白鳥事件と宮本顕治の関与度・党内外犯罪
隠蔽・黙殺→関係党員見殺し・村上国治焼身自殺?
(宮地作成)
〔目次〕
3、2014年まで共産党の全面隠蔽・黙殺→関係党員見殺し対応
〔犯罪1〕、関係党員10人を人民艦隊で中国亡命指令
〔犯罪2〕、白鳥事件+3大騒擾事件データの全面隠蔽・黙殺
〔犯罪3〕、「白鳥守る会」「白対協」結成と冤罪大キャンペーン9項目(加筆)
〔犯罪4〕、村上国治の処遇→見捨て→焼身自殺?
5、赤い呪縛=党の犯罪を党外に漏らすな、党を守れ!=党員の言動拘束・呪縛度(加筆)
〔パターン1〕、村上国治
〔パターン2〕、佐藤博ら中国共産党への亡命者8人
〔パターン3〕、北海道軍事委員会幹部・川口孝夫
〔パターン4〕、白鳥事件の真相・共産党犯罪の全貌を党外で公表した高安知彦
〔関連ファイル〕 健一メニューに戻る
今西一・河野民雄・大石進『シンポジウム・歴史としての白鳥事件』本文読む↓クリック
河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会
今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF
渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)
中野徹三『1950年前後の北大の学生運動−イールズ闘争から白鳥事件へ』
『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
宮地幸子『白鳥事件とわたし』
ブログ『「白鳥事件」60年目の真実』渡部富哉・中野徹三
高橋彦博『白鳥事件の弁護人岡林辰雄弁護士をめぐって』−大石進『講演記録から』
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
白鳥事件を検討するには、1952年度日本共産党の武装闘争経緯・データを、まず確認する必要がある。その前後過程で白鳥事件を位置づける。
ただ、このファイルは、白鳥事件そのものの再解明目的ではない。それは多数の〔関連ファイル〕において、不明部分がなおあるにしても、かなり解明されている。目的は、白鳥事件事後処理経過における宮本顕治の関与度・党内外犯罪の検証である。
かっかそうよう【隔靴掻痒】の感じになる。【隔靴掻痒】とは、靴の上から足のかゆいところをかく、の意味である。思うようにならないで、もどかしいこと。核心にふれないで、
(表1) ソ中両党隷従日本共産党の朝鮮戦争参戦経緯6段階
ソ中朝3党による朝鮮戦争 |
ソ中両党による日本共産党への命令 |
隷従共産党の参戦経緯 |
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〔段階1〕、朝鮮侵略戦争開始前 |
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49.3.5 スターリンと金日成が会談→軍事援助 49.5〜10 ソ連大使は、スターリンに朝鮮情勢について何度も詳細な報告。スターリンからも何回もソ連大使に暗号電報 49.10.1 毛沢東の中華人民共和国成立 50.1.20 毛沢東は、人民解放軍の朝鮮人部隊1.4万人を北朝鮮軍に完全武装で編入 50.3.30〜4.25 金日成訪ソ、スターリンから南朝鮮への侵攻同意を得る 50.5.13 金日成訪中、毛沢東から南朝鮮への侵攻同意を得る 50.6.15 進攻の綿密な計画完成 |
49.10.29 ソ連情員の極秘文書「組織全体を非合法状態に移行ケース」の分析 50.1.4 ソ中両党が劉少奇テーゼを公認=植民地型武装闘争の指令 50.1.6 コミンフォルム批判―ソ連共産党スパイ野坂参三の占領下平和革命論を全面否定、スターリン執筆が証明→日本における暴力革命路線への転換命令=朝鮮戦争参戦への実質的命令 50.1.17 毛沢東が「日本人民解放の道」で、武装闘争指令 |
50.1.12 政治局が「所感」決定、宮本ら反対 50.2.23 四全協、ソ中両党命令に隷従し、劉少奇テーゼに基づく植民地型軍事方針決定 50.4.29 コミンフォルム批判をめぐって党分裂、主流派は非公然体制に移行、北京機関準備開始 |
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〔段階2〕、朝鮮戦争期間中 1950年6月25日〜1953年7月27日 |
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50.6.25 金日成の武力南進朝鮮戦争 50.6.28 北朝鮮軍、ソウル占領 50.8.20 北朝鮮軍、釜山を除く韓国の90%以上を支配下に 50.9.15 国連軍が仁川上陸→北朝鮮軍退却 50.9.21 スターリン、ソ連空軍部隊派遣を決定 50.10.19 国連軍が平壌占領 50.10.25 毛沢東が中国人民志願軍100万人参戦 50.11.7 毛沢東は、スターリンに大量武器要請 51.1.4 北朝鮮軍・中国人民志願軍、ソウル再占領 51.4.3 国連軍が38度線を突破し北進、中国軍も反撃→38度線付近の攻防、戦線膠着状態に |
50.9.3 中国共産党「日本人民は団結して敵にあたる時」と朝鮮戦争参戦指令 51.4.〜5 スターリン・中国共産党招集のモスクワ会議、徳田・野坂参加。スターリンは、宮本ら反徳田5分派を「分派」と断定 51.8.10 コミンフォルム機関紙が宮本ら反徳田5分派を「分派」あつかい 51.10.16 スターリン命令により、五全協で統一回復、スターリン執筆証明の51年武装闘争綱領決定 |
50.8〜9 ソ中両党命令で徳田・野坂は中国へ移動、ソ中両党隷従の北京機関結成 51.10 五全協前、宮本・蔵原は、スターリン命令に屈服し、宮本分派解散→志田重男に自己批判書提出→武装闘争五全協に復帰=共産党の統一回復 |
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〔段階3〕、統一回復の武装闘争五全協 1951年10月16・17日〜 |
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52.10.65 スターリン休戦引き伸ばし、戦争継続意図。休戦会談決裂→無期休会 53.3.5 スターリン死去、74歳 53.4.11 スターリン死去により、モスクワの方針転換→休戦会談で捕虜交換協定調印 |
51.10五全協後 ソ中両党は、後方兵站補給基地日本における武装撹乱闘争の即時総決起を指令。金日成も北朝鮮系在日朝鮮人に即時総決起を指令 52.5.1 毛沢東命令で北京機関の自由日本放送開始、すべて中国共産党資金で |
51.10.16 五全協で統一回復、武装闘争方針具体化 51.10.16 五全協後、宮本顕治は統一回復共産党による武装闘争宣伝担当 52.1.21 白鳥事件、札幌市軍事委員会が白鳥警部射殺 52.2.1 軍事委員会設置―中核自衛隊・山村工作隊の武装闘争組織約2000人 52.3.291 小河内村で山村工作隊23人逮捕 52.5.1 北京機関の自由日本放送開始 52.5.1 メーデー事件 52.5.1 吹田・枚方事件、火炎ビン武装闘争 52.7.7 大須事件、火炎ビン武装闘争 |
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〔段階4〕、休戦協定日 1953年7月27日 |
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53.7.27 休戦協定日 |
7.27 日本の武装闘争中止命令? |
武装闘争の即座全面停止−以後1件もなし |
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〔段階5〕、休戦協定以降 1953年7月27日〜 |
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54.1 北京機関に「党学校設置」命令 54夏 モスクワでソ中両党代表招集で北京機関6人と六全協決議案作成。「極左冒険主義の誤り」という抽象的規定のみに限定、武装闘争の具体的データ公表・総括禁止、ソ中両党命令の存在隠蔽を指令? 55.1 ソ中両党は、六全協決議案に基づく、志田・宮本秘密の手打ち会談を命令? 55.3.15 ソ中両党は宮本顕治を武装闘争五全協の中央指導部員にするよう命令? |
54.1 北京機関が「党学校」設置、関係者千数百〜二千人 54.11 宮本は、武装闘争五全協共産党の東京1区で立候補→落選 55.1 北京機関がソ連共産党に資金援助要請 55.1 志田・宮本秘密の手打ち会談―六全協計画で一致 55.3.15 宮本顕治が武装闘争五全協の中央指導部員 |
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〔段階6〕、六全協とそれ以降 1955年7月27〜29日〜 |
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55.7.271 ソ中両党命令で六全協開催。フルシチョフ第1書記は、ソ連赤軍情報局スパイ野坂参三を同じ肩書の第1書記に、宮本顕治を常任幹部会責任者に任命? 55.12.31 毛沢東が、自由日本放送閉鎖指令? 57.3 毛沢東が、北京機関の「党学校」閉鎖指令? |
55.7.271 ソ中両党命令に基づく六全協開催 55.8〜 宮本顕治・志田重男で全国の党会議に出席。各党会議で武装闘争の具体的データ公表・総括要求が噴出、宮本顕治は、それらの要求を「後ろ向き」と批判し、抑圧→公表・総括に全面沈黙・隠蔽 55.12.31 自由日本放送閉鎖 57.3 北京機関の「党学校」閉鎖 68.6.29 宮本顕治は、NHKインタビューにおいて、「火炎ビン事件は、指導部が分裂していて、統一した中央委員会の方針ではなかった」と党史偽造歪曲発言 |
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まず、1952年に発生した4つの事件・裁判を比較し、そこでの白鳥事件の特殊性と謎について位置づけをする必要がある。
(表2) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無
項目 |
白鳥事件 |
メーデー事件 |
発生年月日 概況 参加者 死傷者 |
1952年1月21日 札幌市白鳥警部射殺 殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ 逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡 白鳥警部即死 |
1952年5月1日 講和条約発効後の初メーデー 皇居前広場での集会許可の裁判中 明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前 皇居前広場突入4000〜8000人、逮捕1211人 死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832人 |
裁判被告 裁判期間 判決内容 |
殺人罪・殺人幇助罪で起訴 被告追平ら一部は検察側証人に 8年間 村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし |
刑法106条騒擾罪で起訴253人 分離公判→統一公判 20年7カ月間、公判1816回 騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6人 |
軍事方針有無 武器使用 共産党側の認否 関係者の自供 |
札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在 ブローニング拳銃1丁 軍事方針存在の全面否認 村上以外、「共同謀議」等自供 逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡 |
日本共産党中央軍事委員長志田が指令した 「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令 (プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒 軍事方針存在の全面否認 志田指令を自供した軍事委員なし 増山太助が著書(2000年)で指令を証言 |
警察側謀略有無 |
拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造 |
二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定 |
項目 |
吹田事件 |
大須事件 |
発生年月日 概況 参加者 死傷者 |
1952年6月24、25日 朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅 集会2〜3000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他 デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41人 |
1952年7月7日 帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場 集会1万人、無届デモ3000人 逮捕400人、警官事前動員配置2717人 死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数 |
裁判被告 裁判期間 判決内容 |
刑法106条「騒擾罪」で起訴111人 日本人61人・朝鮮人50人、統一公判 20年間 騒擾罪不成立 第1審有罪15人、無罪87人 |
刑法106条「騒乱罪」で起訴150人 分離公判→統一公判 26年1カ月間、第1審公判772回 口頭弁論なしの上告棄却で騒乱罪罪成立 有罪116人=実刑5人、懲役最高3年 執行猶予つき罰金2千円38人 |
軍事方針有無 武器使用 共産党側の認否 関係者の自供 |
多数の火炎ビン携帯指令の存在 火炎ビンと竹槍(数は不明) 軍事方針存在の全面否認 公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用 |
「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在 火炎ビン20発以上(総数は不明) 軍事方針存在の全面否認 共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田を共産党が除名→永田は公判で軍事方針の存在承認 |
警察側謀略有無 |
デモ隊1500人にたいして、 警官事前動員配置3070人 |
デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ |
多数の〔関連ファイル〕内容は、(1)白鳥事件経緯そのものと、(2)白鳥事件事後処理経過の2つを含む。それを検証する上で、宮本顕治の武装闘争任務と白鳥事件事後処理への関与度を確認する。事後処理への関与度において、彼が果たした役割は当時の党内地位から見て決定的だった。その性質は、まさに党内外犯罪だった。
〔小目次〕
宮本顕治は、五全協・武装闘争共産党で中央レベルの活動をした。その証拠資料4つをリンクで載せる。
〔証拠資料1〕、『経過の概要』二一〜二六 宮本顕治
〔証拠資料2〕、二三、五一年秋、地下活動に応じ、宣伝教育関係の部門に入れられる
〔証拠資料3〕、二五、一九五四年末、衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず
〔証拠資料4〕、二五、選挙後、中央指導部の一員。六全協準備への協力要請に応ず
彼は、五全協・武装闘争共産党における自分の関与の証言を何度もしてきた。
(1)、五全協期間中、「党機関とのつながりはなかった」「当時、党籍はあったが、党のどの組織にも所属していないという、普通ならばあり得ない状態におかれていた」と証言した。
(2)、1967年以降、「(六全協以前の)武装闘争は分裂していた一部が行ったものである。(六全協以降の)現在の共産党と私(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と何度も公言した。
これらの証言は真っ赤なウソだった。
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で
中央レベルの活動をした証拠
ただし、1952年1月白鳥事件発生そのものへの関与はない−と考えられる。証拠がない。事件のニュースは、「五一年秋、地下活動に応じ、宣伝教育関係の部門に入れられ」たので、聞いていたであろう。
彼の党内任務を確認する。宮本顕治は、六全協後、(1)志田重男を「料亭お竹さん」党資金大量使込み問題で除名した。(2)椎名悦郎を「女性問題」で除名していた。その結果、白鳥事件事後処理時点の全経過において、宮本顕治は、日本共産党の党内権力をすべて握り、独占した。
1955年(昭和30年)3月、中央指導部員に就任。7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命。8月、常任幹部会で責任者に就任。1958年(昭和33年)8月、第7回党大会1中総で、党書記長に選出された。この国際派の勝利により、党史の上では、所感派が分派となる。1970年(昭和45年)7月、第11回党大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出、書記長のポストを廃止した。
Wikipedia『宮本顕治』経歴
白鳥事件事後処理経過全体において、宮本顕治の関与度は決定的であり、日本共産党の対応すべてを彼が命令・指令した−と断定できる。多数の〔関連ファイル〕において、日本共産党の関与度・批判は出てくる。しかし、その命令・指令者に関する人物特定はされていない。人物証拠だけでなく、白鳥事件資料そのものを共産党側が全面隠蔽し、2014年に至るも何一つ出していない。やむをえない面もあるが、私(宮地)としては、どうもまどろっこしい。
〔関連ファイル〕は多数あるが、このファイルを書こうと思った動機は、そのまどろっこしさにある。宮本顕治の党内外犯罪を具体的に特定する必要がある。北海道において、(1)白鳥事件に関わった人、(2)「冤罪説」を信じている人、(3)共産党北海道委員会党員のかなりが、口が重いと言われている。事後処理の党内犯罪者が特定されていないことも原因の一つなのか。かっかそうよう【隔靴掻痒】の感じになる。
宮本顕治の白鳥事件事後処理経緯における関与度・党内外犯罪は決定的と断定する別根拠は2つある。白鳥事件〔関連ファイル〕には、それがない。ただ、共産党専従13年半に基づく私の個人的体験が2つある。(1)大須事件事後処理経緯と、(2)1967年〜69年「愛知県党指導改善運動」事後処理経緯における宮本顕治の関与度・党内外犯罪データなら具体的に証言・証明できる。
(1)、私(宮地)は、大須事件を調べ、HPに載せた。それとともに、『検証・大須事件の全貌』(御茶の水書房)を出版した。1952年7月大須事件の事後処理=裁判闘争経緯における宮本顕治の関与度・党内犯罪は決定的だった。
第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』
第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
4、宮本顕治・野坂が行った武装闘争実行者見殺した敵前逃亡犯罪
5、永田末男による野坂・宮本の「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」批判
(2)、私は、1967年〜69年、「愛知県党指導改善運動」に取り組んだ。その事後処理における宮本顕治の民主化運動鎮圧・粛清の党内犯罪への関与度は決定的だった。
(日本共産党との裁判)
第3部『宮本書記長の党内犯罪・中間機関民主化運動鎮圧、粛清』
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』
第6部『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』
〔関連ファイル〕執筆者に、共産党専従体験者はいない。私の断定=確信的推定は、専従13年半体験に基づく個人的皮膚感覚である。
3、2014年まで共産党の全面隠蔽・黙殺→関係党員見殺し対応
宮本顕治と2014年までの日本共産党は、白鳥事件の真相を全面隠蔽・黙殺してきた。ただ、幌見峠の捏造弾丸問題を契機に、完全無罪→冤罪キャンペーンを大展開した。共産党側の事件資料を何一つ出してこなかった。
関係党員は多数いた。村上国治札幌市軍事委員長+北大学生党員多数+他実行犯などである。
中野徹三は、事件当時、北大学生党員だったが、事件に参加していない。彼は、次のように公表した。
直接間接に事件に関係ありとみなされたおよそ五〇数名の党員あるいはシンパサイザーが逮捕され、逮捕を免れた者のうち、一〇名が中国に亡命した。
被逮捕者のなかから、複数者(追平著書によれば朝鮮人一名を含む三名、そのひとりは高校生)が自殺または変死を遂げ、他に少なくともひとり(北大生)は、精神異常を来して入院した。
被逮捕者のおよそ三人に二人は、結局はなんらかの形での自分の事件への関与を認めて自白し、一部は(追平氏を含めて)検事側の証人になった。追平氏の著書は、(一九五九年の時点で)被逮捕者のうち、党から離脱した者の数と、離脱しなかった者の数を、三六対一九としている。(3)
中国に亡命した一〇名のうち、七名は日中国交回復後帰国したが、白鳥殺害の実行犯とされた佐藤博容疑者と、宍戸均中核自衛隊長の二名が数年前に中国で客死したことは確実であり、当時北大生でいまなお中国にただ一人残留している鶴田倫也氏は一昨年の六月七日、北京での時事通信記者とのインタビューに応じてこの点を認めた上、さらに「―もし、このままであれば、事実はやみからやみに葬り去られる。何も話さないのか」と問われ、「それはいつか明らかにしますよ。今はその時期ではない。」と答えている。(4)
なお、首謀者と目されて五二年一〇月逮捕された村上国治氏は、一貫して無罪を主張してたたかっていたが、六三年一〇月、最高裁で懲役二〇年の刑が確定し、七七年に刑期満了で出獄した。氏はその後も再審を請求し続けたが、五年前の九四年一一月、埼玉県の自宅で焼死するという、悲劇的な最後を遂げている。
事件はこのようになお多くの謎を秘めながら、今に到るまで多数のひとびとの運命を暗く蔽っているのである。
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
宮本顕治と日本共産党は、(1)これら関係党員をすべて見殺しにした。(2)村上国治一人だけを、冤罪大キャンペーンで利用した。(3)ただ、共産党・宮本顕治にとって、村上国治の利用価値がなくなると、彼を見捨てた。(4)彼は、絶望の果てに、自宅で焼死した。遺書はなかった。その死因について、多くの人が「焼身自殺」と推定している。
〔小目次〕
〔犯罪1〕、関係党員10人を人民艦隊で中国亡命指令
〔犯罪2〕、白鳥事件+3大騒擾事件データの全面隠蔽・黙殺
〔犯罪3〕、「白鳥守る会」「白対協」結成と冤罪大キャンペーン-9項目
〔犯罪4〕、村上国治の処遇→見捨て→焼身自殺?
当時日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった川口孝夫は1956年3月密出国して中国に渡った。18年間の亡命生活を送って73年12月に帰国した。
川口孝夫夫妻を『人民艦隊』で中国に密出国させたのは、宮本顕治しかありえない。1956年3月とは、六全協の8カ月後だった。その時点、共産党の最終政策決定権者は、宮本顕治だった。
Wikipedia『人民艦隊』
川口氏夫妻は、先に挙げた10名の「亡命者たち」の2人である。しかし夫妻の「亡命」とは、実は六全協の8カ月後の日本共産党による、中国への擬装された強制追放にほかならなかった。
川口孝夫は、著書『流されて蜀(しょく)の国へ』において、次のように証言している。
袴田氏は日共中央の代表として、私たちの処遇を中共中央に「委託」した。「委託」の正当な理由など最初からあるはずもない。あるとすれば、「党組織を守る」という彼ら流の大義名分のもと、六全協後の路線転換を進めるうえで、「極左路線」の生き証人である「事件関係者」の私たちを日本から追放し一生日本の土を踏まさせまい、という意図しかなかったのだ。
宮本氏は北京機関や「自由放送」など、六全協前の日中両党の関係を追及されると、党が分裂していた時期のことであり、徳田派のやったことで我々には関係がない、と言って逃げている。しかし、少なくとも私の追放については、関係がない、とは言わせない。私が中国に渡った一九五六年三月という時期は、党が統一して既に一年が経ち、志田重男氏も中央からいなくなっており、明らかに党中央の実権は宮本氏に握られていた。つまり当時、党内で私をペテンにかけ中国へ追放することのできた人間は、志田氏でも誰でもない宮本顕治氏以外にいないのである。
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
白鳥事件事後処理経緯問題において、宮本顕治の関与を名指しで批判したのは、川口孝夫一人だけである。白鳥事件経緯すべてを知ったのは、2人しかいない。
川口孝夫は、(1)当時日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった。(2)事件直後に複数の「関係者」から事実と経過を知ることができた。(3)事後処理時点において、党中央命令により、党本部に移動させられた。(4)党本部に秘密隔離状況で白鳥警部殺害の共同謀議などを裏付けた一部脱党党員の検事調書を検証させられた。(5)検事調書での逮捕者の供述内容と、「基本的に一致している」と、著書で記している。
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
もう一人は、最終政策決定権者になり、川口孝夫報告・検証文書を読んだ宮本顕治である。彼は、白鳥事件データの全面隠蔽・黙殺→冤罪大キャンペーン展開を決断した。松川事件裁判を分析した広津和夫は、白鳥事件冤罪大キャンペーンへの参加要請を拒絶した。
宮本顕治は、日本共産党の全党内権力を握った。5全協武装闘争共産党における(1)非合法・軍事委員長志田重男の除名+(2)合法面権力者椎名悦郎を除名したので、もはや対立する権力者はいなくなった。
(1)志田重男の除名名目は、「料亭お竹さん問題」党資金大量流用ニュースの暴露記事だった。(2)椎名悦郎の除名名目は「女性問題」だった。
ただ、志田重男・椎名悦郎の除名理由には隠された裏側がある。渡部富哉が著書で別の除名根拠を推測している。
(1)志田重男は、「鉄の戦線」という出所不明の機関紙に、志田名義の論文を載せた。
(2)椎名悦郎は、6全協の「軍事方針はなかったことにする」という方針に強く反対した。これは、6全協にたいする公然たる反対声明だった。宮本顕治は、椎名を査問にかけた。彼は、これを拒絶し、脱党を声明した。宮本顕治は、それを許さず、「除名処分」にした。
宮本顕治は、異論・批判者の処分・除名において、関係がない項目を公表する別件逮捕手口の多用で有名である。志田・椎名の除名理由にも、その疑惑が持たれる。ただ、共産党の白鳥事件完全隠蔽手口によって、疑惑を証明するデータがない。
宮本顕治は、1967年以降、「(六全協以前の)武装闘争は分裂していた一部が行ったものである。(六全協以降の)現在の共産党と私(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と何度も公言した。
これらの証言は、最終政策決定権者にのし上がった宮本顕治による真っ赤なウソだった。
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で
中央レベルの活動をした証拠
白鳥事件+3大騒擾事件の事後処理経緯・関与度に関し、宮本顕治を名指しで批判したのは、2人だけである。(1)白鳥事件事後処理経緯の川口孝夫と、(2)大須事件事後処理経緯・関与に関し、強烈な批判を公表した大須事件評被告団長永田末男である。
第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
4、宮本顕治・野坂が行った武装闘争実行者見殺した敵前逃亡犯罪
5、永田末男による野坂・宮本の「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」批判
この党史偽造歪曲犯罪に基づき、白鳥事件+3大騒擾事件データの全面隠蔽・黙殺を続けた。それら宮本顕治の党内外犯罪を、不破・志位らも継承・堅持してきた。
〔犯罪3〕、「白鳥守る会」「白対協」結成と冤罪大キャンペーン9項目
冤罪キャンペーンの9項目を確認する。その期間は、6全協6年後の1961年から1975年までの15年間である。1975年7月は、宮本顕治が「白鳥裁判運動」終結宣言を共産党から出させた年月である。この時期、共産党内における白鳥事件事後処理指令の最終政策決定権者は宮本顕治しかありえない。
(1)、1961年1月21日、白鳥事件9周年を記念する第1回現地調査に200名が参加した。これは、1955年6全協の6年後だった。
(2)、1975年の第28回まで、参加総数1万数千名にのぼった。
(3)、1962年3月16日、宮本顕治は、「白鳥事件中央対策協議会=白対協」を結成させた。
(4)、宮本顕治は、同時に「白鳥守る会」「村上国治を守る会」を全国的に結成し、国民運動を全面展開した。
(5)、白対協は,「国治をかえせ」「真実は不屈だ」などの映画を制作し,国治の無罪を主張した。
(6)、白対協は,機関紙「白鳥事件」も発行し、142万人に及ぶ最高裁再審開始要請署名を集めた。
自由法曹団『自由法曹団への招待 - 自由法曹団ホームページ』白鳥守る会・白対協
以下は、渡部富哉の著書(『白鳥事件・偽りの冤罪』P.14、2012年12月、同時代社)からの抜粋である。
(7)、1969年11月14日、村上国治は、網走刑務所から仮出所した。彼は、宮本顕治命令を受け、精力的に冤罪を訴えて活動した。1975年までの5年間で、村上国治が出席した集会は数百回に及んだ。
(8)、現地調査でさえ、多いときは1000人もの人が全国から北の国札幌に結集した。
(9)、白鳥事件裁判再審要請の地方議会は150地方議会に及んだ。
これら9項目にも及ぶ宮本顕治秘密命令に基づく冤罪キャンペーン→国民運動データの性質をどう考えたらいいのか。
宮本顕治は北海道軍事委員会幹部・川口孝夫を北海道から党中央に呼び寄せ、白鳥事件検事調書・被告人供述調書をすべて調べさせた。川口孝夫は、その検証結果を党中央・宮本顕治に提出した。それを読んだ宮本顕治は、白鳥事件=共産党の警官殺人犯罪=「黒」と確信したと思われる。
彼は、「黒」と知りつつも、冤罪キャンペーン=国民運動を大展開させた。それは、共産党員だけでなく、労働組合・地方議会を大々的に巻き込んだ。宮本顕治がしたことの性質は、「村上国治無実」という真っ赤なウソで、広範な国民を15年間もペテンにかけ続けた反国民的政治犯罪行為だったと規定できる。
「共産党・黒」「宮本顕治・黒」を「白」とする180度逆転のウソで共産党員・国民を騙す手口は、宮本顕治が武装闘争問題を含め常用する赤色犯罪である。不破・志位も、宮本顕治の犯罪手口をそのまま堅持している。
以下も、渡部富哉の証言からの抜粋である。
同時代に起きた白鳥事件(注1)も、有罪判決が確定して一応の決着がついた形ですが、今でも冤罪説が根強いようですね。
渡部 そりゃそうでしょう。当時、日本共産党は公式には白鳥事件との関係を否定し、白鳥事件対策協議会(機関紙「白鳥事件」)を発行して、110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた冤罪キャンペーンの国民運動を展開しましたからね。一般国民の目に冤罪と映ったのも無理はありません。
それに、この事件を取り上げ独自の推理を展開した松本清張著『日本の黒い霧』の影響も大きいでしょう。彼はよく調べて書いてはいますが、CICの謀略・冤罪説ですね。確かに当局による一部証拠(弾丸)のでっち上げがありましたから、それが、なおさら冤罪説を広めたといえるかもしれません。
しかし、あの当時、日本共産党にいて地下活動をしていた私達のような一部活動家にとっては、事件が発生した時、「ああ、党がやったな」とピンときたものです。
渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)
以下は、下記リンク−『シンポジウム』における大石進報告の抜粋である。
国治は,宮本顕治委員長によって,「北の村上国治,南の瀬長亀次郎」と讃えられ,共産党の不屈のシンボルに祭り上げられていった。白鳥事件対策協議会(白対協)は,「国治をかえせ」「真実は不屈だ」などの映画を制作し,国治の無罪を主張した。
しかも国治は,69年11月14日,刑期の43%を残して仮釈放になった。それでも17年と45日の過酷な獄中生活であった。第二,第三の再審請求を起こして,中国から帰国した人たちに,「共同謀議はなかった」と証言させる方法もあっただろうが,共産党は彼らを「毛沢東盲従反党分子」と呼んで,国治に近づけさせなかった。
今西一・河野民雄・大石進『シンポジウム・歴史としての白鳥事件』→本文読む↓クリック
プログ『白鳥事件60年が過ぎて 後編:イザ』年表
1975年7月、共産党は「白鳥裁判運動」終結宣言を出した。白鳥事件対策協議会を最高裁の特別抗告棄却の2カ月後に解散した。宮本顕治は、共産党にとっての利用価値を失った村上国治を見捨てた。むしろ、失ったどころか、白鳥事件と共産党との関係・歴史そのものの完全抹殺を謀った宮本顕治にとり、村上国治は邪魔者に転落した。
「邪魔者は殺せ、排除せよ」は、レーニン以来、コミンテルン型共産党における党内外犯罪の鉄則である。(1)レーニンは、彼の路線・政策・方針を批判・反対するロシア革命・ソビィエト勢力数十万人の大量殺人犯罪を遂行した。(2)宮本顕治が信奉したスターリンは、約4000万人を粛清した。その内、ソ連共産党の元党員100万人・現党員100万人を銃殺した。ロイ・メドヴージェフがそのデータを証言している。
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』粛清データ
仮釈放後の国治は,埼玉県の大宮に住んで,国民救援会の副会長としてカンパ集めをしていたが,77年1月に小林邑子と結婚して,男の子も生まれた。
しかし,1985年には夜間に放置された自転車を盗んだとして「自転車泥棒」で検挙された。これは確実に警察にマークされていた事件である。
1985年、宮本顕治は、瞬時に、村上を日本国民救援会副会長職から解任させた。日本国民救援会とは、100%日本共産党系の大衆運動組織だった。その幹部は、全員が共産党員である。
国民救援会の仕事も奪われ、訪れる人もいなくなった。「墜ちた英雄」となり、1992年に杉之原弁護士が亡くなるが、その葬儀の席に国治の姿はなかった。
1994年11月3日、村上は埼玉県大宮市内の自宅が全焼し、焼死。享年71歳。遺書なし。
以下も、下記リンク『シンポジウム』における大石進報告の抜粋である。
「白対協」の運動は,村上國治の共産主義者としての完璧な人格を前提にしていた。ここに悲劇の始まりがあったのではないか。
村上國治は,白対協運動の中で英雄を演じ続けることを義務付けられた。事件直後から自己の罪と責任を認識していた彼にとって,この演技は刑罰であり,針のむしろだった。
1985年1月18日,各紙に「村上國治自転車泥棒」なる記事が掲載された。事実は,放棄自転車の山の中から拾ってきた「マシなもの」を使っていたというだけのことで,起訴の対象になりようもない事柄についての警察の悪意を込めた報道に各紙が乗ったのだった。村上はおそらくこの報道故に国民救援会の役職を解かれた。
国民救援会に政治的な立場があることは理解する。しかしそのような犠牲者を守ることこそ国民救援会の,Japan Association for SocialJustice and
Human Rightsの新たな命だったのではないか,解任後の村上に支えの手は差し伸べられていたのか,とも思う。
1994年11月3日,彼は自宅で焼死する。自死か事故死かわからない唯一の死に方が焼死である。彼は自殺が許される立場になく,組織に迷惑を掛けない死に方を選んだのだろう。彼は,日本共産党員として,事件へのみずからの関わりを口にすることを許されなかった。
他面,一個の人間として,事件との関係を白対協の諸君を象徴とする人民に告白し,長年の黙秘を謝罪すべき義務を思い続けてきた。国民救援会副委員長として針のむしろに座り続けるという緊張のバランスが失われたとき,義務衝突から逃れる途は,自死以外には存在しなかった。
村上の焼死を聞いたとき,岡林が違う文脈の中で語った「彼は生きてはいない」という言葉が,リフレインした。彼は,国民救援会副委員長の職責を失うという不遇を恨んで死んだのではない。これもまた「政治的責任」の果たし方であった。
=共産党員の言動拘束・呪縛度
呪縛といっても、いろいろある。なかでも、赤い呪縛は特殊な性質を持つ。日本革命の遂行・実現行動を絶対正義とする政治思想に基づく呪縛である。それだけに、共産党員にたいする呪縛度は、白鳥事件当時も2014年現在までも強烈である。
革命政党組織を守ることが、なによりも絶対的優先順位と位置づけられる。それは、日本共産党が党内外犯罪を起こしたとしても、党の犯罪を(1)党外だけでなく、(2)党内にも漏らすな、という革命赤色倫理となり、共産党員の言動を拘束し、呪縛してきた。
赤い呪縛をかけた張本人・宮本顕治は、多数の共産党員を不幸に陥れた。宮地幸子が、札幌で『「白鳥事件」60年の集い』内容一部を紹介している。
高安知彦氏はこう述べている。
「白鳥事件は政治テロ。殺人事件に変わりはない。幼稚な考えで標的にしてしまい、白鳥警部やご遺族に申し訳ない気持ちで一杯だ。検察側証人として法廷でかつての仲間と激しい応酬を繰り広げたため『日本のユダ〔裏切り者〕』との批判も浴び裁判後は口をつぐんだ」
53年6月逮捕された高安氏は1ヶ月の黙秘後、脱党届を出して事件について知ること全て自供したという。
そして語った。「村上国冶さんの最期は可哀相です。あんなに党のために一生懸命やった国冶さんは党から見捨てられたのです。党は無常です。無常もいいところです。自転車泥棒事件で党から捨てられました。焼け死にした国冶さんは、もしかして自殺かもしれないとぼくは見ています。・・・あの頃国冶さんは飲みまくってアル中になっていたのです。党の立場と個人の立場で悩みに悩んで死んでいったと思っています」
大石進氏講演では次の部分に胸打たれた。
「5つの不幸、それは
1、真実を語った者に対する非難と社会からの抹殺の対象になった者の不幸、
2、真実を知るが故に中国に送られた10名の党員の不幸、
3、党への忠誠故に、偽りの生を演じ続けさせられ、英雄に祭り上げられそして捨てられた村上国冶の不幸、
4、被告人のためではなく、組織のための弁護を続けた弁護士たちの不幸、
5、今なお黙して語らない関係者たちの不幸。
組織は革命的熱狂の中ではなく、市民的誠実さの中に生きなければならないのだから、〔白鳥事件のもたらした無数の不幸について黙したままで素通りすることは許されないし〕賢明でもないと思っている。とはいえ出来ることは限られている。
亡くなった方には花を供え、なおご健在の方には心からの謝罪といたわりの言葉をそえる。人の世でこれ以上のことは出来ないと思っている」
宮地幸子『白鳥事件とわたし』
河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会
共産党の党内外犯罪事件にしても、漏らした共産党員を、「憎むべき反党分子」「許されざる裏切り者」と断定する。この赤い呪縛を自ら解き放つのは、至難の業となる。白鳥事件関係党員においては、4つのパターンに分かれた。
〔小目次〕
〔パターン1〕、村上国治
〔パターン2〕、佐藤博ら中国共産党への亡命者8人
〔パターン3〕、北海道軍事委員会幹部・川口孝夫
〔パターン4〕、白鳥事件の真相・共産党犯罪の全貌を党外で公表した高安知彦
白鳥警部射殺事件の計画者・指令者だった。しかし、宮本顕治の冤罪キャンペーン策謀で、「北の村上国治,南の瀬長亀次郎」と讃えられた。共産党の不屈のシンボルに祭り上げられていった。赤い呪縛を自ら解き放つには、妻子を外出させた後、自宅において、自ら焼死・遺書なし=焼身自殺?という「政治的責任」の果たし方しか残されていなかった。
紅蓮の炎の中で、自己の身体を消滅させるという赤い呪縛から解き放つ心境とシーンをイメージできるだろうか。
宮本顕治は、6全協後、表・椎名と裏・志田の2人とも「別件逮捕理由」で除名し、共産党の最終政策決定権者になった。白鳥事件事後処理は、すべて宮本顕治指令に基づく。
Wikipedia『日本共産党第6回全国協議会』1955年7月
彼は、白鳥事件の関係党員8人を人民艦隊で中国に亡命させた。人民艦隊とは、武装闘争共産党の海上秘密組織である。15隻の船が焼津港などを基点とし、組織的に中国との間を往復し、野坂参三や党幹部・地下活動家を運んでいた。共産党と宮本顕治は、6全協後も海上秘密組織を「保持」していた。
その後、帰国者・中国残留党員を合わせ、誰一人として、白鳥事件における日本共産党の関与度を自白しなかった。日本人記者にインタビューされても、「今はその時期ではない」と、赤い呪縛に拘束されたままだった。
今西一は、『シンポジウム』において、『亡命者白鳥警部射殺事件の闇』の内容について詳細な紹介(P.6〜19)をし、次のデータを載せた。
今西一『シンポジウム・歴史としての白鳥事件』→本文読む↓クリック
最近では後藤篤志の『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房)が公刊された。(番号)は、私(宮地)が付けた。
「第6章 潜伏」。佐藤博は,北海道軍事委員会の幹部だった川口孝夫の世話で,飯場に入り,千歳,十勝とまわって東京に逃げた。党からは外に出ないように言われて,発送の手伝いをして月1万円を貰っていた。
(1)1955年3月30日,佐藤と門脇は人民艦隊に乗って,静岡県の焼津から上海に送られた。(2)第2陣は,宍戸,植野と斉藤和夫が続き,(3)最後の56年3月の船には,鶴田,大林,それに桂川良伸や川口夫妻まで加わっていた。この亡命の背後には,国治の「潜らせた人間を外国にやって欲しい」という指示があったと言われている。
筑摩書房『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇 / 後藤 篤志 著』
〔パターン3〕、北海道軍事委員会幹部・川口孝夫
彼は、宮本顕治の秘密指令により、白鳥事件の関係党員8人とともに、中国に「亡命」=実質的な「流刑」をされた。北京機関にいた袴田里見は、宮本顕治の命令を受け、中国共産党に「彼を永久に日本に帰国させないでくれ」と要請した。
彼は、北海道軍事委員会幹部の立場から党中央に行かされ、白鳥事件検事調書・被告人供述調書をすべて調べされられた。その検証結果を党中央に提出した。彼は、「白鳥事件の真相・全貌について知り過ぎた危険党員」になってしまっていた。その「知り過ぎた男」をどう「処理」したらいいのか。川口夫妻は、中国奥地・蜀=四川省に17年間も「流刑」され続けた。
帰国後、その蜀=四川省における体験を執筆した。出版社は、「白鳥事件の真相も書いてくれ」と条件を出した。しかし、川口孝夫は、「今はその時期ではない」と断った。商業出版はなくなり、自費出版になった。彼は、真相を語らないまま、死去した。
宮本・袴田により17年間も「流刑」されるという共産党犯罪を体験しても、白鳥事件に関する党の犯罪を(1)党外だけでなく、(2)党内にも漏らすな、という革命赤色倫理の虜になるのか。それほど赤い呪縛度は強烈なのか。
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
〔パターン4〕、白鳥事件の真相・共産党犯罪の全貌を党外で公表した高安知彦
彼は、村上国治とともに、中国「亡命」命令を受けなかった。高安知彦は、逮捕当初、黙秘を続けた。しかし、異色な取調検事との人間関係もあって、全面的自供に踏み切った。
その詳細な経緯は、今西一・河野民雄によるインタビューにおいて、明らかになった。彼は、党の白鳥事件犯罪・秘密を全面的に漏らしたとして、共産党と冤罪キャンペーン信仰者から、現在に至るも、「憎むべき反党分子」「許されざる裏切り者」とのレッテルを貼られ、弾劾されている。
「白鳥事件の真相・共産党犯罪の全貌を党外に公表」した共産党員は、(1)はたして「反党分子」「裏切り者」なのか。(2)それとも、白鳥事件関係党員数十人において、赤い呪縛を自ら断ち切って、公表した唯一の勇気がある人間なのか。
高安へのインタビューの最後(P.44、45)において、彼は、村上出獄直後の村上国治との面会シーンを語っている。2人の心境・心情が伝わってくる。長くなるが、そこを抜粋する。
今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF
高安―渡部さんが,国治さんの出獄の時ぼくが網走まで行ったが会えなかったと書いてますが,渡部さんが想像で書いたことで,ぼくは行っておりません。
ぼくが,網走へ行ったら皆から吊るし上げられて大変なことになります(笑)。―当然のことながらそんな所へ行くはずは無いのです。ぼくが国治さんと会ったのは,国治さんが網走を出て札幌の菊水の勤医協病院で何日間か入院して検査を受けた時です。
その時,北大の太田嘉四夫先生がぼくの所へ連絡をよこして,「国治さんが会いたいと言ってるのでどうする」というのです。「いいですよ,国治さんが会いたいというなら会いましょう」ということで,真駒内の太田先生の家で会いました。多分,国治さんが出て1週間か10日ほど経った頃です。ぼくが国治さんと会って,やった・やらないの論争になったら,ぼくの考えをはっきり言おうと腹を決めていました。
国治さんは公判では,ぼくの証言を徹底的に批判してましたから,同じやり方で来るのかと覚悟してました。相手が会いたいと言っているのに逃げるのは卑怯だと思い,「行きます」と答えました。一度,公判ではなく,個人的にも2人の立場をはっきりさせた方が良いと思って,国治さんに会いました。
会ってみたら,国治さんは事件のことなど一言も言いませんでした。昔の事件以外の懐かしかったことを,ああだこうだと約2時間くらい話し合いました。昔の懐かしかったことを愉快に話し合ったのです。
河野―出獄した直後だとすると,ぼくの調べでは69年11月末のことでしょうね。
高安―多分,国治さんはぼくと会ったことが知れたら批判されるのではないかと思って,こっそり会いに来たのだと思います。それは,国治さんと太田先生とぼくの3人しか知らないことです。
河野―国治さんのお姉さんが,高安さんのことを徹底的に本で批判してましたね。
高安―国治さんが出獄したら,高安に徹底的に謝らせると言っていたと書いてるようですね。国治さんは,表面では闘争心を燃やして公判ではぼくを厳しく批判したが,内心とは全然違ったのでしょうね。
河野―私は事件に関していろんなことを調べています。白鳥事件は冤罪だと書いた代表は松本清張さんですが,後に推理作家になった佐野洋さんも冤罪説です。彼は白鳥裁判が行われていた頃,読売新聞北海道支社の駆け出し記者で,札幌地裁へ裁判の取材に行ったのです。丁度その時,高安さんと村上さんが法廷で対決する場面に出くわしたらしいのです。村上さんは高安さんに向かって,「お前はそんな嘘っぱちを俺の前で言うのか!」とすごい剣幕で迫ったのを見て,高安はウソを言っているのではないかと思ったと書いてます。
素人はそういう感性的な判断をしますからね。少なくとも法廷などでは,迫真の演技といえばそれまでですが,彼は怒ったのでしょう。
高安―彼は,自分と党を守る立場だから,それくらい言っても不思議ではないと思います。ぼくは,党を守る立場は否定しませんが,2人だけになったら一切事件の話は無いのです。これをどう解釈するかは皆さんの自由です。
H・I―川口さんの書いた『流されて蜀の国へ』によると,川口さんが帰国して後の74年,東京の武道館で偶然村上さんに会った時,旧知の川口さんに「貴方は誰ですか」みたいな態度で,そそくさとその場を去ったと書いてあります。高安さんに懐かしく話しかけたのとは違いますね。
高安―網走を出た直後と川口さんと出合った時の時間的な経過の問題じゃないかな。その間に彼の中でものすごい変化と葛藤があったはずです。ぼくが会ったのは出獄直後で,皆が出てきたと喜んで歓迎してくれて,その中に彼はいるわけです。国治さんは自由になって何日も経っていないので,気持ちも嬉しさで昂揚してるんですよ。
その後,いろんなことがあって段々と冷めて行って,川口さんに会ったのです。その間に国治さんの心境も大きく変化したんじゃないですか。党のピエロになっていた自分に気付いてきた。だからまともに川口さんの顔を見られなかったのではないかと,ぼくは想像してます。そう思うと,ぼくは国治さんが可哀想でならないのです。
K・T―でも,出獄直後,何故高安さんに会いたいと思ったのでしょうかね。
高安―あれだけ,公判廷でぼくを批判していたので,覚悟して会ったのですがまるでそうでなかったのです。
K・T―国治さんの心の中に高安さんに対して申し訳ないという気持ちがあったのでしょうね。
高安―申し訳ないとは言えないのです。考えてみればそんなに長い期間ではなかったが,われわれ5人との数ケ月間の付き合いが人間として懐かしかったんでしょうね。わずかな人間的つながりが欲しかったのではないですか。ぼくを敵に廻してしまったんですから,敵に会う必要など無いのです。そんなこと党に知れたら大変ですよ。
河野―まだまだお聞きしたいこともありますが,この辺でひとまず終りたいと思います。長時間にわたりお話し下さった高安さんに心よりお礼申し上げます。また出席の皆様ご苦労様でした。
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〔関連ファイル〕
今西一・河野民雄・大石進『シンポジウム・歴史としての白鳥事件』本文読む↓クリック
河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会
今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF
渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)
中野徹三『1950年前後の北大の学生運動−イールズ闘争から白鳥事件へ』
『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」
川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋
宮地幸子『白鳥事件とわたし』
ブログ『「白鳥事件」60年目の真実』渡部富哉・中野徹三
高橋彦博『白鳥事件の弁護人岡林辰雄弁護士をめぐって』−大石進『講演記録から』
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に