"Old"ナルドの香油

八月に思う


八月に思う
2013年8月22日
 八月になると毎年広島と長崎の原爆記念日と十五日の終戦記念日に思いを馳せる終戦記念日なんて誰が名付けたのか?終戦なんかじゃない敗戦記念日でしょう?僅かな呼び名の違いに、私は戦争を振り返る気持ちのまやかしを感じる。

 何故だか始まってしまった戦争だから、終われば終戦記念日。負けた悔しさ憤りを真剣に考えれば、敗戦記念日となる。

 どうしてこの世界から戦争は無くならないのだろう。今は高齢になった戦争経験者はみんな言う。戦争だけはしてはいけないと・なのにどうして無くならないのか・私は経験した人達が自分の受けた苦しさや辛さばかりを語るからではないだろうか、と言う気がしてならない。食べ物がなくて大変だったとか空襲のさなか命懸けで逃げ惑ったとか・もちろん、それも事実であり多くの市民が犠牲となった。

 原爆の悲惨さは言葉にならない程の悲劇である。アメリカでは原爆こそが戦争終決を早めたのだと今だに信じられているが、あんな兵器を用いなくても時間の問題であって、人体実験にすぎないと私は思う。

 しかし、自分達の受けた傷は忘れないのに与えた傷はどうして忘れているのか?韓国や中国はどうして日本にいつまでも謝れと言うのか?与えられた傷だけを振り返るのでは戦争の本当の悲惨さは伝わらない。

 もう二度と戦争をしたくないなら、経験者は自分達の言いたくない過去を赤裸々に語らなければならないと私は思う。戦争をすると言う事は人を殺し、傷つけると言う事・命令に従い任務を実行しただけだ。と言っても、人の命や尊厳を奪い取るのが戦争だ。

 戦争が終わった後、いろんな書類は焼かれ、見られてはならない物は破壊された兵隊として戦った人達も、見て来た事を決して言ってはならないと釘を刺されたはずである。しかし、日本人があの戦争を二度と経験したくないならば、すべてを明らかにするべきだと私は思う。私は今僅かになった戦争体験者の勇気に期待したい。あなたは自分の孫や曾孫にあなたと同じ体験をさせたいですか?