東海道新幹線、40周年 2004/10/2

東海道新幹線が開業して40年になるそうだ。
東海道新幹線、日本の人口密集地帯を抜けることもあり、利用者は非常に多い。東京などではいつ見てもかなりの人が乗っている。スピードが速くて本数が多て定時性が高く、チェックインやセキュリティチェックのような面倒な手続きも要らない。大阪や神戸などまででは飛行機よりも優位、というのも言われるのもわかる。 新幹線1編成に1000人少々。これが1時間に10本以上。つまり、新幹線は1時間に一万人以上、運ぶことができる日本を支えてきた、といっても大げさではないだろう。

私の場合、新幹線と離れたところに住んでいる期間が長いこともあり、それほどなじみのある乗り物ではない。利用するのは東京に出るときなどであったが、子供のころは上京する機会がそんなにあるわけがない。学生になると新幹線沿線に住むようになったが、料金が(学生には)高い。時間がかかっても安い普通列車やバスを利用することが多かった。社会人になるとどちらかといえば飛行機が多くなり、一時期名古屋出張で頻繁に利用したが、仕事では飛行機、行楽では自動車が中心となってしまった。
とはいえ、鉄道自体が好きであり、新幹線もまた利用したい乗り物の一つである。乗車時間はやや長いが、その分ちょっと落ち着ける。飛行機の国内線ほどあわただしさはなく、駅弁やお酒、といった楽しみもある。飛行機よりも広いのもまた嬉しい。窓も大きくて景色も楽しみやすい。通勤電車的、などという人も少なくないが、私には魅力ある乗り物である。


ところで新幹線、この影響はいろいろな面で凄いものと思う。
経済効果については言うまでもないが、なによりも斜陽といわれた鉄道、これをを高速化し、なおかつ安全で大量輸送という鉄道の特性を生かすことで中距離輸送での地位を復活させたことだろう。国内での貢献はもちろんのこと、TGVなどの誕生にもつながった。そのほかの国でも似たような鉄道が作られ始めている。これはすごいことと思う。
新幹線がなかったら・・・。 どこかで鉄道が復権した可能性はあるが、そうならなかった可能性もある。いずれにしても、高速鉄道の普及はだいぶ遅れたことだろう。そして、飛行機がより増えて資源や環境への影響もまた大きくなっていたことと思う。

さて、新幹線の開発が決まったとき、技術者が悩んだのは”どうやって時速200Kmを出すか”ではなく、”時速200Kmで走る電車をどうやって止めるか”だったそうだ。時速200Kmで走る電車は、時速100Kmの電車の4倍のエネルギーがある。制動が効かない、というのは大事故につながる。また、信号などは従来のものでは見落とす可能性が高くなる。鉄道にはつきもののポイント、これも列車の直前で切り替えたのでは事故になるので、信号を赤にして停止に要する時間が経過したのちに切り替える・・・。
このような細かな点も含め、短期間にシステムを作り上げ、しかも大きな事故もなく運行している・・・。
一軒普通の鉄道の延長的であり、ただの新しい電車にしか見えなかったりするが、システムとしてみた場合は技術者的に見て素晴らしいもの、と思う。

これだけのシステムを短時間に作り上げた技術者に敬意を表すると共に、これからの継続した運行もまた期待したい。当分は、日本の経済を支える大きな柱となることだろう。

古いダムの魅力

秋田市の郊外にある”藤倉水源地”。これは、明治期にできた水道施設である。平成5年に国の建造物の重要文化財「近代化遺産」に指定されている。

この貯水池、以前読んだ本で知っていた。だけど、名前と秋田にあることは忘れてしまっていた。秋田にきて、予定の博物館を回ってちょっと一休みしていた時にふと手元にあった秋田の観光案内を見、地図の中にある写真で思い出した。ダムの上の特徴ある赤い橋。すぐに本の内容がよみがえった。 見てみたい・・・。 時計を見ると16時少し前。ダムまでは市街地から十数キロだろうか? 秋の夕暮れは早い。暗くなってからでは見られない。ぎりぎり間に合う時間だろう。
 急いで飛び出し、車に乗ってカーナビを動かした。近代化遺産とはいえ小さなダム。もちろんカーナビに載っていない。観光案内の地図を見ながら場所を確かめ、目的地に指定する。カーナビの到着予定時間は16:45。暗くなるぎりぎりの時間だろう。
心は急ぐが事故だけはいけない。落ち着いて進む。幸い、道は混んでいなくて、幹線に入ると所要時間はどんどん短くなっていった。山に入ると暗くなり、安全のためヘッドライトをつけたが、まだ外は見える。信号もなくなり、到着予定時刻場見るたびに早くなってゆく。そろそろ目的地なのにそれらしいところはない・・・と思っていた直後にダムの白い水の流れが見えた。後ろからの車もいたので安全に止められるところまでそのまま進み、引き返す。時計は16:30を少し過ぎたところ。十分外は見える。

ダムへ行くには別の道になるようだが、この道路からでも十分見える。あと10分で暗くなるかな、と思う時間。ここで見ることにした。ダムの高さは16m少々。小さなダムである。しかし、幅30m近くに渡って水が乗り越えている。また、隣には放水路があり、ここも水が流れている。水はダム表面の石で白くなり、夕方の薄暗い中に浮き上がって見える。そして、機お香を呼び起こしてくれた真っ赤な、繊細な橋がダムの上にある。私が今までに見たダムの中ではおそらく一番古いもの。石が積まれているものは初めてである。(ダム自体はコンクリート製で、石は表面のみ) その石のために、水は白く泡立ち、水の流れを繊細なものにしている。古さを感じる。だけど、とても美しいダムだと思う。
暗くならないうちにと、急いで写真を撮り、ダムを眺める。眺めてはまた写したくなる。そんなに写したつもりはなかったのに、気がついたら長いフイルムが半分以下になっていた。写真撮影にはぎりぎりの暗さ。広角は大丈夫だが、望遠は手すりのコンクリートの塊にカメラを載せて写す。そうでなければ写せない暗さだ。

この上水施設、明治40年に給水が始まり、昭和48年まで約70年、水を供給していた。役目を終えたあと、しばらく放置されたようになって老朽化も進んだため、取り壊されることになったという。しかし、幸いなことに貴重な建造物として保存されることとなり、補修も行われた。

堰堤を乗り越える水、放水路からの水。最近の大ダムの放水と違って水はやさしい。この水の流れはどこか心を落ち着かせるものがあると思う。
ダム自体、引退し、水をやさしく流せることもあるだろう。どこか気品ある老紳士のように感じた。これからも長く水を流してほしいと思う。

右の、幅の広い流れがダムを乗り越える水。左の水の流れは放水路
ダムの上の橋。
非常の細く、繊細な美しさを感じる。管理用で、普通の人は残念ながら渡れないとのこと。

Fighter pilot

50年富山県大門町で開催された凧の祭りに行った。外国の人で、インドの喧嘩凧に似た凧を揚げている人がいた。
この凧、操るにはかなりの技術がいる。人にもよるが、何十回と飛ばさないと操るのは難しい。だから、喧嘩凧を呼ばせる人は、”flier”ではなく、”pilot”と呼ぶ。だから、喧嘩凧を操れる人は、Fighter pilotとなる。
私は・・・”pilot”と呼ぶにはまだ足りないと思ってた。でも今は・・・遠慮がちに”pilot”と自称してよいかな、と思っている。

喧嘩凧、揚げている人を見ると、やはり気になる。早速探し出してみたのだが、外国の人で、残念ながら言葉が通じなかった。それでも、操る様子から見て、ある程度の腕前であることはわかった。
そして、凧の祭りも終わりに近くなったので、私も喧嘩凧を持ち出し、長い尻尾を付けて少し飛び回らせた。そして、気がついたら彼もそばにいた。多分、会場が空いてきたので真ん中の方に出てきたのだろう。そして・・・私の飛ばしている喧嘩凧を見ていた。彼の凧の動き、早くなったような気がした。
私が彼の凧の操作で技量がわかったのと同様に、私の技量も凧の動きでわかったのかもしれない。気のせいかも知れないが、彼の、私を見る目がちょっと違ってきたようにも感じた。

久しぶりに見るFighter pilot。その技、やはり見ていて気持ちが良い。技の美しさを見るような思いがした。

さて・・・。私が操作しているとき、見た目に美しさはあるのだろうか?

千鳥格子

千鳥格子。これを知っている人はおそらくほとんどいないだろう。一見、木で組んだごく普通の格子に見える。木の太さは3cm位。特に変わった様子はない。でも、木の棒を目で追ってみると不思議なことがわかる。まずは縦の木を追ってみよう。当然、横の木と交差するのだが、その横の木を手前に飛び越して後ろに隠れ、また手前を飛び越して後ろに隠れる・・・この繰り返しである。どの木もそうなっている。では横方向に走る木は? これも同様だ。縦の木を手前に飛び越して後ろに隠れ、また手前を飛び越して後ろに隠れる。針金で作ったもち焼き網などと同じことを木で作ったわけだ。なんでもないようだけど、これを組んでみようと思うと、すぐに行き詰まる。格子だから、木に溝を彫るようにして組み合わせる。この溝は互い違いに切られることになる。これを組み合わせる。 3本までは組める。4本目で井の字型に・・・。これがもう組めなくなってしまう。そう、木は硬く針金のように曲げることはできないのだ。溝を嵌め込んだらもう動かせない。もちろん、裏で切り継ぎすれば簡単である。しかし、それでは継ぎ目が見えてしまう。もちろん、糊や釘を安易に使わないのが伝統的な作り方であり、もちろん、千鳥格子にそんな継ぎ目などはない。

千鳥格子、これは現実に存在しているのだからちゃんとした作り方があるわけである。これを発明した人はいったいどんな人だろう。どうしても千鳥に組みたくて、悩み続けたのだろうか? 種明かしをもししたとすれば、・・・。実は作るだけならそれほど高度な技ではない。しかし、それを発見するのは容易では決してない。これは秘術、といってもいいだろう。が、そんな秘術が使われているにもかかわらず、普通の格子にしか見えない。そもそも普通の人は格子をじっくり眺める、なんてことはしないのだ。多くの人は見逃してしまうだろう。また、仮に見抜いたとしても、これが普通の方法では作れないことまで考えもしない。製法を悩むのはごくごく一部の人だろう。

この千鳥格子、実は最近になってようやく実物を見つけた。それは京都の有名なお寺。観光客は必ず1度は行く場所である。そして、多くの人がその前を横切る。でも、気がついたと思える人は皆無であった。当然のことだろう。私は、千鳥格子の存在を知っていて、また普通の組み方で作れないことも知った上で格子を眺め、そして気づいただけのことだ。知らなければ見落としていたに違いない。

千鳥格子は、飛騨高山に多く見られるという。そこの古い匠が発明したのだろうか? 半ば、秘伝のように伝わったかもしれない。しかし、これを見抜ける人はほとんどいない。江戸時代、おそらく今よりも感性が高かった時代であっても、同じことが言えたと思う。また、作った人も多くの人が眺めてその技に感心する、なんて考えてもいないだろう。ほんのほんのひとかけらの人に技を見てもらう。そして、頭をひねらせる。たったそれだけのことに秘伝ともいえる技術を生み出し、駆使する。わかる人だけわかればよい。知らない人は気づかなくてもよい。そんな気持ちがあってのことだろうか? 私は、ここに匠の心意気を垣間見たような気がする。

扇垂木

扇垂木、というのはご存じだろうか?

 

 

高岡市瑞龍寺の山門(国宝)から

扇垂木の前にまず垂木を説明しておこう。ご存じの方も少なくないと思うが、垂木というのは、屋根を支える木で、屋根の傾く方向に走っている。写真を見て欲しい。写真の屋根の下に、屋根の下に細い木が何本も何本も並んで見えるのが見える。この木が垂木である。もちろん、普通の住宅などにもある。この垂木の上に屋根板を張り、瓦などを敷く。普通はまっすぐな垂木、1 本でよいのだが、寺院などの場合、軒先部分に垂木の上に更に短い垂木を乗せる。これが飛檐(ひえん)垂木である。写真では、垂木が2本、縦に並んでいるように見えるが、この上になっている方が飛檐垂木である。これは、屋根に反りを付けるためにある。

さて、ここで扇垂木を紹介しよう。垂木は普通、平行に並んでいる。屋根を真上から見ると、垂木が平行に見える。もちろん、角の部分は屋根の形によっては直角に見えることになる。これに対して扇垂木は放射状に配される。真上から見ると垂木が中心の一点から広がるような感じになる。扇垂木は大変難しく、木取りも大変なのであまり見られない。
ここでもう一度写真を見て欲しい。もう気づかれた方も少なくないと思うが、写真の2階の屋根。これが扇垂木である。そして、1階の屋根が普通の垂木である。この写真は富山県高岡市の瑞龍寺の山門(国宝)のものである。2階だけ見ていると気が付きにくいが、1階と見比べると違いがわかりやすいと思う。特に端に近いところでは、違いがよくわかる。

では、なぜ扇垂木か? 屋根を支えることだけ考えれば、もちろん普通の垂木で十分である。扇垂木でなくてはならない理由は一つもない。ではなぜ? これはやはり美しさの追求、だろうと思う。放射状に伸びる垂木。やっぱり美しいと思う。どこか勢いがあると思う。特に屋根の端の部分。何の抵抗もなく、すーっと伸びている。これは、2枚目の写真の方がよくわかるかも知れない。扇垂木を見てしまうと普通の垂木が角の部分でなんとなく引っかかりを感じてしまう。やはり、扇垂木の方が1段、洗練されていると思う。

だが、扇垂木を作るのが容易ではないこと、これは素人にも想像が付く。しかも、寺院などでは、反りが付く。滑らかな反りを描きながら放射状に垂木を組む・・・。相当な技術だと思う。技術の目的はただ一つ、美しさのため、である。扇垂木でないから美しくない、なんて考える人はおそらくいないだろう。でも、職人はこの方がより美しいと考え、仏様の建物だから、とあえてより美しい扇垂木を選んだのだろう。あるいは、より完璧なものを求める気持ちが強かったのかもしてない。

宮大工の技術と心意気、十分私の心に響いてくれた

風に吹かれて  匠の心意気