ダム穴? 2009/8/14

ダム穴、これは日本では少ないが、ダムの緊急用排水施設の一つである。日本では、ダムより低い排水ゲートを用意しておき、溢れそうになるとそこから水が流れるようになっているものが多い。ダム穴は、それとは違ってダムの底から直立した排水口で、朝顔みたいに先が広がっているような感じである。ダムには取水用の塔が立っていることが少なくないが、その先端をダムより低い位置切り取って非常用排水口にしたような感じである。せいしきには? グローリーホールと呼ばれるものである。

 参考: http://www.trophybassonly.com/id56.htm   (英文)
     http://damhole.web.fc2.com/
   http://www.dphoto.us/forumphotos/data/594/432Lake-Hole.jpg


さて、ダム穴である。ここから排水されているとき、湖面にブラックホールのようにぽっかりと穴があき、そこへ水が勢いよく流れ込んでいるように見える。あり得ないことだけど、そこに小舟で近づくとそれこそ背筋が凍るような光景がみられることだろう。飲み込まれたら落差もあるし、大量の水が流れ込むのでまず命はないと思う。しかし、日本では、ダムに隣接する半円形のものは結構あるようだけど、直立したものは少ないようだ。


で、この写真である。

実は小さな池の排水口だけど、ダム穴を思い出してちょっと嬉しくなった。

お断り、穴の周囲を画像処理でぼかしてあります。




プラネタリウム 2009/7/29

久しぶりにプラネタリウムを見た。最新のデジタル式プラネタリウムである。

プラネタリウム、子供の頃見たものは、ドームの中央に大きな機械があり、中央に向かって座るものが中心だった。また、投影も2球式と呼ばれるもので、典型的なのは棒の両端に丸いボールがついているようなものだった。解説員による説明もまた分かりやすいものであった。ドームだから真ん中に座ると機械の陰になる部分ができるし、端に座ると星が偏って見える。ドーム中央よりちょっと内側に、というあたりを選んで座っていた。
次に・・・一方向に向いて座る形式のものが出てきた。投影も1球式が出てきて小さく見えるようになってきた。客席が階段状になっているところもある。一方向に向くのは、星だけではなく、映像を写すためである。そして、この頃からあらかじめ録音された解説を流すだけのところが増えてきた。星空に映像が加わるのでこれはこれで面白いのだが、解説員がいなくなったことが寂しく思えたものである。

そして、デジタル式である。従来のプラネタリウムは、精密に開けられた穴を通して星を写すような感じである。だから、星の位置は決まってしまう。だから、恒星の位置が動いてしまうような遠い未来や過去の星空を写すこと、あるいは地球を遠く離れた場所での星空を写すことはできない。だけど、デジタル式はテレビをドームに投影するようなものなので、どのような星空も写すことができる。当然(でもないが・・・)解説はあらかじめ録音されているものが中心である。

さて、今回見たのはデジタル式、実はデジタル式を見たのは初めてである。改装されたばかりの新しい設備。以前のデジタル式では星などが粗いものもあったようだけど、粗さは感じなかった。映像も特に不満もなく、十分と感じた。ただ、時々動きが一瞬止まることもあった。
そして、座席がフロア全体、中央まであるのがとても新鮮だった。どこから投影しているのか気になったが、これは分からなかった。中央まで座席があると、ドームのちょうど中央付近で見ることができる。これは非常に見やすい。この位置なら実際の星空に近いと思う。プラネタリウムのデジタル化はどんどん進むと思う。コンピュータ制御だからどんな星空も再現できる。
でも・・・解説は従来どおりの方式も併用してくれれば・・・と思う。



月食の思い出 2009/7/23

日食に続いて月食の思い出である。
月食、見る機会が多いのだが、発生する回数で言えば日食の方が多いようだ。ただ、月食は月が見える範囲、つまり地球の半分弱で見えるのに対して日食はごく一部となるため、目にする機会が多いのだろう。

さて月食の思い出である。子供の頃、月食の言葉を知ってはいたがその本質をよく分かっていたなかった頃の話しである。たしか、図鑑的な本で月食の項を見たような記憶はある。で、月食の日である。会社から帰宅した父が、今月食だ、という感じで離してくれたのだが、”月が欠けて見える”というので、そんなのいつものこと・・・と思って見に行かなかったように思う。今思えば残念なことだし、父もがっかりしたことだと思う。今思えば、”満月が欠けてゆく”あるいは、”つきが地球の影に入る”とでも言えばもっと興味を持ったかもしれない。まあ、どこまで理解できるかわからないが・・・。だけど、もう少し後などで頻繁にプラネタリウムなどに行くようになったのはこの時の話しがあるのかもしれない。

日食の思い出 2009/7/22

本日は日食、会社を休んで観測、写真撮影を・・・といいたいところだけど残念ながら仕事。しかも、日食の時間に会議を入れられてしまった。私は、この時間は意図的にはずして会議などを設定していたのだが、他の人はそうでもないようだ・・・。幸い、予定より早く会議は終了し、机から外を見ていると多少薄暗く感じられたが、曇り空のこと。そんなに違和感は感じなかった。だけど、正午ごろになるとずいぶん明るく感じたので、あのときの暗さは日食のため・・・と再認識した。また、仕事の合間に短時間だけ、見ることはできた。大きく欠けた太陽、初めて見るわけでもないのだが、やはり面白いものである。

さて、日食の思い出である。今まで2度、部分日食を経験している。1度目は学生の頃、写真を写したのを覚えている。欠ける割合も小さかったので今年ほど大騒ぎはしていなかったと思う。写真、煤を使った簡易フィルタでカラーのネガフィルムで写した。今回はこの方法は危険、といわれているが、今のろうそくでは十分な濃度の煤を作りにくい、ということもあるらしい。写真であるが、当時私が持っている一番長いレンズは50mm。だから、フイルム上では0.5mm程度にしかならないが、それでもプリントすればそれらしい写真にはなっていた。煤ですこし赤く写った欠けた太陽、きれいな写真になった。周囲に雲もあり、それもうっすらと赤く写っていて、風景的な日食写真になった。

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度目は東京にいるときだったと思う。撮影は考えていなかったようで、銀座かどこかを歩いているとき、”(晴れているのに)妙に暗いな・・・。”と感じた。そして、木漏れ日を見ると、漏れた日差しが円ではなく、欠けた円形だったのを覚えている。

今回は3回目・・・。仕事中に見る日食もまた面白いと思う。職場でも、ほんの少し仕事の手を止めて見ている人も多かった。次は二十数年後? 私は見ることはできるだろうか・・・


点の記、映像のすばらしさ 2009/7/19

映画、点の記を見てきた。これは富山県の剣岳に地図測量の基準点となる三角点を設置する話である。明治期の当時、剣岳は立山信仰では針の山として描かれ、登ってはいけない山であった。信仰上は別としても、非常に険しい山であり、登ることは非常に困難であった。その剣岳に登り、しかも測量用の三角点を設置する、という困難な作業を命ぜられた柴崎氏の話である。原作は、故新田次郎氏の小説である。

映画館、朝比較的早い時間に行ったのだが、予想通り混雑してた。だけどの多くはポケモンやハリー・ポッターなどを見に来る人、と思っていたのだが、点の記も意外と多かった。測量、地図作りといった地味な仕事の話しなのにこれだけの人が、というのはうれしくなる。
さて、点の記、映画としてはすばらしいものだったが、原作を何度も読んだ私としては、感動は原作に及ばないな、と感じてしまった。これはある意味仕方ないだろう。原作を最初に読んだのはいつか覚えていないが、中学、高校の頃か大学になってからかもしれない。だけど、相当前である。その後、同じ本を何回か読み、そして2年ほど前にも文庫本を買いなおして再度読んでいる。私にとって、それだけ魅力があり、惹かれた作品であったので、どうしても厳しく見てしまうのだろう。そして、最初に見た主人公、柴崎芳太郎のイメージがちょっと違って見えたからかもしれない。さらに、軍の存在感が強すぎたり、山岳会も原作の紳士的なイメージと違っていたからでもあると思う。

しかし、映像の魅力は大きい。これだけは小説では表現しきれないものだと思う。立山の美しさと厳しさ、これを本から想像しようにも、登山経験がないと無理なことだろう。私は、立山連峰の雄山に登ったことがある。3000m級の山である。非常に登りやすい時期と場所ではあるが、立山を、ほんの少し見ている。しかし、それは比較的容易に行ける範囲であり、剣岳近くはもちろん、高山での雪の厳しさも知らない。それは、想像を超えることである。だけど、映像ならば見ることができる。もちろん、映像にも限界はある。それでも、それでも、すごいと思う。映画で見る剣岳、登山道が未整備であればとても登れそうに無い山に見える。地吹雪の凍った雪は冷たさと固さを感じるし、視界の利かない雪原は命の危険を感じた。なだれや落石も本当に怖いと思う。これは、やはり映像でなけれはのものだろう。そして・・・剣岳を登る上で最も大切な言葉、「雪を背負って登り、雪を背負って降りる。」 この意味を映画で初めて実感した。これだけは現地を知らずに小説だけでは理解が非常に難しかったと思う。映画の点の記、すばらしい作品である、と同時に、小説の点の記もまた、ものすごい作品だったと思う。
映画、実際に現地に登って撮影されている。それを見ているうちに、不思議なことに柴崎氏の印象がいつの間にか原作とまったく同じに感じてしまった。立山の映像の中で見ているからなのか、それとも俳優が実際に山に登った結果なのか・・・。ほんとに不思議である。

この映画は富山の物語である。現地の人は富山の言葉を話している。これもまた、懐かしく感じた。



余談: この映画で使われている鉄道や電車、愛知県の明治村のものである。確かにこれは明治期のもの・・・。そして、明治村の建物が多数使われていた。明治村は何度も行っているので、ここはあそこ、などと妙に気になってしまった・・・。




映画館、昔と今 2009/7/8

なじみの床屋さんに行くと、映画の話が出たりする。この床屋さん、私の実家の近くにある。地方の小さな町で、以前は映画館が2軒あったけれどとっくになくなってしまっている。だから映画を見に、というとJRとバスなどに乗って、1時間少々かかる。待ち時間と映画を見る時間を加えると半日以上である。こんな町だから、私が子供の頃は映画を見に行くのも一仕事、という感じだったのだが、床屋さん、もっと頻繁に行っているそうだ。

映画を見に行く回数、私は学生の頃は頻繁に見に行っていた。記録などはないが、月に1回程度以上だろう。多いときは数回以上だと思う。最近は、回数はかなり減り、年に数回程度だと思う。以前は同じ映画を何回も見たけど今はそれはなく、代わりにDVDなどを買ったりしているが、それでも非常に少なくなった。映画以外に時間をかけることが多くなったのが大きな理由だと思う。
 
映画館、最近は複数スクリーンを持つところばかりになり、規模は大きくなったがスクリーンは逆に小さくなった。私はなるべく前でスクリーンを大きく眺め、映画の世界に入り込んでしまっているような、テレビでは味わえない臨場感が好きなのだが、巨大なスクリーンがないので物足りない。
映画館、複数のスクリーンを持つことで柔軟に上映でき、窓口や売店、清掃、そして上映が効率化している。スクリーンが10あっても映写室はひとつ。そして、映写機切り替えを不要にしている。映写のフイルム、実は数本に分かれていて、以前は映写機2台をつかって切り替えながら映写していたのだが、今は映画館側で数本のフイルムを一巻にまとめている。だから、切り替えの操作が不要となり、スクリーンの割りに少人数で上映できることになる。効率化、見る側からすればどうでも良いとも言えるけど、減る一方だった映画館が増えているのは嬉しいことである。

さて、今の映画館、ほとんどが入れ替え制で指定席となった。席取りの不安がなくなった代わりに続けて見ることも出来なくなってしまった。そして、私が子供の頃は映画は一部を除いて2本立てだった。地方都市は映画館の数がすくないからこうなったのだろう。1本分の料金で2本見られたのだけど、私の感覚ではそれが当たり前だったので東京に出たときなど、1本しか見られないからなにか損したような気分にもなってしまった。映画を2本、となると当然、長い時間映画館に居ることになり、時間に余裕がないと行けなかった。更に、入れ替えもないから、何度でも見ることが出来た。その気になれば一日映画館に居ることも出来たわけである。さすがにそれだけ長い合い抱いたことはないが、入館前に(暗い中でも食べやすい)巻き寿司などを買って持ち込んで食べたこともあった。暇があってもお金のない学生の頃にはとても良い制度であった。

もうひとつ、映画館がずいぶんと綺麗になったと思う。でも、以前のように気軽に入る雰囲気とは違うような気がする。入れ替えがないので、途中から見るのでもよければいつでも入ることができたし、席も自由。途中で変わることもできた。指定席だと座ってからも席が合っていることを確かめてしまう。 なんだか、鈍行列車に乗るのと特急の指定席に乗るような、そんな違いがあるような気もする。
今年の初夏から夏、面白そうな映画が何本もある。久しぶりに映画を楽しもうと思っている。

自筆の手紙 2009/1/25 

久しぶりに手紙を書いた。
これは、言葉通り、”書いた”である。私は、万年筆を持っていて、時々使っている。手紙にも使う。だけど、多くの場合、本文はワープロ作成して宛名だけ手書きのことが多い。外国に送る場合は、最後の署名も加わる。今回、久しぶりに本文も全て書いた。

手紙の送り先は海外。お礼の手紙である。送られてきた元の手紙は全て自筆。e-mailでのやり取りもあるので、PCはお持ちだろう。であれば、プリンタ印刷も可能なはず。でも手書きだった。これはやはり、手書きで返すのが礼儀だろう。
今回は英語となる。私の英語は怪しいので、翻訳ツールを使った。普通の日本語をそのまま翻訳するとおかしくなりがちなので、中学英語を意識して日本語を作る。そして翻訳、手直しして印刷。今までならこれに署名を入れれば終わりだが、便箋に書き写す手間が今回は加わる。
便箋はアメリカのC社のもの。紙幣に使う紙も作っているメーカらしい。愛用は厚手のコットンペーパー。10年以上前に製造中止になっている色も含め、ストックが少々ある。古い紙なのに紙としては新品同様である。一番好きなのはアイボリー。ブルーブラックインクなど、ほとんどの色のインクに合う万能紙である。今回はこれに、セピア色のインクを使った。セピア色、最近買ったもので、落ち着いた茶色である。この紙にももちろん合う。便箋2枚でほぼ切手代に相当する。封筒代を入れたら海外への切手代もオーバーする。でも、それだけの価値のある便箋だと思う。今回は使わなかったけれど、ペアの封筒を使うときは必ず封蝋を使う。初めての人は驚くことだろう。

久しぶりの手紙、危うく誤記しかけながら何とか書き上げた。封筒は一緒に送る品もあるので無骨なものだが、切手は記念切手を選ぶ。これもストックがある。普通の手紙は料金を事前に調べられるので、2枚組の切手などを若干オーバーしてもかまわずに貼ることが多い。郵便局では、”ここまで要らないのだけど・・・”などと言いながら受け付けてくれる。注意が要るのが若干足りないとき。普通に窓口に差し出すと、切手以外のシールみたいなものを貼ってしまう。窓口としては当然だろうけど、これは寂しい。小郵便局で”(不足分を)切手で欲しい”、というと”切手を貼って(出して)おきますよ”と言われる。最後まで見ていないけれど、一応信じてお願いしている。実は、海外から来る手紙も多くはきれいな切手が貼ってある。わざと何枚も貼ったように思えることもある。これもまた、心遣いだろう。以前は凧友用に凧の切手を用意していたのだが、残念ながら切れてしまい、補充できていない。もともと遠地のふるさと切手なので入手しにくい。凧のイベントで郵便局が出張販売していたこともあり、次に見たら、と思っているうちに切れてしまった。

手書きの手紙。E-Mailなら翻訳して張り付け、送信すれば終わり。手紙でも印刷して署名して宛名を書けば終わり、となるのに更に時間を書け、書き損じながら仕上げた手紙。手書きなので読みにくいところもあるだろう。e-mailなら自動翻訳も可能・・・。でも、手書きの味も大切にしたいな、と思った。




地域の風習 2009/1/3

正月にテレビを見ていたら、県独自の風習などを紹介しているような番組があった。地方により、独特の文化があることは博物館を見ていると分かることもあるが、家の中のことは分からなかったりする。なかなか面白いな、と思った。(最後まで見ていなかったけど・・・) その中では、私が今住んでいる石川と、出身地である富山県の話題があった。

石川県独自の風習、正月の飾り餅が紅白になっている、というものであった。確かに女房の実家に行くと、この紅白の飾り餅があったし、会社の餅も紅白だった。最初、不思議に思ったが慣れてしまっていた。もっとも、私は実家が富山県であり、そちらで正月を迎えることもあり、飾り餅は一般的な白と白の餅である。
もうひとつ、富山県の話題である。これは、”天神様”である。正月には、天神様(菅原道真公の掛け軸、または木彫りの像)を飾る、というものである。これはもちろん、私の家でもやっている。年末頃に天神様の掛け軸を飾り、1月の終わりごろに仕舞う。天神様の前には飾り餅をおき、元旦にはお酒や魚などをお供えする。このお酒は年始のお神酒となる。
さて、この独自の習慣であるが、私が知っている範囲では、”県”単位というものではないようだ。実は、この番組を見る前に”天神様”が来客と話題になった。天神様の習慣、確かにあるが、富山県西部が中心では? ということだった。知人の話では、県中央部になると知らない人が増え始める、というのである。また、番組では"天神様は長男にだけ"となっていたが、うちでは次男も持っているし、私の弟も持っている。まあ、微妙に違うということなのだろう。それは当然だと思う。でも、番組で”○○県では・・・”と紹介されてしまうと、その県全体のような印象を持ってしまうと思う。

もうひとつ、お雑煮である。これも○○県のお雑煮は・・・、と紹介され、画面の下に小さく家庭によって具の内容は違う場合もある、となってはいた。だけど、さまざまな資料では、同じ県内でもバラバラになっていることが紹介されている。角餅か丸餅か、餅を焼くか焼かないか、味噌仕立てか醤油仕立てか。この基本的なことでも入り組んでいることが紹介されている。婚礼で花嫁が来たときにその実家の習慣が混じって変化してゆく、というのも読んだこともある。○○県では・・・というのを簡単に紹介できないな、なんて思ってしまう。そう考えると、こういう番組で必ず出てくる”□□という習慣は○○県だけ”といわれて大げさに驚くインタビューがあるが、妙に嘘っぽく感じてしまう。

さて、私の家のお雑煮、非常にシンプルである。醤油仕立ての汁に焼かない角餅、具は刻みネギだけ。これよりシンプルにするには具を無くすしかない? でもおいしいお雑煮である。


町の時計屋さんにて 2005/12/28

普段使っている腕時計の電池が切れた。時計、以前はどうしても必要、という感じでだった。だから、一度出張に時計を忘れてしまったとき、少し安めのものを買ったこともある(男女兼用みたいなサイズ/デザインだったので女房に取られた・・・)。 思いがけない出費ではあったが、出張時は電車や飛行機、ぎりぎりに近い移動があるし、打ち合わせなどもあるので、時計は必須だった。
しかし、今はなくても何とでもなる。携帯電話にも時計はあるので、ポケットから出すというちょっとの手間が気にならなければそれで十分足りる。今なら出張のときに忘れたくらいでは新たに買わないだろう。とはいえ、日常、腕時計がなければやはり不便である。早速近くの時計屋さんに電池交換に行った。

町の時計屋さん、電池交換だけならやや高い。最近はホームセンターなどでもやっていて、そちらは安い。しかし、私の腕時計、ちょっと特殊な作業がいるそうで、”うちではできない”と断られたこともある。また、変な作業で危うく時計をだめにしそうなこともあったので、信頼の置ける時計屋さんにお願いすることにしている。その点、近くの時計屋さんは安心できる。また、そのついでということで、別のベルトの傷んでいる腕時計のベルトの交換もお願いすることにした。
腕時計、私の周囲では、普段使うものは使い捨て、みたいにしている人が結構いる。使い捨て、というのは、安めのデジタルなどで、電池の寿命がきたらそのまま交換、という感じである。電池交換は可能だが、時計の価格に比べて割高なのと、ベルトもその頃には痛んでくるから、という感じなのだそうだ。時計は大切に使うもの、という私の感覚とは違うが、そういう方法もあるとは思う。そういうこともあって、町の時計屋さん、大変かな、とも思う。電池寿命で交換、という人もいるのだから、ベルト交換なんてしないのでは? と思っていたのだが、言ってみると結構おいてある。もっとも、多いとは言ってもベルトのサイズが違うとつけられないので、選択の幅はそう広くはない。それでも、革と金属、落ち着いた感じのもの、スポーツ的なイメージの強いもの、装飾的なものなど、一通りそろっている。大抵の時計に向くだけのベルトが用意してある。意外な感じもあったので聞いてみると、ベルト交換する人、案外多いのだそうだ。中には季節に合わせて換える人もいるのだそうだ。
新しいベルト、今度は金属にした。革のやわらかさにも魅力はあるが、やはり痛みやすい。幸いイメージの合いそうなのがあったのでそれにした。値段も思ったより安かった。時計店であるから、当然、細かな調整もしてくれる。とてもありがたい。
町の時計屋さん、作業の合間にお話していると、技術者としての誇りを感じたりする。長く繁盛して欲しいと思う。


500Km/h
の世界  2005/9/19

すこしは地球博の話題を。

JRのパビリオンで、リニアモーターカーの映像を見た。リニアモーターカーの速さは時速500km。現在の新幹線の2倍近い速さであり、またジェット旅客機の約半分でもある。この速度、映像では実際に見るのとは違って遠近感や距離感が無いこともあり、実感するのはちょっと難しい。
だけど、すぐにスピードを感じる映像があった。トンネル内を走るリニアモーターカーの周りに霧が出ていたことである。列車の周囲、走行により風が起き、そこに気圧の変化が生じる。スピードが上がれば気圧の変化もまた大きくなる。このために減圧時に水蒸気が水滴となり、霧のようになるのだろう。これは、飛行機などでも見ることができる。低空での飛行で、翼付近で霧が糸を引くようになっていたりする。それと似たようなことが列車でも発生する、というのはやはりそれだけ早い、ということなのだろう。正直な話、この映像には驚いた。とうとう列車も飛行機の領域に入ってきた、そう感じてしまった。
でも、考えてみれば、時速500Kmといえば第二次大戦初期の戦闘機、零戦の速さであり、今もプロペラ式の旅客機といえばこの位の速さになる。列車がプロペラ機に並んだ、というのはある意味当然のようなことである。

東海道新幹線が開通したとき、取材の小型飛行機は追いつけなかったという。
リニアモーターカーが登場すれば、小型ジェット機でも持ち出さないと追いつけないだろう。リニアモーターカー、出来て欲しいな、と思う。
問題は技術面よりも費用面だと思うけど・・・。

悪い夢・・・  2005/8/19

ふとしたことから夢の話になった。
将来の夢、ではなくて、寝ているときに見る夢である。その人曰く、”いまだに大学で、出席日数不足で単位が取れない、という夢を見る・・・”と。実は、私もたまに似た夢を見る。やはり大学でのことである。出席日数不足ではなく、期末の試験当日に”何も勉強していない、これでは単位が取れない・・・”という夢である。夢に出てくる試験、科目は大体同じで、複雑な数式が出てくるもの、である。私の場合、出席だけはまじめにしていたから、日数不足、なんて夢は出てこないけど、よほど勉強不足だったらしい。

だけど、こういう人、結構いるらしい。入試当日なのに勉強していない、演劇の当日なのに台詞を覚えていない、演奏会なのに楽譜を見てなかった・・・。
似た夢は多くの人が見てるのだな、なんて思ってしまう。私と違って勉強不足、練習不足、というわけでもなさそうだが、
やはり失敗が気になってしまうものなのだろう。そういえば、凧の祭りで凧が揚がらない夢を見たりもする。


ところで仕事の夢は?
実は、私は強烈な夢を見たことがある。
その頃、パソコンインフォメーションセンターに応援に行っていて、お客様からの電話での質問などに答えていた。電話を取るまでどんな人がどんな質問をしてくるかわからない。中には初めから怒鳴り散らすお客様もいる。そして・・・私が”○○が必要です。”といえば、お客様は迷わず購入する。(<もし間違っていたら、最悪である。) とても緊張感のある職場である。
で、そのときは最高、週に3回、仕事のことが夢に出た。一度、お客様の質問の回答を翌日に持ち越したときなど、それが夢に出て、夢の中で電話をかけていた・・・。今となっては非常に良い経験だったと思うし、面白い経験もしているのだが、それだけストレスにもなっていたのだろう。悪夢、というのは大げさだが、決して良い夢ではない。

ところで、最近仕事の夢は?
ごくたまに上司が出てくる。そのとき、きっと、うなされているに違いない・・・。

家一軒分の・・・  2005/7/20

私は、機械式の腕時計に魅力を感じ、できればひとつ欲しいと思っている。
もちろん、時計としての実用性から言えばクオーツの方がはるかに良い。でも、いかにも時を刻んでいるような、機械式の魅力はとても大きい。部品も歯車やぜんまいなど、機械的なものなのでメンテナンス/補修さえできれば、相当長い期間使えることだろう。そして、カレンダーやムーンフェイスなど、魅力ある機構もついていたりする。

言うまでもなく、機械式の良い時計は高価である。宝石など、装飾的なものが何もないのに数十万、数百万というのは珍しくない。こういう時計、職人の手作りなので、どうしても時間がかかる。一月に1個の割合で出来るなら、それが職人さんの月収相当になり、年に1個とすれば、年収相当の価格になる。(もちろん、材料費や機械類、工房の維持に必要なお金も必要であるが・・・) だから、年に1つしか作れない時計となれば1千万以上でもおかしくはない。高価ではあるが、それだけの価値はある。そう私は感じている。

さて、あるクレジットカード会社から送られてきた雑誌に広告があり、機械式時計が載っていた。その中の一つは、ムーンフェイスに永久カレンダー、時報・・・。これだけの機構を腕時計に、と感心しながら値段を見てみた。
5000
・・・?  500万なら妥当かな? とおもってよく見たら","の位置が違う? 0も多い?


5000万円であった。これだけあれば家一軒、建てられる・・・。
家一件分を腕にして歩く・・・。たとえ宝くじが当たっても簡単には出来ないと思う。


ねこ・・・

コンビニで買い物をし、帰ろうとしたら車の下に何か妙なものが?
暗くて見えにくかったので念のため覗き込んでみたら猫だった。前輪の内側なのでエンジンの下あたり。このままエンジンをかけてしまうと危険があるし、そのまま動くと後輪にかかるかもしれない。それまでに逃げるとは思うけど、心配なので車にあった傘で突いて追い出した。
猫、車の下からはすぐに出たのだが、車に沿って逃げてゆく。これではまた車の下に入り込むかもしれないので、更に追いかけて車から完全に離してからエンジンをかけ、駐車場を出た。

ねこを傘で突いて追い回す。ここだけ見たら動物虐待みたいに見えたかもしれないな、と思う。でも、ねこに危険があると分かっていてそのまま車を動かすわけには行かないから、正しい行為といえると思うけど・・・。
だけど、ちょっとかわいそうかな? とも感じてはいた。

でも、暗い中でねこが下にいること、良く分かったものと自分でも不思議に思う・・・。

携帯選びのポイント?

業務の関係もあり、私の職場の人は新しい携帯に敏感である。
会社で業務に使用する携帯も、うちの部署には優先的に新しいものが入ったりする。

さて、今日も新しい携帯が。
”この色、いいね”   
・・・本当はデザインより機能や性能のことをを気にするべきだけど。

”これ、使いやすそうだね。買おうかな?”
”でもそれ、ドラゴンクエストが動かないよ?”
”それは困る・・・”

結局・・・携帯のプロ(?)であっても、選択基準は必ずしも本質的でないところにあるようだ。

でも・・・基本的な機能が同等だったら、
やっぱりデザインの良いものがいいな、
外で使うものなんだから・・・。

観光地での夕暮れ

凧の大会の後、ちょっと足を伸ばして琴平に寄った。ここは金刀比羅宮のお膝元。観光客も多かった。
琴平に行ったのは、お参りだけが目的ではなく、この近くの資料館も見たかったから、である。時間の関係で、まずは目的の資料館を見、そして金刀比羅宮にお参りした。凧揚げの疲れもあり、最後は息も絶え絶えになってやっと上ったこともあり、降りてきたのは17時半くらいになっていた。曇り空なので薄暗い感じはあったが、まだまだこれから、と思う時間である。
この時間、いつもならまだ仕事をしている時間だし、旅行中でもまだ目的地に向かって移動していることも少なくない。とはいえ、そろそろ夕食時間も近い。運動してお腹も空いてきたこともあり、今のうちに夕食を、とも思った。が・・・店が開いていないのである。
この時間、金刀比羅宮の参道にあるみやげ物店は当然、閉まり始めていた。これはまあ、当然だろう。だけど、アーケードの商店街も、飲食店をはじめ多くの店が閉まっていた。開いている店は、といえば日用品や衣類など、地元の人しか入らないようなお店であった。
観光客の多くは、この時間、宿について一風呂浴び、夕食までのんびりっしようとする時間である。だから、町をふらついたりはしないから、店が閉まっていてもかまわない。食事も、当然宿で取る。だから、閉まってしまうのも仕方ないだろう。これは、琴平に限らず、多くの観光地で経験していることである。ついでながら、宿での食事の後、一杯飲みに、と言う店はまだ開いていない。

私の場合、宿はホテルの方が多い。一人旅だとなおのことそうである。だから、食事は外で自由に取ることができる。凧揚げなども兼ねてゆくなら、贅沢な食事はしない。ホテルよりは安いところを求めて外に出る。都市部、たとえば駅前やデパートもあるようなところだと、この時間はまだまだ店がにぎやかである。食事を兼ねて軽く飲み、帰りにホテルで風呂上りにお酒を飲むのになにかよい肴は、と思ってデパートの地下にゆくと閉店間際に売り切るために一層にぎやかである。しかし・・・観光地に近い町、やや遅めの時間にふらつくと、店が閉まっている。
一人旅だと、夜になると誰かに会う、ということも普通はない。ホテルで鍵を受け取ってしまえば誰かと話すことはない。そうおもうと、ちょっと寂しさを感じる。そんな時間である。
だから、夕暮れ時に店の閉まっている商店街を歩くと、一層、人が恋しくなってしまう。
一人旅の、自由やきままさ、これと引き換えの、大きな代償ともいえる寂しさである。


復刻版

最近、”復刻版”を見かけるようになった。
先月は、ボールで作るミニチュアジェットコースタ、”スペースワープ”が復刻された。これは以前出ているのを知ってはいたが当時は変えなかったもの。面白さと懐かしさもあって、つい買ってしまった。
また、少し前であるが、電子ブロックも復刻版が出ていた。これは買いはしなかったが、これも売れているそうだ。

復刻版、子供の頃など欲しかったが高価で買えなかった、という人も結構買っているらしい。電子ブロック、私は類似のものを持ってはいたが、電子ブロック同様、かなり高価なものであった。高価、とはいっても今でも数千円で十分作れる。これなら当時を懐かしむ人なら、つまり今は社会人となっている人ならば楽に買える値段だろう。

さて、週末に大型玩具店にいったところ、”魚雷戦のゲーム”も復刻されていた。これは、プラスチックの板に浮かぶ船を、鉄球の魚雷を発射して沈める、というもの。今のハイテクゲームは全然違うものである。また、復刻版ではないが、野球盤もまだ売られていて、なんだか子供の頃の玩具ばかりで妙にうれしくなってしまった。
そのとき見つけたのがこれ。


見覚えのある人も結構いるだろう。30年近く前にヨーヨーが流行ったときにコカコーラが出したものである。写真のコカコーラのほかにファンタやスプライトなどの商品名が入ったもの。景品ではなく、売っていた。値段、正確に覚えてはいないが、500円程度だったと思う。写真のは”スーパー”であるが、そうでないものは安く、350円だっただろうか? 子供には結構高かったが、ヨーヨーのブームもあってかなり売れたと思う。それが復刻として出ていた。
早速遊んでみた。多少腕は鈍ったか、まだ糸がなじんでいないからか、真下で止めるのがうまく出来なかったりしたが、まあまあ楽しめた。
復刻版、大型玩具店だからか、当時より安かった。一回り小さく感じるのは手が大きくなったからだろうか? それでも、久しぶりに楽しめた。勢いよく走らせたときに手に当たる軽い痛みも懐かしい・・・。


赤い糸

”赤い糸で結ばれている”と言う表現、これは昔からある。何故赤なのか? 黒い糸、これはさすがに違和感を感じるが、たとえば緑や青でもいいのでは? なんてつまらないことを思ってしまった。だけど、赤い糸、じつはいろんなものに合わせるのに便利な糸、である。

私は凧を縫って作っている。というのも、主な素材は樹脂加工してある”布”なのである。布だから、ミシン縫いが多い。凧、単色ではさすがに味気ないから、何か模様を付けたくなる。和紙の場合、絵の具を使えば絵を描くのは簡単(もちろん優れた絵は難しいが)である。しかし、凧に使う布の場合、絵の具が使えないので、色の違う布を切り貼りして作る。この技法で、非常に緻密に縫い上げた芸術品ともいえるような凧も多数ある。しかし、私の凧の場合、そこまでは細かくは行なわない。幾何学的な模様程度である。

さて、色の違う布を縫い合わせて模様を作る場合、縫い糸は何色にするか? 原則は布と同じ色で糸が目立たないようにすることだろう。だから、私も始めた頃など、ミシンの上糸と下糸を別の色にして縫ったりした。大抵の場合はこれでよい。しかし、模様のある縁を一気に縫うような場合、数cmごとに糸を換えなくてはならないことになったりする。これでは効率が悪すぎる。透明な糸を使う方法もあるが、これは扱いにくい。ではどうするか?

実は、万能の糸が存在する。それが赤い糸なのである。赤い布以外を赤い糸で縫う。当然、糸が目立つ。しかし、意外なほどぴったりするのである。黒地に赤い糸。白地に赤い糸。糸が目立つが、いかにもデザインとしてわざと縫い目を目立たせてあるように見える。反対色の青、あるいは緑、オレンジ、黄色・・・。同様にすんなりと収まって見える。
これが他の色だと難しい。赤地に白い糸や黒い糸。色の使い方を逆にしただけなのになんだか変である。違う色を縫い合わせて違和感のない不思議な色。それが赤い糸である。

”赤い糸で結ばれている”こんなところから来ている、などというのは飛躍がありすぎる。もっと深い意味があるのかもしれない。でも、私の場合、赤い糸は、大抵の布を結び付けてくれる便利な糸としても使っている。

高速エスカレーター

地下鉄の博多駅でホームから改札に向かって進むとき、階段脇に上りのエスカレータが2つ並んでいるのが見えた。
2つあるのはやや長い距離だから? あまり深く考えずに左側(通路の外側)のエスカレータに乗った。ステップに足を乗せ、手すりに左手を伸ばしたその瞬間、ちょっとふらついてしまった。この日は確かに博物館などを相当歩き回り、疲れてはいる。だけどこの程度ならばそう珍しいことではない。ふらつくほどではないはずである。ならば年のせいか? などと思い悩みながふと見ると、隣の人をゆっくり追い越している。同じエスカレータのこと。錯覚?見間違い? と思ったが、近くで並んでいるベルトを比べても確かにこちらのほうが早い。そういえば上り口に、”急ぎの方は左へ”と書いてあった。つまり、左側のエスカレータがわずかに速いのである。多分、右側は普通のエスカレータの速さなのだろう。ふらつきが疲労や年のせいではない、とわかって安心した。

これもなかなか面白い。でも、面白いけど効果は小さいかもしれない。このエスカレータ、多少長いけれど、時間の差はどれだけあるだろう? せいぜい数秒だろうか? 急ぐなら階段を歩いたほうが早い。その時間差に比べるなら、どっちに乗ってもほとんど変わらない。そして、その割には乗ったときの違和感がある。私の感じたふらつき、危ない、というほどではないが違和感はあった。

だけど、高速エスカレータというのも良いと思う。慣れていれば、あるいは高速、とわかっていれば乗ったときの違和感は小さいだろう。そして乗る部分、水平のところがもっと長ければまず大丈夫だろう。そして、エスカレータが長ければ時間の差もでてくるだろう。
欲を言えば乗り降りする部分はゆっくりで途中が速い、となればもっと良い。動く歩道ではいろいろ研究されているようだけど、エスカレータでは難しいだろう。とすれば、この程度の速さの差が限界なのかな、とも思う。

でも・・・実用面のほかに、エスカレータでの追い越し、とても面白かった。
また乗ってみたいものだ。


デパートの魅力

最近、デパートで買い物をすることが減ってきた。衣類などは品揃えなどで、スーパー中心のショッピングセンターよりも好みに合うので利用することが多いのだが、それ以外では少なくなってきてしまっている。
質は良いが高い。そんなことも理由だろうか? 人によっては、対面販売中心なのでわずらわしい、などと思う人もいるかもしれない。

さて、先日、かばんを買いに行った。旅行などに使っていたもので、布製ではあるが大きく、海外旅行にも十分つかえるものである。家族旅行に使うにしても大きさがあるので非常に便であった。これがちょっとだめになってしまったので代わりを、と思ったのだが、前の品に満足していたので同じようなものをと思い、購入したデパートに行って見た。残念ながら業務提携の解除で少し前に製造中止になり、在庫もないとのことであったが、その代わりになるものがでていた。
このあたりを店員さんに尋ねたところ、問い合わせまで実にスムーズにやってくれ、更に代わりの品もすぐに紹介してくてた。商品知識も豊富であった。

鞄、そのばですぐに買わず、後日改めて買いに行ったのだが、いろいろと事情もあり、日数がちょっとたってしまった。それで、棚の配置換えもあり、すぐに目当てのものが見つからなかった。また細かく説明して取り寄せかな? と思って店員さんに話しかけたところ、偶然最初に対応してくれた店員さんで、”この前の品はこちらになります”とすぐにしかも迷わずに案内してくれた。これにはさすがに驚いた。細かく問い合わせはしたが、名前もいっていない。ただふらりと入った客と大差ない。それなのに、迷った感じもなく対応する、というのはさすがである。
デパートの店員さんの実力を見たような気がする。これが普通のショッピングセンターだとこれほどの対応は期待できないだろう。

私の場合、○○は□□で、といった店がある程度決まっているところがある。特別安いわけでもない。だけどそこに行くのは、店員さんが私を覚えているからである。そうなると、買い物での満足感も高まり、他へは行きにくい・・・。
デパートの場合、それとはまた違うが、買い物の満足度は高かった。同じもの、もっと安い店はあるかもしれないが、買い物の楽しみを久しぶりに味わったように思う。
デパートの魅力、やはり捨てがたい・・・。


”みんな”は何人? 国民って?
たとえば、子供が親に何か買ってほしいものがあるとき、”クラスのみんな持ってるよ”、という言い方がある。そう聞くと、なんだか自分の子供だけとりのこれてしまっているように感じてしまうのだが、さて、”みんな”とは、何人くらいのものだろうか? 一クラス35人とすると、25人位だろうか? これは明確な統計などないのだが、3人程度から、らしい。子供のおねだりで言えば、”誰が持っている?”と聞くと、”○○くん、○□くん、△△ちゃん”あたりで止まってしまうことになる。子供は別にしても、もっと多くの人のことを言うとき、沢山の人、大勢の人、なんていうこともある。(それも大した数でないこともあるけど・・・) みんなとは3人程度のこと、なんて思って聞くと、そう大きな間違いはないのかもしれない。

さて、最近、議員の演説などで、”国民は・・・”という言葉を聞くことがある。これも、いかにも大多数の人のこと、と思えるのだが、内容と照らし合わせると疑問を感じることもある。”国民は、○○と言っている。” でも、私は○○と思っていないことも少なくない。まあ、私の考えがひねくれているかもしれないが、極端にかけ離れているとも思えない。で、別の人はやはり、”国民の意見は、△△である・・・”と。 これもまた、大多数の人のことのように言っている。で、国民とは誰のこと? なんてつい考えてしまう。
国民は・・・、というからには有権者の大多数の意見ということになると思うのだが、そこまで収集しているとはとても思えない。それに、お互いに相反する意見を言っている。自分の意見を、国民は、と言っているだけでは? なんて思ってしまう。(それはそれで良いのだけど) で、結局は、国民とは”支持者”のこと、と思ってしまう。”わが党の支持者は、○○と言っている。”、”私の支持者の意見は△△である・・・”。 なんだかとってもすっきりするような気がした。私が○○と思っていなくても、別にあなたの党を支持していないのだから、と思えば何の違和感もない。 結局・・・子供が”みんな持っている”と言うのと同じなのかな?


久しぶりの推理小説

松本清張の”点と線”である。
推理小説はあまり好きではなかったこともあり、相当長い間読んでいなかった。それを今、急に読み出したのは、少し前に北九州市にある松本清張記念館に寄ったことがきっかけである。そこにある映像展示で、点と線を紹介していた。主にスライドと音声によるもので、時間が1時間と、博物館の映像としては相当長い。私は途中から入った、ということもあり、どこかで切り上げようと思っていたのだが、その内容にひきつけられ、最後まで席を立つことができなかった。このこともあり、読んでみようと思ったわけである。

推理小説ではあるが、記念館の映像展示で、トリックや結末は知っている。一番の楽しみがないような感じもあるが、それでも、読み始めるとどんどん引き込まれていった。最後の1/3あたりになると、もう途中で止められなくなってしまい、一気に読み終えてしまった。さすがにすごい推理小説である。
結末は知っている、とはいえ、それは映像展示でのこと。当然、細かなところは省略してある。それを、活字で読んでいるといろいろと思いが膨らむと同時に、いろいろと疑問を感じてしまう。
”○○は、なぜ△△・・・”
いくつかの疑問が沸いて出て、それが読み進むうちに解消してゆく。でも、大きな疑問が一つだけ残っていた。これはどう説明付けてくれるのだろうか? 期待と同時に、結末を知ってるだけに、”いい加減な説明では納得しないぞ”的な気持ちも持ちながら読み進んでいった。しかし、その疑問も解消・・・。
さすがに設定の細かさはすばらしいものがある。そして、文章に無駄がない。全てが結末へと結びついているように思える。点が線で結ばれてゆく・・・。それだけではなく、その線が重なって網となり、完全に押さえ込まれてしまったような感じさえする。

推理小説、本式のものは何冊か読んではいたが、松本清張は始めてだと思う。もう少し早く読んでみるべきだったかもしれない。時刻表を使ってのトリック、綿密に検討された隙のない偽装。それがひとつひとつ疑問によって消えてゆくのは言い古されて入るが、パズルを解いてゆくような爽快感がある。
これと比べてはいけないことはわかっているのだが、多くの安易なテレビドラマ。穴だらけのトリックと、現実性のない実行計画にはあきれてしまう。私自身、こういう番組はまともに見ていないのだが、偶然謎解きの時間になって見始めることはたまにあり、その安易さにあきれてしまうことが結構ある。ひとつ覚えているのは、駅のホームの物陰での殺人。数分の間に人の多いはずのホームで怪しまれずに物陰にゆき、返り血もなく物音も立てずに完了する。だれかが偶然近くで立ち話をしていたり、返り血が服に少しかかった瞬間にトリックは崩壊してしまう。
そんなあやふやなことはとても実行できない。

安易な推理小説風ドラマはさておき、松本清張、もう少し読んでみようと思う。
次は金沢近辺が舞台になっているゼロの焦点だろうか・・・。

コカコーラの瓶 2005/3/30

コカコーラのコマーシャルで瓶が使われているのを目にした。
コカコーラ社、清涼飲料水の容器として缶が一般的になり始めたときでも、環境に配慮する、との観点でコマーシャルには瓶を使い続けた、と聞いたことがある。その後瓶はほとんど消えてしまい、ほとんど全てが缶になってしまった。今の子供は瓶を知らないのでは、と思ってしまうくらいである。コーラどころか、ビールも瓶よりは缶が主流。栓抜きを知らない子供もいるかもしれない。

さて、何気なく見たコカコーラの配送の車、真っ赤な車にコーラの絵が書いてある。その絵、やはり瓶だった。
コカコーラの瓶、今見るとやはり古い感じがしてしまう。
しかし、今思い出しても瓶の形は面白い。瓶といえばたとえばビール瓶や一升瓶のように、円筒形の先を細くしたものが普通なのに、コカコーラだけはわざわざ下の方をすこし細くしている。どこか、女性のウエストの括れを思い浮かべてしまいそうな感じである。同じコカコーラ社のほかの製品、ファンタなどはこういう括れはない。
細くすることによるメリット・・・。多少持ちやすくなるかもしれないが、追う言うことを意識したとは思えない。単なるデザインのこと、だろう。瓶はちょっと古い感じがするとはいえ、この形はなかなかいいと思う。

ところで、この括れのためか、コカコーラはファンタより中身が確か10ml少なかった。
だから、何か飲むとき、コーラかファンタか、となると、”コーラは10ml少ないな・・・”と悩んだものである。

エベレスト 2005/3/15

北九州市の小倉城近くに、住宅地図で有名な地図会社の資料館がある。
展示されているのは、日本や世界の古地図のほか、古い観光地図や世界の地図などである。入口近くには、伊能図による日本地図が床に並べられていて、それを間近で(踏みながら・・・)見られるのは、地図好きの私としては感激し てしまう。踏んでも良いように作られたものとはいえ、伊能図を踏みつけるのは恐れ多い。だけど、その細かさや正確さには引き寄せられてしまう。夢中になってあちこちを見たくなる。もっと近くで、とも思う。土足禁止にして、座り込んで見れたらもっと良いのに、なんて思ってしまう。伊能図を尻に敷く、なんてもっと恐れ多いことではあるが・・・。

さて、ここに展示されている各国の地図、いろいろあり、以前から見たいと思っていたスイスの地図もあった。隣にあるフランスのものと 同様、氷河に覆われた山岳地帯の地図である。雪や氷河の白さ、岩の険しさをを多色刷りで表現してあり、さすがに美しい。絵画に匹敵する、といえば大げさであるが、部屋に貼るとちょっとしたインテリアにもなるだろう。

アルプスの地図に並んでネパールの地図もあった。作成したのはインドとのことであるが、これもまた美しい。地名はアルファベットで書かれている地図だから、おそらく買うのは外国から来た人だろう。印刷の質から見ても高価だろう。現地の人にはなかなか買えないかもしれない。
この地図にはエベレストも入っていた。エベレスト、世界最高峰なのだから、世界地図にだって名前は載っている。だけど、普段目にするのは小縮尺の地図ばかり。とても細かな地形まではわからない。それが今回、比較的大縮尺の地図でそれを見ることが出来た。このことだけでも感動してしまう。実際にエベレストを見ることは難しいだけに、せめて地図で、ということもあるかもしれないが。
さて、エベレストの表記であるが、地図にはMount Everestとともに、Sagarmatha(サガルマタ)も小さく併記されていた。サガルマタは、ネパール名である。一方、エベレストと同じくらい言われてきているチョモランマは、中国が主張している名前である。
チョモランマの方は広く知られているのだが、ネパール名のサガルマタは、残念ながらほとんど知られていない。だから、”何で中国名ばかりが?” と思っていただけに、地図ではっきりとネパール名が出ているのを見て、それだけのことでとても嬉しくなってしまった。

一説にはこの山、世界最高峰とわかるまで明確な名前がなかったとも言う。一群の山をまとめての呼び方はあったらしいが、個々の山となるとはっきりしなかったらしい。それもあって、すんなりとこの付近の測量に功が合ったエベレストの名前が付けられたとも言う。そうすると、チョモランマは最高峰とわかった後での主張?
でも・・・最高峰でなかったなら、誰も名前で大騒ぎしなかったのでは? とつい思ってしまう。

鷺  2004/12/2

金沢の川や用水を回っていてよく目にする鳥に、鷺がいる。
数で言えば他の鳥の方が多いのだが、鷺は大型の鳥でもあり、目立つからだろうか? 印象に残る鳥である。用水でも合流地点などの広い場所では見かけることもあるが、多いのはやはり犀川や浅野川などの河川である。

小魚などを食べるので、水の中に立ってじっとしているのをよく見かけるし、堰の魚道のようなところで狙っているのを見ることもある。身動きしないでじっとしているその姿、どこか凛々しさを感じたりする。動かないのは小魚を狙うためだろう。だけど、その一方で警戒心も解いていない。
川辺を歩いていると、鷺の死角に入る直前に首が少し動いたりする。

鷺、鶴と似ているが、一番の違いは飛ぶときの姿だろう。
鶴は首を伸ばして飛ぶが、鷺は首を折りたたむように曲げて飛ぶ。見た目には、鶴の方が優雅だと思う。
では何故折り曲げているのか?
長い首を折り曲げないで飛ぶ大型の鳥、たとえば鶴や白鳥は、渡りで長い距離を飛ぶ。これは、長距離を飛ぶため、空気抵抗を減らすため、というのも理由のひとつのようだ。鶴も白鳥も、地面や水面を滑走して飛び、また降りる。長距離を高速で飛ぶような羽根になっているのだ。一方、鷺は大型の鳥でありながら木の枝に巣を作る。大きな体でありながら木の枝に降りるそうだ。
当然、低速で正確な飛行が要求される。このような飛び方をするには、微妙な重心調整も必要になる。折り曲げた首は、調整に有効だという。

実は、鷺の首を曲げた飛び方、あまりスマートではない、と感じていた。しかし、鷺独特の飛び方のためには大切な要素のひとつといえる。
そう考えると、鷺のあの飛び方もなんだか美しく感じてくるから不思議なものである。

博物館入り 2005/4/9

先日行った科学系の博物館に通信関連の展示があった。
その中に携帯電話の展示があり、古い移動通信用の電話から最新携帯電話まで展示されていた。もっとも、最新はちょっと古いものだったが、これは3ヶ月でどんどん変わってゆくものだから、その都度変えるのは大変だろう。(販売店などに提供を依頼する方法もあるかもしれない) 携帯電話やパソコン、最先端がどんどん変わってゆくから展示は難しい面もあるだろう。本当に最新の展示をしようと思うと、年に数回、展示を入れ替えなくてはならない。

さて、携帯電話の展示である。
最先端はさておき、古い時代の携帯電話、というより移動通信の展示では、自動車電話としての展示などがあったと思う。そして、通話以外にi-modeなどが始まった時のもの、ということで数年前のものの展示があった。携帯でのメール、Webによる携帯向けの情報提供など、通話以外にも使われ始めた頃であり、携帯電話の大きな変革点であり、適切な展示だと思った。
で・・・ここで展示されているのが、私がまだ使っている携帯電話であった。
たしかに携帯電話での数年、というのは長い。自動車電話から肩掛け式の、とにかく歩いて持ち運べる電話ができ、辞書並みの大きさの携帯電話ができたのはそう古いことではない。辞書並みの大きさの携帯電話が使われ始めたのは、確か18年ほど前のことである。
これがポケットに入る大きさとなり、デジタル化された。そして、メールやWebに続いて、カメラの内蔵やICカード機能の取り込みなど、ここ数年間で単なる電話から情報端末的な機能、財布としての機能などが加わり、持つ目的も大きく変わってきている。
わずか数年前のものではあるが、その性格が変わってきている以上、展示としての必要性はあると思う。展示としては小さいものの、携帯電話の”歴史”を感じる展示である。

これを知人に話したところ、
”そんな博物館入りの電話を使ってないで早く新型に買い替えたら・・・”と。
それももっともである。

土曜日は休日? 2004/10/23

土曜日の今朝、通勤時間帯に所用で出かけた。
休日、と思いこんでいたし、車も少なかったのでうっかりしていたが、可変標識を見て、バスレーン実施中と気がついた。

バスレーンの標識には、実施除外日は”日曜、休日”と書かれている。最近県庁の移転したところでは確か”土曜、日曜、休日”となっていた。つまり、ここでいう休日とは、祭日など、ということになる。土曜日は当てはまらない、つまり土曜日は休日ではない、ということになる。
まあ、法律的な議論としてはこれで正しい、とうことになるだろう。だけど、”土曜日は休日”というのは、学校がそうなった時点で一般的になったのかな? と思っていた。実際、今朝は渋滞なんてないし、バスレーンの必要性はなかった。一般車も平気で走っていた。(普段はまあまあ守られている) だが、違反とわかってそれを続けるわけにも行かない。バスレーンは避けて走った。

法律と現実との乖離。これに限ったことではないが・・・。
それで違反になったらちょっと悲しい気もする。

メールの新・非常識? 2004/10/6

最近の掲示板で、”真夜中のメールは非常識では?”というのがあった。これには反論が多数有ったが、賛同する人も少ないながらもいた。数にして1割以下だと思うが、それでも複数の賛同者がいるには驚いた。また、これとは全く別の場所で、”メールの返事が○時間立ってもないのは常識を疑う”というのがあった。

私のようなPCでのE-メールの利用者からすれば、”なんで?” といいたくなるようなことである。もちろん、こういうことを言うのは、携帯電話でのメールの利用者である。携帯電話の場合、メールを受信すると着信音で分かるし、持ち歩いているのだから時間の都合さえつけば即座に返事をすることもできる。
しかし、携帯電話以前からE-メールを使っている人とのとっては、E-メールは郵便と同じで自分の好きな時間に読んでゆっくり返事するもの、という意識がある。ただ、郵便よりは早い。それだけのことである。そもそもE-メールは○分でつくなんて保証があるわけではない。最近は減ってはきたが、それでも時には相当な遅延がある。そして、サーバに見に行ってあれば受け取るものである。だから、受け取る人の都合によっては、たとえば旅行中などは何日も受け取れたなったりする。そういうものだから、受け手の都合なんて気にしないで送るもの、だと思っているし、即在に返事があるとも思っていない。仕事などで即時性がいるものだったら電話を使うし、またメールの到着を電話で確認することもあった。(これは文書を添付して送る場合など。催促?も兼ねていたりする) だから、真夜中のメールは? なんていうこと自体、考えられないことである。だけど、携帯でのメール利用者にとってはそうでもないらしい。電話を枕元において寝ていて、メールの着信音で目が覚める。”こんな真夜中にメールなんて非常識な”となるようだ。

新しい使い方で常識が変る。これは当然あってよいことである。だけど、E-メールに関しては、やはりPC等での考え方が正統だと思う。携帯電話なら、着信音は自分の都合で止められるのだから。とはいえ、利用者が多いのへ携帯電話での利用者? これでメールの常識が変ったら・・・? 何か釈然としない気持ちになるのは古い人間の証拠?


アメリカンクラッカー 2004/10/3

先日実家に帰った時にこれが出てきた。ご存知の方もいるだろう、一時期かなり流行ったおもちゃである。
紐の真ん中を持ち、ちょっと揺らすと球が2つ、真ん中でカチカチと音を立てながらぶつかり合い、次第に揺れが大きくなる。左右に大きく揺れたところでタイミングを見て上下させると、球が上と下でぶつかり合いながら音を立てる・・・。
と、言葉で書けば簡単だがもちろん練習は必要である。少しでも前後にずれると球が変な方向に弾んだり、空振りしたりする。そして、変に弾んだ球は容赦なく手や腕に当たる。堅いプラスチックなので結構痛い。剣玉などよりも勢いがついているのでもっと痛い。結局、私はそれほど上達しないまま終わってしまった。まあ、これは私だけではなく、私の回りにいる人も似たようなもので、上達したのはごく一部だったと思う。
ただ、このおもちゃの流行はものすごかった。私の住んでいたところは地方の小さな市なのだが、それでもどこへ行っても見ることが出来た。電車の中でもやっている人がいて、騒がしかったとも聞く。
もっとも、衰退するのも早かった。一部の粗悪品で球が割れるとかの事故もあり、あっという間に消えてしまった。

さてこのおもちゃ、早速もう一度やってみた。一度切れて紐が短くなっているが、そのためだろうか? 案外うまくいった。子供の頃は上下で数回ぶつけるのがせいぜいだったが、それよりも長く続く。こういうの、意外と子供の頃よりうまくいったりする。剣玉もそうだった。妙に力を入れすぎないから? 頭で考える、ということを加えるから? いずれにしても不思議でもあるが、うれしい。その一方で、子供の頃ほどうまく行かないものが多いのも事実であるが・・・。

なつかしいこのおもちゃ、紐を交換して錆びたリングも交換した。もうすこし使えそうである。
父が買ってきたこのおもちゃ、実は正真正銘、アメリカ製であった。東京出張時のおみやげであるが、これだけ時がたってもまだ使える。これもまた、侮りがたい・・・。



にわかエクゼブティブ 2004/8/24

先日、1泊で出かけたときのこと。今回もホテルを利用したのだが、いつものようにまず割引料金から調べた。割引料金、結構安いのがあり、定価に比べるとかなり安く泊まれることもある。もちろんいろいろと制約があったりするが、それでも価格の魅力は大きい。高級なホテルなのに安いホテルと大差ない価格になることも少なくない。

さて、今回泊まったのは、外資系のホテル。普通に泊まれば安くはないが、割引料金なので,これがかなり安い。朝食付きで一人○○円。ビジネスホテルのシングル1泊料金程度である。もっとも、部屋は低層階になるとか、LANが使えないとか、いろいろと制約はある。が、この価格は魅力的である。夜景はあきらめ、低価格を選んだ。

さて、ホテルについていつものように車を駐車場に止め、フロントに向かうと“チェックインは別のフロアで”と言われた。そこはエクゼブティブフロアではないか? 予約の料金に間違いはない・・・。 実は、某航空会社からの案内で、そのホテルのゴールドカードを発行してもらっていたので、そのカードの番号を使って予約したのだ。航空会社の方はそれなりの利用実績があるが、このホテルは数回使っただけ。決してお得意さんではない。おまけに割引価格。メリットは航空会社へのマイル加算だけかな? と思っての利用だった。なのに、部屋に入ってみるとサービスのフルーツまで置いてある。これ、エクゼブティブフロア利用の最低価格記録では? なんて思ってしまう。どう考えても分不相応なサービスである。妙に落ち着かない・・・。もっとも、部屋に入ってしまえばいつもどおりだったけど。

このカード、臨時発行だからもうすぐ切れる。期限が切れたらもちろんこんな特別扱いはない。ちゃんとした料金を払わないと利用できない。まさに一夜の夢か・・・。

ネクタイの結び方 2004/8/6

ネクタイ、夏の暑いこの時期には、邪魔者的な感じもある。私の勤務先、以前は”ネクタイ着用”が就業規則に明記されていたが、それも削除された。だから、ネクタイをしている人は非常に少なくなっている。とはいえ、私みたいに相変わらずネクタイにこだわっている(?)人もまだ残っている。割合は・・・ 1割を割っていると思う。
私の場合、公私を分けるけじめ、みたいな感じもあってネクタイをしている。だから、平日は特別の理由のない限り、ネクタイをして出社してきた。これからも、ネクタイが続く限りは変わらないだろう。但し、休日に出社するときだけはネクタイは外していた。”仕事日ではないのに出社している”、ささやかな意思表示だろうか?
さて、ネクタイの結び方である。
これは結構種類がある。私の場合、結び目の小さい結び方をしている。一般的な結び方だと思う。ただ、順番がと変則的なやり方をしている。仕上がりは同じなのだけど。これは、最初に父に教わった結び方である。(といっても、次のを教わっていないから最初で最後か?) 高校の頃のこと、何度かやってもらいながら練習し、覚えた。
結び目が小さい、ということは、ネクタイの長さに余裕が出来る、ということでもある。だから、うっかりすると裏の側が表より長くなったりするし、逆に表が長すぎてベルトよりはるかに下に、ということもある。毎日締めているものだから、相当の回数をやっているはずなのだが、それでも細めのネクタイだったりするとうまく長さが合わず、何度もやりなおす、ということになってしまう。結び目の大きな結び方なら、裏側が今より短くなるはず。多少の差があっても、すくなくとも、裏が表より長くなることは減ると思う。
実は、ネクタイの結び方、覚え初めのころはいろいろと本で調べるなどして、あれこれ試してみた。最初に教わったのが結び目の小さな方法なので、当然、結び目の大きな結び方を真っ先に試してみている。なかなか長さの加減がわからず、何度もやり直してなんとか仕上げる。本当にこれでいいのか、不安も残るが、とにかくそれらしく仕上がっている。まあ悪くはないと思う。それで数回やってみたりもする。だけど、気がついたらいつのまにか元の結び方になっている。一番最初に覚えた結び方である。
他の人は? やはり結び方はひとつのようである。ちょっと不思議な感じもする。服装に合わせて結び方も変える。そんな人もいるだろうが、少なくとも出社用の結び方では一通りで済ませている人が相当多そうだ。
ネクタイの結び方、これを変えようとしたとき、どこか父と違うやり方をしてみたい。そんな意識があったように思う。でも、やっぱり戻ってしまった。そういえば、車の運転の仕方。これも父のを見ながらやはり変えようと市ながらも、どこか似たようなところに落ち着いてしまった感じがある。
やはり、それだけ父の影響力は大きい、ということなのだろうか?まあ、たかがネクタイの結び方のこと、ちょっと大げさな話ではあるが・・・。

まとめ売り  2004/ 7/21

蛍光灯が切れたので買いに行った。円形の蛍光灯を使う照明器具は、大小2つが一組、たとえば30Wと40Wを一組として使うものが多い。だからだろうか? 30Wと40W、あるいは32Wと40Wなど、2本一組にして売るのが多くなってきているように思う。蛍光灯、それぞれ別々に切れたときに交換してもよいのだか、うちの場合、片方のみを点灯という使い方はあまりしないので、一方が切れるともうひとつも寿命が近いことが多い。切れていなくても暗くなっているので、一緒に替えるというのも悪くはない。この場合、値段はばらばらに1本ずつ買うよりもセットの方が安い。円形の蛍光灯、小さい方が内側に入ってしまうから、梱包や輸送の面でもメリットは大きいと思う。まあ、これはありがたいセット販売ともいえる。
さて、蛍光灯、交換してみたら一方がつかなかった。どうやら点灯管が先に切れたようだ。仕方ないので翌日、会社帰りに買おうとしたところ、これが2本一組ばかりだった。10-32W用と40W用の組、あるいは10-32W用2本の組しかない。高価な電子点灯管ならば1本でも売っているが、使用頻度の少ない部屋のこと。普通のもので十分である。そして、今欲しいのは1本のみ。点灯管、ほかに使うこともあるが、良く使う電灯はインバータ式になっている。使用頻度の低い、つまりは切れにくいところが点灯管式で残っているのである。だから、わざわざ2本買う必要はあまりない。
今回買った店では2本で130円。もし1本で売るとすれば70円?80円?
こちらの方は、2本一組にするメリットはあまりないと思う。
なんとなく、1本余分に買わされたような気になってしまった。

新しいタイプの歩数計  2004/ 7/18

歩数計をまた、使い始めた。
また、というのは、以前も使っていたのだが落としてしまい、しばらく使っていなかったためである。歩数計、これはいわゆる万歩計であるが、万歩計は商品名だそうで、一般名詞は歩数計、になるそうだ。
歩数計、これはもちろん必需品ではない。でも、あればどのくらい歩いたかわかるし、なかなか面白いものである。簡易距離計にもなる。私の場合、旅行中などは相当歩くことになるが、それも数字でわかるので 、”歩いたな・・・”といった満足感も高まる。もっとも、平日、普通に勤務している時はあまりにも歩数が増えないのでがっかりするのだが・・・。
歩数計であるが、以前使っていたのはごく一般的な形、つまりベルトなどにつけて使うものだった。歩数を数えるのも錘かなにかを使っているようで、ゆらすと軽い音がしながら歩数の数字が上がってゆく。簡単な構造であり、車に乗っているだけでも歩数が増えたりするのが欠点ともいえる。とはいえ、歩数はまあまあ正確に数えてくれる。 そして、ベルトにつける、というのが簡単で使いやすい。
このタイプの歩数計、単純に歩数を数えるだけのものもあるが、時計が組み込まれていて1日単位の数字を覚えてくれるものもある。私が使っていたのもこれで、1日の歩数を7日分、覚えていてくれる。歩数計を効果的に使うにはやはり毎日の記録が大切だと思うが、これなら毎日記録しなくても数日分をまとめて記録できるし、リセットを忘れて2日分が通算されてしまう、といったこともない。とはいえ、記憶してくれる、と思うとメモをつい忘れてしまう。だいたい週末にメモを、と思うのだが、週末に記録を、というとうっかり忘れて1日分が消えてしまったりする。まあ、歩数計の機能としては十分である、一番単純なものなら千円以下。一週間分を覚えてくれるものでも2千円はしない。安いのも良い。
このベルト固定式の欠点、やはり目立つことだろう。上着を着ているなら目立たないが、夏のこの時期はどうしても見えてしまう。女性などは使いにくいことと思う。そこで、最近はポケットや鞄に入れていてもちゃんとカウントしてくれるものがでてきた。ベルトに固定するものよりやや大きくはなるが、邪魔になるほどでもない。センサーも加速度計を使っているようで、振っても音がしないし、自動車に乗っている程度では歩数は上がらない。 自宅などでゆっくり歩くと歩数が増えないこともあるが、まあ普通に使うには十分だろう。この方式の歩数計、携帯電話に組み込んだものもあるそうだ。
今回買ったのはこのタイプのものである。この歩数計、前回の購入時にも考えたのだが、ポケットを占有するので見送った。上着を着ているときはともかく、そうでないときのポケット、ほぼふさがっている。 特に休日などは、携帯電話にデジカメと、それでなくてもポケットに入れて持ち歩きたいものが増えているのに、更に歩数計を増やすのも・・・と思ってしまったのだ。
しかし、このタイプのものには、パソコン接続のものもある。毎日の歩数のほか、1時間ごとの歩数を記憶してくれるそうだ。これは面白いかも・・・。ということで、ひとつ買ってみることにした。
値段は5千円〜6千円程度である。参考までに、パソコン接続のないものなら4千円前後で買える。
さて、買ってみると1時間ごとのデータというのはなかなか面白い。データも14日分記憶してくれるので、毎週末の取り込みを行うのなら2,3日データの取り込みを忘れても余裕がある。
時間毎のデータ、これは便利である。 グラフを見ながら振り返ってみると、○○のための移動、散歩、といったことも思い出される。どういう運動が効果的か、といったことも分かりやすい。パソコン接続で歩数計の面白さ、有用さが一層拡大したといったところだろうか。心配したポケットの不足も、 実は後ろのポケットで間に合っている。説明書では”破損することもあるので後ろのポケットは使わないように”と明記されているのだが、私の場合、短めの落下防止の紐(携帯電話用)をうまく使い、ほとんど力がかかっていないようにしている。
PC接続、これはやはり便利である。一度取り込んでしまえば、たとえばEXCELなどでの加工も自由にできる。データの有効性が数倍になった、そんな感じである。
歩数計という簡単なものでもパソコン接続で機能が増す。これ以外にもパソコンにつなぐと面白うそうなもの、あるかもしれないな、なんて思ってしまう。
さて、私の場合どのくらい歩いているだろうか? 平日は通勤に車を使っている関係でやはり歩数は少ない・・・。休日、歩くときは2万歩を越えるのだが・・・。

公園にて  2004/4/ 22


先日、久しぶりに卯辰山に行った。金沢市にある、小さな山である。金沢城から見て卯辰の方向(東南東)にあることからこの名がつけられた。高さは140m位の低い山ではあるが、市街地に接するような近い山でもあり、町の中からもよく見える。
卯辰山にはかって、金沢ヘルスセンター(後にサニーランドと改称)と金沢水族館があった。金沢ヘルスセンター、ここは遊園地的な施設でもあり、石川や富山の子供たちにとっての最高の遊び場でもあった。子供だけではなく、大人も楽しめる場所であったのだが、残念ながら閉鎖されてしまった。この辺りは閉鎖博物館の思い出にも書いたとおりである。既に建物は取り壊されているのだが、久しぶりにって見ると新たに公園として整備されていた。芝生はまだ養生中で入れなかったが、歩道は歩くことが出来た。金沢の東側を見下ろすような感じで見晴らしが良い。金沢城なども見えるのだが、丁度木があり、その先端で隠れ始めている。葉が増え、また木が伸びると見えなくなってしまうだろう。ちょっと残念である。
さて、卯辰山の奥には元ゴルフ場の公園がある。元、といっても相当前のこと。私が子供の頃は既に公園になっていたから、ゴルフ場の記憶のある人は少ないことだろう。とはいえ、公園に入るとゴルフ場の雰囲気がそのまま残っている。芝生も管理され、きれいに整備されている。さすがにグリーンは残っていないが、今でもすぐにゴルフが始められそうな感じさえする。
この日、休日ではあったが午後から出社する予定だったので、午前に出かけていた。そのためだろうか? 人はまだ少なめだった。それでも昼に帰る頃には増え始めていた。人が増えた、といっても元ゴルフ場。広いので窮屈な感じは全くない。ちょっとしたボール遊びなどでも、他の人をあまり気にする必要がない。貸切、といえば大げさだが、かなりの面積を占有できる。芝生もきれいなので子供たちが遊ぶには最適である。
そして、木々が多く、見晴らしの良いところもある。お弁当などを楽しむにも最適である。見晴らしの良い木陰に椅子とテーブルを持ち込み、本を読む、といった贅沢なことも出来そうだ。名作を片手にウイスキーでも・・・、といいたいところだが、ここは車でないと行きにくい。残念ながら飲酒運転になってしまうからお酒は飲めない。
さて、ゴルフ場と公園。どちらが良かったのだろう? 利用者数でいえば、これは圧倒的に公園の方が多い。ゴルフ場では1日に数百人、というのは到底無理である。この広さなら100人程度だろう。だけど、公園なら数百人は簡単である。天気の良い休日ならその数倍も難しいことではない。公園の方がより多くの人に楽しんでもらえる、といえるだろう。
でも・・・当の公園は? もし心があったらどう思っているのかな?
ゴルフ場として作られながらゴルフには利用されていないことを嘆いているだろうか? それとも、公園としてより多くの人に楽しんでもらっていることを喜んでいるのだろうか・・・?
卯辰山、金沢の街中からも近いのに意外と人が少ない・・・。もっと楽しみたい場所である。


胃カメラ 2003/11/18

会社の健康診断で、要精密検査の判定がでてしまった。まあ、仕事はきついし、帰宅も遅め。その上、(多すぎではないが)酒も飲む。多少、ガタがきてもおかしくない頃だろう。 胃のX線撮影で一部に乱れがある、ということなので、胃カメラ、となった。
胃カメラ、”苦しい”、”吐きそう”などとさんざん驚かされていたし、大病院でないとだめだろう、なんて思っていたこともあり、ついつい先送りにしていたのだが、胃のあたりに軽い痛みもでてきたのでまずは近所の病院に行ってみた。看板に”胃腸外科”なんて書いてあることもあることだし、胃カメラの検査にしても、どこか大きなところを紹介してもらえばいいかな、なんて軽い気持ちで行った。
ところが、”もし、朝から何も食べてなければすぐに(胃カメラを)やるのに・・・”と言われてしまった。それほど大きな病院ではないのだが、胃カメラは持っているそうだ。予約も何も要らない、前の夕食後の飲食をとめてくれば いつでもやる、とのことだった。以外と簡単なものなのだな・・・なんて思ってしまった。
ということで、改めて時間を作って検査を受けにいった。胃カメラ・・・心配はしていたのだが、意外なことに全然苦しくはなかった。口に何かくわえてそこから通した、と思ったらいつの間にか 胃まで入っていた。もちろん、太くて長いチューブを胃の先まで入れているのだし、入り口付近を見るには胃の中で先端を曲げるのだから違和感はある。なんだかお腹の中で何か動いているような感じになる。でも、痛みみたいなものはない。咽の方も麻酔がうまく効いているのか、痛みなどもない。 吐き気も全然感じなかった。これならむしろ、胃のX線撮影でゲップを我慢しながら体を揺さぶられる方がよっぽど辛いと思った。
胃カメラ・・・以前はたぶん、きつい検査だったのだろう。カメラの改良もあるだろうし、麻酔の仕方も良くなったのだろう。それに、比較的小さな病院でも扱えるだけ、使いやすくもなったのだろう。目で見る・・・。検査としては一番確実な方法のひとつだと思う。これならX線よりも良い?  集団検診もこれで? と思ってみたりするのが、そうでもないようだ。
胃カメラ、検査そのものは苦しくはなかったが、その前後の準備が大変だった。前日の夕食からの食事等の制限、これはX線撮影も同じだから仕方ないとして、そのほかに胃の動きを抑えるなどの薬の注射(これは筋肉注射だから痛い)、のどの麻酔・・・。私の病院では鎮静剤?も使っているようで、検査中もぼーっとしているような感じになった のだが、検査後はこれらの薬が切れるまで動けないとか・・・。私の場合、検査後に1時間は点滴を受けたし、その後結果を聞いて帰ってからも1時間は寝てるように、などといわれた。検査は数分でも、その前後を入れると3時間、おおよそ半日位はかかってしまう。検査を受ける方も大変だが、その間、看護士さんなどの手間も掛かる。やはり、集団検診としてはX線撮影になってしまうのだろうな・・・。
だけど、これを書くのに改めてWebで調べてみると、私は格別楽な方だったようだ。それだけ、病院側が検査に慣れているのだろうか? まあ、それでも、最近は楽になっているようだ。胃カメラ、必要以上に怖がらずに受けること、お勧めしたい。
ちなみに検査結果、特に潰瘍や腫瘍はなかった。まずは一安心・・・。


ハンディGPS、新幹線にて  2004/ 3/23


先日の福岡行き、新幹線を使った。鉄道好きなのに新幹線で姫路以西は初めて。それも”のぞみ”は初めてである。のぞみに乗るのなら、やはり500系にしたかったのだが、これは どうしても時間が合わなかったので、700系となった。ちょっと残念ではあるが、それでも姫路以西は初めて。久しぶりに電車に乗るのにわくわくしてしまった。
さて、新大阪駅を出て窓の外を見ると、飛行機が見えた。虹の模様のJASの小型リアジェット。着陸直前で脚を下ろしていた。このあたり、ちょうど伊丹空港の滑走路とほぼ同じ方向に新幹線が走っている。直陸直前だから速度も新幹線と大差ない。ゆっくり追いついてきたように見えた機が遅くなったな、と思った頃に着陸した。新幹線、なかなか早いな、などと感じた。
実はこのとき、ハンディGPSを持っていた。速度は230km/h。ジェット旅客機の着陸直前の速さよりはちょっと遅いかな? と思う速さであった。
ハンディGPS、ノートPCにつなげばカーナビとしても機能するのだが、このときは単体で窓側に置いただけ。緯度/経度を表示してもくれるが、そんな数字、見てもなんにもわかりはしない。表示を切り替えて進む方向と速さを表示するようにしていた。
目的は・・・。やはり、のぞみの速度を見たいから。新幹線では無理だが、客席から運転席の見える電車では、ときどき先頭に乗って運転席の速度計を見たりしていた。ちょっと子供っぽいことだけど、前の景色を見ながらのこと。これは楽しい。実際、子供以外にも同じように前を眺めている人は結構いる。
さて、のぞみの速度である。700系の場合は最高で285km/hである。最初は200km/h少々であったが、神戸を過ぎてしばらく走るとどんどん上がってきた。だが、山陽新幹線はトンネルも多い。GPSの場合、人工衛星からの電波で位置を知るので、トンネルの中までは電波も届かず、位置を特定できない。自動車でカーナビとして使っているときはフロントガラスのところに置いているのでかなり広い範囲の衛星から電波を受けることが出来るのだが、電車の場合、一番良くても窓側半分の衛星からしか受けられない。だから、トンネルを出てもすぐに位置を確定できず、反応が遅い。282km/h程度までは上がるものの、なかなか285までは行ってくれない。まして、その瞬間を写真に・・・なんて難しい。見ているうちに速度が変わったりするのだから。が、一瞬289km/hまで上がったのが見えた。まあ、これは測定誤差だろう。証拠写真は?それはないが、287km/hのがここに載せた写真である。数字の部分だけコントラストを上げたのでかろうじて見えることと思う。これでも700系の最高速度を超えている。285km/hを超えられるとは思えないし、数字が283〜287あたりで前後しているのに加減速 感がないのだから、多分、一定の速度,285km/h直前あたりで走っていて、数字は誤差のためだろう。それにしても速い速度、のはずなのだが、あんまり早いとは思えなかった。ゆれも少ないし、車内も静か。すぐ近く の景色は流れてしまって見えやしない。遠くの風景しか見ないから、そんなに速度を感じないのだろう。
その後、一時200km/h程度に落としたのだが、これがまた遅く感じた。200km/hといえば、高速道路を走る車の倍である。それが妙に遅く感じてしまった。慣れ、というのは恐ろしいものである。
ハンディGPS、なかなか面白いものである。このGPS、もうひとつ面白い機能がある。それは、位置を一定間隔で記録してゆけるのである。旅行中、動かしておけばどこへ行ったか、完全に記録が取れる。旅行記録としては最高である。
もっとも、ある人曰く、”そんな恐ろしいもの、いらない”と。まあ、そんな人もいるか・・・。


映画の世界が現実に  2004/ 2/13

HAL9000をご存知だろうか?
HAL9000というのは、映画、2001年宇宙の旅に出てくるコンピュータである。映画の世界では2001年に存在するコンピュータであるが、人間と普通に会話するなど、現時点ではまだそこまで至っていない機能がいくつもある。そのひとつが記憶装置である。HAL9000のメモリは、ホログラフィック・メモリとされていた。どんなものか? 詳しいことはもちろん分からないが、映画の中ではHAL9000を止めるためにプラスチックの板を抜き取っていた。これがホログラフィック・メモリだろうか? 大きさははがきよりも すこし小さく、厚さは1cmくらいだった。それが何百枚あるいはそれ以上あるようだったと思う。とてもきれいなものだった。現実世界のコンピュータのメモリは、といえば半導体、あるいは磁気を利用している。外観は、残念ながらあまり美しくはない。
さて、そのホログラフィック・メモリ、アイデア自体は相当前からあったのだが、これがとうとう実用化された。NTTが試作したもので、見た目は映画同様、プラスチックの薄い板である。大きさはほぼ切手サイズで、この大きさで1GBだそうだ。25mm角、厚さ2.1mm。現時点では読み出し専用であるが、近い将来は書き換え可能とのことである。また、記憶容量も将来的には10GB以上も可能だそうだ。これに近い大きさのフラッシュメモリは現在、0.5GB程度のが市販されてるから、それを大きく上回ることになる。市販になれば、映画の世界にまた1歩近づいてきたということか。
気になる値段であるが、量産時には読取装置が数千円、メディアが1枚100〜200円を想定しているそうだ。これは、今のDVDドライブに近い値段である。容量の10GBもDVDとほぼ同じ。DVDやCD-ROMのように回転させたりヘッドを動かしたりする必要がないので応用範囲は広い。すぐに思いつくのはビデオカメラだろうか? 10GBあれば2時間以上楽に記録できる。テープのように巻き戻す手間はいらないし、動く部分がないから非常に扱いやすいだろう。データならば? 百科事典を楽に収めることができる。もし想定どおりの価格で出来るのなら、待ち遠しいメモリである。久しぶりに”早くできて欲しい”と思う技術である。
さて・・・HAL9000のメモリ、切手大で仮に10Gとすれば、あのサイズである。一体どのくらいの記憶容量があったのだろうか?

白山  2004/ 2/12

私の会社からは白山が見える。
白山は、その名の通り、白く見えることからこの名がつけられたという。最近は雪が少なくなったのか、夏には黒く見えることもある。しかし、冬のこの時期の白山、まさに白い山である。
会社からの場合、手前に別の山が重なる。山に挟まれるように白山がそびえるように見える。手前の山は、冬でも木々が多く、青く見える。このため、白山が一層白く輝いて見える。その姿、神秘的にさえ思えてくる。
その神秘的な姿もあってのことだろうか、白山は、越中の立山、駿河の富士山と共に、三霊山と言われ、越中おはら節にも歌われている。(※注) 実は、私はこの三霊山が見えるところに住み続けている。生まれは富山県。大学時代は静岡。東京にも一時住んだが、ここからも富士山は見える。そして今は石川。偶然もあるが、三霊山の見える場所に住み続けている。この三山、三霊山としてまとめられているが、見た目はずいぶんと違っている。
富士山は滑らかな曲線の独立峰であり、女性的な感じが強い。どの方角から見てもその滑らかさは共通している。立山はいくつもの山が連なる連峰であり(※注2)、ごつごつとした感じで男性的である。富山側からみる立山、まるで屏風のように立ちはだかり、迫って見える。
では白山は? というと、富士山と立山の中間的な感じである。会社の方向から見るといくつかのピークが見えるが三角形である。連峰にはみえない。山肌は立山ほどごつごつしてないが、富士山ほど滑らかな感じはない。ただ、山肌は雪が多いからか、この時期はちょっとふっくらとしてみえる。形も雰囲気も中間に位置するように思える。もっとも、白山も見る角度によってはいくつもの峰が連なって見える。とはいえ、立山ほどではない。
この三山に共通すること。その一つに雪があると思う。富士山はその頂に雪のある姿をまず思い浮かべるだろう。立山もまた、万年雪がある。白山はその名の通り、年中雪に覆われて白い。
三山には雪が共通している雪。その美しさと厳しさ。これは霊山と呼ばれること、切り離せないような気がする。
雪には他にたとえようもない美しさと同時に、厳しさもある。
雪の厳しさ、雪は行動の自由を奪う。更に視界も音も奪う。雪に埋もれれば体温を、そして体力を奪い、雪崩ともなれば村をまるごと吹き飛ばしたりもする。美しさと厳しさ。そこに神秘性が一層高まり、霊的な感じが強まるように思える。
つい先日、白山の近くで大学生のグループが遭難した。食料が尽きるなど、命の危険はあったが、救助を求めた後の行動は適切なものであり、全員無事救助された。その日は、平地でも多くの雪が降っていた。まして山間部ともなればかなりの雪になるだろう。全員救助は幸いであるが、雪の厳しさも感じる出来事であった。標高の更に高い白山ともなれば、更に厳しいことだろう。近づくことさえ容易ではない。だからこそ、霊山そして信仰の対象ともなるのではないだろうか。

スター・ウォーズ展、撮影技術の向上 2004/1/11

昨年の夏、スター・ウォーズ展を京都まで見に行った。
スター・ウォーズ、これは私が自分で見に行った最初の映画だけに、格別な思いがあった。今回、そのPART 2が京都国立博物館で始まった。ちょうど他の用事で京都に出かけることもあり、早めに出かけて見に行った。展示の始まった直後で混雑を心配したが、開館直後の早い時間は心配するようなことはなく、取材のカメラが気になった程度であった。
今回の展示、前回同様、映画で使った衣装や小道具、模型、デザイン画などである。しかし、ずいぶんと変わったな、と感じてしまった。前回は? といえば模型が中心だった。撮影に使った宇宙船などはもちろん、映画の主要な場面のデザイン用の模型などが多数並んでいた。今回は模型はあるものの、比較的小さく、数も少なくなっているようにも感じる。
今回増えたのは? それは、衣装である。特にアミダラ女王(元老院議員)の衣装。映画では場面ごとに異なるものを着ているだけに数も多い。そして、それらの衣装は非常に手が込んでいる。芸術品、といってもよいと思う。細かな織り模様、色彩。非常にすばらしいものである。そのほかの人物の衣装もまた、優れたものだった。
しかし、スター・ウオーズといえばやはり宇宙船? ちょっと物足りなく感じた。だが、これには映画の撮影方法の変化も大いになるだろう。最初のスター・ウオーズ、これは20年以上前の撮影である。コンピュータ・グラフィックスなんて存在しなかった。理論上はできるとしても、膨大な計算をできるコンピュータは映画の撮影費用を上回ってしまいそうだし、計算できてもそれを画像としてフィルムに焼き付けることはできかっただろう。だから、宇宙船などは模型を使うしかなかった。また、合成を行うにしても光学的な処理。今のようなデジタル処理はできない。その表現には大きな限界があった。また、スター・ウオーズには多くのロボット(ドロイドと呼んでいる)や異星人が出てくるが、これも最初は人が中に入ったりするしかなかったのだが、コンピュータ処理ができるようになってきて、とても人がはいれないような形のものもでてきている。
この、撮影技術の変化、映画とは離れて展示としてみると非常に大きな変化があることを実感した。会場には、展示に関係する映画の一部が流れている。それを見ても、約20年の変化を大きく感じる。逆に言えば、撮影技術が追いついてきたから最近のスター・ウオーズが撮れるようになった、というべきかもしれない。
しかし・・・繰り返しになるが、アミダラ女王(元老院議員)の衣装はすばらしい、としかいえない。映画の設定では文化の最盛期的、となっていることもあり、非常に贅沢である。映画の中の世界ではあるが、これも文化だと思う。これを目当てに見に行けばきっと満足できることだろう。
 
京都国立博物館の本館。スター・ウオーズ展の看板が妙に白く浮いているように思えるが、少し時間がたてば落ち着いてくるかも。
内部の重厚な展示室にスター・ウオーズの展示品、今回はとても合っているように感じた(館内は当然、撮影禁止)。

迷いながらのデジカメ選びその2、持ちは餅屋? 2003/12/1 9

デジカメ、機種はある程度絞った時のこと。
さて、どこで買おうか・・・? デジカメに限らず、何を買うか具体的な機種を絞り込んでしまっているのなら、更にサービスを考えないなら、単に安い店で買えばよい。Webなどでの通販だってよい。こちらも結構安い。だが、カメラのように操作性を気にする必要のあるものだったら、やはり店頭で見て買いたい。それに、今回、当てはまる機種がまだ完全には絞り込めていない。やはり、店頭で相談して決めたい。
最初に見たのは家電店だった。ボーナス時期でもあるし、平日の夜でお客が多すぎない時間のこと。店員さんが早速話しかけてきた。考えているデジカメの条件を言ってみた。返ってきた答え・・・アドバイスとしては間違っているわけではない。だけど、一つ二つの条件にとらわれすぎているように思う。最初に勧められたのはC社のもの。確かに薄い。また、単焦点(ズームなし)でも良い、とは言った。だが、固定焦点とは・・・。これは撮影距離によっては少しピントが甘くなるので使いたくない。
ここでふと思いついてカメラ屋に行って見た。大きな店に行くと、さすがに一通りそろえてある。それに、思っていたよりずーっと安い。ここでも店員が早速声をかけてきた。カメラ店だけに、家電店よりはカメラとして押さえるべきポイントを心得ているように思う。だが、アドバイス的にもう一つ物足りない。ここも言ったことへは答えるが、+αがない。
”この機種には○○がないね。”
”それでしたら、こちらにはついています”
ここまでは良い。
だが、
”確かに○○はありませんが、△△が充実してるので十分対応できます。それに、○○には××という欠点がありまして、△△にはそれがありません。○○は、小型の機種ではおまけ程度のものになります。割り切ってみてはいかがでしょうか?”
あるいは、
”○○を重視されるのでしたら、携帯性を多少犠牲にしてこちらはいかがでしょうか?”
と、ここまで言えれば大したものである。そういう店員がいたなら少々高くてもその人から買っただろう。さすがにここまで言える人はいなかったが・・・。
それでも、カメラ店の方がよさそうに思い、日を改めて別の店に行ってみた。出かける途中にあった店、というだけで入ったのだが、やはりボーナス時期のこと、ここも熱心に話しかけてくる。品揃え的には普通だったが、なによりここの店員の応対が他よりは良かった。アドバイスも一番満足できるものだった。なにより、フイルムの一眼レフカメラとの併用を意識してアドバイスしてくれたのだから。それに、価格も安かったし・・・。ここに決めた。
デジカメ、ついデジタル機器の延長で考え、コンピュータを扱う店での購入を考えていたが、フイルムを使わないとはいえ、やはりカメラである。カメラとしての選び方に関してはカメラ店の方が的確だった。ただ、パソコンとの接続、という意味では多少不安も残るが、家電店でもカメラ専門の店員がどこまで知っているかを考えるなら同じかもしれない。
餅は餅屋。デジカメもカメラ屋、ということだろうか?
でも・・・店選び、値段よりも知識豊富な店員さんなんですね。

迷いながらのデジカメ選び 2003/12/1 8


デジカメを購入した。実はこれが最初のデジカメである。今ごろ? といわれそうだが、事実である。なぜ今までデジカメを買わなかったか?
 ・フイルムの画質にこだわった・・・
 ・フイルムでも現像が早くなった・・・
 ・スキャナで十分足りていた・・・
 ・好みに合うデジカメがなかった・・・
 ・良いカラープリンタを持っていなかった・・・
 ・単にお金がなかった・・・
まあ、いろいろあるとあるとは思うが、とにかくデジカメを買った。表向きの理由としては、ホームページを作る上で向けに手ごろな撮影機器が欲しくなった、ということが大きいかもしれない。また、フイルムカメラにはない、コンパクトなものが増えたのも購入に踏み切った理由かもしれない。

さて、デジカメを買うと決めたが、種類があまりにも多い。
これがフイルムカメラなら、一眼レフとコンパクトがまずあり、どちらかに決まれば機能やデザインの差はもちろんあるがデジカメほど悩まずにすむように思う。
悩んだときの鉄則。目的を明確にすること・・・。
 ・主な用途はWeb公開用なので画素数は少なくても良い。
 ・携帯に便利なこと。特に胸のポケットに入ると都合が良い。見た目の小ささよりも薄さが重要。
 ・シャッターラグが遅いと使えない(一眼レフと併用するから・・・)
 ・ズームはあると良いが、3倍程度で十分。

これに合うデジカメ、何種類かある。それぞれ見てみると、それまで気がつかなかった違いも出てきた。
 ・撮影時にレンズが飛び出してくるのもあるが、そうでないほうがいいな・・・
 ・光学式ファインダ、やっぱりあったほうがいいかな・・・
 ・動画が撮れるならそれもいいな・・・
 ・カメラメーカのレンズ、やっぱり安心できるかな・・・

さすがに全てに当てはまるのはない。が、それに近いのはある。しかし、横から声がかかった・・・。

ビデオの代わりにならないの? 

動画の取れるデジカメは多い。しかし、解像度が320×240では荒すぎる。640×480ならまあまあか? しかし、17フレーム/秒ではいまひとつかな? 30フレーム/秒なら十分だろうけど、高速のメモリが必要で、膨大なメモリを食う。512Mでも6分しか写せない。
ビデオ代わりに、というのは厳しそうだ。それでも、ないよりましだろう。でも、やはり30フレーム/秒の撮影は可能なのを選んでおこうか?
しかし、これが可能なもので薄型は少ない。事実上1機種か? これがちょっと高かった・・・。メモリも高速なので高い。
無理かな・・・と思ってふとカメラ屋に行ってみた。不思議なことに、カメラを買うのに家電店しか見ていなかったのだ。そうすると、やはりカメラはカメラ屋? 期間限定とは言っていたが、思っていたよりも安いのだ。これなら買える? 

結局、最初の目的はどこへやら。動画が決め手になって機種が決まってしまった。
メモリはとりあえず256Mを買った。512Mでは3万円以上で高すぎる。メモリはいずれ安くなるだろうことを期待してこれで抑えることにした。動画は3分。コマを落とせば4倍くらいで12分。これならなんとか使えるか・・・。

さて、デジカメでの撮影。もちろんもうやってみたのだが、まだ公開するようなものはない。肝心の動画であるが、17フレーム/秒でも案外見られる。画面の粗さは感じない。30フレーム/秒にこだわって高いメモリにしてみたが、静止画用を兼ねて安いメモリを少し買って使っても良いかもしれない。動画、パソコンに取り込んでDVDのフォーマットに変換して焼いてみた。画素数とフレーム数の変換がいるので相当時間はかかるがちゃんと普通のDVDプレーヤーで再生できた。短時間ならCD-Rだって良い。パソコンなら再生できるのだから。これは面倒な変換はいらないから簡単にできる。デジカメの動画、案外用途は広いかもしれない。


さて、このデジカメを買ったあと、店員さんが、”メーカの1年間の保障が付きますが、プラス(商品価格の)1%であと4年、合計5年の保証がつきますが・・・”
さて、どうしようか? 普通なら5年保障はなくても良い。大抵の不良は1年間で十分である。が・・・
”うーん・・・ xxxx(メーカ名)だからつけておこうか・・・”
店員さん、笑いながら同意していた

携帯電話のカメラ 2003/10/2 8

先日、知人と話しているとき、携帯電話の話になった。携帯電話、いまやカメラ付きが全盛である。
そのときの話だが、知人の会社では、”お客様(会社)のところに行くときは、カメラ付き携帯電話を持たないように”と指示されているそうだ。お客様に機密漏洩に関して余計な疑いを掛けられないように、である。つまり、機密に関する書類、その他を撮影されているのでは?といった疑いをかけられないように、ということである。
知人は、”いまどきカメラのない携帯電話なんて手に入るか”なんてぼやいていたが、疑いを受けないこと、という意味でこの配慮は理解できる。
会社などで、社内撮影禁止、というのはごく普通のことである。そもそも、お客様のところへ行くのに、明確な理由/必要性もなしにカメラ類を持ち込むのは非常識、ともいえる。たとえ自分の勤務先でもそうだろう。必要性もなしにカメラを持ち込んだら、機密の漏洩を疑うのは当然のことである。そういう意味で、カメラ付き携帯電話を持参しない、というのは理にかなっている。
最近、これと似たようなことで、”デジタル万引き”というのが出て来た。これは、書店で雑誌などの記事を携帯電話のカメラで撮影することをいう。雑誌自体を盗むわけではないが、雑誌の記事という著作物を複製し、データを盗み出すことになる。私個人としては、 著作権の侵害であり、問題のある行為であると考える。書店にしても出版社にしても、売り上げが減ることなのだし・・・。
携帯電話についているカメラの利点・・・。
出かけた先などで画像などをメール等で知人に送りやすい、といったことももちろんあるだろう。そして、携帯電話として常に持ち歩いていること、これも大きい。先日、ひき逃げの際に携帯電話のカメラで加害車両を撮影し、手がかりになったことがあったそうだ。これが普通のカメラだったら。カメラ自体、持ち歩いている人は少ないし、持っていてもかばんに入っているなど、取り出すのに時間がかかって間に合わないこともあるだろう。これは携帯電話に付属、ということが生きた例だと思う。
だけど、データを盗む、といった行為、あるいは、以前に書いた盗撮や美術館での撮影といった、問題ある撮影が増えてしまうと、折角の利点が帳消しになってしまいそうな気がする。 一部の非常識な人のために、規制がかかったりしてはおもしろくない。良識ある使い方を願いたいものである。
ところで、カメラのない、シンプルな携帯電話・・・。企業向けに作れば売れるかな?
カメラ無しの携帯を望む一般ユーザもいるのだし・・・。

星に願いを? 2003/10/ 3

車での帰宅途中、信号待ちしているとフロントガラス越しに白い点がスーッとながれた。流れ星である。その日は薄い薄い雲があり、明るい星しか見えない空だった。その上、車の中から目に付いたのだから、この流れ星、結構な明るさだったようだ。今接近中の火星程度だろうか? 
この流れ星、気がついたときから流れた長さは腕を伸ばして20cm位だったろうか? 流れた時間・・・これは1秒もなさそうだ。ほんのわずかな、つかのまの光りであるが、なんだかとってもすがすがしく感じた。
さて、流れ星が消えるまでの願い事を3回唱えるとかなうと言う。叶う叶わない、その前に流れ星に気がついてから消えるまではおそらくと1秒ない。もっと早く気が着けば時間も長くなるだろうが、空を見上げてそうそうタイミングよく流れ星が見られるものでもない。少し流れてから気がつくのが普通だろう。だから1秒以下・・・。その間に願い事を3回唱えられるものだろうか? まあ、無理な話である。3回どころか1回だって無理だろう。
ではここでちょっと発想を変えてみよう。1秒に3回、余裕を持って唱えられるような願い事は?
ためしに唱えてみる。2文字を3回。これでも約1秒である。品のない願い事だが、”かね かね かね”(お金が欲しい、のつもり) でも1秒がやっとだろう。これでは流れ星に気がついてからではちょっと難しい。
2文字がだめなら1文字だけ? これなら1秒以内でなんとかなりそうだろう。でも、1文字で言える願い事なんてあるものだろうか?
と、考えたところで、以前本で読んだある会話を思い出した。その会話、世界中探しても一番短い部類だろう。

”どさ?”
”ゆさ”
である。もちろん方言で、一般的な日本語に直すと、
”どこへ行く?”
”お風呂にゆく”
となる。非常に短いが、訳(?)と並べてみるとなんとなく理解できる。なんだかとっても温かみのある言葉に思える。
で、願い事である。
”ゆ ゆ ゆ”
これなら何とか間に合いそうだ。
”ゆ”ということで、”温泉にゆきたい・・・”
ちょっと無理があるかな? でも、何とか言えたところで、
”お風呂で叶ったことにしろ”
なんて返事がかえってきそうである。

白山市 2003/9/23

私の会社からは白山が見える。見える、といっても遠くて高い山のこと。雨など気候の悪いときは見えないし、晴れていても山の付近に雲が出ていたりするとやはり見えない。
さて、私の会社のこの周辺、市町村合併で”白山市”となる。この白山市、かなり広い範囲での合併である。白山市となる範囲には白山も含まれるのだが、その一方で海辺の町も含まれる。だから、”山”とはちょっと違和感があるのだ 。が、そこからも白山は見えるので、「あまり違和感はないのでは?」との声も少なくないようだ。
”白山市”この名称には多くの人は賛成しているようだ。これには、白山のイメージのよさもあることと思う。だけど、私個人としてはちょっと違和感を感じている。白山は、白山市にふくまれるものの、位置的には隅っこである。山としての白山の範囲、これは白山市の一部であり、また県境を越えて岐阜県にも広がるように感じてしまう。そういう意味では、 候補に挙がっていて大差で2番目となった、”手取市”の方がぴったりするように思えてしまう。これは、白山市の範囲が、ほぼ手取川の流域と一致することも理由の一つである。
とはいえ、これは単なる慣れの問題かもしれない。山の名前のつく市町村はあちこちにある。そして、全てが山のイメージする範囲と市の範囲が一致しているわけではない。だけど、そういうもの、と思っているからか、違和感は感じてはいない。だから、慣れればどうということはないのかもしれない。そう考えるなら、少なくとも、最近合併によって出来た、個人的には妙な、と感じる市名よりははるかに違和感はないと思っている。しばらく時間がたてば、違和感もなくなり、いい名前、と感じるようになるかもしれない。
さて、合併となれば当然、旧の市町村名は消える。全く消えることはなく、どこかに町名の一部として残ることと思うがやはり寂しさはある。合併となれば、私の勤務先、今の町名が消え、白山市となる。白山のイメージに負けない市となることを祈りたい。

至高の時間 2003/ 9/5

先日、山間の博物館的施設に立ち寄った。ネパールの曼荼羅など、宗教的な展示の多いところである。一通り見学をしたあと、そこの庭に立ち寄った。すばらしい曼荼羅を見たあとのこと。ちよっと余韻に浸りたい気分になった。
庭にはちょっと休める場所があった。屋根だけの小さな建物。小さなテーブルに椅子が6〜7人分。椅子は多いが、テーブルを使えるのはせいぜい3人? そんな大きさの建物だった。谷の、ちょっと高い場所にあるこの建物からは、手前の庭と対岸の山々が見えるだけ。おもわず座ってゆっくりしたくなる、そんな場所だった。
夏の、暑い日ではあったが、既に日は西に傾き始めている。谷を抜ける風が心地よい。
”このまましばらく本でも読んでいられたらいいな・・・”
ふとそう思った。この情景には、最近の軽すぎる本は似合わない。言葉のきれいな・・・そう、泉鏡花あたりの本が似合いそうだ。あるいは、パソコンを開いて思うままになにか打ち込むのもよい。あるいは、色鉛筆で絵を描くのも・・・。楽器や歌、音を出すのは似合わないような気がするが、とてもゆったりした、知的な時間がすごせそうだ。
ここで1時間2時間・・・せめて30分でもゆっくり出来たら、と思う。
ふと思い出したのが、入社して間もない頃の先輩の言ったこと。”新幹線で京都の嵐山までいって、(そこで)本を1冊読んで帰ってきた・・・” (東京から)京都までゆくなら他に有意義なこともあるだろうに・・・。とその頃は思ったのだが、今はその気持ちがよくわかる。嵐山の川辺の木陰で本だけ読んですごす・・・。これもいいな、なんて思う。
ただ・・・嵐山はきっと人が多くて騒々しいだろうな・・・

スター・ウォーズ展にて 2003/8/2

先日、京都の国立博物館に出かけた。
国立博物館・・・。展示品といえば何を思い浮かべるだろうか? 仏像、陶磁器、発掘品、古文書・・・。要するに地味なものである。しかし、今は(2003/6/24-8/31)スター・ウォーズ展をやっている。映画のスター・ウォーズである。
なぜ国立博物館で、なのか? そのあたりの事情はわからないが、とにかくやっている。
スター・ウォーズ。これは、実は私が最初に自分で見に行った映画である。映画自体はもちろんそれ以前にも見に行っている。だけど、親に連れられて、ではなくて自分から一人で見に行った最初の映画。やはり思い入れは大きい。映像の迫力もあるかもしれないが、宇宙船での活躍に自分自身の”夢”が重なってのこともあると思う。少ない小遣いをやりくりしながら何度か見に行ったのを覚えている。
その後も続編が出たが、その度に映画館に足を運んで見ている。一度は静岡に住んでいるとき。待ちきれず、東京まで見に行ったりした。続編、といっても間隔が長いから、いつの間にかいい年になってしまったが、それでもこの映画は若い気持ちのまま見ていることに気が付く。
そういう映画の展示だから、やはり見に行きたい。
展示品であるが、映画で使った模型や衣装、小道具、そしてデザイン用の絵や模型などである。私個人としては、やはり模型、特に宇宙船の模型が気になる。展示されている模型、映画の撮影に使ったものだから、大きくてとても精密にできている。大きなものでは、長さが数メートルになるものもある。車に近い大きさではあるが、とても細く作りこんである。そうそう、宇宙船がやたらと表面がデコボコしてくるのはこの映画からだと思う。それまでは流線型的なデザイン が多かったような気がする。それだけに新鮮で、なぜか現実的に感じたように思う。
この模型、よくよく見るとミスらしいものも残っている。たとえば、コイルみたいな部分の塗装だが、塗料が多すぎてか、コイル部分が膜が張ったようになってしまっている。更に衣装。これも案外安っぽいものもある。特に宇宙服的なもの。これは、たとえば胸や腕の部分にスイッチやランプなどが付いている。だが、とても簡単なつくりになっている。どう見ても本物らしくない。安っぽいおもちゃみたい? これなら、たとえば子供向けの科学館での記念撮影用の宇宙服。この方がよほど本物に近く見えてしまう。
では、これで不都合があるか? それは全くないだろう。映画を改めてみることはできないが、会場に流れているビデオをあらさがしするつもりで見ても違和感はない。つまり、撮影上、十分な品質を持っているといえる。衣装など、要するに本物である必要は無いのだ。映画で見て本物に見えればいいのだ。たとえ本物を使ったとしても、それが本物に見えなければ何の意味も無い。そう考えれば、衣装など、これで十分なのだろう。であるなら、それ以上の費用を掛けることもない。
映画、というと、予算的に余裕がある、というか、妙なとこにこだわって金を惜しまない、的なイメージもあったのだが、こうところは合理的なのだな・・・なんて妙な関心をしてしまった。宇宙服などは一人二人が着るものではない。何十人分もいる。少々の費用の差でも、かなりの金額になってしまうことだろう。
費用対効果なんてちょっとつまらない感想も持ってしまったが、展示自体は十分楽しめるものだった。模型にしても衣装などにしても実物を見る機会はない。とても貴重な展示会である。映画のことなどを思い出しながら、時間さえ許せば何時間でもいたくなる。そんな展示であった。私の場合、混雑を予想して夏休み前の土曜日、朝早い時間に行った。雨もあってそれほど混んではいなかったが、これが夏休みの、午後になると結構な人になるだろう。私が行ったときも、会場を出る、11時頃には人も増えてきた。好きな人はかなり遠くからでも来ることだろう。改めてスター・ウォーズの人気を感じた。
また、同時に見学者の世代の広さも感じた。私よりはるかに年代の上の人もいれば、中学生程度の若い人もいる。高年齢の人、もちろん最初の映画を見た人たちだろう。長い期間に渡って作られていること、再認識した。
スター・ウォーズに興味があるなら、一度見てみるのもいいだろう。
きっと楽しめることと思う。

止めても無駄? 2003/9/16

プロ野球、阪神が優勝した。私は阪神ファンというわけではないが、久しぶりのことでもあり、”今年は阪神に”なんて気持ちもあったりした。そういう意味で、ちょっとうれしく感じたりした。

さて、昨日は思ったとおり、多くの人が道頓堀に飛び込んだそうだ。少し前の新聞にも、”道頓堀川には危険な 物質が基準値を超えているから飛び込むべきではない”といった記事が載っていたりした。また、泥が溜まっていたりするので飛び込みは危険、とも聞いたように思う。優勝が間近になってからこういう記事などがあちこちに載っていた。でも、”それでも飛び込むだろうな・・・”と思っていたのだが、5000人以上、とのこと。かなりの数だと思う。誤って落とされた(?)人が救急車で運ばれた、とは新聞にかいてあったのだが、自らの意思で飛び込んだ人はどうだったのだろうか?
都心の川、道頓堀でなくとも、汚れはあるし、やわらかい泥が溜まっていたりする。そういうところにある程度の高さから飛び込んだ場合、危険であることは明白である。子供はともかく、大人に”飛び込まないように”などと注意する、というレベルの問題ではないと思う。 わざわざ危険な理由を上げて”飛び込まないように”という必要もないことだと私は思う。
危険性を承知の上で飛び込む。体が泥だらけになってもいいから、それで優勝の喜びを、というのであればそれでもいいと思う。ただ、あくまでも自己責任である。その結果、怪我などすることになったとしても、それは自らの意思で飛び込んだ人の責任である。

しかし・・・。あの川に5000人も飛び込んだとすると、最初はともかく、泥が舞い上がって水とは言えないような状態だったと思う。いったいどうやって家まで帰ったのだろうか? 道路は泥だらけ? 多分・・・ひどい臭いだったろうな・・・。

 

カメラつき携帯電話、普及と憂慮 2003/6/ 22

携帯電話、普及率的には伸びが鈍ってきているそうだ。使うような人はもうほとんど買ってしまっているのだからある意味、当然であろう。しかし、カメラ付き携帯電話は売れている。買い替え需要もそれなりにある。今では携帯電話にカメラが付いているのは当たり前、みたいな感じさえある。

先日、地下鉄の駅で階段を登ろうとしたところ、1枚の張り紙が目に付いた。
”カメラ付き携帯電話での盗撮に注意”
カメラ、ではなく、はっきりと
カメラ付き携帯電話と書いてある。
盗撮・・・これは今に始まったことではない。相当前にもあったことではある。一時期、それに関するような雑誌も出ていたような気がする。が、その後はあまり聞かなくなった。まあ、当然のことだろう。犯罪行為なのだから。
それが、カメラ付き携帯電話でまた増えてきた、ということなのだろうか。

これは別の話になる。
ある美術館でのこと、非常に大きな絵画があったのだが、それをカメラ付き携帯電話で写そうとしている人がいた。しかし、携帯電話のカメラではとても全体は写らず、つれの人とそのことを話していたところ、美術館の人が近づいてきた。当然、撮影禁止、と注意するものと思っていたところ、”斜めから写せば全体がはいりますよ”と。正式の館員ではなく、ボランティアのようではあったが、それにしても美術館で撮影を容認、というのは普通はありえない。ただ1箇所知っているところは、遊び心のある美術館で、絵に触ってもよい、となっていた。そういう、ごく一部のところのみだろう。
絵の保存や鑑賞の妨げになるし、著作権の問題もあって、多くは撮影は認めていないし、認めるべきでもない。これは当然のことである。

盗撮、あるいは美術館の撮影。いずれも良識ある人なら行わないことである。カメラを扱ってきた人ならそれはわかっていることである。そんなことをしてたらカメラ自体、存在が危うくなる。
だけど、携帯電話という非常に身近な道具にカメラが組み込まれてしまったためにこういう行動をとる人が増えたのかもしれない。
カメラ、というのは身近になったとはいえ、ある意味、特殊な道具である。私はあちこちにカメラを持ち歩く方だと思うが、それでも普段は持ち歩かない。写す目的があって持ち歩くもの、のイメージが強い。だけど、携帯電話は多くの人は常時持ち歩く。だから何かあればカメラ以上に写す機会が増えるし、気楽に写せる。つい軽い気持ちで写してしまうのではないだろうか。

カメラ付き携帯電話、私はまだ使っていない。だけど、普通のカメラ以上に有用なこともあると思う。なんといっても、取り出しやすい位置に常にある、というのが大きい。

良識ある使い方を望みたい。電話持ち込み禁止、あるいはカメラつき電話自体の存続が危うくなる前に・・・。

 

凧を釣った話・・・ 2003/5/ 25

約1月ぶりになってしまった。5月は3,4日の内灘に始まり、凧の祭りが多く、その参加などもあって追記がなかなか出来なかった。
さて、 凧揚げの行き帰り、近所の人にあったりするとよく釣りと間違えられる。私の凧、たたむと釣竿ぐらいの大きさになる。これを、布の袋などに入れて持ち運ぶのだが、これが釣竿と間違えられるのだ。海岸で凧を揚げようとしていると、釣り人が仲間のように見ていることさえある。そして今日、凧を釣ってしまった・・・?

今日は八日市の大凧まつりだった。今年は朝から強風。風は強くても安定していれば良いのだが、強風は大抵は天候の悪化に伴いことが多いので、変化することが多い。変化、というのは風の方向もあるし、強さもある。今日は変化はそれほど多くはなかったものの、それでも変化はあった。私の凧、カイトフォトに使うものは特に安定性が良いのだが、それでも風の変化でバランスを崩してしまうことがあった。これではとてもカメラは上げられないし、引きが強すぎるので小凧を中心に揚げて楽しんでいたりした。
これだけの風になると、糸切れなどの事故も結構ある。私の場合、元々洋凧から、それも既製品を利用することから始めている。海外で売られている凧、糸の強度が指定されている。これは、糸の強度が指定されている。たとえば250ポンドテストライン、といった具合である。これは、250ポンドに耐える糸、ということである。凧によっては、風速○〜△m/sec.のときは■■、△〜×m/sec.のときは□□、といった具合に風速によっても分けてあったりする。もちろん、揚げ糸は強度を示して売られている。だから、私は自作の凧でもこの数字を目安にして糸の強度を決めている。私の場合、糸を切ってしまった事故は、凧揚げを始めて間もないころに糸の結び方が悪くて糸を切ってしまって以来、糸切れは一度もない。ケブラーという非常に堅い糸と絡んで切られたことはあるが、これは仕方のないことである。

糸の強度、他の人のを見ると、強風時には弱すぎる、と思えることが時々ある。これは、ある意味仕方のないことかもしれない。日本では糸は強度表示ではなく、太さ表示で売られていることが多い。 太い方が強いのだが、ではどのくらいの強さなのか?これが分からない。だから、強さを基準に選びにくいように思う。仮に耐荷重○○Kgとなっていたら、風がいつもより5割強いから倍の強度のを、といった意識もしやすいと思うのだが・・・。
一部のホームセンターでは、売り場に表で書いてあったりするが、必ずしも用意されていない。そうなると、経験を頼りに決めることになるのだが、同じ太さであっても、素材や編み方によって強度は全然違う。綿だと、ロープに見える太いものでも、意外なほど弱い。 数mmの太さがあっても耐荷重が数十Kgだったりする。ナイロンだと2〜3倍の強度になる。そして、編み方によっては3割近く変わってくる。
ちなみに私の常用のラインは2mm程度の太さだが、これで500ポンド、約220Kgの強度がある。綿のロープの数倍以上の強さになる。だから滅多なことでは切れる心配はない。但し、摩擦によって火傷の危険性は高いので、扱いに注意が要る。
糸の強度の話、長々と書いてしまったが、強風ゆえ、今日もかなりの糸切れがあった。朝、揚げていたのは各地からの人たちだが、それでも気がついたら遠くに凧だけ飛んでいってるのが見えた。その後も風下に走ってゆく人も何組もあった。特に連凧。これは数が多いから、強度計算を十分していないと簡単に切ってしまうものだ。強風時の引き、凧によっては風速の二乗に比例するので、ちょっと強くなるとかなりの引きになってしまう。
凧の糸切れ、ロープなどが強度で選べないこと・・・。単純にこれが理由、とはもちろんいえないのだが。

さて、凧を釣った話である。今日は風下側で揚げていたこともあり、流れてきた凧をいくつか拾った。これも良くあることである。で、その一つを揚げていた凧で釣り上げたのである。実は今日、一時期スポーツカイトを揚げていたのだ。 スポーツカイト、これは自由に操れるので他の凧に絡む危険性が高いので、凧のいない風下の端っこに行ったのだ。この場所、ほかに揚げている人はいないが、風の変化で他の凧が降りてくることもあるので油断は出来ない。 これだけは注意しなくてはならない。
で、揚げ始めてまもないころ、急に子供の凧が視界に入ったのでいそいで避けたのだが、よく見るとこれがどうも動きがおかしい。糸巻きも一緒に舞がっているのが見えた。手を離してしまったのだろう。これも強風時には時々あることである。ここでやったのが、凧釣りである。スポーツカイト、これは自由に操れるので操作範囲にある凧の糸を横切ることはなんでもない。糸の上に近いところを横切り、そしてカイトを回転・・・。 うまい具合に糸に絡んでくれた。そしてカイトをゆっくりと降ろす。飛んできた凧は絡んだまま・・・。見事に凧が釣れた。
実はこれ、一度やってみたかったことなのだ。子供は結構糸を話してしまう。そういうとき、この方法があるな・・・と思っていたのだ。それにしても上手くいった。子供用の小凧だからできたことなので、次も出来るとは限らないけど。
 

 

 

夜、爪を切ると・・・ 2003/ 2/ 26

先日、会社での出来事である。
夕方の休み時間、というよりこの時期はもう真っ暗だから夜といったほうがよいかもしれない。ある人が爪を切り始めた。パチン、パチンという小気味良い音に周りの注意が引かれた。会社で爪を切る・・・まあ、余りほめられたことではないかもしれないが、休み時間であり、勤務時間外のことだから、それはまあ問題にするようなことではない。

だけど、周りから声が上がった・・・。
夜爪を切ると親の死に目に会えないよ〜
これは私も子供の頃からよく聞かされた。

私など、父親には何度か注意された。そのとき、父は本気で怒っていたと思う。当事者(?)の注意だから、これは聞かないわけにはいかない。
夜爪を切ると親の死に目には会えない・・・。これは、少なくとも富山や石川ではよく言われているようだ。では、守っているか? 少なくとも、このとき周りにいた連中は、承知の上で破っている人が少なくなかった。ある人は、いつも風呂上りに切っている、とのこと。これは爪が柔らかくなるから、納得できる。それ以外でも、多くの人が夜切っていた。
理由は? 朝はどうしてもあわただしいし、少なくとも私の会社では多くの人が夜遅くまで作業をしている。そうなると、休日を除けば会社か夜、切るしかない。これも時代の流れ、ということだろうか。

そういえば、実家では、”夜梅干を食べない”という習慣があった。以前は結構守られていた。もっとも、多少の抜け道もあり、自家製の梅干と一緒に入っている紫蘇の葉、これは梅干ではないからかまわなかった。 とはいってもそのためだろうか、この年になっても夜の梅干は好んでは食べない。だから、外食でも夜は梅干は残していたものだ。とはいえ、研修の夜食などでおにぎりが出たとき、これには大抵、梅干が入っているが、まさか梅干だけ残すわけにもいかないから、心苦しく思いながら食べていたものだ。

だけどこの前実家に帰ったとき、夜のおにぎりに梅干が入っていた・・・。母に”夜は梅干は食べないんじゃなかったっけ?” というと、笑いながら”そうも言ってたね・・・”なんて返されてしまった。

こういう習慣、いろいろあり、いわれはあるものと思う。うっとうしくはあるが、消えてゆくとどこか寂しい気もする。だけど・・・実家で夜爪を切ると・・・今でも父だけは怒るだろうな・・・・。

 

フロッピーディスクも終り ? 2003/ 2/19

あるPCメーカがフロッピーディスクの標準装備をやめる方向で進めるそうだ。他のメーカも含め、既に一部のノートPCではオプションの機種もあるが、これをデスクトップPCにも広めるそうだ。

フロッピーディスク、古くからPCを使っている人にはとても重要で高価な機器だった。媒体も高く、学生の頃はとても大切に使っていたものである。もっとも、すぐに低価格化が進んだが。今よりずっと大きい5.25インチが普通であり、業務用などでは更に大きい8インチのも普通に使われていた。アクセスも遅く、容量も少なかった。5.25インチでは普通は320Kバイトしか入らない。それでも、これでワープロだって動いていたのである。辞書もこの中に入っていて、変換キーを押すたびにフロッピーにアクセスにいったものである。ハードディスクはもちろん存在していたが、それは大型のコンピュータ用であり、PC用はなかった。この頃、フロッピーディスクは高速の補助記憶装置としての主役だったのである。

今はどうだろう、普段使っている人はかなり限られるのではないだろうか。これはある意味、仕方のないことである。フロッピーディスクの1.4Mに収まるデータ、今となってはかなり限られる。テキスト中心のデータのみ、と言っても良い。画像などが入るとすぐにオーバーしてしまう。音声や動画は到底入るものではない。
私の場合は? といえばこの1年で使ったのは多分、自宅で1回だけである。これは、他の人からワープロのデータを貰うのに使った。この場合、メールでデータを添付する方法がわからない、ということだったので手っ取り早くフロッピーディスクで貰ったのだ。最近は、会社内はもちろん、家庭内でもPC間のデータ交換はネットワークを使っている。そして、遠くの人へは主にメールなどに添付して送る。メールで送れないような大きなデータなら、CD-ROMに書き込む。また、私は使っていないが、フラッシュメモリのカードなどを使う人もいる。これはやや高価ではあるが早いし容量が大きい。

考えてみれば、フロッピーディスクでなければ、ということはもうほとんどない。PCへのインストール、以前はフロッピーディスクで起動する必要があったが、今では始めからCD-ROMで立ち上げられる。フロッピーディスクの必要性はもうほとんどなくなってしまった。もちろん、一部の人にとってはいまだに必需品だろう。容量が少なくて遅い、とはいっても、小さなデータを使うならこれでも十分である。3.5インチのフロッピーディスクなら、そのまま封筒に入れて郵送することもできる。定形郵便で送れるのでありがたい。利点は多いのだが、やはり限定的だろう。パソコンショップなどでも、フロッピーディスクは片隅に追いやられている。

フロッピーディスクの非標準化、使用頻度を考えれば、もっと早く行われても良かったとさえ思う。今ならUSB接続のフロッピーディスクもある。特殊な使い方は出来ないかもしれないが、普通にデータを交換するなら十分である。オプション化しても困ることはほとんどない・・・。考えてみれば自宅で使っているノートPC、実はフロッピーディスクはオプションだった。メーカ直販でのオプション価格は100円だったので買っておいたのだが、結局、一度も使っていない。フロップーディスクの非標準化。なくなるべくしてオプション化、というべきだろう。今はノートPCなどを除けば一部のメーカのみであるが、これを機会に一気にオプション化が進みそうな気がする。意外と長生きしたのは、メーカ側にもかっての全盛期に郷愁みたいなものがあったのだろうか? それとも、何か深い意味があるのだろうか? などとつい、思ってしまう。

フロッピーディスクも消える・・・。やはり寂しい感じもする。

 

テープの終焉 ? 2003/ 2/15

とうとう車にCDをつけることにした。今までは買ってきたCDをテープに落として車で聞いていたのだが、そのカセットデッキが不調なのだ。テープは車で聞くためだけになってしまっているので、今更修理したり買い換えたりするのは得策ではない。それよりも、車にCDを付けてしまった方が手っ取り早い。 テープだって安くはないのだから。
始めは単純にCDだけ追加するつもりでいた。その方が安い、と思ってのことである。だが、そういう製品は実はほとんどない。ディーラでは当然のごとく、”ステレオ全体を交換しては?”と薦められてしまった。これは想像していたことではある。というより、そういう方法もある、と思って自動車用品店を見て回ったあとだったのだ。実際、値段はそう高くない。もちろん高級品を選べばはるかに高くなるが、安いものでよい、といえばほとんど同じ価格まで下がってしまうのだ。だが、店頭で見るとやたらと派手な表示のものが多い。 音楽にあわせて表示がきらきらと光る、そんな表示ばかりである。私の場合、ただ音楽を聴きたいだけなのだからこんな派手な表示はいらない。それに、エアコンなどそのほかのスイッチ類が全て黒なのにステレオだけ銀だったり金だったりするとデザイン的に浮いてしまうような気がする。
それともう一つ。実は、今付いているラジオの操作に慣れてしまっているので変えたくないのだ。車のラジオは交通情報を聞くのにも使うし、よく聞くNHK、県が変わっても聞き続けたいのだが、そういうとき 、その県のNHKを探し出してそれを空きボタンにプリセットして・・・というのを長距離ドライブでは数回繰り返している。今のラジオなら慣れているのでそういう操作を手早く行えるのだが、これも変わってしまうと面倒である。ということもあって、単純にCDを追加することにした。そういう製品、ディーラにしかない・・・。 少々割高では有るが、デザイン的に違和感がないし、割高ではあっても支払う金額は安いのだからこれでよしとしよう。

さて、テープの話である。 録音用には、MDが広く使われているのか、テープ自体、余り売られていない状態になってしまった。売り場で目立つのはMDであり、カセットテープはその数分の一? と思える量になってしまった。以前は一般用から音楽用までかなりの種類があったのだが、今見かけるのは一般用に近いものだけである。長さを別にすれば選んで買う、というよりは有るものを買う、という状態になってしまった。
そして今、録画可能なDVDが売れているという。これは録画可能なDVDの価格が下がってきたことが大きな理由の一つだろう。年内には録画可能なDVDがVHSを上回るのでは? との見方もある。そうなると、家庭内の録画もDVDで、というのが一般的になるかもしれない。 DVDの利点、画質もそうだが、記録の大きさが小さいこともあり、この点でも便利そうだ。
家庭以外のテープでは? 実は、コンピュータの世界ではかなり使われていた。昔のテレビや映画でコンピュータが出てくると必ず(?)直径30cmはありそうな大きなリールでテープが小刻みに回っていたりしたものだ。パソコンでもテープは使用可能なのだが、サーバなどで定期的なバックアップなどを行う以外は余り使われていない。高価なテープを使うよりは別のディスクにバックアップする方が安くて早い、というのも理由の一つかもしれない。

磁気テープ、なんだか、先が見えてきたような気がする。特に家庭用では案外と早く、録画もDVDなどに置き換わるかもしれない。MDやDVD、これは円盤なのだが、これにはテープにない利点が多い。頭出しが早く巻き戻し不要、といった使い方の利点もあるし、構造が簡単という作る側の利点もある。テープでしか出来なかったことが記録密度を上げる事が出来るようになって円盤での記録が実現した、といったところだろうか。元々テープよりは構造が簡単だから量産されれば価格の低下も早い。そうなると便利さなどの魅力も大きい・・・。

テープの時代、いよいよ終わりが近くなったように思う。今はディスクの時代とでも言えばいいのだろうか。その次は・・・。半導体の時代かな?(価格的に実現するのか?)

余談: パソコンの初期、フロッピーディスクはものすごく高価で、プログラムはカセットテープに記録したものだった。何しろ、フロッピーディスクのドライブが30万円以上。その頃のPC本体の倍近かった。媒体ももちろん高く。1枚千円以上とかだった。カセットテープだと記録密度がものすごく低く、高々20Kバイトのプログラムを何分もかけて読み込んでいたりした。おまけにエラーが多く、何度も何度も繰り返すことも・・・。こういう経験のある人、ごく少数だろうな・・・。

 

絵の値段って? 2003/ 2/13

先日、オークションで有名画家の絵が6000万以上の高値で落札した。ご存知の方も少なくないと思うが、この絵、当初は作者不詳ということで1万円から競る予定だったそうだ。もし作者不詳のままだったら、いったいいくらになっただろうか? 国内の有名画家の所有だったから、そんなに安い値にはならなかっただろうけど、おそらく実際に落札した価格を大きく下回ったことだろう。まあ、これは想像するしかないのだが。

安値で落札されようが高値がつこうが、言うまでもなく、絵は同じものである。違いは作者が有名画家と分かっているか、不詳であるか、だけである。それだけの違いで価格に大差が付く。しつこいようだが絵は同じである。なんとなく、釈然としないものを感じてしまった。
もちろん、価格に差が付くのは理屈としては理解できる。有名画家であれば買いたい人は沢山いるのだから価格が上がるのは当然である。また、たとえば私の家に絵が飾ってあるとして、それが誰でも知っている有名な画家の作品だったらどうだろう? 作者 不詳だったら”良い絵だね”で終わるかもしれない。それが、有名画家の絵だったら、それをお客に自慢する”、という付加価値(?)が生じる。だから、作者によって価格が変わるのはある意味当然である。

しかし・・・何度も繰り返すが、絵としては同じである。絵のよさとはちょっと離れたところで値が決まっているような気がしてしまう。
だが、これはある意味では、商品と同じかもしれない。高価なブランド品を求める、高価な輸入自動車を求める。もちろん、ここにあげた品物は比較的安い普通の品と同じではない。価値は高い。
だけど、本当にその違いを理解し、価値を感じで買っている人はそう多くないような気もする。
どこか似ている、と言ってしまうのは乱暴だろうか?

さて、絵に戻ろう。この絵、もし作者不詳のままオークションに掛けられ、お客の中の何人かが絵を見抜いていたら・・・。やはり数千万まで上がっただろうか? もしそうなったら・・・ただ作者不詳の絵としか見ていない人の反応、面白かっただろうな・・・

 

腕時計 2003/7/27

家の外などで時間を知りたいとき、何を使いますか?

多分、多くの人は腕時計を使うと思う。少なくとも今までは・・・。もちろん中には懐中時計、という人もいるかもしれない。
しかし、最近は腕時計を使う人が減ってきているらしい。時間を知る必要、これはもちろんある。その場合は携帯電話を時計代わりにするようだ。確かに携帯電話には時計の機能が付いている。だから十分、時計の代用にはなる。ポケットから出す、といった手間はあるかもしれないが、腕時計だって袖に隠れていたりする。手間から言えば大差ないのかもしれない。

では私は? まだ(?)腕時計を使っている。時刻を知るだけなら携帯電話でもよいのだが、時間の正確さでは時計の方がより正確だし、見やすい。アナログに慣れている、ということもある。それに、腕時計は防水が利いているので多少の雨の中でも安心できる。
とはいえ、時刻を知るだけなら携帯電話でも十分だと思う。それに、真っ暗のところでも見える、という利点もある。腕時計でなくては、という理由は少ない。携帯電話で代用、という人が増えるのも納得できる。

携帯電話を時計代わりに・・・。
実用面ではこれで十分である。だけどちょっと寂しい。私が子供の頃、腕時計、というのは大人になった印みたいなイメージがあった。私の場合、小学生の頃はもちろん、中学生でも腕時計は持っていなかった。ようやく持てたのは、高校の受験の前に叔父から貰ったものであった。その頃、腕時計は高校になってから、というのが暗黙の決まりごとみたいな感じであった。腕時計は当然、高価な品であり、簡単に買えるものではなかったのだが、仮に買えるような家であっても、子供に 買う、ということは無かった。腕時計を持たせる・・・。通過儀礼というほど大げさなものではなかったが、腕時計を持つ、というのは成長の証みたいなイメージがあった。だから、価格のことは別にしても、子供に持たせる、と考えはしなかったのだとおもう。もっとも、田舎のこと、正確な時刻を知る必要はあまりなかったから、かもしれない。

成長儀礼的な品物・・・。私としては、今でも腕時計はそういうものだと思っている。
成長してからでないと持てないもの・・・。
腕時計のほかには、万年筆もそうだろうか? 背広もそうかもしれない。でも、やはり腕時計が一番大きく感じる。
だけど、 腕時計・・・。今は子供向けのものもある。
私のように特別な意味合いを感じる人、少なくなったのだろうな・・・

親指での操作 2002/ 11/16

管理的な仕事が増えてくるとどうしても電卓を叩くことも増えてくる。電卓、以前は16進数などを扱っていたからそのとき買った電卓、いわゆる関数電卓を今も使っている。16進数などの計算、今も必要ではあるのだが、ほとんどなくなってきた。で、その代わりに増えているのが、人数であり、作業時間であり、・・・。つまりは普通の電卓のほうがよくなってきた。更に言うなら、キーの大きな事務用の方がなお良い。とはいえ、複雑な計算なるとパソコンで表計算のソフトを使うことが多いから、まあ今までの電卓で足りている。

しかし、最近妙に操作が遅く、計算ミスが増えたな、と思った。年のせい? いやいや、キーボードの方はそんなに誤入力が増えたとは感じないから、そんなことはないようだ。で、ふと気がついたのは、親指で入力していることがある、ということである。今までは電卓はテーブルに置くか手に持って人差し指で押していた。右手/左手両方で操作することがあるが、指は同じだった。だけど、最近は片手だけで操作しているのである。片手で電卓持つとすると、操作できる指は ただ一つ、親指である。もう気が付かれたことだろう。これは携帯電話の操作である。携帯電話は片手で操作することを前提に設計されている。当然、押す指は親指である。

親指は一番大切な指の一つであり、左右に大きく動かしやすい指でもある。そういう意味ではキーを押すには都合がわるいわけではない。しかし、操作の速さや正確さから言えば、やはり人差し指のほうが良い。親指で電卓を押せば正確さや速さで劣るのは当然である。少なくとも私には・・・。

ところで親指で操作する、これはやはり携帯電話の影響であろう。私は携帯電話でメールを打つなんてとてつもなく面倒なこと、と思っているが一部の人はものすごい速さで打つという。中には携帯電話の方が追いつかない、なんて人もいるようだ。(もともとそんなに早い操作を想定していないから当然か) そうすると、次の世代の人は親指を使うのが当たり前になっているかもしれない。中には人差し指よりも正確で早いとか・・・。まあ、そうなると、手の形も変わってくるかもしれない、なんて思ってしまう。

これとは関係ないが、家庭用のゲーム用コンピュータ、操作する十字型のボタン、これはなぜか左手で操作することになっている。このボタン、微妙な操作がいるから、利き手である右での操作が自然だと思う。でもなぜ?
実は、当時のコンピュータでは、右手で操作すると機械のほうが追いつかなかったそうだ。だから利き手ではない人が多い、左にすると手の方が鈍くて丁度良かったとか。
ひょっとして、初期の携帯電話もそれを見込んで、人差し指よりも不器用な親指で操作しやすい形になったのだろうか?

考えすぎかな?

最初のxx 2002/ 11/3

あるWebの日記に、お子さんのファーストシューズについて書かれているのを見た。ファーストシューズ、これは最初の靴のことだろう。ある意味ではとても思い出深いものだ と思う。しかし、私の場合、多分残ってはいないだろう。まあ、それでも仕方のないものであるが・・・。
最初のxx。これは、ものによっては人生の節目と重なるものもある。節目、ではなくとも、何かのきっかけになったりして、思い出深いものも結構あるだろう。他人にとってはただの古いxxであっても、本人にとっては大切なものであることが少なくないと思う。

さて、靴はないとして、私にとっての最初のxx。何か残っているだろうか? もちろん思い出深いもので、となるのだが、思い出してみるとほとんど残っていないことに気がついた。
たとえば・・・

 腕時計 ・・・ 高校に入る前に叔父から貰った。
         ある意味、中古であるが、スイス製でとても正確だった。
         大学に入って間もないころに動かなくなってしまった。その後は不明・・・。

 車   ・・・ 最初に運転した(教習所のを除く)のは父の車だった。
         もちろん、廃車になってしまっている。

 パソコン・・・ 大学の時に手に入れた。8bit処理で今から見れば処理能力はほとんど0? 
         それでも、これで作ったプログラムやCGで作った画像が雑誌に載ったりした。
         さすがに引き取り手もなく、実家にしまいこんであったが、最近処分された。

 カメラ ・・・ 最初に使った父のものはなくなってしまった。
         自分で本式につかった最初のものは今も手元にある。使用回数は少ないものの現役。

 ネクタイ・・・ お古ではない最初のものは、海老茶色のもの。
         学生の頃は事実上これ1本しかなかったから、会社訪問など大切なときに使ったはず。
         残念ながら行方不明。

 万年筆 ・・・ 字は下手であるが、意外と早く、小学生の頃に最初の万年筆を持っていた。
         だからだろうか? 万年筆を使うことに抵抗もなく、手紙などに結構使ったりした。
         だが、肝心の最初の万年筆は行方不明である。

なんのことはない、最初のxx。思いで深いはずのものでさえ、残っているものは少ないのである。車みたいに大きなもの、維持にお金のかかるものは仕方ないとして、腕時計などさえ行方不明なのはある意味、残念である。とはいえ、仕方ない、という面もある。私の場合、生活の中心が実家から何度も引っ越している。大切だと思っているのだが、意図して残し、管理してないと先ず無理だろう。

それでも、一つだけ自慢できるものがある。
ちゃんと残してある最初のxx。
それは”給料”である。入社して最初のものではなく、最初のアルバイトのときのものある。お駄賃みたいなものとはちがい、正式に契約し、働き、貰った賃金である。さすがにお札は使ってしまったが、100円玉は残してある。そして、明細と共にファイルに入れてある。そのファイルがどこにあるか、これは探さないとわからないが、捨ててはない。つい最近見つけ、ファイルのためか、明細書の複写紙のためか、硬貨の表面がかなり曇っていたのを見ている。

これ・・・いっそのこと息子に最初のお小遣いとしてあげようかな? 思いで深い最初の小遣いとして残してくれるだろうか? まあ、無理だろう。多分、すぐに使われてしまって手元に残らない可能性のほうが高い。

ところで皆さんの最初のxx。残ってますか?

 

おまけ: 最初の女房・・・。これはもちろん残っているが、だんだん形が変わってきている・・・。
 

カーナビ談義 2002/10/14

最近はカーナビも普及してきた。長距離を走る人などはかなりの人が付けているように思う。私の趣味である凧、この仲間は、各地の大会に出かけることが多いからか、普通の人よりも使っている人が多いように思う。私の車にはカーナビはないが、ノートPCにGPS受信機とカーナビソフトを入れてカーナビとして使っている。 カーナビの価格、だんだん安くなっていることだし、メーカ純正のデザインのよさも気になるので、次の新車の購入時には私も付けそうな気がする。できればノートPCと接続できるようなものが出てくればいいのだが。

さて先日、酒の席でカーナビの話になった。初めは比較的まじめな話だった。カーナビで意外な近道を見つけたとか、DVDとCDの記憶容量の違いだとか、四国に行って使おうとしたら四国地方のCD−ROM だけ忘れてきてた、とか、うちのは○○の機能がないが、そのことを息子に話したら"安いのを買うからだ"と言われた・・・とか。あるいは、目的地に向かって高速道路を走っていたら、いきなり"目的地です。案内を終了します。”なんていわれて途方にくれた みたいな話も合った。目的地のかなり手前で"目的地付近です"なって言ってうちきってしまうのはなぜ?
あるいは、何度も通いなれた道なのにわざわざカーナビを動かすのはどうして? といった利用法(?)の話にもなった。

だが、仲間内で酒も回ってのこと。話がどんどんずれてきた。
うちのカーナビは(声が)若いがしつこくて機転が利かない。一度(指定の)道を外れると”もとのルートに戻ってください”としつこくしつこく何度も何度も言う。
行きたい道と違う道をしつこく案内するものだから、”(カーナビに対して)うるさい”なんて怒鳴って女房にあきれられた。
うちのカーナビは(声が)年増で執念深い、案内がしつこいので電源を切ったのに主要な交差点が近くなるといつの間にか電源が入って道案内をする。交差点を通り過ぎるとすぐに切れるけど、またいつの間にか電源が入って道案内をする・・・。

中には使い手の問題もあると思うのだが、いつの間にかどんどん本筋からはずれてしまった。これも普段からカーナビを無視して突っ走っているからだろうか? ちなみにうちのPCカーナビ。このときの談義の面々に言わせると、
”22,3歳では?”とのこと。議論の中では若く、機転も利いて比較的親切なようだ。

(この話には、多少の?誇張が含まれております)

 

右警戒左見張れ 2002/ 10/9

先日、通勤帰りに片側2車線の道路で左側の車線を走っていたときのことである。数台前に相当遅い車がいた。制限時速が50Km/hのところを、30Km/h程度で走っている。路線バスでさえ追い越しを行う位の遅さである。すぐに先がつかえてしまったが、右側車線も車が結構走っているので、タイミングが難しい。空いたところで右に車線変更したところ、右側車線ですぐ前を走っている車がほぼ同時に、逆に右車線から左に車線変更した。 左車線、先がつかえているので遅く、車線変更の途中でブレーキを掛けられてしまった。すぐ後の私は、そのままでは追突するので、即座にブレーキを掛けたが、急ブレーキのちょっと手前程度の強めのブレーキだった。後続車への余裕があまりない状況だったのでブレーキ のタイミングを抑え、車間ぎりぎりまで詰めてお互いに車線変更を終えた。

なぜ右を行く車が車線変更をしたのか? それは、右車線に道路外に出ようとする車がいたからである。私も車線変更直後気が付いたが、ここであわてて左に戻ると非常に危険なのでゆっくりと止まり、気を落ち着かせる意味で左側の車が完全に切れるのを待って車線変更をした。

この出来事、事故ではないが、事故の手前の危険な状態であった。日本語には適当な単語が思い浮かばないが、英語のincident(インシデント)が一番近いだろう。この状態を反省するとすれば、私と、同時に車線変更をしようとした車 、双方が相手の車線の先を把握していなかったことにある。私の場合、右車線に停車中の車がいるとすれば車線変更しなかったと思うし、相手の車も先にも非常に遅い車がいると知っていたら、あのタイミングで車線変更は行わなかっただろう。

さて、題名の言葉を紹介しよう。これは旧海軍で言われた言葉だそうだ。右警戒左見張れ。もちろん右左は逆の場合もある。この意味であるが、たとえば”右に潜水艦の潜望鏡らしいものが見えた!”とすると、見張りの注意が右方向ばかりに向いてしまい、左への注意がおろそかになってそちらにいる敵を見逃してしまうことを防ぐために出される命令 、とのことだ。
最初に書いたincidentの状況、まさにこの通りである。お互いに自分の車線と車線変更のタイミングばかりに気が向き、反対車線の前方への注意がおろそかになっていたのである。これ以外でも似たような状況は無数にあるだろう。たとえば細い道で右に遊んでいる子供がいる。いつ飛び出すかわからない・・・。つい、右にばかり気をとられ、左から飛び出してきた自転車にぶつかってしまった。また、何かを考えているとき、それにばっかり集中してしまい、別のことに注意が行かなくなる。これもまた、良くあることである。

集中力。これが大切なことは言うまでもない。しかし、ひとつに集中せず逆に広い範囲に注意を向けること。これが大切な状況もある。それを改めて認識した。

 

痛い話・・・ 2002/9/24

初秋の三連休。それもまあまあの天候、となれば格好の行楽日和。凧揚げにも最適、となるのだが、この連休はひどい目にあった。連休直前の朝、腹部の痛みと共に血尿が出た。この痛みと症状、間違いなく尿管結石によるものである。何度も通院しているので間違いはない。この病気、簡単に言えば腎臓で作った尿が何かの理由で固まって石になり、どこかに引っかかって悪さをする、ということである。尿はその成分から石になりやすい。水洗トイレなどでも上手く流さないと石みたいに固まってしまうそうだ。この石、体質にもよるのだが、結構多くの人が持っているそうだ。ただ、 しらないうちに出てしまうことも少なくないため、病気に気が付かない人も結構いる。
それはさておき、土曜の早朝にも結構痛んだものだから、これは念のため様子を見ておかなければ・・・。と思って通院したが、その後も痛みは続いた。月曜日はまあまあの調子だったが午後から出社〜。結局、連休はたいしたことはできなかった。インターネットを見るくらいのことはできてもたいしたことは書けない・・・。そんな感じで過ごした。なんだかとってももったいないような気がする。

さて、この病気で痛いとき、というのは石がどこかに引っかかったときである。石が引っかかって怪我みたいになったり、あるいは出口を塞いでしまうのが痛みの原因である。これ、考えてみれば実に厄介である。普通の病気は、 たとえば細菌などが原因だから医者に行けばその対応が取れる。細菌を抑えるなり、炎症を抑えるなりの対応が可能である。だが、石の場合は? これは怪我など同じで、針を刺しているのと似たようなものである。では石を取れば? といっても簡単ではない。もちろん、これがものすごく大きな石だったら、それは緊急手術である。開腹するか内視鏡と使うか、いずれにしてもすぐに取り出さなくてはならない。今なら超音波などで砕くこともできる。でも、小さな石だったら? これは出てくるのを待つ、となる。出やすくするために水分を多めに取ったり、運動をしたり、となる。病気なのに運動? と思われるかもしれないが、体自体は健康なのだから運動しても問題はない。

だけど、これを言い換えれば”治療することがない”と同じである。もちろん、多少石が出やすくなる薬はある。が、そんなに効果はないようだ。尿管はただのホースであって、腸みたいに中身を押し出す力はないのだから。そして、痛み出した時点で節制しようが何しようが石には変わりはない。結局、痛み止めで我慢し、耐えるしかない。ある意味、医者がこんなに頼りにならなく見える病気もないかもしれない。なにしろ、痛みは病気の中では最大級なのだから。
でも、逆に言えば、○○をしてはいけない、ということも少ない病気である。痛むだけなら、体は健康な状態と変わりはない。 だから、お酒を飲んだって変わりはない。(とはいえ、薬との関係もあるので私は飲まない)もっとも、出口が詰まっているときに利尿効果のあるビールを飲んだりすると余計苦しくなってしまうが・・・。

石、結構多くの人にできるそうだ。たまにちょっと大きいのがでても全然気が付かなかったりする。
尿のようす、たまには見てみてください。色で結構異常が分かりますから。それに、石が混じっているかも?

 

自己中心? 2002/9/16

敬老の日を挟んだ三連休、富山県の高岡から延びるJR氷見線で蒸気機関車が走った。私は鉄道好きではあるが、こういうイベントになると、ちょっと気が引けてしまい、わざわざ乗りに行く、という ことはしていなかった。が、今回は子供が蒸気機関車を見たい、ということもあり、出かけてきた。
氷見線の見所といえば、やはり海岸沿いを走る場所なのだろうが、蒸気機関車を見るだけならそんなところまで行く必要もない。町外れの田んぼの中で十分である。そんな場所なら、写真撮影に命をかけている(?)ような人と会わずに済む。鉄道写真を撮る人たちの一部は、関係のない人間が写りこむのを異常なほど嫌うという。乗客どころか、鉄道関係の職員にも"ドケ"といった人がいる、なんてうわさを聞いたことがあるくらいだ。
ちょっと話がずれたが、私の見に行った場所は、田んぼの中で背景に住宅があるような場所である。だから、”鉄道写真家”は多分来ないような場所である。

さて、その場所にはおおよそ30分前には着いた。さすがに誰もいない。田んぼで農作業をしている人が見えるだけである。が、その直後にぽつぽつと人が増え始め、列車が着くころには結構な人になっていた。私の立っている場所は線路脇の田んぼのあぜ。私が写りこむだろうな・・・と思う位置にも人が立ち始めた。しかもカメラを持って。でも、偶然後から私の弟が娘と一緒に見に来たのだが、既にいる人の前に立っても誰も何も言わない。カメラを持っているからには写真を撮るのだろうけど、記念写真程度の感覚なのだろう。これが鉄道写真家だったら、罵声が飛ぶかもしれない。まあ周りを見渡しても私みたいに一眼レフを持っている人は1人だけ。 その人も記念写真的な感覚のようだ。人が写りこむことも気にならないのだろう。

お目当ての蒸気機関車、これはいつの間にかすぐそばに来ていた。街の中なので煙を抑えるような運転をしていたのだろう。全然見えなかった。と、そのとき、線路脇に立っていた青年が線路の真ん中に立って写し始めた。機関士はもちろん、警笛を鳴らしているが、しばらくは動かなかった。危険な距離になる前には退いたのだが、あまりに非常識な行為であった。
鉄道の写真やビデオで、一直線に伸びる線路の真ん中から列車が向かってくるのを良く見る。このイメージがあったのかもしれない。だが、これらの撮影はもちろん線路外から行っている。撮影場所の手前で線路がカーブしている場所を選び、望遠レンズを使っているから列車がぶつかりそうなくらい近くで写しているように見えるのである。そういう知識のない人が線路内で撮影し、列車が急停止した、というのを雑誌で見たことを後で思い出した。今回の列車、かなりスピードを落としていたようだ。だから危険はなかったのだが、北陸本線の特急列車のように120Km/h(あるいはそれ以上)の列車で同じことをしたら、多分急停止をしたことだろう。 あるいは、減速が間に合わずに事故になっているだろう。あまりにも自己中心的な行為だな、なんて感じた。

それはそれとして、久しぶりに営業線を走る蒸気機関車を見た。今回の蒸気機関車は本線用の大型ではなく、C-56。どちらかといえば小型の機関車である。それでも、走ってくる機関車はなかなか良いものだと思った。小型機関車とはいえ、大きな動輪が回っているのは電車などとは全然違う。 また見たいな、なんて思うし、乗ってみたい、とも思った。海外では、蒸気機関車を保存して走らせている団体があるそうだ。そこには多くの会員が所属し、寄付をし、労働を提供している。日本でものその動きはあるが、まだ小さい。そういう活動にもっと協力したいな、と感じた。まずは金銭面からの応援になると思うが・・・。

さてさて、今思えば件の青年の写真、撮っておけばよかったかな? なんて思う。今回、蒸気機関車を見に来た人が幾重にも立っている写真、これも何枚も写している。これが現在の蒸気機関車運転の風景である。命がけで写す人もいる・・・。それも一種の風物だと思う。


 

映画、どこで見ますか? 2002/8/12

先週末から映画を続けて見た。いずれも比較的空いている時間でもあり、席はだいたい希望通り座れる程度の混み具合だった。とすれば、皆さんはどのあたりの席で見ますか?  選ぶ、といっても左右は特別の事情がない限り右端や左端で見たいと思う人はいないだろう。だから、選ぶとすれば前か後か、ということになる。
映画館で見ていると、どちらかというと後の席を好む人が多いように感じる。一番前に座る人はまずいないが、一番後ろの席は結構いる。席の埋まり具合を見るとやや後、あるいは真ん中までが多いようだ。

さて私は? といえば、これはもう、前方である。前の席は疲れる、なんて人もいるようだが、せっかくの大画面である。その大画面がより大きく見える、前で見たほうが映画らしいと思う。遠くで小さくなった画面を見るのなら、ビデオをテレビでやや近めで見るのと大差ない、とつい思ってしまう。

映画の大画面、というとまず思い出すのは、”テアトル東京”、という映画館である。東京の銀座にあった大映画館で、今はもうないが非常に大きな映画館だった。 残念ながらもう20年近く前に閉鎖されたのだが、いまだに映画好きには名前が出る映画館である。今はその跡にホテルが建ち、同じ建物の中に映画館が2館くらいできている。席数はどのくらいだったのだろうか? ちょっと 調べて見ると2000席程度?という記述があった。インターネットのことだから正確かどうかはわからない。ただ、1000席程度の大映画館 が小さく感じてしまうくらいだから相当な数の席があることは間違いない。2階席だけで普通の映画館より大きいのだから。当然、スクリーンも非常に大きい。ここのスクリーンは、実は 平面ではなく、客席を囲むようにカーブしている。つまり、円筒形になっているのだ。そしてその幅、20m以上だったらしい。
この映画館の特等席。それはやはり最前列である。スクリーンが円筒形なので、最前列では真横より後までスクリーンが続くように感じる。当然、首をまわさないと全てを見ることができない。 というより、振り向くような感じにさえなる。これはもう完全に映画の中に入ってしまったような感じになる。これは、普通のスクリーンの、他の映画館では絶対に見ることはできない。だから、最前列はいつも満席である。私はちょっと下がって4、5列目程度で見ていたが、ここでもかなりの画面になる。上下方向でさえ、めがねで見える範囲を超えてしまっているし、左右も 、真横までとはいえないが視野を越えている。当然、首を上下左右に振りながら映画を見る、という感じにある。字幕は真ん中の下方、一番下よりやや上にあるが、たとえば人が2人向かい合って話している場面 の場合、左右そして中央と、テニスの試合を見るように首を振ることになる。まあ、さすがに疲れるかもしれないが、その迫力は最近のテーマパークなどで見る立体映像に負けないくらいである。そういえば、スターウォーズ帝国の逆襲で、氷原を低い高度で飛ぶ場面があったが、こういう画面では、つい体を動かしてバランスを取ろうとしてしま った。それだけ画面が大きい、ということだろう。

最近はシネコンばやりで、スクリーンは小さめになってしまっている。大劇場を作るよりも小さなのをいくつも作り、人気の映画は2箇所3箇所でちょっと時間をずらして上映すればよい、という感じになってしまっている。営業的にはその方がずーっと良いし、見る側にとっても利点は大きい。ただ、以前のように首をまわして画面を追いかけるような贅沢はもうできなくなってしまった。それでも、テレビに比べるとはるかに大きな画面である。折角の大画面、なるべく前で楽しんではいかがだろうか?

 

夕焼け空

  2002/ 6/ 30

梅雨時ではあるが、ここしばらく夕焼けを良く見た。この時期、空気が湿っていつからだろうか、秋のような夕焼けとは違う。夕焼け雲といった方が正しいだろう。

先日の群青に続いて色の話になるが、この夕焼け雲の色、これまた見事な色である。この色、どのように表現されているのだろうか? と辞書を引いてみた。といっても、小型の辞書を使ってのことである。ひょっとしたら、”夕焼け色”に相当する色の名前があるのかもしれない、と思って赤に近い色の名前を調べてみたのだが、そのなかには夕焼けが語源と思われる色はなかった。もっとも、そんなに時間をかけて調べたわけではないからどこかにそんな色の名前があるのかも知れない。でも・・・。同じ夕焼けでも条件によってずいぶん違うから、ひとつの名前で言うのは難しいのかもしれない。ここ数日見ている夕焼け雲の色、これはワインレッドに近い。赤ワインの色を鮮やかにした、そんな感じである。あまり黄色みがかった感じがしない色だった。
文字がだめならせめてここの文字をそれに近い色に・・・。と思ったがやはり無理だ。全然思った色にならない。ディスプレイで表現できる色の範囲に限りがあるからかもしれない。

色の名前、といえば、以前東京駅の地下通路に色と色の名前が書かれていた。灰色に相当する色であるが、10種類近く書かれていたと思う。残念ながらあまり覚えていないが、”利休鼠”という色の名前だけは覚えている。色名前の豊かさ、これは立派な文化だと思う。日本には、緑に相当する色の名前がとりわけ豊富だと言う。残念なことに、知っている人はかなり限られてしまっているようだ。色の名前、大切にしたいと思う・・・。

 

京の水

  2002/ 6/ 23

NHKの番組で、京都の地下水を取り上げたのがあった。京都は盆地であるが、その下には水を通しにくい、厚い岩盤があり、それが底になって大量の地下水が蓄えられているそうだ。その水量は、琵琶湖の水量に匹敵すると言う。その水は 一部は泉となって街中を流れ、また井戸として活用されてきた。この大量の水が、平安以降、都として京都を支えてきたと言う。
だけど、京都の水道は琵琶湖からの水を水源としてる、ということもあり、水が豊富、といったイメージはなかった。夏は暑い、といったこともあるかもしれない。だけど、それは京にあまり縁のない私の単なる思い込みだったようだ。言われて見れば、京都の地名には水に関連するものもある。御池通りや堀川通りもそのひとつである。有名な清水、これも”しみず”そのものである。それに、京の都の西側は湿地が多かったと何かで聞いたこともある。そして、”友禅”は糊を流したりするのに大量の水を必要とする。お寺などには池が多数あるし、街中で小川の流れも見ていることを思い出した。これは水が豊富でないとできないことである。こう考えてみれば、京の都に水が豊かであることは明らかなのだ。思い込みとはいえ、これはちょっと情けないことであった。

私の住む金沢。ここは小京都、などとも言われ、街中は水が豊富である。兼六園を初め、武家屋敷跡の庭には池があり、水があふれている。そして、あちこちに水が流れている。しかし、これは犀川などの水を引き込んだ用水である。金沢は町自体、川から見ると一段高いところにある。だけど、川の上流から引き込んだ水を 、水路を作って流すことで街中は水にあふれているのである。用水はいく筋もあり、網の目のようになって流れている。なにげない小川にみえる川、ほとんど全てが用水なのだ。金沢は、作られた水の町、ともいえる。これに対し、京都は町自体がもともと水にあふれているのだがら本質的に全然違う、ということか。

しかし、その京の水も減少気味だそうだ。地下の深いところに多くの水があることには変わりはないのだろうが、浅い井戸などはどんどん水位が下がってきていると言う。これは、川の護岸や道路の舗装、都市化、地下鉄などの工事の影響がある らしい。生活するだけなら、水道で十分なのだろう。でも、1000年もの間都を支えてきた水が減る、ということはいろんな面で影響があるだろう。特に京の文化を支えてきたとも思える水のことだけに大いに気になる。

 

群青

2002/ 6/15

日、ラジオを聴いていると”青”の色の話になった。それが進んで群青の話に代わった。”ぐんじょう”、よく見る色ではあるが、普通の生活では色の名前はあまり言わない。青の仲間に入れてしまっていたりする。でも、色の名前は小学校の頃から知っていた。絵の具のセットに入っていて覚えていた、というそれだけのことである。でも、青ほどの明るさはなく、さりとて黒ほどの寂しさもなく、そしてまた紺ともちがう、とても落ち着いた色で好きな色だった。なぜ”ぐんじょう?”などと思いはしたが、それで終わってしまっていた。

さて、この群青、手元の簡単な辞書ではあざやかな藍色、となっている。でも、本当の群青色は〜、ということでラジオの中で説明してくれたのは、
”晴天の日に太陽が完全に沈んでから2分後ぐらいの空の色”
ということだった。これより遅くなるともう、夜の闇になってしまう。この時間が微妙なところだろう。この時間、日本語ではたそがれ、であるが英語では”twilight”になる。ここにはこの世とあの世の境目の意味もある。つまり、昼の光の世界と夜の闇の世界との境目でもあるのだ。人が文明を持つ前、この闇は野生の肉食動物の活躍する魔の時間だったことだろう。そんな怖さが祖先の記憶として受け継がれている中での、昼の最後の色の美しさ。それが”群青”なのだろう。

これを書いていて、夏の北海道の平原で夕日を思い出した。地平線に赤い太陽が沈むとき、空は青から黒に変わりかけているのに西にはオレンジ色が残っていて、その色の移り変わりがすばらしかった。その夜の星空、限りなく深い黒の中に星が瞬きもせずに輝いていた。それだけ空気が美しかったと言うことだろう。今思えば、そのとき夕日の群青が最高の色だったのかもしれない。

色の表現の豊かさ。これはすばらしいことだと思う。そして、奥の深さを再認識した。それと同時に、”群青”の美しさ秘密、これが分かったような気がした。今度の晴れた日・・・。群青を眺めたいと思う。

俺が仕切る!

2002/ 6/1

昨日、久しぶりに映画を見に行った。あさま山荘の事件を扱ったものである。この映画、扱っている題材の割には笑えるようなところもあり、銃で狙われることの怖さなどと合わせてなかなかいい映画だな、なんて思ったりもした。

見ていて感じたのは、現場指揮の難しさである。現地の警察と警察庁との間の争い、現場と上層部との食い違い、銃器使用の制限・・・。いろんな難しさが見て取れた。まあ、これは映画だから実際のところはどうだったのか、これは分からないが、現地で人を動かすことの難しさは相当なものだったことだろう。この場合、人の命がかかっているのだからなおさらである。
人の動き、ということに関してはきちんと指揮が取れている場合といない場合とでは、部隊としての能力は天と地ほど違うことだろう。指揮が適切であれば言うことはないのだが、仮に少々不適当であったとしても、 それなりに指揮が取れているならばかなりの能力を発揮することができるだろう。たとえば綱引き。みんながばらばらに引いていたのでは全然力にならない。でも、一斉に力を集中して引けば、引くべきときとタイミングがちょっとずれていたとしてもかなりの効果があるだろう。
実は今日、内灘に凧を揚げに行ったのだが、そこで砂に埋もれていた車を2台、押し出した。まだ埋まって間もない状態だったので数人で押せば足りる状態だった。とはいえ、軽いものではないからばらばらに押したのではだめである。数人の寄せ集めだったので、一番運転席に近い私がタイミングを指示した。 たったこれだけのことで重い車が軽く脱出できた。仕切る、といえば大げさだが、これだけのことでずいぶんと違うものだな、と感心した。以前、まとまりのない状態で押したときは相当苦労したことを思い出したりもした。

仕切る、あるいは指揮を取る、大切なことではあるが、なかにはやたらと仕切りたがる人もいる。仕切る、というのは上手くいけば気持ちがいいものだが、時には願い下げにしたいこともあるのが難しいところである。鍋奉行もその一人


 

ブランドの魅力 2002/ 5/18

日頃、商品の良し悪しを判断するのに、”ブランド”に頼りたくない、と思っている。とはいえ、ブランドを軽く見ているわけではない。多くのブランドは、ブランドのイメージを維持するために品質の管理に努力を重ねている。だから、多くのブランド品は材料も工程も管理されているから、品物はよいと思う。ただ、ブランドに頼った品物選びをしたくない、ということである。

先日、銀座の洋品店でネクタイを探した。ここは小さな店ではあるが、私の好みのネクタイが揃っているし、組み合わせる服をいえば的確なアドバイスをしてくれるので、何度も行きたくなる店である。私の好みは? というと比較的シンプルなもの、である。派手さがないなかにさりげなく地模様などが入っている、そんなのがいいな、などと思う。そのあたりの好みを伝えると何種類か出してくれ、上着に合わせながら探す。すると、なかなか良いのがあった。 でも、ちょっと迷ったように見えたのだろうか? 店の人がさりげなくブランドを教えてくれた。”ボルサリーノですよ”と。

ボルサリーノ。今まで買えるとは思ってもいなかったブランドだった。ボルサリーノといえば帽子。代表的なフェルトの帽子は数万円はする。一度写真で見て、いいな、とは思っていたものの、とても買えるものではない。私には、そういうブランドだった。それが買えるとは・・・。(そもそもネクタイを出してるなんて 知らなかった) ちょっと補足しておくと、この店のネクタイ、決して安くはないが高くても1万円台前半までの品ばかりなのである。ほかの有名ブランドのように、2万円3万円なんてネクタイはない。だから、 この店でネクタイを選ぶときには値段を全然気にしない。気に入ったけど高くて買えない、なんて心配はないのである。 だから、値段は聞かないし、確かめもしない。その意味でもありがたいお店である。

さて、 ネクタイ選びに戻ろう。改めてネクタイを見てみると、つくりは丁寧である。柄も気に入っていたところへブランド力の後押しがあり、買い求めた。雑談で、帽子のことを聞いてみると、ボルサリーノの帽子は素材によってはかなり安く買えるのだそうだ。布のものならそう高くはない 、とのこと。ただ、ここには形が1種類しかなく、気に入ったものではなかったが。

後日、別の用事で金沢のデパートを見ると、ボルサリーノの帽子がおいてあった。やはりボルサリーノの帽子、気になっていたのである。見ると麻の繊維を使ったものが約3万円だった。やはりこのくらいはするだろうな・・・と思ってみてみると、綿と麻の混紡 、布でできたものなら買えない値段ではない。そこで見た3万円のもの、これは例えば麻のスーツなどと組み合わせたい帽子だから、魅力はあっても使う機会は少ない。でも、布のものなら凧を揚げるときににも使える。そうおもって探すと似たような形でほかのブランドもある。が、よく見かけるブランドではあるが、見比べるとどうしても見劣りしてしまう。その分値段も安いのだが。やはり帽子のブランドとしてのボルサリーノは別格なのかもしれない。結局、買ったのはやはりボルサリーノのものだった。確かに物は良い。だが、この帽子に限っては、どうもブランド名に負けてしまったような気がしないでもない。

しかし、麻のスーツを着込んでボルサリーノの帽子をかぶり、小粋なステッキを持って出かける・・・。これはいずれはやってみたいものだ。あとせめて15年位したら、のことだけど。

トランシーバー 2002/4/11

トランシーバ、というと私たちの世代では、子供のころにのあこがれていた玩具の中のひとつだったと思う。携帯電話もない頃だし、使い道は結構あるとおもうが、そこは玩具。通話できるのは街中だと100m程度になってしまう。 大きな声なら直接聞こえてしまうような距離だ。それでも、結構楽しんでいたと思う。
大きさは大人の手のひらぐらいだろうか? アンテナが結構長く、伸ばすと1mくらいになった。同じトランシーバでも、高いものの方がより長かったように思う。今思えば邪魔なくらい長いアンテナだが、長いのがかっこよかったのだ。

いうまでもないことだが、今の携帯電話のほうがはるかに高性能である。小さくて軽く、数十キロ先の基地局まで通信できる。すごいものだ。技術の進歩、といえばそれで終わりだが、ずいぶんと変わったものと思う。そんなトランシーバであるが、このころのたとえばテレビの、怪獣の出てくるような番組では必ずトランシーバみたいな通信機が出てきたと思う。だから、玩具ではあるが、未来の通信、みたいなイメージがあった。
このトランシーバ、通話という意味では不便なことが1つあった。それは、電波を送るのと受けるのを同時にはできない、ということである。つまり、話している時は聞くことはできないし、聞いているときは話せない。2台で同時に話をしたらお互いに聞こえないことになる。だから、話し終わったときには必ず”どうぞ”と会話ができない。そして、相手の話を聞いたことを確認する意味で”了解”とかといって話し始めたものだ。電話に比べるとずいぶん面倒なものだ。うっかりしてるといってることが全くわからなくなったりした。でも、その不便なところがかっこよかったとのだと思う。

トランシーバ、今も売ってるのかな? と某大手の玩具店に行くとちゃんと売っていた。値段も安く、一組で1000円もしない。もっとも、電池は別売りだが。安いけれど大きいし、重い。でも、アウトドアで遊ぶにはちょうどよいかもしれない。
だけど、いまどき携帯電話なんて小学生でも持っていたりする。この不便なトランシーバ、これを”かっこいい”と思って受け入れてくれるかな?

 

エベレスト? チョモランマ? それともサガルマータ? 2002/ 3/9

新聞にエベレストの高さの記事が出ていた。今までは8848mと言われてきたが、GPSで測定すると8850mとなった、ということだ。どちらが正しいのか? 新聞では、氷の状態によっても変わるのでどちらも正しい、みたいな言い方をしていた。同感である。これだけの山になると氷に覆われている。万年雪みたいに常にある氷は地面と同じとみなされる、と聞いたことがある。とすれば、年々変化しても不思議ではない。また、GPSが広く使われてきているが、この高さの定義と今までの海面からの高さの定義は異なるのだ。これも原因かもしれない。いずれにせよ、それほど大きな差だとは思えない。どっちでもよいこと? なんて思った。

さてこの山、今まではエベレスト(Everest)と呼ばれていたが、チョモランマとも呼ばれるようになった。最近はエベレスト(チョモランマ)あるいはその逆の表現が使われている。エベレストは比較的最近になってヨーロッパの人が付けられた名前なので不適当ではないか?ということもあるそうだ。 ちなみにもうひとつのチョモランマというのは、中国名である。

さて、ここで疑問がでてくる。この山は中国だけの山ではない、ということだ。中国とネパールとの国境にある。中国側の呼び方を尊重するならネパール側の呼び方はどうなるのだろうか? インターネットで急ぎ調べてみたらネパール名は”サガルマータ”らしい。でもこの呼び名、今までに出てきたことはほとんどない。中国名だけが知られている。中国名を尊重するなら、同じだけネパール名も尊重するのが筋だろう。中国に対する変な意識があるのではないだろうか? ならば中国名だけ併記するよりはエベレストと呼んだほうがまだましのように思えるがどうだろうか?
地名は時代と共に変化するものである。古い由緒ある地名は当然尊重すべきだが、そこに変な政治的配慮(?)があってはならないと思う。もっとも、どんな名前で呼ばれようと山は山。山にとってはどっちでもよいことなのかもしれない。

 

つい最近のY新聞、この山にネパール側から登ったという記事にも、”チョモランマ”を使っていた。それも、この名称を単独でである。これは明らかにおかしい。ネパール側から登ったのになぜ反対側の中国名を使うのか?  
一部の新聞や政治家、中国に関係することになるととたんにおかしなことを言い始める。中国が絡むと理性をなくしてしまうのでは? と感じることさえある


 

パソコン、デザイン優先の時代へ

2001/12/ 24、12/31

ノートPCがひとつ欲しくなった。
出張の際は会社のノートPCを使うことが出来るのだが、これが結構便利である。仕事での利用はもちろんだが、ホテルに戻ってのメールの確認やインターネットなど、非常に役に立つ。 とはいえ、ノートパソコン、決して安いものではない。それに、使う時間はメインのPCに比べるとかなり少なくなるだろう。だから、投資する割には効果が少なく、ためらっていたのだ。それでも、携帯できる魅力は大きい。それに、旅先で使うことに限定するなら、低性能で安いものでもよい。(高性能のは、大きくて重い、ということもある) ちょっと思い切ることにした。

さて、買うとなると何がよいか? 私の場合、移動用であり、車以外での移動を考えると極力小さくて軽い方がよい。バッテリの時間も長ければ長い方がよい。とはいえ、表示はそれなりに欲しいし、LANとモデムも必須である。これに当てはまるノートPCは少数派ではあるが、複数のメーカから出ている。B5 ファイルサイズなんていってる、実はA4を少し短くしたようなサイズのものである。また、A4サイズでより大きくて薄いものもある。
大きめのものは液晶が12インチ程度、小さいものは10インチ程度になる。一般に画面の小さいものの方がバッテリの持ちがよく、携帯にも便利そうだが、が、使うことから言えば画面は大きな方がよい。このあたりが難しい。

実は、気になるPCが1台ある。N社のもので、アルミのアタッシュケースで有名なメーカのデザインによるものだ。液晶が10インチなのでちょっと小さいが、外観はとてもよい。また、バッテリも6時間持つ。音も静かだという。液晶が小さいのが気になるが、それ以外は理想的だ。でも、このPCが気になる一番の理由はやはりデザインだろう。他のPCとは明らかに違う。
ノートPCの場合、メーカごとに個別に設計することになるので、個性が出やすいのだが、基本的には薄い箱形であり、色も黒や銀が中心で、個性的なものは少なかった。S社のように薄紫色といった例はあるが。
そんな中で、アルミ合金の色というのはやはり個性的だと思う。裏側もすっきりしていてきれいだ。キーボード周りも美しいと思う。デザインだけで欲しい、と思った。

普通のデスクトップも含めたパソコン、デザイン面で言えば、非常に悪かったと思う。特に主力であった大型のPCは無骨であり、実用的な面ばかり優先されていたように思う。メーカの差もなかった。筐体も専業メーカから買ってたりすると、違いはメーカの名前だけ?なんてものまであった。デザインよりも性能、あるいはデザインまで気にする余裕がなかった、といった感じだろうか。しかし、最近になって小型化が進みようやく状況は変わってきた。家庭用の中には、なかなか面白いデザインのものも出てきたし、業務用でも個性的なものも出てきた。メーカ間の性能差もなくなってきたのである意味では当然の動きとも言える。たとえば、数年前にでた、やはりN社のシンプレム。これはその名の通り、シンプルな外観と配線のケーブルとなくしたことで、割高なのに人気があった。うちでも家族用に1台使っている。

家電などもそうだが、現在はメーカの差がなくなってしまった。以前のように、B社の製品は安いけど性能が今ひとつだからA社の製品を買う、なんてことはほとんどない。車でも性能を気にする人はごく一部だろう。とすれば、あとはデザインだけ、なのだろう。デザインの良いPC、というのはやはり魅力的だと思う。私のメインPCのように机の下に押し込まれ、周辺機器へのケーブルが太い束になって机の陰に隠れている、というのならばともかく、リビングや外で使うにはデザインが大切である。この傾向、これから更に強まると思う。

ノートPC,買ったのは・・・。デザインを重視したN社の製品である。
買って早速箱をあけ、ビニールの袋を開く。新品固有のにおいもあり、わくわくする一瞬である。デザインは期待どおり。もちろん店などで既に見てるのだが、展示の場とはずいぶんと違う。まあ期待通り、と思いながら蓋を開けてみた。ノートPCならではのときである。キーの色、その周りの配色、なかなかよいのだが・・・。ひとつだけ”何これ?”と思ったものがあった。
キーボードの手前に貼られた”シール”である。CPUの形式、WindowsXX対応、省電力、・・・。これは最近のPCにはみんな張られているものである。まあ、買うときには何かの参考になるかもしれないが、買ってしまえばどうでもよいことだろう。 要するにいらないものである。強いて言えば、最新のCPUを人に自慢することぐらいだろうか? そんなシールが3枚も貼ってあるのである。場所は液晶を開いた状態の右端。キーボードの手前である。他のPCも、場所は違うがやはり似たような感じで貼ってある。どう見てもじゃまである。せっかくの、デザイン重視のPCなのに・・・とちょっと悲しくなった。カタログなどの写真には、もちろんこのシールは貼ってない。ということは、このシールがデザインを崩すことをメーカは知っているということだろう。
私のPC、即座にこのシールが剥がされたことは言うまでもない。剥がしてみると実にすっきりした。バランスも申し分ない。シールだから、いらないなら”剥がせばよい”という考えかもしれないが、シールを剥がすのは結構面倒である。糊が残ることもあるし、剥がすときに本体に傷が付くこともある。特にWindowsのシールは、プラスティックのベースの上に別のシールが貼ってあるような感じで、剥がすのに苦労した。

PCもデザイン重視のとき、・・・ちょっと残念である。

余談
会社のPCでのこと。 少し古いPCでこれが剥がれている(剥がした?)のがあった。仕事の都合でCPUを確認する必要があったが、それがすぐにわからずに困ったこともあったようだ。まあ、業務に使うなら、そんなこともあるかもしれない。

愛と恋の違い 2001/10/20

愛と恋。似てるようで違うようなこの単語。一体どう違うのだろうか?それとも、同じなのだろうか?
正直な話、違いなんて考えたことなどなかった。同じでは? などと漠然と思っていたのかもしれない。辞書を引いてみたが、違いはよくわからなかった。

ここで、例を上げて考えて見よう。愛人と恋人。これは愛と恋、両方ある。が、夫婦愛、親子愛、隣人愛、とはいうが、夫婦恋や親子恋などといった言葉はない。また、愛国心とは言うが、恋国心? なんて言葉はない。
その逆、恋い焦がれる、恋偲ぶ、といった言葉はあるが、愛焦がれるなんて言葉はない。

こうやって単語を並べてみると、やはりどこか違うような気がする。
この答え、意外なものに書かれていた。小説、である。それも愛とか恋とかが場違いに思える時代小説、それも戦国時代の小説なのだである。もっとも、だから余計覚えていたのかもしれない。

さてその違いだが、恋、というのは相手のことが好きになり、相手の全てを自分のものにしたくなる。そういう思いだそうだ。それに対し、愛というのは、逆に自分の全てを相手に捧げたくなる、ということださそうだ。これを意識して単語の例を見ると実にすっきりする。刺さると奪う。似たような言葉の中に、正反対の意味が隠れていた、ということになる。似てるようで全然意味が違う言葉だったようだ。

そうしてみると、男女が結婚する、というのは恋から愛に変わる、ということなのだろう。相手のことを考え、献身する。方向性が180度転換することなのだな・・・。と、納得してしまった。

 

余計な心配? 2001/7/ 22

先日、義父と義母と一緒に、東京ディズニーランドに言ってきた。両親にとっては初めてのディズニーランド。孫と一緒、ということもあり、存分に楽しめたようだ。特に義父などは、”ジェットコースターは初めだ”などと言いながらとても楽しそうだった。

さて、”余計な心配”というのは、ここの新しいアトラクションの話である。
新しいアトラクション、それはどんなもの? というと、乗り物の乗って動く人形や映像などを楽しむ、というものである。と、書いてしまうと実に味気ない。が、そこはディズニーランドのこと。きちんとストーリーを持たせてあるので、ほかのアトラクションと同様、存分に楽しめる。新しいだけあって、待ち時間が長いのが残念だが・・・。

ここでの乗り物、3台が一組になってストーリーに従って作られた世界を順に動いてゆく。それに合わせて人形や映像なども、ということなのだが、この乗り物、基本的には決められた動きをしている。しかし、床にはレールも何もない。滑らかなただの床である。そして、3台が組みになって動く。この3台、同じ動きでないのだ。ばらばら、というわけではないが、先頭の1台の動きをそのままなぞる、というのではない。時には順番が入れ替わったりしながら動いている。 そして、別のルートを通ったりもする。
これは実に新鮮であると同時に、これを少し発展すればもっと面白いこともできるな、などと感じた。乗っている人の選択によってコースを変えてもいいし、あるいはクイズや小ゲームの結果によって変える、などということも可能だろう。近い将来、もっと面白いアトラクション ができるかもしれない。
で、余計な心配、というのはこのシステムの仕組み、である。レールが何もない、ということは、それぞれの乗り物が何らかの方法で場所を知り、次に動く場所を決めて進む、ということになる。もちろん、他の乗り物や映像と同期を取る必要もあるし、人の乗り降りに合わせてスタートさせる、などということも必要になる。レールがあれば簡単だが、それがなく、なおかつ走るルートも変えて、となるとそう簡単ではなかろう。ものすごく難しい、と言うほどではないと思うが。
こういうのが気になるとつい、余計なことをしてしまう。床にはわずかにタイヤの跡があるから、同じようなコースを走るのだろう。と思ってみてみると乗り物の側面に四角い窓が目に付いた。これは赤外線の通信だろうか? とすれば同期あわせ? それとも何かのセンサー? なんだかそんなことばかりが気になって、ストーリーを楽しむよりもそちらが気になってしまった。やっぱり、余計な心配などしないで、無邪気に楽しむのが一番なのだろう。
この仕組み、女房もちょっと気になったらしく、出たところで”どうやって動くのだろう”なんて言うと、似たようなことを思っていた、とのこと。で、その脇から息子が、”モーターで動くんでしょ?”と。 実にいい答えだ、などと感心してしまった。まあ、エンジンなどでなければモーターに決まっている。モーターか・・・。では、その電気はどこから取っているのだろう? 乗り降りの合間に充電するのだろうか?


また余計な心配が増えてしまった・・・。

 

Web書店 2001/6/11

最近、Webにも書店がある。というよりは、既存の大型書店がWebでの注文も受け付けている、といった方が適切かもしれない。大抵は、本を探すためのデータベース機能を持っていて、うろ覚えの書名で探すときなど重宝する。

私の場合、本は多くの場合、書店で見つけて買っている。

以前は本屋の書棚で見つけて買う、というのが多かったが、最近は本屋でゆっくり探す時間も少なくなってしまった。その変わりとして増えてきたのが、書評や新聞広告などで見つけること、である。で、面白そうだ、と思った本を書店で探すのだが、これがなかなか見つからなかったりする。一つには、探し方の問題もある。書名や出版社などをきちんとメモして探せばまた違うのだが、大抵は記憶に頼ってしまっている。だから、探すのに手間がかかったり見つからなかったりする。
もうひとつは、流通の問題である。日本には書店が3万軒ある、などと言われている。これに対し、新刊本でたとえば無名に近い著者だったりすると、1000冊、2000冊しか刷らなかったりする。
そうなると、もともと本屋の数に足りないのだが、出版元に多少の在庫を置き、売れそうな店に2冊/3冊、と配本するとすれば、かなり限られた書店にしか置かれないことになる。そうすると、仮に欲しい本があったとしても巡り会えない可能性は非常に高い。まして、地方だとなおさらである。

これは、以前経験したことである。東京に出張中に白い本を見つけた。その本、発行されたばかりだったので、新刊だから金沢で見なかったのだろう、と思って買わずに戻ったのだが、結局数 軒回っても見つけられず、次の出張で東京で買った。こうなると、書名がわかっているならば、確実な入手手段は書店に注文、となる。だが、これが案外面倒くさい。注文票を書いて、連絡を待って・・・、となる。
この点、Web書店は楽である。私の利用しているweb書店はクレジットカード利用で、あらかじめ住所などを登録しての利用になるので、”欲しい本を選ぶだけ”である。
このWeb書店、残念ながら送料がかかる。しかし、非常に安い。バスや電車に2〜3回乗る程度、といえばわかりやすいだろう。しかも、1注文あたり、である。何冊買っても同じだし、在庫の都合で2〜3回に分けて発送、となっても同じ料金である。だから、バスで本を買いに行くことを考えると安い。また、重い本を買うなら、持ち運ばなくてすむ、という利点もある。気になる到着までの日数は?というと公表で最短4日である。実際には3日で着くこともある。忙しくて本屋までなかなか行けないときなどは、週末を待つより速く着いたりする。
利点は多いのだが、ただ一つ、内容を確かめずに買うことの抵抗はあるかと思う。でもそれは、書店に注文したときもキャンセルはできないのだから同じことである。また、web書店も工夫していて、簡単な解説がついていたりする。専門書では目次が見られるものもある。それだけでは不足、かもしれないが、著者などで想像はつく。たまにはずれはあるかもしれないが、意外な好書にめぐりあえるかもしれない。
ひとつ気になるのは、あの送料で採算が合うのかな?ということである。極端な時は、たとえば4冊注文した本がバラバラに1冊ずつ着いたりする。それでも、送料は同じでる。それでも、多品種少量生産の典型である本のこと。それなりの注文があれば採算がとれるのかもしれない。

将来的には、本も電子情報化されるかもしれない。が、過渡的なものとしてこの方法、とても良い売り方だと思っている。

 

悲しい雪型 2001/4/1
この時期、北陸などでは雪型が話題になる。
雪型、というのは、山肌に残った雪、あるいは雪が解けてでた地肌によって自然に作られた模様である。昔からその形を馬やウサギなどの動物、あるいは人に見立てて、いろんな名前が付いていたりするし、ときにはその山の名前になったりもする。雪型は、その時々の気候によってみえる時期が前後するが、逆に気候を反映してるために、種まきなど農作業の目安になったりする。
この雪型、自然の地形によってできるものだから、○○の形、といってもはっきりしているわけではない。しかし、言われてみているとそのようにも見えてくるからなかなか面白い。また、雪解けが進むにつれて形がだんだんはっきりしたり逆に崩れたりもする。また、時期によって別の形に変わったりもする。雪国での、春から初夏にかけての風物詩である。

さて、冬の時期、山肌にくっきりと模様が見えることがある。春になると明るさからだろうか、より一層目立ったりもする。が、いわゆる雪型ではない。山肌にくっきりと目立つ模様、気づかれた方もいるだろう。スキー場である。最近のスキー場、山の森林を切り開いていたりするので、周りが黒っぽいなかに雪の白さがくっきりと浮かび上がる。直線的であったり、折れ曲がっていたり、と形はいろいろであるが、黒っぽい山肌に不自然な位、くっきりと刻まれている。なんだか、傷跡のようにも見えて悲しい。

私個人としては、スキーあるいはスキー場を否定するつもりはない。道具としても素晴らしいし、スポーツとしても、また冬の山歩きにもよい。だけど、こういう悲しい雪型を見ていると、山が泣いているようで寂しくなってしまう。スキー場も多分、山を傷つけているのだろうな・・・と。

旧道は何故曲がっている? 2001/4/15

道路で旧道は、というと狭くて曲がりくねっている、と思う人は少なくないだろう。狭い、というのはわかる。自動車以前に既に出来ていた道もあるし、交通量の少ない時期に出来、その後家が増えたりして拡張しにくかったりするからだ。しかし、曲がりくねっているのはなぜだろうか?  山で曲がりくねっているのは理解できる。大規模な土木工事を避けるため、地形に逆らわずに作られていることが多いから、である。でも、平地でも曲がりくねっていることが多い。以前はそういうもの、と思いこんでいたりしたのだが、最近ちょっと気になり始めていた。

まず、何故道はまっすぐにできないのか? 地形の制約はもちろんある。山では尾根筋をたどるなど、制約は大きいし、川や湿地などの影響もある。だけど、元々出発地と目的地があるのだから、出来る限り道は短くした方が移動に要する時間は短くて済む。とい っても、経由地があるから、これらの経由地を結ぶようにし、経由地間はなるべく最短になるようにし、地形の制約がある部分は曲がる、みたいな感じがよさそうに思う。今の国道などはこれに近い形になっているように思う。でも、旧道は? というと、これはかなり曲がりくねっているような気がする。平地なのに、大した意味もなく曲がっているような気さえする。なぜだろう?

初めは作り安さ、かと思った。平地、といっても同じような土地が続くとは限らない。湿地に近いところもあるだろう。雨が続けば水が溜まるところがあるかもしれない。そういうところは自然と避けるはずだ。人が歩きやすい所を選んでいるうちに自然と曲がりくねった道になったのでは?ということである。でも、それにしては説明しきれないような気がする。遺跡などで中世以前の道が発掘されたりしてるが、相当の土木工事が行われていたりする。石を入れたり、土を盛ったり、その土も遠くから運んできていたりする。そこまで技術があるなら、多少の障害などは平気でまっすくの道が造れるはずである。
では、測量などの技術がないからまっすくに出来なかったか?というと決してそうではないはずである。道をまっすぐにするのにそれほど高度な技術はいらない。目標まで見通せるなら簡単だし、そもそも旧道の曲がり具合はそんなレベルのものではない。

ではなぜ? と考えて、これは、実はわざと曲げてあるのでは? とふと思いたった。ある本で、単調で見通せる上り坂は苦労がまだまだ続くようで疲れそう、みたいな事が書いてあった。確かにそうである。人が歩くのだからより直線的な方が短距離でよい、と考えていたのだが、考えが浅かったようだ。人が歩くのだからこそ、曲がり角があって見通しが悪い方が変化があって良い、という考え方だ。実際、富士山は山頂がすぐそこに見えているのになかなか近づけないのでいやだ、見たいな 感覚があるという。なるほど、と考えさせられた。 日程などでも区切りよい目印などがあった方が仕事にも張りが出やすいことは経験していることである。
ところで、初めから曲げてある、と考えると旧道の作り方の納得することも多い。曲がりくねっている、とはいえ、よくよく考えてみればそんなに回り道をしているわけではないのだ。まっすぐではないけど、そう遠回りをしているわけでもない。歩く気分に変化を与え、なおかつ早く行ける。そんな道の作り方のように思う。よくよく考えたもの、と感心する。

新しい道も何故曲がっている? 2001/4/1

前回は旧道はなぜ曲がっている? と書いたのだが、新しい道、特に高速道路もよく曲がっている。直線がほとんどない、というくらいに殆どが曲線になっている。

高速道路といえばスピードを出すための道なのになぜ? と思われそうだが、実は、これもわざと曲げてあるのだ。古い高速道路、たとえば名神高速ではまだ直線が多い。しかし、東名以降は曲線ばかりになっている。これは、一つには直線は単調になって居眠りを誘いやすいからだと言われている。だから、平地などでも、わざと緩やかなカーブになっていたりする。
でも、もう一つにはやはり用地買収の難しさがあるからだろうと思う。飛行機などで比較的新しい高速道路をみると、住宅密集地を避けているのがわかったりする。空き地や比較的買収しやすいところを曲線で結ぶ・・・。これが現在の道路の作り方かもしれない。

ところで簡単に曲線、と書いたが、実は円の一部、みたいに単純な曲線ではない。高速道路などではクロソイド曲線、が多用されている。ほとんどがこれ、といっても良い。この曲線、なめらかに半径が変わる。 曲がりはじめは半径が非常に大きいが、徐々に小さくなる、そんな曲線である。
こう書くと”運転しにくそう”と思うかもしれないが、実は車にぴったりの曲線なのである。車のハンドルを一定の早さで回すとき、これがクロソイド曲線になるのだ。当然、高速道路ではハンドルを回す早さがゆっくりになるような緩やかな曲線にする。一般道路などではあまり使われていないようだが、

もし使うとすればハンドルを すこし早く回すような感じの曲線でよい。実際の道路では、直線からまずクロソイド曲線で曲がり初め、途中で一定の半径になり、またクロソイド曲線で直線に戻る。こんな感じになる。
クロソイド曲線にはもう一つ大きな利点がある。それは、徐々に向きを変えるため、遠心力が急に強くなることがないので、乗り心地も良くなる、ということである。その点でも道路には理想的な曲線なのである。

今度高速道路を走るとき、ハンドルの動かし方に注意してみて欲しい。緩やかなカーブでも、ちょっときついカーブでも、回す早さが違うだけでハンドルを一定に回すときれいに走れるだろう。急なカーブだからといって そんなに急いでハンドルを切る必要はないのだ。

こういうハンドルの切り方、たとえば追い越しなどにもつかえる。急にハンドルを回して方向を変えるのではなく、ゆっくりと一定の早さで回しながら向きを変え、緩やかに戻す。これを繰り返すようにすれば非常になめらかに車線変更できる。余裕があればなおゆっくりと回せばよい。乗り心地は格段に上がる。少し慣れれば、設計速度を越えるような早さであっても、同乗者が不安を感じないで車線変更する事が可能になる。(注、設計速度と制限速度は別のものです。)普通の速度での運転ならば同乗者が気づかないうちに車線変更が終わっていた・・・なんてことも可能だ。きっと、”運転がすごくうまくなった”なんて言われるだろう。

 

真昼の☆ 2001/4/7

今日、子供の遊び場的なところを探して出掛けてきたのだが、その先の近くに富山天文台があった。この天文台、昼間も公開していて、星に関する展示などもある。さっそく行ってみた。

ここの望遠鏡は反射式で口径1m。比較的新しい型で、特徴が2つある。
一つは、望遠鏡を支える軸の所に接眼鏡、つまり覗くところがある、ということ。軸の所だから、望遠鏡の角度を変えても場所が変わらない。もちろん回転させると動いてしまうが、高さや角度が一定なので扱いやすいそうだ。もっとも、光学的にはやや無理をしている分、従来型の方が性能的には優れているという。
そしてもう一つはコンピュータ制御、ということ。これは、ある星を見るのに星を座標?で入力すればその方向に望遠鏡が向く、というものである。素人で何が難しいか、といえ ば望遠鏡を思う方向に向けること。これは相当慣れないと難しい。これが、簡単にできるのだから観測がしやすくなることだろう。

さて、昼の天文台で何を見るか? 天文台だからもちろん見るのはお星様。昼間でも見えるの?と言われそうだが、もちろん見える。恒星の中では一番明るいシリウスとカペラを見せて貰った。昼間の星はどんな感じ? 白っぽい背景の中に光の点がほのかにみえている、そんな感じだった。やはり夜空の方が美しいとおもうが、これはこれで面白い。星の色の違いも十分観察できた。

昼間の星、実は普通の天体望遠鏡でも十分可能なのだ。目の良い人なら、肉眼でもわかるという。ただ、夜と違って空が明るいのでなかなか見分けられないそうだ。だから、あらかじめ明るい星の場所を調べておき、その方向と角度を正確に調べ、その点を熟視する、などの方法が必要だそうだ。もちろん、望遠鏡を正確に向ければ観測出来る。でも、目で見えないのに正確に望遠鏡を向ける、なんてことは出来ないわけだ。これが、コンピュータ制御なら比較的容易に可能、ということになる。

昼間の星、もちろん見たのは初めてのこと。得難い体験だった。星は昼も輝いている。ただ目にくいだけ・・・。星に限らず、見えない、と思いこんでいるだけのこと、案外多いのかも知れない。つまらない先入観にとらわれず、チャレンジしてみたら案外簡単だった、なんてこともあるのかも知れない。昼間の星を見て、私ももっともっといろんな事に挑戦してみたくなった。

 

文房具の魅力 2001/4/11

私は文房具が好きである。文房具は好き嫌いで使うものではないのだが、店などで魅力ある文房具を見かけるとつい欲しくなってしまう。といっても、コレクションしているわけではないから、手持ちの文房具はそう多くはない。どちらかというと、上質のものをよく選んで買う、といった感じが強い。買う数は少ないのだが、それでも文房具を店で眺めているととても楽しい。だから、ちょっと時間に余裕があると文房具店に入って眺めたりしてしまう。たまには買うのだが、量が少ないから、店にとってはいい迷惑かもしれないが・・・。

さて、銀座に伊東屋という文房具店がある。ここは多分、日本で最大の文房具店だろう。ビルひとつがまるごと文房具店になっている。扱うものは、鉛筆や消しゴム、といったごく普通のものから事務用品、画材、製図用具などが揃っている。もちろん、万年筆なども多数、そろえてある。紙などは別館があり、そこが丸ごと紙売り場だったりする。おおよそ、文房具といえるものはすべて扱っているのでは、といった感じの店である。
扱う商品の値段の幅も広い。たとえばシャープペンシル。1本100円のものもあれば、製図用の数千円のものもある。万年筆になると、10万円を越す高級品も揃えてある。また、特殊なものもある。たとえば鋏。事務用学童用などのごく普通の鋏のほか、刃渡りが50cm近い直線裁断用、などもあるし、開通式などにつかうテープカット用もある。こういうのはもちろん買うことはないのだが、見てるだけでも楽しい。
そのほかには画材も豊富で、たとえば絵の具などは、さまざまな種類のものが、それぞれ何百色も並んでいる。これはもう、見ているだけで楽しくなるし、いい絵がかけそうな気持ちになってくる。

ところで文房具の魅力ってなんだろう? と改めて考えると”はて、なんだろう?”と悩んでしまう。すぐには思いつかないのである。どんな魅力が? と聞かれても返事に困ってしまう。ただひとつ思いついたのは、“よくできた道具”としての魅力かもしれない。たとえば鋏。そこらに売っている100円何がしかの鋏。これでも切れないことはない。が、すぐにがたが来たりするし、切れ味も落ちる。でも、同じような大きさで3000円近いものもある。こういう鋏は仕上げがきちんとしてあるから長い間使っても手が痛くならないし、疲れも少ない。もちろんよく切れるから作業時間も短くてすむ。そして、使い込んでも刃が緩んでくることもないし、材質がいいから切れ味も落ちない。同じように見える鋏なのに・・・。などと思ってしまう。
こういう優れた文房具、なんとなく気品があったりする。このあたりが”魅力”なのかもしれない
そう思ってみると、ナイフや工具などにも同じような魅力があるようにも思う。
最後に文房具を買うときのことを少し書いてみよう。

やはりお金をケチってはいけない、ということだろう。かといって、装飾にお金をかけたもの。これはそういうものが必要でない限り無駄である。つくりのしっかりした物。これはやはりある程度のお金を出さないと買えない。では、どうやってそういうものを選ぶか? 値段も目安だが、必ずしもあたらない。長く売られているものは良品であることがおおいが、1度や2度売り場を回っただけではわからない。そういう意味では、プロ用のものから選ぶのもコツかもしれない。
製図用の定規やコンパスなどは実に使いやすくできている。そういう中でやや安めの物。それが狙い目かもしれない。でも、それでも使いにくかったら・・・。場合によってはそれを捨てることである。折角買ったのだから、と使いにくいもので我慢するほど疲れることはない。ここはあっさりあきらめて買いなおすほうがいいだろう。
文房具、これは手の延長として一番身近な道具なのだから・・・。

刃物 使い捨ての時代? 2001/4/12

文房具の話題で、工具やナイフのことにちょっと触れた。さすがにナイフ、となるとこだわりをもつ人は少なくないと思う。さっそくトムヤムさんから、“ナイフを使い捨て感覚で使う人がいる”とのご意見があった。
これは、私から見てもとても悲しいことである。私の感覚からすれば、ナイフ、更に工具や文房具、というと手足の一部みたいな感覚を私は持っている。鉛筆のように、初めから使い捨て的な消耗品ももちろんある。それでも、使い込んでくるともう使えないのに捨てるのが惜しい、と思えてくるものだ。しっかりした工具、文房具は、簡単に壊れるものではないが、不注意で駄目にすることはやはりある。使い込んだものだったりすると、手足が傷ついたように悲しくなる。

刃物類の使い捨て、というのはいわゆるカッターに始まったように思う。カッターというのは、薄い刃をホルダに入れ、切れ味が落ちてきたら刃を折って新しい部分を使う、というものである。工具として、広く使われているし、私も使っている。使い捨ての刃物、切れ味はまあまあである。作業をする上で不都合はない。もちろん、きちんと手入れされ、研がれた刃物には及ばない。でも、並みの日曜大工レベルの人が研ぐよりも切れ味は上である。そして、研ぐ前に折って捨てる。手間も時間もかからない。だから使われるのだろう。

この傾向、実はプロも同じである。たとえばバイト。これは、旋盤などで金属を削る際の刃物であるが、以前は職人さんが自分で研いていた。場合によっては、自分で作っていたものである。まずはよいバイトを作る、これは一人前になる最初の条件だったわけだ。
これも今は違う。最近の超硬合金などでできたバイトは使い捨てである。そもそも、研ぐようには作ってない。高価な硬い材料を先端のごく一部にのみ使っているので、削るとなくなってしまうのだ。また、とても硬い材料なので研ごうとしても普通の砥石より硬かったりする。普通に研ぐことなんてできないのだ。

こういう意味では、もう、刃物は使い捨ての時代なのかもしれない。ちょっと意味は違うが、家庭でも、セラミック包丁も使われ始めた。これも、研ごうと思っても研げない包丁である。時間をかけて研ぐよりも刃先を替えてすぐに作業を始めるほうが能率がよい、ということなのだろう。
でも、やっぱりどこか寂しい。私の場合、ナイフを研ぐ機会はほとんどないが、彫刻等などは手で研いでいる。その時間、鉛筆を手で削るのにも似て、とても貴重な間合いだと思う。作業を始める前の準備の時間であったり、中休みであったりする。そして何よりも、最高の職人は作業に適した道具を作り出す、ということがある。この意味では、使い捨て刃物を使う限り、限界があるのかもしれない。

時計の災難 2001/5/16

つい先日、普段使っている腕時計の電池が切れた。これは、もう既に20年近く使っている時計で、まだまだ大切に使いたい。当然、電池交換を行った。いつもなら自分で時計屋に行くのだが、最近は残業続きで帰宅時にはもう店は閉まっている。そこで、女房に頼んだのだ。終わった時計、見てみるとどこかおかしい。裏蓋がすこし定位置からずれているな、と思っていたら、軽く振ると音がするのに気づいた。この音、裏蓋のところから出ている。試しに手で回してみると開いてしまった。
常識的に、腕時計の裏蓋が手で回して開くはずがない。どうやら、パッキンが抜けているようだ。文句を言ってやり直させようか、とも思ったが、普通に作業をしてパッキンを付け忘れる、なんてことはあり得ない。そもそも普通に交換するときに抜けるはずがないし、もし外したにしても、閉めた後で気づかないはずがない。まっとうな時計屋なら・・・。

そう思って、結局何度も行っていて信頼できる時計屋に持っていった。

早速見てくれ、やはりパッキンを付けてない、とのこと。この時計、パッキン周りは特殊なので、付けるときに失敗してどうにもならず、そのままにしたのでは?  とこのことだ。多少、技術がないとできないのだそうだ。実際、以前に電池交換をしてもらおうとして、”うちではできません”、と交換を断られたこともある位だ。だから、扱いきれない店があったとしても不思議ではない。でも、それならそれで、投げ出してくれれば良いのに・・・なんて思った。

パッキンのない時計、当然防水は効かない。更に、手で裏蓋が回るくらいだからいつどこで落ちても不思議ではない。そうなったら、裏蓋自体がなくなってしまうかもしれない。そのときに時計本体が致命的な損傷を受けることだってありうる。あやうく、20年来の時計をだめにすることだった。文句を言えば弁償はしてくれるかもしれない。でも、後味は悪いし、大事な時計が帰ってくるわけでもない。素直に扱いきれなかった、と言ってくれればそのまま別の店に持っていっただろうに・・・。

20年間使っているのだから、当然、それなりの傷はある。だけどこの時計屋、20年使っているとは思えない、とほめてくれた。まだまだ使ってあげたい時計である。最近は電池交換の代金以下の時計も沢山出回ってる。そうなると、電池が切れた時点で使い捨て、だろう。電池交換のできない時計屋がいても不思議ではない。時計屋、といえば精密機械を扱う職人の代表だった。いまでもそう信じている。でも、もうそういう時代ではないのかもしれない。


私がバイキング形式が嫌いなわけ 2001/5/2

私の場合、宿は大抵ホテルを利用する。旅館も嫌いではないのだが、こちらはなんとなく泊まること自体が目的みたいになってしまうので、あちこちを見て回るような旅行の場合はホテルを使うことが多い。また、食事を自由に選ぶ、といった点でもホテルは好都合である。

さて、ホテルの、朝のご飯である。
残念なことに、いわゆるバイキング形式が主流になってしまっている。確かにこれを好む人が少なくない。むしろ多い、といった方がいいだろう。いろんな種類のものを好きなだけ取ることができるし、割安感もある。でも、私は嫌いである。多くの人の好みとは異なるような気もするのだが、これは好みの問題だからしょうがない。その理由、これを書いてみようと思う。

嫌いな理由、その一つは、料理を自分で運ぶのがいやだからである。これは、楽をしたいため、というのとはちょっと違う。料理を取りに行く場所、ここは結構人が多いのだが、そんな中を、料理をこぼさないように、人とぶつからないように、テーブルに引っかけないように・・・、と、よけいな気ばかり遣うからである。
もう一つの理由、それは、人の動きが激しく、落ち着けないから、である。普通、店の中を歩くのは、店の人がほとんど である。が、バイキング形式では、普通の客が頻繁に動き回る。場所が悪いと食べているすぐそばで列ができたりする。これではたまらない。
最後にもう一つ。料理ができたてではないから、である。出来てから少々時間が経ち、その間弱火で暖められている。これではどうしても味は落ちる。とくに目玉焼きとかオムレツではその差が大きい。

朝食、というのは、1日の始まりであり、旅行にしろ、仕事にしろ、何かをする前に調子を整える大切なことである。だからこそ、私は落ち着いてゆっくりと食べたいのだ。バイキング形式では、こうは行かない。もちろん、私が上げたような理由、それが全く気にならない人もいるだろう。不満を感じながらも、ブッフェの利点を好む人も少なくないだろう。
これは、どちらかを選べるなら、ブッフェを選ぶ人が少なくないことからも明らかである。

最近、バイキング形式しかやらないホテルが増えてきた。でもこれは、ホテルの一番の特徴を放棄している、と考える。ホテルの最大の特徴、それはお客のわがままに最大限に答えてくれること、だと思う。旅館の朝食を思い浮かべて欲しい。これはもう、お仕着せである。ご飯のお代わりはできるかもしれないが、それだけである。バイキング形式なら、選択は相当広くなる。が、それだけのことである。ベーコンの焼き加減、目玉焼きの焼き方、ゆで卵のゆで時間・・・ 。さらに、サラダに使うドレッシングの指定。そこまで指定して好みにあった料理をできたての最高の状態で楽しむ。これができない。
好みの朝食を、ゆっくりと落ち着いて、1日のスケジュールを考えながら、あるいは仕事の戦略を考えながら取る。これは、バイキング形式では不可能なのだ。

ホテル本来のサービス、これを忘れないで欲しい。

毎日半額? 2001/4/26

通勤途中にパン屋がある。そのパン屋さん、目立つところにこう書いてある。”毎日半額”と。
ちょっと考えさせられたが、毎日半額、ということはその半額、が定価と同じではないか。その店に入ったことはないので高いか安いか、という判断はできないが、毎日半額、という看板だけでなんとなく抵抗を感じてしまった。

最近はいろんなもので価格競争が激しくなっている。ハンバーガーでも、”平日半額”の店がある。これは毎日、ではないからちゃんとした定価がある? とはいえ、飲み物などとセットになると割引はない。ハンバーガーを飲み物なし、で食べるのはちょっと苦しいので、結局はそんなに安くなるわけではない。しかし、こういう値段だとつい1つ余分に買ったりする。そういう意味では、適度に利益を確保しているのだろう。それでも、買う側から言えば、”半額”にはやはり弱いものがある。宣伝、としては悪い方法ではないな、と思う。

しかし、それでも平日半額、が定着してしまうと今度は逆に”休日倍額”みたいに思えるから不思議だ。でも、そうなると今度は割高感からか、休日にはつい、平日割引なし、の商品を買ってしまう。でも、半額なのは一番安い方のハンバーガーだから、より高いものを買ってしまうことになる・・・。
なんだかこの売り方、すごく合理的のようにも思えてきた。ここまで考えてのことかはわからないが、自然に自然に利益の出る方向にお客を誘導している。しかもなんとなく得したような気分にさせながら。実にうまい売り方だと、考えさせられてしまった。

 

美術館にて 2001/4/22
昨日、富山に所用で出掛けることがあったので、少し早く出掛け、未訪問であった富山県水墨美術館に寄った。
この日は、”横山大観展”が開催中で、多くの人が見学に訪れていた。

この美術館、名前の通り、水墨画などを中心に展示していることもあり、ちょっと和風の庭園があったり、建物が瓦屋根であったり、と入る前から期待が高まってくる。特に建物の屋根、軒が神社などとは逆に膨らむような感じで反っている。ほんのわずかな反りだが、普通と逆、ということもあり、とても新鮮な印象を与えてくれた。

さて、横山大観展である。比較的初期の作品から晩年の作品まで、水墨画を中心に日本画など57点が展示されていた。島根県の足立美術館所蔵の品の中から精選、ということで、1点1点が強く訴えてくるものがあり、さすがに見事であった。絵を言葉で表現することはどう頑張っても無理なので、これは作品を見て貰うしかない。富山県水墨美術館では5月13日まで開催されている。
それとは別に、この展示で感じたことを書いてみようと思う。

これは大観とはちょっと離れるのだが、Webで”朝日と夕日の描きわけ”が話題になっていた。この話題、元々は地平線近くの太陽を写した写真、これが朝日か夕日か、ということだった。確かに太陽だけ見ていると、特に写真だと区別は付きにくい。
実は、大観展でこれを思い出すような作品が並んでいた。それは、”朝嶺”と”夕嶽”である。太陽を描いたわけ絵はないが、どちらも朝、あるいは夕方のちょっと位感じの山を描いたものである。朝と夕、太陽の位置としては同じである。だけと、1日の始まりと終わり、意識的には全然違う。その違いが見事に描き分けられていた。絵は元々心に感じたことを表現するものなのだから、大観のような画家になればこの位は簡単なことなのかも知れないが、2作品が並んでいたこともあり、その技法に感嘆した。

もう一つ、晩年の作品のすばらしさである。年齢にして、70歳後半以降の作品である。今の時代でも、70歳後半といえば、もう殆どの人は引退し、足腰も手足も動きが悪くなっている。しかし、このころの作品が特に素晴らしかったように思う。色使いも勢いも、このころがピークでは?と感じてしまった。これを見て、ある画家の話を思い出した。それは、高齢になった頃に、以前の描いた有名な作品の前である人が”今こういう作品が書けるか?”というようなことを聞いたそうだ。これは、今はとても書けない、という答えを期待したようだが、”今ならもっと素晴らしいものが書ける”と即答されたそうだ。
芸術、というのはそういう面があるのだと痛感した。芸術は単に技術だけで描かれたりするものではない。心に感じたことを表現するものなのだ。とすれば、心の感性が年と共に経験を積み、より一層高まるとしても不思議ではない。手の動きは落ちるだろうが、それはカバーしきれる範囲なのだろう。

心の感性を失わない・・・。もちろん、決して簡単ではない。相当困難なことだろう。だが、人としての可能性を見せて貰い、ちょっとうれしく感じた。

機械式カメラの感触 2001/1/2

最近のカメラ、銀塩写真式であっても、相当電子化が進んでいる。小型のコンピュータが内蔵されていて、制御は全て電子式である。露出はもちろん、ピント合わせも自動である。以前はもちろん電子式ではなかった。歯車などを組み合わせ、機械的にシャッターを切り、絞りを動かしていた。
先日、福岡町の博物館で初めて2眼レフカメラを手にした。もちろん、電池など一切ない、機械式カメラである。金属の冷たさが、表面に這ってある薄い皮を通して感じられる。レンズを動かしてみる。古いからか、ちょっとネバーっとした感触があるが、歯車を通して2つのレンズが動く感じが手に伝わってくる。この感触、どこか暖かさを感じる。冷たい金属製でありながら、機械としての意志のようなものを感じる。
私の手元にも機械式のカメラがある。といってもそれほど古くはない。それでも20年以上前のカメラではある。機械式の1眼レフとしては最後の頃のカメラである。機械式の利点は? はっきり言ってあまりない。唯一の利点といえるのが、電池が不要なことである。だから、低温 で電池の動きが悪くなうような条件でも使用できる。とはいえ、普通は電子式でも十分使えるのだから利点というほどのものではないかもしれない。あとはもう、感覚的な違いだけだろう。

さて、機械式カメラをちょっと動かしてみよう。まずシャッター速度。つまみを回してシャッター速度を選ぶ。電子式は見た目が同じであってもただのスイッチにすぎない。でも、機械式はこの奥でちょっとした調整が入る。だから、気のせいか、シャッター速度によってちょっと感触が違うような気がする。セルフタイマー。これはもう、ゼンマイ式であり、ジー ・・・ という音を立てながら進む。無音になれた感覚からするといかにも、という感じになる。
でも、一番の違いはやはりシャッターリリースの瞬間だろう。電子式は、シャッターを切るとは言っても単にスイッチを押すだけである。感触の違いはあっても、呼び鈴を鳴らすのと同じである。でも。機械式は違う。シャッターボタンを押す瞬間、ストッパーがはずれ、バネで鏡を持ち上げ、シャッター幕が走り、そして閉じる。この、ストッパーがはずれる瞬間、これが何とも言えない。このときの指の感覚をグラフにしても、電子式と機械式の差は出ないかもしれない。でも、この感覚、やはり機械式と電子式とでは違うように思う。数字に出ないものだから、言葉に表すのも難しい。だけど、その違い、指はちゃんと感じている。機械式の方が、官能的にさえ感じるのだ。

カメラを構えたとき、右の人差し指は自然にシャッターボタンにかかる。構図を決め、ピントを合わせ、露出を合わせ、シャッターチャンスを待つ。人差し指はぐっと押し込まれ、最後の瞬間まで進み、止まる。もう少しでも進むとシャッターが切れる。この瞬間の位置、これを指は知ってる。その、ほんのわずか手前で止まる。目はレンズを通し、フィルムになりきる。次の一瞬、人差し指はほんのわずか進む。外から見ていても指の動きは見えない。その瞬間、シャッターボタンはふっと軽くなり、カメラは軽いが厳粛な音を立てる。その一瞬をフィルムに焼き付けるために。

蕎麦の食べ方 2001/1/9

ラジオを聞いていると、オーストラリアでの蕎麦屋の話をしていた。オーストラリアにも蕎麦が広まり始め、お客も増えてきているそうだ。
ここでの蕎麦の食べ方は? というと日本同様、箸を使うそうだ。箸が使えないお客のためにナイフとフォークも用意はしているが、ほとんどの人は箸を使うという。
さて、日本で蕎麦屋に行くと、豪快な音を立ててすする人が結構いる。老舗の蕎麦屋では、ちょっと小粋なお年寄りがほれぼれするような音を立てていたりする。そんな人の隣で未熟な私は? というと、変な音を立てるよりは、と遠慮して音を立てずに・・・となってしまう。ではオーストラリアは? というとここは元々無音で食事する地。だから、皆さん静かに食べているそうだ。 で、現地駐在の日本人は? というとこれが正しい蕎麦の食べ方、ということで豪快に音を立てて食べている、という。現地の人は目を丸くするそうな。

これで思い出したのが、以前本で読んだ外国人の話である。彼は、”日本では音を立てて汁などをすするのが作法”と考え、あらかじめ音を立てて飲む練習をしてから来日したという。で、初日に喫茶店で日本人が音を立てずに慎重にコーヒーを飲んでる隣で豪快な音を立てて飲んだという。
これはすばらしい話だと思う。もちろん、彼にとっては音を立てる、というのは子供の頃からの作法を破ることに他ならない。にもかかわらず、これが日本の文化、と理解しそれを尊重するために、練習までしたのである。相手の文化を尊重する。これは決して簡単なことではない。もっともっと見習わなくては・・・。
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かまぼこの鯛 2001/1/8

今朝の新聞に、富山県が全面広告を出していた。しかもカラーで。
その広告には、新聞の1ページからはみ出すように、かまぼこの鯛が載っていた。私は勝手に鯛かまなんて読んでいるのだが、これはは鯛の形をした蒲鉾のこと。鮮やかな赤い色で作られている。これが全面に写っていたのだから結構目立つ。鯛かまは、大きさはいろいろあり、新聞のは長さ約50cm程度であるが、もう少し小さいものから、大きいものは1mを越すようなものまである。これに比べれば、新聞からはみ出す、というのはまだ小さい方、かもしれない。

この鯛かま、もちろん普通に家庭で買うものではない。この大きさだから、簡単に食べきれるものではないし、値段も相当する。鯛かまは、結婚式やお祭の際の引き出物として使われるものである。だから、普通にスーパーなどで売っているわけではない。(最近は家庭用?に20cm位の小降りのも最近は出てきた)私が子供の頃には、祭りなどの際に結構貰ってきたものである。
でも、この大きな蒲鉾、どうやって食べるのか? もちろん、中身は蒲鉾だから、普通に食べることができる。生でわさび醤油で食べても良いし、焼くなり煮るなり、料理して食べてもよい。見た目が変わっているが、蒲鉾としては上質であり、味はとてもよい。
しかし、大きさが大きさである。普通の蒲鉾の何十倍? いくら美味しくてもこれではもてあましてしまう。実はこれ、切って近所や親戚におすそ分けするものだったのだ。大きいとはいえ、2〜4つに分ければ大家族には丁度よい。この場合、おすそ分けには、福を分ける、というの意味もある。だから、私が子供の頃には結構近所の家から貰ったものだし、届けたりもした。
しかし、残念なことに田舎でも近所づきあいが薄くなってきている。祭りでも、鯛かまを付けるような宴会はやらなくなってきている。普段の食生活が贅沢になり、祭りの特別な料理をあまり喜ばなくなった、という面もあるだろう。最近は鯛かまを見るのは結婚式だけ、みたいな感じになってきている。寂しい面もあるが、時代の流れ、ということだろうか。

余談であるが、私の結婚の際の披露宴でも鯛かまが出た。普通の家庭はいいとして、扱いに困ったのが単身赴任できている上司たち。家庭でも大きすぎてもてあますこの鯛かま、めでたく、会社のみんなの胃袋に収まったそうな。

 

コレクション競争? 2001/1/13

私は趣味で博物館を回ってる。何館回った? と聞かれたら”600以上”、と答えることにしてる。私の場合、1990年5月から訪問の記録を取っていて、それが639館(2001/1/13現在)になっている。これ以外に行った館はもちろんあり、場合によっては日付の入った入場券が残っていたりしているのだが、記録という面で怪しくなるのでそれらは除いている。

さて、数を記録しているとやはり気になる。早く云えば数を増やしたくなるのだ。これはコレクションなどにも通じるものがあるだろう。コレクションで、○○を100持っている、と言うよりは500持っている、という方がやっぱりすごいし、まして千、万となればなおのことである。もちろん、質もある。価値の低いものを何百持っているよりは質の高いものを数点持っている方がすごい、ともいえる。
私の場合も、一時数を増やすことに熱心になってしまったこともある。こうなると博物館の展示を見る余裕も少なくなってしまう。1日あたりの数の最高は10館である。小さな館が中心だったらそれほど無理な数ではないが、規模がちょっと大きくなると相当きつい。これは横浜でのことだったが、歩く距離が長かったこともあり相当疲れた。実は、行ったとはあるけれど記録には残っていない館が半分近くあったし、展示も変わっていなかったのでなんとか回り切れたが、新規博物館でこれだけの数をこなしたら印象も残りにくいだろう。無理をするものではないな、というのが正直なところである。
では、数を競うことは無意味か?というと決してそうではないと思う。数を意識していると、あまり関心のないテーマの博物館などへも足を向けることになる。行けば行ったで展示は見るから、やはり知識は増える。実は、以前は陶芸にあまり関心はなかったのだが、新設の美術館に行くとこれがまた美しかった。そうなると”陶芸も良いな”などと思い始める。その結果、気分を新たにあちこち見始めるから、十分効果はあった、ということだろう。

あまり関心がないなら、などといわず、博物館/美術館、いかがですか?きっと面白い発見がありますよ。

 

雨樋 2001/2/26

東京で小さな郷土資料館を眺めた後、近くに何か見るところは無いか? と駅前の地図を見ると良く聞く名前の寺が近くにあったので早速そちらに足を向けた。並木道の参道の奥にある門をくぐる。もう都会の雑踏は聞こえず、別世界のような静けさだ。訪問する人も少ない。門の近くに”我関せず”といった感じで猫が寝そべっていたりする。建物も悪くないな・・・と思っていてふと気づいた。軒先が何か変なのだ。滑らかな曲線を描いた屋根の下には先を白く塗った垂木がある。が、この垂木が乱れて見えたのだ。正確に言うと、垂木の先に何か黒いものがある。よく見るとこれは、雨樋を支える金具だ。
しかし、なぜこんなに無造作に金具を打ちつけたのだろうか? この垂木、瓦の線に合わせてある。瓦の線、何本かおきに、それにあわせるように垂木がある。しかも、垂木の先は白く塗ってある。ここまで考えて設計してるのに、なぜ? などと不思議に思いながら、角の部分を見上げてみた。やはり美しくない。折角の鋭い先が死んでしまっている。
ここで気が付いた。おそらく、この雨樋は後からつけたものではないだろうか、と。
そういえば、似たような例を京都でも見かけた。これはもっとひどい例である。滑らかな曲線を描く、反りの入った屋根の下に直線の雨樋をおいてある。これでは丹精こめた風景画に落書きをしたようなものだ。びてきかんかくもなにも合ったものではない。これもおそらく、後からつけたものだと思う。
そう思って寺からの帰り道、家の軒先を見てみるとやっぱり美しくない。美しい瓦や外壁を使っているところに、無造作にプラスチックの樋やパイプがあるのだ。どう見ても美しくない。一緒に作っているはずなのに、無造作なのだ。中にはスッキリした家もあった。これは、始めから雨樋を意識して設計したプレハブ住宅だった。が、やはり変なパイプがある。
本当に雨樋は必要なのだろうか?
私は無くてもいいような気がしてきた。軒先から雨が落ちる。多分、地面の土は水滴に打たれて流れるかもしれない。ならばそこに小石でも敷けばよい。家に入るときに勢いのある水にあたる。でも、どうせ雨でぬれているのだ。それに、屋根の形の工夫で濡れ難く出来る。たとえば唐破風である。まあ、ただひとつ気になるとすれば、雨の庭の眺めるときに邪魔になるかな?といったことだ。
ここでふと気が付いた。小石を敷くとか、入り口に唐風の屋根を作るとか、これは昔ながらの寺院などでよく見られた様式ではないか。なんのことはない。先人がいろいろと工夫してあったのに、そんなことをなにも考えずに雨樋を作り、折角の美しさを台無しにしてしまったのではないか。時々見かける雨どいの無い屋根。これは実に美しい。特に寺院などでは、垂木がなんともいえない美しさを出している。この美しさは、まさに屋根の先のためにあるものだ。この他にも、薄い板を重ねた屋根。これも軒先の美しさが命だ。あったほうが良いから、程度の雨樋などすぐにでも剥ぎ取ってしまうべきだろう。

つい目に付いた雨樋を例にあげたが、こんな例は結構あると思う。この機能が本当に必要なのか? 必要だとしても他にもっとよい工夫は無いものなのか? 視野を広く持ち、考える工夫、してゆきたいものだ。

本への思い入れ 2001/1/31

羽田空港地下に小さな本屋がある。京急の乗り場に向かう途中にある、うっかりしていると見落としそうな本屋である。でもここは、航空関係の本が豊富である。だから、その種の本を探す人たちには有名な本屋である。あまり刷られない本なども置いてあったりするので、時間があればよく立ち寄る。
昨日、出張で羽田に着いたときもついふらりと入った。ふと目についたのが”喪の途上にて”だった。初めてみる本だったので新しい本かと思ったら初版が92年だった。内容は飛行機事故に関するもの。ちょっと変わった視点からの本だったので、高いかな?と思いはしたが引かれるように買ってしまった。で、レジに持ってゆくと店員さん(ひょっとして店長さん?)が、”いい本を買われる・・・”とつぶやくように言われた。つられるように返事をすると、”良い本だから 、(一般的ではないけど)きっと買ってくれる人がいると思って何冊か仕入れたが、早速売れた・・・”とのこと。なんだか、本の選び方を誉められたようでとてもうれしかった。
本屋の場合、他の店と違って仕入れを自由に出来ないことが多いという。これは、本という特殊性から来ていることもあるだろう。普通に仕入れた場合は返本が出来るのだが、この本を、とあえて注文した場合は買い切りになるらしい。売れなければ、その本は不良在庫になる。本は利益率が低いから、不良在庫になってしまうとあっという間に利益を食いつぶしてしまう。だから、こういう本を仕入れるにはやはり勇気がいるだろう。そしてもうひとつ、いい本だから売れるとは限らない。ここが難しいところだろう。

さてこの本、店員さんが私にあえて話しかけたくらいだから、相当の思い入れのある本なのだと思う。そういう本に出会えたこと、やはりうれしいと思う。それに、店員さんの思い入れを知ったこと。これもまたうれしい。まだ読んではいないのだが、心して読まねば・・・なんて思ってしまう。

 

ボランティア

先日、新聞を見ると以前の上司の名前が目に付いた。もちろん犯罪などではなく、パソコン指導のボランティアの記事での紹介だった。紹介されていたのは、子供たちなどへのパソコン指導を行うグループである。中古のパソコンの提供をうけ、それらのPCを子供たちに使って貰う、というものであるが、パソコンの使い方は必ずしも簡単ではない。このグループでは、子供たちなどへの指導などを行っている、とのことだった。
ボランティアの経験は? と聞かれると残念ながら私には胸を張って言えるような経験はない。とはいっても未経験ではなく、河川の清掃とか、凧づくり教室での応援とかがある。しかし、回数的に十分とは言えない。ボランティア、というとつい、例に挙げた河川の清掃みたいにゴミ拾いのイメージが強い。でも、パソコン教室みたいなものもあるのだな、と改めて認識した。考えてみれば、あらゆるものがパソコン使用を前提に進み始めている。今はまだインターネットというと趣味の世界と一部の実用で止まっているが、近いうちにインターネットが使えないと生活に不便が出始めるような感じがする。不便、というのは大げさかもしれないが、少なくとも便利さの享受はできない。インターネットでの情報提供の役割が高くなるにつれ、使えないことの不便さはこれからだんだんと高くなるだろう。
ならばパソコンを使って、となるとこれがまだ敷居は高い。使いやすくする工夫はされているものの、まだまだ普通の人が日常的に使うには足りないようにおもう。では、どこかで習う? といっても、これもなかなか難しいような感じがある。普通の教室では時間の制約があったりするし、仕事に生かす、的なものが中心だったりする。理想はやはり少人数で、となるだろうが、これでは価格面で高くしないと割に合わない。それでは、仕事をするわけでもないのに簡単に受けられない。もし、家庭教師、となると1回1〜2万円が最低だろう。そういう意味では、パソコン指導こそ、ボランティア的な活動が有効なのかもしれない。
今までボランティア活動に無関心だったわけは決してなかったのだが、どうも目の向けどころが狭かったようだ。ボランティアだからこそ、自分の技術を生かすのが一番望ましいはずだ。まずは、情報収集を始め、自分に合ったボランティア活動を広く探してみようと思う。

SPAMメール 2000/12/1

 

SPAMメール、なる言葉がある。これは、宣伝などで一方的に大量に送られるメールを指している。このSPAMであるが、これは実は商品名である。ランチョンミート、肉の缶詰である。ここのメーカが、コマーシャルでやたらと商品である”SPAM”をしつこいくらい連呼したことから結び付けられた、などと言われている。
先日、輸入食品を扱う店の店頭でSPAMを見かけたので、つい買ってしまった。まだ食べていないので、味についてはなんともいえないが、これを買った店は比較的上質のものを扱っているので期待してもいいかもしれない。まあ、外観で見ればごく普通の缶詰である。
SPAMメールは、残念ながら好意的な言葉ではない。マイナスのイメージを持つ言葉である。このメーカとしては、どんな気持ちだろうか? 言葉のイメージとしてはもちろんマイナスである。SPAMメールという言葉をなくそうとしてる、などという話も聞いたことがある。でも、逆に言えばそれだけ宣伝されている、とも言える。これは伝聞なのだが、テレビのコマーシャル、これはたとえ不快感を与えたとしても、話題となり商品名が知れ渡ればそれでよいのだ、という考え方があるという。事実かどうかはわからないが、ある意味ではこれは正しいと思う。コマーシャルは結局、売上増につながらなければ意味はないのだから。そういう意味では、SPAMメールという言葉、これは商品名を広めてくれているともいえる。実際、SPAMメールなる言葉がなかったら、私は買ってみようなどと思わなかっただろう。もしおいしければまた買うかもしれない。それは内容次第である。
さて、SPAMに相当する、日本での言葉は何だろうか? 私は選挙の宣伝カーではないかと思う。やたらと候補者の名前を連呼し、うるさくて迷惑なだけ。おまけに内容に価値はまったくない。とすれば選挙メール? これでは選挙そのものが悪者にされかねない。誰か選挙の宣伝カーをイメージする単語を発明してくれないだろうか? もし、SPAMメールにとって変わるなら、少しは選挙も、そして政治もよくなるかもしれない。

行列 2000/12/1

某ハンバーガー店での出来事である。私が店に入ったとき、各レジに1〜2人の列が出来ていた。手頃な列に並び待っていると、後から来た初老の夫婦が隣の列に並んだ。少し後、私の見込みがはずれ、隣の列の方が先に空いた。これは見込み違いだからしょうがないな、と思っていたところ、初老の夫婦は私に先に、と手招きしてくれた。ちょっと悩んだ末、好意に甘えることにした。私も似たようなことをやったことはなんどもあることだし。

実は、この店で、列に関して声を荒げたことがある。それは、列に並んで私の番になったとき、店員が隣の列に、と言ったことが原因である。隣、といっても空いている訳ではなく、3人くらい既に並んでいたので、”また並び直せというのか”といった感じの文句をつい言ってしまった。このときは、私の直前の注文がかなり多かったことが理由なのだが、それにしても店員の対応としては不適切だろう。その応対を上位者が見ていて対応してくれたのだが、その店員、上司の状況確認の間も何となく不機嫌な感じで返事をしていた。まあ、店員にしてみれば前客の注文数が多く、どうしても短時間に処理できないので、親切で言ったのだとは思うが、これはやはり対応を誤った、と言わなくてはならない。列に並んでいた立場から言えば、後から来た人の更に後ろに並べ、では納得できるはずはない。これはやはり、その場で別の店員を回すか、それが出来なければ、せめて”隣の列の2番目に”といい、その列の人たちに事情を説明すべきだろう。これならみんな納得できるわけだし、問題にはならなかったと思う。

だから、というわけでもないと思うが、最近は窓口が複数でも列を1つにして、列の先頭の人が空いた窓口に行く方法が一般的になってきた。フォーク並び、などとも言われているようだが、これは実に合理的だと思う。注文の処理に時間がかかる人がいたとして確実に先着順にできるのだから。行列ではないが、銀行などで行っている整理券順での処理も同じ考え方だと思う。待ちの時間が公平になるので、非常にいいことだと思う。しかし、フォーク並びにはある程度のスペースは必要になる。一般にハンバーガー店では、残念ながらフォーク待ちにするようなスペースはない。このため、仕方なく普通の並びになっているのかもしれない。もっとも、普通の注文だけなら大差はないのだけど・・・。

この並び方、もっと広まればいいと思う。同じ並ぶにしても不快感は少ないのだから、同じ時間待つにしても安心できる。ただ、ハンバーガー店での粋な初老の夫婦みたいな対応、これが見られないのはちょっと残念な気もする。

自動化 2000/12/9

先日、ビッグサイトでの展示会に行った。ビッグサイトへの交通機関はいろいろあるが、やはりユリカモメが一番楽しめる。レインボ ーブリッジの景色も良いし、ベイエリアのにぎわいも楽しめる。そして、なによりも一番前からの車窓。これがなんとも言えない。これは、ユリカモメが無人運転だからこそ、である。こういう席を喜ぶののは子供っぽいようにも思うが、ここからの絶景を楽しまないのはやはりもったいないと思う。だから、時間に余裕があれば1本2本見送ってでもこの席に座る。
先日乗ったとき、新橋で先行する隣の列車を見ると運転手さんが運転の用意をしていた。普段は自動運転、とはいっても何かの事情があれば運転手さんの操作が必要になることもあるだろう。多分、そういう場合に備えての運転経験なのだろう。
自動運転とはちょっと違うが、飛行機の操縦もかなりの部分が自動化されているという。着陸なども一定の条件下であれば自動着陸が可能であり、並のパイロットよりもなめらかな着陸だという。そういえば、身の回りの道具、機械類、みんな自動化が進んでいる。カメラも露出やピント合わせはもう自動になっている。自動車もオートマチックが普通だ。こういう自動化により、敷居が低くなるのは大いに歓迎したい。
だけど、これらとどうつきあうか? これがこれからの問題かもしれない。もちろん、カメラなどで、面倒なことはカメラ任せでよい、その代わり、カメラの対応できる範囲で我慢する、というのならば深く考えることはない。大いに利用すればよい。でも、どういうときに自動で対応しきれないか、どうすれば失敗を防げるか、位は知っておきたいものだ。これが自動化での使いこなしだろと思う。
では、自動化が進むとどうなるか。ここで人間の役割は? となるとかなり難しいことになる。たとえば飛行機の操縦。これは普段ならすべて自動で、といても良いらしい。で、自動で対応できない、というのは非常に条件の悪いときである。たとえばエンジンが1つ止まった、装置に異常がある、風が強い・・・。では、普段自動で済ませていていうときだけ人間が、というのは可能だろうか? やはり難しいものがあると思う。こういうときには、普段の操縦がものをいうだろう。だからこそ、ユリカモメでも、運転手さんが時々運転しているのかもしれない。
自動化が進んである意味、楽になった。でも、なまけてよい、といことでは決してないことは忘れてはならないようだ。

理科年表 2000/12/8

ふと本屋に立ち寄ると13年版の理科年表が目に付いた。理科年表は、知っている人は結構利用するものだが、存在自体、全く知らない人が大多数だろう。私は以前何度か見たこともあったので懐かしくなり、つい買ってしまった。

理科年表の中身は? 実は、ほとんどが表である。分野で言えば、暦、天文、気象、物理/科学、地学、生物。表、あるいは定数などが並んでいる。一見、これほど味気ないものはないだろう。これに比べれば時刻表の方がよっぽど暖かみがあるように思う。表の内容は、といえば、たとえば地球や太陽、火星などの大きさや重さ、といった普段の生活に全く関係ないものも結構ある。でも、ぱらぱらと見てるとおもしろいものが沢山載っている。潮の満ち引きなどは釣りをする人に役立ちそうだし、平均気温など、天気予報でおなじみの情報ももちろん載っている。このほかに、山の高さ、川の長さや流域面積なども載っている。この他には星座や星の名前などもある。さっき、地球の大きさなどは知らなくても生活に困らない、などとかいたが、知っていると結構面白いものでもある。地球1周は4万km。私の車はもう少しで地球を1周することになる。走行距離を聞かれて10万キロ、といわずに地球2周半、というの洒落ていると思う。もっとも、太陽などの大きさになると大きすぎて使い道がないかもしれない。

年表の中で身近なのはやはり気象の情報だろう。前述の気温の他、雨量や初雪、積雪量、日射、不快指数・・・細かな情報が載っている。月別、観測地別に細かく載っている。これを見ていると意外なことも少なくない。たとえば私の住む金沢。雪国、としてのイメージが強い町だが、最大積雪量は記録上、48cmである。これは、たとえば東京は46cmでほとんど同じだし、名古屋などは49cmで金沢以上である。意外と少ないものだ、と驚いてしまう。もっとも、隣の富山や福井では2m以上の記録があるので、やはり北陸は雪国、豪雪地帯だと実感する。このほかにも、各都市の気温などと自分の町などと比べてみると以外に暖かい/寒い、などといったこともわかってくる。

こう見てみると、ただの表なのに実におもしろい情報が載っていることがわかる。価格は2400円(税別)、とちょっと高いが約1000ページに渡って細かな情報があることを考えるとずいぶんお値打ちのようにも思える。年表、ではあるが、多くの情報は科学上の新しい発見でもなければ変わらないので数年は使えるだろう。気象などはごく最近の情報を反映したものであるが、13年版、つまり2001年版では、だいたい1999年頃までの情報が最新である。
いろいろと知っていると豊かになりそうな情報が満載されているこの年表、是非1度買ってみることをおすすめしたい。難しいところは別に見なくてもいいのだし、多分興味を持ちそうなところだけ見たとしても十分価値はあると思う。
なお、理科年表には、大きさに2種類ある。小さな携帯版と大きな机上版がある。卓上版でA5版で、携帯版はその半分になる。中身は同じ。普通の人は持ち運ぶ必要はないと思うので、より読みやすい机上版をおすすめしたい。

ずいぶんと楽しめる本である。

風に吹かれて  かるい話題