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1月1日。賀正。

あけましておめでとうございます。
ことしもまたよい一年になりますように。
みのりある一年を。
みなさんにとっても。私にとっても。


 


1月17日。お茶漬けの味。

元日から早々におなかを壊して、正月三が日はきっちり寝ていた。ほとんどカーテンも開けない感じで、というのは、さほどの重病でもなかったのではあるけれど、風邪っぽくもあり、寒波だということなので、するつもりだった帰省をやめて、ということは冷蔵庫にもあまり食べ物もなく、まぁ餅は買ってあったので薄いお雑煮とか、あとは食パンとかヨーグルトだけ食べていた感じで、まぁおなかを壊していたのでどうせあれこれ食べられるものでもないし、近所のスーパーの初売りはまだ先だし、不貞寝でもしているよりなかったのだ。テレビも、向田邦子ドラマを今年はやってなかったので、お正月らしいかんじはさっぱりなかった。さえないお正月であったわけだ。
まぁしかしそうやっておとなしくしていれば、おなかを壊していたのもよくなってきて、それはいいのだけれど、そうなると冬休みの宿題がいくつかあって、やはり引きこもり生活ではあった。そうこうしているうちに七草がゆ、で、仕事始め、ということで、あわただしいものである。
で、授業が始まって一巡すると、もう、1月のはんぶんが過ぎたことになる。そういうわけで、一年の最初の半月というのはほんとうにあっというまに過ぎるかんじなのだ。

おなかを壊すと、食べ物関連のエッセイを読んで暮らすことになる。大河内昭爾『アンチグルメ読本』『粗食派の饗宴』とか引っ張り出して、なんどもくりかえし読んでいる。そうすると、おいしそうなので、自分が食べる必要などないのではないかという気になってくる。どうせ自分などが食べても、現実の自分が現実のものを食べたら現実なりでしかないので。
とはいえ、おなかが回復の兆しを見せてくると、やはり何か食べようかという気になってくるわけだし、お正月明けで近所のスーパーが開きはじめたら、やはり買い物に行くわけで、餅や食パンやヨーグルト以外に何か食べるものを買ってくることになる。
それでまぁ、ふしぎなことに、なにがたべたかったかというと、このたびは、つぼ漬けとか柴漬けとかそういうおつけもので、お茶漬けが食べたかった、というのは、愛読する食べ物エッセイにお茶漬けの話が出てくるわけで、さらに『粗食派』の表紙がお茶漬けで湯気が出ているわけだし、また向田邦子の、つぼ漬けの思い出の話とか読んで、それが食べたいと思うことになるわけなので。で、スーパーで、そのへんのお漬物の、どうせ安い大量生産のやつを、買ってきて、お茶漬けを何杯も食べた。

なので、今年の七草がゆは、つぼ漬けのきゅうりとか高菜漬けとかそういうのを入れて7草、だった。まぁおいしかったけど。妙にお茶漬けっぽい味の七草がゆではあった。


 


1月31日。このところなにをやっていたか。

授業期間が終わるこの時期は、例年、あわただしいようなポカンとしたようなへんな感じなのだ。
センター試験の業務をぶじに終わり、それから年末年始の宿題のひとつだった学内紀要の書評原稿をなんとか提出した。このふたつがぶじ済んだことで、ずいぶんプレッシャーが解消された気がする。
いまは、卒論の口頭試問をやったり試験の採点をしたりという時期。

下宿のプリンタが壊れたので、買い換えた。モノクロレーザーの個人むけのやつが安くなっていることを知って、購入。いまのところ、わるくない感じである。
ランニングコストが比較的低くて印刷が比較的高速なので、場合によっては授業の配布プリントを人数分、下宿で自分で作ってしまうことができるかもしれない、事前に版下を作成して印刷室に早めに入稿しておく、という以外のオプションも可能かもしれない、と思ったりする。もともとそれ目的で、下宿にリソグラフの小さいのが欲しいなあと思っていた部分もある(下宿の勉強部屋を仕事用のオフィス仕様にしたら気分よく仕事できるだろうとか、もうずっと、そうさね、就職して以来10年以上、とかそのぐらい)のだけれど、このプリンタで意外とその願望の何割かが満たされるような気もする。よい買い物だったかも。

「ほぼ日」で糸井重里が先日、「今年は1月が長い気がする」みたいに書いていて、そうかな、と思う。天気のせいかもしれない。先日ようやく、少しだけ雪がちらちらしたけれど、あんまり真冬というかんじがしないので、ちょうしがくるっているのかもしれない。先日などは、夕方、春のようにぽかぽかとしていたので、「このまま春にならないかなあ」とかいいつつ歩いていたのだけれど、まぁ、そうもいかないわね。

てなことを書いて、それから、なんとなくこの時期の過去ログを見ていたら、なんだか毎年にたようなことをぼやいているのだった。年末年始にお腹を壊しただの虫歯だので吉田健一の食味随筆を読んでいた、だの、1月の日程が中途半端で真空状態にいるようだ、だとか、春のように暖かいとか、急に寒くなったとか、原稿を書いたとかセンター試験の業務がプレッシャーだったとか、どうだのこうだの。ちょっと判で押したようだったのでわれながらあきれた。まぁしかし、そういうものなのだろう。
何年か前は、通勤にはMDを持ち歩いていて、そこにはパフィーさんが入っていて来る日も来る日も聴いていた。またその関連で、渚ゆう子の「京都慕情」の入った廉価版CDを買ってきてこれまた繰り返し聴いていたのだが、いまは、MDよりはデジタルプレーヤーを持ち歩いていて、その中には、じつはまだパフィーさんも入っているのだけれど、最近は、山本リンダが大ヒット絶賛ヘビーローテーション中だ。
まぁ、渚ゆう子と山本リンダの違いぐらいの違いが、ここ数年の変化だといっても差し支えなかろうと思う。


 


2月13日。ふたたびみいだされた一日。

例年のごとくに、会議に入試に成績点けに卒論発表会、と、そわそわと日々を過ごしつつなんだか気がつけば2月も半ばなわけである。それでも、今年は、なにやら手帳をいじくってみたり、なにかスケジュール&タスク管理術的なものをあれこれ読んだり試してみたりしている効果がでたのであろうか、卒論を読むのとか、試験やレポートの答案に点をつける作業がなんとはなしにスムーズにこなせて、なんと、成績入力が〆切日の前日に完了してしまったのである。そこで、例年なら答案の山と名簿とパソコンの画面と時計とを見比べながら転記作業をやっているような〆切当日が、なんとなしに朝からぽっかりと開放感のある一日になったわけである。この時期には研究室紀要の論文をまとめないといけない。そのための勉強をしたりしていた。読まないといけない本を読んだり。ぽっかりと1日、というのはよい気分である。

とはいえ、スケジュール管理に関しては、いまは試行錯誤状態にあって、過渡期的なんだと思うけれど、手帳だのパソコンのカレンダーソフトだのオンラインのスケジュール管理サービスだのなんだので、5つぐらい並行して転記したりして使っているので、先日も笑われたところである。ここ数年、手帳とパソコンのカレンダーソフトを平行して使っていたのだけれど、大学の行事予定(公開講座や就職支援講座などなど)なんかはGoogleカレンダーに入れておけばリマインダメールも送ってくれるし研究室HPのコンテンツにもなるなあ、とか、職場のグループウエアのスケジュール管理機能は、日単位、週単位、月単位で表示ができるので便利だなあとか、それにプラスして、一週間のスケジュールを書き込めるA4の紙を作って、週はじめにそこに授業や会議や〆切やタスク(時間見積り)を書き込んでおくと、仕事時間と空き時間がビジュアルでわかって、タスク処理の段取りがつけやすいなあとか、あれこれやってるのである。まぁ、飽きた順に自然に脱落していくだろうから、もう少し試してみようと思う。

某日、学内研究会でごいっしょしている、というかその学内研究会がなかなか開催できないですねえ、と、某委員会の会議でごいっしょしてはぼやくのがこのニ年ばかりのきまりになっている先生の研究室に、おじゃまして、スキャナや本棚の話とか言語学や科学論の話とか、いろいろ、うかがっておもしろかった。
その学内研究会のMLでも、ランチ会とかもう少し手軽なかんじでやればいいですねえとかやりとりしているところなわけで、やはり研究会というと発表の準備がとかそういうことになるけれどそのへんをもう少し、楽にできないか、というふうに相談しているところ。それが、ひょんなことで、具体例ができてしまったのはおもしろい。

研究室運営のほうでも、新しいことを始めることになって、うまくいけばなかなかおもしろくなりそうである。


 


2月28日。ワークプレイスの再編成。

某日。学校に用事がないので下宿に引きこもっていようと思っていたら、メールが一通とどいて、どうやら研究室に行かなければ片付かない5分程度の用事が発生した。それで、めずらしくジーパンで出かける。ついでにえいやっと研究室の整理をしようという魂胆である。
冬休み前に、コーナンでスチール棚を4台買っていて、それを組み立ててうまく設置すれば、山をなしている本が整理できるはずだ。就職してから11年目が終わろうとしている。そのあいだにいろいろなものがごちゃごちゃと溜まってしまい、身動きの取れない状態になっていたのだけれど、それを片付けてしまえば、無駄なデッドスペースがなくなって、スチール棚が4つぐらいはいる、という計算である。
さしあたり、さいしょの1台を、ある日の会議終わりの夕方から組み立ててみた。それで、1台組み立てるのに40分ぐらいかかるなあとか、片付かない研究室の狭い空間の中でどのぐらいの広さがあれば組み立てられるかとか、1台組み立てればどのぐらいの本が片付くかとか、いちおう見当がついたところでその日はおそくなったので切り上げた(こういう、ちょっとだけ取り掛かってみる、ということを最近やるようになり、それによって、作業全体の見通しのために時間や手間の見積もりをできるようになってきたかも)。
そんなこんなでジーパン着用、作業する気満々の格好で研究室に行き、5分程度の用事というのをさっさと片付けてから、作業に取り掛かった。

エスノメソドロジーの勉強が、このところはかばかしく進んではいないのだけれど、関心のありようとしては、ワークプレイスの研究、などというのは面白そうだと思う。
相互行為研究、というと、行為者Aと行為者Bがやりとりをして、みたいなイメージがあるかもしれないけれど、そういうのじゃなくてもけっこう使いでのある研究法として、しかじかの活動がおこなわれているときに、協働している参与者どうしだけでなく、作業対象とか作業環境とかもふくめた間でのインタラクションをていねいに見ていく、というかんじのやりかたがある。インタラクションっていうか、ワークプレイスの環境世界の中でどのようにゲシュタルトが間主観的・間身体的に組織化されているか、というかんじ。パソコンのキーボードを打つとき、指先からキーボードまで、身体は延長している。ていうか、画面の動きがちょっとモタついたり、ハードディスクが「くっくっ」と音を立てたりとかそういうちょっとした「感触」によってパソコンの調子が「手に取るように」わかったりする(ぎゃくに、「パソコンが使えない人」っていうのは、マニュアルどうこう以前のもんだいとして、こういう「感触」レベルでの了解可能性が成立してないってのがあるようにみえる。そういえば昔そういうことを書いた気もする)。道具までぜんぶ込みでゲシュタルトが組織されていて、しかもそれが社会的文脈の中で、社会的文脈をいろいろな次元に埋め込んだ形で、編み上げられている、それをていねいに描き出していく、というのは、おもしろそうだし、つかえそうなのだ。

ま、そういう関心からすれば、研究室の空間などというのは、私の身体の延長なわけで、11年間かけてゆっくり堆積した資料だかゴミだかも含めて、私の活動にとっての自然なゲシュタルトが形成されているわけで、せまっくるしい動線をえがく活動というのは客観的には不自由なようではあるものの、少なくともある程度まで、本人的にはそれなりに居心地のよい巣穴のような場所になっていたのだ。ある程度まで、というのは、さすがに限度を超えれば、わけのわからない堆積物によって押しつぶされてしまって心地よいどころではなくなる、といういみ。でもそのときは、自分の身体の延長であるところの空間に大ナタを振るわなければならないわけで、たいへんなわけだし、そうやって整理を決行するプロセスを見ていくと、そこにいかなるゲシュタルトが形成されていたのかも見えるだろうし、あらたに配置しなおされた空間に向けて身体がどのように触手をのばしていきゲシュタルトを再組織していくのか、というのも見えてくるだろう。
とかいいつつ、ここに部屋掃除の詳細を記述していく気合はないので、結論だけ言うと、ジーンズ着用で奮闘してスチール棚を2台組み立て、いままで本棚につかっていたカラーボックスを組み直して、堆積していた本と資料とゴミの山をあっちへやったりこっちへやったりしながら、新しい棚配置の目処をつけるところまで行ってから、遅くなったので切り上げて帰宅。
さらに某日、午前中に会議があって午後があいていたので、もともとあった大き目のスチール戸棚を動かし、スチールのロッカーも動かし、残りのスチール棚1台を組み立てて、だいたい頭の中で計画しつつある配置ができあがってきた。
まだまだ捨てなければならないものがたくさんたくさんあり、部屋はひっくり返っている状態だし、本だって暫定的に本棚に突っ込んでいるだけで、整理もへったくれもない状態ではあるのだけれど、大物の什器の配置がたぶんこれでいけるとなったので、ずいぶん見通しができた気分である。

いままでしばらく、うずたかく堆積していた本の山を本棚に入れてみたら、読みたい本があれこれ出てきた。そりゃそうだ、読みたいから買ったはずだから。これからしばらく、本の整理をしながら消化していくたのしみというのができそうだ。


 


3月13日。もう春ということで。

研究室紀要の版下を印刷会社のかたにわたしてしまい、今年もなんとか一段落である。

自分の書いたものに関しては、今年もまた釈然としない。しかし、全然釈然としなくてうんざりきていた時に、通勤電車で、学内で研究会でごいっしょしている先生と喋っていてその論文のネタについて聞いていただき、面白がっていただいたので、ちょっとやるきが出てきて、かなりなげやりだったものを、なんとか見直して手を入れたりできた。けっきょくまだまだ納得には程遠いままになってしまいはしたのだけれど、アイディアを書き留めるということにはなったんじゃないかな。
で、その先生が言語学の先生で、その学内の研究会が、言語学や民俗学や人類学や哲学の先生方といっしょにやっているので、このたびの論文はそういうかんじになっている。つまり、言語学や民俗学を自分ができているというわけではなくて、でも、言語学の先生からもインスパイアされ、民俗学や哲学・宗教学の先生からもインスパイアされ、というかんじ。出来上がったものはともかくとして、少なくとも自分が書いているときには、そういう感じで書いていたと思う。ひつじ書房の本とか読んだり、『しぐさの世界』とか読んだり。

研究室の整理をしていたら、学生時代に卒論のために買った本とかが目に付いたので、それを読み返したりしている。『しぐさの世界』なんかはそういうことでもある。卒論はシクレルの「認知社会学」と社会化論、というかんじだったのだけれど、シクレルの議論の中には(なんちゃって)生成文法のはなしなんかも出てきたりして、しかもエスノメソドロジーであり、そういう文脈では身体技法みたいな話も出てきてそうなると人類学みたいなこともたしか参照されていたし、しかも「ミクロ=マクロ統合するぞ」という(いまにしてみれば問いの立て方を間違っているにせよ)意欲もあり、よくもわるくも非エレガントでおもしろかったのだ。自分自身も、学部時代はなにせ教育心理学の授業もかなり受けて、臨床心理もだけれど実験心理とか認知心理とかの雰囲気もあったりしてその中で、自分は社会学をやるんだけど、という立ち位置でいたわけだし。それでなぜかしら、その時期に買った認知科学とか、生成文法とか、人類学とか、そういう本のラインナップが、いま、学内の研究会の先生がたのおはなしへの手掛かりにふたたびなっているかんじなのである。
東大出版会の『コレクション認知科学』のシリーズの新装版が出たりしたタイミングも、自分が研究室の掃除をしはじめたタイミングも、ちょっと休止状態だった学内の研究会が動き始めたタイミングも、なんか合っている。そういうことから、なんかちょっと勉強しようかなという気になる。

去年は、3月にほんとうに毎日会議があったのでたいへんだったのだけれど、今年は春休みふうの時期がちょっとできたようだ。よかった。決然たる意志を以ってこころ穏やかにのんびりすごそう。


 


4月3日。新学期がはじまった。

春休みが終わって、新学期がはじまった。ことしは、まがりなりにも春休みらしいものがあり、実家にも顔を出したりしたし、まぁ、そのへんで多少の気散じはできたので、新学期も比較的フレッシュな気分で迎えられる。と思う。

個人研究室の整理も、まぁ、あるていどまでできて、部屋が広くなったような気分にはなっている。まぁ、これは生来の性格で、反完全主義というか、物事が完成に近づくとそれ以上すすみたくなくなるヘキがあるので、片付けも工程7割ぐらいでとまっているのだけれど。まぁ、いちどひっくり返った状態までいったところから、普通にゼミができるぐらいには戻ったので、いいことにする。

先日、うちの専攻研究室では、着任以来ずっとお世話になっていた教授が定年退職されて、退職記念講義とあわせて専攻合同同窓会パーティーをやった。そうしたら、卒業生が全国から集まってくれて、とてもよい時間が持てた。
その前日にあった卒業式とあわせて、とてもよかった。よい学生生活だった、と言ってもらえると、教師みょうりにつきるんである。教師らしいことをしてないくせに、ということであるが。

今年度は担任学年のクラスが4回生なので、ちょっと感慨もある。もう3順目の担任で(つまり、着任して1回生クラスを受け持って以来、担任クラスを2度卒業させ、3度目を来春に卒業させて合計12年間、という計算)、さすがに慣れてきたとはいえ、やはり。あと1年間、充実して過ごそう。

新入生も、ことしもなんかおもしろそうな子たちが入ってきてくれて、たのしみである。この人たちとはあと4年間ですな。

それでもって、退職された先生の後任の先生が入ってこられて、若いかたなのだけれど、はやくもたのもしい雰囲気でこれも楽しみなかぎり。
自分が着任したときにしていただいたようなことが自分にもできればよいのだけれど。そんでもって、メンバーが入れ替わると必然的にチームも新しくなっていくことになるのだけれど、どんどんといろんなことをやってけるようにしていきたいものである。
今日、1回生さんたちのオリエンテーションの挨拶のときに、「いろんなことをおもろがってやりましょう」とかなんとか言ったのだけれど、それはもちろん自分に対しても言ってることなのだった。


 


4月17日。授業がはじまるとやはりくたびれる/スピーカー/おいしい豆ごはん。

あれあれというまに授業も第2週。やはり新学期のはじめは通常営業のペースに慣れないでくたびれる。今年の時間割は、授業のない日とある日の差がはっきりしていて、そこに会議とか行事とかもろもろの用事とかが入ることになっている。授業のある日には朝イチから4コマ連続で授業が入っているのだけれど、そのあとに会議があってそのあとに新しい先生の歓迎会などあったりしたらさすがにくたびれた。
まぁ、4月は行事などで授業がなくなることもあるので、いまのうちにじょじょにペースをつくっていくことである。

某日、PC用の小さなスピーカーを買う。せいぜい5せんえんぐらいのもので、まぁ、寝床の枕元に置いておいてポータブルCDとかつないだら寝る前に音楽でも聴けるかな、という程度に思っていたのだけれど、音を鳴らしてみたら、高音がすっきり出る。まぁ、ちゃんとしたオーディオのスピーカーではないので安っぽい音ということなのだろうけれど、腹の立つことに、いま使っているオーディオより好きな音が出る。というのはつまり、安っぽかろうがなんだろうが高音がすっきり出るのが好きなのだ。まぁ、いま使っているオーディオのほうもせいぜい4まんえんぐらいのミニコンで、期待できた義理ではないのだろうけれど、しかし、5せんえん程度のPC用のスピーカーに負けてるというのはきぶんがよくない。
ていうか問題は、たぶん、自分の好きな音と、オーディオのメーカーさんの考える正しいいい音というのが食い違うってことなんじゃないかと思えるわけで、それは、自分が聴くジャズとかの、ドラムセットの、ハイハットのチキチキ言う音やブラッシュのサワサワいう音や、ヴァイブラフォンのマレットがポンポンじゃなくてカツンカツンと当たる音とか、サックスの息遣いのスカスカいうサブトーンがクリアに聞こえるためには高音域が曇ってたらつらいんだけれど、たぶん正しいオーディオは、弦楽器とか人間の声とかが柔らかくかつしっかり聞こえるようなあたりにチューニングされてるのではないかしらと思ったりする。それでもって、自分が学生のときのラジカセにはグラフィックイコライザーがついていて、それで勝手に問答無用に高音域と低音域だけを上げて聴いていたものだけれど(だから、むかしのヒップホップの人が大きなラジカセを肩に担いで歩いていたときにそういう音で聴いてたかんじ、ということ)、なんかさいきんのミニコンにはそういうのがついてないみたい。メーカーさんのえらい人が「これで聴け!」というチューニングで聴くしかなくて、それが気に入らなかったらどうしようもないということなのじゃないかしらと思われる。
あるいはたんに自分が高音難聴なのかもしれないけれど。
ともあれ、PC用のスピーカーにポータブルCDをつないだほうをメインのオーディオにするように、置き場所を変えたりしている。やれやれ。

豆ごはんを炊いてシラスを乗せておいしく食べる。


 


5月1日。「自由を我等に!」08年五月、みたいな。

某日。非常勤先で教育社会学の授業をやって、この時期はいつも「社会学とは何か」ということでデュルケームの話をしているのだけれど、授業が終わったあとに学生さんがやってきて、それじゃあ無責任になりませんか?と言った。社会が人間を形成し、思考させ行動させているというのであれば、何をやっても社会のせい、っていうことになりませんか?
それで、その場はたしか、別の学生さんがまた何か試験のことかなにかを質問してきてうやむやになったのだけれど、ちょっと面白かった。
このへんのはなしは、とうぜん出てくる話で、社会的決定と主体の自由がどうのこうの、とかそういう話にもなるのだけれど、べつにまぁ社会学に限った話題でもないし、たとえばキリスト教神学でもいいし量子論でもいいし、まぁマルクス主義でもいいのだけれど、決定論をめぐる議論というのは定番としてあるわけで、そのオチはというとたぶんカントあたりが出てくることになって、けっきょくは問いそのものを棚上げにすべきということになるのだろうと理解しているのだけれど、ともあれ、そういうちょっと面白い論点について、しかも非常勤先は仏教系禅宗系の大学でそこの学生さんから質問が出たのは、面白かったものだ。
キリスト教なら、この世界は神が創造したわけで、この世界に起こることは神の意思によって起こっているということになるわけで、それをそのままうけとれば、すべてが決定されているという決定論的な世界像を結ぶことになる。信仰者が迫害されるようなことがあってもそれもまた神意であって、みたいな考え方は、なるほどいかにも宗教的なかんじがするけれど、そうすると、悪人が悪事を働いたり、不信仰者が自堕落な暮らしをしたりするのも神意ってことになってしまって、そんならやりたいほうだいじゃないか、ということになるし、もういっぽうで、深く信仰に身を挺する覚悟をした者だって、べつに本人が偉いんじゃなくてたまたまその人に神意が働いただけなのだから褒める理屈もないし神様サイドからしてもその人を特に優遇して救済しないといけない義理もない、ということになるわけで、それもなんだかずいぶん張り合いのない世界像になってしまいはするのだ。それでたしかそのへんをうまいこと折り合いをつけるために、いろんな神学的議論がおこなわれることになり、たとえば神に対立する悪みたいな存在をみとめたりすると、結局、神が偉いのか悪が偉いのか、神と対等に闘っているのなら悪だってたいしたものじゃないか、という気にもなってくるわけでそうすると不穏なので異端として排除されることになる。それでそこからさきどうやってつじつまを合わせているのかは結局のところよくわからないのだけれど、結果としてキリスト教の神学がたいそう微妙なロジックを作り出しているというのはなんとなくわかる。
で、じゃあ、たとえば禅宗系の大学でその話題になると、仏教ではどうか、ということにたぶんなって、そうすると、たとえば「自然」と書いてじねん、という言葉とか、まぁ縁起とか因縁とかよくわからないけどとにかくそういう言葉が思い浮かんでくる。仏教はたぶんそういう意味では無神論的だという印象があるのだけれどどうですか。とくに禅などというのはそういう無神論的な仏教のロジックを探究するものではないですかね。
そういうことを頭に置きつつ、あらためてデュルケームの議論を考えてみると面白くないすかねえ、ここは禅の大学なので皆さんのほうがくわしいのでまた教えてくださいねえみたいなことを、次の時間に言っていたのだけれど、まぁ、デュルケームの議論を、輪廻とか解脱とかいう角度から理解するというのも、おつなものだろう。
このへんの話題は、何年か前に論文で書いたことでもあるし、じつは、1年ちょっと前に前号の研究室紀要で、映画をダシにエッセイを書く、という企画をやりかけたときに書きかけていたことでもあって、なんかおもしろいと思っている。

デュルケームというのはやはりおもしろいし、授業でずっと「社会学とは何か」ということばかり最後までその話で終始していたらずいぶんたのしいだろうとは思うのだけれど、まぁそういうわけにもいかないのだが。しかし、たぶん学生さんたちがいちばん面白がるのはじつはこの最初のデュルケームの話で、ということは、社会学はデュルケームにはじまりデュルケームでおわるみたいなことか、と思わなくもない。じっさい、ガーフィンケルの言っていることが面白いのはそれがデュルケームの読み直しだからで、社会学の終わりと始まりを画期的に反復しているからなのだと思う。

それで思い出したのだけれど、そういえば、自分がまだ学部学生で卒論を準備しているときかなにかだったと思うけれど、行為主体の自由とかそういうことを強調する理論に立って自分が何か書いたり書かなかったりすることによってこの社会が自由になったりならなかったりするわけでもないじゃん、ということに卒然と気づく瞬間があって、たしかゼミのときか何かにそういうことを言ったら何をいまさらというかんじで苦笑されたような覚えがある気もするのだけれどそれは記憶違いかもしれない。
しかし、デュルケームの話をもういちどひきつけると、デュルケームは、私たちの生が社会の中に埋め込まれて在るという、まぁ端的な指摘をしているわけで、それを自由とか決定とかいう語彙で語れば決定論ということになるけれど、それはまぁ端的な事実がそうである限りにおいて事実を言っているにすぎないわけで、それはまぁそれだけのことである。たとえば私たちの世界は物理法則によって決定されているわけで物理法則に反するようなことは起こりえない、と言ったらだれだってそうだと認めるわけで、そうすると私たちの人生も究極的には物理法則に決定されているのだと言えば言えるし、あるいは量子論によって究極的に自由が確保されたのだと言えば言えるのかもしれないけれど、まぁそんなことをことさらに云々することによって現実の自分の人生がいきなり不自由になったり、あるいは量子論が出てきてくれたおかげで人生がずいぶん自由になって助かった、などということもないわけなので、そういう究極的みたいなはなしはどっちでもかまわないように思われる。それよりも、端的に私たちは社会の中に埋め込まれているわけだから、その端的な事実をごくふつうに見ることのほうが、世のためか人のためか、自分のため、かはよくわからないけれど、まぁずいぶんましなことのように思われる。たとえばのはなし、悟ったり解脱したりとかそういうのだって、そういうことかもしれないとも思えないかな。

違う。追記が必要だ。
悟りだの解脱だのということを社会学の目的とするような言い方をしてしまうと、ピーター・バーガーになってしまう。
デュルケームは(↑上記の論文でも書いたことだけれど)、バーガーみたいにアメリカナイズされたポップ仏教のゲダーツ主義みたいなことを言わないのが偉いところで、そういうことでいえば、デュルケームの議論はキリスト教神学的であって、そこんところこそがすごいところなのである。
つまり、社会に深く捉えられることによってこそ、そのやり方に応じて、私たちは隷属状態を脱して自由になる、というわけで、だからこそ、”端的に私たちは社会の中に埋め込まれているわけだから、その端的な事実をごくふつうに見ること”が重要になってくるわけで、それは、それによってべつだん「社会による囚われ”から”解脱して自由になる」ことをいみするわけではなくて、むしろ、社会が私たちの生をどのような仕組みの中において与え、それによって私たちがどのような形で自由と不自由の可能性を受け取っているか、を知ることが目的なのだ、といえば、ちょっとましになるか。


 


5月15日。苦沙弥先生よろしくお茶でもあがれ、の巻。

ゴールデンウィークは下宿でのんびりとすごした。散歩をしたり、本を読んだり、といったかんじで。

運動不足への抵抗感を表現しようかとおもって、美容体操用の室内自転車をインターネット購入し、日々こいでいたのだけれど、半月たって効用が現われてきたかどうかというのはよくわからない。精神面でいえばいよいよ中年化してきたのだなあという自覚を得たので、それだけでも収穫かもしれない。意図せざる結果というかねじれ効果みたいなことだろう。

それ以外に、近所のスーパーで、なんか食器のお皿などを何枚か購入する。皿ぐらい買うだろう、と思えばさにあらずで、いままで20年以上、買ってなくて、ようするに大学入学で一人暮らしをはじめたときに持ってきた、当時の実家の近所の酒屋さんのくれたおまけの皿が何枚かあってそれを、なんとなく使い続けているのである。べつにそんなに割れないし。べつに皿を食べるわけじゃないし。
それでも、ちょっと思い立って皿を何枚か買ってみたら、気分が変わってわるくない。それで勢いを得て、コップとか、コーヒーを入れるのとか、なんか買ってきてみたりしているところ。
以前、コーヒーメーカーを使っていたときにあまり具合が良くなくて妙に薄いコーヒーばかり毎日飲んでいて、そのうち違いのわかるネスカフェーにけっきょく戻ってしまっていたのだけれど、まぁ、ぜんぶ手動で入れれば、練習さえすればおいしいコーヒーも飲めるようになるのではと思う。いまのところは、たぶんネスカフェーよりはちょっとおいしいぐらい。朝のトーストが楽しみなかんじで、これはよいことである。

学外でやっていた研究会が、どうも動かないので、学内の研究会のほうで勉強をしている。言語学や民俗学の先生方のお話をうかがったり論文を読んだり関連書を読んだりしているところ。それで、先日は、昼休みにちょっとランチ会でもやりつつ情報交換とかまぁおしゃべりとかしましょうか、という感じのものを試みてみた。参加者の先生の所の共同研究室で、お弁当持ち寄りで、それでお茶とお菓子ぐらいを準備していただいていて、まぁまったりとおしゃべり、みたいな。それで、せっかくなので自分的にいろいろネタを準備していったのだけれど、そうするまでもなく、ゆるいかんじで喋っていていろいろと刺激を受けることができた。また、そういうのの余波で、論文の草稿を見せていただいたり、あれやこれやの議論ができたりしている。学内の先生だと、メール上だけでなく、さほど厳格に日程調整をしなくても、隙間時間でかんたんに研究室にうかがったり廊下や通勤電車でお会いしたりしてやりとりできるので、そのへんはとてもいいかんじである。

連休が終わったら、けっこう会議とか行事とかもあって、なんだかきぜわしい。授業では「早く夏休みなんないかねー」とか、例によってちゃらっぽこを言っているのだけれど。


 


5月27日。ポストゴールデンウィーク。

おもいおこしてみれば5月の上旬はゴールデン感十分の連休だったのだが、中旬から下旬にかけては行事などでなかなか休みがない日々である。合宿をはじめとして、土日に行事がはいるのと、あと、平日で授業のない日、というのでも、なんやかやの小一時間の会議なり何なりが発生するために結局ぐだぐだとつぶれてしまう、ということになっている。今年の時間割は、授業のある日に集中して授業があり、授業のない日には授業がない、ということになっているのだけれど、このところは、授業のない日に会議があり、授業のある日は朝イチから4時間連続授業、プラス放課後は会議、みたいなことになっていて、ちょっとくたびれている。まぁそういうときもありますね。

そんななかでも、先週は、学内の研究会の流れで、先生方の進行中の研究というのを見せていただいたり、それについてお話を伺ったり、研究室におじゃましたり、自分の研究室に来ていただいたりして、とてもおもしろかった。お話そのものがおもしろかった − アカデミックな話というのは、やはり楽しいし、しゃべっていて緊張感というか、頭を回転させる感じがなんといってもいい − し、また、研究室で小一時間のおしゃべりなら簡単に時間を合わせてできる、ということがわかったのも収穫だった。
日々を気ぜわしくすごしているとついつい視野狭窄におちいってしまうのだけれど、しかしやっぱり、大学というところは面白いことに出会える可能性がたくさんある場なのだ。

今週末はこんどは専攻のソフトボール大会。5月の最終日が週末で行事。もうひとふんばり、というところですね。雨が降らないように、また、晴れすぎないように、祈るところである。じっさい、若い連中といっしょに日なたにいるだけでくたびれるおとしごろなのだ。やれやれ。


 


6月14日。梅雨ボケ日記。

夜中に、窓の外の様子に耳をすますと、「しとしと・・・しとしとしと・・・。」という音が聞こえてくるので、「雨がふっているのだな・・・。」とわかるわけなのだけれど、あれは何ですか、基本的なことかもしれないけれど、雨というのは夜のうちに降るものなんですか、朝になって目が覚めると、なんとなく雨はあがっていて、しめった曇り空を見上げて思案しながら学校に行くことになる。それで、また夜になって、学校から出ようとすると雨が降っていて、そうすると仕方ない、研究室においてある置き傘をさして帰るわけだし、あるいは外回りの日であれば、雨が降ってきたらコンビニでビニル傘を買ってさして帰るわけで、そんなことをくりかえしているうちに下宿の玄関先が傘だらけになる。このまま梅雨が続くと下宿で傘問屋が開けるようになる。

通勤電車で、朝のぼうっとした頭で窓に寄りかかっていたら目の前に田んぼが広がっていて、水を入れた田んぼがなめらかな鏡のようになっていて、そこに曇った空が映り、またちょうど小学生のときに下敷き越しに見たときのような太陽が映りこんで鈍く光っている。それで、きれいだなあと思っていたのだけれど、じきに田植えが進んで、もう鏡のようではなくなっている。

このところ通勤のときに聴いているのは、少し前に近所の中古マンガ店で並んでいたのをまとめ買いした奥田民生で、以前から持っていて一時期通勤で聴き倒していた『GOLDBLEND』とあわせてアルバム5枚分をsigneoに入れて聴いている。『30』『股旅』『GOLDBLEND』を特に気に入って繰り返すわけで、『GOLDBLEND』はビートルズで言えば『サージェントペパーズ』みたいだし、そこからいけば『30』と『股旅』は『リボルバー』『ラバーソウル』みたいだ。
それで、通勤電車の窓から田んぼを眺めながら、雨なのに何かこう過ごしやすいのはなぜ?休みが必要だ、テレビがそう言ってる、コーヒーで一息入れろと言ってる、なるほど、などという歌がいきなり聴こえてきてびっくりする。「コーヒー」という曲は、だから、「She Said She Said」だな、とか。

しかし自分のような年恰好の人間が奥田民生を聴きながら、たとえば「さすらい」とかそういうのを聴きながら通勤電車に揺られているというのは、なんとなくありがち過ぎてかっこうのいいものではない、という自覚はなくはない。
なくはないけれど、べつにもう、ありがちでもかっこうのいいものでなくても、どうでもいいような心境に至ってもいるし、あるいはそもそも自分がありがちでなくかっこうのいいものでなくなかったときなどあったのか、いやない、というような心境にも、至っているわけなのだった。

時代の閉塞感、みたいなことを言いたくもなるときがあり、それはしかし、本を読まないからなのだ。本を読めば、閉塞されてなどいないという気になる。それは、本の世界に逃避して現実を忘れるということではなくて、その反対。本の中にこそ現実が書き込んであって、現実はあらかじめ本の中で見通されているということで、現実をあらかじめ見通す力の込められていない本を本とは呼ばないのだということもふくめて、私たちが閉塞感を感じているのは本の読み方が足らないからであって、朝から晩まで同じような噂話を繰り返しているワイドショーだの新聞雑誌だの、「ネット言説」(?)だの、にそれこそ閉塞されてしまっている暇があったら、本を読むべきなのである。これは、学生さんたちにそういう種類のお説教(だいたいやね、きみたちは大学生なんだから、うんぬん・・・)を言う、というはなしでもあるけれど、それ以前に自分に言い聞かせること。



 


6月30日。今年もぶじに折り返し。

ようやく6月も乗り切れて、7月になるともう春学期の終わりが見えてくる。今年度は、時間割がどうやらもひとつフィットしてない感じもあって、調子がのらなかったってとこはある。しかしなにはともあれ、今年もぶじに折り返し、春学期ももうひとがんばりである。

今年の夏は、学校社会学研究会に参加させていただくことになった。8月の22,3日で、会場は湯河原である。文豪が執筆に行くようなところかと勝手にイメージする。発表するお題はまだふわふわとしているけれど、学校社会学研究の方法論についてとかそういうラインで。
いやあしかし、考えてみれば、自分は、方法論というのを、一方でいつも気にしつつ、他方では、根本のところでは方法論以前の感覚のほうが大事じゃんと思っているようなところがある。なんか、方法論なるものがあって、それを会得すれば一丁上がり式の論文が量産される、みたいなことであればかなわんな、という気がしている。そういう意味では、反動的な直感主義者だ。
方法論を方法論として問題にすると、なんとなく、たとえば若い人がしかじかのトレーニングで方法論を身に付ける話とか、調査研究法の授業の話とか、そういうほうに話がいきそうだし、それはそうなのだけれど、しかしたとえば白紙状態の若い人が、方法論を習って、じゃあそれを使ってみようみたいな感じで論文を書いたら、それはやはり一丁上がり式ということになりかねない気もする。
たとえば学校研究なら学校研究をするとして、たとえばある学校の現実の中に自分が放り込まれて、そこでまず素手の状態でどこに引っかかりを感じて何を見るか、というところが重要だと思うのだけれど、そのへんの、初発の直感のところがうまく方法論の話にのっかってくるだろうか?
ていうか、もちろん、そんな直感など、研究者は詩人ではないので、要求されてないかもしれないし、もちろん、直感は出発点であって、そこからはきっちりとした方法で研究を組み立てていくべきであるのだけれど。あるいは、初発の直感なるものも、方法論を知っていることによってはじめて見えてくるのです、ということになってお話はもとに戻りもするのだけれど。