日本共産党90周年の根本的な逆説
国際共産主義運動関係を基準とした5時期分類
第1期、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党
(宮地作成−6部作第1期、1922年創立〜1949年の28年間)
〔目次−6部作2、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党〕
はじめに−〔第1〜5期〕テーマの限定的抽出=全般的党史記述でなく
1、第1期(1)−戦前党史 1922〜45 24年間、90年間中の27%期間 (表3)
1、国際共産党日本支部=ソ連共産党支配の日本支部創設とその謎
2、日本支部の活動形態と実態−反国民的隷従=天皇制打倒・戦争反対運動の実態
3、33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅 (表4〜7)
4、1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部
2、第1期(2)−戦後党史 1946〜49 4年間、90年間中の4%期間 (表8)
1、戦後、路線・人事・財政とも対ソ隷従。非転向の出獄幹部が再建共産党指導部を独占
1945年、ソ連スパイ野坂を配備→1955年六全協後、第1書記→議長
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−1970年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『逆説の戦前日本共産党史−コミンテルン日本支部史』ファイル多数
『逆説の戦後日本共産党史−1945年〜現在』ファイル多数
はじめに−〔第1〜5期〕テーマの限定的抽出=全般的党史記述でなく
日本共産党史の真実は、隠蔽・偽造歪曲されてきた。「日本共産党の90周年」をもう一つの角度から検証する。その視点とは、党創立から2012年までの90年間を、ソ連共産党とソ中両党に隷従していたほぼ半分の期間と、隷従からの脱出期間、党独裁・党治国家4つとの関係復活期間などの5段階に分類することである。まず前半45年間は、どのような性質の政党だったのか。それは、国際共産主義運動関係における反国民的隷従政党期間だった。
その45年間を2つの期間に分類する。〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年。〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂までである。ここでは、〔第1期〕を扱う。
日本共産党90年間の党史を検証するといっても、膨大になる。5段階分類をするにしても、次の設定で記述する。
(1)、5段階のそれぞれについて、テーマを限定的に抽出する。
(2)、抽出テーマについて、HPファイルでかなり検証してきた。そのかなりの部分をリンクによる説明にする。
1、第1期(1)−戦前党史 1922〜45 24年間、90年間中の27%期間
〔小目次〕
1、国際共産党日本支部=ソ連共産党支配の日本支部創設とその謎
2、日本支部の活動形態と実態−反国民的隷従=天皇制打倒・戦争反対運動の実態
3、雪崩的転向32年と日本支部壊滅原因−33年スパイ査問事件で中央最終的壊滅
4、1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部
(表3−第1期(1)戦前党史、対ソ隷従政党)
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
1、対ソ隷従政党 28年間、31% |
(戦前) 1922〜45 24年間 27% |
党創立 〜敗戦 |
戦前、国際共産党日本支部として、路線・人事・財政面でも対ソ隷従 戦前の宮本、中央委員経歴8カ月間のみ 1933年、スパイ査問事件などで日本支部壊滅→獄中にだけ非転向幹部 1935〜45の10年間、党中央機関壊滅 |
期間の比率%は、2012年党創立90周年を基準とした分類
1、国際共産党日本支部=ソ連共産党支配の日本支部創設とその謎
レーニン・トロツキーは、1917年10月、臨時政府とソヴィエト権力という二重権力対立の間隙をついて、単独武装蜂起・単独権力奪取によって、クーデター権力を創った。レーニンは、それにたいし社会主義革命とするウソ詭弁で国内外を騙した。彼は、2年後の1919年、世界革命を目指す国際共産党・コミンテルンを創設した。さらに、1920年、コミンテルン加入21カ条を決定した。コミンテルンとは、その創設経緯から、レーニン・ソ連共産党が官僚主義的中央集権制で各国支部を支配し、世界で暴力革命を起こす政治・軍事組織だった。
フランス・中国は、1921年にコミンテルンフランス支部・中国支部を創った。国際単一共産党日本支部創立は、1922年7月だった。各国支部は、レーニン・ソ連共産党による民主主義的中央集権制・分派禁止規定に基づく軍事的規律の下で、支配・隷従の関係に組み込まれた。世界の各国支部は、2011年〜12年にかけ、コミンテルン支部創立90周年を迎えた。しかし、90周年を祝うのは、世界で、フランス共産党・中国共産党・日本共産党の3つしか残存していない。他はすべて崩壊・消滅した。または、共産党創立が1921年の後だった。
しかし、創立経緯や記念日には謎が多い。加藤哲郎は、『神話学』とし、その経過を詳細に検証した。風間丈吉は、モスクワに路線・政策・人事や、とくに財政面で隷従していた実態を分析した。戦前の日本支部とは、党財政においても自立した政党でまるでなかった。
『第一次共産党のモスクワ報告書』資料33、モスクワに2万円支援を要請
風間丈吉『モスコウとつながる日本共産党の歴史』1927年テーゼ〜28年間の党史
2、日本支部の活動形態と実態−反国民的隷従=天皇制打倒・戦争反対運動の実態
〔小目次〕
2、コミンテルンの対戦争方針と日本支部の機械的実践の誤り−戦争反対運動の実態と市民的反対運動を社会ファシズムとして妨害・破壊
日本支部は、コミンテルンによる路線指令に隷従し、天皇制打倒をメインスローガンに掲げた。その天皇制をどう規定したのか。ソ連共産党は、ロシアのツアーリシステムを絶対主義的帝政と規定していた。コミンテルンは、日本の支配機構をよく研究もしないままで、ロシア・ツアーリと日本の天皇制を同一と見なした。その性格規定を日本支部に機械的に押し付けた。そして、その打倒を命令した。日本支部は、その命令に隷従し、共産党内路線だけでなく、レーニンの犯罪的なベルト理論に基づき、あらゆる共産党系労働組合・市民団体に絶対主義的天皇制打倒スローガンを掲げるよう強要した。その結果はどうなったか。
ベルト理論とは、スターリンが唱え、定式化したが、レーニンこそが最初に全面実践をした。それは、ソヴィエト・労働組合やあらゆる文化・市民団体を共産党の路線・政策・方針を伝え、浸透させるベルトに転換させるという政治の優位性理論に基づいていた。この「政治の優位性理論」こそは、クーデター後のわずか5年2カ月間で、レーニンが党独裁・党治国家を完成させた犯罪体制の根幹理論になった。
彼は、単独武装蜂起・単独権力奪取後、「政治の優位性理論」を→「クーデター権力政党の絶対的指導性理論」にエスカレートさせた。そして、秘密政治警察チェーカー18万人に指令し、レーニン・ソ連共産党を批判し、また、服従しないソヴィエト・労働組合員や根本的に誤った食糧独裁令に抵抗・反乱する農民ら数十万人を殺害した。その大量殺人犯罪をウソ詭弁・完璧な情報統制国家システム構築で国民・全世界を騙した。
『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』レーニンのウソ・詭弁7つを検証
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
日本支部の活動実態は、すべてこのレーニンによる国民・団体を見下し、共産党の指導的地位・役割を最頂点に据える、うぬぼれた犯罪理論に基づいていた。
それは天皇制打倒スローガンだけで、打倒を目指す具体的な戦略・戦術は何一つ提起しなかった。指令したコミンテルン側にもなかった。というのも、ロシアのツアーリ体制は、1917年の2月革命において、労働者・兵士・婦人などのストライキ・デモの状況によって、一種、自然崩壊をしたからである。2月時点、ペトログラードのボリシェヴィキは少数派であり、ストライキやデモはエスエルが中心だった。レーニンもスイスに亡命していて、そこで2月革命ニュースを聞いた。
彼は、ドイツ軍部のロシア内乱支援作戦による封印列車に乗って、4月にフィンランド駅へ到着しただけだった。しかし、コミンテルン指令に盲目的に隷従したとは言え、天皇制打倒スローガンとは、日本の国体を全面否定する性質だった。それは、日本においてもっとも敵対的な国体破壊政党として名乗りを挙げたことを意味した。そのスローガンは、国民の天皇制認識とも乖離していた。
1922年日本支部創立以来、1935年支部壊滅まで13年間があった。その期間における日本支部の革命戦略は、コミンテルンの5種類の革命類型論が変化したのにつれて動揺した。この変化と動揺は、スターリン粛清のコミンテルン幹部への広がりとも直接の関係があった。ただテーゼ決定過程では、日本支部側の意見も当然入っている。この5種類の革命類型論の変化や各国への類型適用のやり方については、加藤哲郎が『コミンテルンの世界像』(青木書店)で詳細な分析をしている。
(1)、1927年、27年テーゼは、日本支部の任務として、君主制の掃蕩をふくむブルジョア民主主義革命から、強行的速度をもって社会主義革命へ転化せよ、と指示した。
(2)、1931年、31年政治テーゼ草案では、それが「ブルジョア民主主義的任務を広範に包含するプロレタリア革命」とされ、天皇制との闘争は、第二義的課題とされた。
(3)、1932年、32年テーゼは、ふたたび二段階革命論にもどり、天皇制との闘争を第一義的課題とした。それは権力構造の分析というたんなる理論問題ではなかった。それは「日本における革命情勢の切迫、革命的高揚がある」という日本情勢の主観主義的評価に基づき、「天皇制の転覆・打倒、ブルジョア民主主義革命による天皇制廃止の労働者、農民のソヴェート政権樹立」を即時実践の革命課題として、コミンテルンが指令したものである。
明治天皇制をどう規定するか。「明治国家論」については、(1)大藪龍介著書『明治国家論』にたいする書評と(2)著者リプライ=返事がHPに載っている。そのリンクを載せる。今後とも、コミンテルンと日本支部の明治天皇制の規定→絶対主義的天皇制の打倒路線・方針との比較研究をしていく必要がある。以下の2つはその参考資料になる。
コミンテルン日本支部は、革命は近い、として全力を挙げて取り組んだ。宣伝だけでなく、絶対主義的天皇制打倒行動に大衆を決起させようとした。
日本支部は、前衛党影響下の赤色労働組合協議会である全協にも、「ソ同盟擁護」という基本スローガンとともに、「天皇制打倒」を労働組合行動綱領に採択させるという暴挙まで行った。
党員でもある全協幹部のほとんどが、労働組合がこのような革命実践課題を組合綱領に掲げるのは誤りであると、この採択に強く反対していた。しかし党中央は裏工作で党員幹部の切り崩しを行い、1932年9月第一回中央委員会において、一票差の票決で、強引に決議させた。
全協は、1932年に32000人の組合員を擁し、左翼勢力では最も強力で、戦闘的な労働組合だった。全協は、この行動綱領を理由として、治安維持法取り締まり団体とされた。1933年一年間で、4500名以上の幹部、活動家が検挙され、そのうち512名が起訴された。1934年には219名が起訴され、組織的に崩壊していった。
治安維持法は悪法である。しかし天皇制打倒綱領とは、国体の変更を綱領とすることであり、その団体は、取り締まり団体とされ、完全非合法となり、幹部全員が検挙対象となることは自明のことだった。全協内の共産党員は非合法で、労働組合は合法という半非合法状態から、国体の変更を目指すとして、労働組合そのものが完全非合法になった。
1931年当時の労働、農民運動の状況は、労働組合818で、368,975人、組織率7.9%、同盟罷業864件で、参加人員54,515人だった。農民組合4,414で、306,301人、小作争議3,419件、参加人員81,135人という広がり具合だった。兵士の中での運動については、1932年7月から3カ月間、呉海兵団で党員3名の細胞が存続し、機関紙「聳ゆるマスト」を6号まで発行し、党員、同調者5名、一年前までの水兵5名、計10名という規模だった。軍隊内での党細胞は、呉海兵団以外になく、兵士への手がかりもわずかだった。
コミンテルン日本支部は、それらの状況にたいし、コミンテルンの主観主義的情勢評価指令ともあわせ、「労働者・農民・兵士は革命化しており、日本は革命前夜の情勢にある」という根本的に誤った情勢判断を下した。そして「天皇制打倒」の革命スローガン・方針を労働組合に押しつけ、国家権力に弾圧の口実をみすみす与えるという形で、最大の大衆組織を自らの誤りによって崩壊させた。
2、コミンテルンの対戦争方針と日本支部の機械的実践の誤り−戦争反対運動の実態と市民的反対運動を社会ファシズムとして妨害・破壊
志位和夫は、宮本・不破と同じく、日本共産党は反戦平和の真理をかかげてたたかったと、何度も強調している。その真相はどうだったのか。当時のコミンテルン日本支部による実践は「反戦平和」「反ファシズム」というスローガンを社会ファシズム側のものであるとして批判、全面否定をした。そして以下の特殊な対戦争方針を「赤旗」(せっき)や街頭ビラで宣伝し、大衆組織にも持ち込んで、反戦平和運動、反ファシズム統一行動を破壊した。コミンテルンの方針およびその指令に基づいた日本支部の方針と実践は次の内容である。
(1)、社会ファシズム論に基づき、社会民主主義政党、改良主義的労働組合、その他の「反戦平和」をスローガンとした運動をすべて批判、排斥した。
1929年8月、賀川豊彦らの全国非戦同盟を「平和主義」として批判した。また「一切の戦争に反対する」という社会民主主義的平和運動を、小ブル的運動と攻撃し、コミンテルン日本支部の運動との区別を強調した。
1933年9月に上海反戦大会が開催されることになった。これは1931年以来の日本の中国侵略への国際的、国内的反戦運動として、超党派的な幅広い運動となり、大きく盛り上がった。ロマン・ロラン、アンリ・バルビュスのよびかけが発せられ、国内でも加藤勘十、鈴木茂三郎が幹事となり、団体参加も広がった。コミンテルン日本支部は、「赤旗」などで当初はそれを好意的に報道し、代表派遣も呼びかけた。しかしその直前になって、社民排撃の立場から、一転してその大会を批判し、開催に反対し、反戦の統一行動を破壊した。
(2)、たんなる「反戦」を否定し、「反帝」「帝国主義戦争の阻止」でなければならないとした。
そのため、1929年11月には、それまでの戦争反対同盟を国際反帝同盟日本支部に改組した。
田中真人は「一九三〇年代日本共産党史論」の「日本反帝同盟の研究」において、様々な反戦運動、反帝運動と組織を当時の「赤旗」記事等で分析している。その上で「革命運動とはことなる独自の論理をもつ平和運動という認識は否定されるべきものとされ、それは絶対平和主義、ブルジョア平和主義、社会民主主義というような否定的レッテルがはりつけられた。たんなる「反戦」のスローガンはブルジョア平和主義的弱点をもつものといわれかねず、「反戦」から「反帝」への「質的飛躍」が強調された」としている。
(3)、「反帝」「帝国主義戦争阻止」でたたかうが、いったん戦争に入ったら、ロシア革命のように、「戦争を内乱に転化せよ」というスローガンをかかげ、大衆組織に持ち込んだ。
そのためには軍隊を利用せよとして、召集令拒否という態度を批判した。また兵役拒否は社会民主主義者の小ブル的反戦闘争であるとして反対した。
(4)、帝国主義戦争反対の中に、「ソ同盟擁護」の方針を併立させて提起した。
その内容は、日本帝国主義の反ソ戦争阻止、しかしいったん戦争になったら対ソ戦争を内乱へ転化せよ、というものである。これを重要課題として全協という共産党系労働組合にもかかげさせた。さらにソ連の資本主義国への戦争は、肯定されるべき戦争であるとして、その勝利のために全力を尽くすという方針も打ち出していた。
天皇制の転覆・打倒路線と、戦争反対路線の方針・実態とは、コミンテルンの根本的に誤った情勢認識を盲信した日本支部の反国民的隷従犯罪だった。
宮本・不破・志位による日本共産党は反戦平和の真理をかかげてたたかったという宣伝文句は、有権者・支部・党員騙しの真っ赤なウソである。
『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判=日本支部行動の全面賛美
『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲
加藤哲郎『「非常時共産党」の真実──1931年のコミンテルン宛報告書』
3、雪崩的転向1933年と日本支部壊滅原因−1935年スパイ査問事件で中央最終的壊滅
〔小目次〕
1、1930年代における日本支部の党員数と非転向者数・転向者数データ (表3〜5)
3、雪崩的転向の始まりと原因−佐野・鍋山「転向」原因としてのコミンテルン批判 (表6)
4、根本的な逆説=裏切り転向か、誤ったコミンテルン方針からの正当な離脱か
1、1930年代における日本支部の党員数と非転向者数・転向者数データ
転向の雪崩現象と日本支部の崩壊原因とは密接な関係がある。壊滅の最後的契機は、宮本顕治・袴田里見らによるスパイ査問事件だった。宮本顕治は、戦前の日本支部壊滅の原因は、国家権力・特高による弾圧を基本原因と規定してきた。
壊滅原因を日本支部内部の本質的な誤りとする研究を全面否定した。壊滅原因をコミンテルン路線に隷従した日本支部に求める研究者2人を査問し、除名にした。その2人とは、『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房、1994年)を出版した田中真人と、『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』(三一書房、1981年)を出版した渡部徹である。
2人の著書と、石堂清倫著書に基づき、日本支部壊滅の原因を検証する。伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評と、『転向と天皇制』(勁草書房、1995年)もきわめて説得力が高い。ただ、1930年代における日本支部の党員数・転向数などを、宮本・不破・志位らは完璧に隠蔽してきた。そのため、その資料は特高データしかない。1950年代前半における朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党の武装闘争データも、特高データしかないのと同じである。
宮本顕治は、立花隆『日本共産党の研究』にたいし、「犬が吠えても歴史は進む」とし、特高史観と決めつける大キャンペーンをした。立花が特高の犬で、宮本顕治が歴史そのものと断定するうぬぼれ剥き出しの反撃だった。宮本・不破・志位らが、戦前の日本支部データを隠蔽し、偽造歪曲しているからには、その国際共産党日本支部の客観的資料は国家権力・特高側にしかない。
1989年〜91年における党独裁・党治国家10カ国崩壊以前の『共同研究・転向』などでは、レーニン、スターリン、コミンテルンの方針、対日本支部方針が根本的に誤りであることを前提とした考察は、ストレートにはできなかった。
それにたいし、新しい見方考え方とは、一党独裁10カ国崩壊事実に基づき、(1)1930年代コミンテルンの対日本支部方針が根本的に誤りであり、かつ、(2)日本支部もそれを機械的・教条的に実践し、当時の日本の左翼運動、反戦運動に重大な反国民的実害を与える誤りを犯したことを前提として、転向・非転向問題を見直すという意味である。
(3)、新しさのもう一つは、非転向者の位置づけ問題である。1991年ソ連崩壊前までは、ほとんどの論調・視点が転向者側の分析、なぜ転向したのかという検証になっていた。それは、転向=党と革命にたいする裏切り・変節とする宮本顕治式レッテル貼り史観に呪縛されていた。
一方、非転向者9人〜20数人は、英雄視され、指導者としての誤りや反戦平和運動に与えた反国民的実害・問題点が一切不問にされてきた。このように機械的な党員2300人の二分法は正しいのか。非転向指導者の誤り・深刻な実害とその結果責任を隠蔽する日本共産党史観を大転換させる必要があるのではなかろうか。
戦前の党活動期間は、13年間だけだった。1922年創立から1935年袴田中央委員検挙による党中央潰滅までである。その間のコミンテルン日本支部党員は約2300人だった。そのほぼ全員が検挙され、起訴された。約2300人という数字的根拠は『袴田政治的殺人事件』でも載せた。以下(表)のとおりである
治安維持法違反で検挙され、裁判にかけられた共産党員は約2300人いる。予審制度をもつ治安維持法裁判事件で警察・予審とも完全白紙・完全黙秘を貫いたのは、そのうち新中央委員宮本ただ一人だった。彼の中央委員期間は、8カ月間だけだった。その点では、2300分の1例として英雄的と言われてきた。赤旗号外(全戸配布1976.2.1付)は、「五年間も完全黙秘を通したのは、日本の近代史上宮本委員長ただ一人である」と宣伝した。
しかし、彼が警察・予審とも完全白紙・完全黙秘をしたのには、別の理由があるとの見解も多い。共産党員の青柳弁護士が次のように彼の心境を説明している。宮本顕治にたいする起訴項目は、他非転向被告のような(1)治安維持法違反だけでない。(2)袴田・秋笹・中央委員逸見と同じく、4人はスパイ査問事件における小畑へのリンチ・殺害容疑だった。小畑中央委員は、本物の特高スパイ大泉中央委員と並んで、検挙を免れていた党中央委員2人中の一人だった。
袴田・秋笹・逸見ら3人は、警察・予審・公判とも、リンチ査問経過を率直に陳述した。彼らは、特高・マスコミによる事件偽造歪曲・でっち上げに反論し、査問経過の真相を克明・正確に陳述しようとした。3人の警察・予審・公判内容ともほぼ完全に一致している。それにたいし、宮本顕治は、警察・予審とも完全白紙・完全黙秘をした上で、治安維持法違反・小畑リンチ殺人事件の公判において、3人と全面的に異なる主張・陳述をした。青柳弁護士は、当時27歳の宮本顕治が、殺人行為との判決がでれば、死刑になるとの恐怖に恐れおののき、全面否認したと推定をした。
私は、宮本顕治・小林栄三による『犬は吠えても歴史は進む』大キャンペーンの内容と狂気ぶり、「袴田政治的殺人事件」キャンペーンに異様さと重大な誤りを感じた。そして、それら2つの事件を克明に検証した。とくに、『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相とその結論は、別ファイルに載せた。宮本顕治の公判証言内容は、ウソ詭弁に満ちている。長くなるので、ここでは書かない。
『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生
立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、加藤哲郎『書評』
共産党『袴田自己批判・批判』「3論文」と「党史」
(表4) 治安維持法違反検挙者、起訴者数
典拠 |
逮捕者 検挙者 |
起訴者 |
日本共産党 『社会科学総合辞典』(新日本出版社) |
1925〜45年の20年間 数十万人 75,681人(政府統計) |
1925〜45年の20年間 5,162人(政府統計) |
西川洋三重大学教育学部助教授 『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(渡部徹編、三一書房) |
1930〜34年の5年間 検挙人員数 47,870人 内検挙党員数 1,418人 (注)、これは1929年検挙者を加えた数 |
1930〜34年の5年間 起訴人員数 3,217人 内起訴党員数 1,424人 党員歴内訳 1年未満1,194人、 1年から2年179人、2年以上51人 |
田中真人同志社大学教授『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房) |
「西川の統計分析の対象となっている一九三〇年〜一九三四年の時期は、戦前の共産主義運動がもっとも量的に拡大した時期である。この五年間の年平均は一九二八年から四三年の期間の左翼関係検挙・起訴者年平均の約二倍となっている」(P.30) |
この表で判明しているのは、1930〜34年の5年間起訴人員数3,217人、内起訴党員数1,424人だけである。1925〜45年の20年間の起訴人員数5,162人は、3,217人の1.6倍である。そこから、20年間の起訴党員数推定計算式として、1,424×1.6=2,278人で計算し、約2300人とした。ただし、田中真人が分析する年平均値から逆算すれば、2300人よりかなり少ないデータも推計できる。
表のように、共産党員の場合、検挙されると全員が起訴され、警察・予審密室審理を受けた。彼らは、予審で黙秘しなかった。よって、宮本式警察・予審完全黙秘方法は、(1)英雄的と言われるが、(2)死刑判決にたいする恐怖心も合わせた2300分の1の特殊例である。
次に、転向有無と密室審理陳述有無について、約2300人のコミンテルン日本支部党員の分析をする。
(表5) 転向有無と密室審理陳述有無での約2300人の分析
転向有無 |
密室審理陳述有無 |
人数 |
合計 |
非転向 |
警察・予審黙秘 |
宮本1人のみ |
1人…1/2300 |
非転向 |
警察黙秘・予審陳述 警察・予審陳述 拷問死・獄中病死 |
秋笹(公判転向)、他? 袴田、他数十人 小林、岩田、野呂、他数十人 |
非転向のままで敗戦後出獄したのは9人、他? 全党員の2〜3% |
転向 |
警察・予審陳述 |
2300−数十=2200数十人 |
全党員の97〜98% |
1945年12月の第4回大会では、中央委員7人、中央委員候補7人だった。1946年2月の第5回大会では中央委員20人、中央委員候補20人である。宮本を除くと、これら非転向だが、警察・予審陳述党員は39/2300で、2%弱だった。そして、全党員の97〜98%が、転向し、警察・予審陳述をしたというコミンテルン日本支部党活動と党組織とは何であったか。それを下記で検討する。
フランス、イタリアなどコミンテルン各国支部でこのような雪崩的転向現象はどこにもない。戦前のコミンテルン型共産主義運動において、これほど大規模で、一挙に発生した思想転換現象=革命組織離脱現象は、日本でしか見られない、まったく特殊なケースである。国際比較論としてだけでなく、1930年代日本における社会思想史上の重大思想事件の一つとしてもさらに考察を深めるべき研究テーマである。
(表6) 2300人中の非転向者の人数と%のデータ
典拠 |
非転向者の人数 |
% |
『日本共産党の七〇年』 |
(1)最後まで屈服を表明しなかった者10人(P.128) (2)敗戦後の非転向出獄者9人(P.157) (3)1945年12月第4回大会、中央委員7人、中央委員候補7人、他で計14人(P.158) (4)1946年2月第5回大会、中央委員20人、中央委員候補20人で、計40人(P.162)。(宮地・注)、敗戦時出獄者9人以外の31人は、それ以前の出獄者であるが、全員が非転向かどうか不明 |
0.5% 0.5% 0.7% 2% |
立花隆『日本共産党の研究(二)』(講談社文庫) |
(5)ビューロー時代からの中央委員で非転向6人+宮本、袴田、計8人(P.341)。偽装転向を含むと10数人(P.354) (6)1940年末、受刑者以外の出獄、執行猶予、起訴猶予で獄外にいた被監視者の非転向、158/4183人(P.342)。(宮地・注)、党員以外のシンパを含む→1945年敗戦時の非転向?人 (7)非転向人数での宮本答え。亀山幸三質問「ほんとの意味での非転向を貫いたのは他に誰がいるか」、宮本「結局、おれと春日(庄)ぐらいかな」(P.354) (8)虐殺された者80余名(山岸一章調査)(P.346) |
0.5% 4%→?% 0.1% 4% |
伊藤晃『転向と天皇制』((勁草書房) |
(9)‘33年6月佐野・鍋山転向声明から’35年6月までに、共産党関係受刑者650人のうち、当局が転向・準転向と認めたものが合わせて505人、非転向は154人(P.133) (10)‘38年4月現在、28年以降治安維持法違反で司法処分を受けた者12,145人のうち11,355人釈放。そのなかで再度司法処分に至ったもの854人にすぎなかった(P.134) |
24% 7% |
コミンテルン方針の誤りについては、石堂清倫が『中野重治の転向−再論』でのべている。その一部を引用する。私は日本の天皇制問題が、現実の歴史過程の外側での形而上学的な、したがって不毛な論争として一人歩きをしてきたという意味のことを書いたことがある。それは天皇制の規定がコミンテルンによって与えられ、それを無謬の真理として、というよりは天孫降臨の神話のような出発点として受け取っていたために、その教条解釈が歴史過程の分析を不可能にしたのである。
私はそのとき満鉄調査部以来の知友横川次郎の遺著「我走過的崎嶇的小路」の一節をひいた。彼は端的に、崩壊した戦前共産党の根本的錯誤の根元がモスクワにあったというのである。
第一は、コミンテルンが日本の党にソ連邦防衛を主要任務として与えたこと。それは極言すれば、ソ連共産党の民族的利己主義を暴露するものでしかない。
第二に、三二年テーゼが、ファシスト・クーデタの危険にたいする闘争よりも天皇制闘争に向かわせ、さらに日本の社会民主主義を「社会ファシズム」と誤って規定して事実上統一戦線を否定したこと。
第三に、テーゼが天皇制の歴史的生成とその発展の条件、さらには日本人民のあいだにある天皇信仰の現実を捨象して、ロシア・ツアーリズムとの外面的類推にもとづき「絶対主義」と断定したこと。それは「厳重な錯誤」である。
第四に、テーゼが「もっとも近い将来に偉大な革命的な諸事件が起こりうる」と主観的に妄想して、日本共産党を左翼冒険主義の泥沼におとしいれ、客観的には軍部ファシズムの「把権」(権力奪取)を助けたことだという。共産党は一九二七年テーゼから三五年の党消滅にいたるまで、同一の自殺戦術をくり返した。党員は逮捕された瞬間に党から見捨てられる。コミンテルンにたいしては忠誠をつくしたつもりであろうが、党は消滅した。
石堂清倫『中野重治の転向−再論』
3、雪崩的転向の始まりと原因−佐野・鍋山「転向」原因としてのコミンテルン批判
転向の雪崩現象とその契機・原因を解明することは重要である。そのテーマついては、加藤哲郎が下記リンクにおいて詳しく検証している。その一節を以下長くなるが、抜粋をしつつ引用する。私の判断で、各色太字を付けた。
加藤哲郎『1922年9月の日本共産党綱領』 『国家権力と情報戦――「党創立記念日」の神話学』
統一公判開始直後、一九三一年八月一日に『無新パンフレット』になった三一年「政治テーゼ草案」は、コミンテルンの日本国家論の転換を示していた。「二七年テーゼ」の「日本資本主義評価の誤謬」「基本的変更」を率直に語り、「天皇制を倒せ」は述べたが、その天皇制国家は「金融資本独裁=ファシズムの道具」で、革命戦略は「ファシズム」に対する「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」だった。被告団が構成した法廷委員会の当初のシナリオは、革命戦略の決定的な点で、見直しを迫られた。
これに対する佐野、鍋山、市川ら獄中指導部の意見書は、「スパイ水野等は七月テーゼ[「二七年テーゼ」]の意義の抹殺に狂奔している」時に、「ブハーリンの直接参加によって出来たものであるから否定さるべきと言うのは国際的権威・国際的組織を全く無視したる小ブルジョア的学究論」で、「二七年テーゼ」は「単なるテーゼではなく一つの綱領の役割をもった」といいながら、「コミンテルンはかつて一度も誤謬を犯した事はない」から「古くなったとは云へるが誤謬であるとは云へぬ」とする、苦渋に満ちたものだった。
そこでは、徳田球一予審訊問供述が「正しさ」の担保としていた「同志ブハーリンの指導」が、当のコミンテルンによって否定されていた。そのため、市川正一の「党史」陳述は、創立時期こそ「一九二二年七月」を維持できたが、当初の徳田のシナリオに比して、不徹底なものにならざるをえなかった。徳田のシナリオで全史を貫く赤い糸であった「極東民族大会における同志ブハーリンの指示=天皇の廃止」を使うことが出来なかった。天皇への直接的言及は法廷で禁止され、「コミンテルンの指示」一般という抽象的かたちでしか、その「革命的伝統」を述べることはできなかった。
その代わりに使われたのが、「綱領」は「テーゼ」より上位の決定であり、一九二二年にすでに天皇制に言及した「綱領草案」があったという、徳田の偽りの主張だった。
そのうえ、結審まぎわに、再びどんでん返しが待っていた。日本共産党が金科玉条にするコミンテルンの日本国家論が再転換したのだ。今度は、「政治テーゼ草案」の「金融資本独裁=ファシズム」説を否定して、天皇制を「絶対君主制」とし、「半封建的土地所有」を重視した「三二年テーゼ」である。革命戦略は、再び「ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への転化」になった。ちょうどその発表の頃、獄中指導部のいう「創立十周年記念日」を迎えた。それは「新テーゼの発表」を補完するキャンペーンに利用された。
それは、「コミンテルンの指導」に忠実な徳田球一にとっては、安堵できるものだった。「政治テーゼ草案」とブハーリン失脚で足元が崩れかけた徳田の「党史」の物語は、「三二年テーゼ」でむしろ盤石の土台が築かれた。極東諸民族大会、「二二年七月創立大会」、「二二年日本共産党綱領草案」の二三年石神井大会討議、「二七年テーゼ」から「三二年テーゼ」までが、「天皇制の転覆」という「一筋の赤い糸」で完成された。
しかし、獄中法廷委員会の中心にあった佐野学・鍋山貞親は、度重なるテーゼの変容で、最後のよすがである「かつて一度も誤謬を犯した事はないコミンテルンの指導」そのものに疑問を持つようになった。佐野・鍋山連名の「共同被告同志に告ぐる書」いわゆる「転向声明」は一九三三年六月八日付けであるが、疑問が芽生えたのはもっと早く、佐野の「心境変化」は、三二年一〇月一二日だったという。
そこに、平田勲検事らが強力な揺さぶりをかけた。「創立十一周年記念日」を迎える前に、二人の「転向声明」は『改造』七月号に大々的に発表され、『中央公論』八月号も鍋山の手紙を掲載した。法廷闘争の苦心のメディア効果も、二大「ブルジョア雑誌」の物量作戦にかき消された。そこで二人の獄中最高指導者は、コミンテルンはいまや「蘇聯邦一国の機関化」し「無責任」だと告発した。これに「無条件服従」する日本共産党は「蘇聯邦防衛隊」に化し、「外観だけ革命的にして実質上有害な」「『天皇制打倒』を恰も念仏の如く反復」し、「幾多の欠陥を露呈」した、と公言した。
『赤旗』は、「七月一五日創立記念日」を祝うどころではなくなった。佐野・鍋山の「天皇制打倒」スローガン拒否の論理は、獄中で徳田球一を動揺させた「水野成夫上申書」と大きくかわるところはなかった。「大衆は君主制廃止を求めていない」ことを認め、大衆が天皇を「ただなんとなく国民的誇りにする」現実を解くことができず、屈服していた。
いや一つ、新たな論理が加わっていた。水野らの「日本共産党労働者派」は、なお階級闘争を否定せず、満州侵略には反対した。しかし佐野・鍋山は、日清・日露戦争を「アジア諸民族の覚醒と革命的闘争を早めた」と肯定し、それを「日本民族の強固な統一性」「皇室の連綿たる歴史的存続」に結びつけ、「日本が敗退すればアジアが数十年の後退をする」として、容易に排外ナショナリズムと軍部主導の侵略戦争に呑み込まれる論理となった
24。
いずれにせよ、佐野学・鍋山貞親に始まる獄内被告の地滑り的大量「転向」は、国家権力という法廷メディアから民衆へのメッセージを伝えようとした当時の日本共産党が、コミンテルンから与えられた国家論と革命戦略のめまぐるしい変遷によって翻弄された、悲劇の所産だった。それは、戦前日本マルクス主義の日本国家論・天皇論の脆弱性の証左だった。
ただし、佐野・鍋山も一役買った「創立記念日」神話の方は、一九三三年以後獄中でいったん凍結された後、今度は「獄中十八年」と「三二年テーゼ」と結びついて、戦後に甦ることになった。コミンテルンが最もセクト的戦略・戦術を採った時期の国家論も、日本帝国主義の敗北に救われて、戦後になお「権威」を保持しえたのである。
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
4、根本的な逆説=裏切り転向か、誤ったコミンテルン方針からの正当な離脱か
たしかに、最高指導者2人は、特高に逮捕され、獄中で思想検事平田勲らに強力な揺さぶりをかけられていた。特高・思想検事平田勲らは、天皇制という国体打倒スローガンを掲げる日本支部・労働組合を最大の敵とした。戦争反対スローガンも敵とはした。しかし、日本支部の戦争反対運動の実態は、ほとんど軍部ファシズムや軍部に向けられなかった。むしろ、コミンテルンの犯罪的方針としての「社会ファシズム」方針に盲従し、社会民主主義政党・団体の一般的な戦争反対運動を敵視し、攻撃した。
日本支部の運動は、国民的な戦争反対運動の発展と統一を破壊した反国民的犯罪行為だった。この評価は、石堂清倫が何度も証言している。特高・思想検事平田勲らにとって、日本支部の「社会ファシズム」方針に基づく戦争反対運動の分裂・破壊策動こそ願ってもない行動であり、むしろ放任してもよいレベルの犯罪だった。それを当時の具体的データで検証したのは、田中真人である。
宮本顕治は、田中真人にたいし党内闘争をしたという口実で、査問・除名にした。その真因は、日本共産党の平和運動について、彼が宮本史観党史を全面否定する研究『1930年代日本共産党史論』を発表・出版(1994年、三一書房)したことだった。宮本・不破・志位らは、「反戦平和でたたかった戦前共産党が真理」と宣伝してきた。この田中論文全体と、とくに、むすびは、それが偽造歪曲・犯罪隠蔽党史であることを論証した。彼の研究、および、石堂清倫論文によれば、歴史的真実の逆説は次と規定できる。
日本支部は、コミンテルン指令に隷従し、ソ同盟擁護のためにのみ、かつ、「帝国主義戦争」にたいしてだけたたかった。戦争反対運動の具体的対象実態は、(1)軍部ファシズムでなく、(2)コミンテルン規定による当面する最大の主敵・社会ファシズムに向けられた。(1)日本軍隊・軍部ファシズムとたたかった具体的事例は一つもない。(2)社会ファシズムとされた社会民主主義政党・団体による反戦平和や一般的な戦争反対運動・会議の破壊に狂奔した。反帝を掲げない反戦運動の統一を妨害し、破壊した。戦前共産党がたたかったのは、抽象的な反戦平和でたたかったのと異なる。戦前共産党はコミンテルンの根本的に誤った社会ファシズムとレッテルを貼った政党・団体・その反戦平和運動を破壊するためにたたかった。これが、宮本・不破・志位らが宣伝する真っ赤なウソの真相である。
最高指導者2人は、その獄内外環境において、コミンテルンの天皇制打倒に関する二転三転の根本的に誤った方針に批判を募らせた。「転向」とは、国家権力・特高側日本語である。権力への屈服という面からは、裏切り転向という側面が当然ある。当時の非転向幹部や、戦後の宮本顕治らは、口汚く「裏切り者」レッテルを貼り付け、大キャンペーンをしてきた。それによって、日本支部壊滅を防ごうと図った。
しかし、ソ連崩壊後、コミンテルンの国際犯罪データ多数が、発掘・公表された。かつ、レーニンが創設したコミンテルンの実態は、ソ連共産党が支配し、各国支部を民主主義的中央集権制・分派禁止規定に基づき隷従させる反民主主義的反民族的な国際犯罪組織・運動だった真相も証明された。
そこから、転向のもう一つの側面を検証する必要が生まれている。最初の2人転向者と雪崩的転向者たちは、コミンテルン方針盲信の非転向9人を除いて、獄中という条件と思想検事による誘導にさらされ、釈放という餌に負けた。とはいえ、それは誤ったコミンテルン方針からの正当な離脱だったのではないか。
「佐野、鍋山脱党時声明」は、次のような構成になっている。1933年6月9日付けで「緊迫せる内外情勢と日本民族及びその労働者階級−戦争及び内部改革の接近を前にしてコミンターン及び日本共産党を自己批判する」声明が為され、その末尾で「共同被告に告ぐる書」が発表された。
れんだいこ『「佐野、鍋山脱党時声明」原文』コミンテルンの政治路線批判と組織原則批判
wikipedia『共同被告同志に告ぐる書』
不破哲三は、『日本共産党の八十年』(2003年)において、宮本史観党史『日本共産党の七十年』に続く、不破史観党史を発行した。彼は、そこで、『七十年』とほとんど同じ内容で、レーニン・コミンテルンの誤りを明記した(P.19〜20)。宮本→不破が規定したコミンテルンの誤りと、「佐野、鍋山脱党時声明」が指摘した誤り=自己批判内容とを比較する。
70年前の佐野、鍋山によるコミンテルン批判内容・レベルと、ソ連崩壊12年後の不破哲三によるそれとはほぼ同じである。むしろ、「佐野、鍋山声明」の方が、具体的で正確だった。もちろん、佐野、鍋山声明の全体には、私が同意できない内容・観点も多数含む。ただ、レーニン・コミンテルン批判内容には、ソ連崩壊後に発掘・公表されたレーニン・コミンテルンの国際犯罪データから見て、基本的に同意できる。一方、不破哲三は、天皇制打倒スローガンと抽象的実践という根本的な誤りについて、沈黙・隠蔽をした。
(表7) コミンテルンの誤りに関する不破『八十年』と佐野・鍋山声明
コミンテルンの誤り |
不破『八十年』(2003年) |
「佐野、鍋山脱党時声明」=コミンターン批判と自己批判(1933年6月) |
情勢論 |
「世界革命近し」という性急な情勢論 |
真にこのテーゼは日本において君主制反対の大衆闘争が渦巻いているとか、反戦的大衆運動が激化しているという、支那及び欧州で捏造された虚構の事実を基礎として全部のテーゼを引き出している。 |
革命の道 |
レーニンによる「議会の多数をえての革命」の道の原理的な否定 |
コミンターンが日本の特殊性を根底的に研究せず、ヨーロッパの階級闘争の経験殊にロシア革命の経験に当てはめて日本の現実を引きずって行く傾向は、我々の夙に指摘していた所であるが、昨年5月発表の日本問題新テーゼはかかる傾向の頂点を示している |
組織形態 |
「単一の世界共産党」という組織形態にともなう各国の党と運動にたいする画一主義的な傾向 |
コミンターンが近年著しくセクト化官僚化し、余りに甚だしくソ連邦一国の機関化した。コミンターンをしてソ連邦の国策遂行機関たる傾向極端となり、ソ連邦擁護の一語を各国共産党の最高無二のスローガンたらしめた。 |
政治・組織上のゆがみ 天皇制打倒 スローガン |
政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした。初発からくる政治・組織上のゆがみ 沈黙・隠蔽 |
(1)、日本共産党はコミンターンの指示に従って君主制廃止のスローガンを掲げた。前記テーゼの主想の一は、更に一歩を進め、反君主闘争が現下の主要任務であるなどのバカげた規定をしたことにある。 (2)、コミンターンは日本の君主制を完全にロシアのツァーリズムと同視し、それに対して行った闘争をそのまま日本支部に課している。日本共産党におけるこのカムパは最近極端に赴いている。党は政治的スローガンとしては「天皇制打倒」を恰も念仏の如くに反復し、あらゆる場合に当てはめ、残薄な呪詛の言葉をヤタラに振りまいている。コミンターンは、レーニンの「ツアーリズム」に関する論文の断片を引用して日本でも君主を「ツアーリ」と同一視し、君主制廃止を前面に押し出すに至った。1932年5月の新テーゼは君主制打倒の一本槍である。 (3)、我々は日本共産党がコミンターンの指示に従い、外観だけ革命的にして実質上有害な君主制廃止のスローガンをかかげたのは根本的な誤謬であったことを認める。それは君主を防身の楯とするブルジョア及び地主を喜ばせた代りに、大衆をどしどし党から引離した。我々は「君主制廃止」のスローガンの大誤謬であったことを認めて、きっぱり捨てる。 |
非転向者9人こそ、コミンテルンの誤りを無条件で信仰したままで、獄中で耐え、日本敗戦による釈放によって、日本支部トップの椅子を奪い、誤った方針を再度掲げ広げた反国民的隷従犯罪者ではないのか。イタリア共産党は、長期獄中にいた幹部を、国民レベルの情勢認識に欠けるとして、党中央幹部に一人も復帰させなかった。
日本支部2300人は、99.6%以上が「転向」していた負い目に呪縛されていた。非転向は、9人・約0.04%のレーニン・スターリン信者幹部にとって、最高の勲章だった。その輝ける獄中18年・12年経歴の前に、転向した党員や、学者・文化人・ジャーナリストはひれ伏した。
加藤哲郎は、そこに、戦後日本支部の不幸・誤りの源泉があるとした。もっとも、今日まで、転向を誤ったコミンテルン方針からの正当な離脱だったのではないかとの根本的な逆説を唱えた研究者はいない。
4、1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部
コミンテルン日本支部中央委員会は、1935年に壊滅した。その原因を外部=国家権力・特高の弾圧だけに押しつける歴史認識は正しいのか。むしろ、日本支部内部の欠陥が主要ではないのか。渡部徹は、その原因を内部に求め、詳細な研究を出版した。そのリンクは長いので、〔目次〕だけをリンクする。
これは、渡部徹京大人文科学研究所教授編著『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(三一書房、1981年、280ページ、絶版)の第1章(P.13〜74)からの大部分の抜粋である。第1章は、渡部徹著だが、長いので、一部を省略した。戦前1930年代の日本共産党については、最後の中央委員宮本顕治による偽造歪曲・隠蔽党史しか知られていない。それによる戦前共産党のイメージが左翼全体に刷り込まれている。それにたいし、この著書は、別ファイル田中真人著書『一九三〇年代日本共産党史論』と合わせて、その実態を共産党側の資料・『赤旗』や官憲資料など膨大な原資料を発掘・分析した画期的な研究になっている。
渡部徹、田中真人とも共産党員だった。しかし、(1)渡部は、戦前の労働組合運動史に関する他著書(1954年)で戦前の党指導への批判的見解を載せたこと、(2)田中は、党内闘争などをしたというでっち上げで、宮本顕治ら党中央により査問・除名をされた。学者党員といえども、宮本史観の戦前党史に逆らった著者を絶対に許さない→除名するというのが、反国民的隷従犯罪者宮本顕治が常用する手口である。私の判断により、文中に各色太字をつけた。
はじめに (全文)
1、党組織の根本的欠陥 (一部抜粋)
2、大衆意識・動向の一面的把握 (全文)
3、党と大衆団体の混同 (全文)
立花隆『年表・中央委員会の変遷と戦前党史』宮本顕治の戦前中央委員経歴8カ月間のみ
加藤哲郎加藤HP 『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』
1935年〜日本敗戦の45年まで、党中央機関壊滅により、獄中にだけ非転向幹部がいた。『日本共産党の七十年』は、その人数を載せている。(1)最後まで屈服を表明しなかった者10人(P.128)、(2)敗戦後の非転向出獄者9人(P.157)、(3)1945年12月第4回大会、中央委員7人、中央委員候補7人、他で計14人(P.158)だった。
非転向党員とは何か。彼らは、日本支部中央幹部として、天皇制打倒方針について二転三転するコミンテルンの根本的に誤った路線にたいし、一言も批判しなかった。転換方針にたいし、その都度、盲信し、党員2300人と共産党系労働組合・市民団体にベルト理論に基づいて押し付けた。彼らの本質は、根本的な逆説から見れば、反国民的隷従犯罪者ではないのか。その押し付け経過は、渡部・田中著書が検証した通りである。
2、第1期(2)−戦後党史 1945〜49 4年間、90年間中の4%期間
〔小目次〕
1、戦後、路線・人事・財政とも対ソ隷従。非転向の出獄幹部が再建共産党指導部を独占
1945年、ソ連スパイ野坂を配備→1955年六全協後、第1書記→議長
(表8−第1期(2)戦後党史、対ソ隷従政党)
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
1、対ソ隷従政党 28年間 31% |
(戦後) 1945〜49 4年間 4% |
敗戦〜 中華人民共和国成立 |
戦後、路線・政策・人事とも対ソ隷従。非転向の出獄幹部が再建共産党指導部を独占 1945年、ソ連スパイ野坂を配備→1955年六全協後、第1書記→議長 占領下での平和革命路線=アメリカ占領軍を解放軍と規定 シベリア抑留における日本共産党の反国民的隷従犯罪 |
期間の比率%は、2012年党創立90周年を基準とした分類
1、戦後、路線・人事・財政とも対ソ隷従。非転向の出獄幹部が再建共産党指導部を独占。1945年、ソ連スパイ野坂を配備→1955年六全協後、第1書記→議長
この経緯は、すべての文献で一致している。非転向9人は、コミンテルンの国際犯罪や天皇制打倒の二転三転方針の誤りを何一つ批判したり、疑ったりしないままで出獄した。非転向の勲章をこれ見よがしに飾り、戦後の再建共産党指導部を独占した。野坂参三は、ソ連スパイとして帰国した。この経過も下記別ファイルで詳細に分析した。
Wikipedia『野坂参三』
野坂参三は、アメリカ占領軍を解放軍と規定した。再建日本共産党もその規定で一致した。たしかに、アメリカ軍・連合国軍は、ナチス占領下のヨーロッパ各国を解放した。問題は、占領下の平和革命論だった。第2次世界大戦の終戦前から、すでに、米ソ冷戦が始まっていた。終戦時点ならともかく、アメリカの軍事基地占領が続いている国際的環境において、アメリカに敵対する、ソ連支持の革命が平和的に遂行できるのか。その理論的矛盾は、冷戦エスカレートとともに、広がった。
1949年中華人民共和国成立は、冷戦を激化させた。さらに、金日成による朝鮮半島の武力統一の戦争方針と、スターリンの朝鮮戦争承認は、平和革命論を幻想と化した。朝鮮戦争開始を決定したスターリンは、ソ連スパイ野坂参三と平和革命論を全面否定するコミンフォルム批判を出した。それは、隷従下日本共産党にたいし、朝鮮戦争に参戦=後方兵站補給基地武力かく乱に決起せよとの秘密指令だった。
スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格
このテーマについては、別ファイルで詳細に検証した。その中でも、宮本顕治の『シベリア抑留記』にたいする言動は、スターリン崇拝の反国民的隷従犯罪者そのものの対応である。彼の隷従犯罪体質こそ、六全協において、スースロフ・毛沢東がソ中両党隷従者として任命した理由になったので、その言動だけを転載する。
宮本顕治「抑留記『極光のかげに』内容の批判発言」問題
〔小目次〕
1、高杉一郎『極光のかげに』(目黒書店) 1950年12月20日初版
2、宮本百合子宅への訪問 1950年12月末
1、高杉一郎『極光のかげに』(目黒書店) 1950年12月20日初版
高杉一郎は、1944年、改造社編集部のとき、応召され、ハルピンで敗戦を迎え、4年間のシベリア抑留後、1949年帰国した。抑留中、ラーゲリ将校ににらまれ、無実の罪で、反動を入れる「懲罰大隊」に隔離された。ソ連共産党による「日本共産党支援活動」「ナホトカ人民裁判のリンチ」「スターリンへの感謝決議運動」を体験するとともに、様々なロシア人たちとの交流をした。この著書は、それらを公平率直に描いている。好評で、版を重ねていたところ、出版社が倒産したので、1991年、岩波文庫から再出版され、1995年までに5刷を重ねた。
「シベリア抑留・収容所文学」として、説得力のある作品である。(1)極寒、飢え、強制労働と(2)民主運動の嵐というシベリア抑留の2大体験から、その根底に、当然ながら、スターリン批判、ソ連共産党批判が一貫して流れている。ただ、抑制されたタッチで描かれているので、剥き出しの「スターリン批判」文言はない。
彼は、静岡大学教授、和光大学教授を経て、多くの著書・翻訳書を出している。シベリア抑留関係については、その後、『スターリン体験』(岩波書店、1990年)、『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年)、他1冊の計4冊を出版した。宮本顕治発言問題は、この抑留記『極光のかげに』内容をめぐって発生した。
2、宮本百合子宅への訪問 1950年12月末
高杉一郎は、改造社編集部の仕事上、宮本百合子や中野重治とも知り合いだった。それだけでなく、百合子と家族ぐるみの付き合いもし、彼が応召のときには、彼女が東京駅まで、見送りに来たという間柄だった。また、高杉夫人の妹・大森寿恵子が、宮本百合子の秘書役として働いていた。妹は、百合子死去後に宮本顕治と結婚した。
高杉一郎は、『極光のかげに』初版を出版と同時に、宮本百合子に送り、1950年12月末、彼女宅を訪問した。その時の様子を『征きて還りし兵の記憶』が書いている。彼女は、傍線が引いてある『極光のかげに』をとりだし、いろいろ質問した。彼女は、批判めいたことは一つも言わず、最後にやっぱり、こういうことはあるのねえ、とつぶやいただけだった。その直後、1951年1月21日、彼女は急死した。
この批判発言について、高木一郎は、2冊で2回のべている。
第1回は、1990年、『スターリン体験』における、宮本顕治という名前を出さないやや抽象的な描写である。「それを読んだあるコミュニストは私にむかって「偉大な政治家であるスターリンをけがして、けしからん。こんどだけは見のがしてやるが」と、まるでオリュムポス山上に宮居する主神ゼウスのように高圧的な態度で言った。
また、新日本文学会の系列下にあった「東海作家」という文学団体は私をコーラス・グループの練習場であるバラックに呼びだして集団的なつるしあげを加えた。彼らの罵声を浴びながら、私はストロングの言う「スターリン時代」とスターリニズムのひろがりは、日本の世論までもこんなにしっかりとカヴァーしているのかと驚いた」(P.8)。
第2回は、1996年、『征きて還りし兵の記憶』における、宮本顕治の名前を明記し、具体的な情景を含めた宮本顕治批判である。長くなるが、高杉一郎の怒りが込められているので、そのまま引用する。
宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、彼女の部屋の壁の向う側が階段になっているらしく、階段を降りてくる足音が聞こえた。その足音が廊下へ降りて、私たちの話しあっている部屋のまえまで来たと思うと、引き戸がいきおいよく開けられた。坐ったままの位置で、私はうしろをふり向いた。戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。
雑誌『改造』の懸賞論文で一等に当選した「敗北の文学」の筆者として私が知っている、そして宮本百合子が暗い独房に閉じこめられている夫の目にあかるく映るようにと、若い頃のはなやかな色彩のきものを着て巣鴨拘置所へ面会にいったと話していた、そのひとだろうと思った。宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌『文藝』の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた「極光のかげに」の著者としての私を。
すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上ってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった(P.188)。
その日、改造社時代の友人、野間寛二郎の家へ向かった。さっき聞いた最後のせりふのショックから解放されなかったからだ。あれが「敗北の文学」の筆者のことばだとはどうしても信じられなかった。あのせりふの背後には、私たちをさんざん苦しめてきたミリタリー・ファシズムとまったくおなじ検閲と処罰の思想がかくされているのではないだろうか。いったい『極光のかげに』のなかのどの個所がスターリンをけがすというのだろう? 道みち、私は胸のなかで反芻(はんすう)をはじめた。
野間寛二郎は私の話を聞くと、しばらく考えこんでいたが、やがて「宮本さんはきっとそう言うであろうねえ」と言って起ちあがり、奥の部屋から一冊の雑誌を取ってきた。そしてあるページをひらくと、「ここを読んでごらんなさい」と言って差しだした。その年の五月号の『前衛』に発表された宮本顕治の論文だった。そこには、つぎのように書かれていた。
「われわれはとくに、マルクス・レーニン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要がある。このソ同盟にたいする国際共産主義者の態度は、つぎの同志毛沢東の言葉によく表現されている。『ソ同盟共産党はわれわれの最良の教師であり、われわれは教えを受けなくてはならぬ』。単に、共産党情報局は一つの友党的存在という以上に、ソ同盟共産党を先頭とする世界プロレタリアートの新しい結合であり、世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」。それを読んだとき、私ははじめて「ああ、そうだったのか」と納得するところがあった(P.190)。
宮本顕治は、1950年4月、『前衛4月号』でも、「コミンフォルム論評の積極的意義」を発表し、コミンフォルムは偉大な同志スターリンの指導下にあるのであるから、無条件で支持すべきである、と論じた(『検証・内ゲバ』第5章、来栖宗孝、P.309)。
宮本百合子 『極光のかげに』にたいする批判めいたことは一つも言わ
ず、最後に「やっぱり、こういうことはあるのねえ」とつぶやいただけ。
宮本顕治 いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」
と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。
高杉一郎が、1996年、この宮本顕治の『極光のかげに』批判発言を、名前つきで公表するまでには、46年間もかかった。ソ連が崩壊してからも5年間かかった。もっとも、名前と具体的状況の公表がそれほど遅れたのは、高杉夫人の妹が宮本顕治の後妻になっているという別の事情があったのかもしれないが。
1996年に初めて判明したこの批判発言の本質を、シベリア抑留51年後に改めて検討する。その発言にあるのは、多くの『シベリア抑留記』すべてを、「偉大な政治家スターリンをけがすもの」とする拒絶反応である。それは、ソ連共産党の約60万人拉致犯罪を免罪にするだけでなく、むしろ逆に、ラーゲリ政治部が行なった「日本共産党支援運動」「集団入党・カンパ運動」にたいする宮本顕治の感謝、スターリン崇拝・隷従の裏返しとしての批判発言である。
『抑留記』『シベリア体験記』の出版物は、国立国会図書館寄贈分だけで、452点ある(『征きて還りし兵の記憶』P.5)。未寄贈の自費出版・文集、画集を合わせれば、数千点になるであろう。彼の『抑留記』内容批判発言は、スターリン隷従・ソ同盟絶対擁護理念に基づいて、『抑留記』を執筆したソ連共産党による犯罪被害者たち全員を敵視するスターリンとの共同正犯の本質を持っている。彼の態度には、不法にも拉致され、抑留された犯罪被害者にたいする一片の同情、思いやりもない。それが、日本共産党トップの「科学的社会主義者」たちが共有する人格なのか。
「こんどだけは見のがしてやるが」という言葉は、何を、どんな処罰・報復を見のがすことであろうか。高杉一郎は、党員ではないので、規律違反処分や除名にはできない。宮本顕治が党内外の批判者にたいして行なった常套手段から推測すれば、その処罰・報復のやり方は、共産党組織、共産党系大衆団体をあげて、反ソ同盟分子、反スターリン分子高杉一郎への批判キャンペーンを展開し、日本の民主運動(シベリアのではなく)から排除することである。彼の態度は、「見のがしてやる」というせりふによって、「偉大な政治家スターリン」を盲信した、居丈高な「脅迫者」という、彼の人格的本性と60万日本国民にたいする非人間的な冷酷さを剥き出しにしたものである。
それは、『赤色テロル』ファイルで分析したように、ボリシェヴィキの政策・方針に批判・反乱の労働者・農民・兵士を人民の敵と断定し、敵は殺せ!と指令して、無実の自国民数十万人を殺害したレーニンが持つ革命前のヒューマニズムを自ら放棄した一党独裁権力者の冷酷さと同質のものだった。
それとの関連で、当時も宮本顕治が頻発しているソ同盟という日本語にこだわる。シベリア抑留で、アクチブ・専従者たち、および『日本新聞』は、必ずソ同盟という日本語を使い、ソ連・ソ連邦使用を禁止した。宮本顕治をはじめ日本共産党幹部は、戦前戦後とも、スターリン崇拝時代、ソ同盟擁護を繰り返した。その言葉の性質は、日本共産党だけが使った思想用語だった。ラーゲリ政治部が、それら日本語の差異を分かるはずがない。
とすると、シベリアのアクチブ・専従者に、その日本語の限定使用を、ソ連共産党を通じて指令したのは、徳田球一・宮本顕治らではなかったのか、という疑惑が出てくる。それは、徳田「要請(期待)」問題に表れたように、シベリア抑留11年間における、とくに1948年、49年における「日本共産党支援運動」「集団入党運動」には、ソ連共産党と日本共産党との裏側での合意と協力による、なんらかの共同謀議が存在したのではないかというソ連崩壊後の、恐るべき疑惑である。
『シベリア抑留から見た戦後日本共産党史』1945〜1955「六全協」
『井上ひさし「一週間」の抜粋と4書評紹介』レーニン批判の切り口、抑留者小松の闘争
宮地幸子『むずかしいことが、やさしく書かれた−井上ひさし著「一週間」のこと』
〔6部作1〕、日本共産党90周年の概要=根本的な逆説
〔第1期〕、ソ連共産党支配下の反国民的隷従政党−1922年創立〜45年敗戦〜49年
〔第2期〕、ソ中両党支配下の反国民的隷従政党−1949年中国成立後〜67年決裂
〔第3期〕、隷従脱出の受動的な完全孤立政党−1967年決裂後〜70年代後半
〔第4期〕、ユーロコミュニズムに急接近→逆旋回→再孤立−1970年代後半〜97年宮本引退
〔第5期〕、孤立恐怖から党独裁・党治国家4つとの関係復活政党−1998年〜現在
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〔関連ファイル〕
『逆説の戦前日本共産党史−コミンテルン日本支部史』ファイル多数
『逆説の戦後日本共産党史−1945年〜現在』ファイル多数