朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争の位置づけ(2)
朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党
「史上最大のウソ作戦」戦後処理のソ中両党隷従者宮本顕治
(宮地作成)改定版 2011年5月
(注)、これは、『朝鮮戦争と武装闘争責任論の盲点』の改定版である。ファイルが大きくなったので、2つに分けた。このファイル基礎資料の一部は、『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説に書いた。いずれも、加筆改定をした。
〔目次〕
1、朝鮮戦争とそこにおける日本共産党の武装闘争の位置づけ
2、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争データ、文献の存否
3、日本共産党の軍事方針・武装闘争の時期、主体と性格
5、日本共産党参戦行動の効果と結果 (表7)
6、「史上最大のウソ作戦」戦後処理のソ中両党隷従者宮本顕治 (表8、9)
8、『日本共産党の八〇年』出版と恐怖の真実 (表10)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
Wikipedia『朝鮮戦争』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
由井誓 『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
4、「後方基地武力かく乱戦争行動」の実践データ
〔小目次〕
(表4) 後方基地武力かく乱戦争行動の項目別・時期別表
(表5) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表
(表6) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無
(4事件の4) 大須事件中、共産党が隠蔽した、もう一つの真実
(5) 火炎ビン多用軍事命令の始期
日本共産党が遂行した武装闘争とは何か? それは、朝鮮侵略戦争参戦において、日本共産党「軍」が遂行した後方基地武力かく乱戦争行動のことである。それを、いくつかのデータで検証する。その完璧なデータを保管しているのは、現在の日本共産党、中国共産党、元ソ連共産党「赤軍参謀部」記録保管所である。日中両党は、今日にいたるまで、それを“見事なまでに”隠蔽している。日本共産党も、政府・自治体に要求するだけでなく、そろそろ自らの情報公開を、率先して断行したらどうなのか。というのも、フランス共産党は、(1)1994年に民主主義的中央集権制を放棄しただけでなく、(2)1998年、市民のための開かれた党という路線を打ち出し、すべての歴史家、ジャーナリストに党の保管文書を公開したからである。
『フランス共産党の党改革状況』 『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』
元共産党員で、武装闘争の参加体験を書いたものがいくつかある。しかし、それらは、個々の断片的記録にとどまっている。増山太助、大窪敏三の2著は、党中央、東京軍事委員会レベルの大きな分析をしているが、実践データを載せていない。
全国的な後方基地武力かく乱戦争行動データを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。よって、以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出したものである。
(表4) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表
事件項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪) 2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21) 3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行) 4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃 5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む) 6、暴行、傷害 7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む) 8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争 9、山村・農村事件 10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの) |
2 1 1 |
95 2 48 11 20 8 15 19 9 23 |
1 5 2 3 |
96 2 48 11 29 13 11 23 10 27 |
総件数 |
4 |
250 |
11 |
265 |
(表5) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表
武器使用項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21) 2、警官拳銃強奪 3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む) 4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき 5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む) 6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む) |
|
1 6 35 6 16 7 |
|
1 6 35 6 16 7 |
総件数 |
0 |
71 |
0 |
71 |
(表)の説明をする。本来は、“統一回復”五全協が行なった武力かく乱戦争実態を、六全協日本共産党が、これらのデータを公表すべきだった。しかし、NKVDスパイ野坂参三・袴田里見と指導部復帰者宮本顕治ら2人は、ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らが出した「具体的総括・公表を禁止する」との指令に屈服して、“上っ面”の極左冒険主義というイデオロギー総括だけにとどめ、武装闘争の具体的内容・指令系統を、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙を続けている。
このデータは、『戦後主要左翼事件・回想』(警察庁警備局発行、1968年)に載っている数字である。そこには、昭和27年、28年の左翼関係事件府県別一覧、その1〜4が265件ある。総件数を、(表4)の10項目、(表5)の6項目に、私の判断で分類した。(表5)件数は、すべて(表4)に含まれており、そこから武器使用指令(Z活動)だけをピックアップした内容である。この『回想』は、283ページあり、これだけの件数を載せた文献は他に出版されていない。もちろん、警察庁警備局側データである以上、警察側の主観・意図を持った内容であり、そのまま客観的資料と受け取ることはできない。しかし、五全協日本共産党による武装闘争指令とその実行内容を反映していることも否定できない。
(表4) 後方基地武力かく乱戦争行動の攻撃対象には、特徴がある。米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃件数は、11件/265件で、4%だけである。それにたいして、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)件数は、145件/265件あり、55%を占める。このデータ件数比率からは、次の判断が成り立つ。ソ中両党の日本共産党「軍」にたいする後方基地武力かく乱攻撃命令対象が、米軍基地・軍需輸送の直接破壊ではなく、後方基地日本全体の治安武力かく乱にあったのではないかということである。
(表5) 使用武器の大部分は、火炎ビンだった。ただ、使用総本数について、『回想』も明記していない。『戦後事件史』(警察文化協会、1982年)という、1232ページの警察発行の大著がある。そこでは、1952年6月25日、吹田事件翌日の新宿駅事件について、次の記述をしている。「朝鮮動乱二周年目の二十五日、夕方から新宿の東京スケートリンクで行われた国際平和記念大会に集った約二千五百名が、散会後の九時四十分ごろ新宿駅付近にくり出し、警戒中の約千名の警官と衝突、例によって硫酸ビン、火炎ビンを投げつけて大乱闘となり、検挙者三十名、警官隊の負傷者二十名、新聞記者、カメラマンの負傷者三名を出した。投げられた火炎ビンはこれまでの事件では一番多く総数五十本以上で、投げ方も非常に正確であった」(378)。この本数を見ると、使用火炎ビン総数は、火炎ビン投てき件数35件で、数百本と推計される。
(民戦・祖防隊) 日本共産党軍事委員会・民族対策部(民対)は、北朝鮮系の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を指導下に置いていた。当時の民戦は、在日朝鮮人60万人中、45万人を傘下に抱えていた。在日朝鮮人日本共産党員が中核となっていた戦闘部隊が、「祖防委」「祖防隊」だった。彼らは、これらの武装闘争やZ活動を祖国解放戦争参戦行動と受け止めて、日本人共産党員兵士よりも、先頭になって実践した。それだけに、当局による逮捕・弾圧、職場解雇などの犠牲は甚大だった。
警察関係HP『左翼系在日朝鮮人騒乱史』警察側からの資料
Google検索『在日朝鮮人と武装闘争』
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階
下記でのべるように、六全協の野坂・宮本指導部は、彼らを見殺しにし、日本人共産党員兵士ともども「極左冒険主義」実行者として切り捨てた。武装闘争発令の日本人中央委員たちは、誰一人として、武装闘争・Z活動事件で逮捕・有罪・下獄にならなかった。日本人指導者たちの自己保身=在日朝鮮人の実践兵士見殺し政策にたいする怒りと批判が、金日成の思惑による呼びかけもあって、1955年、日本共産党指導下の民戦から、朝鮮労働党指導下の朝鮮総連に組織転換する下地にもなった。
(表6−1) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無
項目 |
白鳥事件 |
メーデー事件 |
発生年月日 概況 参加者 死傷者 |
1952年1月21日 札幌市白鳥警部射殺 殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ 逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡 白鳥警部即死 |
1952年5月1日 講和条約発効後の初メーデー 皇居前広場での集会許可の裁判中 明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前 皇居前広場突入4000〜8000人、逮捕1211人 死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832人 |
裁判被告 裁判期間 判決内容 |
殺人罪・殺人幇助罪で起訴 被告追平ら一部は検察側証人に 8年間 村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし |
刑法106条騒擾罪で起訴253人 分離公判→統一公判 20年7カ月間、公判1816回 騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6人 |
軍事方針有無 武器使用 共産党側の認否 関係者の自供 |
札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在 ブローニング拳銃1丁 軍事方針存在の全面否認 村上以外、「共同謀議」等自供 逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡 |
日本共産党中央軍事委員長志田が指令した 「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令 (プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒 軍事方針存在の全面否認 志田指令を自供した軍事委員なし 増山太助が著書(2000年)で指令を証言 |
警察側謀略有無 |
拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造 |
二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定 |
(表6−2) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無
項目 |
吹田事件 |
大須事件 |
発生年月日 概況 参加者 死傷者 |
1952年6月24、25日 朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅 集会2〜3000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他 デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41人 |
1952年7月7日 帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場 集会1万人、無届デモ3000人 逮捕890人、警官事前動員配置2717人 死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数 |
裁判被告 裁判期間 判決内容 |
刑法106条「騒擾罪」で起訴111人 日本人61人・朝鮮人50人、統一公判 20年間 騒擾罪不成立 第1審有罪15人、無罪87人 |
刑法106条「騒擾罪」で起訴150人 分離公判→統一公判 26年1カ月間、第1審公判772回 口頭弁論なしの上告棄却で騒擾罪成立 有罪116人=実刑5人、懲役最高3年 執行猶予つき罰金2千円38人 |
軍事方針有無 武器使用 共産党側の認否 関係者の自供 |
多数の火炎ビン携帯指令の存在 火炎ビンと竹槍(数は不明) 軍事方針存在の全面否認 公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用 |
「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在 火炎ビン20発以上(総数は不明) 軍事方針存在の全面否認 共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田は公判で軍事方針の存在承認→共産党は永田除名 |
警察側謀略有無 |
デモ隊1500人にたいして、 警官事前動員配置3070人 |
デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ |
これらの4事件について、軍事方針有無と警察側謀略有無の面だけを検討する。
(1)、白鳥事件
軍事方針の有無 その存在と事前活動は事実だった。白鳥警部射殺の軍事委員会会議と計画の存在も、村上札幌市軍事委員長以外の会議参加者ほぼ全員が自供しているので事実である。札幌地検は、1955年8月、彼らを殺人罪で起訴した。射殺がでっち上げならば、射殺実行犯とされる1人をふくむ10人を、“統一回復”日本共産党が、中国に亡命させる必要はない。また、第一審公判最中に法廷に提出された警察・検事調書を党中央命令で再検討・審査した、軍事委員川口孝夫を、宮本顕治・ソ連スパイ袴田里見らが、六全協後の1956年3月に、“白鳥事件の真相を知りすぎた男”として、人民艦隊を使って、中国・蜀=四川省の奥地に「永久流刑」させる必要もない。
「永久流刑」とは、北京機関代表・スパイ袴田が、宮本顕治と協議し、中国共産党側担当幹部にたいして、「革命が起きるまでは、川口を日本に帰さないでくれ」と依頼したことである。その事実は、中国幹部が川口に直接話したことから判明した。さらなる疑惑がある。朝鮮労働党が、よど号事件犯人を厚遇・利用しているのと同じように、中国共産党が、白鳥警部射殺実行犯とされる佐藤博の中国における死亡後も、鶴田倫也1人を、今なおかくまい続けることは、まったく不自然である。
第一審札幌地裁は、1957年5月、村上被告に「無期懲役」の判決を出した。控訴審札幌高裁は、1960年5月、「懲役20年」の判決をだし、上告棄却により、村上軍事委員長は下獄した。事件・裁判の概要は、下記HPにある。
警察側謀略の有無 幌見峠で発見された試射銃弾は、その旋条痕・腐蝕度の諸鑑定からみて、警察の謀略による「でっち上げ物的証拠」である。日本共産党は、使用したブローニング拳銃、自転車を廃棄・隠蔽し、その実行犯など10人を人民艦隊で中国共産党側に逃亡させ、物的・人的証拠の完全隠滅に成功した。中国共産党は、犯人隠匿に全面協力した。警察側にあるのは人的証拠としての村上札幌市軍事委員長をふくむ逮捕者55人だけだった。その2/3は、白鳥事件への関与を認めて自白した。自白調書だけによる公判維持は、きわめて困難である。そこで、警察側がでっち上げたのが幌見峠試射銃弾だった。
白鳥事件については、三つの文献がある。中野徹三『現代史への一証言、白鳥事件』、川口孝夫『私と白鳥事件』添付、高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に、事件の概要『白鳥事件、村上国治さん』である。
中野徹三『現代史への一証言、白鳥事件』、川口孝夫『私と白鳥事件』添付
高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
事件の概要『白鳥事件、村上国治さん』
(2)、メーデー事件
軍事方針の有無 皇居前広場突入軍事方針の存在と発令は事実である。その経過を、増山太助東京都ビューロー・キャップが『左翼群像』(225)において明確に証言した。メーデーの前日、共産党の都委員会は拡大都委員会を開き「会場問題」について意志の統一を図ることになり、査間中の私も求められて出席することになった。ビューロー・キャップの枡井ら多数は「少なくとも共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張したが、私は「実行委員会の意向を尊重して人民広場に入るべきではない」と反対した。
そして、白熱の討議の結果、「人民広場には入らず」「中央コースのデモ隊が広場側を通過する際、シュプレッヒコールで抗議の意思表示をおこなう」ことになり、関係方面にその旨を伝えた。ところが、その晩、志田の使者・沼田秀郷が枡井、浜武司を通じて全都の共産党地区委員会に「党員は大衆を誘導して人民広場に突入せよ」と命令し、いわゆる「血のメーデー」の事態に発展したのであった。もちろん、宇佐美の「独立遊撃隊」も宮島の「カメラマン集団」もこの命令に従って出動したのであり、臨中も、またこの日から放送を開始した北京の自由日本放送も、「血のメーデー」の激突を「民族独立」の「英雄的決起」とほめたたえた。
警察側謀略の有無 講和後初のメーデーで、警察も、事前に大規模な警備体制をとっていた。警察側の謀略作戦内容は、公判で明らかになり、判決もそれを認定した。メーデー事件被告団団長岡本光雄は、『メーデー事件』(白石書店、1977年、絶版)で、事件経過について綿密な論証をしている。警察側作戦は、二重橋広場の一番奥まで、デモ隊の行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという「騒擾罪をでっち上げる目的」を持った謀略だった。判決は、「警察の襲撃は違法行為」と認定した。
メーデー事件については、インターネットで六つのファイルがある。『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動、『検察特別資料から見たメーデー事件データ』「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査』、増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」、丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』、滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』、法政大学大原社会問題研究所『四つの騒擾事件』である。
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
『検察特別資料から見たメーデー事件データ』「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査』
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
法政大学大原社会問題研究所『四つの騒擾事件』
(3)、吹田・枚方事件
軍事方針の有無 吹田事件については、『回想』データを見るかぎり、多数の火炎ビン投てきと竹槍所持は事実である。2003年4月になって、枚方(ひらかた)事件・元被告の脇田憲一から、枚方・吹田事件の資料と証言を得た。この詳細は、彼の著書にある。彼の資料を参考にする。
枚方事件とは、1952年6月23日深夜から24日未明にかけて、日本共産党大阪府ビューロー・軍事委員会の軍事方針に基づいて、旧陸軍造兵廠枚方製造所に「パルチザン(遊撃隊)」9人が侵入し、時限爆弾2発を仕掛け、1発が爆発した軍事行動だった。さらに、24日夜から25日未明にかけて、日本共産党東大阪地区の青年党員、在日朝鮮民主愛国青年同盟員らが、百数十人の行動隊を結成し、枚方工廠の小松製作所払い下げ運動の中心人物小松正義宅に押し掛け、火炎瓶数本を投げ込んだ事件である。旧枚方工廠爆破事件・小松正義方襲撃事件で、警察・大阪地検は、100人を逮捕し、65人を起訴した。裁判期間は、15年3カ月間だった。判決は、有罪59人、内懲役実刑3年から5年が5人、無罪6人だった。このデータは、上記(表6−2)吹田事件の数字とは別である。
吹田事件については、彼の事件概要資料のごく一部をそのまま引用する。
吹田事件は、朝鮮戦争二周年記念六・二五闘争を代表する事件であった。また、当時の日本共産党の軍事闘争として、その計画性と規模において、また、その社会的影響力において戦後最大の反権力、反戦闘争であった。日本共産党(主流派)は、この事件を革命闘争の前進として評価し、検察当局は治安警備の大失敗であったと総括している(検察資料「吹田・枚方事件について」検察研修特別資料第十三号・一九五四年三月発行)。
筆者は、この「検察資料」の入手によって、はじめて検察側から見た吹田・枚方事件の全体像を知ることができた。この資料は検挙した被告の自供調書と押収した日本共産党および朝鮮人団体の内部文書により、事件の計画、実行、総括の全貌を明らかにした。この資料を当時の日本共産党大阪府ビューロー(地下指導部)のメンバーであったU氏に目を通してもらった。かれは「自分が関係した部分に関してはほぼ正確である」と認めた。
朝鮮戦争二周年記念日闘争の戦略を裏づける文書として「大阪民対六・二五闘争報告」を取り上げる。検察側はこの文書を次のように重視している。「本文書は押収文書中もっとも重要なもので、六・二五記念日闘争の全般について詳細かつ正確な記載で満たされている。六・二五闘争の基本方針と具体的戦術、準備活動は本文書で述べ尽くされているごとき感があるのである。特に重要と思われる点は、枚方における小松正義方の放火未遂事件と旧陸軍枚方工廠の電動水圧ポンプ爆破事件が、六・二五闘争の一環として、吹田騒擾事件と相呼応して敢行されたものであることを示している点である。六・二五吹田騒擾事件と六・二五枚方事件との関連性を示す最も価値のある文書である」(「検察資料」一〇〇頁より)。
さらに国警大阪府本部と大阪市警視庁はこの文書の真実性を裏付ける文書として民戦中央委員会、関西祖国防衛委員会、日本共産党西日本ビューローの闘争指令を入手している。これらの文書によって朝鮮人側の軍事闘争を指導する大阪府民族対策部の代表を、この六・二五闘争に関して党大阪府軍事委員会メンバーを加える決定をしていることが示されている。つまり、吹田・枚方事件は、東京のメーデー事件に対抗した大阪の闘いとして朝鮮人側と日本人側の組織が合流し、統一司令部を形成して実行したことが窺える。筆者はこの事実を先述の党大阪府ビューローメンバーU氏の総括文書「大阪の一隅に生きて七十年」−私の総括(六四頁)、夫徳秀の「第一回吹田事件研究会」の報告メモ、名古屋大須事件・酒井博元被告の証言などによって検証する。
一日違いの2事件の性格・関係と位置づけについて、脇田憲一は、枚方工廠爆破行動の方が、主要目的の軍事作戦であり、吹田事件は、それを成功させるための大衆行動としての陽動作戦である、と位置づけている。そして、彼は、2事件を統括する軍事方針の存在は明白だとしている。日本共産党が、武装闘争=朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動において、時限爆弾を使用したのは、この枚方工廠爆破行動のケースだけである。それだけに、事件後、共産党大阪府ビューローは、総括で、「東京のメーデー事件と比べて、意識的具体的に計画し、軍事行動と結合させた行動」と自賛した。2事件の公判とも、それぞれ担当の軍事委員長は、軍事方針の存在・軍事指令実態を具体的に陳述した。
警察側謀略の有無 デモ隊1500人にたいして、警官事前動員配置を3070人もしていたことは、メーデー事件の後とはいえ、過剰警備といえる。ただ、「検察当局は治安警備の大失敗であったと総括」したというデータや根拠については、脇田憲一著書がある。
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』 『私の山村工作隊体験』略歴、高橋彦博『枚方事件について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む、金時鐘『50年目の証言・吹田事件とわたし』がある。
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』 『私の山村工作隊体験』略歴
高橋彦博『枚方事件について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む
(4)、大須事件、共産党が隠蔽した、もう一つの真実
警察側謀略の有無 警官事前動員配置は2717人だった。デモ開始わずか5分後、250m進行時に、警察放送車内で火炎ビンが発火したことが最大の疑惑である。警察・検察側は、その最大の物的証拠である火炎ビンを、公判26年間中に、21年間も提出しなかった。警察放送車に火炎ビンを投げたとされ、デモ隊先頭グループにいた鵜飼昭光が警察側スパイであったことは事実で、警察も彼がスパイであったことを公判で認めた。「大須事件の作り変え」の決定的証言を6回した警官清水栄は、弁護団の7回目の再尋問請求から、突如、家出・失踪した。警察側が無届デモ隊3000人にたいして警察放送車内火炎ビン発火と同時に、いっせい先制攻撃をしたタイミングよさは異常である。大須事件被告団・弁護団発行の『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(1980年、絶版)が、多数の写真、現場岩井通り地図をふくめて、「騒擾罪でっち上げ目的」の警察側謀略作戦を論証している。
共産党愛知県委員会は、1970年、愛知県国民救援会事務局長を、「長期にわたる公安スパイだった」として、除名した。事務局長は、大須事件裁判過程にあった被告団・弁護団活動やその実務の中心にいた。当然、被告・弁護団側の裁判闘争方針や内部の実情は、彼を通じて、警察・検察側に筒抜けになっていた。彼が、事件後のいつからスパイであったかの実態は、闇の中である。事件当日・公判過程の謀略作戦や、救援会事務局長をスパイに取り込む作戦など、警察・検察側は、騒擾罪をでっち上げる目的で、あらゆる手段を行使した。
軍事方針の有無 集会1万人にたいして、無届デモ参加者は3000人だった。前日の7・6広小路デモ逮捕者12人中の一人から発見された、翌日集会後に「無届デモとアメリカ村、名古屋中警察署への抗議行動をする」という軍事委員会指令のメモが存在したことは事実である。警察は、軍事メモという物的証拠を前日に入手して、色めきたった。警察発表の火炎ビンは20発以上ある。
大須事件が、メーデー・吹田事件と異なるのは、3点ある。(1)軍事委員会指令メモという物的証拠が存在し、前日に警察側の手に渡ったこと、(2)警察側スパイ鵜飼が、デモ隊先頭グループにおり、警察放送車に火炎ビンを投げたと公判で証言したことである。(3)名古屋地検・名古屋市警察が、メーデー事件裁判経過を学び、吹田事件の翌日6月26日に会議を開き、はやくも名古屋の今後の集会に擾乱罪を適用する準備を整えていたことである。事件後、安井名古屋地検検事正は「この大須の擾乱事件を名実ともに日本一の事件に仕立てあげたい」と豪語した。ここには、5・1メーデー事件担当東京地検、6・24吹田事件担当大阪地検、7・7大須事件担当名古屋地検どうし間における、どこの警察・検察側が騒擾罪適用判決を勝ち取るかどうかの、熾烈な地検間成績争い競争もあった。擾乱罪適用をさせるための名古屋地検・名古屋市警察の意気込みと謀略作戦の諸データは、『大須事件の真実』が載せている。これらは、3番目の7・7大須事件裁判闘争をたたかう上での、他2事件にない特殊条件だった。
公判進行途中に、共産党は、共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ・大須事件被告永田末男を除名した。いったい、共産党は、なぜ、どういう口実で彼を除名したのか。彼は、1958年の共産党第7回大会に愛知県選出代議員として出席しているから、除名は、その後の時期である。彼は、他2事件にない3つの特殊条件を持つ法廷闘争の進め方について、党中央と意見が対立した。永田被告は、それらの特殊条件がある以上、党中央指令に基づき、彼と軍事委員会が出した火炎ビン携帯の軍事命令を認めた上で、火炎ビンを携帯したが投げてはいないとして、警察側の謀略とたたかうべきだと、党内で主張した。彼は、裁判闘争方針について、「軍事指令の存在に関して、全面否認のウソをつき続けるか、それとも、真実を認めるという転換をするのか」という2つの選択肢を提起し、第2の道を選べとの方針大転換意見を提起した。
党中央は、裁判途中で、今さらそんな闘争方針転換を認めたら、デモ参加・逮捕者だけでなく、党中央機関全体が逮捕・弾圧されると、恐怖におののいた。刑法106条「騒擾罪」で起訴された愛知県150人の朝鮮戦争「参戦」日本人兵士・在日朝鮮人兵士だけに、武装闘争実践責任を押しつけておけば、彼らが26年間、大須事件被告として裁判にかけられようとも、党中央委員会は、安泰である。永田被告も代議員として出席した、1958年共産党第7回大会後の野坂参三議長・宮本顕治書記長は、「あくまでウソをつき続けよ」との方針を決定し、被告団・弁護団内共産党員グループに命令した。彼は、党中央決定に逆らって、公判で火炎ビン携帯軍事指令の存在を認め、警察側謀略を告発した。
共産党の永田除名理由は、「党内問題を党外にもちだした=真実を公判で陳述した」という反党行為規律違反だった。武装闘争実践において日本共産党が、事件指導者を除名したケースは、この大須事件永田愛知ビューローキャップ一人だけである。永田被告を除く、大須事件被告団・弁護団は、野坂・宮本命令に従って、「火炎ビン携帯の軍事委員会指令など出していない。火炎ビンが有ったのかどうかも知らない。すべてが警察側の謀略であり、完全無罪である」との法廷戦術を続けた。火炎ビン携帯指令が存在した事実を全面否認せよ=「3つの特殊条件があろうとも、法廷でウソをつけ、真実をのべてはならない」との野坂・宮本方針による裁判闘争26年間の結果は、3大騒擾事件中、大須事件だけに「騒擾罪」の成立を許した。日本共産党には、このような特殊条件下の裁判闘争方針の正否、および、永田除名経緯を総括・公表する義務がある。
大須事件元被告・当時愛知第2地区地区委員長酒井博は、HPで次の事実をのべている。「7月7日夜のデモの進路を変更して中警察署やアメリカ村には行かず、上前津の交差点を右折して金山方面に向かってデモ行進を行い、金山体育館で流れ解散する、という方針をたてていた。これは全組織を通じて流されたので、7日の夜には私たちのところにも指令は届いていた。官憲が弾圧を加えてくることは分かっていたので、アメリカ村に行くと見せかけながら、官憲にかたすかしを食わせる、抗議はするけれど実力行動はやらないということだった。このような方針が出たので、私も地区の党員に今日は火焔瓶を持っていくなと伝えた。
それでも共産党というのはおかしくて、Y=軍事委員会の方針は独自に情勢分析をやって火焔瓶を持たせていた。大衆的なデモをするという方針を出しながら、裏のほうでは中核自衛隊という自衛組織に火焔瓶を持たせていたのである。党の組織は二重になっていたのである」。「私を8月30日に逮捕したねらいは、後で考えてみれば、私は軍事委員会でも中核自衛隊でも無いけれど、当時の共産党の中では比較的大衆闘争をやっていたということで、政治的に私を逮捕する効果が大きいと考えたのでしょう。最初弁護士は、選挙が終ったらすぐ釈放されると楽観していた。私も楽観していた。
しかし、その後保釈されるまでに235日、独房で暮らす事になった。一方、軍事委員長は捕まっていないのである。結局本当に大須事件を企画し、実行した軍事部門の、特に中核自衛隊等の連中はほとんど捕まっていない。その理由はわかりません。そういうことを共産党は明らかにして、その上で総括する必要があると思いる。事件があってそれが騒乱罪で裁かれて終ったという事だけではなく、大須事件の真実を明らかにすべきだと思いる。その後控訴審、最高裁と26年に及ぶ長期の裁判闘争だったが、結局、大須事件では、騒乱罪が成立した。私の最終的な判決は付和随行で、6000円の罰金刑に2年の執行猶予がついた」。
酒井博『名古屋・大須事件の証言』末尾に現場岩井通り地図
名古屋市警・名古屋地検は、講和条約後の日本法制史上、初の刑法106条「騒擾罪」成立判決をさせるかどうかの、東京・大阪との地検間レースに勝ち抜いたことで、勝利の祝杯をあげた。日本共産党の野坂議長・宮本書記長らは、永田被告の反逆・反党行為があったのにもかかわらず、大須事件の被害が党中央に及ばなかったことで、安堵の息をもらした。
私と大須事件被告たち
この事件に関連して、私の体験をのべる。私は、名古屋生まれの名古屋育ちである。大須・上前津の交差点付近は、古本屋が集中しており、古本屋めぐりが趣味の私は、その近辺を数十回歩き回り、事件現場も熟知している。ただ、1952年当時は、まだ15歳で、事件の記憶は残っていない。
『日本共産党との裁判第6部〜8部』民事裁判提訴→除名、尾行・張込1カ月間→判決
永田被告は、懲役3年の判決を受け、日本人2人、在日朝鮮人2人とともに、1978年下獄した。彼は、三重県津市で学習塾をしていた。その時、彼の友人が、「日本共産党との裁判」中の私に電話をかけてきた。下獄中、学習塾を閉鎖したくないので、同じ除名・反党分子仲間の私にやってくれないかという依頼だった。私も、いろいろ考えたが、自分の裁判と学習塾運営のかけもちは無理だと、断った。彼が仮釈放になったのは、1980年だった。
酒井元被告には、2003年、話しを聞いた。彼の意見は、現在も上記のとおりである。それ以外にも、愛知県党の諸問題について、強烈な批判意見を持っていた。
私の共産党専従以来の友人に、同じく共産党専従だった千田貞彦がいる。彼は、逓信のレッド・パージを受けた労働者で、大須事件の直前まで名古屋市軍事委員長だった。名古屋では、1952年5月30日金山橋事件、7月6日広小路事件、7月7日大須事件と続きた。ところが、彼は、金山橋事件で逮捕され、大須事件当日も留置所にいた。そこで、後任の軍事委員長は、柴野一三になった。永田、柴野らの軍事委員会が火炎ビン携帯命令を出した。千田貞彦が軍事委員長だった5月頃には、まだ火炎ビン携帯軍事命令は、党中央軍事委員会から降りて来ていなかった。よって、彼は、金山橋事件被告になったが、大須事件被告にはならなかった。彼も、永田除名の経緯は、上記のとおりと証言している。
私は、個人的にも、他に大須事件被告を十数人知っている。高校生時代の先生・図書係3人がいる。後に民青中央常任委員になった図書係のアドバイスで、『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』『チボー家の人々』などを読んだ。愛知県の共産党専従時代では、先輩の専従、議員、民商事務局員らの何人かは、大須事件被告で、裁判をたたかっている最中だった。これらの個人的体験からも、3000人無届デモにおいて、火炎ビン約20本携帯の軍事委員会指令が、中核自衛隊・独立遊撃隊や在日朝鮮人祖防隊に出ていたとしても、大須事件は、警察側謀略が基本要素であって、3000人に「暴行・脅迫の共同意思」が成立していたはずもなく、「騒擾罪」成立判決は、まったく不当である、というのが私の判断である。
被告二人の証言はインターネットファイルに載せた。被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判、元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』、『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る。
第1部『共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備』 『第1部・資料編』
第2部『警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備』 『第2部・資料編』
第3部『大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否』 『第3部・資料編』
第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』
第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
(5)、火炎ビン多用軍事命令の始期
党中央軍事委員会が、実際の火炎ビン携帯・多用の軍事命令を出したのは、いつ頃か。それは、1952年5月末からである。5・1メーデー事件以降、名古屋には、5・30金山橋事件においても、その軍事命令が、党中央から降りて来ていない。火炎ビン多用ケースは、6・24吹田事件数十本、6・25新宿事件50本、7・7大須事件20本である。共産党側がその本数を認めるはずもないので、これは警察発表数字である。
共産党側の唯一の証言は、由井誓早稲田大学中核自衛隊長が5・30新宿駅前事件についてのべた『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』ケースである。「実際に火炎ビンを持って街頭に出たのは、私の記憶に間違いがなければ五・三〇であった。当日は雨模様ではあったが、新宿駅前で「破防法粉砕総決起大会」が予告されており、なにごとかを期待する群衆が夕方からたむろしていた。早稲田の隊は二幸側から、東大の隊はガード下の方から、居住の隊は武蔵野館の方から駅前交番めがけて火炎ビンを投げた。三方向の連絡には夜の女をよそおったお茶大の隊員があたった。それまでは夜陰に乗じての襲撃方法が一般的で、群衆の目の前での火炎ビンがめずらしかったのか『火炎ビンがバカスカ』というように表現されているが、実際に投げたのは三方向から一〇人ぐらいがひとり二本ずつだったろう。材料入手も簡単でなかっただけに扱いも慎重だった」。このケースは約20本である。
党中央軍事委員会は、5・1メーデー事件において、警察側の「違法攻撃」にたいするデモ隊の怒りを、「日本人民が、共産党の武装闘争路線を支持して、ついに決起した」と錯覚した。軍事委員会は、その人民蜂起を持続・発展させるために、Z活動(武器使用)としての火炎ビン多用戦術に、武装闘争方針をエスカレートさせた。そのスタートが、5・30新宿駅前事件20本だった。
そして、7・7大須事件においては、酒井博証言のように、彼が表側で火炎ビン携帯を禁止したのに、裏側で中核自衛隊がそれを携帯したのは事実である。共産党の民主主義的中央集権制とは、レーニン以来、鉄の軍事規律=武装蜂起軍隊の組織原則だった。党中央軍事委員会の火炎ビン携帯軍事命令がないのに、下部部隊の名古屋市軍事委員会が独自判断で、火炎ビン携帯を戦闘組織である中核自衛隊・在日朝鮮人祖防隊にたいして、独断専行で指令することなどありえない。酒井証言は、火炎ビン携帯の党中央軍事委員会命令が降りて来ていたことを証明している。
〔小目次〕
1、後方基地の兵站補給・治安の武力かく乱効果
2、日本における「革命」情勢の形成、大衆運動の進展における逆効果
3、党勢力の増減、国政選挙の増減
1、後方基地の兵站補給・治安の武力かく乱効果
(表3、4)から見て、米軍基地襲撃、軍需生産の阻止・妨害、朝鮮向け軍需物資鉄道輸送妨害の戦争行動は、ほとんどない。(表3)の米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃数は、11件/265件、4%であり、本格的な集団攻撃はない。
スターリン・毛沢東が日本共産党「軍」に与えた軍事命令内容は、結果から見るかぎり、兵站補給基地日本における治安の武力かく乱戦争行動だった。1955年10月五全協後、“統一回復”日本共産党は、続々と軍事方針を発表した。その一つが、11月22日付『(警察)予備隊工作の当面の重点』『警察工作の立ちおくれを克服するために』(『球根栽培法』第2巻第23号・通巻第32号)(『戦後党史』137)だった。その軍事指令に基づく参戦行為が、(表3)における警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)95件、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)2件、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)48件」の合計145件/265件、55%である。
もちろん、これは、武装闘争の第2性格、吉田内閣・警察の弾圧にたいする“抵抗自衛”の非合法活動でもあった。これらの参戦行為は、(表5)の3大事件と合わせて、治安の武力かく乱の面で、一定の効果を挙げたかに見えた。しかし、それは、国民の感覚から浮き上がり、さらなる弾圧の口実を与え、全面的な逆効果の結果となった。
2、日本における「革命」情勢の形成、大衆運動の進展における逆効果
この時期の全体評価については、小山弘健が『戦後党史』第3章極左冒険主義の悲劇(133〜178)で、詳細にのべている。要約だけでも、かなり長くなるので、その一節のみを引用する。これは、私の評価とまったく同じである。
「第二章でみたように、一九五〇年春以後一カ年半にわたる苛烈きわまる分派闘争は、わかいまじめな党員や同調分子の大衆を党からひきはなした。昨日までの同志を、一夜にしてスパイ、帝国主義の手さきとみなし、個人のひみつをまで平然と敵にばくろする非人間的やりかたは、多くの人たちに二度と回復できない心理的衝撃と不信感をあたえ、永久に戦列から去らしめたのだが、それがやっとおさまったとみるや、今度は一年たたないうちに、いっそう実害の多い火炎ビン闘争の極左冒険主義への突入となり、いくたの青年たちを生涯とりかえしのつかない破めつのふちにおいこんだ。
党地下指導部のまちがった戦術のぎせいとなった多数の青年・学生・朝鮮人が、その後何年間も追及をうけ裁判にかけられて、その青春をむなしく朽ちはてさせられた。またこの火炎ビン闘争は、広範な大衆に党を誤解させ恐怖させ嫌悪させて、ながく党からひきはなすうえに最大の役割をはたした。これらすべてにたいして、この時期の党指導部は全責任を負わねばならない」(148)。
3、党勢力の増減、国政選挙の増減
“統一回復”日本共産党の根本的な誤りは、朝鮮侵略戦争に参戦したこと、スターリン・毛沢東の軍事命令に盲従して後方基地武力かく乱戦争行動に突入したことだった。それは、多くの党員、支持者たちを犠牲にし、党勢力を一挙に激減させた。
(表7) 党員数、国政選挙議席・得票数の増減
年 |
事項 |
党員数 |
届出党員数 |
総選挙 |
参院選 |
|
勅令→団規令 |
議席 |
得票数(万) |
議席 |
|||
1945 1946 1947 1948 1949 |
12.1 第4回大会 2.24 第5回大会 12.21第6回大会 |
(発表) 1181 (発表) 6847 (推定) 70000 (徳田論文) 200000 |
625 16281 |
5 4 35 |
(2名連記) 213 100 298 |
4 |
1950 1951 1952 1953 1954 |
1.6 コミンフォルム批判 2.22 四全協 10.16五全協 12 全国軍事会議 7.27 朝鮮戦争休戦協定 12 全国組織防衛会議 |
(発表) 236000 (?) 83578 (推定) 75000 (推定) 73000 (推定) 62000 |
106693 59033 51113 48574 |
全員落選0 1 |
90 66 |
3 全員落選0 |
1955 1956 1957 1958 |
7.27 「六全協」 7.21 第7回大会 |
(推定) 35000 (推定) 36000 (推定) 38500 (発表) 3万数千 |
|
2 1 |
73 101 |
2 |
(表6)のデータは、『回想』巻末の「日本共産党年表」(276〜283)にある数字である。(発表)数字は、日本共産党の正式発表である。(推定)数字は、警察庁警備局側のものである。第7回大会発表が「党員数3万数千」であるので、それ以前の(推定)数字も近似値といえる。「党員数236000人」は、1950年4月29日、第19回中央委員会総会の発表数字である。
2つの(発表)数字を比較する。236000人−3万数千≒−200000人である。党員残存度は、3万数千÷236000人×100=15%となった。この−20万党員、−85%のほとんどは、その後も、日本共産党に戻らなかった。総選挙は、35議席から、全員落選0を経て、1議席になり、得票数は、1/3に激減した。大衆団体も、数字的データはないが、崩壊・解散、および会員数が激減した。
6、「史上最大のウソ作戦」戦後処理のソ中両党隷従者宮本顕治
1955年六全協指導部復帰〜1961年第8回大会「61年革命綱領」
〔小目次〕
1、「史上最大のウソ作戦」
2、国際的な戦後処理・スターリン死後処理
3、ソ中両党隷従者宮本のソ中両党命令履行状況 (表7、8)
1、「史上最大のウソ作戦」
『史上最大の作戦』とは、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦の映画題名である。「Dデェイ」については、映画『プライベート・ライアン』の冒頭30分シーンでも、鮮烈な映像で再現された。これは、連合国軍による“ウソいつわりのない”フランス上陸作戦だった。
それにたいして、『史上最大の“ウソ”作戦』とは、第二次世界大戦5年後に開始された朝鮮半島38度線突破侵略戦争のことである。金日成・スターリン・毛沢東のマルクス主義前衛党3党が「所有する国家と軍隊」が、侵略戦争を始めたことは、歴史の真実として、今や明らかになっている。ところが、この戦争は、「李承晩軍事独裁政権が先に38度線を突破し、侵略を開始したので、社会主義国家がやむなく反撃した」という『20世紀史上最大の“ウソ”』を、1991年ソ連崩壊までの、ほぼ41年間も、世界に信じ込ませるという、見事なまでのペテン成功事例となった。それ以前にもほぼ暴露されていたが、スターリンの暗号電報など完璧な証拠データが発掘・公表されたのは、41年後だった。
この事例は、(1)政治的ウソは、スケールが世界的で、大きければ大きいほど、信じられやすく、かつ、(2)ウソをつかず、真実のみを語ると公言してきた世界的なレーニン主義最高権力者3人がねつ造した“ウソ”ほど、ばれにくいという「レーニン主義テーゼ」を証明した。20世紀世界の戦争作戦史において、これほどの長期にわたって、世界中をあざむき通したウソ作戦成功例は、皆無である。
しかも、彼らマルクス主義前衛党権力者たちが、この全世界をあざむくという科学的社会主義ウソを、侵略開始前から作戦要諦の基本として、位置づけていたことも証明された。萩原遼は『朝鮮戦争』第11章「金日成の謀略」において、次の証拠を載せている。
「それは金日成が戦争開始後最初におこなった演説のなかでである。この演説は開戦の翌日、一九五〇年六月二十六日午前八時からラジオを通じておこなわれた。李承晩の軍隊による全面的な侵攻によって祖国に大きな危機が迫っているとして全国民に総動員、総決起を訴えたもので、全文約七千字。重要な部分はつぎのくだりである。『売国逆賊李承晩かいらい政府の軍隊は、六月二十五日、三十八度線の全域にわたって三十八度線の以北地域にたいする全面的な侵攻を開始した。
勇敢な共和国警備隊は、敵の侵攻を迎えうって苛酷な戦闘を展開しながら李承晩かいらい政府軍の進攻を挫折させた。朝鮮民主主義人民共和国政府は現情勢を討議し、人民軍に決定的な反攻撃戦を開始して敵の武装力を掃討せよ、と命令した。人民軍は共和国政府の命令によって、敵を三十八度線以北の地域から撃退し、三十八度線以南の地域へ十〜十五キロメートル前進した。人民軍は甕津(オンジン)、延安(ヨナン)、開城、白川(ペクチョン)などの各都市と多くの村落を解放した』」(247)
スターリンが、1950年1月30日、金日成にたいして、朝鮮侵略戦争開始の同意を与えた機密暗号電報内容は、上記に載せた。『謎と真実』の著者トルクノフは、ヴォルコゴーノフ将軍の個人コレクションやスターリン・金日成の3回会談参加者へのインタビューを根拠として、次の構図を描いている。
「スターリンは、朝鮮民主主義人民共和国の軍事力を、量的にも質的にも大幅に増強する問題を持ち出した。攻撃の詳細な計画もまた不可欠である。三段階にわたって作戦を分けるのが適当である。(1)はじめに三八度線付近に部隊を結集する。(2)その後、朝鮮民主主義人民共和国が平和統一の新たな発議を行う。(3)ソウルはそれを拒否し、そして攻撃を仕掛けるであろう。(4)甕津半島に沿って攻撃を加えるという発想はよい。(5)これは最初に誰が軍事行動を始めたかという事実を隠蔽するのに役立つからだ。(6)南からの反撃の後、前線を広げるチャンスが訪れる。(7)戦争は電撃戦でなければならず、敵に北側へ入る機会を与えてはならない」(98)。ただ、これに関して、スターリンが直接出した機密暗号電報、および3回の会談記録そのものは、まだ発見されていない(97)。
2、国際的な戦後処理・スターリン死後処理
〔小目次〕
1、ソ連共産党・マレンコフ→フルシチョフ
2、中国共産党・毛沢東
3、朝鮮労働党・金日成
4、国際共産主義運動
5、日本共産党・「制限主権」者に宮本顕治を起用
1、ソ連共産党・マレンコフ→フルシチョフ
スターリンは、「フィリポフ」「フィン・シ」の偽名を用い、ソ中両党から金日成、毛沢東らに直接、暗号電報で秘密指令を出し、戦争を操り、休戦を阻止した(『謎と真実』全体)。彼は、1953年3月5日死去した。彼の死後、ソ連は、朝鮮戦争継続の政策を直ちに変えた。ソ連共産党は、戦争終結への新方針を確立し、それを毛沢東と金日成に伝えた(『謎と真実』370〜)。
朝鮮戦争におけるソ連側の人的損害は、秘密参戦したミグ戦闘機パイロット一部以外はなかった。スターリンは、ソ連軍事顧問団を、米韓軍が鴨緑江に迫る前に、安全地帯の中国に待避させる命令を出していたからである。ソ連側の経済的損害もなかった。なぜなら、スターリンは、北朝鮮に貨車1千輌の軍需物資を送ることと引き換えに、金日成に毎年25000トンの鉛を現物でソ連に提供せよと求めたからである(『冷戦』140)。スターリンは、毛沢東にたいしても同じような取引をした。スターリンのしたことは、無償の軍需物資援助ではなく、一種の武器輸出経済だったことも、これらの2冊は、ソ連崩壊後に発掘された膨大な暗号電報・秘密指令で、論証した。
3月5日スターリン死去→3月6日マレンコフ首相→6月7日東ベルリン・反ソ暴動、ソ連軍鎮圧→7月10日ベリヤ・ソ連副首相兼内相解任、党除名(12月13日銃殺)→7月27日朝鮮戦争休戦協定成立→8月8日ソ連・水爆保有を公表→9月12日フルシチョフ・ソ連共産党第1書記。
スターリンの死後処理は、大変だった。スターリンは、古参ボリシェヴィキやライバルを銃殺・暗殺で皆殺しにしていた。死後の指導権争いメンバーは、スターリン別荘にたむろしていたスターリン側近だけだった。彼ら側近は、スターリンの4000万人粛清、大テロル期の600万人粛清・68万人から100万人処刑犯罪の共犯者だった。国民の怒りを逸らすために、早速、(1)7月10日、ベリヤを解任・除名・銃殺にした。それだけでは、ソ連共産党への犯罪糾弾は収まらない。(2)フルシチョフは、1956年2月、第20回大会で、『スターリン批判の秘密報告』をした。その内容は、まさに衝撃的だった。しかし、それは、共産党の自国民大量殺害犯罪の責任を、スターリンの個人的資質・犯罪にすりかえて、共産党一党独裁システムを崩壊から救済するという謀略報告だった。
国際的なスターリン死後処理の面で、ソ連共産党が採った路線は、東欧のソ連衛星国政権内のスターリン批判運動・自立運動にたいする徹底した武力弾圧と一層の完全従属化だった。(1)6月7日東ベルリン・反ソ暴動をソ連軍が鎮圧した。(2)1956年10月、スターリン批判を受けて勃発したハンガリー民衆蜂起事件を、ソ連軍戦車が制圧した。ソ連軍は、3000人を殺害し、20万人を亡命に追い込んだ。(3)1968年8月、プラハの春・チェコスロバキア事件で、ソ連等5カ国軍戦車が、全土を占領した。そして、ドゥプチェクをはじめ党員50万人を除名し、職場追放をした。ブレジネフがこのとき唱えた『制限主権論』とは、コミンテルン・コミンフォルム以来の暗黙の鉄則であるソ連共産党の国際的支配権=東欧をふくむ全世界の前衛党の完全従属理論を、あらためて宣言した内容にすぎない。小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』スターリン批判の性質が分析している。
小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』スターリン批判の性質
2、中国共産党・毛沢東
中国共産党は、朝鮮戦争開始前から、(1)事実上の参戦を、朝鮮人部隊14000人派遣で遂行していた。さらに開戦前に、約3万人の第2次派遣も、完全装備つきで行なった。これらの事実については、萩原・中国人研究者・ロシア人研究者2冊の計4冊ともが証明している。(2)中国人民義勇軍30万人の正規の鴨緑江渡河は、1950年10月19日である。朝鮮戦争の34カ月間/37カ月間という92%期間は、仁川上陸作戦により、半ば壊滅した朝鮮人民軍にかわって、のべ300万人の中国軍が参戦した実質的な中米戦争だった。
中国人民義勇軍の死者は100万人にのぼった。侵略戦争に参戦したことによる人的・物的損害は甚大だった。しかし、金日成の戦争目的と毛沢東の参戦目的とは異なる。毛沢東の決断は、米韓軍が鴨緑江まで迫ったという戦況において、アメリカの「対中侵略」の意図を長期的に阻止することだった。鴨緑江から38度線まで押し戻して、戦線を固定させたことは、彼にとって勝利ともいえる戦果だった。彼も、スターリン死去による戦争終結方針を歓迎した。彼の権威は、中国共産党内だけでなく、ソ連、北朝鮮内でも高まった(『毛沢東の朝鮮戦争』第11章全体)。
ただし、スターリンが、(1)参戦当初、ソ連空軍の派遣・援護を拒否したこと、(2)朝鮮戦争後、軍需物資に代金を請求したことなどにたいして、毛沢東は、強烈な不満を持った。その時点では、それをめぐる対立は表面化しなかったが、そのスターリン批判内容は、3年後の中ソ論争の伏線を作った。
ソ連共産党のスターリン死後処理=1956年スターリン批判とその内容に、毛沢東が反発し、イデオロギー対立として表面化した。1960年、ソ連人専門家引揚げ以降、中ソ対立は決定的になった。
3、朝鮮労働党・金日成
金日成にとって、侵略戦争の結果は、悲惨だった。北朝鮮側死者は250万人になった。国土・産業は、2度の戦場になって、荒廃した。彼の4つの誤算は、上記に書いた。
ソ連の戦争終結方針を、金日成は、興奮して歓迎した。この経過は、彼と毛沢東らが、ともに戦争終結の最終的決定権限を、スターリンによって、その死後もソ連共産党によって剥奪されていた事実を証明している。
「三月二九日朝、ソ連の特別代表クズネツォフとフェドレンコは、ソ中両党の新方針を金日成に伝えた。北朝鮮指導者のこの情報への反応について、特別代表は以下のようにクレムリンに報告した。《クズネツォフ、フェドレンコ→ソ中両党》《われわれのコメントを聞いて、金日成は大いに興奮した。彼は、良いニュースを聞いてたいへん嬉しい、この文書をさらに研究したのち、再度会う機会を与えてくれないか、と言った。》。三月二九日の二回目の会談で、「金日成は、ソ連邦の朝鮮問題に関する提案に完全に同意するし、この提案が速やかに実施されるべきであると思う」と語った」(『謎と真実』379)。
惨敗結果にたいして、朝鮮労働党内で、金日成批判が噴出した。彼は、それに全面的な粛清=返り討ちで応えた。7月27日休戦協定成立→8月6日南労党系12人に「反革命罪」で有罪判決、10人死刑→8月25日許ガイ・北朝鮮副首相「自殺」と発表→12月15日朴憲永北朝鮮副首相兼外相、南労党系粛清裁判の一環として、「アメリカのスパイ」として、除名・処刑。金日成は、これらの大粛清によって、彼らを、侵略戦争惨敗責任全面転嫁のスターリン主義式いけにえにした。
4、国際共産主義運動
ソ連共産党と東欧社会主義国前衛党は、この朝鮮侵略戦争期間中の1951年と、戦争後の1955年、全世界の資本主義国マルクス主義前衛党にたいして、初めてのいっせい秘密資金援助を交付した。「資金」配布の目的は何か。
資金援助年度と額のデータは、「Jiji Top
Confidential」(時事通信社、2002年1月22日号)に掲載された『名越健郎の20世紀アーカイブス(24)』の記事に基づいている。それは、名越健郎が『ソ中両党で入手した基金リスト』によるもので、出典はソ連崩壊後の機密資料である。ただ、彼は、資料名・文書保管所名を書いていない。しかし、フランス共産党、イタリア共産党は、その「資金援助年度と額」データを事実として認め、党本部が受領したことも正式に認めている。よって、その機密資料の出所と内容の信憑性は証明ずみである。
以下引用する。「筆者がソ中両党で入手した基金のリストによれば、五一年の緩助総額は三百二十三万ドルで、受け入れ先はフランス共産党が百二十万ドルでトップ。日本共産党も基金から十万ドルを受けた。五五年には総額が六百二十四万ドルに増え、受け入れのトップはイタリア共産党。日本共産党も二十五万ドルで六位にランクされている。六三年の援助総額は千五百三十万ドルで、日本共産党の受領額は十五万ドルとなっている。この共産圏の秘密基金は、ソ連解体前年の九〇年まで維持され、四十年間で五億ドル以上が世界の左翼政党に支払われた」。
1951年の統一回復日本共産党本部受領額は、10万ドル×360円×200円・倍≒約72億円だった。国際共産主義運動に配布した323万ドルを、日本円に時価換算すると、323万ドル×360円×200円・倍≒約2326億円になる。1955年の“統一回復”日本共産党本部受領額は、25万ドル×360円×16.6円・倍≒約15億円だった。国際共産主義運動「配布」分624万ドルの日本円に時価換算額は、約373億円になる。
この秘密資金援助目的は、いろいろある。ただ、その一つとして、全世界の資本主義国マルクス主義前衛党にたいする『史上最大の“ウソ”作戦』の“ウソの口裏合わせ料”“口止め料”の狙いを含んでいた、と推定するのは、行き過ぎだろうか。なぜなら、1991年ソ連崩壊まで、いかなる資本主義国マルクス主義政党も、スターリン・毛沢東・金日成の“大ウソ”にたいして、その真実を暴露する論文、または、疑惑コメントを、何一つ発表していないからである。国際共産主義運動とは、この面に限って言えば、口止め料をもらった、ウソの口裏合わせ連帯・従属運動だった。当時、ソ連共産党から自主独立していた資本主義国前衛党は、東欧のソ連衛星国政権党と同じく、皆無だった。
5、日本共産党「制限主権・隷従」者に宮本顕治を起用
侵略戦争参戦4党のなかでも、「国家未所有」日本共産党の戦争行動結果は、朝鮮労働党と並んで、悲惨だった。20万人・85%の党員兵士が戦列を離脱し、衆院議席は0議席に転落した。一方、戦後処理期に入った米ソ冷戦において、日本政治体制の役割と重要性は、米ソ中3国にとって、いよいよ高まった。
中国革命成功と朝鮮戦争後、日本共産党にたいする“国際的総監督=人事命令権限保有前衛党”は、ソ連共産党と中国共産党という2党になった。(1)ソ連共産党側の命令権者・監督は、フルシチョフ→スースロフとポノマリョフで、(2)中国共産党側は、毛沢東→劉少奇だった(『干渉と内通』360〜364)。
彼らは、日本共産党「軍」の戦後処理、再建プログラムにおいて、ある困難にぶちあたり、悩んだ。それは、日本戦後処理の「制限主権に同意し、かつ命令絶対服従資質を保有し、しかも組織統制力も所有する」者に起用する人材がいないということである。
〔謎とき六全協人事〕
六全協とは、ソ中両党が、ソ中両党で準備し、完全従属下日本共産党に開催命令をした後方基地武力かく乱戦争行動戦後処理の総括・人事会議である。六全協の総括内容、人事とも、まだ謎だらけである。そこで、とりあえず〔六全協人事の謎とき〕をする。というのも、スターリンから「宮本らは分派」と裁定され、五全協以後、点在党員組織隔離報復措置にさせられていた宮本顕治が、なぜ、いきなり六全協において、最高権力者である「常任幹部会責任者」になれたのか、誰が、どこで決定したのか、などの経緯がきわめて不透明だからである。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』 7資料と解説
ただし、それ以前の五全協武装闘争共産党において、すでに、(1)党中央指導部員になり、(2)五全協共産党から総選挙東京第一区選挙区から立候補していた。これも、誰が、どこで決定したのか。考えられるのは、朝鮮侵略戦争「参戦」命令隷従によってほぼ壊滅させてしまった日本共産党の再建総監督=ソ中両党の秘密人事命令しかありえない。
〔確定・判明している事実経過〕
(1)、野坂参三は、1945年以来、ソ連工作員だった。(2)袴田里見も、ソ連スパイになっていた(『干渉と内通』、P.364)。(3)、スターリンは、1951年4月、宮本らは分派と裁定した。(4)、宮本顕治は、1951年10月初旬、宮本分派=全国統一会議を解散し、「志田宛自己批判書」を提出し、五全協前に、スターリンに屈服した。(5)、1951年10月16日、宮本顕治ら反徳田5分派すべてが、51年綱領・武装闘争路線を認め、党に復帰したことにより、日本共産党は五全協で“統一回復”をした。北京機関は、正規の日本共産党中央委員会となった。
(6)、徳田・野坂・志田は、自己批判書提出・復党した宮本を党組織に所属させず、点在党員組織隔離措置にした。(7)、1953年10月、徳田球一は、北京で死去した。(8)、1954年春、スースロフと中国共産党は、北京機関代表をソ中両党に呼び、ソ連主導で「六全協決議案」を作った(『党史』、P.144)(『干渉と内通』、P.361)。(9)、1955年1月、志田の連絡で、宮本が志田・西沢と会った。志田は、「極左冒険主義もやめる」「徳田への個人家父長制もやめる」「従来の党の弊風は全部改める」の3条件の協議をもちかけ、ソ中両党命令の六全協計画を伝えた(『党史』、P.145)(『干渉と内通』、P.361)。
これらの基礎資料は、別ファイルに載せた。『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』 7資料と解説である。
〔六全協人事謎ときの消去法的推理〕
上記(1)から(9)の〔事実〕は、日本共産党側の視点から見た人事の書き方である。それにたいし、以下の消去法は、ソ中両党の命令権者・日本共産党監督らが、戦後処理の日本配備者を“選任”する立場に立った視点から見た、上記〔事実〕に基づく、私の推理である。1954年春、ソ中両党の六全協準備・秘密会談におけるソ中両党の「日本幹部秘密勤務評定と者採否決定」内容である。90%党員が離党したことにより、事実上崩壊した日本共産党幹部への人事評価と制限主権・ソ中両党隷従者起用決定権限の中心人物を、当時の状況から判断し、スースロフと毛沢東・ソ中両党会議の王稼祥にした。これらの判定すべてがソ中両党で決定された。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』 7資料と解説
このファイルでは書かないが、ソ連→東欧間では、ソ連共産党による従属下東欧前衛党人事への謀略的な人事操作・介入は、日常的であったことが、ソ連崩壊後、歴史の事実として、証明されている。それは、チェコのスランスキー裁判を初めとする、ほとんどの東欧前衛党のトップ人事にたいするスターリンによる粛清・抜擢人事執行の事実で明白である。以下の推理は、その実態も参考にした。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価1−徳田球一〕
1953年10月14日、休戦協定成立の3カ月後、北京で死去した。彼個人には「個人家父長制指導の誤り」というレッテルを貼り付け、それにより彼の生前権威を完全抹殺せよ。これは、朝鮮戦争惨敗原因の責任転嫁政策の一つである。“死人に口なし”政策は、ベリヤ銃殺・スターリン批判と同様、残存する党幹部体制救済・維持の鉄則である。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価2−野坂参三〕
彼は、NKVDスパイとしての忠誠度は高い。1945年以降、ソ連秘密エージェントとしての報告も定期的に送ってくる。しかし、「コミンフォルム批判」というスターリンの秘密暗号・戦争指令第1号の実行・非合法化をめぐって、日本共産党を分裂させた。工作員としての組織任務を果たしていない。彼の党組織統制力は低い。スターリンは、東欧各国政府と前衛党のトップ人事をすべて決定してきた。世界における従属下前衛党トップの任命は、ソ連共産党の専権事項である。
ソ連共産党は、それらの党に必ず複数のNKVD工作員を配備してきた。今回は、ソ中両党が協議の上で、ソ連工作員として配備してある野坂参三をトップの「第1書記」に任命した。フルシチョフ第1書記は、東欧各国前衛党トップにも「第1書記」を名乗るよう命令した。ソ連共産党支配下の日本共産党トップも、同じ名称にするのは当然である。それにしても、もう一人、ソ中両党隷従継続のための党内粛清能力を持つ、有能な者を付ける必要がある。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価3−伊藤律〕
彼は、北京機関でも、徳田側近として、野坂と対立していた。よって、スパイ野坂擁護・温存の観点から、伊藤の方を排除すべきである。金日成には、朴憲永を「アメリカのスパイ」とねつ造、処刑せよと命令し、朝鮮戦争惨敗の責任転嫁をさせ、金日成を救ってやった。それと同じく、野坂・志田に命令して、伊藤律を「ゾルゲを売ったスパイ」とでっち上げて、除名させ、徳田球一レッテルと合わせて、2人に日本共産党「軍」惨敗の責任転嫁をさせる。
伊藤律を、北京機関において、スパイ野坂、スパイ袴田、西沢に査問させているが、彼自身「スパイ」の自供をしていない。しかし、伊藤律除名発表は、「彼がスパイを自白した」としておく。そうしておけば、少なくとも、惨敗の武装闘争指導部責任追及の矢を、スパイ野坂から逸らすことができる。ソ連スパイを温存することこそ、日本共産党支配を継続する政策の基本である。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価4−志田重男〕
彼は、党中央地下軍事委員長だった。彼の後方基地武力かく乱戦争作戦指導は稚拙であった。Z活動(武器使用)指導でも、いろんな武器の中で、使用できたのは火炎ビン数百本程度だった。また、警官を2人殺害したにすぎない。後方基地治安かく乱効果も挙げえず、それどころか日本人民から浮き上がった。彼の戦争作戦指導能力は低い。しかも、戦後処理日本のソ中両党隷従者として、引き続き使うには、「汚れた手」を隠せない。ソ中両党が準備・決定した六全協内容・人事にたいする党内の不満・批判の押さえ役として、一時期「全国行脚」に使えるとしても、日本人民に向けた顔として使うには、武装闘争で手が汚れすぎている。
ただ、全国行脚には、志田・宮本を正面に立てて使い、スパイ野坂を責任追求の矢面に立たせないという「スパイ温存」作戦を採る。志田には、軍事委員長時代の料亭「お竹さん」問題など、その遊興費に軍事資金数千万円使い込み疑惑がある、とのスパイ報告が来ている。全国行脚任務を果たさせた後、その事実を計画的にリーク・暴露し、二重に汚れた手を切り捨てよ。
党中央軍事委員長の不祥事摘発は、ソ中両党が命令した後方基地武力かく乱戦争行動の惨敗結果の責任転嫁作戦として、(1)徳田球一の個人家父長指導レッテル、(2)伊藤律スパイ・レッテル除名に次ぐ、(3)もっとも効果的な第3弾となるであろう。これらの戦後処理作戦は、ソ中両党が指令した“統一回復”日本共産党にたいする朝鮮戦争「参戦」命令事実を隠蔽する上でも、有効となる。
それらによって、(1)残存する10%日本共産党員兵士、(2)左翼勢力、(3)マスコミを見事に騙すことができよう。なぜなら、彼ら日本人たちは、南朝鮮軍事政権が先に38度線を突破し、侵略戦争をしかけたという、われらレーニン型前衛党3党・社会主義国家の『史上最大のウソ戦争』の真相を、今もなお疑っていないからである。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価5−宮本顕治〕
彼は、日本共産党内において、もっとも熱烈なスターリン崇拝者だった。それは、彼が共産党機関紙誌に、多くのスターリン讃美・コミンフォルム絶賛論文を書いていることからも証明できる。彼は、コミンフォルム批判における武装闘争転換路線即時受諾・実行のもっとも熱烈な主張者だった。志田は、四全協で軍事方針を決定したとき、「これで、宮本から、武装闘争をやろうとしない右翼日和見主義といわれなくてもすむ」と、主流派内で語ったほどである。宮本が、くりかえし、強烈な武装闘争即時実行を主張していたことについては、野坂からも報告が来ている。
しかし、分裂時において、反徳田5分派の中心人物となり、ソ中両党の統一・団結勧告に従わなかった。(1)1951年4月、スターリン自らが「宮本らは分派」と裁定し、(2)1951年8月10日、コミンフォルム機関紙「恒久と平和」において、再度、その主張を掲載した。(3)1951年10月初旬、それらのソ中両党命令に屈服して、彼は宮本分派=全国統一会議を解散し、「志田宛自己批判書」を提出した。(4)ソ中両党命令に即刻服従しなかったことは、国際的な「命令不服従犯罪」、朝鮮戦争中における「ソ中両党の軍事命令にたいする反軍の反逆罪」に該当した。(5)彼が、スターリン直筆の51年綱領と武装闘争路線を認めたので、除名処分にはさせず、“統一回復”日本共産党に復帰させた上で、点在党員組織隔離の報復措置にするよう徳田・野坂・志田に命令した。
宮本を、神山とともに除名せよとの意見は主流派党内で強かった。徳田・伊藤・スパイ野坂・スパイ袴田らは、北京機関の代表見解をまとめ、スターリン・毛沢東に、宮本を除名したいと具申してきた。その申請を、ソ中両党は却下した。この情報は、亀山幸三の証言である。なぜなら、彼のスターリン絶賛度や経歴から見て、および、90%主流派から忌み嫌われるほどの突出した暴力革命即時実行の強硬な主張を見ても、今後における彼の再利用・使用価値が高まる時期が来る可能性があったからである。
しかも、分裂時期に、武装闘争の即時実践をしない主流派・志田重男らにたいし、右翼日和見主義とのレッテルを貼り、宮本分派系細胞をけしかけ、攻撃・批判をしてもいた行為は、高く評価できる。よって、彼を除名せずに、“格子なき党内牢獄”に閉じ込めることを命令した。そして、彼は、そのスターリン指令措置におとなしく隷従していた。
彼が、スターリン命令に背いて、宮本分派活動を再開するなら、そのとき除名しても遅くはない。“格子なき党内牢獄”システムは、スターリンが、銃殺・強制収容所送りの4000万人粛清手法以外で、ソ連・東欧全域で愛用してきた、もっとも簡便な批判・不満幹部幽閉措置である。日本共産党指導部も、この点在党員組織隔離報復措置の活用にもっと習熟する必要がある。
彼の点在党員組織隔離報復措置期間は、3年3カ月間である。それは、1951年10月16日五全協から、1955年1月ソ中両党が総括内容・人事決定ずみのソ中両党製・六全協計画を、志田経由で、宮本に伝達した時までである。この措置とは、国際的にも常用しているが、“格子なき党内牢獄”である。彼は、39カ月間、宮本百合子全集の解説を執筆するだけで、スターリン指令・措置に忠実に隷従した。新たな分派活動もせず、特高の「格子ある牢獄」12年間に続いて、共産党の“格子なき牢獄”生活を過ごした。
そのため、彼は、後方基地武力かく乱戦争行動1952年から53年指導部としての「汚れた手」をしていない。この事実は、戦後処理日本共産党の制限主権・ソ中両党隷従の者を担わせる人物として、十分、利用・使用価値がある。彼の理論・政治能力、党内統制力=不満・批判者粛清能力は高い。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価6−袴田里見〕
彼は、1951年5月、スターリン命令で、彼をソ中両党に3年間足止めさせた時点に、すでにソ連スパイに採りこんである。しかし、袴田の理論的能力は低い。ただ、日本共産党の六全協トップペアに、野坂と袴田という2人のソ連工作員を据えることは下策である。もちろん、2人に、お互いがソ連スパイであることを、気付かせてはならない。グループも作らせない。ソ連共産党による日本共産党の長期支配を維持するには、2人のスパイを単独・単線ルートで“埋伏”させる「党内スパイ大作戦」こそ上策である。ただ、彼の党内恫喝力=不満・批判者粛清能力は、宮本と同様高いので、その面は利用できる。
袴田からは、野坂参三やハンガリーのイムレ・ナジと同じ「ソ連工作員誓約書」をとってある。彼が、ソ連共産党のスパイ任務遂行命令に背いたときは、彼の政治生命の終わりであることは、1951年からの3年間に、よく言い含めてある。
(宮地・注)、シベリア抑留問題のロシア人研究者A・V・アルハンゲリスキーが『プリンス近衛殺人事件』(新潮社、2000年、P.140)において、次の資料をソ連機密文書から発掘して、載せた。それは、1956年のハンガリー動乱で民衆蜂起側につき、ソ連に反逆したスパイとして処刑されたハンガリー首相イムレ・ナジが、ソ中両党在住の1930年に「NKVD工作員」となったときの『誓約書』である。
『誓約書 文末に署名したわたくしОГПУ(オーゲーペーウー)(КГВカーゲーベーの前身)部員イムレ・ナジは、在職中あるいは退職後も、ОГПУ諸機関の活動に関する一切の知見と資料を厳重に秘匿し、いかなる形においても発表せず、近親者・親友にも漏らさないことをここに誓約する。これを実行しない場合、わたくしは刑法第一二三条該当の責任を問われる。一九二三年四月三日付ОГПУ指令第一三三号及び一九二七年八月十九日付ソビエト革命軍事委員会令第三七二号示達。 一九三〇年九月四日 イムレ・ナジ』
フルシチョフは、1956年ハンガリー事件でソ連に逆らったОГПУ(オーゲーペーウー)工作員として、ハンガリー首相ナジを、ソ連軍によるだまし討ちで、ユーゴ大使館に亡命していたのを、ソ連に連行し、1958年6月に裏切り工作員として処刑した。
不破哲三は、1993年発行の『干渉と内通』(P.364)で、「野坂にくわえて、ソ中両党が確保したあらたな内通者は、袴田だった。袴田は、ソ連共産党の圧力のもと、五一年五月のソ中両党での会議で徳田派に降伏してから、三年間、ソ中両党にとどまっていた」と書いて、袴田と野坂2人をソ連工作員と断定した。そして「ソ連共産党の秘密資料であきらかになった」と明言した。不破記述内容は、日本共産党が、KGB「野坂ファイル」の調査にソ中両党に行って、1945年の野坂「工作員誓約書」を発見したとき、同時に、KGB「袴田ファイル」他を調査して、1951年の袴田「工作員誓約書」を発見したことの証言になっている。不破哲三は、そこまで明らかにしたのなら、ついでに、イムレ・ナジ「工作員誓約書」と同一書式だったのかも公表したらどうなのか。
〔スースロフ・毛沢東の人事評価7−他の幹部〕
武装闘争指導部では、他に紺野与次郎、西沢隆二、春日正一がいる。四全協で排除されて、「武装闘争で汚れた手」をしていない中央委員では、志賀義雄、春日庄次郎、蔵原惟人、神山茂夫らがいる。しかし、彼らのいずれも、戦後処理日本のソ中両党隷従者に起用・任命するには、一長一短がある。
『日本共産党との裁判第4部』点在党員組織隔離報復措置の性質
〔スースロフ・毛沢東の人事評価8−日本配備のソ中両党隷従者の起用結論〕
ソ中両党で、日本共産党全幹部を検討し、かつ、ソ連NKVDの「宮本ファイル」データ、中国共産党公安部・中連部の「宮本ファイル」データも慎重に審査した結果、宮本顕治を「戦後処理の日本配備における制限主権・ソ中両党隷従者」に起用することを決定する。六全協の「第1書記」候補者・スパイ野坂→志田経由で、ソ中両党の正式決定を宮本に伝達せよ。ただし、宮本が、(1)ソ中両党に忠を誓い、(2)その六全協付帯の秘密命令内容に無条件に同意し、かつ、(3)それを誠実に履行する決意を確かめよ。(4)それらに背いた場合は、ユーゴ・チトーのように、国際共産主義運動から永久追放・抹殺するとも伝えよ。
徳田球一 伊藤律 志田重男 志賀義雄 神山茂夫
1953年死去 53年除名 57年失踪 64年除名 64年除名
日本共産党第8回大会以後の最高幹部3人
野坂参三、1945年以来のNKVD工作員、第1書記→議長→スパイで100歳に除名
袴田里見、1951年来のNKVD工作員、北京機関→常任幹部会員→副委員長→除名
宮本顕治、フルシチョフ・毛沢東が指令した戦後処理のソ中両党隷従者を拝命・就任
2人のソ連工作員と協力して、他幹部除名・党建設に活躍→1997年引退
6−3、ソ中両党隷従者宮本のソ中両党命令履行状況 (表8、9)
宮本顕治は、フルシチョフ・スースロフという「日本共産党監督」、毛沢東・劉少奇らの「日本共産党監督」から与えられた「制限主権・ソ中両党隷従者」としての国際的任務を懸命に果した。スターリン指令による、3年3カ月間の点在党員組織隔離措置から釈放された。それだけでなく、フルシチョフ命名の第1書記野坂と並んで、いきなり常任幹部会責任者というトップペアに、フルシチョフ・毛沢東から任命されたわけだから、その国際的命令を忠実に完全履行したのは、当然だった。
もちろん、当時の国際共産主義運動において、ソ中両党からの自主独立路線という選択肢は彼にも、日本共産党にもありえなかった。
〔小目次〕
1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」の欺瞞性
2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行
3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行
1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」の欺瞞性
不破哲三は、『干渉と内通』において次のように書いた。「ソ連共産党指導部は、統一を回復した日本共産党が、五〇年問題の全面的な総括をおこなうことに、つよく反対した。この問題では、フルシチョフや劉少奇が直接のりだして、ソ連と中国の党の意向を日本共産党の代表団に伝えた。これも、五〇年問題の総括が、スターリンやソ連共産党の干渉にたいする批判をふくむものとなること、また彼らが支持した徳田派の誤りがうきぼりにされ、今後の対日本共産党工作の障害になることなどを、恐れてのことだったにちがいない」(P.363)。
「六全協では、四全協いらいの極左冒険主義の方針と実態、それについての五一年文書の関係がいっさい討議されなかった」(『七十年』、244頁)。
ただし、不破哲三や『七十年』が言う50年問題とは、(1)50年分裂期間のことでなく、(2)統一回復五全協共産党時期の1952年から53年のソ中両党の朝鮮侵略戦争「参戦」命令に基づく武装闘争方針・実践を意味している。というのも、50年分裂問題だけは、ソ中両党許可の下に『日本共産党50年問題資料文献集4冊』で、六全協2年後の1957年に総括されているからである。
宮本顕治・日本配備のソ中両党隷従助監督は、この命令を完全に履行した。
(1)、武装闘争データを全面的に隠蔽・秘匿した。そして、ソ中両党会議決定による抽象的な極左冒険主義というイデオロギー規定総括のみで、党内意見・不満を終結させよ、との命令で、六全協とその後の全国行脚を強行突破した。全面的総括・武装闘争データ公表を要求する日本共産党員兵士たちにたいし、宮本顕治は、「後ろ向きの態度」「清算主義」の逆批判を浴びせ、それらの要求・批判を押しつぶす先頭に立った。彼のこの反動的対応については、あらゆる証言が一致している。
(2)、後方基地武力かく乱戦争「参戦」行動という武装闘争の本質を、朝鮮戦争全体から切り離し、日本国内だけの火炎ビン武装闘争にすり替えた。「極左冒険主義の誤り」というソ中両党会議規定は、日本共産党軍に「参戦」命令を出したソ中両党と北京機関幹部、国内軍事委員会幹部が、どうしたら、自分たちに侵略戦争「参戦」責任追及の矛先が来ないかを必死で考え抜いた、巧妙なペテン用語だった。この用語は、日本共産党員兵士だけでなく、日本の左翼・マスコミを欺く欺瞞的なペテン効果を挙げた。
第一、武装闘争の誤りを、「極左冒険主義の誤り」用語にせよ、公式に認めたことは、画期的であり、それだけで国民・有権者を納得させた。なんらかの誤りと認知しなければ、日本共産党を再建することはできない情勢だった。「極左冒険主義の誤り」というソ中両党会議規定は、たしかに、(1)朝鮮侵略戦争「参戦」行動という戦争犯罪の一側面を示していただけに、かつ、(2)レーニン型前衛党最高権力者3人による『史上最大のウソ』がばれていなかった時期だけに、国民・マスコミからはそれ以上の犯罪追及はなされなかった。
第二、しかし、朝鮮侵略戦争「参戦」行動という本質的で犯罪的な誤りという規定から目を逸らし、隠蔽する上で、絶大な効果をもたらした。もっとも、その時点では、韓国国民・アメリカ軍以外の隣国日本において、南側からの侵略戦争という社会主義3国家・前衛党最高権力者3人の史上最大のウソが、ばれないどころか、信じられていた。疑いを持っても、証拠がなかった。
その共産党式の壮大なウソが、具体的証拠文書によって、初めて暴露・証明されたのは、1993年の萩原遼『朝鮮戦争−金日成とマッカーサーの陰謀』における北朝鮮秘密資料とアメリカ軍資料に基づく著書だった。
第三、そのソ中両党会議規定は、ソ中朝3党による侵略戦争への4番目のレーニン型前衛党「参戦」における後方兵站補給基地武力撹乱の戦争犯罪という本質を覆い隠し、かつ、ソ中朝3党の社会主義犯罪も免罪にした。
第四、国際的な戦争犯罪3政党を切り離し、日本における軍事委員会の指令・指導責任を、抽象的なイデオロギー規定だけで隠蔽した。その責任転嫁先のいけにえとして、(1)徳田球一の個人家父長的指導の誤り、(2)伊藤律を、ゾルゲを密告したスパイとするでっち上げをだ大々的に宣伝した。その責任転嫁によって、2人以外の武装闘争犯罪指導部メンバー全員を救済した。その責任転嫁政策によって、宮本顕治は、志田重男を含め、彼らほぼ全員を六全協中央委員・第7回大会中央委員に選出できた。
(3)、スターリン・毛沢東の北京機関→国内の党中央軍事委員会にたいする指令・秘密暗号電報の存在を完全抹殺し、証拠隠滅をやりとげた。スターリンが出した毛沢東・金日成への暗号電報多数から見れば、北京機関にたいするスターリンの指令・秘密暗号電報の存在もありうる。ただし、その証拠はない。
2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行
『日本共産党の七十年』は次のように書いている。「ソ連共産党の意向で、野坂が第一書記となった。党の指導中枢をあらためて第一書記とよんだのも、まだソ連の影響を脱していないことの名残であった。(中略)。六全協は、あたらしい中央委員会を選出し、八月二日、常任幹部会の責任者に宮本顕治がえらばれ、八月十七日の第二回中央委員会総会で野坂参三を第一書記にえらんだ」(P.244)。
宮本顕治は、ソ中両党の人事命令を完全に履行した。
(1)、人事命令にしたがって、彼は、ソ連工作員野坂を、ソ連式名称の第一書記に据え、自らを常任幹部会責任者に任命するという「ソ中両党の辞令」を拝命した。
(2)、命令どおりに、後方基地武力かく乱戦争行動指導部との“手打ち”を水面下で行ない、彼らのほぼ全員を引継ぎ、六全協中央委員に収容した。
(3)、もっとも、“手打ち”命令は、武装闘争指導部と反徳田5分派幹部の双方から、指名幹部を排除せよとの内容も含んでいた。
この“手打ち”内容と経過疑惑については、石堂清倫が『わが異端の昭和史・下』(平凡社、2001年、P.88)で証言している。
「六全協、つまり第六回全国協議会で共産党の主流派と国際派各グループとの手打ちがあった。手打ちといっては気の毒だが、招集したのは志田重男と宮本顕治というのが変である。旧主流中の最有力者伊藤律は、スパイと断定されて伊藤グループは脱落、国際派のうち志賀義雄、神山茂夫、春日庄次郎その他のグループも主催者から除かれている。どうも適法な招集でなく、志田、宮本のお手盛でないかという声があった。
しばらくあとに知ったことだが、集った代議員(どこで選出したのか?)百一名のほとんどが旧主流派で、中央委員十五名中、国際派五名という。宮本(彼だけではないが)が志田に自己批判書を提出したとの噂だから、本当は志田主導というところであろう。この席上で集った全員が五一年綱領をそろって承認しているが、あの極左冒険主義の原典である綱領の承認が国際派復帰の条件だったにちがいない。志田がそれだけの力をもっていたのは、ソ連共産党と中国共産党が旧徳田派を正統と認めていたからと想像される。伊藤律スパイ説は、まったくの言いがかりで、こじつけに近いそうである」。
(表8) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承
党役職 |
武装闘争指導部責任・個人責任 |
指導部責任なし・復帰党員責任 |
比率 |
中央委員 |
野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日(正)、岡田、松本(一三)、竹中、河田 |
宮本、志賀、春日(庄)、袴田、蔵原 |
10対5 |
中央委員候補 |
米原、水野、伊井、鈴木、吉田 |
5対0 |
|
常任幹部会 |
野坂、志田、紺野、西沢、袴田 |
宮本「常任幹部会責任者」、志賀 |
5対2 |
書記局 |
野坂「第1書記」、志田、紺野。竹中追加 |
宮本。春日(庄)追加 |
4対2 |
統制委員会 |
春日(正)「統制委員会議長」、松本(惣) |
蔵原、岩本 |
2対2 |
排除中央役員 |
伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎 |
神山、中西、亀山、西川 |
(8対4) |
総体 |
伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承 |
4人を排除した上での、旧反徳田5派との“手打ち” |
この(表8)は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)の第4章1、六全協の成果と限界(183)の記述を、私が(表)として作成したものである。その一部を引用する。
「発表された中央の機構は、政治局と書記長制が廃止されて、かわりに中央委員会常任常部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した一方式を、そのまま「右へならえ」式に、日本の指導体制に採用したものだった。((表)人事記述個所を中略)。みぎのような中央人事は、全体としてみると、旧徳田主流派が若干の優位をたもちつつ、旧統一会議系国際派とのバランスをはかってくみたてられていた。それは、六全協までのはなしあいの主体が、伊藤派をのぞいた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らをのぞいた旧反対派との二つであったことを、あきらかにしていた。この事実は、下部における大衆的討議を一さいぬきにしたこととあいまって、六全協の限界と弱点を、はっきりばくろしていた」。
宮本顕治は、文化部関係人事で、宮本百合子らの宮本顕治崇拝者を抜擢し、一方で、強い宮本批判を持っていた原泉ら築地の文化人、中野重治支持者らを排除した。
3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行
フルシチョフ・スースロフ・毛沢東が、宮本顕治を、惨敗戦後処理日本のソ中両党隷従助監督に起用した理由の一つは、彼が、野坂参三や他幹部にないような、党内統制力=批判・不満分子にたいする優れた、かつ冷酷な抑圧・粛清執行能力を専有していると判断したからである。宮本顕治は、ソ中両党が六全協を通じて指令した「従属下日本共産党再建プログラム」の遂行にあたり、彼らの期待に応えた。
宮本顕治は、六全協総括内容・人事にたいする批判・不満分子の徹底した抑圧と粛清を執行した。
以下は、『戦後日本共産党史』第4章2、責任追求と責任回避(186〜193)からの一部抜粋である。
(1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りをおかした人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。
(2)、宮本、春日(庄)らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。
(3)、上層幹部たちのみぎのような責任回避のありかたにかかわらず、前記のように全党をつうじて、分裂以後の党と党員のありかたにたいするきびしい自己批判とはげしい責任追及のあらしが、まきおこってきた。党はこの九月から一〇月にかけて、中国・北陸・東海・関西・九州・関東・四国・北海道などの各地方活動家会議をひらき、新中央から志田・宮本・紺野・蔵原などが出席した。つづいて一二月にかけて、各地方党会議をひらいて地方指導部をえらんだが、これらのどの会議でも、主流派と地下指導部にたいする非難のこえがわきかえり、収拾つかないありさまだった。
(4)、党の最高指導者たちが、みずから「指導的地位を去ることが責任をとるただしいやりかたではない」などといって全党の責任問題を混乱させているとき、一学生新聞の無名の一記者は、死者のためにつぎのようにうたっていた。
日本共産党よ /死者の数を調査せよ /そして共同墓地に手あつく葬れ /
政治のことは、しばらくオアズケでもよい /死者の数を調査せよ /共同墓地に手あつく葬れ
中央委員よ /地区常任よ /自らクワをもって土を起せ /穴を掘れ /墓標を立てよ
もしそれができないならば /非共産党よ /私たちよ /死者のために /
私たちのために /沈黙していていいのであろうか /彼らがオロカであることを /
私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか
(「風声波声」、『東大学生新聞』、一九五六年一〇月八日・第二七四号)
だが党には、ひとりの中央委員もクワをとって土をおこそうとはせず、ひとりの地区委員も穴をほって墓標をたてようとはしなかった。全党あげての論争と追及、党外からのいくたの批判と要求―これらすべては、しだいに、みのりのないのれん談義におわっていった。党外や下部からの責任追及が、上部機関の責任のとりかたに集中化されるのと比例して、奇妙にも「アカハタ」紙上の自由な発言はおさえられ制限されていきだした。国外権威からの原案指示と上層幹部だけのはなしあいで運営された六全協は、必然に新中央による責任問題のホオかむりとタナあげという事態にうけつがれ、さらに党内民主主義の回復途上における中絶という奇怪な事態へと発展したのである。
増山太助も、「見捨てられた独遊隊」として、次の証言をしている。五五年の「六全協」後、「激動期の闘争」をすべて「極左冒険主義」という言葉でくくり、当時の「主流派」の指導を「一切清算」する動きが露骨に表面化した。私はこの傾向に反対し、とくに、事実に基づく「血のメーデー」の解明を求めた。しかし、志田をはじめ「軍事」の関係者はアリバイを主張して口をとざし、「命を賭けた」「独遊隊」の人たちは党から見捨てられて惨憺たる状態におかれた。宇佐美は五二年に逮捕され、裁判にかけられたが、完全黙秘を貫いた。しかし、六三年にかつての仲間に裏切られ「反党行為」という理由で除名された。彼は私宛の手紙のなかで、「僕は逃れようにも逃れようもなく極左冒険主義者の標的にさらされるという逆の現象をもって斬り捨てられた」と述べ、「宮本顕治に屈服して救済された元の極左冒険主義者」を悲痛な思いで糾弾していた(『左翼群像』226)。
野坂・宮本体制は、一度も、死者の数を調査せよ!との要求に応えていないので、私が(表6)データを集計する。白鳥・メーデー・吹田・大須の4事件で、判明分だけである。不明分は空白にした。数字の出典は、各事件の被告・弁護団団側資料と『回想』である。
(表9) 野坂・宮本「六全協」が調査を拒絶した死者の数
白鳥事件 |
メーデー事件 |
吹田事件 |
大須事件 |
判明分計 |
|
1、逮捕 |
55 |
1211 |
250 |
890 |
2406 |
2、起訴 |
3 |
253 |
111 |
150 |
517 |
3、有罪 |
3 |
6 |
15 |
116 |
140 |
4、下獄 |
1 |
0 |
5 |
6 |
|
5、死亡+自殺 |
0+3 |
2+0 |
2+1 |
4+4 |
|
6、重軽傷 |
0 |
1500 |
11〜多数 |
35〜多数 |
1546〜 |
7、除名 |
1 |
1 |
|||
8、見殺し・切り捨てによる離党 |
36 |
36 |
|||
9、逃亡・中国共産党庇護 |
10 |
0 |
0 |
0 |
10 |
これらは、4件/265件の判明分である。265件全体の(1)から(8)の「死者の数」総計はどれだけになるか。一方、武装闘争発令の中央委員たちは、誰一人として、武装闘争事件による逮捕・起訴もされていない。もちろん、調査・発表の禁止命令を出したのは、フルシチョフ、毛沢東・劉少奇だった。そして、スパイ野坂・“格子なき党内牢獄”から釈放されたばかりの宮本らは、ソ中両党が任命した従属下日本共産党トップペアとして、その指令に無条件服従せざるをえなかった。
その総括禁止命令を履行するために、宮本顕治は、死者の数を調査せよ!と要求する批判党員兵士たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか、「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(『戦後党史』194)。
指導部復帰者・宮本顕治を先頭として中央委員たちが、下部の武装闘争「参戦」兵士の批判・要求にたいして抑圧・排除行動に出た根底には何があるのか。その深層心理内容は、お前たちは、自分がいかに犠牲をこうむろうとも、絶対的真理を体現している党中央を守り抜くことこそ、全世界のマルクス主義前衛党員の共通の義務であり、党中央批判をする権利などない、という論理である。党員兵士一人一人には、交代・新規投入要員がいくらでもいるが、党中央幹部は「余人をもっては替えがたい同志たち」である、とする党中央委員たちの暗黙合意がある。
この論理や合意の存在について、私が認識したのは、1969年の愛知県指導改善問題時期である。私が、愛知県党の誤りの根源に関して、党中央批判を、正規の地区常任委員会・県委員会総会で10回以上発言したとき、派遣されていた砂間幹部会員などの党中央役員たちは、党中央批判に異様なまでの感情的拒絶反応を見せた。また、宮本顕治委員長による、その中間機関民主化運動への敵意と弾圧・粛清を自ら直接体験したときである。
〔小目次〕
〔詭弁1〕、「朝鮮内戦」という歪曲規定と一部手直し
〔詭弁2〕、朝鮮侵略戦争「参戦」問題を「50年分裂問題」にすりかえ、矮小化
〔詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽
〔詭弁4〕、武装闘争責任を「分裂した一方」の徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派にすりかえ
このファイル冒頭でも分析したが、丸山眞男が、1956年、『戦争責任論の盲点』を書いた真意は、2つあった。(1)、天皇の戦争責任問題をもっと明確に追及すべきという主張である。(2)、その一方、戦前、天皇制の対極にあり、もっとも活動的な前衛党が、戦争突入を許した責任問題、および、戦後の武装闘争の責任問題に共通する、日本共産党の“結果責任たなあげ体質”にたいする批判である。そして、日本共産党は、戦前・戦後の結果責任問題について、理論的総括をして、その具体的データを含めて、きちんと公表すべきではないのかという“おだやかな”提案だった。ただし、彼は、この論文において、武装闘争責任問題について直接には明記していない。しかし、そこに、戦後の武装闘争責任問題にたいする丸山眞男の批判が内蔵されていたことを、石田雄教授は公表した。
丸山眞男『戦争責任論の盲点』、石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』丸山眞男のメーデー事件批判に詳しく書いた。
丸山眞男『戦争責任論の盲点』
石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』丸山眞男のメーデー事件批判
六全協人事体制の本質は、スターリン・毛沢東命令による3年9カ月間の“格子なき党内牢獄”から釈放された、指導部復帰者=ソ中両党任命のソ中両党隷従助監督宮本顕治と、1945年以来のソ連長期温存スパイ野坂参三、1951年からのソ連新埋伏スパイ袴田里見らによる、“一部中央役員排除の手打ち式”だった。ソ中両党の命令に服従し、ソ連スパイと協力して行なった六全協総括内容は、詭弁を多用したものだった。
『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部
宮本顕治が、1994年第20回大会前後になって、六全協の1年後発表という38年前の丸山論文にたいして、逆上したような、異様なまでの「丸山批判キャンペーン」を、全党規模で13回も展開したのは、なぜか。それは、宮本顕治が、38年前の丸山論文“よみがえり、再注目”によって、彼の詭弁があばかれるという恐怖におののいたからである。
この問題については、詳細なデータをHPに載せた。『共産党の丸山批判・経過資料』、『志位報告と丸山批判詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部である。
宮本顕治の詭弁内容を、4点で検証する。
〔宮本式詭弁1〕、「朝鮮内戦」という歪曲規定と一部手直し
六全協以降、すべての『党史』記述は、一貫して、朝鮮戦争を「朝鮮内戦」と規定している。ただ、先制攻撃側については、1994年の『七十年』(P.231)になって、「この内戦は、実際には、スターリンの承認のもとに北朝鮮の計画的な軍事行動によってはじめられたものであった」と手直しした。しかし、手直しに至った経緯については、なんの説明もしていない。
もっとも、最初の手直しは、1988年9月8日、「朝鮮問題についての日本共産党中央委員会常任幹部会の見解」発表だった。そこでは、北朝鮮が「南部全面解放による朝鮮統一の立場から軍事行動をおしすすめた」ことを指摘した。そして、1989年3月11日付「赤旗」は、この見解が「北の計画的な軍事行動によってはじめられたものであることを明らかにし」「アメリカの朝鮮への侵略だとする従来の主張を改めた」ものであることを公表した。
上記全体で分析したように、ソ連崩壊後に発掘された、膨大な機密暗号電報、アルヒーフ(公文書)、中国共産党側文書、アメリカ側文書によって、1991年以後の「朝鮮戦争」規定は、根本的にひっくりかえった。この戦争は、(1)マルクス主義3党「所有」の社会主義国軍が仕掛けた侵略戦争であり、(2)32カ月間/37カ月間という92%期間は、実質的な中米戦争であり、かつ、(3)21カ月間/37カ月間という57%期間は、「国家未所有」の日本共産党「軍」を含めた、4つのマルクス主義前衛党「軍」と、米韓・国連軍との間で行なわれた国際戦争だった。
これにたいして「朝鮮内戦」などという歪曲規定を現在もしているのは、世界のあらゆる国家、政党のなかで、日本共産党だけであろう。この「内戦」規定をしている意図は、ソ中両党という社会主義国家が侵略戦争を指導し、開戦前から参戦した事実を隠蔽することだけではない。それは、日本共産党の軍事方針・武装闘争とは、後方基地武力かく乱戦争行動という、4つのマルクス主義前衛党ぐるみの侵略戦争への参戦であった事実を、歪曲・隠蔽する『史上最大の“ウソ”作戦』の一環だった。
宮本顕治が、“格子なき党内牢獄”から釈放され、六全協からの指導部復帰をソ中両党から許されたとき、その復帰で突きつけられた条件は、(1)51年綱領は正しかったと、規定せよ。(2)武装闘争の総括・公表を禁止する。(3)スパイ野坂を第1書記と決定してある、などだった。頭のいい宮本顕治のことであるから、総括・公表禁止という条件が何を意味するのかを悟ったはずである。一体、フルシチョフ、毛沢東は、なぜ、わざわざ総括・公表の禁止命令を出したのかを推測すれば、答えは一つしかない。もし、六全協が武装闘争実践を総括し、参戦データを全面公表すれば、どうなるか。その内容次第で、朝鮮戦争とは、李承晩軍事独裁政権側から仕掛けたという『史上最大の“ウソ”作戦』のぼろが、85%・20万兵士が戦線離脱してしまっている、崩壊レベルの日本共産党六全協で発覚することを、彼らは怖れたからである。
宮本顕治は、1955年六全協で、朝鮮戦争の真相をある程度悟ったのにもかかわらず、1988年の「朝鮮問題についての日本共産党中央委員会常任幹部会の見解」まで33年間も、公認『党史』上では、1994年の『七十年』まで、39年間も、党員と日本国民を欺き続けた。
〔宮本式詭弁2〕、朝鮮侵略戦争「参戦」問題を「50年分裂問題」にすりかえ、矮小化
政党として、丸ごと、正規に、自らの軍事方針・武装闘争指令を出し、侵略戦争に参戦し、後方基地武力かく乱戦争行動をしたのは、日本に政党が結成されて以来、“統一回復”日本共産党の一党だけである。
宮本顕治は、ソ中両党の命令を受けて、1950年1月6日コミンフォルム批判以降、党分裂の一部期間を含めて、1953年7月27日休戦協定成立日までの、朝鮮侵略戦争参戦期間活動を、四全協から、1951年10月初旬の宮本分派解散・志田宛自己批判書提出までの「50年分裂問題」だけにすりかえ、矮小化した。
この詭弁テクニックは、手が込んでいるので、もう少し時期確認をする。
(1)、参戦期間を軍事方針武装闘争路線決定から、その実践期間とすれば、それは、1951年2月23日四全協からの2年5カ月間=29カ月間である。
(2)、党組織分裂期間を厳密にみれば、1950年8月末の全国統一委員会結成・北京機関結成という分裂組織の相互確立時点から、1951年10月初旬の宮本分派解散・志田宛自己批判書提出による“統一回復”までの1年1カ月間=13カ月間である。
(3)、朝鮮侵略戦争参戦29カ月間問題を、その期間に含まれる組織分分裂13カ月間問題だけに、すりかえた。これほどすばらしい党史記述矮小化の偽造歪曲犯罪と参戦事実隠蔽は、各国共産党史記述面でも、称賛されるべき詭弁テクニックといえる。
宮本顕治・スパイ野坂参三らは、1957年、『日本共産党五〇年問題資料文献集全4巻』(新日本出版社)を出版した。彼らは、そこに50年分裂経過を載せただけで、軍事方針・武装闘争実践データを完全捨象した。そして、意図的に、党分裂テーマのみに話題・関心をすりかえ、侵略戦争参戦テーマから目を逸らすキャンペーンを大展開した。ソ中両党命令によるものとはいえ、彼らの作戦は、今日に至るまで、党員40万人だけでなく、日本国民1億2千万人にたいしても、見事なほどの成功を収めている。
「ソ連崩壊をもろ手を挙げて歓迎する」と宣言したからには、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づいて、今後は、50年分裂問題という歪曲・期間限定規定ではなく、期間の幅を正確に広げて、「50年分裂期間を含む朝鮮侵略戦争参戦問題資料文献集」を出版したらどうか。
〔宮本式詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽
宮本顕治が、1951年10月初旬に、スターリンの「宮本らは分派」裁定と、コミンフォルム機関紙裁定に屈服したことは、事実である。それは、反徳田5分派すべてが屈服したことだった。それにより、分裂していた一方の徳田主流派が、スターリン・毛沢東の干渉・認知によるものとはいえ、正規の“統一回復”日本共産党中央委員会になった。
宮本顕治は、“分派組織”統一会議・宮本系の“スターリン指令解散”をし、「宮本自己批判書」を志田宛に提出した。その直後からの点在党員組織隔離報復措置継続期間は、1951年10月初旬宮本のスターリンへの屈服から、1955年3月15日スースロフ指令に
よる野坂・志田との妥協で宮本が党中央指導部員に復活するまでの3年5カ月間である。または、7月27日六全協で、正式に常任幹部会責任者になるまでの3年9カ月間である。
『七十年』『党史年表』や『干渉と内通』は、袴田里見のスターリンへの屈服規定と自己批判書提出を、繰り返し記述している。しかし、宮本顕治については「屈服」という規定を書かず、「志田宛の自己批判書提出」事実を完全に隠蔽している。この記述スタイルは、日本共産党史とは、宮本史観党史であると言われることを論証している。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説、宮本自己批判書提出
この隠蔽記述によって、後方基地武力かく乱戦争行動を具体的に遂行した五全協共産党が、“統一回復”日本共産党であったことも、見事に歪曲・隠蔽した。これも多数の証言で証明した。『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説、宮本自己批判書提出である。
それだけでなく、宮本顕治は、歴史の事実を歪曲・隠蔽しようとする策謀を継続した。『七十年』(P.269)に、わざわざ次の文を挿入した。「(第7回)大会の政治報告は、五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」としたが、五全協は徳田派による党規約に反したものであり、この評価は正しくなかった。この点について第十八回党大会四中総(八九年二月)は、この部分を「正式に、削除されるべきものだった」ことを明確にした」。
1989年2月とは、宮本顕治が、彼を批判する幹部をすべて除名・除籍し、宮本秘書団の多くを常任幹部会員に抜擢し、宮本私的分派・側近グループを、ほぼ完成させていたときである。彼は「満月の歌」のような個人独裁権力を手中にして、過去の1951年汚点=スターリンへの屈服と“「ともかくも一本化された」統一回復”日本共産党への復帰という37年前の歴史的事実を、ほほむりさろうとした。それは、彼にとり、37年経っても、なお隠したい「恐怖の真実」だった。彼の自己讃美と自己汚点隠蔽操作の執念には、感心させられる。
『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)「宮本私的分派・側近グループ」リスト
〔宮本式詭弁4〕、武装闘争責任を「分裂した一方」の徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派にすりかえ
宮本顕治には、スターリン・毛沢東命令による点在党員組織隔離措置によって、その期間中、たしかに武装闘争指導部責任はない。しかし、スターリン直筆の51年綱領と武装闘争路線を認めたことにより、除名処分にはされず、一党員として五全協共産党への復帰を許された。したがって、武装闘争責任は、徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派ではなく、宮本顕治を含む“「ともかくも一本化された」統一回復”五全協共産党が負うものである。
しかも、上記(表8)のように、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇という日本共産党監督群が“起用・任命”したソ中両党隷従助監督宮本顕治は、武装闘争責任指導部幹部を、排除した伊藤律系8人以外のすべてを引き継いだことにより、武装闘争責任を100%継承した。この六全協“手打ち”人事構成と、宮本・スパイ野坂のトップペア体制成立を知らない人には、彼のウソがまだ通用するかもしれない。
それだけでなく、上記増山太助の2派1グループ実態と性格に関する証言内容は、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服するまでの宮本顕治こそ、(1)スターリン盲従で武装闘争即時実行・決起を強烈に主張し、(2)主流派を即時武装闘争をしない右翼日和見主義と攻撃し続け、(3)日本共産党全体を武装闘争に追い込んだ張本人だったことを証明した。五全協後の武装闘争指導部の直接責任はなくとも、コミンフォルム批判から五全協までの1年9カ月間、宮本の党員10%少数分派活動の期間において、彼は、武装闘争決起主張の強硬派として、最大の武装闘争指導部責任を負う「極左冒険主義」者だった。これが、日本共産党史の真実である。
その事実を、今なお、「武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派のしたことであり、(現在の)党は、それになんの責任もない」としている。この“ウソ”は、国際的な『史上最大の“ウソ”作戦』のスケールと比べれば、日本範囲の“小さな、みみっちいウソ”といえる。
ただ、現在、社会主義10カ国がいっせい崩壊し、資本主義ヨーロッパでは、ポルトガル共産党以外の前衛党がすべて転換・崩壊してしまっている。フランス共産党の内実は、レーニン型共産党でなくなった。よって、ヨーロッパでは、「国家の死滅→共産主義」とは逆に、「共産主義の妖怪そのものが死滅」してしまった。その21世紀において、アジアで残存する資本主義国のレーニン型前衛党が、アジアで残存する3つの反民主主義・一党独裁国前衛党とならんで、生き残るのには、この程度の詭弁を堅持し抜く必要がある。
8、『日本共産党の八〇年』出版と恐怖の真実 (表10)
2003年1月、不破・志位・市田ら新体制は、これら4つの詭弁・ウソを完全継承した『日本共産党の八〇年』(日本共産党中央委員会出版局)を、『七十年』の大幅縮小版にして出した。『七十年・上下』2段組みは920頁、『七十年・党史年表』が397頁で、合わせて1317頁である。『八〇年』は、詳細な年表全面削除で、1段組み326頁になり、1頁字数は、80%弱にした。全体では、326/1317×80%≒20%、1/5に縮小し、年表を除いた党史記述部分は、326/920×80%≒28%に簡略化した。
Google検索『日本共産党の80年』志位発表、不破講演
さざ波通信第30号『「日本共産党の80年」の批判的検討(上)』他投稿論文1篇
このファイル・テーマとの関連で見ると、彼らは、『七十年・上』(146〜149)の丸山眞男批判個所を、『八〇年』(66)では全面カットした。公表在籍共産党員40万人・党費納入率実態72%中、公認党史を『八〇年』で初めて読む人もいる。彼らの内で、宮本顕治と不破・志位らが、なぜ、逆上したような丸山眞男批判キャンペーンを13回もしたのか、それが共産党批判をした政治学者を社会的にも抹殺しようとする意図を持つ、いかに詭弁に満ちた内容だっかについては、誰も知らない…となる。そして、現委員長志位和夫が、1994年第20回大会の政治報告において、新書記局長として、丸山批判詭弁術によって、華々しいデビューを飾った舞台を、思い起す党員は、一人もいない…となる。
『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』丸山批判経過資料と批判内容
『志位報告と丸山批判詭弁術』志位新書記局長の丸山批判詭弁術報告のデビュー
4つの詭弁・ウソの完全継承、および、丸山批判個所カットは、何を意味するのか。戦前における共産党の戦争責任内容とは、次である。それは、(1)ソ同盟絶対擁護=日本国家の対ソ戦争を内乱に転化せよスローガン、(2)抽象的な天皇制打倒綱領の労働組合押しつけ、(3)それによる労組幹部全員検挙と最強最大の労働組合連合を自ら破壊した共産党方針、(4)社会ファシズム論などの根本的に誤った路線・方針により、日本国民の第一の敵を、軍事ファシズムでなく、社会民主主義政党であると規定し、それとの闘争を最優先させたこと、(5)それらの誤りにより各分野で盛り上がっていた反戦統一行動を自ら分裂、弱体化させ、戦争突入を許したという前衛党責任のことである。ただ、現在、共産党に問われているのは、それに関して、1930年代コミンテルン路線・スターリン命令下の完全従属・上意下達関係を含む正確な国際的視野の総括・データ公表問題だけではない。
もう一つは、3つのマルクス主義前衛党が行なった朝鮮侵略戦争と、それに参戦した“統一回復”日本共産党の戦争責任に関する、国際的視野からの総括、および、武装闘争具体的データ公表の義務問題である。その前衛党結果責任を棚上げし続けて、なぜこれら4つの詭弁に固執するのか。なぜなら、『八〇年』公認党史における上記の対応は、2つの戦争責任問題が、たんに宮本顕治個人にとってだけでなく、不破・志位・市田新体制にとっても“恐怖の真実”となっているからである。それは、東アジアに残存する4つの科学的社会主義政党の一つを崩壊させるに足る「浦島の玉手箱」の性質を持っているからである。
なぜ、不破ら新体制が、1997年第20回大会前の宮廷革命による宮本引退強要後も、宮本顕治を批判せず、彼の存在を許し、むしろ宮本讃美を続けているのかを考える必要がある。まず、宮本顕治自身は、遅くとも、「六全協人事」時点に、野坂参三がソ連工作員であることに気付いていた。野坂スパイ説は、それ以前からも、代々木党本部内で繰り返し表面化していた。その疑惑をつねに鎮圧してきたのは、宮本顕治である。なぜなら、この問題を追及すれば、上記にのべた「六全協人事の謎」が暴かれ、野坂だけでなく、宮本も返り血を浴びることになるからである。六全協人事とは、ソ中両党命令に基づいて、ソ連工作員野坂、武装闘争惨敗責任者の党中央軍事委員長志田、指導部復帰者宮本との3人が行なった、私的な手打ち式だった。野坂スパイ説抑圧行動は、宮本の保身戦略と一体のものだった。
一方、不破ら新体制にとっても、武装闘争に関する宮本・野坂のウソと詭弁を全否定しようものなら、自らと共産党そのものが崩壊してしまうことを怖れているからである。その作戦として、ソ連崩壊による野坂スパイ発覚後では、武装闘争問題をできるだけ隠蔽・抽象化して、野坂スパイ問題にすりかえる手口を使っている。
「玉手箱」からの白煙は、別の国際共産主義運動関係の真実も暴露する。「日本共産党の80年」をもう一つの角度から検証する。その視点とは、80年間を、外国共産党への従属期間と自立・自主独立期間の3段階に分類することである。
(表10) 従属・自立関係で分類した「日本共産党の80年」
2003年1月出版『八〇年』の読み方考え方
政党の性格 |
期間 |
時期の内容 |
経過 |
1、対ソ従属政党 |
1922〜50 28年間 35% |
党創立 〜朝鮮戦争 |
戦前、国際共産党日本支部として、財政的にも対ソ従属 戦前の宮本、中央委員経歴8カ月間のみ 1935〜45の10年間、党中央機関壊滅 戦後、路線・政策・人事とも対ソ従属 1945年、ソ連スパイ野坂を配備、第1書記→議長 |
2、対ソ中従属政党 |
1950〜67 17年間 21% |
北京機関結成 〜ソ中両党と決裂 |
1949年中国革命以降、対ソ中従属政党 50年綱領・政策・規約だけでなく、人事も完全従属 1951年、ソ連スパイ袴田を配備、幹部会員→副委員長 1960年〜、中ソ論争期間は、対中支持 1963年〜、部分核停条約問題で、対ソ決裂・対中支持 1964年、4・17半日ゼネスト中止指令の誤りのとき、中国共産党による国賓級接待で、長期療養中。帰国後、自分は知らなかったとして、他幹部を降格処分 1966年〜、中国の日本共産党攻撃で、対中決裂 |
3、自主独立政党 |
67〜2002 35年間 44% |
決裂・自主独立 〜日中朝3党 友党関係回復 |
1967年〜、対ソ中決裂→自主独立=自主孤立 1970後半〜80前半、日本共産党の逆旋回 1989〜91年、東欧革命・ソ連崩壊→残存4/14カ国 1997年、宮本議長引退→不破・志位・市田体制 1998年、日中両党の和解・友党関係回復 2000年、朝鮮総連を党大会に招待=朝鮮労働党との友党関係回復 東アジアの残存3党ミニ・コミンテルン構想の思惑スタート |
立花隆『年表・中央委員会の変遷と戦前党史』宮本顕治の戦前中央委員経歴8カ月間
『1930年代のコミンテルンと日本支部』対ソ従属の対戦争政策と前衛党の戦争責任
『逆説のコミンテルン日本支部史』関連ファイル
Google検索『中ソ論争』 『文化大革命と日本共産党』
『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本引退強要・宮本私的分派解体の宮廷革命
Google検索『東欧革命とソ連崩壊』1989年〜1991年、10カ国/14カ国が崩壊
日中共産党和解加藤哲郎『世代かわって柔軟路線』 『脱「孤立」柔軟路線』
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』党大会に朝鮮総連招待=朝鮮労働党との友党関係回復
(表10)分類の視点は、次の考え方である。国際共産主義運動とは、世界革命を目的とした政治・軍事組織の運動である。レーニンのコミンテルン設立論理以降、国際単一共産党と各国支部とは、プロレタリア独裁理論と民主主義的中央集権制の鉄の上意下達・軍事規律で結ばれた。その実態は、コミンフォルム、その解散後も、ソ連共産党が各国共産党にたいする絶対的支配権を占有し、支配・従属の世界政党間関係を「国際連帯・友党関係」の美名で覆い隠したものである。中国革命後、スターリンと毛沢東とが、世界の各国共産党を、ヨーロッパとアジアで分担支配する秘密協定を結んだ。この協定事実は、不破哲三も認めている。
ところが、中ソ論争で、協定が自然崩壊した。スターリン死後処理過程で、各国前衛党の自立運動が始まった。自主独立志向は、必然的に、支配・従属政党間関係を本質とする国際共産主義運動を崩壊させた。同時に、それは、従属的前衛党にたいする各国国民の強烈な抵抗運動を爆発させ、東欧革命とソ連崩壊になり、10カ国とその前衛党がいっせい崩壊した。共産主義の妖怪生誕の地ヨーロッパでは、ポルトガル共産党以外の妖怪は消滅した。生誕地域からはるか離れて、東アジアに残存する4つの科学的社会主義政党が生き延びる道の一つは、時代錯誤的なミニ・コミンテルンを再構築するしかない。しかし、その連帯構想と4党各自の必死の手直し・社会主義的市場経済路線によって、あるいは、北朝鮮型先軍政治・核開発脅迫路線によって、4党は、あと何年、存続できるであろうか。
日本共産党は、日本政府を対米従属路線といつも批判している。このファイルの諸事実は、日本共産党が、党創立以来、45年間にわたり、対ソ従属路線政党、および、対ソ中従属路線政党であったことを示している。いずれにしても、日本政党史上、綱領路線・政策・人事・財政など、これほど全分野にわたり、45年間/80年間=56%期間、外国政党との支配・従属関係を、自らの意志で結んでいた政党は、日本共産党以外にはない。