日本共産党90周年の根本的な逆説
国際共産主義運動関係を基準とした5時期分類
第4期、ユーロコミュニズム運動に急接近→逆旋回→再孤立
(宮地作成−6部作第4期、1970年代後半〜1997年宮本脳梗塞)
〔目次−6部作5、第4期 ユーロコミュニズム運動勃発→急接近→逆旋回クーデター〕
1970後半〜1997 約20年間、90年間中の22%期間
1、1970年代後半〜80年代後半、ユーロコミュニズム運動勃発とその背景 (表11)
2、宮本顕治、ユーロコミュニズムに急接近=ユーロ・ジャポネコミュニズム
5、1989〜91年、東欧革命・ソ連崩壊→党独裁・党治国家14カ国中で4カ国のみ残存
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本引退強要・宮本私的分派解体の宮廷革命
小島亮・田口富久治『田口・不破論争と雑誌「現代と思想」』1970年代
『コミンテルン型共産主義運動の現状』フランス共産党
google『東欧革命とソ連崩壊』1989年〜1991年、14カ国中10カ国が崩壊
wikipedia『ユーロコミュニズム』
1、1970年代後半〜80年代後半、ユーロコミュニズム運動勃発とその背景
(表11−第4期) ユーロコミュニズム運動に急接近→逆旋回→再孤立
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
4、ユーロコミュニズムに急接近 →逆旋回→再孤立政党 |
1970後半 〜1997 約20年間 22% |
ユーロコミュニズム運動 〜急接近→逆旋回 →再孤立政党 |
1970年代後半〜80年代後半、ユーロコミュニズム運動勃発とその背景 宮本顕治、ユーロコミュニズム共産党に急接近=ユーロ・ジャポネコミュニズム 宮本顕治の逆旋回クーデターと4連続粛清事件−「田口・不破論争」 国際共産主義運動における再孤立 1989〜91年、東欧革命・ソ連崩壊→残存する党独裁・党治国家14カ国中の4カ国 91年前後、東欧・ソ連10カ国前衛党崩壊と同時期に、資本主義ヨーロッパの共産党もほぼ全滅 |
期間の比率%は、2012年党創立90周年を基準とした分類
〔小目次〕
1、ユーロコミュニズム運動勃発と経過−1970年代後半〜80年代後半
2、その背景=東欧・ソ連10カ国の人権侵害犯罪と経済停滞情報流入
1、ユーロコミュニズム運動勃発と経過−1970年代後半〜80年代後半
1970年代後半から、ユーロコミュニズム運動が勃発した。
75年11月15日、フランス・イタリア共産党が、自由の問題などで共同宣言を発表した。
76年6月25日、ヨーロッパ共産党・労働者党会議がベルリンで開かれた。
77年3月2日、イタリア・フランス・スペイン共産党の書記長会談がマドリードで開かれ、共同声明を発表した。
78年4月19日、スペイン共産党は、第9回大会を合法的に開催した。
81年6月23日、フランス共産党から4人が、第2次モーロア内閣に入閣した。
81年12月25日、イタリア共産党が、「十月革命に始まった社会主義」は「推進力を使い果たした」との決議を発表した。
84年1月15日、イギリス共産党は、親ソ派4人を規律違反で除名した。
84年1月117日、スペイン共産党は、親ソ派の新党結成に関し、ソ連の干渉を非難する声明を発表した。
84年2月129日、イタリア共産党書記長が、スペイン共産党への連帯を表明した。
84年3月7日、フランス・スペイン共産党は、両党関係発展の共同声明を発表した。
89年3月18日、イタリア共産党第18回大会は、強力な改良主義路線を採択し、レーニンの民主主義的中央集権制と分派禁止規定を放棄した。
これらのデータは、すべて『日本共産党の七十年・党史年表』(1994年出版)からピックアップした。
91年前後、東欧・ソ連10カ国前衛党崩壊と同時に、資本主義ヨーロッパのコミンテルン型共産党もほぼ全滅した。その結果、ユーロコミュニズム運動・政党も消滅した。
2、その背景=東欧・ソ連10カ国の人権侵害犯罪と経済停滞情報流入
その引き金・背景は、東欧・ソ連10カ国のマイナス情報だった。大陸地続きなので、東欧・ソ連の人権侵害犯罪や経済停滞情報が直接データや多数の亡命者から資本主義ヨーロッパに流入した。それらは、理想の社会主義国家イメージを破壊した。それ以前から、ポーランドの国民反乱、1956年ハンガリー事件と5カ国軍による大量殺人犯罪、1968年チェコのプラハの春にたいする弾圧事件→50万人亡命者などは、(1)スターリンの4000万人粛清犯罪だけでなく、(2)レーニンのウソ詭弁・数十万人大量殺人犯罪データをヨーロッパ有権者に伝えた。
その結果、資本主義ヨーロッパのコミンテルン型共産党は、国政選挙結果や党員数において、軒並みに激減し始めた。その指導者たちは、共産党崩壊の恐怖に襲われた。ソ連・東欧10カ国型コミュニズムのままでは、有権者から見放される。どうしたらいいのか。それには、レーニン型の犯罪的コミュニズムから決別し、有権者に受け入れられるコミュニズム運動しかない。新しいユーロコミュニズム運動を始めるしか、共産党が生き延びる道はない。
ただ、ユーロコミュニズム運動は、1989年〜91年の東欧・ソ連10カ国と前衛党の崩壊とともに消滅した。この運動は、ヨーロッパの共産党員・有権者が、ソ連・東欧10カ国の前衛党犯罪情報の影響を受けたことによる。レーニンが創設したコミンテルン型コミュニズムは、ウソ詭弁と大量殺人犯罪システムだった。それとは異なるヨーロッパ型コミュニズムを展開しなければ、資本主義国ヨーロッパの共産党は壊滅してしまうという恐怖心がスタートだった。
『二〇世紀社会主義を問う』 宮地ファイル32編+転載ファイル56編
1、レーニンの連続クーデター 2、レーニン1917・10 3、レーニン1918、19 4、レーニン1920、21
5、レーニン1922 6、『国家と革命』 7、スターリン 8、中国共産党 9、二〇世紀社会主義
しかし、(1)マルクス・レーニン型にせよ、(2)ヨーロッパ型にせよ、コミュニズムは理論・運動・体制・展望とも、ヨーロッパの共産党員・有権者にとって魅力を失った。1989年〜91年は、ソ連・東欧とともに、資本主義国ヨーロッパにおいても、共産党とは党内外犯罪システム政党だと判定された。この数年間で、コミンテルン型共産党は、東欧・ソ連10カ国を含めたヨーロッパ全域で同時全面崩壊した。資本主義世界で残存するのは、ヨーロッパからはるか離れた東方のマイナス情報隔絶列島における日本共産党ただ一つになっている。
3、イタリア共産党・フランス共産党の動向と変化方向
イタリア共産党の動向
76年、大会でマルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」用語を放棄した。
86年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行う。
87年、中央委員会のオッケット報告(当時副書記長)は党の刷新を提起し、「『複数の提案』をめぐって展開するという慣習を形成する」という提言を行った。
89年、第18回大会において、強力な改良主義路線を採択し、レーニンの民主主義的中央集権制と分派禁止規定を放棄した。
90年、第19回大会にむけ、3つの大会議案が提案された。第1議案(オッケット議案)が67%の支持で採択された。そこでの中央委員の選出はその3つの各議案の得票に比例配分するというシステムで行われた。
91年、第20回大会も3つの大会議案が提案された。党名もイタリア左翼民主党に変更し、新規約を採択した。1997年の第2回大会時点では、党員数68万人で、そのうち女性党員は28.5%を占めている。以下の規約前文、条文は、後房雄名古屋大学教授編著『大転換』の党の規約に基づいている。規約前文として、党の構造、目標、組織運営のあり方が述べられている。そこでは旧来の党との違い、何と断絶し、何を継承し、転換するかが明確にされている。その中で主として以下の4点でその断絶的刷新を見てみる。
〔小目次〕−リンク
第1、社会主義観の転換→政治、経済、市民社会の漸次的な民主主義化
第3、前衛党概念の否定・放棄、イデオロギー的党否定→自ら限界の原理
第4、民主主義的中央集権制と断絶→指導部統制の原理と多元主義
『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約
フランス共産党の動向
76年、第22回大会でマルクス・レーニンの「プロレタリア独裁」理論を放棄した。
85年、第25回大会頃より、党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなる。
94年、第28回大会で、レーニンの民主主義的中央集権制・分派禁止規定を放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、「民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」と自己批判した。
ソ連崩壊数年後の党大会で、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』フランス共産党
wikipedia『ユーロコミュニズム』
2、宮本顕治、ユーロコミュニズムに急接近=ユーロ・ジャポネコミュニズム
1967年〜68年、日本共産党・宮本顕治は、中国共産党とも決裂した。当時、国際共産主義運動は、ソ中両党の絶対的権威に基づく支配→実質的な隷従関係が続いていた。ルーマニア・チャウシェスク共産党とだけ共産主義友党関係をかろうじて保っていた。ユーロコミュニズム運動勃発の1970年代後半まで、日本共産党は国際共産主義運動における完全孤立政党だった。ヨーロッパの共産党は、ソ連共産党とも断絶している宮本顕治にたいし、対等平等の新しいコミュニズム運動への参加を呼びかけた。
彼は、完全孤立からの脱出策に飛びついた。そして、ユーロコミュニズム型共産党に急接近をした。その緊密度レベルは、ユーロ・ジャポネコミュニズムと言われるまでになった。
75年9月20〜29日、イタリア共産党代表団来日→共同コミュニケを発表した。
75年10月12〜19日、フランス共産党代表団来日→共同コミュニケを発表した。
75年12月14日、スペイン・イタリア両共産党共催のスペイン人民との国際連帯集会に出席した。
76年2月4〜8日、フランス共産党第22回大会に党代表団が出席した。
76年3月27〜31日、スペイン共産党代表団来日→共同声明を発表した。
76年4月4〜10日、フランス共産党共産党マルシェ書記長来日→共同声明を発表した。
76年7月28〜30日、第13回臨時党大会で、「自由と民主主義の宣言」を採択した。
77年1月10〜20日、党の不破哲三代表団がイタリア訪問→イタリア共産党と共同声明を発表した。
77年1月10〜20日、イギリス共産党代表団来日→共同声明を発表した。
78年4月19〜23日、スペイン共産党第9回大会に党代表団が出席した。
79年5月9〜13日、フランス共産党第23回大会に党代表団が出席した。
これらのデータは、すべて『日本共産党の七十年・党史年表』(1994年出版)からピックアップした。この期間中、共産党月刊誌『世界政治資料』が出版されていた。それは、毎号のように、イタリア・フランス・スペイン・イギリス共産党のユーロコミュニズム関連論文の全訳を載せていた。ただ、この月刊誌は、それ以降の赤旗部数激減による赤字を原因として廃刊になった。
この急接近に呼応し、副委員長上田耕一郎が論文を発表し、著書も出版した。上田論文『現代における前衛組織』(「今日の哲学U・組織論」)から、引用する。そこでは、イタリア共産党が、第八回党大会で打ち出した「新しい型の党」についての詳しい紹介もある。
「選挙制と報告制だけでは、党内民主主義を充分に保証することは難しい。とくに党組繊が巨大になればなるほど、指導部に小人数の強度に中央集権化された幹部組織が固定化する傾向が増大する。そのため、党構造における民主主義選挙制だけではなく、党の運動の全局面において、民主主義の原則と中央集権の原則とを統一して実現することが、きわめて大切になってくる。
これなしには、幹部の更迭の権利を含む選挙制さえも、真の実効性を発揮することはできないであろう。しかも重要なことは、党の内部生活の民主主義を尊重することは、党と党外大衆との関係における民主主義の尊重と結びついている。党活動の大衆路線は、その不可欠な組織的保障として党内の大衆路線を前提としている。
したがって党内民主主義は、前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へと成長するとともに、いっそう重要性を増す。大衆の毎日の生活における諸問題を知悉し、その無限の創造的エネルギーを汲みあげ現実の諸変化に絶えず適合した政治的指導を与えうる党は断乎たる集中制とともに、大衆との関係における民主主義と、党内民主主義とを二つながら保持しなければ、生存することができない」(P.109)。
この論文発表時点、私も賛同し、感激した。彼が、宮本顕治に逆らって、日本共産党の民主化運動を始めたと思った。上耕人気が高まった。しかし、その後の宮本顕治による逆旋回クーデター経緯によって、私は上耕にたいする別の見方に変化した。宮本顕治自身が、ソ中両党との決裂後の国際共産主義運動における完全孤立に怯えた。彼こそが急接近を指揮した。そして、代々木理論家としての上田耕一郎に、ユーロコミュニズム接近・賛美の論文を書くよう命令したのではないか。
上耕は、宮本顕治に逆らったのでなく、有能な代々木ライターとして急接近中の宮本指令に忠実な論考を展開した。私の認識変化根拠は、逆旋回クーデター実態とそこでの「上田耕一郎自己批判書」の無残な変身である。
『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』異様な上田・不破査問事件
『追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪』党中央専従経歴に見られる多重人格性
一方、不破哲三は、1997〜2000年の党内クーデター後、宮本顕治著書を百合子・スパイ査問事件公判記録など3冊以外をすべて絶版にした。かつ、『日本共産党の七十年』『党史年表』も絶版にしてしまった。これらの歴史記録は、不破・志位・市田らによる党史偽造歪曲をする上で邪魔になったのか。
ユーロコミュニズムへの急接近は、当然、宮本顕治による指令と容認に基づく行動だった。彼は、急接近を国際共産主義運動における完全孤立脱出策として受け入れた。彼は、上田耕一郎に指令し、発達した資本主義国における社会主義革命構想を発表させ、著書も出版させた。
党内状況はどう変化してきたのか。ユーロコミュニズム発展とその理論的影響を受け、学者党員たちの間に、スターリン問題研究・ユーロコミュニズ研究の共同作業が活発になった。田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、その他多くのマルクス主義者が、雑誌『現代と思想』等での共同研究に参加し、次々と個別論文、著書を発表した。水田洋名古屋大学教授も、マルクス主義批判をのべるようになった。党中央内でも、上田耕一郎が、新しい党組織論、先進国革命路線のあり方について、論文・著書を発表した。
党中央機関内にも、多元的社会主義論・民主主義的中央集権制の見直し論などの影響が大きく現われてきた。それらの著書のいくつかは、当時、大月書店勤務の加藤哲郎が、編集・出版を担当していた。同時期、出版労連の活動家党員たちも、学者党員たちと連携して、イタリアなどのスターリン批判著書の大量出版計画を立てて、精力的に取り組んでいた。
それらの本はかなり売れ、党内でもその論旨を支持する雰囲気が高まってきた。そこから、上耕信仰と呼ばれる傾向さえ生まれてきた。その内容は、上田耕一郎の理論展開を支持し、彼こそが、わが党をユーロコミュニズム型政党に発展させる次期リーダーと期待するものだった。
上記の学者党員たちと上耕とは、理論的、思想的にほとんど一致していると思われた。田口・藤井らは、その著書や「あとがき」に、上田論文をわざわざ引用していることからも、その一致と期待がうかがわれる。上耕人気が高まるのに反比例するように、宮本顕治の理論的権威は低下していった。
『上田耕一郎の第1人格』上耕人気−党組織民主化論文を発表する理論家の顔
不破哲三は、1976年、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアートの執権」と解釈すべきとし、『科学的社会主義と執権問題』を発表した。人気が出るどころか、中野徹三は、その論文にたいして、同年、その「執権規定」内容を真っ向から批判し、従来の「独裁」訳語が正しいとした。そして、マルクス理論の分析に基く学術研究論文を公表した。
宮本顕治は、それらの状況を、どう受け止め、どう対応したのか
1976年、イタリア・フランス・スペイン共産党、その他と会談した頃から、彼は、ユーロコミュニズムが目指す方向に疑惑を抱くようになった。3党とも、ユーロコミュニズムの根幹理念の一つとして、スターリン批判、研究を各国の党内外で強化していた。その研究が進むにつれて、当然のことながら、レーニン主義全体にも疑問を深め、レーニンの民主主義的中央集権制・分派禁止規定が誤った組織原則であり、その放棄を志向し始めていた。
いったん、その研究を始めれば、レーニンとスターリンとは、どこが連続性を持ち、どこが非連続なのかの深淵テーマにはまり込まざるをえないからである。彼の疑惑は、その後、3党いずれもが、まずレーニン主義組織原則である民主主義的中央集権制と分派禁止規定を公然と放棄宣言した事実からも証明された。
彼は、その進展方向に批判を深め、1977年第14回大会前後から、一転して、イタリア共産党批判を、まず常幹内部で口にするようになった。そして、1982年7月、第16回大会で、明確にイタリア共産党の清算主義批判を打ち出した。1950年代の構造改革路線とは若干異なるが、イタリア共産党が、マルクス・レーニン主義と断絶し、強力な構造改革路線政党に大転換することを、早くも嗅ぎとった。
宮本顕治は、1930年代スターリン全盛時代に、検挙されるまで、コミンテルン日本支部中央委員を8カ月間だけ勤め、獄中12年間中も、レーニン・スターリン主義の絶対的信奉者だった。戦前のコミンテルン日本支部党員2300人で、「真の非転向は、俺と春日(庄)ぐらい」と発言しているように、その信奉は強固だった。
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
その彼にとって、スターリン批判だけでとどまるのならともかく、レーニン批判にまで深化し、さらに民主主義的中央集権制の放棄に行き着く研究方向などは、断じて許されないことだった。彼は、ユーロコミュニズムと波長を同じくして、当時波高くなってきた党内外でのスターリン批判の研究・出版活動を放置すれば、それは当然のようにレーニン批判に行き着くことを怖れた。
そこで、彼は、自分と愛すべき「宮本秘書団私的分派の党」・日本共産党をユーロコミュニズムの影響から絶縁させ、日本共産党の逆旋回を断行するために、全力を挙げた。彼が採った行動を、表・裏両面から見てみる。
〔表面〕では
(1)77年第14回大会で、まず「民主集中制の規律の強調」をした。(2)78年11月から80年3月まで、多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行い、その田口批判「前衛」論文の執筆を2回、不破哲三に指令した。(3)79年2月、6中総で、田口理論批判の強化を指令し、「分散主義との闘争」を全党に呼び掛けた。(4)80年2月第15回大会で、「田口・藤井理論に象徴される自由主義、分散主義との闘争と全党的克服」を決定した。
小島亮・田口富久治『田口・不破論争と雑誌「現代と思想」』伽藍が赤かったとき−1970年代
(5)80年11月、宮本『文芸評論集第一巻』の長大な「あとがき」で、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。
(6)その流れの中で、82年、上田耕一郎・不破哲三の2人を査問し、その一冊の本を、イタリア共産党の構造改革理論の影響を受けた内容を一部持つときめつけた。そして、お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯したと断定した。さらに、党内地位bR・2だった2人の自己批判書を『前衛』に公表させた。
〔裏面〕では
陰湿な排除・報復活動を全面的粛清として強行した。この性質は、宮本顕治による大規模な党内犯罪だった。それは、宮本顕治が遂行した逆旋回クーデターと規定できる。以下の4連続粛清事件である。その内容と経緯については、別ファイルで詳細に検証した。ここでは、そのリンクで説明する。ただ、それは『不破哲三の宮本顕治批判−秘密報告』とのスタイルにしてあるので、不破哲三の語り口で書いた。逆旋回クーデターの経緯は事実に基づく。
第1、ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件
通称『ネオ・マル粛清』の「田口・不破論争」1978年〜「高橋彦博除籍」94年
その一つ『上田・不破査問事件』1982年
第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年
第3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年 古在由重も粛清
第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年
志位委員長の『汚れた手』出自−「党中央青年学生対策委員」当時
宮本顕治は、ユーロコミュニズムに急接近からの逆旋回クーデターを成功させた。その性質は、レーニン・スターリン型の党内犯罪的組織原則政党への回帰と規定できる。ただ、世界的には、レーニンの反民主主義的・反民族的コミンテルン構想に基づくソ中両党による支配→各国支部隷従システムはそのままだった。日本共産党は、世界のコミンテルン型政党から孤立していった。
しかも、宮本顕治の逆旋回クーデターにより、ヨーロッパのユーロコミュニズム型共産党との関係も断絶した。ルーマニア・チャウシェスクの犯罪システム共産党との関係だけになった。宮本顕治は、ルーマニアに3回訪問し、チャウシェスク独裁体制を絶賛した。この再孤立期間は、1978年『田口・不破論争』以降、宮本顕治脳梗塞をチャンスとした不破グループによる1997年の宮廷革命=党内クーデターまで19年間続いた。
『不破哲三こと81歳上田建二郎の策謀』1997年の宮廷革命=党内クーデター
5、1989〜91年、東欧革命・ソ連崩壊→党独裁・党治国家14カ国中で4カ国のみ残存
このテーマについても、多数のファイルを書いてきた。東欧革命・ソ連崩壊により、党独裁・党治国家を支配する犯罪政党は、中国・ベトナム・キューバ共産党・朝鮮労働党という4つだけになった。資本主義世界で残存するコミンテルン型共産党は、日本共産党だけになった。残存原因については、別ファイルで検証した。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
ただ、日本共産党も、選挙14連敗結果や機関紙赤旗連続激減、党財政破綻により、衰弱死を迎えつつある。そのデータで証明する。
(資本主義世界で最後に残存するコミンテルン型共産党の衰弱死進行状況)
『「全活」→全中間機関活動者会議連鎖システムの功罪』12年5月24日〜7月末
時代錯誤「大運動」10カ月半=H3500部減紙・N14000部減紙
〔あせり・もがき10連発目〕延長「党勢拡大特別期間」2カ月間
25年ぶりに甦らせる自己支部破壊病の再発・病状シミュレーション
『4中総後の共産党衰弱死3指標の進行状況』緊急支部会議開催
95年28000支部→12年3月残存14178支部≒13822支部・49.3%消滅
『4中総志位報告の総選挙逆戻り方針と空想的拡大目標』11年12月
『3中総志位報告の特徴と赤旗日刊紙17%値上げ決定』10年7月
10年余で日刊紙12万部大量減紙危機からの脱出策
地区専従13年間で458人・33.2%リストラ+毎年6000万円横領常幹
『第25回大会中央委員会報告・決議の行間を読む』全分野における衰弱死テンポアップ
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〔関連ファイル〕
『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本引退強要・宮本私的分派解体の宮廷革命
小島亮・田口富久治『田口・不破論争と雑誌「現代と思想」』1970年代
『コミンテルン型共産主義運動の現状』フランス共産党
google『東欧革命とソ連崩壊』1989年〜1991年、10カ国/14カ国が崩壊
wikipedia『ユーロコミュニズム』
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−1970年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在