日本共産党90周年の根本的な逆説
国際共産主義運動関係を基準とした5時期分類
第3期、隷従脱出の受動的な完全孤立政党→自主独立とウソ詭弁規定
(宮地作成−6部作第3期、1967年決裂〜1970年代後半)
〔目次−6部作4 第3期、隷従脱出の受動的な完全孤立政党〕
1967〜70年代後半 約11年間、90年間中の12%期間
1、1967年後、隷従脱出の受動的完全孤立政党=共産主義友党なし、会談のみ (表8)
2、隷従・干渉・分裂策動からの受動的脱出→自主独立とのウソ詭弁 (表9、10)
1、大国主義的干渉の真因=レーニン創設コミンテルン以来の国際的犯罪体質
2、自主独立とのウソ詭弁=支配・隷従関係からの受動的脱出→完全孤立政党
3、自主独立路線政党というウソ詭弁90周年キャンペーンの効果・逆効果
1、1972年、新日和見主義事件−600人査問・100人処分の冤罪・粛清事件
2、1976年、立花隆『日本共産党の研究』雑誌掲載・出版→「犬は吠えても歴史は進む」
3、1977年、国際共産主義運動史上初の地区専従による日本共産党との民事裁判
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−70年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
Google『文化大革命と日本共産党』
wikipedia『自主独立路線の確立』
1、1967年後、隷従脱出の受動的完全孤立政党=国際的共産主義友党なし、会談のみ
(表8−第3期) 隷従脱出の受動的な完全孤立政党
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
3、隷従脱出の受動的 完全孤立政党 |
67〜1970後半 約11年間 12% |
ソ中両党と決裂・受動的完全孤立 =自主独立とのウソ詭弁 |
ソ連共産党による部分核停条約支持強要・干渉→ソ連分派形成の策謀→決裂 毛沢東による文化大革命支持強要・干渉→中国分派形成の策謀→決裂 1967年後、隷従脱出の受動的完全孤立政党=国際的に共産主義友党なし 隷従からの受動的脱出→自主独立とのウソ詭弁 |
期間の比率%は、2012年党創立90周年を基準とした分類
1967年、日本共産党は中国共産党と決裂した。その性質は、(1)文化大革命路線・政策への支持強要と、(2)従わないケースにおける干渉・分裂策動などからの脱出だった。ソ連共産党への隷従→ソ中両党への隷従期間は、1922年創立以来の45年間だった。第3期の特徴は、自主独立ではない。その実態に基づく性格は、隷従脱出の受動的な完全孤立政党と規定できる。
この年は、1991年ソ連崩壊の24年前だった。ソ連は、レーニンのウソ詭弁効果により、社会主義国家だとまだ信じられていた。この時期、世界・日本の研究者たちでも、レーニン・トロツキーらが1917年10月にしたことは、社会主義革命どころか、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったと主張をしたり、その趣旨で研究発表する者は一人もいなかった。レーニンの情報統制・隠蔽手口が完璧だったからである。ましてや、レーニンがロシア革命・ソヴィエト勢力の労働者・農民・兵士たち数十万人にたいする確信犯的な大量殺人犯罪者だったとは思いもしなかった。
『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』レーニンのウソ・詭弁7つを検証
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
ソ中両党の国際共産主義運動における権威・権力は絶大だった。それだけに、世界の社会主義を名乗る14国家や、資本主義国の共産党は、ソ中両党による日本共産党批判・攻撃内容の方が、真実だと錯覚した。それらの国家・政党にとって、日本共産党とは国際共産主義運動に敵対する反社会主義勢力になった。
日本共産党・宮本顕治は、ソ中両党の理不尽な攻撃・分裂策動にたいし孤立する受動的対応をせざるをえなかった。日本共産党に形成されつつあったソ連共産党分派メンバーや中国共産党分派メンバーを放置すれば、日本共産党は分裂させられていた。その結果として、(1)日本共産党宮本派・(2)ソ連共産党派・(3)中国共産党派に3分裂していく危険性が生まれていた。
隷従脱出の受動的な完全孤立政党という選択結果は厳しかった。国際共産主義運動における絶対権力のソ中両党に逆らってまで、友党関係を続けようとする共産党は皆無になった。ただ、ルーマニア共産党のチャウシェスクだけが、ソ連共産党との意見相違を抱えていたので、宮本顕治にエールを送った程度だった。しかし、この受動的な完全孤立政党であっても、各共産党間との会談が持たれてはいた。
2、隷従・干渉・分裂策動からの受動的脱出→自主独立とのウソ詭弁
〔小目次〕
1、大国主義的干渉の真因=レーニン創設コミンテルン以来の国際的犯罪体質
2、自主独立とのウソ詭弁=支配・隷従関係からの受動的脱出→完全孤立政党
3、自主独立路線政党というウソ詭弁90周年キャンペーンの効果・逆効果
1、大国主義的干渉・覇権主義の真因=レーニン創設コミンテルン以来の国際的犯罪体質
宮本・不破は、ソ中両党による日本共産党への干渉・分裂策動にたいし、大国主義的干渉、または、覇権主義と規定し、批判してきた。干渉・分裂策動は事実である。それなら、それらの国際的犯罪はいつから始まったのか。その真因と起源は、レーニンのコミンテルン創設にある。たしかに、国際共産主義運動と言えば、国際連帯・共産主義友党関係・相互支援・対等平等・被抑圧民族独立などのイマジンが刷り込まれてきた。
世界・日本の共産党員や左翼はそれを信じていた。私も専従期間だけでなく、1991年ソ連崩壊まで疑わなかった。しかし、それらの犯罪は、暴力革命路線・理論に基づくレーニンの国際単一共産党→各国支部の構想そのものから出発していた真相が判明した。
彼による国際共産党組織原則は、明白だった。レーニンは、1919年コミンテルンを創設した。21年第2回大会において、コミンテルン加入条件を決定した。その21カ条は、国際共産党を単一とし、加入各国共産党を支部とした。当時の実態から、国際共産党とは、レーニン・ソ連共産党のことだった。支部との関係を民主主義的中央集権制と分派禁止規定の組織原則とし、鉄の軍事的規律関係で結んだ。
21世紀現在、(1)東欧・ソ連における「社会主義」を名乗った党独裁・党治国家10カ国・前衛党崩壊と、(2)資本主義ヨーロッパのコミンテルン型共産党の全滅結果は、何を証明したか。「社会主義」を名乗った10の国家・前衛党と、資本主義ヨーロッパの前衛党全滅は同時だった。ただ、同時いっせい崩壊・全滅という世界史的現象への研究はほとんどなされていない。
レーニンがコミンテルンを通じ世界中に創った支部に強要した民主主義的中央集権制・分派禁止規定とは、根本的に誤った反民主主義・反民族的な犯罪的組織原則だった。
(1)レーニンのウソ詭弁・大量殺人犯罪などの国内的犯罪データは、1991年ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)によって証明された。しかし、「レーニン神話」幻想に呪縛され続けている人は、大量殺人犯罪者レーニンのデータ詳細を直視することがお嫌いのようである。
『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』レーニンのウソ・詭弁7つを検証
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
しかし、(2)彼の国際的犯罪データの発掘・公表は、まだ遅れている。ただ、大国主義的干渉、または、覇権主義とは、レーニン創設のコミンテルンがスタートから本質的に含有した国際的犯罪体質に基づく。それは、レーニン・ソ連共産党が支配し、各国支部を隷従させるという国際的犯罪システムだった。隷従とは、各国支部の路線・政策・人事・財政にたいする全面的支配権を強要する実態を指す。レーニンは、その官僚主義的中央集権制実態を民主主義的中央集権制というウソ詭弁で世界中の支部・共産党員を騙した。レーニン・トロツキーによる1917年10月クーデター後、そこには、民主主義的側面などは実態としてなかった。
本来なら、ソ中両党が日本共産党に仕掛けた国際犯罪の起源は、レーニンの国際犯罪にまで遡らなければならない。しかし、ソ中両党による国際犯罪の1960年代時点は、ソ連崩壊の30年も前だった。私自身も、民青・共産党専従15年間中や報復的専従解任犯罪にたいする日本共産党との裁判中においても、そのレベルの認識に思い至らなかった。ソ連崩壊後の21世紀現在でも、レーニンの国際的犯罪という認識に到達する日本共産党員や有権者は限られている。レーニンが始めたコミンテルンとは、最初から、根本的に誤った反民主主義・反民族的な犯罪的組織原則に拘束された組織・運動だった。
レーニンの国内犯罪については、ソ連崩壊後、多数の著書が出版されている。私も、彼の国内犯罪=ウソ詭弁犯罪・大量殺人犯罪については、多くのファイルで検証してきた。しかし、彼の国際犯罪に関する著書は、下記3冊以外まだほとんど出版されていない。
(1)、日本研究者では、加藤哲郎『コミンテルンの世界像−世界政党の政治学的研究』(青木書店、510頁、1991年)が最初である。彼は、著書において「日本共産党はなおアジアに残る国際共産主義運動の重要な一翼であり、現段階のコミンテルン研究の貴重な、生きた『博物館』的素材である」と規定した。そして、第4章・世界綱領とイデオロギー的統合において、レーニンの誤った政策・原理・時代認識・一枚岩主義と党崇拝などの反民主主義的な国際的犯罪理論を検証した。
彼は、別の著書においても、レーニン前衛党論の根幹をなす外部注入論を批判した。これは前衛党員だけが、社会主義の真理を認識・体現でき、他者は認識もできないと断定する恐るべき排他的で、うぬぼれた犯罪理論だったからである。世界中の共産党員は、レーニンの犯罪理論に酔い、私を含め鼻持ちならぬエリート意識で傲慢になった。外部からマルクス・レーニン主義の真理を注入できる唯一の人間としての義務感で高揚した。
加藤哲郎『ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織』末尾に下記文章
東欧革命は、理論的には、1)マルクスにまでさかのぼりうる「社会主義=生産手段の国有化」のイメージ、2)レーニン的思考のなかの「社会主義国家=プロレタリアートの独裁=全人民的シンジケート」論、3)「暴力革命=旧国家権力の粉砕」論、4)「外部注入型前衛党=全知全能の共産党」などの全面的見直しをも、迫るものだった。
総じて、マルクス主義が、「社会主義」の概念そのものが問われたのが、1989年の「フォーラムによる革命」であった。
(2)、後房雄『大転換』(窓社、393頁、1991年)は、1991年ソ連崩壊と同時の、イタリア共産党→左翼民主党への大転換について党大会現場から理論的なルポルタージュをした。党大会は、レーニンの国際的犯罪理論を検証し、その放棄と転換方向を宣言した。詳しくはリンクにあるので、犯罪理論の項目だけ書く。これは、イタリア共産党の自己批判内容にとどまらず、レーニンの国際的犯罪理論を具体的普遍的に告発した党大会報告だった。
(表9) レーニンの国際的犯罪理論の規定とその放棄・転換方向
|
レーニンの国際的犯罪理論の規定 |
イタリア共産党→左翼民主党による放棄・転換方向 |
1、社会主義観、革命路線、政治・経済の漸次的な民主主義化 |
共産主義の名において形成された専制体制。産業主義、量的成長、一国規模の発展、国家主義の中で形成された過去の社会主義 |
民主主義的中央集権制の克服は国際共産主義の伝統だけでなく、イタリア共産主義の伝統との関係においても明確な断絶→強力な改良主義。政治・経済・市民社会の漸次的な民主主義化 |
2、前衛党概念、イデオロギー的党→自ら限界の原理 |
前衛党とは、軍事用語を暴力革命に転用した「前衛部隊、後衛部隊」という戦闘組織概念から出ているもの。当然それは革命運動における指導部隊、指導政党としてのうぬぼれた自己規定を当初からはらんでいる。ただ、マルクスの前衛概念、レーニンの前衛党概念においては、暴力革命=自ら戦争を引き起こす、または帝国主義戦争を内乱に転化するという軍事路線を採択していた。そこから、少数精鋭部隊としての軍事的前衛部隊、レーニンのいう職業革命家の党としての前衛部隊がその政治的軍事的路線上客観的に必要だったということは事実であろう。 さらには、そのうぬぼれが発展し、認識論上で、科学的真理の唯一の認識者、体現者と自己規定した。それは、前衛党以外の他者はその真理を認識できないとする恐るべき差別イデオロギーに転化した。 そして、自己を絶対的優越者の地位に置き、他者すべておよび大衆を従属的同盟者、被指導階級の地位に押し下げるというエリート主義的差別主義的イデオロギーに変質させた。 |
それらを否定するのみでなく、限界の原理として発展させた。その限界の原理とは、思想、大衆組織、法制度をふくめ市民社会秩序との整合性を明確にした。 1)、党員の思想を拘束する世界観政党と断絶し、その思想代表性の限界を認めた。 党とは綱領、規約の範囲を限界とし、党員の全生活の一部にかかわるのみとし、従来の代表観を「うぬぼれ」として否定した。 2)、大衆運動、大衆組織との関係での限界を認めた。これは、ベルト理論を放棄したとともに、その内容の一つとして政治と文学における政治の優位性という時代錯誤的な概念も放棄した。 3)、それのみでなく、それは大衆運動との関係で、前衛党が「唯一の〜」といううぬぼれからそこでの絶対的主導権を狙い、要求するという観点とも断絶し、自らを常に限界つきの相対的地位に置いた。これは、この党と他の諸勢力との連合形成能力を一挙に高めるものとなった。前衛党概念を保持しつづけるかぎり、統一戦線とは、権力奪取までの一時的戦術、同盟者拡大手段にすぎないのであり、統一戦線はその党自らの思想にまで高まることは決してない。 なぜなら、権力獲得後は、科学的真理の唯一の認識者、体現者たる前衛党は、いかなる卑劣な手段を使ってでも統一戦線内の他者、同盟者を排除し、自らが絶対的地位を獲得するのは当然という目的が表面化するからである。これは14カ国の社会主義すべてにおいて権力奪取後に進行した歴史的事実である。その結果として、14カ国のすべてで前衛党による一党独裁体制が確立した。そこからは統一戦線の破壊者、革命の成果の簒奪者(さんだつしゃ)という前衛党の犯罪的本質が浮かび上がってくる。 |
3、民主主義的中央集権制→指導部統制の原理と多元主義 |
民主主義的中央集権制の本質的側面としての一枚岩主義 一枚岩主義とは、民主主義の本質的要素である異論、批判の包摂の論理が欠けており、逆に党内において異質物排除の論理、もしくは、異論者・批判者を除外した同質的な状態を固定し、結晶化する体質を示す 指導者主義的で、寡頭制的で、上部主導的。組織内での批判の自由は規約文面上だけのまったく形式的なものに変質 |
多元主義で民主主義的な党、自らの内部分岐や相違を価値、資源として生きる党、外部に対して開かれた党 指導部統制という原理を導入=これは、実効的な耐えざる民主主義的統制のもとにおかれなければならない。 旧来の用語で言う「分派」の評価について、発想の根本的転換がある。 多数決の規則は、多元主義の完全な承認を基礎とするという具体的な中身が、また画期的なもの。第19回大会でも、第20回大会でも、大会代議員、中央委員の選出は、3つの大会議案の得票に比例配分されて行われた。各段階の次期指導機関の選出もその3つに比例配分で行われた。 思想的理論的な諸潮流の対抗を、積極的なものとして生かすような党内民主主義のあり方が志向されていった。その歩みは、1986年第17回大会「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異った立場を公然たる形においても保持し主張する権利」が規約に規定され、1989年第18回大会では「民主主義的中央集権制」と「分派活動の禁止」が削除された。第19回大会では、事実上の潮流が「組織された潮流」に変わった。さまざまな構成要素が正統性をもって組織され、公然と存在していることは、イデオロギー的化石化を阻止し、そしてとりわけ指導集団の政策を絶えず正当化するものとしてのイデオロギーの使用を阻止するための保障 |
『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約
(3)、ヨーロッパ研究者では、ケヴィン・マクダーマット+ジェレミ・アグニュー『コミンテルン史−レーニンからスターリンへ』(大月書店、335頁、1996年)がある。その第1章・レーニン時代のコミンテルンは、レーニンの国際犯罪の根源を分析している。
今回のファイル6部全体は、レーニンの国際犯罪内容と、それが東方の島国における日本支部→日本共産党90年間にどう具体的に表れたのかを検証する試みである。宮本・不破・志位らは、1967年ソ中両党との決裂→ウソ詭弁の「自主独立」キャンペーン後も、レーニンの国際犯罪組織原則・党内犯罪システムを何一つ放棄宣言していない。規約からの削除・隠蔽だけによる堅持、または略語堅持をしている。
2、自主独立とのウソ詭弁=支配・隷従関係からの受動的脱出→完全孤立政党
宮本顕治・日本共産党は、ソ中両党との決裂をどう規定したか。彼は、それを自主独立と名付けた。その日本語は、決裂の経過・実態に照らして正しいのか。共産党員・有権者は、それまでのソ中両党との対立、日本共産党による批判・反論を、赤旗やマスコミを通じ、ある程度知っていた。そこから、決裂対応それ自体は、当然と納得した。
ソ中両党による(1)干渉→(2)自国路線・政策への支持強要→(3)支持するソ連共産党分派・毛沢東分派の形成→(4)日本共産党を分裂させる策謀事実は明白だったからである。それにより、共産党にたいする支持率は高まった。
イタリア共産党は、1976年からソ連崩壊の1991年にかけ、マルクス・レーニン主義を全面批判し、すべて放棄した。共産主義再建党は、マルクス・レーニン主義擁護で分裂した。しかし、そのメンバーは、それ以前のプロレタリアート独裁理論放棄と民主主義的中央集権制放棄時点で、分裂前として放棄に賛成している。分裂後に、それら2つを復活したかどうか分からない。復活させていなければ、コミンテルン型共産党でなくなっている。
フランス共産党は、すでに、(1)プロレタリアート独裁理論・(2)民主主義的中央集権制・(3)マルクス主義の3つともをレーニンの誤った理論と実践だったとして、党大会で放棄宣言をしている。ポルトガル共産党は、1974年、ヨーロッパの筆頭で、プロレタリアート独裁理論を放棄した。共産党名称を名乗るこの2党もマルクス・レーニン主義政党と言えない。
(表10) 日本共産党とイタリア共産党との比較
4つの原理 |
日本共産党の欺瞞的な隠蔽・堅持方式 |
イタリア共産党→左翼民主党 |
1、プロレタリア独裁理論 |
綱領において、訳語変更の連続による隠蔽・堅持。(1)プロレタリア独裁→(2)プロレタリアのディクタトゥーラ→(3)プロレタリアートの執権→(4)労働者階級の権力→(5)放棄宣言をしないままで、綱領から権力用語を抹殺し、隠蔽・堅持している |
イタリア共産党は、1976年、明白に放棄宣言をした。ヨーロッパでは、1974年、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が、これは犯罪的な大量殺人をもたらし、誤った理論と放棄宣言をした。資本主義世界で、放棄宣言をしていないのは、日本共産党だけである |
2、民主主義的中央集権制 |
規約において、訳語変更による隠蔽・堅持。(1)民主主義的中央集権制(Democratic
Centralism)→(2)「民主集中制」という略語に変更→(3)「民主と集中の統一」と解釈変更で堅持→(4) 「民主と集中の統一」は、あらゆる政党が採用している普遍的な組織原則と強弁している |
イタリア共産党は、1989年、それは、「党の統一を守るのには役立ったが、一方で党内民主主義を抑圧した」組織原則だと認定し、放棄宣言をした。この反民主主義的組織原則を堅持しているのは、残存する犯罪的な一党独裁国前衛党4党とポルトガル共産党・日本共産党だけである |
3、前衛党概念 |
規約において、(1)前衛党→(2)規約前文から綱領部分削除に伴い、その中の「前衛党」用語も事務的に削除→(3)不破哲三の前文削除説明で、「前衛党」概念を支持・擁護 |
イタリア共産党は、1991年、「前衛党」思想を、「政党思想の中で、もっともうぬぼれた、傲慢で、排他的差別的な政党思想だった」と総括し、全面否定した。日本のマスコミは、左(3)を「前衛党」概念の放棄と錯覚し、誤った解説をした |
4、マルクス・レーニン主義 |
(1)マルクス・レーニン主義→(2)個人名だから駄目として、「科学的社会主義」に名称変更し、堅持。不破哲三の『レーニンと資本論』全7巻を見れば、マルクス・レーニン主義そのものの堅持ぶりが分かる。ただ、彼は、さすがにレーニンの暴力革命理論だけを否定した |
イタリア共産党は、1991年、マルクス・レーニン主義と断絶し、左翼民主党に転換した。共産主義再建党は、その擁護で分裂した。フランス共産党も、ソ連崩壊数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。 |
日本共産党は、科学的社会主義政党と自称している。それは、マルクス・レーニン主義政党という名前を、個人名ではまずいとして言い換えただけで、理論・体質を何一つ変えていない。上記4項目に関して、隠蔽・訳語変更・主義名日本語変更などをしただけで、イタリア共産党やヨーロッパの共産党がしたような明白な放棄宣言を一つもしていない。世界的にも、こういう欺瞞的スタイルを採る共産党は皆無であり、いかにも不可思議な政党ではある。そこから、東方の島国における日本共産党だけが、唯一残存するコミンテルン型共産党となった。
自主独立とは、本来の日本語からすれば、イタリア共産党やフランス共産党のように、レーニンの国際的犯罪理論やマルクス・レーニン主義理論の全面放棄・大転換になるはずである。しかし、宮本・不破・志位らは、ソ中両党との決裂時点やその後も、党大会において何一つ放棄宣言をしていない。その手口は、隠蔽しつつ堅持し、または、民主集中制のように略語にして堅持するスタイルである。
レーニン以来の国際犯罪体質に基づくソ中両党の国際犯罪との決裂の性質は、自主独立という日本語とは異なる。決裂自体は、当然で、正しい選択だった。しかし、それは、自主独立という性質でなく、支配・隷従関係=干渉・分裂策動からの受動的脱出である。
しかも、イタリア共産党のように、レーニンの国際的犯罪理論・体制の全面的総括をした上での決裂=断絶的刷新でなかった。それは「自主」でなく、干渉・党分裂危機に追い詰められての受け身の対応だった。また、本質的に犯罪的な国際共産主義運動からの「独立=離脱」でもなく、「完全孤立」だった。
レーニンの根本的に誤った理論・党内犯罪システムを隠蔽・堅持したままで、1967年におけるソ中両党との隷従関係=干渉・分裂策動から受け身の脱出をした行動だった。その結果、マルクス・レーニン主義の根本的に誤った理論・党内犯罪体質を隠蔽・訳語変更手口で保持したままで、国際共産主義運動関係において完全孤立をした行動だった。それは、レーニンの党内犯罪システムを堅持したままでの宮本顕治による自己保身戦術だった。彼の自己保身性は、不破・志位・市田にもそのまま拡大継承されている。
自主独立という宮本式日本語は、日本の共産党員・有権者騙しのペテン語だった。それは、1955年六全協において、ソ中両党隷従者宮本顕治が、モスクワ会議製の「極左冒険主義の誤り」という抽象的日本語だけで、当時の日本共産党員・有権者を騙したペテン語と同じ犯罪語である。彼は、ソ中両党命令に隷従し、(1)「朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党犯罪」を→(2)日本国内だけの「極左冒険主義の誤り」に矮小化する別の犯罪で騙した。
彼のすり替え日本語は、俯瞰的に見れば、1950年代前半の日本史にたいする偽造歪曲犯罪の性質を帯びる。ただ、圧倒的な党員・有権者は、21世紀現在になっても、「極左冒険主義の誤り」と「自主独立」という宮本顕治の犯罪用語に騙され続けている。
『朝鮮戦争と日本共産党武装闘争の位置づけ(1)』スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格
『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(2)』軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助
『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(3)』後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果
『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(4)』「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治
3、自主独立路線政党という90周年ウソ詭弁キャンペーンの効果・逆効果
レーニンは、1920年、コミンテルン第2回大会において加入21カ条を決定した。当時の実態から、国際共産党とは、レーニン・ソ連共産党のことだった。各国支部との関係を民主主義的中央集権制と分派禁止規定の組織原則とし、鉄の軍事的規律関係で結んだ。2011年とは、レーニン・コミンテルンによる国際犯罪の組織原則=21カ条決定の90周年でもあった。
それは、中国・フランス共産党の90周年だった。1年遅れて、2012年が、日本支部の90周年になった。21世紀現在、東欧・ソ連10カ国前衛党崩壊と資本主義ヨーロッパのコミンテルン型共産党全滅結果は、何を証明したか。
wikipedia『コミンテルン』
日本支部→日本共産党は、2012年の1年間を通じ、党創立90周年祝賀の大キャンペーンを行う。赤旗記事・演説会・ビラだけでなく、2200円を徴収する不破82歳マルクス賛美講座・志位の不破綱領絶賛講座においても、自主独立路線政党との大宣伝を展開する。2012年中には、衆議院の解散総選挙が予想されている。2013年には、参院選がある。その改選3議席国政選挙に向けてのキャンペーン効果・逆効果を予想する。
ところが、志位和夫は、90周年新春インタビューにおいて、自主独立路線の確立時期について、途方もないウソをついた。それは、ソ中両党とも最終的に決裂した1967年でなく、1958年の第7回党大会で自主独立路線を確立したと真っ赤なウソをついた。宮本・不破も、それとなく匂わせるウソをついたが、志位ほどの断定的ウソをつかなかった。1958年とは、まだソ中両党支配下の反国民的隷従犯罪政党だった。彼は、党史の自主独立時期について、9年も遡る党史偽造歪曲犯罪をした。
「志位−わが党の党史の「第2の時期」は、1945年の敗戦から十余年の時期です。この時期にわが党は、アメリカ軍の全面占領のもとで初めて公然とした活動を開始し、さまざまな曲折、重大な試練をへて、1958年の第7回党大会で自主独立の路線を確立し、1961年の第8回党大会で綱領路線を確立しました。」
志位和夫『創立90周年の年にふさわしい躍進を』2012年1月1日新春インタビュー
〔効果予想〕
たしかに、それは、有権者・支部・党員騙しのウソ詭弁日本語として、まだ一定の効果があると思われる。しかし、2012年現在、日本共産党の党勢力は、6分野とも激減しつつあり、衰弱死過程に突入してきた。それは、有権者・支部・党員が、90周年党史から見て、日本共産党の本質と実践を反国民的隷従犯罪政党だったと見抜いてきた結果である。
『第25回大会中央委員会報告・決議の行間を読む』6分野とも激減、衰弱死過程に突入
自主独立路線政党というキャンペーンが、2012年7月党創立90周年祝賀めざす党勢拡大指令に支部・党員を決起させる上でどれだけの効果をもたらすのか。
〔逆効果予想〕
自主独立というウソ詭弁日本語は、宮本・不破・志位という3人連続独裁者によって、1967年以降の45年間言い古され、新鮮味がまるでない。しかも、あまりにも大キャンペーンが続くと、素朴な疑問を抱く有権者・支部・党員が湧き出る。
(疑問1)、90年間一貫して、自主独立路線だったのか。
(疑問2)、1967年のソ中両党との決裂後からだとすれば、それ以前の45年間は、自主独立路線政党でなかったことになるのか。
(疑問3)、1922年から67年までの45年間は、とのような路線政党だったと規定できるのか。
(疑問4)、自主独立路線以前の半分期間は、コミンテルン=ソ連共産党隷従→ソ中両党隷従という自主性・独立性を奪われていた反国民的隷従犯罪政党だったのか。路線・方針・人事・財政のすべてにおいて、自主性・独立性を奪われていたと規定しているのか。
志位・市田・不破らは、90年間における後半50%期間を自主独立政党だったというウソ詭弁キャンペーンをするだけである。それ以前の半分50%・45年期間におけるに反国民的隷従犯罪実態にたいし口を閉じる。その隷従犯罪データについては、上記別ファイルの第1〜2期で検証した。〔目次〕のリンクだけをする。
第1期、ソ連共産党支配下隷従政党
第1期(1)−戦前党史 1922〜45 24年間、90年間中の27%期間
1、国際共産党日本支部=ソ連共産党支配の日本支部創設とその謎
2、日本支部の活動形態と実態−反国民的隷従=天皇制打倒・戦争反対運動の実態
3、転向問題と日本支部の壊滅原因−1933年、スパイ査問事件などで日本支部壊滅
4、1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部
第1期(2)−戦後党史 1946〜49 4年間、90年間中の4%期間
1、戦後、路線・人事・財政とも対ソ隷従。非転向の出獄幹部が再建共産党指導部を独占
第2期、ソ中両党支配下隷従政党−1950年〜67年決裂 17年間、90年の19%期間
1、中華人民共和国成立以降、対ソ中隷従→政策・規約だけでなく、人事も完全隷従
2、1951年、スターリン・毛沢東命令隷従の朝鮮戦争参戦1年9カ月間→55年六全協
3、1960年〜中ソ論争の真因=毛沢東の核開発計画とフルシチョフの阻止策謀
4、1962年、共産党はソ連核実験をきれいな実験と支持→原水禁運動分裂犯罪主因
5、1963年〜ソ連は部分核停条約支持の日本共産党分派を形成→対ソ決裂・対中支持
6、1964年4・17半日ゼネスト中止の誤りのとき、中国滞在中の宮本顕治指令?
7、1966・67年〜文化大革命時期、毛沢東は中国支持の分派を形成・干渉→対中決裂
忠誠派党員約8万人は、このような疑問を持たない。忠誠派党員とは、幹部会報告データに基づいた数値で、党中央命令に従順で、党勢拡大月間・国政選挙活動にたいし、瞬時に決起し、成果を上げる党員数である。彼らは、ひたすら、志位・市田・不破指令に基づき、7月記念日を目指す党勢拡大と参院選支持者拡大に突っ走る。
素朴な疑問を抱く支部・党員は、どのような行動にでるのか。それとも、党費納入だけをするが、党勢拡大への参加を拒否するか。党費納入25万党員中、8万人以外の党費納入17万党員たちは、拡大→減紙→再拡大→再減紙を繰り返し体験してきた。その結果、彼らは、日本共産党が賽の河原の石積み拡大政党だという悟りの境地に至っている。その状況において、「自主独立」と誇らしげにと見栄を張っても、90周年党史の実態を知る有権者は、志位・市田・不破らを軽蔑するだけであろう。
17万党員は、賽の河原の石積み拡大政党が、ルモンド記事「フランス共産党、未来のない90周年」内容と同じ近未来についそこまで接近してきたと分かってくるか。
ル・モンド『フランス共産党、未来のない90周年』
(81年公表71万人→現在公表10万人なら、61万人・86%が離党?)
この期間中の党内犯罪は多数ある。しかし、ここでは3つを、リンクだけで載せる。
〔小目次〕
1、1972年、新日和見主義事件−600人査問・100人処分の冤罪・粛清事件
2、1976年、立花隆『日本共産党の研究』雑誌掲載・出版→「犬が吠えても歴史は進む」
3、1977年、国際共産主義運動史上初の地区専従(宮地)による日本共産党との民事裁判
1、1972年、新日和見主義事件−600人査問・100人処分の冤罪・粛清事件
この期間中における宮本・不破による最大の党内犯罪の一つに、1972年の新日和見主義事件がある。この対民青クーデターも、別ファイルで検証したので、リンクだけにする。民青は、1972年20万人→2012年現在、公称2万人以上、同盟費納入率40%・実質8000人と言われている。
「現在2万人以上」とは、民青愛知県委員会がHPで明記している。2011年現在、4中総志位報告によれば、共産党地区と同数315地区中、241地区・76.5%が崩壊のままである。そこでは、民青47都道府県委員会と直結した民青班しか残存していない。
新日和見主義事件、600人査問・100人処分の冤罪・粛清事件
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
川上徹『同時代社』『査問』全文
加藤哲郎『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
高橋彦博『川上徹著「査問」の合評会』
れんだいこ『新日和見主義事件解析』
Google『新日和見主義』
『宮本・不破による民青破壊犯罪と民青壊滅データ』249地区が崩壊のまま (表10)
2、1976年、立花隆『日本共産党の研究』雑誌掲載・出版→「犬が吠えても歴史は進む」大キャンペーン
宮本・宮本秘書小林栄三の2人が主導・執筆した立花隆批判大キャンペーンの本質は、何か。それは、スパイ査問事件問題での宮本顕治による必死の自己弁明だった。(1)リンチ査問→殺人、(2)判決の外傷性ショック死、(3)法廷における宮本陳述どおり暴行行為の存在を全面否認という諸説にたいし、立花隆が詳細なメスを入れた。
リンチ殺人疑惑に怒り狂った宮本・秘書小林は、それにたいし「犬=特高史観の立花隆が吠えても、歴史=日本共産党・宮本は進む」との赤旗キャンペーン、パンフ75万部において、偽造歪曲・隠蔽党史をねつ造した。私は、出版されたすべての文献・検事調書・法廷陳述を分析した。その結論として『「意見書」第1部2』において暴行行為の存在、程度、性質の真相を検証した。
ただし、宮本顕治は、43年前のリンチ査問シーンの暴露再現本出版、袴田里見の検事調書出版などによって、(1)リンチ査問→殺人という疑惑が急浮上することで、怒りというよりも、真相発覚の恐怖にとらわれたのかもしれない。というのも、リンチ査問→殺人容疑裁判の被告は、他に中央委員逸見重雄・袴田里見・秋笹と木島の4人がいた。
4人の検事調書内容はほとんど同一で『第1部2』(表)のように一致していた。それにたいし、宮本顕治公判陳述内容は、査問シーンに関しまったく違っていた。『第1部2』の5人比較(表)多数で検証したように、宮本陳述内容だけはウソ詭弁に満ち、真相を隠蔽していた。
『「意見書」第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相−4人の検事調書内容
43年前の治安維持法公判においてなら、宮本顕治のウソ詭弁・全面否認陳述は許される側面もあろう。しかし、43年後の1976年で、他4人の検事調書内容が出版・公表されたからには、宮本陳述内容だけが正しいとし、他4人の内容を特高・検察に屈服した内容とするのは誤りである。しかも、その誤った対応として、袴田里見除名・逸見重雄教授政治的殺人をしたのは、根本的な党内犯罪だった。
高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生
恐怖にうち震えた宮本顕治は、特高史観の立花隆批判・宮本陳述の科学的正当性を立証する特別チームを作った。その法律専門家委員会トップに腹心秘書小林栄三を据えた。共産党員弁護士青柳盛雄も当然入った。当時参議院議員秘書兵本達吉も、京大法学部出身ということで、特別チームに入れられた。以下の内容は、その2人だけの個別会話である。兵本達吉が、それを私に直接話した。
青柳弁護士は次のように彼の推測を漏らした。査問者宮本顕治は、逃げ出そうとしていた中央委員小畑の片手を柔道技で捩じ上げ、膝で背中胸部を強圧していた。他4人全員は、宮本顕治が小畑を殺したと思った。小畑殺人との判決になれば、宮本顕治26歳だけが死刑になる。中央委員になってまだ8カ月間だけの宮本顕治が、死刑から逃れるには、他4人と異なる全面否認公判陳述の道しかなかっただろう。
宮本顕治の恐怖心レベルを裏付けるもう一つの状況証拠がある。1989年12月、「日本の暗黒−実録・特別高等警察」赤旗連載の開始と1年半連載後の突然中断事件である。これは国会での浜田幸一議員の質問をテレビで見た作家森村誠一が「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、連載企画が進行した。
そして「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることで、両者の合意が成立した。連載の取材、執筆メンバーは3人で、森村誠一と赤旗記者下里正樹、他一名だった。
連載は好評で、1991年6月、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前、突然の連載中断となった。理由を言わない中断通告にたいし、森村誠一が怒り、共産党と絶縁した。共産党は党内で抗議した下里正樹を除名にした。ファイルで分析したように、この中断原因は、小畑死因の真相を再検証されたくないという恐怖を持ち続けていた宮本顕治指令しかありえない。
著名な推理小説作家と『悪魔の飽食』取材・共同執筆者下里正樹が、『第1部2』5人比較(表)のような暴行行為の存在、程度、性質の真相を緻密に再検証したら、どんな結論に大転換するのか分からなかった。
立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部』
『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生
れんだいこ『宮本顕治論・スパイ査問事件』
共産党『袴田自己批判・批判』「3論文」と「党史」
3、1977年、国際共産主義運動史上初の地区専従(宮地)による日本共産党との民事裁判
「こんな裁判は国際共産主義運動史上初、前代未聞」とは、被告日本共産党側2人と共産党弁護団3人が、裁判冒頭に(1)裁判長と(2)弁護士なしの本人訴訟原告1人を睨みつけつつ、いきなり大声で何度も怒鳴った言い方である。「直ちに門前払いせよ」とも繰り返した。彼ら5人の喚き声によって、私はそういう性質の裁判かと分かった。
共産党は、私の民事裁判提訴行為にたいし、憲法の裁判権行使を直接・唯一の理由として除名した。この点で、共産党は、いざとなれば反憲法体質をむき出し、憲法の上に党を置く独善的犯罪政党であることを示した。学者党員・長谷川正安憲法学教授は、党中央の指令に隷従し、反憲法「意見書」を提出した。彼も公然党員として、憲法学と自己の憲法倫理の上に党を置く反憲法学者へと腐敗した。同じ名古屋大学の水田洋は、彼の人格を「党の命令があれば、節を曲げる三百代言」と評価した。
日本共産党との裁判
『私が受けた「監禁査問」21日間の壮絶』24時間私語厳禁、トイレも通院も監視つき
第1部『私の21日間の“監禁”「査問」体験』「5月問題」
第2部『「拡大月間」システムとその歪み』「泥まみれの拡大」
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離「」
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
第7部・関連『長谷川「意見書」』 『長谷川「意見書」批判』水田洋、中野徹三
第8部『世界初・革命政党専従の法的地位判例』
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−70年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
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〔関連ファイル〕
Google『文化大革命と日本共産党』
wikipedia『自主独立路線の確立』