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1月1日。あけましておめでとうございます。

今年もまたよい一年になりますように。
でもってそのまま10年代がよい10年になりますよう。


 


1月19日。あらっと思うまもなく今月もはや下旬。

毎年のことながら、というのはこういうところにごじゃごじゃ書いているのでそうだとあらためて思うのだけれど、一月というのは気がつくとこういう時期になっている。年が明けたかと思ったら、おもちを食べているうちに松が明け、気がつけば七草粥を食べたりしていて、授業が始まり、と思う間もあらばこそ、入試むけの会議が立て続けにあって、センター試験をやり、と思う間もあらばこそ、授業の最終週になったり試験をやったりその答案を採点したり、卒論を読んだり口頭試問をやったり、まぁそういう月なのである。

年末年始は、今年も体調がぐずぐずとしていて、ちょうど寒波も来ていたし、新幹線もダイヤが乱れているってことだったので、帰省をするつもりだったのをぐずぐずと先延ばしにしつつ結局やめてしまい、心ならずもまた下宿でお正月ということになり、かといって帰省するつもりだったので冷蔵庫にはろくな生鮮食料品もなくて、念のために買ってあった餅とありあわせの材料でお雑煮を作ってたべたりしつつ清貧のお正月を過ごしていた。まぁ、じつはこの不景気のせいで、あちこちのスーパーが初売り元日だったり二日だったりで、べつになんなりと買ってくればいいってだけの話だったのだけれど、ていうかスーパーにも行ってみたのだけれど、これがまぁこの不景気のせいでお正月から行くところのない家族連れみたいなひとたちでにぎわうスーパーで、ふつうにキャベツとかパンとか買う気がおこらなくて、何も買わずに帰ってきたりしていたんである。やれやれ。
それで結局なんら収穫のないお正月を過ごしてたわけで、それでまぁ学校が始まってもその勢いで、ただ次々やってくる会議とかタスクとかを、なにかのゲームのハードルをえいやえいやと飛び越えるみたいにしてなんとかかんとか今に至るというかんじ。

去年をふりかえれば、とくに前半、体調は悪かったし、論文の〆切が重なってえらくしんどかった。それでもまぁ、ひとつは『青少年・若者の自立支援』という本に入れていただいてこれは9月に出たし、もうひとつも、年末に校正の原稿が届いて、なんだか年度内には出るのだということで、やはり自分の書いたものを入れていただいた本が出るのはうれしいことである。

そうだ、そういうあれでいえば、学会の紀要編集委員というお仕事をいただいていたのが去年の秋、二期四年の任期をなんとかぶじに終わった。地方委員ということで、東京の先生方よりも仕事も少なくしていただいていて、それでもうまくつとめられていたやらわからないのだけれど、ともあれ、いい勉強をさせていただいたように思う。同時に、ひとの論文、とくに若い皆さんの論文を審査するというのはやはり居心地のいいものではなくて、そのへんは、お役御免になって4年ぶりに解放感をおぼえている。まぁ、4年前には自分はまだ30歳代にひっかかっていたのが、お勤めご苦労様の今はしっかりどっからみても40歳代で、審査する立場を離れてもたんなる小言オヤジになってるんで、まぁしょうがないのだけれど。

一年の計は元旦にあり、といいつつもはや1月も下旬になるのだけれど、今年はできれば、のんびりと楽しく、仕事にせよ勉強にせよ、できればいいなあーと思うことにしよう。


 


2月10日。しかしあっというまに日々は過ぎるね。

ここにこういう無駄文字をときどき書くというのをまがりなりにも習慣にして何年になるだろうか、それがこのところ間隔があくわけで、それは生活のペースが変化しているということでもあるのだろう。それはまぁ、何年もということになれば、気がつけば人生のうえのある時間、というぐらいの長さであるわけだから、それで変化がないほうがおかしいんで、まぁそれは悪いことってわけでもなかろう。書く時間がないというわけでもなくて、仕事術的ないみで「スキマ時間」みたいなものはもちろん、あるわけだし、なんならスキマといえないぐらいに余裕のある時間だって、たぶんある。世間からすれば、どんだけのんびりとしているのかというぐらいなものだろう。それはそうなんだけれど、まぁじっさい問題として、こんなところになんかぐだぐだと書こうかというようなことがふわふわとまとまるだけのポカンとした時間というものが、以前はなんとなくあったし、このところは、なんとなく、気がつくと、なしで日々が過ぎる、というようなことだ。それがどうこうということでもないわけで、こんなところになにかをぐだぐだと書くための時間など、べつにこの世に存在しなくたっていっさい誰も困らないし、だいたいなくてもふつうなものなのだろう。多くの人がこんな無駄文字を書く習慣を持たないのが、なんとなくわかるようになってきたって気はする。以前は、どうして誰も書かないのだろう?と不思議に思っていたのだけれど。
ま、ひとつには、さすがに自分も多少は仕事らしきことを少しはまともにするようになってきて、日常の活動やら、日々の思いめぐらしやらの内容に、そういう仕事のことが抜き難く混ざりこむようになってきたってこともある。そうすると、まぁ、こういうところに書くようなことではないこととかもあるかもしれないわけで、たとえばこれはもう任期が終わったのだけれど、学会誌の紀要編集委員などということをさせていただいていた時に、たとえば査読のようなことを役割とさせていただいて、若い人たち(たぶん)のものをたくさん読んだり、評点のようなものを(不条理にも)点けたりということをするなかで、まぁとうぜんあれこれのことを思うし、そのときの日常の中でそのことが大きい部分を占めたりすることだってあるかもしれないのだけれど、じゃあそのことをこういうところに書くかというと、そりゃもちろん書かない。あるいは、職場であれやこれやの役割で、仕事をするとして(まぁ、さすがに何かしているわけで)、毎日がそういうふうにすぎていくとしてもその内容にかかわることをここに書くかというと、これまたもちろん書かない。それはまぁ、ごくあたりまえのことだ。
そういうわけで、ここには毒にも薬にもならない、なるたけのんびりしたことだけが、くだらなくだらだらと書き連ねられることになるわけで、それはまぁ、自分がそれだけくだらないのんびりした日々をだらだらと送っているということをひとまずは意味するのだろうけれど、まぁ多少言うと、いくぶんかは、意思的にそういうことを書く、そうでないことは書かない、という結果なのだというふうに言えなくもないわけで、ただまぁ、そういう意志が、ほとんど意志らしきものを要さないぐらいにやすやすと達成されるほどに自分の日常がじっさいにだらだらしていた頃というのもあったのかもしれないし、また、意思的にのんびりしようとしているうちにタイミングを逃してしまうような日常というのも、あるかもしれない、ということだと思う。
だからどうこう、ということは特にない。このまえ書いてから間があいたなぁ、と思ったので決まりが悪くなって理屈を言っただけ。

卒論を読んで口頭試問を行ない、会議会議で、あいまあいまに答案を読んで、そのあと卒論発表会と追い出しコンパがあり、仕上げに学外入試の業務で広島に出張。そういうわけで1月下旬からの半月ばかりはかなりタフだったのはたしかなんである。それで、レポートの採点もだいたいおわり、あとは入力をするだけ。それがおわれば、ちょっと間があくと思う。例年のように研究室紀要にちょろっと書く論文をまとめる季節である。なに書こうかな?


 


2月16日。奨学金は未来の自分からの借金である、という考え方について。

あれやこれや授業をやるのが商売で、授業では講義と称してあれやこれや喋るし、たとえばその時々の教育の話題であるとか、おもしろかった本の紹介とか、学生さんの小レポートへのコメントとか、そのときたまたま学生さんに説教したかったことだとか、まぁ、あれやこれや喋る。それで、この時期、学期末のレポートなんかで、「授業で先生がこう言っていた」なんて言われると、「お?」と思うし、自分がさらっと考えて喋ったことに意外に引っかかられると、こっちでも丁寧に考えをおさらいする気にもなってくる。もちろんそうそう無責任に放言をしているわけでもないので、ありゃ間違えた大失敗、みたいなことは、今まであんましなかった(と思う)んで、むしろ、さらっと言ったことを学生さんが拾って引っかかってくれたことによって、丁寧に考えられる、ということがあって、それはおもしろいことである。

それで、これはまぁ最近なんども言っていた言い回しで、自分が思いついたというよりどこか(たとえば橋爪『教育改革』本あたり)で読んで気に入ったんだと思うのだけれど、「奨学金は将来の自分からの借金」という言いかたをしていて、文脈としては、高校授業料無償化、みたいな話になったときに、教育にかかるコストは誰が払うのか、みたいなことにとうぜん、なるわけで、学生さんたちは「親が払っている」と思っているし、それが基本的には当たり前だと思っているし、だからこそ、親に払ってもらっているのだから自分は親に感謝しているし勉強しないのは申し訳ないことだ、というロジックで語るし、また、だからこそ、もし授業料がタダになったら高校生たちに感謝の気持ちがなくなって勉強もしなくなる、というロジックを真顔で言ってくる。
もちろん心情としてはわからなくはないものの、そういうロジックにはけっこう違和感がある。私たちに教育を受ける権利というものがあるとすれば、それは国民たる私たち個人のものであって、個人と国との関係としてそうなっているはずだ。だから、教育コストを国が持つ、という理屈がでてくるのは論理的にわかりやすい。で、もちろん多くの場合に親が授業料を払っている(私も払ってもらった)のだけれど、それは、個人と国との関係が直接的で論理的なのに比べたら、直接的に論理的とは感じられない。まぁ、だからこそ、「感謝」という感情がでてくることが逆に論理的なのだけれど。でも、そういう「感謝」とか「親の愛情に報いるために」とかいう回路でやっている限り、勉強ということのいちばんシンプルな本質を逃すと思う。つまり、勉強は、自分のためにやるのであり、イコールそれが、国との関係では(妙な言い方だが)国のためになるからやるのである(それは、イコール、国が教育にコストをかけ(てい)ることの意味だろう)。
で、無償化と奨学金のはなし。私は専門に研究してるのでもないし、事情に詳しくさえないので、ごく単純に目の前の学生さんとのやりとりの次元だけのことで言うのだけれど、無償化と奨学金とどうちがうかというと、無償化の方は、「勉強は国のため」という側面に対応するもので、奨学金は「勉強は自分のため」という側面に対応するものなんだろう、と理解している。で、ごく単純に目の前の学生さんたちを見ていると、前者の側面と後者の側面のどっちをいま強調して言うべきかというと、後者つまり「勉強は自分のため」のほうだろう、と思う。なので、自分的には、無償化と奨学金とどっちに好感を持つ(?)か、というと、奨学金のほうだと思う。
そこでようやく出てくるのが、「奨学金は将来の自分からの借金」という考え方なわけである。出世払いで未来の自分から学費を借りて、勉強して能力を付けて、出世して倍返しすればいいじゃないか、というわけで、これは話としてはいちばんすっきりしている。
もちろんそこには、自己責任論の響きがしっかりあるし、たぶん自分がこの言い回しを橋爪『教育改革』本で覚えたんじゃないかというのもそのへん。で、それは、右肩上がりの社会ならともかく、このデフレな社会では、出世できる保証がどのぐらいあるやら、とするなら、借金と教育投資のリスクを本人だけに背負わせるロジックというのは、状況的にはきびしいかもなーとも思わなくもない。
でも、大学で学生さんたちを相手に教えていて、しかもその学生さんたちが教育専攻だったり教職志望だったりするときに、彼らが真顔で「勉強するのは親の恩に報いるのが子のつとめだから」みたいなことを言ったりしているのを見ると、そりゃちがうだろう、とやっぱり思う。学校教育なんてそもそもが「主体化」の装置であるはずなんだから、主体的個人を形成するロジックを否定してしまったらなりたたへんがな、と思うし、そういう学生さんたちが大学で勉強したり、「いまどきの若い高校生たち」に報恩の心が欠けていると説教がましい小レポートを書いたり、それゆえに道徳心と感謝の心を育てる教育を唱えてみたり、そういう教員を目指したり、するというのにはやはり、違和感がある。やっぱりここは、さしあたり一番シンプルな基本として「勉強は自分のため」というロジックを確認したいところなのである。

さてさて、まえふりが長くなったのだけれども、ここまではまぁ、授業で喋っていたようなこと。それで、学生さんがそこを拾って、「授業の中で心に残った言葉」として書いてくれていたというわけである(自分もとうとう学生諸君の心に残る言葉を言うようになったのか、やれやれ、みつをの域だな)。その学生さん、自分も奨学金を受けているということで、文章もしっかりしていて、がんばって勉強している気持ちのつたわるレポートだったわけなのだが、それはそれとして、である。
単純なはなしとして、「奨学金は未来の自分からの借金」というのは、よく考えたら、よくわかんない比喩だなあという気もしてきた、というのがこの文章の本題で、そしてそれはけっきょくよくわかんないので、この本題は、わかんないわかんないといいつつすぐおわってしまうわけなのだ。
えーと要するに、さしあたりいまお金を借りるのは「今の自分」であって、これはもんだいない。でも、未来にお金を返すことになるわけで、お金を返すのが「未来の自分」である。返す先は自分自身ではなくて、借りたときと同じ、学生支援機構とかそういうところである。お金の流れを見る。「未来の自分」が、学生支援機構というタイムマシンを通じて今の自分に送金している(利息は送金のコストということにしようか)、と言えばいえなくもないのか。しかし、「奨学金は未来の自分からの借金」という言い方をすると、「未来の自分」は、お金を返してもらえる立場であるはずなようにも思えなくもない。学生時代に借金をした自分からの返済を、「未来の自分」は、ホクホクと待っている立場であるような気もする。
で、こんがらがってしまうのだけれど、たぶんつまり、「今の自分」は、借りたお金で勉学に励んで、自分の中に「人的資本」を蓄積して、イコール「未来の自分」になる、という理屈なのだろうなあ。「能力」として自分自身の中に化肉させ、物納で返済、というかんじか。
それがすなわち「教育」ということなのだ、と言われればそうも思えるけれど、なんかやっぱり不思議な気分を残すと思えなくもないわけで・・・

・・・というような文章を、じつは、先日買った「pomera」というガジェットで書いた。
プレーンテキストファイル入力のみ、白黒液晶、折りたたみの結構使えるキーボード、電子辞書並みの瞬間起動、電池駆動、というストイックで志のあるコンセプトに惹かれて、発表当初から欲しい欲しいと思っていたけれど、第二世代モデルで改良が加わったというところでついに、買ってしまったというわけである。位置づけとしてはメモ帳というかんじで、でも、自分の仕事内容からしたら、論文なんかとくに、資料を横に置いて(あるいはいろいろなファイルやwebを開きながら)参照しつつじっくり書くみたいなシチュエーションが多い。なので、瞬間起動のメモ帳、というコンセプトからは、ちょっとずれるかなあ、というふうにもちょっと思っていた。しかし、たとえばここに書くようなだらだらとどうでもいい文章を、思いついたときに電源を入れてはちょこちょこっと書き足していく、みたいなのは、ありかな、と思えてきた。起動とシャットダウンがいずれもボタンひとつ&瞬間なので、ずいぶん気楽である。
それにしても、これ、冷静に考えれば昔の日本語ワープロに近くて、大学院生のときに持ち歩き用サブ機として中古屋で買った文豪mini5(プリンタなしのノート版)と、使用感が似ている気がする。あれを、バイト先の宿直室に持ち込んでレジュメとか手紙(いただいた論文のお礼&コメントとか)とか書いてたなあ、と思い出した。いまはそれがさらに性能が向上して手のひらに乗るんだからねえ。


 


2月24日。全体性と出席点。

せんだって、成績をつけていたころ、それはちょうど次年度の予定を考える時期でもあったわけでそういったもろもろの季節的なことから、あることをおもいつく。

出席点、というものがある。これにうんざりさせられる。出席状況が良好だと、よい点数を与えられる、欠席が多ければその逆、といったもの。そうなると、とうぜん、学生さんたちの脳髄の中では、「出席すること」が「点数」に結びつけられることになる。それは本来おかしなことだ。授業はお百度を踏むのとは違う。
なので、出席点というものは、本質的にまちがってる、それ自体としては教育上よろしくないものだと思う。
しかし、「出席をとらない」ということになると学生さんたちの出席へのモチベーションが低下するらしい、ということも経験上わかる。もちろん、授業そのものが十分に魅力的であれば学生さんたちはおのずと出席するのだ、と考えるのが本筋ではあるわけで、まぁそううそぶきながらやっていたこともあったのだけれど、実際問題としてそれはなかなかむつかしいことだなぁというのが経験上の結論なのだ。だいいち、ぽこぽこ休まれて間がとんでいては、おもしろいはずの話さえわけわかんなくなるだろう。あるていどの拘束力を加えることは、まぁわたくし程度の教師には必要なのだ、と理解している。
ついでにいえば、ここにもうひとつ、人間の自由とはなにかといったことがもんだいとなってくる。人間はどんなときに自由であるか、ということをざっくりいえば、自分が自分の思い通りであるときに自由である、といえるとして、それではそのときの「自分」というのは何か、ということになったときに、イコール自分の欲望とか情念とか、ということにはなりませんね、と考える。自分イコール欲望、と定義してしまえば、欲望の赴くままに振り回されている状態こそ最も自由ということになるけれど、それはごくふつうのいみでちがうだろうなあと考えられる。フロイトでもデュルケームでもいいしスピノザでも誰でもいいのだろうけれど、欲望やら情念やらというものはもともとはあてのないもので、それが適切にコントロールされて馬を乗りこなすみたいに「自分」のもとにあり、人馬一体となって思い通りに駆け回ることができるときに、人間は自由だ、ということになる。というふうに基本的に考えたうえで、教育ということに目を向けると、教育というのは社会の働きかけによって欲望やら情念やらをコントロールするしくみを身体に形成すること、という面があるわけで、つまり教育というのはその面では、社会的に拘束することで自由にする、ということになる。で、そういうはなしはたんなる理屈というもんでもなくて、むかし学習塾で子どもを相手にしていたときにそうだったし、いま学生さんを見ていても本質的に同じなのだけれど、たとえば授業に出て授業に参加している学生さんと授業をサボって下宿で寝てたりバイトをやったり遊んだりしている学生さんとを比べて、授業に出てるほうが不自由でサボってるほうが自由だ、というふうには一概にいえないところがある。サボってるほうが、欲望やら情念やら、怠惰とか目先の快楽や目先の時給に隷属しているというふうにもみえるし、じっさいぼんやりと寝過ごして授業に出られないことをむしろ苦痛として語ったりする。学習塾の授業で私語がとまらない子どもに、先生は怒ってくれないから、と疲れ果てたように言われたときにはこちらもうんざりしたものだが、まぁ、そういう場面に出会ってしまうことは実際にけっこうあるわけで、自由と拘束というのが一筋縄ではいかない関係だというのは理屈でも実際でもそのとおりなのである。つまり話を戻すと、出席をとるなんてバカみたいな拘束であって、それじたいとしては人間の自由を妨げる余計なものなんだけれど、でも教育の過程でその拘束が求められてしまうことというのは、あるらしいというはなしにもなってくる。
閑話休題、まぁそういったわけで、ともあれ、出席をとることじたいは必要ということになってくる。
さてそういうわけで、「本質的にまちがってること」が「必要」ということになって、これをどうしよう、ということになるわけだ。

それで思いついたアイディア。
1)毎回授業中に、「匿名の」小レポートを課す。それによって、その授業への出席者数をカウントする。
2)それを毎回やると、受講学生の「総体としての出席率」が算出される。
3)学期末にテストを実施して、その合格不合格の割合を、受講学生の「総体としての出席率」に連動させる。たとえば一番単純には、「出席率=合格率」とすれば、総体として出席率80%なら、合格率80%、得点下位20%の者が不合格、というわけ。まぁこのへんの連動させ方は初回授業の時に相談して決めればいいだろう。

このアイディアの肝は、「個人的な次元での出欠行動が、直接的・機械的に個人の評価を帰結しない」「個人の行動の結果は、「全体」を経由して間接的・確率的に個人の運命を左右することになる」というところ。そのさい、直感的にいって、自分一人が授業に出るか休むかは、全体に与える影響は小さい(ように見える)ので、自分の合否に与える直接的影響はネグリジブルである。いっぽう、期末テストの成績は、それによって合否が決められるわけなので、これは直接的である。
だから、功利的に考えれば、毎回さぼってテストだけ勉強して高得点をとればいい、ような気も、一瞬、する。
のだけれど、じゃあ全員がそうしたら、総体としての出席率が0になったら、合格率も連動するので合格者も0になってしまう。ようするに、これ、「囚人のジレンマ」の変形なのではないかと思う。あるいはまた、環境問題等々の多くの社会現象が、こういう構造になっているのではないか。
イデオロギー的には、これ、功利主義・個人主義がうまくいかないような仕組みをシミュレーションしているということか。個人の行動の集積の帰結が、「全体」を経由して確率的に諸個人の運命を左右する、と。これ、社会学のモデルとして悪くない気もする。
さいしょにいったように、「出席点」というのは本質的にまちがってる。それは、「出席」が「点」の原因であるかのような論理を学生さんたちに与えるためだ。で、ここで提案するやり方でいけば、「点」の直接原因はテストのできばえであって、それはシンプルになっとくいく。
かつ、「出席」が「点」の原因になるという錯視を与えないでいながら、総体として、出席へのインセンティブは与えられる、という。
で、なにより、毎回出席をとって名簿に転記し、個人ごとの出欠状況データを作成することの手間が大幅に削減される。しかも、多人数の授業なら、一人や二人数えまちがっても総数としての出席率に大差はないので、まぁ笑ってすませられる(これ、個人単位で管理していたら、一回一回の出欠のカウントミスが学生の利害に大きく関わってくるので、確認のための物理的心理的コストはばかにならない)。
・・・という仕組みを思いついて、ちょうど来年度はじめて担当する大教室の講義のシラバスを準備していた手をとめてひとりで研究室で盛り上がって頭の中であれこれシミュレーションしていて、ちょうどレポートを提出しにやってきたどこかの学部の学生さん(今年度まで担当していた大教室の講義の受講者)を、「ちょっと5分ぐらい時間ある?ぜんぜんかんけいないねんけど」と引き留めて「こんなん思いついたんやけど、うまくいくかねえ」とかまくしたてたりしていた。その学生さんは、まぁ基本的に他学部で、ことし単位を取ってしまえばもう私の授業を受けることはあんましないので、対岸の火事のようにフムフムと笑いながら「いけるんちゃいますかねえ」なんて言っていたけれど。

まぁしかし、実際には、この仕組みをもし仮にやってみたとして、うまくいくのかどうかはまったくわからない。それはもう、社会がうまくいくかどうかわからないのと同じで、わからない。いちばん単純に考えて、この仕組みが、出席へのインセンティブを与えることに成功するのか、それとも、せっかく功利主義的な見通しの元に出席へのモチベーションを持っていた学生さんたちの視界を混乱させ、不条理と無力感と無責任感を蔓延させることになるのか、どっちになるのか、予測がつかなくて、やってみなければわからない。あるいは、ある程度もちこたえたあと、欠席者とか脱落者とかがある水準を超えたら(つまり、最終成績の合格者の割合の見込みがある水準を割り込んだら)、雪崩を打ったようにみんな出てこなくなる、とか。あるいは、そうやってほとんど出席しなかった学生さんたちが、試験のときだけ登場して答案を書いたときに、最後まで(我慢して?)出席し続けた学生さんたちよりいい答案を書いてしまったばあい、もちろんそういうケースこそ合格にする、逆に出席ばかりで内容を理解していなければ意味がない、と言うのがこの仕組みの本質なのだけれど、あまりにそういうケースがたくさん発生したら(けっこう発生しそうな気もするわけで)、心情的には耐えうる限界を超えるかもしれない。だから、この仕組みがあるていどうまくいくのは、学生さんたちがちゃんと出席しつづけることにかかっている、というふうにも想像できる。それはつまり、はなしが循環しているということで、それはつまり、社会というものがそもそも循環論的になりたっているということとおなじだろう、とか。

まぁそういうわけで、実現可能かどうかはさしあたりおいておくとして、こういう「仕組み」を考えるのはおもしろい。来年度から担当がはじまる人間学部共通科目の「人間論6・人間の教育」という講義では、いまやっている専攻科目「教育社会学」とはべつに、もう少し基本的なところで教育を社会学的に(あるいは、社会学をベースにして学際的に人間学的に)考えるみたいなことをやる予定である。大学の出欠なんかを手がかりに、自分のこととして、「全体と個」みたいなことを考えてもらうために、ちょっと喋ってみようかな、ともおもわなくもない。


 


3月16日。このところなにをしていたのか / 音響さん / プチ帰省。

例年、2月の前半までは学期末業務とか前期入試業務とか卒論発表会だのなんだのがごじゃごじゃあって、そのあと少し空いてそこで研究室紀要の論文をまとめ、2月の終わりから3月の上旬にかけてまた学年末業務とか後期入試業務とか研究室紀要のとりまとめと編集出稿なんかがあり、そのあとまた少し空いて、というかんじであって、ことしもまぁそうなっている。もっとも、就職したころとはちがって、この「少し空いて」というあたりにもごじゃごじゃといろいろな用件とかがあって、以前のように文豪生活をささやかに営むということもできなくなってるのもたしかである。

2月某日、ネットブックPC購入。ONKYOがSOTECを買収してたらしく、ONKYOロゴの入った3万円台の安かろう悪かろうマシンである。店頭で目にとまってからしばらくの間、買わないぞ買わないぞと思っていたのだけれど、某日、学校から帰りの電車で同僚の先生に、3万円台のPCがあってなかなか魅力的なのだけれどいかに自分はそれを買わない意思が固いか、ということを切々と訴えていたら、「でも3万円ならダメでもまぁありですよね」とか、「学生への情報提供という意味でもいちど買ってみる意味はありますよね」とか言われているうちに、ぐらぐらきて、翌朝、電気屋に自転車を飛ばして朝イチで買ってた。やれやれ。
それで、まぁ結論としては自分としてはまぁ値段相当で満足しているけれど、まぁ値段相応の欠陥(調べてみたらssdのプチフリ問題、というのだそうだ)も見つかって、まぁ全体的に作りも安物っぽいのだけれどまぁそれもふくめ納得である。ONKYOというメーカー、なんとなくオーディオのイメージがあって、SOTECなのにONKYOのロゴがついているというのが非常に気に入っている。
もっとも、これはあくまで持ち運び用のネットブックで、いままで工人舎のsa1f、ひとよんでサイフ君、が受け持つはずだった(けれどもうひとつスペックが足りなくて活躍できなかった)仕事を引き継ぐことになるはずで、そうすると結局、下宿のメインマシンも、個人研究室のメインマシンも、やはり買い替えのニーズはまるまる残ったままなのである。うーむ。

しかし、つい先日、入力専用のpomeraを購入したばかりで、またネットブックを買うなど、どうもふらついている気はする。まぁしかし、そもそもpomeraと似たり寄ったりの値段でPCが買えてしまってるわけで、ふたつ合わせたってふつうのノートパソコンと変わらない値段だったりするので、これはもう自分が悪いわけではなくてこのてのPCとかガジェットとかの市場が混乱しているから仕方ないのだ、と思うことにする。まぁ、あれこれ平行して使っているうちに使い方は整理されてくるであろう。

そんなこんなしつつ、正月に帰省しなかったので3月こそは、と思っていたところもあって、しかしごじゃごじゃしているので日程も切り詰めて、けっきょく土日の一泊二日で帰省してきた。プチ帰省といったところ。これが意外とわるくなかった。たしかに、実家の滞在時間が24時間もないのに往復の汽車に長いこと揺られ、かつ切符代が変わらないというのは、身体的にも金銭的にもコストパフォーマンスは悪いわけで、学生時代やプーOD時代なんかはコストパフォーマンスのことが頭から離れない生活をしていたので一泊二日帰省なんて考えられなかったのだけれど、よく考えれば今はべつにそのぐらいしたってかまわんわけである。デジタルのウォークマンをずっと聴いていたら、アルバム数枚分で帰省できてしまう、という言い方もできるわけで、切符さえ取れれば、身体的な負担もずいぶん楽になっているといえなくもない。乗り物ダメ旅行嫌い、にしても、ずいぶんハードルは下がってきた気はする。
まぁ、1日でリフレッシュができたかというと、正味どうだかねという気もしなくもないけれど、まぁこのたびは、一泊二日という出張的なフォーマットで帰省する、そういうのもあるのか、という発見込みで、よい帰省だったということにしよう。


 


4月3日。新年度。/見る前に買え。考えるな、買え。/パイレックスのボウル。/『子どもの「問題」行動』が出た。

新年度がはじまった。年度末から年度はじめにかけてものすごくばたばたとあわただしいし、去年からは専攻の研究室でかかわっている大学の地域連携事業のイベントが年度末にあって、また、今年は曜日の関係もあってか年度始めのオリエンテーションの日程がタイトで、とてもたいへんである。
ともあれ、うちの専攻、ことしも20人の新入生を迎えて、やはり4月というのはフレッシュな感じでいい。桜もたくさん咲いているし。

新年度から、けっこう事務仕事の増える予感があって、それもあってこのところいろいろと買っている。2、3まんえんぐらいのガジェットを、ぽいぽいと買った、という印象があって、印象上は去年の秋にウォークマンを買ったあたりがはじまりで、pomeraも買ったし、ネットブックPCの音響さんも買ったし、先日は商店街イベントの撮影をしようと思い立って、前日に、デジタルムービーカメラのXactiってのを買った。2まんなにがし。いわゆるビデオカメラより手軽なかんじで、イメージとしては昔の8mmってかんじ。操作感としても、スイッチを入れてカメラを向けて録画ボタンを押すと撮れてしまうわけで、なんかハードルが低くなったかんじがいい。イベントで学生ががんばってるところとか、けっこう撮ったけれど、なんか、あとは腕ですね、見直したらもひとつ使えそうなショットが撮れてないという。でも、面白いものを買った感はある。
そういうわけで、ガジェットをちょこちょこ買っているのは、ひとつは事務仕事が増えるだろうという予感からだし、もうひとつは、研究室や下宿のメインのPCを買い換えるという大目標をぐずぐずと回避しつつガジェットを買って気を散らしている、というところもあるし、また、日々降り積もるストレスを衝動買いで発散している、というところもあるだろう。ていうか、そもそも自分が今までの人生、衝動買いをしなさすぎたし物持ちが良すぎた、というところがあるので、ぱっと物を買う練習というのも必要か、というところもあるのだ。

某日、パイレックスのボウルを買ってくる。ながねん思っていたのを、えいと購入した、という。20cmぐらいのサイズ。で、これをサラダボウルにしちゃおうということである。サラダを作ってもちょうどいい器がないわけで、ガラスのボウルで器にしちゃおうという。で、まぁふつうに考えるとこれ、大きいわけで、このボウルいっぱいにサラダを作ると、俗に馬に食わすほど、という言い回しがあるそのとおりに大量になる。それを食べるわけで、それだけ食べると、それ以外の肉類やらご飯やらをあまり食べなくても、間が持つ。間が持つってのは重要で、逆に言うと、なんとなくお酒を飲みながら、あるいはお酒なしの時でも、なんとなく間が持たないので食べるってことは、たぶんあるわけで、それがなくなるというのはダイエットによろしい。
なにせ一人分にしては量が多いので、何種類かの野菜をどうしても使おうという気になる。というわけで、たとえば水菜とレタスとサニーレタスとスプラウトとトマトとピーマンとたまねぎ、みたいな組み合わせで、わさわさと食べている。馬になった気分である。

一年前の今ごろ、原稿を一生懸命書いていて、そのうちのひとつが去年出た柴野先生の編著『青少年・若者の自立支援』に入れていただいた論文、で、その論文のスピンオフ編「問題行動の発見と対応・補遺 − いじめ・情報化社会・シミュラークル」を今年の研究室紀要に載せてそれがこのまえ出て、さらに、去年もうひとつ書いていたものを入れていただいた武内清先生の編著『子どもの「問題」行動』(子ども社会シリーズ5)学文社、で出た。ありがとうございます。めでたい。
この本、教育、幼児保育系(子ども学部など)のテキストとして企画されたシリーズで、全体的にとても読みやすくてわかりやすいつくりになっている。で、わたくしは「子ども「問題行動」のエスノグラフィー」というお題で、エスノメソドロジーとか状況論とかワークプレースのエスノグラフィーのはなしを、破格にわかりやすいかんじで書いたつもり。ええと、教育や保育の現場に立つ人たちに、その手のはなしを知って欲しいと本気で思って書いたつもりなんだけれど。
まだ出版社サイトにもamazonにも出てないけど、著者献本で現物をいただいたのでまちがいないだろう。amazonに出たら、れいによって表紙写真つきでここからリンクを貼ろう。


 


4月17日。授業が通常営業に、と今年も同じようなことを。

だいたい例年、このぐらいの日付で、ここに、授業が通常営業になったとか、今年度のペースが見えてきただとか、ようやく週末が普通に休みになってほっとしただとか、書いているようである。何かここに書こうかなと思って、過去ログを覗いてみるとあらふしぎ、書こうかなと思っていたようなことを毎年のように繰り返し書いているのであきれるわけである。まぁそういうものだ。

年度始め以来、仕事量の増えるような役になり、それでようやく人並みていどには働かなくてはならなくなったものか、けっこうたいへんなかんじである。もっとも、ほとんど空回っているのだけれど。空回りというのは、あれですよ、当人はいっしょうけんめいなわけで、たいへんさに違いはないのである。で、なんとかかんとかやっていこうとじたばたしているところ。
研究室と下宿のPC、メインマシンを買い換えるという課題はまだ解決していないけれど、先日3まんなにがしで購入したネットブックの音響さんが、さしあたり研究室のほうで所を得て、今はおもに、ドキュメントスキャナを動かすマシンとして働き始めている。けっこう立ち上がりも早いし、いままで大学の共同研究室のほうで誰にも使われてなかったスキャナを個人研究室のほうに引き取って、事務書類なんかをできるだけすみやかにPDF化してしまうという。下宿まで持って帰ってスキャンするより話が早いというわけで、けっこう使えているみたい。
研究室のとくに机周りの整理も、もっとちゃんとやらないと、混乱して仕事がわやわやになりそうで、春休みに少しは手をつけたけれど、まだまだ整理する必要がある。

某日、空きコマの時間に、大学の近くのホームセンターに行ってみる。そんなところにホームセンターがあるなんて、気付いていなかったわけで、なにかの拍子に知ったのが春休みぐらいで、それでネットで地図など見て、なるほどあるようだ、というところまではいったけれど、とにかく大学のある街をろくに歩いたこともなかったので、地図上にあっても距離感がさっぱり分らない。ちょうど一年前の春休み頃に、ようやく少し散歩をしたのだけれど、それとは反対側の方角のほうはさっぱり歩いていなくて、ちょうど古代の世界地図のように、端っこのところがふわふわと雲で隠れているとか、大きな滝になって向こう側が存在しないとか、そういうイメージだった。ところが、その先にホームセンターがあると知ってひと月ぐらいのタイミングで、ちょうど、卒業式があって、卒業生が謝恩会をやってくれたのがそのホームセンターの向いの店だった。ので、ちょっととんとん拍子に、ホームセンターの外観を眺めるところまではいったわけだ。で、このたびようやく実際に自力で行ったという。歩いて20分ぐらいで行けた。その気になりさえすれば意外と近かったわけだ。さしあたりは、ネームラベルライター(カシオのネームランド)を購入。机周りを整理するぞ、という気持ちで。
で、その帰りに、これは大学の近くにあると最初からわかっていながら足を踏み入れたことの無かった、というかそもそもそういう店を利用したことが人生のうちでなかったわけだけれど、ほか弁屋さん、というのを利用してみた。ふむ、これがほか弁というものか。意外に悪くないもんですね。

去年、書いていたものを入れていただいた武内清先生の編著『子どもの「問題」行動』(子ども社会シリーズ5)学文社、が出た。Amazonでも書影まででた。めでたい。


武内清(編)『子どもの「問題」行動』(子ども社会シリーズ5)学文社
2010年3月30日発行、2000円。


この本、教育、幼児保育系(子ども学部など)のテキストとして企画されたシリーズで、全体的にとても読みやすくてわかりやすいつくりになっている。で、わたくしは「子ども「問題行動」のエスノグラフィー」というお題で、エスノメソドロジーとか状況論とかワークプレースのエスノグラフィーのはなしを、破格にわかりやすいかんじで書いたつもり。ええと、教育や保育の現場に立つ人たちに、その手のはなしを知って欲しいと本気で思って書いたつもりなんだけれど。


 


5月5日。よく晴れたゴールデンウィーク。アスパラガス。たけのこ。まめごはん。かしわもち。ルノワール。

今年の連休は天気にめぐまれて、さわやかでよかった。去年は風邪を引いてしかも原稿を書いていて(書けなくて)けっこうたいへんだった。まぁそれによって、去年の連休はエスノメソドロジーの古典的な文献をまとめて読み直したりして、それは学生時代いらいのかんじだったのでそれはそれでよかったのだけれど。それで結局書きあがった論文を載せていただいた本が↓このまえ出たわけなので、めでたしでよかったのであるけれど。
今年はそういうたいへんそうなタスクがとくになくて、のんびりした。4月はなんだかんだでしんどかったという気もするので、骨休めという意味もあったし、まぁそうでなくても、タスクがなければのんびりする。めざましい活動とかは、まぁ、しないわね。

買い物についていくつか懸案があって、連休中に買ってしまおうかななどと思ってもいたのだけれど、けっきょくぐずぐずとしていてさきのばしである。そんなもんだ。暇だと、目がさめたときのテレビの占いなんかが気になるわけで、それがまた妙に、買い物をするな的な?ことを言うんで、まぁどうせなら縁起の悪いときに買い物をすることもなかろうなどとのんびりしたことをいいつつ、さきのばしにするわけで、つまり、買う気がないわけである。その証拠に、おなじ占いで、今日こそは買えといわんばかりのことを言った日もあって、これはどうせなら縁起のいい日に、と思って出かけてはみたものの、自転車をこいでいるうちに、だんだん気持ちが重くなってきて、本当に必要なのか?とか自問自答しはじめて、けっきょく店の前を素通りしてぐるっと大回りをして帰ってきたりとか、結局まぁそういうことになるんで、縁起のなんのと言っているうちは要するに買う気がないということなわけだ。このへんの機微は、ながらく生きてみてわかってきたところだけれど、たぶん傍目から見たら一瞬でわかるのかもしれない。まぁそういうものだ。

で、結局、近所をうろうろと自転車でうろついて連休が終わったというわけで、それでよかったのですかというとよくわからない。しかし、4月には妙に寒さがぶり返したりしていたのに比べて、この連休の五月晴れぶりはすばらしかった。まがりなりにもその中を自転車でうろうろできたのだから、よかったのではないでしょうか。

5月にたべるもの、ということで、アスパラガスを思いうかべるのは獅子文六の食味随筆を繰り返し読んだせい、で、おいしそうなのを買ってきてゆでて食べる。豆もおいしそうなので豆ご飯を炊いて食べる。大きなたけのこが山積みになっているのを横目に、ゆでて売ってるほうを買ってきて土佐煮にして食べる(これは、折からの陽気でじゃっかん足が早く怪しくなりそうな気配があったので、念入りに火を入れる)。柏餅の販売をやっているのでこれも縁起物だといって買ってきて食べる。そういうことだけでも、ゴールデンウイークをまんきつしたような気持ちになる。

あと、なにかやはり連休らしいことってことで、下宿につんどく状態のビデオやDVDから、ルノワールの未見のを発掘して見た。『トニ』『ピクニック』『獣人』『ゲームの規則』『河』『黄金の馬車』『恋多き女』の7本立て。ちょっとしたルノワール映画祭ってかんじのプログラムである。よかった。めのまえにある幸福をためらいなくつかまえて満喫する人たち。まぁ、ブルジョワのおとぎばなしだといえばそのとおりだし、おとぎばなしがわるいというんであれば子どもたちにおとぎばなしを読んで聞かせてはいけないことになるわけで、つまりおとぎばなしけっこう、ということだろう。

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5月27日。凍る水。

ゴールデンウィークが終わってしまうと5月はタフだ、週末が行事でどんどん埋まっていく、ということを、毎年ここに書いているわけで、まぁ今年も同じくである。毎年同じなんだから省略しても良さそうなものなんだが、こういうのは事実を報告するために言ってるんじゃなくて、パフォーマティヴなっていうかまぁようするにわかってても言ってるんである。暑いときに「暑い暑い」と言うようなもので、痛いときに「痛てて・・・」と言うようなものである。もちろんそうやって口をついて出てくるようなことばかり書いているのはいかにもバカみたいだ。しかしこれまた、バカみたいとか言うまでもなくまさしくバカみたいな日々を送っているということがパフォーマティヴに体現されているのである。まぁどうでもいい。

そういうわけで、例によって自然の家で一泊二日の専攻合宿研修にも行ってきたし、ソフトボール大会もあった。こんどの週末は保護者会である。このへんの5月の週末イベントをもう少し整理する必要がありそうで、具体的にはソフトボール大会の時期を夏休み前後とかにずらすかなぁ、あるいは競技種目を変えて秋冬にってのもありかなぁ、などと言いつつある。このへん、専攻の行事を、「学生が企画運営する機会」かつ「新入生歓迎と懇親」という意味付けでうまいことまわしていたのを、やはりちょっと交通整理すべきときかもしれない、ということでもある。

夕方からの会議に急いで廊下を歩いていたら右太股の裏側にピリッと痛みが走って、痛てて、となった。合宿で鬼ごっこに巻き込まれて全力で走った(ら転けた。年齢をかんじたなあ)のが影響したのかしら。その日は足を引きずって帰宅し、まぁ寝て起きたら翌日は少しよくなっていたけれど、いまだに太股と、ふくらはぎに違和感があって、力を入れたり走ったり急に動いたりはちょっと避けている。ちょっとした故障者リスト気分であって、まぁイチローみたいなもんだと思っていただけるとよいとおもう。

それやこれや、また、4月から事務仕事の多い役職になったこととかもあり、またいろいろな案件が重なったこともあって、まぁしかしタフだった。それで、遅くに帰宅したりすると、もうとりあえずアルコールを飲んでそのまま寝てしまうということにもなる。リビングの床にころがってうたた寝しているうちに明るくなってたりする日が続いたりするとこれは健康によさそうではないけれど、ま、そういうこともあったりなかったりである。ま、あれです、たまには人並みに働きなさいということでしょう。

それで、5月になるともう暑いということもあって、「暑い暑い」とか言いつつ炭酸水を飲むことになる。甘みがなくてむやみに沸騰した、ウイスキーとかを割る用の500mlペットボトル入りの炭酸水を愛用していて、これでワインを割ったり日本酒を割ったりジンを割ったり、午後の紅茶を割ったり(昔、一瞬だけ、「午後の紅茶」のソーダ割り、GoGoTeaとかいってブリトニー・スピアーズがCMで売ってた。あれおいしかったな)、まぁそのまま飲んだり、けっこう傍若無人に愛用している。
それで某日、「ふー疲れた疲れた」と言って帰宅して、ジンをソーダ割りにして飲んでいた。冷やしかたの具合だか、ときどきそうなるのだけれど、蓋を開けたら炭酸が急に沸騰して中身が吹き出しそうになったりしたのだけれど、まぁ無事に飲んでいた。
それでしばらく飲んでいて、テレビなど見ながらぽやっとしていたら、視界のふちのほうでなんか炭酸水のペットボトルの様子がおかしいのである。む?と思って見たら、ペットボトルの中に半分ぐらい残っていた炭酸水が、目の前で見る見るうちに凍っていって、ごとりと音を立てて堅い氷の固まりになってしまった。ふしぎだ。
まぁ、過冷却、かなんかいって、液体のまま氷点下に冷却されたお酒かなにかで、グラスに注いだりして刺激を与えた瞬間にシャーベット状になります、みたいなおもしろ実験みたいのはテレビでよくやってるし、基本的にはそのての原理なのでしょうと思う。また、炭酸ってのもたぶん関係しているのだろう、とも思う。でも、べつに冷凍庫に入れていたわけでもないし、冷蔵庫から出してしばらくたって、ついさっきまでふつうに飲んでいた炭酸水が急に目の前で、シャーベットどころか大きな氷の固まりになったりすると、びっくりする。「おーびっくりした。ふしぎふしぎ」とか言いつつひとりで氷の塊の入ったペットボトルを振ってみたり電灯にかざしてみたり不思議がってるわけで、パフォーマティヴといえばパフォーマティヴ、バカみたいといえばバカみたいな日々をおくっているというわけである。

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6月20日。梅雨どきの楽しみをさがす。/梅酒をつける。

さてさて6月というのは、祝日もなくて授業が通常営業で続くという、まぁしんどそうな月である。ただ、5月のほうが行事で週末がつぶれたりしてずっとタフな月だったりして、じっさいにはその疲れからの回復をはかるということになっている。春学期の中盤の授業を粛々と進めていきながら、じわじわと回復を待つという。まぁ、そういう言い方をすればいかにもぱっとしたところのない時期ではある。それで梅雨に入ったりもするわけで、放っておくと気が滅入ってきがちな時期ということでもある。なにか楽しみをさがさなくてはね。

雨が降ると、いっそう引きこもりになってくるわけで、そうするとそれを逆転の発想で、本を読んでいようか、ということになる。もう何年も、本といっても通勤電車で流し読みが多くなっていて、学生に勧めるような新書本か、ビジネス書か、というのが多くなっていて、なんかいつからかそんなことばかりぼやいてはいるけれど、そんなものを読書に勘定していてはいかにも精神が荒廃してくるってもんである。やはり、本を読んで、新鮮なきれいな空気を呼吸して息を吹き返すようなのをこそ読書と呼びたいものだ。でもってそれにはほんとは、ゆっくりのんびりした時間が必要なわけで、そんな贅沢がどこまでゆるされるのかはわからないのだけれど、さしあたり雨が降っていて引きこもらざるを得なくなったのなら、なるべくゆっくりした気分を心がけつつ本らしい本を読もうか、などと思う。

スーパーで梅が山積みになっている。毎年、季節になると心が動くという点ではたけのこと並ぶのが梅である。梅酒ぐらいなら、ということで今年はついに意を決した。材料を買ってきて、それでいざ漬けてみれば、あんがいあっけなかった。うまくいっているかどうかは秋に判る。まぁ、度数の高いアルコールに漬けるわけだから、よほどでないかぎり腐ったりすることもないだろうと思う。こういうのも梅雨どきの楽しみということになるのだろうね。まさにね。梅だけにね。

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