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(2020/7/1 - 2020/12/31)


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8月14日。このところなにをしていたのか / 暦の上ではもう秋。

この前ここに書いてたのが6月下旬。春学期の授業が折り返しだったころである。それからいままで、このところなにをしていたのかというと、まぁ春学期の授業の後半をなんとかかんとか7月末に終わらせて…8月に入り…それから今はお盆休みということになる。授業期間のうちは授業をやっていて、会議もいろいろあったし、8月に入ってもなんだかんだで学校に出勤する用事はあって(会議と、あとははんこを押すとか、ミスった書類を出しなおすとかそういうやつ)、しかし大学もお盆休み期間にはいるとそれもずいぶんスローダウンする。
それでも気が休まらないのは、ひとつには授業がずっとオンライン&自粛で生活のメリハリがなかったというのがあるかもしれない。例年なら7月中旬から試験期間があったりして、まぁそれなりにふんいきがでてきつつ7月末を迎えてさあ授業が終わったー!夏休みだー!みたいなかんじがまだ多少あったのだが、今年はそれもなくてとにかく7月末までずっと単調にオンラインの授業が続いて(むしろ最終回ごろがいちばん密度が高かったりして)、そのまま8月にはいってオンラインの仕事のやり取りやオンラインの採点&成績入力作業などはありつつ、他方では気散じのほうはさっぱりということになると、じりじりした感覚のまま気がついたら8月も半ばということになってしまう。そうそう、今年は夏に社会教育実習もできなくて(秋以降にあらためてちょっと形を変えつつやる予定)、夏の恒例の実習ご挨拶出張もなかったというのもあるね。

そうそう、この2020夏は、東京オリンピックがあったであろう夏なのだった。

いまにしておもえば、この前、6月下旬の段階では、見かけ上はそれなりにウイルスを抑えていた時期だった。なので、この前ここに書いてたのは、ちょっと一息ついた書きぶりではあったね。もっとも「実効再生産数」ということでいうと5月初旬の連休明けぐらいが一番低かったらしく、そこからじわじわ上がりつつあるタイミングでもろもろの「宣言」が解除されていき、上下しながら6月下旬にはかなり上がってきていたようなのだった。そのへんのぞっとしない空気感というのも、まぁこの前書いてた感じには含まれていたのだけれど、まぁしかし、いま現在というのはかなり厳しいところである(もっともこれまた「実効再生産数」という指標、全国でみると、7/4がピーク、そこからだらだら下がって、7月末から少し上がって8/3がまた小ピーク、でまただらだら下がって現在に至る、このへんの指標の動きと体感とは合わないけれど、増加の加速度そのものは落ちてきている、つまりブレーキはかかっているようなのである)。

それで、暦の上ではもう秋、というか、今年はまたそもそも梅雨明けが遅かったんですわね、7月いっぱいずっと梅雨が続いたのだった、それで立秋は今年は8/7であったのだそうで、ふつうに春学期の流れでばたついていたので、気がついたときにはもう秋、というと、今年の夏は何だったのか、と思わなくもない。
まぁ、気温はちゃんと高くて体温を超えるぐらい、テレビでは生命を守ってくださいなどと剣呑なことを言っているぐらいなので、いまが夏であると言ってもいいようなものなのだけれど、なぜ暦がどうのこうの言ってるかというと、お財布を買いそびれてるからなのだった。
お財布はいつ買いましょう、ということで、これはゲン担ぎのひとつとして、春に買うべしなのである。「春財布=お財布が張る」ということで、縁起がいいとしたものなのである。おなじくそれではいつは買うべきではないのかというと、秋なのであって、「秋財布=お財布が空く」ということなのである。まぁ、言葉遊びとしてはよくできているし、これは一般的なゲン担ぎだと思う。で、お財布がそろそろかなり傷んできてるんで買わなくちゃと思いつつ春は過ぎ、気がつけば夏が過ぎてしまったということになると、いま買うと「秋財布」になってしまうではありませんか。こういうのは縁起物なので、やはり暦に従うとしたもので、いくら気温が高くても暦の上で秋ならば秋。
それでまぁ、つぎのタイミングとしては立春、というか、「新春」のお正月あたりまでは少なくとも待たないといけない感じではある。

さてこの前ここに書いたときに、なにか楽しいことがないか、書くことがないので見つけるのを宿題としたのだけれど、まぁなかなかみつかるものではないね。
そうそう、この夏は、去年買ったハンモックをリビングにおきっぱにしている。晩ごはんを食べてビールを飲んで、なんとなくいい気持になったところでハンモックでゆらゆらうとうとするのはわるくない。それでまぁいいかんじにねむたくなったところで寝床に移ってそのままねてしまうというような日々を送っているのであれば、まぁ文句はなしということかもしれない。
よい生とはなにかということである。
 


 


9月30日。セプテンバー・ソング

すっかり涼しくなって、もう秋である。空が高くなって、風がさあっと吹いて、とんぼがついついっと飛んで、ああ、秋だなあ、と思う。そうすると毎年、決まりごとのように、バート・バカラックが聴きたくなって、昔に買ってmp3が擦り切れるぐらい聴いた廉価版のバカラックのCDを通勤電車のウォークマンでまた何度も何度もリピートで聴くわけである。今年の発見は「I'm a better man」という曲。へらへらしたアホみたいなメロディからの意外な盛り上がりをみせる、バカラックバカラックしたラブソング。それでまた、思い出したようにCD棚から、以前買ったジョン・ゾーン監修の「Great Jewish Music」シリーズのバカラック編を取り出してきてデータに落とす。また同じシリーズのマーク・ボラン編とセルジュ・ゲーンズブール編もデータに落として、改めて聴き直してみたら、意外にいいのでこれも繰り返し聴く。マーク・ボランのというかT-REXの曲でElysian Fielsというのがカバーした「Life's a gas」とか。ていうかT-REXやはりいいわあと。ジョン・ゾーン監修のトリビュートカバー集はいずれも、薄気味悪いアレンジばかりでピンとこないなあというのが最初に聴いた時の印象だったのだけれど、こうしてCD棚から発掘して聴き直してみたらそのアレンジが妙にしっくり来る。

そしてまた9月といえば「September Song」というスタンダード曲があって、心にしみるわけである。昔に、同級生に教えてもらったジョン・ルイスの演奏が、たねもしかけもなくテーマだけぽつりぽつりと弾いててこれがよくて、これも聴き直したり、下宿のリビングに置いてあるキーボードで探り弾きしたりしてる。秋だわ。

秋学期が始まった。対面授業で学生さんたちがキャンパスに戻ってきた。学内ではいろいろな感染対策を張り巡らしている。教室も広い部屋に変更になり、余裕を持たせて距離を取り、学生さんたちの席も指定にして、みんなマスクしてるし、窓を開けて換気もしてる(さわやかな秋晴れの日に窓を開けているのは心地よい)し、これならだいたいふつうに授業をやってふつうに過ごしている限りはだいじょうぶなはずという体制を作っている。建物の玄関には、顔をぱっと映すとぱっと体温が表示される非接触の体温計が置かれてて、おもしろいのでついつい何度もやってしまう。

卒論ゼミも対面が始まり、ひさびさに顔を合わせてああだこうだやっていたら、やはりこれだな、ゼミだな、という気がする。春学期のオンラインでの卒論指導もけっこうがんばって、学生さんたちもすごくがんばって毎週すすめていたのだけれど、やはり卒論の、まぁ今の時期ぐらいまでは、顔を合わせてああだこうだ言いあう、というのにまさるものはないのだよなあ。ほかの授業でも、概ね、ひさびさのキャンパスでの授業で、学生さんたちの前向き感や手ごたえ感を感じる。よきかな。

そんなこんなしているうちに、学部長の2年任期のうちの4分の1がもうすぐ過ぎる。なんかコロナのどさくさにまぎれてあっというまだった、という気もして、それは助かった。あと4分の3かあ。がんばりましょう。

魚焼き網にカバーのついたような、いわゆる魚焼きロースターというのを昔に買っていて、それを引っ張り出して愛用している。魚を焼くというよりも、かしわを焼くのである。鶏のもも肉をこれで焼くと、フライパンで焼くのとは違う、煙で燻されるようなかんじもあって、まぁ炭火焼きとはいかないけれどなかなかおいしい具合に焼ける。それでビール。あるいはまた、何周回か遅れて鶏むね肉をゆでるやつ、余熱で火を入れてしっとりさせますというやつのブームが訪れて、いいかんじにしっとりできたところをスライスしてたべる。でやっぱりビール。夏の終わりに鶏をどんどんたべていた9月である。
 


 


11月1日。Life's a gas. / だしまき。

さて、やはりさすがにたいへんになってきたかもと思うのは、春学期と違って対面授業もはじまり大学がいろいろと動き始めた秋学期だからだというのもあるかもだし、まぁそれでなくても大学というところは年度で見れば前半より後半のほうが、次年度に向けた準備だの、いろいろな調査だの報告書だのの〆切とか、また入試だとかもあるし、業務が多いということがあるのかもだ。授業はぐっと減りつつ、会議はそれなりにあって、しかもそれなりに気を遣うようなものもちらほらでてきた。とはいえまぁ、たいていの会議は、顔を出してなんかむずかしいようなわかったような顔をしてたまにもにゃもにゃ言っているだけで、まぁせいぜい、間違ったりしたら困るのでいっしょうけんめいメモを取ったりしてるうちに次々と過ぎていく、みたいな、まぁだいたいそんな感じだとおぼしめせ。不幸中の幸いだったのは、これまでずっと仕事術とか会議術とかのビジネス書をあれこれ読んでたことで、まぁそれが直接そのまま役立つということはさほどないにせよ、自分のような根本的に実務に向いてない人間としては、それっぽいもっともらしい気分にだけはなりやすくなってるのではないかしら、ということである。まぁ実務に向いていないからとほかの何かに向いているかというとそういうわけでもないのだけれど、だからつまりまぁそういう何もできない人間をそれなりにそれっぽい気分にさせるのだからけっこうなことだという趣旨である。

CO2測定の機械を買ってみた。部屋の換気の状況を見える化するのにCO2モニタを用いるのがトレンドであるというわけで。目安として、通常の大気のCO2濃度が400、通常の屋内の基準値が1000、としたものらしい。いまは感染対策というのがあるので、通常よりはより厳しめに判断すべしなのだろうと考える。持って歩いているとかなり数字がチラチラと変化する。室内はこのぐらい、窓を開けるとこのぐらい、廊下はこのぐらい、ベランダはこのぐらい、等々。あちこち持って歩いて授業や会議の時に測定してはおもしろがっている。それで、とくにこれから寒くなってくると窓を開けるのに抵抗がでてくるし、まぁ秋学期はじめごろのように窓全開というわけにもいかなくなってくることは容易に予測される。先日、授業で、かなり窓を大きく開けていたら、授業途中で学生さんたちが縮こまりはじめた。モニタを見ると、十分に換気ができているようだ。そこで全開で開いていた窓を半分だけ開けるようにしたら、がぜん空調がよく効き始めて縮んでいた学生さんたちがまたゆるゆるしてきた。それでモニタを見ていたら、たしかに少し数値が上がってきたけれど、まぁ想像したよりは上がり方が少なかったので、このぐらい閉めてこのぐらいの上昇ですむなら許容範囲かなあと、まぁ少しほっとした。えーとつまり、なにごとにつけそうであるように感染対策というのもやればやるほどいいというものでもなくて、コストとか部屋の寒さとかいろいろな不便さとのトレードオフなわけだから、そのへんをうまくモニタしながらバランスのとりどころを探るのが科学的態度というものであろうと考えるわけである。なんとなくこのあたりでこのぐらいやればこのぐらいの数値、という相場観みたいなのがだんだん身についてきそうだ。あたらしい日常の身体化である。ということを口実にしつつ、もうしばらくはあちこち測っておもしろがろうという魂胆である。

先月から引き続き、T-Rexを聴いている。ていうか、AmazonでCDなど購入してしまう。まぁ、いまさらながら『電気の武者』など。というのも、「Life's a gas」という曲がやはりよくて、しかしこれはどのように訳すものか、「人生はガス」?とかなんとか、よくわからんので、これは国内盤を買えば歌詞カードがついているに違いないと。で、結論としては、中古盤を買ってみたものの歌詞カードは入っていなくて、やはりわからないのだけれど。まぁ、T-Rexというのは、妙におかしな歌詞がいろいろあるようで、そもそも意味わからない感覚的な詩だというはなしもどっかで見かけたこともあり、「Life's a gas」というのもそのたぐいかもしれんと思ったりもする。

I could have loved you, girl, like a planet
I could have chained your heart to a star
But it really doesn't matter at all
No it really doesn't matter at all
Life's a gas
I could have built a house on the ocean
I could have placed our love in the sky
But it really doesn't matter at all
No it really doesn't matter at all
Life's a gas
I could have turned you into a priestess
I could have burned your fate in the sand
But it really doesn't matter at all
No it really doesn't matter at all
Life's a gas

という、まぁ単純な歌詞だろうと思うのだけれど、自分的にはこういう、仮定法過去完了みたいな構文の歌詞 − つまり、「…ということもありえたかもしれない、でもそうはならなかった」みたいな気分が嫌いではないわけである。何か夢のような、ドラマティックな、すばらしいことだってありえたかもしれない、でも現実にはそんなことはぜんぜんおこらなかった、ケムリみたいなからっぽの人生…という気分を、まぁ勝手に聴き取って、勝手に悪くないなと思っている。まぁ、まえに書いた通り、この曲に、ジョン・ゾーン監修のトリビュートアルバムの、薄気味悪くアンニュイでよるべないかんじのカバーから入ったというのは大きいのだけど。

そこからまた、ここ数日は、ひょんなことからまた目にした藤圭子をまたしても繰り返し聴いていたり。誰に言うわけでもなくひとりで、藤圭子のすばらしさが奈辺にありやということを、YouTubeで見ることのできる都はるみ「大阪しぐれ」の美空ひばりと藤圭子のカバーから説明する、などということを考えたり。まぁ、通勤通学で歩きながらそんなことを考えたり口ずさんだりしてるわけである。まぁ、気楽な人生といえるでしょうな。流れ流れて、これはこれでガスのような人生。

あわあわと日々を過ごし、冷蔵庫の卵の賞味期限が近づいてくる。だから、お休みの日にときどき、だしまきを焼くことになるのは論理的な必然だといえるだろう。だしを多くしてできるだけゆるいだしまきを作る。しっかりと固く焼くのは家庭的な卵焼きというかんじがするけれど、さいきんまたゆるゆるをめざすようになってきた。めざせプリン、玉子とうふ、とまではさすがにいかないものの、ふるえるようなやつをよく切れるナイフですぅっと切ってはのっぺりした断面を確認しながら食べるとおいしい。みょうがとかしょうがとか、ちょっとした薬味があるとなおよしである。『昭和残侠伝・死んで貰います』の健さんが板前で、大きなおいしそうなだしまきを焼いていた。それを見て以来、だしまきを作る気分は高倉健ということになる。高倉健といってもいろいろなのだから、たぶんほにゃほにゃっとした高倉健だっているはずなのである。高倉健なのだとお考えいただきたい。



追記。
”Life's a gas”というフレーズをどう読むかというので、gasという単語が可算名詞で「a gas」となっていると、辞書を引くと米俗語で「とてもおもしろいもの・人」みたいな意味だと書いてあったりもする。別の辞書だと、「とてもつまらないもの」みたいな意味も書いてあったりするし、さらに別の辞書だと「つまらない」のほうの意味に(皮肉)と書き添えてあったりもする。たしか「つまらない」が先に書いてあるものもあったような。ふむふむ。でまぁそれはそうなのだけれど、じゃあ「人生はとてもおもしろい!」と訳してみても、あまり何かがわかったかんじにはならない気がする。というのも、歌詞の文脈上、とても上機嫌でゲラゲラ笑っているおはなしには見えないので。仮に「人生はとてもおもしろい!」と訳したところで、それは(皮肉)というふうに聞こえると思う。で、そもそもなんで「ガス」がおもしろかったりつまらなかったりの俗語的な意味になるのか、というのがわからない。ひょっとして笑気ガスか何かのことだろうか、とも思ったのだけれど、まぁそれは考えすぎじゃないかな等々。いずれにせよ、俗語のニュアンスは、もともとの「ガス」(というのはつまりあの気体のガスのことだろうと思うのだけれど)から転じて発生しているんだろうから、おもしろいというにしても、充実した歓喜の笑いというよりは無意味なケタケタした笑いなんじゃないか、という気がするし、それが皮肉になってもやはり空虚な感じの「笑わせるよね」というニュアンスになるんじゃないかなあと思うし、まぁそうするとおはなしはもとにもどって、”Life's a gas”は”Life's a gas”、ガスみたいにからっぽの人生、というあたりの気分かなあ、という次第…まぁ、そういうのは英語の翻訳のことなどわからないで勝手にそう思ってるだけのおはなし。
 

 

 


12月30日。年の瀬。

ともあれ、年末である。とはいえ年末どころではないような気もする。今年はほとんどまるまるコロナで明け暮れた一年間だったね、という言い方ができるのは、たぶんその事柄がひとまず一段落しそうなばあいのような気がして、なにしろいま現在進行形でますます感染は拡大し、そして何が厳しいかと言えば、さしあたり状況が良くなる要素が何も見当たらないかんじなのだから、のんびりしたことを言う気がおこらないともいえる。しかし、なにはともあれ年末であることに間違いはない。今年はお正月も帰省をしない。引きこもるしかない。幸い、天気がよくて、風は冷たいけれど空が青い。近所のスーパーでなにかお正月らしいものを買ってくるということだけれど、下宿でおせち料理を作る気もおこらないので、もちとか、まぁお正月バージョンのかまぼことか買ってきた。意外と賞味期限が年内のものが多いので、明日の大みそかにもう一度買い物に出かけるかもしれない。

なんだかまたここに書くのも2か月ぶりだが、そのあいだに特になにかすばらしいことが起こったわけではないので安心されたい。驚きの通常営業である。会議は秋学期になってやはり増えてきた。それで授業がほとんど演習・実習ばかりになったので、なんだかほんとに何の商売だかわからないかんじではある。

この2か月のうちにまたひとつ、年を取るということもあったが、まぁあまり感慨がなかったのは、やはりこの空気感とか、また、結局、会議で遅くに帰って、それでもやはり鯛を焼いたけどお赤飯はチンのやつで、まぁあまり感興が高まりを見せるような条件は整わないままそそくさと食べて祝ってしまった、というようなことがある。まぁもちろんそりゃまあそんなものなのだろう。

意外と短い休暇であれ、ひきこもりでお正月を過ごすとなれば太る危険性が大きい。ただでさえこの秋には体重が増えかげんだったわけで、だから逆にダイエットをこころがけたいところである。お正月らしいおせち料理など下宿で作るわけではないものの、まぁそれっぽい煮物とか焼き魚とかで過ごせばそこそこお正月らしく、しかもダイエットにもなるのではないかしらと期待する。まぁそうしたらしたで、つくったらつくっただけ食べてしまってやっぱり太るというのもまぁ、経験上ありそうではあるけれど。

そうそう、このところは、テレビでやってた、菊菜をサラダで生食しましょうというのを真に受けて、おいしくいただいてる。菊菜+スライス玉ねぎで、ポン酢とごま油と醤油、というのが基本線。あとレタスとかなんとか。あるいはちょっとチーズをかけたりとか。かんたんだしなんとなく栄養もありそうだし。このへんを常備して、たのしくダイエットできないかしらと。

せっかくこういうところで誰に頼まれたわけでもないのにぐだぐだと何か書いているのに、なるべくのんびりしたことを書きたいわ、と思うのだけれど、なかなかそうもならんものですな。まぁやっぱり今年はね、 − ともあれ、 − 

ともあれ年末。あたらしい年がすばらしいものでありますように。いつどんな状況の中にもあらゆる可能性が − つまりあらゆる良い可能性が − 潜在している、実現しうるといういみにおいて。