「レーニンによる十月クーデター」説の検証
革命か、それとも、一党独裁狙いのクーデターか
目的=一党独裁・党治国家樹立、手段=赤色テロル・ウソ詭弁
(宮地作成 改定・加筆版)
〔目次〕
はじめに−自己改革拒絶・過去の党犯罪史隠蔽美化党首の末路
1、ヨーロッパと日本におけるレーニン認識、「十月革命」認識の格差 (表1、2)
3、二月革命、農民革命、七月事件、十月単独武装蜂起の比較 (表3)
4、10月10日・16日、ボリシェヴィキ中央委員会内の3主張と決定 (表4)
5、10月20日→24日、第2回大会前の単独武装蜂起を指令したレーニンの真意 (表5)
6、10月10日〜25日、レーニン・ボリシェヴィキによる6つのクーデター作戦 (表6)
7、「十月クーデター」説に関するヨーロッパと日本の認識格差とその原因・経過
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
大十月社会主義革命か、それとも、労兵ソヴィエト革命・農民革命
と一時的に重なった一党独裁狙いの権力奪取クーデターか
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年
十月革命後の現実を通して 十月革命は軍事クーデター
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー
『日本共産党の武装闘争と朝鮮戦争』武装闘争関係全ファイルメニュー
はじめにー自己改革拒絶・過去の党犯罪史隠蔽美化党首の末路
志位は、11月7日と11月10日、赤旗において、ロシア革命を賛美する論評を載せた。内容は、マンネリで説得力皆無だった。
赤旗『ロシア革命100年と社会主義を考える』2017年11月7日
赤旗・志位『ロシア十月革命から100年/世界に持続的影響を与え続けている世界史的意義』11月10日
日本共産党は、2017年総選挙で議席21→12へと惨敗し、9議席減の落選率トップ政党に転落した。もはや第4の躍進はない。いつまで陳腐なレーニン賛美を続けるつもりなのか。
党員騙し「第4の躍進」→9減・落選率トップ政党
自己改革拒絶・過去の党犯罪史隠蔽美化党首の末路
100年前のレーニンによるクーデター・一党独裁・党治国家は、75年間で崩壊した。スターリンからでなく、レーニンのクーデターが当初から誤った選択だった。その誤りを100年後に、改定・加筆を含め再検証する。
1、ヨーロッパと日本におけるレーニン認識、「十月革命」認識の格差
〔小目次〕
ヨーロッパと日本とで、レーニン認識・「十月革命」認識内容は、1960年代まで同じだった。レーニンは偉大なマルクス主義革命家であり、大十月社会主義革命を成功させた世界的な英雄だった。「レーニンによるクーデター」説など見向きもされなかった。しかし、1980年代以降、その認識格差が決定的に異なってきた。レーニン型前衛党の基準・原理はいくつかある。その内、なぜ、5項目に絞って、世界のコミンテルン型共産党における放棄・堅持の度合の違いを調べる必要があるのか。
なぜなら、それらの基準・原理を全面的に放棄した共産党は、「レーニンが10月24・25日にしたことは、革命でなく、一党独裁ねらいのクーデター」だったこと、および、「レーニンのその後の路線・政策も誤りだった」として、レーニン・ボリシェヴィキを全面的に否定する政党に大転換したことを意味するからである。調査対象の共産党は、国会議員など一定の政治勢力を持つ政党とする。インド共産党とソ連崩壊後の現ロシア共産党は、実態がつかめないので除いた。
資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。ただ、ポルトガル共産党は、1974年に、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。よって、5つの基準・原理のすべてを、「訳語変更、略語方式、隠蔽方式」にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。
(表1) レーニン型前衛党の崩壊過程と度合
プロレタリア独裁理論 |
民主主義的中央集権制 |
前衛党概念 |
マルクス・レーニン主義 |
政党形態 |
|
イタリア |
´76放棄 |
´89放棄 |
放棄 |
放棄 |
´91左翼民主党 |
イギリス |
解党 |
解党 |
解党 |
解党 |
´91解党 |
スペイン |
´70前半放棄 |
´91放棄 |
放棄 |
放棄 |
´83に3分裂 |
フランス |
´76放棄 |
´94放棄 |
? |
´94放棄 |
共産党名 |
旧東欧9カ国 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´89崩壊 |
旧ソ連 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
崩壊 |
´91崩壊 |
ポルトガル |
‘74放棄 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
日本 |
訳語変更堅持 |
略語で堅持 |
隠蔽・堅持 |
訳語変更堅持 |
共産党名 |
中国 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
ベトナム |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
北朝鮮 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
朝鮮労働党 |
キューバ |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
堅持 |
共産党名 |
この(表1)において、レーニン型前衛党が大転換・解党・分裂・崩壊したソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域では、20世紀末以降で、一般国民や左翼勢力のほとんどが、次のレベルの認識を持つに至ったと言えよう。それは、「1917年10月、レーニンがしたことは、革命ではなく、一党独裁狙いの権力奪取クーデターだった」「4000万人粛清犯罪者のスターリンだけでなく、レーニン自身がクーデター政権を維持するために、ロシア革命勢力である自国民数十万人を赤色テロルで殺害した大量殺人犯罪者だった」とする「十月革命」認識内容がほぼ常識になった。そのような国民・左翼の劇的な認識転換・強烈な圧力を受けなければ、レーニン型前衛党がかくも脆く、いっせいに崩壊しなかったであろう。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』上記内容の詳細な経過
『イタリア左翼民主党の規約を読む』大転換の経過。添付・左翼民主党規約
アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
(宮地添付文)フランス共産党の党改革状況
福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』 『史上初めて対案提出』
(表2) 日本共産党の欺瞞的な4項目隠蔽・堅持方式
4つの原理 |
欺瞞的な隠蔽・堅持方式 |
他国共産党との比較 |
プロレタリア独裁理論 |
綱領において、訳語変更の連続による隠蔽・堅持。(1)プロレタリア独裁→(2)プロレタリアのディクタトゥーラ→(3)プロレタリアートの執権→(4)労働者階級の権力→(5)放棄宣言をしないままで、綱領から権力用語を抹殺し、隠蔽・堅持している |
ヨーロッパでは、1970年代、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が、これは犯罪的な大量殺人をもたらし、誤った理論と認定した。そして、明白に放棄宣言をした。資本主義世界で、放棄宣言をしていないのは、日本共産党だけである |
民主主義的中央集権制 |
規約において、訳語変更による隠蔽・堅持。(1)民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)→(2)「民主集中制」という略語に変更→(3)「民主と集中の統一」と解釈変更で堅持→(4) 「民主と集中の統一」は、あらゆる政党が採用している普遍的な組織原則と強弁している |
ヨーロッパの共産党は、「Democratic Centralism」の「民主主義的・Democratic」は形式・形容詞にすぎず、「官僚的・絶対的な中央集権制・Centralism」に陥ると断定した。それは、「党の統一を守るのには役立ったが、一方で党内民主主義を破壊する」組織原則だと認定した。この反民主主義的組織原則を堅持しているのは、残存する犯罪的な一党独裁国前衛党4党とポルトガル共産党・日本共産党だけである |
前衛党概念 |
規約において、(1)前衛党→(2)規約前文から綱領部分削除に伴い、その中の「前衛党」用語も事務的に削除→(3)不破哲三の前文削除説明で、「前衛党」概念を支持・擁護 |
イタリア共産党は、「前衛党」思想を、「政党思想の中で、もっともうぬぼれた、傲慢で、排他的な政党思想だった」と総括し、全面否定した。日本のマスコミは、左(2)を「前衛党」概念の放棄と錯覚し、誤った解説をした |
マルクス・レーニン主義 |
(1)マルクス・レーニン主義→(2)個人名は駄目として、「科学的社会主義」に名称変更し、堅持。不破哲三の『レーニンと資本論』全7巻を見れば、マルクス・レーニン主義そのものの堅持ぶりが分かる。ただ、彼は、さすがにレーニンの暴力革命理論だけを否定した |
「マルクス・レーニン主義」の命名者はスターリンである。ポルトガル共産党を除くヨーロッパの共産党すべてが、マルクス・レーニン主義と断絶した。フランス共産党が放棄したのかは分からない |
日本共産党は、4項目に関して、訳語・名称変更しただけで、ヨーロッパの共産党がしたような明白な放棄宣言を一つもしていない。その実態も、隠蔽・堅持方式を採っている。世界的にも、こういう欺瞞的スタイルを採る共産党は皆無であり、いかにも不可思議な政党ではある。
その点で、加藤哲郎一橋大学教授は、日本共産党を「現段階のコミンテルン研究の貴重な、生きた博物館的素材」と指摘した(『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、P.3)。その視点から観れば、日本共産党を21世紀における「貴重な絶滅危惧種」として、このまま生態保存しておく必要があるのかもしれない。ただし、選挙政策面では、天皇制・君が代日の丸・自衛隊テーマなどで、無党派層への支持拡大を狙って、どんどん現実化している。それは、不破・志位・市田らが、(1)レーニン型前衛党の5基準・原理の隠蔽堅持路線と、(2)選挙政策の現実化路線という矛盾した二面作戦を採用していると規定できる。
21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5つの基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。もっとも、残存する一党独裁型前衛党の中国・ベトナム・北朝鮮を合わせれば、アジアでは、4つの前衛党が崩壊しないでいる。「アジアでの生き残り」の政治的・地政学的原因、および、隠蔽・堅持方式については、別ファイルで分析した。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』「アジアでの生き残り」の政治的・地政学的原因
『規約全面改定における放棄と堅持』2000年第22回大会、欺瞞的な隠蔽・堅持の詳細
『「削除・隠蔽」による「堅持」作戦』欺瞞的な隠蔽・堅持方式の4段階の詳細
「十月クーデター」と言うと、驚いて、感情的な反発を抱き、「反共学説」として見向きもしない左翼知識人は多い。共産党員においては言うまでもなく、その説を全否定するであろう。以前の私(宮地)がそうだった。熱烈なレーニン信奉者だった私が、なぜレーニン批判者になり、さらには「十月クーデター」説に転換したのかという過程=個人的な体験を触れておきたい。
〔小目次〕
〔第4〕、「革命ではなく、一党独裁狙いのクーデター」認識への転換時期
私は、1960年・23歳、安保闘争のさなかで入党した。3年間の民間経営勤務・労働組合役員・愛労評幹事→民青地区委員長→共産党地区常任委員(現在で5つの地区委員長)→愛知県選対部員など、愛知県で民青・共産党専従を15年間した。この間は、文字通りのレーニン信奉者で、「十月革命」の情熱的な支持者だった。日本共産党の文献・雑誌を専従として読むとともに、レーニンの基本文献を「レーニン全集」でほとんど読んだ。「レーニン10巻選集」は2、3回り研究した。『なにをなすべきか』などは、一面的な赤旗拡大を指導する必要から、10回以上、3色の傍線を付けて、重要箇所を記憶するほどだった。他にも、公認ロシア革命史やロシア・ソ連文学作品も熱中して読んだ。職業革命家として、レーニンの革命を理想とし、日本革命の実現をめざす活動を日夜続けた。
ただ、1967年・30歳、「愛知県第1次指導改善運動・5月事件」が発生した。私は、准中央委員・地区委員長の極度に一面的な赤旗拡大指導の誤りを批判する中心の一人となった。名古屋中北地区委員会は、愛知県党勢力の半分を占め、名古屋市の中部北部10行政区を範囲とし、専従52人を抱える巨大な中間機関だった。しかし、地区党挙げての1カ月間にわたる正当な批判活動が、批判側の常任委員の裏切り・密告により、一転して「分派活動」と逆転させられた。私は分派首謀者と断定された。そして、批判活動に立ち上がった数十人の地区常任委員・地区委員・細胞長の中で、私一人だけが21日間もの監禁査問を受けた。この体験が、日本共産党批判・スターリン型共産党体質批判の原点となった。
1969年、32歳、「愛知県第2次指導改善運動」が党中央の援助もあって勃発した。今度は、愛知県の全党が、准中央委員・地区委員長・県副委員長批判、県常任委員会批判を開始した。私は、拡大地区常任委員会・地区党会議や拡大県委員会総会・県党会議という正規の場所で、県常任委員会批判だけでなく、一面的な赤旗拡大方針・成績主義的数字評価システムにおける党中央の責任を追及する発言を10数回行った。党中央はその誤りと責任を認めるべきだと迫った。
1975年、38歳、県常任委員会批判・党中央批判にたいする報復として、専従解任通告を受けた。私は、それを正規の会議における批判発言への不当な報復行為として、1年8カ月間党内でたたかった。党中央は、私が提出した「意見書・質問書」など25通をすべて握りつぶした。1977年第14回大会に「報復としての警告処分・専従解任を不当とする上訴書」を提出したが、上田耕一郎党大会議長は、それを無審査・無採決・30秒で却下した。これらの経過の性質は、宮本・不破・上田・戎谷ら共産党常任幹部会が行った三重四重の政治的殺人犯罪行為だった。私は心底からの怒髪衝天の境地を味わった。
1977年・40歳、私は、専従解任不当で、名古屋地裁に民事裁判を提訴した。共産党は瞬時に私を除名した。共産党は、県直属トヨタ自動車支部の交代勤務党員の延数十人を使って、1カ月間以上の尾行・張込みをした。これら詳細な経過は、別ファイルに載せた。
『日本共産党との裁判・第1部〜第8部』愛知県第1次指導改善運動・5月事件から裁判
宮地幸子『政治の季節』公安による尾行と共産党による尾行・張込み
こうして、日本共産党の反民主主義的体質と犯罪的対応を実体験した。そして、その根底にあるレーニン型前衛党の犯罪的体質に明白な批判を持った。その体質は、世界のレーニン型前衛党が共有する誤りではないかという認識に到達した。しかし、まだ「十月革命」批判には至らなかった。
〔第3〕、レーニンによる数十万人殺人犯罪の調査・公表時期
1979年・42歳、元共産党専従では、就職先もなく、自宅で学習塾を開いた。それを63歳まで21年間続けた。
10年後の1989年東欧革命、1991年ソ連崩壊が勃発した。それらの歴史的瞬間のニュースに立ち会えたことで、心から興奮した。テレビを見るとともに、出版された文献を読み漁った。
1997年・60歳、HPを開設した。
(1)、最初は、共産党の丸山眞男批判の経過資料と全データを集め、それらをすべてHPにアップした。
(2)、次に、スターリンの4000万人粛清実態と粛清数字データを調査し、それらを諸ファイルでHPに載せた。社会主義国家とレーニン型前衛党、共産党員が遂行した自国民の大量殺人犯罪は、実態を調べれば調べるほど、とても信じられないレベルの惨事だった。私も共産党専従だったからには、共産党員が行う赤色テロル=無実のロシア革命勢力を大量に殺害する行為の奥底にある心情・心理は他人事ではなかった。もし、職業革命家の一人として日本革命を成功させ、日本を一党独裁国家にさせていたら、専従の私が「日本人民の敵」を大量殺害する指令を出し、自らも彼らを銃殺していたのだろうか。
(3)、さらに、スターリンの4000万人粛清犯罪とレーニンとの連続性・非連続性のテーマを真剣に考察・調査すべきだと考えるようになった。「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」というのが、ソ連崩壊前の日本共産党・日本左翼知識人・新左翼における常識だった。本当にそうなのか。そこへ、ソ連崩壊後に、レーニンの大量殺人犯罪データが続々と発掘・公表され始めた。「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)が証明するレーニンのロシア革命勢力数十万人殺人犯罪の内容・データは驚くべきレベルで、初めて知るものばかりだった。ソ連崩壊後に出版された文献をすべて収集し、研究した。そして、レーニンが、(1)労働者・(2)農民・(3)クロンシュタット水兵・(4)聖職者・(5)知識人などロシア革命勢力数十万人を殺害した犯罪データをまとめ、そのファイルをそれぞれHPに載せた。その結果、ロシア革命勢力にたいする大量殺人犯罪においては、レーニンとスターリンの連続性が基本であるという認識に至った。
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー
その殺人犯罪といっても、2人に違いがあるのは当然である。1)、数十万人殺人と4000万人粛清という殺害・粛清規模の相違、2)、強制収容所創設と収容所産業の拡大・群島化というシステムの違い、3)、共産党員だけは殺害していないことと現役党員100万人処刑・非除名元党員100万人処刑という殺害対象の相違などである。もっとも、レーニンは、クロンシュタット反乱前に離党した党員・反乱側に残った現役党員ら千数百人を銃殺・溺殺などで皆殺しにした。
〔第4〕、「革命ではなく、一党独裁狙いのクーデター」認識への転換時期
レーニンが、ロシア革命勢力数十万人を大量殺害する犯罪を指令・遂行したことは、日本を除くヨーロッパにおいて、もはやほぼ完璧に証明された歴史的真実と認められ、常識のレベルになったと言ってよいであろう。それは、ヨーロッパにおけるレーニン型前衛党の崩壊度合(表1)によって証明されている。
片や、「レーニンによる十月クーデター」説を認めるどころか、レーニンの大量殺人犯罪さえも認めたがらないというのは、日本左翼勢力の不可思議な政治的風土のせいなのか。大陸地続きの生情報が届かず、300数十万亡命者の内一人も日本に来なかった東方の島国という地政学的原因によるものなのか。または、宮本顕治の「日本共産党の逆旋回」による情報鎖国的影響、それによる、自主的思考を放棄させるレーニン批判情報の遮断バリアーがなお続いているのか。別ファイルで書いたように、日本において、「レーニンの十月クーデター」説の立場を公表しているのは、加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一ら、まだ3人しかいない。
2005年・68歳、私は、レーニンがなぜそのような大量殺人犯罪をしたのかを考察・研究せざるをえなかった。ソ連崩壊後に出版されたあらゆる文献を再読し、研究し直す中で、ついに、(1)「十月革命」賛美者、レーニン信奉者→(2)レーニン型前衛党批判者→(3)レーニンの大量殺人犯罪データ調査・公表者→(4)「十月クーデター」説への転換者となった。2005年、別ファイルに抜粋・引用した6文献を再読・検証する中で、「革命ではなく、一党独裁狙いの十月クーデター」説に確信を持つに至った。クーデター権力を維持するのには、赤色テロルによる大量殺人犯罪をするしか、生き残る道はなかったからである。中野徹三が規定したように、「一〇月革命は、(悲劇に導くという意味で)悲劇的なクーデター」だった。
大十月社会主義革命か、それとも、労兵ソヴィエト革命・農民革命
と一時的に重なった一党独裁狙いの権力奪取クーデターか
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』
3、二月革命、農民革命、七月事件、十月単独武装蜂起の比較
このファイルは、日付をすべて旧暦で書く。旧暦10月25日が、新暦11月7日となる。旧暦に13を足せば、新暦になる。1918年2月から新暦になった。「十月クーデター」説を検証するにあたって、まず、4つの革命・事件データ内容を検討し、比較する。(表3)の内容は、多くの文献に基づいて、私が判定した。
(表3) 二月革命、農民革命、七月事件、十月単独武装蜂起の比較
二月革命 |
農民革命 |
七月事件 |
十月単独武装蜂起 |
|
月日 |
2月23〜27日 5日間 |
3月以降 1年間以上 |
7月3、4日 2日間 |
10月24・25日 1日〜1日半 |
形態 |
デモ・ゼネスト |
地主・貴族襲撃の全国一揆 |
武装デモ・スト |
デモ・スト一切なし、組織もせず |
規模 |
数十万人 |
80%・9000万農民すべて |
数十万人 |
ボリシェヴィキ部隊数千人 |
勢力 |
労働者・兵士 |
農民 |
機関銃連隊兵士・労働者 |
ボリシェヴィキ支持兵士・赤衛隊 |
性格 |
自然発生の民衆革命 |
自然発生の民衆革命 |
自然発生の武装デモ・スト+ボリシェヴィキ支持 |
一党独裁狙いの単独権力奪取クーデター |
結果 |
ツァーリ帝政崩壊 |
土地を収奪し、全農民に |
政府による弾圧 |
ボリシェヴィキ単独権力 |
死者 |
死者169人 |
地主・貴族数百人殺害 |
死者数十・逮捕兵士数千人 |
死者10〜14人 |
ボリシェヴィキ |
関与・指導なし |
関与・指導なし |
当初は反対→途中から支持 |
最初から「蜂起の技術」のみ |
レーニン |
スイス・チューリッヒ。1週間後に知る→4月帰国 |
5月農民大会で支持演説 |
バルコニーで支持演説 |
一貫して第2回ソヴィエト大会前の単独武装蜂起の主張をし、その決定を迫る |
他党派 |
メンシェヴィキ、エスエルともほとんど無関与 |
エスエル、とくに左翼エスエルが支持 |
メンシェヴィキ・エスエルは、ボリシェヴィキのクーデターと批判 |
ボリシェヴィキのクーデターと反対。第2回ソヴィエト大会を抗議の退場。左翼エスエルのみ残る |
〔小目次〕
1、二月革命のデータ
2、農民革命のデータ
(宮地注)、ロシアの農民革命とソ連における全農民反乱との関係
3、七月事件のデータ
(表3)だけでは、単純化し過ぎになるので、4つの革命・事件・クーデターについて、簡単な経過と数字的データを確認する。ここでは、長尾久『ロシア十月革命』(亜紀書房、1972年、絶版)にある資料を引用する。彼の『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、513頁、絶版)が有名で、詳細だが、『ロシア十月革命』の方が、経過と数字では簡潔にまとめられているからである。ただし、ソ連崩壊前1972年の出版なので、崩壊後に発掘・公表されたアルヒーフ(公文書)などによる資料を含んでいない。日付と数字データの各色太字は、私(宮地)の判断による。
1、二月革命のデータ
これは、ペトログラードの労働者・兵士ソヴィエトが中心となった「自然発生的な民衆革命」である。以下は長尾久『ロシア十月革命』からの引用(P.52〜55)である。
緊迫した空気の中で、二月二三日が来た。この日は国際婦人デーだった。ボリシェヴィキ、メジライオンツィ、メンシェヴィキ・イニシャティヴ・グループは、屋内集会を予定していた。しかし、ヴイボルク地区の女子繊維労働者たちは、みずからのイニシャティヴでストライキに入り、さらに隣接する金属工場をもストライキに入れていった。夕方までに、ヴイボルク地区はぜネストの様相を呈するに至った。ストライキに入った大衆は、街頭に出て「パンをよこせ」と叫びつつ、都心へ向った。そして官憲の阻止線を突破して、ネフスキー大通りでデモをおこなった。若干の場所で警官との衝突があり、二一名が逮捕された。なおストライキに入ったのは、七万八千〜八万八千人の労働者だった。
二四日、闘争は拡大した。ストライキ参加労働者は一五万九千人にふくれ上った。多くの地区にストライキが波及した。警官のほかカザーク、歩兵も出動して強化された弾圧態勢に対して、デモ隊の戦闘性も高まった。阻止線突破の際に、投石、投氷(氷の破片を投げる、当時の首都は厳冬だった)がおこなわれた。いぜんとして「パンをよこせ」のスローガンが有力だったが、「専制打倒」や「戦争反対」のスローガンも、しだいに現われてきた。商店の打ちこわしがかなりふえた。出動したカザークにデモ隊への共感が見られた。
二五日、ストライキは全市をおおうに至った。二〇〜二四万の労働者がストライキに加わった。新聞も電車もストップした。学生も多くがストライキに突入した。多くの大衆が再び都心へ向い、ネフスキー大通りとその周辺でくり返しデモをおこなった。この日は、「専制打倒」、「戦争反対」のスローガンが前面に出てきた。デモ隊の戦闘性も増した。いくつかの場所で、デモ隊の一部はピストルを射ったり、爆弾を投げたりした。官憲側も警官のピストル射撃、軍隊の小銃発砲を何回かおこなった。この応酬の中でデモ隊に四名、官憲側に一名の死者が出た。この日も出動したカザークの民衆への共感が目立った。発砲している警官をしり目に後退した例、一個中隊がデモ隊側について逮捕された者を解放した例、発砲を要請したある警察署長をサーベルで切り殺した例が、見られる。この日夕刻までには、ヴイボルク区から警官がほぼ完全に一掃された。警官は殺されるか逃亡した。このように闘争が激しくなった時、ツァーリから「首都における騒擾を明日は中止させよ」という電報が届いた。
二六日未明、官憲は約一〇〇名の革命分子を一斉検挙した。決戦が始まったのである。
二六日は日曜日だった。午前中市内は平穏だった。しかし午後になるとデモ隊がネフスキー大通りに現われて、衝突が始まった。デモ隊は、出動した警官・軍隊に石や氷片を投げつけた。警官・軍隊の側からは、至る所で発砲がおこなわれた。続々と死傷者が出た。ズナーメンスカヤ広場で午後四時半にデモ隊が一掃された時だけで、四〇人の死体が残された。武力鎮圧の線がはっきりしてくるにつれて、鎮圧の主体となる軍隊内部の亀裂が拡大してきた。二六日夜には、パヴロフスキー連隊第四中隊がついに反乱を起した。同連隊教導隊が民衆に発砲したということを聞いて憤激したのがきっかけとなった。第四中隊は、負傷帰還兵から成っていた(首都の他の連隊でも同じ)。彼らは、前線での苦しみを体験していたのである。しかしこの反乱は、孤立したものに終り、鎮圧された。
二六日夜一二時、一日中鎮圧行動をおこなっていたヴォルイニ連隊教導隊が帰営した。二五日から鎮圧のため狩り出されていたこの部隊のメンバーの内面で、命令への服従と民衆虐殺者になりたくないという感情との矛盾が、耐えがたいまでに鋭くなっていた。教導隊員は、下士官候補生として兵士の中ではエリートとして選抜された部分だったが、それでも兵士であり、民衆の一部だった。二六日夜帰営した時、この隊のキルピーチニコフ曹長とマルコフ伍長の心はすでに決まっていた。二人は、小隊長と班長を集めて、「明日は出動すまい」と提案した。みなこれに賛成した。
二七日午前五時、同隊は全員起床し、小隊ごとに会合した。兵士たちは、小隊長、班長を支持した。こうして、午前九時頃、ヴォルイニ連隊教導隊は、出動を命令しに来た隊長を射ち殺し、反乱を開始した。反乱はただちに全ヴオルイニ連隊に拡がり、さらに、同じ構内に兵舎のあったプレオブラジェンスキー連隊、リトヴァ連隊、工兵第六予備大隊に拡がった。反乱した部隊は街頭に進出し、午後一〜二時頃には労働者と共にクレストゥイ監獄から二四〇〇人の政治犯を解放した。反乱の波は、ヴイボルク区や南部にも拡がり、この日のうちに革命側が首都で優勢になった。
政府軍の抵抗は急速に弱まり、二八日昼には政府軍は解体してしまった。国家評議会議長イ・シチェグロヴィートフ、元陸相スホムリーノフ、首都戒厳司令官ハバーロフ、内相プロトポーポフ、元首相シチュルメル、首相ゴリーツインらが、三月一日までに(この年二月は二八日までである)次々と逮捕された。こうして首都におけるツァーリ権力は崩壊した。
この勝利は人民の血の犠牲によってかちとられた。のちに都市(市会)連合ペトログラード市委員会によって集計されたところによると、首都における二月革命の際の死者は一六九名だった。この中には将校二、警官二などの専制側の人物も含まれている一方、革命側死者で含まれていない者がある程度いると思われる。
2、農民革命のデータ
これは、1917年3月頃から、ロシア全土で勃発した「自然発生的な民衆革命」である。地主・貴族から土地を奪い、それぞれの村落共同体ミール内で、「総割り替え」制度を行った。これも、長尾久『ロシア十月革命』からの抜粋・引用(P.146〜147。152。163)である。
この間、農民運動も激化の一途をたどっていた。二月革命が農村へ波及していく過程で、三月初めから新たな状況の中での農民運動が始まった。農民運動についての統計は全く不完全だが、一応全国をカバーしている、ソ連の歴史学者イ・イ・ミンツの作った表によると、三月に一五県で一七件、四月に四四県で二〇四〜二〇五件、五月に四四県で二五九〜二六二件、六月に五二県五七七件となっている。六月に件数の多い県のベストテンを見ると次のようになる。
六月――ペンザ県四七件、カザーン県三六件、サマーラ県三〇件、サラートフ県二六件、ヴォローネシ県二五件、ミンスク県二五件、クールスク県二三件、トウーラ県二件、タムボフ県三件、リヤザーン県二〇件である。ヴオルガ中流域諸県と、中央農業地帯諸県とが、件数の多い所である。この傾向は一九一七年全体を貫いている。
大体の傾向に変りはないが、ミンツの表では件数が少な目になっているようである。ソ連の歴史学者エヌ・ア・クラフチュークが、ヨーロッパ・ロシヤの大ロシヤ人諸県だけについて作った表では、三月一八三件、四月四四五件、五月五八〇件、六月八三六件となっている。一九一七年三〜一〇月を通して見ると、農民運動の八四・四%は対地主闘争、六・三%が対フートル農・オートルプ農闘争だった。闘争形態は、クラフチュークによると次のようだった。三月――打ちこわし四六・九%、奪取二四・五%、強制一〇・二%。四月――打ちこわし一七・三%、奪取四〇・一%、強制三五・八%。五月――打ちこわし二二・一%、奪取四八・七%、強制三二・七%。六月――打ちこわし一一・五%、奪取五六・二%、強制二九・二%。
「打ちこし」は、地主所領の全部又は一部の打ちこわしだった。「奪取」は、土地・農具・家畜・種子などの奪取、森林「盗伐」などである。「強制」は、地主農場からの農業労働者、特に捕虜(あちこちの農場で働かされていた)の排除、借地料引下げの強制、土地売買の禁止などである。農民の攻撃は、官有地・官有林にも向けられた。軍隊の派兵、農民の軍隊との小ぜり合いは三月から始まっている。
農民運動は多くの場合ミール共同体を基礎として、郷・村総会−郷・村委員会を通じておこなわれた。だが郷より上級、つまり県・郡レベルでも三月から動きが始まる。(P.146〜145)
運動の発展の中で農村でもソヴェート網が拡大していった。まず、県農民ソヴェートはヨーロッパ・ロシアで次のように組織されていった。
三月――ニジェゴロト、サマーラ、ヤロスラーヴリの三県。
四月――ペンザ、サラートフ、ヴォローネシ、トゥーラ、ミンスク、モスクワ、スモーレンスクの七県。
五月――カザーン、クールスク、リヤザーン、タムボフ、モギリョーフ、ヴラヂーミル、カルーガ、コストロマー、トヴェーリ、ヴォーログダ、オローネツ、ペトログラード、ペルミの一三県。
六月――オリョール、ヴィリノ、ヴィーチェプスク、アルハンゲリスク、ヴャートカ、ウファーの六県。
六月末までで計二九県で成立したことになる。ヨーロッパ・ロシヤでの県農民ソヴェート建設は、この頃でだいたい終ったと見てよい。郡農民ソヴェートは、七月一五日現在、ロシヤ八一三郡中三七一郡で成立していた。なお農民代表機関(ソヴェート、委員会)は、郷については各村の総会で選ばれるが、郡については郷代表機関から、県については郡又は郷の代表機関から選ばれている。すでに述べた第一回全国農民代表大会は、ちょうど県農民ソヴェートが最も多くつくられた時におこなわれたのである。大会が協調主義路線で進んだことはすでに述べたが、農業問題については政府の枠にはおさまれなかった。(P.152)
首都を中心として二月革命後最大の闘争が起った七月は、一九一七年の農民運動が最高の件数を記録した月でもあった。ミンツの表によると、六月の五七七件に対して、七月は一一二二件を記録している。農民運動は全国のほとんどすべての県で起っているが、そのうち件数の多かったのは次の県である。カザーン県七五件、モギリョーフ県七四件、サラートフ県六五件、スモーレンスク県五三件、ペンザ県五一件、クールスク県四七件、フスコーフ県四四件、リャザーン県四三件、オリョール県四二件、キーエフ県四〇件。地域的には、ヴォルガ中流域が断然トップであり、中央農業地帯がこれに次いでいる。
件数第一位のカザーン県での運動の内容は、それまでの運動の継続という性格が強いが、七月から新たに、穀物国家専売に反対する闘争が始まっている。穀物専売は、政府によって三月二五日に実施が宣言されていたのだが、春蒔穀物の収穫期に入って問題が具体的になったのである。闘いは、国家と農民の問での穀物の争奪戦を意味した。七月末までに、この穀物専売反対闘争の激化によって、県コミサールは県下の四郡に軍隊を派兵するよう軍管区司令部に要請した。そのうちの一つであるヤドリン郡のアリコフスカヤ郷では、七月二五日に、専売実施のためにやってきた役人・軍人ら一〇人くらいを農民がふくろだたきにし、軍隊が送られて、二八日までに農民二九人が逮捕された。農民は郷総会を通じて決起した。同じヴォルガ中流域のペンザ県については、七月末、同県地主代表が「過激行為は今は少い。ほとんどすべてがすでに奪取されているからである」と述べている。県コミサールの七月一九日付報告書を見ても、合意によって紛争が解決される傾向が強い。ペンザ県のこれまでの動向からして、合意とは地主の譲歩による合意だろうと推定できる。実際、同県の二つの郡については、「多くの地主」の譲歩、「地主はほとんどいつでも譲歩した」ことが、はっきりと報告されている。
全国的に見た運動の内容は次のようだった。所領奪取三六件、牧草地・草刈場奪取二四四件、森林区奪取二二件、農具・家畜奪取三二件、収穫穀物奪取五九件、強制借地二九件、森林伐採・搬出禁止三六件、労働者排除八一件、その他二三三件。(P.163)
(宮地注)、ロシアの農民革命とソ連における全農民反乱との関係
(1)、ロシア政府の穀物国家専売に反対するロシア農民の闘争と、レーニンの1918年5月食糧独裁令=穀物家畜の軍事割当徴発に反対するソ連全土におけるソ連農民の反乱とは同じ性質を持つ。
(2)、10月25日、第2回ソヴィエト大会において、レーニンは「土地に関する布告」を、エスエル政策をそのまま剽窃して宣言した。それは、クーデター権力にたいする農民の支持を一時的に引き付けるため、農民革命の結果を追認したレベルの路線だった。一時的という意味は、レーニンの真意が、土地国有化であり、ミール共同体による土地共同所有・社会化を認めたのは、便宜的な手法に過ぎなかったからである。
(3)、一党独裁狙いの権力奪取クーデター成功から、食糧独裁令発令までの約6カ月間だけは、クーデター政権と80%・9000万農民との間に表面上の妥協が成立していた。レーニンは、その妥協実態を「労農同盟が成立している」と規定し、全世界に宣伝した。しかし、レーニンは戦争中なので、ロシア政府と同じ穀物国家専売を継続していた。それにたいする農民の不満はあったが、レーニンが農民革命の成果を追認したので、あまり表面化しなかった。
(4)、しかし、レーニンは、権力奪取の6カ月後、飢餓解決策・農村への革命拡大などいくつかの目的に基づいて、食糧独裁令発令とともに、農村に貧農委員会設立、食糧徴発隊派遣をした。貧農委員会が半年で失敗すると、赤軍部隊・秘密政治警察チェーカーを農村に大動員し、軍事割当徴発を展開した。それは、ロシア政府の穀物国家専売よりもはるかに過酷な穀物家畜の収奪路線だった。
これによって、クーデター政権と80%・9000万農民とは根本的な対立に突入した。なぜなら、穀物家畜の徹底収奪は、農民革命によって勝ち取った土地からの収穫物を全面剥奪し、共同の土地所有を事実上否定し去る性質を持ったからである。それは、80%・9000万農民が自力で成功させた農民革命にたいするレーニン側の反革命となったからである。レーニンの反革命にたいする農民側の抵抗・闘争がソ連全土における農民反乱となった。
レーニンが誇張し、宣伝する「社会主義革命支持レベルの労農同盟」は、最初から存在していなかったというのが、ソ連崩壊後に証明された歴史的真実である。その詳細は私の「農民ファイル」と梶川伸一の「4つのファイル」で載せた。
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
3、七月事件のデータ
ケレンスキー臨時政府は、ペトログラード守備隊の一部を前線に派遣する決定をした。ペトログラードの機関銃第一連隊がそれに反対し、武装デモをよびかけ、労働者も巻き込んだ。これは「自然発生的な兵士・労働者の武装デモとスト」だった。ボリシェヴィキは当初反対し、中止を説得したが、逆にやじり倒され、途中から支持方針に転換した。これも、長尾久『ロシア十月革命』からの抜粋・引用(P.159〜162)である。
七月、一万九千名もの大連隊である機関銃兵第一連隊(首都とその近郊に駐屯)が、六月下旬から連隊の一部を前線へ送れという政府命令に抵抗していた。
七月三日、同連隊は、元来はこの問題を討議するために連隊総会を開くことになった。ところが実際には、総会は街頭進出問題を論ずる場になってしまった。「ペトログラード・アナキスト=コムニスト連盟」のブレイフマンは、臨時政府即時打倒、人民大衆自身による権力掌握、全工場の奪取を熱烈に訴え、武装デモを呼びかけた。ただちに武装行動に出ることは、連隊兵士の気分に合っていた。総会は、同日午後五時に武装デモを開始することを決議した。行動目的は、ソヴェート中執委に圧力をかけて、権力を握らせることだった。同連隊は首都の労兵を立ちあがらせるためにオルグを派遣した。
同連隊のオルグは、ソヴェート中執委とボリシェヴィキ党の双方に反対された。協調派の握るソヴェート中執委が決起に反対したのは当然だが、ボリシェヴィキ党も、パリ・コミューンのように首都が孤立するのではないかという危惧、前線での攻勢進行中に決起すれば攻勢失敗の責任を転嫁されるという危惧から、反政府煽動を強めながらも、直接行動には反対していた。だが機関銃兵の決意は固かった。機関銃兵連隊を説得に行ったボリシェヴィキ党員ラツィスは、兵士には銃剣でおどされ、同連隊臨時革命委員長に選ばれたボリシェヴィキのセマーシコからは、「開始された運動を止めることはできぬ」ときっぱり拒絶された。逆に、機関銃兵のオルグは成功していった。首都の大衆は決起の合図を待ちのぞんでいたのだ。
七月三日午後七時頃、機関銃兵第一連隊、新レスネル工場、新パルヴィアイネン工場の労兵を先頭として、大武装デモが開始された。軍隊では、モスクワ連隊、擲弾兵連隊、バヴロフスキー連隊、工兵第六大隊、歩兵第一八〇連隊の一部、歩兵第一連隊の一部があとに続いた。労働者の方は、ルースキー・ルノー、アイヴァス、フェニックス、ペトログラート金属、旧パルヴィアイネン、バルト造船、ラジオ電信工場、ペトログラード鋼管、ジーメンス・シュッカート、製釘工場などの労働者があとに続いた。
デモ隊の一部はクシェシンスカヤ邸(ボリシェヴィキ党本部所在地)に向かい、ここでボリシェヴィキ党幹部数名から、デモを中止して帰るようにという演説を聞いた。「ひっこめ!」という怒号でデモ隊は応えた。ついにボリシェヴィキ党指導者もデモを中止させることはできないことを覚った。その場にいた同党ペトログラード市委員は、緊急に協議し、「組織的」「平和的」なデモをおこなうよう提案することを決めた。この決定が発表されると、デモ隊は嵐のような拍手とマルセイエーズで応えた。この方針転換は、党中委によってもあとで追認された。この間、タヴリーダ宮で午後七時からおこなわれていたペトログラード・ソヴェート労働者部会も、デモ支持を決議し、これに「平和的性格を与える」ための委員会を選出した。この会議が終った頃からデモ隊がここに到着し始め、やがてタヴリーダ宮前はデモ隊でうめつくされた。
だが、社会協調派のソヴェート権力反対の決意は固かった。深夜から翌早朝までおこなわれた労兵ソヴェート中執委事務局と全国農民ソヴェート執行委の合同会議は、圧倒的多数でデモ隊の要求を拒否し、デモ中止を要求した。この会議の終るまでにデモ隊はしだいに帰っていった。だが夜半頃、タヴリーダ宮でおこなわれたボリシェヴィキ党、メジライオンツィ、ペトログラード・ソヴェート労働者部会の幹部の会議は、翌日再度の武装デモを呼びかけることを決定した。
七月四日、政府およびソヴェート中央のデモ禁止令をけって、前日を上まわる大武装デモが展開された。この日は、クロンシタット一万をはじめとし、ペチェルゴーフ、リゴヴォ、オラニエンバウム、クラースノエ・セローなどの近郊都市からもデモ隊がやってきた。四日のデモ参加者は、ソ連史家ズナーメンスキーの推定では、兵士四〜六万、労働者三〇〜三五万だった。デモ隊は、一二時頃から続々とタヴリーダ宮に到着し、再びソヴェート中央に圧力をかけた。だが協調派の決意はゆるがなかった。午後五時半に始まった労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議は、二週間後に労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議を地方代表を加えておこなうこと、それまで現政府の権力を認めることを決議した。この間、政府側のカザーク部隊とデモ側の部隊との間で銃撃戦がおこなわれ、死者まで出た。銃撃はこの他何度か起った。
散発的な銃撃戦までおこなわれる中にあって、政府側武力はまことに弱少だった。政府とソヴェート中央は懸命になって部隊をかき集めたが、四日昼までに、プレオブラジェンスキー連隊、カザーク諸連隊、ヴラヂーミル士官学校から忠誠をとりつけることができただけだった。だが法相ベレヴェルゼフが使った奥の手、つまりレーニンがドイツのスパイであることを「証明」する文書を見せたことから、中立を保っていたセミョーノフスキー、イズマイロフスキー両連隊が夜になってソヴェート中央支持に転換し、タヴリーダ宮に現われた。この時から力関係が変化し始めた。しかも、あまりにも情勢が緊迫してきたため、夜に入るとボリシェヴィキ党はデモ隊に解散するよう説得し、九時頃までにデモ隊はタヴリーダ宮から姿を消した。
このデータは、次以降で分析する。
4、10月10日・16日、ボリシェヴィキ中央委員会内の3主張と決定
〔小目次〕
1、10月10日ボリシェヴィキ中央委員会前までのレーニンの言動
2、10月10日・16日中央委員会内の3主張と決定 (表4)
1、10月10日ボリシェヴィキ中央委員会前までのレーニンの言動
4月3日、レーニンは、ドイツ当局・軍部が仕立てた封印列車に乗って、スイスから帰国した。そして、フィンランド駅で、有名な「四月テーゼ」を演説した。自然発生的な二月革命の成功に基づいて、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを唱えた。それは、臨時政府の打倒・ソヴィエト政権樹立という主張だった。しかし、それは、臨時政府を条件つき支持しているメンシェヴィキ・エスエルへの挑戦だった。ボリシェヴィキ党内でも、カーメネフが反対した。スターリンも後になって、当時は反対だったことを認めた。
4月8日、レーニンのテーゼは、ペトログラード市委員会において、13対2(棄権1)で否決された。
4月24日、ボリシェヴィキ第7回ロシア協議会は、レーニンの精力的な説得と下部組織からの突き上げによって、テーゼを党の基本路線として承認した。
7月3〜4日・七月事件で、ケレンスキー臨時政府はレーニンに逮捕状を出した。トロツキー、カーメネフらは逮捕された。しかし、レーニン、ジノヴィエフは地下に潜り、フィンランドに逃亡・潜伏した。その場所で、レーニンは『国家と革命』を完成させた。
七月事件〜10月10日中央委員会出席までは、3カ月間以上ある。その間、レーニンは何をし、何を考えていたのか。
1)、8月25日〜9月1日、コルニーロフの反乱が失敗した。それは、ケレンスキーの反対と下部のボリシェヴィキ支持兵士の抵抗、ボリシェヴィキ党員の労働者赤衛隊の行動などによるものだった。しかし、その反乱は、ケレンスキーと軍部との離反を表面化させた。首都ペトログラードの兵士たちは、無意味な戦争で前線に派遣されることを嫌悪した。「平和=ドイツとの単独講和・戦争終結」を唱えるボリシェヴィキを支持する兵士が増大した。臨時政府に3人が入閣して、戦争継続政策に賛成していたメンシェヴィキ、エスエルにたいする支持は、首都で激減し始めた。
臨時政府は、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会(イスパルコム)の圧力を受けて、トロツキーら七月事件の逮捕者を釈放した。出獄したばかりのトロツキーは、ペトログラード・ソヴィエト議長に選ばれた。レーニンは、それら諸情勢の急変を敏感に察知した。彼は、この瞬間こそ、クーデターで単独権力奪取をする絶好のチャンスと判断した。
2)、9月12日〜14日、レーニンは、歴史的な2通の手紙を中央委員会に送り、武装蜂起を指令した。
七月事件後、各地を転々としたのちフィンランドのゲリシンクホルス(ヘルシンキ)に逃れていたレーニンが、蜂起を指令したのは、このような背景においてであった。第1の手紙「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」では、ペトログラートとモスクワの「労働者・兵士代表ソヴェートで多数を占めたので、ボリシェヴィキは国家権力をその手に掌握することができるし、また掌握しなければならない」という書きだしで、「ベトログラートの明け渡し」がせまっているいま、「もしわれわれが権力を掌握しないなら、歴史はわれわれを許さないだろう」と主張した。これにつづく第2の手紙「マルクス主義と蜂起」では、「蜂起を技術としてとりあつかわねばならぬこと」を主張し、蜂起計画を示した。
3)、9月15日、ボリシェヴィキ中央委員会はそれら2通の手紙を討議した。(1)、カーメネフは蜂起そのもものに反対した。(2)、スターリンも懐疑的だった。(3)、トロツキーは蜂起に賛成したが戦術的に別の方法を考えていた。(4)、中央委員の半数近くは、蜂起どころか、ケレンスキーが提案した「民主主義会議(予備会議)」に参加すべきだと主張していた。中央委員会の反応は冷たく、レーニンの主張を実行不可能な作戦とし、誰一人としてそれに賛成しなかった。
レーニンは、焦りと中央委員会への怒りから、手紙を乱発した。そして、彼を中央委員会の会議に出席させよ、そこで単独武装蜂起問題を討論しなければ、ボリシェヴィキ中央委員を辞任するとほのめかす脅迫状的手紙までも送った。
4)、9月15日〜10月7日、この約20日間、レーニンは、単独権力奪取と『蜂起の技術』を考えに考え抜いた。誰とも、どの組織とも接触がない環境に閉じ込められ、彼は、そのテーマに全思考を集中した。単独武装蜂起に関するあらゆるケースを想定し、吟味した。それには、3つの選択肢があった。彼は、3つのシミュレーション(模擬実験)をたった一人で、頭の中で繰り返した。
5)、10月8日、レーニンは、10日の中央委員会出席を前にして、2通の手紙内容をさらに具体化した『蜂起の技術』の手紙を書いた。中央委員会が、ボリシェヴィキの単独武装蜂起を了承すれば、その手紙内容が、技術指令になるものだった。
レーニン『蜂起の技術』10月8日手紙
2、10月10日・16日中央委員会内の3主張と決定
レーニンは、中央委員会のこのような空気に怒りと焦燥を感じた。七月事件後、彼は一度も中央委員会会議に出席していなかった。彼は、潜伏場所を、フィンランド→首都に近いヴィボルグ→密かにペトログラードに戻り、多数の手紙の乱発によって、蜂起の圧力をかけ続けた。そして、10月10日、変装して、中央委員会に出席した。(表4)の内容は、ほとんどの文献が一致している。これらの詳細は、別ファイルにある。
(表4) 10月10日・16日中央委員会内の3主張と決定
10月10日以前 |
10月10日 |
10月16日 |
|
中央委員会 |
7月以降、レーニン出席せず |
21人中12人参加 |
拡大委員会25人−軍事組織、工場委も参加 |
レーニン |
9月12日以降、数十通の手紙で蜂起を指令・訴え |
20日蜂起を主張。第2回大会と無関係に権力奪取を行うべき |
20日蜂起を強烈に主張→賛成なく孤立し、第2回大会前の蜂起をやむなく受け入れ |
トロツキー |
レーニンの蜂起提案を基本方針としては承認 |
20日蜂起に反対。25日第2回大会に合わせるべき |
25日第2回大会日での蜂起を主張→大会1日前の24日蜂起の線で蜂起準備の主張に変更 |
カーメネフ ジノヴィエフ |
レーニン主張に反対・無視 |
基本的に蜂起反対 |
基本的に蜂起反対 |
決定 |
レーニンによる蜂起指令の手紙を討議したが、蜂起是非の結論を出さず |
10対2で蜂起を決議。「武装闘争が不可欠となり、完全に機が熟したことを認める」決議 蜂起日は決まらず |
19対2対保留4で蜂起を決議。「武装蜂起の準備を全面的に、全力をあげて行う」決議。 「軍事革命センター」を6人で設置。蜂起の時期と方法の選択は、党中央委員会とペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会に委任する |
『1917年10月、レーニンがしたこと』ソールズベリー、ロバート・サーヴィス
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
これについて、倉持俊一『ソ連現代史』(山川出版社、1980年、絶版)の分析が詳しいので、それを引用(P.205〜207)する。重要な争点は二つに整理される。
1、世界革命の見通し
第一は、“世界革命”の見通しについてである。レーニンが蜂起を急いだのは、「九月の末に、……世界革命の歴史上、最大の転換がおこった……世界的規模の革命が目前にせまっている……われわれはプロレタリア世界革命の門口に立っている」、蜂起をさきにのばすことは、「海軍で反乱をはじめたドイツの革命的労働者を裏切ることになる……国際主義を裏切り、国際社会主義革命の大業を裏切ることである」(九月二九日執筆の「危機は熟している」)と判断したからであった。レーニンはとくにドイツでの革命に期待していた。以上の点ではトロツキーも同じ考えをもっていた。
「危機は熟している」によって明確に提起された、世界革命の切迫とそのなかでロシア革命を考えるというこの視点は、以後、レーニンの蜂起を主張する論文のなかで、なににもまして強調されるのである。そしてこれはレーニン(トロツキーについても同様であるが)の革命論の核心にかかわる問題であった。ロシアにおける社会主義の実現は、ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の成否とその支援にかかっていると考えていたこの二人の革命家にとって、蜂起の決断を下すにあたって、世界革命こそ最大の関心事であった。
中央委員会におけるカーメネフ、ジノヴィエフの反対の重要な論拠は、以上のレーニンのプロレタリア世界革命の切迫という判断があまりに楽観的すぎる−ドイツ海軍の反乱がいかに重大であっても、そこから「ロシアのプロレタリア革命に対する現実的支持」は期待できない――ということであった。彼らは、政府が公約している憲法制定会議の召集を待つことを主張した。その選挙で社会主義者が多数を占めることを予想し、情勢はボリシェヴィキに有利に展開しているのだから、世界革命に賭けるという危険をおかして、なかば勝利している革命を失うべきではないと主張したのである。この主張の当否はともかく、世界革命に関して結果論的にいえば、カーメネフ、ジノヴィエフの判断が正しかったといえるであろう。
2、政府の戦力
第二の点は“敵の戦力”の評価をめぐってである。勝利を確信して蜂起を提案したレーニンが、政府の力をそれほど強力なものと考えていなかったのは当然である。しかしレーニンは、政府側が小規模であっても決定的な打撃で、ペトログラードの党中枢部を壊滅させれば、蜂起のチャンスは永久に失われるであろうと考え、蜂起を急いだのである。そのような奇襲を行う力が、まだ政府側にあると判断していたのである。
首都の中枢部にいて双方の戦力をより正確に測定しえたトロツキーは、レーニンよりも楽観的な見解をもっていた。彼はのちにレーニンについてつぎのように書いている。「彼は戦略上の問題を決定する場合、まず第一に、敵もまた自分自身と同程度の決意と先見の明をもっていると考えるのである」、「彼は敵の知恵と決断力、そして多分その物質的な力をも過大評価していた」。
敵の知恵や決断力をレーニンほど評価していなかったトロツキーは、蜂起の時機と方法の選択を誤らなければ、比較的容易に政府を打倒できると判断していたようである。
カーメネフやジノヴィエフは、政府側の力を過大評価して恐れ、しかもボリシェヴィキの戦力と党に対する民衆の支持について悲観的でありすぎた。そして、たとえペトログラートやモスクワで蜂起が成功しても、大部分の地方の農民は、ついてこないと考えていた。そして彼らは前述のとおり、ときの経過はボリシェヴィキにとって有利であると判断していたのである。
5、10月20日→24日、第2回大会前の単独武装蜂起を指令したレーニンの真意
〔小目次〕
1、レーニンの単独武装蜂起指令と「すべての権力をソヴィエトへ」スローガンとの矛盾
1、レーニンの単独武装蜂起指令と「すべての権力をソヴィエトへ」スローガンとの矛盾
9月12日〜14日、レーニンは、武装蜂起を指令した2通の手紙を出した。それ以来、彼は、一貫して、第2回ソヴィエト大会を待たずに、それ以前に、ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取を主張し、指令し続けた。彼は、「わが中央委員会および党上層部にある、ソヴィエト大会を待つという考えは、完全な愚考か、さもなければ完全な裏切りである」という罵倒に近い言葉を使って、大会にたいする事前の蜂起を繰り返し主張していた。2通の手紙とその指令内容は、完璧に証明された事実である。
レーニンの大会前の蜂起・単独権力奪取主張には、3つの段階がある。
(1)、9月12日〜10月9日まで、ソヴィエト大会前の蜂起を主張した。蜂起日は提起していない。
→(2)、10月10日中央委員会で、10月20日の蜂起・単独権力奪取を主張した。
→(3)、10月16日中央委員会で、20日を再度強烈に主張した。誰も20日単独武装蜂起に賛成しないので、やむなく第2回ソヴィエト大会前日の蜂起・単独権力奪取という日付変更に賛成した。大会同日に蜂起することには断固として反対し続けた。
1991年ソ連崩壊前のロシア革命史は、どの文献も、これらレーニンの3段階の言動を事実として確認しながら、彼の真意・謀略意図を突っ込んで検討しなかった。ソ連崩壊後に初めて、日本を除く、大陸地続きのヨーロッパやアメリカの研究者たちがレーニンの意図を解明した。
そもそも、「すべての権力をソヴィエトへ」と主張しながら、一方で、なぜ第2回ソヴィエト大会前の単独武装蜂起・単独権力奪取を主張しなければならないのか? という疑問は、「十月革命」の最大の謎の一つだったからである。2つの主張はまったく矛盾している。というのも、後者の論理は、第2回ソヴィエト大会は、ソヴィエトではない、ということを意味するからである。
もっとも、ソ連崩壊以前、世界や日本における「レーニン神話」信奉者・左翼全体にとって、その2つは、「謎でも矛盾でもなく、当然の正しい」ことだと認識されていた。熱烈なレーニン信奉者・「十月革命」礼賛者の私もそうだった。しかし、ソ連崩壊後、レーニンが無実のロシア革命勢力数十万人を殺害した犯罪データが続々と発掘・公表された。レーニンの大量殺人犯罪と路線・政策の誤りが歴史的真実と判定されるにつれて、その「謎・矛盾」にスポットライトが照射され始めた。レーニン言動における矛盾が隠し持つ「疑惑の影」が、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)によって、白日の光による明確な形を帯びて、影からあぶり出された。
(1)、「すべての権力をソヴィエトへ」というレーニン・ボリシェヴィキが掲げ続けたスローガンは、ペトログラードの労兵ソヴィエトの支持を集めた。首都におけるボリシェヴィキへの支持率は、コルニーロフ反乱の失敗後、むしろそれを契機として、飛躍的に高まりつつあった。しかし、それは、レーニンただ一人を除いて、ケレンスキー臨時政府打倒=ソヴィエト連立政権樹立という意味として受け入れられていた。そして、憲法制定会議選挙による立憲民主政体への移行とソヴィエト連立政権との共同が「社会主義」と考えられていた。
(2)、ところが、「第2回ソヴィエト大会前の単独武装蜂起・単独権力奪取」というレーニンの強烈で、度重なる主張・指令は、連立政権樹立を根本的に否定する論理である。臨時政府を打倒するにしても、ペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーが主張したように、第2回ソヴィエト大会において、その打倒を宣言し、大会全体として武装行動を起こせば、連立政権樹立の可能性は高かった。
同一人物レーニンによる(1)スローガンと、(2)本音の主張という矛盾した論理に潜む真意を、どう解釈すればいいのか。それが、ソ連崩壊後における「十月革命」の謎解きテーマとして急浮上した。
〔第1シミュレーション〕、権力奪取再挫折の道
二月革命、七月事件のように、ペトログラード・ソヴィエトが武装デモ・ゼネスト、または、武装蜂起を呼びかける。しかし、その蜂起前に、ケレンスキー臨時政府がソヴィエト攻撃をして、権力奪取が七月事件のように挫折する。レーニンら30数人の社会主義者が、ドイツ当局・軍部が仕立てた封印列車で帰国できたのは、レーニンが「ドイツのスパイ」だったからという証拠文書が再利用され、ペトログラード守備隊の大半が、ケレンスキー支持・レーニン批判側に廻る可能性が高い。
レーニンは、10月20日の単独武装蜂起を主張した根拠として、ケレンスキー側によるソヴィエト攻撃を誇張した。「20日後では遅すぎる。革命は挫折する」と力説した。しかし、それは、レーニンの本音の情勢判断だったのか、それとも、彼が単独武装蜂起に煮え切らない中央委員会にたいする意図的な戦術だったのかは分からない。ソ連崩壊後に公表されたレーニンの人間性に関する研究では、孤立していたレーニンは、自己の主張を押し通すために、中央委員会にたいしても、自分の一党独裁狙いの単独権力奪取という真意を隠し、武装蜂起に賛成させたとする分析もある。
〔第2シミュレーション〕、ソヴィエト連立政府、ボリシェヴィキ第2党の道
トロツキーが主張するように、10月25日第2回ソヴィエト大会を待って、そこで、ケレンスキー臨時政府打倒=「すべての権力をソヴィエトへ」を宣言する。第2回大会の承認の下に、ペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会が、トロツキー議長の指導で権力奪取の武装行動を起す。そうすれば、ソヴィエトによる権力奪取は必ず成功するであろう。
そのソヴィエト政権は、ボリシェヴィキ・メンシェヴィキ・エスエル・アナキストらによる連立政府にならざるをえない。10月時点、ペトログラード内では、たしかに、ボリシェヴィキは第1位を占めている。しかし、レーニン・ボリシェヴィキも賛成してきた憲法制定議会選挙が11月から始まる。この普通選挙をすれば、80%・9000万農民がいるロシア全土における影響力から見て、第1位はエスエルとなり、ボリシェヴィキが第2位になる。1918年1月からの憲法制定議会で、ボリシェヴィキが第1党になることは絶対にありえない。
ボリシェヴィキは、第2党の地位に満足したり、または、我慢すべきなのか。当時のロシアには、社会主義を名乗る政党・党派が10以上あった。その中で、ボリシェヴィキのみが、真のマルクス主義政党であり、革命政党である。なぜなら、(1)メンシェヴィキは、社会主義とか、マルクス主義を掲げているが、その実態は社会民主主義政党であり、真の社会主義建設をともになしうる政党ではない。(2)エスエルにいたっては、農村のミール共同体を基礎として、ロシア型社会主義を実現しようとする政党であり、マルクス主義政党ではない。(3)アナキストや労働組合主義のサンディカリストなどは、マルクス主義と無縁の存在で、社会主義政権に入れる余地はない。
レーニン型前衛党のみが、単独権力奪取により、社会主義政策を実現できる。なぜなら、レーニンが創設した前衛党ボリシェヴィキのみが、真のマルクス主義政党として、真理の認識者・体現者・遂行者だからである。他党派は、いくら社会主義を標榜しようとも、レーニン型前衛党と異なって、真理を認識したり、体現することはできない。ボリシェヴィキが単独権力奪取クーデターに成功すれば、いずれすべての他党派は「人民の敵」として排除・抹殺すべき対象となる。よって、連立政府を生み出すような権力奪取手法を断固拒否しなければならない。
〔第3シミュレーション〕、ソヴィエト勢力内における一党独裁狙いの単独武装蜂起クーデター。それによるボリシェヴィキ単独政権樹立の道
臨時政府は、1917年3月2日、二月革命によって成立した。それには、4回の組閣がある。どういう性格のクーデターかどうかという規定をする上で、その政党構成を見ておく必要がある。トロツキー『ロシア革命史(一)』(岩波書店、2000年)の巻末に、訳者藤井一行作成の閣僚リスト・データ(P.29)がある。それに基づいて、私(宮地)が(表)にした。ケレンスキーは3月以降エスエル党員だったので、(エスエル)として計算した。ケレンスキーは、ボリシェヴィキにも入閣を要請した。しかし、レーニンは、ボリシェヴィキの単独政権狙いを秘めていたので、入閣を拒絶し続けた。
(表5) 臨時政府4回の組閣における政党構成
期間 |
首相 |
カデット |
エスエル |
メンシェヴィキ |
ソヴィエト勢力計 |
|
単独政府 |
3・2〜5・2 |
リヴォーフ公爵 |
5 |
(1) |
0 |
0 |
第1次連立政府 |
5・5〜7・2 |
後、ケレンスキー |
3 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第2次連立政府 |
7・24〜8・26 |
ケレンスキー |
4 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第3次連立政府 |
9・25〜10・25 |
ケレンスキー |
2 |
(1)+1 |
2 |
3 |
ボリシェヴィキ部隊数千人によるクーデターといっても、それは2つの性格を持つ。第一、そのクーデターは、ソヴィエト内の社会主義勢力2政党・3閣僚を含む臨時政府を、ボリシェヴィキ支持水兵・兵士とボリシェヴィキ党員の労働者赤衛隊だけによって打倒し、単独権力奪取をする作戦である。第二、そのクーデターは、ソヴィエト勢力・各他党派にたいし、抜け駆け的にボリシェヴィキのみが単独権力奪取をする作戦である。
これら二重の性格を持つクーデター作戦を完遂するのには、蜂起の日付・手段について秘密を守り、臨時政府にも、ソヴィエト内他党派にもそれを知られてはならない。クーデターの実行に当たっては、『蜂起の技術』が決定的となる。
単独武装蜂起クーデターは、10月25日の第2回ソヴィエト大会前に決行する。同日の蜂起では、連立政府という愚策にはまり込む。第2回大会の性格は、ボリシェヴィキ部隊数千人による単独権力奪取成功という既成事実の事後報告大会にしなければならない。そうすれば、メンシェヴィキ、エスエルは、ボリシェヴィキのクーデターに怒って大会を退場するであろう。むしろ、トロツキーが意図的に挑発して、彼らを退場させるような演出・演説をしなければならない。反対他党派を怒らせ、退場させ、ボリシェヴィキ支持代議員のみの集会に変質させた第2回ソヴィエト大会で、レーニンがボリシェヴィキ単独政権樹立を宣言する。
6、10月10日〜25日、レーニン・ボリシェヴィキによる6つのクーデター作戦
〔小目次〕
〔作戦1〕、他党派を出し抜いて、大会前日の単独武装蜂起・単独権力奪取計画
〔作戦2〕、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエト構成すりかえ計画
〔作戦3〕、「革命防衛委員会」設立とトロツキーによるその目的・名称・構成の改変経過
〔作戦4〕、ペトログラード守備隊のボリシェヴィキ支持化・中立化工作
〔作戦5〕、10月24・25日、ボリシェヴィキ支持兵士と赤衛隊の動員計画 (表6)
〔作戦6〕、事後報告の大会で、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画
〔作戦1〕、他党派を出し抜いて、大会前日の単独武装蜂起・単独権力奪取計画
10月10日、ボリシェヴィキ中央委員会は、単独武装蜂起を決定した。レーニンは20日蜂起を主張した。しかし、彼以外の誰も20日に賛成しなかったので、蜂起日は決まらなかった。
16日、中央委員会は、大会前日の24日に単独武装蜂起をすると決定した。レーニンが再度、「20日後では遅すぎる」と強烈に主張した20日蜂起に誰も賛成しなかったからである。次の課題は、レーニンが強調した『蜂起の技術』となった。技術的方針が決められた。細部は公表されていない。しかし、単独武装蜂起の実態から以下の方針だったと推定できる。
(1)、七月事件の失敗を繰り返さないために、デモ・ストライキを呼びかけず、それを組織もしない。
(2)、単独武装蜂起部隊は、ボリシェヴィキ支持のクロンシュタット水兵の一部・ペトログラード守備隊兵士の一部、ボリシェヴィキ党員からなる労働者赤衛隊だけとする。当然、他党派には、その秘密計画を知らせない。
(3)、それら数千人のボリシェヴィキ部隊で、冬宮占拠、戦略拠点占拠を行う。
レーニン『蜂起の技術』10月8日手紙
(4)、カーメネフ・ジノヴィエフが、10日・16日とも、単独武装蜂起に反対した。そして、それを阻止する意図から、その計画の存在を党内外に漏らしてしまった。レーニンは激怒して、2人に「反革命だ、除名だ!」と叫んだ。よって、ボリシェヴィキのクーデター計画は「公然の秘密」となった。しかし、それはマイナス・プラス両面の情勢を産み出した。マイナス面は、クーデター計画を知ったケレンスキー臨時政府が、ボリシェヴィキ攻撃を先に開始する危険が高まった。一方、クーデター遂行の最高責任・具体的指揮者となったペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーは、それをプラス面に転化できると考えた。ケレンスキーが少しでも攻撃行動を起せば、「後手の先手」として、単独武装蜂起に防衛的性格を持たせ、クーデターを合法化できる。「先に攻撃されたから、防衛的蜂起をしただけ」という言い訳が成り立つからである。よって、トロツキーは、ケレンスキーがボリシェヴィキ攻撃に動き出す瞬間を、今か今かと待ち構えた。
中央委員会の討論経過については、R・ダニエルズが詳細な分析をしている。
R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』蜂起、連立か独裁か
〔作戦2〕、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエト構成すりかえ計画
この事実は、ソ連崩壊後、リチャード・パイプスが初めて発掘し、『ロシア革命史』(成文社、P.149、原著1995年、)に公表したデータである。そのまま引用する。また、長尾久『ロシア十月革命』からも抜粋する。下記「イスパルコム」とは、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会である。それは、ボリシェヴィキ・メンシェヴィキ・エスエルが構成していた。執行委員会が、第2回ソヴィエト大会を召集する権限を持っていた。
「北部地方委員会」は、ボリシェヴィキ支持ソヴィエトの比率がきわめて高かった。ボリシェヴィキは、第2回ソヴィエト大会の代議員選出ソヴィエトを、ボリシェヴィキ支持比率の高い「北部地方委員会」にすり替えるようイスパルコムに強制した。その目的は、クーデター事後報告大会となるはずの第2回ソヴィエト大会が、(1)クーデター賛成大会になるよう、かつ、(2)メンシェヴィキ・エスエルのクーデター批判・抗議を蔑視・排斥するように仕組んだ陰謀だった。これも、レーニンの『蜂起の技術』シミュレーションの一環によるものだった。レーニンは、クーデター計画者=蜂起の技術計画者としては、たしかに天才と言えよう。
1、リチャード・パイプス『ロシア革命史』(成文社、原著1995年、P.149〜150より抜粋)
レーニンは直ちに行動することを望んでいたが、彼の同僚の大多数に譲歩せざるを得なかった。彼らは、むしろクーデターがソヴェトの名のもとに遂行されることを主張していたのである。ソヴェトの全国大会が誠実に選出されれば、ボリシェヴィキが少数派となるのは、ほぼ確実であったので、トロツキーと彼の副官たちは、おもに彼らが多数を確保したソヴェトからなる大会を召集することに向かった。
イスパルコムが、それのみがソヴェト大会を召集する権限を有すると抗議したのを無視して、彼らは、十一人のボリシェヴィキと六人の左派エスエル(エスエル党の分派で、一時、彼らと提携した)から成るもっともらしい「北部地方委員会」を設置した。この委員会が、イスパルコムの権威を横奪して、ソヴェトと軍委員会に対し、来る大会に代表を送るように要請した。ボリシェヴィキが明らかに多数を制するソヴェトや軍の部隊は、二倍、三倍に代表を出すことになった。ある地方のソヴェトには五人の代議員が割り当てられたが、それは、ボリシェヴィキがたまたま弱体であったキエフ市に割り当てられたものより多かった。
これは、正統なソヴェト組織に対する紛れもないクーデターであり、イスパルコムは、そのことをきわめて厳しい言葉で次のように非難した。「他のどの委員会も、大会召集のイニシアチヴを自らに引き受ける機能も権限も有していない。北部地方委員会は、地方ソヴェトのために定められたあらゆる規制をこもごも侵犯し、専横にでたらめに選ばれたソヴェトを代表しているのであるから、なおさら、この権限が北部地方委員会に属することは、ありえない」。
イスパルコムの社会主義者たちは、ボリシェヴィキのとる手順に強く反対したが、しかし、結局、彼らに屈服した。九月二十六日に、イスパルコムは、ボリシェヴィキの認可のもとで選出される第二回大会を十月二十日に召集することに、その議事日程は、国内情勢と憲法制定会議の準備、新しいイスパルコムの選出に限られるとの条件をつけて、同意した。後に、イスパルコムは大会の日付を十月二十五日に延期したが、地方の代議員が首都に到着する時間を与えるためであった。
それは、驚くべき、かつ、後で判ったことだが、致命的な降伏であった。ボリシェヴィキが何を意図しているかに気付きながら、イスパルコムは、彼らが望むものを彼らに与えてしまったのである。彼らの信奉者と味方を詰め込んだ選り抜きの組織に、クーデターの合法化を許したのである。
ボリシェヴィキを支持するソヴェトの集まりが第二回ソヴェト大会を装い、ボリシェヴィキのクーデターを裁可することになっていたが、そのクーデターは、レーニンの主張によれば、大会が行われる前に彼の軍事組織の突撃隊によって遂行されるはずであった。それらの部隊の任務は、首都の戦略的要衝を制圧し、政府は打倒されたと宣言することであった。この目的のためにボリシェヴィキが利用しようとした道具が、軍事革命委員会であり、それは、予期されるドイツの攻撃から市を防衛するため、十月初めのパニックのなかで、ペトログラード・ソヴェトにより設置されたものであった。
2、長尾久『ロシア十月革命』(亜紀書房、1972年、P.217より抜粋)
一〇月一一〜一三日、北部地方労兵ソヴェート大会がおこなわれた。ペトログラート、クロンシタット、ヴイボルク、ゲリシンクフォルス、レーヴェリ、ナルヴァ、ノーヴゴロト、ユリエフ、ヴォリマル、アルハンゲリスク、モスクワなどのソヴェートから代表が集った。ペトログラート労働者約四〇万(そのうち赤衛隊員約一万)、ペトログラート守備軍十数万、バルト海艦隊約六万、第四二軍団約五万を含む巨大な力が、この大会に代表された。大会代議員の党派別構成は、ボリシェヴィキ五一、左翼エスエル二四、メンシェヴィキ国際派一、エスエル一〇、メンシェヴィキ祖国防衛派四だった。大会議長はクルイレンコ、主要報告者は、トロツキー、ラシェーヴィチ、アントーノフ=オフセーエンコであり、大会は全面的にボリシェヴィキ指導下にあった。大会は、「革命の軍事的防衛を組織するために軍事革命委員会を設置すること」を各ソヴェートに提案した。
〔作戦3〕、ペトログラード・ソヴィエト「革命防衛委員会」設立とトロツキーによるその目的・名称・構成の改変経過
これも長尾久『ロシア革命』を引用(P.221〜223)する。
(1)、ペトログラード軍事革命委員会の設置を最初に提案したのは、皮肉なことにメンシェヴィキだった。
一〇月九日のペトログラード・ソヴェート執行委において、メンシェヴィキは、首都防衛計画作成のために「革命防衛委員会」を設置することを提案したのである。この提案は一三対一二で可決された。この提案には、守備軍の前線への移動を準備することも含まれていた。
(2)、同じ日のペトログラード・ソヴエート総会で、委員会の任務に1)、反革命防止を加えることと、2)、守備軍の移動に反対することとが決議された。この修正と逆転は、ボリシェヴィキの提案によってなされた。こうして、当初、祖国防衛主義の見地から設置されようとした「革命防衛委」は、内外の反革命に対して革命のペトログラードを防衛するための機関に転化することになった。
(3)、一〇月一六日のソヴェート総会でその設置が最終決定された。エスエル、メンシェヴィキ、メンシェヴィキ国際派はこの時反対した。最終決定ではまず、名前が「軍事革命委員会」と改められた。また当初のメンシェヴィキ案では、ソヴェート執行委、兵士部会幹部会、守備軍代表から構成されることになっていたのが、全国艦隊中央委、フィンランド地方ソヴェート委、鉄道労組、郵便電信労組、工場委、労働組合、ソヴェート参加諸党軍事組織、「人民軍社会主義者同盟」、労兵ソヴェート中執委軍事部、労働者民警の各代表を加えることとされ、その構成は大幅に拡大された。なおペトログラード・ソヴェートの代表としては、執行委ではなくて幹部会が構成メンバーとされた。
(4)、軍事革命委は、あくまで内外の反革命からの首都防衛をたてまえとしていた。しかし一六日のソヴェート総会で、トロツキーは、軍事革命委についての討論の際、「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説した。こうして、軍事革命委が「権力奪取のための司令部」であることは、革命派によって公然と認められたのである。
軍事革命委員会については、フランス人女性学者で、ソ連史研究の第一人者H・カレール=ダンコースが、ソ連崩壊後の資料に基づき、著書(原著1998年)を出版した。彼女は「軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター」と規定した。別ファイルにその内容を載せた
H・カレール=ダンコース『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』
〔作戦4〕、ペトログラード守備隊のボリシェヴィキ支持化・中立化工作
これも長尾久『ロシア十月革命』を引用(P.230〜231)する。
(1)、二三日、ペテロパウロ要塞が、軍事革命委コミサール・ブラゴンラーヴォフの就任を拒否した。都心を制する位置にある要塞は、武器庫をも持っており、その動向は重要だった。軍事革命委は慎重に対策を検討した結果、トロツキーとラシェーヴィチを要塞に送って説得することを決定した。
二三日昼、二人は要塞内集会で演説し、守備隊の支持を獲得した。一発も射たずして要塞は革命側に獲得されたのである。
(2)、この頃までに、騎兵第九連隊もペトログラート・ソヴェート支持に変った。
(3)、また軍事革命委は、印刷工組合と協力して、反革命的内容のものは印刷されないよう措置をとった。
(4)、二三日夕刻、ペトログラート・ソヴェート総会で軍事革命委の活動について報告したアントーノフ=オフセーエンコは、報告を次のように結んだ。「われわれは、革命的秩序を樹立しつつ、そしてソヴェート権力が反革命を武装解除し、その反抗を押しつぶし、革命勢力の勝利をもたらす瞬間に近づきつつ、前進している」。総会は、「嵐のような、長く続く拍手」でこれに応えた。
〔作戦5〕、10月24・25日、ボリシェヴィキ支持兵士と赤衛隊の動員計画
1、臨時政府のソヴィエト攻撃意図と行動の実態
臨時政府とソヴィエトとの「二重権力」状態とその対立が一段と先鋭化した。七月事件においては、政府側が、自然発生的な兵士・労働者による武装デモの鎮圧に成功した。政府は、それをボリシェヴィキによるクーデターと断定し、全国で兵士数千人を逮捕するとともに、ボリシェヴィキ幹部を逮捕した。カーメネフ、トロツキー、ルナチャルスキーらが逮捕された。レーニン、ジノヴィエフは、フィンランドに逃亡し、潜伏した。ケレンスキーが、動揺しつつも、ソヴィエト攻撃意図を持ち続けたことは事実である。
2、軍部の姿勢と思惑
8月25日、コルニーロフ将軍の反乱が発生した。9月1日、それは、ケレンスキーの反対と、ボリシェヴィキ支持兵士の抵抗などで失敗した。この影響について、リチャード・パイプスは次のように分析している。
(1)、架空のコルニーロフの侵入を阻止するために、ケレンスキーはボリシェヴィキに支援を訴えたのである。その当時、労働者に配られた四万挺の銃のうち、かなりの部分はボリシェヴィキの赤衛隊に渡った。
(2)、それに劣らず重大なコルニーロフ事件の結果は、ケレンスキーと軍部との決裂であった。いつものように政府に忠誠を保ちつつも、ケレンスキーのアピールに困惑した将校団は、コルニーロフの下に結集することはなかったとはいえ、首相を軽蔑した。彼らのあいだで人気のある指揮官への首相の対応や、その彼と共謀したと多くの傑出した将軍を告発し逮捕したこと、そして、左翼に首相が迎合したことが理由であった。十月末に、ケレンスキーが、彼の政府をボリシェヴィキから救うよう支援を軍部へ訴えたとき、彼に応えるものは誰もいなかった。
3、ケレンスキーのソヴィエト攻撃行動の開始実態
長尾久『ロシア十月革命』(P.231)を引用する。
(1)、十月二三日、陸相ヴェルホフスキーが「賜暇」をとるという形で、事実上辞任した。辞任理由は、彼が、即時講和締結が必要だということを二〇日の予備議会小委員会で独断的に述べたことだった。一方で軍事革命委が首都をしだいに掌握しつつある時、臨時政府は内部から瓦解し始めたのである。そして政府を瓦解させ始めたのは、またしても平和の問題だった。
だが臨時政府は、最後のあがきを始めた。
(2)、二三日夜、すべての士官学校を戦闘態勢に入れ、アヴローラ号に出航を命令し、軍事革命委活動の捜査を命令し、七月闘争関係保釈者で革命派指導者である人物(トロツキー、アントーノフ=オフセーエンコ、ドゥイベンコら)の再逮捕を命令した。
(3)、二四日、軍管区総司令部は、ペトログラード・ソヴェートのコミサールを廃止し、これらコミッサール全員を軍事裁判にかけること、軍管区総司令部命令なしに兵営から出ることを禁止することを命令した。
(4)、二四日朝五時半、ユンケルが『ラボーチー・プーチ(労働者の道)』と『ソルダート(兵士)』(どちらもボリシェヴィキ党機関紙)の印刷所に来て、ここを封印し、占領した。
(5)、二四日昼、政府側が、ネヴァ河にかかる橋を制圧し、これを揚げて、労働者地区と都心との交通を遮断しようとした。
4、トロツキーによる「後手の先手」手法=単独武装蜂起クーデター開始
これは、倉持俊一『ソ連現代史1』(山川出版社、P.213〜214)から引用する。この経過は、ロシア革命史の全文献が一致している。
トロツキーは、ケレンスキーが攻撃をしかけてくるのを待っていた。
二四日午前五時半、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じ、蜂起を煽動したという理由でボリシェヴィキの機関紙印刷所を襲撃させた。ただちに反撃が指令された。蜂起した赤衛隊や兵士は強力な抵抗をうけることなしに、市内の重要な拠点を占領していった。
二五日の朝までに、蜂起部隊は、計画どおり駅・橋・発電所・兵器庫・電信局・国立銀行などを占領していた。中心の官庁街をのぞく首都全域が軍事革命委員会の支配下にはいったのである。革命後亡命し、アメリカで著作活動をしていたケレンスキーは、一九六五年に発表した回想録のなかで淡々と書いている。「二四日から二五日にかけての夜は緊張した期待のうちにすぎた。われわれは前線からの軍隊の到着を待っていた。……それは二五日朝にはペトログラートに着くはずであった。しかし軍隊の代わりに、われわれがうけとったのは、鉄道がサボタージュしているという電報と電話のことづけだけだった」。
二五日午前一〇時、軍事革命委員会は、声明文「ロシア市民へ」を発表し、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラート=ソヴェトの機関である……軍事革命委員会に移った」と宣言した。そして夕方から官庁街への攻撃をはじめ、冬宮をのぞいて、すべての建物を占領した。
冬宮は、六時半ごろまでに完全に包囲された。宮殿内の一室(現在エルミタージュ博物館の一室として公開されている)では閣議が開かれていたが、守兵わずか二七〇〇人程度で(しかもそのなかからつぎつぎに脱落者がでて、最後には一〇〇〇人位になった)、到底、反撃の力はなかった。ケレンスキーは、すでにこの日の昼ごろ援軍を求めるため首都から脱出していた。予定されていた第二回ソヴェト大会の開会の時間もせまった。九時四〇分、アヴローラが冬宮にむけて警告射撃を行ない、一一時に、ペテロパウロ要塞から砲撃がなされ、包囲軍が少しずつ宮殿内にはいりはじめた。宮殿内で小競合いがつづいたが、二六日午前二時すぎ革命軍は冬宮を完全に制圧し、政府の閣僚を逮捕した。
(表6)、10月24・25日ボリシェヴィキ武装蜂起部隊の実数
軍事革命委員会 |
水兵 |
守備隊兵士 |
労働者赤衛隊 |
出典 |
|
マーティン・メイリア |
直接指令 |
少数の水兵 |
/ |
一握りの労働者赤衛隊 |
『ロシア革命史』P.169 |
ニコラ・ヴェルト |
直接指令 |
数千人のクロンシュタット水兵 |
数百人の守備隊兵士 |
赤衛隊 |
『共産主義黒書』P.60 |
ソールズベリー |
直接指令 |
クロンシュタット水兵2500人 |
兵士約2500人 |
赤衛隊約2500人 |
『黒い夜白い雪』P.229 |
(1)、二月革命は、デモ・ストなど武装した兵士や労働者数十万人が決起し、2月23〜27日の5日間で、ツァーリ帝政を倒した。これは、ペトログラードの労働者・兵士やクロンシュタット水兵らによる労兵ソヴィエト革命だった。ボリシェヴィキは、自然発生的な二月革命にほとんど関与していない。
(2)、三月以降の農民革命は、人口の80%・9000万農民がロシア全土で蜂起し、地主・貴族の土地を奪い、1917年3月から1年数カ月間以上を、どの政党の力も借りず、自力で革命を成し遂げ、土地を各ミール共同体で、所有・配分した。ボリシェヴィキも、農民革命にまったく関与していない。4月に帰国したばかりのレーニンは、5月の農民大会に出席し、農民の運動を支持する演説をしただけだった。
(3)、七月事件は、デモ・ストなど武装したペトログラード機関銃連隊と労働者数十万人が参加し、7月3〜4日と行動した。しかし、政府側の反撃・弾圧で挫折した。ボリシェヴィキは、この自然発生的な数十万人の武装デモ・ストに最初反対した。しかし、兵士・労働者からヤジられ、批判されて、途中から支持に転換した。
(4)、十月ボリシェヴィキ単独武装蜂起は、作戦としてデモ・ストなど一切組織せず、ボリシェヴィキ武装蜂起部隊数千人だけで、戦略拠点占拠・冬宮占拠=臨時政府閣僚逮捕を遂行した。「赤衛隊」とは、ボリシェヴィキ党員からなる労働者武装部隊である。
ソールズベリーは、『黒い夜白い雪』において、この実態を「とても全人民蜂起といえるものではない」と断定した。
ニコラ・ヴェルトは、『ロシア革命』(創元社、原著1997年、P.124)において、ソ連崩壊後に発掘されたアルヒーフ(公文書)に基づき、冬宮襲撃経過を次のように規定した。
「ついに援軍が来なかったことに落胆して,宮殿を守っていたコサック兵や士官候補生が,次々に持ち場を離れはじめた。真夜中になってもまだ任務を放棄していなかったのは,女性大隊とわずかばかりの士官だけだった。そして最初に到着したパヴロフスキー連隊の水兵と兵士たちが,宮殿のドアや窓をこじ開けていったのである。
エイゼンシュテイン監督の映画『十月』の勇壮な映像に反して,冬宮は襲撃によって占領されたのではない。抵抗をやめた冬宮に,ただいくつかの分遣隊が侵入しただけだったのである。そして1917年10月26日午前2時10分、ついに臨時政府の大臣たちが逮捕され,きびしい監視のもとでベトロバブロフスタ要塞へ連行された。
その3時間前,第2回全ロシア・ソヴイエト大会がようやく開かれた。この大会は,全国のソヴィヱトを代表するものとはいえなかった。事実,労働者が住む大都市のソヴィエトや兵士委員会の代表者は大勢いたのに,農村のソヴィエトの代表者はあまりにも少なかったのである。
メンシェヴイキとエス・エル党は,「ソヴィヱトに隠れて軍事的陰謀を企てた」とボリシェヴィキを非難して,退場した。この時点でエス・エル党の左派を味方につけていたボリシェヴィキは,数の上で圧倒的な優位を誇っており,自分たちが行なった武装蜂起を大会で承認させた。」
〔作戦6〕、事後報告の大会で、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画
10月25日(新暦11月7日)、この大会の状況・雰囲気については、無数の記録がある。ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1957年)が、詳細で、よく知られている。私(宮地)もそれに興奮して、何回も読んだ。トロツキーによるメンシェヴィキのマールトフ批判演説とマールトフ退場で、溜飲を下げたものだった。そこで、最初に、トロツキー自身の記述を見る。
ところが、1991年ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)発掘・公表により、この第2回ソヴィエト大会の評価が、レーニン・トロツキーによる〔作戦6〕として全面的に逆転した。それこそ、彼らによる『蜂起の技術』における一党独裁狙いクーデターの仕上げ計画だった。
レーニン・トロツキーは、第2回ソヴィエト大会を、ボリシェヴィキ単独武装蜂起部隊による単独権力奪取という既成事実の事後報告大会にする作戦を周到に準備した。それだけでなく、レーニンは、メンシェヴィキ・エスエルを怒らせて退場に追い込む計画=ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立宣言の計画を綿密に立てた。トロツキーが、彼らを怒らせる挑発的言動の任務を受け持った。
第2回ソヴィエト大会の代議員構成は、〔作戦2〕で分析したように、レーニン・トロツキーらの策略によって、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会の強烈な反対を押し切って、かなりの代議員が、圧倒的なボリシェヴィキ支持である「北部地方委員会」ソヴィエトの代議員にすり替えられていた。それでも、代議員649人中、エスエル160人、メンシェヴィキ72人がいた。レーニンの思惑通りに、エスエル、メンシェヴィキが退場した。大会に残ったのは、ボリシェヴィキ代議員390人と、ボリシェヴィキ支持の左翼エスエル代議員だけになった。
第2回ソヴィエト大会代議員の党派別人数は、著書によって異なる。大会アンケート委員会データによれば、13の党派が参加している。下記は、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年)が出典である。
1、トロツキー『ロシア革命史1〜5』(岩波文庫、2001年、藤井一行訳、5巻P.244〜255、抜粋)
マールトフが読み上げた宣言は徹底してボリシェヴィキを敵視する、結論に意味がないもので、革命を「ボリシェヴィキ党のみによって純粋に軍事的な陰謀の手段で遂行された」ものと非難し、「あらゆる社会主義政党」との合意に達するまで大会の議事を中止するよう要求する。革命で合力(ごうりょく)を追求することは、自分自身の影をつかむことよりまずい!
しかし、マールトフに反撃を加える必要がある。その任務はトロツキーに課せられる。トロツキーは語る。「起こったこと、それは蜂起であって、陰謀ではない。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。われわれはペテルブルグの労働者と兵士の革命的エネルギーを鍛えた。われわれは大衆の意志を、陰謀ではなく、蜂起に向けて公然と鍛えてきた‥…われわれの蜂起は勝利した。ところがいまになって、自分たちの勝利を放棄せよ、協定を結べとわれわれに提案する。だれと? 私は訊く――われわれはだれと協定を結ばなければならないのか? ここから出ていった一握りのみじめな集団とか?……しかし、われわれはかれらを充分に見てきたではないか。
もはやロシアにはかれらの味方はだれもいない。この大会に代表を送った何百万という労働者と農民、かれらがブルジョアジーの恩恵といつでもひきかえにする用意があったその労働者と農民が、かれらと、対等の立場で協定を結ばなければならないとは。いや、そこでは合意は無駄である! ここから引きあげた連中にも、そのような提案をした連中にもわれわれはこう言わなければならない――諸君はみじめな一握りの連中だ、諸君は破産者だ、諸君の役割は終わった、諸君は、今後とどまるべき場所へ行け――歴史の屑かごへ!‥‥‥
2、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂出版、原著1997年、P.59〜60より抜粋)
フィンランドに亡命中のレーニンはボリシェヴィキ党の中央委員会にあてて蜂起を促す論文や手紙をたえず書き送った。「即時平和を提唱し、農民に土地を与えることによってボリシェヴィキは誰もひっくり返すことのできない権力をうち建てることができよう。ボリシェヴィキに都合のよい形式的な多数を待っても無駄である。いかなる革命もそんなものを待っていない。もし我々がいま権力を獲得しなかったら、歴史は我々を許さないだろう。」
ボリシェヴィキの指導者のほとんどは、このアピールに懐疑的だった。情況は日毎ますます過激化しているのに、どうしてせきたてる必要があろうか? 大衆に密着してその自発的な暴力を奨励しつつ、もろもろの社会運動の解体的な力を思うままに働かせ、十月二十五日に予定されている第二回全ロシア・ソビエト大会を待っていれば十分ではないか? この大会では労働者の大規模なセンターや兵士委員会の代表が、社会革命党が牛耳っている農村のソビエトの代表より多くの代表権を持っているのだから、ボリシェヴィキが大会で相対的な多数を獲得するチャンスは十分ある。
しかしレーニンにとって、もしソビエト大会の投票のあとで権力の委譲が行われるなら、そこから生まれる政府は連立政権になり、ボリシェヴィキは他の社会主義政党と権力を分かち合わなければならないだろうと思われた。数カ月来、全権力がボリシェヴィキだけのものになることを要求してきたレーニンは、第二回全ロシア・ソビエト大会の開会の前に、武装蜂起によってボリシェヴィキ自身が何としてでも権力を掌握することを欲した。彼は他の社会主義諸政党が蜂起によるクーデターを非難するだろうということ、そうなったら全権力をボリシェヴィキが握って、反対党にまわるしかないことを知っていた。
レーニンが予期したように、大十月社会主義革命の直接参加者の数は限られたものだった。数千の守備隊兵士、クロンシュタットの水兵、軍事革命委員会に集結した赤衛隊、それに数百の工場委員会の戦闘的なボリシェヴィキである。思いがけぬ事故がほとんどなかったこと、犠牲者の数が取るに足らなかったことは、慎重に準備され抵抗なしに遂行された、この予期されていたクーデターの容易さを証明している。意味深長にも権力の掌握は軍事革命委員会の名において行なわれた。かくてボリシェヴィキの指導者は、全権力がボリシェヴィキの中央委員会以外の誰にも代表されず、したがってソビエト大会にはまったく依拠しないようにしたのだった。
レーニンの戦略が正しかったことが判明した。穏健派の社会主義者は「ソビエトの背後で組織された軍事的陰謀」を告発したあと、既成事実を前にして第二回ソビエト大会から去った。自分たちの支持者だけで多数派になった左派社会民主主義者の小グループであるボリシェヴィキは、まだ残っていた大会の代表によって「すべての権力をソビエトへ」帰属させるレーニンの作成した文章を採択させ、その実力行使を正式に承認させた。この純形式的な決定は、ボリシェヴィキをして彼らが「ソビエトの国」において人民の名において統治するというフィクションを、それ以後騙されやすい人々を何世代にもわたって欺瞞することを許容した。大会は解散の数時間前に、レーニンを首班とする人民委員会議という新たなボリシェヴィキ政府を承認し、新政権の最初の文書である平和と土地についての布告を承認した。
3、ロート・サーヴィス『レーニン・下』(岩波書店、原著2000年、P.80〜92より抜粋)
中央委員会は、トロツキーとその他の委員の提案で、来るべき蜂起を一つの政党の権力奪取とはあまり見えないようにしようとした。彼らはそのために、権力の移譲は一〇月末にペトログラードで開かれる全ロシア・ソヴィエト大会まで遅らせるべきだという結論に達しようとしていた。彼らから見れば、レーニンの考えは完全に実行不可能であった。
ケレンスキーがボルシェヴィキ党の新聞社を閉鎖し、ネヴァ河にかかる橋を揚げると、トロツキーは政府の妨害行為にたいしてソヴィエトを防衛していると主張できるようになった。軍事革命委員会は、一〇月二五日に開かれる第二回ソヴィエト大会が臨時政府の転覆を既成事実として宣言できるようにしようと懸命であった。(P.80)
午後二時三五分に学院の大ホールで、ペトログラード・ソヴィエトの緊急集会が開かれた。トロツキーは、他ならぬレーニンの演説があると声明した。拍手は数分間続いた。拍手が静まると、レーニンは意気高らかに演説した。
同志諸君! ボルシェヴィキは労働者と農民の革命が必要であるとここしばらく話してきたが、その革命が実現された。労働者と農民の革命の意義は何か。とりわけこのクーデタ〔perevorot〕の意義は、われわれはわれわれ自身の権力の機関としてソヴィエト政府を有しており、ブルジョワジーはまったく参加していないという事実にある。抑圧されてきた大衆が自らの権力を作り出すであろう。古い国家機構は根元から破壊され、新しい行政機構がソヴィエト組織という形式で作り出されるであろう。(P.81)
レーニンには、メンシェヴィキ、社会革命党と権力を共有する意図はなかった。彼は狡猾にも、蜂起が始まる前にはボルシェヴィキ党中央委員会にこの点を詳しく説明するのを避けていた。もし説明していたら、中央委員会はおそらく武装行動をまったく支持しなかったであろう。
したがって一〇月二四日〜二五日の彼にとって、メンシェヴィキと社会革命党から距離をおいておくことが優先的な課題であった。そして次の政権樹立に当ってはボルシェヴィキ党が支配的な役割を果せるような状況を作り出そうと努めていた。したがって、一刻の遅滞もなく権力を奪取しなければならなかった。(P.83)
レーニンが希望していたのは、メンシェヴィキと社会革命党が前夜の事件に憤慨して大会から退席することであった。彼はこの目的のために力を注いだ。その日一日中、公開の場に出たり、公的な宣言に署名したりしないで、静かにそれをやろうとした。彼は大会の開会の行事にも出席しなかった。レーニンでなくてむしろトロツキーが、ボルシェヴィキ党と左翼社会革命党のグループを率いていた。(P.84)
彼は、十月革命をいわゆる民主主義的同意なるものによって左右させる意図はなかった。スモルヌイ学院での最初の数日に、彼はスヴェルドロフとその他の党中央委員を威しつけて、憲法制定議会のための選挙の延期を発表させようとした。スヴェルドロフはそれでも拒否した。ボルシェヴィキはそれまで、予定通り憲法制定議会を召集すると信頼できるのは自分たちだけだと言ってきた。直ちにその選挙を延期できるものではなかった。レーニンの民主主義にたいする冷笑的な態度は、少なくともはじめのうちは拒絶された。(P.91)
7、「十月クーデター」説に関するヨーロッパと日本の認識格差とその原因・経過
単独権力奪取政権党ボリシェヴィキ=ソ連共産党とソヴィエト連邦社会主義共和国は、1917年から1991年までの75年間存続し、全面崩壊した。以下は、全般的なロシア革命史への認識変化ではなく、「10月10日から24・25日までの16日間にレーニンがしたことの性格」への世界的な認識がどのような段階で変化してきたのかを検証する。段階の分け方はいろいろある。ここでは、およその4分類にしてみる。
〔小目次〕
〔第1期認識〕、1917年10月24・25日、単独武装蜂起・単独権力奪取以降
〔第2期認識〕、1956年、フルシチョフのスターリン批判以降
〔第3期認識〕、1970・80年代、ソ連・東欧の政治・経済・文化・人権の全面停滞と腐敗
〔第4期認識〕、1989年東欧革命、1991年ソ連崩壊後
〔第1期認識〕、1917年10月24・25日、単独武装蜂起・単独権力奪取以降
世界中の左翼勢力・革新党派は、「大十月社会主義革命の成功」というレーニンの宣言・文献をそのまま受けとめ、大歓迎した。ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』は、その経過をつぶさに描いて、社会主義を待望する人々の心を揺るがせた。
メンシェヴィキ、エスエルは、当初から、クーデターとして非難していた。単独権力奪取後、レーニンの最高権力者期間は、1917年10月25日(旧暦)から、1922年12月16日第2回脳卒中発作で倒れるまでの5年2カ月間だった。その間の亡命者は約200万人と言われる。レーニンは、1922年5月26日、第1回発作を前後して、ボリシェヴィキに協力せず、批判する知識人数万人に「反ソヴィエト」のレッテルを付け、ヨーロッパへの追放「作戦」を強行した。レーニンは、その作戦を「浄化」と規定した。
彼ら亡命者・被追放者たちは、レーニンの大量殺人犯罪を告発した。そして、「レーニンがしたことは、革命ではなく、クーデター」だと訴えた。しかし、亡命者が個々に訴える「敗者の歴史」は、ボリシェヴィキの「勝者の歴史」大宣伝の下で、反共・反革命意見として抑圧・抹殺され、無視された。
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
〔第2期認識〕、1956年2月、フルシチョフのスターリン批判以降
これは、世界の社会主義国家認識に深部からの衝撃を与えた。スターリンの個人的資質に責任を転嫁する批判だったとしても、スターリンの4000万人粛清・大量殺人犯罪の実態、詳細なデータは、ソ連共産党第一書記が報告しただけに真実性を持った。その衝撃度の高さは、直後からのハンガリー事件、さらに、ソ連衛星国東欧各国における連鎖的な暴動・決起事件で証明された。
1968年、プラハの春=人間の顔をした社会主義運動が勃発した。しかし、それは、ブレジネフの制限主権論と五カ国軍戦車によって蹂躙・鎮圧された。チェコ共産党員50万人が除名・職場解雇をされ、50万人以上が大陸地続きのヨーロッパに亡命した。それが、ヨーロッパの国民・左翼・共産党に与えた衝撃度は、1956年のスターリン批判・ハンガリー事件を上回った。
資本主義ヨーロッパの共産党
これらの諸党は、大陸地続きによる直接情報を受けて、正面からスターリン批判問題や東欧問題の討議をし、その研究を深化させた。党内だけでなく、党外での研究も活発になり、スターリン問題や東欧問題の出版物が大量に出された。スターリンの粛清・大量殺人犯罪実態は、左翼だけでなく、約300万人亡命者を含むヨーロッパ諸国民の常識になっていった。ただ、その認識は、「スターリンは悪い。しかし、レーニンは正しい」とするレベルに留まっていた。レーニンとスターリンとの非連続性の主張がまだ基本だった。
日本共産党のスターリン批判・ハンガリー事件の受けとめ
21世紀において、資本主義国唯一の残存する「レーニン型前衛党の5原則堅持政党」となった日本共産党の特異性を理解する上で、ヨーロッパの共産党との認識分岐点をめぐる前後経過を確認する必要がある。
(1)、1950年1月8日、スターリンのコミンフォルム批判をめぐって、共産党は分裂した。
1950年6月7日、分裂が始まった。徳田ら主流派中央委員28人・80%が、宮本ら国際派中央委員7人・20%だけを除いて、非公然体制に移行した時点である。1951年2月23日四全協を経て、1951年11月16日五全協まで、分裂期間が1年4カ月間続いた。
(2)、1951年8月10日、「宮本らは分派」というスターリン裁定の報道と、8月14日モスクワ放送によって、宮本顕治を含め国際派全員がスターリンに屈服し、主流派に自己批判書を提出し、復帰した。よって、五全協前に、日本共産党は統一回復をしたというのが歴史的真実である。統一回復共産党は、スターリン・毛沢東の朝鮮侵略戦争「参戦」命令に隷従し、武装闘争を日本全土で開始した。
(3)、1953年3月5日、朝鮮侵略戦争の国際的最高司令官スターリンが死去した。1953年7月27日、朝鮮休戦協定が成立した。日本共産党の武装闘争は、ソ中両党の命令によりぴたりとやんだ。
(4)、1955年7月27日、ソ中両党は、日本共産党の再建会議をモスクワで準備した。それは、自らが命令した「日本における朝鮮戦争」の武装闘争で、党員30万人から約3万人へと激減し、共産党系大衆団体を含め、ほぼ壊滅状態に陥ってしまっていたからである。ソ中両党は、決議案・秘密命令・人事指名に基づく六全協を開かせた。両党は、NKVDスパイ野坂参三を、フルシチョフや東欧前衛党トップと同じく「第一書記」と名乗らせ、宮本顕治を指導部に復帰させた。
宮本顕治が「六全協まで5年1カ月間分裂が続いた。六全協で統一回復をした」と言うのは、真っ赤なウソである。それに基づいて、第2のウソをついた。それは、「六全協まで分裂が続いた。よって、武装闘争は分裂した一部がやったことで、現在(宮本)の共産党はそれになんの関係も責任もない」と大宣伝をした。それらのウソによって、彼は、武装闘争に「参戦」した党員兵士ら全員を切り捨て、見殺しにした。日本共産党党史上で、このような犯罪的レベルの二重の党史偽造歪曲をした幹部は、宮本顕治以外に一人もいないであろう。
宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加
(5)、1956年2月14日、フルシチョフによるスターリン批判「個人崇拝とその結果について」が、ソ連共産党第20回大会において報告された。その当時、六全協共産党は、武装闘争総括・指導部責任追及をめぐって党内がまだ大混乱している状況だった。スターリン批判問題を党内で討議し、深める余裕も雰囲気もなかった。しかし、党本部中央委員・専従内では、日本共産党のスターリン主義体質問題と関連させて、討論を組織すべきだという意見がかなり出ていた。それらの要求にたいし、常任幹部会責任者に復帰したばかりの宮本顕治は、多くの専従が証言しているように、その要求を抑圧した。
よって、スターリン批判問題の受けとめレベルは、ヨーロッパの共産党のそれとは、質的にまるで異なり、せいぜいフルシチョフ報告を個々の党員が読むという上っ面のものに終らされた。ハンガリー事件についても、討議要求が出ていた。しかし、宮本顕治は、その事件を「反革命だ」とするソ中両党見解に隷従し、党内要求を抑圧した。
したがって、党中央幹部や学者党員で、スターリン批判問題を研究したり、そのテーマで論文・著書を発表した者は一人も現われなかった。結局、ハンガリー事件を含むスターリン批判問題を真摯に受けとめ、討論・研究を深めたのは、被除名党員・離党党員や党外の左翼知識人だけに終った。宮本顕治の抑圧対応は、党内と党外とにおける明白なソ連・東欧認識分裂といういびつな左翼思想状態を生み出した。そこから、党外の彼らは「反帝反スタ(スターリン体質の反日本共産党)」の新左翼になっていった。
党外の彼らを含め日本の左翼全体の認識も、レーニンとスターリンとの非連続性を基本とし、「スターリンは悪い。しかし、レーニンは正しい」とするレベルに留まっていた。「複数前衛党」論めぐる論争のように、両者とも、レーニン型前衛党の5原則をなお信奉していた。それは、1)、スターリン型の「一国一前衛党」に固執する日本共産党と、2)、「一国における複数前衛党の容認」を主張する新左翼との対立である。
〔第3期認識〕、1970・80年代、ソ連東欧の政治・経済・文化・人権の全面停滞と腐敗
ソ連・東欧10カ国における政治的腐敗、経済停滞、自由人権抑圧実態の情報が、地下出版や引きも切らない亡命者たちによって、資本主義ヨーロッパに大量に流れ込み始めた。
1972年12月、ソルジェニーツィン『収容所群島』のパリ出版、彼のソ連国内でのたたかい、西側追放事件は、(1)スターリン批判、(2)東欧各国の暴動・プラハの春に続いて、(3)今度は二波の津波となって、ヨーロッパ全域の社会主義国家認識に襲いかかった。
津波の第一波、著書全6部作の内容は、フルシチョフによるスターリン個人批判の限界・個人への責任転嫁を突き抜けて、ソ連共産党そのものの犯罪システムを克明に暴いた。それは、それまで世界の左翼勢力から無視・抹殺されてきた300万人以上の亡命者情報を裏付けた。そして、それらを含めた体系的な『収容所群島』史を、初めて集大成した。
津波の第二波、その前衛党犯罪が、スターリンからではなく、レーニンこそが「わが下水道の歴史=粛清・収容所群島システム」の創設者・推進者という大量殺人犯罪者だったこと、それだけでなく、(1)レーニンのチェーカー28万人体制→(2)スターリンのNKVD→(3)ブレジネフのKGBという秘密政治警察国家設営・膨張の張本人だったことを証明した。
資本主義ヨーロッパの共産党
すべての共産党が、ソ連・東欧の否定的情報やソルジェニーツィンによる二波の大津波を浴びせられ、軒並みに、政党支持率が急降下し始めた。そのままでは、共産党が泡沫政党に転落することは明らかとなった。共産党の生き残りを賭けて、産まれた運動がユーロコミュニズムだった。それは、ヨーロッパにおける共産主義運動の再生を目指すものだった。
しかし、その運動方向は、公認ロシア革命史の再検証だけでなく、必然的に、レーニンとスターリンとの連続性・非連続性の有無の研究に向かった。それは、大量殺人犯罪における2人の共通性・共同責任の検証を深化させた。
1970年代、その結果、ポルトガル共産党を筆頭として、ヨーロッパの共産党すべてが「レーニンのプロレタリア独裁理論と実態は誤りだった」と明白な放棄宣言をした。これは、そこに留まらず、レーニン主義を全面的に廃棄する第一歩となった。
日本共産党−宮本顕治による日本共産党の逆旋回クーデター
党内では、この頃までに、宮本顕治の個人独裁と結合した宮本秘書団を中核とする私的分派体制が完成していた。その中でも、一時は、宮本顕治もユーロコミュニズムに急接近し、何回もユーロコミュニズム諸党と党首会談・相互交流をした。そのレベルは、ユーロ・ジャポネコミュニズムと言われるほどになった。
1970年代中盤から1980年代半ばにかけて、その流れで、宮本顕治ら党中央レベルの動向とは別に、田口富久治・中野徹三・藤井一行・加藤哲郎らが論陣を張り、ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響力を高めた。彼らが、(1)ユーロコミュニズムの紹介にとどまらず、(2)学者党員たちによる始めてのスターリン批判問題の研究、(3)レーニン型前衛党原則の根幹をなす民主集中制の批判的研究、党内民主主義のあり方、(4)先進国における革命問題などのテーマを研究し、集団討論をし、雑誌・書籍の出版も始めた。それだけでなく、大月書店・青木書店における共産党員たちも、それらテーマの編集・出版活動に取り組みだした。党本部内では、上田耕一郎常任幹部会員・副委員長が、ユーロコミュニズム支持の論文をいくつか発表した。
ところが、本質的なスターリン信奉者・宮本顕治は、会談をし、何回も共同声明を出す内に、危険な兆候を嗅ぎ取った。彼は、スターリン主義者として、レーニン・スターリン原理放棄に至る異端思想を嗅ぎ分け、異端者を見分け、分別する嗅覚において、スターリンに匹敵する天才的資質の持ち主だった。というのも、彼の異端分別センサーは、50年分裂を含む過去の厳しい党内闘争によって、異様なまでに研ぎ澄まされてきていたからである。
彼は、ユーロコミュニズム運動が内包するレーニン・スターリン全面否定の危険な兆候を読み取った。ヨーロッパの共産党すべてが、すでに、(1)レーニンのプロレタリア独裁理論を放棄していた。さらには、(2)宮本顕治が死守する民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)放棄の方向も見え隠れしていた。それだけに留まらず、(3)ユーロコミュニズムがレーニン型前衛党の解体に行き着くことを見抜いた。
彼は、国際的動向に連動した、それら党内傾向にたいし、強烈な危機感を抱いた。そして、1978年以降の通称「ネオ・マル粛清事件」(ネオ・マルクス主義者粛清)を初めとして、4連続粛清事件と一体になった「日本共産党の逆旋回クーデター」を強行した。宮本顕治は、一転して、ユーロコミュニズム路線と絶縁し、日本共産党をスターリン型前衛党に逆旋回させた。その内、逆旋回クーデターを象徴する3つの「ネオ・マル粛清事件」を検証する。逆旋回クーデターの詳細は別ファイルにある。
(1)、中野撒三の査問・除名経緯
宮本・不破は、1973年第12回大会において、「独裁→執権」訳語に変更していた。不破論文「科学的社会主義と執権問題」は、1976年に出版された。さらに、1976年第13回臨時党大会は、(1)「自由と民主主義の宣言」を提起するとともに、(2)執権訳語もまずいとして、「独裁→執権→執権用語も削除」とする綱領改定を行った。
宮本・不破が、「プロレタリアートの独裁→プロレタリアートの執権→執権訳語も削除」への訳語変更・削除で、レーニン型前衛党原則の隠蔽堅持を謀ったとき、札幌学院大学教授中野徹三は「執権という訳語は誤りである。あくまでプロレタリア独裁という日本語訳が正しい」と、ブランキ、マルクス、レーニンの諸文献を歴史的に分析し、学者党員としての学問的検証を行った。
中野徹三の論文題名は、『マルクス・エンゲルスにおけるプロレタリアートのディクタトゥーラ概念−不破哲三「科学的社会主義と執権問題」の検討−』(『マルクス主義の現代的探求』青木書店、1979年)である。
宮本顕治・不破哲三は、「不破論文は個人的見解でなく、党中央決定に該当する。中野の主張と出版は、社会思想史の学術論文といえども、プロレタリアートの独裁訳語問題めぐる党内問題を党外にもちだした規律違反だ」と歪曲・断定した。そして、1980年5月、北海道委員会は、党中央の指令を受け、彼を査問し、後に別件でっち上げ・歪曲で除名にした。北海道委員会と党中央は、規律違反の中野徹三は反党分子だと、大キャンペーンを行った。
1970年代の同時期、ヨーロッパの共産党は、訳語いじりの隠蔽堅持どころか、レーニンのプロレタリア独裁理論と実態を正面から検証していた。そして、その理論・実態は、レーニンによる大量殺人犯罪を伴ったと判定した。その結果、ヨーロッパすべての共産党が、ポルトガル共産党を先頭として、その放棄宣言をした。一体、ヨーロッパと日本とで、なぜ、このような認識格差・対応格差が生じるのか。
(2)、田口富久治批判の大キャンペーン
1978年、宮本・不破が始めたこのキャンペーンも、中野徹三査問・除名と同じ性質だった。ポルトガル共産党以外のヨーロッパの共産党すべてが、分派禁止規定を内蔵したDemocratic Centralismは、党の統一を守るのに役立ったが、その反面、党内民主主義を抑圧し、党全体に官僚的中央集権制の誤りを犯させた、と判定した。そして、1980・90年代に、公然とその廃棄宣言をした。
1976年7月、名古屋大学法学部教授田口富久治は、以前からユーロコミュニズム紹介の先頭に立っていた関係もあって、朝日新聞夕刊に、フランス共産党員デュヴェルジェの見解を賛同的に紹介する約500字のコラムを載せた。その題名は、「さまざまな『傾向』が党内で共存する権利」だった。それを読んだ党中央は、彼のコラム内容を、分派容認理論と断定し、最初の査問を行った。
しかし、田口富久治は、党中央の批判に屈服しなかった。それどころか、1977年9月、同じ趣旨で、『現代と思想』29号に、「先進国革命と前衛党組織論」を発表した。宮本顕治は、それへの批判論文を、上田耕一郎・榊利夫ら5人を一人にしたペンネームで『赤旗評論版』に載せさせた。それでも、彼が自説を曲げないので、有名な田口・不破論争を始めたというのが真相である。
ただし、党中央がレッテルを張った「田口理論」と言っても、民主集中制の放棄そのものを主張したものではなく、規約における否定的条項に言及する箇所とともに、その運用面で「さまざまな『傾向』が党内で共存する権利」を要求するレベルだった。しかし、宮本顕治は、それを、Democratic Centralism組織原則にたいする著名な学者党員による批判的な挑戦と捉えた。宮本顕治は、田口富久治の党内外への理論的影響力を怖れた。
1978年3月、現に、それらの論文を含む田口富久治『先進国革命と多元的社会主義』(大月書店)は、その分野でのベストセラーになった。宮本顕治は、ユーロコ・ジャポネミュニズム運動における、(1)ヨーロッパの共産党における危険なレーニン型前衛党諸原則放棄・党解体方向と、(2)日本共産党内における連動傾向にたいし、強烈な危機感と恐怖心を抱いた。なぜなら、ユーロコ・ジャポネミュニズム運動の日本における波及に反比例して、宮本顕治のスターリン流の理論的権威は急激に低落していったからである。それを放任すれば、彼の党中央内地位は、上田耕一郎ら運動の党中央内支持派によって乗っ取られる危険さえ生じた。
そこで、ついに、彼は、ユーロコミュニズムと絶縁し、日本共産党をスターリン体質にひき戻す逆旋回クーデターを決行した。それは、党内権威激減にあがく宮本顕治式の奪権クーデターとも言える。もっとも、この規定は、ユーロ・ジャポネコミュニズムを支持する当時の党中央幹部内状況や全党の雰囲気を同時体験した党員でないと理解できないかもしれない。その「ネオ・マルクス主義者粛清事件」の最初の血祭りに挙げたのが、名古屋大学教授田口富久治であり、富山大学教授藤井一行だった。
(3)、上田耕一郎、不破哲三らトップ2人の査問・自己批判書公表
1982年、宮本顕治は、上田耕一郎、不破哲三という党中央トップbR、2という2人を、宮本秘書団私的分派の常任幹部会メンバーによって、査問にかけた。査問対象は、石堂清倫ら5人の討論を筆記し、まとめて、1956年に出版した『戦後革命論争史・上下』(大月書店)だった。宮本顕治は、彼ら2人を脅迫し、26年も前に出版した著書、しかも、bPの宮本顕治命令で18年も前に絶版にさせていた著書内に、「自由主義・分散主義、分派主義の誤りがあった」との自白をさせた。
1983年、それにとどまらず、『前衛』8月号に、彼らの自己批判書を公表させた。宮本顕治は、その査問を通じ、とくに、上田耕一郎をして、ユーロコ・ジャポネミュニズム運動からの思想転向・離脱を強要した。上田は、党内トップクラス地位の自己保身を優先させ、宮本顕治に屈服した。以後、彼は、それら運動のテーマに関する発言・論文発表をぴたりとやめ、羊たちの沈黙に陥った。
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田耕一郎の引き裂かれた3つの顔
哀れなのは、不破哲三と言える。というのも、彼は、一部共著の兄弟として、上田耕一郎査問の巻き添えをくらって、査問・自己批判書公表をさせられたからである。しかも、彼は、田口・不破論争における宮本顕治側の張本人だったからである。トップ2人の査問と公表という奇怪な事件の謎は、これら逆旋回クーデターという歴史的経緯の中で位置づけないと、とても理解できないであろう。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件と自己批判書
石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評
一般教員も含めれば、数万人もいる知識人党員らは、これらにどういう態度をとり、対応をしたのか。田口・不破論争という『前衛』誌上の公開論争3回に、表立って参加したのは、中野徹三一人だけだった。中野徹三査問・除名についても、それを思想信条・学問の自由にたいする党内弾圧事件と位置づけて、党中央への批判意見を公表する知識人党員は出なかった。もっとも、札幌学院大学の教職員支部は、ほぼ全員が、中野処分にたいし、学術論文発表への学問の自由抑圧として猛反対した。党中央が処分のごり押しをした結果、その教職員支部は事実上崩壊してしまった。
宮本顕治による一連の「ネオ・マル粛清」の見せしめ効果は抜群だった。それ以後、学者党員たちは羊のごとく党中央理論に従順となり、羊たちの沈黙を守った。彼らは、仲間内だけでの党中央批判を口にするにもかかわらず、「背教者カウツキー」のように、一神教的レッテルを貼られることに怯えた。その結果、宮本顕治・不破哲三の一神教教義に背き、党中央批判をするような背教者的論文を発表する者は皆無となった。
その面では、名古屋大学経済学部名誉教授水田洋の指摘が当っているのかもしれない。彼は、共産党の丸山眞男批判に関して、次のように書いた。日本共産党は、最近、丸山眞男が四十年近くも前に書いた共産党戦争責任論に、むきになって反論しているが、「敗軍の将」にも、戦争犯罪の主犯たちとはちがった意味で責任があることはあたりまえだし、丸山の理論を「傍観者の論理」などといって片付けていたのでは、得票率三パーセントの政党の支持はひろげようがないだろう。のこりの九七パーセントは傍観者なのである。こうした排他性をささえる思考停止人間(自分で考え、自分の責任で発言する能力のない人間)を生産したことは、戦争責任に続く戦後責任といえるかもしれない。
かくして、日本共産党は、レーニン型前衛党の5原則を再検証し、廃棄する方向に向かうどころか、再びスターリン批判問題の研究さえも途絶させた。その結果、資本主義国の共産党における特異なレーニン・スターリン体質型政治・軍事的規律組織として、かつ、レーニン型前衛党の5原則隠蔽堅持政党として唯一つ残存することになった。スターリン批判・レーニン批判認識は、ヨーロッパと日本とで隔絶的な格差となった。
〔第4期認識〕、1989年東欧革命、1991年ソ連崩壊後
社会主義10カ国とその前衛党がいっせい崩壊したことは、そのショックが広がり深まるとともに、スターリンの4000万人粛清だけでなく、レーニンによる前衛党犯罪=レーニン自身が無実のロシア革命勢力数十万人を殺害した大量殺人犯罪者だったというデータを暴き出した。彼の大量殺人犯罪が証明されたことにより、ロシア革命史研究の方向は、レーニンの理論・路線・政策の全面的再検証に向かった。
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
〔小目次〕
1、ヨーロッパの共産党と党外研究者たちが行った4つの再検証テーマ
2、日本共産党の対応――社会主義国規定いじりとトップの自己保身
1、ヨーロッパの共産党と党外研究者たちが行った4つの再検証テーマ
それらは、4つに収斂されていった。検証資料は、崩壊後に初めて発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)である。
第一、レーニン自身による無実のロシア革命勢力数十万人の殺害指令と殺人犯罪実態データの発掘・検証・公表である。ソ連崩壊以前、それらは、「十月革命の指導者・英雄」依存症のスターリン・ブレジネフらによって、「レーニン秘密文庫」の奥深く、完璧に秘匿されていた。しかし、発見されたもう一つの衝撃的な事実は、レーニン自身が、大量殺人指令や命令書を隠蔽し、コピーをしないように、綿密な指示をしていたことだった。
第二、レーニンの最高権力者期間は、1922年12月16日第2回脳卒中で政治活動が不能になるまでの5年2カ月間だった。その間における、レーニン式社会主義の理論・路線・政策・諸方針と実施状況の全面的再検証である。「レーニン神話」のベールを剥ぎ取って、検討をし始めると無数の誤りが出てきた。(1)秘密政治警察チェーカーの設立と28万人体制への拡張、(2)カデット・ブルジョア新聞閉鎖措置に始まる一元的情報統制・ボリシェヴィキの情報独占システムの構築、(3)憲法制定議会の武力解散、(4)食糧独裁令・軍事割当挑発とその根本的に誤った政策への批判・反乱農民数十万人殺害、(5)労働者ストライキにたいする全面弾圧・大量殺害、(6)クロンシュタット水兵の平和的要請行動への14000人皆殺し対応、(7)聖職者・信徒各数万人ずつの銃殺、(8)知識人数万人追放作戦とそれによるソ連「浄化」、(9)コサック400万人の解体・抹殺などである。これらは、レーニン・ボリシェヴィキの重大な誤りだったことも判明してきた。
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判全ファイルメニュー
それだけでなく、「プロレタリア独裁が成立している」「労農同盟が成立している」という著書・演説内容は、レーニンの真っ赤なウソであり、事実に反するものだったという歴史的データも、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)の発掘・公表を通じて、次々と証明された。労農同盟が成立しているというレーニンの論文・演説が、ウソであるという事実は、梶川伸一が別ファイルで緻密に論証している。
梶川著書全4冊の内容は、レーニン・ボリシェヴィキ権力と80%・9000万農民との関係に関する専門的研究として、世界的にも画期的なレベルにある。これほど緻密な農民問題のデータ発掘・分析は、ソ連崩壊後の研究として、ヨーロッパ・アメリカでも出版されていないと思われる。ネップ「神話」の解体に関する内容もきわめて刺激的な逆転研究である。
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
第三、レーニンによる(1)大量殺人犯罪、(2)路線・政策の誤り、(3)彼のウソが明確になるにつれて、それらがなぜ発生したのかに、検証テーマが深化した。ついに、「レーニンが10月24、25日に遂行した事件は、はたして大十月社会主義革命だったと規定できるのか、それとも、労兵ソヴィエト革命・農民革命と一時的に重なった、一党独裁狙いの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったのか」という根源的な問いかけに到達した。
発掘されたデータに基づく解答は、「一党独裁狙いのクーデターであり、しかも、レーニンこそが単独武装蜂起指令時点から、一貫して、一党独裁体制樹立を企んでいた」となった。
その結論は、必然的に次の問いかけへと進んだ。レーニンは「一党独裁体制は、エスエル・メンシェヴィキ・アナキストなど他党派が、ボリシェヴィキの革命政権にたいし、反革命・武装反革命を仕掛けたので、それを粉砕した結果として歴史的に成立した」と規定してきた。そのレーニン・ボリシェヴィキによる公認ロシア革命史は、レーニンによるロシア革命史の偽造歪曲のウソだったことになる。ただし、ソ連崩壊までは、レーニンのウソが真実とされ、黒を白にすり替える革命史観が世界の常識になっていた。私(宮地)も、レーニン信奉者として、それを真実だと信じ込んでいた。
レーニンのウソが暴かれたことは、資本主義ヨーロッパの共産党を破滅の淵に追い込んだ。なぜなら、ソ連・東欧の実態は、プロレタリア独裁が実のところ党独裁であり、それは、他党派の存在を暴力で拒絶・破壊し続ける犯罪的体制だったことを、全ヨーロッパに暴露したからである。しかも、レーニンが最初から企んでいた一党独裁体制とは、政党的自由への逆行概念・体制であり、ヨーロッパ諸国民が歴史的にたたかいとってきた資本主義における複数政党システムにたいする、一種の反革命体制だったからである。プロレタリア民主主義は、ブルジョア民主主義より百倍もすぐれているどころか、レーニン型民主主義・政治的自由の理論・実態レベルは、資本主義的民主主義・自由のレベルを破壊し、後退させ、圧縮する、忌むべき犯罪的理論と実態だったことを白日の下にさらけ出したからである。
一党独裁の本質は、犯罪的、かつ、恒久的な政治的自由抑圧システムである。この一党独裁を最初から狙ったクーデターで単独権力奪取をしたレーニンと同体質・同じ理論の共産党が、ヨーロッパにおいて存続すること自体は、ヨーロッパ全域の国民にとって、もはや我慢のならないものに写ったのは当然だった。
第四、レーニンの(1)ロシア革命勢力数十万人殺害犯罪事実→(2)路線・政策の無数の誤り→(3)10月24、25日はクーデターだった→(4)一党独裁の成立経緯に関するレーニンのウソなどが論証されるにつれて、最後のテーマに行かざるをえない。それは、ヨーロッパの共産党すべてが、コミンテルン設立以降共有してきた「レーニン型前衛党の5原則」は正しいのかどうか、という自己検討である。それらが、誤った原則だったとなれば、共産党としての自己の存立を全面否定し、破壊するおそるべき自爆爆弾となる。
それらは、共産党内部における検証だけに留まらなかった。東欧革命・ソ連崩壊の直接情報は、ヨーロッパの国民と亡命者300万人以上、左翼勢力全体をして、資本主義ヨーロッパにおいて、犯罪的なレーニン型前衛党が存在すること自体に批判・非難の目を向けさせた。批判だけならともかく、ヨーロッパの共産党から、共産党員・共産党機関紙読者・共産党への投票者たちが、いっせいに、大量に「逃散」し始めた。もはや、共産党という党名自体も、犯罪的政党との同義語となった。さらに、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』が、1997年、フランスで出版され、その内容はヨーロッパの共産党の存在基盤を根底から痛撃した。
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第2章・プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)」
それらの結果が、1990年代における、ソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域での共産党の全滅である。ただし、5原則中、2つを放棄宣言したフランス共産党と、1つの放棄宣言をしたポルトガル共産党は、共産党名を名乗っている。よって、厳密には、レーニン型前衛党の5原則堅持政党の壊滅、あるいは、その試金石であるプロレタリア独裁理論堅持政党の壊滅という言い方が正確である。ヨーロッパの国民・亡命者・左翼勢力・元共産党員たちの共通認識は、「『十月革命』と呼ばれてきた事件は、レーニンが企んだ一党独裁狙いの十月クーデターだった」となった。
2、日本共産党の対応――社会主義国規定いじりとトップの自己保身
日本共産党の対応は、ヨーロッパの共産党のそれとは根本的に異なった。
日本においても、宮本顕治・不破哲三らは、その事態にあわて、困って、社会主義国規定をいじり出した。1)社会主義国は生成期の段階にある→2)社会主義への道に踏み出した国と、社会主義を目指す国に分別する→3)東欧の事態は、革命などではなく、資本主義への反革命・逆行である→4)ソ連の崩壊をもろ手を挙げて歓迎する→5)ソ連はそもそも社会主義国家ではなかったと、社会主義国規定をころころと転換してきた。さらに、不破哲三は、北朝鮮拉致事件での追及・質問を受けて、6)現在、中国・ベトナム・キューバは社会主義への道に踏み出した国である。しかし、北朝鮮はそれに該当しないと、北朝鮮外しの苦し紛れ報告をした。
1976年7月、その過程において、宮本・不破らは、第13回臨時大会を開いて、「自由と民主主義の宣言」を決定した。そこでの政治的民主主義の項目において、「反対党をふくむ複数政党制をとり、すべての政党に活動の自由を保障する」とした。しかし、この命題は、レーニンがコミンテルン世界に確立した前衛党による一党独裁システム=反対党殲滅理論と実行の否定だった。
1970年代、ヨーロッパにおける共産党は、レーニンのプロレタリア独裁理論の実態とは党独裁であり、政治的民主主義を破壊・否定する犯罪的な誤りだったと総括して、ポルトガル共産党を筆頭として、100%の共産党が公然とその放棄宣言をした。
それにたいして、宮本・不破の対応は、(1)放棄宣言をしないままで、(2)プロレタリア独裁理論・実態への姑息な訳語変更を重ねて隠蔽・堅持しつつ、かつ、(3)プロレタリア独裁=前衛党一党独裁だったという事実も認めないままで、(4)社会主義日本における複数政党制を公約した。宮本・不破らは、(5)ソ連・東欧の一党独裁実態とその成立経緯についての総括を一度も発表したことがない。レーニンが樹立した一党独裁の犯罪的実態の総括を棚上げしておいて、複数政党制を公約することは、選挙得票数ほしさの空約束であり、有権者騙しの欺瞞的公約である。ところが、当時のマスコミは、総括なしの空手形という本質を批判するどころか、日本共産党が一党独裁を否定する公約をしたと、宮本・不破を持ち上げる報道をした。
これが、不破哲三による総括なしの空手形という証拠がある。残存する一党独裁国4党は、政治的民主主義を抑圧・破壊し、反対政党の存在を今なお認めていない犯罪的政党である。ところが、彼は、公約の舌が乾く間もないままで、反対党結成を阻止し続けている一党独裁国前衛党の中国共産党と、1998年に共産主義友党関係を回復させた。その後、犯罪国家前衛党・朝鮮労働党の日本支部である朝鮮総連(内部の学習組)を、2000年の第22回大会に来賓招待し、共産主義友党待遇をした。朝鮮総連幹部は、全員が朝鮮労働党の党員である。そして、その後も友党関係を維持・強化している。
不破・志位・市田らは、その裏側で、国会議員秘書兵本達吉を1998年除名にし、元赤旗平壌特派員萩原遼を2005年除籍にした。いつものように、でっち上げ・歪曲口実を弁明しているが、除名・除籍の真因は、彼ら2人ともが朝鮮労働党批判・朝鮮総連批判をしてきた行為である。こういう二枚舌が使えないと、レーニン型前衛党のトップを続けられないのだろうか。
兵本達吉『日本共産党の戦後秘史(2)』拉致事件・帰国事業と日本共産党
『除籍への萩原抗議文と批判メールへの党回答文』萩原除籍と兵本除名との共通性
日本の研究者において、「レーニンによる十月クーデター」と規定しているのは、3人しかいない。別ファイルで書いたように、加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一である。田口富久治は、2004年10月、全国政治学研究会の報告において、従来の自己の政治的立場・理論の自己検討・反省を述べつつ、明確なレーニン批判を行った。
田口富久治『五〇年の研究生活を振り返って―いま思うこと』レーニン批判
一方、不破哲三は、『レーニンと資本論』全7巻で、必死になってレーニン擁護論を展開し、中国まで出向いて、わざわざレーニン賛美論を唱えている。資本主義世界で、今もなお、時代錯誤的なレーニン擁護を繰り広げている幹部は、不破哲三ただ一人であろう。
党本部幹部や学者党員は、民主集中制というDemocratic Centralismの欺瞞的略語に拘束されている。もし、党員が、「レーニンによる十月クーデター」説を主張しようものならどうなるか。不破哲三議長は、中国でネップ賛美の学術講演をするほど、資本主義国で残存する唯一のレーニン研究者であり、十数冊ものレーニン賛美研究著書の執筆者・出版者として、とみに有名である。党員の主張は、議長の科学的社会主義思考様式によるレーニン擁護・賛美論に背く規律違反となる。そして、上記で検証したように、中野徹三への査問・除名ケースと同じになる。なぜなら、不破哲三個人が書いた論文・著書内容は、すべてが党中央決定に該当するとされ、党員個人によるそれへの批判公表は、党中央決定に背く規律違反とでっち上げる仕組みになっているからである。
東方の島国日本では、21世紀になっても、「レーニンがしたことは、革命でなく、一党独裁狙いのクーデターだった」と認識する国民、知識人、左翼勢力はほとんどいないと思われる。それどころか、「レーニンが無実のロシア革命勢力数十万人を殺害したという歴史的事実」など知りたくも、聞きたくもないというレーニン神話信奉者が多数残存している。私(宮地)自身が、レーニン批判の文献や見解にたいする拒絶反応を剥き出しにした職業革命家だったから、彼らの信条をよく理解はできる。
その一方、日本共産党にたいする外圧としては、1980年をピークとして、25年間、赤旗HN部数で歯止めのきかない一貫した党勢減退がある。赤旗HNは、1980年355万部−(187万部減紙)→2005年現在168万部となり、減紙率52.7%になった。25年間で、読者の半分以上が、共産党を見限った。その内、東欧革命・ソ連崩壊後の15年間においては、118万人の読者が、科学的社会主義テリトリー(領域)から「逃散」した。
『歯止めのきかない党勢減退』25年間、15年間の減退データ
しかし、それらは、不破・志位・市田らによるDemocratic Centralism略語堅持を破壊し、彼らの全員引退を迫るレベルにはいたっていない。というのも、欺瞞的略語である民主集中制の本質は、党内批判者すべてを分派・規律違反とでっち上げて、恣意的に排除できるという安定したトップ自己保身システムであり、かつ、それを覆い隠す、彼ら専用のイチジクの葉っぱだからである。
『日本・フランス・イタリア共産党と民主主義的中央集権制』組織原則の全ファイルメニュー
よって、暴力革命のための軍事規律を、民主と集中の統一という欺瞞的略語にすり替える日本語を堅持する限り、不破・志位・市田らが、下部からの党内批判・責任追及によって、引退させられることは、100%起こり得ない。近代世界政党史上で、この官僚的軍事的規律ほど、党内下部にたいし、トップの地位安泰・特権保全を完璧なまでに保障するシステムはないであろう。そして、分派禁止規定を内蔵し、これほどの党内民主主義抑圧機能を完備した欺瞞的政党は、レーニン型前衛党以外に、一つもないと言えるであろう。
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の政権崩壊危機と分派禁止規定
日本共産党をして、反民主主義の官僚主義的Centralismを放棄させ、ヨーロッパ並みに、民主的左翼政党に大転換させる日はいつか来るのか、来ないのか。その大転換を、不破・志位・市田らに強要する党外圧力・批判勢力は形成されないのだろうか。彼らにとって、党員・赤旗読者・共産党への投票者が、共産党の政治テリトリー(領域)から、いくら大量に「逃散」しようとも、1ケタ泡沫政党に転落しようとも、それらは痛くも痒くもない。なぜなら、Centralism規律を保持し続ける限り、85億円代々木新築ビル内に陣取る彼らの身分と特権は永遠に不滅だからである。
レーニン型前衛党の5原則を隠蔽・略語堅持している共産党が、東方の島国において唯一存在し続けている事態を、ソ連・東欧・資本主義国を含むヨーロッパ全域の全滅状況との比較でどう考えたらいいのだろうか。一党独裁国前衛党4党と合わせれば、非政権の日本共産党で5党となり、孤立などしていないという言い訳が成り立つのか。
(注)、これは、加藤哲郎HP中の「日本の社会主義運動の現在」(『葦牙』第28号、2002年7月)における後半部分だけの転載コピーである。
ポスト冷戦期の日本共産党
1989年の「ベルリンの壁」崩壊と91年のソ連解体で、世界の共産党は、消滅の一途を辿っている。旧来のコミンテルン、コミンフォルムの伝統を引いた国際共産主義運動は、基本的に消滅した。北欧、イギリス等では共産党が自主解散し、イタリア共産党は左翼民主党に変身して、社会主義インターナショナルに加盟した。かつての「モスクワの長女」フランス共産党は、スターリン主義的過去を自己批判し生き残ろうとしているが、3分の2の党員を失い、弱体化した。アジア、ラテンアメリカにはいくつかの共産党が生き残っているが、アフリカでは、ソ連の援助で作られた共産党のほとんどが消えた
。
その中で、なぜ発達した資本主義国である日本で、共産党が生き残り得たのだろうか。これは外国からみると、奇妙な状況だろう。しかし、これにはいくつかの根拠がある。
第一に、1960年代前半から、日本共産党が、ソ連や中国の共産党と論争して距離を置き、「自主独立」の姿勢をとってきた経緯がある。そして70年代のユーロコミュニズムの時代に、イタリア共産党などと同様、ある程度柔軟な政治路線で議会や選挙に参入しながら、階級政党から国民政党への転換の準備をしてきた。そのため、日本共産党はソ連や中国の共産党とは違うというイメージが広がって、1989年の天安門事件や東欧革命、91年ソ連崩壊のショックを、最小限に留めることができた。
第二に、冷戦崩壊と同時に、日本の政治状況が大きく変わった。戦後日本は自由民主党が長期に支配してきたが、冷戦崩壊後の保守の分裂で政党再編が進み(日本では「1955年体制の崩壊」という)、1994年には、日本社会党が自民党と連立政権を組んだ。そのさい、それまで「社会主義」をかかげ野党的政策を貫いてきた日本社会党が、社会民主党と改称、日米安保条約や自衛隊の容認へと大きく政策転換した。社会民主主義──社会主義インターナショナル内の最左翼──に属した日本社会党が、事実上解体した。その中で、かつての日本社会党の支持者の一部(つまり旧来の伝統的革新層、あるいは日本の特殊な政治環境のもとでの「戦後民主主義」派、日本国憲法絶対擁護派)が、日本共産党支持へと移ったのである。
数字の上で見れば、1996年衆議院選挙(総選挙)で共産党24議席・比例区選挙727万票・得票率13.1%で、旧日本社会党の左派の一部が残った社会民主党は11議席・355万票・6.4%であった。2000年総選挙では共産党が20議席・比例区672万票・得票率11.2%に減って、社民党が19議席・560万票・9.4%と増えた。1998年参議院選挙で、共産党は15議席・比例区820万票・得票率14.6%、社民党5議席437万票7.8%を記録したが、2001年参議院選挙では、共産党5議席・比例区433万票・7.9%、社民党3議席・363万票・6.6%まで、両党とも激減した。
これらの数字は、共産党と社民党の票を足しても、冷戦時代の社会党と共産党を加えた票(例えば1972年総選挙で、社会党1148万票21.9%、共産党570万票・10.9%、合計1718万票・32.8%)には遠く及ばないから、日本全体の右傾化の中で、かろうじて残っている高年齢の旧左翼・伝統的革新層が、共産党や社民党を支え、時々に票を分けあっているといえる。
第三に、地方政治では、共産党は全国に約28000の支部(かつての細胞)があり、自民党より多い4400人の地方議員(内1300人が女性)を持ち、無所属を除くと第1党になっている。105の自治体では議会内与党になっている。これは、地域活動に熱心な共産党議員個人への支持であるため、かならずしも共産党支持ではなく、ましてや社会主義・共産主義思想への支持には直結しないが、少なくとも社会生活に身近な存在として、国民に定着してきたことを意味する。いわば、地域社会の「護民官」としての共産党である。
第四に、共産党組織の内部では、戦後長い間党の指導を独占してきた宮本顕治が1997年に退陣し、不破哲三議長のもと、志位和夫委員長ら若い世代にリーダーシップが移ったことである。この新指導部が、旧来の硬直した組織の在り方を多少とも柔軟にする姿勢に乗り出している。たとえば90年代以降、党内抗争やそれによる除名や排除が、少なくとも表面には出なくなった。最高時の1980年48万人から現在38万人へと党員数を減らし、機関紙『赤旗』購読者数も最高時1982年の355万部から現在公称113万部へと読者を減らしているが、今日の日本共産党は、いわばスリム化して、指導部に忠実な層だけを統合する組織を作り上げている
。
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