「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて
獄中での厚遇、中川成夫「聴聴書作成不能」報告、他の疑惑
山田仮説−宮本顕治は「偽・非転向者」=特高協力者だった
山田正行PDFリンク+(宮地作成・仮説の追実験)=第2部
〔第2部目次〕
5、分離公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述データ
1、宮本・袴田・秋笹の合同公判→宮本だけを分離・単独公判とその経緯の謎
2、分離・単独公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述 〔表15〜25〕
6、獄中での厚遇・中川「聴聴書作成不能」報告・弾圧犠牲者数陳述理由の歴史的背景
1、33年、当局の対共産党方針大転換−トップ2人に転向声明→雪崩的転向誘導戦略
2、宮本検挙翌年、超高等極秘新転向第3戦略を追加=「偽・非転向者」ねつ造せよ!
7、宮本顕治は「偽・非転向者」=変節者・史上最悪の特高極秘協力者だったのか?
1、山田正行の仮説−特高警察が宮本「非転向」を許可、権力が宮本「偽・非転向」利用
2、権力の超高等秘密新第3戦略=宮本顕治を死刑脅迫→「偽・非転向者」に仕立てよ
3、新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」の役割・任務+見返りとしての極秘異例厚遇
8、多喜二・野呂・宮本にたいする特高中川成夫の対応・厚遇の差別扱いデータ(表)5つ
(表3) 山田正行指摘疑惑としての宮本顕治病監収容9回
(表4) 殺人主犯容疑未決囚が百合子と面会した年度と回数183回
(表5) 転向作家7人とただ一人非転向百合子と特高との関係
転向作家と非転向作家データからの百合子疑惑
(表6) 小林・野呂・宮本顕治ら3人の検挙・死亡月日経過と差別扱い理由
(表7) 「自壊没落期」中央委員会と殺人主犯容疑未決囚の役割
9、山田正行による「宮本顕治=偽・非転向者」仮説の信憑性→私の追実験結論
1、宮地コメント
(3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて− (P.45)
a.神話化と精神主義のコンプレクス (P.45)
b.獄中での厚遇 (P.47)
c.中川成夫の「聴聴書作成不能」の報告 (P.49)
d.宮本顧治と特高警察の関係性 (P.50)
e.宮本顕治と機動隊の関係性 (P.51)
f.小括 (P.51〜52)
2、山田正行PDFリンク (PDF全文)
(以下、宮地作成=山田正行「宮本顕治=偽・非転向者」仮説→私の追実験)
3、山田教授が発掘・公表した宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証
1、山田正行による宮本顕治「非転向」に疑惑−特高許可、「非転向」偽り
2、(表)による宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証 (表1)
3、〔疑惑証拠1〕、(1)宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、
(2)2つの独房、(3)宮本百合子『風知草』より、「結核病竃」の大小
4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫の経歴
5、〔疑惑証拠3〕、1928年〜34年検挙者の特高資料数 (表2)
6、〔疑惑証拠4〕、東大に機動隊突入の事前情報−川上徹『査問』より抜粋
4、スパイ査問事件における中央委員小畑の死亡シーンと中央委員宮本がしたこと
1、立花隆『日本共産党の研究』における小畑死亡シーンと宮本顕治がしたこと
2、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン
3、1976年、立花隆『日本共産党の研究』→「犬が吠えても歴史は進む」
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』 (表4〜7)
『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
伊藤晃 『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫
いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本批判』ブカレスト特派員
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏
〔小目次〕
1、宮本・袴田・秋笹の合同公判→宮本だけを分離・単独公判とその経緯の謎
2、分離・単独公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述 〔表15〜25〕
1、宮本・袴田・秋笹の合同公判→宮本だけを分離・単独公判とその経緯の謎
特高・東京地裁は、スパイ査問事件公判の当初、宮本・袴田・秋笹の合同公判をしていた。しかし。公判途中から、宮本顕治だけを切り離し、宮本一人の単独裁判に切り替えた。袴田里見も言っているように、その理由は不明である。特高・東京地裁とも、袴田被告にその理由を知らせなかった。なぜか。
その異例な措置は、司法省の闇指令以外にありえない。宮本陳述は、司法省指令による途中分離→単独裁判における内容である。異例な途中からの分離・単独公判なので、宮本と袴田・秋笹との陳述相違が、法廷において喧嘩になるシーンは生まれなかった。
この途中から分離公判にした措置とその理由は、宮本顕治にたいする特高の厚遇における最大の疑惑の一つと言える。その経緯とそこでの謎を確認する。もっとも、宮本顕治は、以下すべての謎・疑問を、自分の病気を理由にしている。病気だけなのか、それとも、特高による極秘異例厚遇の一つだったのか。
以下のデータは、日本共産党『宮本顕治・公判記録』(新日本出版社、1976年10月)に基づく。宮本顕治は、秘書小林栄三に命令し、立花隆『日本共産党の研究』出版(文芸春秋、1976年1月連載開始)に対抗し、初めて全文を出版した。
(1)、1933年12月26日、特高は、宮本顕治を、特高スパイ荻野増治の手引きで検挙した。
(2)、1934年1月下旬、特高・警視庁は、検挙1カ月後、宮本顕治を猩紅熱で市ヶ谷刑務所の病監に入れた。同時期、野呂栄太郎は結核だったが、特高が彼を病監に入れたという資料はない。特高は、野呂委員長を検挙後83日間で病死させた。以後、特高は、宮本顕治を獄中11年9カ月間において、9回も病監に入れている。山田正行は、5回以上と書いた。しかし、私が『半世紀譜』で調べ直したら、正確には9回だった。
特高は、野呂委員長を、33年11月28日検挙〜34年2月19日病死させた。特高が、宮本を猩紅熱で市ヶ谷刑務所の病監に入れた時点は、野呂拷問・肺結核病死の約20日前だった。猩紅熱病監入院中央委員にたいし、肺結核委員長はまだ生きていた。
(3)、1934年9月10日、警視庁特高課係長中川成夫警部は、特高課長毛利基警視にたいし、「聴取書作成不能」の報告書を出した。それを小畑中央委員殺人主犯容疑の宮本中央委員にも知らせた。共産党中央委員が、生き残っている中央委員会4人中、他2人を特高スパイと疑い、リンチ査問をした。そして、1人を殺害したという共産党中央委員会内部の前代未聞殺人主犯容疑事件だった。
特高課係長中川成夫は、1933年2月20日、検挙した小林多喜二を即日、拷問・虐殺していた。拷問・虐殺において、小林の睾丸・陰茎を竹刀・他で殴り、内出血で腫れ上がらせた。その特高警部が、8カ月半後の小畑中央委員殺人主犯容疑中央委員にたいし、「聴取書作成不能」の報告を出した。小林多喜二と、肺結核委員長と小畑中央委員殺人主犯容疑とのこの差別待遇の理由をどう考えたらいいのか。
小林即日拷問・虐殺か、非転向・野呂委員長拷問・病死作戦か、それとも、殺人主犯容疑中央委員の「聴取書作成不能」報告か。小林即日拷問・虐殺後の約1年7カ月間で、警視庁・特高の対共産党政策において、どんな激変が起きたのか。小林・野呂・殺人主犯容疑中央委員ら3人にたいする特高の極端な待遇差別には何があったのか。
小林即日拷問・虐殺し、非転向・野呂拷問・83日間で病死させた特高課長・係長が、殺人主犯容疑中央委員にたいしてだけ「聴取書作成不能」を許したとは、隠蔽した特殊理由がなければ、ありえない。そこには、怖るべきウソ・からくり陰謀があるのではないか。
ただ、戦前・戦後を通じ、共産党員・左翼・国民は、宮本顕治の「警察・検察にたいし完全黙秘を貫いた。東京地裁公判ではじめて陳述した」という言説の信憑性を信じた。その「宮本神話」をそのまま疑いもしないで、信仰した。
私は、山田正行仮説に出会うまで、小林・野呂・宮本ら3人に関する1933年度という時期的同一性に気付かなかった。それを知った現在、小林・野呂を殺した同じ特高課長・係長が、殺人主犯容疑中央委員の完全黙秘貫徹を認めたとは、とうてい信じられない。何か裏がある。
(4)、1940年4月18日、特高・東京地裁は、宮本・袴田・秋笹の合同公判を開始した。逸見中央委員は病気で出廷できなかった。公判回数は、4カ月間6回で、1940年7月20日に終わった。殺人主犯容疑宮本検挙後6年4カ月間も、特高・東京地裁は、公判を開かなかった。その理由は何か。「聴取書作成不能」報告提出年月からでも、5年7カ月間も経っている。この期間の長さもおかしい。
特高は、その途中から、宮本被告と、他被告とを分離公判にした。理由は不明である。合同公判中の袴田里見にも分離理由を知らせなかった。なぜか。殺人主犯容疑中央委員の病気原因だけなのか。
(5)、1942年12月、小畑中央委員スパイリンチ査問・殺人事件の分離公判判決が、大審院上告棄却で確定した。非転向の袴田里見懲役13年、公判中転向の秋笹懲役7年、警察で転向の逸見懲役5年にした。特高は、秋笹政之助を1943年7月、野呂栄太郎と同じく獄死させた。特高は、殺人主犯容疑中央委員を9回も病監に入れ、獄死させないよう極秘異例厚遇をした。
特高は、明確な意図を持って、小林多喜二即日拷問・虐殺、野呂栄太郎83日間で病死、スパイリンチ査問・殺人事件懲役7年確定判決者秋笹を敗戦2年前病死させた。それにたいし、特高は、なぜ、殺人主犯容疑中央委員宮本顕治を9回も病監に入れ、病死をさせない手厚い厚遇をしたのか。同時期4人にたいする特高の差別待遇の理由をどう考えたらいいのか。
(6)、1944年6月13日、特高・東京地裁は、殺人主犯容疑中央委員一人だけの分離・単独公判を開始した。1933年12月26日検挙からなら、公判開始まで、約10年半も経っている。合同公判からでも4年間も経っている。その理由・思惑は何か。殺人主犯容疑中央委員の健康問題理由だけにしては、公判開始が約10年半後は間が空きすぎる。
東京地裁は、公判15回を、1944年11月30日に、わずか6カ月間で終えた。殺人主犯容疑中央委員にたいする検察求刑は、死刑でなく、無期懲役だった。東京地裁判決も検察と同じく、外傷性ショック死理由で無期懲役判決にした。
(7)、1945年6月18日、特高は、殺人主犯容疑→リンチ査問・外傷性ショック死理由・無期懲役確定判決中央委員を、網走刑務所に下獄させた。それは、日本敗戦の約2カ月前だった。
これら(1)から(6)までの経過は、謎だらけである。その理由不明ばかりである。その謎をどう解いたらいいのか。
分離・単独公判なので、小畑中央委員リンチ査問・殺人瞬間行為・柔道3段の殺人中心容疑・中央委員宮本顕治は、袴田・秋笹の反論・否認をなんら気にする必要もなく、言いたい放題の真っ赤なウソを陳述することができた。真っ赤なウソという根拠は、下記〔表15〜25〕すべてにあるように、宮本と他5人の陳述内容の正反対・全面否認度合いである。
2、分離・単独公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述 〔表15〜25〕
以下は、私のHPファイル『スパイ査問問題意見書』における『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相から〔表〕だけを、抜粋・コピーしたものである。〔表〕の詳細な説明や各人の陳述内容は、『第1部2』でした。〔表15〜25〕の数字は、『第1部2』そのままを使った。
『スパイ査問問題意見書』における『第1部2』〔表〕の詳細な説明や各人の陳述内容
もっとも、宮本顕治は、立花隆『日本共産党の研究』にたいし、「犬は吠えても歴史は進む」との大キャンペーンで反論した。立花が特高の犬で、宮本顕治こそが歴史の真実を体現しているとする真っ赤なウソ党史だった。宮本顕治・秘書小林栄三と不破・志位らは、袴田陳述を真っ赤なウソと決めつけ、宮本陳述こそ100%真実と大宣伝をした。
私は、小畑・大泉中央委員2人へのリンチ査問シーンにたいする宮本公判陳述内容を、他査問者たちの証言・陳述と比べると、100%真っ赤なウソと判定している。袴田陳述の方が査問シーンに関し真相に近い。
現在2012年8月時点の党費納入実質21万党員は、志位・市田・不破が、2012年7月以降に出版し始めた『宮本顕治著作集』に含まれる『宮本顕治公判記録』内容が真実だと、またまた深く騙され続ける。
〔表15〕 〔第2の事実問題〕と6人の他人行為目撃陳述
|
大泉 |
木島 |
逸見 |
秋笹 |
袴田 |
宮本 |
1、なぐるける |
○ |
○ |
○ |
|
○ |
× |
2、斧使用 |
○ |
○ |
○ |
|
○ |
× |
3、硫酸使用 |
○ |
○ |
○ |
|
(自己行為自認) |
× |
4、タドン使用 |
|
○ |
○ |
(自己行為自認) |
○ |
× |
5、斧使用 |
○ |
|
|
(自己行為自認) |
|
× |
6、出刃包丁使用 |
○ |
|
|
|
|
× |
イ、是認 |
|
4項目 |
5項目 |
なし |
||
ロ、否認 |
|
1項目 |
○ |
1項目 |
1項目 |
全面否認 |
自己行為自認陳述の事実性をどう評価するか。上記表のように自認行為がある。事実無根でまったく存在もしていない行為を自認することはこの査問関係者でありうるか(?) 木島、逸見、秋笹は特高の拷問をうけている。とくに、予審非転向の秋笹、袴田が、その非転向時点で、事実無根の行為を自己行為として自認することがありうるか(?) 袴田は一貫して非転向で、拷問はうけていない。袴田、秋笹とも検事の聴取書もなく(宮本第13回公判.P.270)、したがって非転向予審陳述における自己行為の自認内容は事実である。
〔表19〕 秋笹・袴田・逸見の2)、3)、4)行為陳述の一致点と相違点
2)斧使用 |
3)硫酸使用 |
4)タドン使用 |
|
秋笹予審(非転向) |
秋笹→大泉(自認)
小突イタ
|
宮本か誰か→(?) 「付ケルゾ付ケルゾ」ト 硫酸瓶振廻シ脅カシ
|
秋笹→小畑(自認) 足ノ脛ノ辺ニ押シツケルト 慌テテ足ヲ引込メ
|
袴田予審(非転向) |
秋笹→大泉 頭ヲゴツント殴ルト コラ本当ノコトヲ云ワヌカト
|
袴田→小畑(第1段階自認) 木島→小畑(第2段階) 之ハ硫酸タト云ツテ脅シ乍ラ
|
秋笹→小畑 足ノ甲アタリニクツツケタ 熱イ熱イト云ツテ足ヲ跳上ゲ
|
逸見予審(転向) |
秋笹→小畑 頭ヲコツント叩キ 何故嘘ヲ云フノカト
|
木島→小畑(第1、第3段階) ソラ硫酸ヲツケタゾ流レルゾト云ヒテ
|
秋笹→小畑 両足ノ甲ニ載セタルトコロ 熱イト叫ンテ足ヲ跳ネルト
|
4)タドン使用については、秋笹の明白な自己行為自認があるというだけでなく、3人の陳述が行為者・対象者・使用程度・小畑の反応・使用回数などの細部にいたるまで完全一致している。3)硫酸瓶・硫酸使用については、3人に相違があるが、行為者発言のような脅迫行為の存在、「付ケルゾ、付ケルゾ」「之ハ硫酸タ」「ソラ硫酸ヲ付ケタゾ流レルゾ」という脅迫的言辞の存在は完全一致している。硫酸瓶・硫酸による「なんらかの脅迫」行為の存在で完全に一致している。
2)斧使用についても、上記の相違はあるが、使用程度「小突ク」「ゴツント殴ル」「小突イタ」「コツント叩キ」と一致しており、行為者は秋笹とする点でも3人は一致している。袴田・逸見2人の陳述は袴田予審・第1審公判とも見ると、行為者の「コラ本当ノコトヲ云ハヌカト」「何故嘘ヲ云フノカト」という発言も合わせ、その使用程度、回数も一致しており、対象者のみ相違している。秋笹陳述は非転向時陳述である。
これらを総合的に見た場合、2)、3)、4)での3人の陳述の一致点・相違点から見て、秋笹自己行為自認としての「有リ合ワセタル物ニテ小突イタ」というのは「斧で大泉を小突いた」ことを意味している。秋笹が2)斧使用行為を非転向時において自認しており、袴田予審・第1審陳述とも一致し、他の逸見、木島、大泉3人の「なんらかの斧の使用」陳述とも一致している以上、そこには、斧「なんらかの使用」行為は明白に存在した。斧の「使用」行為が存在する以上、斧の会場「存在」は袴田陳述のいうように事実であった。
宮本陳述の斧の「存在」「なんらかの使用」全面否認内容は事実ではない。「私等ハ器具ヲ手ニシタコトハナイ」(P.235)という陳述内容は非事実性のものである。斧の「なんらかの使用」は24日午前中のことであり、秋笹の23日夜説は記憶ちがい、逸見の24日午後説は迎合的陳述である。袴田陳述では24日午前中「使用」として予審・第1審とも一貫しており、その24日午前中の査問には宮本中央委員は同席しており、秋笹の大泉にたいする斧の「なんらかの使用」行為を目撃している。
したがって「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの斧使用について事実ではない。斧「存在」そのものの否定としての「オ示シノ斧、出刃包丁等ハ存シマセヌ其様ナ物カ査問アヂトニアツタカ否判然シマセヌ」(P.260)という陳述内容も事実をのべていない。
〔表20〕 硫酸の4つの問題
袴田 |
秋笹 |
逸見 |
木島 |
大泉 |
宮本 |
自己行為自認・否認 |
|
イ.硫酸瓶「存在」 |
○ |
△ |
△ |
△ |
△ |
× |
◎袴田存在確認・並べ直し行為自認 |
ロ.第1段階脅迫 |
○自認 |
◎袴田−自己行為自認 |
|||||
ハ.第2段階脅迫 |
○ |
○ |
× |
||||
ニ.第3段階暴行 |
○ |
○ |
○ |
○ |
× |
×木島否認 |
(○印−是認陳述、×印−否認陳述、△印−実質的な是認)
〔表21〕 秋笹・袴田・逸見3人のタドン使用行為細部までの完全一致
秋笹(非転向時) |
袴田(非転向) |
逸見(転向) |
|
イ.行為者 |
秋笹(自認) |
秋笹 |
秋笹 |
ロ.対象者 |
小畑 |
小畑 |
小畑 |
ハ.個所 |
踵ノ辺 |
足ノ甲アタリニ |
両足ノ甲ニ |
ニ.行為 |
押シツケルト |
クツツケマシタ |
載セタルトコロ |
ホ.小畑の反応 |
慌テテ足ヲ引込メ |
足ヲ跳上ケマシタ |
足ヲハネルト |
ヘ.小畑の声 |
/ |
熱イ熱イト云ツテ |
熱イト叫ンテ |
ト.畳の焼跡 |
/ |
タドンカ畳ノ上ニ散ツテ処々ニ焼跡 |
火ハ付近ニ散乱シテ畳ヲ焦シタリ |
チ.日時 |
23日午後2時頃 |
24日午前中 |
24日午後1時頃より |
日時のみ相違しているが、これは秋笹の記憶ちがい、逸見の迎合的あるいは記憶ちがいの陳述である。袴田陳述の24日午前中が事実である。確定判決も24日午前中の事実認定をしている。木島は宮本陳述によれば、逸見行為として陳述しているが、3人の細部にいたるまでの一致、秋笹自身の自己行為自認からいって、秋笹行為である。足の甲に火傷がないという法医学的痕跡有無への判断は上記にのべた。
宮本陳述は、「タドン使用」を木島、逸見の転向による迎合的陳述のせいにして全面否認した。しかし、上記(1)〜(4)から見て、宮本中央委員をのぞく査問者4人全員(但し、木島は査問委員でないが、査問参加)が上記内容で是認しており、「タドン使用」は事実であり、それを全面否認する宮本陳述は真実・真相をのべていない。24日午前中査問に宮本中央委員は参加し、その行為を目撃している。「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの「タドン使用行為」目撃についても事実をのべていない。
〔表22〕 5つの事実問題での宮本陳述の非事実性部分
「存在」全面否認の事実性 |
行為・「使用」全面否認の事実性 |
行為目撃全面否認の事実性 |
|
1)なぐるける |
×(非事実) |
×(非事実) |
|
2)斧 |
×(非事実) |
×(非事実) |
×(非事実) |
3)硫酸瓶・硫酸 |
×(非事実) |
×(非事実) |
×(非事実) |
4)タドン |
×(非事実) |
×(非事実) |
|
5)針金 |
×(非事実) |
×(非事実) |
×(非事実) |
5項目での「存在」、「使用」行為、行為目撃についての宮本全面否認部分については事実をのべていず、その陳述部分は真実・真相ではない。5つの事実問題に関する宮本陳述は、×(非事実)であり、すべて真っ赤なウソである。
〔表25〕 硫酸瓶・硫酸使用行為とその段階・程度
大泉 |
木島 |
逸見 |
秋笹 |
袴田 |
宮本 |
計 |
|
第1段階 |
○ |
1人(自認) |
|||||
第2段階 |
○ |
○ |
× |
2人 |
|||
第3段階 |
○ |
○ |
○ |
○ |
× |
4人 |
|
「存在」 |
(○) |
(○) |
(○) |
(○) |
○ |
× |
5人 |
6人の関係者中、宮本完全否認以外は、5人が「なんらかの形での硫酸瓶使用・硫酸使用の是認」陳述をしている。
6、獄中での厚遇・中川「聴聴書作成不能」報告・弾圧犠牲者数陳述理由の歴史的背景
〔小目次〕
1、33年時点当局の対共産党方針大転換−トップ2人に転向声明→雪崩的転向誘導戦略
2、34年、宮本検挙翌年、超高等極秘新転向戦略を追加=「偽・非転向者」ねつ造せよ!
1、1933年時点当局の対共産党方針大転換−トップ2人に転向声明→雪崩的転向誘導戦略
そこで、国家権力・特高の日本共産党対策の方針大転換内容・時期と、宮本顕治「非転向」有無疑惑との関係を検証する。
転向政策は、当局の対共産党基本方針の一つだった。(1)治安維持法による徹底した検挙・起訴、(2)大量のスパイ送り込みによる何度もの大規模な一斉検挙、(3)最高指導部から転向させること、(4)雪崩的転向誘導戦略による組織内部崩壊を促すことなどが方針の重要な柱だった。
1、石堂清倫『中野重治の転向−再論』論文における指摘
石堂清倫は、『中野重治の転向−再論』論文で次のように指摘している。三〇年代に入って、当局は既存の共産党組織を壊滅させる自信をもっていたであろうが、つぎつぎに生まれてくる新しい勢力、というよりは潜在力に恐れをなしてもいた。支配階級の一部には、共産党を弾圧することによって、国民のうちに彼らを英雄視する傾向が生じることを警戒する動きがあった。
その対策の一つとして、この勢力を支配階級の許容しうる地帯に誘導しようという試みもあった。このことはこれまでほとんど注意されていないが、思想検事平田勲の行動はその試みの存在を裏づけているように思われる。
平田は、資本主義変革の運動をある程度許容し、共産党の合法化を認めてもよいと考えていたようである。そしてそれを許容する代償として天皇制反対のスローガンを取り下げさせようとした。それは平田個人の構想のように見えるが、日本の支配層のうちには、ことに新しい資本主義によって後退させられた勢力のうちには、平田を支持する層があったであろう。この平田に誘導されたのが佐野・鍋山の転向運動であったと思われる。
平田的な構想がなかったら、あの昭和の大転向運動は生まれなかったであろう。転向が共産主義運動の弱い環からではなしに、その最強部から、指導者集団から生まれたこともこの考えを支持すると思われる。なぜこの集団の最強部がこうした誘導に乗ったかという問題がある。
この転向政策については、伊藤晃千葉工業大学教授『転向と天皇制、日本共産主義運動の1930年代』(勁草書房、1995)が緻密な分析をしている。石堂清倫は、この著書帯封で、昭和史の暗部である転向時代を、(1)不毛の革命戦略と、(2)出口のない侵略戦争との衝突と順応の集団現象として解明した創始的研究と高く評価している。
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
2、『日本史辞典』(岩波書店、1999年)と共産党公式規定『社会科学総合辞典』の「転向」規定
『日本史辞典』(岩波書店、1999年)では次のように規定している。転向−1930年代に共産主義者が権力の強制に屈して自己の思想信条を放棄したことをさす日本思想史上の用語。
‘33年6月、日本共産党の最高幹部であった獄中の佐野学,鍋山貞親が、コミンテルンの指導と共産党の政策を批判、皇室中心の社会的感情を把握する必要を述べた<共同被告同志に告ぐる書>を発表すると、これを契機に治安維持法違反などで拘留されている共産主義者のなかから大量の転向者が続出、共産主義運動に壊滅的打撃を与えた。戦後,鶴見俊輔らの<思想の科学>グループ、吉本隆明らにより戦争責任論と関連して、その意味が問われた。
日本共産党の公式規定は『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)にある。ところが、「転向」項目はなく、「転向→変節」で、「変節」の項目としている。「変節」とは、政治学・社会思想史用語ではなく、倫理学用語である。転向項目を独自には作らないというのが、科学的社会主義の辞典編集方針なのであろう。共産党の公式規定は次である。
変節−革命運動上の変節とは、支配階級の圧迫や誘惑によってその思想信条をかえ、裏切ること。戦前、支配階級は治安維持法下の弾圧による変節を「転向」と称した。これは裏切りをせまるために、変節することをあたかも「正しい方向に転じ向かうのだ」として、本質を欺瞞(ぎまん)し美化するものであった。天皇制警察や憲兵、なかでも特高警察は弾圧をもっぱらの職務として、共産主義者を逮捕・投獄し、テロをくわえ、この圧迫によって天皇制を支持することを強要した。
1933年,日本共産党最高指導部の一員であった佐野学、鍋山貞親は、出獄したいという一心で天皇制を支持する「転向声明書」を出し、支配層はこれを大々的に宣伝した。野呂栄太郎や宮本顕治ら党中央委員会は彼らをただちに党から除名し、その意図を暴露してたたかった。戦後、党再建の過程で、みずからの変節について反省し、ふたたび党の隊列に復帰したものも少なくなかった。→治安維持法,特高警察。
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
3、萩野富士夫『思想検事』(岩波新書、2000年)のデータ(表)2つ抜粋と指摘
彼は、著書の「第2章・弾圧と『転向』の体系−『共産党の自壊没落時代』を演出−」において、具体的データと詳細な体系分析をしている。その冒頭に、思想検事平田勲の顔写真を載せた。
三・一五につぐ四・一六の大弾圧にもかかわらず、日本の共産主義運動は一九三〇年代に入って、最高揚期をむかえた。とくに三年九月の「満洲事変」後、反戦反軍運動が展開され、共産党がコミンテルンの「三二年テーゼ」にもとづき天皇制との闘争をかかげると、特高警察・思想検察の危機感もいちだんとつよまり、文字どおり最大限の弾圧をもってのぞんだ。
その結果、国内の治安維持法違反の検挙者数は≡一年から一万人を越え、三三年には一万四六〇〇人あまりに達した。起訴者も三三年がピークである。
運動がたえまなく再建される事態に接して、当局者は強権的弾圧の一辺倒では決め手に欠けることを認識しはじめた。警視庁の特高部長安倍源基(げんき)も、「近視限的取締は、場当り的には大過ないかも知れないが、結局に於ては、却って国家社会を毒するの結果を招来する」と述べるにいたる(「社会運動取締の一線に立ちて」(『警察研究』三三年三月)(P.58〜60)。
(表1) 治安維持法の処分別適用状況−(P.59)
年 |
検挙数 |
起訴 |
起訴率 |
起訴猶予 |
留保処分 |
1931 |
10422 |
307 |
3% |
454 |
67 |
1932 |
13938 |
646 |
5% |
774 |
717 |
1933 |
14622 |
1285 |
9% |
1474 |
1016 |
1934 |
3994 |
496 |
12% |
831 |
626 |
1935 |
1785 |
113 |
6% |
269 |
186 |
スパイ査問事件の翌1934年、それ以降も検挙数・起訴数は激減した
(表2) 弾圧と『転向』の体系−『共産党の自壊没落時代』の年表抜粋
年 |
月 |
内容 |
1931 |
3 |
司法省「日本共産党関係治安維持法違反事件処分方針」(起訴緩和の方針) |
|
5 |
司法省「仮釈放審査規定」 |
1932 |
6 |
特高警察の拡充(警視庁特高部設置など) |
|
10 |
熱海事件(共産党再建弾圧) |
|
11 |
東京地裁検事局「思想事件聴取書作成上の注意」 |
1933 |
2 |
小林多喜二、特高警察により虐殺される |
|
6 |
佐野学・鍋山定親の転向声明 |
1936 |
11 |
天皇、共産主義運動取締の功労者に叙勲・金銀杯下賜 |
1932年11月、東京地裁検事局「思想事件聴取書作成上の注意」が出ているのに、
1934年、中川成夫は、「宮本顕治聴取書作成不能」との報告を出したという疑惑
2、1934年、宮本検挙翌年、当局は超高等極秘新転向第3戦略を追加=「偽・非転向者」一人ねつ造せよ!
1933年12月24日、スパイ査問事件で、共産党中央委員・財政部長小畑達夫が死去した。査問委員宮本顕治らは、小畑死体を床下に埋めた。その発覚で、山県特高警部は宮本顕治に対し、「これは共産党をデマる為に絶好の材料である。今度我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる」と告げたという。
従来、当局の対共産党転向戦略として、2つが明確になっていた。ところが、もう一つ、権力・特別高等警察の超高等秘密戦略(3)の存在疑惑が、山田正行によって発掘・公表された。
(1)、1933年6月、佐野・鍋山の転向と転向声明
(2)、1933年6月以降、トップ2人の転向声明による雪崩的転向誘導戦略
(3)、1934年、小畑中央委員へのリンチ査問による死亡・殺害中心行為者宮本顕治を死刑脅迫→最後の中央委員25歳を「偽・非転向者」に仕立て上げ利用という超高等秘密の新戦略。もう一人の査問者・査問時点は中央委員候補の袴田里見は、宮本のような死亡・殺害中心行為者でないので、死刑脅迫をできない。逸見中央委員も、死亡・殺害中心行為者でなかった。
袴田・秋笹は、リンチ査問・小畑中央委員殺害時点、中央委員でなく、野呂委員長が任命した中央委員候補だった。大泉中央委員スパイ自白・小畑中央委員リンチ査問殺害後、中央委員会は、逸見・宮本ら2人だけになった。
宮本公判陳述・他被告検事調書などによれば、逸見・宮本ら残存し2人だけになった日本共産党中央委員会は、査問現場2階から1階に下り、「中央委員会会議を開催し、大泉・小畑を特高スパイで除名、袴田・秋笹を中央委員候補から、中央委員に任命、木島を中央委員候補に任命した」。その1階会議は、宮本陳述・他査問委員の供述によれば、小畑中央委員死体の床下埋め行為の前だった。
党歴2年だけ、25歳、中央委員歴8カ月間だけ、労働運動経歴もなく、『敗北の文学』を書いて有名になっただけの男を、2年前の佐野・鍋山並の転向と転向声明を出させても、二番煎じになるだけで、なんら共産党壊滅の最終効果剤を期待できない。小林多喜二のように、拷問→即日虐殺しても、やはり二番煎じになってしまう。共産党員2300人を騙し、妻の有名作家宮本百合子も欺き、百合子の9歳年下夫をもっと効果的に利用できる新戦略・手口はないか。
思想検事平田勲、特高課長毛利基、警部・特高係長中川成夫は、もっと頭を働かせよ。二番煎じではダメだ。司法省の闇トップからの極秘指令にたいし、3人は考え抜いた。
山田正行『小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫』2、4
wikipedia『毛利基』特高課長
党歴・中央委員歴もほとんどない25歳若造の最大弱点は、小畑中央委員へのリンチ査問による外傷・殺害中心行為者だという容疑事実である。彼は、柔道3段の有段者だった。3段レベルなら柔道の抑え込み技の熟練者でもあった。
小畑へのリンチ行為と死亡瞬間シーンについて、リンチ査問者5人の陳述は、宮本顕治を除いて、完全に一致していた。小畑中央委員逃亡阻止行為中とはいえ、宮本顕治の殺人行動だったという立証は可能である。宮本自身も「自分が殺した」という認識も抱いているはずである。
(1)リンチ殺人罪を成立させることができれば、(2)治安維持法違反事件だけでなく、刑法上のリンチ殺人罪として25歳若造を死刑にすることができる。日本共産党への裁判史上初めての刑法上殺人・死刑判決になる。この展望への恐怖をかき立てることが最重点課題になる。連日、死刑→絞首刑だと脅迫せよ。死刑の恐怖で気が狂いそうになるまで、精神が錯乱するまで追い込め。
wikipedia『スパイ査問事件』 『宮本顕治』 『宮本百合子』 『袴田里見』
7、宮本顕治は「偽・非転向者」=変節者・史上最悪の特高極秘協力者だったのか?
〔小目次〕
1、山田正行の仮説−特高警察が宮本「非転向」を許可、権力が宮本「偽・非転向」を利用
2、権力の超高等秘密新第3戦略=宮本顕治を死刑脅迫→「偽・非転向者」に仕立て利用
3、新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」の役割・任務+見返りとしての極秘異例厚遇
4、多喜二・野呂・宮本にたいする特高係長中川成夫の対応・厚遇の差別扱いデータ
1、山田正行の仮説−特高警察が宮本「非転向」を許可、権力が宮本「偽・非転向」を利用
山田正行は、宮本顕治「非転向」有無疑惑について、下記のように結論づけている。冒頭にも載せたが、日本共産党史全体にたいする驚愕すべき大逆転疑惑なので、その一部を再度引用する。
この仮説が、戦前・戦後日本共産党史の真実だとして、多くの有権者・共産党員・共産党支持者に広がれば、どうなるか。これは、21世紀資本主義世界で唯一生き残っているコミンテルン型共産党の致命傷になり、ついに息の根を止める仮説になる。多くの人が、仮説の追実験に参加してもらいたい。
宮本の獄中「非転向」は、戦前の天皇制ファシズムによって壊滅した日本共産党の一種の「ほこり」であった。ところが、全体主義の暴政下の獄中では、最低限の生存の条件さえ、権力に掌握されている。小林多喜二の虐殺を彼の突然死と強弁した程の権力であり、その統制下にある獄中では、当局が生かそうと認めない限り生きることはできない。
毎日の食事のカロリーを減らしたり、真冬に冷水をかけて放置するだけで、誰でも死に至らしめられる。それ故、宮本が「非転向」であったということは、特高警察が彼の「非転向」を許可したことを意味している。
それでも、神秘化とはいえ、これは現実の社会において現象しており、そこには現実的な要因がある。ただし、これについても、後述するように「非転向」が偽りで権力に利用されていたとすれば、党員の支持によって委員長になったとは言い切れない。(PDF、P.46)
以上の考察から、表層では「非転向」と見えるが、深層において宮本と警察の間に特別な関係性があることが析出できた。ここで取りあげた文献は公刊されたものであり、新たに発掘したものはない。(PDF、f.小括−P.51)
2、権力の超高等秘密新第3戦略=宮本顕治を死刑脅迫→「偽・非転向者」に仕立て上げ利用
世界の独裁権力は、反体制者にたいし、死刑の恐怖で脅迫する手口を繰り返し使ってきた。ツアーリによるドストエフスキーらへの銃殺恐怖の手口が有名である。ツアーリは、フーリエ主義者のペトラシェフスキーグループを全員逮捕した。
死刑を求刑し、全員の銃殺刑を決定した。1849年12月22日、28歳のドストエフスキーらを刑場に連行し、目隠しをした。銃殺による死刑執行の直前、ツアーリによる恩赦→シベリア流刑という減刑を告げた。これは、模擬銃殺刑という恐怖芝居だった。
百合子より9歳年下夫の顕治にたいし、死刑判決による絞首刑恐怖と錯乱状態に十分陥らせてから、4つの選択肢を提起する。それ以前に、(1)言葉による脅迫だけでなく、(2)選択肢それぞれに関する模擬絞首刑・模擬拷問虐殺・模擬病死などの直接的肉体体験を味わわせる。
その直接担当は、毛利基特高課長・中川成夫特高係長とする。2人の有能さ・苛烈さは、小林多喜二即日拷問・虐殺、野呂栄太郎拷問・病死作戦遂行中手口で証明されている。
〔選択肢1〕、小畑リンチ殺人罪として起訴→死刑判決→対日本共産党裁判史上初の絞首刑執行
拘置所内の拷問部屋に、本物の絞首刑ロープを持ち込む。机の上に、殺人主犯容疑の25歳を立たせる。上からぶら下げた絞首刑ロープを首に掛ける。目隠しをし、机を揺らすか、瞬間的に机を蹴っ飛ばす。絞首刑の実際体験をさせる。ただ、本当にぶら下げると、体重で、首の骨がすぐ折れるので、慎重にやる必要がある。
〔選択肢2〕、小林多喜二のように、特高課長毛利基・中川成夫警部特高係長による拷問・虐殺
小林多喜二を拷問・虐殺した築地署の現場に連れて行く。中川成夫が、小林を拷問・虐殺したのと同じ竹刀・道具を使って、殺人主犯容疑25歳をぶん殴る。逆さ吊りにし、太腿を数回殴る。裸にし、小林にしたように、宮本の陰茎・睾丸を何度も踏みつける。多喜二を宮本検挙の10カ月前に一日で殺してやったと告げる。
山田正行は『小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫』において、拷問方法を書いている。「この方法の極めつけに性器=生殖器への拷問がある。多喜二の陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていたということは、男の存在の本源を傷つける暴力を中川や須田は振るったことを実証している。しかも、このような拷問を受けた多喜二は29歳の青年であった」。
山田正行『小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫』2、4
この拷問方法については、ソルジェニーツィンが、スターリン・ソ連共産党の行った具体的事例を証言している。
「しかし、最も怖ろしいのは次のやつだ――あなたの下半身を裸にして床に仰向けに寝かせ、両足をひろげさせて、その足の上に助手がまたがる(堂々たる軍曹連中)。あなたの手を押えたまま、取調官は(女性取調官の場合もそれをいやがらずにやる)あなたの拡げた足の間に入って自分の編上靴(女性だったら、自分のハイヒール)の先で、あなたをかつて男にしていたものを、少しずつゆっくり力を加えながら圧し潰していく。
と同時に、あなたの目を凝視しながら何度も質問を繰り返し、何度も裏切りを促すのだ。たとえ相手が少々おくれて踏みつけたとしても、ものの十五秒もすれば、あなたはすべてを認め、前々から強要されていた無実の二十人を投獄させる用意のあることを、さらに自分にとってどんなに聖なるものでも新聞紙上で中傷してかまわないと大声でわめきだすことだろう・・・・・・
そんなあなたを裁けるのは人間ではなく、神だけである・・・・・・」。
ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類拷問→その他の拷問
〔選択肢3〕、野呂栄太郎と同じく、拷問・食事減量・真冬の肺結核治療放棄→2カ月半で病死させる
1933年12月末〜34年1月の真冬、拷問部屋において、食事も与えず、全身に水を浴びせる。数時間も、そのまま放置する。肺結核の治療もしない。その手口なら、身体になんの拷問傷も残らない。やせ細って死んでも、病死と公表すればよい。野呂を、お前より1カ月前に検挙した。彼は、委員長として転向を拒絶している。
そこで、現在、衰弱死=病死させる手口を使っている最中だと知らせる。彼は、やせ細り、どんどん体重が減っている。このままなら、命があと何十日持つのか。
〔選択肢4〕、特高に全面屈服・変節→党内全情報を自白するが、「偽・非転向者」の役割を果たす
江戸時代、長崎奉行は、隠れキリシタン多数とともに、宣教師を捕まえた。彼を逆さ吊りにし、糞尿槽に頭から何回も突っ込んだ。宣教師は、イエスの声を聴こうと祈った。しかし、イエスは『沈黙』のままだった。殺人主犯容疑25歳にも同じ手口を使え。
『敗北の文学』で有名になっただけの党歴2年青年は、レーニン・スターリンの声を聴こうと願う。彼らも『沈黙』だろう。宣教師は耐えかねて、「転びバテレン」になった。雑誌『改造』懸賞論文受賞者の東大出インテリも、国際共産主義運動史上誰もいない「偽・非転向者」という「新種の転びコミュニスト」に変節させてやる。
ただし、この超高等な新転向極秘第3戦略を知っているのは、司法省の闇指令者、思想検事平田勲、特高課長毛利基、中川成夫警部・特高係長と、25歳お前の5人だけにする。妻・百合子にも漏らさず、気付かれてもいけない。愛情をこめた「偽・手紙」を何通も出せ。もちろん、袴田里見にも気付かれないよう、言動に細心の注意を払え。
3、新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」の役割・任務+見返りとしての極秘異例厚遇
〔小目次〕
1、「偽・非転向者」に変節した共産党最後の中央委員の役割と任務
1、「偽・非転向者」に変節した共産党最後の中央委員の役割と任務
新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」に変節した共産党最後の中央委員の役割と任務を命ずる。
〔役割・任務1〕
共産党最後の中央委員として、知っていた(1)党内情報・(2)党員データ・(3)カンパ提供者名・(4)香港など経由のコミンテルン資金=毎年党収入の約76%受領ルート情報すべてを、中川成夫警部・特高係長にたいし、署名・捺印をした「聴取書」として何通も提出せよ。ただし、「私は完全黙秘を貫いた、警察聴取書・検察調書を一通も作らせなかった」と、袴田里見・他や公判においても真っ赤なウソを公言することを許す。
一方、中川警部には「聴取書作成不能」だったと、あらゆる所でウソ報告をさせる。お前のウソと口裏を合わせる。1932年11月、東京地裁検事局「思想事件聴取書作成上の注意」が出ている。しかし、「作成不能」報告は、司法省の闇指令者・思想検事平田勲・特高課長毛利基の極秘隠蔽命令に基づく。「聴取書作成不能」というウソ報告にしたのは、治安維持法違反事件上、お前一人だけである。
しかし、拷問・虐殺・病死などやりたい放題の特高システムにおいて、そんな「聴取書作成不能」=しかもリンチ殺人主犯容疑者25歳一人以外に誰もいないなどということは絶対にありえないとの疑惑を執念深く、大声で追求する新聞社や学者が現れたら、やばいことになる。このあまりにもウソっぽい手口は、司法省・特高にとって、今後、致命的なアキレス腱になる怖れを含む。
ただ、そんな勇気がある新聞社や学者は、現時点で皆無である。もし、現れても、口封じ手口はいくらでもある。そのアキレス腱を隠蔽防護するのには、「宮本非転向神話」を極限まで高め、国民・左翼の誰一人も疑わないレベルにまで、権力・特高側の裏側支援で刷り込むしかない。
〔役割・任務2〕
公判陳述において、小畑中央委員リンチ査問シーンで、査問者他4人と異なる真っ赤なウソ発言をするのも許可する。お前が他4人と異なるウソであろうと、査問シーンを陳述すればするほど、日本共産党とは、中央委員が4人だけに崩壊しつつあり、しかも、半分2人が特高スパイだったという組織イメージを共産党支持者・国民に植え付けることに成功する。
最高機関の半分が特高スパイだったとお前が繰り返し主張すれば、下部組織・党員も半分がスパイでないかとの疑念を抱かせることに成功する。しかも、大泉は、お前より早く、野呂委員長が任命していた中央委員だった。特高スパイ2人を中央委員に任命した共産党委員長野呂栄太郎とは、そもそも何者だったのかとなる。
共産党を名乗っているが特高スパイに半分占められた、そんな組織の共産党員になるなどは、即時検挙されるために入党するのと同じ罠にはまると思わせる。お前の公判陳述内容は、すべての残存共産党員を転向させ、かつ、これから入党しようと思っている潜在的党員候補を根絶させるという崇高な任務となる。
〔役割・任務3〕
「偽・非転向者」として振る舞い、「戦う非転向者・宮本顕治」の神話化を進める。それは、「転向者約2290人・96.6%」の転向者コンプレックスを掻き立てる。彼らを「転向した共産党員」として自虐観念に陥らせる。その結果、共産党活動への再開・再参加意欲を完全に萎えさせる。
その秘密目的に基づき、お前の公判陳述時間・内容とも無制限に認める。お前の「偽・公判闘争」は、日本におけるコミンテルン型共産党運動を1933〜43年時点で最後的に内部崩壊→消滅させる偉大な役割を果たす。
お前には、警察・検察・特高の調書すべてを見せてやる。それだけでなく、他被告の逸見・袴田・秋笹・木島らの警察聴取書・検察調書・東京地裁公判速記録もすべて見せてやる。それらを単独公判陳述において、引用・批判する自由も与える。他4被告は、スパイ査問リンチのシーンを克明に自供している。その内容をお前が批判するのも自由にしてやる。
お前は、逸見・袴田・秋笹・木島らの供述にたいし、全面否認し、批判するであろう。その陳述行為は何を意味するか。お前の他全員批判・否定行為は、国際共産党日本支部の最後の中央委員会メンバーが完全に空中分解したことを示す壮大なショーになる。お前の任務は、日本支部を完璧に霧散・解体させるという崇高な仕事を国内・国際的にも知らしめることである。
〔極秘異例厚遇1〕
宮本一人だけ、途中からの分離裁判を許可する。リンチ査問実態・宮本の小畑殺害シーンを正確に供述している袴田・秋笹との合同公判ではやりにくいであろう。合同公判を続ければ、査問シーン・小畑殺害瞬間シーンについて、袴田・秋笹と陳述が決定的に食い違うことになる。法廷内で2人とお前との喧嘩・口論が毎回発生する。これは、お前を「偽・非転向者」に仕立て上げた当局として避けたい。治安維持法違反行為の裁判史上、途中から、一人だけを分離裁判にさせてやったのも、お前だけにたいする異例厚遇である。お前の病気理由にしてやる。
〔極秘異例厚遇2〕
独房を2つ与える。非転向者では、徳田球一・志賀義男らにもなく、お前一人だけである。1937年になったら、古い市ヶ谷刑務所独房2つから、今建設中の巣鴨の新築拘置所独房2つに入れてやる。独房といっても、新築はきれいで、それが2つもあれば、殺人主犯容疑者の居場所として住心地は悪くないはずだ。
〔極秘異例厚遇3〕
お前と百合子は1年前に結婚した。しかし、それは、宮本顕治と中条百合子との事実婚だった。婚姻届を出していない。中条姓のままでは、差入れの親族権を認めない。正式婚姻にし、中条姓を宮本姓に変えさせよ。なぜなら、中条百合子は、1931年入党の共産党員だが、有名作家だ。中条百合子の夫というより、宮本百合子の9歳年下夫・顕治の方が、「偽・非転向者」の宣伝・付加価値が高くなるからだ。
百合子は姓変更を拒否しているようだ。もし、中条姓を続けるなら、彼女による差入れをできなくさせてやる。お前の食事は、拘置所のモッソ飯だけになる。当初許可していた百合子手作りのスクランブルエッグ弁当差入れも認めない。宮本妻の宮本百合子として入籍すれば、往復書簡やりとりの自由を許す。彼女との面会も無制限に認めてやる。
彼女からの差入れも無制限に許可してやる。刑務所のものではない特別の布団、特別の毛布、湯タンポ、座布団、大島の着物の綿入れ、ラクダのシャツ、足袋、無数の書籍などが欲しいか。百合子からの差入れを、2つ目の独房に保管することも認める。
wikipedia『宮本顕治』 『宮本百合子』1934年入籍→宮本姓
ただし、百合子は、お前にたいする極秘異例厚遇に気付き、疑惑を持つ危険性がある。共産党員のままでいて、転向もしていない彼女が何の弾圧・検挙も受けないでは、まずい。(1)往復書簡やりとり自由・(2)面会無制限許可・(3)差入れも無制限では、百合子が疑う。そこで、百合子をたびたび検挙し、治安維持法違反裁判にかけ、1936年、懲役2年・執行猶予4年の判決を、東京地裁思想判事に出させることにした。
〔極秘異例厚遇4〕
肺・腸結核治療名目をでっち上げ、獄舎内の病監に9回入院させてやる。栄養豊富な病人食で、1日中ベッドに寝ておれる獄中楽園に入れてやる。病監に9回も入院させてやるのも、お前一人だけの極秘異例厚遇である。非転向者で獄中楽園に入れてやったのは、他に一人もいない。野呂委員長も病監には入れていない。彼の拷問・衰弱死直前に、一般病院に移送しただけだ。
〔極秘異例厚遇5〕、
1928年〜34年の検挙者4〜5万人という特高の超極秘資料数を教えてやる。その数値を知らせたのは、非転向者中で、お前一人だけである。非転向者では誰も知らない。その数字を公判陳述で発言するのも許可する。
〔極秘異例厚遇6〕
お前や袴田は、小畑・大泉2人とも実際のスパイだった証拠があると主張・証言している。しかし、われら特高側の持っている真相では、大泉はスパイと公判でも自白・証言しているが、小畑は特高スパイでなかった証拠がある。その真相証拠を公判に提出・開示するのをやめ、隠蔽してやる。開示すれば、「偽・非転向者」お前の公判陳述を否定する矛盾に陥る怖れが出るからである。
大泉のハウスキーパー熊沢光子は、査問まで、彼がスパイだったとはまったく知らなかった。彼女の共産党員任務は、レポ・街頭連絡係とセックスの相手だった。当時、地下生活者のハウスキーパー全員が同一の性的任務を党から暗黙裡に与えられていた。彼女は獄中で自殺した。地下生活者・小林多喜二も、自分のハウスキーパーにたいし同一任務遂行を求めた。
われら特高は、小畑を「全協」関係の労働組合幹部だった1931年に1回だけ検挙した。共産党員でない「全協」組合幹部は、短期日で釈放することになっていた。その規定通り40日間拘留で釈放した。入党は1年後の1932年で、それ以降、検挙していない。彼をスパイにするチャンスはなかった。袴田里見は、小畑査問時点、彼が現金300円を持っていたことをスパイである唯一の決定的証拠と主張している。
しかし、小畑は、野呂委員長が任命した党中央財政部長だった。全党の地下活動・地下生活資金として、財政部長が300円持っていたことは、スパイであることの決定的証拠になりえない。彼は、リンチ殺害瞬間まで、スパイ自白などしていない。特高側スパイリスト資料のどこにも存在しない。
wikipedia『小畑達夫』
1929年、小畑達夫は、上京し郵便局に就職、中央、本所、浅草の各局に勤務[2]。大館中学の1年上級の黒沢敏雄のすすめで、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本通信労働組合に加盟、組織部員となった。1931年同労組の常任委員に就任[3]。同年6〜7月、万世橋警察署に検挙され、40日間拘留で釈放された。
1932年、日本共産党に入党[4]。このころ、帰郷して種市ら大館中学時代の社会主義研究会のメンバーを手掛かりに全協秋田地区協議会を組織した。1933年5月同党中央委員。同年9月、財政担当になり、10月に財政部長。
同年12月23日、警察に内通したスパイであるとして、大泉兼蔵とともに東京府東京市渋谷区幡ヶ谷の同党アジトで査問を受け、同24日午後1時過ぎ急死した。遺体はアジトの床下に埋められ、1934年1月16日警察の捜査により発見された。
〔極秘異例厚遇7〕
小畑死因鑑定・判決とも、司法省の闇指令者命令として、(1)リンチ殺人→死刑判決→絞首刑執行でなく、(2)外傷性ショック死→無期懲役判決→懲役囚として網走刑務所移送とするよう、圧力をかける。古畑鑑定人・東大教授や第1審東京地裁裁判長も、その闇命令に逆らえば、自分の地位・身分がどうなるかよく分かっている。
スパイリンチ査問事件小畑殺害・死体遺棄犯人5人にたいし、確定判決は次である。宮本顕治党中央委員無期懲役、袴田里見党中央委員懲役15年、秋笹政之輔党中央委員懲役10年、逸見重雄党中央委員懲役5年、木島隆明党中央組織委員懲役5年にした。この判決における量刑格差を見ても、小畑殺害シーン関与比率での宮本顕治にたいする認定度はきわめて高かった。
wikipedia『日本共産党スパイ査問事件』
〔厚遇6〕の参考データ
党中央財政部長小畑所持金300円問題に関し、参考資料として、1931年時点の党中央財政規模を載せる。下記「一ヶ月経費合計二、六一〇円」中、財政部長小畑所持金は300円だった。300円÷2610円≒11.4%である。1933年12月時点の財政部長所持金額11.4%は、特高スパイの決定的な物的証拠にならない。宮本・袴田は、他のいかなる明白なスパイだという証拠も証言していない。
加藤哲郎は、日本共産党の1931年コミンテルン宛報告書で、党財政データを発掘・公表した。それによれば、党及び同盟の一ヶ月経費合計二、六一〇円中、一ヶ月要求額二、〇〇〇円である。それは、一ヶ月経費の76.6%を、コミンテルンの補助でまかなうというレベルの党財政面でのコミンテルン隷従政党だった事実を証明するデータとなった。
<2>日本共産党の財政予算表
一ヶ月の経費 二、三一〇円
中央委員 5名 一〇〇円づつ 五〇〇円
労働組合フラクション 6名 六〇円づつ 三六〇円
技術部員 8名 五〇円づつ 四〇〇円
大衆団体フラクション 10名 四〇円づつ 四〇〇円
旅行費 3名 一五〇円づつ 四五〇円
印刷所費 3ヶ所 五〇円づつ 一五〇円
資料費 五〇円
日本共産青年同盟の一ヶ月の経費 三〇〇円
党及び同盟の一ヶ月経費 合計 二、六一〇円
「無産者新聞」「無産青年」は補助なくして出版可能なり。
党は、二、六〇〇円中六一〇円を自給することが出来るが、
一ヶ月 二、〇〇〇円の補助を要求す。
一ヶ月要求額 二、〇〇〇円
以上。
<2>日本共産党の財政予算表−1931年度一ヶ月要求額
加藤哲郎『第一次共産党のモスクワ報告書』→<2>日本共産党の財政予算表
以上 〔第1部目次〕に行く 〔第3部目次〕 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』
『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』
『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題
石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』
伊藤晃 『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料
『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫
いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本顕治批判』ブカレスト特派員
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏