「非転向」の神話化の問題−宮本顕治に関連させて

 

〔妻・百合子疑惑1〕、転向文学者7人とただ一人だけ非転向党員の謎・原因

〔妻・百合子疑惑2〕、妻・百合子へも異なるタイプの極秘異例厚遇とその謎

 

山田正行PDFリンク+(宮地作成・仮説の追実験結論)第3部

 〔第3部目次〕

   8、多喜二・野呂・宮本にたいする特高中川成夫の対応・厚遇の差別扱いータ(表)6つ

         (表3) 山田正行指摘疑惑としての宮本顕治病監収容9回

         (表4−1) 殺人容疑未決囚が百合子と面会した年度と回数183回、他疑惑8事項

         (4−2) 百合子への大量の書籍差入れ要求データ

            『聴取書作成不能』報告書の3カ月後・34年12月13日

         (表5) 転向作家7人とただ一人非転向百合子と特高との関係

            〔妻・百合子疑惑1〕、転向文学者7人とただ一人だけ非転向党員の謎・原因

            〔妻・百合子疑惑2〕、妻・百合子へも異なるタイプの極秘異例厚遇とその謎

         (表6) 小林・野呂・宮本顕治ら3人の検挙・死亡月日経過と差別扱い理由

         (表7) 「自壊没落期」中央委員会と殺人容疑未決囚の役割

   9、山田正行による「宮本顕治=偽・非転向者」仮説の信憑性→私の追実験結論

 

 〔第1部目次〕に行く

   1、宮地コメント

      (3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて− (P.45)

       a.神話化と精神主義のコンプレクス (P.45)

       b.獄中での厚遇 (P.47)

       c.中川成夫の「聴聴書作成不能」の報告 (P.49)

       d.宮本顧治と特高警察の関係性 (P.50)

       e.宮本顕治と機動隊の関係性 (P.51)

       f.小括 (P.51〜52)

   2、山田正行PDFリンク (PDF全文)

 

    (以下、宮地作成=山田正行「宮本顕治=偽・非転向者」仮説→私の追実験)

   3、山田教授が発掘・公表した宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証

      1、山田正行による宮本顕治「非転向」に疑惑−特高許可、「非転向」偽り

      2、()による宮本顕治「非転向」に関する新旧疑惑の検証 (表1)

      3、〔疑惑証拠1〕、()宮本・袴田・秋笹3人合同公判→途中から宮本だけ分離裁判、

                  ()2つの独房、()宮本百合子『風知草』より、「結核病竃」の大小

      4、〔疑惑証拠2〕、小林多喜二虐殺の主犯格といわれる中川成夫の経歴

      5、〔疑惑証拠3〕、1928年〜34年検挙者の特高資料数 (表2)

      6、〔疑惑証拠4〕、東大に機動隊突入の事前情報−川上徹『査問』より抜粋

   4、スパイ査問事件における中央委員小畑の死亡シーンと中央委員宮本がしたこと

      1、立花隆『日本共産党の研究』における小畑死亡シーンと宮本顕治がしたこと

      2、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』より、小畑中央委員死亡シーン

      3、1976年、立花隆『日本共産党の研究』→「犬が吠えても歴史は進む」

 

 〔第2部目次〕に行く

   5、分離公判における宮本顕治の査問シーン真っ赤なウソ陳述データ 〔表15〜25〕

   6、獄中での厚遇・中川「聴聴書作成不能」報告・弾圧犠牲者数陳述理由の歴史的背景

      1、33年、当局の対共産党方針大転換−トップ2人に転向声明→雪崩的転向誘導戦略

      2、宮本検挙翌年、超高等極秘新転向第3戦略を追加=「偽・非転向者」ねつ造せよ!

   7、宮本顕治は「偽・非転向者」=変節者・史上最悪の特高極秘協力者だったのか?

      1、山田正行の仮説−特高警察が宮本「非転向」を許可、権力が宮本「偽・非転向」利用

      2、権力の超高等秘密新第3戦略=宮本顕治を死刑脅迫→「偽・非転向者」に仕立てよ

      3、新転向極秘第3戦略「偽・非転向者」の役割・任務+見返りとしての極秘異例厚遇

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

     『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』 (表4〜7)

     『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

           『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

     『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

     『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料

     『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠

 

     志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫

           『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫

     いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本批判』ブカレスト特派員

     『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏

 

 8、小林多喜二・野呂・宮本ら3人にたいする特高係長中川成夫の対応・厚遇の差別扱いデータ()6つ

 

 〔小目次〕

   (表3) 山田正行指摘疑惑としての宮本顕治病監収容9回

   (表41) 殺人容疑未決囚が百合子と面会した年度と回数183回

   (2) 百合子への大量の書籍差入れ要求データ

        『聴取書作成不能』報告書の3カ月後・34年12月13日

   (表5) 転向作家7人とただ一人非転向百合子と特高との関係

         転向作家と非転向作家データからの百合子疑惑

   (表6) 小林・野呂・宮本顕治ら3人の検挙・死亡月日経過と差別扱い理由

   (表7) 「自壊没落期」中央委員会と殺人容疑未決囚の役割

 

(表3) 山田正行指摘疑惑としての宮本顕治病監収容9回

1933年12月26日検挙1945年5月4日大審院で上告棄却判決→無期懲役囚

宮本年齢

病監収容月日

普通監房に戻る

病名、疑い

病監場所

頁数

1

1934

26

1月下旬

猩紅熱

市ヶ谷刑務所

24

2

1934

 

12

風邪、肺突に影

市ヶ谷刑務所

26

3

1936

28

5

肺結核

市ヶ谷刑務所

28

4

1937

29

7

腸結核

巣鴨の新築拘置所

30

5

1939

31

6

喀血

巣鴨拘置所

37

6

1939

 

12

(病気)

巣鴨拘置所

39

7

1940

32

12月〜

219

(病気)3カ月間

巣鴨拘置所

40

8

1943

35

75

腸チフスの疑い

巣鴨拘置所

47

9

1944

36

6月中旬

巣鴨拘置所

50

データと頁数はすべて『宮本顕治の半世紀譜』686頁中−山田正行PDF(P.48)

11年間で9回も病監収容−延べ入院期間は7回目の3カ月間以外不明?

この11年間、病監収容もなく、獄中病死共産党員は十数人以上〜数十人か?

 

    山田正行『一抵抗と転向の転倒一』PDF全文→(P.48)宮本病監収容データ

 

 この11年5カ月間における共産党員獄死者は、無数にある。宮本顕治は、『半世紀譜』において、この11年間非転向獄死者3人だけを挙げた。

 ()1934年2月19日野呂栄太郎・非転向拷問による病状悪化で死去、33歳。

 ()1943年3月19日国領五一郎・非転向、堺刑務所で獄死、41歳。

 

 ()1945年2月15日市川正一・非転向、獄死、宮城刑務所において栄養失調となり歯が抜けて噛むことができなくなった市川は硬い米と軟らかい米を一粒ずつより分けて指でつぶしながら生き抜こうとしたという話がある。53歳。

 

 1945年5月4日宮本顕治は、大審院で上告棄却判決→無期懲役囚、37歳→北海道の網走刑務所に下獄した。確定判決までの約11年5カ月間は、未決期間中だった。その間、彼は、どのような待遇を受けていたのか。

 

 ()独房2つ―1937年以降は新築独房2つ。「非転向」で、独房2つ待遇は、宮本顕治のみ。

 ()病監収容9回−延べ入院期間不明。「非転向」で、病監収容9回は、宮本顕治のみと思われる。

 

 ()百合子差入れ無制限で、刑務所のものではない特別の布団、特別の毛布、湯タンポ、座布団、大島の着物の綿入れ、ラクダのシャツ、足袋、百合子手作りのスクランブルエッグ弁当、仕出し屋からの連日のような弁当差入など、特高による極秘異例厚遇を受けていた。

 

 ()さらには、宮本顕治・宮本百合子『12年の手紙』(筑摩書房、1965年出版)は、12年9カ月間において、四季による下着の入れ替え・差入を何回も要請したやりとり手紙記録を載せている。それも、特高が許可しなければ、できない。他非転向党員にたいし、特高は、同じように許したのか

 

(表4−1) 殺人容疑未決囚が百合子と面会した年度と回数183回、他疑惑8事項

1933年12月26日検挙1945年5月4日大審院で上告棄却判決→無期懲役囚

回数

回数

回数

回数

1934

1

1937

15

1940

12

1943

9

1935

2

1938

23

1941

9

1944

49

1936

6

1939

52

1942

0

1945

7

データはすべて『宮本顕治の半世紀譜』686頁中(P.23〜58)

12年間の面会回数合計は183回−特高が共産党員・非転向百合子にすべて許可

殺人容疑未決囚にたいし、特高がこんなにも面会回数を許可するものか?

 

 ここで、宮本顕治の法律上の身分と他非転向者約9人の法律上身分との決定的な違いを確認する。

 

 最後の共産党中央委員会4人中、党歴2年・中央委員歴8カ月間の宮本は、刑法上身分だった。刑法上で、()中央委員小畑殺人主犯容疑・()死体床下埋め遺棄容疑・()ピストル不法所持容疑、他など5項目罪名の未決囚だった。殺人主犯という意味は、小畑をリンチ査問→死亡させた瞬間シーンの役割レベルである。それは、査問委員5人確定判決の量刑差に表れている。スパイ容疑のリンチ査問・小畑殺害・死体遺棄犯人5人にたいし、確定判決は次である。

 

 宮本顕治党中央委員無期懲役袴田里見党中央委員懲役15年秋笹政之輔党中央委員懲役10年逸見重雄党中央委員懲役5年木島隆明党中央組織委員懲役5年にした。この判決格差を見ても、小畑殺害シーン関与比率での宮本顕治にたいする主犯認定度はきわめて高かった。

 

    wikipedia『日本共産党スパイ査問事件』

 

 徳田球一・志賀義男など他非転向者約9人の法律上身分は、()治安維持法上の違反行為者+()刑期満了後もの思想犯保護観察による刑務所留置=予防拘禁者だった。宮本顕治も、刑法上身分だけでなく、治安維持法上の違反行為者である。

 

 殺人主犯容疑の未決囚にたいし、特高毛利・中川がこのように、事実上の公然党員・非転向百合子()差入れ無制限・()面会183回すべて許可するのはおかしい。ちなみに、袴田里見は、妻による面会も2回目以降、妻がいつも検挙され、面会をできなくされたと証言している。また、差入れも、鉛筆・ノート・書籍など極端に制限されたとも言っている。

 

 他疑惑8事項=特高毛利・中川が、殺人主犯容疑未決囚と非転向党員百合子に許可

 

 以下データは、すべて『宮本顕治の半世紀譜』686頁中に、獄中12年9カ月間の年月日記録として記載されている(P.23〜58)

 

 (他疑惑1)、殺人主犯容疑未決囚による百合子宛の手紙・往復書簡337通年月日を正確に記録。百合子から殺人主犯容疑未決囚宛の手紙の記録はない。獄中12年9カ月間に、何通あったか。『十二年の手紙−はしがき』(筑摩書房、1965年出版)が、「百合子千余通、顕治四百通」としている。

 

 (他疑惑2)、殺人主犯容疑未決囚による百合子宛の電報26通年月日記録カタカナ電文も過半数明記。

 面会183回許可+手紙・速達337通+電報26通合計546回特高毛利・中川が許可百合子からの手紙千余通特高毛利・中川が許可

 

 (他疑惑3)大量の書籍差入れと第2独房に保管−百合子による差入れ記録は、綿入れ・梅の鉢植・夜具・他の合計4回

 1934年9月10日・検挙の8カ月後、「取り調べにあたった警視庁特高課中川成夫警部毛利基特高課長宛に、宮本の『聴取書作成不能』の旨、報告書を提出」と、宮本顕治は『半世紀譜』(P.25)に書いた。

 

 →『聴取書作成不能』報告書3カ月後・34年12月13日、百合子宛手紙(『12年の手紙・上』P.15)で、獄中での学習について、「ここでの読書プランは、中心を、政治・経済・軍事に関する具体的知識を深めることにおき、併せて、芸術哲学、歴史伝記等を学び度い。語学は露・独、今は露から始めたい」と書いた(P.25)

 

 これら書籍の百合子による差入れを、特高は許可したのか。許可がなければ、こんな読書プランなど立てられない。袴田里見は、宮本第2独房に、いつも数十冊の差入れ書籍が保存されていたと証言している。かつ、彼にたいしては、鉛筆・ノート・書籍差入など極端に制限されたとした。宮本と袴田ら2人にたいする特高の極端な差別待遇の理由は何か。

 

(表4−2) 百合子への大量の書籍差入れ要求データ

『聴取書作成不能』報告書3カ月後・34年12月13日

 

 併せて、芸術哲学、歴史伝記等を学び度い。語学は、露・独、今は露から始め度い。未だ新刊目録を入手しないから、くわしくは、後で書くが大体次のものをいれて呉れ。

T

『世界国勢年鑑』(矢野恒太)、世界地図、『満鮮』(山本改造)、『非常時全集』(中公)、『我等若し戦はば』『我等の陸海軍』(平田)、『明治維新研究』(厚い本だ、家の書棚にある)、『蹇々録』(岩波文庫)、スミス『富国論』、リカアド『経済学原理』、『地代論』(岩波文庫)、『近代民主政治』(岩波)この外この間云ったもの。

U

『将来の哲学の根本命題』『史的にみたる科学的宇宙観の変遷』(岩波)、ランゲ『唯物論史』、フィシャー『ヘーゲル哲学解説』『種の起原』、UのB、プランデス『十九世紀文学史』世界文学講座総論篇・英仏独露篇、ジッド『ドストエフスキー論』、テーヌ『文学史の方法』(岩波)、バルザック『従兄ポンス』『従妹ベッ卜』『知られざる傑作』、シェクスピア(新潮社の世界文学全集でよい)。

 

 ディケンス『二都物語』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』、ゴーゴリ『外套』『検察官』等。ハイネ全集、シルレル『ウィルヘルム・テル』、独歩、藤村、漱石(何れも改造社、春陽堂等の全集本でよい)、有三『波』、広津、野上等の近作。子母沢寛『国定忠治』、大仏『由井正雪』、それから最後に、ユリの旧作もいれて呉れ。

V

菊池寛『日本合戦譚』(中公)、『西園寺公望伝』(白柳)、『海舟座談』(岩波)、『野口英世』『新版義士銘々伝』(講談社)、『チャールス・ダーウィン』『科学者と詩人』『ゲーテとの対話抄』『この人を見よ』(以上岩波)、『プルタークの英雄伝』、『ミル自伝』(岩波)。

W

語学は講座本と字引。

 

 それから、昨日『科学の詩人』『二葉亭全集』等を宅下げしておいた。ファーブルは面白かった。この科学上の実証主義者、政治上の共和主義者、宇宙観上の有神論者は、彼が名利を超越し、何よりも自然を師として、忍耐の中に凝結する情熱にみちていた、と云う点で輝いている。そして彼は、自然を唯一の師とした故に、自然弁証法の証左となる多くの実例を提出している。

 

 「進化論」「均斉」「矛盾」「調和」「道徳の幻影」等の章が特に興味深かった。『百鬼園随筆』は折角だから読んでみたが、余り興味がなかった。「二葉亭」は昔、彼について書こうとしたことがあったが、面白かった。作品としては、「其面影」がまとまっている。

 

 他の手紙においても、書籍の差入要請・返送=宅下げが何度も出てくる。百合子は、その都度、本屋に注文した、届き次第差入すると書いている。差入書籍は、読み終わった書籍の返送=宅下げを別とし、延べ数百冊になったと思われる。

 

 これら大量の書籍差入要請・宅下げをどう考えたらいいのか。『聴取書作成不能』報告書3カ月後である。『作成不能』報告と、大量書籍差入要請・返送=宅下げとの間何らかの極秘裏取引があったと推定するのが普通ではないのか。

 

 しかも、34年12月13日、百合子宛手紙における差入要請リストは、他手紙にも書いてあるが、事前に百合子からの『書籍目録』の差入があったはずである。

 

 1934年9月10日検挙の8カ月後警視庁特高課中川成夫警部『聴取書作成不能』報告書を提出→月日不明だが、特高毛利・中川が『書籍目録』差入を許可→殺人主犯容疑未決囚は特高が許可した『書籍目録』を検討→12月13日差入要請リストの手紙→大量の書籍順次差入→読んだ本から返送=宅下げとなった。

 

 特高毛利・中川は、これらのやりとりを、検挙の8カ月後から、獄中12年間続くことを、百合子と殺人主犯容疑未決囚に許可した。袴田里見には許可しなかった。たぶん、他非転向の獄中党員にも、許可しなかったと思われる。

 

 (他疑惑4)、獄中12年間で使った日記・日誌用ノート数十冊差入れ―獄中12年間の年月日記録には、数十冊が要る。

 

 (他疑惑5)百合子宛手紙の葉書・便箋など用紙−手紙・速達337通にはどれだけの葉書・便箋などの用紙差入れ特高による許可が要ったのか。

 

 (他疑惑6)ラジオの差入れ―刑務所のラジオ放送によるヨーロッパ・日本の戦局情報も繰り返し書かれている。独房2つの中に、ラジオの差入れも許されていたのか。独房なので、普通、ラジオ放送など聞けない。

 

 (他疑惑7)日記・日誌用使用済みノート数十冊の処理−そこには、差入れラジオ放送に基づき、ドイツ・日本軍の敗北状況を書いている。ドイツ・日本軍の敗北状況を書いても、検閲→不許可にならなかったのか。ノート数十冊の内容は、無検閲だったと思われる。そんな敗北記録内容のノート数十冊を、随時、百合子に手渡し・郵送保管、または、網走刑務所にまで持っていくことができたのか。

 

 (他疑惑8)差入後、読んだ書籍の返送、綿入れ・下着などの季節による返送・交換などが、何回も書かれている。

 

 獄外の公然党員・非転向百合子は、それらになんの疑問も持たなかったのか。未決囚生活百合子との関係に関する疑惑は、山田正行が指摘するように無数に次々と出てくる。

 

 殺人主犯容疑未決囚有名作家百合子にたいするこれほどの面会回数・差入れ回数・差入れ物品の無制限許可は、特高による極秘異例厚遇ではないのか。公然たる非転向共産党員・宮本百合子は、それらの無制限許可を、他の獄中党員への特高待遇と比べ、あまりにも異様な異例厚遇感じなかったのか

 

 彼女は、獄外のプロレタリア文学作家として、他獄中党員への特高待遇実態に関する情報を具体的、かつ、詳細に知っていたはずである。

 

 ()特高毛利・中川−()殺人主犯容疑未決囚−()獄外プロレタリア文学作家・非転向公然党員という3者関係は、これらのデータを見ても、どうもおかしい。そこには、何か深い疑惑が湧く

 

 こんな特高との夫婦関係はありえない、妄想・でっち上げと断定する共産党員・支持者がほとんどと思われる。しかし、これらデータの基本は、宮本顕治が『半世紀譜』686頁中(P.23〜58)と『十二年の手紙』に書いた記録である。『半世紀譜』は、新日本出版社が、1983年6月発刊→88年10月増補版を出版した。

 

 野坂参三・野坂竜夫妻のケースが、まったくの同時期・1935〜36年に、コミンテルン・ソ連共産党内で発生した。野坂参三は、コミンテルン執行委員だった。野坂竜もソ連にいた。ソ連内に亡命していた日本人共産党員は、当時34人いた。スターリン・ディミトロフは、コミンテルン・ソ連共産党内で数百万人の大テロルを展開していた。野坂参三も含め、コミンテルン執行委員も粛清の対象になっていた。野坂竜も合わせ、日本人共産党員のほぼ全員が逮捕された。

 

 スターリンの秘密政治警察GPUかディミトロフに密告しなければ、逮捕→銃殺された。野坂参三は、()自分の生命保身と、() 逮捕中の妻・竜を銃殺回避・救出という二重目的で、山本懸蔵をディミトロフに密告した。山本懸蔵も、すでに、別の日本人共産党員数人を密告→銃殺させていた。密告しなければ、自分が密告・銃殺されるという相互密告システム体制だった。

 

 ディミトロフは、野坂参三の密告手紙内容に基づき、山本懸蔵をスパイとし、銃殺した。野坂参三は銃殺を免れた。野坂竜も、他日本人共産党員34人のほぼ全員が銃殺・追放・行方不明にされた中で、一人だけ釈放された。なぜか、謎に満ちている。これは、大テロル時期における悲惨な夫婦愛だった。この経過と詳細は、加藤哲郎と藤井一行がHPに載せている。

 

    加藤哲郎『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』粛清確認者34人データ

          『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』密告者山本懸蔵

    藤井一行『野坂竜の逮捕をめぐって』逮捕→釈放・その謎

 

(表5) 転向作家7人ただ一人非転向百合子特高との関係

転向作家と非転向作家データからの百合子疑惑

区別

作家名−入党→検挙→転向とその期間

備考

 

 

 

転向

 有名作家6人だけを見る。全員が、入党→検挙・拷問→転向声明公表をした。

()、島木健作1927年入党→28年検挙→29年転向。

()、村山義知31年5月入党→32年4月検挙→33年12月転向→34年3月懲役2年・執行猶予3年判決。

()、埴谷雄高31年入党→32年検挙→33年転向上申書→懲役2年・執行猶予4年判決。

()、中野重治31年入党→32年検挙→34年転向。

()、窪川鶴次郎32年1月入党→32年3月検挙→33年転向・保釈。

()、佐多稲子32年入党→35年5月検挙→転向、35年7月釈放→37年5月懲役2年・執行猶予3年判決。

 

 入党していないのに、検挙→転向声明した作家もいる。特高は、共産党への資金カンパ源を絶滅させる手口にも全力を挙げた。

()、林房雄30年共産党への資金提供で検挙→32年転向声明

 これらのデータは、すべて個々の作家のwikipedia記事、または、個人全集解説文に基く。

 入党検挙→転向までの期間は、ほとんどが2年〜3年だった。検挙→転向までは、約1〜2年だった。約1年間での転向が多い。

 検挙後、どのような拷問・脅迫があったのか。それについては、戦後になってからでも、誰も具体的事実を書いていない。抽象的な転向文学は書いている。

中間?

()蔵原惟人29年入党→32年検挙→「政治活動から身をひく」と声明、治安維持法違反で懲役7年判決→満期出獄

転向声明を出していない。

 

 

 

非転向

非転向作家は、宮本百合子一人のみ

 中条百合子31年入党→32年9歳年下の宮本顕治と事実婚→5回検挙でも非転向

〔検挙1〕、32年4月7日、駒込署に検挙→6月25日釈放

〔検挙2〕、32年9月10日、渋谷署に検挙→10月15日釈放

 (33年2月20日、小林多喜二、築地署に検挙→即日拷問虐殺)

 (33年11月28日、野呂栄太郎、検挙→34年2月18日拷問・83日間で病死)

〔検挙3〕、34年1月23日、駒込署に検挙→6月13日執行停止で釈放

〔検挙4〕、35年5月10日、淀橋署に検挙→10月14日治安維持法違反で起訴→10月15日市ヶ谷刑務所に収監→36年3月27日心臓が弱ったため保釈→36年6月22日公判、懲役2年・執行猶予4年判決

〔検挙5〕、42年3月、検事拘留のまま、巣鴨の東京拘置所へ送監→7月20日熱射病で倒れ、執行停止で出獄

 これら検挙5回のデータは、すべて『半世紀譜』の引用。宮本顕治は、この詳細な年月日データをいつ、どこで知ったのか

 〔検挙1〕2カ月半+〔2〕35日間+〔3〕4カ月半+〔4〕10カ月半+〔5〕4カ月=32年4月〜42年7月までの11年間で、5回・約延べ22カ月間=1年10カ月間刑務所。

 5回中、釈放3回、保釈1回、執行停止で出獄1回だった。4回目だけ、懲役2年・執行猶予4年判決→非転向のままの判決

 

 これら(表5)3種類のデータから、宮本百合子が、殺人主犯容疑未決囚のなのに、獄外プロレタリア文学作家・非転向公然党員であり続けられたことにたいし、恐るべき疑惑が浮かぶ。宮本顕治の警察・検察でたった一人だけ完全黙秘貫徹→公判で初めて陳述、非転向疑惑発覚との関連で、妻・百合子疑惑も2つ浮上する。

 

 〔小目次〕

   〔妻・百合子疑惑1〕、転向文学者7人とただ一人だけ非転向・公然党員との違いとその謎・原因

   〔妻・百合子疑惑2〕、妻・百合子へも異なるタイプの極秘異例厚遇実態とその謎

 

 〔妻・百合子疑惑1〕、転向文学者7人とただ一人だけ非転向・公然党員との違いとその謎・原因

 

 ()のように、特高は、他党員文学者6人+林房雄を、検挙後→約1〜2年間で転向させた。ほとんどを約1年間で転向声明を出させた。検挙後の取扱は、短期間で転向させるという直截的な目的に基づく拷問だった、と思われる。しかし、戦後になっても、7人の誰一人として、多喜二小説のような拷問の直接・自己体験を書かなかった。なぜか。自分の転向を恥としているのか。

 

 特高は、それにたいし、百合子5回も検挙した。しかし、その都度、非転向のままで釈放・保釈・執行停止をした。

 

 当時、プロレタリア文学作家の共産党員非転向のまま、釈放されたケースがあるか。データを調べる限り、百合子以外一人もいない野坂参三・竜のケースと似ている。

 

    石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

 

 特高は、著名なプロレタリア文学作家で共産党員にたいし、百合子以外の全員を転向させた。特高は、転向しなければ、長期拘留・拷問を続け、釈放しなかった。ついには、獄死させた。宮本百合子に関する疑惑は、検挙5回の度ごとに、非転向のまま、釈放3回・保釈1回・執行停止1回されたという唯一の特殊ケースである。他には一人もいない。それは、まったくの特殊異例厚遇ではないか。なぜか、その理由は何か。

 

 特高は、埴谷雄高を、31年入党→32年検挙→33年転向上申書→懲役2年・執行猶予4年判決にした。それにたいし、特高は、宮本百合子を、31年入党→32年検挙→非転向のまま、約2カ月半で釈放した。35年4回目の検挙でも非転向のまま保釈にした。36年6月22日公判において、懲役2年・執行猶予4年判決にした。

 

 埴谷雄高は、入党1年後に検挙→検挙1年後に転向上申書を出したが、懲役2年・執行猶予4年判決にされた。特高・東京地裁は、宮本百合子にたいし、検挙5回をしても非転向のままで、埴谷雄高と同じ判決にした。2人にたいする特高・東京地裁の差別待遇の謎をどう考えたらいいのか。

 

 佐多稲子は、32年入党→35年5月検挙→転向、35年7月釈放された。転向年月は不明だが、検挙から2カ月後での釈放は、その間に転向したと思われる。判決は、37年5月懲役2年・執行猶予3年判決だった。

 

 蔵原惟人は、転向声明を出していない。しかし、「政治活動から身をひく」と声明を出した。これは、転向と非転向との中間、または、偽装転向の性質も持つのではないか。特高は、他非転向党員を実刑満期になっても、予防拘禁出獄させなかった獄中18年・非転向メンバー全員がそうである。

 

 しかし、特高は、蔵原惟人懲役7年満期出獄させた。他非転向党員にしたような予防拘禁しなかった。それは、特高が彼を実質的な「転向党員」判定したからではないか。

 

    wikipedia『島木健作』 『村山義知』 『埴谷雄高』 『中野重治』 『佐多稲子』

           『林房雄』 『蔵原惟人』

 

 プロレタリア文学者だが、共産党に入党しなかった作家も当然いる。葉山嘉樹、黒岩伝治、徳永直、松田解子、タカクラテルらである。松田解子・タカクラテルは、戦後に入党した。共産党員でないので、特高の弾圧を受けたにしても、転向とは関係ない。

 

 宮本百合子は、プロレタリア文学作家で共産党員転向テーマに関し、一つだけ評論『冬を越す蕾』(1934年12月、『文芸』)を書いている。そこでは、他転向作家と同じく、自分にたいする特高の検挙実態に沈黙した。転向党員を『冬を越す蕾』とし、理解を示した。一方、転向作家批判に反論している。ただ、村山義知中野重治の言動一部に疑問を投げかけている。

 

 『冬を越す蕾』発表時期は1934年12月だった。それなら、彼女の〔検挙3〕34年1月23日、駒込署に検挙→6月13日執行停止で釈放の後である。特高は、他転向作家にたいし遂行したような転向させる目的に基づく拷問を百合子にしなかったのか。特高は、7人を転向させるレベルの拷問をした。特高は、7人を、検挙後ほとんどが約1年間で転向させるという超スピードの成果を上げた。

 

 それとも、百合子7人と異なり、その拷問に屈しないで、検挙5回においても、一人だけ非転向を貫きえたのか。特高が、7人検挙後1〜2年、または1年間で転向させたレベルの拷問を、百合子に同時期の検挙5回中加えても、彼女一人だけは転向声明を拒否し抜くことができたのか。これは、当時の特高の拷問手口から見て、信じ難い。百合子に関する重大な謎である。

 

    宮本百合子『冬を越す蕾』

    wikipedia『宮本百合子』 『宮本顕治』

 

 特高は、検挙した女性党員にたいし、特有の暴力・暴行をした。いくつかの証言がある。小林多喜二にしたような性器への拷問である。しかし、ここでは書かない。ソルジェニーツィンが、スターリン・ソ連共産党による拷問の一つを書いている。

 

 () 前もっての侮辱

歩道の厚いガラスの下にあるロストフ市の国家保安部(『三三号館』)の有名な穴蔵(もとの倉庫)で何時間も訊問を待っている間、囚人たちは共同廊下の床にうつぶせにさせられて、頭を上げるのも、声を出すのも禁じられていた。彼らは礼拝する回教徒のような格好をしたまま、看守が肩にさわって、訊問に連れ出すまでずっと床にうつぶせになっていた。別のケース。アレクサンドラ・オーワはルビャンカ監獄で強要された供述をしなかった。

 

 彼女はレフォルトヴォ監獄へ移された。そこの収容室で女看守が衣服を脱ぐように命じ、手続のためにと言って衣服をどこかへ持っていって、彼女を裸のまま《ボックス》に閉じ込めた。すると男の看守どもがやってきて、覗き穴を覗いては、笑ったり、彼女の体の品定めを始めた。――いろいろな人に聞けば、こんな例はまだまだたくさん集められるにちがいない。これらの目的はただ一つ――打ちのめされた状態にすることである。

 

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問−()

 

 非転向百合子転向文学者7人との関連で、特高による対応の極端な違いに気付かなかったのか。彼女は当然、その違いを知っていた。それにたいし、どうもおかしいと、疑問を持たなかったというのか。それほど鈍い、ただ一人だけの非転向・公然党員文学者だったのか。

 

 〔妻・百合子疑惑2〕、小畑殺人主犯容疑中央委員への極秘異例厚遇との関係で、妻・百合子へも異なるタイプの極秘異例厚遇の謎

 

 百合子疑惑2とは、思想検事平田、特高毛利・中川らが、小畑中央委員殺人主犯容疑中央委員にたいする様々な極秘異例厚遇との関係で、妻・百合子にたいしても異なるタイプの極秘異例厚遇をしたのではないかという謎である。

 

 そして、妻・百合子は、他獄中党員家族への特高待遇と比べ、それが特高による彼女への異例厚遇だと気付いたはずである気付かないほど感受性が鈍い、ただ一人だけの非転向・公然党員文学者だったとは思えない。その謎解きは、推測しかない。私の勝手な想像=疑惑解明は次である。ただし、すべて具体的事実に基づいている。

 

 ()思想検事平田、特高毛利・中川らは、「共産党の自壊没落時代」の最終仕上げを企んでいた。最後の中央委員会4人中、中央委員2人が他中央委員2人を特高スパイとし、リンチ査問をした。一人を殺害し、遺体の床下埋め遺棄、逃亡をした。思想検事・特高らは、「自壊没落」をさせる絶好のチャンスと奮い立った。

 

 殺人主犯容疑中央委員を、小林多喜二にしたように、即日拷問・虐殺するのはもったいない。最高の使い道はないか。それは、殺人主犯容疑中央委員を「新種転びコミュニスト」として、新転向第3戦略「偽・非転向者」に仕立て上げることではないか。

 

 ()、それには、〔選択肢1〕模擬絞首刑恐怖、〔選択肢2〕多喜二した拷問・虐殺恐怖を模擬体験で味わわせる。さらに、〔もう一つ別の追加選択肢〕がある。お前と同時に、何度も検挙している9歳年上妻の中条百合子をも拷問・虐殺する。百合子は多喜二の虐殺遺体に多喜二母の家で直接対面し、佐多稲子とともに見ている。われら特高は、佐多稲子拷問で転向させた。

 

 ただし、お前が「偽・非転向者」を演じ、共産党自壊没落を目指す特高の極秘最終兵器に変節するのなら、1、お前の死刑判決→絞首刑執行をやめてやる。2、小畑中央委員リンチ・殺人でなく、→外傷性ショック死鑑定→ワンランク減刑した無期懲役刑にしてやる。かつ、3、百合子を検挙しても、7人にしたレベルの拷問をしない。そして、非転向のままで、釈放・保釈・執行停止をしてやる

 

 これは、共産党員夫婦2人が選択できる唯一の救命措置である。決断せよ。されば、お前の命ともに、妻の生命・非転向名誉が救われん。百合子は唯一の非転向作家として永久に讃えられるであろう。

 

 ()コミンテルン執行委員野坂参三は、夫婦の銃殺回避・救命目的で、ディミトロフへの山本懸蔵密告→銃殺をさせた。それだけでは銃殺回避に足りないとし、ソ連共産党赤軍情報部エージェントになる道を選択した。権力のスパイになることだけが、ソ連での銃殺刑執行、日本でのお前の絞首刑執行を免れ、夫婦が生き延びる唯一の選択肢である。

 

 もちろん、顕治・百合子夫婦は、まったく同じ時期、スターリン・ディミトロフが遂行していたソ連内・コミンテルン内における大量殺人犯罪データをまったく知らなかった。

 

 ()百合子は、これらの陰謀・夫の変節にまったく気付かなかったというのか。他の獄中党員・作家にたいする特高の措置=転向声明を出すまで、拷問・拘留を続ける対応との違いを知らなかったのか。そもそも、特高は、11年間で数百冊もの書籍差入をなぜ許したのか。34年12月13日の百合子宛手紙にある書籍差入冊数だけでも独房1つに入りきらない→独房2つという極秘異例厚遇を受けていたと気付かないのか。彼女も検挙5回で独房の広さを知っていた。

 

 ()司法省の闇指令者、思想検事平田、特高毛利・中川らが、練りに練った「共産党の自壊没落」最終劇の演出構想は極めて緻密だった。これら国家権力司法部門の超エリート集団は、コミンテルン日本支部を完全解体・消滅させる最終脚本を書き上げた。

 

 1、殺人主犯容疑中央委員を「偽・非転向者」=「新種転びコミュニスト」に仕立て上げる。こんなタイプのコミュニストは、国際共産主義運動史上でも皆無であろう。

 

 妻・百合子を拷問し、転向作家にさせるのは、他党員作家6人+林房雄と同じく簡単である。しかし、「偽・非転向者」との夫婦関係で、つり合いがまずい。検挙5回をするが、他7人全員にしたような拷問を一切しないで、非転向のまま、釈放・保釈・執行停止をしてやる。特高としては、百合子が非転向作家であり続けることを許してやる

 

 袴田里見にも、リンチ査問中央委員だが、非転向であり続けることを許してやる。中央委員小畑へのリンチ査問・殺人メンバー5人の全員が、「偽・非転向者」以外、転向したのではよくない。「偽・非転向者」+非転向袴田という2人がいた方が、国内外にたいする法治国家として存在感が出る。しかも、彼のリンチ査問状況陳述は正確で具体的である。宮本顕治が全面否認陳述をしても、袴田陳述内容+他3人陳述内容の方が説得力を持つ

 

 2人陳述の決定的な違いは、将来のいつか党内時限地雷として、大爆発するかもしれない。その時限地雷爆発効果の埋伏保存のためにも、袴田には拷問をしないで、特高として非転向を許してやる

 

    『スパイ査問事件と袴田除名事件』

 

 党員作家の影響力はバカにならない。百合子以外の6人全員にたいし、入党後、スパイの手で1〜2年以内に検挙→転向させよ百合子を検挙した後も、拷問しないで非転向作家を続けさせるには、別の使い道も考えられるからである。釈放・保釈・執行停止後は、獄外を自由に動けられる。特高の尾行要員複数を毎日貼り付ける。彼女が会い、連絡する相手全員をチェックする。

 

 共産党員は、百合子が非転向作家なので安心して接触してくる。その都度、相手を尋問・検挙すればよい。百合子は、未検挙党員・保護観察中の転向党員から信頼される無自覚な特高スパイの役割を客観的に果たすことになる。百合子の最高の使い道は、非転向作家として泳がせることである。食いついてくる赤い魚たちを一本釣りすればよい。

 

 独房1つだけ・差入阻止・モッソ飯で長期拘留をすれば、かなりが病気になる。利用価値が高い「偽・非転向者」を別とし、病気になっても、病監に入れない。野呂栄太郎・国領五一郎・市川正一非転向のまま、宮本にしたような病監9回をしないで、衰弱死→病死させよ。秋笹は、スパイ査問事件公判中に転向した。懲役7年判決が確定したので、彼にもはや用はない。病死させよ。逸見は、病気だったが、死なないでいる。

 

    『国領五一郎』 『市川正一』

    高橋彦博『逸見重雄教授と「沈黙」』逸見教授政治的殺人事件の同時発生

 

 宮本顕治「非転向神話化」宮本百合子「非転向神話化」とは一体だった。その結果、この共産党員夫婦にたいする疑惑・批判を誰も抱かなかった。

 

(表6) 小林・野呂・宮本らの検挙・死亡月日経過と差別扱い理由

名前

検挙月日

担当特高

死亡月日

死因

獄中待遇

小林多喜二

33220

毛利基・中川成夫

33220日・即日

拷問・虐殺

即日拷問死・虐殺

野呂栄太郎

331128

(毛利基)中川成夫

34219日・83日後

拷問・病死

食事減量・肺結核治療放棄

宮本顕治

331226

(毛利基)中川成夫

生存→敗戦で釈放

 

異例厚遇−独房2、病監9

中川警部・特高係長は3人とも担当→宮本顕治にだけ「聴取書作成不能」報告疑惑

33年2月多喜二虐殺→12月宮本検挙までの10カ月間で、特高大作戦に起きた劇的転換?

 

 中川成夫警部・特高係長は、小林多喜二・野呂委員長と同時に、宮本中央委員=小畑中央委員殺害容疑者・25歳ら3人とも担当した。毛利基特高課長もすべて担当したと思われる。特高山県は、多喜二虐殺に関わった。3人にたいする差別扱いレベルとその理由として転向政策との関連有無を考える。3人検挙は、すべて同一の1933年度だった。

 

 〔1、小林多喜二への即日拷問・虐殺扱い―33年2月20日

 

 彼らは、多喜二にたいし、即日拷問・虐殺をした。2月時点において、新転向第3政策大転換の基本方向がほぼ決まっていたとしても、まだ実施段階になかったと思われる。その実施が最初になされたのが、小林多喜二虐殺の4カ月後=33年6月9日、佐野学・鍋山貞親を転向させることに成功し、獄中で転向声明発表に至る経過だった。この段階では、思想検事平田勲が決定的な思想誘導をした。

 

 〔2、野呂栄太郎への獄中83日間病死手口―33年11月28日〜34年2月19日

 

 野呂検挙時期は、()小林多喜二への即日拷問・虐殺から9カ月後、()佐野・鍋山獄中での転向声明発表から約5カ月半後だった。当局は、2人の転向声明を引き金とする雪崩的転向誘導路線に全力を挙げていた。彼らは「世界単一共産党日本支部の自壊没落期」の最終的完成を企んでいた。日本支部は、コミンテルン・ソ連共産党にたいし路線・政策・人事・党財政すべてにおいて完璧な隷従政党だった。

 

 そこには、雪崩的転向誘導強化とともに、もはや非転向者を出さないというもう一方の裏側決意が秘められていた。「転向者は執行猶予→釈放するが、非転向党員の発生を今後許さない→殺せ」。佐野・鍋山転向後の段階において、非転向党員にたいしては、()小林多喜二にしたような拷問・虐殺よりも、()食事カット・冷水浴びせ放置手段などによる栄養失調→獄中病死手口の方がいい。

 

 野呂委員長は、転向を頑固に拒否し続けた。彼は、肺結核持ちである。彼には、非転向を認めないで、獄中病死手口を使おう。獄中の市川正一にたいしても、栄養失調→獄中病死手口を使え。この時期の獄死党員数と、その獄中期間・死因が発掘・公表されれば、その二面政策が判明する筈である。しかし、その特高資料は、現在、一切ない。

 

 〔3、宮本顕治への獄中における極秘異例厚遇措置=病監収容9回―33年12月26日〜敗戦・釈放まで生存

 

 宮本顕治への病監収容9回と比べ、特高野呂栄太郎の肺結核にたいしどのような対応をしたのか。彼は、1934年2月19日、病死寸前で、北品川病院に移された後死去した。獄中83日間だった。その期間中、特高が、宮本顕治への9回ものような病監収容待遇を、野呂栄太郎にしたという記録は残っていない。()野呂栄太郎と()宮本顕治にたいする特高の差別待遇原因は何なのか。

 

 特高は、宮本顕治を同一時期の1934年1月下旬、猩紅熱で病監収容という最初の特別厚遇をした『半世紀譜』(P.24)。それは、宮本検挙の1カ月後だった。また、その時期は、野呂の肺結核病死の20数日前だった。特高毛利基・中川成夫が、小畑中央委員殺害主犯容疑未決囚・25歳猩紅熱で病監収容をさせたとき、肺結核重病者野呂はまだ生きていた

 

 野呂にたいし、死ぬ直前、北品川病院に移したケース以外、病監収容待遇をしたかどうか資料はない。一方、宮本にたいしては、検挙の早くも1カ月後猩紅熱で病監収容をした。検挙後わずか1カ月だけの間に何があったのか。

 

 しかも、1934年9月10日・検挙の8カ月後、「取り調べにあたった警視庁特高課中川成夫警部毛利基特高課長宛に、宮本の『聴取書作成不能』の旨、報告書を提出」と、宮本顕治は『半世紀譜』(P.25)に書いた。特高中川殺人主犯容疑未決囚にたいし、そんな内容と提出行為をわざわざ知らせるというケースがあるのか。あったとすれば、特高と未決囚との関係に疑惑が湧かないか。

 

 ()小林多喜二を即日拷問・虐殺し、()野呂栄太郎を83日間で病死させた特高毛利基・中川成夫が、()殺人主犯容疑未決囚にたいしてだけ、検挙1カ月後に猩紅熱で病監収容+検挙8カ月後には『聴取書作成不能』差別扱いをした背景・理由は何か。そこには、司法省の闇指令者による極秘異例厚遇命令があったと推定するのが妥当ではないか。

 

 野呂栄太郎は、1933(昭和8年)1月、肺結核で療養中であったが、3名の中央委員の一人として、指導部の再建に努める。11月28、スパイの手引きで検挙され、1934(昭和9年)2月19に、品川警察署での拷問により病状が悪化し、北品川病院に移された後絶命した。

 

    wikipedia『野呂栄太郎』

 

(表7) 「自壊没落期」中央委員会と殺人容疑未決囚の役割

 

 これは、立花隆『日本共産党の研究()(講談社文庫)巻末年表の一部に基づいて、私がHP用に編集・作成したものである。党史の日付、中央委員名と検挙までの期間は、その年表のままにした。×印は、その中央委員会時代に検挙された中央委員を示している。赤太字の中央委員はスパイで、小畑はスパイ容疑査問中で茶太字にした。戦前党史の事項についても、巻末年表のままで、加筆・訂正をしていない。小畑は、野呂委員長が任命した党中央財政部長だった。

 

中央

委員会

年度

中央委員と

検挙までの期間

戦前党史

山本時代

1933.1

5.3

4ヶ月間

山本 4ヶ月×

大泉 12ヶ月

野呂 11ヶ月

谷口 4ヶ月×

三船 4ヶ月×

1.   山本正美、中央委員会再建

26. 全協中央幹部一斉検挙

2.20 小林多喜二虐殺

5.2  谷口直平、山下平治検挙

53  山本正美検挙

野呂時代

33.5.3

11.28

7ヶ月間

野呂 11ヶ月×

大泉 12ヶ月

逸見 10ヶ月

小畑 8ヶ月

宮本 8ヶ月

6.9 佐野学、鍋山貞親、獄中で転向声明発表

6.15 三船留吉除名

7.6 三田村四郎、高橋貞樹、中尾勝男転向声明(以後転向の雪崩現象)

7.6 河上肇、引退転向声明

11.28 野呂栄太郎検挙

最後の中央委員会

()宮本検挙まで

33.11.28

12.26

約1ヶ月間

大泉 12ヶ月

逸見 10ヶ月

小畑 8ヶ月

宮本 8ヶ月×

12.11 活版刷「赤旗」終る(第一六五号)

12.16 大串雅美リンチ事件

12.23 小畑・大泉リンチ事件

12.26 宮本顕治検挙

()逸見、木島、秋笹

検挙まで

33.12.26

〜‘34.4

4ヶ月間

袴田 14ヶ月

逸見 10ヶ月×

秋笹 4ヶ月×

木島中央委候補 2ヶ月×

1.7〜 波多然リンチ事件(37日間)

1.11〜 大沢武男リンチ事件(37日間)

1.15 大泉兼蔵、査問アジトより逃亡(小畑リンチ事件発覚)

2.19 野呂栄太郎獄中で病死

4. 秋笹正之輔検挙

()袴田検挙まで

34.4

35.3.4

11ヶ月間

袴田 14ヶ月×

5.20 中央奪還全国代表者会議(多数派)結成(宮内勇、山本秋ら)

1011 多数派全国一斉検挙

35.3.4 袴田里見検挙(中央委員会壊滅)

7.25 コミンテルン七回大回。野坂参三出席。反ファッショ人民戦線方針

 

    加藤哲郎『立花隆「日本共産党の研究」書評』

 

 司法省・内務省、思想検事、特高は、共産党への弾圧・検挙を年ごとに強化した。しかし、「満州事変」後、どれだけ検挙しても、新たな共産党員が湧き出た。治安維持法検挙者は、1930年6124人→31年10422人→32年13938人→33年14622人へと増え続けた。当局は、弾圧・検挙だけでは決め手に欠けると認識した。

 

 当局は、つぎつぎに生まれてくる新しい勢力、というよりは潜在力に怖れをなしてもいた。支配階級の一部には、共産党を弾圧することによって、国民のうちに彼らを英雄視する傾向が生じることを警戒する動きがあった。

 

 そこから生み出されたのが「転向」政策だった。転向政策は、当局の対共産党基本方針の一つに急浮上した。()治安維持法による徹底した検挙・起訴、(2)大量のスパイ送り込みによる何度もの大規模な一斉検挙、()佐野・鍋山という最高指導部から転向させること、()雪崩的転向誘導戦略による組織内部崩壊を促すことなどが方針の重要な柱だった。その中心が思想検事平田勲だった。

 

 1933年6月9日、佐野学・鍋山貞親獄中で転向声明発表→7月6日、三田村四郎、高橋貞樹、中尾勝男転向声明7月6日、河上肇引退転向声明→以後転向の雪崩現象を惹き起こさせた

 

 また、転向者をスパイにして釈放し、かつ、外部からもスパイMのようにスパイを入党させて大々的に送り込んでいた。それらスパイによる大量連続検挙だけでなく、党内にスパイ疑惑を充満させ、疑心暗鬼雰囲気を掻き立てた。その最初が、1933年12月16日大串雅美リンチ事件となって発現した。

 

 しかし、当局は、なお、怖れと警戒心がふっ切れていなかった。思想検事・特高たちは、「共産党の自壊没落時代」を完成させようと狙っていた。それには、もう一つ決め手が足りない。()佐野・鍋山転向声明、()雪崩的転向誘導戦略による組織内部崩壊作戦以外で、自壊没落をさせる決定打()はないか。

 

 そこへ突発したのが、1933年12月23日、大泉・小畑スパイリンチ査問→小畑中央委員殺害→小畑死体床下埋め遺棄→査問中央委員全員の逃亡事件だった。事件の経過と性質は何だったか。

 

 ()、自壊没落の最後まで生き残っていた中央委員会はわずか4人だけになっていた。

 ()4人内部において、中央委員2人が、他中央委員2人をスパイと疑い、監禁査問とリンチをした。

 

 ()、中央委員・柔道3段者の宮本顕治は、リンチから逃亡しようとしたスパイ根拠がない中央委員片手を捩じ上げ柔道技で背中を強圧し続け、圧殺死させた。

 ()、共産党最高機関メンバー5人全員で、死体を床下に埋め、死体遺棄→逃亡をしたという猟奇的な事件だった。

 

 思想検事平田勲・特高課長毛利基・中川警部特高係長は、狂喜した。決定打()が、共産党中央委員会側から転げ込んできた。コミンテルン日本支部内の下から上までスパイ疑惑ガスを充満させるという特高極秘裏側大作戦だった。われら特高が仕掛けたスパイ疑惑ガスが、ついにトップの共産党中央委員会そのもの到達し、充満させ、ガス大爆発をさせた。

 

 検挙者証言に基づき、小畑死亡瞬間シーンを検証すれば、殺人主犯は宮本中央委員である。これは、日本におけるコミンテルン型共産党自壊没落させる最終自爆兵器になりうる。このスパイ査問事件と殺人主犯をどう扱うか。

 

 殺人主犯の使い道を考えよ。()佐野・鍋山のような獄中転向声明では駄目だ。()、小林多喜二にした拷問・虐殺も二番煎じになる。()、野呂委員長に現在している病死手口もあまり効果がない。()まったく新しい第3転向作戦はないか。

 

 殺人主犯を、つぎつぎに生まれてくる新しい勢力・潜在力にたいし完璧なまでに踏み潰す兵器、共産党を自壊没落させる最終自爆兵器にする。それには、25歳東大出インテリあらゆる〔選択肢〕肉体体験で脅迫し、「偽・非転向者」に仕立て上げるのが、もっとも効果的ではないか。もっとも、その演技をやり抜かせるのは難しい。そこで、獄中他での〔極秘異例厚遇〕をいくつも裏側で与えてやる必要がある。

 

 1936年11月、天皇は、共産主義運動の抑圧取締が一段落したことを受け、特高と思想検事・思想事件判事にたいし、叙勲と金銀杯下賜で、その「功労」を讃えた。特高警察関係者36人とともに、思想検事・判事12人に栄誉を与えた。そこには、殺人主犯にたいし、死刑判決・絞首刑執行でなく→外傷性ショック死鑑定→無期懲役判決・網走刑務所移送と後で意図的に減刑決定した東京地裁判事らも含まれていた。もちろん、思想検事平田勲・戸沢重雄栄誉を受けた。(荻野富士夫『思想検事』P.82)

 

 当時、思想問題取締分野では、司法省・内務省支配下の特高警察・思想検事・思想事件判事は一心同体で、三権分立などは実態としてなかった。

 

 社会主義国家を詐称したソ連でも同じだった。レーニンは、1917年10月、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターで権力を奪った。マルクスは、プロレタリアート独裁を唱えた。レーニンは、三権分立ブルジョア民主主義システムだと全面否定した。プロレタリア独裁国家は、三権分立など必要としないと宣言した。そして、警察・検察・裁判官ら全員が共産党員で占めるシステムこそが、プロレタリア民主主義だとした。

 

 レーニンは、最高権力者5年2カ月間中、彼の路線・政策を批判するロシア革命・ソヴィエト勢力数十万人殺害した。そのクーデター権力裁判において、秘密政治警察チェーカー→NKVD・検事・裁判官は全員が共産党員だった。そして、自称社会主義国家の上に君臨し、国家を所有した共産党幹部が、秘密政治警察チェーカー→NKVD・検事・裁判官に量刑レベルを指令した。

 

 殺人主犯25歳が日本で裁判を受けていた同時期、スターリンの1935〜36年における大テロル時代は、さらに悲惨だった。ロイ・メドヴェージェフの研究データによれば、スターリンは、その期間中、現役共産党員100万人と除名していた元共産党員100万人銃殺した。銃殺執行者も全員が共産党員だった。

 

    塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』ロイ・メドヴェージェフのデータ

 

 もちろん、裁判をした少数ケースでも、秘密政治警察NKVD・検事・裁判官は全員が共産党員だった。ブハーリン裁判など一連のモスクワ見世物裁判をしたときだけ、外国メディア向けに弁護士をつけた。当然、その弁護士も共産党員だった。

 

 日本にいた非転向・獄中18年約9人は、大量殺人犯罪者レーニン・スターリンを偉大なマルクス・レーニン主義者と信仰していた。「偽・非転向者」の本音はどうだったのか。

 

 

 9、山田正行による「宮本顕治=偽・非転向者」仮説の信憑性→私の追実験結論

 

 山田正行は、2007年4月『社会教育研究第12号』において、「記憶の風化と歴史認識に関する心理歴史的研究−抵抗と転向の転倒−(PDF)を発表した。その論文59ページの一部として、3)「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて−(P.45〜52)を書いた。このファイルは、該当ページ範囲に限った分析・検証=追実験である。

 

    山田正行『一抵抗と転向の転倒一』PDF全文

    アマゾン『山田正行著書一覧』ほとんどが同時代社からの出版

    山田正行『ブログ』 『同時代社→時評エッセイ』山田執筆エッセイ多数

 

 私は、この山田PDF論文について、今年2012年までまったく知らなかった。知人からのメールで、5年後に初めて知った。「非転向」の神話化の問題一宮本顕治に関連させて−を読んで、このような宮本顕治=偽・非転向者」仮説に驚いた。最初、眉唾物ではないかとして疑いつつ読んだ。しかし、書かれているデータは、すでに公表されている事実である。印刷し、何度も読み返した。驚愕するような仮説だが、宮本顕治に関する疑惑を、私なりに検証=追実験をする必要があると思った。私は、HPで長大な「スパイ査問事件意見書」を公表してもいたからである。

 

 自然科学の仮説が、真理と認定されるのには、実際の膨大な追実験によって証明されなければならない。最近のヒッグス素粒子仮説が、世界数千人の研究者とスイスに設置された巨大加速器での追実験によって、99.9999%の確率でほぼ真理と認定されたように。

 

 「宮本顕治=偽・非転向者」仮説には信憑性があるのか。「スパイ査問事件」に関する党内意見書、多くのファイル、リンクをHPに載せている立場の者として、仮説の分析・検証=追実験をした。「偽・非転向者」疑惑の証拠となる資料もいろいろ集めた。

 

    『スパイ査問事件』ファイル多数

 

 ただ、山田正行が載せている疑惑データは、あくまで状況証拠である。もっとも、「宮本顕治=偽・非転向者」仮説を証明できるレベルの直接証拠は、国家権力・特高関係者4人+宮本顕治から発掘されることは、もはやない。全員が死んでいるし、なんらかの直接証拠を残すはずもない。完全に証拠隠滅をすませ、国家・特高・宮本らは、極秘機密を墓場まで持ち込んだ。「レーニン秘密資料」6000点レベルのような直接証拠が発掘・公表される可能性は皆無である。

 

 それなら、状況証拠を発掘し、追加加筆する状況証拠だけで、「宮本顕治=偽・非転向者」疑惑を深める作業しかない。仮説を真理に近づける追実験を試みた。私なりの結論として、山田正行仮説は、信憑性があると判定する。また、山田正行のPDF全文・著書一覧・ブログ内容・時評エッセイを見ても、彼の理論レベル・政治姿勢にうわついたまやかしは感じられない。

 

 ただし、信憑性があると判定すれば、私のHPに載せている「スパイ査問事件」に関する党内意見書、多くのファイル、リンクとの不整合個所がかなり多く出る。それら不整合個所は、宮本顕治=偽・非転向者」仮説に一致させるよう、変更・訂正する。しかし、現時点において、その訂正作業は膨大になるので、さしあたりそのままにしておく。その中で、私のHPファイル『スパイ査問問題意見書』における『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相内容については、事実に基づいているので、変更しない。

 

    『スパイ査問問題意見書』における『第1部2』

 

 ただ、この驚愕すべき大転換仮説は、これまでマスコミ・評論家が取り上げたことがない。59ページ論文の一部だったからなのか。それとも、あまりにも大胆な逆転換となる日本共産党史になるので、まともに分析・検証したり、評価することに躊躇したからなのか。私もスパイ査問事件や戦前・戦後日本共産党史についてHPで、意見書や他ファイル、他リンク多数を載せていなかったら、仮説を実証する追実験をしようとは思わなかったであろう。

 

 もちろん、2012年8月現在の党費納入21万党員や赤旗読者・共産党支持者たちは、()山田正行仮説()私の追実験内容にたいし、強烈な反感と嫌悪感を抱くであろう。それなら、()()にたいし、具体的な根拠を挙げ、合理的に論破できるレベルの主張ができるか。しかも、不破哲三は、自分の野望・妄想を隠しつつ、2012年7月から『宮本顕治著作集』の出版を開始した。新日本出版社の「絶版墓場」から甦らせた『著作集10巻』によって、()「偽・非転向者」・特高の秘密協力員→()コミンテルン型共産党日本支部の偉大な理論家として、再逆転換・墓場発掘キャンペーンを始めた。

 

    『宮本・上田著作集刊行と2つの狙い・思惑』

     ()破綻財政救済資金源()不破著作集刊行の布石?

 

 宮本顕治という人間・人格の表裏を、一致させることができるか。人間の本性として、「偽・非転向者」+共産党委員長という180度大転換の二重人格演技ができるものか。

 

 レーニン・トロツキーは、1917年10月、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター手段によって、国家権力を奪った。彼らは、クーデターを社会主義革命と偽称した。さらに、レーニン路線を批判したロシア革命・ソヴィエト勢力数十万人殺害した。レーニンは、それらをすべて隠蔽し、ウソ詭弁でクーデター権力の維持・強化に邁進した。

 

    『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』レーニンのウソ・詭弁7つを検証

 

 社会主義・共産主義運動史上、レーニンほど、国内だけでなく、国際的にも資本主義体制からの脱出を願った数千万人騙した二面的人格者=「多重人格人間」はいないであろう。

 

 日本共産党内でも、上田耕一郎は「多重人格人間」だったとして、私は具体的データを示した。宮本顕治が、「偽・非転向者」と戦後の日本共産党委員長とを合わせた「多重人格人生」を終えることは可能だった。

 

    『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

 

 野坂参三は、()山本懸蔵密告者・ソ連共産党スパイ()帰国後、日本共産党第1書記・議長として「愛される共産党」演説者という「多重人格人生」を送った。

 

    『野坂参三「NKVDスパイ」事実と「民主化運動提案」事実』

    wikipedia『野坂参三』

 

 袴田里見も、()1952年モスクワへ行き、そこでの3年間でソ連共産党スパイになった。不破哲三が、ソ連共産党秘密資料発掘により、彼を「ソ連共産党の内通者」と断定している(『干渉と内通の記録・下』P.364)。袴田里見は、()戦後、日本共産党副委員長・代々木のベリヤという党内粛清遂行者()除名という「多重人格人生」を演じた。

 

 日本共産党トップたちとはどのような人間だったのか。野坂参三・宮本顕治・袴田里見・上田耕一郎の「多重人格人間、表裏人生」は、コミンテルン型共産党とは何だったのかを考えさせる。

 

 共産主義的人間の多重人格とそれを発生させる党内犯罪機構・レーニンの党内犯罪組織原則に関する洞察を持つかどうか。それを証明する国際共産主義運動内の事例は枚挙にいとまがないほどである。その人間性洞察有無が、この山田正行「宮本顕治=偽・非転向者」仮説+私の追実験内容によって、試される。

 

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 〔関連ファイル〕

     『33年転向問題と日本支部壊滅原因−35年スパイ査問事件などで壊滅』

     『1935〜45年の10年間、党中央機関壊滅→獄中にだけ非転向幹部』

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     渡部徹  『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

           『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

     『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件

     『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』党史偽造歪曲犯罪の基礎資料

     『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、武装闘争共産党で中央レベルの活動をした証拠

 

     志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』顕治の百合子裏切り・不倫

           『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』顕治の百合子裏切り・不倫

     いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本顕治批判』ブカレスト特派員

     『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏