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渡邉順子「瀕死の白鳥」の歩み   (2010/6/10改)

よこすか芸術劇場(2004.11.21)
撮影:ダンススクエア鈴木紳司氏


「何度踊っても納得のいかない『瀕死の白鳥』。 いつも「瀕死の白鳥」を踊るたびに思うことは『難しい』。だから常に勉強し稽古して踊ってきました。 」と、長年「瀕死の白鳥」を踊り続けてきた渡邉順子。(JUNバレエ塾HP:[手紙]より)

また「観たいと」観客が思った瞬間、踊っている本人もまた踊りたいと思うのです。 これが観客と舞台に立っているバレリーナの共同作業なのです。一人で踊っているのですが必ずそこには観客がいることを 忘れてはならないのです。 」渡邊順子は、常に、こう自分に言い聞かせて舞台に上がります。(JUNバレエ塾HP:[私がバレエから学んだこと]より)

1991年に初めて踊って以来、渡邉順子の「瀕死の白鳥」の舞台は、2010年で20回を超えています。
以下は「死に至る白鳥」の舞を、とことん追求し続ける、渡邊順子の進化の軌跡です。
  YouTubeに載っている渡邉順子の「瀕死の白鳥」の映像
       ・2010/6 ダンス神奈川フェスティバル(神奈川県立音楽堂)

注)渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂いております。無断で複写複製を禁じます。
2010年6月5日、渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、今までで最高の舞台になりました。少なくとも私はそう思いました。体調不良を気力でカバーして・・・。「私の踊りを見に来てくれた人が居る。踊らなきゃと言う気合だけで踊りました」と彼女。薬を飲み、本番直前の舞台稽古をバレエシューズで行い、トゥシューズを履いての本番は爪先で立つのがやっとだったとのこと。「本番はどんな踊りを踊ったのか覚えておらず、最後のレべランスで拍手の音が聞こえ、無事に踊り終わったんだと感じた」というほど、朦朧とした最悪の体調の中で踊った執念の「瀕死の白鳥」でした。鋭いトゥの先、まろやかな甲、スッキリ伸びた美しい肢体、細やかに滑らかに音も無く心地よく刻むブーレ、骨格を感じないほど、しなやかに波打つアームス、グッと堪えたアラベスクのバランス。そして、ほのかに漂う健康的なお色気。まさに「円熟の瀕死の白鳥」でした。 ダンサーは体が資本。年齢による体力の衰えはいかんともし難い。パリオペラ座では43歳を定年にしているくらいです。 しかし、真の芸術家は、天性の才能とたゆまぬ努力で、体力の衰えを感じさせない、燻銀のような輝きと深みが出てくるものです。彼女もそのひとり。渡邊順子は、円熟の域に入り、「おとな」の魅力が加わりました。 舞台終了後、彼女は「『来年もまた瀕死の白鳥を踊ってほしい』、『瀕死の名人になりなさい』と言うお言葉を心からうれしく感じました。」と語っていました。渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、批評家達からも、高い評価を受けたようです。彼女は新たな一歩を踏み出したのです。
渡邊順子は1991年にスラミフィ・メッセレル振付、谷桃子指導で初めて「瀕死の白鳥」を踊りました。 10年近くブランクがありましたが、2000年に再出発。以来、彼女は谷桃子の教えを忠実に守り、毎年のように「瀕死の白鳥」を踊ってきました。 そして2005年6月の屈辱、ことごとく落ち込んだ悪夢の舞台・・・。でも彼女は健気にも「『瀕死』と心中する覚悟で、死に物狂いで修行に励みます。」と再起を誓ったのです。 しかし激しい稽古による右足の古傷の悪化・・・、一時はトゥを履くことすらできないことも。それでも挫けず頑張りました。そして1ヶ月後、渡邉順子は執念の復活を果たしたのです。
「一日休むと自分に分かり、二日休むと周りに分かり、三日休むとお客様にも分かる」、「犠牲の先に夢がある」と言われるほど、バレエは過酷な芸術です。 彼女は「進化する渡邉順子を見せなければ。」と自分に言い聞かせ、日々技術を磨き、精神を鍛え、進化を続けています。渡邊順子の舞台には、いつも新鮮な輝きがあります。私は、彼女の舞台から明日への勇気を与えてもらった気持ちになるのです。 一歩一歩、技術的にも内面的にも、確かな成長を感じます。 私にとって、渡邊順子と言えば「瀕死の白鳥」、「瀕死の白鳥」と言えば渡邊順子なのです。
頑張れ、渡邉順子さん!!!  山口

本番当日は体調も悪く大変でしたが、踊るチャンスに恵まれて良かったと思いました。 10年間の下積み生活をして、晴れてバレエの世界に戻れたように思います。 20代の時は「ルスランとリュドミラ」で東北のプリマデビュー。 その後は地味な「瀕死の白鳥」と言う作品で、地味に踊り続けました。 派手な作品ではありませんから目立たない存在だったように思います。 10年踊ると日のあたらない場所で踊っていた私にも、日が当たるようになって くるものです。 8歳からバレエを習っていた時もあまり目立たない子でしたが、10年そこで踊っていると 東北のプリマデビューすることができました。 今回は神奈川県の目立たない場所で踊っていましたが、やっと横浜で 10年「瀕死の白鳥」を踊っている人がいるのだと気づかれるようになりました。 まだまだ目立たない存在ではありますがまた頑張って「瀕死の白鳥」を踊ろうと思います。  渡邉順子
 
1991年〜2010年に渡邉順子が踊った「瀕死の白鳥」から、主な舞台の感想をご紹介致します。

2010年10月
テアトルフォンテ
「プリセツカヤの『瀕死の白鳥』は最後に骨になると言う意味が分かり10年間踊り続けた瀕死の白鳥で自分自身が一番納得のいく「瀕死の白鳥」を踊りました。」と彼女。(Y's バレエコンサート)
2010年8月
いわきアリオス
栗原弥生先生から指導を受けて友情出演。(アンジュエ・クラッシックバレエ第1回勉強会)
2010年6月
神奈川県立音楽堂
直前の舞台稽古はトゥシューズを履けず、ぶっつけ本番のトゥシューズという、最悪の体調。「本番はどんな踊りを踊ったのかまったく覚えていない。最後のレべランスで拍手の音が聞こえ無事に踊り終わったと感じた」というほど、朦朧とした限界の状態での舞台。 でも「来年もまた『瀕死の白鳥』を踊って欲しい、『瀕死の名人になりなさい』」と言う言葉を批評家から引き出した最高の「瀕死の白鳥」でした。
2008年10月
テアトルフォンテ
コンテの呼吸法を使い、白鳥の生から死にいたる瞬間を表現したいと思います。」。渡邉順子はトップバッター。数十の演目の先陣の責任は重い。プレッシャーと戦いながら踊り抜いた彼女。しなやかに波打つ腕、まろやかなカーブの甲、優雅なアラベスク・・・。そして折れんばかりに「くの字」に反らせた背中。思わず生唾を飲み込みました。「自分でも満足できる舞台」と彼女。
2008年4月
神奈川県民ホール
開演前「古傷の足を痛めましたが、今までにない心地良さの中で踊れると思います。今回の渡邉順子の瀕死は、感謝の気持で踊りを表現できると思います。」と言っていた彼女。 終演直後、私のすぐ後ろの席から、「素敵だわ!!!」という、溜め息のような女性の声。私は自分のことのように嬉しくなりました。
2007年8月
故郷・宮城県民会館
6月末からバレエに集中できなかった」、仙台に向かう新幹線からくれた不安に満ちたメール。故郷の先輩や友人の前での踊り。2005年6月の悪夢が頭をよぎったのでしょう・・・。渡邉順子は頑張りました。ラスト、息も絶え絶えでしばらく立ち上がれませんでした。わき上がる拍手にハッと我に返った彼女。汗まみれの背中、大きく波打つ胸・・・。笑顔が戻って・・・、思わず胸にジーンと来ました。
2007年4月
神奈川県民ホール
何時になく緊張気味の彼女。「『瀕死の白鳥』は、最初から最後まで自分だけが頼り。大きく深呼吸して踊ります。」 と舞台に飛び出していきました。踊り終わって「今回の『瀕死の白鳥』で初めて歓喜の死を味わいことができました。」と。 大きく波打つ胸、汗にまみれた背中・・・、心臓の鼓動が聞こえるよう・・・。胸がジーンと熱くなりました。
2007年2月
目黒パーシモンホール
開演前「目黒のレベルは高い。観客の眼は厳しい。頑張って頑張って・・・、最後には観客が応援したくなる『瀕死』を踊ります。」と言っていた彼女。 力尽きた瀕死の白鳥が、最後の力を振り絞ってもう一度立ち上がり、もがき苦しみ、再び倒れ込んでしまう・・・。「『刺激ある舞台』でした。また目黒で踊りたいと思います!!!。」と彼女。背中には汗が光り、息を切らせての迫真の演技でした。
2006年10月
よこすか芸術劇場
一皮むけて、天界に近づき今までとは違う光りがキラキラ輝いてきた「瀕死」だったと思います。」と渡邉順子。 細やかなブーレと繊細な指先の動きに伴った、ふんわりと全身から自然に滲み出たような、ふくよかで健康的な「お色気」を醸し出していました。
2005年7月
関内ホール
前回は不本意な舞台。復活を賭けた渡邉順子の挑戦でした。脚の痛みを堪えて、順子は頑張りました。踊り終わった時の彼女の言葉、「主人の感想は『お前は脚が痛いほうが上手く踊れるんじゃない!!』でした」。ご主人も褒めた大成功の「瀕死」、見事な復活でした。
2005年6月
八王子いちょうホール
渡邉順子11回目の「瀕死」。彼女にとっては初めて味わった屈辱感。試練の「瀕死」だったようです。本当に本番が終わった日は落ち込んでいました。「アラベスクもアチチードも決めれなくて、見るからに下手な踊りです。 この「瀕死」は私にとって貴重な体験になりました。これからも「瀕死」を踊りぬく覚悟で、修行に励みます。」と渡邉順子は再起を誓いました。
2004年11月
よこすか芸術劇場
表面的でない奥深い美しさ。渡邉順子10回目の「瀕死」のステージです。「ここに辿りつくまでの道のりは長かった。10回目の「瀕死」を踊り終わってからの私はやっと卵の殻を破れたと言う気分になりました。 やっと自分の道が開けた思いがします。」と渡邉順子。彼女の集大成とも言える「瀕死」です。
2004年9月
関内ホール
観客が『悔いのない人生を生きたい』と思えるような舞を踊りたい。そのためにはどうすればいいのか。日々・・・考え・悩みました。」と渡邉順子。関内ホール、怪我を克服してのステージ。感動でした。
2002年8月
グリーンホール相模大野
渡邉順子の『新鮮な瀕死』。「足で『瀕死の白鳥』を表現してみたいと思います。足に注目して下さい。今回の瀕死は」。 挑戦し、成長するダンサーは美しい。
2001年12月
鎌倉芸術館小ホール
流れる様に踊ると言うのではなく、ポーズを決める。流れの中に、止まる一瞬をつくり出す」。渡邉順子が精魂込めて踊った「瀕死」。胸が熱くなりました。白鳥が立とう立とうとしながらついに息絶えてしまう、この表現がなんとも言えません。
2000年4月
鎌倉芸術館大ホール
『瀕死の白鳥』を踊った事は何か大きな運命だった様に思うのです」。突如巡ってきた「瀕死の白鳥」を踊るチャンス。 渡邉順子の「瀕死の白鳥」の始まりでした。
1991年12月
仙台市イズミティ21
谷桃子の指導を受けた、故S.メッセレル女史振付の「瀕死の白鳥」。「『お前は生徒じゃない。プロとして生きていくんでしょ』と叱咤され、無我夢中でした」と渡邉順子。 プロへの夢に胸を膨らませた、1羽の若い白鳥の羽ばたきでした。

注)渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂いております。無断で複写複製を禁じます。

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