「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて
獄中での厚遇、中川成夫「聴聴書作成不能」報告、他の疑惑
山田仮説−宮本顕治は「偽・非転向者」=特高協力者だった
山田正行PDFリンク+(宮地作成・仮説の追実験)=3部作
〔第1部目次〕
1、宮地コメント
(3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて− (P.45)
a.神話化と精神主義のコンプレクス (P.45)
b.獄中での厚遇 (P.47)
c.中川成夫の「聴聴書作成不能」の報告 (P.49)
d.宮本顧治と特高警察の関係性 (P.50)
e.宮本顕治と機動隊の関係性 (P.51)
f.小括 (P.51〜52)
2、山田正行PDFリンク (PDF全文)
(以下、宮地作成=山田正行「宮本顕治=偽・非転向者」仮説→私の追実験)
3、山田教授が発掘・公表した宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証
1、山田正行による宮本顕治「非転向」に疑惑−特高許可、「非転向」偽り
2、(表)による宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証 (表1)
3、〔疑惑証拠1〕、(1)宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、
(2)2つの独房、(3)宮本百合子『風知草』より、「結核病竃」の大小
4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫の経歴
5、〔疑惑証拠3〕、1928年〜34年検挙者の特高資料数 (表2)
6、〔疑惑証拠4〕、東大に機動隊突入の事前情報−川上徹『査問』より抜粋
4、スパイ査問事件における中央委員小畑の死亡シーンと中央委員宮本がしたこと
1、立花隆『日本共産党の研究』における小畑死亡シーンと宮本顕治がしたこと
2、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン
3、1976年、立花隆『日本共産党の研究』→「犬が吠えても歴史は進む」
5、分離公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述データ 〔表15〜25〕
6、獄中での厚遇・中川「聴聴書作成不能」報告・弾圧犠牲者数陳述理由の歴史的背景
1、33年、当局の対共産党方針大転換−トップ2人に転向声明→雪崩的転向誘導戦略
2、宮本検挙翌年、超高等極秘新転向第3戦略を追加=「偽・非転向者」ねつ造せよ!
7、宮本顕治は「偽・非転向者」=変節者・史上最悪の特高極秘協力者だったのか?
1、山田正行の仮説−特高警察が宮本「非転向」を許可、権力が宮本「偽・非転向」利用
2、権力の超高等秘密新第3戦略=宮本顕治を死刑脅迫→「偽・非転向者」に仕立てよ
3、新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」の役割・任務+見返りとしての極秘異例厚遇
8、多喜二・野呂・宮本にたいする特高中川成夫の対応・厚遇の差別扱いデータ(表)5つ
(表3) 山田正行指摘疑惑としての宮本顕治病監収容9回
(表4) 殺人主犯容疑未決囚が百合子と面会した年度と回数183回
(表5) 転向作家7人とただ一人非転向百合子と特高との関係
転向作家と非転向作家データからの百合子疑惑
(表6) 小林・野呂・宮本顕治ら3人の検挙・死亡月日経過と差別扱い理由
(表7) 「自壊没落期」中央委員会と殺人主犯容疑未決囚の役割
9、山田正行による「宮本顕治=偽・非転向者」仮説の信憑性→私の追実験結論
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』 (表4〜7)
『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
伊藤晃 『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫
いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本批判』ブカレスト特派員
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏
1、宮地コメント
これは、山田正行大阪教育大学教授・教育学博士PDFの下記題名全文のリンクである。全体が戦争責任問題の詳細で貴重な比較研究である。その中で、日本共産党との関係から、(3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて−(P.45〜52)をリンクにより紹介する。小見出しの赤字ページである。
本来なら、PDF全文のリンクだけで済む。ただ、ジャンプ機能になっていないので、(P.45〜52)まで行くのが分かりにくい。そこで、私のHPとして〔目次〕全体だけを載せた。カーソルを(P.45)まで一気に動かす。リンクだけなので、山田教授の了解を得ていない。
記憶の風化と歴史認識に関する心理歴史的研究−抵抗と転向の転倒−
緒論
1.問題の構造一史実から遊離した憶断の再生産−
(1)史実から遊離した文献の引用
(2)証拠の煙滅−1−
(3)記憶の風化と戦争を知らない世代による臆断の再生産
(4)証拠の煙滅一2−
(5)家永三郎の戦争責任論の意義
2.長浜功における戦争責任追及の問題
(1)長浜の戦争責任追及と全貌社の比較検討
a.全貌社と長浜の共通性
b.全貌社と長浜の差異
(2)宮原を支える家族の抵抗と長浜の歴史観の問題
(3)長浜による中井正一や柳田国男の評価と「戦争責任」追及の撞着
a.長浜の評価する中井と宮原との共同的関係
b.長浜の天皇制批判とその帰結
c.長浜による柳田の評価とその帰結
d.柳田の高踏的な保守主義の限界
f.柳田の戦後的な全体主義−「全部が落第」−
3.家永三郎の柳田批判と戦争責任を捉える観点
(1)家永と柳田の対談
(2)戦争責任の認識と転向論の相関性
(3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて− (P.45)
a.神話化と精神主義のコンプレクス (P.45)
b.獄中での厚遇 (P.47)
c.中川成夫の「聴聴書作成不能」の報告 (P.49)
d.宮本顧治と特高警察の関係性 (P.50)
e.宮本顕治と機動隊の関係性 (P.51)
f.小括 (P.51〜52)
4.佐藤広美の戦争責任論の限界
(1)抵抗と転向の転倒
(2)昭和研究会に対する佐藤広美の一面的な理解
2、山田正行PDFリンク (PDF全文)
戦争責任問題なら、全文を最初から見てください。ただし、PDFでジャンプの機能は付いていない。日本共産党・宮本顕治と「非転向」の神話化から読む場合は、右側カーソルを(P.45)まで一気に動かした方が早く到達する。印刷する場合は、(P.45〜52)を指定する。すべて公表されたデータに基づいている。
(3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて− (P.45)
a.神話化と精神主義のコンプレクス (P.45)
b.獄中での厚遇 (P.47)
c.中川成夫の「聴聴書作成不能」の報告 (P.49)
d.宮本顧治と特高警察の関係性 (P.50)
e.宮本顕治と機動隊の関係性 (P.51)
f.小括 (P.51〜52)
山田正行『一抵抗と転向の転倒一』PDF全文
(以下、宮地作成=山田正行「宮本顕治=偽・非転向者」仮説→私の追実験)
3、山田教授が発掘・公表した宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証
〔小目次〕
1、山田正行による宮本顕治「非転向」に疑惑−特高許可、「非転向」偽り
2、(表)による宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証 (表1)
3、〔疑惑証拠1〕、(1)宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、
(2)2つの独房、(3)宮本百合子『風知草』より、「結核病竃」の大小
4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫の経歴
5、〔疑惑証拠3〕、1928年〜34年検挙者の特高資料数 (表2)
6、〔疑惑証拠4〕、東大に機動隊突入の事前情報−川上徹『査問』より抜粋
1、山田正行による宮本顕治「非転向」に関する疑惑−特高の許可、「非転向」が偽り
山田正行は、PDF「a.神話化と精神主義のコンプレクス(P.45)」において、宮本顕治「非転向」真相について、次のように疑惑を書いている。
宮本顕治は獄中闘争で「非転向」を貫いたとされる。それが彼の思想性の優越さとして使われ、彼の発言に権威を付与し、説得力を増し、また、共産党を批判する者に「コンプレックス」を惹起させたと考えるならば、先に引用した「最も責任うすく見える者が最も深く反省する」ということに、極めて重要な意味が含まれていることが分かる。即ち、宮本の獄中闘争に関して既に知られた事項を少しでも検討するならば疑惑が次々に出てくる。
それでも、これに対する議論が広がらなかったのは、宮本の獄中「非転向」が神話化され、一元的な評価尺度として絶対化され、それを検討しようとする者に心理社会的な制約を加え、この点を考えよう気持ちを起こさせないように作用してきたからと言える。
宮本の獄中「非転向」は、戦前の天皇制ファシズムによって壊滅した日本共産党の一種の「ほこり」であった。ところが、全体主義の暴政下の獄中では、最低限の生存の条件さえ、権力に掌握されている。小林多喜二の虐殺を彼の突然死と強弁した程の権力であり、その統制下にある獄中では、当局が生かそうと認めない限り生きることはできない。毎日の食事のカロリーを減らしたり、真冬に冷水をかけて放置するだけで、誰でも死に至らしめられる。それ故、宮本が「非転向」であったということは、特高警察が彼の「非転向」許可したことを意味している。
それでも、神秘化とはいえ、これは現実の社会において現象しており、そこには現実的な要因がある。まず、宮本が戦前から共産党の指導部にいて戦後は委員長にまでなり、内外に一定の影響力を保持し続けたことが挙げられる。ただし、これについても、後述するように「非転向」が偽りで権力に利用されていたとすれば、党員の支持によって委員長になったとは言い切れない。
2、(表)による宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証 (表1)
山田PDF(P.45〜52)に基づいて、宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑を、(表)と他疑惑証拠によって検証する。
(表1) 宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証
疑惑 |
疑惑内容 |
出典 |
頁数 |
1、獄中での厚遇 |
(1)、第1審当初、宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、その理由不明? (2)、独房2−未決中、差入れ多数。「非転向」共産党員では宮本ただ一人 (2)、病舎での入院−5回以上も肺・腸結核悪化で「病監に収容」の異例待遇→出獄後、「病竃がどれも小さかった」 |
袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』 同 宮本百合子『風知草』−全集第6巻 |
103 104 182 |
2、中川成夫「聴取書作成不能」報告 |
小林多喜二虐殺など残虐な拷問直接指揮の特高課警部→宮本顕治一人にだけ「聴取書作成不能」? |
宮本顕治『半世紀譜』 |
25 |
3、法廷での検挙者数陳述 |
40年7月28日、東京地裁法廷の宮本陳述、1928年〜34年の検挙者4〜5万人=特高極秘資料数とほぼ一致 |
諌山博共産党弁護士・国会議員 |
95 |
4、東大に機動隊突入の事前情報 |
69年1月日17、突入前日、1万人規模の共産党・民青の動員部隊・ゲバ棒・ヘルメットの撤収指令→1日で完全撤収 |
川上徹『査問』 |
38 |
山田正行は、獄中での厚遇(1)を疑惑証拠として挙げていない
3、〔疑惑証拠1〕、(1)宮本・袴田・秋笹3人合同公判→宮本だけ分離裁判、(2)2つの独房、(3)宮本百合子『風知草』より「病竃」
(1)、宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、その理由不明?
一方、宮本は第一審でしばらく私や秋笹と合同裁判を続けたあと、私に何の断りもなしに勝手に自分だけ分れて、裁判を受けるようにした。いわゆる分離裁判である。そして、私と分離した宮本は、自慢の黙秘を続けたために裁判が一向にはかどらず、いたずらに時間を過ごした。宮本の場合、第一審の裁判官が拘置所にわざわざ出かけて、「早く裁判を進行させようではないか」と提案したにもかかわらず、最後までウンともスンとも答えずに、黙秘を続けたのである。
いまになって、彼は「オレは公判廷で闘った」などとえらそうなことをいう。しかし、たとえば、小畑の死体を見た古畑(種基)鑑定人や私を証人喚問しようとしたりしたが、誰の目にも裁判の引き延ばしとしかうつらず、断わられてしまった。要するに彼は、裁判を引き延ばして、いつまでも未決の状態にいたかったのだ。(袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』P.103〜104)
(2)、未決中、独房2つ開放、差入れ多数。「非転向」共産党員では宮本ただ一人
未決の間、彼だけ特別に二つの独房を開放してもらい、多くの差入れを受けた。二つの独房のうちの一つは、本やいろいろな差入れでいっぱいになっていた。刑務所のものではない特別の布団、特別の毛布、湯タンポ、座布団、大島の着物の綿入れ、ラクダのシャツ、足袋。もちろん妻である作家の宮本百合子が差入れたものであるが、よくもまあ、あの時代に非転向の共産党員がこんな拘置生活を送れたものである。
ちなみにこの時代、二つの房の使用を許されたのは、宮本をおいては神山茂夫と中西功の二人しかない。神山と中西は戦後、ともに国会議員になり、のちに除名されて党を出たが、当時、中西は満鉄の調査部に属して満鉄の理事者に大変な評価を受けていた男であり、神山は『全協』から組織攪乱ということで除名されていたし党にも入っていない。非転向の共産党員では、宮本ただ一人である。共産党員である宮本が、どうしてこうした生活が送れたのか。(袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』P.104)
(宮地注)、宮本顕治の無期懲役確定判決→網走刑務所下獄は、1945年だった。未決の期間は、1933年12月市ヶ谷刑務所収監から、44年5月までの11年5カ月間あった。彼は、その期間中、こうした生活=未決の状態を送れた。網走刑務所における収監期間は、45年6月18日着から、敗戦による45年10月9日出所までの約3カ月半だけだった。
(3)、宮本百合子『風知草』より、「結核病竃」の大小
話しながら廊下をこちらへ来る吉岡の声がした。重吉が、手さぐりで結んだネクタイを横っちょに曲げた明るい顔でドアをあけた。
「いかが?」
「案外だった」
「そんなによくなっていたの?」
「いい塩梅に病竃がどれも小さかったんですね」
吉岡が煙草に火をつけながら云った。
「大体みんなかたまっていますよ。この分なら、無理さえしなければ大丈夫と云えますね」
「石田に無理さえしなけりゃと、云うのが抑々無理らしいわ。――でも、よかったことねえ。ありがとう」
ひろ子は、椅子の背にかかっていた上着をとって重吉にきいた。(P.182)
宮本百合子『風知草』全文中、抜粋個所は一の末尾
4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫経歴
山田正行は、『小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫』2、4において、次のように書いている。
小林多喜二虐殺の主犯格と言われる中川成夫に即して、具体的に述べていく。ここで、半世紀以上も前の問題を持ち出さなくてもいいのではないかと考える者もいるかもしれない。しかし、人道に反する犯罪には時効はない。そして、これから述べることは、人道に反するものであった。
2
1933年2月22日、築地署に小林多喜二が連行されたことはすぐさま留置場内に伝わり、次に中川や須田が来たときもサッと伝わったという。実際、その日、署内に中川や須田がいたことは、政治犯や思想犯たちに目撃されている。
小林多喜二が署内で絶命すると、警察は「心臓麻痺」と新聞発表し、遺体を自宅に返した。急を知って大勢の友人、知人が駆けつけてきたが、遺体のあまりにも凄まじく無残な姿に、解剖で死因を究明しようと、東京大学はじめいくつかの医大へ掛け合った。しかし、どの医大にも特高が手を回しており、断られた。最後に、内科医安田徳太郎医学博士(「山宣」こと山本宣治のいとこ)が死体の外況を検分した。
両こめかみに大きな打撲傷を中心に数箇所の傷跡があり、皮下出血していた。首に細引きで絞められた痕が残り、手首にも細引きで縛り上げられた痕があった。下腹部から膝にかけて、前も後ろも一面墨と紅がらをまぜて塗りつぶしたように覆われていた。大腿部は二倍ほどにふくれ、太い釘か畳針で突いた穴が十数か所あり、肉が露出しているところもあった。陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていた。右手の人差し指は反対に折り曲げられて完全骨折し、指先が手の甲にとどく程であった。
このような遺体の状況については、安田が説明し、そこに居合わせた友人たちが記録した。そして、戦後になり江口渙や手塚英孝らによって公表された(松尾洋『治安維持法と特高警察』教育社歴史新書、1979年、pp.153-156参照。他に、橋爪健『多喜二虐殺』を引用した山田風太郎『人間臨終図巻』Tも)
4
多喜二の陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていたということは、男の存在の本源を傷つける暴力を中川や須田は振るったことを実証している。しかも、このような拷問を受けた多喜二は29歳の青年であった。まさに正気の沙汰ではない。
さらに、このような遺体をそのまま引き渡したという行為には、威嚇や見せしめのメッセージが込められている。遺体の傷跡を取り繕うとすれば、死因の究明のために徹底的に解剖するなどの理由を挙げて時間を引き延ばし、その間にどのようにでもカモフラージュできる。中国では民間に死化粧師がいて損傷の激しい遺体でもかなり回復でき、検死を拒まれた多喜二の遺体は外況の検分しかできなかった。
山田正行『小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫』2、4
wikipedia『毛利基』特高課長
(表2) 治安維持法違反検挙者、起訴者数
典拠 |
逮捕者 検挙者 |
起訴者 |
日本共産党 『社会科学総合辞典』(新日本出版社) |
1925〜45年の20年間 数十万人 75,681人(政府統計) |
1925〜45年の20年間 5,162人(政府統計) |
西川洋三重大学教育学部助教授 『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(渡部徹編、三一書房) |
1930〜34年の5年間 検挙人員数 47,870人 内検挙党員数 1,418人 (注)、これは1929年検挙者を加えた数 |
1930〜34年の5年間 起訴人員数 3,217人 内起訴党員数 1,424人 党員歴内訳 1年未満1,194人、 1年から2年179人、2年以上51人 |
田中真人同志社大学教授『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房) |
「西川の統計分析の対象となっている一九三〇年〜一九三四年の時期は、戦前の共産主義運動がもっとも量的に拡大した時期である。この五年間の年平均は一九二八年から四三年の期間の左翼関係検挙・起訴者年平均の約二倍となっている」(P.30) |
西川洋三は、戦後、特高資料を精査し、1930〜34年の検挙人員数を47870人とした。宮本顕治は、獄中にもかかわらず、どのようにして、誰から、1928年〜34年の検挙者4〜5万人と知らされたのか。
そもそも、宮本・袴田と、徳田・志賀ら獄中18年グループとは、拘置所・獄舎が違っていた。情報交換ができる環境になかった。しかも、獄中18年グループが、特高機密データを掴んでいたとは思えない。となると、獄中の宮本顕治に検挙者4〜5万人いう特高の近似値を知らせたのは、毛利基特高課長か中川成夫警部・特高係長しかありえない。
この表で他に判明しているのは、1930〜34年の5年間起訴人員数3217人、内起訴党員数1424人だけである。1925〜45年の20年間の起訴人員数5,162人は、3,217人の1.6倍である。そこから、20年間の起訴党員数推定計算式として、1424×1.6倍=2278人で計算し、約2300人とした。ただし、田中真人が分析する年平均値から逆算すれば、2300人よりかなり少ないデータも推計できる。
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
6、〔疑惑証拠4〕、東大に機動隊突入の事前情報−川上徹『査問』より抜粋(P.37〜38)
あのとき、宮本は私に詳細な報告を求めた。「われわれ」の側の武装状況、その指揮系統、食糧の補給状態、学生たちの健康状態、ゲバ棒の数に至るまで、こちらが質問に即答できず慌てるほど詳細であった。
奇妙な質問もあった。そうした現在の武装状況を一挙に解くことができるか。一夜にして「消す」ことができるかと開くのである。宮本が何を言いたいのか、私には分からなかった。私はできないことはない、と答えた。東大全共闘と全学連(民青系)の行動隊が双方一万人のゲバルト部隊を動員し、武装対峙したときのことである。宮本と会って間もなく、彼が質問した意味を理解することとなった。
安田講堂を落とすために機動隊が構内に突入するという形勢となったときのことである。党本部から緊急の指示が来た。明朝までに、ゲバ棒は一本残らず撤収すること、行動隊も一人残らず東大構内から姿を消すこと、この指示は絶対に守ること。これは、直ちに完璧に実行にうつされたのである。
機動隊が導入されたとき、「われわれ」が拠点としていた場所からは一本のゲバ棒も発見されなかった。もちろんゲバルト部隊の一員たりとも。実行に移したのは「われわれ」であったが、今日そのような事態になることをあらかじめ予測し、詳細なデータを集めた宮本の細心にして大胆なことに舌をまいた。「武装民青」のイメージは、マスコミから消すことに成功した。
4、スパイ査問事件における中央委員小畑の死亡シーンと中央委員宮本がしたこと
〔小目次〕
1、立花隆『日本共産党の研究』における小畑死亡シーンと宮本顕治がしたこと
2、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン
3、1976年、立花隆『日本共産党の研究』→「犬が吠えても歴史は進む」
1、立花隆『日本共産党の研究』における小畑死亡シーンと宮本顕治がしたこと
予期せぬ事態の出現 (『日本共産党の研究三』P.106〜108)
こうして午後一時すぎとなり、一同、昼食をすませてから、前夜徹夜して寝ていなかった宮本、秋笹、木島の三人は、アンカに入って仮眠をとることになった。昨夜は家に帰って寝た逸見と袴田の二人が、今度は大泉の査問をはじめた。その間、小畑は部屋の真中に、縛ったまま座らせておいた。三人が寝ていることでもあり、この間の大泉の査問は静かに行なわれた。大泉の査問は、これまでの自白の細部をかためることに主眼が置かれた。尋問にあたったのは、主として逸見だった。
この間、小畑はしきりにもぞもぞと動きまわるので、袴田はそれが気になってときどき目をやっていた。小畑は両手両足を細引と針金で縛られ、頭はオーバ−をまきつけられていたが、尺取虫のような格好で動こうと思えば、動けたのである。はじめは、どこかに寄りかかりたくて動いているのだろうと思って、黙ってそれを見ていた。実際、まず、熊沢光子の入れられている三尺の押入れの近くの壁にしばらくもたれるようにしていたのである。
しかし、次第にそこから身を動かし、外に面した窓のところまで身を移してきたので、これはまずいと袴田は立ちあがって、側に寄っていった。すると、手足を縛ってあったはずの細引や針金が外され、頭にまきつけたオーバーを縛ってあったヒモもゆるんでいた。
これは逃げようとしているのだなと直感して、袴田はあわてて小畑の体にとりついた。二人は組みつきあったまま後方に倒れた。その物音と、袴田があげた声に、逸見と寝ていた宮本と木島かとび起きてきて、ひっくり返った小畑の体にとりついた。
宮本が小畑の体の上にのり、逸見が頭部をおさえ、袴田は腰のあたりを、木島は足のほうにとりついていた。秋笹はその少し前に起きて階下に降り、便所に入って用便中だった。小畑は絶え
ず大声をあげながら死にものぐるいの力をふりしぼって、体を起こそうとした。「其ノ様ハ例へテ云へバ、理性ヲ夫ツタ兇暴性ノ気狂ヒガ、アラン限リノカデ暴レニ暴レテデモ居ルカノ如クデァッテ」(袴田上申書)、「四人かかりで押えつけるのが精いっぱいなくらいであった。
とりわけ査間者たちをあわてさせたのは、小畑が大声で叫びつづけたことだった。皆、小畑を押えつけなから、口々に「黙れ黙れ」といっていた。袴田は頭をおさえている逸見に、「もっとしっかりおさえろ」と怒鳴ったが、逸見は極度に狼狽していて、口の中に何かを詰め込むといったことをせず、頭を押えながら、「声をたてるな、たてるな」とくりかえすばかりだった。
そして、下半身を押えている者に「早く縛れ」といった。木島が足を細引でしぼった。小畑を押えつける主力となっていたのは、背中の上にのった宮本だった。「宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い仝体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体量をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上った」(袴田「『昨日の同志』宮本顕治」)
同じ場面を逸見は次のように述べている。
「宮本ガ小畑ノ腕ヲ捻上ゲルニ従ヒ、小畑ノ体ノ俯向キトナリ『ウーウー』ト外部二聞ユル如キ声ヲ発シタ故、自分ハ外套ヲ同人ノ頭ニ掛ケヨウトシテ居ルト小畑ハ『オウ』ト吠ユル如キ声ヲ立テ、全身二力ヲ入レテ反身ニナル様ナ恰好ヲシ、直ググツタリトナリタリ」(予審調書)
階下で用便中だった秋笹は、「二階ニテ小畑ガ大声ニテ喚キ立ツル声ガ聞エテ、次デ夫ヲ取鎮メル為ハタハタト非常二喧キ物音ガ聞エ、七、八分ヲ経ルヤ、小畑ガ虎ノ吼エル如キ断末魔的叫ビ声ヲ上ゲタカト思ウト後ハヒツソリトシタリ」(予審調書)という。
ひっそりとしたのは、一同が予期せぬ事態の出現に、しばらく呆然とその場に立ちつくしていたからである。階下で木俣鈴子が格闘騒ぎの音を少しでもカムフラージュユしようと、ハタキで障子をハタハタやっている音が急に大きく聞こえてきた。メリヤスシャツとサルマタにズボン下がずりさがっただけの姿で、小畑の死体がそこにころがっていた。(『日本共産党の研究三』P.106〜108)
2、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン
以下は、ブログ『かもめ、新平家物語』に載った、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン抜粋個所のコピーである。
話を1933年12月23日の現場に戻そう。私は秋笹とともに京王線幡ヶ谷駅近くの査問会場(二階建て民家)で、宮本たちの来るのを待っていた。
やがて・・小畑と宮本が何か話しながら階段を上ってきた。私は彼らが部屋に入り、襖をしめたとたんに小畑にいった。「今日は君をスパイ容疑で査問する。大声を出したり暴れたりしないように」。小畑は一瞬顔面蒼白となり、その場に尻から崩れるように座った・・・約二十分後、今度は大泉が逸見とともにやってきた・・・私が大泉を査問しているうちに小畑が少しずつ体を移動し始めた。
しばらくすると部屋の入り口側のところまでいざって行き、体を壁にもたせかけているのがわかった。私は、その様子を承知していたが、小畑にしても、前日からの査問でもあるし、大目に見てやろうとそのまま見逃していた。それからどれぐらいたっただろうか。小畑はいつのまにか、外に面している窓のところに移っており、いまにも飛び出そうとしているではないか・・・私は小畑の膝の裏あたりをかかえるようにして押さえた。
逸見は頭の部分を押さえた。宮本は右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。それは尋常な力ではなかった・・・苦しむ小畑は、終始、大声を上げていたが、宮本は手をゆるめなかった。しかも、小畑の腕をねじ上げればあげるほど、宮本の全体重をのせた右ひざが、小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上がった。
小畑は宮本のしめ上げに息が詰まり、ついに耐え得なくなったのだ。小畑はぐったりしてしまった。このとき、階下から物音を聞きつけて、秋笹正之輔が駆け上がってきた。「何をやったんだ」彼はそういうなり、大急ぎで小畑の脈をとった。たしかに小畑の脈は止まっていた。秋笹が宮本のほうを向いていった。「しょうがないなぁ。殺してしまって・・・」私はとっさに、「いや、殺すつもりでやったんじゃないんだ」と答えた。
そのときの宮本が、殺意をもっていたかどうかは分からない。しかし、宮本のあの小畑への攻撃は、誰が見ても普通ではなかった。宮本が抑制をきかせ得なくなっていたのは、そのものすごい形相や動作を見てもわかった。あんなことをしなくても、彼を取り押さえることは可能だったはずだ。ましては宮本は柔道三段である。どのように力を加えれば相手がどうなるかは、当然わかっていたはずである。宮本は明らかに、自分の若さにまかせてしまったのだ(宮本:25歳)。
『スパイ査問事件と袴田除名事件』袴田除名の経過と原因
3、1976年、立花隆『日本共産党の研究』雑誌掲載・出版→「犬が吠えても歴史は進む」大キャンペーン
宮本・宮本秘書小林栄三の2人が主導・執筆した立花隆批判大キャンペーンの本質は、何か。それは、スパイ査問事件問題での宮本顕治による必死の自己弁明だった。(1)リンチ査問→殺人、(2)判決の外傷性ショック死、(3)法廷における宮本陳述どおり暴行行為の存在を全面否認という諸説にたいし、立花隆が詳細なメスを入れた。
リンチ殺人疑惑に怒り狂った宮本・秘書小林は、それにたいし「犬=特高史観の立花隆が吠えても、歴史=日本共産党・宮本は進む」との赤旗キャンペーン、パンフ75万部において、偽造歪曲・隠蔽党史をねつ造した。私は、出版されたすべての文献・検事調書・法廷陳述を分析した。その結論として『「意見書」第1部2』において暴行行為の存在、程度、性質の真相を検証した。
ただし、宮本顕治は、43年前のリンチ査問シーンの暴露再現本出版、袴田里見の検事調書出版などによって、(1)リンチ査問→殺人という疑惑が急浮上することで、怒りというよりも、真相発覚の恐怖にとらわれたのかもしれない。というのも、リンチ査問→殺人容疑裁判の被告は、他に中央委員逸見重雄・袴田里見・秋笹と木島の4人がいた。
4人の検事調書内容はほとんど同一で『第1部2』(表)のように一致していた。それにたいし、宮本顕治公判陳述内容は、査問シーンに関しまったく違っていた。『第1部2』の5人比較(表)多数で検証したように、宮本陳述内容だけはウソ詭弁に満ち、真相を隠蔽していた。
『「意見書」第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相−4人の検事調書内容
43年前の治安維持法公判においてなら、宮本顕治のウソ詭弁・全面否認陳述は許される側面もあろう。しかし、43年後の1976年で、他4人の検事調書内容が出版・公表されたからには、宮本陳述内容だけが正しいとし、他4人の内容を特高・検察に屈服した内容とするのは誤りである。しかも、その誤った対応として、袴田里見除名・逸見重雄教授政治的殺人をしたのは、根本的に誤った党内犯罪だった。
高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生
恐怖にうち震えた宮本顕治は、特高史観の立花隆批判・宮本陳述の科学的正当性を立証する特別チームを作った。その法律専門家委員会トップに腹心秘書小林栄三を据えた。共産党員弁護士青柳盛雄も当然入った。当時参議院議員秘書兵本達吉も、京大法学部出身ということで、特別チームに入れられた。以下の内容は、その2人だけの個別会話である。兵本達吉が、それを私に直接話した。
青柳弁護士は次のように彼の推測を漏らした。査問者宮本顕治は、逃げ出そうとしていた中央委員小畑の片手を柔道技で捩じ上げ、膝で背中胸部を強圧していた。他4人全員は、宮本顕治が小畑を殺したと思った。小畑殺人との判決になれば、宮本顕治25歳だけが死刑になる。党歴2年だけ・中央委員になってまだ8カ月間だけの宮本顕治が、死刑から逃れるには、他4人と異なる全面否認公判陳述の道しかなかっただろう。
宮本顕治の恐怖心レベルを裏付けるもう一つの状況証拠がある。1989年12月、「日本の暗黒−実録・特別高等警察」赤旗連載の開始と1年半連載後の突然中断事件である。これは国会での浜田幸一議員の質問をテレビで見た作家森村誠一が「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、連載企画が進行した。
そして「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることで、両者の合意が成立した。連載の取材、執筆メンバーは3人で、森村誠一と赤旗記者下里正樹、他一名だった。
連載は好評で、1991年6月、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前、突然の連載中断となった。理由を言わない中断通告にたいし、森村誠一が怒り、共産党と絶縁した。共産党は党内で抗議した下里正樹を除名にした。ファイルで分析したように、この中断原因は、小畑死因の真相を再検証されたくないという恐怖を持ち続けていた宮本顕治指令しかありえない。
著名な推理小説作家と『悪魔の飽食』取材・共同執筆者下里正樹が、『第1部2』5人比較(表)のような暴行行為の存在、程度、性質の真相を緻密に再検証したら、どんな結論に大転換するのか分からなかった。
立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部』
〔関連ファイル〕
『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』
『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
伊藤晃 『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫
いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本顕治批判』ブカレスト特派員
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏