分派禁止規定堅持の反民主主義政党
日本共産党常幹と党内犯罪=党内民主主義抑圧・粛清
レーニンのクーデター政権崩壊危機における分派禁止規定の犯罪的誤り
(宮地作成)
〔目次〕
1、分派禁止規定堅持は、民主的政党の必要条件か、反民主主義政党の証明か
2、25万党員の発言・抗議行動を無効果か不可能にする党内民主主義抑圧・粛清
〔抑圧・粛清1〕、党大会に向けた水平発言・横断的抗議行動への粛清
〔抑圧・粛清2〕、専従による公式会議・文書での垂直発言・他行動への粛清とその論理
〔抑圧・粛清3〕、学術論文・出版物・文学作品における発言・抗議への粛清
〔抑圧・粛清4〕、労働運動・青年運動・平和運動での発言・抗議への抑圧・粛清
〔抑圧・粛清5〕、インターネット掲示板発言にたいする粛清手口=査問・除籍
4、レーニンのクーデター政権崩壊危機における分派禁止規定の犯罪的誤り
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
分派禁止規定は、トップ自己保身目的のみの党内犯罪武器
『なぜ民主集中制の擁護か』党内民主主義抑圧の党内犯罪事例
『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
1、分派禁止規定堅持は、民主的政党の必要条件か、反民主主義政党の証明か
党費納入率63.0%・25万党員や日本共産党支持の左翼知識人たちは、日本共産党が民主的政党だと信じている。本当にそうなのか。日本共産党内部において、民主集中制・分派禁止規定に基づき、どんな党内犯罪が発生してきたのかのデータは、代々木党本部によって完全に隠蔽されてきた。それらは、党内外でほとんど知られていない。このファイルは、それらの事例を発掘・公表し、検証する。
党内において民主集中制・分派禁止規定を堅持していても、かつ、その組織原則に基づいて党内民主主義を抑圧し、批判・異論者を党内外粛清しても、党外にたいし民主的政策を提起し、宣伝している限り、日本共産党は民主的政党だと規定すべきなのか。日本共産党の二面性の内、どちらを本質としたらいいのか。
ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や極秘資料多数が発掘・公表された。それらによって、レーニン・トロツキーらが1917年10月にしたことは、「革命」でなく、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったと歴史認識が大逆転した。21世紀、ヨーロッパでも日本でも、研究者のほぼ全員が、「クーデター」説に転換している。
それと同じく、1921年3月ソ連共産党(ボリシェヴィキ)第10回党大会最終日における彼の分派禁止規定突如導入決断にも、重大な疑惑が生じている。分派禁止規定強要は、1920年〜21年における4分派間闘争にたいし、レーニンが自己保身=トップ地位保全目的に基づいて遂行した党内クーデターだったとする歴史認識の逆転である。
『分派禁止規定の第2目的疑惑=自己保身による党内クーデター』
1922年3月末に開催された第11回党大会は、レーニンの指導下における最後の党大会だった。更にいっそうの団結と規律というのが党独裁・党治国家最高権力者レーニンの考えた主要なテーマだった。彼は、「党全体が、あらゆる異論と不一致の表現を党に対する最も重大な犯罪とみなさねばならない」と断言し、全党に指令した。
レーニンが党にたいする重大な犯罪ときめつけた、党内における異論と不一致の表現とは何か。あらゆる政党内において、当然ながら、意見の相違、路線・政策の違い、さまざまな潮流が発生し、存在する。それらが、党内外において、自由に公表され、水平的・横断的に討論され、誤った路線・政策・総括のトップを、党内外世論によって更迭させる指導部統制システムこそ、民主的政党のあり方である。
分派禁止規定とは、1920年〜21年の4分派間闘争において、レーニンが突如持ち出した党内クーデターの犯罪的武器だったのではないのか。その証拠が大量除名事件である。(1)レーニン最高権力者分派と(2)トロツキー「労働の軍事化」路線分派は生き残った。(3)労働者反対派と(4)民主主義的中央集権派は、分派禁止規定規律違反とされ、それによる約4カ月後の大量除名事件によって壊滅させられた。除名の規模・比率が、いかにけた外れで異様なのかは、研究者4人のデータが証明している。
当時のソ連共産党(ボリシェヴィキ)党員は、約57万人だった。除名党員比率と人数データを、少ない順に並べると、稲子恒夫20%・11万人、ダンコース24%・136836人、P・アヴリッチ25%・14万人、『ロシア史(新版)』35%・20万人となる。これらの出典著書名は別ファイルに載せた。
(3)労働者反対派とは、トロツキーの「労働の軍事化」路線に反対し、労働者の権利擁護・党内地位向上を主張した。(4)民主主義的中央集権派は、単独権力奪取からわずか3年間で、国家と党の官僚化が進み、官僚的中央集権制へと腐敗しているとした。そして、国家・党の民主化を要求した。これら2分派勢力は、急速に膨れ上がり、約57万党員中の20%〜35%にまで成長した。そのまま、党内闘争が激化すれば、レーニン・トロツキーらの党内地位は逆転する可能性も出てきていた。
1920年3月、2000企業「軍隊化」での労働者ストライキ激発と弾圧
たしかに、ダンコースが指摘するように、規律違反・重大な誤ち・不活動など、一党独裁政党に出世目的で入党した者もいる。除名名目がどうあろうとも、レーニン・トロツキーら主流2分派が、反主流2分派党員のほぼ全員を、しかも、ベトレームが発掘・暴露したように、秘密政治警察チェーカーを党内向け警察に変質・転用し、除名したのは間違いない。レーニン・トロツキーは、党内クーデターに成功した。
スターリンは、1936年前後の大テロル期において、チェーカー後の秘密政治警察ゲーペーウーが保管していた被除名党員リストに基づいて、その全員を銃殺した。それは、ロイ・メドヴェージェフが発掘・公表した、大テロル期の4000万人粛清における現・元共産党員200万人銃殺・処刑データに含まれる。
ヨーロッパの共産党は、崩壊した東欧・ソ連10カ国の前衛党を含め、民主主義的中央集権制・分派禁止規定の放棄宣言をした。それは、レーニンが1921年3月第10回大会で決定・遂行した犯罪的組織原則であり、国家・社会・前衛党内において、おびただしい犯罪結果をひき起したと認定した。ポルトガル共産党だけが、その犯罪的組織原則を放棄しないでいる。
イタリア共産党は、「分派」というレーニンの規定・レッテルを批判・放棄し、「党内におけるさまざまな潮流とその存在」を認め、奨励した。「分派」→「党内におけるさまざまな潮流」へと、党内用語を転換させた。
1986年、「そのたびごとに決定される多数派の立場とは異なる立場を公然たる形においても保持し、主張する権利」の規定を行った。
1989年、第18回大会、民主主義的中央集権制を放棄し、分派禁止規定を削除した。指導部統制こそ党運営の基本原理だとして確立した。その理由と方向については、下記別ファイルにおいて、詳細な分析をした。
そして、マルクス・レーニン主義との断絶的刷新を宣言し、左翼民主党に大転換した。21世紀において、レーニンの分派禁止規定は正しいのか、堅持すべき政党規律なのか、それとも、反民主主義的規律として、レーニンの呪縛から解き放たれる必要があるのか。
『イタリア共産党−民主主義的中央集権制との断絶→指導部統制の原理と多元主義』
フランス共産党の対応経過は次である。
1985年、第25回大会頃より、党員が行う党外マスコミでの批判的意見発表も規制しなくなった。
1994年、第28回大会で、民主主義的中央集権制・分派禁止規定を放棄した。賛成1530人、反対512人、棄権414人という採決結果だった。この大会を機にマルシェ書記長は引退した。代わったユー全国書記は、「民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、統一と画一性を混同し、誠実な共産主義者でも意見が異なれば、これを打倒し、隔離すべき敵であるかのように扱った」と自己批判した。
ソ連崩壊の数年後、「ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗だった」とし、マルクス主義の立場を取らないと宣言した。現在も、共産党名のままだが、マルクス・レーニン主義を誤った理論と実践だったと断定した。
暴力革命路線のための鉄の規律、一枚岩主義=いかなる異見も排除が必要だと宣伝された時期もあった。そのための民主主義的中央集権制・分派禁止規定が絶対視された。ヨーロッパの共産党が犯罪的組織原則だったと宣言したように、今や、民主主義的中央集権制・分派禁止規定は、犯罪的組織原則政党=反民主主義政党であることを証明する時代錯誤の規律である。
志位・市田・不破ら特定の常幹トップを引退・交代させる要求・意見がある。しかし、それらは日本共産党の反民主主義的組織体質にたいする認識が甘すぎる。民主集中制・分派禁止規定堅持政党のままでは、誰に交代しようとも、党内民主主義抑圧体質は変わらない。要求するのであれば、(1)引退・交代でなく、(2)民主集中制・分派禁止規定の放棄をもっと声高く主張すべきではなかろうか。
その要求・意見書を握りつぶし、離党・離党届を拒絶し続けるトップ地位保全体質者3人と常幹にたいし、党費納入25万党員の党内抵抗も、次第にエスカレートしてきた。(3)党勢拡大・選挙活動サボタージュ→(4)党費納入拒否=党内離脱党員化→(5)支部レベルからの解党行動である。すでに、1995年28000支部中、2009年までに6000支部が、一面的で誤った計画的党勢拡大路線による崩壊、または、支部解党を選択した。
今や、党費を納入し続けている25万・67%党員も、日本共産党とは、分派禁止規定堅持の反民主主義政党ではないのかとの疑惑を抱くようになってきた。その反民主主義政党は、内部崩壊しつつあり、崩壊テンポがアップしてきた。志位和夫の9中総報告が、皮肉にも、その現実を自己証明した。
『9中総が自己証明した党内部崩壊テンポアップ』総選挙活動不参加党員68.5%
3年9カ月間でHN18.2万部減紙→3カ月で増やせと指令・幹部からの思想腐敗
2、25万党員の発言・抗議行動を無効果か不可能にする党内民主主義抑圧・粛清
〔小目次〕
1、発言・抗議行動の4種類−合規約2つと規律違反査問となる2つ
2、発言・抗議行動への抑圧・粛清とその発言・抗議無効認識による沈黙−〔抑圧・粛清の5つ〕
1、発言・抗議行動の4種類−合規約2つと規律違反査問となる2つ
〔合規約2つ〕
党費納入25万党員が、規約に基づく党員権として、行使できる発言・抗議スタイルは2つである。(1)、公式会議での批判発言・公式の批判文書提出がある。党大会に向けた「意見書」は、一部200円の有料臨時パンフに載る。(2)、規約に基づく垂直発言−個人の「意見書」「質問書」提出ができる。これは、あくまで、党員個人の権利行使だけに限られる。ただし、規約上の建前と「意見書」処理実態とは、かけ離れている。
〔合規約2つにたいする3つの対応〕
第1、正当な処理
一般政策や中間機関・中間機関幹部にたいする個人の「意見書」「質問書」は、党中央訴願委員会が受け付け、受領書を出し、返事、または、処理をする。
第2、握りつぶし、無回答
しかし、党中央の基本路線や志位・市田・不破批判に関する「意見書」は、受領書を出しても、返事を一切しないで、握りつぶしをする。その手口にたいし、抗議をしても無駄である。
なぜなら、訴願委員会と党中央規律委員会とは、党中央が任命する下部機関であり、党中央・常幹・3人への批判・抗議を処理する権限を剥奪されているからである。書記局に届いたとしても同じである。志位・市田・不破ら3人の地位保全執着トップは、それらを読むことも拒絶し、代々木新築ビルから多数の指令・点検をするだけに満足している。
第3、公式会議での批判発言・公式の批判文書提出にたいする報復措置
公式会議・文書であろうとも、志位・市田・不破にたいする根本的な批判、民主集中制・分派禁止規定放棄での強烈な批判意見を提出した党員が、支部所属の一般党員であれば、握りつぶしをする。しかし、党機関役員・中間機関専従・共産党系大衆団体グループ党員が同一意見・行動をしたケースにたいしては、書記局→3人に通告される。
その場合、宮本顕治が打ち立てた党員支配の秘密指令原理が貫徹される。彼は、1967年、幹部会において、「一般党員には党中央批判が許されるが、専従には許されない」と口頭指令をした。それは、私が、同年の愛知県専従全員会議で直接聞いたので、間違いない。専従だけでなく、5年後の1972年民青新日和見主義事件においても、民青専従・役員1000人に適用され、100人を分派禁止規定規律違反処分・民青専従解任・共産党員権1年停止処分をした。以下の党内民主主義を抑圧する粛清ケースすべては、その拡大適用の党内犯罪である。
〔規律違反査問となる2つ〕
規律違反査問をうける発言・抗議行動は、2つである。
(3)、分派禁止規定規律違反
非公式の水平発言・横断的抗議行動だが、他支部党員との連名発言・抗議行動は、分派禁止規定規律違反になる。それだけでなく、同一支部内の複数党員による発言・抗議も、「党内問題を党外(=同一支部内の他党員、他支部)にもちだした」という分派禁止規定規律違反犯罪と断定され、査問・規律違反処分の対象になる。党中央批判に関する発言・同意・連名のケースは、同一支部内でも、「党外」とでっち上げ・恣意的な拡張解釈をする。
(4)、民主集中制規律違反
不破哲三論文の内容にたいし、学術論文形態で、党外の書籍・出版物で学問的に批判すれば、「不破論文は党中央決定文書と同じである」と恣意的な拡張解釈をし、発表・執筆の学者党員を査問し、除名をする。また、インターネット掲示板を使った党外メディアからの批判発言党員も、「党内問題を党外(=インターネット掲示板)にもちだした」という民主集中制規律違反の反党分子扱いをし、査問し、除籍=党籍剥奪措置をする。
イタリア共産党や、フランス共産党は、1970年代から、(3)(4)の発言・抗議行動を規律違反としなくなった。党外マスコミでの発言・抗議行動も全面解禁された。レーニンが創作・強要した民主主義的中央集権制・Democratic Centralismと分派禁止規定は、党内民主主義を抑圧する犯罪的組織原則であり、その実践だったと党大会決定されてからは、共産党員の発言・抗議の自由権は党内外を問わず保証された。
資本主義国では、ポルトガル共産党と東方の島国における日本共産党の2党だけが、21世紀に入っても、(3)(4)を規約に反する規律違反と決め付け、調査(=査問)と規律違反処分をしている。
志位・市田・不破らは、全戸配布ビラで、「日本共産党に査問はない。あくまで調査である」とし、国民・有権者にたいし真っ赤なウソをついた。たしかに、規約には「査問」という用語はない。しかし、戦前の宮本顕治らによるスパイ査問事件前後以来、規律違反問題の調査において、党中央・全中間機関・全機関役員が「査問」という日本語を、日常的に使ってきた。
よくもこのようなウソをつけるものだと、志位・市田・不破らの人間性・神経レベルには、怒りよりも、かえってあきれ、かつ、感心さえする。彼らは、全有権者にたいし、このレベルのウソをつくことにたいし、罪と罰の意識をもたないのだろうか。
2、発言・抗議行動への抑圧・粛清とその発言・抗議無効果認識による沈黙
以下は、あらゆる分野にわたる抑圧・粛清である。そのテーマ別に分類したので、時系列による並べ方にしていない。
〔小目次〕
〔抑圧・粛清1〕、党大会に向けた水平発言・横断的抗議行動への粛清
〔抑圧・粛清2〕、専従による公式会議・文書での垂直発言・他行動への粛清とその論理
〔抑圧・粛清3〕、学術論文・出版物・文学作品における発言・抗議への粛清
〔抑圧・粛清4〕、労働運動・青年運動・平和運動での発言・抗議への抑圧・粛清
〔抑圧・粛清5〕、インターネット掲示板発言にたいする粛清手口=査問・除籍
〔抑圧・粛清1〕、党大会に向けた水平発言・横断的抗議行動への粛清
これには、2つの事例がある。
第一、1958年第7回大会から、1961年第8回大会までの3年間に発生した宮本顕治による第1次党内クーデターである。宮本顕治・袴田里見らは、第7回大会に、綱領案・規約案を含む党章草案と人事案を提出した。規約案と宮本顕治を書記長とする人事案は通った。しかし、綱領案は、構造改革路線派や他理論を含め、激論になり、代議員の40%が宮本綱領に反対していた。大会は、その採決ができなかった。
ところが、3年後、1961年第8回大会は、満場一致で、同一内容の宮本綱領を決定した。宮本顕治と袴田里見「一代目代々木のベリヤ」たちは、反対派の40%代議員による第8回大会に向けた水平的意見交流、横断的行動にたいし、「党内問題を党外(他党員・他機関メンバー)に持ち出した」規律違反とでっち上げた。40%全員を、規律違反査問に掛けたり、専従解任・除籍・除名・任務変更などの手段で、完璧に党内外排除しつくした。宮本・袴田らの行為は、最高権力者グループによる反党分派活動だった。満場一致大会こそ、3年間における党内民主主義破壊・蹂躙の結果を象徴的に示した。それらの党内犯罪は、宮本党史によって、見事なまでに偽造歪曲され、隠蔽されてきた。この経過詳細はリンクにある。
第二、1985年第17回大会に向けて、東大院生支部が正規の支部討論・会議を通して、リンクに載せたような、宮本勇退決議案を党大会に提出する行動を起こした。東京都党会議への代議員枠は2人だった。支部総会は、5人連名決議案提出者である一人を正規に選出した。当時、志位和夫は党中央青年学生部員として、東大後輩たちのケースを担当した。彼は、宮本顕治の指令を受け、「5人連名は、同一支部内における分派活動」とでっち上げた。そして、5人全員を瞬時に党員権停止処分にし、停止中ということで、正規に選出されていた都党会議代議員Yの代議員権も剥奪した。ここに志位和夫の「汚れた手出自」がある。
〔抑圧・粛清2〕、専従による公式会議・文書での垂直発言・他行動への粛清とその論理
このケースは無数にある。宮本・不破・志位らは、専従数百人を党中央批判発言や、発言・抗議行動で専従解任の報復をしてきた。報復の論理は、宮本顕治の専従粛清秘密指令「一般党員には党中央批判が許されるが、専従には許されない」である。私は、1971年、幹部会から帰った愛知県委員長が緊急招集した県専従会議において直接聞いたので、その指令内容に間違いない。ただ、それらのほぼ全員が泣き寝入りした。この党内犯罪ケースを公表したのは、6人いる。
1、宮地健一、名古屋中北地区常任委員・愛知県選対部員
1969年、愛知県第2次指導改善運動が勃発した。そこでは、愛知県における赤旗一面的拡大路線の誤りと組織破壊の被害に関し、愛知県常任委員会の誤りだけでなく、党中央の指導にも誤りがあるとの批判運動が盛り上がった。私と他2人の専従が、名古屋中北地区の地区常任委員会、地区委員会総会だけでなく、拡大県委員会総会、県党会議などにおいて、何度も党中央の責任を問う発言をした。党中央からの派遣幹部会員たちは、それにたいし強烈で感情剥き出しの拒絶反応を表したが、私はさまざまな会議で10回以上の発言をした。その結果が、3人にたいする宮本・不破の専従解任の報復だった。その党内犯罪報復にたいし、私は党内で1年8カ月間たたかい、日本共産党との民事裁判を2年間行った。しかし、他2人は泣き寝入りした。私は、その経過をHPで公表してきた。
第4部『「第三の男」への報復』警告処分・専従解任・点在党員組織隔離
2、いわなやすのり元赤旗ブカレスト特派員
1984年、共産党は、いわなやすのりの離党届を6カ月間棚上げし、離党を認めないで除籍通告をした。彼は赤旗ブカレスト特派員であり、ルーマニア共産党とチャウシェスクの腐敗・犯罪実態を党中央に常時報告していた。また、日本共産党の党内民主主義を抑圧する実態に批判を持った。1989年、ルーマニア革命でチャウシェスクと共産党政権が倒された。宮本顕治は、ルーマニア2回訪問でのチャウシェスク賛美言動に頬かむりし、その腐敗・犯罪実態を知らなかったと真っ赤なウソをついた。リンクは、いわなHPにおける除籍(実質的な除名処分)経過と宮本顕治批判の告発内容である。
いわなやすのり『離党届→除籍。チャウシェスク問題での宮本顕治批判』
3、猪口信男山形県県委員・県専従
1990年第19回大会に、彼は民主集中制問題の欠陥について、正規の文書意見を出した。それは、「党の活性化と指導の改善について」という意見内容で、「赤旗」評論版に掲載された。この意見は、党員に対する市民的自由、なかでも意見の党内外への発表は具体的組織問題以外制限しない。党機関紙誌に党内外に門戸を開いた『論壇』風の討論の広場を設置することなどを主張していた。
宮本顕治は、それを読んで、党大会方針と違った意見の持ち主は指導機関の役員にはなれないとした。彼の指令を受けた小林栄三常任幹部会員「二代目代々木のベリヤ」は、下りの県党会議で猪口を県委員に再選させないため、山形まで飛んで、彼の再選を阻止し排斥した。猪口信男は『革新の再生と政権展望』(近代文芸社、1994年)で、その全経過を公表した。
4、下里正樹赤旗記者−森村誠一と『スパイ査問事件』共同執筆・赤旗連載中断
1994年、共産党は、下里正樹赤旗記者を権利停止処分にし、さらに除名処分にした。森村誠一が、スパイ査問事件の真相を解明する必要があると、共産党に提案した。双方の合意で、赤旗に『日本の暗黒』連載が始まった。下里正樹赤旗記者が資料準備・共同執筆者となった。ところが、具体的な査問事件シーンに入る直前、宮本顕治指令により、連載が突如中断させられた。その不可解な中断経過をめぐる詳細なデータをHPに載せた。
『作家森村誠一氏と「スパイ査問事件」』下里赤旗記者と共同執筆・赤旗連載中断
5、兵本達吉共産党参議院議員秘書
6、萩原遼赤旗外信部副部長
1998年、共産党は、兵本達吉を、警察に就職を頼んだと断定し、除名した。彼は、北朝鮮拉致被害者を探し出し、その家族会結成で奮闘していた。2005年、不破哲三は、自分が朝鮮総連50周年総会に出席し、賛美祝辞を述べている最中の会場前で、萩原遼が朝鮮総連批判のビラを配ったのは、朝鮮総連を支持する党中央路線に反するとでっち上げ、彼を査問・除籍(=実質的な除名処分)にした。2人処分の背景には、不破・志位・市田らが、従来の北朝鮮批判路線をやめ、金正日一党独裁政権支持、朝鮮総連=実質的な朝鮮労働党日本支部支援という国際路線への反動的転換があった。その新路線から見て、邪魔者になった2人を殺せという粛清だった。除籍・除名の経過は、2人のマスコミ公表記事によっても、よく知られている。よって、リンクに留める。
『萩原遼と私(宮地)との出会い』2003年12月
宮地幸子『「拉致と核と餓死の国、北朝鮮」で著者萩原遼の覚悟を読む』
〔抑圧・粛清3〕、学術論文・出版物・文学作品における発言・抗議への粛清
これは、1970年代末から、1980年代半ばにかけての発言・抗議にたいする2分野における抑圧・粛清事件である。これらもよく知られているので、リンクによる内容説明にする。
1、ネオ・マル粛清事件=マルクス主義の新(ネオ)解釈をする学者党員・出版社党員たちへの抑圧・粛清
宮本顕治は、共産党最高権力者である自分のみが占有する正統マルクス主義解釈と異なるネオ=新マルクス主義理論学者たちの論文・出版著書にたいする査問と除名・除籍や批判大キャンペーンを展開した。マルクス・レーニン主義の解釈権は、学者党員などになく、日本共産党中央委員会=具体的には宮本顕治のみが占有できるというスターリン主義思考に基づく抑圧・粛清と報復事例が頻発した。
彼は、東方の島国における最初の異端審問官として、39年間君臨した。それらの内容は、リンクにあるので、名前だけ挙げる。田口富久治・藤井一行・中野徹三・水田洋・加藤哲郎・有田芳生・後房雄・高橋彦博らにたいする抑圧・粛清と報復である。他にも、大月書店・青木書店など出版社党員ら多数も粛清の対象になった。
『1978年田口・不破論争から、1994年高橋彦博粛清まで』
2、民主主義文学同盟の文学作品、その傾向にたいする「四月号問題」粛清
これは、宮本顕治主導により、宮本秘書団私的分派宇野三郎らが遂行した党員文学者にたいする一大抑圧・粛清キャンペーン事件だった。その抑圧に抵抗し、10数人の党員文学者が、同盟を離脱し、同人「葦牙」を創った。その中心メンバーは、霜多正次・中里喜昭・武藤功・中野健二・山根献らである。
宮本顕治は、霜多正次が「離党届」を出したのに、彼の離党の自由を認めず、4カ月間放置し、その上で規約に基く除籍措置にした。これは、除名処分と同質の党外排除だった。中里喜昭・武藤功にたいしても、除籍(=実質的な除名処分)にした。この経過も、有名なので、リンクに留める。
葦牙『民主文学四月号問題−記録文書館』記録多数
〔抑圧・粛清4〕、労働運動・青年運動・平和運動での発言・抗議への抑圧・粛清
これらも有名なので、詳細は、ファイル・リンクによる説明にする。
1、労働運動−1964年公労協半日ゼネストにたいする共産党のスト破り犯罪と発言・抗議者粛清
公労協の4・17ストは、労働運動の高揚を背景に、マッカーサーに禁止された2・1ゼネスト以来の画期的なゼネストになるはずだった。共産党は、それに賛成してきたのに、4月8日、突如、方針逆旋回をし、当局の謀略・陰謀・弾圧があるから、ストを中止させよと全共産党機関・細胞に指令した。スト中止に公然と反対意見を提出したのは、名古屋中央郵便局細胞だった。党中央は、それを反党・分派活動だとでっち上げ、安井英次・北川宏・岡本ら中心の3人を除名し、大キャンペーンを展開した。名古屋の国民救援会事務局細胞も、「4・8声明反対」の電報を野坂参三宛に出した。
当時、宮本顕治は、療養名目で中国に3カ月間も滞在していた。総評、全労働組合から、共産党のスト破り犯罪への発言・抗議が沸騰した。謀略・陰謀・弾圧説も、共産党がでっち上げた根拠のないウソだったこともばれた。宮本顕治は誤りと認めたが、自己の責任をとらず、トカゲの尻尾きり3人で逃げた。一方、正しい反対発言抗議をした中郵細胞3人への除名を取り消さなかった。
その後、そのスト破り犯罪において、(1)中国滞在中の宮本顕治と(2)中国共産党からの圧力・指令疑惑が浮上した。なぜ、そんな見え透いたウソを大宣伝してまで、戦後最大規模になるゼネストを阻止する必要があったのか、という国際的な疑惑背景が出てきた。1964年とは、宮本顕治が、ソ中両党隷従路線から、ソ連共産党と決裂し、中国共産党のみへの隷従路線に大転換した時期だった。その疑惑の根拠は、下記ファイルで検証した。彼の隷従路線は、ソ連中国の核実験支持言動により、日本の原水爆禁止運動を分裂させたのと並んで、このスト破りにより、反国民的犯罪結果をもたらした。
宮地幸子『政治の季節の ある青春群像』4・17スト 『電子書籍版』
2、青年運動−1972年、民青新日和見主義分派事件と600人査問・100人粛清
沖縄返還問題をめぐって、賛否両論の運動が盛り上がった。民青は20万人の巨大な青年学生組織に発展していた。70年安保闘争・大学紛争を体験し、共産党の指導枠内から自立する傾向も生れた。その時点で、宮本・不破らは、民青中央委員会に事前相談もしないで、民青幹部年齢を30歳から25歳に引き下げるという年齢制限決定をし、民青に一方的に押し付け、強行しようと謀った。
その背景には、宮本顕治が抱く2つの思惑があった。(1)、年齢制限強行により、共産党中央からの自立言動を表しだした25歳以上の民青内共産党員を合法的に排除・粛清する。宮本・不破らに忠誠心を持ち、党中央からのコントロール可能な民青指導部に総入れ替えするクーデターを決行する。(2)、ソ中両党支持分派に続く、金日成・朝鮮労働党分派結成の動向と民青幹部・ジャーナリストとが結託しているという疑惑を根拠もなく抱いた。
宮本・不破・下司・上田耕一郎らは、突然、民青中央と都道府県委員会幹部や学生運動内の民青幹部・共産党員ら600人から1000人を、党中央・47都道府県委員会レベルで、いっせいに監禁査問に掛けた。その結果、1人除名・100人を1年間党員権停止の規律違反処分にした。それは、民青内処分も伴っただけでなく、被査問者全員を含め、民青専従解任・民青からの追放をもたらした。たしかに、党中央批判など分派行為とも思われるような星雲状態は存在した。しかし、処分の実態は、2人分派・3人分派というでっち上げ粛清と規定できる。これほどの規模でなされた冤罪粛清事件は、日本共産党史上初めてであろう。
粛清結果は、20万民青を、2万人民青=同盟費納入40%・8000人・民青地区機関全面崩壊をもたらした。この粛清・監禁査問犯罪を公表したのは、川上徹(監禁査問13日間)、民青静岡県委員長油井喜夫(4日間)、ジャーナリスト高野孟(6日間)ら3人である。
『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事
川上徹『同時代社』著書『査問』全文掲載
加藤哲郎『査問の背景』川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
高橋彦博『川上徹著「査問」の合評会』
れんだいこ『新日和見主義事件解析』
3、平和・原水禁運動−1984年、平和委員会・原水協幹部への一大粛清
このテーマは、2つの時期における共産党・宮本顕治の誤りを検証することになる。
1、1962年から64年、ソ連核実験・中国核実験・部分核停条約にたいする賛否問題
被爆国日本における原水爆禁止運動が国民的規模に広がった。1962年から64年、ソ連核実験→中国核実験→部分核停条約にたいする賛否問題によって、原水禁運動が分裂した。その基本原因は、日本共産党によるソ中核実験の支持言動と部分核停条約反対行為だった。そこには、運動における社会党・総評と共産党との主導権争いの要因もある。しかし、宮本顕治によるソ中両党への隷従路線の反国民的な犯罪的誤りが主因だった。
部分核停条約賛否問題と「日本のこえ」グループの当否問題も改めて再検証する必要が出てきた。その国際的背景は複雑だが、宮本党史の根本的な書き換えに至る。宮本顕治は、「日本のこえ」問題で、60人を除名した。その中で、大須事件被告人永田末男・酒井博の2人を、大須事件公判中にもかかわらず除名処分にし、共産党名古屋市委員長永田末男の被告団長も解任した。それは、大須事件公判闘争に重大な損害を与え、騒擾罪有罪判決を出させる要因の一つになった。
2、1984年、平和委員会・原水協幹部への一大粛清
原水協と原水禁との分裂が、20年間も続き、原水爆禁止運動に深刻な損害をもたらしてきた。多くの市民運動・団体や学者・文化人たちが、2つの統一を目指し、行動に立ち上がった。それは、共通する課題に基づく2団体の統一行動に発展してきた。共産党平和委員会グループや原水協グループもその方向に進んだ。それに全面ストップを掛けたのが、宮本顕治と統一戦線部長金子満広だった。
しかし、2つの共産党グループとも、宮本・金子による統一行動反対指令はおかしいとし、服従しなかった。そこで、宮本・金子らは、突如、2つのグループ幹部である平和委員会事務局長森賢一と原水協事務局長吉田嘉清にたいし、一方的な批判キャンペーンを繰り広げた。それでも、党中央命令に抵抗するので、平和委員会と原水協にたいし、共産党系大衆団体への一大クーデターを強行した。その詳細な経過は、下記ファイルで検証した。
抑圧・粛清は、本部レベル以外でも強行され、都道府県レベルを合わせると、査問・除名・除籍などの被粛清者は数十人になった。判明しているだけでも次のリストになる。森賢一平和委員会事務局長−権利停止処分・平和運動からの追放、小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長−森への辞任強要に抗議の辞任、吉田嘉清原水協代表理事−解任と除名、代表委員草野信男、江口朴郎、小笠原英三郎、櫛田ふきら9人−代表委員から放逐、柳瀬日中出版社長と社員3人−査問・除名、古在由重−「離党届」受け取りを拒否し、査問・除籍(=実質的な除名処分)、川上徹−査問・除籍などである。
古在由重の「離党届」受け取りを拒否した上での除籍(=実質的な除名処分)ケースと、民主主義文学同盟議長霜多正次のケースは同じである。これは、日本共産党が、党外離脱・離党の自由を阻止・拒絶する犯罪的組織原則政党であることを象徴的に示している。
『平和委員会・原水協一大粛清事件』古在由重も除籍(=実質的な除名処分)
〔抑圧・粛清5〕、インターネット掲示板発言にたいする粛清手口=査問・除籍
2000年第22回大会前から、日本共産党に関するインターネット掲示板2つへの現役共産党員の発言・抗議が多数載るようになった。「さざ波通信」と「JCPウオッチ」である。不破・志位・市田らは、この党員たちの行動を「党内問題を党外(=インターネット掲示板)にもちだした」規律違反・反党行為と決めつけた。市田書記局長と浜野忠夫副委員長「三代目代々木のベリヤ」たちは、ハンドルネーム(仮名)の意見の中から、共産党員と思われる投稿を取り出し、意見内容によって個人別のフォルダに分別し、47都道府県・316地区委員会組織部(=反党分子対策部)に、ネットで一括転送し、その本名・支部名割り出し捜査を全党的に展開した。
その科学的社会主義政党における秘密政治警察部署は、(1)極秘の幹部会第2事務部と(2)書記局である。その結果、党内に巣くう数十人の党中央批判を党外にもちだす反党分子をあぶりだすことに成功した。数十人を呼び出し、調査(=査問)を行い、党内における発言データと掲示板投稿内容を照合し、「この掲示板発言はあんただな」と自白を迫る。HP上や、私へのメール情報から判明しているだけでも、10数人が査問・除籍(=実質的な除名処分)をされた。その脅迫により、掲示板における党員投稿は激減した。日本共産党は、今や、中国共産党と並んで、世界最新鋭のデジタル・ポリス(Digital Police)を保有する唯2つの政党に進化した。
『インターネットHP攻撃政党』『掲示板発言者摘発・粛清政党』
これに関する数量的データは、宮本・不破・志位らが完璧に秘匿しているのでつかめていない。日本共産党のじり貧的瓦解→自然死の結末まで待てば、代々木新築88億円ビルの秘密資料室に、その宝の山=規律違反査問・処分ファイル数千点が、「レーニン秘密資料」6000点や秘密政治警察チェーカー資料と同じく、発掘・公表されるであろう。
よって、現時点では、個々の抑圧・粛清事例で検証する方法しかない。それでも、かなりの抑圧・粛清事件が明らかになってきた。ただ、じり貧的瓦解の途中なので、判明しているのは、民青600人粛清を含めると、千数百人にたいする党内犯罪である。
上記の諸事例は、宮本・不破・志位ら自身が規約を蹂躙した党内犯罪の性質を持つ。ここでは、各事件についての内容は、リンクにし、粛清犯罪の数量を主に載せた。それらの形態は、査問・除名・除籍という党外排除だが、その本質は日本共産党内で発生した政治的殺人事件と規定できる。
レーニンが、秘密政治警察チェーカー・赤軍を使って、ロシア革命・ソヴィエト勢力数十万人の肉体的殺人犯罪を遂行させた事実は、ソ連崩壊後の秘密資料・アルヒーフ(公文書)発掘・公表により、具体的データで証明されてきた。ヨーロッパの有権者・左翼にとって、レーニンのウソ・詭弁を含め、それらのデータは常識になっている。宮本顕治・宮本秘書団私的分派メンバーと不破・志位・市田らは、非政権前衛党内において、党中央にたいする発言・抗議行動をした日本共産党員千数百人の政治的殺人に手を染めた。レーニンによる肉体的殺人数十万人と、宮本・不破・志位らによる政治的殺人千数百人とは、コミンテルン型共産党が行った犯罪という面で同質である。
『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ロシア革命勢力数十万人の肉体的殺人
3、党への忠誠心の根源とその衰退・瓦解傾向
〔小目次〕
3、神話崩壊・忠誠心衰退の要素と条件−「レーニン神話」「日本共産党神話」
4、離党阻止・拒絶政党なので、党内離脱としての拡大・選挙サボタージュ党員激増
上記データのようなじり貧的瓦解→自然死の道に入った衰退政党・共産党からの離脱現象、発言・抗議行動とともに、それらを左右するもう一つの要素として、共産党員における党への忠誠心の存在がある。ヨーロッパの共産党は、すべてが大転換・解党・崩壊、もしくは、フランス共産党のように、レーニン型前衛党5原則の3つを放棄した。ポルトガル共産党も、1970年代初めに、レーニンのプロレタリア独裁理論は誤りとして1つの放棄宣言をした。東方の島国における日本共産党だけが、なぜ5原則を隠蔽・訳語変更・堅持したままで、残存しえているのか。
そこには、3つの要素が考えられる。(1)、資本主義批判を根底にした革命要求・社会主義待望である。これは20世紀社会主義運動を支えた世界的で根本的な理念だった。(2)、レーニンの前衛党理論と「レーニン神話」にたいする信奉がある。これらにたいする信仰は、東欧・ソ連10カ国のいっせい崩壊とその崩壊原因の情報流入により、ヨーロッパの有権者・共産党支持者の中で、一挙に低落した。今や、不破哲三のようなレーニン賛美論文を書き、十何冊も出版をする者は、時代錯誤の20世紀遺物崇拝者として、ヨーロッパにおいて馬鹿にされるだけであろう。(3)、東方の島国における特殊現象として、「日本共産党神話」−宮本顕治らによって偽造歪曲された戦前の1930年代日本共産党史認識が、かなりの知識人・マスコミ・共産党支持者に残存している。
『逆説の戦前日本共産党史−コミンテルン日本支部史』ファイル多数
2、党中央への忠誠心に基づく盲従=自主的思考停止党員
別ファイルデータのように、志位和夫が党内離脱党員14.5万人・37%を含めた水増し決算をしつつ、「党員が増えた、増えた」との報告をしてきたにもかかわらず、党費納入党員は約25万人に減り、じり貧的瓦解を続けてきた。赤旗日刊紙も減り続け、2007年度で党費納入25万党員に相応した25万部に減紙した。その数値は、志位・市田・不破らにたいする忠誠心を抱き、党員として残留する党中央信奉者が、約25万人いることを示す。
志位・市田・不破らは、選挙でどのように惨敗しようとも、党中央路線・政策は正しかったと強弁し、一度も彼らの誤りを認め、自己批判したことがない。当然、敗北の責任をとって、辞任したこともない。党の物神崇拝化は、レーニン・スターリン以来の世界的な国際共産主義運動の伝統だった。党や党中央幹部を瞳のように、命を掛けて守り抜くというスローガンが、忠誠心の象徴的な文句だった。残存する共産党員のかなりが、党中央はつねに正しいと信じ、盲従している。その一方で、党中央による党員の発言・抗議の単独・垂直発言を握りつぶし、沈黙型忠誠への囲い込みが裏側で行われてきた。
たしかに、残留している党費納入25万党員は、「レーニン神話」「日本共産党神話」にたいする幻想と忠誠心を抱いている。また、志位・市田・不破ら現指導者にたいする忠誠心・崇拝度も残っている。そこには、水田洋名古屋大学名誉教授が指摘したように、自主的思考停止人間という忠誠心と羊たちの沈黙という側面もある。さらには、離脱した後の代替政党のなさからくる残留というケースもある。
3、神話崩壊・忠誠心衰退の要素と条件−「レーニン神話」「日本共産党神話」
しかし、日本共産党と党中央への忠誠心を衰退させる要素も、21世紀に入って飛躍的に増大してきた。「スターリンは誤りだが、レーニンは正しい」説の転覆度合の激増である。(1)、レーニンのウソ・詭弁と大量殺人犯罪データが普及した。(2)、「日本共産党神話」を覆す歴史研究・データ発掘されてきた。ただ、一般の出版物や研究論文は限られている。
『「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証』レーニン神話と真実
『逆説の戦後・戦前日本共産党史』日本共産党神話への逆説ファイル多数
なかでも、東欧・ソ連10カ国と大陸地続きで、かつ、亡命者300万人情報直接流入のヨーロッパと異なり、レーニンのウソ・詭弁と大量殺人犯罪に関する情報隔絶島・日本列島は、資本主義世界においてその情報格差度でまったくの特殊存在となっている。「レーニン神話」信仰者は、党費納入共産党員25万人だけでなく、HN読者がピーク355万人から激減したといえ、党員を含めた146万人・41%が残存する。それらが中心となり、衆参院国政選挙における共産党投票有権者が約440万人〜490万人いる。
私は、日本政治の民主化を進めるには、異様なまでのソ連情報隔絶列島における「レーニン神話」を崩壊させることがキーポイントの一つになると判断している。具体的には、(1)レーニンが1917年10月にした行為が、「革命」ではなく、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする「単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター」だったという歴史認識の大転換がある。(2)もう一つは、レーニンによる大量殺人犯罪データとその信憑性認識である。
(1)のクーデター説については、別ファイルで内容紹介したように、日本人研究者で加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一ら3人がいる。そこに、最近、稲子恒夫が『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』(東洋書店、2007年4月)において、1917年の詳細な年表とともに、分析コラムにおいて、「十月革命は憲法制定会議選挙運動中のクーデターだった」(P.89)と明記した。彼は、名古屋大学法学部名誉教授で、ロシア・ソヴィエト法学専門の研究者である。
(2)レーニンの大量殺人犯罪データについても、稲子恒夫は、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)の無数の極秘文書を翻訳し、掲載した。この著書は、日本における最初の画期的なソ連極秘文書資料・分析集(1069頁)である。ここでは、その著書から、クロンシュタット事件における大量殺人犯罪の最新極秘資料だけを引用する。
1921年3月18日、クロンシュタートの反乱の鎮圧終わる。3月20日、臨時トローイカ(3人委員会)、戦艦ペトロパーヴロフスク乗組員167人の銃殺を決定、刑即時執行。3月21日、同艦で32人銃殺。3月24日、同艦で27人銃殺。夏まで反乱参加者銃殺2103人。刑務所拘禁・流刑計6549人、のち全員銃殺(P.187)。
判明した銃殺合計は、8878人になる。銃殺された水兵・労働者たちは、全員が革命の栄光拠点クロンシュタット・ソヴィエトのロシア革命勢力だった。私は、レーニンがしたことを、ソヴィエト革命とその革命勢力にたいする権力簒奪の反革命クーデターと規定している。クロンシュタット事件と、それにたいするレーニンの殺人犯罪の歴史的経過は、多数の別ファイルに載せた。クロンシュタット事件の真相を知るだけでも、東方の島国に残存する「レーニン神話」を崩壊させる大きな要因になる。その経緯と真相は、「レーニン神話」忠誠の日本共産党がじり貧的瓦解をするテンポを速める。
『革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』クロンシュタット水兵ら14000人皆殺し
『1920、21年のレーニン』クロンシュタット事件の関係ファイル多数
4、離党阻止・拒絶政党なので、党内離脱として拡大・選挙サボタージュ党員激増
宮本顕治と不破・志位・市田らは、東欧・ソ連10カ国いっせい崩壊により、1994年までの数年間で、12万人が大量離党したことで、日本共産党のドミノ的崩壊の恐怖に打ち震えた。それ以前もそうだか、以後は、離党=共産党からの組織離脱を阻止・拒絶し、認めないという犯罪的組織政策を強化した。その結果、行方不明・党費納入拒否の党内離脱党員14.5万人・37%が在籍上の共産党員となっている。
このように離党・組織離脱を許可しない政党は、日本でも世界でも皆無であろう。フランス共産党は、レーニンの5原則の内、3つを根本的に誤った理論と実践だった断定し、(1)プロレタリア独裁理論と(2)Democratic Centralism・分派禁止規定という犯罪的組織原則、(3)マルクス主義を党大会で放棄した。それと同時に、党改革路線へ転換したのにもかかわらず、党員が激減し続け、その数値を公表している。当然ながら、離党の自由を認め、党費納入をする登録党員数で数えている。その党員数は、1979年76万人、1996年27万人、2003年13万人へと、急激な党員減退=じり貧的瓦解を続けてきた。
日本共産党では、地区委員長や地区専従から、「行方不明というが、もっと探せ。再結集工作を繰り返せ」と事務的な除籍措置の申出を拒否された支部長が無数にいる。私が地区常任委員のときも、細胞から除籍実務を頼まれ、何度も地区委員長・准中央委員に申請したが、その言い分で突っ返された。以後、私も細胞からの除籍実務を取次ぐ気持ちを放棄する専従に転落した。
現在、口頭や文書による離党届をしても、地区委員会は受け付けないことが知れ渡っている。地区委員長は、離党の自由を認めることによる在籍党員数減少にたいし、上級機関から批判されることを怖れている。とりわけ、志位和夫が党員を50万人に増やせという空想的で欺瞞的な「党員拡大5カ年計画」を、2000年に発表して以来、離党申請を認めず、党費納入拒否の党内離脱党員を増やし続けてきた。
もちろん、党中央や中間機関にたいする批判・不満分子が、口頭や文書による離党届をすれば、党機関は、やっと離党してくれるかと、喜んで離党や除籍を許可する。また、批判・異論を何度も発言する党員にたいしては、党中央・中間機関側が「綱領・規約を認めず、党員としての資格を失った」と恣意的にでっち上げ、実質的な除名処分となる除籍措置を強行し、党外排除をする。というのも、党機関側が行う除籍措置は、規約に基づく処分でないので、支部における討論の必要がなく、党機関が直接党外排除を決定し、所属支部への事後通告だけですむというもっとも簡便な党外追放手口だからである。
離党阻止・拒絶政党なので、志位・市田・不破らに見切りをつけ、忠誠心を失った自主的思考党員たちはどうするのか。党内離脱しかないが、最近激増している形態が3つある。
〔党内離脱形態1〕、離党を口頭・文書で申し出ても、事実上阻止・拒絶にされることが分かってきたので、長期未結集の実力行使に出る。支部会議欠席・党費納入拒否をする。赤旗日刊紙購読もやめる。ただ、赤旗日曜版ぐらいはまだ購読継続してもよい。離党阻止・拒絶という犯罪的な組織路線にたいする意図的な党内抵抗・抗議形態としての二度と戻らない(no return)長期未結集党員が、志位和夫5カ年計画の真っ只中の5年間で、119646人から、1495950人に膨れ上がり、差引で党内抵抗党員が29944人増加した。
〔党内離脱形態2〕、供託金募金の年間1200円強制徴収は、四重の誤りを含むので、党費1%は払うが、募金支払を拒否する。それは、1)党費一律値上げの誤りである。そもそも、2)03年総選挙で、立候補者の80%・264人が7億9200万円もの供託金を没収された。05年総選挙は84%・244人が7億3100万円没収された。09年総選挙でも6億6600万円が没収された。このような選挙戦略そのものが根本的な誤りである。同時に、3)供託金没収見込カンパを、選挙カンパとは別枠で強要するなど、二重取り選挙カンパという誤りとなる。しかも、4)2006年第24回大会の供託金募金決定は、党中央批判・異論者を濾過・選別しつくした代議員1000人による欺瞞的な満場一致であり、その効力は最初からない。そのような反民主的な代議員選出形式のスターリン型党大会決定など、四重目の誤りとなり、党員として守る義務がない。むしろ、その支払拒否行為を理由として、除籍をしてくれればありがたい。
『総選挙5回における供託金没収者率・額』5回の供託金没収データ
〔党内離脱形態3〕、党勢拡大・選挙活動ともサボタージュをする。計画的党勢拡大路線は完全に破綻しており、その継続は誤りである。選挙連続惨敗結果は、志位・市田・不破らの選挙方針の誤りを何度も証明した。しかも、彼らは、連続惨敗結果にたいし責任をとらず、外部・下部に敗北の責任転嫁をする常連となった。よって、党費納入をし、赤旗HNは購読するが、もはや党勢拡大・選挙活動をしない。
選挙活動サボタージュのデータを志位和夫が、07年参院選投票日直前の共産党決起集会において、はしなくも、次のように自白した。「これまでの党員の決起は、のべでも4割から5割です」。「のべでも」という日本語の意味は不明だが、在籍党員の4割なら、404299人×40%≒161719人となる。となると、25万人が党費納入をするが、選挙決起ケースでは、(1)約16万人が動くだけで、(2)他の9万人は選挙活動サボタージュ党員に転化した実態を示している。このデータも、2007年度、日本共産党の党員行動比率から見て、党内部崩壊が一段と進行している事実を証明した。
3、レーニンのクーデター政権崩壊危機における分派禁止規定の犯罪的誤り
1921年、レーニン・トロツキーらのクーデター政権→党独裁・党治国家は、(1)80%・9000万農民反乱・(2)ペトログラード労働者の全市的ストライキ・(3)クロンシュタット兵士反乱なと、国民の総反乱によって、崩壊危機に陥った。党独裁・党治国家の崩壊危機にたいするレーニンの対応は、(1)ネップでの農民への譲歩の一方で、(2)政治の逆改革を強行する2面作戦だった。
クーデター政権の誤った路線・赤色テロルにたいする国民の総反乱は、一党独裁政党内にも、直接反映し、4つの分派を発生させた。レーニン主流分派・トロツキー「労働の軍事化」分派の誤った路線・政策にたいし、(4)トロツキー「労働の軍事化」に反対する労働者反対分派と、(5)国家・党の官僚化に抵抗・批判し、民主主義強化を主張するする民主主義的中央集権分派の2分派が形成された。
4分派間の論争は、1921年3月第10回大会に向け、激烈になった。3分野の国民総反乱と、反対2分派による党内闘争が、相互に反映・浸透しつつ、そのまま進展すれば、レーニン・トロツキーらの2分派が、批判・反対2分派によって、党内実権を奪われる可能性も高まった。批判・反対2分派は、すでに、ボリシェヴィキ党員の20%〜35%・約11〜20万人に迫り、急激に増加しつつあったからである。
1920年3月、2000企業「軍隊化」での労働者ストライキ激発と弾圧→労働者反対分派
レーニン・トロツキーが、10月にしたことは、「革命」でなく、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。レーニンの党独裁・党治国家は、その後の約3年間で、食糧独裁令・赤色テロルによる大量殺人犯罪など根本的な誤りを次々と犯した。Democratic
Centralismと分派禁止規定とを結合させた1921年3月の誤りはその中でも、党内・国内・国際共産主義運動内でも、民主主義を消滅させるという犯罪的な影響をもたらした。ヨーロッパの左翼・有権者では、この10月認識・レーニンの犯罪的誤り認識が、もはや常識になっている。
21世紀の資本主義国において、レーニンのDemocratic Centralism・分派禁止規定という犯罪的組織原則の呪縛から解き放たれていないのは、東方の島国において、党費納入を続ける日本共産党員25万人が残存するだけになっている。他に、ポルトガル共産党員もいるが。
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
リチャード・パイプス『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』
『ロシア革命史』より−危機に瀕したコミュニズム
ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ
赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は何か
プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
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〔関連ファイル〕
分派禁止規定は、トップ自己保身目的のみの党内犯罪武器
『なぜ民主集中制の擁護か』党内民主主義抑圧の党内犯罪事例
『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件