日本共産党90周年の根本的な逆説
国際共産主義運動関係を基準とした5時期分類
第2期、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党
(宮地作成−6部作第2期、1949年中国成立後〜1967年決裂)
〔目次−6部作3 第2期、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党〕
1949〜67 17年間、90年間中の19%期間
1、中華人民共和国成立以降、対ソ中隷従→政策・規約だけでなく、人事も完全隷従 (表9)
2、1951年、スターリン・毛沢東命令に隷従した朝鮮戦争参戦1年9カ月間→55年六全協
3、1960年〜中ソ論争の真因=毛沢東の核開発計画とフルシチョフの阻止策謀
4、1962年、日本共産党はソ連核実験を防衛的実験と支持→原水禁運動分裂犯罪の主因
5、1963年〜ソ連は部分核停条約支持の日本共産党分派を形成→対ソ決裂・対中支持
6、1964年4・17半日ゼネスト中止の誤りのとき、中国滞在中の宮本顕治指令?
7、1966・67年〜文化大革命時期、毛沢東は中国支持の分派を形成・干渉→対中決裂
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−1970年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『逆説の戦後日本共産党史−1945年〜現在』ファイル多数
1、朝鮮戦争と武装闘争路線 2、白鳥事件 3、メーデー事件 4、吹田・枚方事件
5、大須事件 6、山村工作隊 7、50年問題 8、49年問題
1、中華人民共和国成立以降、対ソ中隷従→政策・規約だけでなく、人事も完全隷従
1949年10月、中国共産党による長期内戦勝利によって、中華人民共和国が成立した。その前後、中国共産党・毛沢東とも、一貫してスターリンへの隷従関係にあった。毛沢東は、隷従の裏側で、自己の地位強化・中国共産党の自立を図っていった。その微妙な関係や駆け引きについては、ユン・チアン『マオ』が、ソ連崩壊後の発掘資料に基づいて、詳述している。
『「マオ」における逆説の中国革命史、そこからの連想』(表1〜3)
駆け引きが進む中で、スターリンと毛沢東・劉少奇らは、国際共産主義運動・体制の2分割支配という秘密合意を結んだ。(1)スターリン・ソ連共産党が、東欧のソ連衛星国9カ国と資本主義ヨーロッパの共産党を支配する。(2)毛沢東・中国共産党が、アジア全域の共産党を支配下に置く、とする分担構想だった。この構想存在については、不破哲三も正式に認めている。
隠蔽・歪曲されてきた日本共産党史の真実は、国際共産主義運動関係における反国民的隷従政党期間45年間の実態を、まず暴露する。「日本共産党の90周年」をもう一つの角度から検証する。その視点とは、党創立から2012年までの90年間を、ソ連共産党とソ中両党に隷従していたほぼ半分の期間と、隷従からの脱出期間、党独裁・党治国家4つとの関係復活期間などの5段階に分類することである。
反国民的隷従政党期間45年間は、2つの時期に分ける。1949年中華人民共和国成立以降は、対ソ中隷従→政策・規約だけでなく、人事も完全隷従政党だった。ただ、第2期の17〜18年間は、(表)経過にあるように、国際共産主義運動関係がきわめて複雑だった。
(表9−第2期) ソ中両党支配下の反国民的隷従政党
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
2、対ソ中隷従政党 |
1950〜66・67 17・18年間 19% |
北京機関結成 〜ソ中両党と決裂 |
1949年中華人民共和国成立以降、対ソ中隷従→政策・規約だけでなく、人事も完全隷従 1950年、50年綱領・コミンフォルム批判=スターリン執筆証明の占領下での平和革命路線全面批判=武装闘争転換・朝鮮戦争参戦の秘密指令 1951年、ソ連内通者袴田を配備、幹部会員→副委員長 1951年10月〜53年7月、スターリン・毛沢東命令に隷従した朝鮮戦争参戦→55年六全協 1960年〜、中ソ論争の真因=毛沢東の核開発計画とフルシチョフの阻止策謀→対中支持 1963年〜、ソ連共産党は部分核停条約支持の日本共産党分派を形成・干渉→対ソ決裂・対中支持 1964年、4・17半日ゼネスト中止指令の誤りのとき、宮本顕治は中国共産党による国賓級接待で、3カ月間長期療養中。帰国後、自分は知らなかったとして、他幹部を降格処分 1966・67年〜、毛沢東は文化大革命時期における日本共産党攻撃→文化大革命支持の日本共産党分派を形成・干渉→対中決裂 |
期間の比率%は、2012年党創立90周年を基準とした分類
2、1951年、スターリン・毛沢東命令に隷従した朝鮮戦争参戦1年9カ月間→55年六全協
朝鮮戦争とそれに参戦した統一回復日本共産党テーマについては、別ファイルで詳述した。これ以上付け加える事実データはない。そこで、ここでは、そのリンクと〔目次〕1〜14のリンクによる説明だけにする。〔目次〕項目だけでも、長大になるが、クリックすれば、ジャンプする。
スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格
〔第1部・目次1〜4〕
1、はじめに−朝鮮戦争とそこにおける日本共産党武装闘争の位置づけ
1、日本共産党武装闘争の本質に関する逆説=朝鮮戦争への参戦行動
2、朝鮮戦争の性質=北朝鮮・ソ連・中国の社会主義3カ国が仕掛けた南進侵略戦争
4、宮本顕治による異様な丸山眞男批判キャンペーン13回とその背景
2、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争データ、文献の存否−5種類
3、朝鮮戦争文献
3、スターリンの戦争作戦体験とそれに基づく朝鮮戦争作戦計画規模と事前欠陥
2、それに基づく朝鮮戦争作戦計画規模=4前衛党参戦 (表1)
4、スターリン・毛沢東指令隷従の日本共産党軍事方針・武装闘争の時期、主体と性格
軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助
〔第2部・目次5〜7〕
2、武装闘争路線への戦略転換命令の内容と、2派1グループの対応
1、宮本顕治偽造歪曲党史にたいする逆説−2派1グループの存在と実態
2、宮本分派ら国際派中央委員7人・20%、5分派に分裂、党員10%
4、主流派内だが、武装闘争に反対し、骨抜きサボタージュ活動をしたグループ
2、国内非合法機関
1、戦費支出内訳の推計 (表2)
2、戦費収入内訳の推計 (表3、4)
2、ソ連共産党が支給した、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の党本部受領
3、中国共産党が支給した北京機関維持費、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費
後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果
〔第3部・目次8〜11〕
2、後方基地武力かく乱戦争行動の項目別・時期別表 (表5)
3、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表 (表6)
4、武装闘争4大事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7)
5、大須事件中、共産党が隠蔽したもう一つの真実 (4事件中の4番目)
3、党勢力の増減、国政選挙の増減 (表8)
4、国際共産主義運動
〔第4部・目次12〜14〕
12、日本共産党のソ中両党隷従・制限主権服従者に宮本顕治を起用
スターリンによる東欧前衛党への人事命令・粛清手口からの類推
11、スースロフ・毛沢東の人事評価8−日本に配備するソ中両党隷従者の任命結論
12、なぜソ中両党は六全協人事の選考を厳密に行ったか−その目的
13、ソ中両党隷従者宮本のソ中両党命令履行状況 (表9、10)
1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」
2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行
3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行
〔ウソ詭弁1〕、朝鮮内戦という歪曲規定と一部手直し
〔ウソ詭弁2〕、朝鮮侵略戦争参戦問題を50年分裂問題にすりかえ、矮小化
〔ウソ詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽
〔ウソ詭弁4〕、武装闘争責任を分裂した一方の徳田分派→徳田・野坂分派に転嫁
3、1960年〜中ソ論争の真因=毛沢東の核開発計画とフルシチョフの阻止策謀
1964年5月15日、志賀義雄は、衆議院で部分核停条約に賛成投票をした。
当時、私(宮地)は、共産党専従として、党中央の部分核停条約反対は正しい路線と信じて疑わなかった。よって、部分核停条約賛成の路線に立つ「日本のこえ」運動は反党活動だと党中央の刷り込みによって思い込んでいた。
ところが、1991年ソ連崩壊後の発掘・公表秘密資料と中国共産党側の発掘データは、部分核停条約の提起・賛否問題について、まったく異なった視点を提供した。それは、中ソ対立の真因、もしくは、主要原因が、中国の核開発をめぐって、それを推進しようとする中国共産党と、毛沢東による核開発を阻止しようとしたソ連共産党・フルシチョフ、アメリカ・イギリスら3カ国の思惑との激突であるとの見解である。
ソ連崩壊後の新見解は、(1)フルシチョフによるスターリン批判の評価をめぐって、ソ連共産党と毛沢東・劉少奇との意見相違が中ソ対立の真因だとすることを否定する。意見は異なるが、そこには同意点も多かったとする。(2)ソ連共産党は、当初、中国共産党による核開発の技術支援をした。しかし、1959年頃、フルシチョフは、中国への核技術の供与、技術者派遣の中止を決定した。1960年頃になると、中国に派遣されていたソ連の核技術者全員を引き揚げ始めた。百を超える他プロジェクトへの派遣要員も引き揚げた。
『マオ』もその経過を書いている。『ワイルド・スワン』(講談社、1993年、原著1991年)は、文化大革命時代におけるユン・チアン一家の悲惨だが、その中を勇敢に生き抜いたユン・チアンを中心とした記録だった。14年後の『マオ』(講談社、2005年、原著2005年)は、通説や公認中国革命史すべてを根底から覆す国家史となった。
『「マオ−誰も知らなかった毛沢東」からの連想』毛沢東の核開発・核実験、部分核停条約をめぐる3党関係
ソ連の態度に怒って、毛沢東は中国独自で核開発に取り組むことを決意した。彼は、(1)5年以内に自力更正で原爆を製造すると同時に、核爆発実験を行う、(2)8年以内に原爆を一定量備蓄する、という新情勢下の任務を提起した。
それにたいし、ソ連共産党は中国の核開発をやめさせようとしたが失敗した。その時点、核開発を強力に推進していたのは、中国とフランスだった。核保有国はアメリカ・イギリス・ソ連だった。3カ国は、核独占と核拡散防止という勝手な自己都合目的のために、部分核停条約によって、中国・フランスの核実験を阻止しようとした。それが、部分核停条約の真の狙いだった。
この新情報分析は、インターネットでもいくつか報告されている。下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)は、「第4章、ソ連とアジア、偽りの同盟、1954年〜64年」において、核問題をめぐる中ソ同盟危機、中ソ論争―武装対峙状況を詳細に分析した。彼は、発掘・公表されたソ中新資料を駆使し、中国の核開発をめぐるフルシチョフと毛沢東の対立を浮き彫りにした(P.107〜115)。
その一節のみを引用する。「中ソ対立は深刻化し、63年にはこうしてスースロフとケ小平がモスクワで激突した。この背景には、核技術開発問題があった。64年にはスースロフ書記も、中国の要求に応じて核技術を提供すれば、米国が西ドイツや日本に核を提供することになる、と拒否の理由を説明している。しかし、中国は26の省と900の企業・研究所を動員し、予定の8年ではなく、わずか5年で、1964年10月16日の核実験に成功した。ちなみにこの前日、モスクワではフルシチョフが第一書記から解任された。中国側は核実験成功がフルシチョフ解任の祝砲だと喜んだ」(P.115)。
4、1962年ソ連核実験を防衛的実験と支持→原水爆禁止運動分裂犯罪の主因政党
〔小目次〕
1、1962年、ソ連の核実験再開と「いかなる国の核実験にも反対」賛否の論争
2、1963年、「ソ連核実験は防衛的な実験」で支持との共産党主張で原水禁運動分裂
3、1964年、部分核停条約賛否をめぐるソ中両党と隷従下日本共産党との関係
1、1962年、ソ連の核実験再開と「いかなる国の核実験にも反対」賛否の論争
1962年8月5日朝、ソ連はノバゼムリヤで40メガトン級の核実験を再開した。広島原爆忌前日のソ連の行動は日本国民の被爆者感情を逆なでした。ソ連に対しては暖かかった日本の左翼陣営内部でもソ連への非難が殺到した。
8月6日午前、第8回原水禁世界大会は、この日が最終日だった。ソ連への抗議声明を握りつぶされた事に怒った社会党が全役員の大会引き上げを示唆した。日本共産党、ソ連や中共からの外国代表団が、ソ連核実験抗議声明について反対したためだった。当時、原水協は共産党系と社会党系で役員の勢力争いをしていた。朝日新聞にすら「運営は秘密主義」「まるで組合大会」と揶揄されるほど、原水禁運動は政治の狭い枠の醜い争いの場と化していた。
午後3時30分には台東体育館での原水禁大会で社会党、総評がソ連への抗議の緊急動議を提出した。午後9時5分、安井郁議長が全会一致できない動議は採択できないとして、社会党、総評は大会を退場、午後10時に閉会した。「実験反対」とアメリカだけでなくソ連へも抗議すべきだとする社会党の声に、ソ連の核実験には目をつぶるべきだとする日本共産党は「席に戻れ」と罵声を浴びせ、会場の1万人の一部は乱闘になった。
原水協の広島大会は2300人が参加した。ソ連への抗議声明をめぐって、ソ連・中国・北朝鮮の代表らがソ連への抗議はまかりならんと退場する一幕もあり、午後5時30分に終了している。この社共の原水禁運動をめぐる政治的な主導権争いは、「ソ連の核は防衛的な核」という言葉に代表されるように、日本の平和運動が政治に従属したものであるのをまざまざと見せつけた。アメリカの核実験には猛抗議をしても、ソ連のそれには目をつぶる日本共産党の欺瞞が浮き彫りになった。
2、1963年、「ソ連核実験は防衛的な実験」で支持との共産党主張で原水禁運動分裂
1963年3月1日、3・1ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれた。その経過から、運動の分裂は必至とみられた。しかし、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会(1963年)を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。
こうして社・共・総評の「三者会談」が数回にわたって行なわれた。その結果「2・21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「三者申合せ」を確認した。そして6月20日「担当常任理事懇談会」を経て、6月21日の「第60回常任理事会」に三者申合せを骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。
1963年6月21日、ところが日本共産党は、『アカハタ』で「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない」(内野統一戦線部長談)と発表した。7月5日の『アカハタ』は、三者申合せを真っ向から否定する論文を掲載した。
こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる……」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれた。しかし、共産党はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会(1963年)を開くことは次第に困難になってきた。
安井理事長の「(1)いかなる国の核兵器の製造・貯蔵・実験・使用・拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。(2)各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。(3)各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」とういう、いわゆる「安井提案」が出された。だが、「いかなる・・・」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。
会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと大量動員をかけた。大会において多数の力で「いかなる……」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むことができなくなった。
1963年8月5日、第9回原水禁世界大会が開かれた。しかし、総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、総評、社会党系代議員の欠席のまま、事実上、「共産党系」を中心とした集会となった。共産党とその大量動員者たちは、「原水禁運動の基本原則」「2・21声明」を内容とした「森滝基調報告」を無視した。こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会(1963年)の分裂により、全くその統一機能を失った。
1963年8月5日、部分核停条約を、ソ連・アメリカ・イギリスが調印した。原水禁運動による一定の歴史的成果として生まれた、この「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。日本共産党は、地下核実験を除外した部分核停条約を全面否定し、なんの評価もしなかった。地下核実験以外を停止させる部分的前進を一定の歴史的成果とも見ないで、部分核停条約→地下核実験をも含む全面核停条約でなければ、反対すると大キャンペーンを展開した。
一大国民運動に発展した原水禁運動を分裂させた原因は、共産党と社会党という政党の引き回し・不当介入である。そこには、(1)社会党・総評側による運動内の主導権獲得の狙いという側面もあった。しかし、(2)分裂の主要原因は、「ソ連核実験は防衛的なものである。死の灰を出さないきれいな核実験」だとするソ中両党代表団の主張に隷従し、そのままを押し付けようとした日本共産党側にあったことは、明白である。というのも、社会党・総評の狙いがあったとしても、「いかなる国の核実験にも反対」スローガンは、まったく正当な国民的要求だったからである。しかも、6月21日の「第60回常任理事会」に三者申合せを骨子とした方針に、共産党も含め全会一致でこれを決定していたからである。
共産党の突然の逆転換・裏切りの背景には、ソ中両党による「ソ連の核実験を防衛的な核実験とし、支持せよ」との秘密命令があった。その秘密命令が存在したという直接証拠はない。しかし、その言動は、ソ中両党代表団の主張とまったく同一だった。それにたいし、ソ中両党隷従者・宮本顕治が無条件で屈服した。共産党が原水禁運動・大会にたいして行った犯罪的・反国民的分裂策動の共同正犯は3人いる。中心幹部は、(1)宮本顕治・(2)内野統一戦線部長である。
それともに、(3)3人目は、ソ連核実験支持の理論活動をした上田耕一郎副委員長である。彼は、宮本のソ中両党擁護=「防衛的な核実験」指令に基づいて、「ソ連の核実験はアメリカの核兵器にたいする防衛的実験だから支持する」との大キャンペーンを展開した。一方、共産党の裏側口コミでは、ソ連の核実験は死の灰を出さないきれいな実験もささやかれた。これらの上田論旨はすべて真っ赤なウソだった。
ただ、私は専従として、彼の犯罪的なウソ詭弁を愚かにも信じ、党内に宣伝していた。私も分裂策動に加担した犯罪専従の一人だった。上田耕一郎は、ソ連崩壊後も、これを誤りと認めたことがない。彼は、原水禁運動を分裂させた犯罪的理論活動に関する自己批判を一度もしないままで、2006年1月第24回党大会で引退した。
(1)ソ中両党隷従者・宮本顕治は、2人に役割分担を命令した。(2)一大国民運動に発展していた原水禁運動を大量動員手口で組織分裂させる役割を内野統一戦線部長にさせた。(3)上田耕一郎副委員長をソ中両党主張の「ソ連核実験は防衛的なものである。防衛的な核実験」そのままの非科学的なスローガンで分裂させる理論キャンペーン担当者にした。上田耕一郎は、国民運動を分裂させた理論面での最悪の反国民的犯罪者になった。
上田耕一郎は、「防衛的な核実験」という非科学的なスローガンを本気で信じていたのか。彼は、反国民的隷従犯罪者・宮本顕治の指令なら、被ばく国民を騙し、原水禁運動を分裂させようと、ウソ詭弁だと分かっていても、反国民的隷従犯罪の代々木ライターに堕落・腐敗したのか。
「前衛1962年10月号」論文『ソ同盟核実験を断固支持する上田耕一郎同志』
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』彼の党内犯罪データ
google『原水禁運動 分裂 共産党 社会党』分裂の経過と教訓
3、1964年、部分核停条約賛否をめぐるソ中両党と隷従下日本共産党との関係
(1)、ソ連の1963年核実験にたいする賛否問題までは、ソ中両党が一致していた。(2)、ところが、1964年部分核停条約にたいする賛否問題で、ソ中両党は一転して激烈な対立関係になった。(3)、そこから、1964年における日本共産党史の大逆説・疑惑が生れる。「日本のこえ」問題とは、部分核停条約賛否問題そのものだった。そして、宮本顕治が部分核停条約賛成の幹部多数を切り捨て、党全体として部分核停条約反対を多数決で決定させ、後に63人を除名したことは正しかったのかというテーマが浮上する。
その賛否をめぐって、ソ連共産党と中国共産党という対立する2つの国際的立場と、唯一の被爆国民の立場、宮本顕治と志賀・鈴木・神山・中野という日本共産党中央委員会内の対立する意見という5つの立場・意見の相違が発生した。もちろん、全面的核実験停止条約と全面核軍縮・核廃絶条約ができれば、それにこしたことはない。部分核停条約とは、「(1)大気圏内外および水中における核実験禁止に関するモスクワ条約」であり、(2)地下核実験を除外した不充分なレベルだった。それら4つの立場を検証する。
〔小目次〕
1、〔ソ連共産党の立場〕、部分核停条約をアメリカ・イギリスとともに提案・調印
2、〔中国共産党の立場〕、部分核停条約に絶対反対、成立阻止作戦を国際的に展開
3、〔被爆国日本国民の立場と評価〕、大気圏内外・水中の核実験禁止は一歩前進と受け止め賛成
4、〔日本共産党、宮本顕治の立場〕、中国共産党隷従継続で部分核停条約に反対決議
〔ソ連共産党の立場〕、部分核停条約をアメリカ・イギリスとともに提案・調印
ソ連共産党の狙いは、中ソ対立が激化していく中で、中国共産党の核開発を阻止することにあった。3カ国は、大気圏内・水中における核実験を何度も行い、あとは、地下核実験さえできれば、核開発を一段と進めうるレベルに到達していた。部分核停条約を各国で批准させることができれば、中国とフランスの核開発を中断させうるという利己的な核独占の思惑を剥き出しにした条約だった。
ソ連共産党は、日本共産党内に潜在・残存するソ連共産党隷従派に部分核停条約賛成工作を猛烈に仕掛けた。日本共産党はもともとソ中両党隷従を基本体質としていたので、ソ連共産党との関係決裂後もソ連共産党路線支持派は残っていた。
〔中国共産党の立場〕、部分核停条約に絶対反対、成立阻止作戦を国際的に展開
1959年、60年に、ソ連共産党が中国共産党への核開発支援をやめ、核開発技術者引揚げを実行するに及んで、毛沢東は独自での核開発を決定・指令した。1963年8月5日、3カ国が部分的核実験停止条約をモスクワで調印した。中国革命成立後、毛沢東・劉少奇は、スターリンとの密約を決めていた。それは、国際共産主義運動を地理的に2分割した。(1)ソ連共産党は東欧9カ国のソ連衛星国・資本主義ヨーロッパ共産党を担当する。(2)中国共産党が日本共産党を含むアジア共産党を担当するという密約である。この世界2分割支配合意の存在は、ソ連崩壊後に出版された多数の文献、および、『マオ』でも証明されている。
そこで、中国共産党は、とくに日本共産党・宮本顕治に強烈な部分核停条約反対の工作を行った。また、中国共産党全面支持のインドネシア共産党にも同じ工作を行った。この党員は350万人以上を数え、アジアだけでなく、資本主義国でも最大の党勢力を誇っていた。インドネシア共産党は、毛沢東「鉄砲から権力が生れる」との1965年9・30武装蜂起事件で、アイディット議長を含め共産党員50万人が虐殺され、完全に壊滅してしまう2年前だった。
〔被爆国日本国民の立場と評価〕、大気圏内外・水中の核実験禁止は一歩前進と受け止め賛成
地下を含む全面的核実験停止、全面的核廃絶は、当然の基本要求である。しかし、当時の国際的力関係から見れば、部分核停条約は一歩前進と評価できる。最終目標が通らないから、部分的禁止の条約に反対せよという共産党はおかしい。また、3カ国の核独占という思惑があるとしても、部分核停条約には賛成してもいいのではないのか。
共産党が「ソ連の核実験は防衛的な実験である。アメリカ帝国主義にたいする防衛的な行為であり、支持する」という主張はまったくの誤りであり、日本国民の心情に背く犯罪的言動である。また、後に、1964年10月16日の中国核実験成功にたいしても、同じ支持言動をしたが、共産党は、一体被爆国民の味方といえるのか。
〔日本共産党、宮本顕治の立場〕、中国共産党隷従継続で部分核停条約に反対決議
宮本顕治は、ソ中両党いずれかへの隷従や国際的圧力がなければ、被爆国日本国民の立場から部分核停条約に賛成できたはずだった。しかし、当時、日本共産党は、〔第1期〕ソ中両党への隷従→〔第2期〕ソ連共産党との関係決裂、中国共産党への隷従継続→〔第3期〕ソ中両党からの犯罪的干渉とたたかった結果、ソ中両党への隷従をやめた。その3段階において、まだ〔第2期〕にあった。
1963年10月15日、7中総は「部分核停条約を支持しない」と多数決で決定した。それに反対は神山・中野で、保留が志賀・鈴木だった(『七十年・年表』177頁)。
1964年5月15日、志賀義雄は、衆議院で部分核停条約に賛成投票をした。幹部会員鈴木市蔵は、1964年5月20日幹部会で、および、翌日の5月21日8中総において、「核停条約と4・17スト問題にたいする私の意見」を、7中総に続いて発言した。鈴木「意見書」全文は、『日本共産党史−私の証言』(日本出版センター、1970年、絶版)に載っている。部分核停条約に賛成する論旨は、上記の被爆国日本国民の立場・評価とほぼ同一だった。彼は、参議院で部分核停条約に賛成投票をした。
1964年5月18日、中国での3カ月間療養から急遽帰国した宮本顕治は、志賀・鈴木の除名を決定した。反対・保留の4人がソ連共産党・ソ連大使館と連絡を取っていたことは事実であろう。資金援助を受けたことも事実と思われる。
しかし、一方、宮本顕治は中国共産党隷従を続け、中国共産党と連絡をとっていた。彼が、中国長期滞在期間中、中国共産党から国賓待遇を受けつつ、中国共産党の接待・連絡・部分核停条約反対の環境に浸っていたことも事実である。それは、4人とソ連共産党との連絡を上回るレベルにあった。中国共産党中央委員会による宮本招待は、「部分核停条約を支持しない」との7中総決定への3カ月間に及ぶ接待・お礼という政治的な資金供応・贈賄の側面を含む。というのも、温暖な療養地という選択肢なら日本にもある。なぜ、日本の鹿児島や伊豆半島ではいけないのかという疑惑も存在するからである。
さらに、宮本一行は、宮本家族、医師・看護婦、党中央幹部・秘書団数人という8人の大所帯である。私(宮地)は朝鮮戦争参戦問題でもその戦費の支出入総額を推計した。そこから、宮本らの滞在費も推計してみる。国賓待遇なので一行一人当りに掛かる接待費用は、時価に換算すれば最低でも1日3万円を下らない。8人×3万円×93日間≒2232万円になる。この全額を中国共産党が部分核停条約反対決定のお礼贈賄費として負担した。
日本共産党は、従来、被爆国の政党として、当然ながら「いかなる国の核実験にも反対」との路線をとっていた。しかし、ソ連の核実験が起きるやいなや、反国民的隷従路線に大転換した。その理屈は、アメリカ帝国主義の核実験・核開発と社会主義国家の核実験を峻別し、アメリカの核開発は非難・糾弾するが、社会主義の核実験は防衛的で、防衛的な核実験だとする詭弁だった。そして、上田耕一郎は、その先頭に立って、大キャンペーンを展開し始めた。
その反国民的隷従路線に大転換して以降、上田耕一郎は、(1)ソ連の核実験支持の言動、(2)部分核停条約反対の言動、(3)中国の核実験を支持した言動、(4)原水爆禁止世界大会において、「いかなる国の核実験にも反対」スローガンを否定し、「ソ連・中国の核実験は防衛的な実験だから支持せよ」と主張した。彼の個人的資質を高く評価する人も多かった。しかし、この時期、副委員長・常任幹部会員上田耕一郎とは、ウソ詭弁に満ちた分裂理論創作・宣伝をした最悪の党内外犯罪者だった。
それ以降も、(5)1984年の平和委員会・原水協にたいする大粛清事件など、核問題に関し、日本共産党は、被爆国民の反核感情を逆なでする反国民的誤りを次から次へと犯した。もちろん、そこには社会党・総評が共産党と対抗して、大衆運動・大衆団体における主導権を得ようという党利党略の側面も存在する。しかし、運動分裂の主要原因は、ソ中両党への隷従→中国共産党隷従継続を続けた日本共産党・宮本顕治側にあることは、歴史的真実といえよう。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕平和委員会・原水協への1984年大粛清事件
wikipedia『原水爆禁止日本協議会』
5、ソ連共産党は部分核停条約支持の日本共産党分派を形成・干渉→対ソ決裂・対中支持
以下は、wikipediaからの抜粋・引用である。
1963年- 日本共産党が米ソ英の3国間の主導で締結された部分的核実験停止条約を批判。
1964年5月21日、日本共産党、党の決定に反し、衆議院本会議における部分的核実験停止条約批准採決で賛成した志賀義雄を除名。志賀らは「日本共産党(日本のこえ)」を結成し、ソ連共産党が支持。日ソ両国の共産党関係は冷却化し、相対的に日本社会党がソ連共産党との関係を緊密にする。
「日本共産党(日本のこえ)」とは、部分的核実験停止条約の批准をめぐってソ連を支持したために日本共産党を除名された志賀義雄・鈴木市蔵・神山茂夫・中野重治が結成。中野の命名によって党名に「日本のこえ」とつけた。しかし1967年1月の総選挙で志賀が落選すると早々と党内対立が表面化。
10月には神山・中野が離脱し、翌1968年1月に党名から「日本共産党」を取り除いた日本のこえに改称。だが、同年の参院選で改選を迎えていた鈴木は出馬を断念してしまい、結果として国会議員がいなくなってしまう。1977年には「平和と社会主義」編集会議と改称するが、1979年に日本共産党がソ連共産党との関係を修復してしまうと、影響力を大きく失うことになった。現在は消滅している。
wikipedia『部分的核実験停止条約』
6、1964年4・17半日ゼネスト中止の誤りのとき、中国滞在中の宮本顕治指令?
〔小目次〕
1、wikipedia−4・17ストライキと中止経緯の概要+リンク。1964年という時期
2、スト中止指令に反対した愛知県国民救援会細胞と名古屋中央郵便局細胞
3、スト中止指令と中国共産党の圧力疑惑=中国滞在中の宮本顕治指令疑惑?
1、wikipedia−4・17ストライキと中止経緯の概要+リンク。1964年という時期
以下は、wikipediaに載った4・17ストライキと中止経緯の概要である。各色太字は私が付けた。
1964年の春闘は、25%以上あるいは7,500円以上の大幅賃上げ要求、最低賃金の確立、労働時間の短縮の3本柱を中心に、数か月の長期闘争を想定していた。2月の総評臨時大会で太田薫議長は、「5,000円以上の賃上げを勝ち取るには、1か月以上の無期限ストライキができる体制の確立が必要だ」とした。
2月から3月にかけて、春闘共闘委員会のスト権奪還統一行動中央総決起集会、公労協のILO条約スト権奪還統一行動、高物価と重税に反対する婦人総決起大会などが相次いで開かれた。こうした中、3月4日公労協は、戦術委員会で4月17日に一斉半日ゼネストを実施するとの方針を決めた。4月に入ってスト攻勢は波状的に続いたが、4月8日日本共産党が突如、「ストライキ計画には、修正主義者・トロツキスト・組合内分裂主義者による挑発のにおいがある」などとしてスト中止を訴えた。
これに反発した同党の愛知県委員会名古屋中央郵便局細胞は、総会を開き、党の裏切りを痛烈に批判した決議を行ない、これを全国の諸団体に配布した。(「4・17ストを支持し、650万労働者の先頭に立とう−池田内閣と独占資本の手先となった日本共産党を弾劾する」)。その結果、細胞は党から除名された。同党山口県委員会は、スト中止の方針に反対し、4月8日のスト反対声明のアカハタ号外の配布をさしとめた[要出典]。同党は批判にもかかわらず、「4・17ストは、弾圧を行うためのアメリカ帝国主義の挑発である」とした。
スト前日の4月16日首相官邸で、太田と総評事務局長の岩井章は、池田勇人首相と会談し、太田が「公労協の賃金は民間並みにしてもらいます」と述べ、池田が「わかった」と答え、ここに、いわゆる“民間準拠”の原則が成立した。この会談によって4・17ストは中止され、春闘相場は12.4%、3,305円となった。
日本共産党は、その年の7月、中央委員会総会をひらき、この4月8日の声明は誤りであったと、自己批判をした。また、同年11月の第9回党大会で、この方針をだした中心であった聴濤克巳は自己批判発言をした。しかし、この自己批判にもかかわらず、総評内の社会党支持グループを中心とする人びとは、共産党への反発を強め、結果的に労働運動の中での共産党の影響力は大きく減退した。
Wikipedia『4・17ゼネスト』
google『共産党と4・17スト中止指令』
1964年という時期における中ソ対立と日本共産党の対応
1964年とは、国際共産主義運動の激変・中ソ対立が発生し、そこにおいて日本共産党がどちらの立場を選ぶのかという選択が迫られた時期である。日本共産党の対応は、3段階に分かれる。とくに〔第2段階〕に、大須事件公判と直接間接に関係する問題が発生した。この時期における国際共産主義運動関係との関連から、(1)4・17スト中止指令問題、(2)部分核停条約賛否問題を位置づける必要がある。
〔第1段階〕、中ソ対立の当初、日本共産党は中立の立場をとった。それまでの期間、宮本顕治は、ソ中両党の秘密命令を騒擾事件公判闘争に貫徹させていた。
〔第2段階〕、中ソ対立・論争が激化する中で、日本共産党とソ連共産党との論争が始まり、日ソ両党関係が決裂した。宮本顕治は、中国共産党との関係を強化し、それへの隷従姿勢を続けた。彼は「自主独立」を初めて唱えた。しかし、それは、国際共産主義運動におけるソ連共産党への隷従をやめただけだった。1964年の3問題は、この中国共産党への隷従継続時期に起った。
〔第3段階〕、中国共産党が、文化大革命において、日本共産党批判を強め、日本共産党を4つの敵の一つと規定した。その中で、1967年、日本共産党は中国共産党と決裂した。宮本顕治は再度「自主独立路線」を強調し、大宣伝した。自主独立という日本語の性質とは、この経過にあるように、戦前戦後の日本共産党史において、それまでのソ中両党への一貫した隷従関係をやめたという意味である。
もちろん、それ自体は、日本共産党が隷従しないで国際国内路線を決定できるという面でいいことである。ただし、宮本顕治は、ソ中両党それぞれに隷従することをやめたとしても、「武装闘争の総括・公表を禁止する」というソ中両党指令を、彼自身の命令として堅持し、大須事件公判闘争内にも貫徹した。
2、スト中止指令に反対した愛知県国民救援会細胞と名古屋中央郵便局細胞
1964年、大須事件第一審公判は、12年目に入っていた。この時点、1964年の4・17公労協スト中止指令をめぐる問題が発生した。党内外で共産党中央批判が噴出した。党中央の4・8声明にたいして、愛知県国民救援会グループ細胞の永田・酒井・片山・(藤本)らは、細胞会議決定として、野坂参三議長宛に「4・8声明は反労働者的であり、撤回せよ」との抗議電報を打った。国民救援会の中心指導者だった藤本功は、戦争中中国におり、敗戦時点に大連で石堂清倫らとともに、日本人帰国で活動した共産党員である。ただ、彼は、50年分裂中に党籍が不明になっていた。片山博は、元名電報細胞長で大須事件被告人である。
一方、名古屋中央郵便局細胞は、党中央に抗議文書を提出した。細胞会議12人の全員一致で、党中央の4・8声明は誤りと断定した。全党的にも、明白な党中央批判意見や抗議電報を提出したのは、判明する範囲で、(1)愛知県国民救援会細胞と(2)名古屋中郵細胞の2つだけである。
(1)、愛知県国民救援会細胞と党中央法対部副部長木村三郎の説得言動「これには国際的背景がある」
党中央の指令を受け、法対部副部長木村三郎が、愛知県国民救援会グループ細胞を説得するため名古屋に飛んで来た。彼は、「抗議電報を取り下げれば、処分しない」と、日本酒一升瓶を持ち込んで、国民救援会細胞を説得した。元大須事件被告酒井博は、その情景を次のように証言した。それによれば、木村三郎は「これには国際的背景がある」と漏らした。彼らは「となると、スト中止は中国共産党の指令なのかと」詰問した。
さらに、藤本功は「中国共産党は池田内閣の対中国姿勢を高く評価している。4・17ストを決行し、そのことで池田内閣が危なくなれば、日中国交回復機運が遠のく。それで、中国共産党は、中国に長期療養滞在中の宮本顕治に圧力をかけ、スト中止指令を出させたのではないのか」と追及した。木村三郎の返事はあいまいで、彼らは抗議電報取り下げを拒否した。
(2)、名古屋中郵細胞の3人除名処分→スト中止の誤り自己批判後も除名撤回拒否
一方、愛知県常任委員会は、名古屋中郵細胞3人を、4・8声明、4・17スト中止問題めぐり反党活動をしたとして除名した。そして、党中央は、「赤旗」で、安井・北川・岡本ら3人を、「正しい4・8声明に反対した反党分子」というレッテルを貼り、全党的に3人批判の大キャンペーンを行った。
名古屋中郵細胞被除名者の一人北川宏は、私に誤りを自己批判した9中総後の出来事を直接証言した。共産党愛知県常任委員会は、細胞長安井栄次にひそかに面会を求めてきた。県常任委員・労対部長中家啓は、3人の除名取消・名誉回復も言わないままで、「党に復帰する意思があれば、安井同志を県労対部長にしてもいい」と持ち掛けた。それは、9中総後も共産党の誤りの暴露・宣伝という反党活動を続けさせると共産党にとってまずいので、県労対部長の地位と引き換えに、共産党批判をやめさせようという裏取引の提案だった。
というのも、中央郵便局労組と中郵細胞の権威は高く、北川宏が専従の組合執行委員をしていた全逓東海地本関係だけでなく、愛知県の労働運動に及ぼす影響力が大きかったからである。安井栄次は、共産党との秘密な裏取引を拒絶した。
宮本顕治が、(1)3人の除名取消・名誉回復を指令しなかった事実、(2)姑息な裏取引提案をした事実は何を意味するのか。9中総の自己批判とは、党外からのスト破り政党=共産党批判激発を抑えきれないので、対外的な反省姿勢を見せただけだった。一方、(3)党内に向けては、党中央の誤りを認めたくないという宮本式二枚舌を証明した決定である。
国民救援会事務局細胞永田末男・酒井博らによる「4・8声明反対」の野坂参三宛抗議電報行為は、大須事件公判中になされた宮本顕治による2人除名の真因の一つとなった。ただ、彼は、この時点で、名古屋中郵細胞3人除名と比べて、国民救援会細胞2人にはなんの規律違反処分もしなかった。
3、スト中止指令の誤りと中国共産党の圧力疑惑=中国滞在中の宮本顕治指令疑惑?
4・17スト中止指令問題における中国共産党の圧力疑惑と、中国滞在中の宮本顕治指令疑惑の根拠は3つある。
〔疑惑根拠1〕、4・8声明への抗議電報から4・17スト中止前までの時期に、党中央法対部副部長木村三郎が「これには国際的背景がある」と漏らした発言の真意推定である。〔第2段階〕における国際的背景とは、中国共産党の圧力・干渉しかありえない。
〔疑惑根拠2〕、愛知県国民救援会事務局長藤本功の追及発言内容の正否である。彼は、戦前からの日本共産党員であり、中国に長くいた。彼は、『中国問題の周辺』(名古屋有声社、1993年)という中国問題と日中問題をテーマとした8編の冊子を出版している。それを読むと、彼の中国・中国共産党認識はきわめて鋭く、豊富な体験に裏付けられている。そこから考えると、彼が「中国共産党は池田内閣の対中国姿勢を高く評価している。
4・17ストを決行し、そのことで池田内閣が危なくなれば、日中国交回復機運が遠のく。それで、中国共産党は、中国に長期療養滞在中の宮本顕治に圧力をかけ、スト中止指令を出させたのではないのか」とした推定は的を射ている、と思われる。
〔疑惑根拠3〕、宮本顕治が、その時点、中国で長期療養滞在していた事実である。日本共産党は、『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、1988年)を出版した。これは、戦前篇と戦後篇からなり、686頁にわたる長大、かつ、詳細な年月日毎の宮本顕治行動・発言・講演・執筆データ集である。書くことがない日付は、弔電・打ち合せ・原稿執筆などの記録で埋めている。ちなみに、このような異様な個人言動データ集を発行したのは、資本主義国の国際共産主義運動全体を見ても、宮本顕治以外一人もいないであろう。これは、1988年における彼の個人独裁度を証明する貴重な文献といえる。
1964年・56歳のデータとして、『半世紀譜』は、中国における長期滞在を載せている(P.180、181)。期間は2月15日から5月18日の3カ月間にわたる。中国共産党中央委員会の招きで、家族・医師とともに、中国の広州、海南島で療養生活をした。広州到着時には、ケ小平中国共産党総書記夫妻が出迎えた。帰国時は、康生中国共産党政治局員候補らが見送った。その3カ月間、宮本顕治は、まさに国賓級待遇を受けた。
中ソ対立が激化する中で、中国共産党は必死になって、宮本顕治と日本共産党を抱き込み、隷従を続けさせる努力をした。その間、中国共産党が宮本顕治にたいし、4・17スト中止指令問題でなんらかの圧力をかけ、スト中止の説得をしたことが十分推定され得る。ただし、その証拠文書はない。
宮本顕治は、4・17スト中止時点とその大混乱だけでは帰国しなかった。帰国したのは、5月15日志賀義雄衆議院議員が部分核停条約に賛成投票をした行為にたいする事後処理が理由である。なぜ、その前の4・17スト中止指令による大混乱時期に帰国しなかったのか。それは、宮本顕治自身が、中国からその指令を出したか、それとも、中止指令を許可していたことの傍証になる。
宮本帰国後の7月13日、9中総は「4・17問題での誤り」を認め、自己批判を発表した。宮本顕治は、その誤りの個人責任を党中央幹部3人にとらせ、3人の「自己批判書」を公表させた。そして、彼らを降格措置にした。彼は、「中国にいたので、その誤りについて知らず、知らされなかった。よって、自分の個人責任はない」と強弁した。総評や公労協から「宮本顕治が知らないはずがない」との批判・非難が噴出した。しかし、彼は「知らぬ、存ぜぬ」というウソ詭弁を貫いた。
一方、名古屋中郵細胞除名者3人の名誉回復をしなかった。前衛党側によるスト破り犯罪という日本の労働運動史上最大の誤りを認めたからには、なぜ、その誤りを事前に党内意見書において批判・指摘した3人の除名取消をしないのか。指摘した内容が真実だったとしても、また、党中央4・8声明が誤りだったと認めたとしても、一旦、党中央批判を公表した党員を許さないというのが、宮本顕治式の規律違反処理スタイルである。
批判内容の真否を問わないで、かつ、党内意見書を無審査のまま握りつぶした行為を棚上げにしつつ、宮本顕治は党外公表の側面のみを切り離す。彼は、真否内容を隠蔽したままで、規律違反、規律違反、規律違反……という大々的キャンペーンを党内外に展開するという典型的なスターリン型宣伝・粛清者という本質を剥き出した。
藤本功60頁 宮本顕治686頁
1989年東欧革命時点、宮本顕治は、それ以前のルーマニア3回訪問において、チャウシェスク讃美を何度も公表した。4・17スト問題にたいする態度は、讃美事実とその責任を問われ、彼が「チャウシェスクの犯罪、ルーマニア秘密政治警察セクリターテの犯罪をまったく知らなかった」と強弁し抜いた責任回避姿勢と同じである。赤旗ルーマニア特派員巌名康得が、宮本顕治のウソに我慢できず、「サンデー毎日」誌上や他で、宮本顕治にすべて報告してあり、彼の強弁は真っ赤なウソであることを完璧に論証した。
宮本顕治は「党内問題を党外にもちだした」として、彼を追放した。彼の離党届を認めないで、除籍という報復をした。これも、巌名赤旗記者の告発内容が真実だったのに、彼が党内で出した報告書・意見書を握りつぶしておいて、その真実を公表した行為だけを切り離し、規律違反として、彼を除籍するという実質的な除名処分にした。
巌名康得『チャウシェスク問題で宮本顕治批判』日本共産党との決別の下の方
(1)、私たち夫婦の問題である。2人とも、4・17ストは謀略・挑発だから中止させよという党中央決定に、何の疑いも持たず行動した。妻は、通信産業職場の総細胞長だった。通信産業は革命の拠点職場とされていた。局内の全細胞長・LC緊急会議に地区委員長が出席し、スト中止を指令した。謀略・挑発説もほとんど討論にならず、局社前で公然党員らが共産党ビラをまく翌朝の体制を決めた。
その労働運動破壊の職場共産党犯罪行動の結果はどうだったか。全国の公労協細胞と同じく、総細胞からも、細胞長・LCを含め未結集・離党者が続出し、大衆サークルも崩壊した。その後における現場の状況や、スト破り政党の細胞が職場でどうなったのかは、全国的にもまったく公表されていない。
幸子HP『職場における4・17半日ゼネスト、1964年』政治の季節のある青春群像
(2)、私は名古屋中北地区常任委員・西区中村区ブロック責任者(=現在は名西地区委員長)だった。担当専従として、国鉄名古屋駅の車掌区細胞、機関区細胞、動力車細胞LC全員を緊急招集し、スト中止を指令した。彼らは、名古屋駅のどこにも謀略・挑発の動きなどないと断言した。スト権投票で自分たち共産党員が組合執行部としてどれだけ動いたのか、地区は分かっているのかと反論した。
深夜までの会議でも、彼らは誰一人としてスト中止に納得しなかった。私は、やむなく、共産党専従が常用する最後の奥の手を出した。私は「これは党中央の決定だ。それに無条件で従え」と異論を抑え込んだ。
その後、国鉄3細胞は労働者の中で、スト破り政党として見放され、敵視された。国鉄の各細胞は半崩壊状態に陥り、党員の半数近くが離党し、または未結集になった。私は未結集になった細胞LCや地区委員にたいし、何度も再結集の説得に歩いた。しかし、その都度、彼らから「中央とあんたの誤った指導は許せない」と罵倒された。この誤り・共産党犯罪への加担は夫婦にとって痛恨の共通体験である。
同じ名古屋市にいながら、国民救援会細胞や名古屋中郵細胞のような判断がなぜできなかったのか。私も、全損保の労働運動や組合役員を3年間やり、スト権投票オルグで損保各職場を駆け回った経験があったのだが、なぜ党中央指令の誤りを見抜けなかったのか。
7、1966・67年〜文化大革命時期、毛沢東は中国支持の分派を形成・干渉→対中決裂
以下は、wikipedia『日中共産党の関係』からの抜粋・引用である。そこでのリンクはそのまま載せた。
日本共産党と中国共産党とは発足当時ともにコミンテルン支部であり、日本共産党は日本の中国侵略戦争に反対し、中国共産党と連帯してきた。1943年のコミンテルン解散後も日本共産党と中国共産党は友好関係を維持した。部分的核実験停止条約問題などで日本共産党は中国共産党を支持し、党内の親ソ派を除名した。
しかし、1965年の9月30日事件でインドネシア共産党が壊滅させられ、また1966年に中国で文化大革命(文革)が開始されると、日本共産党は中国共産党と距離を置くようになる。対立は深まり、1967年3月に発生した善隣学生会館事件や同年8月に発生した北京空港事件によって完全に敵対関係になった。両党の対立関係は32年後の1998年に解消された。
この後「暴力革命こそが日本の来る革命の唯一の道」であると北京放送や『人民日報』が報じはじめた。中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出したと日本共産党側は主張する。その後の動きは以下のようになる。
1966年9月、日本共産党山口県委員会の一部が脱党し以降「毛沢東思想を指導原理とする」と奉じた「日本共産党(左派)」を名乗る。以降、一部の党組織で脱党が繰り返され、「日本労働党」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)が分派として中国共産党・政府により育成した。
1966年10月、日本共産党は北京留学中の党員数名を除名。以降、北京で日本共産党駐在員への日本人文革派を用いての暴力事件が多発。毛を支持する党中央委員西沢隆二(筆名ぬやまひろし。徳田球一の娘婿)を除名
1966年10月25日、日中友好協会が、代々木派・反代々木派(文革支持派)に分裂(反代々木派は「正統」と名乗るようになる)。以降、大衆団体の日本アジア・アフリカ連帯委員会、日本ジャーナリスト会議、新日本婦人の会も分裂。
1967年1月〜 、日本共産党が中国の紅衛兵と国内の「毛沢東一派」を名指しで批判
1967年2月28日から3月2日にかけて、東京で善隣学生会館事件が発生。
1967年3月8日、中国人留学生と支援者、日本民主青年同盟員を襲撃[1]。
1967年3月29日、中国人留学生と支援者、日中友好協会本部を襲撃、暴行。
1967年8月、北京空港事件が発生。歌舞伎役者河原崎長十郎が劇団前進座から除名処分。このころまでに、中島健蔵(仏文学者)、井上清(歴史学)、安藤彦太郎(中国研究)、新島淳良(中国研究)らも日本共産党から脱党。
1985年の両党関係修復のための交渉とその挫折
中国共産党は文革時の世界各国の共産党への内政干渉を1970年代末から順次曖昧な「どっちもどっち論」や「未来志向論」などで修復していった。その流れとして1985年にも一度は関係修復のための会談を日本共産党に申し入れていた。しかし日本共産党側が「中国からの内政干渉」があった旨を明記し、その行動が明白な両党関係の悪化の原因であった事を明らかにしなければ不十分と難色を示した。
中国共産党にはこの時上記「どっちもどっち論」「過去は忘れて未来志向」以上の譲歩と反省の用意はなく交渉は流れた。文革を国内で終結させ、対外関係も一定修復しつつあった中国共産党の当時の指導者ケ小平にとっても、これが限界だった。
Google『文化大革命と日本共産党』
赤旗『極左日和見主義者の中傷と挑発』1967年4月29日
『撹乱者への断固とした回答─毛沢東一派の極左日和見主義集団』67年8月21日
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〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−1970年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
〔関連ファイル〕
『逆説の戦後日本共産党史−1945年〜現在』ファイル多数
1、朝鮮戦争と武装闘争路線 2、白鳥事件 3、メーデー事件 4、吹田・枚方事件
5、大須事件 6、山村工作隊 7、50年問題 8、49年問題