中野ウエストエンドスタジオ 2/3〜2/5
2/4(土)ソワレ観劇。座席 自由(4列目左側)
作・演出 中西竜也山崎ヶ丘動物園は、経営難であった。園長の糟屋(山下純)は、ブローカーの宇野(鶴見有佑)に、園の動物を切り売りして生き繋いでいた。清掃員の川島(芳賀晶)は、一時人気のあったヌートリアのヌー太郎(桐生誠一)を再び人気者にし、園の再建を図ろうと案を出すが、飼育員の松田(加藤康宏)も経理の広瀬(加藤良子)も乗り気ではなかった。
一方国会では、内閣総理大臣の赤松(福原龍彦)の出した“山小屋民営化法案”が否決され、解散総選挙という事態になっていた。法案を是が非でも通したい赤松率いる日民党は、アイドルなど有名人を公認候補とし、議席の確保に躍起になっていた。一方、対立する野党の民憲党の三木(丹野たかよし)は、以前総理から日本国民の権利を得ているヌー太郎を立候補させ、人気者選挙に対抗馬を立てる。それも総理の選挙区に・・・。
選挙事務所となった動物園には、ヌー太郎の意思を代弁する代議士の別所(粳田大祐)や三木の秘書の安積(真下かおる)がやって来て、選挙活動を始めた。ヌー太郎も凱旋演説など日々忙しさを増す。果たして選挙の行方は・・・。話の出来ないアイドル候補は、モノ言わぬ獣と一緒だ、と言う硬派な政治風刺劇なのか、真剣に政治の世界で生きる事を考え出す清掃員・川島の成長物語なのか、ちょっと芝居の方向性に戸惑う・・・。
前半のあり得ない状況でも、なんとなく納得してしまう政治の世界の構築は面白かった。動物を立候補させるなんてあり得ん。でも、なくはないかぁ〜って思わせてしまう展開は良い。で、そのままくっだらない調子が続くのかと思いきや、中盤でもたつき失速してしまう。政治記者の小寺(森田祐吏)と三木の秘書の安積が昔の知り合いだと言う話も投げっぱなし。それを引き金に何か起こると期待してたのに。そんなぐだぐだの中盤で、眠気に襲われてしまう。ちょっと気を失ったかも。ラストは持ち直し面白く終わらせていたので救われたが、中盤のもたつきが残念でならない。上演時間が2時間半近くあったので、もっと削り落としてスピード感を持たせるべきだったのではないか。いや、そうあるべき。あの手の芝居なら2時間が限界。あと、どうせなら、自民党や民主党は実名でもいいじゃんと思った。芝居にそういう表現の規定があるなら別だけど、ストレートに批判するくらいの反骨精神があってもいいと思った。
作 ジョーダン・ハリソン
演出 江本純子(毛皮族)1927年、アメリカ中西部の小さな町で、マイルズ(みのすけ)、ツゥルー(金子清文)、キャスパー(水谷ノブ)の三人が、女装でメロドラマを演じる事を決める。マイルズの妻・ドロシー(太田緑ロランス)は反対していたが、演出家のジーナ(柿丸美智恵)、メイクのローナ(江本純子)の元、三人は稽古に励んでいた。しかし、次第に、芝居と現実世界が混同し始め、登場人物の性別の境界線が曖昧になり、それぞれの素顔やアイデンティティが明らかになっていく・・・。
と、チラシよりあらすじを引用しつつ書いてみたが、それぞれの素顔やアイデンティティまでは、見えてこなかった・・・。加えて、「GLBT(ゲイ/レズビアン/バイセクシュアル/トランスセクシュアル)問題の起源を辿り、男性の中に存在する“女”、女性の中に存在する“男”について問いかける意欲作。」とも書かれてあったが、何が違うぞ、みたいな釈然としない気持ちが残ってしまった。
『東京国際芸術祭2006』の一環として、アメリカの現代戯曲を日本の演出家により、リーディング公演という形式で上演した(4作が上演された)中の一作である。真逆とは言わないが、視覚で楽しめるエンターテインメント性の強い毛皮族とは対象的な、至ってストレートプレイなリーディング公演である。衣装も画一化され、視覚的な個性は取り除かれ、“声”で個性を発揮するしかないという追い込んだものになっていた。劇中劇では貴婦人を三人の男が演じるのだが、それらも全てイメージを膨らませねばならない。
その劇中劇であるが、田舎のさえない男達が、劇中劇では目を見張る美女になっていると、芝居後のポスト・パフォーマンス・トークで原作者のジョーダン・ハリソンが言っていたが、その思惑に反して、江本演出では、三文芝居になっていたように感じた。いや、意図的にそうしていたかもしれない。劇中劇で男が貴婦人を演じるのは、階級意識のもろさを表現しているとジョーダン・ハリソンは言っていたので、貴婦人達を茶化して表現するのも決して意図に反している訳ではないと思う。芝居全体から一番感じてしまったのが、テーマに対する考え方が、原作者と演出家で、まったく噛み合っていないと言う事。テーマとして取り扱うものの共通性はあると思う。しかし、人種の違いがそうさせるのか判らないのだが、その感性というか思想というか、そんなところが、まったく違うように感じてしまった。ちょっと論点から離れるが、1927年という時代背景はあるものの、ゲイに対するキリスト教信者の抗議とか、どうも日本人的感覚では考え難い。昔はこうだったという懐古的な芝居ではないはずなので、その風潮は今でも続いているのだと思う。日本に置き換えればゲイに対する仏教信者の抗議となるのか・・・袈裟を着たお坊さん達のゲイ反対運動・・・なんて、茶化す方向に想像し笑ってしまうのは、信仰心の薄い自分の感性が狂っているからなのか・・・。とちょっと話しが逸れてしまったが、原作者の思想と演出家の思想の違いが作り出す気持ちの悪さは、別の面白さを醸し出してはいたが、それと同時に、一つのものが分離している居心地の悪さを強く感じてしまったのも確か。
その思いは、ポスト・パフォーマンス・トークでさらに強くなる。ちょっと支離滅裂になるかもしれないが、感じたことを並べ立てるので御勘弁を。芝居全体から“差別意識の強いアメリカ”という事を強く感じたが、そこには作者自身の持っている“強い差別意識”が投影されたからではないだろうか、と言う思いが残る。それも高い位置からの見下した差別である。と言っても、ジョーダン・ハリソン個人を批判している訳ではないので誤解なきように。そこにあるのは、アメリカという国自体が無意識に持つ“差別意識”である。この芝居をテキスト通りに上演したなら、その“罪悪感のない差別意識”で気分が悪くなったかもしれない。しかし、そのテキストを江本純子が演出する事によって、“罪悪感のない差別意識”を意識的に表面化させたように感じる。「おめぇ達はこんな風に差別意識を持っているんだよ」とでも言いたげな演出に思えたのだが、自分の勘違いか。でも、自由の国のはずのアメリカは日本より不自由な国である、という事ははっきりと見えたと思う。加えて、日本の許容範囲の広さというか柔軟さというか階級意識、差別意識の希薄な点が強烈に見えた。他国で上演される事を意識して書いたものではないと思うので、私が感じたことは、本来の意図からは相当外れているのだろう。でも、だからこそ面白く感じたのかも知れない。それは、そういう感覚を持った江本純子の演出が光ったということだと判断したい。
朗読者、田舎町の人々、劇中劇での人々と三重構造の劇だが、もう一歩壊しても良かったのではないだろうかという不満は残った。どこまで壊していいのか、その許容範囲は知らないので勝手に言ってしまうが、朗読者はより現実的な立場で語っているのだから、差別意識のない日本人にしても良かったのではないか。そういう人々が、異文化のアメリカ人に疑問を抱きながら、そのアメリカ人を演じる。その苦悩する姿から、アメリカが抱えている問題を浮き彫りにさせるみたいな。
カーテンコールでマドンナを演じる江本純子とバックダンサー達のおまけには満足であったが、できれば男装の麗人の方がテーマに則していたように思う。当たり前のように男装すれば、おまけではなく本質としての結末が見えたと思うのだが、どうだろう。いや、単純にマドンナをやりたかっただけかもしれないので、なんとも言えないのだが・・・。
作 サジキドウジ
演出 東憲司舞台は、1950年代の筑豊。赤堀第弐炭鉱で大規模な落盤事故が起こった。炭鉱主だった三好氏は、責任の重圧に耐え切れず、蒸発してしまう(実は川に身を投げたらしい・・・)。一年後、残された千鶴(板垣桃子)、美代(川原洋子)、ハジメ(外山博美)の三姉弟は、逃げるように住み慣れた炭鉱を離れ、親戚を頼り鶴山炭鉱に身を寄せることになった。あまり親しくなかった松尾親子(留吉:川田涼一、サキ:鈴木めぐみ、美鈴:中井理恵)は、ひと月後には姉弟離れ離れに暮らす(ハジメは自分達が引き取る)という条件で、自分達が管理人をしている“鶴山炭鉱和魂第参住居”の一室を貸し与える。そして、事故を起こした炭鉱主の子供である事は、固く口止めされた。しかし、鶴山炭鉱が経営している運送会社“波瀬興業”の従業員の中に、赤堀炭鉱出身の亀田道郎(池下重大)がいた。さらに、道郎の両親は、あの落盤事故で亡くなっていたのである。そんな事を他所に、美代は道郎に好意を持ち始めてしまう・・・。
そんな中、炭鉱をうろつく浮浪少年・敏チャン(ヨネクラカオリ)に出逢ったハジメは、敏チャンが追い求める“泥花”に惹かれていく。それは、石炭の守り神であると同時に、死人が見る幻の花でもあった。生と死の狭間に咲く“泥花”は、願い事を叶えてくれるという言い伝えもあった・・・。少年の人生の岐路となるひと夏の経験を本筋に、そろぞれの道で生きねばならない“宿命”を背負った人々の葛藤を描いた作品である。毎度の事だが、悪く言えば“古臭いメロドラマ”なのである。しかし、そう思いつつも、自然と涙が溢れ出てしまうような感動に包まれてしまうから不思議だ。まるで魔法にでも掛かったみたいに、心が揺さぶられ、気持ちが持って行かれてしまうのである。サジキマジックとでも呼んでしまおうか。いや、マジックにはタネがあるが、気持ちを伝える芝居にはタネも仕掛けもない。いやいや、仕掛けはあった。今回は花びらが舞い上がる舞台に、死者を迎えに来る蒸気機関車が登場する。前々回の『博多湾岸台風小僧』の驚きには及ばないが、その美しいことと言ったら、文章では表現しきれないほど。
で、毎回感動に包まれるのだが、今回はストーリーの素晴らしさ以上に、敏チャンを演じたヨネクラカオリにやられてしまった。その人物像、生活環境、何故“泥花”にこだわっていたのかが分かる悲痛なラストと、ストーリー的にもキーマンであった敏チャンは影の主人公であったと思う。その特異な人物を見事に演じきったヨネクラカオリに拍手を贈りたい。炭で真っ黒な顔に目だけが異常な輝きを放っている。死にとり憑かれたその恐怖の表情があってこそ、ラストの深い悲しみが心に刺さるのである。自分の劇団とは違った(と言うか桟敷童子に出ている姿の方が好き)熱演が、目に焼きついてしまった。
三作続けて観て思ったのだが、昔を舞台設定にするのもいいが、近未来(今回で言うなら石油はアメリカとイラクの戦争で消滅してしまい、石炭だけが熱資源になってしまった、みたいな)で生きる人々の姿も観てみたい。今より進歩しているとは限らない未来を桟敷童子が描いたなら、今まで観た事のない別世界を描かれ、画期的な作品が観られるのではないだろうか。そう思って止まないのだが、どうだろう。映画で言うなら『ブレードランナー』みたいな、未来だけど決してきらびやかではない世界。過去よりもっと差別とか階級格差だとかが顕著になっているかもしれない未来。そんな作品も観てみたい。
“劇団桟敷童子”自分が観た公演ベスト
1.博多湾岸台風小僧 2.風来坊雷神屋敷 3.泥花
原作っぽいもの ルイ・ザ・メイ・オルコット『若草物語』
作・演出 菊川朝子2005年7月に『若草物語』を原作として上演した『何かのプレイ』の続編である。内容はレビューを参照してください、と言いたいところだが、遅筆及び過去はほぼ切り捨て状態なので、前回のあらすじを当日パンフより引用。ちょっと長いけど書いちゃえ。(無断拝借許してちょ)
[前回のあらすじ]
南北戦争の頃のアメリカ、マーチ家は貧乏ながらも楽しい我が家で毎日をつつましく過ごしていた(父は戦争中)。小説家を目指す次女ジョーは隣に越してきたローリーと次第に仲良くなり、美しい長女メグはローリーの家庭教師ブルックとなんだかいい感じになるが、どうやらこの二人の男性は四女エイミィ、五女エミリーが演じているらしい、そしてそれを指示しているのは病弱な三女ベス・・・。ベスはお隣のローレンス家のおじいさんと異様に仲がよく、最終的にピアノをもらう。お母さんは日々「あの人」の言葉を唱えている。一部地域で「エミリーてハンナの娘なのでは?」という噂もちらほら。ベスはしょうこう熱にかかり命をおとしそうになるもなんとか乗り切ってマーチ家一安心。そんな中メグはいまいち就職のメドもたっていないブルックと結婚。姉が結婚するという事実に戸惑いを隠しきれないジョーは錯乱。そんなジョーにプロポーズして拒否気味なリアクションをされるローリー・・・。どうなる!?ジョー。どうなる!?マーチ家。前作では姉妹たちの少女時代をメインに、貧困や戦争、差別問題、家族愛を盛り込みながら「不幸なのに幸せそうな家族」が破綻してゆく様を描いた、との事だが、あらすじを読む限りだと脚本も破綻ぎみ。今回はその続編にあたり、成長した姉妹たちが現実と向き合い、数々の絶望を知り、そんな中で見つけた彼女たちなりの恋愛をドリ○○の音楽に乗せたり、歌ったり、踊ったりで描いていく。『若草物語』の第二をトッピングしたらしいが、小説を読んだことがないので判らない・・・すみません。前回は、その知らなさで、せっかくの小ネタが解らず楽しめなかった点が多かったのだが、今回は、原作うんぬんに加えて、前作すら観てなくても充分に楽しめる作品になっていた。だから、上に書いたあらすじは、あまり意味を成さなかったりして・・・。
で、次に配役
長女メグ:平川道子
次女ジョー:菊川朝子
三女ベス:上枝鞠生
四女エイミィ(ブルック):山口奈緒子
五女エミリー(ローリー):吉田麻起子
ハンナ:田口愛
お母さん:梅澤和美
と書いてみたが、交代で役を演じるという演出だったので、これ又意味がなかたりして・・・。でも、この演じ手をコロコロと変えるのも、今回の作品では成功していたと思う。ただ、ネームプレートを変えるだけで、その人物を演じる。それだけなのに、面白さに結びついていたのには、ちょっと驚き。と、今回は物語だけでなく、芝居の概念と言うか、芝居的な約束事までも破壊しまくる。その崩し方のセンスが良い。その根底に流れるのが劇中の会話にも出ていた「おもしろければいいんだよ」という心。まぁこれが今回の芝居のテーマなんだと思うが、そのストレートな心は良いと思うし、好きだ。
まず、オープニングで続編をやるにあたっての“ふまじめ20代しゃべり場”ってことで討論会。その本編の世界と役者が演じるという現実の世界の二層構造が、オープニングだけかと思ったら、最後までそのままで、いい具合に観せきってしまう。一歩間違えると寒い空気が流れてしまう可能性が強い演出を、みごとに笑いの方向へ展開していた。二つの世界が見事に共鳴しあっていたのである。菊川朝子は腕を上げたなぁと感心せざるを得ない素晴らしさ。音楽の使い方もうまい。特にドリ○○。それを生で歌うという表現方法を加える。で、それだけで終わらさず落とすところのツボも心得ている。全てにおいて見事であった。今までの中でベスト1の出来であったと言いたい。まぁ毎回演出方法が違ったりするので、比較するのも難しいんだけど。今回は役者も生き生きしていたように感じた。それぞれのキャラも立ってたし。役者の良さを引き出せるようになれば、演出家としても一流じゃん。とベタ褒めしてもしたりないくらいの良い出来であった。もう一回観たかったなぁ〜と思える楽しい舞台でもあった。Hula-Hooperには、この調子で突っ走って欲しい。楽しみにしてるよ〜。
“Hula-Hooper”自分が観た公演ベスト
1.何かのプレイバック 2.Hula-Hooperと10人の仲間たち 3.脱いでたまるか(仮) 4.何かのプレイ 5.Hula-Hooperと3つの小品 【番外】 Hula-Hooperプロデュースひとまずウラで
作・演出 故林広志舞台はホテル・サンバイザーの結婚式場。その日は、小橋トモユキ(木村悟)と高松みづきの挙式が予定されていた。しかし、披露宴の直前に高松みづきは失踪してしまう。
そんな中、披露宴に招待された元エンタメ同好会の面々が徐々に集まってくる。多治見(本田誠人:ペテカン)、佐伯(森谷ふみ)、中井(吉橋航也)、朝川(鶴巻尚子)、彼らは10年の歳月が流れても“変わらないなぁ〜”の一言で過去が蘇っていた。しかし、福島(竹井亮介:親族代表)の事は誰一人思い出せずにいた・・・。
一方、新婦の失踪を知った、みづきの姉(大久保佳代子:明日図鑑)、イトコの夫(眼鏡太郎:ナイロン100℃)、イトコ(皆戸麻衣:ナイロン100℃)、新郎の兄(大山鎬則:ナイロン100℃)は、親族控え室で悲喜こもごも。そんなところへ司会者(犬飼若浩)が現れ、ちょっとかき回したり・・・。
又、別のところでは、この結婚式の様子を放送しようとしたラジオクルーのディレクター(中津川朋友:勇者の森)、レポーター(つげ俊治:勇者の森)が、新婦の失踪を知り、ホテル側の担当者(井澤崇行:猫☆魂)に詰め寄っていた・・・。
そして、招待もされてない教授の永山(高山広)が、今までの様子をビデオに録画しているのであった。果たしてその目的は・・・。そんな人々が入り乱れる式場の様子を、約30分×3つのシーンで織り成していく。結婚式によくある風景(新婦がいなくなるのはあまりないけど・・・)を、ちょっとひねって展開していく。故林広志特有の喜劇である。10年も経てば、髪も薄くなったりして、「あれっ誰だっけ?」って事はよくある風景である。って自分の経験談じゃねえよ。あと、顔は思い出しても名前が出てこないとか。そんなシーンに、故林広志は、さらに存在すら忘れられているという状況を付加したりする。それによって、ちょっとしたシーンが故林ワールドへと変貌する。言葉の端々のちょっとした“オチ”も忘れない。そんなところは、コントで鍛えた故林広志にはお手のもんだろう。
ただ、何か物足りない。披露宴に訪れた人々を描いた人間喜劇なのだが、新鮮な驚きがなく、作品としての面白さが味わえない。入れ替わり立ち代替わり場面が展開し、人々が関わりあって行く、って物語が当たり前過ぎるのである。まぁそれが王道なのだとは思うが、自分には物足りない。新郎が右往左往して各シーンをかき回す(これでも新鮮さは薄いわな)とか、場面展開せずに段々と人が集まっていき、様々な問題が起き続けて最後には舞台一杯に人が溢れ、これじゃ収集しきれないぞ、と思ったところへ、水が一滴落ちたが如く何かのきっかけで、全てが収集してしまうとか。そしてそれが、納得できる展開だとか、そんな観た事のないものが観たい。平凡な日常にちょっとズレが生じるくらいな展開では、心が動じなくなっている。そう感じるのは自分一人ではないはず。もっともっと、非日常と言うか不条理さがあった方が、脚本の面白さが生かせるように感じるのだが、どうもズレ幅が自分の求めているものより弱い。大きなギャップがあってこそ“笑い”が生まれると思うのだが、どうだろう。まっ、次回作に期待ってところか。
某雑誌に「ロバート・アルトマンの映画みたいな。」と書かれてあったが、私はこの監督作を1本しか観てなかったりする。それも相当昔の作品・・・。聞くところによると、近年の作品は、個々の物語がラストで見事に収集する群像劇だとか。しかし、その気持ち良さは、今回の作品では味わえなかった。あと、高松みづきさんの失踪の原因があまりにも弱かったのも不満の一つかなっ。もっとぶっ飛んだオチを期待したのに、常識範囲内で無難にまとまってしまったって感じ・・・。
“故林広志prd.『当時はポピュラー』”自分が観た公演ベスト
1.当時はポピュラー“奥本清美さん(23才、OL)” 2.当時はポピュラー2“北沢順一さん(39才、医師)/Aプロ” 3.当時はポピュラー2“北沢順一さん(39才、医師)/Bプロ” 4.当時はポピュラー3“浜口麻衣子さん(18才、学生)” 5.当時はポピュラー4“トマス・エドワーズさん(58才、貴族)” 6.当時はポピュラー5“高松みづきさん(29才、新婦)”
作・演出 喜安浩平枯木田文夫(小島聡)は東京で仕事をしていたが、突然解雇を言い渡される。しかし、会社に内緒で続けていた“盗撮ビデオ”の仕事から手を引きたいと思っていた文夫にとっては、過去と決別できるいい機会でもあった。同棲中の狗森才子(太田紘子)の勧めで、才子の故郷である田舎町「ヒビウマ」に引っ越すことになった二人。文夫は、才子の姉(三科喜代)の旦那・シンタロウ(中西広和)のツテで玩具工場で働くことになった。地主の孫で工場長のタクマ(西山宏幸)の傍若無人な支配の元、同僚のスズヒコ(武田力)、事務員のセリ(野原千鶴)らと仕事を続けていく。そんな工場があるだけで、他には何もないような町で暮らしていく事を考えると、気が遠くなる文夫であったが、クリコ(山口かほり)との出会いなど楽しい事も起こり始めていた。そんな中、居所を突き止めたニムラ(寺井義貴)が東京からやって来る・・・。新居には山積みになった段ボールがそのままになっている。才子に早く片付けるよう催促されるが、なかなか進まない・・・。庭先で蠢く得体の知れない物体の物陰も気になって仕方がない・・・。
まず率直な感想を述べると、「むちゃくちゃ面白かった」のである。閉鎖的な地方都市の人間模様をみごとに描いており、その世界観が凄い。“傑作”であると言っても過言ではない。なんと言うか、ケラ作品のダークな部分を拡大したようなそんな世界が広がっている。ってナイロン100℃所属って事でケラリーノ・サンドロヴィッチを例に出してしまったが、そんな比較はすでに無意味なのかもしれない。それほどまでに、独自な世界を築き上げていたと思う。ナイロン100℃の喜安浩平ではなく、ブルドッキングヘッドロックの喜安浩平と呼ばれる日も近いのではないか。
過去の作品を振り返ると、ナイロン100℃の影響を強く感じる上に、面白いけど無駄が多い(それもナイロン100℃っぽいかも)。さらに悪いことには、途中で失速してしまったという印象が強い。その無駄も面白さに繋がっていればいいのだが、省いても同じじゃん、いや省いた方が面白さが持続するじゃん、って感じだったのである。それが今回は無駄がない。今回の公演が『おなかバージョン(彼女側から描いた物語)』と『せなかバージョン(彼氏側から描いた物語)』の二本を同時に上演するという事で、描きたい事がいい具合に分散できたからかも知れない。しかし、二本に分散されたからと言って、面白さが削がれた訳ではない。一本の作品として満足出来る作品に仕上がっていたのである(おなかバージョンは観てないので、断定できないけど・・・)。そんなところに大きな成長を感じる。登場人物も無駄がなくベスト。今回の企画の意図をチラシから引用すると、“『亀の気配』には2つの物語が存在する。それはつまり、ある「男」が友人と「女」の噂話をしている頃、別の場所では、その「女」が別の友人とその「男」の噂話をしているといった具合で、男は女が自分の噂話をしているとは知らずに下品な笑い声を飛ばしまくるし、女は男が自分の噂話で盛り上がっているとは知らずに罵詈雑言を並べたてたりする。”との事。そんなところを表現したかったらしい。
彼氏、彼女の背景には様々な世界が広がっていると思う(結婚したって見えない部分は多い)。それを今迄は一本の作品に納めようとしていた(勝手な想像だが)。それをそれぞれ別の視点から描く事によって、隠された部分は隠されたままにしてある。第三者的に両方の行動を見て、その擦れ違いを楽しむのも在りだと思うが、今回は相手側の行動が謎だからこそ、いろいろな事が想像できる。『おなかバージョン』が、どう描かれたかはあくまで想像の域を出ないが、別の世界も描いていると思うだけで、想像が膨らむから不思議だ。この行動を相手はどう見ているのか、彼女にかかってくる間違い電話の主は誰なのかとかとか。別バージョンではその答えが出ているんだろうなぁ〜とか。そんな感じで、目に見える舞台と裏で展開されている世界の想像で2時間があっと言う間であった。まぁ返せば、別バージョンで補完しないと答えが出ない点は、歯痒く思わなくはない。しかし、現実世界では、見えないのが当たり前なのである。相手の考えていることの説明は不要で、わからないからこそドキドキしたり、不安だったり、憶測したり、様々な出来事が不意に起ったりするのである。今回の作品では、それらの描き方が絶妙で面白かったのである。実にうまい。こんなに見事に表現出来るとは思ってもいなかった。ちょっと見くびっていたかも・・・。申し訳ない。
その地方独特の言葉遣い、例えば「ウィ」と返事をするところとかも、いい具合に隔離された世界感を引き出していた。その言葉を当たり前に使っているだけで、都会とはまったく違った異空間が広がる。
役者も素晴らしかった。ブルドッキングヘッドロックの中で自分が好きな役者が、こっちに集結してしまったのかと思うベストメンバー。あっ、客演の中西広和にしてもそう。
「笑い」に関してもうまいし、ストーリー展開も良い。不条理な世界の構築も素晴らしい。これほど完璧なのはどうしたの?って感じである。“無駄の面白さにブルドッキングヘッドロックらしさ”を見つけていたのではないのか?とかとか言いたい事はあるのだが、自分としては今回の作品を高く評価したい。だって面白かったんだもん。
まぁそんな訳で、今後の期待は特大である。
“ブルドッキングヘッドロック”自分が観た公演ベスト
1.亀の気配(せなかバージョン) 2.スパイシージュースHOT 3.虎