1921年 (大正10年) 3月 Kronstadt rebellion クロンシュタット反乱 マフノ運動 エミリアーノ・サパタ |
帝政ロシアを打倒したロシア革命のあと、ボリシェヴィキが権力を簒奪、独裁化していった。その戦時共産主義政策に対して | ||||||
国民の不満は鬱積していた。1921年2月、ペトログラードで工場労働者のストライキが発生、拡大していった。 | ||||||
政治犯の釈放、配給量の平等などを要求する15項目の決議を採択した。 | ||||||
ボリシェヴィキ政権は、この民主化要求運動を反革命であるとして弾圧。一方、戦時共産主義から新経済政策(NEP)へ転換した。 | ||||||
鎮圧にあたる軍事人民委員最高軍事会議議長はトロツキーだった。赤軍側は4000人以上の戦傷者を出した。 | ||||||
抗命、逃亡する赤軍兵士も処刑された。反乱側の死傷者の数は不明、鎮圧後2103人が死刑の判決、6459人が投獄され | ||||||
8000人の反乱軍兵士がフィンランドへ亡命したとされる。 / クロンシュタット・ソヴィエト水兵・労働者の要請行動 | ||||||
ボリシェヴィキの独裁化はさらに進行し、他の革命諸派を弾圧、トロツキーも亡命先で暗殺された。 | ||||||
この反対派狩りは、際限なく進行し、スターリンの 大粛清 に至る。 / クロンシュタット・コミューン | ||||||
クロンシュタット座標: 59.991339,29.772520 Googlemap | ||||||
大きな地図を表示 openstreetmap | ||||||
英語版Wikipedia(Kronstadt rebellion )では、 赤軍 対 ソビエト バルチック艦隊水兵、クロンシュタット要塞水兵、市民の | ||||||
戦闘は、第一次攻勢での兵力、クロンシュタット側11000人、赤軍側10073人。 第二次攻勢での兵力、クロンシュタット側 | ||||||
17961人、赤軍側25000〜30000人。第二次攻勢での赤軍側の戦死、527人から1412人。 | ||||||
クロンシュタット側の戦死1000人、1200から2168人処刑となっているが、軍事裁判の死刑判決を免れた者も、創設された | ||||||
"ソロフキ強制収容所 "に送られ、そこで殺害された。 | ||||||
ソロヴェツキー強制収容所- Google 検索 / レーニンの大量殺人総合データ / グラーグ ソ連集中収容所の歴史 / | ||||||
戦時共産主義 は、1918年6月、最高国民経済会議によって実施され、 食糧徴発、内戦、大規模な旱魃による食糧不足で | ||||||
300万〜1000万人が死亡した。このため、、ストライキや農民蜂起が頻発した。 | ||||||
1920年夏から21年夏にかけてタンボフ県で、大規模な反ソビエト農民反乱、 タンボフ反乱 が起った。 | ||||||
この反乱は、旧ソ連の歴史学では、単純な反革命として、この反乱の指導者、社会革命党(エスエル)党員、 | ||||||
アレクサンドル・アントーノフ の名前をとってアントノフの乱と呼ばれてきた。 | ||||||
タンボフ県は中央農業地帯のリャザン県,ボルガ中流域のカザン県,ペンザ県とならんで十月革命以前から農民運動の | ||||||
盛んな地域であり,また内戦を通じてきびしい穀物徴発の行われた地域の一つである。 | ||||||
1921年には、クロンシュタットの反乱が発生した、 クロンシュタットの水兵は、ロシア革命の主力の一つであった。 | ||||||
1921年3月、戦時共産主義は、ネップ (新経済政策)へと政策転換されることになる。 レーニンの死後、1928年の | ||||||
第一次五ヶ年計画においてスターリンは、ネップへ否定的評価を下し、農業の主体はコルホーズに移行していった。 | ||||||
1921年3月〜22年末、「ネップ」後のロシア革命勢力弾圧継続・強化 / チェーカー / | ||||||
レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通 / 「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令 / | ||||||
ミハイル・トゥハチェフスキー - Wiki / ( タンボフ反乱、クロンシュタット反乱鎮圧の直接の指揮を執った。) | ||||||
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令 / タンボフ反乱 では、農民達へ毒ガスが使用された。 | ||||||
秘密警察『チェカ』創設とその後の歩み」 / トゥハチェフスキー も大粛清で粛清された。 | ||||||
Tambov Rebellion / 52.724649,41.430817 (タンボフ) / クロンシュタット反乱 / クロンシュタット叛乱 / | ||||||
Kronstadt Tourist Map / Kronstadt (goldman) / Voline, The Unknown Revolution / | ||||||
サンクトペテルブルクはカスピ海、ヴォルガからのバルト海への出口であり、 ロシア帝国の首都であった。 | ||||||
第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はレニングラードと 改名された。 | ||||||
ソ連崩壊を受けて1991年に現在の名称に戻った。 1918年、ボリシェヴィキ政府は、首都機能をモスクワへ移転。 | ||||||
1922年、モスクワを首都として定めた。 | ||||||
クロンシュタットはサンクトペテルブルクから北西約32km、フィンランド湾に浮かぶ島に位置する都市であり、 | ||||||
バルト海艦隊の軍港であった。二次大戦後ソビエト海軍の主力は原子力潜水艦に移行し、これらは北極海および極東に | ||||||
配備され、バルト海艦隊の軍事的重要性は相対的に低下した。 | ||||||
サンクトペテルブルク - Google 検索 / ペトログラード - Google 検索 / タタールのくびき - Wiki / | ||||||
ピョトール・クロポトキンの死 1921年 2月8日 | ||||||
1921年2月8日、ピョトール・クロポトキン肺炎で死去。享年78才 / Peter Kropotkin - Wiki | ||||||
1921年2月13日、モスクワでクロポトキンの葬儀。「権威があるところ、自由はない」と書かれた反ボリシェヴィキの | ||||||
スローガンの横断幕を持った葬儀の隊列は、数マイルにわたって続いた。 / Death And Funeral Of Peter Kropotkin | ||||||
Anarchism in Russia - Wiki / 941夜『神もなく主人もなく』ダニエル・ゲラン編 | 松岡正剛の千夜千冊 | ||||||
Wikipedia Commons:Kropotkin circa 1900 | ||||||
バクーニン Bakunin, 1814年5月30日 - 1876年7月1日 / Mikhail Bakunin Reference Archive / | ||||||
トルストイ Tolstoy, 1828年9月9日 - 1910年11月20日 / トルストイ運動 / | ||||||
クロポトキン Kropotkin,1842年12月9日 - 1921年2月8日 / | ||||||
List of Russian anarchists - Wiki / List of anarchist organizations - Wiki / History of anarchism - Wiki / | ||||||
クロポトキン の葬儀で弔辞を述べるエマ=ゴールドマン | ||||||
ボリシェヴィキ政府は、ピョトール=クロポトキンの絶大な人望を口実とした 反ボリシェヴィキの示威行動に対する | ||||||
公然たる弾圧を控えた。その翌月、クロンシュタットの反乱が発生した。 | ||||||
クロンシュタット反乱 1921年 ( 大正10年 ) 3月7日〜17日 | ||||||
1921年3月1日、モスクワ放送は、クロンシュタットの異議申し立てに対して、パリに総司令部を置く社会革命党による | ||||||
ソヴェト権力に対する叛乱であると非難。 | ||||||
1921年3月2日、クロンシュタット臨時革命委員会は、市内の要所を占領、国営施設、参謀本部、電信電話局を接収。 | ||||||
市内の赤軍部隊も合流した。 | ||||||
1921年3月7日、ボリシェヴィキ政府は、クロンシュタットへ攻撃を開始した。 | ||||||
1921年3月17日、終日、市街戦が続き、堡塁が次々陥落していった。戦闘は翌朝まで続いた。 | ||||||
一部生存者は凍結した海を渡ってフィンランドへ亡命した。氷上にも累々と戦死者の遺体があった。 | ||||||
クロンシュタットの反乱 - Wiki / Kronstadt rebellion - Wiki / Kronstadt rebellion - Google 検索 / | ||||||
クロンシュタット・ソヴィエト水兵・労働者の要請行動 / クロンシュタット・ソヴィエト水兵・労働者の要請行動 / | ||||||
クロンシュタット1921 / クロンシュタット叛乱 / クロンシュタットの反乱 / クロンシュタット反乱 / | ||||||
髑髏の黒旗は、海賊旗として知られるが海賊の登録商標ではない。 戦艦ペトロパブロフスクの水兵が持つ髑髏の黒旗。 | ||||||
書かれている文字は"ブルジョアジーに死を" / Third Russian Revolution NationMaster - Encyclopedia | ||||||
ロシアの農奴制 - Wiki / 19世紀 - Wiki / ロシア帝国の歴史(大改革と革命の胎動) - Wiki / | ||||||
ペトロパブロフスク (戦艦・2代) - Wiki / セバストーポリ (戦艦) - Wiki / Berkman on the Kronstadt Rebellion / | ||||||
The Third Revolution Freedom Press / Kronstadt rebellion - Wiki / 第一インターナショナル - Wiki / | ||||||
kronstadt rebellion animal farm - Google 検索 / 17th March 1921 − the Kronstadt Tragedy / | ||||||
animal farm - Google 検索 / Kronstadt Izvestia / | ||||||
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クロンシュタット側の氷結した海上の堡塁 | ||||||
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The Kronstadt uprising of 1921 - Ida Mett / 2. Petrograd on the Eve of Kronstadt / | ||||||
6. Demoralisation in the Red Army / 9. Kronstadt: Last Upsurge of the Soviets / | ||||||
クロンシュタット イズベスチヤ Kronstadt Izvestia | ||||||
革命水兵委員会、クロンシュタットの町の労働者、兵士は、『イズヴェスチヤ』の印刷所を占領。 | ||||||
1921年3月3日から3月16日まで『臨時革命委員会イズヴェスチヤ』を発行した。 | ||||||
Kronstadt Izvestia / | ||||||
3月3日 / 3月4日 / 3月5日 / 3月6日 / 3月7日 / 3月8日 / 3月9日 / | ||||||
3月10日 / 3月11日 / 3月12日 / 3月13日 / 3月14日 / 3月15日 / 3月16日 / | ||||||
この当時は、日本でも赤旗事件に見られるように社会主義者は主に赤旗を使用していた。 | ||||||
ボリシェヴィキの冷血、極悪非道が公然化して行くにつれ、彼らが党旗とした赤旗を避け、 | ||||||
黒旗を用いるようになっていった。 | ||||||
The black flag of Anarchism-crwflags / The Circle-A Symbol of Anarchism-crwflags / | ||||||
タンボフ反乱 Tambov Rebellion 1920年〜1921年 | ||||||
1920年夏から21年夏にかけて、モスクワの南東300マイル、 タンボフ県( 現在のタンボフサハリン州と | ||||||
ヴォロネジサハリン州の一部 )で、ボルシェビキ政権に対する大規模な農民反乱、 タンボフ反乱 が起った。 | ||||||
反乱の指導者の一人が、社会革命党員アレクサンダーアントノフだったため、ソ連の歴史の中では、 | ||||||
アントノフシナ(Antonovschina)と呼ばれてきた。ボルシェビキ政権はタンボフの農民反乱に毒ガスを使用した。 | ||||||
鎮圧の指揮を執ったのは、ミハイル・トゥハチェフスキー だった。トゥハチェフスキーも大粛正で粛正された。 | ||||||
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令 / | ||||||
Tambov_Rebellion / File:Tambover Aufstand.png - Wiki / Veteran Director Back With Rebellion Film / | ||||||
ANTONOV UPRISING [TAMBOV REBELLION] / ボリシェヴィキ権力とロシア農民(タムボフ反乱) / | ||||||
Peasant uprisings / Anti-Bolshevik_movement -wiki / | ||||||
ANTONOV UPRISING [TAMBOV REBELLION] - Google 検索 / Tambov Rebellion - Wiki / | ||||||
タンボフ州タンボフ | ||||||
タンボフ座標:
52.716667,41.416667
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赤軍による農民の処刑。これはロシア映画でタンボフ反乱を扱った1シーン。 | ||||||
2011年製作のロシア映画、Жила-была одна баба ( 昔々一人の女性がいました)。 | ||||||
1909年から1921年にかけての一人のロシア農民女性の物語。この映画は、2012年にロシア映画芸術科学アカデミーの | ||||||
映画賞 「ニカ賞」 最優秀作品を受賞した。 / Once Upon a Time There Lived a Simple Woman - Wiki | ||||||
Тамбовское восстание— Циклопедия / Бунты, мятежи и восстания в СССР — LiveJournal / | ||||||
タンボフとウクライナの位置 | ||||||
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ボリシェヴィキは、工場労働者を重視し農民を軽視した。農民を重視したのは、中国共産党毛沢東派であった。 | ||||||
しかし、その毛沢東も大躍進政策で推計2,000万人から5,000万人の餓死者を出した。 / 毛沢東の大飢饉 - Google 検索 | ||||||
マフノの農民運動 1918年〜1921年 ウクライナ | ||||||
大正7年から大正10年 | ||||||
独裁化するボリシェヴィキにウクライナの農民運動が抵抗したが、マフノ・パルチザンは撃破された。 | ||||||
1919年から1920年にかけて穀倉地帯ウクライナの支配を巡って、 マフノの(農民パルチザン軍)黒軍と、 | ||||||
反革命白軍、ボリシェヴィキ赤軍、が争った。都市の工場労働者を重視し農民を軽視したボリシェヴィキは、 | ||||||
マフノのパルチザン軍がデニーキンの白衛軍を撃破した後のウクライナへ進攻、1920年冬、パルチザン軍は | ||||||
敗れ、マフノはパリに亡命した。 | ||||||
マフノ運動の中心地であったウクライナ南東部のロシア帝国の県の1つ。 エカテリノスラフ県 。 | ||||||
現在のウクライナのドニプロペトロウシク州、ドネツィク州、ザポリージャ州の領域に相当。 | ||||||
ウクライナ地図 | ||||||
48.406006,35.090332 | ||||||
File:Ekatirinislavsk.jpg - Wiki / Yekaterinoslav Governorate - Wiki / 地図で見るウクライナ : CNN.co.jp | ||||||
マフノ叛乱軍史−ロシア革命と農民戦争 / ロシア・アナキズム運動におけるマフノ運動の位置づけ / | ||||||
ウクライナの闘争−マフノ運動 / マフノ運動とボリシェヴィキと政権の関係 / the Death of Nestor Makhno / | ||||||
社会革命党 - Wiki / メンシェヴィキ - Wiki / ボリシェヴィキ - Wiki / Anarchism in Ukraine - Wiki / | ||||||
緑軍 - Wiki / ウクライナ革命蜂起軍 - Wiki / Nestor Makhno - Wiki / ウクライナ独立戦争 - Wiki / | ||||||
Revolutionary Insurrectionary Army of Ukraine / Free Territory / Makhno (goldman) / | ||||||
Nestor Makhno memorial coin issued by Ukrainian central bank / | ||||||
マフノの農民運動が掲げた髑髏の黒旗。 / File:RPAU flag.svg - Wikimedia Commons | ||||||
Flag of the Free Territory with its motto, "Death to all who stand in the way of freedom for a working people!" | ||||||
アナーキストとボルシェヴィキの結合分離 / リアルワールドのキャプテンハーロック - ネストル・マフノの戦い / | ||||||
Anarchism and the History of the Black Flag / Anarchist symbolism - Wiki / Ukraine - Historical Flags | ||||||
The Nestor Makhno Archive / Nestor Makhno - Anarcopedia / Emiliano Zapata - Anarcopedia / | ||||||
ウクライナのフリー・テリトリー ( マフノフシナ ) 1918年〜1921年 | ||||||
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マフノの農民運動によって、1918年から1921年までの間ウクライナに存在した、自由主義的自治地区。 | ||||||
ネストル・マフノの名を取ってマフノフシナ とも呼ばれる。 / Free Territory - Wiki | ||||||
Makhnovism - Wiki / Revolutionary Insurrectionary Army of Ukraine - Wiki / | ||||||
マフノ運動参照図 | ||||||
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石川三四郎 著『マフノの農民運動』(復刻版) 群馬 黒戦社 版 | ||||||
円形部分がマフノ運動の根拠地、その外周の囲みが勢力圏 / From Lenin to Stalin | ||||||
ウクライナ人民共和国 | ||||||
1917年11月22日から1920年11月10日まで、ウクライナに存在した反ボリシェヴィキ国家。 | ||||||
1918年4月29日から12月14日の間はドイツの傀儡国家、ウクライナ国となった。 このとき、一部が離脱、 | ||||||
マフノの農民軍に合流した。その後、クライナ人民共和国が復活。共和国の崩壊後は、多くが白軍に入った。 | ||||||
ウクライナ人民共和国 - Wiki / ウクライナ人民共和国軍 - Wiki / | ||||||
1917年12月25日から1918年3月19日の間、ボリシェヴィキによって同名の"ウクライナ人民共和国"が建てられた。 | ||||||
ウクライナ大飢饉 1932年〜1933年 ホロドモール ( Holodomor ) | ||||||
1932年から33年、ウクライナで600〜1450万人の餓死者を出した大飢饉があった。 | ||||||
スターリンの ウクライナ民族絶滅政策によりもたらされたものであった。 | ||||||
ウクライナ大飢饉 - Google 検索 / 「スターリニズムの犠牲」の規模 / ウクライナ大飢饉の真相 / | ||||||
チェルノブイリ 1986年4月26日 | ||||||
チェルノブイリ - Google 検索 / Chernobyl Nuclear Power Plant / | ||||||
ウクライナ/キエフ州/プリピャチ loc : 51.389444,30.098889 | ||||||
ウクライナとベラルーシの人口変動 チェルノブイリ事故の影響、特にセシウム137 その① / | ||||||
メギドとチェルノブイリを見る ( チェルノブイリ、マヤーク、セミパラチンスク ) / | ||||||
ロシア革命 | ||||||
前史 | ||||||
ステンカ=ラージンの乱( 1670 - 1671 ) / | ||||||
ナロードニキ誕生までのロシア社会運動史 / | ||||||
ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムの交差時代 / ナロードニキ - Wiki / ナロードニキ 1860年代 | ||||||
「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史 / 人民の意志 - Wiki / 1879年年人民の意志 結成 | ||||||
ロシアは、大帝国ではあったが、産業革命による世界の構造変化の波に乗り遅れていた。 | ||||||
ロシア社会の後進性に危機感を抱いた青年貴族による革命運動は失敗。西欧に亡命した者が最新の革命思想に接した。 | ||||||
少数の貴族が膨大な農奴を支配する社会にも工業化は浸透し、工場労働者階級が現れ、下層労働者、下級兵士という | ||||||
階級が育っていった。 | ||||||
1864年、第一インターナショナル 結成 (ロンドン) | ||||||
1871年、バクーニン、スイスでジュラ連合(Jura Federation )を結成、マルクス派の総評議会専制を非難 | ||||||
1872年のハーグ大会でマルクス派はバクーニンを除名、第一インターナショナルはここで消滅した。 | ||||||
1872年、Anarchist St. Imier International サン・ティミエ (スイス) でバクーニン派のインター会議を開催 | ||||||
1889年、第二インターナショナル 結成 〜1914年 1920年プロレタリア独裁に反対して再結成、第二次大戦により消滅。 | ||||||
1898年、マルクス主義政党 ロシア社会民主労働党 結成 | ||||||
1902年 社会革命党 及び戦闘団 ( SR Combat Organization ) 結成 | ||||||
1903年、 ロシア社会民主労働党 第二回党大会で左(ボリシェヴィキ) と 右(メンシェヴィキ )に分裂 | ||||||
1904年〜1905年、日露戦争 | ||||||
ロシア革命 | ||||||
【ロシア第一革命】 1905年 (明治38年) | ||||||
1905年に発生。"血の日曜日事件 "を発端とするロシアの革命。"戦艦ポチョムキンの叛乱 "もこの時。 | ||||||
皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、革命運動の鎮静化に成功した。 | ||||||
1914年〜1918年 第一次世界大戦 | ||||||
【ロシア第二革命】 1917年 (大正6年) 二月革命と十月革命 | ||||||
第一次世界大戦中の1917年にロシア帝国で起きた2度の革命。 | ||||||
ロシアでは、1918年2月14日のグレゴリオ暦導入まで、ユリウス暦が使用されており、"二月革命"、"十月革命"は | ||||||
グレゴリオ暦では三月、十一月である。 / Summer 1917-Spring 1919 Black_Guards | ||||||
二月革命 メンシェヴィキが主導 (ロシア第二革命) | ||||||
1917年2月23日、ペトログラードでの食料配給の改善を求めるデモに対して発砲。これに対して兵の一部が反乱を開始。 | ||||||
他の連隊も続々、反乱に同調した。ソヴィエトはメンシェヴィキの主導で結成された。( 二月革命 ) | ||||||
"二月革命"の段階では、結成された労兵ソヴィエトにおいて、ボリシェヴィキは少数派であった。 | ||||||
4月に亡命地から帰国したレーニンは"全ての権力をソヴィエトへ"という四月テーゼを発表した、しかし、7月には、 | ||||||
このスローガンを放棄、武装蜂起による、臨時政府との二重権力の解消、権力奪取を主張した。 | ||||||
ペトログラード・ソヴィエトは軍事革命委員会を設置。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の | ||||||
構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。 | ||||||
Left Socialist Revolutionaries - Wiki / 社会革命党左派(左翼エスエル)、ボリシェヴィキへの対応を巡って分裂 | ||||||
十月革命 社会革命党左派と、ボリシェヴィキとの共闘 (ロシア第二革命) | ||||||
10月24日、臨時政府は反撃を試みたが、軍事革命委員会はこれを鎮圧。ペトログラードの要所を制圧した。( 十月革命 ) | ||||||
モスクワでも、軍事革命委員会が設立され、11月、ソヴィエト権力の樹立を宣言した。 | ||||||
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、左翼社会革命党として独立した。 | ||||||
そして左翼社会革命党と、ボリシェヴィキとの連立政府が成立した。 / 飢餓の革命 ロシア十月革命と農民 | ||||||
ボリシェヴィキのクーデター ボリシェヴィキによる革命の簒奪 | ||||||
1917年11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40%で410議席を獲得、第一党となり、ボリシェヴィキは | ||||||
得票率24%で175議席であった。 1918年1月の、憲法制定議会は社会革命党が主導し、ボリシェヴィキの | ||||||
決議案を否決したが、翌日、ボリシェヴィキの人民委員会議は憲法制定議会を解散させた。( ボリシェヴィキのクーデター ) | ||||||
赤色テロル ボリシェヴィキによる恐怖政治 / ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918〜23) | ||||||
1918年8月、左翼社会革命党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こしたとして、政府は"赤色テロル "を宣言、 | ||||||
秘密警察 チェーカー は裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。メンシェヴィキと社会革命党は | ||||||
完全に弾圧 追放され、ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となった。 | ||||||
1918年〜1921年、ウクライナにマフノ農民軍による解放区。解放区の最大時人口 700万人。 | ||||||
1919年、第三インターナショナル( コミンテルン )結成 〜1943年 ボリシェヴィキのインターナショナル | ||||||
1919年、ボリシェヴィキは"共産党"と改称した | ||||||
1920年〜1921年、 タンボフ農民反乱 / 「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令 | ||||||
戦時共産主義政策 300万〜1000万人が死亡 圧政者ボリシェヴィキ | ||||||
ボリシェヴィキ政府は、内戦と外国の干渉戦を口実に 戦時共産主義政策をとり、このために300万〜1000万人が | ||||||
死亡した。 1920年夏から21年夏にかけてタンボフ県で、大規模な反ソビエト農民反乱、 タンボフ反乱 が起った。 | ||||||
ボリシェヴィキ政府は、タンボフの農民に毒ガスを使用した。農民反乱、工場労働者のストが頻発していた。 | ||||||
1920年冬、マフノ農民軍敗北。 / ウクライナの闘争−マフノ運動 | ||||||
クロンシュタットの反乱 1921年3月 ( ロシア第三革命 ) | ||||||
1921年3月 クロンシュタットの反乱は、"全てのを権力をソヴィエトへ"としたロシア革命の原点に戻ろう | ||||||
としたロシア第三革命であった。このクロンシュタットの反乱をきっかけにボリシェヴィキ政府は、戦時共産主義政策を | ||||||
やめ、新経済政策(NEP)へ転換した。 ボリシェヴィキの一党独裁は、ソ連邦崩壊まで続く。 | ||||||
1921年、ソロフキ諸島にソビエト連邦最初の強制収容所が開設された。 / ソロフキ収容所 - Google 検索 | ||||||
Solovki prison camp - Wiki / | ||||||
ロシア内戦の終結 | ||||||
ロシア内戦 - Wiki / ソビエト連邦 - Wiki / レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター / | ||||||
1922年12月30日、ロシア内戦は終結し、ソビエト連邦が成立した。 / 聖職者全員銃殺型社会主義(1922年のレーニン) | ||||||
1922年10月24日、イタリアでムッソリーニ「ローマ進軍」。10月30日、ファシスト党政権が成立 | ||||||
1924年1月、レーニン死去。共産党政治局内での権力闘争で、ヨシフ・スターリンが権力を掌握した。 | ||||||
トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンなどを排除、独裁者となった。 | ||||||
1933年、ドイツで国家社会主義ドイツ労働者党が政権を掌握 | ||||||
ナチス・ドイツ - Wiki / ナチ党の権力掌握 - Wiki / ファシスト党 - Wiki / ファシズム - Wiki / | ||||||
ファランヘ党 - Wiki / 国家社会主義 - Wiki / 全体主義 - Wiki / 全体主義体制 - Wiki / | ||||||
Animal Farm - Wiki / 社会ファシズム論 - Wiki / Dystopia - Wiki / スターリニズム - Wiki / | ||||||
6、二〇世紀社会主義を問う 「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証 / | ||||||
レーニンの大量殺人総合データ / 「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(1) | ||||||
「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階 レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計と根拠 / | ||||||
ソビエト連邦の画像検閲と修正 | ||||||
1920年5月5日、モスクワ、 スヴェルドロフ(Sverdlov) 広場で演説するレーニン。演壇右で正面を向いているのが | ||||||
トロツキー、その後に立っているのがカメーネフ。 この二人の写った部分は後に検閲で消された。 | ||||||
Censorship of images in the Soviet Union - Wiki / ソビエトの画像検閲 - Google 検索 / | ||||||
スターリンとレーニン | ||||||
1922年 スターリンとレーニン public domain
/ この写真には合成説もあるプロパガンダ
- Wikipedia / | ||||||
スターリンとレーニン - Google 検索 / Vladimir Lenin - Wiki / Joseph Stalin - Wiki / | ||||||
フェリックス・ジェルジンスキー- Wiki / エヴノ・アゼフ - Wiki / ボリス・サヴィンコフ - Wiki / | ||||||
メキシコ革命 エミリアーノ・サパタの髑髏の黒旗 | ||||||
1910年 (明治43年)〜1918年 (大正7年) | ||||||
サパタの黒旗 1910年〜1919年 メキシコ エミリアーノ・サパタ Emiliano Zapata Salazar | ||||||
聖母マリアと髑髏の黒旗 | ||||||
メキシコ革命 は、ラテンアメリカで最初の社会革命で1910年にはじまり、断続的に10年以上続いた。 | ||||||
前ディアス政権のもとで、メキシコの農民の99.5%が土地を失い、ペオンと呼ばれる農業労働者に転落した。 | ||||||
土地を取り戻そうとする戦いは、政府軍、大農園主や外国資本の私兵によって鎮圧された。 | ||||||
1910年、 メキシコ市の南隣モレーロス州で、エミリアーノ・サパタが蜂起、北部ではパンチョ・ビリャ、 | ||||||
パスクァル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンなどが次々と決起した。 | ||||||
内戦は、長く続き、エミリアーノ・サパタは1919年、暗殺された。 | ||||||
1923年ごろ、メキシコ全土での大規模な内戦は、ほぼ終結したが、その後も、政治の腐敗、反乱は続いた。 | ||||||
一貫して貧農の側に立ったエミリアーノ・サパタは、メキシコの国民的英雄となった。 | ||||||
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サパタ軍の旗は、聖母マリアと髑髏の黒旗だったというので、 サパティスタ関連のサイトを閲覧していたら、 | ||||||
グアダルーペの聖母と髑髏を組み合わせた画像を見つけた。 | ||||||
サパタの旗には土地と自由(TIERRA Y LIBERTAD )という文字が入っていたというので、文字も入れてみた。 | ||||||
あちこち探したが、残念ながら現物の写真はみつけられなかったが、他の資料などからも、 | ||||||
おそらくこのようなものであったろうと作成した。 2013/6/10 | ||||||
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ファイル:聖母マリアと髑髏の黒旗 2013年6月10日 Size:8KB width:300px height:200px Mime Type :gif | ||||||
メキシコの聖母マリア、グアダルーペの聖母は全て、この構図である。サパタ軍の兵士は皆、帽子にグアダルーペの | ||||||
聖母の護符を付けていた。メキシコの国民的シンボルであり、宗教的というよりは、ナショナリズムの象徴である。 | ||||||
髑髏は、メソアメリカ文明の遺産である。 | ||||||
この図を作って見たら「反抗の原初形態 」という本を思い出した。 中世に、絶望的な生活を送る民衆にとって、 | ||||||
救済の希望はキリストの再臨、千年王国の到来であった。 | ||||||
中国、白連教では弥勒世の到来である。全てが終わる、全てが変わる、地上天国が到来する。 | ||||||
義の為に死んだ者は、蘇る。失うものはない、恐れるものはない、正義が実現する。 | ||||||
20世紀になって、これに代わったものが共産主義社会の実現であった。 | ||||||
ブルジョアジーとプロレタリアートの闘争は、プロレタリアートの勝利で終息する。 | ||||||
このことは、科学的歴史発展の法則によって決定されている。 | ||||||
しかし、ソビエト連邦は崩壊した。中国はもはや周回遅れでやって来た帝国主義国家である。 | ||||||
どう名乗ろうと、全ての権威権力は腐敗すると喝破した非強権的社会主義は、 第一インターナショナル までは、 | ||||||
多数派であった。権謀術数に秀でた強権的社会主義のボリシェヴィキ に駆逐されて後は、スペイン市民革命で | ||||||
一時的にスペインの主要都市を掌握したが左右の全体主義に敗北。二次大戦後の世界で、多民族融和 反強権的 | ||||||
社会主義を実現するかに見えたユーゴスラビアは、内戦の末、分裂した。 | ||||||
なお、サパタ主義を名乗るメキシコのサパティスタ運動が非常にユニークな活動で注目されている。 | ||||||
サパティスタの旗は、黒地に赤い星である。 | ||||||
the Death of Emiliano Zapata / バルセロナを見る (スペイン市民革命) | ||||||
Santa Muerte | ||||||
本稿とは関係の薄い話になるが、メキシコ、髑髏で調べていたら、サンタ・ムエルテ(死の聖人)を見つけた。 | ||||||
白骨で長いローブをまとい、大鎌を持っていることも多い。 / santa muerte - Google 検索 | ||||||
メソアメリカの文化とカソリックの習合したもので、20世紀末までは、家庭内で密かに信仰されてきた。 | ||||||
21世紀になって公然化しメキシコ、アメリカ、中米に数百万の信者がいるとされる。 | ||||||
メキシコの最貧地区に信者が多く、キリスト、グアダルーペの聖母、聖ペテロ等の画像と並べて 露天などで | ||||||
画像、彫像が販売されている。これらの地区には、麻薬密売人などの犯罪者も多く、かれらの信仰も集めている。 | ||||||
セニョーラデラスソンブラス、セニョーラブランカ、セニョーラネグラ、 ニーナサンタなど女性形で呼ばれることも多く、 | ||||||
髑髏聖母とも呼ばれる。 カトリック教会はサンタ・ムエルテ信仰を非難している。 | ||||||
ブラックサム・ベラミーの海賊旗 | ||||||
この最も一般的な海賊旗は、18世紀初めのイギリス人の海賊、ブラックサム・ベラミー(サミュエル・ベラミー )のもの | ||||||
である。無益な殺生を好まず、「海賊のプリンス」と呼ばれた。彼ら自身を「ロビンフッドの仲間」と称した乗組員から、 | ||||||
ロビンフッドになぞらえられた。黒人の乗組員もいたが、他の乗組員との差別は一切なかった。 | ||||||
米で黒人が公民権を獲得したのは 1964年7月、アメリカ、公民権法制定。 (アフリカ系アメリカ人公民権運動 - Wiki ) | ||||||
南アでアパルトヘイト撤廃は、1994年4月、南アフリカ、アパルトヘイト撤廃。 (アパルトヘイト - 完全撤廃 - Wiki ) | ||||||
彼の船は、嵐によって遭難、沈没。28歳であった。1984年、米マサチューセッツ州ケープコッド沖で、ベラミーの | ||||||
船と見られる沈没船が発見された。残骸からは、大量の藍、象牙、金、4.5〜5トンものポンド硬貨などが回収された。 | ||||||
/ Samuel Bellamy -wiki /Pirates flags -crwflags / | ||||||
リベルタリアとジョリー・ロジャー Jolly Roger | ||||||
ジョリー・ロジャーと呼ばれる髑髏の黒旗を掲げた海賊集団内では、直接民主主義が実行され、相互扶助的な、 | ||||||
傷害保険制度があり、解放区リベルタリアが建設されたとされることや、構成員が、当時の抑圧的国家体制を | ||||||
逃れて参加しており義賊的な活動もあったなどとされることから、この旗が再評価される傾向もある。 | ||||||
これが、17〜18世紀に、"リベルタリア"が存在したのではないかとされるマダガスカル北部地図である。 | ||||||
リベルタリア推定地: -13.991430,49.482422 | ||||||
Libertalia - Wiki(es) / Libertatia Wiki(en) | ||||||
Pirate utopia - Wiki / Libertalia: The Pirate Democratic-Socialist Utopia of the 17th Century / | ||||||
Pirate Havens Madagascar / Île Sainte-Marie(サントマリー島) - Wiki / | ||||||
Austronesians | ||||||
マダガスカル島は、独特の動植物で知られているが、先住民もアフリカよりアジア系統の オーストロネシアン、 | ||||||
オーストラロイド と呼ばれる系統である。 / マダガスカル - Wiki / History of Madagascar - Wiki | ||||||
ソコトラ島を見る ( ソコトラ島、マダガスカル島 ) / | ||||||