更 新 メ モ 過 去 ロ グ
(2009/7/1 - 2009/12/31)

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アーカイヴ (2002/8-12) / (2003/1-6) / (2003/7-12) / (2004/1-6) / (2004/7-12) / (2005/1-6) / (2005/7-12) / (2006/1-6) / (2006/7-12) / (2007/1-6) / (2007/7-12) / (2008/1-6) / (2008/7-12) / (2009/1-6)


 


7月14日。このところなにをしていたのか。

気がつけば7月も半ばである。このところなにをしていたのか、といっても、とくになにをしていたということもない。春学期の授業期間がそろそろ終わりである。ただ、非常勤先のふたつの学校では、7月いっぱいまで授業があったりする。もともとがハッピーマンデーだかなんだかのせいで7月に補講が組まれたりしていた中、さらに新型インフルエンザ休講の余波もあって、しわ寄せがここにきたかんじなのだ。調子くるうところである。

このまえここに書いてから3週間もあいている。3週間あれば何かしただろう、と思うのだけれど、こう、思い出してみて、特に書くことというのが思い当たらないということはあるものだ。なまじ期間があくと、気分として、ちいさなことを書きにくくなる、というのもあるだろう。それにまぁ、本を読んだりしたのをweblogのほうにはぼちぼち書いているので、こっちに書くのとあっちに書くのとのふるい分け上、こっちに書くことがあんましない、という意味も、多少は、なくはない。
まぉ、こんなところに無駄文字を並べていることじたいがそもそもどうなのか、というのはあって、ふつうのひとはそんなことをしてないのであれば、書くことがないことによってふつうに近づいてるといえなくもない。そのぶん真面目にわきめもふらずひとなみに仕事をしたりしているとお考えいただいてさしつかえない。のだけれど、まぁねえ。


 


8月2日。「月が替わったわよ」。

春学期の授業が終わり採点をして、それではっと気がつくと8月になっている。こういうことはいままでなかった。はっと気がつくと、というぐらいなので、このまえにここに何かを書いてから半月たっているけれど、なにか書くようなことがあったのかというと、まぁ、ない。それで、ちょっと去年やその前のこの欄のログを覗いてみたら、なんか本を読んでいたとか書いてある。去年の自分をうらやんでみてもせんないこととはいえ、うらやましい。今年だって本を読んでないわけではないのだけれど、通勤電車で読むようなたぐいの本ばかりで、どうしようもない。
まだ梅雨もあけていないというのも、いっそう感覚を狂わせてくる。まぁ、「8月になっても梅雨が明けないのは何年ぶり」とか言っているけれど、梅雨明け宣言いみなし、みたいな年も結構あったような気がするのでそれじたいはどうこういうことではないと思う。しかし、ひるひなかから突然のスコールと雷になるのはかんべんしてほしい。天気予報で大気が不安定になります、とひとこと言ってただけで、いくら晴れていても外出したくなくなる。梅雨が明けてないから大気が不安定だからなるのだ、だから梅雨が明けてくれさえすればこんなぶっそうな天気はなくなるのだ、とおもいたいのだけれど、たぶん梅雨明け宣言が出ようが出まいがスコールはあるだろうなあ、と思う。なのでひきこもりと運動不足がひどくなったら天気のせいにするといいと思う。

などとぼやきつつも、月が替わると、月末締めのあれやこれやが手を離れてくれて、ようやくひといきつける。春学期を総括するとすれば、ひとことで言うとすれば、しんどかった。ひとまずオーバーホールだ。


 


8月18日。夏の帰省 / ぶらり山陰本線普通列車の旅。

今年はお盆よりびみょうに早いタイミングで帰省した。実家のほうがこっちよりか気温が何度か低いようで、概ねすずしく過ごした。ていうか例によって外出もせず高校野球ばかり見ていた。夕方はローカルのニュースなど見たり、夜は夜でNHKの、海軍が反省会をしたというのを見ていた。居間にいて暑くなってきたらクーラーをかけるわけで、まぁ涼しくのんびりとすごさせていただいたというわけだ。

それでいつまでもそうやってごろごろとしていたい気持ちを振り切ってこちらに戻ってきたのは、学生さんの実習のごあいさつの出張があったから。兵庫県の日本海側、夢千代日記の舞台が出身の学生さんが地元で実習ということで、ごあいさつに出かけた。事前にいつものようにYahooさんの路線検索で調べたら、鳥取県境の町で鳥取市が近いということで、姫路から特急スーパーはくとで鳥取市まで抜けてから兵庫に入る、というルートがよさげだった。前日泊は鳥取市でビジネスホテルをみつけることにして、実習初日の朝の電車で現地に入ってご挨拶、というつもりで、荷物を仕立てて駅に行き、みどりの窓口で切符を買おうとしたら、先の豪雨の被害でJRが不通になっていてスーパーはくとが「途中バス代替運行」になっていた。それで急遽、山陰線まわりのルートにきりかえて切符を買い、10分ほどで発車の城崎いきの特急に乗った。城崎まで特急で、そこから普通列車を乗り継いで鳥取まで。この山陰線、有名な余部の鉄橋というのを渡るのである。もともと乗り物に弱い上に高いところもダメで怖いのもダメなので非常に恐怖した。山陰線の電車は、海沿いの険しそうな地形を走っていて、旧そうなトンネルをいくつもくぐりながらだんだん視界が高くなってきて、いい感じに揺れるし、余部にいくまでにいいかげん胸がどきどきして気分がわるくなってきた。なので、じっさいの鉄橋を渡っているときには、目のずっと下に集落の家並みの屋根がならんでいるなあということと、なにか遠くの地上の看板(たぶんここから電車が見えます絶景ポイント的な)のところでおばさんたちがこちらを向いて手を振っていたということが印象にのこって、意外とあっさり鉄橋を渡りきってほっとした。それで、実習をお願いしている新温泉町役場のある浜坂の駅で乗り換え、そこを通り過ぎてあと少し、そこからはもうだいたい平地だったので、鳥取に到着したときにはようやく人心地がついていた。ビジネスホテルを探して部屋を取り、それから夕食を食べに出かけて、駅前アーケード街の定食やさん風の店で和定食という名前のついている、お刺身と鯛の煮付けに小鉢というかんじのものを頼んだけれど、煮付けの鯛になぜか焦げ目がついていたのが、いかにも焼き魚を使いまわしたとわかるしかけになっていたのだけれどそれもごあいきょうで、ビールを一本つけてまず気分よく食べた。いかにも地方都市らしく、駅前の通りにはBGMでジャズが流れていて、けっこう気分よく、ホテルの部屋に備え付けの有線BGMもジャズで、なんかけっこう気分よく寝た。
それで、朝の電車であらためて新温泉町に向かい、なんとか無事ごあいさつできた。学生さんがどういうところで実習させていただくのかを実際に見て、しっかりと受け入れ態勢を作っていただいているのを見てこちらとしてもとても心強い。
それでもって、ごあいさつが終わったらあとは帰路につくのだけれど、駅で見たら次の電車が一時間ぐらいあとなので、町をぶらぶらしてみる。それで、しばらくぶらぶらしてから駅前の案内図を見たら、海が近そうだったので、あと30分ほどで海を見れたら見てみようと思い立つ。それでどんどん歩いて、途中で引き返そうかと思いつつやはり歩いていたら、急に目の前に入り江になった海が見えた。それでかなりもりあがって、せっかくなので小さな砂浜を歩いて、ちょっとだけ海の水に触ってから引き返した。電車にはなんとか間に合って、前日の夕方とは違い日中は観光客らしき乗客が多く、余部の鉄橋ではみなが写真などとって盛り上がっていて、そこから先もまず気楽な感じで城崎までいけた。城崎で特急の切符を買ったら待ち時間がこれまた一時間ぐらいあったので、温泉街の土産物屋の並んでいるようなところをうろうろして、本屋さんの店頭に「『城崎にて』あります」みたいな貼り紙があったりするのを見たりしてた。乗り物酔いするのでこういうところでも何も食べないし、土産物などもべつに買わないのだけれど、まぁうろうろするだけでなんとなく時間がつぶれて、あとは特急電車に乗り込んで、イヤホンで音楽を聴きながら酔い止めの薬の効くのに任せてぼんやりうとうととしているうちに、なんとなく帰ってきていた。


 


9月3日。秋風 / パソコンが欲しくなってきた話。

今年の夏は結局どうだったのか? 梅雨明けが8月にずれ込んで、しかも、たぶん暑くなってくるピークあたり、お盆のころに今年はちゃんと帰省をして、実家のほうはこっちより3℃くらい涼しかったので、なんかそれでごまかしごまかし気がつけば9月で、もうなんか秋みたいである、っていうか9月だから秋ということなのだろう。空が高くすっきりと晴れているのにギラギラしたところがなくて、あれっと思うぐらいさわやかな風が吹いている。下宿の窓をぜんぶ盛大にあけていると、涼しい風がわあっと入ってきてレースのカーテンがふくらんでふわふわあっと揺れるので、いかにも秋らしい気になる。夜、明かりを消してそうやっていると、涼しいし気分いいのでいくらでもやっていたくて、戸締りができなくてついつい夜更かししてしまう。

8月の末から、学生の卒論相談やら、オープンキャンパスがあったり、会議があったり、あれこれの書類を書いたりということで、まぁ大学のお仕事は始動している。今年は夏休みらしい収穫はあったかしら、というと、なんか気がついたら9月というかんじではあるのだけれど、せめてなんらかの生活の改善に結びつくようなことがないか、みたいなことは思っている。
それで、書類書きをしていると、論文を書いているときと違って、なにやら所定の書式のエクセルやらワードやらのファイルに書き込んでいくような作業で、これが下宿のパソコンではそろそろしんどくなってきた。下宿のメインのパソコンは、2002年に購入したもので(だからこのHPのここの欄をこうしてぐだぐだ書き始めたときにはまだ新品だったわけだ)、それで何年か前にアンチウイルスソフトを入れた瞬間にワードとエクセルがほぼ使えなくなって(死ぬほど重たくなって現実的に使用不能)、それ以来ずいぶん不自由をしている。そのあと買った工人舎のA4サブノート(アペラ君)とネットブック(サイフ君)には、ワードやエクセルは入れずにフリーソフトのOpenOfficeを入れている。これでふだんはワードやエクセルのファイルは読み書きできるのだけれど、書類の細かい書式とか表組みとかはさすがにずれたりしてしまう。
勉強部屋の机に向かって論文を書くときにはテキストエディタで書くわけで、ワードなんか使わないので普段は忘れているのだけれど、やはり、ときどき不便でそのときはとてもストレスがたまる。あれやこれや考えるに、やはりメインのパソコンを買い換えるのがいちばん合理的だと思う。もう7年も使っているんだからもとはとれてるはずである。
ところが、もんだいがあって、どうもVistaというのがいかにもヤな感じで、世間でも評判悪く、結局後継OSのWindows7ってのがもうすぐ出るといってるのである。するとこれは山勘ではあるけれど、Vistaの評判悪さはWindowsMEのときの評判悪さの感じに似てるんじゃないか、だとすると、MEのあとに出たXPは悪くないので、7ってのも悪くないんじゃないか、と期待はするのである。ただし、XPのときもそうだったしVistaのときはものすごくそうだったのだけれど、OSが出た当初はバグがあったりハードとしっくりいってなかったりして使い物にならないことが往々にしてあるわけで、ほんとはOSが出てから半年か一年ぐらい様子を見て、ハードが完全に対応してくれたり、バグや不具合が修正されたりするのを待って、錬れてきてから買いたい。でもそんなことを言っていると来年か再来年になってしまう。
意外と、いままさにVistaが錬れてきていて、しかもWin7へのアップグレードを見越してハードも余裕を持ってるんじゃないか、まさにいまVistaが買いなんじゃないか、というふうな心の揺れ方もする。そんな思いをいだきつつ電気店に行ってみると、中古品やら展示品一掃やらでいまどきXP搭載マシンが捨て値で売られていたりして、いよいよもって心は乱れる。

新しい本が出た。柴野先生の編著で、論文を載せていただいた。自分自身は「いじめ」関連の章で、なんだかあいかわらずだけれど、本全体としては、副題にもある「ユースワークによる学校・地域の再生」といった方向性で編まれたもの。

世界思想社の紹介ページ
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青少年・若者の自立支援 ― ユースワークによる学校・地域の再生


目次
序章 規律モデルから成長モデルへ ― そのパラドックス
第1章 グループの力を生かす自立支援の技法 ― なぜユースワークなのか
 1 ユースワークの方法 ― その特質
 2 グループの成長促進力 ― その理論と方法
 3 学級・グループ運営の支援的方法
 4 人間的技法としてのユースワーク
第2章 子どもの集団づくりと学校・地域の連携 ― コミュニティの学校支援
 1 子どもの生活変貌
 2 子どもの私生活化 ― 私生活優先の時代
 3 学校教育と子どもの集団生活
 4 子どもの集団づくり ― 子どもの集団指導
第3章 学校における児童生徒の自立支援 ― 「未来」に向けた生徒指導
 1 生徒指導の目的
 2 未来志向の生徒指導
 3 学級風土の再構築
第4章 青少年のグループ・サークル活動 ― 青少年施設の役割と自立支援
 1 グループ活動を通して如何に若者は成長するか ― 青少年施設での実際例から
 2 「居場所」という考え方と若者との関わり
 3 青少年の自立を支える青少年活動・施設の役割
第5章 問題行動の発見と対応 ― 「いじめ」空間の変容とメディア社会
 1 テキストの分析/「語り方」と「定義」の実践的運用
 2 いじめの空間構造
 3 「いじめ」空間の拡散 ― 社会の変容と「ネットいじめ」
第6章 若者のキャリア形成 ― 新しい職業指導の課題
 1 高校生の職業指導の制度化過程
 2 従来型職業指導の機能不全
 3 これからの進路指導・職業指導の課題
第7章 性支配の構造とセクシュアリティ ― 親密な関係性とDV
 はじめに ― 青少年問題とジェンダー
 1 親密な関係性と暴力
 2 性支配を生み出すもの
 3 性支配の構造
第8章 揺らぐ自立システムと若者支援の方途 ― 「ホリスティックな自立」へ向けて
 1 変動する社会と若者の自立
 2 若者自立システムの変容
 3 自立システムの揺らぐ時代における若者支援の方途
第9章 「一人前」の若者をどう育てるか
 1 現代の一人前と自立
 2 シティズンシップの獲得
 3 信頼関係と相互ネットワークの創出
 4 公共的視点とボランティア・マインド
〈参考資料〉 戦後日本の青少年教育と青少年対策 ― 生徒指導の変遷を中心に
参考文献
索引
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柴野 昌山 編  定価2,100円(税込) 2009年 9月発行
四六判/240頁 ISBN978-4-7907-1434-7

人間的成熟と社会を見る眼をどこでどのように養うか、これこそが今日の青少年問題である。心理主義の限界を踏まえつつ、社会学的観点からグループのもつ人間的成長機能を再認識し、現代の若者が抱える自立への課題とその困難性を多角的に考察。


 


9月21日。秋の連休。

シルバーウイークだそうである。てっきり授業が先週から始まるものと思っていたのが一週間のびたので、なんだかとても儲けたような気分だ。のんびりすごそう。ゴールデンウイークにくらべてなんとなく気持ちが落ち着いているのは、秋だからってこともあるけれど、シルバーっていうネーミングがいいかもしれない。金閣寺に対する銀閣寺ってのがあるごとくに、なんとなく侘びたり寂びたりする気分になるではないか。

この夏から秋口にかけてはいくつかの買い物をして、ひとつはファックス電話、ひとつは書画カメラ、で、大きかったのは、いままでダイアルアップ接続でやってきた(なぜかと言われると返答に窮するのだけれど、ただなんとなく)インターネット接続を、イーモバイルに乗り換えた(これまたなぜにイーモバ?ちなみにマンションには光が来てるのに、であるが)。なんか、ある晩、電話がかかってきてそれがイーモバの宣伝で、めんどくさいのですぐ切ったけれど、手続きは面倒でないということだったのでHPで確認したら、クリック一発ですぐできるということがわかり、面倒じゃないならやろうということですぐに手続きした。で、一週間ほどで端末が届き、それをUSBに差し込んでちょろちょろっと設定をやったら簡単につながった。いままで56Kでやってたのが最大7.2Mになったということなので、これはまず快適である。

あとはまぁ、なるべく自転車に乗るようにしていて、ちょっと足をのばしたところのBookoffで中古CDなんかを買ったりしている。10年か20年ぐらい前のものを250円とかで買ったり。KUWATABANDとか、宇多田ヒカルの1stとか、ブルーハーツとかハイロウズとか、そんなかんじで。

連休中の読書の成果というと、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』をいまさらながらに読んだことぐらいか。感想は、やれやれ村上春樹だなあ、まんぞくまんぞく、というようなかんじで、weblogのほうにも書いたようなかんじ。これも10年以上前の作品で、就職する前に出てたはずで、そのときに読まないっきりだったのだ。たしか、そのころ自分は某施設の宿直のアルバイトをしていて、その施設でボランティアの電話相談員をやっていたおばさんが、読むといっていて、「クロニクル」が言えてなかった、という記憶がある。もちろんだからどうだということではない。

学会に行ってきた。今年は早稲田大学。東京である。某委員の任期さいごの会議があり、また、「不登校」部会の司会が当たったのでフケるわけにもいかず、人見知りと引きこもりを押して、目を回しながら東京に降り立って・・・
なんだかご迷惑をおかけしてしまいつつ・・・
宿も無事決まり(ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・早稲田大学に足を向けて寝ません、ちょうど部屋の窓が東向きなので寝床も東が頭なふうに敷くのです)、会議にも出席し、ぶじ学会本番にも出れて、司会のほうは、阿部先生がしっかりとまとめてくださったのと、発表者の先生方とフロアの先生方の的確なやりとりによって、まぁ私が多少すべっても無事に部会は成立していたのでよかった。

しばらく宣伝をしておきます。


 


10月14日。月日の経つのは早い。このところなにをやっていたのか。

先月学会に行って帰ってきてからまるひと月、という言い方もできる。いったいその間なにをやっていたのか。いや、これといってなにもやっていない。べつに力強く断言して見せるほどのこともないが、授業が始まってあたふたと日々を過ごしていたといったところである。そして、学会に行ってきたことなど、遠い昔の夢の中の出来事のようなのだ。

下宿のインターネット接続をイーモバにしてから、いまさらYoutubeにはまったりもしていた。自分が学生時代のころに流れていたバンドのプロモビデオとかテレビ出演とかライブとかがざくざくでてくるし、コメント欄にはたぶん同世代ぐらいの人たちのやたらと懐かしがっている声がどんどん書き込まれている。そういうのをだらだらと見ているうちにいくらでも時間がたってしまう。それはもうまったくもって後ろ向きなことなのだし、ノートパソコンの小さな画面の中のさらに小さい動画の画面を覗き込んで時間を過ごしている様子というのは客観的にはグロテスクだ。それはそうなのだが、それでは、地デジの大画面ハイビジョンで若手芸人やらおバカタレントやらのバラエティを見たりしていれば現在を生きていることになるのか、ということにもなる。まぁそれもどうでもいいことだ。

もちろん、そもそも現実はPCの画面の中にも地デジハイビジョン大画面のバラエティ番組の中にも存在しない。それどころかあなたがたの経験の中にも現実は存在しない、なぜなら現実は書物の中に存在する、すなわち、理論的なものとして存在するのだ、あなたがたの経験とやらは、書物の中にあらかじめ書き込まれている理論的なものの不完全な反映に過ぎない、等々。いや、この秋学期の非常勤先の授業のひとつで、社会学の有名人たちの理論のおさらいをやっていこうという趣向を考えていて、なんかそんなことばかり言ってる。まぁ、大学の授業なんだからたまにこのくらい気の狂ったことを真顔で言う人がいないとつまんないでしょう。

下宿のメインのPCの買い替えという選択肢がちらついている中、まぁしかしそうすぐに買い換える気もまだ高まっていなくて、さしあたり今のPCの中身をちょっと整理してみて具合を見ている。不要なソフトをどんどんアンインストールして、それから、バックアップを取った上で不要なファイルをどんどん消し、ハードディスクを最適化して、できるだけすっきり軽く使おう、という悪あがきである。ノートン先生によって台無しにされていたワードとエクセルに関しては、いちどアンインストールしてからもう一度入れなおしてみたりした。そういう小手先の対策に実効性があるかどうかはわからないけれど。しかし少なくとも、買い替えるかもしれないという選択肢がどこかにちらついていることによって、多少なりとも思い切りよくソフトやファイルを削除することができる。「不要なソフト」というときの「不要」というハードルがぐっと低くなって、結構捨てることができた。まさに「捨てる!技術」というやつである。
そうやっていまさらながらにXPマシンを軽量化していると、意外にまだまだ使える気がしてくるんで、結局買い替えがそれだけ先延ばしになるということもある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、じゃなくて、肉を斬らせて骨を断つ、じゃなくて、なんかとにかくそういうかんじだ。

そうそう、先日ふと思い浮かんだというだけのことなのだが、「肉を斬らせて骨を断つ」と言うと、そういう言い回しがある、というだけのことだが、「肉を斬らせて骨まで」と言ってみると、俄然、古くからの諺のような、人生訓のような響きがあるように聞こえなくもない。その意味は、「軒先を貸して母屋を取られる」ということなのだろう。

しばらく宣伝をしておきます。


 


10月31日。インフルエンザに罹り損ねた話。/ かぼちゃのスープ。

この10月は、なんだかあれこれとあってたいへんにくたびれた。それでもまぁ今月も終わりで、月も替わって人生は続く、オブラディオブラダ、というわけである。

月のなかごろの連休(なんとかマンデーのせいでまた月曜日が祝日になり、ところが非常勤先の授業はやるので祝日をひとつ損する)にインフルエンザに罹り損ねた話。
教授会で隣に座っておられた先生が翌朝インフルエンザ発症ということで、むむ?いよいよ身近になってきた、と思っていたら、週末にかけて講義をやりながら頭が少しふわふわとしてきて、若干の咳も出るようになってきた。その夕方は会議もあって、医者にも行けずそのまま連休に入ることになった。帰り道のスーパーで、あれこれの食材を買うときにいちおう風邪に良さそうなもの、消化の良さそうなもの、もし高熱が出たらということを考えて、カロリー何とかとかゼリー何とかとかそういうものを買ったり、インスタントのカップスープをあれこれ買い込んだりして、覚悟を決めて帰宅した。
それで、たしか5月のゴールデンウイーク前もインフルエンザ騒動のさなかに風邪をひきかけていて、そのときにたしか市販薬の咳止めと解熱剤を買っていたはずだと思いつつ、まてよ、インフルエンザのときには飲んではいけない市販薬があったんだっけ?ということが頭をかすめて、念のためにインターネットで調べてみたら、市販の解熱剤のある種のものはインフルエンザのときに飲むと脳障害が残る危険がある、とか書いてあって、自分の買ってた(ひじょうにポピュラーな)薬はまさにその成分のやつだった。あぶないあぶない。っていうか、これで熱が出ても薬もなしかぁ、と覚悟をした。
それで、その日も早く寝て、土曜日も一日中寝ていたのだけれど、熱はずっと微熱の範囲内で、まぁこれならインフルエンザではなかろうと思っていたら、土曜深夜っていうか日曜未明にふと目がさめて、あれ?っていうかんじで熱を測ってみたら37度台後半まで上がってきていて、これはまずいかな、と思いつつまた寝た。1時間おきぐらいに目がさめて、測っても熱は下がってないし、身体も痛くなってきた。枕元にメモ用紙を置いて、目がさめて熱を測っては時刻と体温を書きとめながら、うとうとしていた。
日曜の朝になり、これは高熱が出るかなと思いつつ、5月に配布されていた市のチラシを引っ張り出してきて、保健所の相談電話にかけてみた。区の保健所の電話は日曜祝日はおやすみ、と書いてあって、そりゃまあそうだろう。で、中央のほうが24時間受付と書いてあるので、そっちに電話してみたけれど誰も出ない。何回も電話をしたけれど誰も出ない。ありゃ、これは5月のチラシだから、その後に変わったのかな、と思って、ふわふわとしながらPCを立ち上げて検索をかけ、市のインフル対策情報ページを見てみたら、対策がごちゃごちゃ変わっていてなんのこっちゃわからなかったのだけれどたぶん最新の相談窓口というのを見当をつけたのだけれど、まぁ結論としては、電話はかからなかった。
それで、しかたないので近所に救急病院っぽいのがあるのを思い出して見当をつけて、電話番号を調べて、朝、熱が38度を超えた時点で電話してみたらこれはつながった。それで、これこれの症状で、熱と身体痛と咳がこんなかんじなんですが、これインフルでしょうかねえ、と訊ねたら、うーん、インフルの可能性はあるし、ふつうの気管支炎かもしれないし、発症から24時間ぐらいたたないと検査をしてもインフルの反応は出ない、そしたら結局ふつうの風邪の対応をすることになる、まぁ「予防」ということでインフルエンザの薬を出すこともできるけれども、という感じの返答だった。それで、今すぐ来てもいいけれど、いま他の救急が入っているのでその後になるので後から来てくれるほうが待たずにすみますよ、それに検査をするなら発症から24時間ぐらいたってからのがいいので明日まで様子をみたらどうですか、ということなので、なるほどそれならそうします、もししんどくなったら夜中でも診てもらえますかね、はいはいいつでもどうぞ、というかんじで、電話終了。
それで、買っておいたバナナを食べたりゼリー食品を食べたり、スポーツドリンクを飲んだりカップスープを飲んだりして、なるべく栄養と水分を補給しながら寝ていた。胃腸に来てなかったのでそれはよかった。それでうとうとしながら、近所の救急病院といっても歩けば15分ぐらいかかりそうだし、ふわふわしながら自転車というわけにもちょっといかないだろうし、インフルで救急病院に行きますと言ってタクシーが来てくれるだろうか、救急車を呼ぶのもあれだし、また、インフルの感染を防ぐには普通の救急車なんて使っちゃいかんのじゃないか、などとあれこれ思案していた。高熱が出ていざ病院にというときに、どうすればいいのだろう?
それで、結論からいうとその日の午後には、マックス38度6分まで熱が上がって、それからしばらくして、なんとなくフッと、山を越えた感というのがあって、熱がなんとなく微妙に下がり始めた。それで深夜になって、38度を切って、やれやれと思いながら寝て、それで結局、月曜の朝には36度8分にまで下がっていた。
結局、その日の非常勤は休講にしてもらい、まだ一日中寝ていた。祝日なのに授業があると思っていた学生さんたちは、いきなり休講になっていて非常に憤慨したのではないかな。
で、連休明けの火曜朝には身体の痛みもとれ、熱も36度2分ぐらいになり、もう治ったかんじ。で、朝イチに保健所の相談電話にかけてみたら、たっぷり連休を楽しんだというかんじの明るい声で応対してくれた。これこれの症状で、これこれの経過で、これインフルだったんでしょうか?そうですねえ、可能性はありますねえ。薬ものまないで一日で治っちゃったんですが?そういうこともありますねえ。でももうすっかり平熱なんで今から医者に行って検査だけしてくれっていうのもやっぱりアレですよねぇ?そーうですねぇ。でもインフルエンザだったら解熱後2日間は出勤するなって言われてんですが。そうですね、解熱後48時間は控えていただけるといいですね。みたいな不得要領のやりとりをして、けっきょく電話を切った。医者には行かず、その日はちょうど授業がなかったので連絡して会議だけ休んで、下宿で仕事(提出しないといけなかった文書をえっちらおっちら書いてメールで提出)をしていた。翌日は朝から卒論中間発表会だったので、月曜朝に熱が下がったという計算で出勤OKと判断して、朝から出勤。
結局あれはなんだったのだろうかというのがいまだにわからない。自分的には、気管支炎とかはひんぱんに罹っているし、風邪で熱が出ることもざらだけれど、こういうくっきりとした症状が出ることは珍しいので、タイミングといい、やっぱりインフルエンザだったんじゃないかなあと思っている。それならそれで、もう免疫ができてるということでこれからは枕を高くして安心してられるのだろうけれど、検査でそうと決まったわけでもないので、そうなるとこれからも心配だけはしてないといけない。なんか損をしたような気分だ。その教訓は、病気は平日に、ということだろう。

それやこれやで、インスタントのカップスープを買いだめしていて、それに、煮付けて小分けにして冷凍しておいたかぼちゃを入れて、なんちゃってかぼちゃスープを作っては、朝食のパンといっしょに食べている。

しばらく宣伝をしておきます。


 


11月10日。めざせ美脚&うりざね顔。

テレビは、今のマンションに引っ越した4年前に買ったのがリビングにあって、それでもやはり寝るときや寝起きに枕元にあるといいということで、引越し前に使っていた14型のテレビを枕元に置いて重宝していた。なにせこれが、自分が大学に入学したときに買ったものだから、つまり四半世紀のあいだ現役で働いていたわけだ。
さて、ところが、いつごろからか、「なんだか最近のタレントは足が短い人が多くなったなあ」とかいう気がしていて、朝の「めざましテレビ」なんか見ていても、「最近のフジテレビはこんなに足が太くて短くても女子アナとして採用されるのか」とか思っていて、まぁそんなもんなのだろうと思っていたのだけれど、あるとき卒然と「そんなわけないじゃん!!」と気付いた。時報の時計がこんなにおにぎり型をしているはずはないし、アップになった顔が妙に丸顔なのもおかしい。よく見ると、ブラウン管の下の部分が黒味になっていて、画面の下から4分の1ぐらいが押しつぶされたみたいに縦方向に縮んで映っている。だから画面に円いものが映るとびっくりするぐらいおにぎり型に映るし、全身が映った人間は足が太短く映るし、アップになった顔はしもぶくれの丸顔に映る。それはテレビのブラウン管のせいだったのだ。自分が大学入学以来ずっと見てきたテレビに、ついに寿命が訪れたのである。

それで、やはりさすがにこれはしかたないということで新しいテレビを買ってきた。ホームセンターで、だいたい聞いたこともないようなメーカーの安いテレビである。薄型で地デジということになっている。地デジってそもそも嫌いなんで、いかにも政治と業界が結託して話を進めてるようにしか見えないんで、アナログ放送が終了したらテレビ見るのやめようかなとさえちらちら思ってたぐらいなのだ。で、実物の地デジテレビを見たのは、このまえの学会でビジネスホテルに泊まったときにあったもので、なんだかチャンネルを替えるたびに反応が遅くてイライラしたものである(根っからのテレビっ子なので、ザッピングが基本なのだ)。非常に不満ながら、とにかく選択肢が他にないので薄くて地デジ、というのを買うわけで、まぁせめてもの抵抗心ということで、画面が無闇に横長なやつは買わないで、1000円ほど高かったけれど従来の画面になるべく近い形のを買った。
それで、バカみたいにテレビを手に提げて帰って、繋いでみたら、すぐに映ったのだけれど、なんか妙に画像がしらじらとしていて目が疲れる感じがする。それは、液晶画面のせいであるかもしれない。以前、PCの液晶画面で疲れ目になって目がぐらぐらしてしまったようなことがあったので。なんとなく今回のテレビも、早く動く絵がなんかチラチラして目が疲れるような気はする。まぁそのへんは、安物を買ったのでしょうがないというところもあるかもしれないし、ついでにいうと薄型スピーカーがへなちょこで、安っぽい音なのも、まぁ安物なのでそうなるのだ。
しかしそれはそれとして、もっと困ったことが出てきた。いままで映っていた某局が受信されなくなったんである。これはちょっと死活問題で、なにしろこのところ選局の比重が俄然、高まっているのである。まぁ今のところはビデオのチューナー経由で見れるからいいけれど、アナログ放送が終了してもし見れなくなったら困るなあと思う。アド街ック天国とか、モヤモヤさまぁ〜ずとか、男子ごはんとか、あとなんとなくいつでもやってる旅番組とかぶらり路線バスの旅のたぐいとか、ときどきやってる卓球とか、心のオアシスなんだけどな。
あと、まぁこれは地デジというのが普及してすぐに言われていたことだけれど、アナログに比べて1秒か2秒ぐらい遅れる。北京オリンピックのときだったかしらん、デジタルで観戦していた人たちにくらべて、アナログで観戦していた人たちのほうから先に歓声が上がって、「お、何だ?」と言っているとデジタルで映る、ということがあったらしい。そういうのは気分的に興ざめでもある。また、そのときにその延長で話題になったことで、地デジになったらテレビの時報が意味なくなる、というのがあって、それもなんとなく困る気がする。鉄筋のマンションでは電波時計の電波も入らないし、テレビの時報は結構、時計あわせに当てにしてたんだけど。
まぁそういうわけで、けっこう不満たらたらという風なのだけれど、それでもまぁ、枕元にちゃんと映るテレビが復活したというのはまぁよかった。これで夜中に映画とか見る習慣が復活するかもしれない。なにしろ、女優は顔が命、脚のきれいさが命の商売なので、そういう人たちが日々苦労しているのにブラウン管のせいで丸顔の大根足に映ってしまってはだいなしだったわけで(ついでにいうと、例のワイド画面とか称してほっとくと女優の顔だろうが何だろうが何割増しかでワイドにしてしまうのもひどい話だが)、いちおうそれが解消されたのだから、ちょっとまめに見ようか、という気にもなるというものだ。

しばらく宣伝をしておきます。


 


12月3日。このところなにをやっていたのか。

気がつけば師走である。例年なら歳末だ、クリスマスだ、ツリーだイルミネーションだ、なんだかんだ、と盛り上がっていそうな頃合なのじゃないかと思うのだけれど、あまりそういう気分にもなっていないのは不景気のせいなのやら、それとも大学と下宿の往復以外はひきこもってのらくらと日々を過ごしているせいなのやら。後者だな。

今年も律儀にひとつ年をとったのだけれど、そのことについてはいまさらあまり感激はない。このところ数年間、なにかのげんかつぎのように誕生日に丹生谷貴志の文章を読んでいて、今年はといえば、10月の後半ぐらいにひょんなことから、去年の『現代思想臨時増刊総特集メルロ=ポンティ』の中に未読の丹生谷を発見して、曲折の末に11月になって、おとなりの宗教学科の先生におねがいして研究室の雑誌をコピーさせていただき、ホクホクと読んでいたのを、誕生日にあらためて読み返していた。ファンというのはなにしろ他愛のないものである。例によって丹生谷節さくれつで、あれこれとけだるそうに書き連ね、メルロ=ポンティの文章の中に「死」だの「狂気」だの「カオス」だのといった、意識を越えた彼岸的な(他者的な?)ものが奇妙に登場しないよね、ていうか奇妙に優雅な身振りでそこを避けるよね、というまぁ、誰もが言うといえばそのとおりな感想がいささかなげやりに、まぁそれはそれでいいんだけどね、というかんじで投げかけられたあとに、

・・・と、ここまで書いて、相変わらず不意に、彼の「仕事の生」のほぼ全域が無残な、或いは奇妙な、戦争と敗北と戦いの年月の中に書かれたという事実が来る。第一次、第二次の大戦はもとより、「戦後」と言っても、愚劣を孕んだ戦後処理と街路の、或いは「インターナショナル」の闘争、インドシナ戦争、そして彼の死の年に尚解決の糸口がほの見えるだけで泥沼化し、パリを前線に巻き込む脅迫すらあったアルジェリア戦争・・・それらが「純粋な事物」の「意識の団居」への飛び越えの可能性を蹂躙し続ける、血なまぐさく惰性化した「王と奴隷」の固着の、愚鈍な重さとしてあったと思うと、メルロ=ポンティの一見優雅な潔癖には窮迫の戦いの橋頭堡を、決してネガティヴな翳りで覆うまいとする共闘の意志があったのに違いないという勝手な了解が来る。・・・

などとこれまた卒然と書いてあって、それでまぁいつものように紙数が尽きて、これまた卒然とブランショの引用が書き付けられておしまい。いいなあ。
ところで、そのへんのはなしについての野暮な返事としては、同じ特集の中の鼎談記事の中の、加賀野井秀一のことばになるほどと納得した:

同時代的にはサルトルの眼差し理論などがまずあって、メルロ=ポンティはどちらかと言うと繋げ役をやっていたわけです。レヴィナスも当時ただ世間に注目されていなかっただけで、それなりに活動はしていたし、メルロ=ポンティも意識していなかったはずはない。後になってレヴィナスが浮上してきたとき、それがメルロ=ポンティに足りないところだという話になっているのは、本末転倒のようなところがあると思います。メルロ=ポンティはむしろ、レヴィナス的他者を可能にするとともに、その他者と自分との間合いをはかれるような道を探ろうとしていたとも言えるでしょう。

ふむふむ、まあね、なるほどね。

しかしそれにしても日々は気ぜわしく過ぎていくわけで、優雅さがイコール戦いの意志であって、というような言い方にはこころ惹かれるものがありますね。
その他その他。

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12月20日。年内の仕事もさきが見えてきた。/「less is more」。

卒論の提出がおわり、年内の授業も残り少なくなった。はやいものだ。本務校の授業の年内の日程は終わって、あとは非常勤先だけ。

ことしの卒論はなんていうか相当らくだったのだけれどその点についてはあまり言及しない。ただ、教員チームとしては今年はちょっと工夫をして、実習室のほうに置いていたノートPC3台を共同研究室のほうに持ってきて置いてみた。実習室のほうではグループワークをするときに使っていたのだけれど、もう今学期はそういう授業はないのでロッカーの中で眠ってたのである。なのでそれを稼動させてみた。そしたら、共同研究室で卒論を書く学生が増えて、そこで相談しあったりしていたようである。ちょっとしたことだけれど、何かちょっと工夫をしてその結果が出る、というのは面白いことである。

卒論もだけれど、今月はじつは、天理市の生涯学習推進員研修会というのの講師、というのをやるというふうにお引き受けしていて、それがなんとかぶじできたというのが大きかった。地域で生涯学習の推進をげんに実践しておられる方々に、自分のような、専門外とはまぁいまさらいわないにせよ、でもいちおう本業が教育社会学だったりする人間が、なにか偉そうに喋るなんてありうるものか、と、かなり腰が引けていたんである。まぁしかし、研修参加者の中には、ながねん推進員をやっておられる方もいらっしゃるにせよ、今年はじめてのかたもいらっしゃるというのを心の支えに、いっそ大学一年生のはじめにやるようないちばん基本のところを喋ってきた。「えー、なにごとも最初のところがいちばん大事なんで、きょうはひとつ、うちの学生さんたちが一年生で最初にやる授業で話すことを話しますので、18に戻った気分でひとつ、若返ったかんじで聞いてください・・・」とかなんとかいいつつ。まぁじっさい自分としては、何につけいちばん基本のところがいちばん好きなので(テキスト分析で論文を書くときでも、テキストの冒頭の導入部分を分析するのが好きだ)、そのへんは自分の中ではまぁ納得してたのだが。まぁ、いちおう、わかりやすくてよかったとあとで言っていただけたのでそれはまぁよかった。
ちょうどそのころ、じつは、ワークショップ関連の本を読んでいて、「ワールド・カフェ」「オープン・スペース・テクノロジー」といったものを知って、とくにオープン・スペース・テクノロジーに関しては、かなりよかった。で、それらは、ようするに、ミーティングの設定だけきちんとつくっておけば、あとは参加者のコミュニケーションによって、新しい知識や相互学習は進んでいく、というようなかんじの方法論。で、「less is more」なんていうことを言っていて、これは自分もずっと、「何もしないこと」をどうすればできるか、と思っていたので、非常に心強かった。まさにほんとは研修会なんかそういうやりかたでやってくほうがいいんじゃないか、つまらない講義なんかぐだぐだ喋るよりも、自分サイドができるだけなんにもしないでうまくいく方法があれば参加者の人たちがよりいっそう参加できて、いちばんうまくいくのになあ、と思いながら読んでいた。でもまぁ気が小さいのでこのたびは無難な講義をやったのだけれど、でもやはり少しは相互的なやりかたも入れたくて、紙を配っていくつかのテーマで小レポートを書いてもらっていた。それを講演の中でフィードバックするつもりだったのだけれど、時間がなくてできなかった。しかし、その部分についてはけっこうあとから、結果を楽しみにしていた、あとで教えてくれ、ということを言っていただき、やってよかったと思う(まぁ宿題ができてしまったということにもなるのだけれど、まぁ、書いていただいたものを書き起こして整理するのは簡単だしおもしろそうだ)。けっきょく、あとからしてみれば、なるほどああいう研修会なら、最初から講義なんかやらずにコミュニカティブなワークショップを設定して、たとえばミニ・ワールド・カフェ形式にでもすればおもしろいのだな、と思った。

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1月1日。あけましておめでとうございます。

今年もまたよい一年になりますように。
でもってそのまま10年代がよい10年になりますよう。


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