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(2019/7/1 - 2019/12/31)


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8月31日。夏も終わりますね。

ざぁっと雨が降って、あっというまに嘘のように涼しくなった。8月ももうおしまい。まぁこれからまた暑い日もあるんだろうけれど、夏のあの感じは今年はもうおしまいなのだなあ。
毎年恒例の実習のご挨拶の出張、いちどは実家の近くだったのでミニ帰省もかねて、もういちどは大分で(ちょうど台風にぶつかりそうであせったけれど、うまくすれ違うかんじで特急ソニックもスムーズに走り、現地に到着したら雲も切れて晴れていた)地元ブランド豚のとんかつ定食やおすすめの本場のからあげを食べれたし、そしてもちろんどこでも学生さんたちはよくしていただいていてしっかり実習してたし、よかった。

なにか生産的なことができないか、と思うのはいつものことだし、まぁそうこういってじりじりとしながら生産的なことなんかどうせなにもできないのもいつものことだ。まぁ、研究室の片づけを何年かぶりに少しする。たまっていたふるい紙資料なんかを捨てたり、共同研究室に移せるもの(Web公開されてる雑誌とか)を移し、ものを物理的に減らしたうえで、デッドスペースだらけになってるのをなんとかできないか、空間の再開発をできないか、腕組みで思案したり等々。それでまた、10年ぐらい使ってそろそろ遅くなってたWin7のデスクトップPCを引退させて新しく買っておいたWin10機に置き換える作業を進める。これもあまり便利になる感触はないなあと思いつつではあるけれど。秋学期が本格的に始まるまでには、これは片をつけたいところ。多少すっきりした環境になり多少べんりになってくれればとは思いつつ、さほどの期待はしてないのだった。

夏の終わりにあらためてまたちゃんと帰省。あらためてちゃんと帰省というのはつまりせわしなくでなくてちゃんとのんびり食っちゃ寝ーの日々を送るということで、まぁ、甲子園を見るとか録画されてた時代劇をあれこれ見るとか、それでまたビフテキとかとれとれのおいしいはまちのお刺身とかいろいろごちそうがでてきて毎晩乾杯するとかまぁそういうこと。まぁ、ありがたいことである。人生というのはおおむねそのようでありたいものであるが、まぁそういうわけにもいかないという説もあるのでやはり阿鼻叫喚の巷に舞い戻ることには相成る。

スーパーでいちじくを見かける。帰省中にテレビでやってて(きょうの料理、それからたしか夕方のローカル番組)なにかいちじくの話をしたな、と思って、ふと買ってみる。ふだん果物は買わないし、いちじくとなるとたぶん何十年ぶりである。やはりふわふわとして得体が知れないところをふわっとふたつに割って中のもやもやっとしたところを確認してからぱくりとたべてしまう。なんかぼんやりとした甘さと香りがあってあまり説得力のようなものは感じられないにせよおいしいのでもう半分のほうもぱくりとたべてしまう。いちじくというのは果実ではなくてあれは花なのだそうだ。そういえばこの季節、夏の終わりに、にゅうめんにみょうがを浮かせて食べるのもしみじみするけれどみょうがというのも花である。夏が終わるなあ。


 


10月12日。空が青い。秋だ。

夏が終わってもしばらくは暑かったり、またそわそわと涼しくなってみたりまた10月に入っても真夏日だとか言っていたかと思ったけれど、それでも空が高くなって雲ひとつない青空がひろがって、学校に行く川沿いの道を歩くときにすごく広い空を見上げながら、秋だなあと思うようになったわけである。さすがに朝の空気はきりっとしていて、気がついたらもう10月なのだ。

さて、青春も過ぎ朱夏も過ぎ、白秋をいかに生きていきましょうかと思っていた矢先に、来年度から職場の大変そうな役が回ってくることになった。まぁ世の中というのはそういうふうにできているのだろうということでこのおはなしはおわり。

研究室のデスクトップをWin10機に置き換えることはひとまずできた、プリンタもつつがなく繋がった、しかし困ったことに、ドキュメントスキャナがうまく働かなくなった。というか、ドライバはうまく入り、動くといえばうごくのだけれど、スキャンしたイメージをまとめてPDFにするというところでAdobeのAcrobatを使っていて、そのAcrobatが10年前のものなのでライセンス認証が通らない。まぁ、そうすると結局このさいだからスキャナごと新しく買いなおすのが早くて安くて確実だろうという気になった。
他方で、下宿の勉強机のデスクトップWin7機が、これはまだ5年しか使ってないけれどこのところかなり頻繁に起動に失敗するようになった。まぁ、Win7のサポートも終了するということだし、これも買い替えということになるのだろうか、と、ぼんやり考えていたが、そういえば昔に下宿で買ったドキュメントスキャナは一代前のWinXPノートでは動いたけれどその後のWin7機にはうまく繋がってくれないまま引退になってしまった、いつか下宿のほうにもドキュメントスキャナを買おうと思っていたからこのタイミングで買おう、と、なんとなく鬱々としていた気分を振り払ういみもあってAmazonで発注、それで届いてみてからあらためて気づいたのは、いまこのWin7機に繋いだってあとどのぐらいも使わないのではないか、だとすればデスクトップそのものをまず買い換えるべきではないか、ということで、つまりそういうふうにして下宿の勉強机のデスクトップ機も買い換えの機運が風雲急を告げているしだい。その気になってAmazonの商品など物色しているけれど、気づくのは、なんとなくいまデスクトップ機というのがみょうに割高だなあということ。昔、一時期、3万円ぐらいの小型ノートが「ネットブック」とかいうカテゴリーで流行ったことがあり、しかし安価なタブレットの登場でそのカテゴリーが消えると一時期ノートブックは高くなったというような覚えがある(今また安いノートブックが出てきたみたい)。同じように、いまデスクトップを見ると、昔はなかった「ミニPC」とかいう手のひらに載るようなやつ(値段的にも意外に安い)と、それなりのハイスペックのやつ(映像を見たりゲームをやったりするような)とで二極化してる感じで、しかも、そもそも聞いたことのなさそうなメーカーのやつがぞろぞろ出てきてどれがいいのかさっぱりわからない。基本性能だけしっかりしててシンプルに使えて堅牢で安価、みたいなのが、さっぱり見分けられないんである。職場の研究室のやつは、業者の人にお任せしてビジネス用のNECのを入れてもらっててそれなりに気持ちよく使えているのだけれど、自分で選ぶとなるとなかなかこれといったものを見つけられないものであるね。
そういうわけで、研究室には新しいデスクトップと使えないスキャナ、下宿には引退間近かもしれないデスクトップと段ボールを開梱してない新しいスキャナ、なんだかちぐはぐなことになっているわけなのだった。

夏に出張のお供にキングジムの本を読んでいたら、デジタル耳栓の話が出ていて、そういうのもあるなと思っているうちに、そもそもウォークマンにノイズキャンセル機能があったのでそれでいいのではないか、今あるのはバッテリーがへたってしまってるから新しいのを買ったら一石二鳥なのでは、などとも思いはじめ、こういうのは勢いだとばかりに両方Amazonで注文する。だいたい以前からずっと高音難聴ぎみで、まぁぼちぼち年齢が追いついてきたのでいいといえばいいのだけれど、やはり耳を大事にすべしと思っているうちに、まてよ、通勤電車のがたごとという音が耳に負担だということはないだろうか、毎日これを二時間も聞いているというのが問題なのでは、というわけで、デジタル耳栓とウォークマンが届いたらさっそく両方持って通勤電車に乗り、かわるがわるに付けてみる。まぁ、なるほど、ずいぶん消音される感じはあるが、そうこうしながら気になっていたのは、これはもしかして100均に売ってる昔ながらの黄色いウレタンの耳栓でいいのではないかということだった。それでまた100均に行ったら、売れていて、買ってきて通勤電車で試してみたら、意外とこれがいちばん簡便で確実なんじゃないかという気がしてきた。それでまぁ、それから毎日かばんのなかに入れていて通勤電車に乗ったらすかさず耳栓を耳に入れるようにしている。まぁこういうのも習慣になってしまえばなんてことはない。そして、電車が駅に近づいて降りる間際に耳栓をはずすと、わぁっがたごとがたごと、という騒音が流れ込んできて、ああこれを聞かずに済んだんだからさぞかし耳は保護されたであろうという気になってにんまりする。
あ、それから新しいウォークマンもときどき使っている。あれは音楽が聴けるところがいいところだと思う。

某日、わあっと出かけて中古レコードまつりへ。本当はアナログ盤漁りが主なのだろうけれど下宿のプレーヤーが壊れているのでCDのカゴを漁って、そうするとやはりネット通販では出会わないようなものがみつかって、これは一期一会だから、などといって何枚も買うことになる。それでそのときはそれなりにほくほくとするのだけれど、下宿に戻ってみると、マンションで聴いてもご近所に響くとあれだからなぁ、とか、ウォークマンで聴いたら難聴が、とか、あれこれ気になってけっきょくなかなか聴かないままになる。やれやれですよ、と、通勤電車がときどき一緒になる隣の学部の先生にぐちぐちとこぼすわけである。音楽が聴ければそれでいい、と思っていたら難聴になり…研究さえできればと思っていたら役が当てられてしまい…等々。
「まぁでも、そんなもんやね」

 

 


12月12日。気が付けば師走。このところなにをやっていたのか。

なんやかんやで寒くなってきた。この前ここになにか書いていた時には秋になってきたなあみたいなことを書いていたのにおかしいな。まぁともあれ師走、十二月である。このところなにをやっていたのか。

このところなにをやっていたのか、と言ってもなにしろ例によって二か月あいているのでこのところもなにもない。概ね淡々と過ごしてきたと言ってしまえばそれ以上でも以下でもなく − まぁしかし、二か月前のわたくしはPCを買い替えようか、スキャナをどうしようか、とかまぁつまらないことをぐずぐず書いていた。なんだろうねしかし、振り返ってもつまらないぐずぐずしたことしか書いてないですな、まぁ、つまらないぐずぐずした人物なんで仕方ないですな、リアリズムであり実証主義であり唯物論なのであって文句を言う余地はないですな。まぁ革命的に発展するわけでもなく二か月たってもあいかわらずぐずぐずつまらないことを書くことになるわけだけれど − 下宿にPC(昔懐かしいヒューレット・パッカードの、ミニPCというやつ)を買い、研究室のほうのPCには新しいスキャナはとりあえず買っていなくて、Foxitのフリーソフトを入れたらスキャナがなんとなく動いたのでそれで当座は行けるかもという気になっている(ただしOCRが効かないので、何かソフトを買い足すことになるかもなあとは思っている)。それで下宿のスキャナもようやく繋いでこれは多少苦心しつつ結論的にはうまくつながった。こうやって書いていると、ほんとうにつまらない二か月間のような気がしてきた。ほかにもなにかしていたにちがいない。

この秋学期の前半は、2回生の必修の授業で、ファシリテーション技法みたいなことをあるていどまとめて扱った。この領域、おもしろそうだと思っていろいろと本は読んでいるものの自分でやるのは向いてないと、自分ではずっと正面からは扱わずにやってきてたのだけれど、まぁ、チームティーチングができる授業だということもあり、苦手なところはほかの先生方の力を借り、いろいろと相談しつつ、自分的にはなんとかやった。学生さんにうまく伝わったかしらん、さしあたり先生がたといろいろ相談しつつ進めるのは楽しかった。「話し合いのファシリテーション」、というテーマでどう進行しようかと相談しつつ、ところどころで、まさにこういうことですよね、などと言いながら話し合いをやっていたわけである。ありがたいことに、生涯教育専攻は昔から専攻会議が面白いんである。そういうところが学生さんたちにも伝わるといいのだけれど、ともあれ、このところ楽しかった授業というのはこのあたり。まぁ、ほかの先生方のお力ですね。

ええとしかし、この二か月、10月半ばからこちらというとなにをやっていたのか、職場のグループウエアのカレンダーを見てみる、自分のWeblogやTwitterのログを見てみる、なにか特筆すべきこと、楽しかったこと、報告に値するようなこと、なんかないかなぁと見直してみるものの、まぁ結論的には、粛々と日々を送っていたことがわかりそれ以上でも以下でもないな。まぁ、そういうログがあればこそ粛々と送られた日々も見える化されるというもので、それらがなければ過ぎ去った日々は消えていってしまう。

そうだそうだ、だから、ひとつ年を取りました。それとて別に報告するほどの事でもないし、そんなこと報告されたってどんな顔で読んでいいものか困惑するというのはその通りなんですが、まぁどうせこんなところにぐずぐずとつまらないことを書いていて、気が付いたらこの文章もそれなりの長さになっているわけなのできっと誰もここまで読んでいないであろう、公然とWWWで世界に向けて情報発信されていながらも驚くまいことか誰も読まないであろう、たぶんあとあとの自分だけが興味関心を持ってこの文章のこの部分を読むのであろうから、さすがに自分がかつてひとつ年を取ったという報告を自分で読んで困惑することもないであろうから、つまりいらぬ気づかいをする必要もないというものである。誕生日には鯛を焼くことにしているが今年はちょうど授業がない日で夕方から会議だったので、朝のうちにスーパーを回ってぶじ一匹購入、会議から帰宅して遅くなったけれどぶじ祝うことができたわけである。めでたかった。そして、以前何年か、なぜか由来は忘れたけれど誕生日に丹生谷貴志の退嬰的な文章 − 本でも雑誌論文でも − をぱらぱらとめくるようなことがあって、まぁひさびさにぱらぱらと読んだりして、まぁしかしあれですね、だましだまし日々を暮らしていても同じように一年に一度、年は取るものだ。

れいによってあるとき卒然とごく当たり前のことに気づくわけだが、朝に布団から出たくないと思いながら数分間をすごすのなら、夜になんとなくぐずぐずと夜更かしするのをやめたら何層倍も理にかなってるのである。Fitbitで睡眠時間を測り始めて4年ちかい。6時間睡眠を目指すが達成できない日もまだけっこうある。よく寝たらぐあいがいいことは体感的にもわかるわけである。なによりなんとなくぐずぐずとする夜更かしはほんとうに無駄な気がする。まったくそうなのである。
寝ると夢を見る。ぼんやりと夜更かしをしているよりもずいぶんいろいろなことが夢の中では起こるようだ。夢というのはいつ見ているのか、というおはなしがあって、まぁレム睡眠の時だ、等々、いうわけだが、たとえば夢の中でスリリングなことがいろいろ起こってさいごに非常ベルが鳴り響いて目が覚めたら目覚まし時計が鳴っていたのです、みたいなはなしはよくあるわけで、だとするとその夢のストーリーはじつは目覚まし時計=非常ベルが鳴り響くシーンから逆算して見られたのではないか、つまり、夢をいつ見たかというと目覚まし時計が鳴った瞬間に長いストーリーを一挙に見たのではないか、それで夢を見ている自分が、その一挙に与えられたストーリーについて、あたかも時間がストーリーの始まりから終わりに向けて流れたかのように認識しているのではないか、とかなんとかいうもっともらしい説を、どっかで読んだか自分で考えたか忘れたけれどそれなりにもっともらしいと思っている。夢というのにはやはり不思議な感触があるものだ。それにまた明け方に夢を見て、そして少しずつ目が覚めていくというようなこともまたある。そういう時に、いましがた見ていた夢、あるいは終わりつつある夢のことをふりかえり、あるいはたとえば夢の中で目の前にいる印象的な人の顔を見ながら、この人は誰だったのかどこで会ったのだっけ等々、夢のストーリーのあれこれや現実のあれこれを思いめぐらして思い出そうとしても絶対に思い出せず、そうしているうちに、なんとなくあやふやになってきて、ちょうど湯せんにしたチョコレートがみるみるうちに形を失って沈んでいってしまうように、断片がぼろぼろと形を失いとりとめもなくあやふやな印象の中に沈んでいってしまってああ消えてしまう、消えてしまったと思いながらふと目を開けると透明になって夢があったことは永遠にどこかに消えてしまう。