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(2007/7/1 - 2007/12/31)

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7月14日。今年もまたはんぶんおわった。/ロングロングパスタ。

春学期の授業がおわり、いまは試験期間。学校はじきに夏休みに入るのだけれど、まだ夏休み感がないのは、ひとつには梅雨が明けてないからってのもある。あと、まだ某委員会の会議とか宿題とかで、まだばたばたするってのもある。それでも、今年の夏はこれといった書き物のノルマもなくゆっくりできそうだ。

このところ、といっても5月ぐらいから、パスタが続いている。パスタは太るからねえ、と、ずっと禁じていたのだけれど、テレビでおいしそうに作ってみせているのを見たら自分も作りたくなってやってみたらやはりおいしかった、というのがことのはじまりで、それから、けっこう続いているのだけれど、じつは太るかと思いきや、むしろ体重は減ったので、それはたぶんパスタばかりで偏食になったというのが大きいのだろうと思う(あとまぁ、夏ばてもあり)。それで一時期ひかえていた(そしたら体重は戻ってしまった)のだけれど、さいきんまた続いている。不思議なことに今度は痩せない。
べつになにをどうこうということはなく、なんの変哲もないペペロンチーノを作ったり、また、市販のバジル風味パスタオイルを使ったり、やはり市販のアンチョビ風味ソースを使ってキャベツを入れたパスタにしてみたり、まぁその程度だけれど、とにかくオリーブオイルをバカみたいに使うとよいらしい、パスタの茹で湯とオリーブオイルで乳化して麺にからんでちょうどいいぐあいになるのだ、というあたりが最近の学習である。オイルというのは油なのでどうしても控えてしまう、などという悪しき習慣を打破してバカみたいに使うとよさそうなのだ。
それで、まぁ下宿でひとりで作るのでいずれにせよ単純なことしかしてないのだけれど、このところ気に入っているのが、ナポリタンのスパゲッティで、ふつうのペペロンチーノと同じにベーコンと鷹の爪とニンニクとをオリーブオイルで火を通していくのに加えて、ウインナーの切ったのと、たまねぎのスライスと、ピーマンのスライスを足して、さーっと炒まったぐらいで、ふつうの野菜ジュース(トマトジュースにセロリとかパセリとか加えてある、カゴメ野菜ジュース、みたいなやつ)をてきとうに入れて、ちょっと水気をとばしているうちにパスタが茹で上がるので、茹で湯で調整しながらパスタを合わせてぐるぐるっと混ぜたりあおったりして、塩とかこしょうを利かせて、にんにく醤油で調整して、そんでわさわさっと皿に盛って、わさわさっと食べてしまう。簡易版のわりに、わりとそれっぽくできあがっておいしい。
それで、冷蔵庫にベーコンやにんにくをきらさず、棚にスパゲッティをきらさずにいるのだけれど、どれかがなくなりそうになり、そうすると買い足すわけで、つぎまた別の何かがなくなりそうになってまた買い足したりとか、しているうちに無限にパスタが続いてしまうことになる。

さすがに半年たったので、去年の暮れに出た本やらなんかの宣伝をここに掲げていたのはやめてみることにする。


 


7月29日。学校はなにをするところなのかと始終考えている。/夏カレー。

なんだかんだで、学校は何をするところなのかということについては始終考えている。夏休みにはいってきて、学校の職場からちょっと離れてものを考える時間が出てくると、こういうことを考えるにはつごうがよろしい。
さいきんは、その手がかりのひとつとして、教育社会学の授業でいつも言っていることなのだけれど、「だって学校で教えている知識は役に立たないじゃないか!?」ということを、もういちど考え直している。
たしかに、二次方程式の解の公式、とか、右ねじの法則、とか、鎌倉幕府の年号とか、文法とか文学とか、学校で教える知識が卒業後の人生の重要な場面で登場したことなどほとんどない。そのいみで、「学校で教える知識は役に立たない」というのは合ってると思う。
ついでにいうと、皮肉なことに、たとえば小中高校大学、と並べてみたとして、たぶんその意味でいちばん「役に立つ」可能性があるのは、大学の知識だろうなーと思う(学部にもよるけれど、理系はたぶんかなりそうだし、文系でもかなりそうだと思う)のだけれど、たぶん学生さんの向学心がいちばん低くまた現実問題として学歴社会的にいちばん効果が小さいのは大学に入ってしまった後の勉強であって、ぎゃくに、中学受験の難問奇問の入試対策の勉強とか、大学受験をもっぱら視野に入れた高校教育での勉強とかが、いちばん人生の役にたたなそうでいてかつ生徒さんの向学心がいちばん高くまた現実問題として学歴社会的に効果大なんじゃないかと思われるんである。っていうことで、ようするに、いまのわたしたちの社会では、学校の勉強は役に立たないし、役に立たないことほど熱心に勉強する、ということになる。
だからこそ、学歴社会というものが「それにもかかわらず」なぜ・どのようにして成り立っているのか、を明らかにしましょう、というのが学歴社会論の問いなのだ。
それはそうなのだ。
しかしそれはそれとして、このところはちょっと別の方向から考えている。
つまり、上記の「役に立つ・役に立たない」という言い方じたい、経済的な言い方だなあ、しかも、個人化された、いわば「私有財産」としての知識=資本というありかたをいかにも前提としているなあ、ということが気になってきたんである。
あらためていうのもなんなのだけれど、たとえば政治と経済って、矛盾するじゃないですかあ。政治っていうのは、少なくともある範囲に「公共性」を実現しようとするものなわけで、ある範囲の「一般意思」を確定してそれにもとづいてある領域内外の現実をオーガナイズしてコントロールするわけじゃないですかあ、でも経済っていうのはそれとは別の原理で作動しますよねえ。ていうか資本主義システムってそうですよねえ。
で、これを個人の知識ということにもってくると、政治的な、つまり「公共性」を実現するための知識って、個人が私有できないですよねえ、そもそも目的が公共性にあるわけだから。いかにマキャベリ的な権謀術数の才覚であっても(っていうか、とうぜんそういうものを含みこみつつでないと政治的な知は成立しないだろうけれど)、最終的になんらかの公共性(ないしヘゲモニー)を打ち立てることが目的である限り、私有された孤立した知識ではいみない、はず。いっぽう、学歴社会論でいままで言っていたような意味での「学校で教える知識が役に立つ・たたない」ってのは、私有される人的資本のことを前提としているような気がする。
社会の公共性のありようを認識して実現していく − realizeする − ための知、っていうのを、どうやって教えるかというと、公教育がそれをおこなっているはずなわけですよね。なので、いま現在のこの社会で公共性が成り立っているやりかたというのは、今現在のこの社会で公教育機関である学校がおこなっていることの結果であるわけですよ。
それがつまり現状であるわけですね。
そうするとこれはもう、アルチュセールが、などと上等なことは言うまい、ボウルズ=ギンタス的なべったべたないみにおいて、学校って、イデオロギー装置として機能してますね。絵に描いたように古典的マルクス主義教育社会学そのまんまの世界であるわけです。
個人化された知識観・能力観が前提としてあって、それで学校を通じて各人がおのおのバラバラに私有財産化された人的資本として立ち現われる、それでもって学歴社会を通じてそれが経済システムに連結されて、そこで「自助」なり「自己責任」なりの論理が作動するわけで、とうぜん資本主義システムのあれやこれやの矛盾なり不都合なりは基本的に個人レベルの「自己責任」に転嫁されていくわけで、フリーターになるのはフリーターになるやつが悪い、低収入になるのは怠惰ないし能力の低いのが悪い、ということにまぁ、なるわけですね。
でもって、あととってつけたように「公徳心」みたいなものが提唱されて、「公徳心のない一部の者たちが良識ある市民にメイワクをかける」みたいな文脈で、ようするに個人化された個々の利害や恐怖感情に訴えかけるように導入される。でもってそれを家庭のしつけに求めるとか、愛国心云々みたいなことに求めるとか、これまた個人化されて心情化された、そのいみで非政治化された − すなわち経済と矛盾しない − 「徳」を、個々の生徒に注入するとかなんとかいうことになり、そうすると、そういう仕組みをイデオロギー装置と呼ばないわけにはいかないことになる。
で、お話をもとにもどして、学校はじゃあ、どういうことをしたらいいのか、ということを考えると、やはり、私有財産ではないかたちの知をめぐって社会成員をオーガナイズするのが公教育だろうなあ、という気がする。たとえば「政治的に役に立つ」ことっていうのは個々人にとっても重要だと思うのだけれど、その結果を私有できない(政治の結果は公共的な次元に成立する)から、経済的ないみでは「役に立たない」。でも、それこそ公教育機関である学校で教えることでしょう。
社会学の授業であれこれ教えていて、学生さんが「先生は学者だし本を書く機会もあるからこういうことを勉強しても役に立つけれど、私は一般人だし、こんなことわかっても役に立ちません」というようなことを言われたことがある。それももっともなはなしで、それについて学会発表をしたり論文を書いたりしたこともある。でまぁ、そのときの話をまた別の角度から言うことになるかもしれないのだけれど、そもそもその結果を私有できない知識こそ、学校で教えるべきだし、だから、「この知識は自分に「役に立たない」」と言う学生さんに対しては、そのいみでは全くそのとおりである、でも違うんである、というふうにうまくもってけるようだといいなあと思う。
でもって、たとえばいま生涯教育論とかでファシリテーションとか状況的学習とかに関心を持って授業とかでもとりあげているのだけれど、そういうのも、「私有財産ではないかたちの知をめぐってメンバーをオーガナイズしていく」やりかたである、というのがキモだともいえる。
みたいなことをぐずぐず考えているところ。

ひさびさにカレーを作る。ずっと作っていなかったのは、鍋いっぱいに作るともてあましてしまう(夜、疲れて帰宅して毎晩カレーだときがめいります)からなのだけれど、夏休みで気持ちに余裕ができ、食生活に融通を利かせられるようになったので、思い立って作った。といってもたいしたことはしてなくて市販のハウスデリッシュカレーである。作っているうちに、ついでにそのへんに余ってた調味料とか赤ワインとか野菜ジュースとかをじゃかじゃか入れる。いちおう夏カレーなのでじゃがいもはパスして、茄子だのきゅうりだのピーマンだのパプリカだの入れる。ついでに仕上げにコショウと唐辛子をかなり入れる。でもって、たくさん作ってあるかぼちゃの煮物をご飯に添えてからカレーをかけたら、まぁ、夏カレーのつもりのものができた。食べたら尋常でないぐらい汗がでて大変だった。まだ4食分ぐらいある。


 


8月12日。ぼやぼや日記。

某日。さる方面の、ほんの短い1000字ほどの文章を書くために何年ぶりの完全徹夜をする。朝日が出るのを見ながら書き上げて、それから近所のコンビニに出かけて缶ビールと冷やし中華を買ってきて、帰ってきてもう一度読み直して手直しをしてからメールで提出して、ビール飲んで冷やし中華食べて、ちょっと寝た。学生時代のノリである。原稿の出来はともかくとして(なにせ、考えすぎると煮詰まるタイプなもので)、じつにひさびさにちょっと若い気分になることができたのはよかった。

このまえの話のつづき。学生諸君の答案を見ていて、学校とは、みたいなことが書いてあるのだけれど、学校は勉強を教えるよりもっと重要なことを教える場所だ(勉強なら塾とかあるし)、というふうに書く人がとても多くて、フムフムという感じなのだけれど、その「もっと重要なこと」の内容が、「道徳」とか「社会のルール」で、さらにその内訳が「社会に出て恥ずかしくないような」「礼儀・挨拶」だったり「電車で席を譲る」だったりするので、なんかねえ、と思う。ムラじゃないんだからさあ、と思う。
たとえばのはなし、このまえ選挙があったのだけれど、そのときに、たとえば自民党と公明党と民主党と社民党と共産党と国民新党とそのた諸々の政党の、憲法だの経済だの教育だの福祉だの年金だのなんだのかんだのの政策をきっちりと理解して比較検討して投票する、ということを、自分の責任において意思決定してちゃんとできるかどうか、みたいなことって重要ですよね。ていうか、それは、この社会の成り立ちにおいて決定的に重要ですよね。で、そういう社会を成り立たせる決定的に重要なことを、いま、学校が教えてるかっていうと、教えないですね。たまたま教えないんじゃなくて、意図的にそういう政治的知識を排除してますよね。タブー視して禁忌の対象として排除している。教えないって形で強力に社会化している。だから、たとえばのはなし選挙なんかがあっても、ふだんテレビでビートたけしや爆笑問題かなんかが喋っていることを参考にして(っていうか影響されて)それを自分の「意思」だとして投票するしかない。タレントがテレビで言っていればタブーではないので近づける、みたいな。それは、政治ではないですね。非政治ですね。
挨拶をしたり電車で席を譲ったり恥ずかしがったりはずかしめたりすることによって社会が成立するなどという、およそおとぎ話のムラ社会の人々みたいな非政治的思考枠組しか持ってない社会成員を、いまの学校は作り出している。

ついでに考えてたのだけれど、電車で席を譲る、っていうけれど、そもそも全員が座れるだけの椅子がない、というところがおかしいんである。車両数を増やしたり便数を増やしたりしないのは鉄道会社のコスト判断によるところが大きいのであって、鉄道会社の利潤追求の問題を、顧客の道徳の問題に転嫁するというのはいかがなものか。
まぁもちろん例えば極端なはなし通勤ラッシュ時などに車両数や便数をこれ以上増やせとはたぶんいえないのだろうし(通勤ラッシュ時にお年寄りが乗るとも思えないのはともかく)鉄道会社のコスト判断ばかりで電車の席数が決まるというわけでもないのだろうけれど、そうであるならばいっそう、そもそも鉄道なんてのは公共交通機関であるのだから、通勤ラッシュが起こらないような仕組みを公的に整えていくとかなんとかそういうことが必要になってくるわけで、それがスジってもんだと思うのだ。とか考えていると、やはり、学校で教えるべきは、お年寄りに席を譲るマナーとかではなくて、みんなが席に座れるような仕組みを公共的に作り上げていくためのクレイムメイクのやりかたのほうじゃないかと思うのだけれど。普通選挙と普通教育はリンクしているはずなわけで、それが機能するようにするってのは公教育のやくめじゃないですか。

みたいなことをぼんやりと考えていたりするのは、まぁ採点作業をしつつだったりすることもあるのだけれど、もちろんのべつ採点しているわけでもなくて、だいたいはぼんやりとしている。あれやこれやの本を読んでいるのはたしかなのだけれど、たくさん時間があるのだからふだん読めないものにじっくりと取り組む、みたいなことは意外とできていない。まぁそんなもんか。去年は必要に迫られてブルデューを山積みにして集中的に読んでいたし、まぁ、書き物のある年はそれに関連して集中的に読んだりするのだけれど、ことしはそういうのもほとんどないしなあ。


 


8月24日。夏が終わるのに日記。

お盆は帰省して朝から晩までクーラーの効いた居間で高校野球を見て過ごした。あとは父親が新しく買ったvistaのパソコンを見せてもらったりとかそういうのんびりとしたことをしていた。テレビで大文字の送り火を見て、ゲストの山折哲雄の、今年は河合隼雄さんを送るのだという言葉にちょっと胸を衝かれる。一昨年に、学部のシンポジウムで山折先生や河合先生を招いて盛会だった。その記録が『日本の精神性と宗教』(創元社)としてまとまっている。不思議な気がする。

某日。学生の実習の巡回にいく。淡路島に渡る高速バスの乗り場が高いところにあって、高いところは怖いので大変に恐怖した。しかし全体的にすんなりと目的地に到着できて、淡路島近いじゃんというかんじだった。瀬戸内の海がとても眩しくてよかった。学生も実習でとても丁寧に指導していただいていてよかった。私も巡回にいったら丁寧に対応していただいて恐縮した。

その実習の帰りに、駅で、一瞬、ごろごろという雷の音がして、夕立が降ってくる。あれあれと思いながら電車に乗っていたら、下宿最寄の駅につく頃にはおさまっていたのでスーパーに寄って買い物をして帰宅する。と同時にものすごい雷雨になってびっくりする。
それで大雨だったせいか、そのあとずっと朝晩がめっきり涼しくなって、昼間の日差しも弱くなって、夏が終わってしまうかんじなのだ。

この欄にこういう作文を書いて5年、である。いつも振り返っているが、5年前のこの時期にここにこういうことを書く欄を設けたんである。たぶん5年前も、夏が終わりそうでなんかつまらないことを書きたい気分になったのにちがいない。


 


9月8日。さかなさかなさかな。

お盆に帰省したら、電気の焼魚ロースターを買ってあって、便利そうだった。たねもしかけもない一番安いロースターなのだけれど、ガスレンジについてる新しい高機能のグリルよりもシンプルで掃除もしやすいし、煙もほとんど出ないということだったので、おいしい焼き魚を食べながらいよいよ下宿にもロースターがほしくなった。
いまの下宿のガスレンジはマンションに作り付けだったもので、そこについてるグリルは上火だけなんで、もひとつこう、魚をじゃんじゃん焼きたい気持ちを喚起しないし、前の下宿ではガスレンジは自分で買ってきたので両面焼けるグリルがついていたのだけれど換気の問題もあって、さんまを焼こうものならものすごい煙が部屋に充満し、何日もそれこそ歴史修正主義者たちをもたじろがせずにはいないであろうほどいつまでも煙の匂いが部屋についてひどく往生した。なので、秋にさんまの塩焼きをじゃんじゃん焼いて食べるということをあまりしたことがなかったんである。安いロースターで焼き魚が煙ぬきで実現するなら願ったりだ。
それで何件か探して、買ってきた。下宿の台所に持ってきてみるとサイズが思いのほか大きくて、置き場所的にちょっともてあまし気味の気配はあるけれど、まぁそのへんは、使い慣れてくれば、台所の空間内の動線にだんだんしっくりはまってくるだろう。それで、買ってきて以来ずっと、実験がてらあれやこれやと魚を買ってきては焼いて食べている。いまのところけっこういいぐあいである。基本的には魚を放り込んで焼き時間のダイアルを回すだけなのだけれどそれなりの按配があるらしく、あじのひらきにせよさんまの塩焼きにせよ、一度目にやったときより二度目にやったときのほうがうまくできている。この調子でちょっとしたおさかな天国をめざしたい。

「ハックス」という言葉を知る。散歩をしていて本屋で『チームハックス』(大橋悦夫・佐々木正悟 日本実業出版社(2007))って本をみつけて面白そうなので買ってきて、後日、また本屋でビジネス書の棚を見ていたら、なんとかハックスとかかんとかハックスとかそういうタイトルの本が何冊かあったんである。一人の著者とかひとつの出版社とかが流行らそうとしているってだけではなさそう(でもまぁ、見た限り数人の著者であれこれ書いているようなので、ぐるなのかもしれないけれど)。
まぁ、言葉そのものは流行語みたいなもんで、言ってる内容は「仕事をうまくやるためのちょっとしたコツや知恵」ってぐらいの意味合いで、従来から言われてるようなことなのだけれど、まぁ「ハッカー」のhackなので、ビジネスってよりも理数系的なノリはあるかもしれないし、また、精神論よりは、作業上の困難を合理的な一連の手続きのシステムに還元して精神性抜きに処理しちゃいなよみたいなドライさがあるようにみえる。なにせまとめのところで「人の「自己管理能力」はアテにならない」って書いてある。そういう基本思想があるのだ。前も書いたような気がするけれど、規律訓練的な精神論のないビジネス書は、いかにも現代風で、人間の諸身体から労働力を搾り出すテクノロジーが個人主体単位からシステム単位にきりかわったようなかんじがする。必要とされる身体の動きを一連のプロトコルに微分しておいて、システマティックに刺激することで反応としての労働力を効率よく引き出す、みたいな。
そういうのは管理といえば管理なのだけれど、効率が上がって精神的苦痛が減るからいいじゃんといえばいいじゃんっていう気にもなるわけで、ちゃっかり自分の仕事のやりかたの参考にできるところをさがしてみたり、学生に紹介したりしたくもなる。もっとも、大学などというなまやさしいところではない本当に資本主義の先端でしのぎを削るような労働の現場でこんなことを本気でやってシステマティックに効率よく労働力を搾り取られていたら、気がつかないうちに(精神的苦痛とは別の次元で)ボロボロになっちゃうだろうなあという気も、たしかに、しますね。働きすぎる若者たち、みたいな。

9月に入り、授業の開始はまだもう少し先だけれど、会議とかは始まって、もう学校モードである。夏休みの宿題つきの某学内委員の作業ももう始まっていて、この秋は某報告書を仕上げるのが大仕事である。その詰めの作業に入るわけで、ああ、はじまっちゃったなぁという気もなくもないけれど、まぁ、まわりをみまわせば、もっと重責をおってもっと忙しくしておられる先生方ばかりなので、自分の仕事ぐらいはちゃんとできなくてはと思っている。
同時に、通常営業が動き出すと、いろいろな情報が入ってきて、学生や卒業生の、朗報に類するニュースがいくつか入ってくる。そういうのが嬉しいのであって、また、仕事をやっていくためのはげみにもなるし、ポジティブな結果がフィードバックされれば、より積極的なデザインで仕事を進めていくこともできる。


 


9月27日。星の光。

9月も下旬だというのに寝苦しかったりして、窓とカーテンを開けていたら、寝付けなくて朝が近くなった頃に、目の先にものすごくピカピカと光る星が出ていたので、それを明けの明星だと思うことにした。星のことなどはさっぱりわからないし星座も北斗七星とオリオン座ぐらいしかわからないので、間違っているかもしれないけれどまぁかまわない。宵の明星というのを初めて見たのは小学校だか中学校の頃で、学校の理科で星の話を習って帰り道に、夕方で、家の前の坂道を降りようとしてそれで振り返ったら西の空に非常に光っている星が出ていて、あれがあの宵の明星か、と思ったものである。なんかそんなかんじだった。それで宵の明星というのは、学校帰りに見るのだ、という印象があるけれど、かんがえてみれば就職したのも学校なので今でもこれからもずっと、夕方というと学校帰りではあるね。
いっぽう、明け方に外を歩いて空を見上げることはあまりなかったので(牛乳配達のアルバイトでもしていたら違っただろうけれど)、明けの明星というのは見る機会もあまりなかったかもしれない。そりゃ、その気になってみれば向こうのほうは毎日(だかなんだか)出ているわけで逃げも隠れもしてないはずなので見られるのだろうし、見たこともあったのかもしれないけれど、しみじみと「ああ、あれが明けの明星なのだな」と思って見たのはこの齢になって初めてかもしれないけれど明けの明星ではないかもしれないけれどまぁそのときはそのときである。

学会に行ってきた。
このところずっと、自分が発表するということをしてないんで、今年も、紀要編集委員の任期最後の会議に出席するのと、「教育病理(2)」部会の司会を務めるのがおもな仕事ということで行ってきた。会場校は茨城大学。
今年は、学会当日が、栃木だかどこだかのオートバイのレース(国際大会だそうで)の開催日とかさなったとかなんとかで、5月ぐらいから旅行代理店かなんかがよってたかって水戸市内のホテルをあらかた押さえまくってしまったらしい、という事件があり、会場校の実行委員会の先生方はご苦労されていたようだった。それでも学会は盛会だったようなのがなにより。
自分的には、またしても自分の司会ぶりがへたくそで深々と落ち込む。部会自体は、なかなかよかったしひょっとしたら参加者にとって実りが多かったかもしれない。もうひとりの司会の久留米大の白石先生がうまく立て直してくださったのと、フロアから的確な質問(質問の形をとったクリアな論点整理)をしてくださった先生方と、それからなにより発表者の方々のおかげである。自分の司会だけがヘマかったという。落ち込むなぁ。

このたびの学会の、落ち込まないほうのはなしというと、
「水戸駅前ノびじねすほてるニ飛ビコミふろんとノおじさんニけんもほろろノ扱イヲ受ケタル話」
「ダケドソノアト水戸駅ノ観光案内所ニテ親切ナオバサンニ勝田ノびじねすほてるヲ教ワリタル話」
「早朝ノ勝田駅ノべんちニ座リテホロ酔イ加減ノ茨城ノおじさんニイキナリ話シカケラレ電車ガクルマデオ喋リシテ「コウイウノ一期一会ッツンダゾ」トイウおじさんト固ク握手シテ別レタル話」
などあったようなきがするけれどそういう話を書くとまた長くなる。
けっきょく、二日目の午後のセッション(藤田先生とかの課題研究を見に行きたかったのだけれど)には行かず、お昼休みまでで切り上げてスーパー常陸に乗って新幹線に乗って帰ってきた。
帰ってきてみれば、某学内委員の夏休みの宿題が残ってたのだ。

学会参加でのっけから休講にしてしまったけれど、いよいよ秋学期の授業がはじまった。とくに卒論は、これからの追い込みである。時間との勝負ってことになってくる。そういうときの作業の段取りってのは、さいきんききかじりつつある「ハックス」だの「GTD」だのというのの活用されるような領域であるだろう。自分は苦手だけれど、時間とタスクを段取りして上手に管理しつつ「ストレスフリーにサクサクと仕事をかたづけるgetting things done」ってのは、卒論みたいな(学生さんたちにとっては初めての大きな)課題にとりくむなかで、身に付けてくといいんじゃないかとも思う。

食べ物の話。もう何年も、朝食はトーストなのだけれど、以前はチーズトーストとベーコンエッグを食べていたのだけれど、太るので、年々、要素が減ってきて、ベーコンエッグの卵が2個から1個になり、ベーコンがなくなり、卵もやめて、しばらくはトーストだけ(まぁあと、起き抜けにトマトジュースとかヨーグルトとか、あとコーヒー)食べてたのだけれど、ついにパンを半分にすることにした。6枚切りの食パンを買ってきていつもそのまま冷凍庫に放り込んでいたのだけれど、それを、まず半分に切ってから冷凍するってふうにしてみた。まぁ、いまのところチーズのほうはスライスチーズ1枚分を乗っけているのに違いはないので、さほど急激に物足りなくなったわけではない。でもなんかこう、じゃっかんものさびしい気分にはなりますね。


 


10月13日。このところなにをしていたか。

秋学期は、平日に毎日授業がはいっていて、某たいへんな学内委員会の作業もいよいよ佳境に入ってきていて、なかなかあわあわしつつ日々が流れていく。

某日。このところ欲しくなってたパソコンを購入。半年前に買ったばかりなのだけれど、その薄型ノートよりももう一段階小さいのが、欲しくなったんである。工人舎ってところのパソコンで、前に買った薄型ノートがApera、こんど買ったのがSA1F(通称「サイフ」というらしい)、いずれも8万円前後で、両方合わせてふつうのノートパソコン1台ぶんぐらい、という格安パソコンなのである。両方合わせて1台ぶんだからいいや、というのもある。
前のは、A4薄型ノートで、なにしろ100均で売ってるA4ファイルケースにウレタンを敷いてパソコンを入れて持って歩けるので、これでも学校に持っていくのに十分ではあるのだけれど、まぁでも通勤電車の中でよっこらせっと広げるにしてはまだちょっと大柄なので、どうせならもっと極端に小さいのを、持ち歩き用にしようかな、と思ったのである。
こんどのは、なにしろカーナビ用のサイズの液晶画面らしい。A5よりちょい大きめのサイズで、バッテリも5時間持つってことになっているので、これならより気軽に持って歩けるし電車で広げることもしやすい。

某日。学校帰りの電車の駅で、委員会や学内研究会でごいっしょしている先生といっしょになる。それで例によって帰りの電車でずっと喋っていたのだけれど、その先生から、ドキュメントスキャナはいいですよとさかんに薦められる。文書読み込み専用のスキャナで、原稿自動送り&両面読み取り&PDF化、に特化していて、とにかくあれやこれやの文書がみるみる電子化されてデータに収まり、紙の山が片付いてしまうというのである。あれこれみせていただいたのだが、たしかにものすごい。
それで、型番を教えていただいて、さっそく翌日からの三連休を使って、web上であれこれ評判をしらべたりいろいろしつつ、電気店をあちこち歩き回り、結局、入手した。
薦めていただいたのはCanonなのだけれど、店頭になくて、どうやらどこでも品薄のようなので、競合機の富士通のScansnapというのを購入した。4まんなにがし。
いやーたしかにすごい。ぶあつい会議資料がみるみるデータ化されていく。とりあえずそのへんにあったここ数ヶ月の会議資料、200ページか300ページか、そのぐらいがものの一時間たらずでパソコンの中に入ってしまった。ていうか、最初だから手探りでやっていたからそのぐらいかかったけれど、慣れたらもっとはやいはずだ。分速20枚、とかのはずなので。
それで、大いにもりあがって、次の会議でお会いしたときに、「買いましたよ!すごいですね!」「おお、さっそくですかはやいですね、いやー福音でしょ?」「はいはいたしかに!」というかんじで、しきりに感激を交歓していたものだから、そのあとの会議の内容でタフな宿題をいただいたことが夢の中のことのようなのである。

某日。研究室で注文していた図書が山ほど届く。読みたかった本を何冊も袋に入れて、いつもの仕事用のショルダーバッグ(これも連休中に買い換えた。スーパーで1000円で売ってるやつで、前のよりひとまわり小ぶりである)と二つを両肩にかけて帰った。
それで、寝て起きて学校に行こうと思ったら、ふと中腰になった瞬間にぴりりっときて、あれあれ?と思っているうちに、痛くなってきた。ぎっくり腰の軽いやつだろうと思う。動けなくなるほどではないので、手ぶらで(荷物を持つのはキツいので)そろそろと歩いて出かけ、電車に乗って学校に行って授業。次の日も同様のかんじで、それで週末に入ったという次第。
静かにしていようと思う。土日で治って欲しいものだ。
うちの学生さんの中に、ジムのインストラクターかなにかをやってた学生がいて、「だいじょうぶっすか」とか心配してくれるので、「ストレッチかなんか教えてよう」と言うと、「だめだめ、痛いうちはストレッチなんかしたらだめ、動かさないのが一番です、痛いほうを上にして横になってること!」とか教えてくれたので、週末はなるべく横になって過ごそう。

ところで、その「読みたかった本」というのが、何冊もの「ハックス」本で、痛い痛いといいつつ、電車の中で読む用にそれだけは持って歩いて読んでいた。本の中ではバリバリと仕事をやる話が書いてあって、こちらはイテテと言いつつ手ぶらで授業におもむき最小限の仕事しかできてないところは対比の妙というやつである。ただ、かばんをひとまわり小ぶりに買い換えて、紙資料を電子化し、小型パソコンを新調して、身軽で効率的な仕事ライフを組み立てつつあったのが、じつは手ぶらで学校に行ってもなんとかなる(そもそも資料もパソコンも学校の研究室にあるわけだし)ことがわかってしまった、というのは、ライフハックの新機軸だという気もする。まぁ、荒療治が過ぎるのでかんべんして欲しかったなあとは思うのだけれど。


 


10月28日。たべて寝てくらす日々。

このところおとなしく過ごしていたので、ぎっくり腰のほうはだいたいなおってきた。まだ無理な動きはできないにせよ、だいたい日常に支障なく動くようになった。おとなしくしていたら治ってくる、というのは、自然治癒力の不思議を見るようである。
それとは別に、同時平行的に、風邪気味だった。このところきゅうに寒くなったので、体が対応しなかったというのもあるだろう。で、ここ数年、風邪は薬をのまずに治す派なので、このたびも、定番のあんかけ蕎麦なんかを食べながら、首周りにタオルを巻いて早めに寝たりする日々である。
まぁそれでも、持ち帰りの宿題というのはあるわけで、締め切りに追われつつそんなのをやっていたらぽっぽっぽっと熱が出てくる感じがあり頭がぼんやりとしてきたりしていた。
それでも、週末に外出せずに大人しくしていて、平日も早めに寝たりしていたら、風邪のほうもゆっくり通り過ぎて行ったような気がする。

微熱でぼんやりしつつふとんにはまって、つんどく状態の映画をみる。成瀬巳喜男の録画したのがたまってるのでどれにしようということで、こういうときに『浮雲』を見るとはまるだろうなあとおもいつつ、それは見てしまってるので未見の『流れる』を選んで、柳橋の芸者置屋の山田五十鈴なんかがゆっくりと時代から取り残されていくのを見たりする。
週末には、なぜかAmazonから一冊だけ届いた『孤独のグルメ』(久住昌之&谷口ジロー)なんかをやはりふとんにはまってぱらぱらと読みながら昼間からうとうとしたりする。目がさめたら雨がやんでいて夕方になっていて窓の外に大きな半円の虹がかかっていてベランダに見に出たりする。


 


11月14日。寒くなってきた。

季節の変わり目があっというまだということなのか、しばらく腰を痛めたり風邪を引いたりしてそれで仕事以外の外出が億劫になってすっかり引きこもっていたら、いつのまにやらずいぶん寒くなってきた。これからだんだん冬になっていくのだ。昔は、晩秋から冬にかけての季節は結構好きなほうだったのだけれど、なんかもうそういう気持ちにもなってこないところをみると、年のせいで人間が正直になってきたのかもしれない。
もっとも、いまの下宿にはこたつがないので、こたつを買ったら冬が好きになるかもしれなくて、意外とそういう形而下的なところに理由があるのかもしれないとも思う。

ドキュメントスキャナを購入したりGTD関連の本を読んだりして、仕事の作業環境の効率化をはかろうなどと思い立ったタイミングが奇しくもぎっくり腰とかさなって、研究室の片付けなどさっぱりすすまないわけなのだけれど、それはもうまったくもって腰が痛くなりさえしなければいまごろ研究室はぴかぴかのはずなのだがいかんせん腰が痛くなったものでしょうがないという事情なのだけれど、それでも腰が治ってくるにつれ、わずかずつ片付けを進行させようと、いう気力が少しぐらいでてこなくもない。かもしれない。さしあたり、共同研究室の隅のほうに埋もれ気味に置いてあった大型シュレッダーを移動して、給湯室に設置した。この給湯室というのが奇しくも私の研究室の向かいにあるわけで、いちばん便利になったのは私なのである。なので、空いた時間なんかに、研究室の机の上のよくわかんない古い紙とかをなるべくなにもかんがえずにせっせと給湯室にもっていってはシュレッダーにかけたりしている。
ほんとは、ガウディの聖堂みたいな形に積みあがっている本の山がかたづかないと埒が明かないわけで、だから大きな本棚をいくつか入れないと解決がつかないとわかっているのだけれど、そこにいたるまでには果てしない道のりがありそうだ。前の春休みにいちど気持ちがもりあがっていたのだけれど、いそがしさにまぎれて(そうそう、春休みは毎日会議だったのだ)そのうちうやむやになってしまったわけで、こんどいつもりあがるかはわからない。(ていうかいついそがしくなくなるのだ?)

...so always look for the silver lining, and try to find the sunny side of life...というわけで、よい話。
せんだって、amazonをへらへらと覗いていたら、パーカーのヴァーヴ録音のコンプリートセットが出ていたので注文して、届いた。10枚組みのCDが、LPぐらいのサイズの特製の箱に入っている。封は切っていない。これで、サヴォイ、ダイアル、ヴァーヴの録音がコンプリートで揃ったことになって、ようやく所有できたぞ、という喜びがある。じつはどれも封は切ってない。たぶん、いざ聴いてみたら、別テイクがずらずら並んでいてもそう突然おもしろいというものではない(そういうのをLPでちょっと持ってたりするのでわかるのだけれど)。いま、こういうあわただしい日々を送っていては、とても聴けない。いつの日か、これをゆっくり聴くことができるといい。

あいもかわらずあわあわとビジネス書を読んで、「チームビルディング」とかいう本の参考文献に挙げられていた本の、著者名を見ていたら、「?」という気がしてきて、調べてみたら、エスノメソドロジー周辺の人みたいなのだ。ここ何年かそういう論文を書いていて、生涯教育とかビジネス書的な研修とかファシリテーションとかはそのまんまエスノメソドロジーで見ることができるし面白いのだと思っていたのだけれど、なぁんだ、やはりちゃんとつながってるっていうかストライクどまんなかなんじゃん、と、ちょっと脱力した。なにしろ、エスノメソドロジストだと思っていた人たちが、コンサルタント会社を立ち上げてガシガシやって、ビジネスコンサル本なんかを書いて、それが翻訳されて日本でビジネス書としてけっこう売れてるようなんである。いままで気がつかなかったのがうかつといえばうかつ、というか端的に不勉強、なのだけれど、うかつで不勉強なわりにストライクを投げ込んではいたんだけどなあ、やれやれ、という脱力。


 


12月2日。このところなにをしていたか。

どうも例によってあわただしくすごしていたようなのだけれど、ふしぎなことに、なにがあったとかどうだったかとか、あまり思い出せないのだ。
ひとつには、このところ、次年度以降の大変そうな役回りというのがあれこれ決まって、たいへんそうだなあと思いつつ過ごしている、というのがある。よく仕事ができるのを買われて任された、ということではないので、自分に何ができるという気もしてこなくて、なんだか大変そうだなあというかんじなのだ。
もうひとつには、まぁ上のことと連動しているのだけれど、ビジネス書なんかをまたたてつづけに読んでいるので、そうするとああいうのは、タイムマネジメントをしっかりやって、こまかい空き時間に小さな片づけ仕事を効率よく入れていくべしといった発想が基本のところにあるものばかりなので、またじっさいにそういうビジネス書じたいが非常に読みやすく通勤電車の中とかちょっとしたスキマ時間に細切れにちょっとずつ読み片付けていくのにちょうどいいふうに書かれている(たぶんまたそういうふうにして書き進められた文章なのだが)ので、じっさいのいま現在の自分自身がそれらの本に書かれているほどbusyであるわけではないだろう(大学の教員はなんやかんやいって仕事や時間の裁量なんかもかなり自由になっているはずで・・・)にもかかわらず、精神的な基本姿勢がビジネス書化しているんじゃないか、というふしがある。
そうすると、まぁへんないいかただけれど、「現実」が未来に限局されてきたようなかんじがするのだ。
ビジネス書は、読んで面白いのは、「この文章に書いてあることを役立てて自分がどうするか?」というところにあるので、いわば、未来に現実化することから逆算する姿勢で本を読んで、またその姿勢で身の回りの仕事や生活を見回しながら暮らすことになる。そりゃまぁ建設的でけっこうなことではあるのだけれど、しかし、そんな建設現場で暮らすような毎日よりは、やはり自分的には、あれやこれやの好きな本を読み返したり、本から本へと読み散らかしたり、音楽を聴いたり映画を見たり(その他その他・・・)、うたかたのごとき日々を暮らしているほうが、しょうにあってる気はするし、研究ということでいっても、自分にあったものが書けるような気がする。文豪生活・・・


 


12月15日。斬る。

先日自宅に購入したドキュメントスキャナなのであるが、会議書類などをデータ化するというのは、今のところ続いている。分厚い教授会資料でも、ホチキスを外してから多少さばいて紙送りをしやすくしておいて、それからスキャナにセットしたら、みるみるうちにデータ化してくれる。それですっきりするので、きぶんがいいのだけれど、いかんせん、書類が少なすぎるような気がなんとなくしてきて要注意である。教授会が月一回なのがものたりなくて、毎週教授会をして欲しい気がするけれどそれはおそらく錯覚である。
じつは、このスキャナを薦めてくださった先生は、ご自身では、会議資料のみならずさまざまな紙媒体資料をのきなみPDF化しているのだ、ということで、自分でふだんなにかの折にちょっと紙切れに書いたメモ書きとか、学会なんかで入手した配布レジュメなんかはもちろんのこと、あげく、本を電子化するために裁断も辞さないところまでいっておられるようなのである。電子化すると、物理的空間的な場所ふさぎがなくなるというメリットばかりではなく、パソコンの中でファイルとして整理できてしかも文書の内容まである程度の検索が可能になってくるので、便利になるという理屈で、それはなるほどそうなのだ。少なくとも、それを現実にやっておられるのを見せていただいたので、驚嘆するよりなかったわけである。

まぁしかし、さすがに、本を裁断するというふんぎりまではつかないのだけれど、発想として、「本なり何なりの形態として完成されているものを、裁断したり変形したりしてもいいのだ、使うのは情報なのだ」というアイディアは、眼からウロコという気がした。わたくしはどちらかというと、なににつけてもフェティシズムの強い性格なので、そういう発想はそれだけで新鮮なのだ。

それで、12月で手帳の新しいのを買わないといけない時期で、文房具屋さんに行って店頭に並んでいる、使い慣れた型の、種も仕掛けもない安い手帳(見開きで1週間になってるダイアリー)を買ったのだけれど、とりあえず別冊のアドレス帳は使ったためしがないので外して、それから、全国JR路線図とか度量衡のなんとかかんとかとか、そういうおまけのページをまとめてカッターナイフで切り落としてみた。なんか気分がいい。薄くなったぶん、何かもっと単純に役に立つものをはさめるなあと思っている。いまのところ、大学の日程表と大小の付箋ぐらいしか思いついてないけれど。

そうそう、某日、コーナンにおもむき、懸案の、共同研究室用の業務用掃除機と、個人研究室用の本棚につかうラック棚を発注して、それが大学に届いた。
掃除機のほうはちょっと動かしてみたが、大きさの割りにチャチであまり吸い込まない感じがするのは、やはり破格に安かったからだろう。でも、たぶん使えなくはないのでいいことにする。卒論提出最終日が過ぎたら、共同研究室で本格的に使ってみよう。
ラック棚のほうは、たぶん戸外に置く用のスチール組み立て式の180×90×30、かなんかのサイズの6段のやつである。4つ買った。これも卒論期間が終わったら組み立てて、個人研究室のほうに一気に入れて、山積みになっている本を一挙に並べてやろうと思っている。
個人研究室は、就職して以来、たぶん10年以上、本や資料やあとわけのわからない紙束の類が増殖しつつ今に至るので、それをこのさいいっきょに整理して、捨てるものはばっさりとリストラしてしまうといいと思う。

会議だの校務だのばかりで、かなんですねえ、というのが挨拶のようになっているので、思い立って、学内でやっている研究会(これも、先生方が皆さんご多忙で休止状態にある)のメーリングリストをひさびさに使ってみた。そうしたら、ほかの先生方も同じような思いでいらしたらしく、学内で、研究会をやる時間はなくても、ちょっとした研究のおしゃべりをできる機会ができるといいですねえ、やりましょう、みたいなことになりそうになってきた。これはよい知らせである。来年に向けて、たのしみがひとつできた。
自分としては、お昼休みの時間に「ランチ会」をやる、ぐらいのイメージを考えている。学内の、言語学や民俗学や宗教学の先生がたと、研究方面のおしゃべりをするちょっとした機会をもてれば、ずいぶんいい。そういうノウハウができたら、学内にはなにせいろいろな分野の研究者の先生方がわんさかいらっしゃるので、個人的にいくのは気が引けても、研究会ベースでそういう先生方をまじえてお話を伺いつつランチ、というのなら意外と気軽にできたりしてとか思ったりして、そうなると学校はずいぶん楽しいと思う。そうそう、ちなみに、その研究会の首謀者が、件の、スキャナであらゆる文書のPDF化を進めておられる先生である。いま、もうれつにお忙しいご様子なのだけれど、いつか、本の解体ショーを見せていただきながらランチ会ができるとおもしろいしいろいろな意味で刺激にもなるなあとか。


 


12月24日。ハッピークリスマス。

去年のクリスマスは原稿を書いて過ごしていたし、一昨年もおなじくだったので、今年、大きな原稿の〆切を抱えないで過ごすクリスマスは、なんだか気の抜けたような気分である。連休でもあるし、ぼんやりとすごせるのはぜいたくなことである。

さいしょのころの『ちびまる子ちゃん』で、クリスマスの話があり、なにしろ家のクリスマスがさっぱりなのでまるちゃんが、「もっとクリスマスらしくしようよー!」とぐずり、父ヒロシが「クリスマスらしくするってなんだぁ?」とか言うのである。わかる。初期の『ちびまる子ちゃん』はこういうかんじでよかった。アニメになる前の話なのだが、いまとなっては、アニメになる前のまるちゃんなどほんの一瞬のことになってしまっているのだろう。さくらももこは自分と世代が近くて、だから、この世代のふつうの地方都市のふつうの家の子どもの感覚が、なんとなくわかる気がするし、たとえば『ちびまる子ちゃん』は第一回からあからさまに『サザエさん』を参照してスタートしているのだけれど、『サザエさん』 − しかもこれはあきらかにテレビの日曜6時半の − が表現している近代家族(都市の新中間層の、ぜつみょうに家父長制的構造をまぬがれたスマートな二世帯同居サラリーマン家庭で、東芝の最新の電化製品がさりげなく揃っているような)との距離の意識が出発点にあるのも、実感としてなんとなくわかる。「家族の55年体制」(落合恵美子)が1955−75年だとすると、まるちゃんはちょうどそのおわりのころの話で、『サザエさん』は、一方で都会のなんだかんだいって規範的でスマートな、すなわち「モダン」な、近代家族のモデルとして、地方都市のふつうの家の子からすれば「うちはなんであんなふうではないんだろう」という感覚の地平となっていたわけだし、もう一方では、近代家族が、というよりむしろ家族の物語をふくむ物語一般の社会的機能ぶりが、メディアとの関係において失調をはじめるのがたぶんそのころで、それをポストモダンと呼ぶ人は呼ぶし呼ばなくても別にかまわないし呼ばないほうがむしろいいぐらいかもしれないのだけれど、ともあれ、日曜日の夕方に茶の間で全国民が見るテレビ番組として、規範的でスマートな家族のモデルが提示されそれが感覚の地平を構成する、という「モダン」の体制そのものが、「旧い」ものになっていくのである。この二重の距離感が、『ちびまる子ちゃん』の出発点なのだけれど、いまの学生さんたちにはそういう感覚が実感としてわからないだろうなあとは思う(ついでにいうと、学会誌で以前、まるちゃんを引き合いに出した論文が掲載されていたけれど、その筆者の人も、若い方だったんで、世代的に、そういう感覚は持っていなかったんじゃないかなぁと想像するし、じつはその論文の元になった学会発表のときに、びみょうなかんじで質問してみたんだけれど、うまくつうじなかったみたいだった。へんなことを思い出したものだ)。
ともあれ、「クリスマスらしくしようよー」である。クリスマスがくるたびに、律儀に毎年、この『ちびまる子ちゃん』の一場面を思い出す。不思議なものだ。以前、『教育現象の社会学』(竹内洋・徳岡秀雄編、世界思想社(1995))の中で岩見先生が、若者のクリスマス・カルチャーについての論文をかいておられた(岩見和彦「現代青年文化と物語消費」)が、1993年の学生に調査して書かれたこの論文は、クリスマスの「物語消費の呪縛」を描き出しているのだけれど、それはちょうど、バブルの中で青年期を過ごした人たちのドキュメントになっているだろう。この人たちは私より少し下の世代だけれど、なんとなくそのバブル感というのは共有している気がする。いわば、「クリスマスらしくしようよー」と言い続け(言わされ続け?)た世代だ、ということもできる。

へんなことを思い出したものだ。

まぁそういうわけで、メリークリスマスということで。

And so, I'm offering this simple phrase
To kids from one to ninety-two
Although its been said Many times, many ways
Merry Christmas to You!



 


1月1日。賀正。

あけましておめでとうございます。
ことしもまたよい一年になりますように。
みのりある一年を。
みなさんにとっても。私にとっても。