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04-7-23取り付け

水琴屈を仕掛けた鉢飾(蹲踞)
The mechanism which makes the sound of a koto was carried out. The vessel of a stone which a hand washes.(It crouches and a hand is washed.)
 宏歸流京都庭常京都庭常ではありません 
お間違えないように・・・・・・・・ 


ー創る人 観る人ー

本庭園って?一体何だろう?」と自分に問いかけている今の自分を発見した 親父の封建的な圧力に屈し私は無理矢理庭師の道を歩かされた 

には職業に対しての選択肢は何一つなかった 生まれたときから私の進路は決まっていた 有無もなく「蛙の子は蛙」であった 庭に対する関心 興味 勿論知識 全て「無」の状態で庭師の道を親に手を引かれ歩き出した 

父や職人達がそれぞれの場所で仕事をしている 見ているととても楽しそうな仕事で自分もやってみたくなった して私は職人の手伝いをしだした とても面白かった 

に親父の組む石組は何となく惹きつけられた 体此は何なんだ?と感動に似た感情に身体全体に電気が走った それがなんだか当時の私には分析出来なかった 良いとも悪いとも分からないのに身体が反応していた そんな現象が心地いいのかどうなのか?初の体感であった 

思えばその体感を忘れる事が出来ない 身体の何処かに染みついたのか 今私が庭師でいるのは その体感を今度は私の手で誰かに与える番だと考えるからであると同時に 他に身体がしびれるくらいの仕事が有るだろうかと考えないこともない しかし半世紀強庭師の道を脇見もせず歩いてきた

の今更に強く初心の感動が現在に至りしっかり意味あるものとして定着した

や外観のみに困惑されるのではなく 職人達の製作意欲によって作品に心とか象徴的な意味を秘め 情熱を持って培ってきたノウハウで製作に当たった 貴重な作品の宝庫が京都である

来から受け継がれて来た日本文化である日本庭園は人の心を魅了する内容を秘めた素晴らしい芸術である 汚すことなく受け継いだ私の果たす義務は次代に継承することだと自分に言い聞かせ宿命のような使命感が私を釘付けにしている 

の中にある日本庭園はやはり親父に魅せられた石組が定義の一つであり 石組のない庭は 仏像のない寺に等しい 

は人を別の空間に誘う不思議な感覚を覚える空間である 

一体此は何だ?」惹きつけられる部分 のぞき込みたくなる裏面 もっともっと知りたくなる 庭に入った瞬間に独特の雰囲気に包まれる 石が樹が話しかけて来る 滝の落ちる音 水琴屈の奏でる琴の音 鳥のさえずり 風が騒ぎ 雨が潤いをあたえ 真に生き物であり 庭の方から表現を間欠なく繰り返して人に語りかけている

 る(造る 創る)人は その道何100年と試行錯誤を繰り返しながら その道を切り開いてきた  そして自分の持つ幾つものパターンの中から選び出した一つがそこに表現されるわけだが その選択という作業がプロとしてのプロたるところであり前述のプロセスに関係のない唯観るだけの人の持つ感性とはまったく違うところで脳を司っている

                  

 みにプロは皆同じとは限らないワンパターンのようなプロもごまんといることも書き添えておこう

 る人は 大勢いてもその感性が 人各々違うから大勢の人達が納得する作品を創ることは難しい 

 またま観る人に創る側の感性が理解されたときは非常に幸せに思う 要するにあらゆる芸術の世界は、人を意識する以前に自分が如何に納得するかであり 先ずこの戦いが自分の中で起こる 

 物にも支配されないところで 自分の感性ノウハウの限界に挑戦しそんな精神環境の本で作品創りが勧められる

 かし製作した庭の評価評論に関しては無関係なところで一人歩きしている

 談になったが 冒頭に試行錯誤(trial and make a mistake)を繰り返しながらと述べたが まさに今だに試行錯誤の連続である

 今になると錯誤(a mistake)が本当にミステークなのか? Error(誤り)なのか? それが素晴しいものかが、解らなくなり どれもこれもが選択肢になって ミステークと思ったのものが逆に面白かったりする事がある

 とは?そんななんの制約も条件も規定もない宇宙の様な広い広い空間で今日までこの仕事をよくやってきたなと 今その現実(reality)を前に驚いている

 方であった親父 また先輩の指導を忘れて 今偉そうな事を言っている様だが 考えて見れば私に限らず よりどころのない空間に 先駆者達は そんな空間に模索し築き上げてきた作品が現在迄受け継がれてきて 現代はそれを参考に庭師はoriginal(独創的な)作品創りしている しかし一部にその庭を理論づけ定義付けをしてあたかもacademicなことをマスターしたかのように言う そんな庭園芸術に縁の遠い人達が大勢いることは否めない

 こで私は私に切り離せない庭造りが出来るのだと レールを敷いてくれた先駆者達に感謝している 

 とは? 一般的に言われていることが 「癒し」「安らぎ」だろう そして「美しい景色(landscape)」等であろうが「癒し」「安らぎ」にしても「美しい景色」にしても何の定義もない 

  らぎ これを私なりに一口で言えば「気分転換」ではないのかなと考える だから何かに長時間携わっている人が 何らかの時間空間に移行することで「癒し」「安らぎ」が得られるのだと考えたい

 自身は庭創りにおいて「癒し」「安らぎ」を意識して提供しているつもりはない 庭つくりは私の作品創りとしか考えてない 只「癒し」「安らぎ」は観る人が受ける二次的なものと捕らえている

「美しい景色」も究極は観る人の感性に依るものではないかと つい投げやりに言ってしまう

 る側にとってプロの作品はもちろん依頼者が有っての作品造りだが いざ着手段階になれば作者の感性に委ねなければならない

「美しい景色」の作品を完成させるには言うまでもなく内容に富んだ多彩な想像を膨らませて設計に取りかかる それは計り知れない選択肢の中から一つのパターンを選択 又一つに纏める作業だから全神経を集中させる瞬間であり「無」から「有」へ転換する大事なプロセスである

こで一旦文章を切りますが ここまで読んでくれた人 文章について内容についてcomment(論評)下さい 必ずお返事書きます


入門から10年ー
入門8年目に制作した庭匠 平岡嗣雄の処女作品
 

門から10年経てば一区切りで、私も小さい庭作りぐらいさせて貰えるだろうと思っていた、かし、どっこいそうは問屋が卸さない。
の頃も、うるさい先輩達、二つ年上の兄が居て、当然では有るが、職場では兄は私よりたった2年だが2年でも先輩は先輩なので、そちらが優先権を握っている。兄は又、この仕事に適性が有るのか、要領がいいのか、叱られる事も少なく、先輩達にも大事にされ、もっともな事を言うからか受け入れられていた、親方(親父)の指揮取る庭作りに口出しても、それを参考にされていた。
んな傘下に居てては、何時自分の番が回って来るかわからない。でも兄のように私も、庭作りの核心に口だししたり、核心に触れて庭作りの実感を味わいたかった。私は言葉使いが悪いか、口下手なのか、言葉にケンが有るのか、私が口だしすると、「まだお前が口だしするのは早い」とか、「お前の出る幕では無い」とか、私の言い分を聞く段階以前の処で拒絶され、又私自身も、私が加わればその先の成行きが暗黙の内に分かっている様なところが有って、それはいくら気持ちが早っても親方(親父)の指揮に、兄も、私もが加わると仕事が前に進まないだろう。そして又どうせ私が口だししても怒られるのが落ちだ。そんな事が先入観になってつい口篭り、内に秘めてしまう繰り返しであった。私たちの時代、特に仕事柄また京都は二代目は長男が継ぐ事は常識であるから次男の私は親方(親父)眼中にはなくて当然であろう
[イ]入院
間つき合いが下手なのか、生まれ付いた位置が悪いのか、性格が悪いのか、そんな事で悩む日々が続き、とうとう神経科に入院することに成ってしまった。
みと言えば仕事の事ばかりでなく、青春期 若干ハタチそこそこの私には、自分の生きざまを他人(ひと)と比較して落ち込み、毎日毎日奴隷の様に食って、寝て、働くそんな平凡な繰り返しがストレスとなり神経失調症状で入院という結果となった。
院は1カ月半そこそこだったが、入院中に脳裏を駆け巡ることは、《生きる》て一体何なのか? が反芻されるだけで、容体には何の変化もみられなかった。
が入っていた病室は2人部屋で、同室の相手の患者さんの症状が重くて、何時となく心でその人との比較をして、この人の事を思えば私なんか病気の中に入らない位の症状だと、多少の安堵感があった。
がその暗いトンネルから抜け出すには、森田療法と言う治療を、と言うより森田療法をマスターせねば成らなかった。森田療法とは哲学的、心理学的な療法で、=有るがままに=と言う療法である。【それは入院から3日間は臥辱期間と言って食事、用足し以外はズーと寝てなければいけない。そしてその間は人と一切口を利いてはいけない。4日目から毎日日記をつけ、先生のエックを受ける。例えば、先生から「有るがままに居て、1日の経過を書きなさい」と言われ、私は、『今日の昼頃、胸が締め付けられるようで、気持ちが落ち込み、淋しい気分に成った、だから有るがままに居る様に努力しました。』と書くと、先生が赤ペンで「努力しなくてよい」とその部分のチエックがある。と言った具合にところどころ印が付いて日記が帰ってくる。その他食後に精神安定剤の支給、個々の症状に応じて軽い作業療法等がある。私にはこの=有るがままに=を会得するには相当時間が掛かった。
  この=有るがままに=と言う言葉は後々私の生き方を左右する無くてはならない言葉となった。
院中に思うことは、やはり更生出来るのかな? もう駄目なのかな?。 かと言って自分の命を経つだけの勇気もなく、日々の生活に疲れ、人生に悲観し、病気の私とそれを見守る私がそこに居て、病気の私の自分は駄目でも、見守っている自分はまだ望みが有るのかな?そんな暗中模索の日々が続いた。そんな暗い心に、かすかな明りが見えたのは、「私はもう終ったのだ」と
思った時だった。そして、もしこの先私に残る人生が有るなら、それはプラスアルファーの人生だから、それはその全てを =本物の庭師= として生きようと心に誓っていた。
(ロ)転職
院に至る迄には、数々の転職をした。例えば、建築関係のセールスマン、単車のセールスマン、ボーイ、ゴム工場の職工、電気関係会社、その他精神科病院の看護人迄、ジャンルを問わず手当り次第に転々とした。しかし転職の動機は親父に対する反抗だったから、身体の何処かに庭師の血が流れているのか、最悪の時は庭仕事、親父の傘下に戻ればいい、そんな甘え、受け皿が
有ることで、どの仕事も身に付かなかった。
(ハ)更生
院後半は、気持ちは本物の庭師として生きようと意気込んでも、よれよれの身体は、時々その決意を鈍らせた。今更親父の傘下に? そんな感情的な面が退院の足を引っぱっていた。でも病院でマスターした 有るがままに の精神で行ける処まで行こうと鈍る気持ちに鞭打った。
い敷居をどのつら面さげてとも思ったが、時間が事の解決をしてくれたのか、私の退院を親父、兄、先輩達は快く迎えてくれた。私の入院中に、親父達の間で何を話会われたかは定かで無いが、私達のこの仕事(庭仕事)は芸術性のある職種で、庭の構成は通常1人でやるのが当り前、他のものが兎や角口だしすると、構成していた人のイメージが壊れ、まとまりの無い作品になっ
てしまう恐れがある。こんな常識的な事が話し合われたのか、或日『ツグオ!今度の仕事、お前一度やってみるか?』と薮から棒に親父から言われた。
にしてみればまさかの突然の出来事に、一瞬時間が止まり、目の前が真白になり、動悸が打ち、宙に舞う気持ちだった。かねがね現場を任せて欲しいとは思っていたが、こんなに難なく私が庭作りが出来るとはと、さて念願の庭作りを任せられても、戸惑うばかりで、何をどうすれば良いのか、人の仕事の口出しは簡単だったが、さてとなれば、恐ろしさに振える自分を覚えた。
(ニ)監督の座
「ツグオも入門から10年近く成るのだから、一度お前も庭作りさせてやる。そして皆で決めた事だが、わしも、兄ちゃんも職人さん達も口出しは一切しない。お前の思うように動いてやる!」 あれだけ反抗し、体が、がたがたに成るまでして、掌中に納めたこの立場、なんと居心地の悪いこと、それはそうでしょう、私の下働きが皆、兄とか先輩達だからだ。
の時期には数名の後輩は居たが、私とその人達では仕事に成らない。折角念願達成したのだから、ここで弱音を吐く訳にはいかない。本当に庭師の端くれだが、今こそ=有るがままに=をモットーにやるしかない、と開き直ったのは庭作りにかかって1週間程してからであった。
作りの監督は、自らスコップを持って現場で働くと、庭全体に目が配れないから、縁先に腰掛け働く人に指示を送らなければ成らない役目で有るが、私には経験の無い事だけについ、日頃の体制に成ってしまう。そうすると兄や先輩が「監督は縁先から見てなあかんやんか!」と冷やかし半分で、逆に指示される始末である。
の筵に座らされた心地で、指示を送ってはいるものの、様に成らない自分の指揮ぶりを感じながら、それでも同時に段々その
気に成る自分を覚えていた。兄、先輩達が私の意に反した仕事をしているとき、そうでないと思って居ても、何か恐れおおくて、「今している、そこんとこ、そーと違うねんけど」となかなか言えなかった。
れでもそのまま進めば大変だから、思い切って声を掛けてみた。そうすれば先輩の一人が「おー監督さん何か言うちゃはるでー」と言いながらも指示通り手直しを不本意顔だったがしてくれた。終始緊張と不安、自分に問いかけ自分で答え、口だししないと言った兄、先輩達が、私を試すがごとく、何一つ逆らわずに働いてくれた事が嬉しかったが不気味でもあった。
(ホ)作品1
の庭作りは私の婚前のもので、結婚記念作品となり、今もその原型をとどめている。
悪戦苦闘の末、庭は完成したが、その庭に対する施主の言葉が気に成った。施工中親父は座敷から、庭作りの成行きを施主と話をしながら見守っていてはくれたが、私にはアドバイス一つなかった。その間に親父が施主に、変則的な我々の形態を説明して居たのか、施主の不審顔も無かった。
よいよ私は、まな板の鯉、後にも先にも進退極まる処で、じーと皆の言葉を待っていた。勿論施主の言葉が一番大切だが、親父始め、兄、先輩達の意見が、入試の発表の時の様にドキドキしながら、永い永い時間を待っていた。
『若いのに、よーやらはんなー奇麗になったわ、やっぱりお父さんの、お仕込みのせーや、おおきに!』と奥さんの言葉を頂いたとき、本当は飛び上がる位嬉しい筈なのに、何かまだ心の底に物足りない物が有った。ご主人も会社から帰って来るなり縁側に来て『おー奇麗になたな、若いのになかなかやるなーおおきに、おおきに!』と言って下さったのに、私の気持ちは重かった。それは親父始め、兄、先輩達に帰ってから何を言われるか分からないからだった。作品に自信など有るわけないし、やはり先ず、あの庭が親父の目にどの様に映ったのか?が早く聞きたかた。
食のとき親父は『まあ ようやった、はじめ始てにしては上等や』とだけ言ってくれた。その言葉の裏には わしが、お前の立場を立つ様にしてやったんだぞ!と無言の声が有るようにも聞こえた。
れでも私にしてみれば、先ず第一の難関を突破したように思えた。さて兄はどの様に思ってるのかな?兄は親父の代弁をするように、ぼちぼち言い始めた。細かい部分でいろいろ、『あの時お前こうしたやろ!あれはなーこうこうこうやねん、あこはもうちょっと、こうしたらよかってん、あそこは俺やったらこうするなー』と詳細に渡り指摘してくれた。何時もの兄との関係だっ
ら、兄にあれだけ指摘されれば腹が立つのに、何故か今日に限って兄が凄く偉い人に感じ、兄の意見が身に染みるくらい嬉しかった。
輩、職人達も各々の立場で各々に、思いや会話が有っただろうが、変ってきたことは、私との接し方だと思う。極端には変らなかったが、日に日に何か以前と違う感じを受けるように成ってきた。私は親方の息子で有ることで、今回の仕事も、先輩達をおいて出来た、それは私にとっては大きいメリットである。しかし親方の息子だけに風当りの強いことも多い。『やはり親方の息子やな』と『親方の息子は徳やな』の言葉が、その後先輩たちから私の耳に入ってきた。親父が、先輩始め職人さん達と私に差を付けてくれたのは、是が始てであった。私がもし勤める身なら、大勢居る先輩達を追い越してまで私に庭作りなどさせては貰えなかっただろうと、その時しみじみ自分の位置を喜びに転じていた。
(ヘ)希望
奮も醒め平常心に戻った時、作庭後いろいろ言ってくれた兄の言葉が、また私の心に重くのし掛かってきた。兄の言った通り決して否の打ちどころの無い完璧な庭を作った訳ではない。上の人から見れば、かなり目だるい作品だったかもしれない、でもその庭に付いては『まあ ようやった、始てにしては上等や』と言っただけで、親父はそれ以上何も言わなかった。
のとき程親父を大きい人と思い尊敬したことは無かった。しかし親父の言葉の裏には、私に対する意味深いものが秘められていた様にも感じざるを得なかった。
父は何時も、『一を知って十を悟れ』が口癖の様に言うだけで、何事についても多くは語らなかった。私はやはり、この出来上がった庭に対して事細かく批評なり批判、あるひは未熟な点の指導を仰ぎたかった。親父の立場になった今の私が思うことは、あの時の親父の指導は完璧で。例えば『今お前に何を言っても、今すぐお前の実力が変化する物でもない』、『学ぶべきものは時間を掛け、汗をかいて自分自身の手でかち取るもの』『言わなければならない事は一杯有るが、それを並べ立てても一時的に理屈を覚えるに過ぎない』『庭を理論付けるには、10年早い、理論先行の庭など作って欲しくない』『仕事は体で覚え、お前自身にしっ
かり感覚を付けることが大切だ』『今何か覚えたいと思う気持ちが有るなら、その暇に山でも川でも観に行け、わしが教えるより自然が教えてくれる』そんな風な意味があったのではないかと今振り返っている。
のときは、自分の監督指揮した庭が完成した事で、自分でも出来るのだ。とその自負心が心のぬくもりになり、「よーしやるぞ!」と将来に向けて希望が涌いてきた。
(ト)設計図1
作り依頼の時『植木屋さん庭の絵でも描いてきてくれるか』と施主の注文に、決って親父は『絵は私の頭の中に描いたーる』と返す有様だった。
の当時庭の設計などしている業者は殆どいなかった。しかし今日までの親父なら、頑として受け入れなかったことだが、今回は何を思ったのか?夕食のとき、めったにしない仕事の話を持ち出した。『今度の仕事なー いっぺん絵を描いてみたらどーやと思うねんけど、お前ら描いてみいひんか』何時成らぬ親父の革命的な発言に、兄も私も何時もと違う夕食の雰囲気に、思わず箸を置いてしまった。「へー何で?」兄弟二人がキツネにつままれた様な顔で、二人の視線は親父に向いた。
『これからの植木やはなー 絵ぐらい描けるようになっとかなあかん』『わしみたいに、庭の絵は頭の中にかいたーる では通らん時代になる』『どーやユキオ(兄の名前)』兄は考え込んだ。『今度の仕事、上手に絵を描いた方に任したる!』是は天地逆に成るくらい思いもかけない、凄い出来事だった。挑戦意欲と体中に鳥肌がたつような、未開拓の土地に踏み込むような思いと、体も心も休む体制に入っている夕食時の爆発発言に、心身共に踊り上がる思いに転じた。
のとき兄にも異変が起こっていた。兄は絵が苦手だった。やはりこの瞬間に親父の傘下に革命が起こり、私達兄弟の進路が決定付けられたようなものだった。兄は即座に、『俺は、親父と同じやり方で通す』と言い切った。その時私は、責任を一人で背負わなければならない重いものを感じていてた。『そしたら、ツグオ お前やってみるか、今度の仕事ちょっと大きいけどやれるか?』私は武者振るいしながら二つ返事で絵を描き始めた。
(チ)絵心
学生の時絵の先生から、『ヒラオカ君、専門的に絵の勉強したらどーだ』と図工の時間に、描いた絵を誉められた事があった。先生のその言葉は、私に『絵心が有るぞ』と絵心の適性が有ることを、指示して戴いた様に心に止まっていた。それが庭の設計図に挑戦する気持ちをかき立ててくれたのかも知れない。
(リ)設計図2
て、挑戦意欲満々で設計台を前にした。ところが気持ちが宙に浮いた様で何も浮かんでこない。二つ返事で引き受けて、今更後には引けないし、動悸がどんどん、頭の中は幕が張ったようになり、ここに来て、本当の大変さを、身体全体で感じ始めた。設計台を前に、それこそ三日三晩、線一本引けず、夜はろくに寝ていないので、だんだん頭が、もうろうと成ってきた。私にとって平常心でも重いこの仕事を、こんな状態で画がけるわけがない。何でもいいから、兎にかく線一本でも点一個でもと、落書のつもりで画き始めたのが三日目の晩だった。私はそのために一番簡単なプレイダーとリバーペン、製図に必要なもの一通り買って貰い、早くそのプレイダーが使いたくて仕方がなかったが、お膳立てがすっかり出来上がった前で何も出来ない無力な自分をつくづく感じさせられた。
父が、『山でも川でも観に行け、わしが教えるより自然が教えてくれる』と言った言葉はインパクトがあった。その言葉がまだ新しく私の中を駆け巡っていたので、「そうだ、自然だ」と滝の絵を描き始めた。それに尾鰭をつけて、ちょっと遠目で眺めて見ると「なかなかいける」。これを下絵に作庭材料に置き換えればいいのだ。やっとペンは走り始めた。
から見て、三日三晩無意味な時間を過ごしたようでも、その間本人の私にとっては、悪戦苦闘の連続だった。時々様子を見に来ていて兄も、構っていいのか、そっとして置くのがいいのか迷っている様で、何か力に成ってやれるものなら、兄のそんな気持ちが伝わってきた。図面の用紙はカレンダーの裏面を使って画がいた。今思えばとても恥ずかしい代物でも、当時はその図面は私のベストな庭の設計図面であった。 

   
calendar(カレンダー)の裏に画いた庭匠 平岡嗣雄第一作目の設計図(1960年)

(ヌ)   打ち合せ
うとう私の真価が問われる日が来た。座敷に親父と二人案内された。私は下っ端なので、お得意先に仕事で行っても、滅多に縁先にすら座らせて貰った事がなかったのに、座敷に通され、湯呑み茶碗には茶托までついていた。ますます緊張する中で座敷机にカレンダーの裏に画がいたお粗末な図面を広げた。施主は図面を手に取り裏返して、苦笑か、あざ笑いしながら、『カレダー
やな』と一声、私は冷汗がでた。改めて図面を見直し、『おー』とうなり『うん、これはなかなかええやないか』『よろしおすか』親父はそこでかんぱつを入れず言った。恐らくそれは親父の、施主に有無を言わさないタイミングのいいプロ発言だった。私はまだ、本当にいいのかなと施主の顔色を伺っていた。
主は現在、某会社の社長だが、某寺の住職の一人息子でもあり、後にはその寺の住職として治まる人だった。親父と施主は、次ぎのステップとして金額の話に入っていた。『何時かは私も寺に帰る時がくる、その寺もボロ寺でな、どうせ庭は、あんた等の世話にならんなん、そのときは金に糸目は付けないから今回は安くやってや』。
金の交渉とか商売的な面では、まだまだ私の出る処ではない。内の親父は存在感とそれなりの貫禄が有り、施主であろうと事と
次第では、相手を牛耳るだけの威厳を備えていた。側に居て、施主にペコペコもせず、対等に話のリーダーシップをとりながら、とんとんと進んで行った。
(ル)作品2
の庭は、お城が有って、その向こうに滝が見え、海が広がっている。そんな風景をイメージして設計した、池泉式庭園である。
よいよ紙の上の絵が現物に成る日がやって来た。図面をひく段階で庭を作る楽しみを味わい、その図面が更に現物と成って行くプロセスは、ものを作る者にとって、是ほど楽しい事はない。先ず意欲、緊張、不安、迷い、孤独、優越感等などが同時に身体全体の機能を動かす。
に成れば、是が「楽しかった」と言う喜びに変るのかも知れないが、その最中は、それ等がいり混じった感情のなかで、唯ひたすらに完成を目指し、感情移入、つまり設計のモチーフで有る風景を、いかに抽象するかに専念していた。
んだん仕事が進むにつれ、図面に忠実にしよう、と考えていても、どうしても図面と現物とのずれが生じてくる。この悩みは庭作りの場合仕方がないことである。庭の素材には規格がなく、寸法その他で設計の段階に無理が有るからだ。しかし設計は、地割り全体構想には不可欠な分野なのだ。
の庭は、私が責任持たせて貰った2作目の大仕事だけに、熱の入れようは唯ものではなかった。結婚の年、最初の設計図、若干24才にして味わった絶頂感であった。
かし結婚にしても、仕事面においても、私の場合絶頂感を得るには、そうは短い道のりでは無く、簡単にはやって来なかった。何事に於ても、その一つ一つが熟すまでには遥かに多い時間を要した。この作品は、今の私の目から観れば、全体にも部分にもぎごちなく、空間構成上も洗練されてない浅い経験が剥きだしの庭だが、今の私には出せない情熱が生きづいている気がする。そして数多く作って来た作品のなかでは掛替えのない一作である。
(オ)写真
を作れば当然記録の為に写真を撮っておく、自然の流れである。写真というメディアも平凡には通り過ぎなかった。

 
              お3時の一時


中休み


水琴屈を仕掛けた鉢飾(蹲踞)
The mechanism which makes the sound of a koto was carried out. The vessel of a stone which a hand washes.(It crouches and a hand is washed.)