『検証・大須事件の全貌』への感想・批評

 

日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過

 

(宮地作成・編集)

 〔目次〕

   はじめに

   森田愛作 「象しょう」同人、『象65号、2009年秋』掲載2009年11月30日(追加)

      一、政権交代

      二、『検証・大須事件の全貌』

   武藤功 「葦牙」の会、『葦牙ジャーナル第83号』掲載2009年8月15日(追加)

   中里喜昭 「葦牙」の会

   H.I.

   M.H.

   KM さざ波通信、JCPW常連投稿有名人KM生こと

   清水良典 文芸評論家、朝日新聞「東海の文芸」掲載2009年5月26日夕刊

   K.S.

   清水信 文芸評論家、中日新聞「中部の文芸−小説・評論」掲載2009年6月24日

   脇田憲一 元枚方事件被告、『労働運動研究復刊第23号』掲載2009

      一、はじめに−[三大騒擾事件]の全貌が歴史の明るみに

      二、日本共産党[軍事闘争]の主要事件の概要

      三、[日本共産党史偽造]調査研究の意義

      四、「六全協」後における宮本体制の「党史偽造」

   由井格 社会・共産運動研究会、『情況月号』掲載2009

       1、大須事件の全貌

       2、大須事件の複雑性

       3、「武装デモ」と「騒乱罪」

       4、「極左冒険主義」と宮本顕治

       5、大野昭之遺稿集『「自主独立」「民主集中」の虚構』の衝撃

 

 〔関連ファイル〕         健一MENUに戻る

    『検証・大須事件の全貌』出版に当たって

    第1部『共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備』 『第1部・資料編』

    第2部『警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備』 『第2部・資料編』

    第3部『大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否』 『第3部・資料編』

    第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』

    第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    google『大須事件』 yahoo『大須事件』 『amazon HP『御茶の水書房』

 

 はじめに

 

 拙著『検証・大須事件の全貌』にたいし、多くの方から、感想・批評をいただきました。ありがとうございます。その方々の了解を頂いて、それらを感想・批評が届いた時系列順に載せます。本名の人と、頭文字にした人があります。森田愛作さんと武藤功さんは(追加)なので、トップに載せました。

 

 

 森田愛作 「象しょう」同人、『象65号、2009年秋』掲載2009年11月30日(追加)

 

 民主主義の成熟へ・二つの快挙 政権交代と『検証・大須事件の全貌』

 

 〔小目次〕

   一、政権交代

   二、『検証・大須事件の全貌』

 

 一、政権交代

 

 戦後六四年、初めて「選挙で政府をひっくり返した」こと。自分の投じた一票で政権が代わる。日本では今までなかった貴重な国民的政治経験である。

 

 私たちは、政治権力を選挙という手続きを通して選ぶという当たり前のことを実現するのに六十四年もかかったのである。主権在民の憲法を手にしながら、なんという回り道をしたものかと思う。正直なところ生きているうちに政権交代(革命)を見ることができるとは思わなかった。まさに日本国民の快挙である。

 

 長生きの価値

 

 今度の総選挙で政権交代を果たした民主党の鳩山党首は「身震いする思い」と感慨を述べた。私自身もその「身震いする思い」を覚えた一人である。

 

 これにはきわめて個人的な感慨がある。十八才の時に変革(革命)への問題意識を身に付けて以来今日に至っているのだが、一挙に時代を繰り上げて、九年前、九十才の母を亡くしたときから話をはじめたい。生前の母は「年寄りにこんないい時代はない」と言いながら、それだからなのだろう「ポクッと死にたい」とよく口にした。

 そんな時、息子は言葉に窮し、「なあ、ばあちゃん。世の中の移り変わりを見るだけでも、長生きする価値があるよ」と答えたものである。

 

 この間のことは、十四年前の本誌二二号「凄い時代をいきている」で書いた。その後の母は希望通りポクッと逝った。その日の昼間、乳母車を杖代わりに歩いていた母は、夜半になって心不全でアッという間に旅立った。

 そしてその息子は今年七七才になり、社会的に無力な老人が一票を投じるという平和で日常的な行為によって、戦後六四年間続いた自民党政権が、あっという間に権力の座から転落し政治権力の交代を目のあたりにしたのである。

 

 それこそ母に言った「世の中の移り変わりを見るだけでも、長生きする価値があるよ」という言葉がそのまま自分に返ってきた。生きている間に革命(政治変革)をこの目で見たという感慨が私には強くある。

 

 体験を通しての変遷

 

 敗戦時十三才で丸裸(空襲で)になり、中学二年中退、社会のレールをはずし、生きるために汗と油と貧乏にまみれるなかで、社会的な矛盾を政治変革で解決しようと、政治活動、組合活動、住民運動、地域活動、文化活動など様々な活動に参加してきた。(本誌五二号「パンドラの函に残るもの」)

 

 政治的には共産党に入党申請し、スパイ容疑で疎外されたのは全日自労時代、共産党の非合法的体質を身をもって味わった。安保闘争では全自運(トラックの組合)で名古屋駅の構内で国鉄列車を止め、市交通労働組合で社会党に入党、スト権ストでは都市交通の組合でゼネストに参加した。それでも自民党政権はビクともしなかった。

 

 地方選挙、国政選挙では社会党の運動員として労力をそそいだが、三分の一の壁は破れなかった。全選挙区に候補者を立てないでは政権交代が出来るはずがない。当時の社会党は護憲勢力の維持という大義名分で三分の一の議席にあぐらをかいていた。

 

 地域社会で公害反対の住民運動にかかわって、労働組合的思考がいかに地域住民と乖離しているかを思い知らされた。その地域社会は身近な生活には反応するが、根底にある政治には「誰がやっても同じ」「政治は変わらない」と現状容認で関心がない。

 私たち国民には「権力の主人公は我われ国民」という意識が育っていない。つまり主権在民の立派な憲法を持っていても人々の心に根付いていなかった。

 

 主権在民の未熟

 

 そんななかでも変革の問題意識は持ち続けたが、労働者として運動やデモやゼネストを通しての体制変革思考は、住民運動や地域活動に参加していくなかで国民的(或いは市民的)普遍性を持っていないと感じるようになった。

 そして自分自身は定年で現役社会から引退、活動の第一線から身を引いた。つまり一票の意思表示でしか政治に参加できない立場になったとき、この日常の場所が変わらなければ政治変革はできない。と思うようになった。

 

 ふり返ってみれば、民主的な手段で政治権力を変えるという憲法がありながら、デモやゼネストなどの大衆運動で政権を打倒するという思い込みを持ち、自覚したものだけの直接行動で物事を決しようとした戦後左翼の誤りに気がついた。憲法が出来てから六十余年、主権在民の中身を充実できなかった私たちの不勉強と怠慢である。

 

 国民的政治経験

 

 「誰がやっても同じ」「長いものには巻かれろ」という日本の政治風土のなかで、スエーデンを旅行した友人から聞いた次の話をうらやましいと思った。

 一介の主婦がパブで一杯やりながら「この頃ビールが気楽に飲めなくなったのは政府の政策が悪い。次の選挙を見ててほしい。政府をひっくり返してやるから」と言ったそうである。一票を投じれば政権がかわるという経験を持っている国民の強さではないか。

このことは前述の「パンドラの函に残るもの」で触れたのだが、遠い道のりだと思った。

 

 そのころから私の命題に「我われの国民的政治経験に何があったのだろうか?」という問いかけが生まれた。政治や労働運動の先輩から出てくる答えは、「安保闘争」「全共闘運動」「細川政権の成立」などが挙げられたが、「国民的政治経験はなかった」と答えた人はなかった。つまりこの時点で、スエーデンの主婦のように、一票の行使によって政権交代の経験を有していない私たちの限界だった。

 

 今回、一票の行使によって政治を変えることを経験したことは、私たち国民の意識のなかに根付くだろう。極めて個人的には選挙という制度を通して革命(政権交代)を実現したのだという感慨がある。

 

 二、『検証・大須事件の全貌』

 

 二つめは本誌、五五号から六二号にわたって掲載された宮地健一氏の『検証・大須事件の全貌』の出版である。火炎瓶闘争を指導した当時の日本共産党の国内外の背景と、国家権力と対決しながら、内なる不条理と戦った貴重なレポートである。

 

 政権交代が国民の権力批判なら、同書は反権力側の内部批判でもある。日本共産党の何事も党の指導優先という独善がいかに多くの大衆団体に混乱をもたらし、真面目な活動家を傷つけてきたことか。なかでも共産党内部におけるファシズム的体質は、同党が人間の解放をスローガンにかかげているだけによけいにむなしい。

 

 反権力側の政党や労働組合、自主的な集団の地域住民や文化サークルに至るまで、人間の集りに民主主義は不可欠である。まして自己規律を伴う組織は民主主義が機能していなければファシズムになる。ソ連を例にあげるまでもなく内部権力の怖さは意見の違いを反革命の罪命で粛清してしまう。身近なところでは連合赤軍の仲間が仲間を殺す悲惨さである。閉鎖的であればあるほど権力の圧政にもまして不条理なものとなる。

 

 本書は自ら指導した暴力闘争の責任を法治国家に問われた時、共産党と被告団の内部矛盾を歴史に問うた貴重な記録である。

 私が言いたいのは事件後、五七年、これだけ大きな政治事件と左翼の過ちを誰も検証しなかったことである。著者の怨念が背景にあるとはいえ、今回の執筆がなければ闇の中に葬られてしまったろう。私たちの側(非権力者の側)の組織の問題として、さらには内なる民主主義の問題意識の快挙である。

 

 アメリカの元マクナマラ国防長官はベトナムまで出かけ、なぜベトナム戦争を回避できなかったかを検証している。最近ではNHKの「日本海軍・四〇〇時間の証言、やましき沈黙」など、歴史の反省なくして民主主義の成長は望めない。

 

 大須事件の受けとめかた

 

 「大須事件と裁判」が『象』に連載中から、そしてその全文が単行本『大須事件の全貌』になって出版されてからも、これはと思う人にこの著作を紹介した。

 

 ()、「大須事件ってなに?」

 ()、「なぜ、いま大須事件?」

 ()、「どうして古傷を暴く?」

 ()、「やっと世に出たか」と反応は四つに分かれた。

 

 ()はもっとも多い反応である。大須事件は全共闘世代以降でほとんど風化している。

 ()で意外だったのは組合運動の大先輩の反応である。大須事件を社会的な事件として記憶にあるものの、組織内民主主義の問題として捉えていなかった。

 

 ()の否定的な反応を示したのは現役の共産党党員か共産党にシンパシイを持っている人たちである。その人たちにとっては、そこから教訓をくみ取る事件でなく、過ぎ去ったこととして古傷を暴くことでしかなかった。面白かったのは理念で共産党を支持し、その活動のマイナスの実態に触れなかった人たちもその傾向をもっていた。

 

 ()はかつて共産党を信じて真面目に活動し、裏切られ傷を受けた人たちであり、もしくは共産党の方針や活動に疑念をいだいた人たちである。

 そして人間の組織や集団は真に人間を活かすものでなければならないという真摯な人たちだった。

 

 なぜ大須事件か

 

 大須事件を通しての共産党批判と裁判における国家権力批判、著者の宮地健一氏の原点は、本文を読んでいただければ明らかなので、私の原点を明らかにしておきたい。

 

 一つはこの大須事件の現場(宮腰、帆足、訪中講演会)に聴衆として参加していたこと、故に火炎瓶事件の現場の目撃者だった。二つ目はその後、共産党にかかわりその実態にふれたことである。全日自労熱田職安細胞に入党申請し,スパイにされたときはこんな理不尽なことはないと思った。

 

 「なぜ、スパイなのか?」と細胞会議で聞いても具体的な内容はなく「上部の指示なんだ」というばかり、果てはおばさん党員が「あんたの目がくさっとる」言い出す始末である。革命の前衛政党は一方的な党の通達があるだけで、本人の人権はなかった。私はこの時点で共産党が批判するブルジョア道徳の方がよっぽどましだと思った。なぜなら罪を告発されたらその理由の開示と正否をただす人としての権利があるからだ。

 

 宮地氏と違って私は一介の労働者だったから仕事を奪われることはなかった。

 その後の顛末を簡単に記す。六全協で私のスパイ容疑は撤回され復党の打診があったが、二度と共産党に戻る気はなかった。このスパイ事件は私の転機になった。

 

 共産党に対する免疫ができたことである。あのまま共産党にいたらコチコチの共産党活動家になっていただろう。ただその後も、全自運、名交労組などの組合活動を続け、現場の労働者としての姿勢を貫いたことを自負している。

 

 一つ大事なことがある。当時の自労の細胞仲間も細胞長の内田基大さん(全日自労委員長、元愛労評副議長)も、私のスパイ扱いを容認した学習仲間の友人たちも、合唱団のサークル仲間たちも、内心で「なぜ、彼がスパイ?」という疑問を持ちながら、その疑問を問いかけなかったことだ。これは恐いことである。ひどいのは組合に関係のないサークル仲間まで私をスパイ視して背を向けたのだった。この辺のニュアンスは宮地さんも指摘しているが、私たちの側にある内なる権威に無批判な悲しさと大勢に順応する弱さである。

 

 余談になるが当時の学生仲間でたった一人「スパイではない」と擁護したのが今のカミさんである。彼女とはステデイな関係だったから当たり前だと云えばそれまでだが、小説の素材になりうると思っている。

 

 この共産党熱田職安細胞のスパイ事件はもっと小説的な落ちがある。その細胞にシベリア抑留帰りの荻野さんという壮年の党員がいた。労働現場の先輩としてよく私の面倒をみてくれた。彼は現職の警察官だった。不覚にも警察手帳を落とし正体がばれたのである。

 

 共産党は純真な若者をスパイ扱いにし、本物のスパイを党内に潜入させていたのだった。党員の除名は勿論、連日の組合の糾弾で荻野さんは職安から姿を消した。

 

 その後、私は日雇い労働者の世界を脱出し、トラック労働者になっていくのだが、その荻野さんが民間会社にいるのを知り会いに行った。私が日雇いの世界から抜け出たことを喜んでくれた。

 

 大須事件でも共産党の軍事委員が警察のスパイだったという事実がある。映画の世界のような話だが、共産党側から云わせれば、権力側のスパイになるが、国家の側から云わせれば、武装闘争を方針とする危険な組織として当然な諜報活動ということになる。

 

 後年、共産党自身がこの火炎瓶闘争時代を左翼冒険主義の誤りと自己批判するのだがその責任を一部の人間に押しつけて蓋をしてしまったのは本当の総括になっていない。ゆえにその不透明さが今日までの共産党不信の根底にあると思っている。

 

 内部から

 

 私の文章の内容は私の原体験からきている。したがって自分史的な記述になっているのを容赦していただきたい。様々な運動体で活動していく過程で、その運動体の内部矛盾と向き合い是正していかなければ相手と戦う力を構築できないという経験は信念になった。

 

 内なる民主主義なくして本当の団結は生まれない。あらゆる運動にとってこれが最大の課題である。

 なぜ内側に厳しいのか? 政治で云えば政府権力が資本の言いなりになり、腐敗しても苦にならない。なぜなら私の価値観では交代すべき存在だからである。

 しかし私たちの側の政党や組織が権力的、非民主的、或いは腐敗するのは決して容認できない。なぜならそこに希望と未来を託すからである。

 

 ふり返ってみると、共産党のスパイ事件以来、社会党、労働組合、住民運動、地域社会のなかで、権威主義、教条主義、非民主的な運営に異議をとなえる姿勢を貫いた。したがってどの組織も幹部にならなかったが、幹部側も私を無視することはできなかった。

 自分たちの組織とはいえ、現状を問う問題提起には圧力や抵抗を伴うときがある。圧力から身を守るのはものごとの道理と現場の仲間や住民の支持だった。

 

 一つだけエピソードを紹介する。新幹線公害を告発したとき、列車の通過時には騒音と振動がひどくテレビの映像が見えなくなる。被害があるにもかかわらず、相手が国鉄という国の巨大組織のため、地域社会も自治体も政党も腰がひけて取り上げてくれない。

 

 やむなく我が家に壁新聞を張り、一人でNHKの受信料不払い運動を始めた。孤立無援の戦いで「蟷螂の斧」に似ていた。この運動が市民権を得たのは一年半後、マスコミがこの運動を紹介してくれた。当時の東京〜大阪間の沿線四〇〇キロ、沿線住民からエールが殺到した。同じ苦しみを味わっていたのだ。不払い運動は全国的な運動になっていく。

 

 思わぬところからクレームがついた。日放労(NHK労組)からである。さすがに役員からでなく、同じ社会党員で友人だった書記局員を通して、「不払い運動を止めてほしい。うちの集金労働者が困っている」と言うのである。私は頭にきた。「新幹線の電波障害をなくせば、いやでも不払い運動は止まる。発生源対策をしないで、この運動が駄目だというなら、あんたでなく組合の執行部が公式な機関で問題提起してほしいと」と反論した。

 

 一方、この運動は社会問題として訴訟に発展する。自治体も政党も労働組合(国労と動労、日本の反公害運動史のなかで、被害住民と企業内労働者が連帯した初めてのケース)も参加してくれるようになる。社会党も県大会でこの運動の支援体制を決議してくれた。

 

 いつしか日放労のクレームは立ち消えになった。これも余談だが、受信料不払い運動をかかえたNHKは、当初この運動を報道に取り上げなかった。名古屋で盛り上がった新幹線公害の運動が全国的に広がり世論を無視できず、報道内部で議論になり後半では積極的にニュースで報道するようになったと担当の記者が言ったことを覚えている。

 

 ここで住民運動と政党との関係にもふれておきたい。新幹線公害反対の住民運動は方針として、特定の政党に偏らないことを申し合わせていた。なぜなら地域社会には自民党支持の住民も大勢いるから、そうしないと住民の団結が保てないからである。

 一般に住民運動のなかに共産党系の人が多い。面白いのは社会党と共産党の体質が住民運動の側から見るとよくわかる。世話役活動を通して共産党の宣伝が見え隠れする。

 

 新幹線訴訟の弁護団は二百名を数えたが、中心的な実務を担当した弁護士は三十人ほどで、この人たちが十二年間の法廷活動と運動を支えた。二百人のなかに共産党の衆議院議員候補者のAさんが居た。彼は弁護団としての実務には無縁だったが、原告団、住民団体の集会には必ず顔を出しアピールした。日常の法廷弁護活動に汗していた弁護士を見ていたので名前だけで売り込む彼を尊敬できなかった。

 

 組合運動で資本と戦う場合、一番難しいのは相手の強さではなく、味方(労働者)の団結だった。資本の側から必ず切り崩しや懐柔がある。組合の情報を告げる味方も出てくる。こちらの情報が相手にもれても団結があればビクともしなかった。

 

 政治と選挙のことがこの関係でもっとわかりやすい。戦後六十年余、自民党政権が続き、自民党が強いのは、政府権力をたてに財界の支援を受け、地方の保守基盤の支持と、マスコミを操作して盤石、だからもっと反自民の勢力を増やせという組合の運動方針だったが、組合論理の正当性には限界がある。労働組合は行動力をもっているが国民の支持を得るには限界だった。住民運動にかかわるようになって、問題なのは自民党ではなくて、私たち国民の側の意識が問題なのだと思うようになった。

 

 こんなとき「国民の多様な価値観が各政党の議席数になって表れる」(確か名大の山田さん)という指摘を新聞で読んだとき目からウロコが落ちた。

 今回の選挙で長期にわたって自民党を支持してきた国民の意識が変化しだした。今後揺り戻し(民主党が政権担当能力を失ったとき)があったとしても、恐れることはない。よりよい政治を選択していく能力を国民は蓄積していくと思っている。

 

 懸念がある。国民が政治に絶望したとき、右か左のファシズムに流れるというのも歴史の教訓だ。民主主義は永久革命の思想だと言ったのは丸山真男さんではなかったか。

 

 内なる弱点

 

 権力や政権与党を批判することにたけても、内なる問題点を止揚できなければ何にもならない。いくら天下国家を論じても、家庭が荒廃していては人々は信用しない。

 

 本誌六三号、「七五才の人生語録」で「権力は腐敗する。弱者も腐敗する(易きに流れる)」と書いた。一般に前者はよく引き合いに出されるが、後者は見過ごされる。

 

 つまり相手(権力)を攻撃しているうちは無難だが、内輪(弱者)の問題点は身内批判になり、波風が立つからやりたがらない。内部批判や自らにかかってくる労力を逃げることに巧みな庶民の狡猾さも見てきた。弱者は目の先の利害関係には実に敏感である。

 

 先の住民運動で原告団の諸活動(毎月の原告団集会、法廷傍聴、街頭署名)など、多忙を理由にして参加しないくせに、裁判終了時の慰謝料配分の集会には頻繁に顔を出し真面目な人たちの顰蹙をかった。また地域社会で行政の公園管理に文句を言うけれど、町内会の公園の清掃の共同作業にはなんだかんだと言ってサボる。こんな人たちはどこでも居る。考えてみるとこの程度の見え見えの利害関係はかわいいものかもしれない。だが内輪のなかも腐敗要因があることを心しておかなければならない。

 

 大義名分の落とし穴

 

 大須事件にもどるなら、被告団内部の法廷闘争の路線をめぐって真実を述べようとする、永田、酒井、両被告と、火炎瓶闘争が共産党の指令によることを暴露されることを恐れた共産党弁護団との確執である。こういうときに使われるのが「利敵行為」という殺し文句である。法廷で国家権力と対じしているとき、味方の内容を明らかにするのは利敵行為であるという論理である。この種の論理は左翼運動にかかわった人なら覚えがあると思う。

 

 曰く「人民のために」「労働者のために」「味方の矛盾を議論するのは後向き」「もっと建設的な討議を」などの建前論を出されると、私たちは「真実が大事だ」と言い切れなかった。別な言い方をすれば左翼に抵抗するのは「反動」「反共」と言われることを恐れる理論的な弱さがあった。大須事件の共産党弁護団が真実よりは、共産党を守ることが大事だと弁護士としての使命を曲げたのは悲しい事実である。

 

 本書で宮地さんは自分自身の裁判で全面的に共産党の方針に迎合した憲法学者のことを書いている。ブルータスお前もか、と言いたくなる。

 

 私たちはいままで大義名分による歴史の狂気を見てきた。軍国主義時代の日本は「天皇陛下のために」の一言ですべてが正当化され人権を弾圧された。かつてのソ連は「人民のために」というスローガンで多くの人々を反革命として粛清した。中国の文化大革命では修正主義との闘争として大衆批判の集団リンチにさらされた。右であれ、左であれ、一つの価値観、大義名分で社会が動いていく怖さを肝に銘じている。ここまで書いてきたら、多様な価値観を認める民主主義の時代に生きているのをつくづく有難いと思った。

 

 『象』の合評会で「左翼ファシズム」という言葉を使ったら「そんな言葉はない」と否定された。それならどんな言葉があるのか聞き返したら、誰かが「左翼天皇制だな」と訂正した。私としては当時の共産党を表すにはもっとも適した表現だといまでも思っている。

 

 もっと身近な事例がある。「人民の解放のために」という大義名分で仲間を殺していった連合赤軍事件。教団を守るため弁護士一家を殺し、罪のない一般市民をサリンで殺したオウム真理教。いずれもその集団の教理を盲信し異なる意見や人間を抹殺していった恐ろしい教訓である。

 

 断わっておくが今の共産党はかつての非合法的体質から脱却して、社民党と同じく革新政党の一翼をになっている。理論的には筋が通っているが国民的人気はいまいちだ。

 真面目な下部の活動家党員のおかげで一定の国民に支持されている。先日、友人の共産党員を招いて「なぜ共産党は多数派になれないのか?」という勉強会を開いた。

 

 その席で国民が政権交代(今回の総選挙前)の経験を経て目が肥え、かつ自民党、民主党が駄目になったら、公明党、共産党にも出番があるとエールを送った。

 

 『検証・大須事件の全貌』は、「革命の大義はすべてに優先する」という、目的が手段を正当化した過ちと不幸を見事に検証してくれた。そして当時の共産党員は真面目に党の指導を実行したのだが、うち百五十人は起訴され被告としてそれぞれの人生を失った。

 

 そしてこの闘争を指示した共産党の幹部は一切責任を問われていない。暴力闘争という不法行為の責任を実行者がかぶり、現場の指導者として「私に一切の責任がある」として実刑判決をうけた永田さんは立派である。

 

 同じ過ちでも指導責任はもっとも重い。それを指示命令した共産党本部の指導者は逃げ切った。これも革命の大義のためと自己正当化しているのだろう。任侠の世界なら卑怯者のそしりをまぬがれない。

 国際的には朝鮮戦争の第二戦線として、ソ連、中国共産党の指示に従った日本共産党の無謀な火炎瓶闘争だったのである。言うべき言葉がない。

 

 第五部で展開された当時の国際情勢の背景、特にソ連、中国、朝鮮の分析と真実に、当時の社会主義の優位性とユートピア説を私たちに説いた先輩を責めたことがある。

 

 歴史のドラマ

 

 人間は過ちをおかす。だとしたらその過ちを繰り返さないため、その事実を歴史に記録し、後世に教訓を残しておかなければならない。

 

 大須事件の公判で警察側の現場指揮官、清水警視が検察側の証人として出廷していたが、当局側が公判維持のうえでまずいと判断し、彼を失踪、行方不明にしてしまったのである。

 

 いやしくも現職の警察警視である。映画でもあるまいしまさかと思うのだが、警察当局は弁護側の追求を恐れ、果ては彼を戸籍上の死亡者にしてしまったのである。

 

 この八月、NHKテレビで放映された「日本海軍・四〇〇時間の証言、やましき沈黙」では、東京軍事裁判で証人に出廷した海軍将校が、連合軍検察側の追求で海軍上層部を戦犯にされることを恐れ、その将校を行方不明にしてしまう下りがあった。

 

 先に大須事件の公判で日本共産党の指導責任が表に出ず逃げ切った事実が指摘されていたが、権力側、非権力側を問わず、それぞれが自己の組織防衛のため謀略を行使するという現実を思い知らされる。謀略は映画や小説の世界のみではない。だとすればその謀略や不条理を歴史が検証しなければ人間に救いがない。

 

 話がそれるが沖縄の核密約が政権交代で明らかになるのも明報である。政権交代は情報公開であると民主党がいうのは説得性がある。

 歴史の暗部はいつか明らかにされなければならない。その意味でもタブーにされていた日本共産党の内なる暗部を明らかにした著者にかさねて敬意を表したい。

 その上で民主主義に秘密とタブーがあってはならない。日本の希望は民主主義の成熟しかない。という私の思いを「二つの快挙」論に託した。

 

 さて、いつも「簡単に言ってほしい」というのが私のきまり文句なのに、長々と自分の体験を書いてしまった。二つのテーマを短くコメントすると次のようになった。

 

 政権交代

 

 一票を投じれば政治が変わることを実感

 政権交代は手段である。目的は国民主権の確立

 民主主義の成熟、時間がかかるがこれに代わる思想はない

 

 『検証・大須事件の全貌』

 

 事件後、五七年、誰も検証しなかった

 我われの側の組織内民主主義の重要さと教訓

 著者が書かなければ闇に埋もれた日本共産党の歴史とその国際的背景

 

 (二〇〇九・九・二〇)

 

 

 武藤功 「葦牙」の会 『葦牙ジャーナル第83号』掲載2009年8月15日(追加)

 

 『検証 大須事件の全貌』を読む

 

 宮地健一『検証 大須事件の全貌』(お茶の水書房)を読んだ。この「大須事件」について知っている人は少ないであろう。共産党員の多くも知らないに違いない。私自身も、わずかな党文献や一般の歴史年表、あるいは一九五二年七月に成立した「破壊活動防止法」との関連で、その直前に皇居前広場で起った「血のメーデー事件」の小型版がほぼ同時進行的に吹田市と名古屋市で起こったということを知っていた程度で、詳しく知るのは本書によってである。当時はサンフランシスコ条約が四月に発効して、連合軍の日本占領が終り、日本は七年ぶりに主権を回復したばかりであった。しかし、この主権回復を「独立の回復」と見る人は少なく、「破防法」自体が占領法規にかわるものとして、GHQの指令に基づいて吉田自由党政府が準備してきたものだった。

 

 この大須事件については、日本共産党は公式の文書で語ったことはごく少ない。たとえば、一九九四年に出た共産党中央委員会編纂の『日本共産党の七十年』にも、その『党史年表』にも一行の記載もない。このことは本書にとって、重要な意味を持つ。なぜなら、本書が副題としている「日本共産党史の偽造」という問題にかかわるからである。この「党史の偽造」という問題は本書の中心的な探究テーマであるが、これは実に深刻かつ複雑な問題を孕んでいる。一つには、当時の共産党の党路線という問題がかかわるし、もう一つは当時の国際共産主義運動の混迷と混乱という問題がかかわる。とくに、後者の中ソ両党の国際的役割の大きさと、それに最も強く影響された日本共産党を混乱させてきた側面を見逃してはならない。当時の朝鮮戦争という状況と、「民主民族戦線」という革命路線自体が大須事件などの「反米闘争」の重要な要因となったことは否定できない。

 

 こうした当時の状況にもっとも厳しい影響が及んで、ほとんど翻弄されたといえる党指導者は野坂参三であったが、宮本顕治にも深刻な影響が及んでいた。本書が焦点を当てているのはその宮本顕治である。この意味では、本書は宮本顕治研究の重要な一環をなすといえる。

 

 同時に、本書で取り上げられている占領期にあたる時期の国際共産主義運動の混迷とその深刻な影響を受けた国内運動については、そうした事態が共産主義と革新勢力の側にだけあったのではなく、戦後アメリカと日本の保守勢力の側にもあったことを忘れてはならない。日本におけるその象徴的な闘いが現在の麻生・鳩山の祖父である吉田茂と鳩山一郎の間で熾烈にたたかわれ、大須事件の翌八月には吉田茂による「抜き打ち解散」があり、その翌年には自由党の内紛による吉田首相懲罰動議が提起される事態となって内閣不信任案が成立し、「バカヤロー解散」となるという保守派の混迷があった。この半世紀後の現在、その孫たる麻生と鳩山が政権を相争うというのも興味深い現象であるが、同時にその争いがGHQの傀儡政権のごとき役割をはたした吉田自由党政の対米政策を容易に脱しえない範囲で進行している事態、つまり依然として日本政治の桎梏となっている事態について考えておかなければ共産主義運動の傷跡もよく見えてこない。

 

 さらにもう一つ、本書の理解にとって重要な意味を持つ事実に、一九七七年の著者自身の共産党からの「除名処分」ということがある。これは、愛知県党の専従役員をしていた著者が党の政策(機関紙「赤旗拡大」)を批判したために専従職を解任され、その不当性について提訴したことを理由に除名になったという経歴である。この党内における被抑圧経験は、著者の共産党批判の原点となった。

 

 この宮地氏の除名については、一県党の「ささやかな事件」ながら、当時の私にとっては「大きな意味」をもった。というのは共産党がその前年の第一三回臨時党大会において「自由と民主主義の宣言」を採択し、不破哲三の言う「多数者革命」に取り組もうとしていた時期に接する直後に起った事件だったからである。共産党の七〇年代はその七二年十二月の総選挙で三九の議席(これはこれまでで最高の議席である一九四九年の総選挙で獲得した三五議席を上回った。ついでながら、党分裂の前年にその七二年までの最高議席を獲得した歴史的意味を解明した研究は今もって行われていない)を得たこと、あるいは七三年の都議選で二四議席(先日の都議選で八議席にとどまったことを考えると、その退潮の大きさを痛感する)を得たことに象徴されるように史上最高の成果を上げた時代であったが、それゆえに党の内外においてはさまざまな鬩ぎ合いを余儀なくされてもいた。

 

 党内にあっては、党の「前衛党」規定や官僚主義の代名詞である「民主集中制」についての改革が必要だと感じていた私にとって、この宮地氏の事件は「光の中の黒点」のように見えた。これについては、その除名の前年の総選挙で共産党が一気に二十議席も失うという大きな後退を示していたから、その「黒点」はなお強く印象づけられたということがあった。そしてその理論的結節は七〇年代未の「田口・不破論争」となってあらわれた田口富久治氏の「多元的社会主義論」による「民主集中制批判」によって実現された。この問題については本書の書評をこえてしまうのでこれ以上は触れないが、その一方の不破氏が党官僚主義を擁護する時代錯誤の論陣を張りながら、今もって共産党の「最高の理論家」とされている事態の不思議と滑稽については一言指摘しておく必要があろう。(この点、本書は宮本とともに不破氏の責任についてもさまざま触れているのは正当なことである)

 

 さて、この大須事件について本書によって改めて紹介すると、事件は一九五二年七月七日に名古屋市で発生した。この時期は日本共産党の「五〇年問題」といわれる分裂総括の「正史」でいうと、その分裂の時期にあったことになる。しかし、著者の見解は異なる。一九五一年十月の「五全協」ですでに統一は回復されていて、宮本もその隊列にあったとする。事件は、この宮本復活後の一九五二年、日中貿易に力を尽くした社会党代議士帆足計らの中国からの「帰国歓迎報告集会」が市内の大須球場で開かれたことから始まる。この一万人ほどの集会の終了時に学生たちのアジ演説によって千人をこえる規模の「無届反米デモ」が開始され、それが待ち構えた約千人ほどの武装警官隊と衝突して騒乱状態となったというのが事件の様相である。

 

 死傷者も出て、四百人にのぼるデモ隊員が逮捕された。このうち、検察は百五十人を刑法の騒乱罪(旧刑法では「騒擾罪」)によって起訴したが、この裁判は二十六年余に及び、最終的には百十六人が有罪となった。そのうち三十八人が執行猶予つきの罰金二千円となり、実刑となったのは五人であったが、その最高刑は懲役三年という微罪となって終わった。官憲の弾圧事件における得意な手法としての「羊頭を掲げて狗肉を売る」の典型的な事例である。

 

 著者はこの事件を「日本共産党の党史」を掘り起こし、その全体像を明らかにするという観点から取り組んでいるが、同時にこの大須事件の「刑事事件」という側面についても探究していて、それが「検察の謀略」というもう一つの副題をなすテーマともなっている。この官憲の弾圧事件にたいする解明は、本書の貴重な成果の一つである。本書によると、元被告人酒井博(彼は『証言名古屋大須事件』の著者である)の証言によって、大須事件は、当時の共産党中央軍事委員会が名古屋に派遣した岩林虎之助によって、名古屋地方の党指導部に指示された「火炎ビン闘争」として起こされた。この岩林の指示という事実についての秘密は三人の指導部しか知らなかったので、岩林は事件の被告人とされることはなかった。

 

 しかし、党史の点からいえば、これは重大な事実である。この関係は、本書の言う「一九五一年一一月一六日共産党五全協開催前までに、宮本顕治の新綱領を認めるというスターリンに屈服した自己批判書を始め、国際派五分派指導者全員が党中央軍事委員長志田重男に自己批判書を提出し、主流派に復帰した」という事実と関係し、八回大会(一九六一年)以降実質的に党の最高指導者となった宮本顕治の政治責任にもかかわる「武装闘争」との関係が出てくるからである。党の「正史」はこうした「事実」は一切認めていない。著者はこれについて、大須事件を詳しく論及することによってその「党史の偽造」を立証しようとしたのである。

 

 この著者の論述において重要な経験となったのが、愛知県党における党役員専従である。この専従時期に、著者は大須事件の被告人である共産党員たちと接触し、一部はその裁判闘争も担当した。この経験から言うと、大須事件にたいする検察の側から総括した「検察研究特別資料」の「火炎ビン武装デモ計画・基本方針」などは「基本的に真実だったと考えられる」という。これについては当然異論もあると思われるが、著者の被告人たちとの接触という経験からの推論には一定の根拠も認められる。

 

 同時に、著者は警察・検察の「でっちあげ」についても詳しく論及している。(第二部・第三部・第四部)。しかし、この部分については当誌のスペースの関係上、省略する。そのうえで著者が「法廷闘争を支える内外体制、実質的には共産党側の支援体制の欠陥、とりわけ宮本顕治の六全協以降における言動が騒擾罪成立原因となった」とする最終第五部について述べておきたい。宮本の関係問題については、著者も言うように「ソ中両党命令への隷従事実と党史偽造歪曲に関する謎解き」が必要とある。これまでの党の「正史」はそうした事実が存在しなかったというものであるから、著者はこれに真っ向から批判する立場に立つ。これには愛知県党が一九六五年に大須事件被告団長(共産党名古屋市委員長でもあった)の永田末男と、大須事件被告で当時の県党愛日地区委員長の酒井博の二人を除名処分にしたことがかかわる。著者はこれを宮本による「異論者粛清」と見るだけでなく、自らのスターリン・毛沢東の武装闘争論に屈服した経歴の隠蔽事例として論難する。

 

 著者によると、これは「松川事件」勝利判決後の「松川守る会や国民救援会をめぐる」路線の問題で宮本らの中央の方針に異議を唱えた永田らにたいして、「公判最中にもかかわらず、二人を除名」し、「被告団長解任を強行した」という。この点については、名目的には「日本の声」グループとの接触が主たる原因とされたようであるが、実質は「松川事件」などの冤罪事件にたいする国民運動についての党中央との意見の対立に原因があった。大須事件の被告人グループの指導部が、大衆運動をめぐる意見の対立から除名されたことによって、その「公判支援体制」が破壊され、結果的に大須事件の騒乱罪成立の副次的要因となったと著者は見ている。これは確かであろう。

 

 また、これには「警察・検察の騒乱罪でっちあげ」一本で闘うべきとする宮本方針と、「事実として証明されてしまった火炎ビン武装デモの計画・準備実態を公判において認めた」うえで騒乱罪には該当しないという方針で闘うべきという永田被告人らの対立があったとしていることも、その通りであろう。しかし、この点にかかわる被告人と検察との捜査、立件プロセスの認識については異論もあろう。なぜなら、永田ら被告人が言うようにこの大須集会については「ささやかな火炎ビン」の準備しかしなかったというのであるから、それはそもそも「騒乱」準備などではなく「火炎ビン武装デモの計画・準備」などとはいえない種類のものだとも言えるからである。その点、それらを「公判において認めた」というのはいささか不自然であり、警察・検察の強要による「自白」供述や誘導の疑いも残るからである。私自身はその公判資料の全体を検証する機会を持たなかったから何らの断定をするつもりはないが、検討を要する問題点であるとは思う。なお、著者がこれに関連する大衆運動方針として「四・一七スト中止指令」を「宮本三方針」の一つとしていることについても本書の論証だけでは無理があろう。

 

 しかし、そうした点があったとしても、愛知県国民救援会をめぐる宮本ら党中央と現地との対立、その党的強権による地域の運動の抑圧と排除のくだりは、すぐれたドキュメントとなっている。宮本らの弾圧救援運動にたいする党派主義は、その運動が持っている国民的な発展の可能性を権力弾圧の局面だけに限定することによって、現実社会が持っている人権、生存、自由などにたいする抑圧と妨害の事件被害から国民を救援するという広範な結集課題を見失わせるセクト主義といえる。その結果、地域の運動から孤立した宮本の党派路線は、「第二国民救援会」という分裂組織を提起することにまでなったという。

 

 こうした宮本の指導方針がスターリン型指導という意味ではまったく旧態のものであると同時に、それが日本型共産主義運動の本質をあらわしていたということを大須事件という一つの刑事事件を通じて赤裸々にしたことは、本書の大きな成果といえる。同時に、そうした宮本式の官僚統制型の指導によっても、数百万の国民的支持を得るまでの共産党に成長させることができたという事実を考えると、その国民大衆から遊離した官僚主義的指導を抜本的に改めて人民的な立憲主義に立つなら(この点では、不破のいう「多数者革命論」ではなく、小沢一郎のいう「官僚政治からの脱却」とも通底する話である。むしろ、若い志位には宮本も不破も到達できなかった人民的立憲主義について現行憲法の論理を基礎に地道に構築してもらいたい)、逆に日本共産党の未来は明るいともいえる。この意味では、宮地氏の著書は宮本の冷酷な党派性を対象としているところから一見暗い印象も与えるが、その宮本式の官僚主義からの脱却を説いていることにおいて実に明るい展望の書でもあるのである。

 

    HP『葦牙』民主文学4月号問題

 

 

 中里喜昭 「葦牙」の会

 

 『検証・大須事件の全貌』の出版、おめでとうございます。装丁はご子息でしょうか。

 小説『仮のねむり』を赤旗連載中、党中央から召喚されたことがあります。不破さんが編集局長だったころですが、「愛知県委から意見書が出ている」とのこと。作品中、「中核自衛隊」なる表現がある、ついては現在当方では大須事件の係争中だ、赤旗に「中核自衛隊」という言葉があるということは、党が大須事件での武装闘争を公認したのと同じだ、といった内容でした。

 

 つまり、県委員会としてはこの事件を武装闘争ではない「かのごとく」、モンクつけてきたわけ。どうおもうか、と不破さんから訊かれました。「党としての態度はともかく、小説書きとして言わせてもらえば、『中核自衛隊』なる言葉があったか、なかったかの問題だけです」。それがあったという証拠は、と訊くので「戦後革命論争史です」と答えましたが、そのときの不破さんのくすぐったそうな困ったような表情が印象的でした。

 

 後年の小生でしたら、ひとが辟易するようなことをあえて発言し、その余韻を楽しむってこともありますが、当時はじつにゴボウに目鼻つけたような質朴ピュアな党員作家でして、無罪放免されました。ついでに不破さんに党中央の資料室を案内してもらいましたが、かんじんの大須事件のデータには、あったのかなかったのか、触れずじまい。貴著の解明を楽しみにしております。09513

 

    wikipedia『中里喜昭』

    HP『葦牙』民主文学4月号問題

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

    『「戦後革命論争史」に関する不破哲三「自己批判書」』

 

 

 H.I.

 

 読んだ限りでは、事実を丹念に追求していて歴史的記録の役割は充分果 たしていると思いました。誰かが記録として残しておく必要のある事件だと思います。1952年というと、高校1年生の夏の事件でした。余り鮮明には記憶していませんが、大変な事件が起きたと言う記憶はあります。

 

 有名な「お茶の水書房」の出版だから多くの人の目に触れるのではないでしょうか。

 

 殆ど歴史的役割を終えた日本共産党の批判は、あまり生産的ではないと 思います。しかし、この『大須事件の全貌』のような歴史的証言は、大いに意義があると思います。この本を読んで、単に日本共産党の極左冒険主義方針の過ちだけでなく、国際共産党運動の欺瞞とスターリン、毛沢東、金日成の無謀な方針まで 暴露している点に意味があると思います。09・5・15

 

 

 M.H.

 

 徹夜で一気に読んでしまいました。私にとって非常に興味深く、私の共産党評価を確認できたように思いました。

 私は学生時代に入党し、25年あまり活動してきました。そのことは今でも私にとって極めて重要な意義があったと考えています。しかし活動内容やスタイルには疑問があり、東欧問題、ソ連の崩壊、中国の天安門事件などに接して離党の決意を固めました。

 

 マルクス主義はなぜ未来を照らす思想として発展できなかったのでしょうか。ひとつには前衛党論があるように、私には思えます。人間の評価が薄っぺらではないでしょうか。いやいや幾多の粛清の現実はもっと深刻であることを物語っています。著書が私に刺激を与えてくれたことに感謝します。そして貴方のさらなる研究成果を祈ります。ではまた。

 

 

 KM さざ波通信、JCPW常連投稿有名人KM生こと

 

 新刊紹介 宮地健一著 御茶ノ水書房刊 検証大須事件の全貌

 著者がかねてからHPで追求してきた同事件関連の集大成。

 「権力の謀略」という視点のみならず、3大騒擾事件の中で「なぜ大須だけが騒乱罪成立を許したか」、日本共産党側の公判戦術上の問題点をも「ある意味初めて抉り出した」好著である。

 

 著者はその原因として、1)宮顕の「50年問題は分裂した一方の側が勝手にやったこと」という視点から、大須における党側の軍事行動に対して「臭いものに蓋」で一切封殺する戦術をとったこと、及びこの戦術に反対する党員被告を除名したため被告団の中に深刻な対立を生出したこと。2)64年4.17スト破りは中国滞在中の宮顕の直接指示だったのであり、この誤った指導「名古屋の労働戦線の中に深刻な分裂と後遺症をもたらし、ひいては被告団の団結にも影響を与えた」と分析する。税込2940円。2009年5月24日

 

    『なごみ系掲示板』KM生の投稿多数

    『さざ波通信』

 

 

 清水良典 文芸評論家、朝日新聞「東海の文芸」掲載2009年5月26日夕刊

 

 「卵の側」から権力告発 宮地健一『検証 大須事件の全貌』

 

 この作品(渡辺勝彦『桟敷を跨ぐ』)が描いた紹和三十年よりもう少し前の、まったく対極的な世界を明らかにするのは、宮地健一の『検証:大須事件の全貌(ぜんぼう)』(御茶の水書房)である。昭和二十七年に相次いで起こった「メーデー事件」を始めとする騒擾(そうじょう)事件のひとつ「大須事件」を徹底的に発掘した労作である。

 

 この事件では九十一人が有罪となったが、宮地は検察・警察側によるでっち上げを明らかにすると同時に、当時の共産党執行部のあり方をも敢然と批判する。戦後の共産党には、武装闘争を党の方針としていた時期があった。その後、平和路線に転じた同党は、過去の不都合な事実をタブーとして覆い隠す姿勢を貫いていると宮地は説く。かつて共産党の専従でもあった著者は、党から一方的に解任されたのち、党を相手に裁判闘争をやり抜いてきた。真実を探求しようとする不屈の執念が、本書にもみなぎっている。

 

 私が本書を取り上げるのは、政治的な意図からではない。政治思想の左右や主義主張を問わず、ある組織が強大化し、そこに権力が発生するとき、個人の自由を抑圧するシステムが生じる。本書はそのようなシステムの権力に立ち向かう孤独な戦いであることによって尊いのだ。

 

 今年エルサレム賞を受賞した村上春樹は、パレスチナ居住区への攻撃が世界中から非難を受けていたイスラエルでの授与式に臨み、「壁」と「卵」の比喩(ひゆ)をスピーチした。壁とは人間を包囲し自由を遮るシステムであり、卵とは脆(もろ)く壊れやすい人間の魂である。そう説明した上で、文学はどんな時でも壁にぶつかろうとする卵の側に立つ、と彼は言ったのだ。本書も、まさに壁に抗(あらが)い続ける卵によってもたらされた文学なのだと思う。

 

    Wikipedia『清水良典』

 

 

 ..

 

 大須事件は高校1年の時のことで、あくる日の新聞で読んだことを覚えています。学校へ行くと、先生の一人が事件で逮捕されたといううわさが流れていたことを記憶しています。じきに学校に出てこられたので逮捕というのは事実ではなかったか、あるいは警察側の狙いの人物ではなく、すぐ釈放されたのか知る由もありません。

 

 それにしても警察、検察の事件捏造のやり口には驚きますね。清水栄という組織内の人物を法律上殺してしまうとは、ここまでやるか!と本当に驚きました。その後彼はどんな運命を辿ったのでしょうか。戸籍を回復するなどということはそう簡単なことではないはずだと思います。彼の戸籍を確認することはできないものでしょうか。

 現在も検察のいわゆる国策検挙、裁判がたびたび問題にされますが、やはりこういうことがあるのですね。

 

 それに当時のマスコミの報道姿勢はどんなだったのでしょうか。このあと60年安保闘争、中国の文化大革命、ヴェトナム戦争など、日本のマスコミの多くははいわゆる左翼側に立った報道姿勢をとり続けていましたが、大須事件当時は体制側だったのでしょうか。新聞記者が現場を見ていれば、警察側の対応に多少は疑問を感じ、報道にもそれが反映されてしかるべきだと思うのですが。そういう意味でマスコミも当てになりませんね。

 

 そして共産党の破廉恥なまでの自己正当化、自己防衛体質にも、いまさらながら驚きました。貴方のように組織の中にいた人間にしか書けない、迫力ある綿密な記述に感じ入りました。

 

 時々「宮地健一」で検索したりしていますと、「真面目な」共産党員のヒステリックな誹謗の文章が出てきて、昔から変わらぬ珍妙な紋切り型の文体に笑ってしまいます。現在も共産党サイドからの無形の圧力があるかもしれませんが、どうか今後も頑張って日本共産党の欺瞞体質を発信し続けてください。

 

 

 清水信 文芸評論家、中日新聞「中部の文芸−小説・評論」掲載09年6月24日

 

 大須事件、死刑問題、漁村の現実 隆盛続くドキュメンタリー

 

 ドキュメンタリーの勢いが止まらない。

 宮地健一の『検証・大須事件の全貌(ぜんぼう)』(御茶の水書房)は、雑誌『象』連載のドキュメンタリーをまとめたもの。一九五二年七月七日、名古屋市中区大須の岩井通を行進していたデモ隊千五百余人に対し、武装警官約九百人が襲撃して壊滅(かいめつ)せしめた事件の全貌と、その後の騒擾(そうじょう)罪をめぐる裁判の経過を詳述したものだ。

 

 戦後三大騒擾事件といわれるメーデー事件、吹田事件、大須事件のうち、名古屋を舞台にした大須事件の検証は、地元作家としての義務とも言えるもので、その誠実な姿勢を信じないわけにはいかない。

 

 『象』36号では、目方ヒロコの連載「矢面に立つ」が死刑をめぐるプロテストをふくむドキュメンタリーの真実に満ち、水田洋、金子史朗、千早耿一郎、加藤万里、藤森節子らの仕事に、現代に立ち向かう迫力を感じる。

 

 

 脇田憲 元枚方事件被告、『労働運動研究復刊第23号』掲載2009年8月

 

 <書評> 宮本体制の「党史偽造」を暴く 宮地健一著『検証大須事件の全貌』

 お茶の水書房刊 2009年5月発行

 

 〔小目次〕

   一、はじめに−[三大騒擾事件]の全貌が歴史の明るみに

   二、日本共産党[軍事闘争]の主要事件の概要

   三、[日本共産党史偽造]調査研究の意義

   四、「六全協」後における宮本体制の「党史偽造」

 

 一、はじめに−[三大騒擾事件]の全貌が歴史の明るみに

 

 本書の著者は「はじめに」の冒頭に、「今日、大須事件の真相・実態について、知っている人はほとんどいないと思われる」と書いている。実際、戦後といってみても「昭和」という時代が過ぎて、「平成」になって早くも20年が過ぎる。事件の発生は1952年(昭和27年)のことであるから57年が過ぎている。

 

 同年5月1日東京・皇居前メーデー事件、6月25日大阪・吹田事件、7月7日名古屋・大須事件と3件の大規模な「騒擾事件」が起きている。歴史はこれを戦後の「三大騒擾事件」と記録しているが、この事件の真相・実態は今日に至るも解明されていない。その最大の障壁はこれらの事件を指導・関与してきた日本共産党が率先してその事実を否定・抹殺・妨害してきたことにある。これら「三大騒擾事件」に加えて日本共産党の直接的な軍事闘争事件は同年の1月21日北海道・白鳥事件、同6月24日大阪・枚方事件をはじめ全国的規模でいわゆる火焔ビン事件といわれる武装闘争事件が起きている。その背景には朝鮮戦争の38度線攻防の激戦があった。

 

 本書の著者はこれらの軍事闘争事件に直接関与したわけではないが、名古屋・大須事件を長期にわたって調査研究し、日本共産党の事件関与の真相・実態の解明に取り組んできたのである。彼は名古屋市に生まれ、名古屋大学卒業後に日本共産党に入党して党員活動家となり、大学卒業後党の専従活動に従事するなかで、自身の17年間におよぶ党専従不当解雇事件と闘いつつ大須事件研究の集大成として本書を完成させたのである。

 

 しかし、事件の全貌とはいっても、この事件に主体的に関与した日本共産党はこの真相・実態の解明責任を果たしていないばかりか、いぜんとしてこの党の関与を否定・抹殺・妨害をつづけているのであって、ようやく本書の完成によって日本の戦後史及び共産党史は歴史の明るみに出てきたというところであろうか。

 

 ついては、本書(9頁5〜6行)に「吹田事件の『部外秘』資料については、脇田憲一枚方事件被告が手にいれ、それを含めた分析をした」という記述がある。この「部外秘」検察資料の正式資料名は『吹田・枚方事件』であるのに「枚方事件」の記述が欠落している。「吹田事件」との関連で、「枚方事件」は「軍事闘争」の主要事件なので勝手ながら評子の責任で次項に「(5)枚方事件」(概要)を追加させて頂いた。

 

 二、日本共産党[軍事闘争]の主要事件の概要

 

 著者は本書第一部「共産党による火炎ビン武装デモによる計画と準備」において、前記「四事件」の概況について、これを一覧表に表示している(5〜7頁)。これを要約してここに再録する。

 

 (1)、白鳥事件

 

・発生年月日/1952年1月21日

・事件概況/札幌市白鳥警部射殺事件

逮捕者55人=党員19人、逮捕後離党36人、実行犯含む10人中国へ逃亡。

・死傷者、白鳥警部即死。

・裁判被告、殺人罪、殺人幇助罪で起訴/裁判期間、被告追原ら一部は8年間/村上国治は懲役20年、再審、特別抗告棄却、高安・村手は殺人封助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者は時効無し。

・軍事方針の有無/札幌市軍事委員長村上国治と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在。

・武器使用/ブローニング拳銃1丁

・共産党側の認否/軍事方針存在の全面否認。

・関係者の自供/村上以外「共同謀議」等自供/逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡。

・警察側謀略有無/拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造。

 

 (2)、メーデー事件

 

・発生年月日/1952年5月1日

・概況/日米講和条約発効後の初メーデー/皇居前広場での集会許可の裁判中/明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前。

・参加者/皇居前広場突入4000〜8000人、逮捕者1211人、死亡2人。重軽傷者1500人以上、警官重軽傷者832人。

・裁判被告/刑法106条騒擾罪で起訴253人/分離公判→統一公判。

・裁判期間/20年7ケ月、公判1816回。

・判決内容/騒擾罪不成立「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6人。

・軍事方針有無/日本共産党中央軍事委員長志田重男が前夜に「皇居前広場に突入せよ」と口頭で秘密指令を出した。

・武器使用/デモ隊側は特になし。日本人はプラカード角材、朝鮮人は竹槍、六角棒を使用して戦った。(警官隊は拳銃の水平射撃を行う)

・共産党側の認否/軍事方針存在の全面否認。

・関係者の自供/志田指令を自供した軍事委員なし/増山太助(メーデー事件当時日本共産党東京都軍事委員長)が著書(2000年)で指令を証言。

・警察側謀略有無/二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察の襲撃は違法行為」と認定。

 

 (3)、大須事件

 

・発生年月日/1952年7月7日。

・概況/帆足・宮腰帰国歓迎報告大会、於大須球場/参加者・集会1万人、無届デモ1000〜1500人、逮捕400人、警官事前動員配置2717人、武装警官890人。

・死傷者/死亡2人、自殺1人、重軽傷35人〜多数。

・裁判被告/刑法106条「騒乱罪」で起訴150人、分離公判→統一公判

・裁判期間/26年1ケ月、第一審公判772回。

・判決内容/口頭弁論なしの上告棄却で騒乱罪成立。有罪116人=実刑5人、懲役最高3年/執行猶予付き罰金2000円38人。

・軍事方針有無/「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモ存在。

武器使用/火炎ビン20本以上(総数は不明)。

・共産党側の認否/軍事方針存在の全面否認。

・関係者の自供/共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田末男を共産党が除名→永田は公判で軍事方針の存在承認。

・警察側謀略有無/デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイの存在。警察側のデモ隊への一斉先制攻撃のタイミングのよさ。

 

 (4)、吹田事件

 

・発生年月日/1952年6月24日、25日。

・概況/朝鮮動乱2周年記念祭会場から吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田

・参加者/集会2〜3000人、デモ1500人一朝鮮人500人、民青団100人,学生300人、婦人50人。

・逮捕者250人、他。

・死傷者/デモ隊重軽傷11人,警官隊重軽傷41人

・裁判被告/刑法106「騒擾罪」で起訴111人、日本人61人、朝鮮人50人

・裁判期間/統一公判20年間

・判決内容/騒擾罪不成立、第一審有罪15人、無罪87人。

・軍事方針有無/多数の火炎ビン携帯指令の存在

・武器使用/火炎ピンと竹槍(数不明)

・共産党側の認否/軍事方針存在の全面否認。

・関係者の自供/公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後の自供は証拠不採択。

・警察側謀略有無/デモ隊1500人にたいして、警官事前動員配置3070人。

 

 (5)、枚方事件(追加)

 

・発生年月日/1952年6月23日〜25日

・概況/朝鮮動乱2周年を期して、枚方市において米軍特需の砲弾製造再開に反対する二つの事件が発生した。小松製作所工場誘致委員宅を火炎ビンで襲撃した「小松方放火未遂事件」と時限爆弾2発を仕掛けた「旧工廠爆破事件」である。

・参加者/「放火未遂事件」集会参加者約100人。両事件合わせて90数人が逮捕され、65人が起訴された。「放火未遂事件」は1大隊、3中隊編成(各隊約30人)、「廠爆破事件」は実行隊5人、見張り隊4人で編成した。

・罪名/「放火未遂」「爆発物取締罰則違反」「公務執行妨害」

・裁判期間/15年3ケ月。

・判決/懲役3年〜5年5人、執行猶予付懲役刑2年〜3年53人、無罪6人、裁判中死亡1人。

・武器使用/火炎ビン数十本、時限爆弾2個。

・共産党側の認否/軍事方針存在の全面否認。

・関係者の自供/武装デモ「大隊長」の松本保紀被告が公判廷で軍事方針指令の実在を陳述したが、裁判長は起訴後の自供として証拠採用しなかった。

・警察側謀略の有無/日本共産党大阪府軍事委員会の「朝鮮戦争二周年6・25闘争」の軍事闘争指令がレポーターの紛失事故により、警察側が入手したという情報が事前に流れた。(警察側は否定)そのため、6月24日深夜決行の「旧枚方工廠爆破行動」を1日繰り上げて23日深夜に決行したが、工場側・警察側の警備配置は一切なかった。

 

 さて、以上の「5大事件」は、日本共産党第5回全国協議会(1951年10月16日〜17日)「新綱領」「軍事方針決定」(現日本共産党は「51年文書」と称す)による主要な武装闘争事件である。ここで取り上げたいのは現日本共産党の全面否認である。日本共産党はこれらの事件を「党規約に違反した分派の極左冒険主義の実践」として日本共産党史から抹殺しているのは衆知の事実である。著者はこれを日本共産党史偽造として具体的事実を解明している。

 

 三、[日本共産党史偽造]調査研究の意義

 

 本書の特色は、「日本共産党史偽造」の調査研究に新領域を開いたことであろう。著者は大須事件の全貌を検証することを通じて、前記「4大事件」の「日本共産党史偽造」の共通点を探り出し、その事実解明によって日本共産党史と日本戦後史の書き換えを提起しているのである。

 

 それは第二次世界大戦後の東西冷戦の導火線となった朝鮮戦争の歴史の書き替えを要求する挑戦でもあった。かれは大胆にも北側陣営の「朝鮮侵略戦争」という「新概念」が出てくる。これには本紙読者にも戸惑う方もおられると思われる。著者の見解は以下の通り。「スターリン・毛沢東・金日成らは、朝鮮戦争を、マッカーサーと韓国軍事政権が先に仕掛けた侵略戦争と虚偽の宣伝をした。10、20代の日本人青年と朝鮮人青年たちは、日本の全左翼とともに、その宣伝を信じていた。彼らは、火焔ビン武装デモを、朝鮮戦争反対行動として支持した。それは、中日本ビューロー員・党中央軍事委員岩林虎之助の命令によるものであった。共産党中央軍事委員長志田重男は、東京・大阪に続いて、名古屋市においてそれを遂行させるために彼を派遣していた。

 

 以下は、元被告酒井博の証言である。当時54歳の岩林虎之助は、33歳の名古屋市ビューローキャップ永田末男と、34歳の名古屋市軍事委員長芝野一三を「東京・大阪でやったのに、なぜ名古屋でやらんのか」と激しく叱責した。彼らは、火炎ビン武装デモ決行を迫られ、下記のように緻密な計画と準備を行った。党軍事委員会は、6月25日東京で火炎ビン50本使用の新宿事件を起こし、6月24・25日大阪で火炎ビン数十本使用した吹田・枚方事件を決行した。岩林が志田から受けた密命・任務は、7月7日名古屋市で大規模な火炎ビン武装デモを成功させることであった。

 

 ただ、岩林虎之助は、大須事件後、ただちに東京に逃げ帰った。彼に叱責され、火炎ビン武装デモ決行を命令された永田末男、芝野一三と、名古屋市のアジトに彼を滞在させていた当時49歳の共産党員桜井紀弁護士ら3人しか、彼の名古屋市派遣・滞在の事実をしらなかった。永田・芝野・桜井の3人は、その秘密を厳守し、54歳の日本共産党中央軍事委員が大須事件中央首謀者・火炎ビン武装デモ命令者として逮捕されることから守り抜いた」(本書13頁5行目〜14頁5行目まで)。

 

 そして、著者はこれら正式な党の軍事委員会関与を次のように検証している。「1951年4月、スターリンは、宮本顕治ら反徳田の国際派5派を「分派」と裁定した。彼は、いつまでも分派争いを続け、朝鮮侵略戦争(評子・注)支援の武装闘争に決起しない隷属下日本共産党にいらだっていたからである。1951年11月16日共産党五全協開催前までに、宮本顕治の「新綱領を認める」という‘スターリンに屈服した自己批判を始め、国際派5分派指導者全員が党軍事委員長志田重男に自己批判書提出し、主流派に復帰した。新綱領とは、スターリンが自ら執筆し、朝鮮侵略戦争(同・注)開始10ケ月後に当たって、日本共産党に武装闘争路線に即時転換することを命令した51年綱領のことである。/宮本顕治らの屈服により、日本共産党は、徳田・野坂・志田らの主流派によって組織統一回復をしたというのが党史の真実である(本書15頁2行〜16頁6行目まで)。

 

 具体的には「党軍事委員長志田重男は、各暴力革命拠点に党軍事委員を派遣し、武装闘争を決行させた。判明している党軍事委員は、北海道・東北に吉田四郎、東京に浜武司・沼田秀郷、大阪は村上弘、中日本・名古屋が岩林虎之助である。党中央命令がないのに、各地方の軍事委員会が、白鳥事件・メーデー事件・吹田事件(枚方事件)・大須事件を独自に決行することなどありえないことだ」と記述している(16頁後2行目〜17頁3行目まで)。評子は著者の見解に全面的に賛成であり、同じくその事実関係を確認している。

 

 それに加えて著者は全国的な武装闘争データとして、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年)その時期的区分による事件数を独自に分類して一覧表に示している。それによると、四全協から五全協まで4件、五全協〜朝鮮戦争休戦協定成立まで250件、休戦協定目〜53年末まで11件、総件数270件である。すなわち五全協の「新綱領」と「軍事方針」の決定以後に発生した左翼事件は全体の92.6%を占めている。このデータからも朝鮮戦争への日本共産党の軍事闘争の関与を否定することは出来ない。日本共産党は明確に「共産側」陣営に属して朝鮮戦争に参戦したのである。

 

 評子は日本共産党の軍事闘争に参加した当事者の一人として、いわゆる党の「50年分裂」抗争と無関係ではなかった。しかし評子が党への組織的幻想と幹部たちへの人間的信頼を失ったのは、これらの党内抗争に幻滅観を抱いたことによる。それは「見苦しい」の一言に尽きる。ついては次のような一文を書いている。

 

 「わたしは入党した時期が1953年であるから、いわゆる『50年分裂』の党内抗争は経験していない。統一が回復された『六全協』後に両派の党員から話を聞いたり、多くの文献も読んだが、それは革命理論や路線上の論争ではなくて、党の運営をめぐる対立や、派閥主導権争いである。それが党の実態だったとすれば、この『50年問題』抗争は、党内の分派闘争にほとんどエネルギーを使い果たし、党が直面した大規模のレッド・パージや『逆コース』に有効な闘いを組織できなかったのは当然である」(「朝鮮戦争と日本共産党」『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』前掲書所収)

 

 「軍事組織解体以後、私の新しい任務として東大阪地区委員会のアカハタ分局員としてアカハタの配布を担当していたが、六全協後は一転して分局員の仕事も解任された。これは枚方事件の被告であり、その裁判にかかっていたことが理由であった。私は六全協による軍事組織の解体は理解できるとしても、私ら事件関係者の党機関からの解任は理解できなかった。

 

 その後、ある幹部の話では、党はそう言う決定をしたことはなく、それは上級の軍事関係幹部の六全協による下からの責任追及を逃れるための策略に違いないというのであった。そういえば当時、明らかに上級の軍事委員だった顔ぶれがそのまま中央・地方の要職に残っているのを見る時(村上弘は大阪軍事委員会の責任者であった)私は六全協をめぐって、どのような妥協が行われたのか、不信がつのるばかりであった」「六全協をうけとめる気持ちは虚無そのものであった」(同人誌『文学ノート』3号「枚方事件覚え書き」より)。この一文は『日本共産党の二重帳簿』(亀山幸三著、現代評論社刊、1978年1月発行)に「もはや説明の必要はない、これはまたすざましい党中央への不信、下部党員大衆の憤怒の告白である」と紹介している。

 

 (評子・注)評子は著者の「朝鮮侵略戦争」という「新概念」は、その歴史的、理論根拠の説明が不明なので現段階では論評を避けたい。評子の「朝鮮戦争」の理解は自著『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店刊、2004年発行)「朝鮮戦争と日本共産党」の項(271頁〜298頁)で詳述している。結論的に言えばスターリン晩年における極東戦略の大失敗であった。最大の被害者は朝鮮民族であった。

 

 四、「六全協」後における宮本体制の「党史偽造」

 

 本書の四部、五部で著者は大須事件公判における騒擾罪有罪判決のプロセスを検証している。ついては、(1)メーデー事件、吹田事件公判では騒擾罪無罪を勝ち取れたのに、大須事件だけがなぜ有罪となったか、(2)それには武装闘争を転換した「六全協」後の公判闘争の方針転換をめぐって共産党中央側・弁護団側と被告団側に対立が関係している。(3)その主要な対立点は、武装闘争は共産党の正規な機関決定ではなかったとする宮本体制の「党史偽造」の指導にあったこと、(4)それに加えて大須事件には検察側の騒擾罪適用の謀略的策動があったことを明らかにしている。

 

 20年に及ぶ長期裁判の経緯は紙数の関係で省略するが、本項では党中央の主導権を握った「六全協」後の宮本体制の武装闘争を消去した「党史偽造」と、大須事件騒擾罪有罪判決に至る関係を中心に本書の検証を見ていくことにする。著者はまず「六全協」による宮本体制の復活を次のように記述する。「宮本顕治ら国際派5分派の全員は、スターリンによる分派裁定に屈服し、五全協・武装闘争実践共産党主流派に自己批判書を提出し、復帰している。宮本顕治は、スターリン命令に屈服し、1951年10月初旬、その分派組織=中央委員は宮本・蔵原二人だけの全国統一会議を解散し、武装闘争実行の五全協共産党の一員となった。」

 

 著者のこの指摘は正統であり、日本共産党は「五全協」(「新綱領」「軍事方針」を決定)で党の統一を回復したとの説が、日本共産党の正統な党史の解釈であることは間違いない。従って自己批判書を提出して復帰した元国際派党員も、党の指令に従って武装闘争事件に参加して逮捕された被告がいたことも事実である(枚方事件の場合)。「六全協」後の宮本体制は、大須事件の裁判闘争を通じて「党史偽造」を行っているのである。

 

 著者は次のように書いている。(要約)(1)六全協決議文は(モスクワ会議で)ソ連共産党が主導・作成し、その内容を日本共産党(代表団)に強要した。(2)スターリンはモスクワ会議一年前の1953年3月5日に死んだ。しかしスースロフはスターリンとソ連共産党を擁護するため、スターリン執筆が証明されている51年綱領は正しかったという文言を決議文に入れるよう命令した。(3)さらに武装闘争問題に関しては、極左冒険主義という抽象的なイデオロギー総括だけに留めよ、との命令を下した。(4)宮本顕治ら国際派五分派の中央委員7人・20%と党員ほぼ全員が、1951年10月までに主流派中央委員28人・80%側に自己批判書を提出・復帰した。(5)それによって分裂していた日本共産党は五全協(「新綱領」「軍事方針決定」)で統一回復をした。

 

 しかし、その真実を隠し、1955年7月六全協で初めて統一回復をしたとせよ。五全協=武装闘争実践共産党より以前の50年分裂問題については、武装闘争実践とソ中両党の関与・命令に触れないという限界内で、分裂経過のみの総括をすることを許す。モスクワにおける六全協準備会議の事実を公表することを禁止する。(本書150頁5行目〜13行目まで)この記述は、不破哲三書記局長の『日本共産党にたいする干渉と内通の記録、ソ連共産党秘密文書から・下』(新日本出版社、1993年)の引用による。

 

 これらの事実は、宮本国際派を代表してこの「モスクワ会議」に参加した袴田里見の『私の戦後史』(朝日新聞社刊、1978年)にも同じ記述がある。「スースロフ、土壇場の介入」の項に「51年綱領は正しかった、という一項をいれてほしい」と要求してきた。(中略)こういう形で、スースロフの要求が生かされたわけだが、「51年綱領を正しいとしながら」一方で極左冒険主義を自己批判するというちぐはぐなものになった。スースロフの要求をいれた六全協「決議」の「モスクワ原案」は、すぐ日本の党に送られた。志田重男宛だったと思うが、かれの手に届いたのは29年(昭和)の10月か11月ごろではなかったか。

 

 これに対する最初の反応は、志田重男が、30年1月1日付の『アカバタ』紙上に発表した「党の統一とすべての民主勢力の団結」と題する一文であった、とある。(同書120頁)この「モスクワ会議」はいわば日本共産党、ソ連共産党、中国共産党の代表者による日本共産党に強制した「51年綱領」(軍事方針決定)の後始末としての「六全協決議(原案)」調整会議であった。いずれにしても原案の段階から3党代表が責任回避を議論し合い、そして主流派志田重男と国際派宮本顕治が野合した上で責任回避の修正を上塗りしたのが最終決議案になったのであるから、読んで本心から感動した党員は居なかったに違いない。

 

 評子は最後まで辛抱して読んだあと、付帯決議の一文を目にして一瞬自分の目を疑った。「付帯決議/今後の党活動は、綱領とこの決議にもとづいて指導される。したがって、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される。」

 

 直感的に「あゝこの党はもうだめだ」と思った。「もう党は信ずることはできない。これからは自分を信じるしか革命はできない」。そして離党を決意したのである。以来50年が過ぎるが、この考えはいまも変わらない。

 

 最後に六全協後の大須事件公判の顛末はどうなったか。著者の見解を要約しておこう。「最長26年間に及ぶ騒擾事件裁判中の党員、武装的争に参加した六全協共産党に残った党員3万人、離党・被除名の党員20万人にたいし、宮本顕治は、現在の党」(=宮本顕治)にその責任がないと見殺しにし、切り捨てた。武装闘争事件で起訴された党員はどれだけいるのか、彼が、スターリンの分派裁定に屈服し、五全協武装闘争共産党に自己批判・復帰していなかったのなら、彼の言動は正当化される。しかし、真実は違っていたという証拠が出揃った。

 

 敵前逃亡という言葉は、大須事件元被告酒井博が提起した。(中略)「宮本顕治は、1965年6月8日、大須事件被告団長永田末男と酒井博を除名した。1966年4月10日、彼の被告団長を解任させた。大須事件被告人永田末男は、一、1969年3月14日、第一審最終陳述を行った。彼はそこで、宮本顕治と野坂参三の党史偽造歪曲犯罪と敵前逃亡犯罪言動を暴露し、告発した。さらに、二、1970年11月、大須騒擾事件控訴趣意書において、二人の言動を具体的データーで詳細に告発した」(同資料は「宮地健一HP(検索)」で公開している)。

 

 「党員数23万6000人は、1950年4月29日、第19回中央委員会総会の発表数字である。(中略)第7回大会(1957年7月21日)発表が党員数3万数千なので、党員残存数は15%、20万党員、85%のほとんどは、その後も、日本共産党には戻らなかった。総選挙は、35議席から、全員落選−0議席を経て、次回で1議席になり、得票数は三分の一に激減した。大衆団体も、数字的データはないが、崩壊・解散、および会員数が激減した。(中略)宮本顕治、野坂参三は、武装闘争参加・起訴者・離党者・被除名者などの人数もしらべようともしなかった。これも敵前逃亡犯罪行為に該当する」。

 

 追記・「白鳥事件」真犯人の党による秘匿(中国亡命)について。その事実を知っている元北海道地方委員会ビューロー(軍事部担当)川口孝夫氏夫妻を六全協後に中国に亡命させたのは、宮本顕治であったとする川口氏の証言がある。川口孝夫著『流されて蜀の国へ』(自費出版・1998年発行)(川口夫妻を励ます大阪読書会にて)。川口氏は最後に書いている。「私が中国に渡った1956年3月という時期は、党が統一して既に一年が経ち、志田重男氏も中央からいなくなっており、明らかに党中央の実権は宮本氏に握られていた。つまり当時、党内で私をペテンにかけ中国へ追放することのできた人間は、志田氏でも誰でもない。宮本氏以外にいないのである」と。(川口氏夫妻は今は故人である) 以上。

 

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

           『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    高橋彦博『枚方事件について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む

 

 

 由井格 社会・共産運動研究会、『情況8、9月号』掲載2009年8月1日

 

 書評 宮地健一著『検証:大須事件の全貌』と大野昭之遺稿集『「自主独立」「民主集中」の虚構』を読む

 

 〔小目次〕

   1、大須事件の全貌

   2、大須事件の複雑性

   3、「武装デモ」と「騒乱罪」

   4、「極左冒険主義」と宮本顕治

   5、大野昭之遺稿集「自主独立」「民主集中」の虚構、の衝撃

 

 1、大須事件の全貌

 

 まず、本書にある著者紹介からはじめる。宮地氏は一九三七年名古屋市生まれ。五九年名大経済学部卒業、三年間民間会社で勤務。職場の共産党細胞長→民青地区委員長・専従→名古屋の共産党専従→愛知県選対部員。民青・共産党専従経歴十五年間。県常任委員会・党中央の極端で一面的な赤旗拡大の誤りを正規の会議で批判したことにより、それへの報復として、専従を解任された。党内で報復批判の闘争を一年八カ月間続け、七七年第十四回大会に警告処分・報復的専従解任を撤回せよと上訴。無審査・無採決・三〇秒で却下された。七七年、名古屋地裁に専従解任不当の民事裁判を提訴。憲法の裁判請求権を行使したことを唯一の直接理由として除名(奥付の著者紹介より一部省略して)。

 

 大須事件とは。

 

 一九五二年七月七日、名古屋市中区大須・岩井通りで、日本共産党名古屋市委員会と、軍事委員会による「武装デモ」(党地下指導部の位置づけ)が企画されていたが、検察・警察は、党内に潜入させていたスパイにより、すでに六月にはその計画を察知していた。警察は前夜に引続き(後述)綿密な準備をしており、スパイUには、あらかじめ警察製造の火炎ビン二本を持たせてデモに参加させ、警察放送卓に投げさせた。火炎ビンは発火したもののデモ隊は普通に行進を続けた。

 

 あての外れた警察は予定された第二の計画に移り、あらかじめ選抜されていた清水警視に拳銃を発砲させ、五連発のうちの一発が、朝鮮人高校生甲聖浩(一九歳)の頭部を貫通し、即死させた。これを機に、八九〇名の武装警官は、三方からデモ隊を襲撃、デモ隊からは死者二名、重軽傷者三五名以上、検挙者三九二名〔うち朝鮮人二三名以下( )内は朝鮮人〕、被告数一五〇名(七〇名)、懲役刑五五名(二六名)、実刑者五名(二名)と、「騒乱罪」(九五年の刑法改定以前は、騒擾罪・ソウジョウ)を適用された事件であった。

説明: 検証:大須事件の全貌の画像

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


検証:大須事件の全貌            「自主独立」「民主集中」の虚構

日本共産党史の偽造、検察の謀略、裁判経過   一学生、一教員の目に映った.占領下から

                              60年安保までの日本共産党史の一断面

宮地健一【著】定価2940税込)       大野昭之【著】[定価]¥450

 御茶の水書房(2009/05/01出版)     社会主義連盟【発行】(2009/03/20)

 

 2、大須事件の複雑性

 

 背景。

 

 一九五〇年一月、当時の国際共産主義運動の総本山コミンフォルムは、その機関紙で、占領下でも平和的に革命は可能という日共の「野坂理論」を帝国主義美化論と規定して批判した。国際的権威絶対論全盛の時、徳田書記長の指導に疑問を持っていた、志賀、宮本、春日(庄)たちは、それぞれの間に相違はあったものの、国際批判に従えという一点で同調し、徳田、野坂の主流「所感派」に対抗し、「国際派」と呼ばれるようになった。

 

 コミンフォルム批判の背景には、当時の東西対立の深刻化があった。四九年十月の新中国の成立は、東アジアにも大きな変動をもたらし、分断された朝鮮半島の緊張は急速にたかまった。金日成は南進による朝鮮半島の統一を決意し、スターリンの許可をもとめる。やがて毛沢東も説得し、朝鮮での戦争の準備がされ、六月二五日、共和国の軍隊の越境により、戦争の火蓋が切られた。当初優勢を誇った共和国軍も、米軍(国連軍といわれた)の仁川上陸により、戦況を逆転され、一時は中国国境地帯まで追い返される事態ともなった。中国人民解放軍の参戦、ソ連軍の非公式の協力によって固定化したのが今日の三八度線といえる。

 

 国際的(ソ・中・朝)な要請・指示を受けた日共(主流)は、四全協(五一年五月)で国際派から右翼日和見主義といわれていたのに対抗して、「国際派の全グループを左にとびこえ、翌年に全面的に開花した極左冒険主義の礎石をすえつけた」(小山弘健『増補日本共産党史』)。そして五全協(五一年十月)を開催し、朝鮮半島に出撃している米軍の後方を撹乱する行動をめざした軍事方針を決定した(著者は、日本国内での朝鮮戦争としている)。

 

 謀略。

 

 著者の検証は綿密である。警察・検察のはじめからの野合、党内のスパイの暗躍と警察の挑発行動の結合の実態のバクロはもちろん、日共内部の軍事行動の指令・指導の実態も明らかにしている。「武装デモ」の中身となる火炎ビンについては、上部の二〇〇〇本製造の指示にかかわらず、日・朝両勢力併せても一五五本であり、うちデモ隊携帯分は三三本であったとしている。

 

 上意下達、主観主義と官僚主義、出世主義の跋扈を指摘している。また、当時指示し、引きまわした大須事件の現地の最高指導者岩林虎之助のように、何等自己批判することなく(明言したこともなく)、死者、負傷者、被告や家族たちの苦しみとはかかわりなく、その後常任幹部会委員、名誉幹部会委員にまで栄達した人もいる。

 

 警察の謀略。

 

 そもそも大須事件につながる大衆の結集は、当時の東西対立とからんでいる。当時社会主義圏への合法的な渡航は一般人には禁止されていた。五二年四月にモスクワで開催された国際経済会議には、英・米・仏を含む四九カ国四七一名の代表が参加した。

 

 それに招待を受けた高良とみ(参議院議員・緑風会)、帆足計(衆院・左社)、宮腰喜助(同・改進党)の三人は外務省に旅券の申請をしたが発行を拒否された。三人は紆余曲折をへながらも会議に参加し、さらに中国からの招待を受けて五月未に中国北京に到着、そこで、輸出入総額六千万ポンド(当時の円で六億円)の日中貿易協定を締結した。占領下の閉塞感を破る行動として、一般人はもちろん、経済界の一部からも大歓迎された。「帆足・宮腰両議員は七月一日、羽田に帰国したが、彼らを迎えたのは、羽田空港をうめつくす歓迎の人波だった」(六一〜二頁)。

 

 「五二年七月七日、名古屋市中区の大須球場は一万人の大聴衆で充たされた。「日中国交回復、日中貿易再開」「平和を守れ、朝鮮戦争即時停戦」「吉田内閣打倒、全面講和による完全独立」をかかげた労働者、市民、学生が続々とつめかけた」(六二頁)。午後六時四〇分開会。赤松(左社)、春日(右社)、田島(共)の各議員に続いて、労働団体、文化人等各界代表の挨拶が続き、しめくくりに、宮腰・帆足議員の講演が行なわれた。

 

 共産党は、一、中署、アメリカ村に向けた無届デモを、大須球場集会終了時点で大衆に呼びかける。二、製造した火炎ビンを入場時に会場に持ち込む、など事前に決定していた。しかし、これらの内容は、党内に潜入したスパイによって警察側には知らされていた。高校民青の偵察隊によって、目標の中署とアメリカ村は、武装警官によって守られていることが判明、共産党名古屋市ビューローは、午後九時頃作戦変更、デモは、金山橋で流れ解散することとし、火炎ビンは使用せず、無届の平和デモとすることを決めた。デモ隊が大須球場を出発したのは午後一〇時である。

 

 しかし、警察側はデモコースと形態の変更(平和デモ)を見逃すはずもなく、事前の準備どおりの挑発行動を行なった。彼等は前日の六日のデモ弾圧で貴重な成果をあげていた。

 

 広小路事件。

 

 七月六日、日本人としてはじめて社会主義国を訪問し帰国した宮腰・帆足の両議員は、名古屋駅頭に降りた。駅前では歓迎大会が開かれ、終了後観衆は、駅前→笹島→広小路と、歩道上をデモしながら、両氏を宿舎に送った。「デモが伏見通りをすぎ、住友ビル(当時米軍に接収されていた)にさしかかったとき、五階の米軍宿舎から突然窓枠がおとされてきた。これをきっかけに警官隊がいきなりコン棒をふりかざしてデモ隊におそいかかり、十二名が検挙された」(一五頁、原典は『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』より)。

 

 検束者は十二名で、ほとんどが共産党員だったという。そのうちの一人Tは「火炎ビン武装デモ指令」メモを所持していた。警察はこれによって、明日七日のデモを「騒擾罪」までに仕立上げることができたといえる。

 

 3、「武装デモ」と「騒乱罪」

 

 まず、共産党側から見て行こう。五全協で軍事方針に踏み出した共産党は、五二年五月一日の中央メーデーで、中核自衛隊の主導のもと、「人民広場」で、首都圏での大きな行動を起した。続いて西では、六月二四〜五日吹田事作が発生した。中央の軍事委員会は、次は中部でと期待するようになり、これが愛知、名古屋の地下組織に圧力となっていった。この間の事情については、著者の検証でかなり明らかにされて来ている(党の中間組織が、上部に煽られる様子は、北海道の白鳥事件の記録にも見られる。東京がやったからこちらでも、ということがいわれていた)。

 

 大須の場合は、すでに六月の段階から警察・検察は、共産党内の情報を把握しており、「騒乱罪」の適用をねらっていた。警察幹部は六月下旬にはマスコミに対し、拳銃使用を公言していた。

 

 七月七日の混乱のきっかけとなった放送車への火炎ビン投入にしても、警察側は、投げ込みやすくなるように、後部扉を開けて待っており(これではスパイも簡単に行動できた)、その上、野田巡査は、濡れマップ等を用意して控えていた。さらにこの車両は、事件の重要証拠にもかかわらず、行方不明となり、被告側の度重なる申請にもかかわらず、ついに法廷では示されなかった。

 

 4、「極左冒険主義」と宮本顕治

 

 『検証:大須事件の全貌』の中で、著者は、ながい間、日本共産党に君臨していた宮本顕治氏の責任を二方面から問うている。一つは、五二年に闘われたメーデー事件、吹田事件、大須事件には、いずれも騒擾罪が適用されたのだが、その罪で有罪にされたのは大須事件のみである。法廷戦術の良し悪しにもよるが、何よりも、被告団の一部、それも団長を党の戦列から排除(除名)したことに見られるような民主主義を欠いたことが問題にされなければならない。

 

 宮本氏や、その取り巻きの人たちは、あの時代のことは、党を不法に占拠した徳田分派が行なったことだから、日本共産党とは関係ないとしている。著書の中で、宮地氏は、宮本顕治が、軍事方針の五全協共産党に、自己批判書を提出し、復帰していることを明らかにしている。このことについては以前から指摘されていた。早くは、小山弘健『増補戦後日本共産党史』(七二年)で、また党活動家としては、増山太助『運動史研究・八巻』「五〇年問題 覚え書き〔下の二〕」(八一年)が明らかにしている。

 

 5、大野昭之遺稿集『「自主独立」「民主集中」の虚構』の衝撃

 

 まず、私自身の自己批判から。つい最近まで、私は研究会や、小論の中で、「まがりなりにも六全協で統一を回復した共産党は」と、枕詞のように云っていた。もちろん、それは違うぞ、という批判を受けてもいたが。宮地氏は、宮本の五全協、新綱領(現在の日共は「五一年文書」としている)、五一年九月のコミンフォルムや、中共の「分派を解消して、党中央に復帰すべきである」という主旨の批判を受けて、ひそかに復帰したと主張している。

 

 これを裏付けるような論攷が、大野さんの遺稿集である。大野さんは、昨年十一月、八六歳の闘いの生涯を焉えられた。四七年東大在学中に入党、文京地区委員、東京都委員会委員も務めていたが、労働運動の分野でも都教組、東京地評で大きな足跡を遺された。出発点が、東大、文京地区ということで、ある意味では、戦後の宮本を一番知りうる立場にいたともいえる。また大野さんは、官僚主義・出世主義とは無縁で、全てに批判的な立場を貫かれた。そのことが党内にあっては、構造改革論や、日本帝国主義自立論や、大野さんの専門分野の教育論(教師聖職論)や農業問題で、党本部と鋭く対立することになった。当然、労働運動の分野での対立も重なり、ついに日共と訣別した。

 

 この遺稿集で、宮本の自主独立論が、晩年は別にして、一貫して国際的な権威に追随して来たことを立証している。宮地氏は、極左冒険主義と日本共産党は無関係と云って、大須事件の被告たちを見捨てて、「騒乱罪」適用までに追い込んだ宮本の責任を激しく追及しているが、その宮本の主張のデタラメさを、大野さんは裏付けている。

 戦後日本共産党史の暗の部分を解明した、両書をすすめる次第である。

 

 大野遺稿集[お問合せ先]社会主義連盟 TEL・FAX 050・3495・0536

 

 (宮地注)、故・由井誓さんは、由井格さんの兄である。そのリンクを載せる。

    由井誓『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

    平尾要『61年綱領決定時の「アカハタ」編集局員粛清』由井誓除名

 

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 〔関連ファイル〕

    『検証・大須事件の全貌』出版に当たって

    第1部『共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備』 『第1部・資料編』

    第2部『警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備』 『第2部・資料編』

    第3部『大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否』 『第3部・資料編』

    第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』

    第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

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