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珠玉のダンサー紹介のページ  (2010.6.10改)

普段ステージで観られない中にも、宝石の輝きを放つ素敵なダンサーが活躍しています。
このコーナーでは、私の大好きな、そんなバレリーナをご紹介します。
 
渡邊順子さん
応援します
豊かな詩情、気品あふれる優しい容姿。「瀕死の白鳥」にかける情熱に敬服します。
瀕死の白鳥



神奈川県民ホール
2007年4月

ダンス・スクエア
鈴木紳司氏撮影


JUNバレエ塾
渡邉順子の
ホームページ
注)渡邊順子さんのお許しを得て掲載させて頂いております。無断で複写複製を禁じます。

2010年6月5日、渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、今までで最高の舞台になりました。少なくとも私はそう思いました。体調不良を気力でカバーして・・・。「私の踊りを見に来てくれた人が居る。踊らなきゃと言う気合だけで踊りました」と彼女。薬を飲み、本番直前の舞台稽古をバレエシューズで行い、トゥシューズを履いての本番は爪先で立つのがやっとだったとのこと。「本番はどんな踊りを踊ったのか覚えておらず、最後のレべランスで拍手の音が聞こえ、無事に踊り終わったんだと感じた」というほど、朦朧とした最悪の体調の中で踊った執念の「瀕死の白鳥」でした。鋭いトゥの先、まろやかな甲、スッキリ伸びた美しい肢体、細やかに滑らかに音も無く心地よく刻むブーレ、骨格を感じないほど、しなやかに波打つアームス、グッと堪えたアラベスクのバランス。そして、ほのかに漂う健康的なお色気。まさに「円熟の瀕死の白鳥」でした。 舞台終了後、彼女は「『来年もまた瀕死の白鳥を踊ってほしい』、『瀕死の名人になりなさい』と言うお言葉を心からうれしく感じました。」と語っていました。渡邊順子の「瀕死の白鳥」は、批評家達からも、高い評価を受けたようです。彼女は新たな一歩を踏み出したのです。
渡邊順子は1991年にスラミフィ・メッセレル振付、谷桃子指導で初めて「瀕死の白鳥」を踊りました。 10年近くブランクがありましたが、2000年に再出発。以来、彼女は谷桃子の教えを忠実に守り、毎年のように「瀕死の白鳥」を踊ってきました。 そして2005年6月初めて味わった屈辱。悪夢の舞台・・・。でも健気にも彼女は「『瀕死』と心中する覚悟で、死に物狂いで修行に励みます。」と再起を誓ったのです。 過度の稽古による右足の古傷の悪化・・・、トゥを履くことすらできないこともありました。それでも挫けず、次の舞台に挑む精神力。渡邊順子の舞台には、いつも新鮮な輝きがあります。 彼女はいつも「進化する渡邉順子を見せなければ。」と自分に言い聞かせ、右足の痛みと戦いながらも、常に技術を磨き、精神を鍛え、たゆまぬ努力を重ねて進化を続けています。
渡邊順子の「瀕死の白鳥」からは、いつも「たゆまぬ進化への意欲」が感じられ、私は、彼女から明日への勇気を与えてもらった気持ちになるのです。 毎回の舞台から、また一歩、技術的にも内面的にも、確かな成長を感じさせてくれます。私にとって、渡邊順子と言えば「瀕死の白鳥」、「瀕死の白鳥」と言えば渡邊順子であり、 私は毎年、彼女の渡邊順子の進化する「瀕死の白鳥」を見るのを楽しみにしているのです。 頑張れ、渡邉順子!!!  山口

2010.6.5 神奈川県立音楽堂
本番当日は体調も悪く大変でしたが、踊るチャンスに恵まれて良かったと思いました。 10年間の下積み生活をして、晴れてバレエの世界に戻れたように思います。 20代の時は「ルスランとリュドミラ」で東北のプリマデビュー。 その後は地味な「瀕死の白鳥」と言う作品で、地味に踊り続けました。 派手な作品ではありませんから目立たない存在だったように思います。 10年踊ると日のあたらない場所で踊っていた私にも、日が当たるようになってくるものです。 8歳からバレエを習っていた時もあまり目立たない子でしたが、10年そこで踊っていると 東北のプリマデビューすることができました。 今回は神奈川県の目立たない場所で踊っていましたが、やっと横浜で 10年「瀕死の白鳥」を踊っている人がいるのだと気づかれるようになりました。 まだまだ目立たない存在ではありますがまた頑張って「瀕死の白鳥」を踊ろうと思います。  2010年6月 渡邉順子

2008.10.11 テアトルフォンテ
「瀕死の白鳥」はまた踊るチャンスがあれば、踊っていきたいと思います。来年もまた「N&Y CONCERT」の舞台にも出演したいと思います。コンテンポラリー・ダンスの舞台にも立ってみたいし、まだまだ自分の中になる可能性を引き出せればと思っています。2008年は「N&Y CONCERT」の舞台にお誘いくださりありがとうございました。   2008年10月 渡邉順子

2007.8.5 故郷宮城県民会館ホール
2007年は2月に目黒パーシモンホールで踊り、4月には神奈川県民ホールで踊り、 8月にはなんと16年ぶりに仙台で踊ることができました。 20歳の時に仙台で習っていたバレエスクールを辞め、東京でバレエを学び、体を壊して仙台に帰り、1988年〜1991年まで仙台の橘バレエ学校でバレエを学び、92年に谷桃子バレエ団の研究生に戻り、94年には結婚。 8歳からバレエを学び仙台と東京をふらふら飛び回り、本当に私の帰る場所は何処なのだろうと思うような日々を過ごしていました。 小さい頃から宮城県民会館で踊っていた私にとって、宮城県民会館の舞台の上でゆっくり死んでゆく白鳥を演じることができたことは本当に嬉しい出来事でした。やっと長い長い旅の疲れを癒すことができたのです。 本当に今回の「瀕死の白鳥」は自分自身が死んでゆく白鳥そのものでした。  2007年8月 渡邉順子
渡邉順子
「瀕死の白鳥」の歩み
1991年に初めて踊って以来、渡邉順子の「瀕死の白鳥」の舞台は、2010年で、20回を超えています。
これは、「瀕死の白鳥」一筋に踊り続けた、渡邉順子の進化の軌跡です。
「瀕死の白鳥」以外の
渡邊順子の舞台
渡邉順子は「瀕死の白鳥」以外にも、多くの作品に出演しています。代表的な舞台を紹介します。
 
奥山有紀子さん
ご紹介します
気品溢れる魅惑の舞姫。「シルヴィア」を踊る姿に、一目でファンになりました。ご紹介
シルヴィア
〜シルヴィア
2001年8月の舞台です。
奥山有紀子は、純潔の女神の前半、恋を知り優しい気持ちを抱くようになった後半と、全幕に出ずっぱり。体力面はもちろん精神的にも大変キツかったと思いますが、ひたむきに踊る姿は感動的でした。
ドンキホーテ
〜ドルシネア姫とジプシー
2002年8月の舞台です。
奥山有紀子はドルシネア姫とジプシーという正反対の役柄を上手に踊り分けました。控えめながらも要所要所をきっちり決めて・・・・美しいドルシネア姫。純クラシック一本槍だった有紀子さん、情熱的なジプシーへの初挑戦で新たな一面を開拓しました。
この時は、妹の奥山八重子が主役のキトリを踊りました。粋な感じと気取った感じ、バジルをからかう大人っぽさ。そして少女のような可愛らしさと、全て素敵。 軽快なステップに、高いリフトから真っ逆さまに落ちる胸のすくようなフィッシュダイブ。極め付きは歯を食いしばっての懸命に頑張った32回のグランフェッテ。感激でした。
眠りの森の美女
〜グランパドドゥでのオーロラ姫
2003年8月の舞台です。
奥山有紀子は三幕のオーロラ姫を踊りました。結婚式のパドドゥで妻となった喜びを華麗にしっとりと表現しました。
幻想の場のオーロラ姫は妹の奥山八重子。王子との恋を美しい表情で情感豊かに表現しました。
第一幕のオーロラ姫は沢田真理子が初挑戦。ローズアダージョでは、一瞬、時計が止まったような絶妙のバランスを見せて、観客を沸かせました。
白鳥の湖
〜第二幕でのオデット
2004年8月の舞台です。
奥山有紀子は二幕のオデットを踊りました。王子との恋を美しい表情で情感豊かに表現しました。しなやかに波打つ腕の美しさに眼を奪われました。しっとりとした情感漂う踊り、これは、有紀子さんの大切な財産だと思います。
第四幕のオデットは妹の奥山八重子。奥山八重子の静かな着地にはビックリ。ふんわりとした風のようで、なんとも優雅で美しかった。
第三幕のオディールは園田真野。コーダのグラン・フェッテは、軸足がずれてきてハラハラしましたが、歯を食いしばって最後まで必死に踊る姿は感動的でした。

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