高円寺アトラクターズ・スタジオ 2/26〜3/4
3/1(土)マチネ観劇。座席自由(4列目中央:招待)
作・演出 小竹林早雲舞台は、とある街の遺失物預かり所。そこには、過去の記憶を失くした管理所の男(益田喜晴)が、遺失物に宿った“人格”と会話をしながら(と言うか責められ続けているように見えた…)日々を過ごしていた。その遺失物預かり所に、失くした物を探しにやって来る街の人々。その訪れた人々に彼は聞く「何かを遺失されましたか?それとも安置ですか?」と。そして、失くした物の名前や臭い、性格、なれそめ、関係などを聞き、最後に「あなたがあなたである証明をしてください」と問う。そして街の人々は過去の記憶を語り始める…。
ざっくり言って唐組からエンターティンメント性を減らし、減らした分哲学的要素を増やしたアングラ芝居。
あっアングラって簡単に書いてしまったけど、“アングラ”って「ここから」とかのラインと言うか定義はないと思う。Wikipediaで調べても「大衆的でない前衛的な文化(サブカルチャー)の総称。」と曖昧な表現でしかない。まぁ、自分の中にも明確なものはない。けど、今回の芝居は、自分には完璧なアングラ芝居。目の下にクマとか書いてしまう時点で、も〜その域に達している。そして、真剣な内容なのにどこかバカっぽい。ちなみに、自分はこういう芝居は嫌いじゃない。と言うか好きな部類に属する。ただ、今回の作品は表現していることが難し過ぎて眠くなってしまった。長かったし…。
頂いた案内には、シニカルファンタジー、テーマは「無」、パペットと俳優が交差しながら縮み行く世界を表現、とか書いてあったが、あまり理解はできなかった。あっ、“縮み行く世界”はその表現方法じゃなくて、その意味するものがね…。観劇中、一番感じたことが“死人のような彼ら、彼らが頼りにする管理人は果たして生きた人間なのだろうか?”と言うこと。もちろん管理人だけでなく、遺失物預かり所を訪ねた街の人々も生きた人間とは思えない。
そこで、自分の中で物語を消化させようといろいろ考えてみた。…そして出たのは、あの場所は死への扉ではないか、という結論である。現世に忘れたもの(それは“物”ではなく“思い”)を清算をする場所であり、安置=死なのではないか。遺失物預かり所を訪ねた人間は、生と死の狭間にいる霊みたいな存在。また管理人は現世の罪を清算すべくその場所にいる、死ぬことも許されない男。最後でやっと安置室に入れた(死ぬことができた)のではないか。 死というものがまだ浮遊する思念を有しているという観念から見れば、安置=無と置き換えることができる。そうするとテーマが見えてくるのではないだろうか…。 と、書いてても難しいわ。そんな中で、 一番のみっけもんは、益田喜晴の怪演。その存在感たるや凄いの一言に尽きる。注目に値する(って偉そうにすみません)素晴らしさであった。
作・演出 佑里沢満人池袋西口にあるカフェ“MODeL-T”。そのカフェで友人を待つ狛江イサオ(大矢三四郎)。しばらくして現れた島田雄一郎(田無ユキヒデ)は、ガラモンの販売営業をしてると言う…。それはさておき、狛江は島田に相談を持ち掛ける。それは悪魔を呼び出す本を古本屋で買ってしまったがどうしよう、というもの。島田にも実は相談があり、それは家庭でDVを受けている友人の相談にのって欲しいが、同情できない奴だと…。そこで、そのDV男・幡ヶ谷クラオ(室野尚武)を呼び出すことに。
そして、彼等の会話をカフェで聞いていたポエム少女・夢瓦ポエ美(清水智香子)は、初め幡ヶ谷に同情するも、勝手にポエムを読まれ(それもバカにされ)逆上。幡ヶ谷を締め殺してしまうのだった。クランベリージャム好きで、ペンション経営が夢という夢瓦ポエ美は、こんな男の為に人生を棒に振れない、と嘆く。こうなったら悪魔(宮健一)を呼び出し、生き返らせるしかないと判断した狛江と島田は、呪文を唱えるのであった。…悪魔の臭いに引き寄せられたエクソシスト(富岡利佳子)も加わり、トラブルは収拾するどころか、雪だるま式に膨れ上がっていく…。こんな芝居を約30分。
相変わらずくだらない(誉めてます)。カフェ公演はこの“くだらない”という持ち味を充分に発揮してくれるので、毎回楽しみである。今回は、田中美穂がいないことによって、「ヤマムラ」が登場しないのが悲しいが、役者の持つキャラに依存しない面白さを味わえたので、これはこれで良かったと思う。でも、ヤマムラ姉妹は単独シリーズにする(続いたらすげー数の姉妹になってしまうけど…)とか、忘れた頃にやってきてコアなファンを喜ばすとか、このまま終わらないで欲しい。田中美穂の気狂い沙汰(これも誉めてます)は、観れば観る程癖になってしまう…って今回出演してない田中美穂の話しになってしまった…。それにしても、カリバカの公演を楽しむ上で、このシークレット公演が欠かせない存在になってきたのは確か。前回は本公演から伏線を貼っていたが、シークレット公演から本公演に伏線を貼るのもいいかも。ほんの一部の客にしか判らないってのが、この展開のくだらなさ。そーだなぁ…会話のどこかで「この前ガラモンを買ってさ」とか物語とは一切関係ない会話を挟むとか。
“カリフォルニアバカンス”自分が観た公演ベスト
1.もしも島田が願うなら 2.甲虫とゴシップ 3.不審な集いは七階に。〜ガードマンは夜、悩む〜 4.パジャマと毒薬 5.Dalix〜ダリの経験〜 【番外公演】 1.信玄と三角錐 2.なめられたポエム 3.泥棒綿棒 4.きけんすぎるブツ 5.不審な集いになる前に
作・演出 土田英生久里家の家長である父親が死にかけている(母親はとうに死んでいる)ので、長男・勝(奥村泰彦)の呼びかけにより、四つ子の兄(次男・悟:水沼健、三男・隆:金替康博、四男・賢:土田英生)、悟の妻・真知子(亀井妙子)、賢の妻・まり(山本麻貴)と、存在感がなく名前もろくに覚えられていない五男の一二三(尾方宣久)と彼女の楠原梢(松田暢子)、そして、養子であるが故、皆から可愛がられている末の弟・翔(本多力)が、実家に集まる。そして、母の遺品から家族全員の関係性が明らかになり、均衡が保たれていた関係性が崩れ始める…。
と書くとなんか暗い話みたいだが、そこは土田英生の書く脚本なので、笑えてしまう。
と言うか、冷静に見ればありえない物語なので、笑うしかない。ただ、そのありえない物語をなんとなく納得して観入ってしまうのがMONOの魅力であり、不思議な魔力でもある。そもそも舞台美術からしておかしい。舞台の中心となるのは実家の居間なのだが、物語のありえなさを誇張したかのように、複雑怪奇。増築を繰り返したあげく、居間の押し入れみたいなところから台所に行くような、迷路のごとく複雑な作りになっている…。まぁそもそも四つ子の似てなさ加減とか、普通におかしいから。独特の家のルールみたいなのもあり(海外旅行に行ってはいけないとか、結婚しても籍を入れてはいけないとか)、それに疑問も持たずに従う兄弟たち(とその妻たち)の行動もおかしい。まぁこの奇妙さが後々の物語に効いてくるんだけど。物語は一応一二三の視点で語られてるようにみえるが、四つ子の兄たちの存在感が圧倒的で、群像劇というよりは主演はどーしてもその四人。母の遺品から“長男争い”が勃発するが、そのしょーもなさとかが自分は大好きだ。何故にそんなに長男にこだわる。その様がおかしくて、おかしくて。加えて出生が謎のままの四男・賢の行動とかもバカ過ぎ。前半でキャラを作っているので、後半のおもしろさが半端ない。あと独自の言語「おひおひ」とか、妙に耳に残ってしまう。
前回の『地獄でございます』は、女性が登場すればもっと世界感が広がるのになぁと思ったが、その願いが届いたのか、今回は13年ぶりに客演を呼んでいる。案の定、素晴らしい物語になっていた。絶対女性が入るだけで関係性が広がると思うんだよね。そして、必然的に物語も広がる。
まぁそれにしても 、ありえない展開だけど納得してしまう土田脚本の力は、本当に素晴らしい。 やっぱり、土田さんは凄いやってことを思い知った作品であった。あっ、最後になってしまったが、MONOの役者たちは相変わらずいい味を出していると思った。
“MONO”自分が観た公演ベスト
1.なるべく派手な服を着る 2.約三十の嘘 3.錦鯉 4.なにもしない冬 5.―初恋 6.地獄でございます 7.きゅうりの花 8.橋を渡ったら泣け
作・演出 赤澤ムック昭和32年、男(大沢健)に子供が産まれる。しかし、幸せな日々は続かず、昭和35年の大雨の昼下がり、妻(赤澤ムック)が目を離した隙に、息子は川に流されて死亡してしまう。そして、気付けば、妻も男の元から去っていた。
茫然自失で訪れた、河原の非人街。男はそこで出会った“幼き男娼(升ノゾミ)”に妻の姿を、その祖母である“河原乞食の婆(下総源太朗)”に息子の姿を見てしまう。男娼と老婆は、男の妄想に取り入り似非家族を作り上げるが、次第に妄想は狂想へと速度を増していく。
「眼さえ瞑れば此処は理想の我が家」
一方男娼を身請けしようと決めた“旦那”は、使いの太鼓男(星耕介)らを男娼の元へ向かわす。しかし、その話には「去勢」という条件が付いていた。悩む男娼であったが、拒否すればそこでは生きては行けない。拒否する権利など彼にはなかったのである…。
しかし、手術後麻酔も切れぬうちに、男娼は病院を抜け出してしまう。“似非家族”でも、男に「父親」を感じてしまった男娼は、旦那を裏切り、男のいる河原に戻ったのである。しかし、男娼が戻った時には、男の妄想はすでに消えてしまっていた…。『序説 闇より宛もない声』『第1場 崖の上』〜『第18場 そして終焉』までの18場。区切りに暗転とかが必ずある訳ではないが、それらのタイトルが垂れ幕に書かれ、円形劇場をグルリと囲む。「苦肉の策」と謙遜していたが、それにより、なんとも言えない雰囲気が円形劇場全体を包み込んでいた。その場での出来事が現実なのか非現実なのか、幻想的(と言うほど綺麗ではないけど)なダークな世界感を見事に構築していた。素晴らしい。久々に心惹かれる舞台美術である。
物語は第1場と18場で、男が崖から語るように、飛び降り死に行く時に走馬灯のように浮かんだ妄想なのか、現実に起った出来事なのかわからない。ただ、その救いのない物語は嫌いではない。ただ、妄想に走る男の話にするのか、男娼の話にするのか迷いがあったのだろうか、話の中心がブレている感じがして、残念でならなかった。二つの話はもちろん重要であり、しっかり描くことによって物語に厚みがでてくるとは思う。しかし、観ている方の感情移入という点では、あっちへ行ったりこっちに来たりで、正直中盤では集中できず、退屈してしまった(一瞬カクッと気を失ってしまった…)。自分としては男娼の話で完結しても良かったと思う。男でもなく、女でもなく、旦那からは捨てられ、男の妄想も消えてしまっている…そんな八方塞がりの状態でも街を出て生き抜こうとする、そんな姿で終わっても良かったと思う。でも、そうするとゲストの大沢健が霞んじゃうからなぁ…。
黒色綺譚カナリア派は昔一度観たことがあるが、視覚での違和感がそのまま芝居全体の違和感になってしまったのを覚えている。でも、今回観て“あーこういう作風なんだ”と、ちょっと納得した。舞台が昭和35年なのにオープニングで流れる曲はハードロックなのである(曲目はわからないけど…)。それがカッコよかったのである。別に歴史に忠実に作品を仕上げている訳ではなく、感性でその時代を描いているみたいな、そんな感じを受けた。その独自な世界感は好きである。 ただ、劇団桟敷童子もそうなのだが、この世界感を過去ではなく近未来の話として書いて欲しいと私は願って止まない。
“黒色綺譚カナリア派”自分が観た公演ベスト
1.葦の籠 2.少女灯〜ドドメ懐古趣味〜
作・演出 菊川朝子【5階:静かな森のミュージカル】
森を司る(と勝手に思い込んでる?)ふくろうのターメリック(坂本絢)は、呪いで木になってしまった少年(梅澤和美)に実った“惚れる実”をネズミの王子・ラスク(上枝鞠生)に食わせてどーにかしようと考えていた。しかし、少年を捜して森に迷いこんだ人間・アイコ(ザンヨウコ)が誤って、それを食べてしまう。倒れているアイコを見つけたラスク王子とキツネのパン(平川道子)、モグラのクルトン(菊川朝子)は、アイコを助ける。その時、ラスク王子はアイコに惚れてしまうのであった。ならばと、ターメリックは、アイコを使ってラスク王子に木の実を食べさせようと試みるのだが…。そんな状況にラスク王子の許婚・ハリネズミのモンブラン(墨井鯨子)と妖精のチャイ(上田遥)も加わって、さらに関係性が絡まっていく…。そんな話をミュージカル風に。【4階:静かなリアルバックヤード】
5階で行われている舞台の楽屋的物語。実際にそこで準備したりしているので本物の楽屋でもある。そこで展開されるのは、坂本絢と上田遥と墨井鯨子の恋愛トラブルと菊川と梅澤の確執。4階と5階を自由に移動できる(公演中でも)。好きな方を勝手に移動して観ればいいって公演。
私はマチネとソワレで2回観る予定だったので、マチネで5階、ソワレで4階にどっしり腰を据えて観てみた(4階では一度だけ強制的に追い出されるけど…)。マチネで5階だけを観た限りでは、あえて学芸会的ミュージカル芝居を真面目に作っているだけで、決して「面白い」と言えるものではなかった。4階だけを観ても5階を観ていないと全然面白くない。4階の状況を分かった上で5階を観ないと細部の面白さが全然わからないのである。三角関係と言うか墨井鯨子の奪い合いが裏であってこその関係性が表舞台で見えてくるはず。梅澤和美の木が微妙に動くことや、一度はけて再登場した時の涙の意味も4階を観ていないとわからない。ましてや“本当のクライマックス”は4階で起るので、それを引きづった5階でのグランドフィナーレの素晴らしさがわからない。正直言ってマチネで5階だけ観た時は、菊川の流れる血にも気が付かなかったし…(観察力のなさが情けない)。言い換えれば、この公演は5階→4階→5階と観て初めて物語が見える、なんとも贅沢(お客にとっては大迷惑)な公演であった。 なので時間がなく片方しか観ていないとか、移動したとしても肝心な場面を見逃しているとか…だと、なんだかわならない舞台になっていたと思う。
マチネで5階だけ観た時に、開演前に各階でどんな芝居をするのか教えてくれればいいのに、って思ったが、両方観てその思いは完璧な間違いだったことに気がついた。両方で一つの作品なのである。 でも、できることなら一つの場所で両方が観れると良かったと思う。5階のミュージカルはバックステージに徹して(観るのはお客の勝手だが)4階でモニター映像で観れる(録画ではないところが贅沢)とか。…あー、でもそれだと視覚的にはいいが、音の問題が残るか…。やはり今回みたいに自由度を設けるしか、この作品は成立しないのか…。で、“芝居”にこだわるなら、4階での菊川朝子、梅澤和美の立場は逆転して欲しかった。本番中にダメだししているのは実は梅澤だった…みたいな。二人のことを知っているだけに、今回の芝居は、あまりの“リアル”さに正直引いてしまった…。と、言うか悲しくなってしまった。梅澤ファンなので余計に。
両方観て思ったのは、フラ版『ショー・マスト・ゴー・オン』(クイーンの曲じゃなくて東京サンシャインボーイズの方)だなと。で、主役は“舞台”なのである。どんな状況でも感情に左右されず幕は開く。関わる人間は翻弄されながらも一本の芝居を作っていく…。ってかっこいいこと書いてみたけど、本音は梅沢和美が主役だと思っている。4階はもちろんだが、その状況を引きずった5階の梅澤がいい。呪いが消えて人間に戻った時の冷めた演技が素晴らしく、物語もそこでファンタジーの化けの皮が剥がされる。アイコに向かって「動物と話してるなんてキモイ」とか。その展開がとても良い。そこには4階での出来事が少なからずも影響を及ぼしている。
でも、残念なことに梅澤和美はこの公演でHula-Hooperを退団してしまう。実はこれがかなりショックで上演中は梅澤和美だけを見つめてしまったり…。役者は続けていくみたいだが、梅澤和美が持つ独特の世界感を表現できるのは、菊川朝子だと思っていたので残念でならない。他劇団に客演してもフラ以上のものがなかった。“役者”としては決して巧いわけではない。動きだってスムーズではないし、声はいいが喋りが巧いわけではない(って、本人が読みませんように…)。でも、大好きな女優さんなのである。“天性の才”とでも言おうか、真似をしようとしても絶対できないものを持っている。Hula-Hooperとしても損失は大きいと思う。梅澤和美の穴を埋めるのは容易ではない。いろんな劇団に影響され、試行錯誤の上やっと自由に面白さを表現できるようになったHula-Hooperだが、そこには梅澤和美の存在があったからこそという面も多々あると思う。三の線では上枝鞠生もいるが、まったく異質の存在感なのである。次回からユニット→劇団化するみたいだが、正念場かもしれない。いい方に向かってくれればいいけど。あと、余計な事だが、もう少し4階を有効に使って(遊んで)も良かったと思う。一人だけ“生け贄”になって4階に取り残され、役者と一対一になってしまうとか、4階だけに日替わりゲスト(発表しない)がいるとか、本来持っている“遊び心”をもう少し発揮して欲しかったかなぁ〜。
“Hula-Hooper”自分が観た公演ベスト
1.何かのプレイバック 2.嘘かもしれないけど、オリジナル 3.静かなる演劇 4.Hula-Hooperと10人の仲間たち 5.脱いでたまるか(仮) 6.何かのプレイ 7.Hula-Hooperと3つの小品 【番外】 1.Hula-Hooperの部活動「鱈。」の(ふ) 2.Hula-Hooperの部活動「鱈。」の(へ) 3.Hula-Hooperの部活動「Hula-Hooperの、忘年会」 4.Hula-Hooperプロデュースひとまずウラで 5.Hula-Hooperプロデュース裏ふうぱあ弐