程を経て、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程在学中。日本マルクス主義史、高橋亀吉の思想史的研究、近代日本経済史・経済思想史専攻。共著『学問の森へ』(ブックシリーズACTA、風媒社、2011年)。論文に「高橋亀吉の思想的出発一金解禁論争から『プチ・帝国主義論へ』」(中部大学総合学術研究院『アリーナ』第7号、2009年)、「下村治経済理論の一考察一経済成長と金融調整のあり方をめぐって」(立命館大学大学院先端総合学術研究科『Core Ethics』第6号、2010年)「後発資本主義国の経済発展を考える−ガーシェンクロン・宇野弘蔵・高橋亀吉」(中部大学総合学術研究院『アリーナ』第11号、2011年)など多数。『学問の森へ』に詳細な著作目録がある。

 

 竹川慎吾(たけがわ・しんご)

 

 1984年、徳島県生まれ。2006年、中部大学国際関係学部卒。京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程を経て、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程在学中。社会理論史、市民社会論、戦後日本社会思想史専攻。論文に「市民主義とは何だったのか‥戦後日本の変革の主体像をめぐって」(中部大学国際関係学部『貿易風』第3号、2008年)、「平田清明『市民社会と社会主義』を読み直す一日本市民社会論の再考のための礎石として−」(中部大学総合学術研究院『アリーナ』第11号、2011年)など多数。

 

 小島 亮(こじま・りょう)

 

 1956年、奈良県生まれ。1991年、ハンガリー国立コシュート・ラヨシュ(現在、デブレツェン)大学から人文学博士(社会学)を授与さる。1999年から中部大学に奉職し、現在、総合学術研究院・人文学部歴史地理学科教授、『アリーナ』編集長。著作多数。『中欧史エッセンツィア』(ブックシリーズACTA、風媒社、2007年)に詳細な経歴・著作目録がある。

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』当初「反革命」→82年「反革命」撤回

    田口富久治『21世紀における社会主義と日本国憲法の命運』

           『どこへ行く日本共産党』

           『21世紀における資本主義と社会主義』

           『マルクス主義とは何であったか?』

           『丸山先生から教えられたこと。共産党の丸山批判問題』

           『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』丸山眞男とマルクス

           『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

           『丸山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず』